2023年

2月

02日

小田原城小峯御鐘ノ台大堀切西堀

風が無いとこうもすごしやすいものか。

水盤には氷が張らず比較的安泰を感ずる一日でした。

当地の冬場の風(遠州の空っ風)といえば北西からの季節風ですが、日によってはそのもたらす寒さもそうですが、物を飛ばしたり壊したりは勿論、その挙句火災延焼の元凶です。

 

現状、本堂北側の道路に面した木戸が壊れていますが、おそらくその強風のせいでしょうね。

それ以前にその木戸を開けたままにするためのストッパーが、おそらくそれは外部圧力~私は「ケリを入れられた」と言っていますが~によってコンクリベースごと破壊されていますから、やはりその戸にも蹴りを入れられた可能性もあります。

「恨まれる心当たり?」ないとは言えませんが・・・

 

いずれ温かくなってから修理する予定にしていますが、強風によってバタバタ。今は石を置いて開閉を止めています。

 

数日前、近くのコインランドリーの駐車場の境界線に複数の物々しいポールが立って看板がアピール。

その内容が「ここはお寺の駐車場ではありません」でした。

露骨な警告文に苦笑させられましたが、おそらく先日のお寺で葬儀があった際の駐車車両の件、余程憤慨されたのでしょうね。

施主はその施設のオーナーに事前連絡し、「OKだよ~」の了解を得ていたといいますので何かの行き違いでしょうか。

 

また、そちらの駐車場には拙寺の門前にある墓地(拙寺とは無関係)のお参りの方が度々駐車していますので、すべてがすべて拙寺の檀家さんが置いているワケではありません。

そもそも拙寺の檀家さんがわざわざ遠い場所のそちらに置かせていただく理由はなし。

結構にその拙寺とは関係のない方は問題を起こすこと多いのです。路駐すれば2t車クラスの通行を妨害しますしかつて拙寺駐車場に置いた、拙寺とは無関係の車がアクセルとブレーキを間違えて、隣家のブロックを突き破ったことがありました。

檀家さんがやらかしたとしたら私も一応は謝りに行くべきかとは思いましたが、その際は私は「知らぬ存ぜぬ」の躰でしたのでもしかするとそちらの家では私を「失礼な坊主」とでも思われているかも・・・。

 

その掲示板とポールの設置によっていよいよ面倒くさい車が拙寺駐車場や近くの道路に溢れるのでしょうね。

 

扨、昨日は西三河では最大規模の山城、山中城について記しましたが、全国的にそうは拝めないほどの土塁・大堀切の圧巻スケールを誇る城といえばやはり小田原城総構でしょうね。

城のスケールが「総構」といわれる「都市ぐるみ」をパッケージにしていますので規模として考えれば壮大になります。

幾度かそのスケールの凄さについて記していますが、城好きどもを満足満喫させることができる場所がこちらのエリアです。

再建天守を訪れるのもいいですが、ちょっとだけ足を延ばして散策することは是非におすすめです。

小田原高校裏の森林公園といえばタクシーで数分。

価値ある時間となりましょう。

 

先般は「御鐘ノ台大堀切東堀南端から西堀を歩く」(こちら)と称して記した画像の更に奥があります。

そちらのブログの⑦画像から南側を見たところが本日の①画像。そして②画像がその奥に進む案内と道になります。

奥といってもほんのスグそこ、という感じ。そちらが小峯御鐘ノ台大堀切西堀と名称のある土塁が。

 

③④⑤の石橋の部材の如く石材を立てて門の如くの演出があります。その奥に看板⑦⑧⑨があり右側⑩⑪⑫の土塁と堀跡となります。

 

 

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2023年

2月

01日

山中城址碑に志賀重昂の名

今年の春は慌ただしくなりそう。

というのも横浜の息子がこの3月で借家(2年契約)の満期が訪れたことから退去か継続かを迫られることになりいよいよ今季での退去を決めたからです。

彼が何を考えているか知りませんが、4年間お世話になった横浜のお寺を「卒業」して次の奉公先を決めるとのこと。

次の定住地は静岡県内になりますので、私としても時に境内雑用から法事まで手伝わせることができるという腹積もりもあってお気楽になること大いに期待しています。

この4年間、先のお寺でかなりの場数を積ませていただいていますので、何とかうまいことやれると楽観しています。

 

そういうことで彼の引っ越しの手伝いが近々あります。

退去と新天地の入居まで1カ月のタイムラグがあるのでその間は荷物は寺の物置に運んでおき、最後の約1カ月は義母の家から最後のお勤めとするそう。

 

運搬は私の仕事。

こちらでレンタカー(2t)を借りて横浜へ向かい、さっと積み込んでさっと帰宅したいもの。

1日で返却できるかどうか課題です。そして多少の時間延長が可能かどうか。

以前渋谷の叔母宅からの引っ越しに4t車を繰り出しましたが彼の家なら2t車、1車で十分です。2時間で積み込み完了できれば、何とかなりそうです。

私は積込みと運転がしやすい平ボディをと考えていますがそれだとお天気が絶対条件、タイミングが肝心です。

 

扨、岡崎の山中城。

昨日は城郭大系の本編に扱われていなかったことから、専門家あたりからの認知度は低かったかのようなことを記しましたが、地元岡崎ではそれなりに名は通っていたような気がします。

というのは本曲輪跡に建つ山中城址の碑文の主の名に志賀重昂(またはこちら)とあってその記した日が大正十二年十月とあります。

城郭大系が発刊された昭和54年よりかなり遡ります。

地元の一部では著名であっても専門学会で認知されるまではタイムラグがあったということでしょうか。

 

さほど高度はない山城で、近江あたりのそれに慣れた皆さんからすれば拍子抜けされるかも知れません。

ただし遺構はまずまず、地元有志の皆さんが設けた案内板は親切でわかりやすいものがありました。

 

⑬国道一号に名鉄駅方向まで見渡せます。

 

 

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2023年

1月

31日

山中城の名称・・・城郭大系の羽栗城 ?

叔母の定期検診の日。榛原病院へ向かいました。

週明けということでX線検査室前と整形外科待合室は大変混雑していました。

検査内容は骨折手術して2年目の経過観察ですが、先生が言うには統計上この2年の経過によって異常が見られなければ手術としてまずまずと。

よってこれが「最後の検診」と断言していただきました。

あとは「再び骨折がなきよう・・・」とのこと。

叔母は89歳。その齢ともなれば再びの骨折はつきものですからね。なんとか無事に生活していただきたい。

何せ病院に同行するその時間は結構にキツイものがあります(「私の都合」です・・・ )。

 

叔母には4つ下の妹がいます~当然私の父の妹です~が以前「姉と一緒に・・・」と私の手配をもって同施設に入所したい旨話していました。

手続きや資格など実際には無理な話でしょうが「叔母にどうよ・・・? 」と聞いたところ「冗談じゃあない・・・」と。

そういえば以前は最初のうちは仲良く接していてもスグに喧嘩になっていました。

私も「これ以上は無理」というところですが叔母は叔父にも介護タノムとばかりに依頼したようですが「それは困る」と断られていたよう。

 

当然ですね。そもそも私が今関わっている叔母には子供がいませんが、その叔母には娘が二人います。

疎遠になっていると聞きますが・・・

どう考えてもその支援は実の娘がやるべきことですからね。

 

叔母の家を取り壊す際に、私はその下の叔母に「こっちに来て継続する?」と伺いをたてたことありましたが、そうならなかったことに今胸を撫でおろしています。

思い起こせば叔母の家の借家権抹消と取り壊しも面倒な仕事でした。早いところ解消したことは何より。

 

叔母は相変わらず「100まで生きる」と豪語していました。

まさに健康の様ですから十二分にそれはあり得ますね。

コロナになっても症状も出ず、ケロッとしていたくらい。

別れ際「鰻はいつ食べに行くのか」と攻め立てられました・・・私ども以上にバイタリティがあります。

尚、施設の外出許可はまだ出ません。

 

昨晩夜のNHK「病院ラジオ」は子供たちばかりが登場していましたがどちらの方もそれぞれの病に対して無茶苦茶に前向き。

「病」と「老」の皆のパワフル元気は見習わなければ。

私らも続かなくては、泣き言は少々にして。

 

扨、山中城の縄張り図等。

この城の名称について、なぜか江戸期の古い史料には出てこないのです。

昭和54年に刊行された日本城郭大系第9巻にあるものは④の「羽栗城」(の推測)であってそれも「場所・遺構ともに未詳」とあります。

ただし、例の大系の「その他の城郭」には「山中城」はあります。

岡崎市舞木町 

西郷信貞在城。松平清康攻城。曲輪土塁が残る。

とありますのでまさにこの城のことを記しています。

しかし記述が「その他」であって本編ではないところを見ても大系の発刊当初はそれほどその名は表に出ていなかったということがわかります。

 

しかし今この山中城といえば岡崎(西三河)一番のスケールの山城ということで名が通っています。

私はその羽栗城と山中城は同一と考えますがね。

浅野文庫の絵図にも似ていますし。

 

⑦は⑧の「しろやまばし」を渡って順因寺と病院方面を振り返った図。

この城は三河一向一揆の際には一揆方に奪取されたといいます。

岡崎と松平の歴史を語るに欠かせない城です。

 

 

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2023年

1月

30日

山中城舞木口登城口 底部の墓域 蓮台

昨朝の水盤の結氷具合は薄目。

最悪期からは脱した感はありますが、庫裏の温度は7℃。

年が明けてから室内のハイビスカス2鉢が凍死。

外の手作り温室内、地植えしている大き目の個体も葉の変色が始まり、もしかするとダメかも知れません。

致し方ないとはいえ腹立たしく悔しい・・・。冬め・・・。

 

息が真っ白の読経を終えて地代の墓地に向かいましたが、墓は段丘林の直下にあって吹きおろしてくる西風を完全にブロック、うまい具合に過ごすことができました。

午後は先日の葬儀の片づけをさらっと。

葬儀社ホールにてすべてをお願いしてしまえば本堂の準備も片づけもその間に起こる参列者対応の件も免れることができますが、以前と言えばどちらでもそれでやってきたのですからね。

私も「古いことが好き」と言って本堂葬儀を推奨したのですから、手間がかかるのは致し方なし。

もう少しばかり段取りというか確りとその流れ、システムを決めていかなくては。

 

扨、先日記した羽栗の順因寺から見た山中城。

目の前の吉良道そして羽栗川を渡って舞木口登城口へ。

猪除けの金網を開けて入城します。

底部には墓域があって廃城後は地区人々の墓所であったことがわかります。

こちらにも獣除けがあり、中をブラリ。

隅っこに追いやられた蓮台と前卓石机のセットが。

木戸城近くの墓域にもそれを見かけましたがかつての土葬墓を思います。これでハカ・テラ・シロの三拍子そろい踏みです。

 

⑥⑦は墓域よりもっと最下部ですが、これらの石は⑤順因寺周囲の石積みの石と同様で、登屋ケ根城のそれにフロノ下猪垣の積石の石とおそらく同質でしょうね。

私がかつてうろついた岩略寺城(またはこちら)周辺に見られた石たち、あの辺りからは無尽蔵に採石できるはずです。

④は山城底部、東海道に名鉄山中駅方面を望む図。

 

 

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2023年

1月

29日

たつのからのお客様ご家族で再訪 赤松三十六家

数日前からの寒波の襲来以来、本堂前の水盤にはいつもよりかなり厚い氷が張っています。

庫裏の居間で3℃の朝もありました。

最近では見たことも無い数字です。

温暖だから・・・と高をくくっていましたがさすがにこの寒さには閉口しますね。

家の中は「18℃」が好ましくそれ以下だと心疾患・脳溢血を発症しやすいといいますので次の冬はせめて寝床周辺の窓対策をしなくてはならないでしょうね。

奥方は無駄に大きなサッシと廊下が元凶と罵ります。

 

昨日は前日まで「自宅であげ経」という予定だったものが、やはり墓前で正信偈を」の変更があって、急きょ牧之原台地上の墓域へ。

厚着して親鸞さんのようにマフラーをという腹積もりでしたが平地では風が殆どなかったこともあって、その厚着の件、普通に失念。

現地に到着するといつもの北西風がビュービューでした。

御一同様は防寒着姿でしたが墓前の正信偈+念仏+和讃はそれほど短いとはいえませんので辛かったかも知れません。

私は夏冬かかわりなく襦袢+白衣+簡衣のペラペラ。紙の如し。

信長が嘲るマヌケな「 長袖坊主 」とは違うよ!!の気概です。

 

扨、帰宅してしばらく、昨年の夏の盛りに来られた、たつのからのお客様が再び来訪されました。

数日前にその方から「相良の雪の状況はどう?」という電話がありましたが、まさかこの期に来られるとは・・・

その際「相良に雪は降らない」と断言していましたが今は関西地区の雪情報やら新名神・名神の通行止めのニュースが伝えられていましたからね。

スタッドレスを履いたレンタカーを借りて前回同様焼津在住の親類が目的でしょう。

途中迂回路の選択を余儀なくされて一時間ほど余計にかかったとのこと。

周辺地域のお茶を飲み比べようとのことか、各所で静岡の茶を購入しつつ拙寺においても無量寿茶(牧之原深蒸し茶)を所望されました。有難きご縁。

一泊して自宅の猫たちのために早々に帰宅するといいます。

凄いパワーです。その距離の一気走行は私には無理かも。

 

お土産数種を戴きました。別の方から頂いた姫路のお菓子に続き2度目です。

活字の史料も多数。①は播州、赤松三十六家。赤松といえば・・・

 

 

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2023年

1月

28日

順因寺境内から西を望む 山頂のはためき 山中城

先般数日間本堂にいらした(安置・・・)拙寺元世話人さんの本堂葬儀式が行われました。

昔ながらの手作り感満載で、突発事案発生も度々。

要は施主、参列者、お手伝い、そして寺すべてが慣れないそれに困惑する場面がありました。難なく対処はできましたが冷や冷やさせられるところも。

まぁ、コンビニエンスな微温湯に慣れ親しんできたせいでしょうね。

 

単に「手作り」「昔ながら」といってもやらなくてはならないこと多々。

「なるほど・・・」と思う準備不足と反省点が浮き彫りになりました。

今後そうは気楽に「本堂で~」という声が檀家さんからあがるかどうかなどわかりませんが、こればかりは場数を踏むこと大切。改善点を見直していかなくてはなりませんので良き機会を戴いたこと感謝しています。

 

強烈寒波襲来によってご遺体の状態は安定的を得ますが、何せ問答無用の寒さには堪えます。

当初通夜式にて使用するはずだったテントの設営に関しては施主より「クソ寒いのではそれはヤメにして庫裏玄関を受付にしてはいかが」との提案を受けましたので檀家さん選出の受付係の皆さんは助かりました。

ただし参列者はさぞかしキつかったことでしょう。

 

問題点は通夜の門前と境内の暗さ。

当然に境内不案内の方々もいらっしゃいますので困惑された方もいたそう。年配者への配慮の件、まったく失念していました。

受付の手暗がりの指摘もそう。

老眼鏡がないし暗いし、寒さで指に力が入らない・・・色々ありました。

次は何とかしましょう。篝火でも用意しようかしらねぇ。

カッコいい通夜になる・・・

 

昨晩は「柘榴坂の仇討ち」の2回目の視聴。

ああいった渋い映画を観ていると大河ドラマのチャラさ加減が際立ちますね。

日々ジジィ度が進む私。

 

扨、昨日記した羽栗の真宗寺院灸寺順因寺

境内から西方の山を望めば岡崎でも指折りの山城山中城が。

近年の整備に伴うお飾りでしょう、本丸辺りに旗印があるのが目視できます。

 

拙ブログでも城跡+寺院のセットの例は何度か記していますが、こちらもその例に漏れず・・・という感じ。

③の竹藪(右方)からが正攻法の登城口。

駐車場は吉良道沿い。施設の前にあります。

 

 

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2023年

1月

27日

羽栗病院は順因寺(羽栗の灸寺)発祥 

当然のことながら狛江の強殺事件に関わったとみられる若者たちほかグループの面々がお縄になっているといいます。

その進捗は当然とはいうも、ほっとさせられます。

 

しかしこういう時に必ず思うのがその親たちの存在。

どう考えても親の承認あっての犯行であるはずもなく、その犯罪者となった子への母の気持ちです。将に寝耳に水。

中には母一人子一人のような家族構成もあったようで、それを考えれば何ともその母親の気の毒を思います。

 

「母は一人でここまで私(たち)を育ててくれた・・・」などの感謝の言葉は幾度も聞いていますが、「我が母」への恩返しのために楽をさせようとして、他人の母親を手に掛ける・・・なんとも身勝手な無茶話。

狛江事件で母を亡くした息子の談。

「自分のお袋殺されて、頭に来ない人いないし、頭には来るし、その犯人がいれば、ふっとばしちゃうかもしれない」これもまた当然でしょうね。

 

やはりかつて起きたその手の強盗事件。

報道によれば、家中侵入してきた若者(賊)にカッターナイフを突きつけられて「金を出せ」となったその際、主人が日本刀を持ち出して真剣を抜くと彼らは一目散に逃げ出したとのこと。

逃げ損なった一人を捕まえて警察に突き出したそうですが、場合によってはどうなるかなどわかりませんね。

私ならどうする・・・などと考えてしまいます。

そう、刃物を突き付けられたその時・・・時に敵方は私どもを八つ裂きにしようとかかってくるでしょうから。

一対一で話せばわかる事、承知していますが、問題は彼らが狂気となった場合です。

 

息子には言って聞かせています。

「夜陰に乗じて、こっそりと(脅かそうと)帰ってくるな !!」です。

事前に私に報せず抜き足差し足の躰で家中を歩けば、私はハチャメチャ破れかぶれで闇雲に日本刀を振り回すかも・・・

正当防衛を主張するも場合によっては僧籍をはく奪されるかも知れませんが。

その時はその時、息子に「住職を譲るとき」と割り切ります。

ネットで集められた狂気の強襲者はお説教で帰る輩ではありませんからね。

とはいいながら、奥方は「高いびきで爆睡している・・・お前のクビをとるのはカンタン・・・」。

まぁどうでもいいですが。

 

扨、現在の吉良道を国道一号名電山中から桑谷交差点方向に進んで幸田方面に向かうことがかつて何度かありましたが桑谷まで辿らないその途中、羽栗という地に真宗大谷派の順因寺があります。

その寺は通称「灸寺」。

その背後にあるのが羽栗病院になります。近くにも関連施設(老人保健施設)が併設されていますが、要はそのお寺発祥の病院となります(場所はこちら)。

 

病院の紹介欄から

「羽栗病院の歴史は鎌倉時代まで遡ることができます。

1394年、当院に隣接する光明山順因寺(羽栗の灸寺)では、灸と漢方薬による精神科治療が開始されておりますが、 これが当院の精神化医療の源です。

以来代々の順因寺の院主により受け継がれていましたが、 1946年、第29世粟生敏春により羽栗医院が開設され、近代医療と並存するかたちで伝統の灸・漢方治療が行われるようになりました。そして1956年同院は羽栗病院~」と。

 

先般は法蔵寺近くの冨田病院について記しましたが、その発祥を辿れば本宿代官の冨田氏というところ。

代官が、お寺の住職が・・・地域に根差した医療の原点というものがうかがえます。

そういえば拙寺にもいろいろな薬を作っていた形跡がありました(薬の能書き)。

医者と坊さんは「ほぼ同じ」時代がありました。

 

 

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2023年

1月

26日

鮮やかな黄色 桑谷長善寺 青々処 鶴田拓池句碑  

世間に「物騒な世の中」を感じさせる近頃の若者たちのお騒がせのニュースについて昨日記しましたがその刹那の大金ゲットを試みる「濡れ手で粟」の粗忽の責任についてまさに人生「濡れ手に泡(バブル)」となる様、高校生の教育の中に取り入れるべきなどと記しましたが、昨日は中学生(14歳)二人組の強盗傷害事件が起こりました。

先般の当市の母親殺害事案も記憶に新しいものがありますが、彼らのその「激しい衝動」の低年齢化には心穏やかではないですね。その辺りどなたも思うところではないでしょうか。

 

そして昨日はその件、世間様は同情する者はないだろうと記したのですが、「多発する闇バイト強盗事件の背景に貧困問題~」という記事を見ました。

大阪大学社会経済研究所等が公開している「失業率と犯罪発生率の関係:時系列および都道府県別パネル分析」なるデータが紹介されていました。

 

「<犯罪の発生率は失業率が上昇すると上昇>するという相関関係にあり、さらに<失業率の上昇よりも貧困率の上昇が犯罪発生率を高める影響が大きいことが分かる>という。 厚生労働省の「国民生活基礎調査の概況」(2019年)によると「相対的貧困率」は 15.4%となり、1985年の12.0%から3.4ポイント増加。「子どもの貧困率」(17 歳以下)は13.5%で、同10.9%から2.6ポイント増えた。」と。

そして

「防衛力強化といってミサイルや武器を大量に購入するために43兆円ものカネをポンと投じる方針を示す一方で、世界一高給と言われる国会議員の歳費削減には手を付けず~」の締め。

彼ら(強盗事件)へのその心の奥底に触れられたような気になりましたしその言葉に「ああ、なるほど・・・」と。

 

さて、昨日の桑谷城。そちら画像⑤の公民館のバックに見えるお寺の本堂、それが表記長善寺です。

本願寺派のお寺ですが、その築地米の色に度肝を抜かされます。

黄色です。

 

そちらには「青々処」を号とする岡崎の俳人鶴田拓池の句碑がありました。

黄色は青色に引き立てられる相対色。

阿弥陀経のあの件、こちらでも思い出されました。

⑦画像は本堂の裏。竜泉寺川。

 

 

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2023年

1月

25日

桑谷の地にも「雨山」 街道筋を抑える 桑谷城

例の世間のお騒がせ、在宅狙いの年配者アタック。

狛江の齢九十のお婆さんの件筆頭に強盗傷害、強盗殺人の凶悪事件が報じられています。

着々と捕縛が進んでいてこれより彼らは獄中の身となることは必定ではありますが。

しかし、そのやらかした罪状と現実に下される咎の重みを受けて彼らは何をおもうのでしょうかね。

20代前後の輩の短慮とは思いますが、今後の犯罪の掘り起こしにもよりますが、最低でも15年の獄中生活もありうるかと。

あぶく銭を手にして刹那の喜びを得たのかも知れませんが、あの手の犯罪に世間の同情は一切ありませんし、警察も是が非でもと、血眼になって捜索するはず。

軽率粗忽短慮の結末、「若気のいたり」であったと40歳を前にして悔恨に至ったとしてもあまりにも無駄な人生。

反省の為に人生の一番イイ時を費やすなんて・・・

終わったあとでは既に遅し。

 

「犯罪はイケません」の教示はわかりますが、それに手を染めた時そのあとの責任の重さというものも、高校時代あたりに学んでいただきたいものです。

ペナルティが重いから犯意を躊躇させるという教育はあまりイイとは思えませんが、現実問題としてそれらの誘惑に即座に飛び込もうとする若者がいるのですから。

 

本多作左衛門の

「人を殺せば己も殺さるる 火を点ける者は火あぶりに成、いたづらする者は奉公人仕置にする」

そこのところ彼らは理解しているのかしらね。

 

扨、昨日の桑谷の廣忠寺。

街道を見続ける野辺地蔵でしたが、その地より竜泉寺川の上流方向が桑谷山。

そしてその南、向こう側が三河湾、いわゆる蒲郡ですね。

岡崎・山中・本宿と蒲郡を結ぶ街道になります。

現在の吉良道、桑谷の交差点から南方向に行って暫く、あの廣忠寺があるわけですが、その先が林道桑谷蒲郡線と呼ぶ細道になります。

さすがに蒲郡方向に向かうにその道は使用したことはありませんが、その桑谷山辺りまでの地名の小字が雨山です。

先日はやはり雨山城のところでその雨山の小字名について記しましたがこちらにもその名がありました。

ここでも「雨山の御恩」を感じたのでした。

 

その廣忠寺よりも数百m今の吉良道寄り、東側に桑谷公民館があります(こちら)。

そちらから来た道(西)を見ると古墳の如くの小さな丘と竹藪が見えますが、そちらが桑谷城跡といわれます。

ハッキリ言って何もなし。

こじつければ色々推することはできますが。

 

例によって「城郭大系 その他の城郭」の件。

岡崎市桑谷町

「山田藤七郎・松平山城守の居城という」のみ。

 

⑦⑧は公民館から北側、吉良道方向に行ったところ。

⑦家屋の向こうに桑谷交差点。

⑧はその近くの祠と墓。

「本田」家の立葵が何かを主張しているようです。

 

 

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2023年

1月

24日

廣忠寺門前 街道の野辺地蔵 竜泉寺川の堀切橋

昨日ブログでは「火事は嫌だねぇ」と、奥方にこればっかりは「念入りに(火の元)チェック!!」と申し合わせたところでその件を記したのでしたが、寝床に入った辺りに新潟、長岡であったお寺の火事を知らされました。

火事によって人命が脅かされることはどちらであっても悔しく思いますが、それがお寺であったりすれば尚更です。

まったく他所の事、他人の事と思えないくらいの恐ろしさを感じます。

 

特に現在、昨日亡くなった檀家さんが本堂にいらっしゃいます。設置した経机の上のローソクと線香がやはり気になってしまいます。

「いつでも気軽にご焼香どうぞ・・・」とは伝えましたが、私どもの管理できないところでの、「火」の使用は気になります。

夜間も何人かのお参りがありました。

その不始末がもしや・・・などと頭を巡るのです。

本葬は27日ですからそれまで仏さんは勿論、火の心配とおつきあいすることになります。

 

扨、昨日の廣忠寺

その門前には街道の往来を見守ったという野辺地蔵が小さな堂に鎮座されています。

桑谷という字名から旧来養蚕などイメージしますが小字名として堀切の名があって如何にも古い城郭の存在を感じるのです。

竜泉寺川に架かる堀切橋⑧⑨。

廣忠寺の奥になります。

 

 

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2023年

1月

23日

廣忠寺五輪塔×3基と卵塔 廣忠・於久・忠政+開山恵最

普段以上に火事についてピリピリさせられるこの時期、各地からそのニュースが飛び込んできます。

神戸の集合住宅での火災のニュース。

そんな悲劇が起こってしまい気の毒でいたたまれません。

その住宅は生活困窮者や路上生活者、障碍者の受け入れ住宅だったそう。

運不運だけで物事を捉えるというのも短絡的ですが、生活困窮も、心身に障害を抱えて困難を生きなければならないその試練も不運なら人生最後まで不運と言う語で締めくくられるなど・・・

どちらであっても火炎の禍から逃れたいものです。

これは昔からの人々の最大の暮らしの中のテーマ。

 

さて、廣忠墓塔・供養塔について大樹寺法蔵寺林寺松應寺と記してきましたが今一つを。

 

国道一号、山中小学校北の「吉良道」と呼ばれる幸田方面へ向かう道に入ります。

それがそのものズバリを冠にした「廣忠寺」 (場所はこちら  または参考幸田地区)です。

 

画像が廣忠寺の墓域。

壇上にある五輪塔×3基は中央に廣忠、向かって右が側室の於久。子に松平忠政、樵暗恵最がいてその左側が忠政になるようです。

最後の画像が廣寺開山という恵最和尚の卵塔。忠政の弟ですね。

看板が朽ちて倒れていましたが、五輪塔3基はわかります。

無数の卵塔から450年以上の年月の経過がわかりますが、よくわかりませんでした。

鬱蒼とした林の中にある墓域でした。

廣忠正室の於大の方(またはこちら)とちがってマイナーのイメージ。

この地に居た於久が廣忠の菩提を弔うよう家康に頼んで建立したといいます。

 

 

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2023年

1月

22日

幸田正楽寺墓域 高力熊谷 大草松平のお隣に

昨日は一昨日の方とは違う火葬場の職員と一言二言。

近況を伺うと「昨年末からずっと・・・」超煩忙が続いていると。

「昨年と違うと感じるところは・・・」と問えば、高齢者、特に90歳超えの方が多いといいます。

なるほど・・・すべてにおいてこの状況に耐えることが難しかったのでしょうね。免疫力・体力の落ちている方たちには・・・

曾孫たちが開放感満点で実家に遊びに来て、そこから感染してしまう例も聞きます。

高齢者が住まう家に訪れるにはまだまだ慎重さと配慮が必要です。

浮れて騒げばまず足元を掬われて痛い思いをすることになります。踊らされてはだめでしょう。自重しましょう。

「舞い」は彼らだけでいいのです。

 

いやはやトホホと思わされたのは狛江の90歳のお婆さんが見舞われた強盗殺人の件。

三面記事とはいうもののそちらは私が学生時代に住んでいた地ということもありますが、20代の若者らしい輩数人がそんな高齢者の住まいを強襲。

か弱き高齢者を縛り上げてボコボコにし「カネのありかを吐かせる」など、それは如何にも酷すぎる。

いわゆる「血も涙もない」ケダモノの類を思いますが、自然界の動物であっても掟はあるものです。

 

関連組織の23歳の現役自衛官が逮捕されていましたが、「国民を守る」というのは詭弁だったの?と大いなるギモンが湧きます。

鉄砲やミサイル、ヒトの殺し方を教える前に、やはり「人の道」というものをガッツリと頭に叩き込んでいただきたい。

税金がお給料の方たち。

その払った税金で養われた若造の短慮が跳ね返って牙を剝いてくるなんて、シャレにもなりません。

 

心というものが喪失してしまっている世の中なのですかね。

他者より私の大事。

他人といえども思いやること大切なのに。

思いやるではなく思いあがる思考こそ自身も国も亡ぼすのにね。

くだらない世の中に成り下がったものです・・・責任をもって何とかしろぉ~。

 

扨、拙寺所縁の成瀬藤蔵(寛政譜)もその攻城に顔をだしている吉田城

その城の奪取が成功した頃、いわゆる「三奉行」が定められます。

 

その辺りのところ「三河後風土記 正説大全」から。

「斯て吉田の城代は酒井左衛門尉忠次に仰付けられ、又田原の城を責取給ひ此城代は本多豊後守康重に仰付られ、又三奉行を定め給ふ」

「その輩は高力左近・天野三郎兵衛・本多作左衛門等也。

高力は柔和にして慈悲深し、本多は利発にして短気なり、天野は穏便にして思慮深し」

 

天野三郎兵衛ほか御三名についてはこちらを(各リンク先あり)。

 

昨日記した幸田正楽寺の墓域の続き。

大草松平の墓5基の左側に大き目の五輪塔と宝篋印塔が二基。

それらを仕切る間には灯篭風石柱③が立ち左右の墓石たちの結界となっています。

右側の石塔類5基が「岡崎築城主西郷家之墓」で左側の2基が「高力城主熊谷家之墓」と。

こちらがいわゆる「高力熊谷」所縁の墓ということです。

 

私からすれば大谷派のお寺だけに本堂お参りは勿論、この墓たちの主、両家とも身近な方たちだけに楽しい場ということになります。

背後に散らばる五輪塔残欠、墓石等それぞれも。

 

上記書物にある本多作左衛門の語が面白い。

『「愚昧にして一文不通の者共 むづか敷文言にてはとく心すまじ」とて筆取て「人を殺せば己も殺さるる 火を点ける者は火あぶりに成、いたづらする者は奉公人仕置にする」と悉く仮名にて書付出しける故、愚昧の族(やから)合点・・・・』

 

バカにはわかりやすく教えてやれ・・・ということでしょう。

 

 

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2023年

1月

21日

大草城址 幸田正楽寺墓域 三河の松平 数多の一角

それはそれはお偉いさんからすれば簡単に「マスク不要」だとかコロナをインフル並み(五類)にウェイトを下げるだとか言い出すのはカンタンでしょうね。

なぜならばあの連中ときたら「もしもの時」は手厚い治療と適切な投薬(絶対的安心)が「ある」からに違いありませんから。

コロナに罹ったとしても余裕しゃくしゃくの人たち。

経済にとって行動が制限される事こそが邪魔ですからね。

その結果60代以上がリスキーといわれる疫癘の蔓延は許容してできれば「生産性のない」(あの手の輩がよく使う語)高齢者・弱者には早々に「退場」いただこうといった算段のように見てしまいます。

またそれが即座に年金と医療費の節約に繋がりましょう。

 

私たちときたら救急も外来も拒絶されて自宅待機と「自身の力で治す」免疫力以外の対抗方法はありませんからね。

感染者数も死者数もまだまだ高止まりする今・・・、先の事がわからない時節にあってよくもまぁあんなことを言い出せるものか・・・と首をひねるばかり。経済界へのリップサービスというのならまぁ許容しなくてはならないのでしょうが・・・

ただし社会に「平チャラ」の雰囲気を醸し出させます。

コロナは怖くないのでバンバン遊びに行っておカネを使おうのキャンペーンが張られようとしているかの如く。

 

庶民の命より「経済(金儲け)は大事」の旗印。

まったくクサクサ。

「ウィズ~」ができない人たちもいるということ。

 

火葬場が年末からフル回転・・・という言葉を一昨日聞きました。

亡くなった人たち・・・もっと怒りましょう。もっともっと・・・

自分たちは「守られている」ので平チャラの高慢ちき、いつかは足元を掬われるものです。

偉い人たち・・・庶民の命にもっとご配慮を。

「自分たち」のことばかりが見えてきます。

 

私 ? しぶとく生き残ってやる・・・そして偉い人たち、その死にざまを確と見届けてやる・・・普通の人たちこそ是非に助かって欲しい。

ただその思いだけ。合掌。

 

扨、昨日の正楽寺、大草城址のズバリ墓域へ。

まず室町期を推測できる石塔と五輪塔残欠が並んでいます。

正面五基が主たる西郷系松平の墓となるかと。

まぁ石塔のパーツ組み合わせの様について詮索なし。

 

大草松平というとざっと・・・松平光重・松平親貞・松平昌安(西郷信貞)・松平昌久・松平三光その子桶狭間ノドサクサで亡くなったといわれる松平正親~ということになりましょう。

ということで方々の墓だと勝手に推察しました。

 

大草初代の松平光重は、松平氏三代当主岩津松平家の祖の松平信光の五男になります。

その信光が西郷頼嗣(弾正左衛門 上記西郷信貞の墓も同所大

林寺に)の娘を妻にして岡崎城主(明大寺古城)になったのが始まり。岡崎城のあの勇壮な堀の名「清海堀」はその西郷頼嗣の法名として残っているくらいで、まさに今も「西郷の城」を主張しているが如く。

 

ということでドラマに突然現れた松平昌久という敵役の存在は

のちの三河一向一揆の際にも繋がる伏線ということもありましょうが、信康排除の意向については少なからずあったとは思います。「われこそが岡崎の松平」の主張です。

要は三河平定前の一族間の諍。

何しろ三河は松平だらけ、紛らわしいこと計りなし。

 

 

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2023年

1月

20日

大高城脱出の思案 大草城址 幸田正楽寺は大谷派

厳冬期において家庭内の当たり前の如く使用している機器の故障等の不測の事態に遭遇すること、痛く困惑させられます。

家中、今は「当たり前」となった数多の便利グッズの恩恵を得ているのですが昨日お聞きした「困った~」の件はガス給湯器の故障。

業者を依頼するも修理用のパーツが不足していて入手できないといい修理が何時になるかわからないとの無下。

 

私の家でもかつてその給湯器の故障がありました。

その際は夏場であったため最悪、行水も可です。2~3度は「子生まれ温泉」のお世話になりましたが、現状のコロナ禍においてそれだけは真っ平御免蒙りたいところ。

当家では「ホース風呂」というその水浴びはやはりストレスが溜まりますし他所での入浴も時間を喰いますのでその便利品、給湯器の故障は特に困りものですね。

 

当家のそれも数年前に「そろそろ交換時」と指摘されていますのでその話を聞いて震え上がったのでした。

その方は週2回ほど親戚の風呂に浸かって解消するそうですが、私など「毎日入る」習慣が付いてしまっている身としてはいかにも耐えられない苦しみになります。

 

焼き芋用のドラム缶が劣化しつつありますので境内に煉瓦のかまどを作ってその上に新調ドラム缶を乗せる・・・などの粋狂を思いますが、時間かかりすぎ、後処理大変で絶対に無理ですね。

1度はやってみたいお遊びですが。

 

「お湯が出ない」ただそれだけで「耐えられない苦しみ」とは如何にも軟弱な身とは思いますが、現代人としては蛇口から「お湯が出る」など当たり前のことですからね。

これも「雨山の御恩」の一つでした。

 

扨(さて)~この文字は最近目を通す機会が増えた「三河後風土記 正説大全」(またはこちら)頻出の「次の話」に移動することを表す語~、「三河後風土記正説大全」は江戸期に記されたもので当然ながら家康(元康)の見苦しい振る舞い、感情の動きなど微塵も感じさせるような記述はありません。

 

大髙城退散の件など、さすが「ないまぜ」作り話の現代風ドラマの作中(前回ドラマ)を思いますが、そもそものあの時の大問題は撤退どうのよりもまずは義元憤死と駿河方撤収の報の真偽でした。動きたくとも即座に動けないという心理。

 

後の信長本能寺の件と同様、今云う相手方の広めたフェイクニュースかも知れないということですね。

三方ヶ原での武田軍の浜松城素通りの報も真に受けて追走し待ち伏せに合って惨敗したのはその件わかっていたとしても動かない事が「信長への背信」に繋がるからだったのかも。

 

本当の相手の動き、情報を得ることが肝心なので時間をかけるのはその真偽の吟味。

大髙城で家康が狼狽したなどの記述は一切ありません。

あの時もし義元討死の報がフェイクであってそれを信じ切って慌てて城を逃げ出ていれば、保身狼狽の家康と後ろ指を指されるどころか義元に叱責され地位も危うくなるところ。

 

それほど情報というものの真偽の判定が大事な時代でした。

「浅井六之助」が報じる義元軍敗走の件からの吟味と決断についてその大高城内記述に割かれていました。

 

特にその報を取り次いだ家臣たち(酒井雅楽介正親 石川安芸守清兼 酒井将監忠尚 酒井左衛門尉忠次)が各忍びの者を出して「実況のよし」を吟味。

一同の意見を聞いた際の家康の言葉は以下でした。

 

「扨々狂変なり。但し何ものが申したるや 慥かなる証拠あるや」また注進を聞いて

「御笑ひありて『国家の政道をまかせておく汝らが申条とも覚へず、卒忽の事を申者かな かようのせつは種々さまざまの雑説多くあるべきことなり。

自然敵がたより間者をもって惣大将義元討死などと虚節をいわする事もあるべし 其うへ真偽をも尋ねきわめずして周章狼狽(あわてうろたえ)て退き もしや其事偽りにて義元存命においては第一申開きもなくまた諸人の舌頭にかかり嘲りをうけ

憶病未練の汚名かふむり生涯武門のの便りになるべからず 

よって当城に屯して義元の安否実況を聞定め 然るうえは元康が存亡をも究むべし もしまた実事にて信長当城に寄来らば花々敷一軍して討死し義元の教養に報ずべし 

然れば少しもいたむことなし』」・・・です。

周章狼狽と憶病未練こそ武門の恥辱という思想真髄の時代、当然といえば当然。

ドラマで弱き大将の成長を描きたいという気持ちはわかりますがそれは今風の発想でしょう。

 

そののち本多作左衛門重次の諫言を聞き撤退となったという運び。その件「三河後風土記正説大全」の記す大高退去前の家康の状況でした。どちらがイメージできるかといえば私はこちらの方。

ドラマはドラマの割り切り必要ですが少々やりすぎ。

ため息まじり。

 

尚、退去後はその件告げた「浅井六之助」の案内で岡崎に戻ることができたというのが三河後風土記正説大全」の記すところです。

岡崎への退路、ドラマでは大草の松平昌久が突然敵役として登場してきましたが上記書物ではそれが信長方の落ち武者狩り勢力であってその浅井のとりなしで難なく解消というものでした。 

 

画像は久々幸田になります。

真宗大谷派の正楽寺(場所はこちら)です。

この寺が大草城といわれる場所。

どちらを見回しても城址のイメージは沸いてきませんでしたが・・・。

本堂にお邪魔して合掌。

 

例によって城郭大系。やはり「その他の城郭」にありました。

「額田郡幸田町大字大草 松平氏三河制覇以前、三河守護代西郷氏居城。西郷氏はのち大草松平と称す。城址は宅地や畑地。」

 

 

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2023年

1月

19日

むかし郷土の誇り 雨山六人衆墓碑 雨山熱田神社向い

雨大嫌いの私としても数日前のまとまった雨は有難いと感じました。

なにせ気温が上がってラクになったということもありますが湿度の上昇に伴ってウィルスの活性が落ちるといいますし、何より火災延焼の心配が薄れます。

風もなくただ雨が降るだけでした。

乾燥期、冬場のどこか雨は遊びに行く予定でも無ければまったくOK!ですね。

 

お調子にのって「ラクちん~~」と一息つかせていただいたのですが、週明けからかなりキツイ寒波が訪れる・・・などと天気予報の声に脅かされていますので色々と配慮して過ごさなくてなりません。

昨日の法要でも参列者のうち咳をされている方がいらっしゃいました。寒さと暖かさが順繰りにやってくるのが春というものなのでしょうが、体の方がその変化について行けません。

 

人というものは数多なる無常の変化に対応するという任務がありますので。

生きていくこと・・・実に大変な仕事です。

日常というものの維持は「まかせる」ほかはないというのはわかっているのですが。

 

さて、昨日の雨山神社の鳥居の前は雨山川があってその川沿いには田んぼが連なっています。

川に架かる宮橋の向かうに墓碑が見えましたのでご挨拶に向かいました。

そちらは「雨山六人衆」の供養碑、掲示板を拝読し、地元の誇りというか、雨山の勇士の存在を知りました。

役人というもの、何時の時代も面倒くさい輩が多いですね。

 

阿知波の殿様への崇敬しもとより雨森の地と民のために代表して立ち上がった六人への雨山の御恩と報恩感謝を感じ取ることができました。

 

 

 

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2023年

1月

18日

雨山熱田神社と阿知波氏 脇差と太刀の奉納

夜間の救急サイレンの音は気になります。

それを耳にする者を一気に不安に陥れます。

火事だとすれば例の街区設置のマイクやら自宅の自治体配布の機材からその場所と内容を時を選ばず報せてくれますので、放送が無いという時は救急ということになります。

 

昨晩日が変わってしばらくした頃の救急サイレンは何故か途中で止まりました。

それは特にイヤな感じがするものです。

先ずは現場が近隣ではないのか・・・

そして、また走行中にその「救急」の必要が不要になった情報が入ったか・・・です。

救急到着によって現場近くの住居にピンポイントで何かの事案を報せることになりますので「控えて欲しい」の要望があったりすればやはりサイレンは止められるでしょう。

 

昨日は午前中は境内作業。

昼のニュースでその件を知らされましたが、その事案の発生時刻からすればまさにその救急か、といやはや・・・ピンときました。

午後から地頭方の処理場に向かうその途中、規制線と物々しい警察車両を目にしましたが・・・

再び牧之原市を全国レベルニュースと引き上げた誰もが辛いと感じる事案でした。

世は末期的症状か・・・と思わせる事案がまたも近場で起こってしまいました。

 

「どうする~」の語が巷で言われていますが「どうする日本」の気分です。

スマホとゲームを売りまくり、大人たちも利便と娯楽を享受してはいるものの「大人たちの以前は無かった」それらによって子供が人生を台無しにしてしまうようなことが起こること、レアケースであると見過ごしていていいのでしょうかね。

 

私は息子のスマホを彼の目の前でへし折るという茶番を繰り返していましたがそれの魔力は子供にとってオーバーコントロール、悪魔のアイテムになりうるものです。

家庭内のルールを作り念押しして手渡さないと・・・

 

尚、上記救急サイレンと規制線の張られた地とその事案との関係はわかりません。

今、地元は口を閉ざしています。

 

さて、先日は阿知波氏と尾張熱田神宮とのからみについて記しました。

雨山のそれですが「熱田神宮」とは記しましたが正式には「熱田神社」です(場所はこちら)。

そちらが阿知波からみの神社であることはその阿知波氏が田地の寄進と脇差・太刀の奉納があったこと。

 

その弘治ニ年の雨山合戦の戦勝祝いとありますが、菅沼三兄弟を討取ったとはいうものの今川軍本体によって潰走させられているはずです・・・

表現としてそのまま受け取れば菅沼一統との戦闘と今川本体とのそれのタイムラグがあったということか、地元愛でしょう。

多分・・・私は後者を思います

 

④元和六庚申(1620)の位牌が1つ、神社の氏子が持ち回りで自宅で保管するならいになっていて年に一回お寺で法事をするとか。

 

境内には背の高いスギが。

 

 

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2023年

1月

17日

こちらは阿知波一統 雨山合戦戦死者の墓20基

叔母の近況を伝える叔母作成?といわれる画像付きの年賀の挨拶状が届きました。

コロナに罹ったせいでしょう症状は出ずとも食事のコントロールがあったせいか少々痩せ気味。

ただしいたって元気そうでした。どちらにせよ今月末には定期検診に同行しなくてはなりまませんので様子窺いはできますが・・・

 

ショックだったのは毎度の事。

今回は「クリスマスのイベント」とやらの画像集を見た事。

例のサンタクロースの赤い装束を着せられて白い付け髭の様。

私はそれを見て呆れ果て「コレだから(そのとき・・・)あの手の施設入所などはイヤなのだ」と奥方にゴネました。

写真のポーズとはいえ南蛮文化の倣いを道化の如く強いられて、幼稚園の遊戯の如くの歌会にお絵描きなど御免こうむりたい。

勘弁、ご容赦を・・・と頼み込みました。

「どこか山城に行倒れて猪とカラスにキレイにしてもらいたい・・・」と野晒し希望をポロリと吐くも例によって「誰が回収するんじゃ・・・ボケ」。

 

私のそのとき・・・痴ほうが進みあるいは歩行ができなくなった「そのとき」なのでしょうが、思考回路がぶっ壊れてたとすればたとえ外来からのおバカ宗教イベントであったとしても「オレは仏教徒だ」のプライドは消え失せているのでしょうから。

それならさっさとおさらば、退場した方がめでたしめでたし。

 

先日お聞きした話。

骨折をして入院、何とかリハビリを重ねて無事退院復活。

積極的、前向きのスタンスは天晴れ。

筋力を付けるためでしょう活発に動こうと過ごしていたところ再び転倒していっぺんに二カ所の骨折。

急速に衰えて寝たきりになってしまったとのこと。

 

転倒と骨折は如何に苦痛を増幅し、その後の健常に影響をもたらすか。

何が具合悪いか・・・筋肉を落としてしまうこと。

日々筋量の維持を心がけ、回復のために鍛錬(リハビリ)を続けること。それが「生きること」だけは「投げない」ということ

(門徒の生き方「投げ捨てて」~改悔文-がいけもん)。

齢を重ねたらベットに寝ている時間をできるだけ減らしたいものです。

という私は一日中、庫裏でのらくら。

そんな中、「骨折して回復が予想できなければ・・・もはや投げたくもなる・・・」は当然だろうと思ったところです。

 

さて、雨山の集落はおそらく人口は70人あるかないかと思われます。あちらのダムから約2㎞のダム新設に伴う道路の周辺の家々ですが、当然とはいえば当然、川の近くは田んぼ、その他は山ですからね。よって産業といえば主として林業。

最近はシイタケを手掛けるようになった(昨日の力氏)そうですが如何にも地味。まぁ自然と城址と墓があれば私は文句ありませんが。

 

その墓ですがやはり以前見落としていた墓たちに気づかされました。

道路脇にあって道路上から見ることができますが、前回はまったく気づきませんでした。

それもそのはず五輪塔の列のバックの石垣と完全に同化しています。

左脇の小さな掲示板が無ければまず気づくことはできません。その墓は地元では阿知波家一統の墓といわれますが、藪の中の菅沼兄弟のそれらとは大違い。明るい壇上にありました。

④画像はその段の前からダム方向の図ですがその兄弟の墓は④の黄色い→といずれもごく近い場所にあります。

兄弟の墓のブログの画像④にブルーの掲示板がありますが、まさにその向かいになります。

 

ダム用道路の改修工事によってこちらに集められたものでしょうが、実はその雨山川と道路の間には⑤の石塔台座が2基あるとのことですが、伐採材が積み重ねられていて未確認。

画像は昨日の力氏からのもの。

 

⑥は新編岡崎市氏史額田史料編1より。

「東アチワ」はじめとして雨森の戦いの主戦地「シャウシ(しょうし)渕そして「寺ケ入 仏供田(ぶつくでん)  ワセ田  勝負田」等々興味をそそる小字名が見られます。

雨山城跡に阿弥陀堂跡とありましたが痕跡はなし。

✖印は砦の痕跡調査個所とのこと。

 

⑦⑧は墓近くの小堂。

両隅の五輪塔、何故にして貴方たちは覆いの中に・・・

 

最後の二つが昨日の紅梅の様子。

先日の蝋梅につづいて少々早いような。

 

 

 

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2023年

1月

16日

雨山城 防御柵で菅沼軍を迎え撃つ 中津城の阿知波

一昨日昨日と天候不順ながら気温は高め。

温かく湿気が高いのは有難いこと。庫裏内気温は20℃超えとなって寒さからは逃れられました。

月末にはまた「寒波が来る」と脅されていますのでこういった季節の気まぐれによって少しでも楽をしたいものです。

 

昨日はたまたま「正月に顔を出せなくて・・・」とお二方が同時に庫裏に。二人ともマスク装着の為一瞬、間がありましたが、古い顔なじみの様でした。

偶然にもお二人は年末から年始にかけて「コロナに罹っちゃって・・・」とそれが共通の話題。

 

お二人とも70代ですからいわゆる「(コロナ症状)心配される年齢」ですが一方は夫婦で罹患して無症状。

もう一方は38.5℃と喉の痛み程度でみなさん自宅療養とのこと。

「風邪と同じ・・・」とはいわれますが現実社会では死者数のカウントは日々最高を更新していますからね。

「人によって違う」ただそれしか言いようがありません。

 

ただ念のため・・・と伺ったところお二方とも年末に「5回目」ワクチンを接種済み・・・とのこと。

私の最近よく聞く「コロナになっちゃって・・・」(やたら周辺多し)の方たちはまず「5回目」を接種していました。

短絡記しますが「5回目を打つとコロナに罹る」とも思ってしまうくらいなのです。

 

さて、雨山城。

城郭大系(その他の城郭)では「雨山砦」。額田郡額田町大字雨山になっています。

「奥平定助在城。弘治二年奥平貞勝が築いたが、今川氏により落城した。」とさらり。

 

あの日(雨山城行脚)は道路脇の家屋の庭で作業を行う人を見かけたため車を停めてインタビュー。

お話の中で感じたことは最近の地元での町おこしに雨山城(阿知波城)とその「歴史を知っていこう」という前向きな雰囲気が漂っていることが感じられました。

それも地元の殿様は阿知波でありその砦と屋敷跡への思い。

あくまでも今川方として風越峠を進軍してきた菅沼一統は敵役ということだったのです。

菅沼兄弟の墓の有様もそうでしたが、地元からすれば郷土を蹂躙せんと踏み込み襲来した敵の将。討ち取って負かした後、いつしか弔いの気持ちも薄れていったということでしょうか。

 

会話の中で思ったのはおそらく昨年、九州の中津に行くツアー招集が地元であって有志が集まり「雨山奥平」を肌で感じてきたということ。

溢れ出した「筋金入りの地元愛・・・」を垣間見たのでした。

 

阿知波一統はこの目の前の道路から雨山川から向かいの山の麓付近まで防御柵の何列かを設えて菅沼軍の襲来を待ったとのこと。

長篠の防御柵を思い起こしますが、その柵によって菅沼一統の進行を抑え、大将の首級をあげたということでしょうね。

ウィキには菅沼定村の件「阿知波五郎兵衛から放たれた矢によって、馬上から下知する定村は左喉から耳を貫かれ、落馬絶命」とありました。

 

私が史料が欲しいと図々しく頼むと2㎞ほど下った場所の「力(ちから)さん」のところへ・・・と紹介いただきました。

その「2㎞ほど」というのがダム下から雨山の熱田神宮あたりのことでその間が雨山の集落ということになります。

 

その力氏に伺えばやはりその方も同じく中津に参った方で画像⑥がその力氏にいただいた図です。

城の位置が推測できる古地図、防御柵らしきものが記されています。

また2020年11月の愛知中世城郭研究会の石川氏によるレポートを拝見させていただきましたが

雨山城は弘治二年の雨山合戦の舞台となった城であり比較的知られている城であるが、その位置や形態も含めて不明であった。この度、改めて調査する機会があり雨山城の姿について明らかになってきた~」とありました。

「明らか」と断じていますね。

 

そして、阿知波が何故にして奥平か・・・

雨山城の別名阿知波城や小字名「アチワ」の通りこちらには阿知波氏が在城、元は尾張知多郡の出といいます。

図書佐定のころに雨山に移ったようでこれは一説に織田方の三河深くの楔、橋頭堡ともいわれています。

上記「熱田」は阿知波氏がらみの神社ですから如何にも「当初織田」の匂いを感じます。

 

修理定直の時に奥平に改姓(天正元)して甲州に走った和田奥平氏に代わり雨山奥平、奥平七族の一つとなるという経緯を辿っています。

 

そして何故に中津か・・・

享保二(1771)八代将軍徳川吉宗の時、奥平家第七代の奥平昌成が丹後宮津から一万石加増されて十万石、豊前中津城に入城し明治まで。

その奥平家の一翼を担う「雨山奥平」の痕跡を求めに中津ツアーを組んだということでしょう。

 

最後の画像は中津城をサイトからCPしたものですが、城内の屋敷に「阿知波」の名が見えます。奥平家中では通称「阿知波」で通っていたことがわかります。

阿知波と言えば雨山奥平ということで。

 

①②は雨山城登りはじめに出くわした猪の柵檻。

こういった山路も小さい子供を連れたお気軽行脚は如何にも危険なのです。

大人たちを置いて先に走り出したら・・・想像するだけで恐ろしい。

あの鉄柵が落ちたら・・・勿論猪に出くわす事もそうですが・・・

 

③④⑤はブログ再掲。

③には石ころが積まれていましたが私は意味不明につきそれらを除去。

なぜか大抵、人は石を積みたがる・・・

 

 

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2023年

1月

15日

前回断念 雨山城(阿知波城)  有難くも登城

昨日のNHKの番組「宅地の盛土リスク」を視聴。

宅地造成による悲劇の現場の例にその悲劇が予測される場所が日本全国そこいらじゅうにあることを報せていました。

業者もバンバン造成、その上に建物。売りまくりますが、行政の指導もデタラメの感。

つくづく思うのは家を購入する時、できるだけ古い地籍図(土地の履歴)を取り寄せて「かつての地盤」を知ることが肝心と。

「谷埋め盛土」「隠れ盛土」なる語がありましたが、その上に宅地がある場所、上部にそのような盛土のある家は土砂崩れに見舞われるリスクと付き合わなくてはならなくなるということ。

 

構造物に対する被災の対策はあってもこれまで造成後の宅地への対応は後手後手になっているようです。

何せおカネがかかることですからね。

販売業者の重要事項説明に造成時のリスクについては触れられないでしょうし、そもそも販売にあたって「ネガティブ情報はまず隠す」というのが当たり前のような世界ですからね。グレーな部分。

家を購入したとはいえ悩みは尽きません。「有無同然」。

 

そして23時からのETV特集。

「弔いの時間を見つめて~」を続けて。

昨日も記した通り色々な「送り方」があるものだと再認識。

ゆっくりのんびり時間に追われない方法を模索したというところですが、地元以外、首都圏の法事に呼ばれれば、葬儀時計の針を見ながらの読経になりますからね。

また一人の死によって家族の「日常を奪われる」とのことばは如何にも重たい。それがまた「無常」です。

 

さて、何度か記していますが前回の雨山城行脚ではその城塞の痕跡を辿ることはできなかったわけですが今回は雨山城(阿知波城)を体現することができました。

以前はその城塞の存在が知られてはいましたが、場所詳細がわからなかったということですが、最近になってから地元有志が史料の探索から現地を実際に歩いて特定できたということですね。

 

よって「城はこちら・・・」という具合に石標と掲示板の設置が進んでいて、何も知らない観光の人が偶然に出会ったとしても「ちょっと行ってみようか・・・」という気にさせるアイテムの整備がなされていました。

ただし「東アチワ」という小字が城屋敷でその裏山が城であることがわかっていますが本格的発掘調査は行われていないようで「確定」とは言えないようです。

 

今年初めての山城トレッキング。

ガレ場に近い礫の散らばる登攀路は病み上がりと左足小指未完治の身にとってかなりキツイものがありましたが、「ここは一気に・・・」とばかりに勢いだけで上がりました。

ということで今年初めての筋肉痛。足指の治癒も程遠い・・・

登攀路右側には雨山川に流れ込むその支流河川があり、自然堀にも水の手の確保にも十分な立地です。

 

本郭と思しき平坦な場所は雨山川の対岸の台地上先端。

登攀路よりクランク状にさらにキツイ傾斜を登り尾根の突き当り。

山城としては軽度の疲労度でした。その日のコンディションで丁度いいくらい。

 

左手に雨山ダムに風越峠方向が右手に私がやってきた岡崎方面の山々が連なっています。

ざっと見て砦、物見櫓の類の規模でしょうか。

地区象徴の城塞として徹底抗戦となれば籠城となるのでしょうが、主郭に繋がる尾根上に散らばる礫の多数を見ると事前の投石用に上げたものが「未使用に付き、残された」と考えてしまいます。数百年前の人為が今も残っているかというところ甚だ疑問ですが。

 

今川後詰め攻城戦略はその曲輪より高い場所からのものになるでしょうから城との上下位置関係は逆転、阿知波一統の敗走はそのまま雨山川沿いに下って行った・・・などと考えた次第。

それにしてもその点を考えると、その段丘先端からの眺望の良さはあるもののそちらよりさらに上部からの攻撃への脆弱性が顕著であるため、「その時は逃げる(捨てる)」という割り切りが必要な城だったかと。

挟み撃ちにあったらひとたまりもないでしょうから。

 

 

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2023年

1月

14日

二葉松には雨山は宝飯郡 菅沼定貴・定満 近藤彦七

昨日耳にした直近の葬儀式にかかわる状況。

相変わらず年明け後、葬儀社はどちらも煩忙だとのこと。

6日から7日は待たなくてはならないといいます。

 

先般、浜松市中心から10分程度の住宅地を走りましたが閉店とシャッターが目立つ個人店を尻目に、目立つのは「家族葬の〇〇」と銘打ったこれまでとは小ぶりの葬祭場の数々。

中には閉店したであろうファミレスを改装したかの如くの出で立ちのそれもあったりします。

その世界に参入すべく企業乱立の感もありますが、選択肢として「今こそ・・・参入」ということなのでしょうね。

多死社会のうえコロナによる死者が数多、需要が多いことは事実ですがそのあとは少子化ということで人が居ない社会の到来も感じます。

 

現状コロナ禍は国として、これから嵩む年金と医療費のことを考えると高齢者がところてんの如く押し出されて死んでいくこと、まんざら「悪くない」というところなのでしょうね。

それを考えている側の人間も死んでいく身なのですからね。

むしろそっちが「お先に~」という具合に消えてくれた方が庶民にとっては有難いのかも。

何せ税金泥棒の輩、いい事なんて一つもない。

 

さて、昨日の通り雨山行脚に突然踏み切ったその目的は前回の雨山放浪の時とは違って、案内板などが充実したという情報を得たためで、特に新しい発見がありました。

その第一が菅沼新三左衛門定貴・半五郎定満と近藤彦七の墓でした。

菅沼定村の弟たちと家臣ですが前回訪れた際はお目にかかることはできませんでした。

岡崎方面を背にして雨山ダム方向、右手の雨山合戦の標や左側の段上の定村の宝篋印塔の土台のある場所より少しばかり岡崎寄り、右手の雨森川に架かる橋の上に②③が。

ちなみに④が岡崎方向になります(場所はこちら)。

 

橋を渡って30~40m、左側の藪を注意して進めば⑤の黄色の円内の標識が見えますのでそちらへ。

そちらには近藤彦七という方の宝篋印塔残欠が散らかっていました。

そしてその上方には定貴と定満といわれる宝篋印塔が。

一基は当時のままの如く比較的残っていますが、もう一基は崩壊中。きっと他にも近しい者たちの墓石もあったことでしょうが、今はそれを推するのみ。

 

山の斜面では礫と混ざり合って崩れるでしょうし、墓石そのものも土石とともに下方に流れ、埋もれることは必至。

人の手を入れることが必要ですね。

 

①が三河二葉松の雨山の記述箇所。

昨日ブログの通り、こちら雨山は額田郡とてっきり思っていましたが二葉松には宝飯郡として記されていました。お隣には作手の記述も並んでいました。

設楽郡としてもなるほどという場所ですがね。

 

最後の画像が墓石から下方を見たところ。⑤画像の逆。

 

 

 

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2023年

1月

13日

雨山の御恩 想い思って雨山(旧額田町)へ走る

一昨日の「南蛮の神 サイコー」の押し売り女たちに当方境内に踏み込まれ、私の大切な時間と因果不明ながらの体調不良により、支離滅裂に拍車がかかったような昨日のブログになったわけでしたが、床に付きながら朝までいろいろな思いが交錯しました。

仏教施設といういわば私どもの「聖域」にて外来の神の得意を吹く不躾はありましたがその気の毒な人たちに向かって私の本当の思いを遠慮なくぶちまけたこと少々「言い過ぎ」の反省もありました。

やるせない気持ちと私自身の在り方、それでいいのか・・・です。

勿論阿弥陀さんはバカボンのパパの如く「これでいいのだ」と言ってくれていることは感じるものの「まだ何かあるだろう・・・」の示唆、気づきのヒントはなかろうか探しました。

 

そして朝、どうやらスピード快癒になりそう・・・と合点して思うところあって8時に一人で家を飛び出しました。

 

私は通夜式のたびに拝読する御文は「大聖世尊」(三帖-四)と決めています。

少し長めの御文となりますが、翌日の葬儀式あとに拝読する「白骨」(五帖-十六)とリンクさせるが如く共通のテーマの「無常」について触れるためですが、その「大聖世尊」の最後の部分は特にお気に入り(画像 ① )。

 

「~かやうの雨山の御恩をばいかがして報じたてまつるべきぞや。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と声にとなへて、その恩徳をふかく報尽申すばかりなりとこころうべきものなり。

あなかしこ、あなかしこ。文明六年八月十八日」

です。

 

「雨山の御恩」の件です。

「たくさんの御恩のもと、こうやって生かさせていただいている」まったく有難き事ですが、それに気づかずにいることは何と浅はかなことか・・・

奥方が言うには、何かの「言語」を耳にしてそれに反応してまったく違うことをやりだすのは「どこかおかしい」と私の偏執を指摘していますが、昨日の変調の布団の中、その「雨山の御恩」と三河額田郡雨山の地名を重ねてこじつけ「行かなくては・・・」といった気持ちが朝までに熟成していったのでした。

 

それは私へのその示唆ともいうべきものがあってそれがかつての拙ブログ無嗣改易も復活  菅沼定実兄弟愛  新城菅沼家」のコメントでした。

 

阿弥陀さんから「行ってみろ」と背中を押してくれているように感じたのでした。

 

さすがに病み上がり、相当バテぎみで、午後三時前には帰路につきましたが天気良好でポカポカ陽気。

有難い有難いと帰宅して風呂にザブン。

雨山の御恩を感じて南無阿弥陀仏。

毎日毎日御恩徳の念仏三昧、それを確認して一日終了。

 

前回うろついた時から変更点多数。

掲示板等が新たに設置されてわかりやすくなっていました。

とりあえず雨山公民館。旧地名「額田」と「雨山」混在の消防団の看板から。「額田」の地名が残っているのも嬉しいところ。

途中豊川から抜けてきたため「宝飯」を冠にした企業の名も目にしましたが。

 

岡崎の大河ドラマ館のポスターが貼られていました。

入館料800円とのこと。

奥方に「こりゃあ無理・・・」(高い・・・)と言うと、「そんなものだろ吝嗇め・・・」と罵られました。

でもパネル展示と衣装が主かと・・・

 

最後の画像がいい香りを放つ境内の蝋梅。

ただし何故か昨秋落葉せず。よって花がハッキリ見えません。香りとともに目でも楽しめる春の定番なのに・・・

 

 

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2023年

1月

12日

松應寺横丁と聖徳太子信仰 エ〇バが来りて 仏怒る

数年ぶりに嘔吐七転八倒病(原因不明)が、どうやら速攻快癒した頃合いに布団から抜け出してこれを記しています。

前回その症状になったのは5~6年前か。

一番に酷かった時は今は亡き寿桂尼(ネコ)が私のその態様を目のあたりにして、狂気の野獣と化して、介抱しようとする奥方を嫌というほど噛みついて引っかき、病院送りにしたことですが、それがきっかけで寿桂尼は半年あまりのケージ生活となって前歯抜歯の処置という憂き目にあっています。

 

温和なネコを獣の狂気に駆り立ててしまうその病様は強烈な頭痛としばらくたってからの嘔吐ですが、要は必ずと言って食事後のこと。

奥方は「食あたり」といいますが、脳溢血の前兆の如く(想像)の激しい頭痛と、その「対応」のために慌ててドタバタする様子に彼女(寿桂尼)は世の終わりを惹起したのかも知れません。

 

この数年に一度の変てこな症状は自宅・出先関わらず突然発生します。20年近く前で起こったそれは「奥の墓道氏」と長篠城からの帰途、運転中に起きたことが思い出されます。

前兆として頭痛から。波打つように打ちだしてじわじわと激しくなります。

彼が最寄りのドラッグストアに痛み止めを購入に走ってくれましたがその服用がきっかけになるのか爆発的な一連の「症状」が起こるワケで・・・

そしてその起因しているであろう何かは「満腹+α」です。

おそらくその「α」とは精神的なモノかウィルスのような病変がでしょう。

 

この日は精神的に久し振りに高揚させられた事案がありました。

境内にてちょっとした作業中に見知らぬ二人の女性が訪れて、私に「お寺の方ですね・・・」と投げかけてきました。

まず初めて寺を訪れる方は私を無視あるいは形式的な会釈をして庫裏の玄関に向かうというのが行動パターンですのであきらかに「違う」を察知。

事前に何かの情報を得て、何かの覚悟のようなものを感じました。

 

すると「ご存知だとは思いますが」と前置きして「菅山のエ〇バ」ですが・・・と切り出しました。

例の二人組、いつもの肝試しで、まともにはお話が成立しない御仁でした。

私はお話が平行線で接点は見いだせないし、「貴方方には何か得るものがあろうと思っての会話としようとしているのかも知れないが、私にとっては不毛の時間」である旨を伝えました。

 

主に前に立って話を進めようとするのが若めの人、後ろでそれを見守るのがベテランという態勢ですから、システムとしては若手成長のためのトレーニングなのでしょう。

よって、そのコンビの受け持ち(トレーニング)エリアが「今年はココ」という具合になったたけの話で、私はその犠牲者。

 

私は何より平日の真昼間にそのようなカタチで他人様の家に押し掛けて相手の様子をも考えずに説教をたれるという「自らのみのやった感」の成就の姿に、「あなた方と家族が心配だよ・・・」と言い放ちました。

 

まぁ相手の目的を遂げさせることも癪でしたが一方的に私ばかり話すのもフェアではないので「何かあるか」問えば、後ろにいたベテランが「神は○○なのです」と、その信仰の主役たる抽象を主語にして断定の語でその数種の○○を散りばめて話だしました。チンプンカンプンなのですよ。

理由を述べないものなので・・・。要はマンガの中なのです。

 

その中で「滅亡」という語を入れてきたことに改めてイラっときてしまいました。

それにしても新興宗教必須の勧誘アイテム。大衆に不安を扇るような語を入れたがりますね。

地獄とか悪魔・サタンだとかの語と同類です。

 

奥方は、不毛の時間と分かっていて「何故につき合うのだ、お人よし、アホですか?」。それなら「阿弥陀様は○○です」と言い返してやれと。

実はそこから私の吐き気が始まっていたのでした。

如来様の前にして「そんなバカッ話 聞いてんじゃねぇよ」とばかりに一部始終を見ていた檀家さんが「うちにも来るよ、仏教だからと言って早々に帰ってもらうが・・・(相手にしてんじゃねぇよ)」。

 

宗教二世の困惑、よくわかります。社会性無さすぎ。すべて自分らが上で何もかも知っているの風。

 

さて、廣忠墓所の岡崎松應寺はその門前にミニ寺内町を思わす「松應寺横丁」なるアーケード状のものが迎えてくれます。

その脇道には太子堂がありました。

がっしりした出で立ちで大振りです。

こちらでも独特な太子信仰がありました。

 

 

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2023年

1月

11日

供出はセーフ岡崎松應寺梵鐘 女墓場から大岳山の富士

冷たい風が吹きまくる昨日は、長さ5m弱のブロック塀のハツリ作業にかかりました。

木塀に変更しようと思いついてのことでしたがたった2段の撤去でへこたれました。

トップにはブロック塀にありがちな笠状の部材が付いていますのでそれだけでも取り去っていれば面に木を貼り付けて木塀の如く完成することもできましょう。

そもそも全てのブロックを撤去したとしても軽トラに積み切らない(車載オーバー)ということにも気が付いたワケです。

 

何しろハンマー・大ハンマーを振り回しての作業、ヘロヘロに疲れたというのが一番の途中放棄の理由。

 

私設業者の処理場に持ち込めばかなり搬入が厳しくなったようで受付のお嬢さんから「(産業廃棄物の搬入は)個人はダメよ・・・」と断られてしまいました。

そこでしつこく、「毎度解体工事で御社に世話になっている大澤寺で~す。その時出たガラも少々混ざっているので何とかタノム・・・」とお願い。

するとしばらくして何とかOKが出ました。

一瞬頭の中が真っ白になったほど。

折角積んだガラを持ち戻って下ろすなど・・・軽トラはまた別の運搬作業が待っていますので。

しかし体は痛いし心底冷えるし・・・辛い作業でした。

 

奥方にその一連のドタバタを話すと「まず素人はブロック塀の解体はやらないし、処理場に持ち込むこともしないだろう」よって「アホ」なのだとのこと。

あとはのんびりと思案、どう工作しようか・・・

 

さて、松應寺(昨日)には供出を免れたという梵鐘がありました。

私は心が狭いというか、あの政府の愚策、金属類回収令によって「助かった」の梵鐘の例を目の前にするとついつい「ズルイ」と感じてしまう私がいます。

「セーフ」だった例を見ていて、まずそれは一貫性はありません。名目上「貴重な文化遺産」の場合はその供出を逃れる理由にはなりますが、要はコネクションと折衝力。

たまたま顔の利く役人の知り合いが居て、やはりしつこくお願いすれば何とかなった例は他にもありました。室町期鋳造で溶かされた鐘は山ほどありますからね。

 

ちなみに拙寺の梵鐘は既報の通り、供出させられて溶鉱炉へ。

この国は明治の廃仏毀釈といい金属類回収令といい信じられないような愚策を「思い付き」で出すという前科がありますからね。

そんなことを思いながらその梵鐘を見上げました。

 

大き目の五輪塔は江戸初期のもの。

どういった由来か不詳です。

 

①②③図は友人の「女墓場放浪記」から今年の第一回目のお山。大岳山とのこと。

ついつい富士山を撮ってしまうのは私と同じ。

しかしこの寒いのに「よくやるよ・・・」

 

私は熱めの風呂にザブンと即極楽が待っていますからね。

山は登れば降りなくてはなりませんし降りてから帰宅する間がまた辛い。

 

 

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2023年

1月

10日

松平廣忠墓所 岡崎松應寺

天気良好で気温も上昇気味。

法務はありませんでしたから一日中庫裏に籠ってすごしました。

左足の痛みが続いていますので気張って外仕事をする気にもなれず、奥方から数日前から指摘されていた客用男子トイレのトラブルについて点検に。水を流すボタンが「押せなくなった」の件ですが、パーツを取り寄せるために型番を写メしようとスマホとソフトハンマーを持ってトイレへ。

まずはハンマーでポンと叩いてみればただそれだけでスグに改善。固着していただけでした。

ということで何もやることナシ。

クロサワの「影武者」を久しぶりに視聴。

時代考証無茶苦茶(特に石垣の天守閣等)ながら重厚実写本格派。

配役をアイドルで固め、見え見えCGカットのいかにも軽量ホームドラマとはその雰囲気を異にしていました。

決して「悪い!!」とは言っていませんよ・・・

 

さて、昨日のつづき廣忠の菩提寺松應寺。

廣忠の廟といわれる墓域があります。

古い時代の「土饅頭」墓のカタチを継承しているのでしょうね。

 

家康時代よりも廣忠やその父清康あたりの国衆松平時代の三河を大河ドラマにしてもそれはまた面白いでしょうね。

岡崎ではなく安城が主役の地。

ただし信長や秀吉、信玄に義元の配役はありませんから、若向きを狙った視聴率は稼げないでしょうね。

若くして家臣に殺される非業、ヒーロー物語には向かないのかも。

 

 

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2023年

1月

09日

災厲不起 國豐民安 兵戈無用 三河岡崎松應寺

天気良好で無風。

日向にあれば何とも心地よき日。

しかしながら本堂内の気温は法要前準備の際は6℃でした。

そのギャップについて一般の人には理解しがたいところですので(どちらのお宅も家の中は暖かい)、そのあたりのことを念押しさせていただきました。

 

最近はご時節がらといいましょうか、ご自宅仏間での「ご挨拶」については控えさせていただいていましたが、その日は、家族だけの少人数ということで伺わせていただきこれから催される本法要についてその旨を伝えたということです。

見た所、子供は薄着。その調子で来られて風邪でもひかれたらこの時期大変です。

子供にとってあの時間は精神的にも苦痛でしょうから、免疫力も低下するはずです。

 

よってマフラーにコートを着込んで入堂、脱がなくても「まったくOK!!」を告げました。

「暑かったら脱げばいい」ということです。

女性はひざ掛けを持参されていました。

依頼を受ける際、命日に合わせてこの時期1~2月に拘る必要はなく、「温かくなってからでも・・・」とは付け加えています。

先日の葬儀の方も「それは大いに有難い」とのことでした。

 

さて、今年は岡崎が主役。

地名としては浜松が準。そして静岡はおしるし程度・・・という感じでしょうか。

その岡崎で家康絡みの寺は数ある中、家康自身の手で創建されたのがこちらのお寺。

父廣忠の菩提を弔うためにつくられた寺ですが、寺号に「松」が付けられているところその拘りがあります(こちら)。

 

寺の掲示板に「災厲不起」とありました。

無量寿経からですね 。

表題の「災厲不起 國豐民安 兵戈無用」はその経典からですが、これまでブログでは「國豐民安 兵戈無用(ポスター)」について記していました。そのたびに以下の件を記していますが今一度。

 

「(仏が歩み行かれるところは)国も町も村もその教えに導かれないところはない。

 

そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである」

 

以前はその「災厲不起」については当たり前のこととして、その有難さについて気にも留めた事がありませんでしたが、いざ、疫病が起こって本来の自然の姿から離れる日々が続くと、ハッと気づかされるのです。

こういった文言に触れてきた仏の教えを長年受けてきた私たちですが・・・どうでしょうか。

 

しかし太陽・月の輝きと風、そして災害に疫癘は「自然」(じねん)のことで、昨日と同様「おまかせ」ですが・・・人為のいろいろはちょっと・・・困った世界です。日本も含めて・・・

 

 

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2023年

1月

08日

富士川左岸の富士山眺望は絶妙高原城 残念もそんなもの

お天気の具合こそ自然(じねん)のこと「おまかせ」するほかはありませんが、昨日の晴れは本当に本当に有難かったです。

私だけでなく縁者・参拝者とも異口同音。

先般触れました通り、昨年大晦日の晩に逝去された方の葬儀が執り行われました。

施設にてコロナに感染したあと回復したものの肺炎をこじらせて衰弱してしまったとのこと。

やはり最期は食事が喉を通らなくなって点滴も「入らなかった」といいます。

 

コロナ感染から時間を経ていると、因果関係としては「コロナにさえかからなければ・・・」という思いが家族縁者にはあるものの、ただの肺炎というある意味別の疾患がその死因とされてしまうのでしょうね。

昨日も静岡県は新規陽性者9475名との新記録を打ち立てていましたが体力的にウィルスに対抗できない年齢となるとその原因が肺炎という病に置き換わってしまうのでした。

 

絶対的生命維持の元、「呼吸維持装置」である肺がヤラれてしまうのですが、私が知らないうち無意識のうちにその呼吸が「できる」という「おかげさま」、ここでも感じます。

 

 

仏前に添えられたあんパンからその人柄が浮かばれるというもの。やはり息子さんもそうだといいますが甘いものが大好きだったとのこと。

私の母もその趣向によって糖尿病になったほど。私もそれを受け継いでいますのでそのあんパンには親しみを感じました。

 

友引と年始休日が重なってその日まで繰り延べとなっていた葬儀でしたが週間天気予報では直前までその日だけ雨か雪、高速道路の凍結なども予想させる悪天になっていました。

ところが当日になってみると青空が広がって富士山くっきり。デカイことデカイこと。

それもそのはず会場は富士でした。

開式まで余裕があったため(遠隔地は相当余裕をもって会場近くにのり込みます)私は東名富士SAのスマートETCで降りてから富士川を渡って一旦北上しました。

 

私が寄り道してその富士を見やるに寄った場所は「星の郷高齢者生活福祉センター」。富士宮市星山という地になります。

近くには高原荘なる特養施設がありますが元はこの地はその「高原」だったのではないでしょうか・・・

一般にありがちなそれとは異にしてもともとあった城郭の名称が「高原」。

その高原城があった場所こそがその「星の郷高齢者生活福祉セ

ンター」ということになります。

 

「星の郷」とは如何にもキラキラ風名称ですね。

私はその富士の図を撮影できればと思って立ち寄りましたがその丘は施設の建築によって元の様子は跡形もなし。

ただかつてのそれを想像するだけですね。

 

富士川左岸の河岸段丘、富士山麓側の平坦部に対面する緩やかな斜面のトップにある城郭跡と見ます。

その反対側(西側)はかなり急な崖になっています。

裏側には学校施設があってそちらからも遺構の存在を確認することはできません。

掲示板も無くただ想像するのみですが、しっかりとあの「城郭大系 その他の城郭」にさらりと記されています。

富士宮市には1つだけ。

当時の地名は富士宮市上高原になっています。

 

96高原城 

「城主鷲巣駿河守の名が伝わるが、不詳。烽火台か」と。

 

画像①②は施設北東側からの富士。

上記の如くそちらを主郭とすれば③④は搦手側でしょうか。

土塁の様でただの造成地。

城郭ブームにあってこれだけの富士の眺望は観光資源となりうるものですが、今となってはすべて遅し。

 

 

 

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2023年

1月

07日

氏真も寿桂尼も亡くなって舞鶴殿ご案内 島田市博物館

国内年末年始の人流によってコロナ感染者、静岡で8471人、死者数も15人/1日でともに過去最高。全国の死者も456人で過去最高。

「経済を廻す」を合言葉に尻腰を押されてノー天気で遊び歩いたツケの支払いの請求がやってきたよう。

経済というものは廻しても止めても「人を殺す」のですね。

ウィズコロナの大合唱、死する人もいること、忘れないで。

 

先日も記しましたが私の叔母などコロナ陽性判定にもかかわらずまったく症状が出ないという人もあれば、重篤状態を経て死するなどまったくもって人によってその結論はまちまち。

不思議でなりませんね。

よく言われる、他の病変保有による免疫力低下がその脆弱性に繋がっているところは、わかりますが結局は運・不運というもので違うということでしょうか。その「0か1」(死か生か)の境界線はまさに人智を超えています。

 

一昨日視聴したNHK番組では「一番におバカなウィルスに、人間界一番にお利口なウィルス学者が敵わない」のようなことを言っていました・・・絶対にそうなのでしょうね・・・

ウィルス終息とか克服とやら、それもまたただ「まかせる」他はありませんね。

 

昨日お聞きした話では遠隔地に帰省したあと子供二人のうち上の子が年末に発症。仕方なく1週間「隔離部屋」に付き合って一緒にすごしたそう。

1週間が過ぎようとする時今度は下の子が39度超えの高熱。

陽性につき再び隔離部屋での生活となったという不運。その方は症状が出なかったそうですがあきらかに子供の感染が増えているような。

他にもその家には各兄弟家族が10人以上が集まっていたそうですがまず殆どの子供が(最年少が一歳児)感染したとのこと。

そんなとき免疫力が低下しているどなたかが発症し重篤症状となるのか・・・今、疲れと冷え・・・禁物です。勿論持病のある方は特に・・・

 

先般、地元のある歴史通の方から、古民家の物件が出たので「見学に・・・」とお誘いを受けたのですが私は都合が合わずにパスさせていただきました。

するとその方が「コロナになった」との報が別の方から伝えられました。

その見学会に一緒した方が発症したため濃厚接触者として検査、陽性が判明したそうで、現状症状はないとのことですが私の今の思いはハッキリ言って「セーフ!!!」の安堵。

週末3件の法事をドタキャンしなくてはならないところでした。

当月は今のところ予約4件の中ですからね。

 

いずれにせよどう転ぶかわかりません。

「いつかは私も・・・」ではありますが、私の対抗力(免疫力)十分につき「うまいことやり過ごしたい」の一途なる気持ち。

しかし高をくくれば足を掬われる・・・

引き締めていきましょう。

 

さて、当家の古株ネコの氏真と寿桂尼が天寿を全うしてしばらく、懸案だった外ネコ舞鶴殿を家猫に昇格させました。

ふっと報恩講の日中に現れて4年と少々、夜間は玄関に入れたものの、殆ど境内生活を満喫していたわけですがその生活は昨日でおしまいにさせました。そもそも「ネコは家の中で」というのが社会の暗黙ルールですからね。

彼女としては家猫昇格は念願だったようで今はストーブの前で爆睡しています。

 

家にいれた理由は、最近特性のスープ流動食以外のカリカリ等固形物を食べなくなって痩せてきたことと、厳冬期の外生活は厳しい・・・の配慮です。

食べなくなったことは気になりますので昨日獣医に診てもらったところ、「酷い歯肉炎」との診断。

薬を5日分処方されて様子見です。

「それでダメなら歯を全部抜く」とのことでした。

ちなみにネコは歯が無くても問題ないとのこと。

歯磨きをしないで4年と少々(当たり前ですが)、そういった病になるのは人間も同じでしょうね。

 

今後の家での生活のためにネコエイズと白血病、腎臓の検査を行い歯肉炎以外すべてパス。晴れて家猫舞鶴殿となりました。

爪を初めて切られて、やはり初めての入浴。

そもそも彼女が登場して以来家猫先輩たちはその存在を網戸越しで承知していますので、今のところ何ら違和感なく過ごしています。「なんだお前か・・・」の如く。

問題は外世界への未練でしょうか。

 

最期の画像が島田市博物館の企画展。

久々に行ってみようか・・・

 

 

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2023年

1月

06日

「遠州掛川広楽寺へ所払い」「遠山桜 天保日記」から

昨日も色々な話がありました。

「母子家庭」の過酷にめげず日々奮闘、3人+1人(祖父母宅に)の子供たちを養う強いお母さんの件、縷々。夫は子供4人を残し若くして亡くなりました。

私の記す泣き言の数々はみみっちすぎますね。

今一番に不安なのは老後のことだといいます。

 

「うちは貧乏だからね」を口癖にして3人の子供たちに「我慢」を強いていたことから子供たちが学校でその「うちは貧乏」を友人たちに話していたことには恥ずかしい思いをさせられたと。

今年は進学先(大学)が一人決まって入学金の出費は「殊に痺れる」とのこと。

進学の目出度さ=緊急事態となっているようです。

今、アルバイトに行っているそうですが、自動車免許の取得は自分で稼いで何とかしてくれないと困る・・・と。

 

そして相良のタクシーがらみの話2つ。

正月は息子たちとその友人が家に帰省し午前様まで飲み明かすことが恒例になっているという檀家さん。

その友人は相良の民宿に宿をとっているそうで騒ぎがお開きになった際歩いてその宿まで帰るそう。

なぜならその時間帯は既にタクシーはないといいます。

皆酔っぱらって車など出せないことはわかりますが、詫びたくてもタクシーが無いというのは驚きでした。

以前は必ず1~2台は待機していたものですからね。

今は利用者が少ないということで夜間営業はやめてしまったのでしょう。コロナの影響なのかド田舎なのか・・・両方でしょう。

 

そして、免許は返上したという方がお参りに。

タクシー券が市役所から6000円分?送られてきたといいます。

聞けばそれは毎年ではなくて「返上した年だけだよ」と聞いて「へ~え ケチだねぇ」と溜息。

「それじゃあ車は放せない、(免許)返さない」と躊躇することになりますね。

このド田舎、足がなければ生活ができません。

 

自家用車慣れしている私などバスなど乗る気になれませんからね。バスなど頗る不便になっていることですし・・・

その方はこれからそのタクシー券を使って帰宅するというので「そりゃ勿体ない」といって自宅までお送りさせていただきました。片道「1300円かかる」と仰っていいましたから2往復しておしまい・・・。

 

さて、昨日は吉祥寺の叔父からメールが。

国立劇場の新春の菊五郎ファミリーを観てきたと。

コロナ感染爆発も叔父は平チャラの様です。

「遠山桜 天保日記」。

竹柴其水作の明治の新作歌舞伎ですが菊五郎の北町奉行遠山金四郎の名裁きのセリフのなかに「広楽寺が出て来たよ・・・」と。

罪人に

「遠州掛川広楽寺へ所払い」との文言だったとのこと。

菩提寺の名をセリフに登場させるサービスがあったのだろう・・・と。

 

広楽寺についてはこちら(またはこちら こちら)。

 

あらためて広楽寺のHPを検索するとキレイで立派なものに仕上がっていました。

しかし宝物が豊富だということにまた驚かされました。

画像上段は広楽寺のHPから。ほんの一部をコピーさせていただきました。

 

下段は今川シンポジウム 

「今川館の姿にせまる」2月4日です。

秋野氏にご連絡いただきました。

1月6日から受付開始です。

6時間の長丁場で、私は諦めました。 

 

 

 

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2023年

1月

05日

雅楽を広めた江戸婆さん 蓮如さんと浅井後室 宿縁寺 

朝から風ナシの快適。昨日は大晦日の「宴の跡」の散らかった境内の片づけをようやく始めました。

溜まっていた花ガラも4袋処理場に搬入。

さすが、稼働初日だけあって受付や軽量は行列になって思わぬ時間を掛けましたがスッキリさせました。

だいたい予想はしていましたが、花ガラの袋が無いために早いところ処理したかったのでした。雨でも降られたら酷いですし。

 

「実は・・・の神妙」の件(昨日)、口頭会話の中だけではありませんでした。

戴いた年賀状からですね。

今回にて例年賀正の挨拶は仕舞にする旨と「前年2月に脳溢血で倒れて・・・」の「実は・・・」を知らされたのでした。

やはり厳冬期にありがちな疾病でした。

今はリハビリの苦難を乗り越え、自宅ですごされているとのことでしたが医師からは車の運転を止められ相良に行くことはもはやできなくなったとのことでした。

本当に寂しい情報多し・・・「いいことばかりはありゃしない・・・」

(人が病に倒れることは)「わかっちゃいるけど・・・」です。

顔が見えなくなった檀家さんの数・・・今年は特筆。

 

さて、宿縁寺。

そのお寺に伝わるご門徒さんの墓が本堂の正面西側にありました。

 

寺には長い歴史の中それぞれ大きな功・徳を労う方たちがいて、そういう方たちとともに寺があるということです。

 

 

 

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2023年

1月

04日

花は春ごとに 開くぞかし 宿縁寺 

昨日の「実は・・・」の神妙、は先月下旬に脳溢血で倒れて、医師より「あと一カ月」の宣告を受けた方の件。

年初から久々にあう方の口からでるその(家族の)近況というものは結構にシビアです。

時間、インターバルが如何に変化というものを招き、それがまた恐怖であることを感じます。

また、一昨日聞いた「寒さ」を原因とする病変もそうですが、先月は冷え込みが急で身体の対応が追い付かなかったのかも知れません。得体の知れぬウィルスの蔓延もあったでしょうね。

例年にない正月の有様です。

 

また94歳バリバリ、今年も「車を運転して来た」という方とご挨拶。自宅には娘の孫子が集まって「賑やか」だそう。

嬉しそうでした。

そんな大切な時間の中お寺にお参りに来られたことに私も嬉しくなりました。

ちなみに曾孫の数を聞いてみると13人。

お年玉に「10万円+αの出費を覚悟」とのことでした。

長生きにつき仕合わせ・・・ということは言うまでもないところですが、やはりおカネも必要だということか。

 

昨晩は再放送の「立花隆 最後の旅」を視聴。再視聴です。

正月は再放送ばかり、その中で消去法。

癌を患うようになって以降、彼なりの生死観が醸成されていったのでしょうがやはりどうしてもそこのところ、私には違和感しかありませんでした。

知を求め続けた立花氏が「死んだらどうなる」の解を求めようとしたところ、特に。

そこから「無・・・ゴミ」という結論に至ったように感じます。

私には人類の進化だとか、知の循環だとか、それこそ深く探究していこうなどの気は起りません。

 

宗教と哲学を度外視した超が付く勉強家故の立花氏の在り方を垣間見たところですが、「人の死」についてなど「阿弥陀さんにまかせておけばイイ」、「考える必要なし・・・」「知る必要もなし(いや、わからない・・・) 」というのが私のいつもの思量するところ。

私が死した後も春には桜が忘れずに開くもの・・・。当たり前のように。

それが自然(じねん)です。

人類の存在、存続すら危ぶまれている世界と日本、その永遠など心を振るなど私には無理。

 

画像は昨日と同じ宿縁寺、岡崎城移築二の門の奥、枝垂桜と宿縁寺堂内阿弥陀如来。堂内にテーブルが設置されていましたが、これまで見てきた各寺院堂内で初めてのこと。

たまたま講習会等が催されたあとだったのか、テーブルがあるというのは便利です。ただし、人員が限定されてしまいますね。

片づける場所も必要です。

 

 

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2023年

1月

03日

岡崎城薬医門 ( 二の門 北門 ) 宿縁寺 

昨日もあの「実は・・・」の件、切れ目なく続いています。

グランドゴルフ中に倒れて119搬送された方。

「何とか1週間の入院だけで・・・」とその良き巡り合わせについて語っていました。

後遺症もなくいつもと同じ生活に戻れたということは有難いこと。

深く、その病気についてはお聞きしませんでしたがよくありがちな脳溢血の類ではなかったよう。

言ってみればめでたい話ではありました。

その方のお話の中からその結論として「寒さが原因だろう」とのこと。

 

12月は例年より相当の急な冷え込みを感じさせられましたからね。体の方もついて行けなくなるでしょう。

「付き合っちゃあいられない」という具合に。

こちとら存分に齢を重ねているので「いつまでも大丈夫というワケにはいかない」ということです。

よって「暖かくして・・・」がポイントとなるかと。

「寒い」と思うこと・・・血圧上昇のサインですね。

 

酒をやめることに成功しつつある(約3カ月)方の奥さんが来られました。

「今回はホントにうまくいくような気がする」とのことでした。

これまでは冷蔵庫に断酒宣言の紙切れを貼ったり破いたりの繰り返しだったそうですが、風呂好きで(おそらく酒を飲んで)

「1時間かけて入浴中寝る」とのこと。

ある檀家さんが夜中にトイレから出て昏倒し、119という例を知りましたが、厳冬期の家庭内超リスキーな場が①風呂場と②トイレですからね。そこに入る際は覚悟というものが必要です。

ちなみに3番目は玄関でしょうか。

先般記しましたが私はその玄関でスリップして思い切りダイビング、足を負傷しました。

 

了見寺の堀住職が亡くなったのは庫裏玄関で転倒した際、頭を強打したのが原因といいます。

④は庭仕事等での落下事案でしょうか。

昨日は「もう脚立には上がらない」宣言をしていた方もいらっしゃいました。

治療のための入院による筋力減少がこれからの人生にとっての致命的原因となります。

治療後のリハビリに伴う大きな苦労は誰もが口にするところですね。

 

その辛いリハビリをサボって足が固定してしまった例といえば、奥方の父上でした。

病院に行ったとしてもそこで長居しないこと・・・。

(さっさと帰宅する)それほどの幸運はないでしょうね。

 

さて、昨日の宿縁寺

こちらの山門が移築された岡崎城二の門(薬医門)になります。

明治政府の廃城令の流れでそうなったのですが、薪にされなかっただけこの門は恵まれています。

払い下げによってたくさんの遺産が壊されてしまいました。

廃仏毀釈と同様であまりにも間抜けな政治。

今でも地団太を踏みたくなるような「愚」が多く見受けられました。

先日は掛川城の移築門を記しましたが、そちらは掛川市内、城址とも目と鼻の先。

こちらは自治体違い西尾市になります。

 

 

 

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2023年

1月

02日

築地塀に埋め込まれた石臼「仏様とは」 宿縁寺 

庫裏に引き籠ったまま、まる1日すごしました。

大晦日の片づけは後回し、とりあえずしばらく放置です。

ひき続きたくさんの檀家さんとお会いしましたがやはり昨日同様「実は・・・」と切り出す方はいらっしゃって、その方との交流の懐かしさが思い起こされました。

「歳は越せないとは思っていたが・・・そろそろタノム」でしたので。

 

そしてまた、昨日最大の「実は・・・」は大晦日の夜、年が変わる前にご家族が逝去されたという報が入ったこと。

静岡東部の斎場へ遠征することになりますが、どちらでもこの時節同様でしょう「混みあっている」とのことで日延べになっています。

「おめでとう」などと暢気な事を言っている場合ではないくらい煩忙をきわめている家庭もあるのでした。

ただ気づいていないだけ。

 

たくさんの皆さんとお話する機会に出あうこの時期ですが、ある事情通の方から、「なるほど」と合点させられることを聞きました。

「NHK大河ドラマはコロナと予算の関係で合戦画像は撮らない」そう。諏訪原城の復元された門やら堀などを角度を変えて撮影、それを背景にしてCG合成したり、精密画彩で演出する法」になるといいます。

三方ヶ原などクロサワのような画像はもはや見られないのでしょうね。

 

昨晩はNHK「歴史探偵」を視聴しましたが驚かされました。

当ブログでもお世話になっている「がつお氏」とは・・・

番組内容について事前承知しているが如く。

本證寺の本多正信供養塔の件と伊賀越え改め「甲賀越え」の示唆・・・(ブログ「渡城」にて)

 

さて、木戸城のある矢作川西岸のお向かい辺りの地は西尾市の西浅井と言う地。

宿縁寺という真宗大谷派のお寺ですがご住職の姓は織田さんですね(場所はこちら)。

ちなみに先日記した安養寺は大河内さんでした。

一般的にさほど多くなく、かつ歴史に登場することがよくある聞き覚えある名です。

 

年初ということで基本に帰って「仏様とは~」などシンプルな質問に対する回答が記された額をその宿縁寺で見かけましたのでそちらを。

 

門徒寺においては一向専念無量寿仏・・・阿弥陀一佛。

 

拙寺では石臼は埋めていますが、壁に埋め込むとは・・・オシャレです。

 

 

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2023年

1月

01日

やっつけ仕事も人生も随時修正肝心

なんとか「やっつけた感」ある大晦日。

昨日以上に風もなく穏やかな一日でした。

もたもたしていればまた同じように「やっつけ」準備となるのでしょうが、次にやっつけられるのは私では・・・とも思います。

漫然と「年越し」となりますが、それはホント有難いこと。

「あることがむずかしい」こと嚙み締めて手を合わせて感謝しなくてはならないものです。

 

その日は超繁忙の中ですが、たくさんの方からご挨拶を戴きます。

「最近の日常」についてすべての方たちから聞くことはできませんが、たまたま時間があっての会話は神妙な件ばかりというのが年の最終日の事情なのでしょうか。

 

「実はお爺さんが・・・」「お婆さんが・・・」「親戚が・・・」「私が・・・」中には「息子が、娘が」と主語が変わります。

我ら人間の道は難所だらけで一切が無常と、ネガティブなところばかりを日々吹聴していますが、だからと言って捨てたものではありません。

これまでまずまずの人生を歩んできたからと思量します。

 

ただ寂しいことですが決められた「その時」が確実に近づいて今、迫っているということでしょう。

淡々と受け入れる他はないのでしょうが・・・。

ただ「それまで」を力強く生きたいものですが「既に食べ物を受け付けなくなった」という末期の症状を聞かされた時は特にショック大なるものがありました。

 

私は本年で住職を継承して18年になりますが、どちらの皆さんもこれまで世話になった知った顔ばかり。

「次は私」は確実に思うところです。

「老少のへだてなし」 (白骨)・・・

 

①は親鸞さんの前、待ちぼうけの福ちゃん。鐘の音が怖い・・・

②テントと風よけシートで囲んだの急造の受付カウンター。

中は暖かく昼過ぎには酒場に早変わり。

こういった境内酒宴の状況も確実に変わっていて、「もう飲まない」「やめた」という方が増えました。

以前は「たしなむ程度」などの弁もありましたが、今はハッキリ、強い意志というものが見られます。齢による自身変化について適応しようとする姿。

奥さんからのキツイお達しがあるような。

④は「なにやってるの!!」とばかりに奥さんの急襲を受けた図か・・・

 

「今日の朝は家族に送ってもらった」という檀家さんから、片づけのあと、家まで送る旨伝えたところ、「タクシーで帰るから結構」と。

それでは申し訳ないとキーを取りに戻ろうとすると「実は寄らなくてはならない場所がある」と強く辞退されました。

これ以上言うのは野暮と思い、ニヤリとして引き下がりました。

その方は「花屋に行かなくてはならない」と申しておりました。

 

鐘撞大会は無事終了。今のところはコレは修正点ナシ。

駐車場警備員配置はベストな選択でした。

今回、鐘を撞かれた方は名簿だけで225名。

相当数、無記名もあるということで235回くらい・・・。

みなさんご苦労様でした。

そしておつきあいいただきありがとうございました。

 

 

 

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2022年

12月

31日

やっばりでてきた企画もの いつ行くか安城と岡崎

30日は最近にはない穏やかで温かな日。

恵まれています。

除夕鐘の準備が終わってから、のんびりしていると相良仏教会から一斉のlineがありました。

「年末不審者闊歩」の事案です。

どちらのお寺でも師走のこの頃は「心を亡くす」こと (昨日)大概の事ありますね。

神経が他に向けられていることをいいことに本堂、庫裏に入っての「裏働き」です。

 

どちらのお寺もその辺りのかつての苦い思い出はあるようで、その「注意喚起」に呼応していました。

 

昨日の例でいえば、本堂裏の位牌堂で賽銭箱をガタピシ(我他彼此)やっている若い男性がいて、たまたまそこに来た別の檀家さんが「?」といった顔をしたようですがその反応が「いやぁ~鍵を落としちゃって・・・」などなど不審そのもの。賽銭箱に鍵は落としようがないですからね。

被害はなかったようですが、なんともやるせない。

若い子の賽銭泥棒などというとどうしても健常な者とは思えません。まぁかつて老夫婦が賽銭箱を漁っている姿を父が目撃したと言っていましたが、そもそもそのアイテムをゲットしたとしてもまずはその「収穫」は微々たるもの。

正月を超すとはよく言いますが、そういったレベルには至らないもの。特に門徒寺の賽銭箱など期待できるものではありません。位牌堂ならともかく・・・ (拙寺には位牌堂はありません)

 

要は「食」に困っているような人でしたら、「飯でも喰って帰ってもらえば」と奥方にいうと「アレは何の気なしに衝動的にやるもの」。「下手に出くわせば衝動的に刺されるぞ・・・」と。

そんなものか・・・以前、浜名湖畔のお寺で起こった惨事が思い出されます。

 

さて、①安城歴史博物館の特別展と②岡崎教務所に隣接する三河別院で催される家康がらみの展示会二題。

①「家康と一向一揆」 

  2023年2月4日(土)~3月19日(日)

  月曜休み500円

②「家康家臣団と浄土真宗展」

  2023年2月23日(木)~3月8日(水)

   パンフ代200円

 

岡崎教区でも「何かやってくれる」と期待していましたが、昨日そのパンフが郵送されてきました。

勿論私は両展示会とも足を運ぶ予定です。

講演会も是非・・・面白すぎ・・・

 

今年一年ありがとうございました。

 

 

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2022年

12月

30日

心を亡くす 渡行脚の締めは門徒寺にお参り 安養寺

忙しいは「心を亡くす」と記します。

ここのところやらなければならないことが一気に訪れて、昨日はせわしく朝から動きまわっていましたが、ブログのことなど放ったらかしでした。

というかその存在を失念していましたね。

 

拙ブログは日記の如く日々更新。私の消息のようなものでしょうが夕刻に「どうしたの?」なるメールを頂戴していたこと、ようやく気付いたのでした。

そういえば世の中コロナ八波で死者増加。静岡から親類のコロナ罹患の報もありました。

 

「師走」といえばおこがましいものがありますが、この時期になって「私の時間」などはまったくなし。まぁ、それを望むのは贅沢というものですね。

何とか時間をみつけて境内雑務はこなしてきましたが無理なものは無理。もう諦めました。

あとはすべて、やっつけ、思いつき対応で行きましょう。

黙っていればあっという間、すぺてが過ぎていきますからね。

 

そうやってやっつけ後回しの急場しのぎの積み重ねで人生終焉を迎えることは、だいたい知ったところですが。

 

さて、渡地区のぶらつきの中、当然の如く立ち寄ったのは当流の阿弥陀さんのお寺、安養寺。

私の好み、葬儀表白の締めに拝読する御開祖の「御臨末の御書」にも登場する語がそのお寺の名です。

 

ブログでも記していると思いますが

「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも

和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ

一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし

その一人は親鸞なり

我なくも法は尽きまじ和歌の浦

            あおくさ人のあらんかぎりは」

あの「弘長二歳」親鸞さんの遺書ということで・・・

 

私がお邪魔した時は本堂は改修中の様でした。

以前の拙寺の場合は鉄のポールの支えを入れていましたがこれは古い本堂の宿命です。

小屋裏で屋根を支える桔木(はねぎ)や虹梁が朽ちたり劣化すると屋根が落ち込んできます。

屋根を捲っての大工事となりますからカンタンにはいかないところ。

拙寺の場合は大棟が崩れての補修工事の際に修理していただきました(場所はこちら)。

 

 

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2022年

12月

29日

現渡橋 志賀須香の渡し 渡古戦場

大晦日はまずまず、晴れになるよう。

ありがたいことです。

催事(除夕鐘)は淡々とこなして行くだけですがここへ来ていつものスタッフの顔ぶれに異変がちらほら。

腰の手術を控えて動けない、コロナ濃厚接触者になってしまった等々・・・の欠員です。

昨日は近所の檀家さんに焼き芋係のピンチヒッターを依頼に行けば奥さんが「お寺に行くとは言っていたが今風邪で寝込んでいる」と。

「無理はしないでください」と言って帰宅しました。

まぁ、けせらせら。

慌てなくともどうにでもなってしまうでしょう。

駐車場担当に警備会社を依頼していますので境内に集中できますからね。

 

晴れるという確信だけで両ひざを叩けるほど、終わったも同じです。

油断は禁物ですが・・・

 

さて、昨日まで記した「渡」の渡古戦場。

松平家内内紛による戦ですが、鳥居忠吉もその戦いで長男忠宗を亡くしています。

それにより次男は坊さんとなっていたため三男の元忠が家督を継いだということ。四男忠広が成瀬藤蔵との一件「湯水の行水」のお相手。

 

こちらは岡崎市街中心域と結ぶ現在の渡橋近くになりますが、以前は「志賀須香の渡し」と呼ばれていたよう(場所はこちら)。

古戦場の正確な位置も違っているとのこと。

 

 

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2022年

12月

28日

祠の主を覗き見 鳥居の中の仏 渡八幡宮

「正月はそっちでしっかりと御奉公せよ」と息子への相良帰還の件、一蹴。

内心居たら居たで邪魔ですからね。

 

先方のお寺には来春に横浜を退去して遠州に戻ることを告げたそうですから「最期 ご恩に報いよ・・・」ということ。

ホントにこの正月、息子が横浜に居たまま「しっかり」やっているかなど確認のしようがありませんが、まかせるほかありません。まぁ、そこのところ拙寺の次代をまかせる人間として寺の顔があるわけで今の私の体裁というものを気にしたワケです。

その私がいつも「体裁なんて」「作法なんて」と堅苦しいことに対して小ばかにしているのですから、おかしなものです。

ド田舎の無知な坊主でかまいません。

 

彼の遠州下向後の計画は一応あるようですが、そう簡単に思う通りに行くものかどうか。予定は未定、しばしば頓挫するもの。

どちらにせよ近くに来てくれるのならスムーズな交代もできるというもの、悪い話ではありませんね。

妙に泣き言が増えてきたこともあります・・・

 

昨日も火葬場の職員さんに、足を引きずって歩いているところを目撃されて、指摘を受けたところでしたすが、痛い足を庇って歩くことから逆側の膝の違和感が出現、今、そこいらじゅうの関節系ボロボロの感。

その際、その方に「仕事の方はどう・・・」と切り返しました。

すると30日まで超繁忙とのことでした。

30日の最終日には9番(通常最終は1345受付の7番)まで予定はいれてあるそうですが、「おそらく入るだろう」とのこと。

 

12/31と1/1の二日間は休業ですから、きっと今どちらかで亡くなったとすれば年越しは間違いないでしょうね。

それもやはり順番ですから、この火葬場ラッシュが通常に戻るまでは年初から数日はかかるでしょうね。

さすがに中国の如く報じられる「火葬場渋滞」にはなりませんが、ご担当は2日の正月休みのみでフル操業とはなんともハードなお仕事。

やはりこの時期の繁忙は、寒さとコロナとインフルが交錯して人間の体に悪さをしているように感じます。

免疫力を維持するために私は「よく食べ よく眠る」を心がけています。

 

そして、昨日は2件の情報を得ました

がつお氏より1/1のNHK「どうする家康コラボスペシャル」番組の件。本證寺が取材を受けているとのことでした。

②「お祭り~」さんからは平山優著「新説 家康と三方原合戦」

からそれを読み進むと、「さらに成瀬藤蔵の名が」と。

 

どちらも年明けの楽しみとしましょう。

あと数日となりました。

ただしいつも記していると思いますが一休さんから・・・

 

  「門松は 冥途の旅の 一里塚

          めでたくもあり めでたくもなし」

 

今年は例年より少々多めのお弔いに同座いたしました。

年が明けて「めでたい」などいう浮かれた気持ちにはさらさらなれませんね。

ただでさえ軽い坊主が空を舞うことになります。

 

さて、昨日記した鳥居の渡城近く。

その街区の隅に村社渡八幡宮があります(場所はこちら)。

鳥居がその結界を顕していますが掲示板には大日如来の懸仏があるといいます。

まぁ見ることはできないだろうな・・・と社殿等覗見しますが、脇の祠に前掛け着用の石仏が鎮座しているところとご対面。

持ち物や印についてその前掛けが邪魔で伺い知ることはできませんが、おそらく阿弥陀さんでしょうね。

 

大日如来には会えませんでしたが私はこちらで十分。

合掌してお別れしたというところ。

この時はガッシリしめ縄があって扉を開けることが難しかったため諦めましたが、この手の事になると人目をはばからず、勝手に「御開帳」して、その赤いヤツをはぎ取って確認するものですが。

 

神仏習合の社、昔ながらの混在は結構に面白い。

最期の画像のバックが昨日の画像にあった東海道線高架。

 

 

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2022年

12月

27日

「渡」は矢作川を渡った裕福な里 家康の忠臣 渡城 

昨日お話した方は安城市在住の方。

チャキチャキの三河門徒ということで一向一揆について話しだせば「3時間でも足りない」といいます。

 

その主張を概略羅列させていただけば・・・

①一向一揆について理解し語ることができるのは今や安城のみ②浄土真宗門徒の人以外は信用しない

③徳川家康は大嫌い

④大河ドラマなんて「ただのドラマ」(バカバカしい・・・)

 

といった感じだったでしょうか。

パワー漲り、一瞬唖然、過激とも思える一本気。凄い・・・

浄土真宗愛というものが感じられ何とも好感の持てる方でした。

そういう方がおられる事は当流的にも頼もしいことですし、私はあたかも永禄年間の真宗全盛の時代にタイムワープしたような気持ちになりました。

 

上記④については次回大河ドラマで「空誓」の配役が決まったこともあり本證寺が描かれることが「コレで決まった」旨を話そうとしたところの反応ですが至ってクールでした。

 

この空誓の身代わりとなって討死したのが円光寺14代順正

でした。

本證寺空誓が家康に敗北、敗走のシーンが三河一向一揆の終焉として描かれることでしょうから、その派手な立ち回りの演出があるのでしょうね。

 

さて、先日は渡城、鳥居氏発祥の碑について記しましたがそちら から矢作川の土手に向かって歩きます。

⑦画像が鳥居氏発祥の碑前辺りから土手方向を見た図。

⑧が土手の上から振り返った図。

 

その土手の手前に渡城の碑が建っています。

渡は倹約と蓄財上手の廣忠の忠臣鳥居忠吉がいますが、渡の地名は勿論矢作川対岸、「渡った地」からでしょうね。

国内この「渡」の付く地名は「〇〇の向こう側」という地によく見えますね。

 

先ず城郭大系から。

例によって「その他の城郭」でさらっとです。

「渡城 鳥居忠氏築城 鳥居氏紀州より来て代々居城」とありました。

元はといえば熊野新宮別当ということで、家紋は鳥居、氏も鳥居。それでいて永禄年間は浄土真宗との関りがあったといわれる家ですね。

長嶋氏は今の鳥居家本家系、分家一統には「鳥居」氏が各あります。のちに成瀬らと入ったといわれる六名の地にも散見できます。

 

⑨上流方向⑩対岸⑪下流方向。東海道線橋梁が見えます。

成瀬藤蔵の入った木戸城や本證寺はさらに下流になります。

 

 

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2022年

12月

26日

信長公記の三方ヶ原 徳川方では成瀬の名 阿弥陀寺再

先日、朝だけ雨が降った日、外から舞鶴殿が玄関内に戻ったため、あわてて段ボールを玄関に敷いて「ここに上がれ・・・」と濡れた体を「やれやれ」とため息交じりに拭いてやりながらネコの相手を少々、たたきから上がる際に上履きサンダルを履ききらずに動いたところ、躓きました。その敷かれた段ボールの上に躓いた左足をステップしたところ、さらにその段ボールが滑ってすってんころりん。

思いっきりヘッドスライディングをしたわけです。

そしてサンダルの上部に足の小指が引っ掛かったまま倒れたためどういう具合でよじくれたかのか、今左足の小指と薬指が青黒く腫れています。

 

奥方は以前、私の右足の小指が折れた際のことを思い出して「そりゃ折れてる 医者に行け」と爆笑。

息子にもメールして喜んでいました。

その時は横須賀(神奈川県)の海岸で息子と奥方に「いいか、ここは滑るので十分注意しなさい」と散々注進した直後に私が滑って転んで指が90度外側に開いたということ。それを手で元に戻し、あまりに痛いので診療に行ったところ「そりゃ折れてる」と医者に笑われた件。

今回はネコ関りの左足小指。

痛さは同じながら診療は不要です。

「そりゃ折れてる」と笑われるだけですし。

折れてなければそれでヨシ。

そもそも足の小指の骨折など治療の方法はありません。

肋骨を折った時も「折れてる」と言われて、痛み止めと湿布薬でおしまい。

ただ前回と違うのは夏ではなく指先冷える今だということ。

靴下・足袋を履くだけで痺れる・・・。

昨日は一日中境内作業で冷え切りました。

 

さて、先日のブログで成瀬藤蔵正義の位牌について記しましたが

「お祭り~」さんから平山優著「新説 家康と三方原合戦」を紹介いただきした。

私は足をひきづりながら早速に近場の書店に向いましたが、あいにく欠品中とのこと。

のんびりと本を読む暇はありませんので「まぁいいか・・・」と帰宅しましたが、その書籍は「新説」だけあって面白そう。

「お祭り~」さんからあった「書物に成瀬藤蔵の名が」は「信長公記」からの記述から引っ張ってきたものですね。

 

それをこちらに記せば・・・

 

 

「信長公記 巻五<元亀三年>

 

これは遠州表の事。

霜月下旬、 信玄遠州 二股の城 取巻くの由、注進これあり。

すなわち信長公 御家老の衆 佐久間右衛門佐久間信盛 平手甚左衛門 水野下野守 大将として、御人数 遠州浜 遠州浜松に至り参陣のところに、早や二股の城 攻め落し、その競いに 武田信玄 堀江の城へうち回りたり相働き候。

家康も浜松の城より御人数出だされ、身方ヶ原にて足軽ども取合い、 佐久間 平手をはじめとして懸け付け、互いに人数立ち合い 既に一戦に取り向かう。

武田信玄 水股の者と名付けて三百人ばかり真先に立て、彼等にはつぶてを打たせて、推し大鼓を打ちて、人数かかり来る。

一番合戦に 平手甚左衛門 同家臣の者

家康公の御内衆 成瀬藤蔵 十二月二十二日身方ヶ原にて数輩

討ち死これあり。」

 

信長公記の作者太田牛一が三方ヶ原戦討死の徳川家臣数多ある中、「御内衆 成瀬藤蔵」とただ独り挙げてそれを記している

のでした。

要は他に知っている者が居なかっただけと言ったらそれでおしまいですが、それ以前に信長軍と同調した六角観音寺城攻め志賀の陣姉川に出張っていたことが推測されますので家康家臣団でたまたま知った人の討死を記したということでしょうかね。

 

画像は以前記した阿弥陀寺の信長親子と本能寺討死の家来衆の墓。最近京都から足が遠のいているのとあちらの墓域は私の一押しの墓地でした。

以前の画像は近接しすぎにより。

遠目からのものと灯篭付きで。

古い墓がところせましと並んでいました。

 

 

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2022年

12月

25日

鳥居氏発祥の碑と石塔 岡崎市渡

これだけの寒さと乾燥状態が続いているということは空気感染性のウィルスたちの格好の繁盛活躍の場となっていることが推測できます。

コロナの高い波(第8波)の襲来です。

 

私の妹の旦那は定年後某介護施設の管理責任者に納まっているようですが、その施設ではこの8波でクラスターが発生、入所者の複数が亡くなってしまったそうです。

感染源は職員とのこと。若い連中が持ち込んだ可能性が高いようですが、亡くなった家族からはクレームの一つも出なかったとのこと。

 

こればっかりは「しょうがない」としか落しどころは見つかりません。

「おまかせする」ということで老父母を入所させているのでしょうし、「ここで一つの区切り」(介護生活との決別)と淡々と受け入れたのでしょうね。

 

ある檀家さん宅のルールを聞きました。

「自分の事ができなくなったら」施設での生活になる・・・、を年来約束事としてそれを申し合わせ、相互の了解の元入所の運びとなったそう。

叔母の場合は入所当初は怒り狂って暴れんばかりの状態がありましたがそういった約束事が事前になされていることは素晴らしい。

 

では私、その時「暴れる」か・・・もっとも手に負えなくなったら「萩間川に・・・」を日頃から息子と奥方の口から出ていますが。

まず免許を取り上げる、靴を隠すから始めるとのことです。

 

昨夕も年配者の捜索願いが街区のスピーカーから流れていましたが不明になったのはその前日からだといいます。

24時間以上もの間、暖地の遠州とはいえこの寒さですから外にいたら凍死する可能性は大でしょうね。

服装は軽装は勿論、スリッパ履きで出てしまったそう。

 

法務以外でこの厳冬期に「外に出る」という気持ちはさらさらなれませんし当のご本人は「寒いからやめよう」とはならないのです。

痴ほうが進んでいたりすれば、一般常識は通じないのですからその旨家族はケアしておかないとこの寒い中、協力者に頭を下げながら大捜索に赴くことになります。事後処理も大変そう。

最悪の結末も予想できますが、そうなると事故ではなく警察は事件をも想定した捜査が展開されるはず。

同居する年配者の放浪対応・対策は日頃から。

 

当家では順番から、ガチ次は私。髑髏目中の草、優しい方もいるはずです。

 

さて、あっという間の砂時計。また一つ齢を重ねることになるようです。

年が明ければ戦国期にスポット、それも三州遠州駿州と私の地元が舞台となる大河ドラマが始まります。

最近の作風は若向き。変てこ疑問の演出もあって辟易の途中放棄となることもしばしば、まぁドラマ(ないまぜ)ですから仕方なし。

難しいことを言っていたら「見なくてよろしい!!」と言われそうです。

 

ざっとその配役が決まったというのでサイトを開いてみると・・・

 

鳥居忠吉と元忠の名がありました。それでいて忠広の名が見えません。ということは「湯水の行水」の一件はナシでしょうね。

そしてまた夏目広次(吉信) またはこちら)に本多忠真と三方ヶ原戦没者の著名人の名も。

 

画像は矢作川沿い、渡城といわれる地の鳥居氏発祥の碑。

家康の今川人質時代、ひたすら資材をこっそりプールして、いつか訪れる「その時」に備えて苦渋の時代を過ごしたやり手の鳥居忠吉とその子らが過ごした場所(場所はこちら)。

 

後世の建碑でしょうが、記されている時代は古い。

 

 

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2022年

12月

24日

隆功院釋大忠 成瀬藤蔵と三方原戦没者450年

昨日の冷え込みはこちら遠州にでもキツいものがありました。

温暖自慢の遠州にあってあれだけの厳しい寒さは言うまでもなく冬型気圧配置がもたらしたもの。大陸からの寒気がドカドカ山越えの空っ風で吹き込んでいます。

その分空は晴れ渡っていますが。

よって太平洋側のこの様ならば日本海側は無茶苦茶。

金沢だ福井だ新潟と恐ろしいほどの降雪景色の画像がニュースから飛び込んでいました。

 

何せ、人が亡くなるほどリスキーな降雪量ですから、ここ静岡在住の者の言いぐさはただの泣き言の類でしょう。

 

南国土佐といわれるくらいこちら静岡南遠州と同様暖かいイメージのある高知県からもドカ雪の報がありましたが、ただこちら相良に居ることが特別に有難いことだと思うばかりです。

毎度毎度それを言うのはもはや嫌味に聞こえるでしょうが・・・。

それだけ此の地はスバラシイ。

 

チェーン装着とスタッドレスタイヤ履き替えとスリップ事故と雪かき雪下ろしに関して絶対に考えないでイイのですから。

どれだけの経費と労力に体力の消耗があるのだろう・・・単純にそれを考えてしまいます。

住んでいるだけでハンデを背負っているということでしょうか。

代々その件子孫の代まで継承している人たちにとってはそれを苦労として思っていないのか・・・

 

ニュース記事の見出しにEVブームで普及した電気自動車の件、「雪国では不利かも・・・」とありました。

4サイクルエンジン、捨てたものではありませんね。

私も以前高速道路上で突然のチェーン規制から長時間缶詰になったことがありますが、EVは電池の消耗が早そう。

通常のエンジンならば面倒でもスタンドさえ見つければ何とかなりますが(ヘルプ対応も)、充電となるとそう簡単ではないでしょうね。

まぁEVならばマフラー逆流の一酸化炭素事故は無いのですが。

 

さて、以前購入した徳川家臣団についての書物から成瀬氏の概略がありましたので転記します。

 

 

「成瀬氏の祖は二条関白良基とされ流落して三河に行き『成瀬の郷』に居住すという。又太郎のとき成瀬を名乗る。

成瀬城跡は寺沢村(足助町追分)にあり、岡崎七屋敷の一つに数えられている(「地名大系」)。

 

松平二代目とされる泰親に属し累代『御当家(徳川家)』に仕えた。泰親、岩津城を築き信光を家督とし、同城に移る際、中根・近藤・内田などと従ったという。

のち信光は畠山加賀守某の安城城を攻め落とし、子の親忠にこれを譲った。

成瀬氏は安城に移った親忠に属し城近辺の木戸村に砦をつくって居住した(「地名大系」 ) 。

その後、額田郡六名郷明大寺(岡崎市)野辺を領し、六名郷に砦をかまえて居住する。

その後も長親・信忠・清康・広忠に仕えた。」

 

こちらにも「中根」の名がありますね。

 

画像は先般12月22日(新暦ですが)、三方ヶ原戦450回忌の法要をごく少数ごく簡単に執り行った際の図。

今年はそれに合わせて石標を建碑したことですし、あらためて感謝の意を顕しました。

 

藤蔵正義の位牌です。

勒(釋尼妙意)さんがそれを拙寺に持ち込みました。

先日は藤蔵正義の戒名「隆功院殿節雄大忠大居士」を記しま

したが真宗風に改変。隆功院釋大忠。

 

拙寺は真宗寺院の流れ通り、位牌の概念はナシ。

これまで代々本堂後堂の奥の奥にブン投げているかの如く放置されていたものです。それを私が大事にしようと拾い上げたもの。

そのため劣化は進み、虫食いだらけです。

当流では位牌は「どうでもいい」代物ですからお炊きあげされなかっただけマシですね。

 

今は、手を入れておかないとますます朽ちるかも・・・という心配があります。

 

保存に力を入れるか・・・ブン投げて放置か。

位牌でも古さという面から遺物存続の価値はあるかも。

 

 

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2022年

12月

23日

梶勝忠由縁木戸観音の春 鎧に観音持仏を巻いて

今年の大晦日の除夕鐘の件、予定通り午前10時30分から始めます。荒天にさえならなければいいのですが・・・

多少の寒さくらいなら許容できます。

 

懸案だった駐車場の案内配置の件。

昨年までは檀家さんと私でその常駐を何とか回してきましたが、あの仕事はなかなかキツい。

何が辛いかといえば暇なときは暇(寒い! ! ) 、忙しくなるとハチャメチャ。ついつい誘導などして事故でも起こさないかと気が気ではなくなりますね。

 

要は寒いのと神経を使うのと、そして何かあったら・・・の責任重大の場所ということになります。

よって解決策を私が提案しました。

 

そして昨日早速にその手配をしていただくことが決まりました。それがその日だけガードマンを雇うというもの。

果たしてそれを受けてくれる業者があるのか少々不安でしたが快諾してくれた業者さんがありました。

 

檀家さんのボランティア有志に「○○さん駐車場係をお願いしま~す」など言いにくいことでした。

また「そんな経費をかけるなら私がやります」などの意見もありましょうが、「何かあったら」の責任から逃れられるということを意図していますので、それこそがベストな選択と考えました。

安心をおカネで買わせていただくという算段です。

 

鐘撞の開催について拙寺が100%その「責任」から逃れられるとは思ってもいませんが、少なからず「駐車場のこと」はプロに任せて安心したいということです。境内に集中です。

 

さて、昨日に続き木戸観音の「春」の様を。

地域にそっと佇むお堂ではありますが、そういった所に事前情報なしで、ひょいという具合に訪れ「ほうっ」と思わされる事はまずありませんね。

それがその堂前脇に立つ石碑の文字を眺めた時。

こういった場所に建つ石碑の存在はよく目にします。

それに関して私は一応はざっと目を通すことにしていますがまずは日清日露戦争、大東亜戦争への地域従軍者の顕彰碑ですね。

 

要は地元限定の方たちの名の羅列で私の知らない世界。

ところがこの碑に記された文言にはあまりにも有名な名がありました。

その内容は主観主張(当たり前・・・)であってそのままこれを信じ入れることはできませんが、「ほうっ」の感激がありました。

ということでその碑文の内容を。

 

 

「 木戸観音縁起

 

此観音堂ノ創立ハ年代悠久ニシテ知ルニ由ナキ共中コ

ロ能美松平氏ノ族楫金平勝忠ノ持仏観世音菩薩ヲ伴セ

安置セルモノナリ傳ヘ云フ勝忠ノ老母年来観世音ヲ信

仰セシカ或時一老翁ノ示現ニヨリ観世音ノ尊像ヲ授ケ

ラル老母イタク感激シ愈尊崇ノ誠ヲ盡シ之ヲ勝忠ニ授

ク勝忠乃チ守本尊トシテ寸時モ離サス戦場ニ臨ムヤ毎

ニ甲冑ニ巻レタルモノナルニ其主本多平八郎忠勝ニ属

シ勇戦奮闘戦へハ必ス勝チ身ニ一創痍ヲモ蒙ラサレシ

ハ一ニ此尊像ノ霊験加護ニ因リシモノト伝フベシ楫氏

ノ子孫相傳へテ崇敬怠ラナリシカ明治維新ノ癸(とき)従僕住

右衛門ナルモノ楫氏の意ヲ奉シテ平岩一族ノ尊奉シ来

レル堂宇ニ安置セシモノナリ茲ニ其由来ノ概略ヲ記シ

皆人ノ大慈大悲ノ應護ヲ仰クヨスカトスト云フ 」

 

明治以降に記され碑であることがわかります。

楫金平勝忠は梶勝忠のこと。ウィキでは梶正道で。

足助出身で木戸の観音堂がその持仏堂としてあるということ、本多忠勝との関り・・・こちらでの根拠を見出せませんが成瀬藤蔵正義の影も私的には浮かんできます。

本多忠勝家老の双璧、中根もしかり。

あと一つ、藤蔵正義と忠勝の繋がりを伝える史料が欲しいものです。

 

 

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2022年

12月

22日

三州木戸 梶勝忠由縁の仏 ? 木戸観音の夏 

風が無いという仕合わせ。

気温も高めで有難い有難い。

 

昨日お聞きした故人のこと、都合3回救急車で搬送されたといいます。

私も何度かそのお世話になっていますが、その方の3回はいずれも危篤状態だったとのこと。

1回目は真冬の風呂の件。

最近になってその場所が超が付くほどにリスキーな場とランクアップしていますが、その際家族が気づいた時、湯船に完全に浸かっていたそう。

もともと血圧は高かったといいますが。

 

担ぎ出して救急車を呼び、その到着まで心臓マッサージと人工呼吸を続けたそう。

駆け付けた救急担当者の口から「心肺停止」の声があったそうですが病院到着前、車内での処置によって息を吹き返し、その後通常の生活に(スグに)戻ったとのこと。

 

そのあとの2回は脳梗塞だとのことで、何とかそれも復活を遂げましたが3回目の脳梗塞の後、体力の衰えもあって遂に亡くなってしまったとのことでした。

「天寿を全う」のレベルの年齢(九十八歳)ですから圧巻です。

 

そのような奇特はご当人の体力大丈夫の様もさることながら家族のケアと機敏な対応あってのことでしょうね。

特に冬場は家族や相方の風呂場の状況の把握は必要です。

耳を澄まして・・・時に覗いて声をかける・・・。

 

さて、三方ヶ原から450年(元亀三年十二月二十二日)。

昨日は忠義の「忠」の字を並べましたが、その忠義の「義」といえば拙寺関りの成瀬藤蔵正義。

寛政譜(こちら)から見るその性質から「義」の文字を推することは難しいですが正義の葬儀の際に送られた戒名が「隆功院殿節雄大忠大居士」。

曹洞宗の戒名についてよくわかりませんが「大」の字が二つもついて「忠」も入っています。

まぁ当流風に改変すればずっとシンプル「隆功院釋大忠」でしょうか。

 

葬儀は家康の手で差配されたといいますから正義夫妻が真宗に傾倒していても三河一向一揆のあとということもあってその流れでの儀式は無理というのは言うまでもないこと。

勒(妙意)さんもその流れに抗うことはできなかったでしょう。

 

その成瀬正義といえばとりあえず木戸城(またはこちら こちらが思い浮かびますし、木戸古城ともいわれる長因寺、近くの常夜灯に本證寺などあの辺りを放っつき歩けば何かに当たるという感じ。

 

その木戸の街区、常夜灯の近くには木戸観音堂という小さな祠がありますがそちらの祠に納まる観音さんが昨日記した梶勝忠の御持仏という伝承があります。

おそらくダミーではないかと勘繰っていますが

ホンモノはどちらかで管理されているのではないかと思いますが、それだけの伝承がある仏さんなら、安城市の教育委員会も把握しているでしょうし、看板一つ掲げられていないのはどういうことだろうとまったく首を傾げるところ。

 

境内にその件、記された石碑が建っていました。

成瀬正義の居た木戸に本多忠勝に近侍した梶勝忠所縁の堂があるというところ、三河はそう広くないといえどもあまりにも近すぎる。

明日は春の木戸観音堂を。

 

 

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2022年

12月

21日

浄土寺本多忠勝墓域 梶勝忠は中根忠實のお向い

風が無い分ラクな一日でした。

よって境内作業。

特に桜を日陰にしてしまう槙の枝払いを行いました。

桜は日光を求めて伸びますので放置していると90度近く曲がりくねります。早めに対処しておかないと厄介な樹形になってしまいますから。既に手遅れといったものもあります。

境内は狭く、私の如く樹木好きにはどれを抑えてどれを生かすかは大問題のテーマとなります。

 

また、イチョウ、ケヤキ、クロマツ、スギ、など実から発芽しますがそれらを保護しようなどと思うとまったくキリがありません。

最近は「植木はイラナイ、伐採したい」という家が増えて、仕事がなくなったとボヤく植木屋さんの話を聞きましたが、松の剪定など初夏と冬場の年二回、職人を迎えるとなればそれだけコストがかかりますからね。

「伐った方が維持等がラク」ということです。

 

小木の槙の枝払いで軽トラ一車。

地頭方処理場の経費は610円でしたが、境内の樹木を以前と同じように伐っていたらどれだけの労力と費用になるのか、恐ろしいことです。

息子に「ヤレ」とは言えませんし、そもそも一人工ではムリがあります。プロの手を求めたらおそらく莫大な金額となるでしょうね。

作業費は勿論、処理料金はそこだけで3倍ルールになりますし。

私の都合(法務と趣味)優先ですし、天気の状況もありますからなかなか手が出ませんね。

やるべきこと山積・・・いつもそう言いながらまったく進みません。

 

さて、浄土寺再訪の本多忠勝墓域です。

昨日は本多家家老の中根忠實について記しましたが同じくあの鳥居を潜ってスグ左側、中根の向かいになりますが家老の梶勝忠の墓があります。

中根と同様、三河の住人、忠勝の死の際、それを追って腹を切ったのも同じです。

 

偶然でしょうが、忠勝の墓の前面に並ぶ忠實と勝忠の墓。

「忠」の字が光っています。

将に武士(もののふ)の名か・・・サムライには「忠」。

人の名にもよく使用されていますから日本人はその「忠義」を重んじる国民なのでしょうね。

 

ちなみにここのお寺の伝承「幽霊飴」、門前の飴屋の名が「飴忠」と言うようです。

 

話は飛びますが私が思うのは裁判官も官僚も政治家も国民に対する「忠」はない・・・というところ。

「中の心」という具合に「自分が中心」のようです。

 

私・・・?

坊さんともなれば「自我は捨てるべき・・・」なのではありますが、捨てきれるはずなく、せめて阿弥陀さんに忠実に生きたいものです。

すると阿弥陀さんは「ありのままに生きなさい・・・」。

これだから南無阿弥陀仏はやめられない。

 

 

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2022年

12月

20日

勒さん(妙意)の出自も織田中根(忠實)の件も不明 浄土寺

昨日の冷え込みもキツく昨日は親鸞さん像の前に霜が降り、水盤に氷が張りました。

北陸では大雪になって道路の通行止めと大渋滞のニュースがありました。

ハイビスカスたちが入るテラスの気温は夜間3℃代、慌ててエアコンをオンしましたがヤバいかも。

 

昨日の私どもの仕事は隙間風対策。

奥方が庫裏の居間と寝床部屋周辺<私が本堂の対策です。

とはいっても抜本的なものとは程遠く、気休めの部類ですね。

それは主に障子貼り。

庫裏中のどうでもいいような箇所には銀色の保温シートや段ボールを貼ったり立てたりしてゴマ化しました。

奥方は目を血走らせて幾枚かの障子と格闘していました。

殆どがネコどもの仕業です。

 

私は本堂の障子担当。

去年はたしか障子全面の張り替えをしましたが、今回はピンポイント補修です。

こちらはネコによる突破もありますが、外部に面しているだけあって自然劣化も甚だしく、北側に面したそれの放置は読経中の風と風切り音と破けた障子紙のパタパタ音に注意を逸らされますから特に。

適当に紙を切って張るだけの仕事ですが、風が強いため難儀させられました。

 

奥方は、「どんだけ障子が・・・」とその障子の数について不満たらたらです。

檀家さんも「殆ど外気と同様」の場ですごさなくてはならないのは気の毒であると。

まぁ、どちらのお寺でもサッシ化されていますがね。

レールと車の土台自体が劣化してぐらぐら、開け閉めもままならないのはわかりますが。

私は「これでいい」。

柱が曲がって梁が落ち、床が波打っている本堂に「何がサッシじゃ~」。

 

さて、昨日記した桑名浄土寺の本多忠勝墓域の鳥居を潜ってスグ正面奥の忠勝の墓とは別に左右に墓があります。

その向かって右側に建つのが中根忠實の墓。

例の箱柳の中根であちらには

「中根氏祖とは平清盛の叔父忠正の七男の七郎正持が保元乱(1156)後、母に倶われて(2才)碧海中根村に遁れ成人して額田郡箱柳村に住し成人に成るまで世話になった中根村の中根を姓にした。以来忠良まで14代400年に亘り堂根筋六郷を治め其の間に近郷に拡り此の地方の中根姓の祖で有り箱柳は其の発生の地である。」とありましたが、二俣城主の中根正照が三方ヶ原で亡くなったため、急きょ織田家から中根家に養子に入った織田信照ともいわれています。

その人は織田信秀の九男または十男と言われていますが要は織田信長の弟になります。

 

本多忠勝家家老として生涯忠勝に付き添い、桑名で忠勝の死に伴って腹を切っています。観月院殿覚窓浄安居士。

彼の妻が忠勝の妹といいます。

本多家と中根家の付き合いは切っても切れないことはわかりますが、当家三代目祐傳の母、釋尼妙意の出自の中根家出身説が確定したわけではありません。

 

 

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2022年

12月

19日

桑名浄土寺再訪 幾本かの山芋のために

昨日はまた今年一番の冷え込み。

読経の息が初めて白くなりました。例年より寒暖計が低めに指示するよう感じます。

法要参列の皆さんは法要後、墓参に席を立たなければなりませんが各ストーブ前に張り付いて動く気配はありませんでした。

しょうがない(没法子)ですよね、自然の事ですしまた南遠住まいの者には厳しい時節です。

 

午後からお内佛でのお勤め、島田初倉へ向かいました。

ご主人が「風花が舞っていたが・・・」と。

私はそれに気づかず「一山二山超えると違うものですね」とだけ。

帰路に就いた際、その風花の様を見たワケです。「本当だ・・」。

 

そのお宅での雑談で先般遠州を襲ったあの大水で「この町内でも車が3台ほど浸水し、床下浸水の家があった」とのことでした。こちらでも被害が出ていたこと・・・驚きでしたね。

 

それは近くを流れる川の対岸の崖が崩れて水を堰き止めたからだといいますが、そういえば未だ掛かるブルーシートの青色がその場所を主張していました。

その対岸は私有地で「せめて枝払いくらいはして欲しい」と地主と交渉中とのこと。

間に島田市を挟んでいるようですが、その手の件はなかなかうまいこと進みませんからね。市は法面の崩落地のみ改修か全面改良工事かで悩んでいるのでしょうね。

災害対策は迅速にやっておかないと次の災害で責任を問われますよ。「何もしていなかった」と。

来年の台風シーズンまでに・・・

まぁ一見したところ相良菅山の川っ淵の多数の崩落個所の数倍の予算がかかるでしょうね。

 

「面白い 次は私を呼んでくれ」と思わず手を打ったのはその法面が崩れた際、幾本かの自然薯が崖から顕わになってブラ下がっていたというところ。

それがまた、まるまると太った山芋で「さぞかしうまそう」な代物だったよう。

そうでしょう、毎年毎年人の手が入らない芋は太ることは必定でしょうから。

それが目の前にぶら下がって手も足も出せないというのは「辛かった」と。

自然に落下したか、ブルーシートを掛けた業者が持って行ったか・・・とのことでした。

「絶対に手出だし無用の場所」とは仰っていましたが、私はそういう場所というものは結構に燃えますね。

それもそれほどデカイ自然薯がゲットできるのなら。

先日は川に入って大黒様を拾い上げた事を記しましたが、私は崖も川も厭うことはありません。ケチな性分で「恥ずかしい」と奥方。

 

マカロニウェスタンの「For a Few Dollars More」ならぬ「幾本かの山芋のために」。奥方が嗤います。

ちなみに「奥の墓道」氏とあの語「ブラボー」を(小さい声で渋く相手を)讃えて言うのはその映画のラストシーンから。

まぁオペラ観劇の衆が感動の喝さいする中でも見ますが。

それをギャーギャー喚いてそれを自分たちに向かって吐き散らかすところ,流行語大賞でも狙っているかの如くで苦笑い。

その様をテレビで観てしまいました。

 

さて、先般桑名の浄土寺再訪の件、尻切れトンボになっていましたので続けて画像のみ。

忠勝墓域は変更は見られませんでしたが、周囲の景色は色々変わっていました。

 

 

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2022年

12月

18日

黄金堤の桜の下 吉良さんの善政 赤い馬はこちらにも

現状コロナ症状は・・・「軽い」というのが最近の社会の一般常識の雰囲気。

静岡の直近一週間の感染者数は前週から1.35倍。

昨日は先週の土曜日より903人の増加。4044人でした。

中部地区の病床使用率は68.6%ですから再びの病院門前払いが始まりつつある感。

 

感染しても「平チャラ」感が流布されて、いよいよ大衆は大胆な行動となり、また国民大移動の季節に突入します。

その「平チャラ」はある程度の抵抗力ある健康体あってのもので、それ以外の方々にとっては致命的病魔であることを念頭に入れるべきですね。死者も確実に増えていますので。

 

先日記しました通り叔母のコロナ感染は2週間の所内隔離から解放されたとのこと。よって「通常に戻ります」と連絡がありました。聞けばその間は.風呂に入れなかったそう。

陽性とはいえ結局は一切それらしい症状も現れず、食事の制限もあって叔母は「何でこんな目に遭わなくては・・・」と文句たらたらの様。

なかなか、しぶとくてよろしい・・・苦笑させられました。

私もひょっとして・・・の楽観論が芽生えます。

そううまいこと行かないことはわかっていますので自重しています。

 

さて、昨日は「吉良さん」続きでNHK地上波「忠臣蔵狂詩曲~妻の愛でリベンジ」を。奥方の力は偉大です。

そしてまた「吉良さん」の善政について記していましたが現地掲示板にもありますようにその最たるものといえばいわゆる治水。こちら黄金堤を手掛けたというところでしょうか。

 

地域の殿様顕彰と忠臣蔵への反骨、近年の観光資源化に一役買っているといったところでしょうが、小さな公園ながら巡り合わせによってはハッピーな時間をすごせます。

 

「雨雲は 今夜の空に かかれども 

            晴行くままに 出る月かげ」

 

「赤い馬」の吉良さんの像はこちらにも。

 

 

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2022年

12月

17日

「憎まれながら 三百年」 没法子 吉良さんの寺

朝起きれば庫裏の気温は8℃。

晴れ間は有難いのですが、何せ北西風が・・・無茶苦茶寒いです。

 

ネコどもは太陽の位置に敏感。数少ない最適の場所を求めて家中放浪しています。

 

私は在庫しているストーブの数台を引き出して、給油してから点火、着火の確認作業を。

うち1台は消火のレバーが壊れていましたので廃棄処分となりました。

当年4月を迎えるころ、それらを各所に片づけたわけですが、その際梱包用フィルムテープでぐるぐる巻きにしていますのでまずは埃・虫などの混入はありません。経年劣化ということで。

 

ざっとブロアーで吹いてから給油して暫く、点火するわけですが、いつもいつも腹が立つのは電池式点火装置がまず最初に壊れて、直接ライターで点火しなくてはならないということ。

 

先の長い形状のライターをストーブごとに用意しなくてはなりません。また昔のタイプの給油タンクはワンタッチ式ではないため手が灯油臭くなるのがイケません。

冬場の面倒の一つですね。

私が法事の予定を受ける際に「冬の本堂は極寒」につき、「暖かくなってからでいいですよ」と一応付け加えるのは健康を害するような寒さの中、無理に開催することはない・・・ということなのですが灯油の消費量も気になります。

値段がバカ高となっていますが給油作業も面倒このうえなし。

また参列者の中に子供がいれば焼香鉢の炭に加えて、注意喚起が必要です。

 

さて、相変わらず昨日も奥方は「忠臣蔵」を視聴していましたが私は「吉良さん悪者は演出」とあらためてそれが「劇」のお話、「ないまぜ」の件、余計なことながら重ねての御注進をさせていただいたわけです。

「吉良の郷、今の西尾市内で忠臣蔵だとか吉良さんの悪口など言えないよ・・・」でした。

 

尾崎士郎の「本所松坂町」の件を少々紹介したのでした。

ちなみに青空文庫にもあります。

その冒頭の

 

「吉良の殿様よい殿様

 赤いお馬の見廻りも

 浪士にうたれてそれからは

 仕様がないではないかいな」

 

と「仕様がない」=「没法子」(メイファーズ)なる中国語を引用

彼、尾崎士郎(吉良さん地元、幡豆郡-現西尾市生まれ)が他所の人が地元の人々の心中を推測して評する歌から。

 

そして「世を怨み、運命に憤る庶民の感情は三百年間、大地に沁みとおる水のごとく綿々として今につづいているのである。

もし嘘だと思ったら『吉良郷』まで行ってごらんになるといい。諸君がもし足一歩、横須賀村へ入って吉良上野の悪口を一言半句でも囁やいたら、どんな結果を生ずるか、私(作者)といえども軽々しく保証のかぎりではない。」と地元に愛された殿様であったことと地元の無念に対する反骨が記されます。

 

文末の

「江戸から帰ってくる連中も、三州吉良の住民だというと、もう誰からも本気で相手にはされなかった。

『あいつは吉良だよ』という声が、一歩村の外へ出ると、どこからともなく聞えてくる。

忠臣蔵が方々であたらしい感動をよびおこすにつれて横須賀村の住民たちは肩身の狭い思いをしなければならなかった。

しかし、いつまでも息をひそめていられるものではない。

他領へ嫁にいった娘や、養子にやられた青年たちが吉良出身という理由で破談になり、村へ帰ってくると、彼等は徐々にすくめていた肩をそびやかした。

『吉良領がどうしたんだ、忠臣蔵のへっぽこ芝居にたぶらかされている奴等におれたちの気持がわかってたまるもんかい、よし、ひと口でも吉良上野の悪口をたたいてみやがれ、そのままにしておくものか』」からも吉良地元の気概が伝わってくるのでした。

あのお芝居がイジメや差別に繋がったと思うとただ喜んで観ているワケにもいかないものですね。

 

画像①②村上鬼城の句そして③は吉良家菩提寺の華蔵寺。

④⑤は華蔵寺の門前駐車場の図。⑥⑦花岳寺

華厳寺も花岳寺もお隣同士。

馬上の吉良さんは他所でも目にすることができます。

「吉良さん」と親しみやすく「さん」付けなのです。

 

一色の安休寺雲英さんといい、幡豆郡(西尾)で忠臣蔵のお話はタブー。12月14日といえば吉良上野介義央公の御命日ということ。

まさに「没法子」「人間万事塞翁が馬」ではありますが・・・

 

 

 

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2022年

12月

16日

江戸城松の廊下跡 TVユーチューブ導入の件

連日風強し。

各地から火事の報が入っています。

庫裏の湿度も超乾燥を指していて全国的に油断ならない時節。

その不始末は自分だけでなく多くの人たちをその災禍の主人公として引き上げてしまいますので、一層の重大を念頭に置かなくてはなりません。

 

拙寺の本堂と庫裏仏間の「私のルール」について。以前もその手の事を記したと思いますが自分に念を押すために。

御燈明(ローソク)と線香は仏前必需ではありますが、夜間はそれらの使用は控えています。

何故なら、私には致命的ミスをやらかさないという自信がないからです。いや、絶対にやる・・・と思っていますので。

それも経験と歴史から。

ちなみに本堂読経の際に祖父も父も必ず燈明と香は欠かしませんでした。

 

今、その焼香鉢付近やら真下の床付近には幾筋も線香で焦がした跡が残っていますが、要は出火に至らなかったのはただ運がよかっただけ。

ちなみに火のついた線香を床に落とすそのメカニズムを分析すると、まず4~5本程度の線香を手に取って三分割に折りますが

それは土香炉によって1本まるまるの長さでは入りきらないものがありますし燃焼時間を短くしたいという理由です。

 

それら折った線香をまとめてローソクの炎で着火させますが、あっちこっちの焼香鉢に寝かせに移動する際、ポロっと落としてしまうというところ。

そもそも正確な本数など数えていませんから、指先からするっと1本落としたとしても気づかないのです。

その他「火」に関するイージーなミスを挙げれば枚挙にいとまがなくそれなら使用しないとなったのでした。

おそらく父辺りからは邪道とばかりに叱られるところでしょうが、基本意味は違いますが「火のないところに煙はたたない」・・・出火要因にならない・・・ということ。

罰当たりの方を取らせていただいています。

 

さて、当方奥方は先日の泉岳寺墓参から、その墓参のタイミングがあまりにも良すぎたか「忠臣蔵」にハマっています。

BS民放のかなり前に放送されたその長時間放送の「一挙放映」三日連続というものを視聴していましたが、やはり数日前に奥方の部屋のテレビに導入したユーチューブチャンネルから、かつての忠臣蔵を掘り出して視聴しています。

 

浅野長矩の奥方の瑤泉院の注進を聞かなかったことから吉良に足元を掬われたとして「しっかり私の言うことを聞きなさい(さもないと腹を切らされるぞ)・・・」と。特に無作法の数々を指摘されています。

 

ユーチューブ再生は好きな時間にストップができますのでお気楽のようです。

私は、画像の悪い古いものを「よくもまぁ」ですが、バージョンが違えば筋書きも配役もバリエーションあって面白いと。

もはや、私はその内容についてこまごま教えていただく立場。

その件、奥方がハマるとは「まさか・・・」でした。

 

画像は江戸城、松の廊下の跡。大きな松も見えます。

土塁の向こうは堀になります。

この江戸城といえばやはり火災がつきものでした。

人が多い大屋敷ですからイージーなミスが溢れている場。

 

 

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2022年

12月

15日

掛川城から移築された「蕗の門」 圓満寺

BS1「戦禍の中の僧侶たち」を視聴。先日の再放送を再び。

何時観ても腹が立つ。

祖父も教戒師として朝鮮半島に赴いていましたが宗教界全体で戦争協力したというもの。

「殺してはいけない」の大矛盾。

現在はその事に関して懺悔というものがありますが・・・。

ちなみにその協力がなかったとしたら今よく言われる「宗教法人取り消し」の咎があったわけで。

 

朝から風びゅーびゅー。

今年二度目の墓じまいの立ち合い。

施主は遠方につき、来られないとのことで、私がその撤去工事の状況を写メすることになりました。

 

そちらの御家はもともと相良にいらしたのですが、娘さんが3人いらしたもののすべて遠隔地に嫁入り。

昔でいえば「お家断絶」の様。

かつては大きな真宗ならではのお内仏があったそうですが、家を処分された際に小さな家具調お内仏に変更、そして母親が亡くなった今節、そのお内仏といっしょに累代の墓地の撤去の運びとなりました。

墓地継続は不可とのこと。

とても寂しいことですが致し方なきことですね。

御遺骨は拙寺の「一處墓」に合葬することになりましたので、私は墓石解体後に石屋さんに集めてもらった遺骨の洗いに入りました。

 

場合によっては泥まみれの場合もありますが、今回は比較的キレイで何度か濯いでおしまい。

10日ほど乾かしてから埋葬を行う予定です。

尚、石屋さんが言っていましたが、住職が骨を洗う寺はどこにもないと。

 

私がそれを行うことは、亡き人、遺骨となったといえども代々生前に寺が世話になった方々。

縁とはいえご家族の無念の「業」への報いとして私がその「骨を拾う」御役を願い出て一手間かけさせていただくことはせめてもの報謝であると思うからです。

 

最近では墓じまいはどちらの寺でもありますが、先日はそういった流れの中で、「可成り揉めた話」も聞いています。

色々ありますがその件は、段ボールに入れた掘り出されたままの泥だらけの遺骨を施主に手渡したところ「なんだこれは・・・」となったそう。

その家は遺骨を持ち戻ってどちらかに改葬する予定だったそうで車にも載せられないくらい「無残」の躰を醸し出していたそう。

まぁ寺で事前にそういったカタチ(泥まみれ)になることを伝えておくことは必要ですね。

事前に遺骨をキレイに洗って木綿の袋に入れておく・・・などのことを石屋さんに依頼(オプション)しておく必要があったということです。

どなたが悪いわけでもありませんが、まぁ寺の認識不足でしょうね。漫然と業者と施主を仲介してるだけならばクレームになっても不思議はありません。

相手さんは檀家として離れる身ですから、怒り狂うなど大いにありそう。

 

これは結構にデリケートなところで、遺族、家族がアノ様を見たら不愉快になることもあるでしょう。

遺骨と言えば「白骨」のイメージもありますからね。

そのままお渡しすれば泥と濡れて染みた段ボール箱に呆れかえることは必定。

「気分を悪くする」ということ。

 

今回の私の場合は埋葬まで私の手で行うことになっていて写メするだけでしたが、やはり「泥まみれ」よりはキレイにした方が見栄えがイイですからね。キレイな手切れも不可欠。

 

さて、昨日は午後からの当岡崎教区31組の組会の会場、掛川圓満寺に向かいました。

山門が掛川城から移築された「蕗の門」。

以前にも記したことがあったかどうかまったく失念しています。

駅近かつ城近く絶妙な立地です。

 

最後の画像が昨日の拙寺境内水屋付近の図。

ようやく銀杏の葉が落ち、紅が映える様。

 

 

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2022年

12月

14日

浅野家ほか大石父子に堀部その他数多 泉岳寺墓域

先般、偉人マンガ「田沼意次物語」が刊行されて、拙寺もその配布があったのでしたが好評ということで一般販売が「GO !」されました。

当初はあくまでも地元子供たち向けの学習教材としてのスタンスだったようで、一般の人たちへの販売が待たれていましたがいよいよというところでしょう。

今のところのその販売状況については詳しくは知りませんが、このほど別系統のマンガ執筆の話が出てきているよう。

 

その実現可否も不詳ですが、昨日某マンガ家さんと編集者の方の拙寺見学がありました。

平田寺に寄られて徒歩での来訪ですから、相良の街中の散策取材を兼ねてのことだったよう。資料館の長谷川氏の手配によるもので、こういった場合、私の仕事は本堂と天井下の電灯スイッチの点灯くらいのものですが、この日は長谷川氏が(再び?)風邪に倒れたようで、私がひと講釈させていただきました。

 

話はいつもと同様、田沼=賄賂政治家のイメージは当時流行した「読本」からであって、いわゆる「ないまぜ」であり、今でいうネガティブキャンペーンの手法。

特にその読本作者に「地元遠州から」の名を記し、さも統治下地元庶民全体から自然に沸き起こっているをイメージにする手法、その陰に松平定信の存在(断定史料は不在ですが)があったことを付け加えました。

 

「どんなマンガなの?」 と聞けばシリアスではないとのこと。

まぁ何であっても、相良の沈滞ムードを掃き散らかせるよううまいこと頼みたいものです。

 

さて、討ち入りの日。泉岳寺墓域です。

たくさんの志士たちがいる中、申し訳ないところですがビッグな名の人たち限定で。

他の人も各演劇で描かれていますから、赤穂ファンには知った名ばかりでしょうね。

 

たくさんの墓石が並ぶ中、大石内蔵助⑭とその息子主税⑪の墓石が覆堂式。

主税の覆堂の左隣が堀部安兵衛

浅野長矩の墓前にも梅(昨日)がありました。

⑥⑦は浅野家⑧が瑤泉院の墓。こちらにも線香が絶えることはありません。

 

この墓域入口には若い僧侶とオバちゃんが待機、お参りの入場者に線香購入(1束300円)の依頼があります。

代金を渡すとそのオバちゃんがコンロで着火してくれるという流れになります。

「各墓に2本ずつ程度添えて参拝ください」とのことですが、火のついた束を持ち歩きますので体中に線香の匂いが染みつきます。私は特に違和感ありませんが、この地に何故か多く佇む外国からの皆さんはキツいかも。

線香の煙も日本の文化ですね。そういえば先日の浄瑠璃「本朝廿四孝」に「十種香の段」がありました。仏前に香の煙はつきものです。

 

渡日海外旅行者向けのパンフに掲載されていることが推測できますが、英語での掲示板の用意もなかなかのもの。

しかしまぁ、日本の武士というものの忠義と腹切りに関して彼らはどう思うのでしょうかね。まぁそれへの興味津々があるのでしょうが。

 

私は今回初めてこちらのお寺にお参りしたのですがこれまで来られなかった理由は駐車場が付近に殆ど無いこと。

台地上に上がっても付近のコインパーキングはいつも「満」の字ばかりです。

おそらく12月14日など駐車できる場所は見つからないでしょうね。

どちらか遠方に駐車して歩くか京急泉岳寺駅利用ですね。

 

 

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2022年

12月

13日

大石内蔵助良雄像と梅三本 泉岳寺 女墓場コロナ感染

友人の「女墓道」が遂にコロナに感染しました。

1週間ほど前に連絡がありましたが、微熱と喉の痛みということ、当初は流動食系以外の食事は無理とのことでした。

原因は明白、法事後の会食だといいます。

12人の参列者のうち陽性判明者が8人。

あきらかにクラスターですね。

 

これまで医療機関に従事していてうまいことコロナ罹患は回避することができていたところで思わぬ油断からの失態があったようです。

食事中のおしゃべり、いわゆる黙食について学校関係でも「もうそろそろ・・・」の意見が出ているようですが、そういった場はやはりヤバいのでしょうね。

 

ちなみに彼女も私と同じ、ワクチンは3回で打ち止め。

医師からの処方は頭痛薬と咳止めのみ。

同じ会食をしていた親類の女性(肥満系体重過多)は、例のアメリカ製コロナ薬を処方されたとのこと。あのスゴイ金額の張る薬です。

どちらにしろ彼女は「一切薬は飲まず」にその熱と喉痛と頭痛と闘ったとのこと。天晴れです。

彼女のその理論は「ウィルスは発熱させて退治、さもないと体にいつまでも残って帯状疱疹などを引き起こす。そして余計な薬はできるだけ飲まない」と。

 

また最近、名の知れた人たちの死亡報道が多いことをあげて、それこそがコロナとコロナ対策の投薬が原因であるとの説。

要は「何もしないが最良の策」 (自己免疫力にまかせる)であるを実践しています。

ただし頭痛にしろ熱にしろ症状によってはその対応薬を飲むことは覚悟していたとのこと。

わたしなど「頭痛薬飲んで寝ちまう」のスタンスで、それに正攻法で対峙するなどまずできませんね。

 

ちなみに彼女の母親も会食に出席していましたが、症状は出現したものの医者にも行かず自宅療養。

「コロナになったという現実からの逃避の様」なのでしょう。

よって陽性者カウントなしということ。

出席者12人で感染者8人+α。

殆ど全員罹患に近いのでは・・・今度の株は症状は軽いものの感染力は強いものがあります。

 

最後の画像は都から送られてきた支援食材。

希望すれば再度同じものが送られてくるそう。

現状、味覚障害以外は回復しているそうで、さっさと治して「山に持って行く。ありがたい・・・」と。

1週間でまずまずの復活を遂げられた例でした。

 

私どもは4回目も5回目もそしてこれからもワクチンは打ちませんね。最近は「ワクチンを打った方がコロナに罹る」ような例をたくさん見ていますし。

ちなみに以下のような記事が昨日ありました。

「厚労省の疾病・障害認定審査会は12日、新型コロナワクチンを接種後に小脳出血、くも膜下出血で亡くなった26歳の女性や、右視床出血、脳梗塞で亡くなった74歳男性など男女あわせて5人について、ワクチン接種後の死亡の救済対象に認定し、死亡一時金を支給することを決めました。

接種と死亡の因果関係が否定できないとしています。

26歳の女性には死亡の原因となる疾患に関連する基礎疾患や既往症はなかったということです。新型コロナワクチン接種後に亡くなった方のうち、20代が救済対象に認定されるのは初めてだということです。新型コロナワクチン接種後の死亡一時金が認定されたのは、今回であわせて15人となりました。」 (日テレ)

 

それにしてもその件、お幾らほど遺族に支払われるの?

また認定されていない人たちもまたぞろいるということをお忘れなく。

国はそういった検証に着手していませんね。

 

さて、昨晩もBSでの放映がありました。

その時節になりましたね(1702年12月14日)。320年前のこと。

 

画像は先日寄った泉岳寺

大石良雄の銅像と3つの梅。

やっぱり当時の人たちの趣向は「梅」なのでしょう。

 

 

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2022年

12月

12日

「実は」の頻出 「実の 蓑」濡衣 大晦日例年通り

昨晩はNHKBSの「次のパンデミックを防げ」副題が「ウィルスハンター密着 未知の感染症の脅威」を視聴しました。

特に「なるほど」と納得したことは番組内で紹介された「ワンヘルス(One Health)」。

「人+動物+生態系」の3つの健康を1つのものとして捉えて守っていこうという考え方。

 

森林破壊が感染症発生の引き金になっていることがよくわかりました。

木々そして森林の植生そして彼らの生命維持と子孫繁栄の姿に感銘を受け尊敬畏怖の対象としてある私にとってその森林破壊を続ける我ら人間の愚かさを提示していました。

やはりその病禍の発生は人の起した因果ということでしょうね。

自然あっての「人」ということを今一度思い出し、その共生を見直して行かなくては。

実はそもそもその自然の中に住まわせていただいているという気持ちに帰って。