2024年

4月

19日

長谷寺の山 初瀬墓地再訪 天職とは・・・

予定では静波の墓地の整備に向かうつもりでしたが、雨の時間があるとの予報でヤメにしました。

よって奥方に言いつけられた大工仕事と先日購入した角材の残りを加工、寝床の部屋の梁の下にかましました。

まぁ気休めの部類ですが・・・。

少しは違ってくるかも知れません。まぁその時、その耐力を確認する場合ではないでしょう。

角材は梁と床の間のサイズ原寸より2mmほど長めに切りましたがソフトハンマーで叩いても入りきれませんでした。よって急きょジャッキをかまして沈んでいた梁を数ミリ上げて設置完了。午後はそれを固定する金物を求めに・・・

 

4月も中旬すぎて、新卒者の退職が増える頃。

今や退職代行業なるサービスがあって今は繁忙期と。

会社を辞めるのもお気軽ということですね。

「ダメ」の結論を出すということですがダメを無理して継続、自身を痛めつけるよりもさっさと退職、新天地に希望を抱いた方がマシですからね。

 

「レボリューショナリー・ロード」なる映画の中で、これから会社を辞めてパリに行くという主人公にその同僚が「パリには天職があるのかい?」という単純な質問に対し彼は「少なからずここにはない」といった台詞がありました。

世の中でそれこそ天職であると誇れる仕事に巡り合える人はそうはいないでしょうね。

要は「天職」の存在を夢見ていたら・・・人生は終わってしまうだろうから。

 

ちなみに私や息子など寺に生まれたことから選択肢は他にありません。そういう意味からして今の仕事は必然であり自然。

よって天職なのかもしれません。

私は「天」といえば浄土世界をイメージしますからそれは「阿弥陀さんのお仕事」でよろしいかと。

 

扨、先日は奈良長谷寺を奥方を連れて歩きました。

長谷寺といえば長躯399階段とその先の巨大な十一面観音です。

京都の貴族たちもこちらへのお参りを欠かさなかったこと、広範囲にわたって派生造立、影響を及ぼしたその観音のスタイルは私としても今一度お目にかかりたいということもありましたが、そちらを奥方にご紹介すること、また拙寺遠足にこちらは如何?とその感想を聞き検討するという意味もありました。

 

しかしながら私の本当の目的はあの観音堂より更に奥、初瀬墓地の墓域をただ歩くこと。

また墓域の最も奥から観音堂の背後に廻りこみ、屋根越しの景色を望みたいとも考えましたが、それは木々の繁茂があって眺望は不可でした。

道も途中で消え、奥方は携帯電話を取り出して息子や義母に「こんな酷い目に遭わされている」とボヤキ出しましたのでもはや無理と引き返しました。

 

奥方の意見

「遠足はまずあの階段のストレートを見ただけで皆さんは怒り出すだろう」と。そして二度と遠足には来てくれなくなるかも・・・ということでした。

 

初瀬墓地で私が一番に印章深く頭に残っている洪水墓碑(こちらも)への案内など絶対に拒絶されるでしょう。

以前もこの初瀬墓地散策の魅力について記しましたが、現代の新しい墓地も奥にあって、お参り用グッズが収められた小屋が六地蔵堂の並びに設けられています。

そちらの最近建碑されたであろう墓地群墓域の荒れ具合も酷いもので草ぼうぼうです。この時節その様ですからこれからもっと酷くなりそうな気が。

また夏場等はこちらに立ち入る酔狂は有りえないかも。

その奥の墓域には昭和・平成から令和まで新し目の墓が勢揃いしていますが、最近お参りに来られたような形跡はナシ。

 

奥方との会話。

人が死ぬと「あっという間に忘れられる」ものであるとの確認。それは仕方ないことかも。

縁者たちは皆今生きることに必死だから。

故人たちの想いも「別れの悲しみを忘れて前に向かって生きなさい」それ一つでしょう。

 

何よりこちらの墓地は気軽に行きにくい山の中腹です。

そういう場所に静岡からやってくるというのはかなりの変わり者夫婦なのかも。

ちなみにその「レボリューショナリー・ロード」は夫婦の問題

を描いた真面目な映画です。

あの「タイタニック」のコンビが夫婦役。その映画の続編でも何でもありませんが・・・言い争いなどないように、心がけよう。

 

最後の画像が初瀬墓地に上がる道で出会ったイタチ ?の夫婦。

その姿に癒されたか続けて奥方は山道に歩を進めてくれました。

 

 

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2024年

4月

18日

今度の本山東本願寺(真宗本廟)は私の時間・空間

早朝の激しい雨については前日の関西地区での予報でわかっていました。京都ではそのニュースに敬意を表して急きょその前日夕刻にショッピングセンターに飛び込み傘を2本調達していました。

傘などのお世話になることは1年を通じてそうはないことですが

(少々濡れることは無視)歩きの場所がありましのでその出費を決断しました。

そしてあの格安ビニール傘を広げる気にはなれませんのでごく一般的な雨傘を所望しましたが、二人で5000円弱のお値段。

想定外のこととはいえ・・・

 

京都を15時前に出立しましたが、それでいてその間は雨はありませんでした。背後から雨域が迫っている感はありました。

朝方奈良の宿を出る際には小雨がパラついていましたがその新品の傘の出番は遂になし。

 

奥方は「まぁ記念ということで・・・」ということで1本は車に置き傘しておこうと双方納得した次第。

私の独り行脚でしたら傘などの世話になろうなどいう気は100%起こり得ませんので、勿体ないと思いつつ雨が降らなかっただけでも良かったと続けて納得。

天気予報も案外あてにならない。

 

最近は「嘘」の上塗り破廉恥の件、目立ちます。

あの通訳氏に東京都知事殿の件、続けざまに表沙汰になっているようですが、後者もまた激しく不快感を抱かせます。政治屋の性分とはいえ・・・

双方とも最終学歴の嘘(学歴詐称)について指摘されていますが、都知事殿もどうやらそれ単体で告発されるようですね。

インチキ学歴をもって自らの栄誉の足したいという気持ちについてだいたいわかるような気がしますが、その大学卒業の件、嘘であろうが真実であろうが私どもにとってはどうでもいいこと。

問題はそういった虚偽をデカイ面でもって主張し、のうのうと上昇志向を描くところ。いい加減、くさくさしてきます。

 

扨、昨日はオーバーツーリズム、過去最高のニュースがありました。

私は過度なツアー客人気の場所は敬遠したいという趣向がありますが、もとより「観光」とは縁遠い本山東本願寺参拝となればツーリストなどそうはいないはず・・・と思っていました。

いつもの如く参拝接待所からホールの展示物を観ながらのんびりと両堂のお参りをしようと歩き出しました。

ご門徒さんを引き連れての堂内での時間は制約されてしまいますからこういう時は入念です。

そこで驚かされたのは、洋の東西を問わず色々な言語が飛び交っていたこと。

当方気が小さいものですから遠慮して歩くほどでした。

 

ツアーガイドの姿があるワケでもなく、何故にこちらに・・・と考えさせられますが、やはり京都駅近くで拝観料要らず、お気楽に日本の趣を味わえる場所などでしょう。

あの二つの建物の威容を目の当たりにすればひょいっ、という具合に境内に入っても不思議はありません。

まぁガイド書籍などが流通していることでしょう。

もっと驚かされたのが堂内静粛の中、正座して合掌する彼らの姿を見かけた事。

ガイド書にはそういったことまで記されているのでしょうね。

 

昨日は阿弥陀堂で蓮如上人御影御下向式が執り行われたそう。

14時すぎに真宗本廟―東本願寺を出発(吉崎御坊へ)したそうですが、1日ずれればそのイベントに遭遇したということで・・・

④はあまりこちらを潜ることが少ない阿弥陀堂門。

京都駅からはこちらが近い。

①は参拝接待所から見た御影堂。まだ西方は明るめの雲。

 

 

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2024年

4月

17日

本山参りのついで たまたま竹の子掘りを見学

また昨日の続き。

バイトといえば闇バイトなる語が頻繁に聞かれるようになりましたがそれもいわゆる「カンタンに儲かる」の勧誘に乗ってしまったことが原因ですね。

カンタンに、大した労力も要らずに大金をゲットできる・・・などの思い込みはゲーム世界とともに育った子供たちが負う大いなる錯覚。

 

「カンタンに儲かる」を信じる者は「カンタンにカモれる」の同意でしょう。

自分にとって都合のいいことばかりの、うまい話が転がっているはずもなく、それがたまたま目の前に転がっていると錯覚するのは脳内がゲーム状態に陥っているからです。

 

法律というものの存在があることは承知していても「自分は大丈夫」というのも錯覚。

悲しいかなそれをやらかしてハッと気づいたときは既に遅し。

ゲームの如くリセットはできませんからね。そんなアホ話は三面記事蘭に踊っています。

 

新聞記事にオレオレ詐欺の下っ端、受け子の類であっても高額な賠償責任を負うと。親が自宅を売却して2千万円近く弁済したケースもあるとのこと。

犯罪が表に出てしまえば人生を棒に振ったのも同然、それを取り返すには相当の苦難が待っている事は必定。

親は何とか弁済してチャラにしたいと思うのはやまやまですが、その解消は民事のみですからね。

刑事事件で立件されます。やったことには責任を取る・・・それ法治国家の基本。

それでもその安直な誘いにのってしまうのが今の若者たちの傾向でしょうね。

 

今一度因果の道理について家族内で確認した方がいいのかも。

宗教的因縁もままあることで否定しませんがまずはそれを離れた原因と結果の件。まぁ国レベルの怒りの捌け口もそうですが「やったらやられる」です。

人間というものはそもそもアホなのでしょうね。

みんなそうですからそうは心配することはないのですが、そこに必要なのは自制心。

 

オオタニサンの通訳の違法バクチの件もそうですが「病気だから仕方ない」のみを理由にするのはムリがあるような気がします。違法なる暴走行為のただの言い訳でしょう。

自分の「病気」(バクチ依存症)のことを理解しているのなら治療するよう努力するべきと思いますが。こまった病気を放置している人間が世の中にいるでしょうか?

 

扨、本山には前年の10月にお参りに行っていますが、時間があるうちに今一度行ってみようということで奥方と京都方面に向かいました。奈良は次回の下見。

 

留守番は息子にやらせてのんびり京都奈良辺りの散策を楽しもうというものです。

そういうのんびりお気楽気分での遠乗りはまず突然の訃報が入ってくるというジンクスがありますが、その不安は的中、息子からの電話でお気楽気分はぶっ飛びました。

日延べしていただければ私が帰宅後に動くことができますが、急ぎの通夜と葬儀とのことで私の対応はムリ。

そこで息子の出番。選択肢はそれしかありませんでした。

よって「うまいことタノム」と電話を切りました。

まぁそのための留守番ですからね。

 

ここ二度連続で息子の導師による葬儀が執り行われましたが、奥方には「これでいいのだ」と。

いずれは文句なしで彼が執り行うことになるのですから。

 

画像は京都某所の竹藪。

作業中の方にインタビュー。

「一昔前は竹藪だらけだった。今は家が建ち竹藪はなくなりつつある中、放置される竹藪が増えている」とのこと。

見苦しいことこのうえないということでこの時期にはボランティア有志が竹藪整備を行っていると。

まずその主たる整備とは竹の子掘りのこと。

竹の子を掘ることが整備になるワケで、そのボランティアの対価が竹の子。

 

近くには竹の子の棚店が出て「1円/g」の札が出ていました。

これも「安い」の錯覚、1000円/kgですからね。

京都の青果店に並ぶ旬の竹の子は相当高額です。

それなら・・・とばかりに私が他人様の竹藪に入り込んでそれを獲れば・・・御用となります。

子供の頃は平チャラでそれを取りに行ったものでしたが。

栗もイチジクもビワもカキもミカンも自然薯も・・・海の幸も今はダメ。これも「やったらやられる」。

 

 

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2024年

4月

16日

万葉集「山辺の御井」? 山添村毛原 毛原は京原 ?

昨日記した大学1年生になった彼の祖父よりその場で「注意事項を」と促されたため、いくつか私なりの思うところを偉そうに語ってしまいました。

まず新大学生には誘惑がつきもの。

学内ではクラブ等の勧誘が多数ありますが、一番ヤバいのが「〇〇教会」等でお馴染みの宗教系セミナー。

まずは彼らはその手の態様は一切見せずにハードル下げ下げのお気楽クラブ的なものに化けての勧誘。

ちょっぴり難しそうな問題の提起などしながら和気あいあいと語ろう、学ぼうというものです。

ゆくゆくドツボにハマりたくなかったらその手の連中の存在があること、真面目な人が特に釣り上げられる可能性あるからご注意をと。

 

またアルバイトの件。

バイトは一言で社会人の予備段階として「理不尽」を学ぶ場。

 

先日「『ほめるな危険』心学者が指摘 子どもを打たれ弱くさせる親の特徴」という記事がありました。

「子供を褒めて育てる」が最良であると世の親たちはこぞって子供たちをホイホイ育ててきたわけですがそうなると子供たちは万年ポジティブ慣れし、ネガティブ状態の体験が少なくなり、成長して親から離れイキナリネガティブ状況というものには心身ともに疲弊すること必至。

よって、責任が軽微で少しづつ社会慣れすることができることからそのバイトの重要性を説きました。

 

ただし「カンタンに儲けられる」という言葉は100%嘘八百。その言葉には気を付けるよう・・・と。

儲かる・・・ない、ない・・・そんな仕事。

「そんなに儲かるならテメエでヤレ!!」ですね。

それは貴方をカモにしようとする言葉。

社会に出るということはそれなりのリスクがあります。

「自己責任」なる嫌な言葉が控えていること、承知しておいて欲しいです。

 

扨、昨日は山添村から宇陀に入ってスグの地にあった阿弥陀さんの摩崖仏について記しましたが、その山添村には村指定文化財に指定されているという「山辺の御井」 (やまのべのみゐ) なる井戸があります。

「御井」というくらいですからタダの井戸とは違います。

万葉集に歌われた井戸と。

しかしその歌の「山辺の御井」については諸説あって特定はされていないようですが、この案内板の記述を読めばなるほどと思うところ。

毛原は「古(いにし)え京原と称し、帝都たりし当時の飲料水(天子の御井)ともいう」・・・面白い推察です。

 

 

 

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2024年

4月

15日

下笠間永仁ニ年1294 阿弥陀磨崖仏 笠間川彼岸

夏日。ついつい浮かれてしまいますが朝夕など油断すればヤラれます。

先日、法要のあとのお墓参りも終わりすべて終了した際の立ち話で。

その家の孫から「今度〇〇大学に入学が決まった」と大学生生活のスタートについて報告をうけました。ほとんど幼稚園の頃より見知っていましたが、今や身長190超え。

まったく信じられないような成長ぶりで思わずお父さんとお母さんの背と比べてしまいました。

両親はそれほど高身長ではありませんので、身長は遺伝するとは限らないということがわかりました。

何か他の要素も関わってくるのでしょうね。

 

扨、久々に奈良の長閑。

山添村から笠間川沿いに宇陀市に入った辺りに下笠間永仁阿弥陀磨崖仏があります(場所はこちら)。

拙ブログではかねてから大和路の石仏・摩崖仏について適宜記していますが、久々に。それも立ち姿の阿弥陀如来です。

案外と立ち姿の阿弥陀さんの摩崖仏はそうは例を見ませんのでたまたまそちらを通過した時に案内板を見て車を降りました。

「おい、お前さん・・・」という具合に呼びかけられたような気がしたものです。

 

ちょうどその笠間川の対岸の崖にその阿弥陀さんがおはすわけですが、何故かそのためだけなのか橋が一本架かっています。

よって彼岸と此岸をイメージしながらその橋を渡ります。

渡し賃もありませんし細くて白い道ではありません(二河白道)でした。

阿弥陀さんにご挨拶して現世(此岸)に戻りました。

多様な仏たちと遭遇しますが、阿弥陀さんの場合、高揚感は特別です。

 

 

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2024年

4月

14日

季節はどんどん進む 某家五十回忌へ YAMAP

先日まで寒いだ何だのとボヤいていた私でしたが、ここ数日昼間は夏の空気、半袖1枚で過ごせるようになりました。

昨日は法要と葬儀が重なって通夜・葬儀を息子、私が回忌法要に向かいました。

その判断としては、その法要には多少の複雑さがあったからですがまぁそういうことは彼にも経験していってもらわなくてはイケません。要は時間的制約もありました。

また息子にはよりによって神奈川県内からの法要依頼があったわけでそちらをキャンセルしていました。

殆ど毎日ぼけ~っとしているわけですが重なるときは重なる・・・。

 

その複雑さの件。

各法要は施主の希望に沿った形で承りますがそれが

①まず自宅お内佛でご挨拶。勿論御文はお内仏常設のものから拝読します。

②区域の墓地へお参り

③そして拙寺本堂で本法要というパターンです。

以前はお斎にお呼ばれしていましたが今回は志納ということで。

そして「お斎にどうぞ」という具合にお招きいただいた場合、彼はすべて未知の4カ所に向かわなければならないということです。葬儀でしたら葬祭場と火葬場だけでそれも、事前に位置は分かっていますので。ちなみに通夜前日の枕経には私がお邪魔していました。

 

私が担当した回忌法要は50回忌母と23回忌父のお二人。

そのお二方(ご両親)の娘さん二人としばし。下の方が「母が亡くなったのは19歳の時」といいますので現在は69歳ですね。

病気療養の看護と葬儀の件、ハッキリと覚えていると。

半世紀前の衝撃ですが、それでも「母の歳は超え今は孫が11人いる仕合わせを」噛みしめているようでした。

私もつい「一人ください」と突っ込んでいました。

あなたぁまだ若いんだから・・・と返されてしまいましたが、それほど残りの時間が豊富とは思っていません。

 

扨、先日は「女墓場放浪」から画像が。

身延山を歩いたとのことで、彼女が最近山登りで使っているソフト「YAMAP」の導入を勧められました。

その動画も添付されていましたが、かなりの優れものの感。

ルートを外れるとアラームが鳴って教えてくれる・・・とのこと。

しかし、私はその手の山歩きは滅多なことではありません。

 

山城それも大きいヤツ・・・たとえば上平寺城を起点にした伊吹山系などを歩くには便利かも知れません。

ルート各ある山城専門の地図ソフトがあればよかったかも。

折角の推奨でしたが私はただの地図ソフトでOK。

 

⑥⑦⑧は昨日の拙寺境内。

絶対に裏切らないユリたちはぐんぐん成長しています。

身近なもの信じていたものに裏切られることは辛いでしょうね。オオタニサンの通訳の件、盗みの額は半端ではありませんし各所に与えた衝撃も、ショックは計り知れないところ推察しますが、彼だけは別世界に君臨して欲しいものです。

 

 

 

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2024年

4月

13日

信玄塚とセット 川尻塚再訪 旧約聖書ソドム~の件

昨日は天から降ってくる大迷惑な物体Xについて記しました。

人為的かつ想定外の事なのでしょうが、その「想定外」の語はただの言い訳・戯言の類。まともな検証をしてこなかったことの裏返しです。

人のやること為すことの不安定は今に始まったことではありませんのでその行為の結果、損失を被った人がいたとすれば「ごめんなさい」の色を見せて金銭的補償をすればイイだけの話ですからね。

それでもその「ごめんなさい」が発せられない種類の人がその中にいたとすれば、厄介なこと。話を複雑にしてしまいます。

その件不安要因第一義となるわけで。

 

ところがその天から降ってきた迷惑な代物への歴史的検証をする番組がありました。

もっともそれは人智を超えた一現象、宇宙から飛んできた隕石・火球のお話でした。

 

以前から地球への隕石の落下による地球規模の天変と生物にとって絶滅と再生のをもたらしたことの推定がなされたことはよく聞いてきたことですが、その番組の検証は人類歴史が始まってからのこと。

またかなりのインパクトのあるものでした。

番組は「フロンティア ー 旧約聖書 滅亡の街の真実」なる

タイトル。番組紹介から

「青銅器時代に栄え始めたというタル・エル・ハマム遺跡。

2015年、そこで一角を掘り下げると激しく損傷した床が発見された。さらに焼けて焦げたレンガなどのがれきが1m以上も積もっていた。いったい街で何が起こったのか? 

解明するため考古学・宇宙物理学などさまざまな分野による研究チームが結成された。すると、がれきは当時の文明では人工的におこすことができないほどの高温で焼かれていたことが明らかになった。」というもの。

 

その古代都市の消滅が旧約聖書に出てくるソドムとゴモラの物語に繋がった(かも)と人々の興味を大いにそそる番組でした。

3600年前に南西方向から飛来した火球が死海上空で爆発してその街を閃光と強烈な衝撃波で焼き尽くしたといいます。

巨大な石臼等が揃って北東方向に飛ばされている様が映像で示されていました。

その後この地から人々の歴史は一定期間消えてしまうわけですが、それは死海からの大量の塩が土壌に降り注いで堆積し農作物の耕作ができなくなったことを意味している・・・との推察。

 

面白い検証でした。

旧約聖書の記述はただの物語、日本で言えば古事記に日本書紀同様、殆ど伝説・荒唐無稽・都合のいい作り話というのが私のスタンスでしたが、そういった古い記述はまんざらデタラメな話ではないという気がしてきました。

 

何よりソドムとゴモラ(都市名)は旧約聖書『創世記』にて「天 

からの硫黄と火が降り注ぐ」が原因で滅んだとの記述ですが、その理由として両都市の民たちの不徳と頽廃があって両都市の焼滅は天罰、裁きであったとの教訓的記述でもあります。

昔から因果応報、罰が当たると言いますがまさにそれですね。

 

古今東西、罰当たりの不徳の輩には非業の死が待っているというのがそのつきものの如く云われてきました。

私自身「徳があって善良」とは思いもしていませんのでそのような死が私にもたらされたとしても文句は言えません。

しかし私も一般の人々と同じで、有頂天になってますますの増長の心など微塵も持ち合わせていませんから天は許してくれるかもの安直。

しかし人為的ではないその天から降る隕石・火球はその手の人間の些細な善悪の差とは関係なく突然の大量死をもたらしますからね。

こればっかりは怖いけれどもどうしようもなし。ただただお調子にのることなく、反省しながら「おかげさま」「生かされている」といったスタンスであとの人生を全うできればと。

 

扨、昨日の信玄火葬墓のお向いにあるのが河尻塚(躑躅ケ崎 円光院 信玄塚との位置関係)。

府中では悪政で通っている方。

というわけで信玄塚にお参りしたあとは前回同様河尻塚へ。

信玄塚の石塔とは大違い、甲府の民の恨みを受けて逆さに埋められたという河尻氏。

石塔も欠けたまま、後世こん棒でブッ叩かれて壊されたのでしょうかね。

そして相変わらず転倒しかけているままでしたがこの墓をキレイに保とうという地元の意志は動きにくいのかもしれません。

 

 

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2024年

4月

12日

土屋昌次邸にて火葬 信玄火葬塚 墓前法要は4月12日

先日のアメリカかでのできごと。

上空から空き缶より一回りほど小さいサイズの金属片がフロリダの住宅の屋根を突き破って、床板までも破壊したというニュースがありました。

人の身体に少しでもかすっただけで相当なダメージを受けそう事案ですし、聞くだけで震えてきそう。

そもそも壊した家の原状回復、補償の責任というものが発生します。

 

NASAが調査に乗り出しその物体の正体と責任の所在を探っているようですが、タイミング的にJAXAの荷物台(約2.9トン)を廃棄(大気圏に突入させるために放出)した時期と重なっていることからまずその責任はJAXAが負うことになるというのが大筋の

見立て。

 

隕石やロケット部材など、高速で大気圏に突入すればまずは燃え尽きて塵になる・・・というのがこれまで聞き及んで知ったつもりの私でしたが、このニュースには驚かされました。

世界各国が宇宙探索や衛星の打ち上げ、宇宙ビジネスに躍起になっている現状、要らなくなった宇宙空間に漂ういろいろを「放出」したり失敗して落下させることが今後多くあるはず、そんな超高速で落下してくる金属片が地上にどれだけ甚大な損害を及ぼすのか・・・考えるだけで恐ろしい。

 

そして、その物質の判明・断定に時間を要していますね。

それだけ判りにくいことはわかりますが、判断が難しいということはひょっとしていずれ責任のなすり合いが発生し、まともな補償は期待できない・・・という不安が。

特に北朝鮮あたりもスパイ衛星をバンバン打ち上げると息まいていますのでそらおそろしいこと。その衛星関連の何かしらの物体が頭の上から降り注いでどちらかの人々を傷つけ、地上の建造物等を破壊したとしても「知らない」「ぬれぎぬ」「フェイク」などとシラを切って責任を逃れはしまいか・・・ふと思った次第。

 

宇宙に関する取り決め、ポカをやったときの責任をロケットを打ち上げる国はハッキリと示していただきたいものです。

あとあとの責任能力のない国にロケットを打ち上げさせることの阿保らしさ何とかならないか、供託するとか・・・、たとえ金属片となったとしても元の所在をハッキリと確認、追跡調査できるような技術向上が望まれます。

そんな物が天から降ってくるのは、たまったものではありませんからね。また金さえ払ってもらえればOKといった類ではありません。

 

扨、円光院から下ってスグの場所に信玄の火葬墓があります。

以前も記していますが、再掲です。

またヤツブサウメ(円光院)の画像がありましたので・・・

そして4月12日は信玄の命日。

こちらで墓前法要が営まれるとのこと。

 

 

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2024年

4月

11日

円光院 三条の方は本願寺顕如の妻 如春尼の姉

本堂の中と外では体感温度、大違い。

この日は法要後にご納骨があり、施主が石屋さんとはコンタクトしてはいたものの大幅な遅延がありました。

「堂内でしばらく待ちましょう」と一旦外に出た皆さんを本堂内での待機を勧め、堂内に戻っていただきましたがスグに皆さんは外へ出てきてしまいました。

日の下にいた方が断然の心地良さだったからです。

庫裏の中も本当に寒い。よって午後は外で植栽遊び。テラスの植物たちをすべて下ろしました。

早朝温度低下(8~9℃)の予想がありますので、少々気の毒ではありますが。

 

扨、円光院といえば・・・といえるほどのその象徴的ともいえる人がいます。

三条の方・・・「円光院殿梅岑大禅定尼」からです。よって三条夫人の菩提寺。

その方といばその名の通り京都公家の三条家から信玄の継室として府中へ入りました。

左大臣三条公頼の次女です。

姉が細川晴元室、妹の如春尼は我らが本願寺顕如の妻で姉妹の夫たちの顔ぶれは錚々たるもの。

その顕如と如春尼の子供達が今の東西本願寺に分かれた元になっています。

要は三条の方は本願寺の親戚筋にあたる方ですね。

 

どちらの家でもそうですが奥方の思いや主張は家の方向性を決めるものです。

時系列を記せば三条夫人は元亀元年(1570)に亡くなります。

そのあとの数か月後、その年から天正八年(1580)年の間が石山合戦になりますが、三条夫人の妹(如春尼)の「家」 (本願寺)が信長の手によって窮している様を見た、信玄が甲府を発つ尻を押したというところ、大いに推測するところです。

勿論、顕如からの救援の依頼もありますが三条の方への思いが増幅したことでしょう。

結果的にその上洛劇(元亀三年十二月の三方ヶ原戦のあと明けてしばらく)が信玄の命取りになったのですが。

 

よって各説ありますが、信玄の西上は「上洛」ということで。

 

三条の方と如春尼を比較してしまいますが、ともに戦国の世を行き繋いだ女、母ではありますが三条の方にとってはあまりにも辛い事が多かったよう感じます。

顕如と信玄も「家」という視点から見ても相当なる違いが出現してしまいました。

 

ということで円光院には三条夫人の墓域が本堂の裏方にあります。

そちらの宝篋印塔は幾度か組み直され、位置も変えられているそうですが、各欠損に折れの跡が痛々しい。

塔身四面に「大日」の文字があるというのが特筆と。

⑨と⑫図、微かに判ります。

 

大日といえば真言系をイメージしますが、五輪塔も宝篋印塔もそもそもその系統として大日如来の提示は不思議なことではありません。

ただし四面にそれを文字として刻むという類例を知りません。

⑭墓域前には別の宝篋印塔や⑮累代僧籍にあったお寺関係者でしょう、その方々の墓たちが。

 

 

 

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2024年

4月

10日

甲府五山の一 円光院 信玄公祭りは4月12日

午前中の激しい雨は昼前には嘘のように上がって暖かな日差しが注いでくれました。

テラスの南洋系植物たちの数鉢を外に出し少々の手入れ。

取付いたアブラムシを除去してやることが一番の目的でした。

今回枯れたものは一鉢だけとあってまずまず。

彼らにとって越冬は命がけですが、軟な私もそれは同感です。

何とか寒い冬を越すことができたご縁をあらためて噛み締めることができました。

 

扨、甲府盆地の北東にある臨済のお寺、円光院

甲府五山なる語がありますがその一つになります。

見どころはたくさんありますが、通常は拝観できないのが信玄の守本尊二体。

躑躅ケ崎の毘沙門堂に安置されていて進軍の際には信玄と同行したと。

右が三面十臂(じゅっぴ)獅子に乗った刀八毘沙門天。

左が白馬に乗った勝軍地蔵尊。鎧の上に二十五条の袈裟を掛けています。

天正元年(1573)4月12日に信玄が亡くなりますがこれら二つの仏像は馬場美濃守信春によって円光院に。

 

その二体の仏像は命日近くに行われる「信玄公祭り」に御開帳されるといいますが、その時の甲府はこのお寺も含めて混み合うことでしょう。

私はパレードの見学は苦手です。

 

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2024年

4月

09日

相良仏教会 花まつり法要 善明院にて

曇りと小雨が交互に。

しかし殆ど小雨の時間が多かったような。

9時前に花まつりの法縁で須々木の臨済のお寺、善明院へ。

昼過ぎには解散しましたが、お天気の様子が気がかり。

昨日記しました先週土曜日の春の法要で出まくったゴミの処分機会を伺っていました。

すると1330頃になって雨が止む時間帯が。

「これならイケル」と屋根下に置いておいた花ガラやらゴミ類を軽トラ荷台に積み込んで地頭方処理場へダッシュ。

ポツポツと来ましたが、うまいこと処理できました。

 

扨、善明院の本堂は新築ピカピカ。

昨日初めて堂内を拝見した次第です。

本尊が私どもと同様、立ち姿の阿弥陀さんということでこの日を楽しみにしていましたが厨子に納められていて面会はできませんでした。

中央本尊脇にも厨子があってその中の仏さんたちにも興味がありましたが、それも同様ご対面は不可。

御一同そのオープンの日にちは決められていますからね。

 

何から何まで私どもの寺との違いを見たわけですが度肝を抜かされたのは巨大な大キン(画像③の右端に)。

読経中にその響きが披露されましたが重厚でその深い余韻は圧巻でした。

また画像にはありませんが木魚も巨大。

 

最後の画像は境内本堂前に立つ樹木(イスノキ+クロガネモチ合着)、県指定天然記念物の指定書です。

 

畳の新品時のカビだらけの対応は苦慮したとのこと。

コロナ禍でアルコールが不足していた頃だったそうです。

新しい畳は気持ちいいものですが、必ず厄介なカビが生えます。

人が歩けば当然の事ですがね。

広い堂内の畳拭きは相当の労力であることは私も経験済みですがその苦労も他愛もないことと割り切れるであろうほどの新装まっさらの本堂。

 

 

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2024年

4月

08日

円光院から府中(甲府) 宇宙神代桜とヤツブサウメ

晴れが続いて何より。境内作業が捗りました。

ただし法要、寺楽市の残材を処理できない(処理場がお休み)ストレスはありますが・・・。

月火と雨予想、それも時折激しく・・・とあっては数日は手も足も出ません。

 

扨、府中(甲府)の郷の冬は南遠の地に生活する者にとっては特に痺れます。

先日来、続けて躑躅ケ崎について記していましたが、そこからごく近い場所にある円光院。奥方は寒風の中「車に・・・」とは言わず一緒に境内を歩いてくれました。

基本的に墓は付きあわずともお寺の境内は見て歩くことに抵抗はないようです。

たまたまお会いした武田住職から二本のかわりだねの植物を紹介いただきました。

雑談の中、静岡空港には3回ほど行ったことがあり、山梨のお菓子屋シャトレーゼの社長さんとお知り合いのような・・・

 

ただのサクラとウメといえば何らの珍しさもありませんが、そちらに植えられているのが宇宙神代桜とヤツブサウメです。

一般的にそう耳にする種類の代物ではありませんね。

 

宇宙に行ったサクラ(画像参照)とスグ近くの信玄火葬墓にある天然記念物のウメ(最後の画像)でしょう。

双方まだ幼木ですが、大きくなっての満開が楽しみです。

住職の趣味は私と同じか。ただ寺のスケールは雲泥の差です。

 

 

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2024年

4月

07日

お日さまの下 春の法要勤修 葷酒歓待遊門

何より好天有難し。春の法要。

準備未達は、少しばかり早起きして解消。

世話人様御一同が大いに動いて午後一時過ぎにすべて終了しました。

息子が浜松より駆けつけてお勤めも満足。

私は彼との読経は音程の違いが甚だしいため、皆さんに隠れて発声なし。

 

御文は五帖-四の「男子も女人も~」でしたが息子は「拝読したことが無い」とのことでそれだけは私のお役目となりました。

「蓮如さんの心がこもって私たちに伝えているものが御文さんである」よって「多様なものに触れるように・・・」と彼に注文を付けておきました。

 

「男も女も(罪の深い衆生)差別なく「たすける」と誓ったのが阿弥陀如来。みなさん仏恩報謝の念仏を申しませ・・・」のスーパー意訳。

 

五帖-四

『そもそも、男子も女人も罪のふかからんともがらは、諸仏の悲願をたのみても、今の時分は末代悪世なれば、諸仏の御ちからにては、なかなかかなはざる時なり。

これによりて、阿弥陀如来と申したてまつるは諸仏にすぐれて

十悪・五逆の罪人をわれたすけんといふ大願をおこしましまして、阿弥陀仏と成りたまへり。

「この仏をふかくたのみて一念御たすけ候へと申さん衆生を

われたすけずは正覚ならじ」と誓ひまします弥陀なれば

われらが極楽に往生せんことはさらに疑ひなし。

このゆゑに、一心一向に阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑ひなく信じて、わが身の罪のふかきことをばうちすて、ほとけにまかせまゐらせて、一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑ひなし。このうへには、なほなほたふとくおもひたてまつらんこころのおこらんときは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と時をもいはず

ところをもきらはず念仏申すべし。

これをすなはち仏恩報謝の念仏と申すなり。

あなかしこ、あなかしこ。

 

この日はお調子にのってぺらぺら。

その御文から関連付けて歎異抄1条を拝読。

「罪悪深重・煩悩熾盛」の私・・・と冒頭。そのあとはのらりくらりと来年の大河関連で拙寺がアピールできそうな点をピックアップ。

奥方から「話が長すぎるぞ、コラ」と怒られました。

 

扨、「葷酒禁入門」の結界標については何度か記していますが

まぁ拙寺の場合はその真逆、「葷酒歓待遊門」とでもいいましょうか。

本通りの池田屋酒店が毎度拙寺のイベントに飲み屋の出店をお付き合いいただいていますが、これまでは結構アバウトな感じで気楽にやっていただいていましたが、息子氏より修正指摘をいただいたそうで初めて各種掲示が・・・

③画像の通り申請住所は大澤寺境内地になっています。

 

来年の「ブラ田沼」としてお客さんが来られた時の事を想定し「いろんなお店を出店しよう」と声掛けしていますがそれに応えて準備が進んでいるということです。

これから清酒「田沼意次」の登場、その販売もありますからね。

池田屋さんの場合は商工会との兼ね合いがあることと「酒」という税務の問題が出てきますから完璧を目指しています。

ただし多くのご門徒さまには「境内は楽市楽座・治外法権」

ショバ代なし」につき大いに楽しみましょうと大風呂敷を広げているところ。

多くのアイデア商品が出てくることを期待しています。

 

まぁ、お客さんが大挙して来られてこそのお楽しみ。

 

①②は初まいり新生児、御結婚、88・99ご長寿記念参加者にお渡しした紅白餅大。スペア用に注文していたものを切りました。年々餅の価格は高くなっていますがこの餅は確かな質。

その日の内に切っておかないと硬くなってしまいますから。

食べきれませんから冷凍庫に入れて保存食に。

 

 

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2024年

4月

06日

躑躅ヶ崎 西曲輪から主郭 中曲輪へ

朝は曇天、それなりにちょこちょこと動いていましたが9時30分頃からポツポツつと始まって終日小雨が続きました。

よって法要の準備の進捗はゼロ。

 

最近は墓じまい、整理が続いたせいで我が家には現状骨壺がゴロゴロと散らかっています。こればっかりはカンタンに整理がつきません。片付かないということです。

古い骨壺が5個ばかり庫裏の外―勿論他人様の目に触れない場所―にあります。

庫裏には納骨後の空の骨壺が5.6個、本堂には納骨前のものが7個ほどありますが庫裏内のものは早く何とかならないものか思案中。暗がりで蹴躓きます。

葬祭屋さんが来られた時にでも回収していただこうとタイミングを待ちますが、なかなかうまいこと行きませんね。

泥棒さんが入ってきたらビビらせる材料にもなりますのでまぁ、あったとしてもお寺らしくていいかも・・・。

 

これは時々記していますが骨壺が陶器でなくお焚き上げの出来る段ボール製だったら何てラクなことでしょう・・・陶器屋さんと結託しているのでしょうかね。

真宗は骨壺に入れたまま納骨することは推奨しませんので。

単純に入れ物としての機能なら素材を選びません。

 

その手の話を続けますが、以前銀行関係にお勤めの方からお聞きした話。

火葬場から持ち込まれた貨幣の両替を求められることがかつてあったと。

それは明らかに高熱に曝されたであろうもの。変形しているものも私は幾度となく現場で見ていますが、棺の中に入れられて遺体と一緒に火葬されたものですね。

それらを纏めて「ハイお願いします」という具合に持ち込まれたといいます。

すると「何か独特の匂いがある」との談。

私はその匂いまで嗅いだことがありませんのでわかりませんが、焼けた大量の金属を集めたものに酸化が進んで「臭い」(その方の表現)と感じたのでしょう。

 

ちなみに一般的に貨幣・通貨の投入は禁じられていますので、それはご法度になります。しかし枕元にこっそり忍ばせてしまえば現場担当者には気づかれませんからね。

六文銭(冥銭)の代わりと5円玉10円玉を入れる風習をいまだ実践される方がいらっしゃる・・・値上げラッシュの現在、60円の渡し賃だとか六地蔵に10円づつ・・・驚かされますが、その低賃金はかなり虫が良すぎますね。

 

それらの計算は若い銀行員のお役目だったかと思いますが、あまり気分のイイお仕事ではないかも。変形によって機械では選別できないでしょうから。

また、別の銀行系の方も神社賽銭の集計作業でおカネの中から紙に包んだ入歯が出てきたといいます。

さすがに拙寺の賽銭箱にはその手のものの投入はありませんが

あるとすればスロットやゲーセンのメダル、外国のコイン程度。

あと歯科医院に務めていた方から・・・治療後の金属冠類は患者に返却することはありませんが金の場合は特に選別してプールしているとのこと。

火葬場の灰の回収に入札があることでも盛り上がりました。

 

扨、昨日の躑躅ケ崎の西曲輪から堀に架かる橋・・・これは土橋状ですが下部に石積みが見えますーを超えて主郭部分に入ります。

外側の堀から水を引き入れる工夫がなされていたのでしょうか。

 

 

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2024年

4月

05日

躑躅ヶ崎 一番の景色 西曲輪北側桝形虎口

朝だけお日様がでましたが、それは一瞬間でした。

以後ずっと曇天。

雨が無い分一応は土曜日の春の法要の準備をぼちぼち。

土曜日はどうやら雨降りから逃れられたようで有難いこと。

文句など言っちゃあイケません。

もっともこの日は奥方の出番ばかりでしたが。

それは本堂の打ち敷やらお花の用意で私は用なし。

雑多な用をこなしました、MLBを気にしつつ。

 

扨、躑躅ケ崎を訪れたのは確か4度目でした。

戦国領主の館、堀と土塁は見る者をさすがと思わせますがいわゆる平城で山城行脚に慣れた者からすればイマイチの感。

ただしその景色としてあそこの図は私のみならず城郭遺構好きには納得の場でしょうね。

 

それが西曲輪北側桝形虎口です。

昨日は東向きの大手門について記しましたが、この西側の曲輪の北門が搦手になるのでしょう。

躑躅ケ崎に来たらここに訪れるのがお決まりです。

 

①②③は先日記した信玄ミュージアム前の道を西方向に進んだところ。北側はあいかわらずブルーシートに覆われていました。以前と同じ、進捗は無さそう。

何が出てくるか、何が復元されるのか・・・こちらも広大な敷地です。

 

 

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2024年

4月

04日

躑躅ヶ崎 大手門東 復元土塁

雨の一日。

午前は台湾の地震による沖縄の津波警報のニュースが。

台湾の市街地のビルが倒壊している様を再び見せつけていました。崖崩れの様も恐ろしい。

今、極東のプレートはそこここで動いて、地上にいる我らを苦しめます。次はどちら・・・というところ気になりますが、毎度勝手な事を記しますが「私のところには来ないでね・・・」可愛くお願いしても無駄か・・・

 

扨、昨日は躑躅ケ崎、信玄ミュージアム。

甲府市街、甲府駅を背にして北方向へ緩やかな坂を上がりますが

突き当りになる躑躅ケ崎館の手前右側(東)の現地名は「大手」ちなみに左側(西)の地名は「屋形」です。

ということで大手門は当然に昨日記した神社鳥居辺りかと思うところですが、城館大手はそちらではなく、東側の宝物館直近の入口になります①②。

 

その大手前、堀を隔てた場所が現状整備復元された公園になっています。拙ブログでは2度目になります。

そのずっと以前にこちらを訪れた際はただの荒れた土地という感じでしたが、今はキレイに仕上がっています。特に冬場は・・・

平日ならば誰にも邪魔されない絶好の散策を楽しむことができましょう。ただし桜が咲き出す候は人々が・・・

 

 

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2024年

4月

03日

躑躅ヶ崎のマヌケ 信玄ミュージアム 穴山信公屋敷跡

大切な晴れ間とあって朝7時過ぎから境内に躍り出て雑務いろいろ。以降低気圧通過があるといいますので。

先日来の雨続きに、植物たちは強烈な生命力を発揮し、いよいよ私を苦しめます。

寒い冬がようやく終わって、お気楽気分で外に出れば墓地ほか周辺は雑草だらけ。

雨天前に除草剤を撒こうという算段です。

スイセンだ梅だサクラだと喜んでいましたが、テキトー、勝手なものですね。同じ植物なのに・・・

 

扨、昨日は平日の晴れ限定ながらふつと思い立つとき、何処かに向かうことがままあるあることを記しましたが、主たる目的の場所が博物館・図書館系ではヘマをやらかしています。

その頻度は何故か有りえないほど高く、幾度もその前で地団太を踏んでいます。

それが休館日の件。

 

土日の法要のあと翌月曜に空が晴れ渡ったりすれば心に留め置いていたその手の展示物に逢いに行きたくなるというものです。まず決まって月曜日といえばその施設の休館日でそれも全国的に。

これまで幾度もその「月曜日の悲劇」のポカをやらかしていますのでその曜日だけは注意するようになりました。

要は「月曜日に動くな」ですね。

 

土日祝日は当然にその選択肢にありませんが、それに「+月曜日」はダメ・・・として頭に入れるワケです。

それでいて土曜日に法事があればその前日に遠方をブラつく気分にはなれませんので金曜日も不可。

よって私が自由に動ける曜日は火水木になりますね。

 

その日は日帰りで甲州に向うことになりました。

「武田氏館跡歴史館」別名「信玄ミュージアム」は前回こちらを訪れた際はオープン前の事で「次回必ず・・・」と思いながら数年を経ていました。

 

朝は、空の青さに背中を押され奥方を引き連れて躑躅ケ崎へ。

現在は武田神社が躑躅ケ崎館のこと。

甲府市内を見下ろすような立地にあるその神社の鳥居の前にその「信玄ミュージアム」があります。

車を乗り捨てて「さあ・・・」と気合を入れて奥方とその入口に立って呆然。

なんとその日は火曜日、そして火曜が休館日。

「まさか」の一言ですが、隣の奥方に「マヌケ」と吐き捨てられました。

「聞いてないよ~ (火曜休館なんて・・・) 」と言い訳をしましたが「事前調査がなってない」とのお怒り。

私は「また来ればイイ」と苦笑い。

 

画像は躑躅ケ崎正面側の色々。

穴山信公屋敷跡の標識があります。

看板裏には家臣団屋敷跡の図が。

 

 

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2024年

4月

02日

「旅籠屋金沢内灘店」営業終了の報せに唖然

あっという間に4月・・・などと昨日記しましたが、ということは能登半島沖地震からも3カ月が過ぎたということです。

昨晩のクロ現はその地震による被災地の状況が、「殆ど変わっていない」という現実を告げていましたと。崩れた家屋と瓦礫がいまだそのままになっているということです。

素人目から見てもどこから手を付けていいのかわからないような光景ですが「ほとんど手つかずのまま」というのも呆れさせられるばかり。

「その時はこうなる」の現実と将来の私たちへ、その覚悟を無理やり押し付けられたようにも感じます。「その時、国は助けない」の見せしめ・・・?

 

特に番組内で放映された、押しつぶされた家に閉じ込められた方のスマホ動画はリアル。

「よく助かったものだ・・・」が第一印象。当初はその方のスマホの電波は圏外といいますが、何とか空間を見つけて上部に這い上がってから、そこで手を伸ばすと電波が届いて助けを呼ぶことができたとのこと。

今一つ、思うことは電池がそこまでよくもったということも。

何度も119へのヘルプの履歴が紹介されていました。

 

1度目の揺れをやり過ごしたあと2度目のそれで家があっという間に倒壊したそうですが教訓としてやはり「即 外に出ること」を伝えていました。

しかしそれはタイミング次第、なかなか難しいことです。

 

扨、私が遠隔地を訪問する際は日帰り行脚も時にありますが宿泊先を求めます。時間を有効に使えますからね。

ただし行き当たりばったり、平日のお天気を見て突然動き出すことも。

そこで宿屋を所望すことがあるわけですが、私のその要望に安直に応えてくれるのが「旅籠屋」です。

目的地によってはその所望は実現不可のこともありますが、できるだけ直近のそちらを頭に入れつつ無計画に出立するのが毎度の事。最悪車中泊も配慮の内(これまで一度もなし)です。

 

その旅籠屋、数ある中、金沢で私がかつて投宿したそちらの件、ネット上の新聞記事を見て驚かされました。

なんとあの能登半島を襲った地震により、その宿屋は相当なダメージを負い修復困難となって営業を諦めたとのニュース―「内灘のロッジ『旅籠屋』閉店地震で損壊、再建断念」 (北國新聞)

―でした。

能登半島でも金沢あたりだとそれほど大きな損壊は免れたというイメージでしたが、まさかの思い。

 

画像は日本海側から見たその宿屋。

「のと里山海道」の入路になり、そちらを海伝いに飛ばして能登半島へ向かいます。

北陸方面へのベース基地を失った気持ち、また何とも言えぬ虚しさを思います。

 

 

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2024年

4月

01日

拙寺春宣言 ソメイヨシノとシダレサクラ

あっという間に4月の声。

その時間の動きだけは面白くもなく。まぁ厳冬をやり過ごし命が繋がっているということだけでヨシとしましょう。

人間「次」だとか「もっと」「More」の気持ちが出だしたら御仕舞ですからね。

何故って・・・仏たちが見ていてその有り様を処断するから・・・

ただまかせる・・・自然法爾ですね。

しかし我らはいつも見苦しい躰を晒すばかり。

阿弥陀さんにも見捨てられかねない・・・

 

境内のソメイヨシノは一昨日の静岡の開花宣言と同時に咲きだしました。

本堂裏、南側墓地のそれで拙寺各種の中で一番に賑やかに咲いてくれる個体です。

その近くにある魚才さんに歓んでもらっていた枝垂れ桜も一輪だけ開花していました。

その才次郎さんも今は施設に入所されてしまい、境内はいよいよ寂しくなっています。

 

数日前に檀家さんから、家の墓石裏にできた空間を何とかしたいとの相談を受けていました。

これはその裏側の墓石が撤去されたために背部が露わになり

中の土砂が流出しつつある様を呈していました。

私もその件は承知していましたがいずれどなたかがその背後に墓石を建碑されればすべてが解決するだろう・・・との安直から気に留めることはありませんでした。

 

ところがその問いかけをされた彼はこれまでずっと何かしなくては・・・とその対策を考えていたようです。

そこで私に「左官屋・石材屋に依頼」することを打診してきました。

その件、結構だがこれならD.I.Yレベルでいいのでは・・・と返答。

そもそも墓石の裏側でいずれ隠れてしまうところですからキレイに仕上げる必要はないということです。

よって日曜は朝から法事もないので「お手伝いましょう」と約束していた次第。

 

作業は日曜ごとに少しずつ行っていくことで決定、昨日は空洞底部に型枠を設置しセメントを2/3程度流し込んでおしまい。

次は残りの部分の2/3に型枠を延長し残った隙間から再びセメントを流し込むという作戦。残った上部の隙間は左官仕事で埋めようという算段です。

 

①は今年の文芸まきのはら。

静岡の秋野氏より提供いただきました。

一昔前はもっと檀家さんの名前があったものです。

これを見ても寂しさが。

②は相良草競馬のポスター。

最後に観たのが子供たちを連れた30年近く前の事。

以来そちらの浜に出向こうという気は起らなくなりました。

それは法要が忙しいことよりも馬が可哀そうと感じたから。

あのデカイ目に前走の馬がまき散らす砂が入って尚、必死に走らされる様は気の毒を。まぁギャンブルの競走馬もその類か。

 

いつ、南洋系植物を表に出すか・・・春の法要後に考えましょう。

 

 

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2024年

3月

31日

清水山城 主郭へ 礎石と琵琶湖遠望

午前は本堂前の掃除と草むしり。

雨続きで数日間ぼけーっとしていたところ雑草たちの天国、生えまくりの様。

桜咲いたの声が聞こえてくるということは「そーいうこと」なのでしょうね。

 

昨日は硫黄島で日米合同の戦没者追悼式が催されたとのニュースがありました。

ハリウッド映画好きの私にはその玉砕の島の名を聞けばC.イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」 (Letters from Iwo Jima)でしょうか。

イーストウッドの主演映画や監督作品について拙ブログでも思いつく度に記していました。私はその人の映画を観て育ったといってもいいくらい、彼の信奉者でもあります。

直近では「運び屋」の最後の台詞「家族」について記しましたがこれまで多くを語ったのは「マディソン郡の橋」だったかと。続・夕陽のガンマン」も。

 

「硫黄島~」はハリウッド製の映画ですが本編主人公(栗林中條―ケン・ワタナベ)ほか出演者は日本人ばかり。

よってアメリカ国内の上映では英語吹き替えになったという異色の映画ですね。

アカデミー賞4部門にノミネートされるほどの評価がされた映画でケン・ワタナベの縁起とその存在感は圧巻でしたが軍人とはいえ日本にもこういった人格者がいたのか・・・と思いかえすこと大でした。

 

私どもには後世にその事実を報せる義務があると、あらためて感じさせられる映画でした。

 

扨、清水山城の主郭へ。

主郭は勿論、縄張りの丘部の更に一段、といっても大した高さにはなりませんが(比高100m少々)上部は東西55m×南北60mの削平された平坦な場所。

琵琶湖と眼下の様を監視できる場所になります。

青空の下でしたら最高だったのですが。

 

 

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2024年

3月

30日

気休め 部屋と部屋の間 支柱を突っ込む

午前は凄い雨の時間がありました。

この日は法要後に地代の墓地に上がることになっていましたのでいろいろな思いが交錯しました。

昼過ぎには雨域は去って「晴れる」との予報がありましたので10時開式の法要でしたが「のんびりやりましょう」との提案を。

皆さんはそれに賛同してくださいましたのでまずはおしゃべりからだらだらと。

あとは臨機に・・・ということで。

 

そして読経中激しい雨がありましたが法要終了後(1130近く)には予報通り雨も風も殆ど収まりそのグズグズ作戦は大成功の感。

但し草履と足袋は墓地路面の水を集めて濡れていました。

昼過ぎには青空となって驚くような陽射し、半袖となって境内作業を始めた次第。

 

昨日は居間と台所の間の空間を仕切っていた襖の跡(今はそれらを取り払っています)に90×90の角材を立てました。

単管パイプ+ジャッキの方法もありましたが木の温もりもほしいところですのでそちらを選択。

これは梁の落下防止、あるいはその落下を遅らせることを期待したものです。

要は突っかえ棒としての働きをタノムもの。

まぁ気休めの部類でしょうが・・・

 

襖や障子は和風家屋にはつきものですがそれらは部屋の境界を区切るだけでなく障壁として上部の重量を支える作用があります。それらを取っ払って広い空間としていたわけですが、襖が無くなったその代わりにその柱を用意したのでした。

 

90×90の角材は3mで3000円弱。そして金物×4で1000円弱。

計測した長さより1mm長く切ってもらい、あて木をソフトハンマーで叩いてその間に突っ込みます。

金物は上下4点を用意しましたがあと1つずつ追加しようかと思います。

何が正解なのか・・・それはわかりません。

 

 

 

 

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2024年

3月

29日

清水山城 2郭3郭なる名称と曲輪群

私もサプリメント好きで現状続けているものも途中でやめたものなど色々あります。

そのサプリですが、効果の有無というよりもいわゆる私の健康対策の「やった感」。毎朝飲んでいる乳酸菌飲料ヤクルトもそれでしょう。

 

ハナから半信半疑の基、現在ただ継続しているというのがあと「魚油」でしょうか。

要は青魚の油をカプセル状にしたものですが、中身についてはただそれを信じるだけです。

一体何が入っているのだ・・・なるギモンが出てきたころ、たまたま容器を落してその中のカプセルが割れた事がありますが、それはまさに魚。

色々なところにそれが付着して、しばらくの間、その匂いが鼻について苛立たったことがありましたが、将にその時「魚の油」を確認。その「やった感」「やっている感」は一応今も継続しています。しかし、その本質については知り得ません。

まぁこれまで無事に暮らしていますので変なモノの添加はないと考えています。

 

しかし今世を騒がしている「紅麹」なんたらというサプリ、死者が昨日現在で4名いらっしゃいますが、どちらの方もこれまで既往症は無かったというのが共通の様。

突然腎臓を壊して亡くなったといいますが、そもそもそういったサプリメントの販売の件、会社側の被害認識と行動力の欠如もありますが、厚労省の管理・指導というものがはどうなっていたか知りたいものです。

健康効果を大きく宣伝広告しているようですが、健康どころか不健康の最たる「死」を提供する商品の販売を許諾して、それでイイのでしょうかね。それが素人の思い。

 

扨、本日も清水山城(昨日)。

あの城の作りは単純な縄張りではありません。

広大な城域に家臣団屋敷の曲輪群を設けているところが他の城郭とはちがったところ。

難攻不落を連想させる高い山や深い谷に囲まれているわけでもありませんね。

 

画像は堀として機能していたであろう西ノ谷川側の搦手を睨む郭郡。2郭3郭なる名で呼ばれているようです。

 

 

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2024年

3月

28日

清水山城 西屋敷からダイモン大手道 清水山城

久々にまともに晴れて有難し。

法事にご納骨があって、石屋さんの手配はナシでしたからね。

納骨室はカンタンに開けられるタイプでしたから、納骨後に施主によるセメント施工により完了。

セメントはお寺の在庫を、そして紙コップと割箸も。

午後は庫裏の仏間周囲の片づけと清掃。

山積みになったガラクタを外の物置につっこみました。

 

終末に来客の予定がありますので・・・

一昨日は女子トイレも完成、以前の如く2つの個室に戻り、尚和便器から洋便器+ウォッシュレットへとグレードアップさせました(最後の画像)。

不足額が出ますが主に運営費から融通させていただきます。

 

昨日の驚きのニュース3つ。

1つ ボルティモアで起こった大型船衝突による連絡橋崩落

2つ その崩落行方不明者への捜索を早々に中止

3つ その賠償金額が最大30億ドル(約4540億円)とのこと

 

何事もスケールのデカイ国ですからそんなこともあるものか、とは思いつつもその捜索中止の判断はそれでイイんだな・・・のクールさに特に唖然。

捜索しても遺体となっての「救出」なら早々に諦めてあとはカネで解決してもらおうという考えです。

ある意味スゴイ効率主義。

 

日本では人情的にも感覚的にもそうはいきませんよね。

案外勉強させていただきました。

そして賠償金額の件、保険には入っていることでしょうが不可抗力の事故によって橋を一本ブチ壊すことも中にはあって、それは天文学的な請求をもたらすこともこの世には「あるにはある」ということも知りました。

まぁちょっとした人為的ミスによって原発の一つでもブッ飛ばせばその金額では収まりませんが。

災難はどこにでも隠れていて、想わぬところから突然現れるものですからね。

 

扨、昨日の清水山城の西屋敷から。

帰り途はそちらから大手道を下ったわけですが、途中「ダイモン」なる地名が残る場所があります。

大手道は直線ではなくそちらで屈折していますが推測すればそちらに大手門があったということでしょう。

 

こちらは広大な城域全体が史跡に指定されていますので、開発は有りえません。その古名は未来に渡って残されるでしょう。

遺跡は開発によって古名とともに消滅するものですから。

経済と歴史は相いれないものかも知れません。

 

 

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2024年

3月

27日

清水山城 西屋敷 加賀殿

昨日の雨も一日中。

奥方に言いつけられた室内の大工仕事があって内と外を行き来しましたが、強い降りの時間帯は手を休めてテレビでしきりに流れるオオタニサンのコメントを。

やはり彼の「野球以外のことは無頓着」、あの通訳氏にすべてを任せていたということで「ああなった・・・」ということで今回の件は収まりそう。

「嘘」という語の連発には苦笑いしてしまいましたが、通訳は「大ウソつき」だったということでしょう。

あの通訳氏は当然にアメリカの法によって裁かれることになりましょうが日本でもアメリカでも完全に顔は割れていますし何処にも逃げ場はないでしょう。

真っ当な神経を持ち合わせていたら「首を括りたくなるのでは・・・? 」などと不謹慎な会話を奥方としてしまいましたが自業自得とはいいながらその招いた結果と今の失意はそう思い至ったとしても不思議ありません。

まさかとは思いますが、これ以上オオタニサンの心を揺さぶることはしないでほしいものです。

 

日没前に太陽が顔を出してくれたこと、それは良き兆候です。

これから数日、法事等忙しく動かなくてはなりません。御納骨の法要が数件控えていますのでお天気は気がかりです。

 

扨、先日来記していた清水山城。

東屋敷に続いて西屋敷のエリアへ。

私は東→西へと移動しましたが比較的高めの土塁と堀切があります。他にも周囲は曲輪と屋敷が乱立していたようで、土塁・堀切・空堀が見受けられます。

絡西屋敷は加賀殿なる別名がありますが、そちらの中心にまた「大手」と伝わる名も。大手道を推測できる道が「大門」を経て下りますが以前記したあの石仏と遭遇したのでした。

 

 

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2024年

3月

26日

釘ケ浦で進行中の作戦 手植えの海道 サガラメ

弱い雨が間断なくだらだらと続く一日でした。

ただし「寒さ」というものを感じないだけかなりマシ。

なんとか冬場をやり過ごすことができた感。

人間にとって(特に私・・・)身体的に疑わしい季節とは年明けから今時分と思っていますので・・・

 

昨日は午後3時前に掛川廣樂寺住職の突然の訃報が飛び込み、急ぎ掛川に向かいました。

前年末に体調を崩し、通院していたそうでその後元気にすごしていて、周囲を安心させていたようですが、先週末に急変して救急搬送されたとのこと。

 

16時すぎに既に棺に安置された住職にご挨拶し失礼させていただきました。

住職の年齢は所謂世にいう「平均~」には相当年数届かず、まったく人の命ほど儚いものはなし。

昨日、ご老体の国会議員(二階氏)が次回不出馬を表した際に記者の質問にキレて「バカ野郎」の罵声とともに「歳をとるのはお前らも同じ」の様なこと仰ったそうですがそれは一応私も同感です。

付け加えさせていただければその御仁はそこまで命があったこと、将に幸運な方です。歳をとれば・・・ではなく命が続いたこと・・・そこに感謝すべき。

大抵の人にはそんな確約はありませんからね。

何時までも命が続くと思っている者が・・・バカ野郎なのかと。

そしてツキなど何時かは落ちる。

 

扨、相良片浜に唯一の拙寺ご門徒さん・・・いや既に数年前、道場の地に引っ越していましたが・・・職業は漁師です。

所属は片浜、あの滝堺城の下、坂井漁港です。

先日、お会いした際、普段の漁以外に特に注力中のものがあって、その実現への期待が含まりつつあるとのこと。

それが「サガラメの復活」です。

相良在住の方で特に年配の方なら誰でも知っているその名前。

私はその味についてはあいにくと覚えていませんが、首都圏から私がこちらに戻った頃にはそれは消滅していたよう。

「磯焼け」によるものといいますが、人為的な構造物や大井川、天竜川の堆積物による微妙な海流変化が影響しているのでしょう。

 

その方は現在その藻場、サガラメのお花畑の復活をグループでチャレンジしているとのこと。詳細は静岡県水産・海洋技術研究所のレポートがありますのでそちらを。

また、NHK静岡の特集も。

 

その成功は相良にとってこの上ない朗報。来年の大河もそうですが、この相良にもツキが廻って来たか・・・楽しみにしています。

 

 

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2024年

3月

25日

平家祇王の里を歩けば

傍観者ながらアホらしい今年のMLBのスタート。

どうやらあの通訳、とんだ食わせ者だったようですね。

オオタニサンのおかげでメジャープレーヤー並みの有名人にのし上がった彼でしたが、今回の事、MLBの好き者たちにとって冷や水どころかガチガチに凍った氷で頭をカチ割られたような気分でしょう。

時間が経て経つほど人のイメージは膨らむもので、その疑惑も日々広がっている感あります。何が真実なのか・・・

「野球の事しか知らない」というところ、それはそれで好感の持てるオオタニサンですが、そろそろ「こうです」という彼の思うところを発しなければね。真実です。

 

疑念はどんどん膨らんでイメージダウンは必至。

疑念の最たるものの一つは口裏合わせでしょう。

表に出したくないことがある・・・を想像させてしまいまい。

最悪の事・・・、私は1年間の出場停止までありうるか・・・など、思いが飛躍してしまいます

。獲得したチームの彼との契約解除要綱はどうだったのかしら・・・など、ふと・・・。もう無茶苦茶です。

 

日本在籍チームがその通訳を引き合わせたのでしょうが、当初からその身辺調査をしっかりしていればこんなことにはならなかったのでは・・・学歴詐称の件など少なからず判明しやすかったはずですからね。嘘が最初から存在していたということ。

 

損失が各方面に波及していくことも考えられますが、逆に損害賠償請求などの件も頭に浮かびます。破産状態の彼が支払えるワケがありませんし事によれば監督責任、雇用者責任も問われかねないのでは・・・。通訳をチームではなく個人レベルでどうこう差配できる態勢も不思議。

 

棚からボタ餅的にゲットできた幸運・・・、調子に乗って浮れてしまうと人間は信じられない行動を起こす・・・教科書的な破滅パターンを見せつけてくれた通訳さんでした。政治屋の破廉恥ダンスパーティのスケールとは違うところは圧巻でしたが。

「一平ちゃーん」などと黄色い声を受けながらオオタニサンと同行したスター気取りの姿が目に焼き付いています。

 

また、マスコミの突撃取材で件の通訳殿の父母住まいのドア越しインタビューの音声を耳にしましたが、その母親の返答だった「帰って !!・・・」の語意にゲスを感じました。まぁ不愉快であることは大いに理解できます。

ああいう場合はそのバカ息子のために顔出ししなくとも一言「お騒がせして申し訳ありません。私どもは何もわかりませんので、お引き取りください・・・」ですね。

たとえ寝耳に水の信じられないような不祥事をやらかしてしまったとあっても、不躾なマスコミの突撃取材であってもそこに人間性というものが出てしまいます。「この母にしてこの子あり・・・」などと妙な納得感に収まってしまったのでした。

 

扨、先日記した永原御殿

周辺は「平家祇王の里」なる地でブラつけば各遺構と出会うことができます。

上記画像は前記画像⑤の概略地図に記された地になります。

 

 

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2024年

3月

24日

庫裏本堂参拝者用トイレの洋便化工事

雨の一日。

牧之原市相良庁舎の史料館のトイレ改修等、大がかりな工事が始まりつつあります。

それとは別に拙寺の新会館新築工事は大幅に遅延。

同じトイレの件ですが、拙寺新会館のトイレは来春の設営は期待できなくなってしまい、意気消沈。

何故にしてこれほど着工が遅れるのか・・・複雑怪奇の躰。

世話人からも「いい加減大工を変えろ」という声がちらほら。

 

大工さんは大石県会議員のSNSにありましたが魚釣りに鞍替えしたような図が・・・そちらで忙しいというのが皆さんの意見。

発注から3年、こちらも堪忍袋の緒・・・のレベル。

中部電力へ電柱補助支柱の移動工事について先般記していましたが、再移動の期日について何度もせっつかれる始末。

「大工さんが倒れちゃって・・・」と私。

大工さんは「製材屋さんが倒れたから~」とも言っていましたからまんざら大嘘でもないのですが。

尚、見積もりの一つも出ていません。

 

というワケでここ数日、会館水道関係の業者さんに、別件庫裏の女子トイレ洋便化工事に着手していただきました。

やはり先日、和便の漏水箇所について私の止水チャレンジが失敗に終わり、洋便器の方のみを稼働している旨記しましたが、前回の法事終了時、トイレ前に参列者が並んでしまうという不便の様を直視したわけで、工事の見積もりをお願いしていました。

当初は不要であると考えていましたが、「こちらは使用できません」の掲示は約2カ月もきもはやこれまでと、踏ん切りをつけました。

書面を見て、少々驚き。

案外と私の思いとは違い、お安い見積もりが出ていましたので、即、お願いしました。

和便→洋便+温水洗浄便座の工事で20万円。悪くない。

ただし工事個所はセメント充填のままということで。

「和便は不親切、非常識」となったこの世の中、史料館の改修工事の主たる目的もその改修でした。

 

①②セメント乾燥中。

③は奥方に依頼された大工仕事。

ネコ関連の掃除道具を整理する棚を庫裏のトイレ前に。

中空の壁には中の間柱を狙って固定します。

 

 

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2024年

3月

23日

永原御殿 現説は24日 平家祇王の里

昨日はコロナ禍以来の課題一義、叔母との食事会の日。

今年九十になる叔母は、何かの機会には必ず「鰻を喰わせろ」と私どもを責め立てていましたが、施設ではコロナやらインフルによって幾度も辛酸を舐めているようで、簡単に外出というワケには行きません。

数日前に担当の方が書面でもって申告し、施設全体の意見を聞いて可否が判断されるのですが、そもそも決まり事としては1.5時間以内に帰ることが大前提。

書面には「誰と何処へ」の記入欄があり、車中は窓をできるだけ開けて新鮮な空気を・・・との指摘。また送り届けるにあたって書面を1枚提出することになっています。何をどのくらい食べたかの報告でした。

 

というワケで、食事会開催といっても私どものスケジュールもあってなかなか実現ができなかったのでした。

しかし叔母は大いに喜んでウキウキでした。

「鰻は1カ月に一回、いや二回は食べたい」とまで。

鰻店を出て、叔母は「どこいくの?」。おやつを購入して帰るつもりでしたが、毎度の如く息子が「これから姥捨て山」に・・・と言えば「まだ早い!!」との返し。痴呆は停止、糖尿病も喪失・・・天晴れです。

 

扨、昨日は読売系のネットニュースに永原御殿の発掘について記されていました。

「遂に発掘の手が入った・・・」そう思いましたが、私が行った時はただの竹藪でしたから。

野洲市の発している史跡永原御殿跡整備基本計画書を見回してください。

3月24日1330から現地説明会が催されるとのこと(場所はこちら)。

①②永原バス停、地名は江部。

付近は「平家祇王の里」ということで御殿のことは二の次。

 

 

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2024年

3月

22日

清水山城 東屋敷 越中殿 

真冬と変わらぬ気温と相変わらず風が吹く一日。

それほど酷い風ではありませんでしたが外仕事水洗いの手は冷たさに悲鳴をあげていました。

 

水仕事とは骨壺を洗ったからです。 

49日法要の際、各家納骨の際に骨壺を空にして寺に置いて行かれますが、先般は過去に骨壺ごと納めていたそれを空けていました。

古いそれはまず、湿気と結露のため水が溜まり骨壺の底に遺骨が張り付いてしまいます。

その骨壺の処分の件ですが施主はまずどうしていいかわからない。持ち帰っていただければ有難いのですが処理方法がわからないと見て、私は「お寺で処分しますよ」と助け船をだします。

 

基本的にキレイなものならば葬祭社に引き取ってもらうことができますが長い間お墓に入っていたものをそちらにお願いすることは気の毒ですからね。

何より骨壺内部は遺骨が固着し、外側はカビだらけ。

よって大まかに境内一處墓裏で水洗いしレ形状がわからないよう粉砕(担当は奥方)してから市の陶器処分回収の日に出しています。

尚、そのままのカタチで処理場に持ち込んだ場合かつて「それはダメ、お寺に持って行って・・・」と受け入れを拒絶されていました。

ただし現在は私の顔は知れ渡っているでしょうから、処理場にそれを直接持ち込むことはしません。みなさん嫌がります。

 

扨、清水山城。

昨日の地蔵山の先が東屋敷。

「越中殿」といわれる場所ですが、屋敷群があったとみられ全体削平された広大な地(野原)で各所に土塁が廻らされています。

屋敷間の結界程度の土塁と思われます。

 

 

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2024年

3月

21日

清水山城 東屋敷下 地蔵山石仏群 

激しい風が一日中吹きまくっていました。

境内には早い時間からお参りの方たちが・・・3時過ぎまではひっきりなしに。

私は風が強いのと「寒い」・・・を理由に予定していた雑務いろいろをすべて中止にしてボケボケ弛んだ一日を過ごしました。

それでも来週土曜日にある史跡調査会様の資料を少々まとめることができましたが。

あるかないかはわからないにしろ、「ブラ田沼」のコースに拙寺が設定された場合、その案内人として先般当調査会に入会したお二人が指名されています。

今一度そのお客さんへの説明とその段取りについてです。

 

それにしても、本堂内に上がっていただいての説明が中心となりますので法事があればそれはムリ。

何しろ早いうちに予定を決めていただきたいものです。

特に土日祭日の件、お寺では法事で本堂を使用しますからね。

 

扨、昨日の清水山城、あの大きな獣除けのフェンスを開けて歩を進めば地蔵谷・地蔵山の掲示板が。

少々の階段を上がれば画像の如く石仏たちのお出迎え(場所はこちら)をいただけます。

その記述の通り清水山城の城域は西屋敷と東屋敷なる主たる削平地に分けられますがその東屋敷の端にあたるのが地蔵山。

比叡山が近いだけにこの辺りには無数の天台寺院が存在し、ここ辺りでよく言われるのが「高島七カ寺」。

山岳寺院はとかく地区有力土豪の帰依もあって手を加えられて城塞化されることがあります。

この城もかつては清水(せいすい)寺という寺があったといいます。各説あってはっきりしませんが他に「松蓋(しょうがい)寺・長宝(法)寺・世喜(せき)寺・大山(たいさん)寺・大谷寺・酒波(さなみ)寺・米井(よない)寺の名があがります。

 

松蓋(しょうがい)寺は近くの上寺田中城(こちら こちら こちら)に登場しますし、長法寺も殆ど城郭の躰でした。

 

堀底大手にあった石仏もそうですが、この城にはまだまだ石仏が隠れているのでしょう。

 

 

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2024年

3月

20日

清水山城 東屋敷側から登城

東遠地区で大層な金額の詐欺被害の事案が立て続けにありました。信じられないような額で、「あるところにはあるものだ・・・」と感心しつつ「人間の欲は底知れぬ」などの感にて傍観するのみ。

その類、他所でも頻発しているようですが、私にもその「釣り針」の件「ああ、アレね」と推するところありました。

それも何度も・・・。

lineの「イキナリともだち登録」されていてのなんたらかんたら~です。

そのサークルもどきのlineはいわゆる投資詐欺のフィッシングですね。私はハナからその手のものは「即削除」するだけ。

「返信するとどうなるか」などの体験はありませんが年配者はついついそれに応えるなどしてドハマリになってしまうのでしょう。

 

親-子-孫など消息連絡を兼ねて、年配者にスマホを渡して指南などの件よく聞きます。

父母祖父母の携帯にlineをダウンロード、使用方法を伝授しある程度のところまで駆使できるようになって利便性があがったと安堵されている子孫たちも多いでしょうがそれには落とし穴があったということでしょうね。

 

そしてその最大なるミスは、世には悪意のメールが存在することとそれが届いても開けずに削除することを伝えなかったこと。

今更後悔、反省しても遅いのでしょうが。

それは子供たちにも言えること。利便性の前に、人間の本性というものをそれぞれ伝えておくべきですね。

先日隣町での件、被害額は1億5000万円といいます・・・信じられない・・・。

一体いくらに増やそうとしたのだろう・・・素朴なギモン。

 

扨、昨日まで琵琶湖近くの伊吹山系の城、上平寺城について記しました。

近江は当家拙寺初代と相良の主たる家々のご先祖さんたちの出自を連想できる地ということから以前あちらこちらと歩いたことがありました。最近は足が遠のいていますが・・・。

今年の秋のバス遠足ではどちらかに立ち寄ろうかと思っています。

 

その琵琶湖周辺、私がうろついた場所で拙ブログにまだ記していない城がありました。

勿論、近江の歴史には欠かすことができない城ですがその一つに湖北の清水山城があります。

上平寺城とは琵琶湖を挟んで対称となる位置にありますが、こちらもあまりメジャーとはいえないようです。

そもそもあの城郭大系では本編ではなく「その他の城」程度ですからね。

比較的この頃になってその評価が見直されてきたものかと。

守護大名から戦国大名への過渡期というか、信長以降の歴史にスポットが当たりがちになるのでしょう。

 

先ずは城郭大系の記述から。

「清水山城 高島郡新旭町安井川

 別称 日高山城

佐々木越中守高賢の居城とされ、塚も同所にあると『近世輿地志略』(おうみよちしりゃく)に記されている

のみ。  

 

私はこれまでまずは安養寺子安に清水山城大手道の石仏、そして地蔵庵の四面仏について記していました。

その地蔵庵の先、しばらく行ったフェンス⑤が私の登城口。

私は入口にあるテニスコート付近の駐車場に車を停めました。

掲示板地図の通り縄張りは広大。

山の比高は上平寺城とは違い高くなくほんの散策気分で歩けます(場所はこちら)。

ただしいつもの「熊」の件だけはビビりながら。

 

 

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2024年

3月

19日

上平寺城 各曲輪を経て本丸まで

吹きまくる風はお日さまが出ていようが体感温度を下げました。

それでも明るいうちはやるべきことがそれなりにできましたが時間が進むにしたがって気温は低下。夜間は真冬を思う冷えでした。予報では最後の冬がやってくるといいます。

あと少しの辛抱のよう。

 

昨日は彼岸の墓参の集中によって袋から溢れそうになった花ガラを処理場へ持ち込みました。先日行ったばかりなのに。

境内でうろうろしていると、墓参の方からソテツの葉が墓に被ってお参りの際「頭に当たる」とのご指摘。

「そういえば」の心当たりがありましたので、急きょその箇所の部分的対応。袋一つ分剪定しました。

 

そちらを伐っている際、昨日の彼にこの仕事をあずけよう・・と。

しかし一夜明けて彼からは連絡はなし。まぁそんなところでしょう。前回も「また連絡して・・・」と別れてから5年近く経っていました。

 

扨、城好き、山城好きと仰る方々が指向する城郭、数ある中で、この上平寺城はまず出て来ないような。認知度は低いようです。

まぁ私の住まう遠州からそう遠くない地の城ということもあって私にとって難しくもなく気楽なものですが、もしかして信長に影響を与えた(かも知れない)城と家臣団屋敷そして城下町の様を想像するとこの城には独特の有意義を感じるワケで。

姉川戦前に浅井・朝倉が対信長戦のためにそれをくい止めるための防御の城として改変しているところ、歴史的にその虚しさは感じるのですが。

 

まぁあの山系の城たちの遺構に単独で取り付ける方はそうはいないかも知れません。最近テレビ等の露出度の高くなった「お城通」の歴女の皆さんも、特に冬季となれば所々に恐怖を感じること間違いなし。そして期待されている復元城郭やガッチリとした石積みはお目にかかれません。

土塁・空堀・堀底大手のいろいろを見て楽しめる人たちのお城。

まぁ無理をしなければ問題ないですが、とにかく熊の出没だけは怖いですよ。それが山の独り歩きの難点。

特にデカイ動物の頭骨などがコロっとさりげなく転がっていれば尚更、「何コレ~」と固まってしまいました。

 

しかし再訪し、途中積雪のために諦めて到達できなかった他の遺構もこの目にしたいという気持ちがあります。雪が完全に溶けるGW頃が最適かも。そしてそれでもすれ違う人は殆どいないでしょうね。

熊も活発に動いている頃でそれはそれでケアが必要。

 

 

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2024年

3月

18日

上平寺城京極一族御廟所 伊吹神社の先

絶妙の彼岸参りのお天気。朝からお参りのみなさんがひっきりなしに境内を交錯していました。

駐車場は溢れんばかり。

お隣の墓地(他宗)にもお参りの方が路上駐車をしますので拙寺駐車場は一時的ながら交通集中の難儀。

 

午後は15時からの初倉での自宅あげ経のお約束がありましたので昼すぎはのんびりしていると、久しぶりに玄関に訪れた方がありました。ご門徒さんではない方です。

「今日は母親を連れてきました・・・」の第一声。お二人の弁は「おカネがないので食べられない」との困窮の訴えでした。

①おカネを貸して欲しい②ダメなら仕事をさせて欲しい③それもダメなら米が欲しいとのことでした。

以前コロナ前、度々訪れては仕事を希望されて、何か雑務をお願いしたことがあった方。

 

①は当然に却下。②はこれから仕事があるので無理。

よって奥方が米と蕎麦とそばつゆ、切干芋に数時間前にいただいたばかりの夏ミカンに菓子類を袋に詰め込んで渡していました。

奥方の弁はもっともなところ(当流のご門徒さんならともかく)とは思いましたが坊さんとしてその貧苦の様に何も対応しないというのはあとあとの自己嫌悪の元。

ちなみに彼は境内「草むしり程度」の件を主張していましたが、どうせ人を頼むのならもっと違う仕事があります。

穴掘りと30㎏程度の石を運ぶ仕事があるにはあると尋ねてみれば「それはムリ」とスンナリ拒絶。

カンタンにラクに稼げる仕事は無いのですがね。

病気がちの50歳男性と80歳母親でしたが・・・。

行政の助けはムリと仰っていました(持ち家があるため)。

 

政治屋のお偉いさんたちの毎度毎度のウラ金パーティやら見苦しいショータイムでのお楽しみの様が伝わってきていますが、彼らは社会の底辺にいる困窮の人々と同じ空気を吸うことはまずないのでしょうね。何もわかっちゃいないのです。

 

あの出回った報道写真のその男の顔はボカシが入って表情はわかりませんでしたが、青年部とかいうそうです。

女性のパンツにチップを挟んでいる様のその男は禿げ頭のオッサンでした。爆笑させていただきました。老いも若きも・・・

何を嗤うか? お寒く暗いこの国の未来を・・・

バイトテロ並みの暴露画像もニヤリとくるところでした。

 

扨、昨日の上平寺城庭園跡の次は京極一族御廟所になりますが 伊吹神社の先になります。

大層な墓域かと思いきや、京極高清ほか主たるものは徳源院に移されているとのこと。

 

掲示板にもありますが永正三(1506)の銘が見えることは感動です。この程度の大きさの五輪塔、500年以上前の墓碑銘が判明するなんて・・・すばらしい。

画像では「三」が「五」に見えますが・・・

まぁ大差なし、ついつい私はこういう場合、恥ずかしながら高貴な女性を連想、それも若いお姫様を勝手に想うところ、それはあの三の姫さまと同じ

 

ただしそれらと異常接近したところを激写されたとしても平チャラです。奥方にいわせればいつもの「しょうもない・・・」程度。

まぁ「異常接近」が生身の人間というのがバレたらまずシバかれますが。

 

あの画像のハゲてるオッサンの家庭崩壊が心配になります。

そのあとのことは・・・知らね・・・「How Does It Feel? 」 

 

 

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2024年

3月

17日

上平寺城京極氏館庭園跡 五輪塔たち

体を動かしていなくても日の下にいて暑くなるイイお天気。

昨日は、先般取り付けた床下照明のお工作への心配事を少し解消させました。

あのスイッチの電源は外に置いた婦人部寄進の物置の電源と共有していますが、24時間常時通電していました。

殆ど使用しない場所への通電、そこのところ大いに気がかりでいましたが、手元スイッチの位置を変更。

朝晩のお勤めの際にその電源を気軽にON-OFFできるよう手を加えました。

ということで床下照明は朝8時頃~20時頃までということで。

 

そしてまた昨日はたまたま、墓石の納骨室内を確認したいので開けて欲しいとの依頼が2件ありました。

何れもセメントで固定されていて途方に暮れている図でしたが、その件、大概は石材店に依頼される事が多いかと。

 

しかしその場でその件発注することは面倒ですし、金銭的負担も発生することですので、私は時間さえ合えばできるだけお付き合いすることにしています。

殆どお遊び気分で・・・家にいてポケっとしているだけですからね。

二つとも前回とは違って道具は豊富に揃い尚、石材の固定はセメントでしたからカンタンにオープンできました。

ちなみに、手数料的なものはありません。

 

扨、昨日の上平寺城京極家臣団屋敷を過ぎれば京極氏館と庭園跡へ。

庭園跡については滋賀県教育委員会の記述がありますのでそちらを拝借。

 

滋賀県教育委員会 京極氏遺跡群 から

「館跡の北東部には、2つの池の周りに多数の庭石を配した庭園跡があります。この庭は、背後の山や渓谷を借景に取り込んだ池泉観賞式庭園で、西側の斜面裾に滝組石や水分石などの景石が配されています。

また、中央の低い築山には、「虎石」(④⑤に見えます)と呼ばれる巨石があります。この石は、身を反らして吠える虎のような傾いた立石で、組み合った平石とともに、豪壮な景観をかもしだしています。また一説には、 この石組は蓬莱思想を示す鶴石や亀石であったともいわれ ています。

様々な宴や儀式が行われたであろうこの庭は、大永三年(1523) の館の終焉とともに長い眠りにつきました。

京極氏館跡の庭園は、類例の少ない戦国時代の武家庭園のなかで、作庭時期が判明する貴重な名園なのです。」

 

 

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2024年

3月

16日

上平寺城登城序盤 より古い太平寺城(未達)とは

暖かな陽射しの恵をいただきました。

よって花ガラの処理等、地頭方に向かうなど外仕事を少々。

そして昨日記した「相良城二ノ丸御門 太鼓矢倉の刻太鼓」の画像について、能書き文言の製作。

写真サイズの図を添付していましたが、如何にも図絵にある「タイコヤグラ」の字が見にくい。

よって、午後から島田のショッピングセンターに。

そちらには四つ切サイズにプリントアウトできる機械があります。

 

昼飯は店内の「マックでいい」と奥方が。

入店した際は繁盛の様でしたが、無事プリントが終了してしばらく、帰り際その店のカウンターにはロールスクリーンが降ろされて突如の閉店休業。

「ワケわからん」と目を見合わせて、店を出ました。

その件、全国的、いや世界的なシステムエラーということでしたが、日頃の利便の「反面」が出たようですね。

私どもにすれば、どうでもイイことでしたが。

選択肢はたくさんあります。

「システム」とか言っても人が作ったもの、アテになりませんね。生命に関わることでなければまったく許容できます。

 

扨、数時前まで記していた近江米原での寄り道の件。

いつもの事ですが、以前の画像です。

私のその寄り道の目的は上平寺城でしたが、上記画像はその家臣団屋敷址の図。

安土城の大手道脇を連想しました。

 

あの時私は、欲をかいて、うまいことそのお隣の太平寺城にワープできれば・・・という魂胆が密かに芽生えていました。

その城は同じ伊吹山麓にある京極家の城です。

 

私は家中で奥方に城歩きのリスクについて、時に死について思うこと等々吐露していますが、城には「ヤバかった」の反省がつきものです。

その全てが山城で冬か春にかけての季節というのが同じ。

そのNO.2を思うのがこの上平寺城というかそこからの太平寺城へのちよっとした迷いでした。

ちなみにNO.1は凍結、ノーガードレールの岩村城です。

 

上平寺城本丸からさらに伊吹山の標高を少しばかり上がり西方向に進もうというものでした。

5合目あたりには無かった積雪が歩行困難としたのですが、私はあの時、凍結した崖をノーロープで10mほど降りて沢までチャレンジした覚えがあります。

そこで「これ以上進んで何かあっても助けは来ない」を察しました。

よって諦め。再びその崖を這いあがったのですが、自宅に帰ってからその無謀に苦笑いしたものでした。

あの降雪では遺構の様子は見ることは難しいということもありましたが、人間の欲というものは真に計り知れない・・・あのブログでは最終目的地は上平寺城とは記していましたが、内心太平寺城もやっつけたいという気持ちがありました。

感覚的に冬の近江の山城はヤバい。

かといって夏場には行く気がさらさらしません。

各所に熊出没注意の看板が・・・

 

ここにまだ登城していない太平寺城ではありますが、しっかりと日本城郭大系に記されていますのでそちらを。

 

太平寺城 坂田郡伊吹町太平寺

 京極氏信   鎌倉時代中期 別名 霞ガ城

 標高1000m

 

太平寺城は佐々木信綱の四男氏信(京極氏の祖)が江北の愛知・犬上・坂田・伊香・浅井・高島の六郡を相続し、伊吹山(標高1337)の西側の山腹にあった伊吹山四か寺の一つ、太平寺(太平護国寺)の寺域に、その居城として築いたものである。

この城は江北屋形と称し、氏信以後、南北朝時代の京極高氏(道誉)や高秀、高詮を経て京極高清までの居城としてあったが、永正年間(1504~21)に高清が上平寺城に移り廃城となった。

現在伊吹町太平寺の集落は、大阪セメントの原石採集場に近接することから春照に集団移住してしまい、人は住んでいない。

「近江国坂田郡志」によれば、この上方600mに城跡があり、石塁などが残っているとある。

 

 

 

 

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2024年

3月

15日

相良城 太鼓矢倉刻太鼓 「タイコヤグラ」位置確定 

 

先日、雨続きの日々がようやく過ぎたその翌日の晴天に「そろそろどうでしょう?」とのある依頼の打診がありました。

それなら「午後一番に現地で」ということで話がまとまりました。

 

「墓じまい」の件です。

某家ご一統7~8件の集合墓地のうち一基を墓じまいしたのち拙寺の「一處墓」への納骨の依頼を承っていました。

これまで「いつでもいいですが暖かくなってお天気の日に仕舞いましょう」と超曖昧な返答をしていました。

 

 

前回それを承諾した時からそれを主導していた3人の姉妹(実家継承者不在・・・)のうち既に一名が逝去されたといい、「何しろ早く早く」の気持ちが表れていました。前回は私の所要と重なってお断りしていましたから私も申し訳ない思いでいましたので。

 

半年以上前に初めてそちらの墓地を拝見した際は墓石の撤去も検討されていましたので、石屋さんを同行して下見、撤去処分の見積もりを出してもらっていました。

すると金銭的事情により墓石は撤去せず、とりあえず放置。

中にある遺骨(骨壺のままでした)を回収して欲しいとのこと。

姉妹たちは各嫁入りし、本家に継承する男子が亡くなった今、その始末をつけるというものでしたが、どなたも高齢者、金銭的余裕は無かったよう。

尚、一統親類のみの墓域ですので、墓石が残ってもさして問題はないとのことでした。

 

その際の当家奥方は「墓石屋の女房」。先日は火葬場へのご遺体の搬送運転手をしていましたので早変わり。

当該墓石、どういうワケか前回カンタンに開いた納骨室の石扉がガッチリとシリコンで接着されていました。

殆どの道具類は軽トラから降ろしていましたのでまともな道具は無し。よって唖然。

接着個所はシリコンです。私は「親切な親類の方がガッチリと留めてくれたのでしょう・・・」と落胆半ば諦め。念のため軽トラのダッシュボードの中を覗きに行きました。カッターの1つでも・・・と。

先ずカッターの有無は第一義。

 

墓石の接着、最近の耐震を意図するものは別ですが納骨室の入口の石材接着にシリコンを使用することは「まずない」からです。

通常そちらはセメントでの施工か何もしないかが殆どですね。

要はシリコンでの接着はプロの仕事ではないということです。

ちなみにセメントであればソフトハンマー等で石を少々叩けばカンタンに壊れて外すことができます。

 

よってシリコン接着の場合の道具はカッター。墓じまいのお勤め後その存在を一応確認に戻りました。

その一番必要な文房具が不思議なことにダッシュボードに・・・

喜び勇んで奥方にマイナスドライバーとともに手渡しました。

まさに奇跡としか言いようがなし。

20分程度の奥方の奮闘後、納骨室は無事オープンでき私も衣を脱いで今度は墓石屋として遺骨を取り出しました。

 

結露によって骨壺内は水浸し。

「1カ月くらい経て(乾かして)納骨法要を」と遺骨たちを引き取りました。

これで施主さんたちの気持ちは落ち着いたことでしょう。

 

扨、昨日記した拙寺本堂の時太鼓の件、何気なく手元にあった

相良城の図を眺めていると、その櫓(矢倉)推定位置として長谷川氏が指摘していた「白い□ 」(昨日)の脇にしっかりと「タイコヤグラ」と明記されていました。

 

絵図は天保五年、森町の山中豊平筆相良城図です。

一昨日は史料館にその件で駆け込んだのでしたが実は手元にこの絵図があったというオチでした。

ただし、思い付きで私が騒ぎ出さなくてはこれは気が付かなかったかも。

おかげさまで意義ある発見ができました。

 

相良城二ノ丸、門を入ってすぐ、堀脇にあった「タイコヤグラ」。

「相良城二ノ丸御門 太鼓矢倉の刻太鼓」これでどうでしょう。

すると奥方から「長すぎる・・・」。

 

 

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2024年

3月

14日

拙寺時太鼓 時か刻か 矢倉か櫓か そして何処に

朝から風びゅーびゅー。

掲示板ポスター貼りの仕事は厄介でした。

 

 

扨、先日は「陣太鼓」なる酒の銘柄の復活について記しましたがその進展がありました。

要は商標権の問題でそれは使用不可ということがわかり降り出し。

時間軸からしてその相良の陣太鼓酒造が早いのだろうと思いますが現在既に他者が登録してしていたということです。

ということで他の名称で登録せざるを得なくなり、もう既に仮登録の承認まで受けているとのこと。

正式な名称をこちらで発することは拙速、もうしばらく。

清酒「〇〇〇〇」四文字です。

史跡調査会若手の方からは「そちらの方が断然イイ」との声が出ていました。

 

その「陣太鼓」といえば般若寺に存在するそれとその伝説が相良では有名ですが聞くところによれば酒造創業者の山本敬三氏が般若寺に寄贈したものといいます。

太鼓は刃物で裂かれたため、製作者と年代(明和)が記されているそうですが、その所縁についてはハッキリとはわからないよう。

 

先日の世話人会の後、拙寺本堂にぶら下がっている「時太鼓」について指摘される場面がありました。

世話人会での議題の中、ご門徒さん方に田沼時代含めて歴史的文書、図画遺物等が伝わっていたら「申し出いただきたい」旨お知らせしていたわけですが、改めてこの太鼓も田沼時代の遺物であることを「ハッと」思い起こしたのでした。

 

これまでは太鼓といえば般若寺というイメージがあり拙寺が出しゃばるのは少々憚られるという意もあって沈黙していましたが、ここは来年の拙寺来訪者にも是非目玉として紹介したいという気持ちが膨らんできたのでした。

 

そこで昨日は思い立って史料館の長谷川氏のもとに。

私の疑問と意見を伺いに。

そもそもその時太鼓の正式名称と「相良城の・・・」といってもどちらにあったのか・・・です。

 

そして名称について「時太鼓」とは堂内で紹介していますが世間では「刻太鼓」の名称も聞くところ。また、その太鼓がかつてあった場所ですが「太鼓櫓」か「太鼓矢倉」、どう記せばいいのか・・・。

正式な名称を固定するに「相良城 太鼓矢倉刻太鼓」はいかが・・・でしたが・・・

尚「櫓太鼓」という名は大概「相撲興行」のイメージ。

 

相良城の建物については長谷川氏に示していただいた相良町史の数ページ。②の「相良城取り潰しの様子」の一月二十日「大手御番所・二ノ丸御門・太鼓櫓打ち潰す」とありました。

④には「御太鼓矢倉」・・・

 

①③図を見ると「櫓」の文字。「どっちでもイイ」という感じですが私は「矢倉」で「刻」でしょうか・・・。ただし「時鐘御用」の梵鐘の「時」と統一しないとイケませんね。

 

尚、「御太鼓矢倉」の場所について・・・長谷川氏の推定位置は③中央の二ノ丸御門入ってスグ、堀側の白い□です。

上記一月二十日の順番から推定と。

 

拙寺の太鼓は出所と文献と実物があるわけでなかなか強いアピールができると確信した次第です。

尚、太鼓の中を覗いたとしても般若寺の陣太鼓と同様、「作者と年代が記してあるだけだろう・・・」とのこと。張替など無駄。

穴でも開いていたらスコープを突っ込んでしまうところですが・・・

 

 

 

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2024年

3月

13日

京極高清の上平寺城 城下繁栄と城郭との関係

一日中雨。

寒さは控えめでしたが外仕事は不可です。

また、あい変わらず頭痛が残っていましたので好都合とばかりにぐうたらした一日を過ごしました。

 

それにしても墓・寺・城をぶらつく時には不調だ何だのと弱音を吐くことはありませんから、家に籠ることによってさらに不調をもたらすが如く。

だから人は「外に出る」ことに意義を見つけなくてはならないのでしょう。

 

昨日は次の次の大河ドラマの発表がありました。

さすがに戦国時代のお話になるかと、少しワクワクしていましたがその報道を見て、声は小さくなってしまいました。

一応直接のスポットは初めてとはいうものの食指が動きません。

視聴率低下傾向にあってあまりリスクを取りたくないというところなのでしょう。

 

扨、昨日の続き。

伊吹山の南麓。

彼の地が古くからの京極家上平寺城と城下町ですね。

信長の手で蹂躙されたか、今はその城下の面影は感じられませんがその城と城下町の関係の存在こそ後世の各地その形態の発展に繋がったのか・・・

この付近の地名を昨日のブログで記したもの含めて眺めると拙ブログの「江州佐々木南北諸士帳」の坂田郡 に出てきます。この地域には京極家家臣団の城塞、屋敷が林立し町人商人たちの賑わいが感じられるのです。

 

いつもの如く城郭大系から転記、尚現在は米原市です。

 

上平寺城  坂田郡伊吹町弥高  

  京極高清    永正年間(1504~21)

  別名  1 桐ケ城  2 霧ケ城  3 刈安の尾城  4 上平城 

  標高  666 比高380

上平寺城は伊吹山の南側の山腹、弥高山の刈安尾の尾根にある。

永正年間に京極高清によって築かれたもので、近江と美濃をにらむ位置にあった。

高清の築城以前にも、明徳四(1393)に京極政経が弥高から出陣していることが伝えられているので、何らかの基地があったものと考えられる。

また、上平寺という名は、伊吹山四か寺の一つ上平寺(上平護国寺)の寺域にあることに由来している。大永三(1523)には京極氏の内紛によって焼失した。

 

上平寺城の古図によれば、刈安尾の本丸、南に少し下った台地に二の丸、谷を隔てて中三之丸・小屋敷、ここから七曲りを山麓に下って台地に京極氏の居館(御屋形)があり、南へ城下が開け、諸士屋敷・町屋敷・市屋店屋が存在したことが知られるのである。

戦国時代の山城と城下の関係をよく示している。

なお、元亀元(1570)には姉川合戦に先んじて、近濃国境の刈安にも織田軍に対する要害が浅井・朝倉軍によって構えられたが、木下藤吉郎によって誘降されたことが「信長公記」に見える。

 

 

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2024年

3月

12日

米原藤川に寄り道 杉沢のケヤキに沿道の墓石

日曜日に思わず重なってしまったこといろいろがありました。

とりあえず何とか遂げられたことは満足していますが、一夜明けて絶不調に陥っていました。

奥方は疲労が重なったといいますが、私は「何を喰わせた?」。

他者に責任を押し付けようとする醜さよ。

 

以前なら数年に一度、最近だと1年に一度くらいに頻度が上がっている原因不明の体調不良の件ですが、激しい頭痛に嘔吐と急変状態。事務仕事は残っていましたが、全く手つかず。

折角の晴れ間に溜まった花ガラを処理場に搬送することもできませんでした。奥方からあと少しばかり灯油の追加購入も言いつけられていましたがすべて放棄。

勿体ない・・・大切な時間を消費してしまいました。

 

体調不良の布団の中で思うことは、こうやって布団から出られなくなって、いよいよ動けなくなりやがて死んでいく・・・とふと思うところ。不調の際はその手のことがよぎってきます。

しかし、まぁ布団の中は暖かい。

そしてそこに居さえすれば電気代光熱費はかかりませんし昨日は食事も口に入れられませんでしたから食費もかからず。

おカネが無ければ家で寝ているのが一番だという発想も浮かびましたが、普段はそういうワケにはいきません。食べて動けていてこその健康ですから。

本当に動けなくなった時、それが大問題ですね。

あと地震崩落、天変地異によって家が一瞬のうちに無くなってしまった時も。

 

一昨日はテーマは「路上」などと「110番街交差点」なる曲名を記しましたがそういえばそのアルバム(息子の好み)には「Street Life 」というアップテンポの曲がありましたので追記。

「路上生活」の心得・・・甘っちょろい私には理解できない部分多々ありますが、いずれ私が石ころの如く放り出されるのならば、その準備は必要です。水と米とカセットコンロ等々これからいよいよ。

 

奥方から「何故にしてアメリカには底辺を思わせる内容の詩が多いのか」と聞いてきました。

あの国には「無常と現実を客観視できる詩人がいて日本の恋だ夢だ希望のメルヘン指向と違って特に前者がウケるのだ・・・」。

不条理世界の底を這い回っている私も息子もその傾向ありますね。

 

裏金ギインの殿方も少しでも寒くてひもじい思いをするのがよろしいかと。

路上の寝食あるいは転がる石ころになってこそ初めて各有難さというものがわかるのでは?。

そうしてそれぞれが自らの始末をしていただくこと、お願いしておきますね。

 

扨、昨日はかつての京都界隈のウロウロについて触れていましたがあの頃といえば帰り際に近江のどちらかに寄り道するのが楽しみとなっていました。

近江なら何処でもいいという感じでふらふらっと寄り道したものでしたが、中でも米原という地は近江「今井」の思いあって親しみ深いものがあります。帰宅の道すがらということもありますからね。

 

ただし3月といえど伊吹山周辺は普通に0℃近い気温もあり、また、突然の降雪で尻尾を巻いて逃げるようなこと幾度か、毎度何れかの地で「死にそう」になったことがありました。

近江という地は私にとって比較的その方向に針が振れやすい場所です。

 

画像は何気なく通過した道端にあった「杉沢のケヤキ」(場所はこちら)に墓域。

自然石に六字の名号が記されていますが、法名が脇に見えるところ、これは墓石。他に近江の地ではごくあり触れた景色、五輪塔たちの集合が。

 

 

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2024年

3月

11日

三方ヶ原墓園にて 失礼 ごめんなさい

一昨日よりはまだ良かったものの低温の名残りはありました。

今週末には「本当の春の穏やか」を体感できるそうですので

あと少しの辛抱です。期待しましょう。

 

先日の新聞記事。

「単身の高齢女性 4割貧困」の見出しでした。

65歳以上の一人暮らし女性の貧困率が男性より14P高く44.1%だといいます(厚労省データ 都立大教授が算出)。

特に女性は未婚・離別・死別等による独り身というのがそのリスクを高めるとのこと。

 

その貧困とは「この社会で殆どの人々が送られている生活を享受できない」ことを言うようですがそういった一般的に「普通」と思われている生活ができなくなる女性たちが2040年には540万人に上るという試算があります。

 

先日もその手の件に近い事案について記しましたが若い世代がその先輩諸氏をどうケアできるのか・・・国の支援のウェイトは重いものがあるのでしょうが、今となってお国のエライ方たちに吐きたい言葉は「How Does It Feel? 」。

これはボブディランの曲に何度も出てくるフレーズのパクリ。

「記憶にない」という方が大勢いらっしゃるよう。

それなら何とも感じることはないでしょう。これは失礼。

 

あと子供の貧困率7人に一人というのも。

いつもの「What Do You Do? 」(劇中の台詞)です。

裏金湯水放蕩の政治屋どもを放置したツケは誰が負うのです?

そして寺として何ができるか・・・課題ですね。息子と話し合わなくては。

 

昨日は浜松にて法事。午前と午後、息子のピンチヒッターとして向かいました。

午前早めの三方ヶ原墓園の空は快晴でしたが薄っぺらの法衣にはこたえました。晴れたことには感謝です。

15時前にギリギリ寺に帰着、おかげさまで世話人会に間に合うことができました。

折角の晴れの日曜の午後・・・ごめんなさい・・・

 

 

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2024年

3月

10日

烏丸下立売交差点 信長二条城武衛と御所の境界

昨日も朝から風と低温。

夕刻に、ある方から「寒い日だったね~」と声を。

私の応え・・・「頭にくるほど寒かった~」

一寸でも外に出れば指先、足先が冷たさで硬直し不快を存分に味わいました。特に本堂内は・・・

血流が歳のせいで悪化したのか、というより完全に寒気のせいだと思います。

ただ以前ならばそんなコンディションも平チャラでいられましたが今は忍耐こそ肝要と。これは心身にとって大いなるストレスになっているということですね。

この季節、いろいろ体に良くない・・・。

 

扨、これからお天気情報の中で各地のサクラ開花日を予想する場面が出てくる頃です。

あと10日もすればあちこちでそんな声が聞こえてくるかと思いますが、やはりサクラといえば日頃自身が住まう地のものではなく、何気なく通りすがりに咲くそれに感動を覚えたりしますね。

因みに私ども境内のソメイヨシノやシダレにはまったく開花の雰囲気はありませんが。

 

烏丸下立売交差点から。

この突き当りに息子の学校やらその北に息子が1年目に入った寮がありました。

画像はあの2016年の熊本地震の2週間前にそちらを通過した際の図ですから新しいものではありません。

 

「〇〇交差点」など記すと私の頭の中はイカれているのか「110番街交差点(Bobby Womack)」のイカした曲を連想します。昨日触れた「Like a Rolling Stone」と同様、テーマは

「路上」でしょうか。

道の傍らには色々な人生が交錯し、流れにまかせて、仕方なく生きるための必死というものがあることを示唆しているようです。そして石ころの如く道に転がる・・・のですね。

 

日々困窮してその日暮らしとなる者も、カネ次第の刹那の楽を望む者も、もっともっと、さらにさらにの欲望見え見えをちらつかせ演台に上る者も・・・時にガードレール脇に倒れて石ころの如く転がる・・・いや既に石ころなのかも知れません。

世界では飛んでくるミサイルの下にいて何時石礫、瓦礫になるかわからない運命を待つ子供たちがいました。

 

私の死する場所がどちらであるかなど知る由がありませんが

せめて寺で死にたいというのが大いなる望みです。

ガードレール脇の道端と病院のベッドに寝たままというのは想像し難いところ、それ以外だとしたら・・・山城で滑落・・・それを言ったらいつものように「誰が引き取りに行くんだ」と怒られます。まぁ、勝手にしやがれ・・・まかせます。

 

その交差点の先(京都駅を背にして)右側が蛤御門。

要はここいらから通の向こう側は御所ということです。

サクラの満開画像はその年の3月31日。

①④青天門です(場所はこちら)。

 

そちら烏丸下立売交差点を左折してスグ右手に長屋門。

それを見やりながら進めば次の交差点左角に立つのが信長の二条城の石碑でした。

そちらは平安女学院の区画になります。

烏丸通に戻り交差点前の左側には教会が。学院はこの教会に併設されたということですね。

そのスグ脇に菅原院天満宮でその対比が圧巻。

いろいろな信仰と歴史が交錯するのが烏丸通でした。

やはり画像にはガードレールなどを一緒におさめたくないですね。

 

 

 

 

 

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2024年

3月

09日

聚楽第 中立売通の2標識追記 肥前唐津藩邸跡

思わぬ良きお日和が訪れ気分よく境内に飛び出しました。

朝方は怪しかったですが・・・。

ニュースでは関東地方の降雪状況を伝えていましたので当地の上々天気は誇らしい。

ただし午後15時以降風が吹きまくって気温低下。

 

私は南方系の植栽たちのケアと境内植木の剪定を少々。

外にいて何かしら動いていればホットになれるくらい。

お参りの方とも手を止めて立ち話になります。

そこで最近のありがちな事案について投げかけられました。

お寺とのお付き合いが希薄となって、「その時」をどうしていいかわからないといった友人がいるとのことでした。

 

要は「おカネがない」というのがその方のいつもの主張だそうで、また現在、親族の遺骨を抱えたままになっているとのこと。

私は「おカネがない」はどなたも抱える悩みですがそれを理由にお寺として拒絶はできない旨伝えました。それはどちらのお寺でも同じ・・・と。

「お寺の総代等と膝を交えて実情を話し将来のことまで模索するというのがスジ」ということを告げました。

 

将来の事とは「自分のその時」のことを含めて、ということですが立ち話の中、健康な時はどうしてもそこのところは気にも留めず「その時はその時」風の口上で大丈夫の躰を晒して生きているもので、日頃から子を交えて家族一同その件共有すべきであると。何故にその件(自分が死ぬこと)思考停止になっているのか・・・

私が「やはり家族は大切」と言ったのはその問題を提示された方にはしっかり子供がいらっしゃったとのことで。

 

私の場合はそのような面倒くさそうな件の判断は総代さんたちに投げてしまいますが、まずその場では「子供らは何やってんだ・・・」となることは間違いなし。

実際、その子供達がその件を放棄しているようですが、遺骨になる前にどうして皆で思案できなかったか・・・その手の話をよく耳にするようになりましたね。

 

子供達に仏に手を合わせて頭を下げるその背中を見せて来なかったということでしょうか。

何でも自由に好きな事をやらせるということも悪くはないのですが。

 

昨晩はNHKのアナザーストーリー「ボブ・ディラン」を視聴。

そこで「ライク・ア・ローリング・ストーン」の歌詞を今一度検索眺めていました。

お調子にのって大丈夫の躰ですごし、その後落ちぶれた人に向って「どんな気分だい?」とはちょっと言いにくいところですが。

まぁ親鸞さんからすれば、我らは皆同じよう、そこいらに転がっている石ころのようなもの・・・

 

扨、中立売通沿いにある聚楽第の石碑は私の知りうる物で2つありました。

烏丸通に近く息子の住処に向かうために右折する交差点脇にある A「聚楽第東濠址」⑤⑥の石標と 中立売通をそのまま正親小学校辺りまで行った左側の B「聚楽第本丸西濠跡」①でした。

 

いつかそちらを通過した時のこと⑤⑥石標には別の掲示板が添えられいました。そして背後からの図です。

Bにはその並びにあと二つの石標が立っています。

その一つが平安宮大蔵省跡②。

そして唐津小笠原藩邸跡③④です。肥前唐津藩主小笠原長行(1822~91)の藩邸跡ということですが、京都の御所近くということもあり、色々な遺構が重なってあるという一面を見ることができます。

尚彼は老中として辣腕を振るっています。

もうちっとばかしうまいこと戦ってくれたら・・・などとタラレバの余分な事まで。

 

 

 

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2024年

3月

08日

聚楽第北の地名と細い通と町屋

お日さまが恋しくなる日々が続きます。

気温的にはさほどの低下はなく寒さを苦に感じることはありませんが曇天の暗さと雨混じりが続くのは私だけでなく愛すべき植物たちの成長にとっても気がかりです。

まぁあの連中は結構したたかに生きますから・・・

心配すべきは・・・私そのものなのでしょう。

 

天気不安定なこの時期、乾燥しているワケがないのですが全国的に火事が多いような。

日々各地で火災による悲劇の報が伝わっています。

私が思うにこの相良という地は火災延焼の悲劇を味わっている歴史がある割にそれへの警戒感は薄いような。

 

街区の消火器や消火栓とホースの設置が少ないですね。

ちなみに御前崎の街中を走っているとあの赤い箱(消火器)が

結構に目立ちますし時に消火栓+ホース収納の提示も見られます。

ところが拙寺周辺にその赤い箱は見かけません。消火栓の埋設箇所はあっても(たまたま私が知っている)ジョイントするスタンドとホースは近くにありません。

これで初期消火にどう対応すればいいのでしょうかね。

テーマは119が到着するまでの「その時間」なのですから。

 

扨、息子の京都時代は全部で3カ所の居所を変えていますが昨日記した黒門通の地は2回目の場所。すべての引っ越しに私が関わっています。私の学生時代とは大違い。

3回のうち私としては一番行動しやすい場所でした。

 

たった1度だけ息子の部屋に泊まったことがありましたが、それがあの熊本地震が発生したあの日でした。

彼の住処は3階の隅で、真下の八百屋さんの先に昨日の石碑が見下ろせる部屋でしたが、この地震の報を得て、次に彼の部屋を訪れた際にザイルと軍手セットを届けました。

3階ならばハーネスは不要と判断、軍手で下降できるかと。階下の手摺に足が掛かりますので。

有難くも一度も使用されることなく、ザイルは今、私の車に積んでいます。尚、彼はその八百屋さんのご主人にお世話になっていたようでした。

 

彼のその住まいの名称は「西陣」の名が付いていましたがそちらから旧聚楽第方向に武家屋敷跡からの歴史いろいろを体感できます。

歩けば新しい発見が次々と。

地名で言えば昨日の弾正町に続き飛弾殿町、そして如水町。

蒲生氏郷(飛騨守)の屋敷跡。如水町は勿論黒田如水。

④の奥の看板からこの辺りを「聚楽」と大きいくくりがあることがわかります。

③のバケツは消火バケツ。「念には念」それが京都です。

相良の地以上に火災・災禍にヤラれていますからね。

 

最後の3つの画像が、「黒門通中立売上ル飛騨殿町」なる地名 黒の威風の主張を感じる御菓子司「塩芳軒」です。

天正の印がある「聚楽」なる菓子がありますが私が行く時はいつも閉店中。

息子にはそういうものを私どもに購入して・・・などの気配りはまったくなし。

まぁ「今」を彼なりに満喫してくれればそれでヨシ・・・

 

 

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2024年

3月

07日

聚楽第石標と 弾正町石標の記憶 

来年催されるであろう各イベント対応として相良史跡研究会の活動が進行しています。

現状小澤会長が進めているかつての相良の酒「陣太鼓」の復活の件、将に実現しそう。

お土産としてサイズ、一升瓶はまぁいいとして、お気軽さを強調するため小さいタイプをバンバン販売していただきたいものです。

相良の酒屋さん3軒に声を掛けその運営も了解済み。

アルコールの販売は素人が手を出せませんから。その3店のうち拙寺ご門徒さんが2軒。

境内に楽市をたて出店していただければまた有難い。

 

 

そして以前、市が主導的に運営していた「ブラ田沼」という実地史跡案内の件、史跡調査会で一部お手伝いするということを検討しています。

まぁどのように来訪者をコントロールされるのかなど難テーマまたぞろですが、案内をするにしろコース選定のうえ、各伝承地とその解説をしていきますが、先般私は新規にその「伝○○の地」的標識を設置をしたい・・・など提案したところでした。

それがあるかないかでは説得力今一つになってしまいます。

 

「ホントかよ」との指摘が出るにしろここは一気に「えいやぁ」という具合にそれをやっていくべきとの主張を。

まぁ地権者の承諾が第一義ですが、それをどういうカタチでやるかというのも課題。

私は予算を戴いて「石標を立てる」提案をしたつもりでしたが、立て看板だけでイイとの意見がありました。それは安あがり・・・

どうあったとしてもいいのですが私のイメージとは違っていました。

まごまごしていたらあっという間に時間が過ぎてしまいます。

月一のミーティングでは収拾がつかないかと。

 

扨、私の石標のイメージはコレです。

オシャレなプレートは不要ですがせめてこれくらいの物(この半分くらいでもいい)を想定していました。

石屋さんに依頼すれば工賃込みで10万円程度かかりそうで本数にもよりますが予算オーバーでしょうね。

聞くところによれば市は1億2000万円の予算をたてているようですからその辺りの気配りをしていただきたいものです。

史跡調査会に少しばかり工面していただけないものでしょうかね。案内人はボランティアなのですから。

 

画像は息子が京都在住の際、彼の住処の目と鼻の先にあった石柱標識です。

昨晩、NHK「秀次事件」を視聴しましたが彼の地(またはこちら)千田嘉博が聚楽第石標脇に登場していました。

中立売通の左に職安、右に聚楽第の標識を見て右折し彼の住む建物に向かいましたが、その番組を見てそういえば・・・と思いこちらの画像をアップしました。

何せ幾度もこの地を訪れています。

要は聚楽第のごく近く、かつては付随する武家屋敷が林立する場所だったわけで、息子が羨ましく感じられたものでした。

この地が弾正町となります。

 

尚、この石標の背後にあるさぞかし高級そうな建物に息子が住んでいたワケではありません。

その名を記せば黒門通の「シルクメゾン弾正町」良き名前です。

「シルク」はこの地が西陣と呼ばれ染色に関わる地であることとと「弾正」は町名ですがそれは上杉景勝の屋敷址から。

彼の官途名が「弾正少弼」でした(場所はこちら)。

 

相良には高坂弾正の屋敷址の伝承があります。

そちらにも標を建てたいものです。

 

 

 

 

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2024年

3月

06日

城砦の根古屋を思う徳山寺周辺

昨日昼食時に尾張清洲でお寺が延焼中との報を知りました。

スマホのニュースでしたが、気がかりなことでした。

その手の事案は特に日頃から気に掛けているところですが、以後気分は最悪。

時間が経つにつれて「一人搬送」→「一人死亡」と変化し、「四棟延焼、出火はお寺から・・・」などの追加情報が。

色々なサイトを見回す私がありました。

 

その各レポートに対して某サイトのコメントに「御冥福をお祈りします」などとありました。

「いよいよ嫌だな~」と思いました。「私のその時」にその語が投げ掛けられたら・・・もそうです。

親身を思う丁寧な温情を思わす語になっている言葉で、それに文句はあまり言いにくいことですが、逆に真宗系ガチの者にとってはその語は嫌悪にも価するものですからね。

 

何故なら真宗(浄土系の宗旨もしかり)には亡くなって「冥途」には行かないからです。

よって「冥途の幸福」・・・「冥福」など祈られたとしたら却ってムカッ腹が立つ・・・といったところ。

冥途については以前もどちらかで記したかと思いますが「冥王星」のイメージが近い。

そんな遠くて暗くて寒そうで空気も吸えそうもない場所に「福があるかよ・・・」でした。

 

しかし弔辞、弔電を聞いているとそこここにその語彙を入れています。悪気はなくともお気軽すぎ。
その「冥途」の語の使用はあくまでも当人限定の謙遜であり、他者が亡き人に言うことではない・・・
そう思います。

まぁ、私の時にもし、そんな弔電が届いたとしたらカットするよう伝えておきます。カチンと来て起き上がりたくなるくらい。

行く場所がお浄土に決まっているのが浄土真宗ですからね。

 

扨、昨日の徳山寺

あの時は本堂でたまたま寄合があったようで、境内をうろついているとご門徒さんから「住職がいらっしゃいますからどうぞ~」と声を掛けられ靴を脱ぎました。

よって堂内にて自己紹介をさらっと。

昨日の案内書を戴いて堂内の撮影。②の柱に掛けられた画は珍しきものです。

ついつい調子にのって正信偈でも・・・と閃きましたがそれはご住職の仕事ですので控えることにしました。

以前幸田の明善寺でお勤めしたことを思いだしましたが・・・。

 

この徳本寺のある地形は城塞に付属した寺を思わす雰囲気。

西に向かって谷がありその前面に外堀の巴川。東側背後には高地を控えています。

やはり伝承ではこの山に城塞があったとのこと。

豊田市に問い合わせて確認したわけではありませんが、本堂の石垣や境内奥の建物のベースとしている石積にその雰囲気を。

何時の造作かは不詳ですが。

 

この山は時間が許せば遺構探索をしたいところでしたが・・・⑩はお寺の駐車場から⑪は東側からの図。⑫はマップより。山は現状新東名高速が貫いています。

 

因みに昨日は啓蟄。

それを過ぎると藪の中=マダニ。これからが一番ヤバイ時間で

以後自重に限ります。

というか現在どちらにも行こうという気がおこらなくなりました。

 

⑤⑥は墓域ですが、その「中根」さんに親しみを感じました。

聖徳寺の中根でしたが(箱柳城)そちらに当家三代祐傳の母、成瀬正義の妻、勒さんの出所を推測しています。

 

その寺もそうでしたが城と寺の近接と根古屋の存在を思ったところです。

そして三河の「ガチ真宗門徒」の歴史も。

 

 

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2024年

3月

05日

証如上人裏書阿弥陀さん絵像 徳山寺

昨日記した「聖人」の件、もうひとつまどろっこしいのが「上人」の称。

要はイメージですが「スーパースゴイ」のが「聖人」でスゴイが「上人」といったところでしょう。

いずれにしろその称号はご当人からすればどうでもいいことでしょうね。

それほどの人格者が「スゴイ」と評価されることについてまず望んでいないでしょうから。

そしてその称号は宗門が育んで伝えたものでしょうから、他流の人達からすればさらにどうでもいいこと。

私は親鸞さんに蓮如さんなど「さん」付けが一番言いやすい。

 

当流では各善智識のその称について親鸞さん以外の場合公式には「上人」呼びになりますが、証如上人の裏書がある阿弥陀如来絵像(天文七 1538)が伝わるお寺がありました。

私のただの個人的羨望ですが証如さんは顕如さんの父というところと戦国期真っ只中にあって門徒宗をまとめ顕如さん絶頂の基盤を作った方。

そして拙寺には顕如さんからの遺物の少々は伝わりますがそれは天正期後半のものですし、それ以前の品で「古い」という伝承についてはあくまで伝え聞くものばかり。眉唾の部類ということです。

 

要は少しでも歴史が古いものはイイということです(勝手な感情)。

天台宗など古い時代の創建のお寺からの変異(宗旨替え)を除いてこちらは「古い」を感じたところ。

まぁ私は古いもの好きということからそこに着眼したわけですがこれもどうでもいい件でもありました。

 

①かつて細川順行寺周辺をほっつき歩いた際、目で見た「細川」地名に感動して信号待ちの際、撮影したもの。

そこからしばらく巴川沿いに北上したのでしたがたまたま見かけた大谷派のお寺が徳山寺でした(場所はこちら)。

②の掲示板、再掲です。

④⑤は明和四 1767年と江戸期のものですが、三河で古い門が残ることは奇特なこと。三河地震で寺の門の崩落事案は少なくなく、近年の再建が多いものです。水屋の水盤には「丁亥」の文字が光っていました。

製作年代を記すということは後世の者たちにとって親切です。

 

 

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2024年

3月

04日

「聖牛」の聖は「スゴイ」 竜王 信玄堤公園

一昨晩23時からのETV特集「膨張と忘却」~未公開資料が明かす日本原子力政策の内幕~吉岡文書(吉岡斉氏による内部資料)を視聴したことを昨日記しましたが、よ~く考えてみるとNHKさんの放送時間、ちょっと遅すぎやしませんか?

報道機関の使命として「事実を基にした番組をつくる」ことは有難く思いますが、その時間帯って・・・。

国民の殆どは寝ている時間ですよ。

これも上層部の政治的忖度・・・?  そう思ってしまいます。

 

尚、その番組の再放送は3/6(水)深夜24時[7(木)午前0時]とまたも深夜。あたかも「あまり視聴して欲しくない」を示しているような・・・

私は保存しておくべきスクープ報道とみました。

吉岡氏の意志を継承するためにも皆さんに知っていただきたいものです。是非予約録画を・・・きっとその内容に腹が立ってきますよ・・・

 

扨、当流の著名な古典「歎異抄」は誤解を招きやすく一筋縄ではいかないような内容が山積み、解釈することも難しく、理解に慎重を要すべきであると教わってきましたが、私の最近はその4条の慈悲をテーマにした段を持ち出して人間の「限界」について話すことが多くなっています。

そしてその冒頭の「聖道門(自力)と浄土門(他力)」を対比させた、自力=聖道の「聖」の文字と親鸞聖人の「聖」との意味の違いについて説明しなくてはますますの混乱それに拍車をかけます。

どちらの段階で御開祖に「聖人」が付けられたのか私は知りませんが、そもそもその「聖」とは「衆生とともに」「一所に留まることなく」「時に流浪する」乞食坊主的意味合いがありました。

方やエライ、素晴らしい、超越した、スバラシイ的な「聖」がその聖道門の聖であってこの4条はイキナリ、スンナリ受け入れていただけないところなのです。

そして「しかれども おもふがごとく たすけとぐること

きはめてありがたし」という前段の結が導かれるのですが、ややもすればこの「ありがたし」も大いにチンプンカンプンにさせる箇所。

ここはブロク既出の通り現在使用されることが多くなった「すこぶるありがたい」的感謝の意ではなく、「まったく 無理(有ることが難しい)」の方ですね。

 

その「聖」スゴイ!! の方ですが、昨日記した信玄堤。「そちらといえば」の如くその代名詞的な物にも使われています。

それが「聖牛」という人工の簡易堰のような代物。

私は三脚を単管パイプで組んで重量物荷揚げに使用することがありますが、この「聖牛」は変則的な三角錐状に組んだ材の底部の棚に石を詰め込んだ蛇篭を置いて安定させるというもので、これを川底に設置し、他の構造物と合わせて川の流れを制御させたといいます。

 

富士川源流、釜無川の氾濫を抑制するために武田信玄が設置したといいますが、それに似た設備を各札付きの河川に設けているところを見るとその効果は絶大だったのでしょうね。

家康も安倍川で同様の工事(薩摩土手)をしていました。

 

 

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2024年

3月

03日

吹きっさらしの信玄堤思い出す 甲州風景は冬こそ・・か

地震は相変わらず・・・

千葉県東方に注目が集まっています。

どうなることやら・・・

夜間はETV特集「膨張と忘却」~未公開資料が明かす日本原子力政策の内幕~。吉岡文書(吉岡斉氏による内部資料)の公開から。

まぁ政治的インチキによって原子力政策が進められていたことがよくわかる番組でした。プラント製造会社と電力会社そして政治屋とのブラックボックス・・・。

なんでもかんでも「結論ありき」・・・腹が立ちますね。

この国は他でも同じようなカタチで物事が進んでいる様はだいたい感じ取れますが。

まぁそういった感じで知らないところで物事が進められるような国のシステムには不審以外感じられませんし、つまるところそんなことでは一向に人口の減少に歯止めがかからない・・・その件大いに察知できます。

「国民のことより自分らのこと」「カネとウソとおまんま・・・」(某政治屋談)

要はそんなインチキ社会に子供を任せられますか・・・といったところ。

 

昨日の未明からの風吹きまくりの様もまたイヤなものです。

殆ど「暴風」の如くでした。

そういう晩は火事の発生について特に気がかりです。

相良では結構に悲惨な火災事案が発生していますからね。風が吹けば、出火元でなくてももらい火で延焼しますからね。

日頃どんなに火の元に気をつかっていても他所、風が運び、煽られることにははどうにもなりません。

 

昨日「過酷」を思ったのがその風に加えて気温がやたらと低かったこと。

その日は午前ではなく午後の法要があって、その頃には安楽の時間になると高をくくっていましたが、どっこいお内陣はほとんど「べらぼう」と言っても過言ではないくらい体感温度は低いものがありました。

「3月ってこんなに寒いもの・・・? 」などとボヤいている私がありました。手足の冷たさを酷く不快に思う一日でした。

 

こういった日は家に籠っていればより寒さが増幅するものです。しかし、それがわかっていても一歩たりとも外に向こうという気は終始起こりませんでしたね。

 

こういう日は厳冬期に信玄堤の吹きっさらしを歩いたことを思いだします。

まったく酷い風で、地元の人達であっても殆ど人無し。時折犬の散歩の方が歩く姿はありましたが。

こちらは信玄堤公園なる場で一応観光バスが駐車できる駐車場がありますが、その手のものは見えません。

何故なら甲州は夏から秋が命だからですね。

各、土産物屋に道の駅はありますが、寄り道しても甲州名物の果物の類はなし。

地場産で店頭に並ぶものといえば唯一干柿くらいでしょうか。

私は硬めの干柿を所望。

あの時は奥方が同行していましたが「干柿って土産ではないだろ どこでも作っている・・・」でしたが。

 

甲州の冬の良さを記せばお天気さえ良ければ青い空とくっきりと盆地を囲む山々が浮き出ること。

ただしそうだとはいえ、好天の青はそうはありませんからね。

 

私はこちらの案内板で躑躅ヶ崎館(こちら)近くの臨済の圓光院のご住職に教えていただいた櫛形山の件、雪がハッキリわかるお隣の農鳥岳と取り違えて理解していたことがわかりました。

 

信玄堤の駐車場、奥方は助手席に籠ったままだったことは言うまでもないこと。

川辺まで下りて散策しようなどという気はさらさら起きませんでしたが。

 

 

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2024年

3月

02日

カオス 寿司店のメニューの読み間違いから

昨朝の千葉県東方の地震に、能登半島の震災が重なってきました。「スロースリップ」なる地殻の変動の件、報じられていましたがその地の最近の群発地震の発生はあまり気持ちのイイものではありませんね。

やはりどちらに住まわれていてもその恐怖から逃れることはできないのですね。

できれば「逃げたい」というのが本音なのですが。

 

扨、最近は時に酢飯を所望したくなります。健康に良いといわれていますからね。

半世紀以上前、小田原の母方の祖母すゞさんが健在の頃はちょくちょくちらし寿司を食べたものでした。

思えば、アレを作るのは相当の準備と労力が必要で、今はなかなかそれを家庭で調理するというのはできなくなっているよう。

よって「寿司が喰いたい」とあれば、「寿司屋にGO!!」というのが当たり前になってしまいました。

寿司にしろぼた餅にしろ以前はすゞさんの特製に舌鼓を打てせてもらったものですがそれはもう大昔の思い出になってしまいました。

母もその味を再現してくれていましたがそれも過去の話。

ここ数年は奥方より「家で揚げ物はしない」宣言が発令されて口にできる物のバリエーションはいよいよ減ってしまいました。

下手にそれについて各注文などつけようもなく。

「時代」なのでしょうね。

 

昨日は法縁のお話で「五濁悪時」「五濁悪世」など正信偈や阿弥陀経にある語について触れました。

それが仏教思想の基本である無常・不条理・人々に迫る理不尽の数々、その世の「背景」です。

いつものように「時の流れは恐ろしい」から始まってその四文字を示しましたが、他にお話を進めたかったこともあって、五濁についてはあとからお家に帰って「ググってね」。

まぁいい加減、私の話などそんなものです・・・。

要は「無常世界に生かされている私たち」の前振りですから私としてはそれでOKだったのですが。

 

本題はまた一つの仏教の意図する行動理念、「慈悲」でした。

そちらから歎異抄第四条について触れ(表白には歎異抄第一条添付)て実践しようとしてもどこかでどうにもならない限界と自らの愚かしさに気づくことの大事、他力の本願念仏の選択について話をすすめたいという主旨でした。

しかし何せトーク力のお寒い私の件、さぞかし支離滅裂、逆に混乱させてしまったかも知れません。

 

真宗の古典をそこかしこに導入したいという気が急いてゴチャゴチャになっているというのが私の最近の傾向でしょうか。

奥方から最近いよいよ老化の道を辿って話が長くなっている・・・とご注進いただきました。

 

③先日、息子のアパートに届け物をした帰りに、近くの廻っている寿司屋(お安い寿司屋さん)の席に。

メニューを見て固まって凝視したのでしたが、単なる私の視覚と日々の頭の中の混乱の問題でした。

メニューがテカっていてカマスをカオスと読み間違いしたのでしたがそれを横浜の「奥の墓道」氏に写メしたほど。

彼は「そんな寿司があるなら是非喰ってみたい」と。

五濁の中の混沌。まさに私のことでした。

 

①②は本山とそちらで見た掲示板。

 

 

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2024年

3月

01日

谷文晁と幡随院長兵衛に妻きん 源空寺 

昼頃までは日差しがありました。

その環境は十分と見て鉢の植え替えを二鉢ほど。

少々早いとは思うものの先般衝動買いしたマーガレットの根がパンパンに張って鉢底から根が出てきていました。

水やりすると「ありがとう」と云われたような気がして・・・

ついでに散らかっている鉢たちに繁茂しだした雑草を抜きました。

するとどちらの鉢からもユリの新芽が顔を出していました。

毎年この時節思う事ですが「ユリは裏切らない・・・」。

これらもこれから鉢の更新がありますが、開花が楽しみでもあります。

確実に季節は進んでいるという感ありますが、昨日特に実感したのは日の長さ。

17時からの法要がホールで。

18時前に帰宅した際は、外はまだ薄ら明かりがのこっていました。昼が長くなりました。

あっという間に時間が過ぎていきます。 

 

時として徒労に終わって、またポカをやらかして枯らしてしまうこともありますが、無常世界に生かされる身としては一所懸命に成長かつ成果を残さんと将に生を実感させる植物というものに希望と安らぎを抱かせます。

一昨日、息子が寺に立ち寄りましたが「お前も花や木を植えろ」などと世話をやいたところでした。

しかしもはや新しく植える場所は限定的ですね。

私が木々を植えまくっています。

まぁどちらか墓石の撤去があった場合、そちらのスペースをミニ花壇にでも、など・・・それも陽当りが良くなきゃダメか・・・

 

 

扨、昨日も記した源空寺墓地の中央の通り、最奥には阿弥陀さんが鎮座していましたが、その列にはまだ著名人の墓があります。

谷文晁と幡随院長兵衛夫妻の墓ですね。向かって左が長兵衛、本名は塚本伊太郎、妻は口入れ屋の娘きんということで。

 

 

谷文晁の名は番組「鑑定団」頻出(まずそれは偽物間違いなし・・・の品々です)、そして幡随院長兵衛は時代劇、歌舞伎に頻出の名でした。

 

しかしこの墓地のこの列、伊能・高橋親子の並び、にどなたにも聞き覚えのある名が整列しているのは驚きです。

他にも何か・・・などと欲張って探してみましたが・・・

 

 

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2024年

2月

29日

陣太鼓酒造の件 高橋景保と最奥の阿弥陀仏 源空寺

朝は「寒い!!」などといつもの如くの口癖がでましたが日が高くなるにつれて車の運転中には居眠りが出そうになるほど温かくなりました。

私はあっちこっちとバタバタと。

 

帰宅すると、史跡調査会の小澤会長から印刷物が届いていました。

現在、調査会では来年の大河ドラマ用に目玉となる商品の開発を私どもなりに考察していますが、会長の一押しはかつて相良にあった酒造の銘柄「陣太鼓」の復活です。

それは大沢の般若寺に実存する陣太鼓からの名ですが今その名を表す品といえばお菓子の最中をイメージする方が大多数なのではないでしょうか。

 

私は不調法なりともお酒についてまったく興味がない類ではありません(酒は飲まないがその場の雰囲気が好み)し、かつての相良の名物の復活は大いに期待したいところです。

会長が示した書面はその「陣太鼓」の山本敬三氏についての件がつづられたものでした。

今は「高天神」でお馴染みの土井酒造がその名の権利を持っているとのことで、その再販について検討しているようです。

物販ができないと客さんを集めても相良におカネを落してもらえませんからね。

相良の有志の方々、どのような品々を用意してくれるのか楽しみでもあります。

 

、昨日記した浅草、源空寺の墓域。

門を入ってスグ左側に新し目の墓石と顕彰碑があります。

その先の左側に高橋至時や伊能忠敬の墓が並んでいます。

 

その墓が高橋景保の墓になります。

高橋至時の長男、弟は渋川景佑で天文学者一家。

源空寺墓域のこの列には「大日本沿海輿地全図」に関わった人々がズラッと並んでいるわけですね。

 

彼の新し目の墓碑というのは当初亡くなった際に墓石建立が憚られたからと云われています。

それが彼が1828年のシーボルト事件によって収監、獄中死したあげくに「斬首」されたということでいわゆる罪人として取り扱われたということ。

 

今考えるとその事件については当時の幕府の政策があったにしろ相当なるバカバカしさを感じます。

真面目にやっている学者もちょっとした感覚の違いから犯罪者の烙印を押されてしまうのですからね。

 

その墓地の最奥には何故か金色に輝く阿弥陀如来坐像が。

この手の形態は見かけた事がありませんでしたから新鮮に感じました。

 

 

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2024年

2月

28日

源空寺 高橋至時 伊能忠敬の墓

風つよめながら気持ち良い青空。

先日は相良のお寺さんの集まる会がありましたが、先般数カ所のお寺に被害があった賽銭泥棒の件も話題の一つに。

堂内を荒らした下手人の姿を確認した若い住職が木刀を持って追いかける図をたまたま付近の防犯カメラが捉えていたそうでそれを確認した警察官からご指摘を頂戴したそうです。

「やりすぎ・・・」と。

私など深夜の夜警に真剣を持ち出した「若気の至り」(いい歳こいた・・・)がありましたが、それはそれで相当ヤバかった・・・の反省。

 

賽銭泥棒の場合、その者が立ち去ったあと、小銭程度で済むのであれば気持ちも収まりますが、もっと違う何かの被害があったのか当初の判明ができないものですからそんなときはとにかく追いかけて「捕縛」したいものです。

大した被害がなければそれにこしたことがないのですが、やはり一応何とかしたいの気持ちがあります。

かといってお相手は何か(ドライバー、刃物の類)を持っている場合も想定されます。こちらとしてもいくら何でも丸腰は怖いですからね。

せめて木刀くらいは許してもらいたい。

私は「素振りの練習」と称すれば・・・と今はバットがベストかと。

 

扨、昨日記した源空寺。

通りを隔てた墓域入口には伊能忠敬とその師高橋至時の墓があります。

伊能忠敬に関してはブログでも2度(こちら こちら)ほど記しています。

浅草東本願寺からもさほど遠くない地でこれまでいつかはお参りに行きたいと思っていたお寺ですが、浅草に行くと他にやること、やりたいことがあって毎度無念ながらパスしざるをえませんでした。あの時も大分陽が傾いていました。

本堂敷地の向かいにある墓域方向の図は逆光になっています。

 

彼らの功績については各ググっていただければ・・・

 

 

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2024年

2月

27日

源空さんとは法然さんのこと 源空寺

首都圏は20メートルの強風が吹き荒れたといいますが、当地は無風。不思議なものです。

境内でお会いする方はみなさんは異口同音に「風もなく、いい天気ですね」、ですからね。私は「有難いことです・・・」。

 

おかげで私のお気に入りの小桜は満開。スイセンもそろそろおしまいでウメもおしまい。バラに勢いを感じます。

こういったいいお天気が続けばしめたものですが、そうは問屋が卸さない。晴れると翌朝が冷えるというのがパターンですからね。

天気が崩れる予報もまたも。

 

扨、我ら真宗の経典といえば「正信偈」。

その後半部分には親鸞さんご指名の先達、七高僧についてサラッと記しています。

その中で本邦浄土系の善智識として「源信」―「源空」の名が。

一般的に「源信」さんといえば日本史の教科書に頻出する名ですのでその名を聞いて「ああ往生要集のね・・・」という感がありまた、恵心僧都の名もそうですが源氏物語の「横川の僧都」のモデルになった人としてもあまりにも有名でした。

そして源空さん。

その人も日本の浄土教系の僧侶としてはあまりにも著名ですが、その名以上に有名な名があって教科書での表記で「源空」は見た事がありません。

 

その源空の名は教科書記述は「法然さん」。

浄土宗の開祖で親鸞さんの師匠として名が通っています。他所では源空院など記していますがその名が出たら「浄土宗」とその宗旨まで推測できますね。

 

画像は先日行った東京本願寺の帰りに立ち寄ったところです。

この辺りの寺は関東大震災に東京空襲の被災があってどちらも苦難を潜ってきた歴史があります。

門前の掲示板「毎日感謝し 一年過ごす  南無阿弥陀仏」。

まさに・・・

 

ただし色々ある・・・

「愚痴の法然房」(法然さん自らの名のり)・・・ 

 

 

 

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2024年

2月

26日

洞樹院 舟形光背の阿弥陀如来の開山堂 大沼城三代

夜が明けてからお日さまは現れずまた気温は一向に上昇せず。

むしろ昼間の方が寒かったのかも。

小雨は降り続いていましたが午前の法要のお墓参りの時間は何とか「許容範囲」。ありがたき仕合わせ。

ただ世間様としてはとんだ三連休だったでしょうね。

 

私の昨日は朝晩の勤行を除いて法要3度。

動きの激しく寒いお頭混乱の一日でした。息子にそのピンチにヘルプの声をあげるもここ数日は神奈川県内での予定があるとのことで私の懇願は一蹴されてしまいました。詮無き事。すべて承ります。

 

扨、先日は大沼城本郭洞樹院(または)そして勝手に推測した西山墓域別郭について記しましたが周辺をさらにうろつけば洞樹院本堂の背後に位牌堂(開山堂)があることに気づきます。

どちらのお寺でもその手の堂に足を踏み入れるにはひと声かけるのが礼儀。

住職の許諾を得て入堂させていただきました。

すると中央に舟形光背の立ち姿の阿弥陀さんが。

左手前に大沼城主三代(初代木村安信、二代新九郎信元、三代松平親清)の古めで同型の位牌が並びます。

判読はなかなか難しいものがありますね。天井には天女が舞っています。

こちらは勿論「南無阿弥陀仏」の名号を唱える場ですね。

やはり以前、ロウバイが真っ盛りの頃でした。 

 

 

 

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2024年

2月

25日

太田Collection Gallery 真宗大谷派災害情報

一転、雨はあがって私は朝からバタバタ。

日曜にも法事が控えていますが、雨予報になっています。

東海地区は4℃~7℃とのことで雨に寒さが加わって、参拝の皆さんの気の毒を思います。

しかし能登半島の究極の不条理のうちにあって衣食住の最低レベルに命をつなぐ人々にはその手のボヤキなど失礼千万。

雨天寒空など笑いながら有難く承るだけですね。

私はここのところ本山が発している真宗大谷派 災害情報の更新の頻度が高くなっていて(最近は毎日)必ずそれに目を通すようになりました。

 

本山から若手の皆さんが被災地に出向いての活動を報せてくれているのですが、頭が下がります。

おそらくあちらの気温は相当低そう、ロウバイの満開が紹介されていましたが、当地のそれはとっくに終わっていますからね。

4℃~7℃で泣きを入れている貧相な坊主、私です。

 

扨、昨晩は2月の最終土曜日。

19時から「メディテーション」がありました。

最近はずっと正信偈拝読の会の如くになっていますが、そこで「コレご存知?」と投げかけられたのが「太田Collection Gallery」について。

 

牧之原市菅山に2月1日にオープンした美術館というかギャラリーでその名の通り太田さんのコレクション。

個人的に収集した美術品を展示スペース(新築)に並べたというもの。

テーマと展示期間を決めて並べるそうで収蔵庫には展示物の3倍あると。

月火曜が閉館で入館料500えん。

 

聞くところによると「源内焼きの皿」もあるといいます。

出回っているそれはそれほど高価な代物ではありませんから「なんちゃって源内焼き」が多いのでしょう。

というか本来イメージする「平賀源内の手」によるものではない・・・というのがまたぞろ、まったくその真偽はわかりませんね。

 

ただ相良では史蹟調査会のかつての重鎮、今は亡き中村先生が生徒の榛原高校生にその研究をさせ、自らも平賀源内の墓といわれる墓域の発掘現場からたまたま出土したといわれる陶器をここぞとばかりに某鑑定番組に持ち込んで出演したことがありました。

そこで例の専門家からボロクソ評価をされたということを思いだします(私は視聴していませんが)。

先生は大恥をかいたと意気消沈し「平賀源内の件から金輪際手を引く」といった経緯がありました。

平賀源内や源内焼きに関わるとロクな事がない・・・そんなところでしょうか。

既報の通り田沼意次との関係が次回の大河ドラマでクローズアップされるでしょうから相良では俄かに再び源内で盛り上がろうという雰囲気がありますね。

私は一歩引いたところで傍観でしょうか。

あの本は昨日メディテーションに来られた小学生にあげちゃいました。

 

 

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2024年

2月

24日

どうせ裏で糸ひく悪の権化って~徳川治済なんでしょ?

そしてまたずっと雨。それでいてまた寒い。

昨日は法務もなく一日中庫裏に籠りっきりでした。

外出する人の気が知れない・・・と呟いた通り、来客の一人もありませんしやはり境内に人影は見られませんでした。

 

毎度お好みNHKBSの西部劇。「たくましき男たち」を視聴しつつぼんやりと過ごしました。

私が生まれるよりも前、1955年の映画で先日記したロバート・ライアンそしてクラーク・ゲーブルも。

 

南北戦争後というと大抵が南軍崩れが悪役というイメージで固まっていましたがこの頃のストーリーは案外そうでもないことを知りました。もっともお話の中での悪役はスー族と今でいうネイティブアメリカン。

 

一昔前の西部劇は彼らを恐怖の権化、忌み嫌うべき野蛮人として描いていました。私の子供の頃の西部劇ごっこでは「頭の皮を剥ぐ」(元はインディアンではなく白人の所業)などの台詞があったことを思いだします。

ただしインディアン役になる子は皆無でしたね。

 

わが国でも南北朝時代以降、南朝方=負け組、陽の目は見られないという雰囲気がありました。

「南」はハズレ籤で統制の取れない悪役、インディアンは凶暴で怖い・・・のイメージはそののち作られた西部劇から得たもので双方とも今も引きずる人種差別の問題を深く抱えていたのでした。

 

そのスー族(特に「悪いインディアン」)とアメリカ政府、白人世界との関係で言うとスー族の鉄槌を受け、死したカスター将軍の名が出てきます。

当時はカスター将軍こそがヒーローの中のヒーローとして囃された軍人で彼の死以降インディアン憎しの風潮が吹きまくったのでしたが、そもそもスー族はじめネイティブ各族はカスターがかつてやってきたインディアンへの無差別虐殺、今でいうホロコーストへの根強い恨みがあったこともあります。

カスターの自らの数的不利を咀嚼せずに攻撃を仕掛けたという無謀な軍略的ミスもあったわけですが・・・

 

その無謀なインディアン駆逐作戦を進めて死んだカスターは今や逆に悪役となった風があり、以前の如くのカスター哀惜を語る西部劇はありません。

差別の先鋒と成り下がったわけですが、その彼にも何故にして無謀な攻略を強行したかを、含めてその理由をバックに糸をひく「本当の悪役」(政府上層部)がいたはず・・・という説もあるようです。

その説、私にはわかりませんが、人間とは結構に煽てにのりやすく、上への忖度も図るもの。踊らされるのが常なのですから。

 

扨、先日の史跡調査会の会合で、2025年の大河ドラマでの田沼失脚の件、やはり悪役は後ろで糸をひいている徳川治済で落ち着くのだろうとの言がありました。

最近はNHK番組「大奥」流行りですからね。庶民はそれで落ち着くかもしれませんが・・・

私はその番組をまともに視た事はありません、というか男女逆転の配役とストーリーに「ワケわからん状態」になるからですがその原作者の談をチラっと目にしました。

 

治済はほとんど史料がなかったこともあり『何の志もない ただただ恐ろしい人』にしてみました。

退屈だからと人を殺しちゃう、そこには理屈はないんです。」を読んで、やはり劇は劇、おはなしはおはなし・・・イメージによる創作ね・・・ということで了承。

しかし一度作られ流布されたイメージは拭い難い固定を生みます。とくにその番組を視聴していた方には・・・

 

聞きかじった話ですが「松平定信と田沼意次の和解を演出」といった趣旨のイベントもありうるそうですが、そうなると本当の悪役となるのはやはり・・・

 

ここで徳川治済の性質を示唆できる件、ブログで記したものを。

品誕に大公は

坂井の山崩れ

老齢年金-への御礼

といった感じですが「大奥」の作者の言う『何の志もない 

ただただ恐ろしい人』の感じは微塵もありません。

 

あれだけ後世「すばらしい政治家」と囃された小島蕉園を代官として荒んだ相良の地に抜擢、善政を行わせたこともそうですが、好き嫌い激しく、悪辣を嫌う小島蕉園が「大公」と敬っている様、その手の事はまったく無評価なのでした。

因みに蕉園が徳川治済への贈り物が例のアレ「馬鮫魚(鰆)菰塩」でした。

それをブログに記した頃は私も悪役は彼というのがその感覚でしたが・・・。

いずれにしろ徳川治済黒幕というのが既定路線なのでしょうね。

 

①画像は国税庁のポスター。

先般某寺院に税務署の方が現れ各ご指摘を受けたとのことでした。

しかし私ども末端の田舎寺にやって来られたとしても成果は得られないでしょうね。

何せ節税を心がけるとはいうものの、その税の対象となる「入り」に限界がありますからね。節税=脱税とはいいますが・・・

今節、庶民隈なくプレッシャーをかけるのもいいのですがこのポスターは国会議事堂(悪の権化?)に貼るべきと世間の人々は言い囃している様子。その方が国の為になりそうですが。

②は治済の図。 

 

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2024年

2月

23日

岡崎教区31組の真宗落語 6月15日(土)掛川にて 

またも終日雨。

朝からイラっときますがやることはやらねば・・・と自ら言い聞かせてまずは、本堂床下照明のスイッチの現場説明書きの更新から。

そして一昨日届いた真宗大谷派岡崎教区31組主催の「真宗落語」のポスターの整理を。

降雨のため限定的ですが、外用のもの3枚を製作。

その一つを門前に1枚、掲示ケース内に大型ポスターを提示しました。

 

タイトルが「真宗落語」の通り、当流関りのお話となりますが

桂小春團治師は昨年の本山主催のイベントでも公演しています。

対象は真宗ご門徒さまだけでなく、どなた様でもかまいません。

ただポスターの「持物」のお念珠についてはまぁご理解いただけるかと思いますが「赤本」との明示は人によってはハードルが高く感じる方もおられるでしょうね。

私どもは「赤本」はそれで難なく通じますが、ひょっとすると

ご門徒であっても「 ? 」になるやも知れません。

 

要は「正信偈」を冒頭拝読しますよ~の事ですが、その正信偈が掲載される経本を赤本と呼ぶことが多いですね。

その呼び名はおそらく全国共通とは思いますが、最近、拙寺で配布するそれは教区で出ている「オレンジ」あるいは「青」ですからね。

 

そして何より持物指定の件、厳密性はなくそこは「フリーで可」ですね。ついつい正信偈拝読があるのでその親切心で追記したとは思いますがややもすると「念珠と経本を持たない者は来るな」のイメージにつながりかねない箇所でした。

「お持ちの方は」とか「無くても可」と記したかったかも・・・。

そうですね、その「お持ちの方は」のシールを貼ることにしましょう。

6月15日とまだまだ先の話。近くなったらこちらでも再び案内する予定ですし、ご門徒さん店頭など掲示ご協力をお願いします。

 

扨、昨晩は数年振りに開催(おそらく4年?)された相良仏教会の新年会に出席しました。

この新年会は毎年の次期会長への引継ぎを兼ねていて新しく会長となるお寺の大御所と久々お会いしました。

その方は相良の寺々の「まず三代の付き合い・・・」があるとのことでそれを聞いて「ああ息子を連れて来て挨拶させればよかった・・・」と思った次第。

私の爺様を知っている方ですから、私の息子だとその4人目ですからね。新記録です。

 

大御所の話は面白い。

首都圏のマンション坊主の話になった際、当初は「凄いのが居たものだ~」と。

国内大抵の宗派の葬儀ができるオールラウンドプレーヤーなる坊さんの話。

絶対にそれぞれ本山の資格などあるはずもなくすべてに対応してしまうという強者です。一応衣等の「衣装」は揃えていたそうですが基本「参列者はわかっちゃいないから」の開き直り。

要は葬儀社からの依頼を受けるわけですが頭を丸めていて「それなり」の風体ならみんな信用してしまう・・・と。

「私は信用されませんね・・・」と自虐を呟くと「そう、大澤寺さんは地元だけ・・・」。

他所では誰も相手にしない・・・ということでしょうがそれでいていろいろ出没することがある私も結構図々しい。

 

今は施主さんもグーグルマップで住所地検索しますので、マンション坊主は流行らなくなりました。坊さんを引っ張ってくる葬祭屋さんへのクレームとなってしまいますから。

それで、さすがにインチキ名刺は渡せませんからね。

まぁ世の中には架空の寺院名ではなく実在する寺の名を勝手に記し、連絡先を携帯番号にするなどの新手もいるようです。

取りあえず葬儀を修めてくれればそれでイイといった施主が増えているのかも知れません。それこそ「知らぬが仏」なのかも。

 

③は雨の中撮影したいつものサクラ。

私が最も今かわいがっている木ですが、蕾はどんどん開いてしまい「この雨申し訳ないね~」の気持ち。

また今度青空と日差しの中撮りたいものです。

 

 

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2024年

2月

22日

『田沼殿と源内さん〜ときどき徳川ファミリー〜』

季節の変わり目、雨ばかりの感。

夜間は土砂降りの時間が長めにありました。

一昨日の陽気から一転、10℃余り低下したでしょう、うすら寒く先日の半袖1枚なんてとんでもないような一日。

午前中に史料館の長谷川氏が立ち寄ってくれましたので完成したての床下照明のスイッチを披露。

 

そういうばこのスイッチを「さっさと作らねば・・・」とのろまの私をつき動かしたのは静岡市の観光協会のOBを名のる方と拙寺境内で遭遇したことからでした。史料館で紹介されて来られたようでした。

既にざっと見廻ったあとからでしたが、その方は例の床下照明について気づかず、目視できていなかったと。

よってスイッチの移動工事をしたのでしたが、その方はOBながら来年の大河ドラマにあわせて同じ静岡県の歴史として紹介できるよう、各所歩いて学びを深めているとのことでした。

当地の観光協会との温度差を感じましたが・・・

 

さて、画像は『田沼殿と源内さん〜ときどき徳川ファミリー〜』というギャグマンガ新刊。

集英社より1冊回ってきました。

書店には「まだない」とのことで、取り寄せとのこと。

よって史蹟調査会の皆さんに一斉メール。

相良本通りの布施書店にて「注文しよう」と宣伝したところ。

 

この今の相良に「もってこい」の如くタイトルを漫画という理由だけで捨ておく手はありませんからね。

みんなで注文して相良の書店店頭にこの本を積み重ねようとの意気。

ただし私はマンガは数十年振り。

そしてストーリー展開と理解に難儀させられました。

まぁそんことはどうでもよろしいこと。

相良にスポットが当たり浮かび上がることは喜ばしいことです。

 

 

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2024年

2月

21日

夏の陽気 本堂床下照明配線と手元スイッチ完成 

夜間の激しい降りは収まって朝から日差しがそそぎました。

グングンと寒暖計の数字は上昇し、午前中には20℃オーバー。

昨日一日、全国的に嘘のような気温だったようです。

境内垂れ梅の前には小桜がありますが花芽は日々膨らんできて一昨日あたりから開花しだしました。

画像はまだ枝垂れ梅(ピンク色)が圧倒的に目立ちますが赤が濃く下向きに開花する小桜がいよいよとばかりに存在の主張をしだしました。

ソメイヨシノの開花予報は約1カ月後、この個体は毎年早めに開花しますが、ある程度の寒さが無いと花は早く終わってしまいそう。

 

トレーナーを脱ぎ捨てて床下照明の手元スイッチ増設工事の準備をいつもの軽トラの荷台で。昨日の続きです。

何とか頭の中で描いた図で配線の仕上げてイザ床下へ。

電気工事はD.I.Yですからいわゆるモグリ。まぁ他のいろいろもそのようなものですが。

ちなみに私の持つ真っ当な資格とは船舶と宅建そして今の手前の仕事関係。船舶も宅建も免許切れ、更新はそう難しいことではありませんが更新料をケチってそのまま。

よって期限がナイ坊さん(教師免許)の仕事は死ぬまでOK。まぁそれも毎年の更新料の如くの経費はありますが。

 

しかしこの電気というものは結構に不安がつきまとうものです。「自分が信用できない」という点もありますが・・・

いつものポカをやらかして回路短絡したとしたら・・・本堂が燃えてしまいますからね。

配線は入念に絶縁しているつもりですが、不安はつきまといますね。当分の間は注意していくつもりです。

 

前回の案内板の直下、本堂濡れ縁の下にスイッチボックスを設置しました③④。100円ショップで仕入れたものですから劣化しやすいかと思いますが。

背面に穴を空けるため軟質なプラスチックを選択。

風によって不安定になりますので地面に埋めた杭を縁側下部に固定しました。

 

スイッチボックスの蓋を開けると⑤配線したON-OFFスイッチがありONにすれば⑥床下の照明が点灯する仕組み。OFFの時はパイロットランプが点灯。

この赤いボックスはお墓参りの方が普通に歩いていたら気づきにくいものがあります。

あくまでも掲示板に注意をひかれ、あるいはその床下状況をハナから確認しに来られた方がそのボックスのスイッチを「押してみよう」と思った時、それでOKなのでした。低く屈まないとそれは確認できません。

どうでもいい方にはどうでもいいようなサービスですからね。

それだけに火でも出したら・・・恐ろしい。

 

さぁ、夜警に境内を見回りにいくとしよう。

 

 

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2024年

2月

20日

大沼城主家臣供養塔 洞樹院西側の山

天候不順で朝から自宅待機。

本堂床下照明のスイッチ位置を変更すべく一昨日購入した部材を工作。

あとは少々の追加パーツを仕入れて床下に潜るだけというところまで。

床下と言っても時折降る雨の中、敢えてその仕事をする理由は見出せません。

 

尚、床下のスイッチは現状、見学推奨位置から10m程離れて、なお

見つかりにくい場所にあるために推奨位置直近に変更する必要があると思量。

午後からそのためのパーツを改めて購入に走りました。

 

前回はその配慮は頭にありませんでしたが、このほど来年の相良来訪客「30万人目標」の大風呂敷が広げられました(大河ドラマ)のでそれに敬意を表して・・・そのうちの10%の来客があったとしても・・・ありえない数字ですが。

現状、その方々を寺へ案内されたとしても土日祭日がメインとなることでしょう。法事があれば入堂できませんし案内も不可。

また現状外トイレの整備は相当遅れていますからね。

 

たかがトイレといっても掃除もありますし備品光熱費もある程度の負担があるわけで。

次の「春の法要」世話人会でその件了承を得て、婦人部の皆さんのお手伝いなども投げかけてみます。

観光協会や市の方から、上から目線の協力するのが当たり前風の雰囲気が漂ってきたとしたら・・・「ケツを捲れ」の言も出ていますからね。

 

私としては千載一遇の相良アピール(田沼時代の演出はドラマ前半の夏頃まで)のチャンスに協力は惜しまないといったスタンスです。期待は大いにするところですが寺としてあくまでもご門徒さんの利便、要望が重視されますので。

踊り踊らされるのはイヤですし、まぁ企画書もあがっていないうちから騒いでも仕方ありませんがね。

 

扨、昨日の洞樹院西方の山、こちらには祠二つと新し目の宝篋印塔が建っていました。

大沼城主と家臣たちの供養塔とのこと。

祠の中の自然石は判読不能。

 

 

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2024年

2月

19日

洞樹院西側の山 大沼城別郭を推測 

朝起きると曇天ながら思わぬ暖かさで一安心。

その前日の夕刻から「もしかして・・・」とちょっとした体調の変化があり、念のため葛根湯を飲んで就寝したのでしたが、事なきを得ました。有り難き仕合わせ。

 

午前の法要が終わってしばらく、奥方の運転手を兼ねて浜岡方面に出向きました。

通常、日曜日に動く事はありませんが本堂のセンサーライトが壊れたため早急にそれを新規購入する必要もあって仲良くお買い物に。

 

私の目的の品々を購入後近くの大型食料品店で奥方と合流。

お菓子売り場が私のチェックポイントですが、そちらをふらつくと初老の作業ジャンパーを着た男性が品物を買い物かごではなくビニール袋に入れている様を目にしました。

するとその方と目が合ってバツの悪そうな顔をされてしまいました。

いわゆる「万引き」実行中というところ。

そのオジサンは通路を行ったり来たりし什器の陰から私はその方の視線を感じていました。

 

ああ、私を私服警備員と勘違いしている・・・などと思いましたが、奥方にいわせればその人がじろじろこっち見てるのは、お前さんを万引き犯とみてるんじゃ・・・?

逆にその人が私服警備員であるとの推測。

すると私が買い物用カーゴを押す奥方と話している様子を確認(その人の不審な行動を話していたのですが)、ただの一般買い物客と断定したか、それからまたあっちこっちで品物を手に取りだしました。

奥方も確かに「犯行を目撃」したといいます。

さっきまで左手に持っていたジュース(100円程度か)や菓子を詰めていた袋が消えてジャンパーのポケットが膨らんでいました。

 

丁度私どもと同時にレジを通っていましたが会計していたのはミネラルウォーター1本でした。

まぁ私どもに対して限りない怪しさを醸し出していた人でしたが私どもにそれを指摘したり咎める資格はなし。その権利も義務もありゃしません。

そもそも確証がありませんし、それを店の人に通報する必要もなし。何より、店にとっては一大事ではありますが、その方の精神と生活そのものの貧苦をも推測してしまいます。

 

永田町の政治屋どもほどではありませんがここでもそのおじさんに「気の毒」を感じてしまいました。

前者は中央で数千万の裏金でお咎めなし、方やド田舎のスーパーマーケットで500円程度の盗みはたらき・・・。子供でももっとうまくやりそう・・・。

唖然とするもただただ沈黙するだけでした。

そして私は前者が地獄に堕ちようが知った事ではありませんが、そのおじさんには仕合わせに生き抜いて欲しいと思うのでした。

 

扨、昨日記した洞樹院の墓石たち。

その東側の山が大沼城ということ先日記しましたが、洞樹院墓地の西側にも山が広がります。

地形を今一度顧みれば、谷部の洞樹院を中心にして東の山系に大沼城、西側の山系もやはり城郭をイメージさせられます。 

要は一城別郭のような感じ。

高天神城の深い谷部と尾根上に分けられた別郭というよりも谷部両翼に開いた山系を郭にしたようなカタチ。

山が左右に開きすぎている点は防御力はイマイチですが。

 

①②は洞樹院山門前に立つ掲示板と観音堂。

山道には各有志が築いた石仏・石塔が各所に見受けられます。

宝篋印塔残欠がこちらから出ているのか、するとやはりこの山に墓域が存在したということか。

 

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2024年

2月

18日

洞樹院の古仏 ミニ五重塔のどっしり感

異例の温かさだったことは承知していますがイキナリ昨日の気温低下には降参です。

史蹟調査会の会合が終わって、若手の二人を仙台河岸の石垣までお連れした時、「なんだこりゃぁ」の冷えを体感。

 

「寒い」と言いながら帰宅、庫裏に入って温度計に目をやると一週間ほど前の気温と同じで「どおってことはない」ような数字でした。

それを寒いと感じるのは、一瞬とあってもあの(2日ほど前)心地よい暖かさを感じたからに相違ありませんね。

 

人は厳しい環境から脱出しその微温湯に一旦浸かると元の環境には戻れないもの。過去と今の差というものを身に染みて感じたからですね。

勿論、「(かつての境遇に)戻りたくない」というのは当然の事

 

政治屋も同じ、一端オイシイ思いをし、それが常態的、甘い蜜をお仲間たちと独占していたとすればアカの他人にそれを脅かされ、修正を強要されること拒絶したくなるのはよくわかります。

代償だなんて一文も支払う気はなし。ずっと温かい湯に浸かっていたい・・・

それが手に取るようにわかるもの。

一度他国の新興の神とやらに魂を売りそのスバラシイと思われた状態に味を占めそれが未来永劫続くとの錯覚も。

一攫千金政治屋稼業とは哀れなものです。

 

扨、昨日の洞樹院、門を潜って左手の墓を見やりながら本堂にご挨拶、そして墓域に向かいました。

掲示板の件の通り古そうな石仏たちが。卵塔の数からも歴史の深さを感じ取れます。

崖の下とあって崩壊が進み、残欠といった類もありますが、人の手に触れられず苔生した感じは趣があります。

 

最後の画像には石塔は見えませんが、花立があるところを見るとかつての墓石たちの存在が推測できます。

 

あの石像五重塔はあまり目にしないタイプです。

安定感がありますね。

そのベース部分については当初製作者の意図があったのかはわかりませんが五重塔の各笠とその上部は改変が無いように思います。

塔の形を以て残存していることも奇特なことです。

 

 

 

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2024年

2月

17日

大沼城主菩提寺 洞樹院の門前 味のある鐘楼

昨日早朝にかけての土砂降り。

不安は残りましたが夜が明ければ雨はスカッとあがって絶妙のお葬儀日和。

先般私どもの手で病院からお連れし、本堂にてしばしの間おすごしいただいたお婆さんのお弔いの日でした。

本堂でのお葬儀はそれなりに私どものやることが増えますが(施主も勿論のこと)拙寺ならではの木仏本尊阿弥陀さんやそれを演出する荘厳は格別です。

葬儀屋さんではありませんので行き届かない点多々あったでしょうが・・・まぁそれを所望されるのであればハナから私にその話は来なかったでしょう。

 

火葬場から帰って~昨日は当地で言う「先葬」(火葬場に向かう前にご遺体の前で葬儀を執り行います。当地では出棺、火葬後にご遺骨の前で葬儀というのが大抵の流れです)~いつものBS放送のチャンネルでは古い、古~い西部劇が始まったところでした。

何せ1956年のものですからね。

父親が購入したばかりの白黒テレビでアメリカ製テレビドラマから西部劇、戦争映画を観だしたのが1962年あたりでそれから私にもその手の映像趣味が伝染していることは確かです。

その傾向があるので父の孫(私の息子)も同様のこと。

 

先日は「ヘイトフルエイト」は「3回観た」と豪語していました。凶暴でクレイジーな映画など、奥方などはそれこそ「憎むべき」と見向きもしませんが私も彼がタランティーノ(映画監督)が好みというのには閉口します。面白いですがね。

 

1956年のその映画のタイトルは「誇り高き男」。

父親が好きだったロバート・ライアンの出演です。

役者もその映画タイトル、流れる♫まで知っていましたがおそらくそれを洋画劇場等のテレビ放映で私が観たのがその10年後くらいでしょう。

それでも半世紀以上のブランクがあって新鮮さ100%(お話についてはまったく覚えていません)でした。

 

ハチャメチャ映像と荒唐無稽なストーリーと違って昔ながらのオーソドックスな勧善懲悪系、最後はめでたしめでたし・・・で終わるタイプですね。

タイトルの通り主役は町の法と秩序のために誠実に働く保安官。その誠実の高さを「誇り」と。

台詞にもありましたが、「カネで心を売る」だとか一瞬の迷いのようなものが一生後悔して生きなくてはならない・・・の如くありました。

今の政治屋に観ていただきたい映画です。

彼らは表向きは高尚な事を言ってウラでは「裏金と根回し」。

あたかもタイトルは「欲深き男たち」。西洋風に言えば票とカネのために心を悪魔に売ったとでも形容しましょうか。

昔の西部劇ではワルは正義の銃弾で倒れるというのが常でした。今も身の滅ぼし方いろいろですが、つまるところ古今東西そういう輩は露と消えること必定。

そうあってほしい希望もありますが。

やはり正義が勝たなくちゃ・・・めでたし・・・・で行きたいものですね。

 

扨、大沼城に向かうにはどうしてもこちら洞樹院の門前を通ることになりますがこのお寺にも当然に立ち寄りたくなる雰囲気があります。

度々拙ブログに登場しているお気に入りの名「郡界川」の起点近く。

そして門前左に立つ「大沼城主菩提寺」の石柱は勿論、右側奥に立つ茅葺の鐘楼も実に味があって吸引されてしまいます。

 

最後の画像が門前から大沼街区方向を振り返ったところ。

左方向が等順寺(またはこちら こちら)そして孫根城です。

以前私がうろついていた頃「熊が出た」とのニュースがありましたがその後、は熊情報は聞こえてきません。

 

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2024年

2月

16日

大沼城の元は勝頼に滅ぼされた木村氏 そして大給松平

昼以降やたらと気温が上がって本堂作業は半袖。

暖かいと血の巡りが良くなっているはずですがお頭の具合が良くないのは温度関係なし。

物忘れが多くて・・・

よく考えれば若い頃もそうでしたから自分に関してはこがれも年齢関係なしか。

 

ここでいつもの話に戻りますが「年寄りだから免許返納せよ」の思考は誤認かと。

うっかり、忘れ物、まちがい、思い込みは老若男女関係なし。

先般発生しましたがプロの整備士が思いっきりバックでアクセルを踏んで歩道を歩いていた母子の命を奪っていました。

脳そのものの劣化については別に病としてあることですからすべてそれと同等に扱うのはおかしな話。

 

扨、先日は下山代官屋敷について記しましたので大沼城を。

城郭大系の住所地は「東加茂郡下山村大字東大沼」とあります。現在は下山村と同様豊田市になりますが、こちら大沼城が本城だったにもかかわらず下山村の大沼は「字」となっています。豊田市の支所は下山にありました(場所はこちら)。

 

大沼城の件、城郭大系から転記。

「大沼城址は、大沼の町並みに沿った城山と呼ばれる小高い山にあり、西方にある洞樹院という寺との間に深い洞があって小川が流れており、東方は起伏した山続きとなっている。

洞を流れる山水を桶で堀に引き入れたので、この流水のあたりを『桶が入り』といい今は『豊が入』と書いている。

城は文明年間に木村東見入道安信が築いたものである。

安信は天文元年(1532)、城の西麓に入宝山神宮寺を建て、翌二年八月十四日、城中で逝去した。

ついで嫡子木村新九郎信基が城主となり、神宮寺の高地を選んで若宮八幡宮を再建した。今も洞樹院の裏にその祠があり、八月十五日を祭日として同寺前の人々が祭礼を行っている。

元亀二年(1571)四月十五日、武田信玄の兵が足助を落し、城主鈴木越後守仲綱を追い、部将の下条氏に城を守らせた。その後四年間に武田勢は『足助七城』を攻略した。

七城とは足助城・賀茂村浅谷城・阿須利城・阿摺村八桑城・大沼城・田代城・安代城をいう。

その間、天正二年(1574)に武田勝頼の兵が大沼城に殺到し、攻防の末四月十四日、火攻めにあって大沼城はついに落城した。

こうして木村氏は滅んだが、武田氏の支配は受けなかったらしく木村新九郎の養子で松平村の大給城城主松平乗正の次男飛騨守近清が天正三年、大沼城主となった。

近清は神宮寺を八沢山洞樹院と改めて菩提寺とし同十一年に病没した。

 

二代目近正ははじめ、荻生伝蔵といい近清の嫡子である。松平家に仕えて大給新田千五百石を領していたが、父近清の死に伴い大沼城主となった。

天正十二年、徳川家康が織田信雄を助けて羽柴秀吉と戦った際、家康の命によって蟹江城を攻めて功を立て、翌十三年家康の家臣石川氏が家康に背いて秀吉に従おうとして近正を誘ったが、近正は応ぜず、かえって嫡子一生を浜松の家康のもとに送り人質として忠誠を誓った。

同十八年に家康が関東に移ってから上野三ノ倉の地に五千石を領することになった。その後大沼城は廃城になったと思われる。現在、遺構としては山頂の檜の立ち並んでいるあたりに、本丸・二の丸・三の丸・堀などの跡がわずかに残っている。」

 

 

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2024年

2月

15日

私の意趣は「南無」 暖かい境内と76ナナロク 

 

昨日は「奥の墓道」氏とのアメリカの歴史談義に興じたこと少々触れました。

「アメリカの歴史」などいうと日本や他の文明と比して比べようもない「浅薄」なものを感じますが、軽んずることなかれ。

ウェスタン好きにはたまらない時代でもあります。

それを重んじる精神たるや相当のものがあって逆に今の我らがそういった歴史というものに疎くなっているのでは・・・と考えさせられる面があります。

 

昨日は「銀行強盗の日」の「1866年2月13日」について記しました。本日も数字遊び。

私の車のナンバーは指定選択したものですが遠乗り用は「76」そして法務と近場用の軽が「76-76」です。因みに息子はその手のことに興味なし。すべて白い目で見ています。

まぁお遊びの一環ですが勿論この「76」は南無阿弥陀仏、六字の名号の「南無」の語呂合わせ。

「他力」と「おまかせ」の称ですがこれを提示して走れば走行中に陥りがちな自己本位と主張の心が鎮静化するのでは・・・との思いもあってのことですが、墓道氏も奥方も「まったく意味をなさない」とさらなる自重を促します。

いっそのこと高齢者ステッカーを貼れとのご指摘も。

いずれにしろ昨日の如くの気温上昇と青空の下にいて、どちらか出かけたくなるといのが真っ当な人間の思い。

昨日クロ現はバス減便とタクシー運転手不足について。

年配者の足となる地方の公共交通機関が激減し、家にいることが多くなり、買い物にも行けなくなって不便な社会になっていることを指摘されていました。

高齢者が免許証返上に踏み切れない理由はまさにそこ。

家に居続けてテレビ画像と睨めっこ(今の私)をしていたら絶対に呆けますから。何しろ動きたい。

 

アメリカMLBはキャンプイン。あと1カ月もすれば開幕の運びとなりますね。

オオタニサンが韓国での開幕2連戦に出るかも・・・ということで韓国行野球ツアーが凄い盛り上がり。

バカバカしくなるような旅行代金で苦笑するしかありませんが、私は開幕戦に彼が韓国に行くなど真っ当に信じていません。

何といってもリハビリ中の身。

チームがお宝中のお宝という彼にリスクを負わせる(気温差によるコンディション維持)とは思いませんが・・・。どちらにしろテレビ画面から離れる機会が少なくなりそうで。それが不安。

 

扨、「76」特に②の画について見覚えがある方は多いかと思います。私の学生時代など車好きはそれを知らない人はいないくらいメジャーな印象がありました。

ハリウッド映画の中でもたびたび登場しますし今年はドジャースタジアムにスポットが当たることは目に見えていますが、あの球場にはその「76」のそれが各所に見ることができましょう。

今は経緯あってガソリンスタンドのイメージですが、その大元は1776年7月4日(独立記念日)の「76」ですね。

それを絶対に忘れてはイケない、頭に叩き込んでおくという意図があるのですね。

ちなみに③画像がアメリカNBAの「フィラデルフィア・セブンティシクサーズ」のロゴ。こちらは「墓道氏」からの講釈。

フィラデルフィアは1776年の独立宣言がされた当時の首都でした。星の数が当初の独立13州の意とのこと。蛇足ですがNFLのサンフランシスコ49ersの49は1849年のカリホルニアでのゴールドラッシュが由来といいます。

 

数字二けたのチーム名はその地の由来、歴史を表していたのでした。日本にもスポーツチームはたくさんありますが、その地の歴史というものに踏み込んだ名はあまり見ませんね。安直さキラキラの方が際立っているような。まぁ数字遊びはキリがない。

ちなみに「ドジャース」は元はかつてのブルックリン時代の街中の状況をチーム名にしたもので「LA」は転移後の冠。

 

最近のMLBの動きでは2022年にクリーブランド・ガーディアンズのチーム名変更が天晴れ感。

旧インディアンスからの変更でしたがこれは「ポリティカル・コレクトネス」という「配慮」から。

他者の不快な差別用語を吐きまくる政治屋が日本にも存在しますが、これにはスカッとさせられました。

まぁ私としてはインディアンスも耳に馴染んでいただけに悪く

ないとは思っていましたが。

 

④は昨日記した竹の工作物。青竹は気持ちがいい。

押さえているのが盆栽を地植えにした小桜。バックが咲き始めた枝垂れ梅。

⑤⑥は花を落とし始めた梅。

⑦⑧はオオシマだったか。下向きに咲いています。

 

 

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2024年

2月

14日

大沼城松平墓域 下山代官屋敷城  銀行強盗の日

 

横浜の「奥の墓道」氏にアメリカの西部開拓時代、独立記念日、南北戦争のネタそれぞれの蘊蓄を披露しつつ遊んでいましたが私が「2月13日は何の日か」などのクイズを出しました。

さすがにそれを即答できる人はそうはいないでしょう。

この日は「銀行強盗の日」ですね。

その次日など「知ったこっちゃあない」ですが。

私が「今日それをやればシャレが効いている・・・」などと。

また政治屋も強盗のようなものですから。

彼らは年がら年中ですからね。ケチな強盗事件が社会に散見されますがそういう連中をターゲットにすれば・・・如何にも面白い。不謹慎失礼・・・。

 

「銀行強盗の日」は牧師の子であるジェシー・ジェイムズが1866年2月13日に銀行強盗をした日でそれが世界で初めてだったということ。銀行強盗の始まり・・・

 

昨日2024年の2月13日は気温高めながら昼間は冷たい風が強めに。世の中は平穏の感。少なからず私の周囲は・・・。

境内水屋前の垂れ梅に接して参道側に盆栽の小桜を地植えにしたのが息子が横浜の寺に就職が決まった6年ほど前。

横浜への引っ越しに向かう途中、富士川S.A.の植木市で購入しましたが昨年の今頃は1.5mに満たないくらい。昨年中はどんどん成長して現在2m超えにまで。

それが参道側に張り出してきますのでその押さえにする竹材を山へ伐りに向かいました。

久々その藪に入りましたが、案外不法投棄は無く安心しました。

どなたか竹を伐って不要材を突っ込んでいる様子は窺えましたが・・・

 

その他境内雑用をテキトーに終わらせて夜間はのんびり撮りだめしていた映画鑑賞を。やはり西部劇でした。

すると20時近くに都内在住の檀家さんから「母親が危篤」との報せが。

相良在住の方ですが焼津の病院に搬送されて入院中とのことでした。

 

以前からその相談を受けていましたが「その時は出来る限り何とか手伝いたい」旨伝えていました。

まさか焼津にいらっしゃったとは・・・。

そしてその30分後に逝去の連絡がありました。

それが病院からは「22時頃までにお迎え」を・・・とのこと。

いつもの「さぁ、どうする・・・」(「スピード」のWhat Do You Do ?)。の状況に。結構好きですね、難題の提示。

まぁできないときは「ブン投げる」というのが私のやり方ですが。

 

その時、周囲を見回してもヘルプは奥方とネコたちしかいませんので奥方を軽トラの助手席に座らせ棺を荷台に載せて「東名高速をGo」と考えましたが奥方から大正生まれのお婆さんなら軽の助手席を倒せば乗ってもらえるとのアイディア。

何より棺に入いってしまえば後のことがカンタンではありますが桐材とはいえ棺自体の重量もありお婆さんとは言えども相当な重さになりますからね。2人ではさすがにきついものがあります。

よってご自宅の鍵を預かっていましたので布団一式を積み込んで軽乗用車で病院へ。

 

病院着到が2130でしたが、ここでの説明が少々ややこしかったことはありましたが病院側からお二人の手伝いがあり、うまいことお婆さんにはご乗車いただけました。

そのお二人は夜間の寒さの中、「我々3人」の乗った車に深々とお辞儀をして見送ってくれたのが印象的。

 

尚、案内されたナースステーションでの少々のややこしさとは私の素性を明かすことが却って現場の判断を混乱させること・・・

葬儀屋さん、搬送の業者さんではなくお寺の住職がお迎えに来たということですが(本来、それは整合性があるのかも・・・)よりによってこれまたお気楽な恰好、特に昨日は真っ赤なトレーナー着用で傍から見ればサンタクロースの如くだったかも。

黒衣を来ての訪問は論外ですが、あの状況でファッションの件を思考する余裕はありませんでしたからね。

 

問答の中で名刺を出してハッキリすることができましたが「こういう状況は初めて」と苦笑されていました。

22時30分すぎには本堂安置。焼香して読経。

35キロのお婆さんだったことが奥方との二人で対応が可能となったわけで。

 

扨、昨日の下山代官屋敷城。

ざっと曲輪らしきそこここを歩いて少々東、南側斜面の縁に大沼城松平の墓域があります。

宝篋印塔、五輪塔等の古仏たちが整列してお迎えしてくれます。

掲示板によれば大沼城三代松平近清の建立の二基のうち一基は松平親忠の供養塔、もう一基が父で二代城主の乗正の供養塔とのこと。

 

近くには「鈴木」を名のる墓域が。

この地区は鈴木姓は多いですからね。特に鈴木といえば足助の地もイメージします。

 

 

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2024年

2月

13日

下山代官屋敷とはいいながら大沼城の支城 ?

無風で気温上昇。

今週は春一番の予報が出ていますが、やはり寒いより暖かい方が過ごしやすい。というか体にとってラクですね。

来訪者なし。法事もなし。

殆ど何もしない一日でしたが、檀家さんの自動車修理会社に頼んでいた20ℓのオイル缶が3個ばかり届きましたので、容器として使用できるよう油分を除去しました。

アレはどちらでも使用後は廃品として処分に出してしまうようですが、案外使い勝手のイイものです。

 

通常の容器としては勿論、災害時に野外焚火等で暖を取るには絶妙。サイドに空気穴を空ければ即使用できます。

またやはり災害時、20ℓの水が入るということで井戸からの水を溜め込むことができます。直接火にかけて沸かすこともできます。

先般もそのために拙寺の井戸に単管パイプの三脚(その為の器具があります)を立てて急造の櫓を設置、水量を確認しましたが水深2mの水量は変わりませんでした。

そのような事があることは苦痛このうえないことですが、念のための対応力を着けつつあるところです。

 

扨、以前豊田市の下山支所田代城について記しましたがその近隣、特に下山支所の南西側裏山にあるのが下山代官屋敷(場所はこちら)。

代官屋敷というと近隣では昨日の酒呑代官屋敷また大給代官屋敷等を連想しますが、その名「代官」のイメージとは違って殆ど山城の類になります。

 

また以前郡界川について記しましたがその川が流れさらなる分岐がある大沼川がその城郭のある台地の境界となし外堀の役目をしています。

中には代官屋敷城と「城」であることを示唆する名称もあるくらいで、そのそうは高くはない台地上には土塁に切岸、空堀等の遺構を見ることができます。

 

やはり田代城同様、武田の手によって落されたよう。

 

 

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2024年

2月

12日

幸海町 酒呑陣屋址の石垣とムクノキ

「広告だらけで独自性のない低品質コンテンツを集めたサイト」の件新聞社系のニュースで見ました。

その手の広告だらけに誘導するサイトのことを「MFA(メード・フォー・アドバタイジング)サイト」なる語で呼ばれるそうでその広告の成果はアクセス数によるもの。宣伝主たる企業はそれによってサイト運営者から請求があるようでそれが殆ど無意味な広告投資になっているとのこと。

 

私は朝晩、就寝前起床後にぼんやりとスマホのニュースサイトをスクロールするような生活をしていますが、最近になってやたらとその傾向(無駄広告)が強いを感じるようになりました。

一言で言ってついつい面白そうな表題で大衆が喰いつきたくなるようなものになっています。

それでいて中身は海外のニュースコンテンツから引っ張ってきたようなネタで、新しいものではないことが多いですね。

要は表題のインパクトとは違い相当貧弱さを感じます。

ネタもバカバカしくなるような内容のうえ、すべてを読み終えるまで幾度も広告が現れます。

最近はその手の誘引ネタもそうですが発信元が出ていますので「ほう・・・」と思うような記事もその発信先を見ただけで「ああ誘引広告主ね・・・」と判断してクリックしないようになりました。時間の無駄。

私はNTTドコモのニュースサイトになりますが、まぁ大手の新聞社、週刊誌、テレビ局系の発信に限定するということでしょうか。

 

扨、以前酒呑あらため幸海町のいろいろを記しましたが(酒呑城

  そしてジュリンナ等)酒呑陣屋の件、そのままになっていました。

豊田松平I.C.を背にしてジュリンナ方向に走ると県道左手にムクノキの高木のある祐源寺という禅寺がありますがその上部が陣屋址⑪⑫(場所はこちら)。①図は集会所前を走る県道方向を振り返ったところ。

 

お寺の街道側は石垣で囲われています。

地名の「豊田市幸海町池杁」の「池杁」。

地形的にその上部に池がありますのでその取水取り入れ口のことを言っているのでしょうがこの「杁」の字について興味深い新聞記事があります。

 

陣屋は酒呑城の酒呑鈴木の流れ鈴木重氏が入ったとのこと。

 

 

 

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2024年

2月

11日

家康の矢作川渡河さらなる伝承 鹿ケ松

三連休の初日は完全フリーの一日。

朝は寒いが陽光に恵まれ、外仕事に少々集中するだけで、上着を脱ぎ棄てて半袖になろうかとも思ったくらい。午後、日が傾きだすと強風が吹きだしましたが・・・

風が吹く前に気に掛けつつ後回しにしていた数カ所の雑務を何とかやっつけました。

 

これはひょっとしてこれは・・・と心ときめきましたが、先日道路を飛び出して不慮の死を遂げたネコちゃんの飼い主さんが夕刻に訪れました。

ご門徒さんではありませんが、あの時は本堂で家族ご一同と正信偈をあげて「生々流転墓」に遺骨を納めさせていただきましたが、昨日はお参りに来られ庫裏に立ち寄ってくれました。

そこで頂戴したのが拙寺ネコ用の鰹節、そして私にその方の手作りラスク。

ピンク色の菓子袋に「Thank You」とありました。

嬉しく、また美味しくいただきました。

 

扨、本日も矢作川関りですが、あの家康の矢作川渡河の最後の難関クリアの地については先般記した通り。

舟を仕立てて渡ったというものですが、そちらより上流矢作川西岸に「鹿ケ松」(三鹿の渡し)という伝承があります(場所はこちら)。

三匹の鹿が渡っている様を見てそれに続いたというものです。

鹿は奈良公園では神の使いとして大事にされていますが、今や鹿は害獣の部類。いつぞやその肉を喰えとばかりに勧められ食しましたがどうも私には無理。

普段口では馬だ鹿だと口ずさむわたしですが、その生き物を喰らうこと(シビエ)慣れませんね。

 

その地には別に矢作川用水について顕彰碑が建てられていました。こちら北野という地、北野用水の名が。

 

 

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2024年

2月

10日

古仏たちのお出迎え 丸根城鬼門に浄土宗心学院 

昨日は人心に付け込んでホストクラブの無茶な金額のツケ(売掛金―殆ど言いがかり)によって身心ともに縛り上げる荒稼ぎの件について記しましたが、昨日破廉恥事案で逮捕された(要は痴漢)容疑者が放った言葉が「記憶にない」でした。

よく耳にする「身に覚えはない」と同等、つまるところ「知らぬ存ぜぬ」。否認ということですね。

 

その破廉恥の言はまた最近国会議員殿が連発する自己保身の用語。スバラシイお頭の中身なのか大臣様(職)への余程の執着心からなのかは知り得ませんが苦笑する他はありませんね。

ただ哀れな御仁として。

 

それにしてもおエライ様方々筆頭に何か都合の悪いことがバレた時はソレ、とばかりに国民一同ピンからキリまでその語を咎の免罪符が如く吐かれてしらばっくれる世の中・・・せめて「バレたら責任」の心は最低限持ち合わせていただきたい。

 

扨、昨日は丸根城の主郭について記しました。

一概には言えませんが、城郭の鬼門・裏鬼門を探索するというのも放浪の一つのパターンです。

特に領主系の安定期があった城には菩提寺たる寺を建て、お気に入りの僧を招くというのもその家のステータスとなります。

その丸根城の鬼門(北東)方向を見やれば浄土宗の心学院というお寺がありました。

 

丸根城を南西に見下ろす台地には野見の墓域がありましたが

むしろこの辺りに寺があればまさに磁針通りの鬼門となるところですが微妙に北方向にはズレはあります。

その手の事は結構イイ加減でアバウトに「鬼門除けです」といえばそれでOKのようなものですし、その野見の墓地には卵塔が見えましたので古くはこちらに寺があったことも考えられますが・・・

 

まぁ心学寺は浄土宗の寺で代数も重ねた古い寺。

城主の松平系を思えばその菩提寺ということも有り得ます。

山号の「庭松山」の「松」もそれを示唆しているようですね。

西向きの本堂入口門前から南方を望めば丸根城の小山が見えます②。

境内の石仏を拝見すると名号の碑が目に入りますが蓮台の上に円柱形のそれは珍しきもの。

他に多くの古仏にお目にかかることができます(場所はこちら)。

大型・小型の宝篋印塔残欠はまさしく領主系を連想します。

住職のお話などが聞けたら良かったのですが・・・。

何事もタイミング次第ですからね。

 

「心を学ぶ」心学寺。

自分の心に問いかけること多々あります。

私も御一同同様、見苦しい限り・・・。

 

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2024年

2月

09日

整備された丸根城 主郭付近真っ平 広すぎ・・・

しかしまぁ世の中には自分さえ良ければ他者のことはどうでもいいといった悪どい輩、蔓延していますね。

三面記事に顔を出す逮捕者たちの罪状を見ればそのような世の中であることはスグにわかります。

騙される奴が悪いという意見もままありますが、それは違います。まず自らの利益、幸福の成就のみを目途とし、他者のその幸せになる権利はトコトン無視し、踏み台にまでするということですから。

人というものの「弱さ」に付け込んでガッツリ金をむしり取るというホストクラブなどの件、最近その報道が多いよう。

毎度呆れ果てるばかりですが、政治家を支援し都合よく信者たちを増やしてのやりたい放題の集金システム(統一教会)と同じ。

その横暴の心、エライ人たちの模倣をしているかの様。

 

その手のマンネリ化したストーリー、私は昔流行った時代劇「必殺シリーズ」を思いだします。

その手の悪漢は「仕事人」へ依頼、抹殺されてめでたしめでたし。スカッとクライマックスを迎えたものでした。

本当にストレスが溜まる世の中。

 

特にその手の若い連中の髪の色。昨晩も逮捕された女性(男女関わらずお人よしをカモにする様)を見ました。

髪を何色に染めようが勝手ですが、生えたばかりの黒髪と染め上げた金髪のコントラスト「みっともねぇ・・・」。

やるからには日々ケアしなくちゃね。所詮黒髪の東洋人なのですから。因みに私はその黒に憧れる派。しかしやはり地毛の白が目立つようになります。

 

扨、矢作川「鵜の首」の丸根城

空堀に土塁は整備が行き届いて見事な部類。

しかし主郭と周辺のフラットさに違和感。

私ども周辺の滝境城や諏訪原城は20年近く前は畑でした。

地所の所有者は農耕のために土地を平らかにすることはやむを得ないこと。

高低差や土塁などの土盛を削平、撤去したのでしょう。

主郭が周辺曲輪と境界なしで露出しているなどの例はそうありません。

 

 

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2024年

2月

08日

湯水行水 二村氏から大正期「少年王」仲裁は本多忠勝

期間限定(5日間)で金2000えんプレゼントという広告が数日前当地区にありました。

食器の買い取りを主にうたっていました。

私も食器といえば山ほど積みあがっていましたが(まだまだある・・・)勿体ないとは思うものの殆どは処分場行きになりました。それはどちらの家でも同じこと、数代経てば無数の皿や椀たちが山になることは皆さん承知しているところですがそこは心を鬼にしないと処分という流れになりにくいものです。

先代、先々代から受け継いだ新品同様、まだまだ使えそうな品ばかりですからね。

 

それを「えいっ」とばかりに引き取りに来てくれる・・・そんな有難い話はありません。それもダメ元、必ず2000円が頂けるというのですから。価値があれば「それ以上」の夢も抱かせるものです。

しかし、しかしですよ、そんなうまい話がある筈がない !というのが私の思いです。

「またお婆さんたちがカモになるのかな・・・」でした。

 

これは「押買い」の変則バージョンですね。

一時大流行りして社会問題になりましたが金などの貴金属、貴重品、骨董品を無理やり(安価で)買い取るというもので、断れない雰囲気、時に「何かうま味のあるものを提示しなければ帰らない」状況を作ってそれを漂わせ根負けさせる戦法です。

以前は家の中まで入り込んであれこれ家探ししてぼったくり荒稼ぎが問題になりました。

 

押し売りも押し買いも以前のように個別訪問で呼び鈴を押してもまず門前払いというのが常、空振りが多いもの。

それを相手に電話をさせて来訪を請うというやり方にしたのでしょう。

心の堀を深くし城門の閂をガッチリかけているところ、通常は中には入れませんが、この方法ならばいともカンタンに入門できます。

2000円貰ってどれだけ損をさせられるのかいやはや。

皿や椀の食器類など殆ど無価値ですからね。

境内のガラクタ市で並べて賑やかにさせる程度というのが食器類。

よって食器(ガラクタ)というワードで釣り上げて本題は貴金属等の買い取りなのですよ。

東京の業者の様で、ヒットエンドラン風を感じました。

 

扨、いつも三河の情報をご教示頂いている二村氏ですが先般お送りいただいた史料の中に大正期に発刊された「少年王」なる書籍に成瀬と鳥居の、例の湯水の行水のお話があることを知りました。

しかし今の中学生を対象にした読み物のようですが驚きでもあります。私が読んでも「ふむふむ・・・」という感じですからね。今の中学生はスマホオンリーというのが私の感覚ですが・・・。

 

その「湯水の行水」ときたら今は講談。

以前にも記しましたがその二人の仲裁に入ったのが当初(20年以上前)は「本多」で最近は「酒井」に変化していることに触れましたがその大正期の読み物は・・・やはり「本多」。

どういう理由で本多→酒井に変えたのか講談師に聞いてみたいものです。

元は本多だったものをそれに変えた理由を。

 

画像は二村氏にお送りいただいた史料。

 

 

 

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2024年

2月

07日

川原崎次郎氏 小島蕉園と初代藩主本多忠晴の相良

お日さまが出てくることは承知していましたが予想より相当遅め。気温も上がらず結局自坊に籠りっきりでした。

それにしても首都圏の皆さん、またしても雪対応の脆弱性を露呈していましたね。救急出動が多かった様です。

今やこの時節の南岸低気圧の通過ときたらそれなりの降りになることは定説。

それをノーマル&ノーチェーンで走るなんて。

 

スタッドレスにチェーン装着をしていたとしてもリスクがあるのですから。

それは走っているのは自分だけではないということ。

ノーマルタイヤとチェーン無しの大丈夫の躰の輩たちが市中交錯しているのですから。

一般道渋滞ドハマリで「東名閉鎖が早すぎる」とお怒りの御仁がいらっしゃいましたが、道路公団はしっかり学習しているということ。

たった一台のスタックによりその後続からは微動だにしないことを知らないのでしょうね。因みに私は若き頃道路公団の下請けの会社でアルバイト(旧箱根新道・小田厚・西湘バイパスの管轄)をしていましたのでその辺りの件よくわかります。

通行の閉鎖をしても「オレは大丈夫だ」と捨て台詞を残して制止を振り切って箱根に登る車両、そういうのに限って「車がハマって動かない」のヘルプを出すものでした。

みんな「オレは大丈夫」の気持ちで突っ切って挙句「まさか」と呟くのでした。

 

また一つ、箱根で動けなくなって「JAFにヘルプ」というドライバーがインタビューを受けていましたが「布チェーンを着けたがダメだった」とのコメント。

それは最近市販されるようになったお気軽雪対策グッズですが、それを信じるとすれば役に立たない無意味なものということでしょうか?

まぁあの予報を見ていたらハコネなど上がろうなどという気はさらさら起りません。

 

扨、当相良の史跡調査会の重鎮にかつて川原崎次郎氏がいらっしゃいました。私は一度だけ自宅へ押しかけてお話を聞かせていただいたことがありますがその後間もなくして逝去されました。よってお付き合いは殆どなかったのと同様です。

そして先ごろ氏の小島蕉園についての記述をその方の息子さんからいただきました。

また相良の街の家康以降の発達についても少々の記述があります。

 

特に蕉園といえば「善政」の政治家というのが人口に膾炙したところですが、その件、ポイントとなるところが記されていました。

 

 

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2024年

2月

06日

首都圏雪大変 当方お気楽失礼 お大事に

当地は殆ど小雨の一日。

夜間ザっと降る時間がありましたがそのあとから大和市の義母から「雪が本降り」と。こっちの雨があっちに行くと雪・・・そんな感じなのでしょうね

先日菊川にて長野県から雪のプレゼントということで特設会場でそり遊びを楽しむ子供たちの様子がニュースでありましたが、南遠には雪は降らない・・・が定説になりつつあります。

一昔前の当地には積雪はないにしろ少しくらいなら白いものがボチボチと見かけたものでしたが。

 

昨晩のNHKクロ現。

ペットブームの裏側ともいうべきペットショップの実情について。タイトルは「さまよう繁殖引退犬 ペット業界の“異変”を追う 」「10万頭の犬が行き場を失う?手放される“繁殖引退犬”」でした。

ペットブリーダーなる語を耳にして久しいものがありますが、その命のやり取りを生業にしている人たちの悪どさにスポットが当たりました。

 

番組に取り上げられていたのは繁殖マシーンとなって子犬を「量産」した親犬が御役御免、要は「稼げなくなった時」それは餌をやるだけでマイナスであるからという理由に他なりませんが彼らの行き場のない姿。聞いているだけで吐き気をもよおします。

中には山に捨てる例もあったくらい。

まともな国は既にペットショップ禁止の国があるくらいなのに。

せめて犬にも猫にもその命に敬意を持っていただきたいものです。

単純計算ですが現状親犬に子犬を産ませる回数は6回までのお約束があります。

それが厳密に守られているかどうかは知りませんがその6回に5匹が産まれたとして・・・6回×5匹で30匹。

幾らで売るのかも分かりませんが中には25万円の値がつくものもありますからね。

ぼろ儲けの感漂いますが、生産性の無いモノは捨てるの短絡がまかり通る社会ならば私たちはそれを受け入れるべきではありませんね。

購入する者がいるから売り方(繁殖者)はお調子にのる。 

この件も世界から笑いものになりましょう。

 

画像①②③は「女墓場放浪」から都内夕刻の図。

専門学校講師ですが急きょ休講になったと。

自転車を某大学構内に置いて徒歩で帰宅中、目の前でバイクがスっ転んでいた・・・と。

④⑤は「奥の墓道」氏の横浜からの図。22時に雪はやんだと。

近くの坂道には3台ほど放棄された車があったそうです。

ノーマルタイヤにノーチェーンでこんな晩に走るなんて・・・

無謀。問題は朝でしょうね。

 

当地はまったくお気楽。息子も浜松ですしもはやこの手の天候による心配はなし。

皆さんお大事に。お二人とも出勤とのことでした。

 

 

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2024年

2月

05日

矢作川狭小「鵜の首」に丸根城

小雨の朝でしたが法要終了時にはあがってお墓参りも難なく終了することができました。

無風という条件は何より有難いことでした。

施主は「いつも法事が雨 私は雨女」と呟いていました。

私は「たまたまですよ~」。

空気の流れのローテーション。巡り合わせ・・・どうしようもないことだと。

お話は名号の「南無」について。

(ありのままを受け入れて)「まかせる」「(できないことは)頑張らない」ということ、そして「煩悩具足」の私ですがそれを身に纏っているのではなく「私こそ煩悩(そのもの)」であること、よって先生たちがお好きな言葉「人事を尽くして」の「人事」とは結構イイ加減なもの。

清沢満之の「天命に安んじて 人事を尽くす」・・・この天命こそが阿弥陀に「まかせる」でした。

立ち止まって考えれば毎度私のお話は同じようなものですね。

また、御文の添えに歎異抄四条の拝読も。

 

扨、先日記した矢作川の細く川幅の狭い「鵜の首」。

その東岸の丘が丸根城になります。

①~④が矢作川側の崖になります。今は道路が走っていますが矢作川の最狭小部といいながら堀としての機能は抜群。

こちら側(野見)南西方向からの要害性は十分ですね(場所はこちら)。

 

さほど高さはありませんが整備が行き届いた城跡は見事。

まず大きな空堀がお出迎えしてくれます。

それは北側住宅地側からも同様ですが私が知らなかった城だけに感動ものでした。

 

例によって城郭大系。本編には無し。

その他の城郭にて。

229丸根城 豊田市野見町

「丸根宗勝在城。 

現在は畑地であるが幅7m、延長100mほどの堀が残る」でしす。石標には丸根宗勝の名は記されず松平系を示唆するものでした。

 

 

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2024年

2月

04日

親鸞オンライン講座 代官小島蕉園揮毫墓碑案内板 

風も無く寒さはそう酷くもない一日。

よって掲示板建ての続きと本堂雨戸のちょっとした修繕を行いました。

拙寺累代墓碑の側面には相良代官小島蕉園の揮毫がありますのでその紹介を。

ちなみにその本文はこちらにもあります。

何せ小島蕉園は一言で善政の人ですが代官所が近かったこともあって拙寺九代の祐厳と通じるものがあったかその交流、遺っている史料は豊富です。

勝手なことをたびたび記ますが、大河ドラマに採用されたとしても不思議ではないと考えます。

次回の大河ドラマでは田沼意次が登場することは決定していますが、その田沼―松平時代といえば「文化」の大らかさと統制についてのギャップが表に出てくることと思いますがその時代といえば「狂歌」というものの登場が何らかのカタチで描かれるはず。当時の狂歌といえば真っ先に

「白河の 清きに魚も 棲みかねて 

             もとの濁りの 田沼恋しき」がありました。

 

その狂歌師(三大狂歌師)の一人、唐衣橘洲の息子が小島蕉園というところがミソ。橘洲のその番組への登場があれば小島蕉園を

引っ張ってきやすいのですが。

橘洲の名はこの掲示板には記していませんので、登場の兆候があれば差し替えることにしましょう。

 

⑤⑥画像は当流のオンライン勉強会。

「親鸞仏教 オンライン学舎」全51講義。充実しています。

 

 

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2024年

2月

03日

豊田矢作川 鵜の首橋 驚愕の構造物

「もう限界」の声が。

NHK「震災から1カ月 将来が見えない・・・」を視聴しました。

家があって水と電気と暖かい布団がある私がなんと仕合わせなことか。

それでいてつまらない泣き言ばかりの自分があるわけですから。「次は自分だから」の開き直りもありますが、内心こちらだけは来ないで(地震が)欲しいといった勝手な思いも。

まぁ人間はとりあえず自分の事が一番の大事。

 

よく神仏にタノム、お願いごとの一番は我が身の事といいますからね。因みに二番は家族の事。三番がおカネの事と続くよう。

それはそれはもっともな話ですが今被災地の皆さんも当然の如く。①②を何とかやり過ごした方にとっては特に今③のおカネについて相当の不安があるようです。

 

あれだけ壊れた家、稼業を復旧させることは勿論、その仕事も失っている中、日々の生活維持費、要はどうやって生き続けるかが不安材料になっているのは当然の事。

首相官邸の震災当初の出遅れと震災規模の判断ミスの件、ニュースにありましたがこれだけ災害頻発の日本にはどこかの国にあるように「緊急事態省」の如くの省庁を新設した方が話は早いのでは・・・などと思いますね。

 

情報管理、統制は勿論素早い対応に移るために常時被災地救済用の緊急品や仮設住宅資材、人材育成と人員の確保が必要なのでは・・・と。勿論そのトップは高効率な対応のために総理大臣の顔色を窺わない独自の判断ができる即現場に行ける方。

自衛隊とは連携は必要ですが別個の動きをしてもらいたいですね。

何かあった時コスプレ姿に着替えて神妙な顔で雁首揃えてのお偉いさんたち御一同、遠慮したいものですから。

 

扨、昨日は野見の丘から矢作川方向を見やりましたが、この近くの矢作川に以前から河川氾濫の名所と言われる場所があります。

雁首ならぬ「鵜の首」という名称で言われています。

細長くくねるよう流れる河川域のことでしばしばこのように河川狭小な地形というものは大雨による氾濫がつきものになります。

 

そちらに行くと「鵜の首橋」なる鉄橋が架かっているわけでそれがまた「鵜の首」というだけにかやたらと細い。

それでいて車の通行はOKなのでした。

そのうえ驚いたのが両面交通の生活道路というところ。

面白がって徒歩で橋を進みましたが、それはまた強烈です。

「構うことはない」という感じがモロ。

人がいようが車は突っ込んできて私は「申し訳ない」とばかりに欄干にへばりついてギリ車を通しました。対向車がいないを判断すれば真っ先にアクセルをふかします。

「ところ変われば」と感心させられましたが何しろ見た事のないような超絶の橋。

川幅も相当狭い場所ですが(場所はこちら)・・・。

 

 

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2024年

2月

02日

住宅地にある古仏の見える野見墓地 豊田

暖かでしたが風強め。

またこれから寒くなるとのこと。

昨日は本山の能登半島地震義援金をカタチだけの自己満足レベル、微々たるものではありますがゆうちょ銀行より送金しました。

手数料がかかったことに「なんだかな~」。

 

永田町のお偉いさんたちの件、連日賑やか。

裏ガネ、中抜きの3000万円を隠していた連中がどう能登のために身銭を切ったのか知りませんが、派閥全体トータルで6億円にも上るといいます。

そのうす汚れたカネを能登半島でキレイにしていただければいいのに・・・と単純に思うのですが。

 

先日は某校長先生がコンビニコーヒーをレギュラー購入後にラージにしたのがバレ、話が大きくなったのか懲戒免職になっていました。

もっとうまいこと処理できなかったのか・・・と心根の悪い私などは思ったのですがその差額は僅か70円といいますからね。

同じ人間で70円はアウト・・・、そして〇千万円はセーフというのはどういうこと?

世の中一筋縄ではいかないのか不思議の国に生かされているのか。

 

また昨日は奥さんと子供3人をあの地震で同時に亡くしてしまった方のインタビュー画像を視聴しました。

その夫のバックには家族4人の遺骨と仮位牌が。

どなたであっても悲しいことですがその法名の「釋」と「釋尼」に私どもとの近しさを感じ一層の無力感が漂いました。

 

先般は当流の倒壊本堂から住職の亡骸が・・・というニュースもありましたがどの画像を見ても言葉に窮します。ため息しか出ませんね。

日本全国「次はどちら・・・」「ひよっとして私?」を思うことしきり。

 

扨、墓場放浪の醍醐味。

何となくふらっと墓地を廻って、古仏石塔に出あうこと、嬉しいものがあります。

こちらは豊田、矢作川を見やる野見墓地。

一見新しく造成された墓地のように感じますが①蓮台に経台も見えて墓地自体の古さを感じます。ただし「大師塚」の意は不明。

名号板碑が中央にあるところ特に。MIX集合された墓地かも。

他に一石五輪塔、宝篋印塔残欠などなど、整理は行き届いていますが歴史を感じました。

卵塔も見えますからどちらかの寺との関りもありそうです。

 

今は宅地と化している丘の上というところですが、造成前にはこの辺りが墓場であったことが推測できます。近くの公園の名称が「三ツ塚」でした。

⑨は矢作川方向。この河川の作った河岸段丘、「野を見やる丘」そんな名に納得して墓地を後にしました。

古瀬間城からも遠くない場所になります。

 

 

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2024年

2月

01日

中電工事能登修復出張ご苦労さま 浅草東本願寺

雨降りの予想がありましたので花ガラ三袋含めて地頭方処理場へ。お日さまはほとんど顔を出しませんでしたが上着なしでも十分すごせる一日でした。

こうやって一日一日と本格的な春が訪れるということでしょう。

先般能登大地震とともにやってきた2024年は早一月。

1/12が過ぎ去りました。

こうやって一歩一歩その「区切り」まで歩んでいる私どもがあるわけで。

 

一昨日は浅草の東本願寺にお参りしたのですが、こちらは私が近くに寄った場合は必ず立ち寄ります。

厳密にいえば私どもの宗旨とは異にするお寺のわけですが私がこちらに拘るのはかつてこのお寺が真宗大谷派だった頃、半世紀近く前の事、こちらに併設されていた専修学院に一年通学、今の私の根拠となるものを得た場だからですね。

 

夜間の学校でしたから、昼間の学校が終わってから小田急―千代田線―銀座線と乗り継いでのお勉強タイム。もはや居眠りの連続だった感ありますが。

ロクな勉強もせずにただそこの席に居座って1年をギリギリの成績で過ごしたのでしたが、これだけのロクでもない阿呆を受け入れ、最終的に卒業という果実を与えてくれた御恩は忘れられません。

 

今となってはバカバカしい話で以前も記したことがありますが、友人の「奥の墓道」氏もその教室に同座して授業を受けたこともありました。

付き合いがイイというか興味の幅が広いのかはたまた私と同じバカなのか彼は別に私の昼間の授業(法律学)にも出ていました。

そのせいで自分の学校(横浜)の出席が疎かになり結果、一定の咎を受け煩雑な手続きに追い込まれていました。

「付き合わせる奴が悪い」「いや付き合う奴が悪い」の問答が思いだされます。

ちなみに私は彼の学校(経済学)の授業には出たことがありません。

 

①は中電の電柱支柱工事完了の図。

能登半島の電力事情は回復とのこと。

早速こちらの工事を手掛けていただきました。

ということで会館の工事担当者に連絡。

さてさてどうなることやら・・・

 

②からは浅草の「東本願寺」。

門を入って左側にその建屋、専修学院はありました。

蓮如さん像にも挨拶は欠かせませんが新しい石碑が。

「天竺の庭」とやら。

 

 

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2024年

1月

31日

浅草公会堂 「花こぶし」観劇と池波正太郎展

6時30分に出立、10時過ぎに浅草着。

16時前に再び首都高に入って19時30過ぎに相良帰還。

結構ハードなドライブでした。

しかし浅草が目標となると首都高速は毎度ベタ混み、用賀から三号線と環状線のコースは上下とも使用しないで済みますのでこれといった渋滞ハマリはありませんでした。

 

東名青葉ジャンクションから湾岸線へワープする作戦です。

生麦に出るまではトンネルばかりですがタイミングさえ良ければストレスなく車を進めることができます。

ただし分岐が多くまごまごしているとコースを間違えること必定。

特にいつもと違う方向・・・これは早朝西方向に向かって夕刻相良に帰るのとは逆・・・東京方面の場合は結構にリスキーなことがあります。×2です。

それが天気が良ければ良いほど・・・

早朝の東進は日の出、夕刻の西進は日没の眩しさ。標識も場合によっては前車も「消える」ほどに。

 

やはり朝は西、夕は東に向かうのがお気楽です。

 

浅草公会堂には初めて入館しました。チケットは叔父からのご接待です。

観劇のあとロビーでは池波正太郎展と書籍の販売コーナーが。

彼は浅草出身だったのですね。

 

それにしても浅草は一昔前と全く変わっていました。

日本人はその劣化度に外国人はその多数圧巻に驚かされました。まぁ人混みにくさくささせられて尻尾を巻いて帰ってきた田舎者夫婦でした。

特に奥方から「人気のどら焼き屋」に付き合わされましたが、店の前に辿り着くとズラッと行列。

店員さんに「あちらの最後尾にどうぞ・・・」でした。

勿論「それなら結構」の捨て台詞。

奥方には「並んでまでして喰うもんじゃない・・・」。納得していました。

 

東本願寺(昔の東京本願寺)にはご挨拶にお参りしましたが、もはやそう行きたいと思える場所ではなくなりましたね。

②は閉演後の撮影OKのご挨拶タイム。

尚、そのタイトル名は恵信尼の五輪塔脇にある花こぶしから。

 

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2024年

1月

30日

レイシャルプロファイリング 世界人権宣言 志賀墓地

はじめて「レイシャルプロファイリング」なる語を聞きました。表向きオトナの外交に「日本に来てください」なる商売上手のいろいろを見ていますが、それに対してこの件恥ずかしいことです。

「外国人」という理由だけで積極的に(当人にはその理由等を示さず身体検査、暴言を吐きながら如何にも「差別的な」)職務質問をするというもので、あたかも外国人(特に有色人種が多いよう)・・・という理由で犯罪者を想起するという発想。

まさかそれほど酷い「思い込み」がここでも常態化しているとは思いもしませんでした。

特に今回国と愛知県警が提訴されたわけですがまったくみっともない話で言葉もありません。

愛知県警のマニュアルの件も酷い錯誤。旧態依然の陳腐な発想をもってずっと維持されていたということでしょう。

島国根性丸出しなのか、それが日本だったのか・・・と唖然とさせられました。自分たち黄色人種がかつて白人の地で思わぬ差別を受けていたことを忘れたのでしょうか。

日本人は同じ日本人に対してもその違いについて一種独特の歪んだ視点から見廻わそうとしますからね。

ただ自分と違うというだけで。

 

警察官は今職務の前に「世界人権宣言」の件、お頭に入れておいた方がいいようですね。変な「伝統」?を振りかざす前に。

恥ずかしいですよ。日本人。

 

「世界人権宣言」

第一条

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

第二条

すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。

さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。

第三条

すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。

 

扨、画像は昨日の志賀神社に隣接した高台の志賀墓地から。

名号板碑と六地蔵ほか墓石たちはどちらからか移転してきたようです。古そうな墓石を探してうろつきましたが、新墓地ということでムリでした。

うろうろしていると墓参の方に会って「珍しい苗字ですね・・・」

蟹さんでした。縁者も多いようでその墓塔をみかけました。

家紋から連想すると笹の才蔵を思いますが、「可児」の件には触れませんでした。

また加藤さんが多いことも。

 

この高台からも古瀬間城の櫓が見えます。

 

 

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2024年

1月

29日

思い思えば闇の世や 浮世は夢よ 裏切り御免 志賀

昨日はBSでクロサワの「隠し砦の三悪人」が放映されていました。最近は滅多にその機会はありませんから何となくチャンネルをそのままにしていました。

モノクロ画像と台詞廻し、そして各オーバーアクションについてはともかくとして、やはりついつい見とれてしまいます。

ハリウッド映画の巨匠たちがこれに倣って各新境地を開拓していったその原点ともいうべき映画です。

特に私は黒くて汚らしくて油汗ドロドロの顔を見るとセルジオレオーネのマカロニウェスタンの色々を思い起こします。

まずクロサワから始まった・・・

今や日本映画はそのハリウッド映画のモノ真似専らの感。

アニメ以外ではもうムリなのでしょうね。

 

それにしてもそのタイトル「隠し砦の三悪人」は如何にも如何にも・・・というくらいインパクトがありまた伝説的。

現在、永田町では「なんとか派の五人衆」なる語が闊歩していますがキックバックだか隠しカネだか知りませんがまさに「五悪人」。

映画の中ではでたらめ、いろいろしでかしてそれでも「めでたしめでたし」で終わりました。

現実の彼らもお目出度い緩みっぱなしの顔を一昨日晒していました。お咎めなしの躰。それでいいのでしょうかねぇ。

同情できない「悪人」自省のない「悪人」多すぎます。

 

表題「思い思えば闇の世や 浮世は夢よ」は劇中「火をどり」の中の歌詞。「裏切り御免」は愉快で爽快な台詞。

敵役の侍大将がその言葉で寝返り、形勢逆転、囚われの身が助かったのでした。

 

扨、画像は志賀神社。

最後の画像中央右が昨日の志賀公民館。その先の小山に古瀬間城の櫓が見えます。

この神社も元は古瀬間の松平関りの社のようです。

ぐるっと尾根伝いに古瀬間城ウラの散策コースが巡っているはずです。私はチャレンジしませんでしたが。

 

 

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2024年

1月

28日

豊田志賀町区民会館 秋葉灯と畜魂碑

昨晩はグレートネイチャーの「モンゴル草原~」を視聴しました(湧き水 永久凍土 氷河によってもたらされた豊かな大草原)。

何から何まで私の頭の中を超越しているというかスケールそのものが私が普段目にしている物たち色々との段違いの様相を。

そもそもあのモンゴルの大草原が「2億5000万年前に海だったものが閉じた」の件、仰天です。そして5000万年前にインド亜大陸が大陸に衝突し各山脈(天山、アルプスそしてアルタイ・・・)と平原が形成されたという地殻変動の歴史でした。

あまりにも天文学的スケールの如くで狐につままれた気もしないわけではないですが。

 

溜息が出るのはその草原に人があまり見えない事。

人口密集、家々がひしめき合って建つ日本国内の様が普段から目に焼き付いている者としては圧巻の自然世界です。

遊牧民は3000年も前から馬を放牧しながら彼らと生活を共にしているのですが、その保有頭数も半端な数ではありませんでした。一家族で馬数百頭、その他羊や山羊も。

だからこそ彼らの主食である草を求めて「遊牧」するわけですが、その生活をこれまでずっと同じカタチで続けているという彼ら遊牧民に偉大を思いました。

それこそこれが素朴で鷹揚そして忍耐強い性質を生むのでしょうね。

ついつい大相撲の現実世界、頭の中をよぎります。

 

扨、昨日の西谷院のあるちょっとした丘を下って、同じ志賀町の区民会館の前に秋葉塔と石碑が道の脇に。

この手の平らかな石碑というものは大抵が地域偉人か出征兵士を讃えるものですが、それはこれまでの私の理解を超えるものでした。

文言が道路側にあってざっと眺めるにこれはいつもの石碑の類とは違うことがわかって正面に廻りこんで確認。

すると畜魂碑と。

裏面には国の隆盛は農業に関わっていてそれには家畜の力か必需・・・のようなことが記されています。

一家に一頭・・・それって馬でしょうか。

ということはよく街路に立つ馬頭観音の如き石塔、その動物顕彰碑の大判ですね。並々ならぬ愛情と感謝の思いが伝わってきました。

動物たちに代わって機械化された農業もまた廃れ、機械そのものに振り回される人間の様。

機械(AI)はヒトの顕彰碑を建てるのでしょうかねぇ。

 

 

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2024年

1月

27日

川島掲示板続き 西谷院卵塔たちの奥に宝篋印塔

川島清右衛門墓の掲示板の続き

まずは「御用所」の件。

私はその「史跡」の記述について検証する術を知りませんがそれから推測するに、まず城内に「御室御用所」を招へい設立し、その後相良波津の「百花」にまたその「御用所」を開設したというところ理解したのですが、その御用所とは何かといえば相良藩の経営する金貸しシステムのことですね。

貸付業務(銀行業務)により金利、今で言えば法律に抵触しそうな高金利・・・、を稼ぐというやり方ですね。

当時、キャッシュの少ない時代ですから需要はあった筈で藩の財政はそれなりに潤ったに違いありません。

 

そのキャッシュの貸し出しと金利含めたカネの回収のノウハウを得るためにその「御室御用所」をまず最初に招いたのだと思いますが・・・

ノウハウだけでなくその元金の借り入れに「御用所」の名も頂戴するという算段。

そこで「御室御用所」とは・・・。

単純に「御室~おむろ」といえば仁和寺の事。言わずと知れた絶大門跡寺院ですが、江戸期における権勢(財産)も突出していた

わけで、当時その門跡寺院たちは有り余る金子をさらに投資、その窓口(銀行支店)を各藩の求めに応じて出張開設したのかと。また「御用所」は富籤御用所(宝くじ事業)手形の発行などの事業細分化して武家社会に密かに君臨していたことでしょう。

その「御室」とは通称は仁和寺ですがその類の門跡寺院の金貸し出張所「御用所」にも「御室」を冠したのではないでしょうか。

 

幕末の武家の懐事情はかなり悪かったため、その御用所より手形や現金の貸し出しを受け自転車操業に陥って、幕府の財政の破綻を加速させたのでしょうね。

また川島らの御用所運営は相良藩財務の逼迫に一瞬間は貢献できたでしょうがその時代の流れには到底抗うことはできなかったことかと。

 

そして今一つが川島の妻二人の件。

概略は昨日記した通りですが、推測の域を出ませんがそこに睦まじい「三人」の姿が想像できます。

相良藩勘定奉行としての川島の働きと彼の死を受けて五年。

妻たちそれぞれの思い、どうあったのだろう・・・などと歴史小説のできあがり・・・どなたか、うまいこと仕上げてくださいませ。

 

扨、豊田志賀町ブラつきの続き。

古瀬間城を浄願寺境内に下りると、お寺の屋根が見えます。①図中央左。

浄土宗の西谷院ですが卵塔の数からして古い歴史があるお寺とお見受けいたします(場所はこちら)。

その卵塔たちの居並ぶ場所の奥に一基の古そうな宝篋印塔が立っています。完全形ではありませんが、一部相輪も残っていて、ただそこにいらっしゃるだけで威風を放っています。

ありがたいことです。

 

 

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2024年

1月

26日

川嶋(島)清右衛門重固家墓碑掲示板差し替え

天気は晴れながら寒くて風の強い最低の一日。

寒さには慣れもしましたが、ここ数日サボりまくっていた例の川島清右衛門墓の掲示板の修正作業を。

ご指摘を受けた「御要所」の「要→用」に文字を改めたほかそもそもその文言の元ネタは先日も記しました通り平成20年発刊の「相良史跡」からでしたが清右衛門の法名といえば大元の史料としては拙寺の過去帳ほかありませんので念のためそれをチェックしたところ転記ミスがありました。

相良史跡のものは清徳院重永となっていましたが清徳院釋重水が正解でした。

法名を間違えては申し訳なし。

その妻が清心院釋徳水とありましたのでまずそれは「水」で間違いないでしょう(過去帳そのものにも誤記はあるものです)。

夫婦で同じ文字を法名に入れることはままありますからね。

 

過去帳を眺めていて気付いたことはその妻に二人目が存在したこと。二人目の方には院号が命名さずに法名だけですから明らかに上下関係(正妻と側妻)といったところが推測できますが本当のところはわかりません。

またその二人の命日。

慶應四年1868六月十二日と六月十三日。

清右衛門が文久三年1863七月十二日その十二に何かの決意のようなものを感じます。彼の息子清次郎重基の名も過去帳にあり

ました。彼が没してからは明治期くらいまで水野家がこの墓を管理していたのでしょう。

 

④は清次郎重基の娘が水野家嫁いだ際に持参したという田沼意知の画。

⑤は参考のため清右衛門の発した貸付書の書き下しを添えました。

 

相良藩奉行 川島清右衛門重固と妻 清次郎重基 墓

川島清右衛門は須々木村の出身ともいわれるが不詳。 相良藩主田沼備前守意留に仕え、生来利発 天保七年1836 勘定役に取立てられた。 天保十一年四十二歳の時田沼玄蕃頭意尊が藩主になった際 勘定奉行に抜擢され幕末期の苦しい藩財政の保持に専念した。 年貢免定(賦課率)を決め天保七年より安政六年1859まで 二十四年のあいだ井上寛司とともに田沼家を支えた。 藩中では「御室御用所」を設け町内百花に通称「御用所」を 開設。東遠における金融機関として掛川、横須賀、相良領を 中心に貸付を行った。 文久三年1863七月十二日六十四歳。

法名清徳院釋重水。 妻は清心院釋徳水慶應四年1868六月十二日。 また釋妙清同年六月十三日。大澤寺過去帳よると妻は二人いた ことが推測できる。 清右衛門没日と同じ十二日とその翌日の死は謎である。

 

重固の子清次郎重基は分限帳に「給人席」(藩内身分)二十三石。 水戸征伐には「大炮役」として出陣。文久三に父の家督を継ぐ。 明治元年田沼意尊の小久保藩転封に従い明治三年に「小久保藩 大属」さらに「小久保藩庁掌」を任命される。 後、郷里に戻り相良警察署池新田巡査になった。 その娘が朝比奈山ケ谷の水野家に嫁いだが嫁入りの際持参した 田沼意知が描いたといわれる画が伝わっている。 明治十九年九月三十日没 法名釋離塵

 

相良藩奉行御室御所川島清右衛門重固貸付書

以剪紙致啓上候向寒 之節御座候得共弥御堅固 被成御勤役珍重奉存候 然者当領分榛原郡波津村 当暮取賄金差支候ニ付 御室御所御貸付金之内 弐拾五両拝借仕度旨 願出候間相糺候処相違無之候 之間御貸付相成候様御取計 可被下候尤拝借人差出候 証文質物等之儀相改 其 御用所江差出申候 右願人三保太郎願之通 御聞届宜御取扱被下候 勿論元利返済方之儀ハ 聊無滞様可申付候此段 可得貴意如此御座候 恐惶謹言 田沼玄蕃頭内

川島清右衛門 重固 花押

十一月十三日  御室御所

御貸付 御役人中様

 

 

 

 

 

 

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2024年

1月

25日

古瀬間城本郭の裏山 小督局の墓 ?

 

お気楽野郎の泣き言と思われるでしょうが寒すぎて何もする気にはなれません。

バカバカしい寒さ・・・早いところ暖かな季節の到来を待ちます。

とはいえここ南遠州、相良では雪の一粒も降ったわけでもなく昨日のドカ雪で高速道路上で雪ならぬ「雪隠攻め」となっている人たちがいることは同じ東海道ということもあって少々の驚きがありました。

まぁ以前から近江から関ケ原には北側に高い山脈がないためにその降雪傾向が強いということは身をもって承知していますがあの様を見ていれば移動と高速道路の利用には天気予報の確認は絶対的要件であって、ヤバいと思ったら中止にするか早めの対応が必要になります。

 

昨日は息子が島田でラーメン食べたついでということで立ち寄りましたが週末に東京で法要2件を受けたとのこと。

私もかつて厚木インターから小田原方向に向かうにインターに入ってスグ、チェーン規制に遭遇して大渋滞。微動だにしなくなって朝まで道路上にいたことがありますが、予報が怪しい時は高速道路は控えるというのが肝要。

そもそも移動はせず、家にいるのが一番です。

家の中がこれだけ寒いのに被災地の皆さんの仮宿や車上での時間は私には想像できません。

被災したら・・・真っ先にすべて諦めて・・・死ぬ。そう断言します。

熱いお湯に入るとき「生かされている」の至福を感じる今日この頃。

 

 

扨、昨日記した古瀬間城

浄願寺の奥、扉を開けて山道をのぼり切れば①の如くの看板が。

ということで古瀬間城の本郭をブラついたあとはその矢印の左方向「小督局」とやらの墓へご挨拶。

豊田方向に睨みを利かせている風からしてこちら方向は城址の裏山という感じ。

その参道には地域のみなさん方でしょう歌碑が並びます。

看板から100mも行けばその墓塔に会うことができました。

小型のかつては宝篋印塔が三基あったような出で立ち。

 

右端の大きいもの、上部に相輪が残っているのが小督局でしょう。いずれもバランスが悪く、本来のパーツの組み合わせではないかと。

最後の画像は宝篋印塔の笠、隅飾りの部分だけ。

 

その小督局について各お調べいただければ。

数ある小督のうち平安末期のそれを主張していますがそもそも

何故にしてこちらにという理由がわかりませんので、ハイそうですか・・・という具合に鵜呑みにできないところ。

パーツの組み合わせを推すところは浄願寺奥の松平の宝篋印塔と同様ですが隅飾りの姿は古式溢れて美的要素は満点。

こちらの散策も春がおすすめのよう。

ヤマザクラには早かったのでしょう、それには気づきませんでしたが。

 

 

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2024年

1月

24日

古瀬間城 お気軽散策コース 梅咲く季節がおすすめ 

 

クロ現は佐藤優氏。

多くの印象的な言葉に満ちたインタビュー番組でした。

苦しい時は頑張らずに「助けてくれ」を言おうそしてそういう社会に・・・まさにその通りです。

しかしどちらに向かってそれが言えるのでしょう、我々はプライドというものを持ち合わせていますのでなかなかそれを打ち明けられないもの。そんな場所といえば・・・寺なのか。

植木等の「カネの無い時」「オレも無いけど何とかなるさ」とありましたが今そのナイのレベルが半端ではありませんからね。

そんな格差社会にたれがした。

 

また「縦の贈与」という言葉は良き言葉。

今、父や爺様はとっくのとうにお浄土ですが、日々を暮らしていてわからないこと聞きたかったことのいろいろとブチあたったとき聞きたくても聞けません。訪(とぶら)って耳を澄ます他はありませんからね。

もっと聞いておけばよかった、教えを請えばよかった・・・の想いが。

生前の頃はそんなことを考えもしなかったことで、これを「バカは死ななきゃなおらない」と言うのでしょう。

死んだのは私の父であり「なおる」は気づき。

今更気づいても既に遅し・・・

息子には何を伝えて行くか。 

 

扨、昨日の墓碑を見送り(②の左側が墓域です)階段を上がれば獣除けの扉があります。それを開けてほんの少し進めばそこが古瀬間城。土塁等の残存遺構も垣間見れます。

台地の先端にあって豊田市内を見渡すことができる眺望がいいところですが背後の台地はそう険しくなくなだらか。さほどの要害性は感じません。

 

整備が行き届いたのが最近のことで梅を植樹したことからそれが咲くころには絶妙の山歩きが楽しめます。

⑤が厳冬期⑥が3月初旬の図ですが今年は梅の開花が早そう。拙寺のとち狂った梅4本は既に咲いてしまっています。

 

そして城郭大系の本編記述はなし。

「その他」の扱いで「松平宗忠・鈴木重政在城。大字馬場の地名が残る」とだけ。鈴木重政は足助鈴木氏。

 

 

 

 

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2024年

1月

23日

松平弥三郎宗忠墓所 浄願寺

 

ボランティアなる語を聞けば「すばらしい心がけ」として感心させられます。

自分の時間を他者の為に奉仕「尽くす」ことですが並大抵の労力ではないでしょうね。仏教でも慈悲の実践として昔から高僧たちが取り組んできたものです。

 

最近は高校・大学ででボランティア部なる活動があることを聞きますが先般そのボランティアに向う若者たちについて聞きかじったことがあります。

それは大きな意義があることですが、いとも簡単に挫折し時にトラウマとなって精神的なダメージを被るということです。

要は思うほど美しい人助けとは違うということですね。

それはそうでしょう、究極の困窮と苦痛を背負った人々に勝手な慈悲の心を向けたとしても「違う」と思われてしまうようです。

若者たちはとかく経験が薄い。

現場に出たことが無いこれがデビュー戦のような子供たちが時に罵声を浴びせられありがとうの言葉の一つもない殆ど戦場の様な場所にお気楽気分で「人の為」と向かって逃げ帰ってくるということですね。

泥だらけになって食事や風呂は被災者第一に優先、その覚悟というものが必要です。

 

扨、昨日記した浄願寺の奥に墓塔が数基見えました。

あっちこっちから素材を組み合わせたような姿に見えますが

松平弥三郎宗忠墓所の標が。

宗忠は松平信光より分かれた長沢松平勝宗の子といいます。

 

 

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2024年

1月

22日

浄願寺鐘楼山門と堂内阿弥陀仏ちらり

 

昨日日曜日には3件の法務がありましたがそのうち1件、浜松霊園での墓前法要は息子に向かってもらいました。

当初土砂降り予想で、彼には「ズブ濡れでも笑顔で行ってくれ」と依頼していましたがその頃は完全に雨があがっていました。ありがたいことです。

 

私は法要が1日複数の法務というものがいよいよ辛くなってきましたので彼が代わりに行ってくれることは頼もしい限り。

いよいよ寺の戦力として計算できるようになりました。

しかし伐採や片づけ、メンテナンスの手助けフォロー依頼の呼びかけには顔を出しません。

法務よりも私が行っている「雑務」による維持作業が本題であることも伝えて行かなければなりませんね。

そこを「他力」(一般的な)で済ませていては出費が嵩むだけですからね。

 

「辛くなった」というのは喉の具合のことです。発声の質も悪くなっているような気がします。

昨日も2度目の法縁の正信偈拝読の際、突然声が出なくなってしまいました。それには相当焦ります。

何とか復活するという妙がありましたが、御一同にもハラハラにさせることになります。

 

その症状の発生頻度が高くなったこと、そろそろ「いい加減すっこんでろ~」と声があがって来そう。

ただ風邪の症状の様な気もしないではありませんが。

それはそれで困ったことになります。

様子見て彼を呼びつけるという選択も視野に入れています。

 

扨、「他力」は誤解の多い言葉であり当流の「他力本願」という熟語にするともっと批判的イメージを抱く方がいらっしゃるのでまた困る。

困るといえどもそれこそが私ども真宗の本貫となる教えです。

以前もその件、かつての「オリンパス」社の無知の露呈、それに対して本山の抗議文まで出たことを記しましたが当流はその意の解釈について特に敏感です。

要は「他」とは阿弥陀仏以外ほかでもなく「人」に対してではないということ。

要は仏教の語が独り歩きしてしまったのでした。

 

そして「悪人正機」というのも当流の看板。

悪人だからこそ阿弥陀仏の救済の第一義、対象になるということですが、だからこそ自力作善ではお手上げであって阿弥陀に(他力に)タノム(まかせる)わけでそれにはお念仏・・・という構図が出来上がるのでした。それも大いに誤解を招きます。

 

まぁ善行を重ねることに意義を感じ生きる(自力作善)という他者の考えはそれはそれでヨシ。これは善を以って救われるという考えですね。

しかしその善というものの捉え方は人によって違うのです。

歎異抄四条の語を借りれば「すゑとおり」がナイわけで・・・

まぁそれは自分本位の「善」であるということ。

 

そして「自分を信じて」のことば。よく耳にします。

私はこれだけはどうも好きになれませんね。

 

何故ならば何度かこちらでも記していますが「私自身が一番に自分を信じられない」からですね。

まぁ煩悩のまゝ動いていろいろやらかす私があるからですが、それは一言で言えば、良いこと(善)である、これこそベストであるの様々な「思い込み」から発するもの。

「錯覚」ばかりの夢見心地で生きているが如くの私を信じようがありませんからね。

その思い込みによって、まま人を傷つけ失敗を重ねまくる私(悪人)があるのでした。まぁこれは死んでも治らないでしょうね。

 

同様の件、適宜ブログに記すのは私はバカだからなのです。

幾度も幾度も繰り返しその件、立ち止まって記し、私自身に言い聞かし自分に問うことが継続的に行われないと・・・忘れるから。

そして「阿弥陀にまかせます」の念仏を唱えることは欠かせません。

 

昨日は法話の時間の中で「自力作善」とは「ウオッシュレットのボタンを押すようなもの」と。

自分自身のお尻のために・・・

表現が下手クソで申し訳なし・・・

 

因みに「自分を信じて~」が嫌だとして何がいいかを思量すれば「普段通りに~」「ありのままに~」「自身できうる限り~」がいいな・・・。

まぁその言葉(自力の自分教)がお好きな方はご自由にどうぞ。

それを「悪い」というのも私の言いがかりかも。

 

画像は先日記した浄願寺の山門を再び。

あの門は素晴らしい。

あの椿三十郎も鐘楼に上がって居眠りができそう(映画のストーリーの中では彼がでっち上げた話の寺の山門は茅葺で二階建てではなく「そこで居眠りしていたら~」の大嘘はバレてしまいます)。

こちらは実際「二階建て」。

 

 

 

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2024年

1月

21日

川島家墓標のお隣 この文字は・・・「卑」の異体字

 

先般記したばかりの川島清右衛門重固の墓碑紹介掲示板に誤記が数点みつかったことと追記も数行あってその改作を試みています。

文言製作(といっても転記主体で文字合わせが主です)さえできればお天気の具合を見て貼りなおせばOKですから。

よってその紹介文の作り直しで一日を過ごしました。

朝から冷たい雨でしたから一歩も外に出ず。

奥方が買い物等で出入りしていましたが私はずっと留守番でした。

というのもその日の午前は法事を承っていましたが施主がインフルエンザに罹ったということで中止順延になったのでした。

今、どちらでもそのインフルとコロナなどの感染症が流行しています。

逆に私が罹患した場合はどうなるのだろう・・・「その時になってみなくてはわからない」としか言いようがないですね。

無理をしたとしても他者への影響を考えると・・・

ああ、思いつきました・・・副住職(息子の自称)を呼び寄せればイイだけでした。

尚、正式に「副住職」を名のるには本山の承認が必要になります。

私が亡くなるか引退し彼が住職として継承するにはスムーズに進むのですが。

 

扨、先日記した川島家の墓標ですがそのお隣に長い間放置されていた墓碑があります。

ずっとその川島家の墓に寄り添うようにあってこのほど川島家の墓碑をキレイに据え付けていただいた松永氏が「折角のご縁だから」とこの墓も据えなおしてくださいました。

 

一見すると「早川源三郎」の如く。

しかしよく見れば「早」ではなくその文字は下の「十」の部分が上に突き抜けて上の部分が「日」でなくて「田」。

「田に十」が組み合わされたような字。

よって過去帳を探します。その苗字はナシ。

しかし正面に没年が記されていますので話は早い。

 

「文化十三年十一月六日 釋了本 源三郎事 新町」とあって

墓碑の源三郎と相違ないところですが過去帳にはその問題の苗字が不記載。

当時の過去帳には名前のみというのはまたぞろですが墓碑には記されていて過去帳にその苗字がナイというのはちょっと首を傾げるところ。

 

そして今、やはりその新町には勿論その名から推測できる家はナシ。川島家と同様いわゆる無縁墓でした。

私は苗字があること、新町というお城の前の通りに住まったことから身分的には武士であったかとを推測します。

源三郎・・・あなたはたれ?

 

そしてその早川ならぬその字と読みは?

「早」に見紛うその字は「卑」の異体字ですね。

よってその読みは「ひかわ」源三郎さん?

その「卑」の字については神の名や卑弥呼の如く使われている例はありますが、現代は苗字として見かけることはありません。

江戸期くらいまでは普通にあったのかも知れませんが、その文字をきらって多様な字を当てて今があるのかと。

 

また川島家の墓に寄り添うようにあったのはこじつけのような気もしますが何らかの関りがあったかも・・・などと。

ただし清右衛門の没したのは文久三(1863)ですから源三郎の文化十三(1816)ですので半世紀ほどギャップがあります。

田沼家家臣(意次時代)にもざっと見当たりません。

 

しかしまた清右衛門の須々木出身の説ですが、拙寺過去帳には元文期(1736~41)に「浜主」という文字面とともに「川嶋」の文字が出てきますのでその系統ということもあり得ます。

そのころからの付き合いがヒカワ氏とあった可能性もありますしまったくの無関係というのも。

いずれにしろわからない・・・というのが本当の所。

 

 

 

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2024年

1月

20日

廣陵兼純師 久能山東照宮二里十一町 里程標塔 

 

石川県輪島市に門前町なる町名があります。

その名を示すお寺の「門」とは総持寺祖院ですね。

曹洞宗大本山の古刹で横浜鶴見のお寺の前身になります。

前回平成19年の地震被災による耐震改修を加えた復興を遂げて先般、それを記念した大法要が勤められていましたが今回の能登半島地震により再び甚大な損傷を被ったことが伝えられています。

ごく小さいながら同じように仏教施設を管理する身としては本当にそのやるせなさと意気消沈の気持ちがわかります。

大本山というくらいですから時間さえあれば何とかなるような気がしますが。

ところが各宗派とも末寺クラスともなれば「全てに於いて苦しい」というのが実情でしょうね。

 

未だ当流寺院の被災状況について詳らかな情報は入っていませんが14日現在、そのエリア能登教区(寺院数353ヵ寺)の確認済み寺院数322ヵ寺(未確認寺院数31ヵ寺というのはまた恐ろしい)のうち何かしらの被害が報告されている寺院数は262ヵ寺と。

そして本堂の大規模被害報告66ヵ寺、庫裏の大規模被害が報告されている寺院64ヵ寺でした。その両方の被害があるお寺もあるでしょうし、未確認不明のお寺がまだ多くあるというのはその

被災の甚大さが改めて図れるというもの。

 

その門前町の総持寺祖院には多くの支院があったそうですが、その支院の一つだったといわれる寺に満覚寺があります。

同じ門前町にあるお寺で現在は真宗大谷派。

不確かな情報ですがどちらかの時点で真宗に改宗したという歴史があるようです。

 

そのお寺といえば節談説教の廣陵兼純師(前住)が。

確か「全国行脚、どちらにでも行って説教する」と仰っていたのは前回地震での本堂被災の修復のための「出稼ぎ」との自虐の言葉があったこと、今考えるとさらに辛い。

そして今回の地震。

大層な被害があったことが想像できますが・・・切ないことです。

溜息しかでてきませんね。

尚、廣陵兼純師のお説教はユーチューブで視聴できます。 

 

扨、昨日も一層暖かい朝。

奥方が「なんでこんなに早い時間(9時)に予約を・・・」とぷりぷりしていましたが二人で7時に家を出ました。

静岡市内の歯科医院に奥方の検診と私の予約を入れていたことからです。

奥方の検診結果は良好と褒められていました。3年のブランクがありましたが虫歯はありませんでした。

私への評価はやんわりと「歯の裏側のブラッシングが苦手なようですね~」ですが奥方の場合は「上手にブラシができています」でここでも差をつけられてしまいました。

 

歯科診療の序でに静岡駅ビルが新装したというのでそちらをブラリ。時間が少々早かったせいでお店はまだ開店準備中でした。

南口のトイレに立ち寄ってから駅南ロータリーに出ます。

滅多なことではこの辺りを歩きませんが、今や南口の待ち合わせ場所となっている里程標塔に目が留まりましたのでそちらを。

 

案の定数人の若者たちが標塔ベースに寄りかかってスマホをいじってましたが、私はお構いなし。

「はい、ごめんなさいよぉ~」といいながらスマホのカメラを向けるとあっという間に消えて居なくなってしまいました。

結果的に私が蹴散らしてしまったよう。

 

この標塔の元あった場所は今とは違うところ。

時代の流れであっちこっち移動させられているといいます。

要は開発のために邪魔だということですね。

ということでその東照宮までの距離は正確なものではないでしょう。

まぁ何とかいい場所に据えられて安寧を得たかのように街に溶け込んでいますが、やはり怖いのは地震。

しかし大正時代に建てられた石塔が無事にここまで残っている(如何にも地震には弱そう・・・)ということ、奇特なことだと思います。

 

 

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2024年

1月

19日

相良藩勘定奉行川嶋清右衛門重固 田沼玄蕃頭意尊の時

 

暖かさのおかげで屋根の上にてアンテナ基盤の設置と調整を。

BSアンテナのベース部分が腐食し最近の超強風でアンテナの方向が維持できなくなって衛星放送が視聴困難に陥っていました。

その手の仕事は風のない穏やかな日でなくてはムリな話ですからね。またやらなければならないことばかりでやっとこ昨日完成できました。

これはテレビの前で待機する奥方とアンテナを固定する私が携帯電話を繋いで調整しました。

 

その後は課題の一つでもあった境内墓碑の掲示板を二基設置。

1つは成瀬蔵の息、成瀬鼎の墓碑の掲示板の修復です。

その紹介掲示板が腐食して倒れたのが昨年の夏のことでした。

昨年春にマダニにヤラれたこともあってこちらの笹の中に入ることを恐怖に感じこれまで放置していました。

今一つは川嶋(川島)清右衛門重固とその家族の墓の紹介掲示板を立てました。

彼は後期田沼、田沼玄蕃頭意尊が藩主になった際の勘定奉行です。

 

そのあと1件だけですが法務に出かけて帰った際、駐車場から出てきたであろう見覚えのある女性が墓地裏側に入っていく姿を見送りました。

確認するとやはり…

その方が静岡市在住の松永氏。 

川嶋(川島)清右衛門重固から三代―清次郎重基―新太郎重之の三女が水野家―松永家と女系で繋がっている子孫の方になります。

新太郎重之には女子3名の名がありましたが男子不在のため弟の重代に三女を嫁がせて家の継承を図りますが生まれた子に男子はいなかったようです。

よって現状その墓は世間一般で言う「無縁墓」のくくり。

それから明治よりこれまで放置されていたということですね。

その存在を知っているのは殆どこの寺の私だけかと思っていましたが・・・昨日の史蹟調査会発刊のものにはその所在について掲載されていました。

 

その松永氏が昨年夏ころ突如拙寺に訪れて、川島家の縁者末裔の者として墓をキレイにしたいとのご提案をいただき、その意の通りにおまかせしていました。

昨年末に息子さん同伴で来られて改修が完成していました。

私もそのご厚意に応えるべく看板を立てたのでした。

 

そこへ偶然にもその松永氏が参拝に訪れたということですね。

不思議なことがあるものです。

 

墓場と歴史がお好きな方はそうはいらっしゃらないとは思うものの拙寺の古い墓を探し出して今後紹介の看板を記して行こうかと思った次第。有縁無縁関わらず墓の掘り起こし・・・結構面白そう。

 

※ 2024年1月26日 掲示板文言訂正 追記しています。

 

 

 

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2024年

1月

18日

2025大河 平賀源内の配役? 唐衣橘洲の登場期待

 

降雪量半端ない地域の皆さんには申し訳ないことですが、昨日の当地はべらぼうな暖かさ。特に車の中は夏の如し。

なさに好天に恵まれ仕事が捗りました。まぁ色々です。

 

ウォシュレット2基交換は完了しましたが来客用女子用和便トイレ漏水の修繕用のパーツ探しに走りました。

2日かけでチャレンジしましたが、完治せず。

まぁ洋便器の方がしっかり稼働していますので、当分そのままでヨシということに。これで男子1 女子1になります。

滅多に使用しないトイレたち3→2となっても問題ないかと。

その個室は外からロックして貼紙をもってお断りすることにしました。

 

しかし今時、和式トイレというのは少々首を傾げたくなるところで将来は何とかしたいとは思いますが交換設置には何かと経費がかさみます。

また、会館新築工事後は外トイレ(以前は汲み取り式)を設けますのでトイレばかりは要らないというもの。

外トイレ増設はおカネがかかりますからね。

 

来年のNHK大河ドラマへの期待が膨らみつつある昨今ですが、千載一遇のチャンスとはいえ「どうしていいかわからない」というのが現状かも知れません。

 

番組のタイトル「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ですがその治世が田沼意次時代が絡み、その意次の配役に渡辺謙が決定したことから俄かにその件知る人ぞ知る人たちの盛り上り。

実際の視聴率の方から見るとやはり、「興味が・・・」という人も多いような気もしますが成功不成功に関しては私どもの心配の外。

 

そして「どうする牧之原」(厳密には「どうする相良」?)となっているのですがとりあえず「大河館みたいなもの」はどうよ・・・という方向になるわけです。

しかし今のところ、資金的都合の問題で既存建屋を使用してスケールダウンした「大河ドラマ展」にという感じになるようです。

それでもやるからには来訪者を見込んでの華々しい企画を想定しなくてはなりませんが、これもなかなか難題山積。

渡辺謙に常駐いただければ話は早いのですが、それはムリな話。

何とか他所から相良の「展」に来ていただきできるだけ長時間滞留してもらわなくてはなりません。

それも楽しく、またこちらに来てみたいと思っていただけるくらいの・・・

早々に纏めていくべき課題ですが、そもそもその「展」の場となるハコが史料館の2階であるということ。数年後の建替えも視野に入っている建屋ですからね。

 

そしてこちらでも問題になっているのがトイレの件。

ウォッシュレットもない便座と和式トイレといいます。

たくさんのお客さんを招くうえにはその改修と会場のリフォームそして史料館半地下の展示スペースへの空調の問題もあるよう。

ぱっと見出費ばかりで大赤字の徒労のみという感じ、大いに有り得るところですが、とにかく何とかやり遂げなくてはなりませんね。

「利益が出なければ協力できない」・・・皆さんクールですから。

ちなみに「大河ドラマ展」企画の段階では入場無料とのこと。

 

一番にやるせないのは相良がお客を吸引しそのあとは御前崎「なぶら館」へGO!というツアー企画です。

現状庁舎駐車場の車が問題ですが、テント村でもいいですから「相良土産館」なるものでも設けておカネを落してもらうというのは如何。

今から何を売るのがベストか考えなくてはね。

時間はナイですよ・・・。

 

扨、先般相良史跡調査会で盛り上がったのは平賀源内の配役は誰なのか、狂歌師の唐衣橘洲の登場はあるのか・・・でした。

彼は三大狂歌師(他に大田南畝、朱楽菅江)の一人で本名は小島源之助、相良代官に赴任する小島蕉園の父ですので、そこからも「田沼後の相良」として引っ張ってくることができるというもの。

 

尚、平賀源内について獄中死せずに(~遺体の引き取りは平秩東作といわれその人は唐衣橘洲の狂歌会に出入りしています~)

意次の差配で相良に逃避し相良で没したという説が以前からありました。

相良各所にその伝承があるにはありますね。

そのあたりの物語も興味あるところではありますが。

言い伝えレベルで全く確証はありませんが、ただその説を信じるか信じないかだけです。

それらを掘り起こして名所として披露していくというのも一案ではあります。

ちなみに私は獄中死の方に一票。

まぁ「歴史」とは事実と伝承そして期待が入り混じってあるものですからね。

 

画像は平賀源内についてかつて史蹟調査会が発刊した冊子とその内容断片。

 

 

 

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2024年

1月

17日

古瀬間城は大谷派の浄願寺 豊田市志賀町

能登半島地震以来、芸人さんが大手を振って登場するいわゆるおバカ番組にはますます縁が遠くなって、テレビといえばニュース番組を主に選択します。

寒風の中未だ悲惨な境遇の中の人々がある中、オチャラケている連中を見て少々の嫌悪を抱きまた、こんなの見ていていいのかといった疑問もわいてくるワケで。

 

時間がある時にテレビのスイッチを何となく入れて、ざっとBSまで見廻してからEテレに落ち着いてぼんやりすることがままあります。今やEテレは私の避難地になりました。

また今節の日曜の晩の恒例番組も一切興味はなし。

平安時代のホームドラマなどちょっとね。

それは友人の「奥の墓道」氏も同じです。

 

来年に期待したいとはいうものの最近の傾向からそれですら視聴率という観点で危うい感あって、いよいよNHKは正念場といったところ。

恐ろしい勢いでネット社会は進みこのようにテレビのリモコンを机の上に置いておくのは爺さん婆さんだけになっているのかと。

映画をダウンロードして視聴している息子がいますが私はそれもやる気がせず。流されている画像を単純に眺めているだけですが、まぁ一応の選択権だけは持っているつもり。

 

そのEテレ。昨晩は「瞽女唄が響く」を視聴しました。

瞽女とは盲目の女旅芸人のことで「唄」(+三味線)で生計を立てた人たちが居たのでした。日本の歴史の一端でもありましょう、その存在は結構に歴史が古い。

そして芸能と一言で言うのはあまりにも短絡、その彼女たちが幼き頃より抱えた境遇は半端なものではなかったことが窺えます。

 

番組の中にあった「さずきもん」という語はいかにも仏教的でありまた納得させられました。

生まれながらに「さずからなかった」視力、暗い世界にいるかに思える彼女たちが明るく前向きに生きる姿と今さずかっている多くのありがたさを表している言葉でした。

 

ただの苦労ではありませんね。冬季には雪深い日本海を三味線を担いで旅をしたのでしょうが「落ちたら死ぬ」と覚悟して渡る一本橋の様など、何から何までそれとは段違いに贅沢な「さずきもん」ばかりの私です。まるで仏の域に入っている様に感じさせられます。

彼女らからすれば、私などただ見えているフリをして何も理解していない盲目の坊主なのかも知れません。

 

扨、石川県志賀町の志賀、最近やたらと耳にすることが多くなりました。原発でも名がありますが。

そしてそれで私が連想するのが豊田市の志賀町。

 

以前幾度かブラついたその地の真宗大谷派の浄願寺を。

威風かつ情趣あふれる鐘楼門がお迎えしてくれるお寺です。

そしてこのお寺の裏山が古瀬間城址になります。

お墓も散見できて私の趣向、「ハカ・テラ・シロ」すべてが満喫できる地です。場所は豊田松平ICの近く

 

これからいよいよ本格的春の温かさを迎える(予定)。

三月、木々の新芽が吹くころ、おすすめの地でもあります。

 

 

 

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2024年

1月

16日

救急搬送につき「病院ガチャ」

能登半島地震による被災者の「災害関連死」についてその数が増えているとのこと。

地震による直接の災害については相手が自然だけにどうにもならないところがありますがそのあとの関連死は「人災」と断ずる人もいます。

 

学習経験は幾度か重ねてきたはずですが真面目にその対策をしてこなかったことの結果、現状の如くになっているとの言。

その通りでしょうね、初動の遅れ、正月早々という気の緩みもあったのでしょうが政府が的確に被害状況を把握できていなかったということです。

石川の知事殿は政府を庇って「地殻が5mもあがるような地震」だから仕方ないという物言いでしたが、地震の発生への対応はそもそもその大小で決めるものではありませんし人命に関わる地震というものを最初から想定しておくべきもの。

 

あの人にお聞きしたいのはその地殻変動が志賀町の原発の直下で起こった場合、そしてその時の住民退避のルートについて「どうなってるの?」です。

「地震が大きかったから仕方がナイ」とまた政府に肩を持つつもり? 五輪誘致のために大層なアルバムを配って悦に入っている方の様。

まぁ石川県民は大変です。

 

現地避難所へ集中して寝起きする避難者のみなさんの住環境は劣悪を思います。あれでは感染症対策も覚束ないでしょうね。

かといって「地元故郷を離れる」ことに抵抗があるのも尤もな事です。壊れた家であっても未練は残りますし、家族、親戚縁者と離れての生活は心細い。

「管理」という意からすれば上手に配分できればやりやすいでしょうが、そこのところを重視した避難所というものを目標に手掛けていただきたいものです。

それはインフラ復旧は勿論、住環境、特に個別プライバシーを保護できる避難所を。そういった避難所をイザという時に早急に手掛け、対応していこうという準備が必要なのですがね。

散々それを学んできたにもかかわらず・・・大きな地震だったから仕方ない・・・笑止千万。

次はもっとデカイと言われ続けている南海トラフ。

「仕方ない」は仕方ないで承知していますが、稀にも命を繋げた奇特を大切に維持し守ろうとする施策を事前に試みていただきたい。

まぁ御身のみの大切を指向する政の方々ではムリな話。

庶民は諦めが肝心。「業縁にさしまかせ」でした。

 

扨、父の緊急入院の際にも記しましたが、救急救命の依頼(119)連絡をすると早急に駆けつけてはくれますが、患者の様を現着した担当者の所見を通して受け入れ可能な病院のその可否について「OK」が出てから車が出発するわけですが、それまではどちらの病院に向かうのかまったく患者にも縁者にもわからないものです。

ちなみに父は島田H、母は掛川中東遠Hに榛原H、私が脚立から落ちた時は榛原Hでした。

 

病状病因にもよりますが、通常対応できそうな症状だと牧之原市内だと榛原病院、御前崎市内だと御前崎病院というイメージです。しかし現状緊急搬送は多種多様の病院に分かれてしまいます。

特に土日祭日にその傾向が強いものがありますが菊川、掛川、藤枝から中には浜松、静岡市内まで。

要は近場の病院に搬送されれば有難く感じるものです。

のちのちのフォロー等色々、頻繁に遠方病院まで足を運ぶのは面倒なものです。

そして、私はその病院の遠近について私どもの意思通りに決められず、受け入れるのみであることを「病院ガチャ」と呼んでいます。

 

先週、知り合いの縁者が救急搬送されたというのが掛川中東遠H。

大したことはなかったようで数日程の療養後退院できるそうですが御前崎在住です。

御前崎の岬の台地上の自宅からその病院に向かうに車の運転をしないその人ですが入院時必需品を届けるにあたりどういう行程となるかといえば・・・、バスで浜岡ターミナルへ、そちらから菊川駅行きバスに乗り換え、JRで掛川へ、そして病院までの循環バスとなります。

各待ち時間の間の寒さは「こたえる」とのことでした。

よって昨日その自宅から病院までの直行便(拙寺の自動車)を出すことにしました。

「御前崎病院だったらよかったのに・・・雲泥の差」とポツリ。

それはそれは御前崎病院ならば有難いでしょうね。

 

私は車でひょいとどちらでも行けますからその病院も許容できますが、「足がない」というのは「ガチャ」でそれを引いてしまったとはいえここ南遠地区は「その時」の対応は厳しい。

イザという時のそれとは違う場面(地震被災、道路寸断)のこともまた思います。

 

①中東遠は巨大な病院。②は先日の袋戸の中、ベニヤの天井を剥がして板を打ち付けました。通常この中は隠れていますので私のテキトーな工事。

そして先日の38.4℃の彼はコロナだったとのこと。

病院も今再び面会を制限されているそう。

 

 

 

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2024年

1月

15日

中電に依頼した電柱支柱線移動工事遅延の件

自宅を取り壊し新築工事に着手するということでお内仏の閉扉式に向かいました。

お内仏は新しい家に併せて新調するそうで、今あるお内仏にはこれが最後のお勤めになりました。

新しいお内仏は多少コンパクトになりますがカタログ画像を拝見するに真宗特有の金仏壇ということで少々安心した次第。

最近はそれがめっきり減りつつあって各形式の箱型が増えていますが、まぁ礼拝の対象があるということだけで結構なことです。

 

新築工事というとつい「大工さんはどちら?・・・」などと伺ってしまいました。

というのは拙寺の会館あとの新築工事がやたらと遅れて、一向に進捗がないからですが、いい加減ボヤキも出てくるというものです。

周囲からも「一体どうなっているんだ」の問い合わせも多数あって当方としても「まったくもってわからない」というのみ。

 

当初はコロナ禍による建築資材高騰と資材不足・・・などと理解、気持ちを落ち着かせていましたがもはやそれではなさそう。

あとからあとから周辺新築工事完成の様を見ていますので。

当初は奥方が思いつくたびに電話で催促、その度に図面を持ってきたり測量業者が来たり、地盤調査も2度違う業者が来ていますが未だ正式な見積もりすら出てこない始末。

 

11月にコンクリ屋さんを同伴で来たのが最後でしたが、いよいよ地盤の調整とベタ基礎、東側の壁も含む工事が始まるかと思っていればそのコンクリ工事すら始まる様子なし。

もっとも肝心の全体見積もり金額が出ていませんが。

 

ここへきて「しょうがない」と納得するしかなかったのは中部電力からの連絡。

隣地了解済の工事ですが中電の電柱支柱線の位置移動を依頼していました。

塀の撤去と新設のため一端セットバックが必要とコンクリ屋さんからその件あったためです。

その移動工事は1月8日に予定されていましたが、工事当日に中電の作業者は来ず。

そもそも移動工事が無くとも別の部分から着手しておけばいいだけの話ですが、先週10日に中電から連絡があって2月末になるとのことでした。

その理由は「工事業者は今すべて能登半島に出払ってしまっている」ということ。

あの能登半島の様子を見ていればそれには沈黙する他はなし。

彼の地の電力の復旧が日本全体最優先事項でした。

しかしあの無茶苦茶の状況「一体その2月末で済むのか?」

単純な疑問。

つまるところは「天命に安んじて・・・」なのですが。

 

 

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2024年

1月

14日

正信偈拝読後「生々流転墓」へ 田沼と岡崎教区通信 

午前中はネコの葬儀と納骨。

葬儀と言っても通常の儀式とは違い本堂で縁者揃っての正信偈の拝読のみですが・・・。

今回はご門徒さんではありませんでしたがいつも通り気軽に拙寺ペット墓「生々流転墓」への納骨を承りました。

2歳の彼女は元気そのもの、先日自宅前の国道に飛び出してこの悲劇となってしまったとのこと。

電話で承った際、奥さんの悲しそうな声が深く印象に残ります。

 

参列者は家族のみで5人ほどでしたが中には縁者勢揃いで十数人も集まる場合もあります。

人間の葬儀で一人二人の例がありますがペットへの思いというところは格別、家族以上のウェイトの高さを見ます。

拙寺のその流転墓の生花が絶えないというところ特筆的。

参拝が殆どないような一般の墓は結構ありますからね。

 

私はその写真を見てついつい息子が飼っているネコを思いだしました。溺愛していますのでもし彼だったら・・・を思い、またその子の境遇に気持ちが入って読経の声が上ずってしまいました。

ヒトに対しては淡々と法務をこなし「無常」への諦観を思うばかりですが、何故かその手の、「無知」「無垢」なる生き物たち~特に不慮の事故を遂げた無念~へ感情が移入します。

動物、ペットは法的には「物」というのがお決まりですが、決してそのカタチで「親心」と執着を治められるものではありませんね。

 

午後からは史跡研究会の会合へ。

前年10月以降その会に2人の若手が入会し賑やかになりつつありますが、その若手の一人が朝からこの様です、という具合に体温計の図を。

最近はやたらとコロナも増加傾向、インフルエンザも流行って、かつ風邪だか何だかわからない高熱も流行っているよう。

昨日の会参加者は全員マスク装着。

「そんな熱になったら死んじゃうよぉ」の声が出るほどの年配者の声が。

 

内容は来年の大河ドラマは概略2段構成になっていて前半が大雑把に「田沼時代」、後半が「松平時代」と両老中の治世の違いに沿って描かれるということで、相良としては「前半勝負だね~」。

3月頃に相良のイベントを集中したいという意見があり、では・・・と2025年の拙寺の「春の法要」を3月29日ということ、その場で決めたところ。

2024年の「春」も済んでいないのに・・・そこまで生き延びられるか・・・予期せぬことばかりで。

 

③④は岡崎教区通信から。

能登半島の当流系寺院の被災状況と資材搬入、そして救援金勧募について。

連絡がつけられないお寺があること、将に震え上がるほどの恐怖。

 

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2024年

1月

13日

三年振りに歯医者へ 夕刻 赤富士には見えずとも

3年ぶりに歯科医へ。

コロナ禍で検診すら行けませんでしたが今回は治療です。

前回入れた詰め物が割れたためですが14時に医院に入って出たのが16時。

相良にはそこまで滞留させる医院はおそらくないでしょう。

静岡市内の医院ですが相良からやってくる人も多く(私もご門徒さんからの紹介)相良人には「手厚い」を感じさせる医院です。

「遠くからわざわざ~」ということでしょう、ちょこっとやって「また次ね」という風にはなりません。

 

この日は2カ所の施術。

施術前に歯石取りに約1時間程度。

虫歯が見つかったため欠損箇所とその削った処の型を取るまで。

かつて虫歯の充填、被せものと言えば「金属製」でした。要は銀歯というヤツですが、ロシアからの輸入が多いということと希少金属ということで厚労省から白色の充填剤が認可(保険適用)されたそう。

しかし出回って僅かなため品薄であることを知らされました。

2月頃から新しいメーカーの参入があって品薄は解消するとのこと。私は悪い話ではないと思い他の銀色部位も白色に変えていくようお願いしました。

 

扨、突飛ですがイギリスでやらかした富士通の件、話がデカくなりそうです。

私はただ興味本位で見ているだけ「そんなこと(予期せぬ出来事)もあるもんだ・・・」程度ですが、イギリスでは国会に富士通を呼んで喚問するほどに国民すべての「敵」に成り下がっている日本の会社といった風になっているよう。

 

そもそもイギリスのソフト会社(発祥は英国政府)を富士通が買収しなければそんなことにはならなかったのでしょうがその会計ソフトがイギリスで類まれな冤罪事件を惹起したというもの。

その会計ソフトは英国の郵便局用(英国の郵便局は私的施設)のものでその不具合(というかデタラメ)によって700人以上の郵便局長や経理担当が横領罪等で訴追されたというもの。

中には収監された人、罪過を晴らすべく活動している最中に亡くなってしまった人もあるとのこと。

 

長い間、疑われ生活まで奪われた人々の横領罪について被疑者たちは、ソフトの不具合を主張したそうですが、やはりその会社のバックに政府があったということからか黙殺されつづけていたよう。

 

最近いよいよそのソフトに問題があるということが判明しつつあってイギリス政府としては責任問題を忌避したいのはやまやま。ここで親会社の富士通を引っ張り出そうという流れでしょう。どちらに責任があるかなど私にはわかりませんが、富士通の責任は普通に「ある」と思いますね。

親会社としての責任というものですが、イギリス政府とはズブズブの関係のようで、とはいえ全責任を会社に覆い被すことはムリのよう。

6-4程度(形として富士通が悪い)の負担(損害賠償)割合で落ち着かせるのかと勝手に推測。政府のプライドと富士通も保護したいの思惑ですね。まぁ裁判になったら・・・知りません。

 

それにしても長期にわたってそれほど横領罪が出現することに何らの疑いを持たず、かつ被疑者の反論を意に介すことなく逮捕しまくるその警察と司法ってどうよ・・・って感じ。

結構にお粗末なものですね。

 

富士通は国内でも色々不始末をやらかしていますから何とも言えません。問題は不具合について「知っていた」かどうかでしょうね。

また冤罪は案外少なくなく存在するということ。結構恐ろしい。

 

画像は何となくスマホで撮った新遠渡坂(おんどさか)の日没のオレンジ。

お日様とは反対側の駿河湾越しの富士です。昼間は真っ青の海と空の富士になりますが、このオレンジ色に浄土を感じます。

 

 

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2024年

1月

12日

設楽原歴史資料館を歩けば思い出交錯

能登半島の超絶荒廃の図と多数の孤立村落とその人々の数が報じられています。

思うにその地に伝わる「地震の歴史」というものについてその有無、そしてどういった伝承があるのか知りたいものです。

地震には地震学者が言うようにその発生のスパン(時間の幅)があるようでよく「そろそろヤバい」の声があがったりします。

100年200年あるいは500年1000年の如く大地震発生の予知に使用されるそのスパンですが大抵は直近の大地震から〇〇年というカタチでその「ヤバい」が伝わってきます。

 

そして活断層の調査についてこの地区については専門家から調査未達とのことを仰っていましたが要はその辺りについてロクな調査もされていなかったということではないでしょうか。

当然に調査にしろ研究にしろ優先順位というものがありますから裏を返せば後回しということ。

「人少なし」=「緊急性軽微」という考え方(表立ってそれは口にできません)で当然に首都圏や人口密集地、国内物流動脈の走る東海道へのウェイトが高くなるでしょう。

 

よって被災多大な能登半島北部の現状、半ば見殺し的放ったらかしに見えるが如くの様を見て今後の国そして経済界のスタンスをまた思います。

「あまり深入りできない」でしょうか。

何よりそこに住まう人々が太平洋プレートの端にあって周辺活断層が次に動くことを考えると、そこに居る希望が喪失しかねないということですが、若い世代となれば尚更の事かもしれません。

 

散々に地震にヤラれて(これは私どもの住まう東海地区も同じことですが)やり直そうという気が起こるのか・・・と。

人々のヤル気が失せた所に「再建」を旗印に大風呂敷を広げたとしても果たして・・・という疑問ですね。

よって「少々の支援はするが前がかりの投資はできない」という感じ。

それが国のスローな対応に出ているのかも・・・などと見てしまいました。

 

訓練ではヘリコプターからの降下や大型機材等を吊るしての搬送を見せつけられていますが、何故か「大変です」の様で彼らが山道を物資を背負いながら歩く姿が映し出されています。

被災の為の救援実利より彼らの鍛錬(訓練)の延長を思ってしまいます。

米軍に頼めば彼らは効果的に物事を進めますから痒いところに手が届くはず。その依頼すらしていないように見えます。

グズモタの施策、見ていて不愉快にされますし東日本、熊本の学習ができていないよう感じてなりません。

 

パー券だキックバックだ政治屋が私腹を肥やすまま怠慢になったリスク管理、タイホするだけでなく能登半島にまたぞろそのバカバカしい濡れ手に粟のカネを廻していただきたいものです。

拙寺の微々に拍車を掛けたような浄財1か月分からすれば遥かに多くの命を助けられるというものです。

 

画像は設楽原歴史資料館の展示物。これまで多種の素材をアップしていますが大概の品物は撮影OKです。

①を見ると私が小学校か中学だったか図工の課題「オルゴール」の蓋を思いだします。

彫刻刀で何か好きなものを描くというもの。この旗を見るとその時の教師の完無視ノーコメントの顔が思い浮かびます。

私のドベタさ溢れる彫刻で評価に価しないということもありますが、きっと教師にとっては意味不明理解不能に感じたこと大いにあるかと。

拙ブログでもその件記したことがあったかと思いますが、その表面には武田菱の家紋と「風林火山」の4文字を彫ったのでした。

 

「あまり失礼なことを御云いでないですよ・・・」と御叱りを受けますが「そんなもの・・・」(教師)というのが最近了解できるようになりました。

「どうでもいいこと」なのですね。歴史など、人によっては・・・

相良小学校の小島蕉園の碑について記しましたが先生たち、みなさまその人のこと、ご存知ですよね。

歴史を紐解くことは未来の生き方の模索でもありますから。

 

そして②は実に面白いと感じるもの。

敵か味方くんずほぐれつの混乱接近戦の中、仲間をハッキリ確認できるようにその標として体のどちらかに付けたものといいます。

まぁそれだけ接近戦で味方同士の殺し合いが発生していたことの証左でしょうね。

乱戦の折、それが脱落したらと落ちた標を付けて本陣に進入することもあり得た筈でその辺りの件想像してしまいます。

当然にスペアも持参していたでしょうし種類も多くあって日によって変えていたなどあったのかも知れません。

 

③は極楽寺址から出土した瓦。

設楽原極楽寺といえば信長が当初こちらに入った際の陣ですが私がそこを探索した時、藪に隠れた深い排水溝に危うく落ちそうになったことを思いだします。

 

設楽原には色々な思い出が交錯します。

 

 

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2024年

1月

11日

呆然錯乱 仏間の違い棚 丸尾月嶂襖戸袋戸の中

曇天ながら風もなく比較的暖かい一日でした。

先般の羽田空港の日本航空×海保機の航空機事故以来、耳にする事が多くなった「スイスチーズ」。

事故をそのチーズの穴に喩えるものです。

切られた複数のチーズをランダムに並べて、チーズに棒(リスク)を通すことはまずできません。それをリスクをシャットアウトできたと考えます。

そのたくさんの穴を塞ぐことができる安全対策が施されて物事は運営されるわけですが、たまたま何かのタイミングで「穴」が重なれば刺した棒が通り抜けて重大事案の発生となるというもの。

これは幾重にも安全対策を重ねて徹底的に「穴」を塞ごうという考え方です。

 

その「穴」には色々な種類があり、また人間なるが故のヒューマンエラーが付いて回るものです。

先般の事故の原因とも言われるものは「錯覚」「思い込み」等でした。

「予期せぬ出来事」は普通にまたぞろ遭遇、今生かされている私たちがあるのですが、要はそれらたくさん、溢れるほどある自らの「お頭のリスク」を自認し変てこな自信を捨てることがポイントでしょうね。

人の「自信」などいい加減。「人事を尽くして」の「人事」「想定外」の「想定」など結局「人」のやることであってまた個々の違いがあるのでした。

あるべき姿は「絶対に私はやらかす」を念頭にちょっとした臆病ともいえる慎重躊躇でしょうか。

しかしそれでも毎度毎度やらかしますからね。

それこそが「人間であると」私は開き直っていますが。

またそれを開きなおってはイケない仕事もあるわけで。

 

扨、画像は拙寺の予期せぬ出来事。とはいえ、緊急性はないとみてこれまで放置していた庫裏内。

発見したのは昨年10月頃でしたが、やらねばならぬ事が目白押しでこれまで知らんぷりを決め込んでいました。

 

こちらは庫裏仏間の袋戸の様。上部の壁面が崩れて袋戸天井を突き抜けて堆積しています。

この4枚の小さな引戸は丸尾月嶂のものでそれを開けた際大いに慌てさせられました。

 

30年近く前に庫裏北側を先代がどちらかの工務店の言うがままにサイディングを行った箇所ですが、その当初私は「それは表面上の化粧壁であって内部のババ隠しに他ならず」と父に忠告していたものです。

やはり外側からその状況の一端も事前に気づくことがなく内部崩壊をしていたということですが気づいたときはあまりの酷さ。詳細の確認には外のサイディングを剥がしてみなくてはわかりません。大工事になってしまいます。

 

とにかく「とりあえず」の作業のみですが、その袋戸の崩落土壁の撤去と袋戸スグ上の天井のみの板を貼り付けようとチャレンジ。

壁が崩れていても外壁のサイディングがありますから雨の吹き込みはあったとしても微小であると勝手に判定。

 

ということで昨日は奥方と二人がかりでバケツ7~8杯ほどの壁土を掻きだしました。奥方は以前土蔵の中の掃除で発症した肺疾患について思いだしたようで「また通院させるのか・・・」とやれやれ感満載。

 

暖かい日で半袖になって埃だらけになって苦闘しました。

結局この日での完成はムリでした。

夕刻には熱い風呂にざぶんと入っておしまい。

丸尾月嶂の戸の代りのものを用意して退避させておくことも考えなくてはなりません。

 

そして庫裏の耐震? 家が崩れたら・・・あの土壁を浴びまくる程度ならOKのレベル、そして梁・柱に瓦が落ちてきたら・・・

まぁ「その時」なのでしょうね。

古い家のリスク・・・わかっていてもなかなか・・・。

たった一つの「穴」なのに。

 

 

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