2020年

7月

14日

増田長盛の仕事 五条大橋についで三条大橋

「検査を増やしたから陽性が多く出る」の主張は「検査しなければ~少ない」の表裏であって、もはやこのレベルで「5日ぶりに200を切った」のニュースに「ホっと」などしていられません。

たまたま検査数が少なかった・・・と理解するところです(昨日は約1/6の500件程度だったと)。

 

「戦略的に検査数を増やす」などと勇ましい語句を付けてその「Go To」前倒しの正当性を貫く政府ですが、まだまだその検査数は少なく、本心のヤル気の無さを露呈させています。

 

海外の先進国の非ロックダウンの都市では希望者に「無料で何回でも」という検査のシステムが出来上がっているのにも関わらずこの国はいつまでたっても「夜の街」の語でもって全体に検査を波及しえないという現状、まったく呆れ果てるばかりです。毎日言葉遊び。

感染者を徹底的に洗い出し、陰性判定が出た人たちで社会を動かしていけばいいのですがね。

なぜにそれができないのか不思議で不思議でなりませんよ。

 

「消毒とソーシャルディスタンスを徹底していただく」とも仰いますが、とは言ってもWHOの言い出した「空気感染」があれば閉鎖空間は勿論、人との接触を極力控えなくてはならないということですからね。他人様や施設の対策の「完璧」などハナから疑ってかかります。

集団免疫を獲得したいという趣旨もあるかも知れませんが「新コロ」に免疫ができるのか、抗体が維持できるのかもわかっていません。スウェーデンはその方向性で対応していましたが「何も得るものはなかった」と振り返っていました。

あとになってお馴染みの「想定外」などという語を聞きたくありませんね。

 

そもそも「専門家の意見を聞いて・・・」と言いながら責任転嫁の意向も見えますが、今巷の専門家の皆さんに現場は「Go To~」には誰しも疑問を感じているようですよ。

 

さて、秀吉のキリシタン対策の当初の一手が伴天連追放令(1587)でした。

その内容を覗いてみればのちの秀吉の蛮行に至るその理由にはまだほど遠く「追放」という激しい文字が躍ってはいるものの時間の経過とともに暗黙の了解の如くの有耶無耶になった感が漂う甘いものでした。

その秀吉がその対策に厳密な取締りをもってあたるようになったそのきっかけはサン=フェリペ号の土佐への難破漂着でした(1596年)。

この件の現地調査担当が増田長盛でしたね。

彼については私は近江出身の当家ご先祖に同行した当地須々木在住の増田一統からしてその関連性を鑑み近江長浜は益田荘出自を推したのでしたが、この彼が秀吉がブチ切れるほどの「報告書」を記したのは案外と仏教の信仰と対立しうる新興教義を阻止すべきとの意向があったかとも考えられます。

 

その後世に言われる「二十六聖人殉教」というむごたらしき処断へと発展したわけですがそのきっかけといわれるサン=フェリペ号の水先案内人の証言(近世日本国民史  徳富蘇峰より)というものが面白いのです。

それが

「スペイン国王(フェリペⅡ世)は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」でした。

まさに先日のNHK「戦国」の先方史料をもって構成された放映内容と同様のことを言っています。

 

増田長盛は秀吉政権五奉行のナンバー3でそこまでの出世といい

 

その戦働きは秀吉のお眼鏡にかなうものがありましたが、彼の仕

 

事に関して今もこの目で確認できる場所があります。

 

彼の仕事は今でいう国土交通省のようなもので「検地」の遂行

 

と街道整備。特に京都の玄関口鴨川への橋梁整備がありまし

 

た。

 

こちら三条大橋の欄干擬宝珠に彼の名を見ることができます。

 

一旦京都に足を踏み入れるとこちらの橋周辺の事はつい見過ご

 

しがちになりますがその「証拠」はさりげなく人々の往来の脇

 

にあって渡河する者を見送っています。

 

画像はあの時息子と橋のたもとの瑞泉寺の秀次の墓にお参り

 

たときのもの。また晴れた日にでも・・・と思っていましたがあち

 

らは人も車も多くて・・・

 

五条大橋の橋脚石柱はこちら

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2020年

7月

13日

元の屋号は近江屋 京都「近又」 ランチなら・・・ 

「Go To<トラブル>キャンペーン」への非難Go Go!!の世間様の

 

有り様はごく当然のことでしょうね。

 

疑問だらけの中から突飛に出た大疑問(前倒しの強行)ですから。

 

1.5兆円以上のおカネを投入して主に国内観光・旅行・運輸業を救

 

しようというもののようですが、その世間様の疑問に対しても

 

「注意をしながら進める」と、その変更はナイよう。

 

現状の東京を見て私ども地方の庶民感覚としては「絶対ヤバ

 

い」というところなのですが、その辺りの危惧に関しては無視。

 

だいたい「注意してGo To~」っていったい何?。

 

おいおい !、その業界を潤わす理由というか、ウラでカネがらみの

 

何かが動いていることを詮索したくなりますよ。

 

特に観光業と政界の癒着なんてね・・・。無理くりそれを今強行す

 

る理由って何? 素人目に見ても怪しく感じるのですよ。

 

今後、文春さんあたりが突っ込んでくれるのでは・・・

 

 

さて、そのキャンペーンの恩恵は味わえない自家用車日帰りツア

 

ーは「新コロ」対策には最も適正な移動手段選択肢でしょう。

 

WHOから空気感染の可能性についてもあり得るという報が入っ

 

ているだけにノー天気に新幹線や飛行機などを利用して動こう

 

などという気にはさらさらなりませんし、宿泊先の部屋について

 

前日どなたが宿泊していたか、クリーニング消毒に関してどの程

 

度まで行われているかなどなど考えるだけで宿泊などしたいと

 

は思いませんね

 

やはり2週間程度首都圏のみ封鎖してもらうのが一番イイような

 

気がしますね。

 

一旦思い切って最悪東京のみでも期間を決めて完全に封鎖して

 

もらいたいものです。ズルズルやっていても痛みが長引くだ

 

けでしょうに。東京は「入院」が必要です。

 

痛みは堪えていただきたい。

 

 

先日は大津は石山寺行脚について記しましたが、奥方を引き

 

連れてのこととなるとお昼をどちらで食べるかという大問題が

 

発生することをちらっと記しました。

 

近江といえば近江牛ですが、そのネタは既に飽きられていますの

 

で却下でしょう。そこで京都まで足を伸ばそうということにな

 

ります。

 

以前、息子と河原町を歩いていて偶然、出会った店を思い出しま

 

した。近江好きの私はこういう看板には弱いのです。

 

あの時は定休日で入店はチャレンジしませんでしたが、そもそも

 

完全予約制のよう。

 

ランチは夏のみの設定のようですが最低で5000円でメニューは

 

殆ど鱧(はも)を素材にしたもの。

 

京都の夏といえば鱧とはいいますが私はやはり5000円ならうな

 

重食べてお釣りをもらった方が・・・関東育ち(坂東の田舎者)の味

 

に慣れた私どもには上品すぎますね。

 

またそちらは一日2組だけ宿泊ができるとのことですが、こうい

 

う宿でしたらコロナ禍の中でも信用がおけるところでしょう。

 

ただしその宿賃ときたら・・・

 

 

いずれにしろ今は動くときではないですね。

 

それが市民の感覚です。

 

お国がキャンペーンの旗を振ってそれに応える人がどれほどい

 

るのかというのもまた疑問。昨日は全国で408人の感染が判明

 

しています(この数字は沖縄米軍キャンプの数も入っているか

 

と)。

 

 

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2020年

7月

12日

盂蘭盆会メディテーション 六親眷属 明智城

昨日はこのうえない「仕合せ」を日に何度も味わって、小躍りしたくなる嬉しさを最後のそれにさらに感じました。

酷雨続く毎日、やはり「未だかつて見たこともない」大量降雨の今年の梅雨ですが一昨日の浜松での法事からそのラッキーは続いています。

 

私が出発したあとの相良は土砂降りだったといい東名高速走行中の多少の雨はありましたが天竜川の水量の多さを尻目に浜松市内に入れば雨はあがっていました。

そして先方宅で法要が終わった際、御文を拝読している最中にお日様まで出てまるで私の背後の後光の如く。

前夜から心配していたのですが、蓋を開けてみればキリスト教的に言えばまるで「祝福」されているが如くでした。

 

そして昨日は拙寺盂蘭盆会法要、全5回に分けたうちの第一回と第二回の日。やはり気が重かったのが大雨の予想でしたね。

すると朝から雨は止んで一時は陽が差すほどでした。

さすがに本堂内の湿気はお線香に異様を感じるほど(手触りと重さ)でまた木製手摺にカビが発生していたりの不快指数満点の状況でしたがとにかく雨はナシ。

障子を開け広げ大型扇風機をブン回してよどんだ空気を入れ替えるなどして対応しました。

 

コロナ禍での開催は「コントロールされた静岡県」を信じてのもの。事前の「お願い」とご門徒さまのご配慮によって隣席との距離は確保されていました。

午後の第2回目も同様で1回目散会後に降り出した雨もあがってこれも天は私に味方してくれました。

 

2回目が終わってから大いに落胆して(それ以上の試練のようなお達しの如くものも感じましたが)奥方にいてボヤきまくるほどの事態を告げました。

それは本堂内陣の余間、聖徳太子の軸の前に水溜まりを見つけたことです。

これは激しい雨に耐えかねて雨漏りが発生したと考えるのがスジ。天井部分は暗く良く確認できないため庫裏に懐中電灯を取りに戻った際、その「ガッカリ」について告げたのでした。

庫裏なら許容できても本堂では無視できません。

婦人部の皆さんの帰り際のことで「お手伝いできることがあれば・・・」と声を掛けられましたがその確認に天井小屋裏に上がることになりそうでしたので私も「ガッカリ感」もあって「それには及ばす」とつれない返事をしてしまいました。

 

そして奥方と懐中電灯を持って現場へ。

すると水溜まりの水の出所を指摘されました。

それ以前に「予兆はあった」と証言していましたが、華瓶(けびょう 真鍮製)の底に微かな穴が。

それを見て(原因が雨漏りでないことが判明し)、小躍りしたくなるような歓びを覚えたのでした。

 

他人様からみれば「ただの勘違いの大バカ」と見えるかも知れませんがバカと罵られようがそのオチほどうれしい結末はありません。

 

そういう「いきすぎた心配」なのでしょうかね。

昨日の東京206人で3日連続200オーバーの件。

それで「後藤キャンペーン」(私の知っているハチャメチャ後藤さんに準えて また「GO TOトラブルキャンペーン」なる造語もあるそうです・・・)で米軍基地でクラスターが発生している沖縄に行くなどあり得ないことだと私の沖縄志向を「行ったら死ぬ」となだめています。

そのイチかバチかの軽率短慮によってもしもこの相良に「新コロ」を運び入れたとしたらうしろ指の生涯を通すことになるでしょう。

 

今の地元の人たちの目はとにかく「東京のナンバー」。

「とんでもない」の風潮がコロナ以上に蔓延しています。

 

さて、盂蘭盆会の季節ということで、以前も記したことがある「六親眷属」(ろくしんけんぞく)の語について。

これは以前勝竜寺城周辺の墓域について記しています。

この語は他の教義でも使用されたり案外と古文には珍しくはありませんが当流においては蓮如さんの白骨の御文であまりにも有名な語です。しかし世間的にはそう使われる語とはいえませんね。

 

その語を明智城で遭遇しました。

先日も明智城本丸から搦め手へ下りる道を「十兵衛坂」と名付けられていたことを記しましたが、その道を降りる途中の郭にありました。

いろいろと地元の方々の意気込みが伝わってくる紹介看板がありますがその郭(乾曲輪)の先端が「見張台跡」とのこと。

当然行き止まりですから帰りはもとの搦め手へ辿る道に戻ります。

 

新し目で桔梗紋の施された覆堂の中にそれはありました。

 

盂蘭盆といえば「六親眷属」への感謝のお念仏。

 

まぁ、いつもと同じです。

 

真宗門徒は毎日がお盆みたいなものです。

 

 

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2020年

7月

11日

行き当たりばったりの願興寺は本堂解体工事中 

酷い雨が続きます。

「未だかつて見たこともない」の声がいろいろ、いたるところであがるこの時代への恐怖を感じますが早いところ負の連鎖は断ち切りたいですね。

ただ何事も適切な準備と対応が必要ということだけは確かです。後手後手はゴメンです。

 

毎度毎度コントロールをオーバーしているかに見える東京の感染者(昨日は224人 感染経路不明104人)についてどうこうとケチをつけている私ですが、他人事としてそれを俯瞰しある種の余裕でいられるのは当地牧之原市では未だ感染者が出ていないということもありますが、静岡県内発生している陽性者に関して、すべて「感染源、経路がまず判明している」(よって県内に「見えない感染者」がいる可能性は県外に比べて相対的に低い・・・)と県からアナウンスがあるからですね。

その感染経路不明者・・・いわゆる「市中野放し」のウィルスキャリアの数が「少ない」と推して自身安心の方向に持っていくことができます。

まぁ直近で言えば日々100人の経路不明者を輩出している東京とは安心度が明らかに違うということです。

 

昨日は7/22より国内旅行推奨キャンペーンを前倒しで強行するとのニュースがありましたが、政治はもはやハチャメチャ、怖いものナシの開き直りか・・・とも感じましたがやはり基本は博打打ちの思考ということでしょう。

負けが込んでの大逆転を狙っているのでしょうが、ある学者が仰っていましたが「新コロ」との戦いは野球で言えば2回の表、コロナの攻撃だそう。

先の長い試合となることを考えればここでの拙守拙攻は命取りになるかも。

 

昨日はまた当初、政治屋さんたちも特効薬であるかの如く吹聴されていたあの「アビガン」について「明確な有効性は確認できなかった」との臨床研究の評価がありました。

ワクチンの製造はまだ先にあってその対症薬の存在はイザと言うときの頼みの綱でしたからね。

経済の復興もオリンピックの開催もその目算とは裏腹に虚しくも真逆に動いているような気がします。

少し前はアビガンがあるから大丈夫・・・などいう声も聞きましたからね。

 

その「後藤キャンペーン」(あの文字-「GO-TO」からかつての知り合いの後藤氏を思い起こしてしまいます)についてですが、どちらかの遠くの地の知事殿が東京のそれを「諸悪の根源」と言い放ってからあとからその言について「なかったことに」と訂正していました。

私はその意見はどちらの皆さんでも多少はその辺り心の内にあることか・・・とも思いました。

その語には少々棘がありましたがね。

何も東京在住の皆さんのことではなくその施策対応の仕方についてですからそこはお間違いのないよう。

 

静岡県のHPに掲げられている図(最後の画像-不要不急の移動制限)からもその雰囲気は取れるかと思いますが、東京については唯一「特に慎重に行動」であって大手を振って訪問可なのは山梨・長野・新潟のみ。

そして本県に訪問される東京都の皆様は「特に慎重な行動」と「特に」付きでした。

「特に」は意味深です。静岡人の今の感覚はそのナンバープレートの東京方面を一瞬のうちに判別凝視、イケないこととはわかっていても本心、訝しく思うところは無理のないことだと思います。それは今、どちらにおいても同じことでしょうね。

政治屋さんのお絵かきの構図と我々の思いは違っています。

 

静岡県内の陽性者はいずれも東京・神奈川を起因としていることがわかっていますので静岡県民の腹の内はやはりどこかに「東京が・・・」の気持ちはあるでしょうしその辺りピリピリするところかと。

 

国民同士疑心暗鬼にさせてギクシャクさせる「後藤キャンペーン」はどう見てもこの時機ではないかと。

 

画像は昨日の願興寺

期待しての訪問でしたが(下調べナシ)、境内はフェンスに覆われて工事車両が駐車場を埋めていました。

本堂の解体修復工事の真っ最中とのことでした。

 

首うなだれながらも周囲回り込んで整列している石塔・宝塔にお参りしてきました。

 

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2020年

7月

10日

ここにも「一隅を照らす」願興寺 中山道御嵩宿

正論すぎる正論「検査を増やしたから陽性者(224名)が出るのは当たり前」のご主張には首を傾げました。

検査数を絞りまくりまた検査体制を拡充せずに放置していて(その件3月ころから耳にタコができるくらい指摘されていました)「夜のお仕事」ばかりを魔女狩りの如くその原因としながらまさに「野放し」状態にしていたのですからね。

「感染経路不明者」についての対応がまったく無策なのですよ。バトンタッチ無限の連鎖を容認しています。

 

偏に検査二種(PCRと抗体)を徹底的に行うシステムが必要なのにもかかわらずです。まぁ検査結果をFAXでもって報告するというその組織ではムリな話かもしれませんがね。その件大いに驚かされましたが。

 

やはりやらなかった理由としては検査と対応(隔離と保証)におカネをかけたくないということ。そしてあのお祭り(オリンピック)の開催のイメージダウンにしたくないということ、また経済活動をストップをさせたくないというのでしょう。

 

夜のお仕事業界におカネを出して(検査料と自粛保証・・・)検査をしてもらうという声があがりましたが、あいかわらずその世界限定の検査の件でした。

疑問ばかりが残る施策ですが医療関係者への補償はどうなっているのでしょうかね。

ニュースでは

「東京女子医大で看護師400人が退職希望『ボーナスゼロ給料減額では最前線で働けない』悲痛告白」なる見出しが躍っていました。

コロナを受け入れた医療機関の9割が赤字といいますが今、街の病院などどちらもガラガラですよ。

感染が怖くて通院に診療を我慢する人が増えているようです。中小病院の大赤字の件も先日記しましたが思わぬ方から「医療の崩壊」が来るのかも知れません。

具合が悪くても「誰も診てくれない」ということです。

そしてお医者さんだって「コロナは御免!!」でしょう。

 

最近言われ出した抗体の件。

東大の先生が仰っていましたが奇妙なことに「陽性だが抗体がない人がいる」と。

以前から無症状陽性者の存在について騒がれていますがこれは特別。

体内に残る抗体の有無についてこれまで着眼していましたね。かつてのウィルスとのお付き合いの経験にて発生する抗体の存在がその無発症の理由となっていたのですが実は陽性無症状でなおかつ「抗体が無い」と言う人がいるというのです。

 

これは東洋人特有で東洋人に陽性患者が少ないという一因かとも推測されていますが、どういうことかといえばその人の持つDNAレベルでの「記憶」としてこのコロナウィルスを「かねてから知っていた」ということとなるかと。

はるか彼方大昔のご先祖さんの時代からのお付き合いがあってもはや異物と解していないということなのかもしれません。

 

これは陽性無症状無発症のピンピンした健常のキャリアが世の中意気軒高に、あっちこっち動き回れば、「新コロ」との出会いが初めての人にとっては相当なリスクとなりどんどん感染していくということになりましょう。

 

抗体自体も消滅しやすいという説もありますがバンバン検査数を増やして(一人で複数回検査、定期的検査は当然)いくことこそが国民の命を守ることに繋がると思うのです。

今の東京と政府の方向性は「最悪の事」に関しては目を閉じあたかも博打うちの如く「GO TO」しようとしているように思えてなりません。

雨天続きで家籠りの日々ですが、これから梅雨が空けて気晴らしにと人混みに身を投じることがあればそれこそ自殺行為であると私は考えています。

スポーツイベントに「観客を入れる」とのことですが、「おっちょこちょい」だけでは済まなくなるかもしれません。

それが杞憂にすぎなかったと振り返ることができればまさに仕合せです。

 

さて先日は可児の明智城大手道入り口手前の東栄寺について記しました。

「一隅を照らす」の文言が光っていましたが御嵩の願興寺にも掲げられています。勿論「天台のお寺」の主張ですね。

場所はこちらですが昨日の駅前の画像の右側に見える築地塀がそうです。

 

可児才蔵が幼き頃こちらで仏飯を食んだというお寺です。

先日も可児の大河館の画像をアップしましたが、こちらは「笹の才造」への愛着が深い土地柄でした。

 

「一隅」は片隅(国の)のこと。財物(経済)ばかりスポットを当ててるばかりではね。

国民の命が危ういというのに・・・

 

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2020年

7月

09日

ちょっと寄り道 中山道御嵩宿 電柱と電線

日本全国そこいら中泥まみれ、うんざりするほどの降雨と被災情報が各地から報道によって寄せられる中、昨日の私はお弔いに列していました。

 

葬場ご担当が仰るには「5、6月は冬季並み(80~90件/月)で驚いているが当月も同様・・・」とのこと。

葬場の稼働は「友引」を除きますのでだいたい25日/月。

ということで1日当たり約3.5人。不思議です。

夏期など0~1人などいう日もあってのんびりしているところを見ていましたがちょっとした異変を感じているようです。

 

交代要員がいない中(現状2名)で回していますがたまたま昨日は一名の日。

どうしても各「時間」を要してしまい、遅延も発生。

担当者は恐縮していましたがこればかりは致し方なし。

 

私が今特に心配なのはたった二人しかいない担当者が体を壊すなどして運営に支障が出てしまうこと。

先般も募集に応じてお二人が就業希望の方が研修に来られていましたが数日で音信不通になったといいます。私もその研修初日にお会いしていましたが・・・

やはり一般の方がお気楽気分であの仕事をすることはなかなか難しいのかも知れません。

ちょっとした昔は(今も各地で聞きますが)坊さんがその手伝いを引き受けたものですが・・・

 

さて、昨日は「フロイス日本史」のネゴロシュ(根来衆)の僧兵の記述について記しましたがそちらには彼らが各勢力によって金で雇われ(有利な条件で)戦いに参加するいわゆる「傭兵」集団にもなったことをも記してありました。

 

私がその傭兵の文字からするイメージは「外人部隊」。

ハリウッド映画の中でもかつて頻繁に描かれていました。

その外人部隊の件、最近やはりオランダの史料で見た「日本人傭兵」を考えるに、秀吉によって弱体化された寺院僧兵たちが次の「戦-いくさ」を求めてオランダ船に載ったのでしょうね。

フォーサイスの「戦争の犬たち」も思い起こしたところですが「坊さん風情で殺しのプロ」というのも凄いシチュエーションです。

 

話は飛びますが、昨日「エアアジア」というマレーシアの航空会社が経営危険水域に至ったというニュースがありました。

マレーシア(マラッカ)と日本の交易は古いものがあってあの種子島に渡った鉄砲も宣教師フランシスコ・ザビエルの出立地もそちらからでした。

元はポルトガル領でしたが1641年にオランダが(マラッカを)奪取しています。するとそこにも日本人傭兵が数多蠢いていたことも推測されます。

これは映画化できそうな面白い歴史の切り口だと思った次第です。

 

かの航空会社の疲弊は当然にコロナ禍の影響ですが、マレーシアからの日本における観光客は私が思うに(他国と比べることはイケませんが)どちらかといえば優良であってお迎えするに良き人々でしたが、これでますますその「仕合せ」のご縁は遠くなってしまったような・・・。

勿論今度の日本国内を襲った大災害は各国に配信されていますのでその受け入れ機会を待つ国内業界はかなりキツイことになりましょう。そして夜間「JTBが冬の賞与見送り」を決めたというニュースがありました。

 

さて、可児から土岐に抜けるにあたっては途中中山道「御嵩(みたけ)宿」にさらっと寄り道しました(場所はこちら)。

今の木曽川、飛騨川の増水と崖崩れのリスク迫る地域なのかも知れませんがそんな気配を感じない普通の街区。

中山道というと「木曽路はすべて山の中」(「夜明け前」)という木曽川の急流と高い山が迫る街道をイメージしますが、この旧宿場町はまったくそのように感じないのんびりとした住宅地が広がっていました。

ここ御嵩は昔掘りまくった炭鉱(亜炭)坑道が陥没することで有名な場所ですね。

毎度思うことですが、日本はどちらも電柱と電線だらけ。

「観光」を掲げるなら(かなり今の状況から意気消沈のことでしょうが)あの見苦しく忌まわしい景色を欧米並みに何とかして欲しいですね。

 

あの時はお腹を空かす奥方が控えていましたので早々に土岐方面に戻りましたが・・・。

この長雨で心配だらけの各地ですが私は岐阜、先日も記した根尾からの157号線が崩落していないか毎日チェックを入れています。

 

 

 

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2020年

7月

08日

当流門主交代 フロイスの「ナザレ人」に僧兵を思う 

牧之原市から災害支援の情報収集に4名ほど人吉に向ったというニュースがありました。

先が読めない世の中ですが、何とか強い思いで復旧に力を注いでいただきたいものです。

 

全国ニュースではJリーグとプロ野球の試合に「観客を入れる」(10日より)とのアナウンスがありました。

それを嘲笑うかの如くの警告見解がWHOに寄せられたといいます。

世界の科学者239人が今の対コロナウィルスの方策、手洗いとマスクとソーシャルディスタンス2mの在り方への警告です。

要はコロナは「空気感染する可能性がある」というもので「ウイルスが空気中で数十メートル移動できること合理的疑いの余地なし」と。

 

これまで春先のクルーズ船の件以来その空気感染について「絶対ない」と言い張っていた「専門家」の皆さんたちの「ご評価」是非にお聞きしたいものです。

 

それによると「3000個の飛沫粒子」のうち比較的大きい(直径5〜10マイクロメートル以上)ものは1〜2m飛ぶというのがその人と人との間隔「2m」の根拠でしょうが時速80㎞で放出されたより小さな飛沫は空気中を浮遊し長時間漂うということ。そしてコロナウィルスは最長で物体の上で不活化に「9日間」のインターバルを要したといいます。強烈なパワーに脱帽です。

人間が9日間飲まず食わずでいたらまずは死するでしょう。

 

警戒は怠れませんね。店頭に並ぶ品物も自宅に持ち帰ったら「まず消毒」の心構えが必要です。

そして昨日の夕刊の記事。「アベノマスクは効果なし」の件。

「漏れ率100%」とのこと。やっぱりね・・・まぁ大きい飛沫拡散防止には役に立つのでは・・・。

 

東京は以前も数値を提示しない「モニタリング」とやらの魔術(フロイス風に)についてその「やれやれ」感について記しました通りですが、「専門家に分析してもらい、都が評価して判断」という文言がありました。

その件について世界の指導的専門研究機関12大学から嘲笑が起こっているようです。その世界的権威「グローバルAI倫理コンソーシアム」にて「意味がない」と酷評されていました。

あるニュースではその日本の専門家会議についてまるで「部族長老会議」と大バカ呼ばわりされてもいました。

 

「専門家」とやらのエライ方たちも当初より新コロのことを風邪みたいなもの、若者は大丈夫、空気感染はナイの如くで今考えるとまったくもって素人と同じようなものでした。

もう会議でも何でもご勝手に・・・といったところですね。

 

さて昨日は彼ら伴天連が感じた本願寺について触れましたが勿論宣教師たちが忌み嫌う(排除したい)仏教宗旨は本願寺以外ほかにもあったわけでその辺り「フロイス日本史」から抜粋してみます。

 

紀伊の国の記述第五章(中公書)P154~高野山と粉河寺の記述。

 

「堺の付近を和泉の国と称するがその彼方には国を挙げて悪魔に対する崇拝と信心に専念している紀伊の国があり一種の宗教が四つ五つありおのおのが共和国的存在である・・・」

「これらの宗団の一つを高野と言い3000~4000の僧侶を擁している~真言宗と称し大勢の参拝、巡礼者が訪れるがいかなる女性もそちらに登ることが許されない。

周知のように、同所の仏僧たちは忌むべき輩であり、その生活は淫猥を極めたものとなっている

「同国にある二番目の宗団は粉河と呼ばれる。それは前者と比して人員も規模もはるかに劣るので特筆する値はなく割愛する」

 

2つ目の粉河寺は現和歌山県紀の川にある寺ですがかつては根来寺や高野山金剛峯寺と肩を並べる大寺院でした。

天正十三1585年の秀吉の紀州征伐によって完膚なきまでに焼き払われていますのでフロイスにとっては取るに足らない勢力(布教の障害にならない)となって「特筆に値しない」という表現となったのでしょう。

 

まだ秀吉が伴天連追放令(1587)を出す前のことで、これら宣教師の「今の最大スポンサー・・・秀吉」と同調した記述になっていますね。

 

「3番目」に挙げられたのがネゴロシュ(根来衆)です。

その内容は特に興味をひくところで着衣装束について触れているところに目が留まりました。

 

「彼らは絹の着物を着用して世俗の兵士のように振る舞い、富裕であり立派な金飾りの両刀を差して歩行した~さらに彼らはナザレ人のように頭髪を長く背中の半ばまで絡めて垂れ下げ~一瞥しただけでその不遜な面構えといい、得体の知れぬ人柄といい、彼らが仕えている主-すなわち悪魔がいかなる者であるか-を示していた。

彼らの寺院や屋敷はきわめて清潔で絢爛豪華ではあるが一方では生活において忌むべき人間として堕落しているのである。」

 

フロイスの仏教勢力に対する罵詈雑言オンパレードは面白いですがこの「ナザレ人(びと)」の如くの記述について根来衆の僧兵(山法師)の姿がピンときました。

ナザレ人とはキリスト教聖地でありながらイスラム圏パレスチナのキリスト教徒への蔑称だと思います。フロイスはナザレ(アラブ)地区に多く生活しているベドウィンの装束がイメージされたのではないでしょうか。

彼らが頭に被るターバン状のものですが、キリスト教徒もその装束であったことが考えられます。

その装束が、僧兵の裹頭(かとう)-袈裟で頭を包むスタイル 

かしらづつみ-です。フロイスの言う「頭髪」ではないとは思いますが・・・。

そのベドウィンにも「部族長老会議」というものがありましたね。日本とは不思議な国に見えるのでしょう。今も昔も。

 

「長老会議」には私も首を傾げたくなりました。

 

 

画像は真宗本廟(東本願寺)御影堂。この7月に二十五代門主大谷

 

顕さんから二十六代大谷暢裕さんに代わりました。

 

スペインやポルトガルの宣教師とは逆です。当流がブラジルへ

 

の布教活動に赴いていますがこの方は1歳からブラジルで育った

 

人で通常はポルトガル語の使用だそうです。

 

物理学の博士という一面も持っていますね。

 

ちなみに拙寺先代、父の弟2人もブラジル布教使でした。筆舌に

 

尽くしがたいほどの日本文化とのギャップについて話していま

 

した。

 

 

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2020年

7月

07日

宣教師はジュストの調略 大河で盛り上がった明智城 

スペイン宣教師によるキリスト教流布(「心」の奪取)による世界制覇の野望は秀吉の気づきと家康の賢明によって排除されたという事実は私ども真宗門徒はじめ仏教徒全体にとっても日本の将来においても僥倖だったわけです。

 

あの番組(布教による富の搾取)を視聴するまでは戦国末期の宣教師の布教活動とは私ども仏教の宗旨は各違えども坊さんが辻説法をするが如くの延長の如く感じていました。

 

私がルイス・フロイス「日本史」の記述中、真宗はじめ各仏教の僧侶たちを罵倒するようなところを見たとしてもかつてあった日蓮等の過激な発言の延長程度とも受け取れましたし仏教と日本文化に対する造詣の<浅さ>からくる短慮そして、自前の宗旨の優越性を主張することは致し方ないことであるとも考えていました。

その宣教師たちの使命と目的が判別できた今、これまであった秀吉から江戸期のキリスト教排除の政策について、「汚点である」と思いがちだった私の考えは少々改めたくなったことを前回ブログにて記しました。まんざら「致し方なしなのか・・・」ですね。

 

これは語弊があるかと思いますが、今言う信教の自由的な民間レベルでの信仰を強制改宗するために残虐な仕打ちを行ったことを承認するものではありません。

ただしもはやそのリスクを先回りして摘み取らなくては国が滅亡するかも知れないという危惧をも感じていたのでしょう。

そういった宣教師たちの意図を察知して、鎖国体制やむなしというところまでに至ったということです。

 

それにしてもフロイスとイエズス会絶賛のジュスト右近(高山)はじめ戦国大名たちがキリスト教に改宗していったのはやはり日本人がそもそも持っている「新しもの好き」の心からなのでしょうか・・・

その心があるからこそ昨日記しましたように鉄砲や大砲の製造技術と技量をスグさま「我が身」に取り込みステップアップさせてしまうところと同様です。新しいものに興味を惹かれることから次の新しいものが始まるのですね。

 

尚、高山右近は高槻領内の神社仏閣を破壊して僧侶たちを迫害していますね。勿論そのバックには宣教師が居たわけで・・・。

また、「ジュスト右近絶賛」の記述はフロイス「日本史」の各所に散りばめられていますが面白いのは右近の小牧・長久手戦の「縦横無尽の活躍」について。

その戦い(対家康戦)への彼の参戦については事実ですが本邦史料にはそのような「目を見張るような活躍」について一切史料に記されていないということ。

そういったことからこの「日本史」の記述も日本の文化を熟知していない者の「誤認と錯覚」に恣意的脚色も差っ引いて考えなくてはイケませんね。

真実を知らない本国への報告と自らの仕事の正当性を記すものですから。

しかし本当の彼らの目的が判明した今、それを読み進めるのは確かに面白いこものです。よって書棚の飾りだった彼の記述「フロイス日本史」について手に取るようになりました。

 

このキリシタン宣教師の活動こそ「世界史の最前線」の事象だったいうところ大いに合点させられるわけですが少々考えただけでも「彼らの影響がなかったら・・・」の「たられば」はピックアップできますし、各戦国の事象のウラを彼らの影を考えながら思考すると結構にわかりやすくなるのではないでしょうか。

 

信長が本能寺で討ち取られたあと光秀はその高山右近の合力を期待、てっきり秀吉の中国返しを迎え撃ってくれるものだと思っていたようですが、実際は山﨑合戦では秀吉方の先鋒として光秀の敵となりました。

この件こそ宣教師による調略があったといいます。

 

彼らキリスト教宣教師が光秀ではなく秀吉を選択したということは時間のない中ある意味凄いことだと思いますがその理由としては光秀が宣教師優遇と仏教勢力を排除(この仏教勢力排除の方向性も宣教師の指図があったことも考えられます)して教会整備等布教環境を整えてくれた信長様の仇であったということはひとまず推測できますが、やはり信長家臣時代の秀吉と光秀をよく観察し「コイツ(秀吉)なら術中にできる」という判断があったのでしょう。光秀は「古いもの」を大切にする性格だったでしょうし。

 

ますます、光秀の「本能寺」は仏教保護温存のためだった・・・などと主張したくなりました。

高山右近が中川清秀とともに秀吉を迎え撃っていたら状況は変わっていたかも知れません。高山右近が秀吉に付いたことから形勢は一気に秀吉に傾いたような気がします。

「ジュスト右近」の人望は結構にあったようですから。

 

そして今一つ、関ケ原直前の石田三成の凡ミスでしたが、光秀の娘玉子(細川ガラシャ)が人質になることを拒んで自害したこと。

「本能寺」以降の彼女の不遇あってのキリスト教入信でしたが、

その死は東軍の奮起にも繋がったはず。

彼女が「ガラシャ」でなかったらそのような死に方は無く、「関ケ原」は石田方に動いたかも・・・など、チラリとだけですが思うのでした。宣教師とキリスト教布教が微妙に日本史のターニングポイントに見え隠れしています。

 

ここで「フロイス日本史」第二章(p124中央公論)にある私ども本願寺方(浄土真宗)についての記述を記します。

これは石山本願寺退去後の地に秀吉が大坂城を建てたことについて記しています。 

 

「かつて大坂の街が日本中で極悪の宗派の一つ一向宗の本山であったように、今や主(デウス)はこの街をキリスト福音の伝播のためそれにまったくふさわしい地として改造・・・」

 

秀吉ではなく「デウスの差配で本願寺を一掃できたのだ・・・」と見える・・・そんな感想です。宣教師たちにとっては「しめしめ」といった状況だったでしょうね。

その後その「デウス」の差配なのでしょう「伴天連追放令」天正十五1587(伴天連=バードレ=神父)となるのですが・・・。

 

さて、昨晩は木曽川が氾濫危険水位を超えたとニュースで流れましたが周辺流域の人々は気が気ではないでしょうね。

これ以上の災禍が起こらないことを・・・

 

画像は再び長山明智城。木曽川からはそう遠くない地です。

いずれも本丸近くの図。

大河ドラマ放映決定後に色々と整備が進んだようです。

「馬防柵」の紹介は「おお!」と疑問半分、驚かされました。

そもそもこの東から西に延びる丘陵、長山を全体を縄張りとしていたと思われますが主郭直下の南側部分は開削されて住宅地が迫っています。

今は切岸状になっていてその馬防柵がきれいに拵えてありました。家々の二階屋根が見えています。

 

そしてまた地図にもあった「十兵衛坂」(⑨がその入り口)の後付け整備も地元の「やる気満々」が伝わってきました。

 

 

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2020年

7月

06日

琵琶湖対岸坂本まで馬で超えた?明智秀満 大津城

オランダとスペインの覇権争い(昨晩のNHK「戦国」)楽しく視聴しました。「戦国時代の日本は世界史の最前線だった・・・」。

先週の「スペイン宣教師の暗躍と為政者(信長・秀吉)との駆け引き」に続く2回目でした。

スペインを追い落とさんとばかりに新興勢力として名のりをあげたオランダの史料を紐解かれた逆日本史。ある意味世界史の先端にあった・・・というのは少しばかり嬉しさをも覚えました。

 

「関ケ原」の半年前にウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンの日本への漂着からオランダと家康の付き合いが始まります。

まずその最新式鉄砲の提供が名刺代わりとなり、大坂の秀頼を掲げる石田三成方と対峙、その後のオランダと大坂城を支援するスペインの代理戦争の面もあったということですね。

 

時系列として禁教令が1612年ですから大坂の陣の1614年の直前。これは家康がスペインと手を切ったという表明でもありましょうが、その結果スペインは秀頼一本に傾注したということがわかります。

要は大坂方が勝利して家康を排除していたら日本はカトリックの国になっていたかも知れないということですね。スペイン方史料からその意図は見え見えでした。

 

スペインとオランダの主たる目標(スペインはキリスト教布教による世界制覇―オランダはただスペインに勝利するための財力・・・貿易)はつまるところ双方「カネ」ではありますがその方向性が違っていたワケで今、私が思うところでは明らかにオランダの方が健全でしたね。現在の相互の利(貿易)と言う点で。

そのウラにはスペインを駆逐したいという意図があったのでしょうが「商売」が基本ということは明快でした

ここでも家康が勝利したことに安堵させられたわけで・・・

 

そしてその彼らの目標となる日本の財物といえば銀。

当時日本の銀は純度もスペインの持つ銀山産出のものより高くまた家康が差配する銀鉱山の産出量は世界の1/3の量に達していたと言います。

それを戦わずに時間をかけながら日本人の心を制御して(宣教師と教会による)すべてを手に入れようという意図がスペインにあったのです。家康はオランダの注進もあってスペインの計略を察知し排除したのでした(禁教令)。

そういえば大坂方にはキリシタン系が多かったような。

改宗したキリシタンも宣教師たちの扇動によって大坂城に籠ったのでしょう。

 

それにしてもオランダ商船の積み荷リストに日本人名が多数あったという史料は初見でした。

大坂の戦による豊臣家滅亡により戦国時代は終了。

行き場の無くなった日本人サムライ傭兵(戦闘の技術者)が集められスペイン領モルッカ諸島に向かったといいます。莫大な利益を産む香辛料の集積地でした。

この戦いでオランダの勝利となってその地の奪取に成功するわけですが

「日本人傭兵はオランダ人より勇敢 スペインを駆逐するには日本人傭兵の力が必要だ」などというオランダ方の記録にはまさに驚きでした。

 

積み荷リストには刀、槍のほか鉄砲もありましたが、これはおそらく逆輸出でしょうね。何より日本国内の鉄砲生産能力と技術力が既に世界から承認を得ていたということでしょう。

アムステルダムにあった最新式大砲に使用されている良質な銅材と言われる分析結果が「日本産で間違いない」のお墨付きからして、日本人の技術力対応力ほか特筆的潜在能力というものを感じましたね。

当時の世界を手中にしていたスペインとそれに代わろうとするオランダが日本との関わりを強く持ちたいと鍔迫り合いをしたということがわかりました。これが世界史の「先端」に躍り出た由縁です。

 

無敵艦隊と呼ばれたスペインほか列強が簡単に武力によって日本を制圧(植民地化)できなかった理由はそこにあったのかも知れませんね。

ただの偶然で生き残れたというのではなかったようです。

コロナ禍は今後どうなるかなど知る由もありませんが、第一波の襲来を他国と比してそこそこ立ち回っているのはやはりただの偶然ではないのかも知れません。

 

さて、激しい新規感染者の上昇ムードに「東京は東京、どうぞご勝手に・・・」という諦めムード漂う昨今、私にはたくさんの行きたい場所がありますが、このほど石山寺がその候補に名乗りをあげています(ノー天気なブログで失礼します。大きな災害に遭った熊本の皆さんにお見舞い申しあげます。また南無阿弥陀仏。)

 

これは本能寺直後の明智秀満(左馬助)が船で瀬田川を渡ろうとして瀬田城主の山岡景隆と戦になったと記された山岡家による文書が石山寺で発見されたというニュースを見たからです

コロナ禍のせいで暇になったお寺の担当が倉庫から掘り出して発見したとのこと。新資料の発見はわくわくしますね。

 

左馬助は今年の大河ドラマにも登場するほどの光秀の近くにいた人物でいわゆる重臣中の重臣。本能寺では明智軍先鋒として信長を討ち取ったといわれる武将ですね。

しかしやはり彼の出自も詳細不明で昨日記した長山明智城の七ツ塚に名前のあった「三宅氏」との縁故も挙げられている人でした。

 

彼は本能寺の「ひと仕事」のあと即座に安土に入ったというのが定説ですがその石山寺の記録からすると秀満の瀬田橋渡河作戦は「おそらく失敗」を想像させるもの。

ただしこれは「勇猛果敢の大成功の山岡家」自画自賛のような書き物ですのでその辺りはちょっと・・・とは思います。

 

実はまた別の書き物(信ぴょう性はもっと無さそうな)に「秀満の湖水渡り」というスペクタクル演出というかあり得なそうな伝承がありました。

彼が光秀敗死の報を聞いて安土から坂本に戻るというシチュエーションでしょうが堀秀政に進路を阻まれてやむなく馬で湖を渡ったというお話です。

 

となると秀満が馬と一緒に湖に入ったと言われる言い伝えがある(いつからその場所が断定されているのか知りません)膳所城と大津城の間あたりの浜というのは(そもそもあり得ない話とは思いますが)場所的に矛盾があるような・・・

 

画像は相当前に行った大津城(場所はこちら)。

何しろ膳所城も大津城も長居は無用の場所。

大津城は殆ど駅前の城で、遺構もへったくりもありません。

ラッシュ時など車は渋滞しますし。さすが県庁所在地。

 

文書は10月31日から公開予定といいますからどちらかの平日の晴れた日の午前中にでも見に行けたらと考えます。

近江日帰りなら楽勝です。

しかし京都にも足を伸ばそうか・・・という微妙な位置で欲張りたくもなりましょう。奥方を連れて歩くには三井寺散策くらいが丁度いいかも知れません。

 

では何を喰わせて黙らすか・・・ということになりますね。

瀬田付近では以前うなぎ屋に入りましたが、最近はどうもそれは気が進まなくなりました。夏なら一回くらいはいいかもね。

 

最後の画像が大津S.A.から見た坂本方向。右手方向が瀬田になります。

その「湖を馬で」の件、作り話かどうか、本当のことは三上山が知っている・・・ということでしょう。

 

 

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2020年

7月

05日

明智七将の墳 長山城(明智城)  七ツ塚 可児氏も

熊本相良村の名がテレビから何度も。

人吉はじめ熊本を襲った集中豪雨によって球磨川の堤防決壊が各所で発生したといいます。

当牧之原市と友好都市でもある人吉市の困窮に「さぁどうする」牧之原市・・・といったところ。

 

それにしても被災者から「こんなこと初めて・・・」との声がありましたが自然災害とはそういうものなのですね。

しかし人吉の盆地はどう考えても四方は山岳地で極めてそのトレー(盆)の水は溢れやすいところが見て取れます。

歴史上では頻繁に球磨川の氾濫があったことは推測することができますね。

避難と生活苦難がコロナ禍に重なった状況となりましたが、世の無常とはそれ以上の「禍」をも含めなくてはらないのでしょうか。

 

牧之原市として人員を送り出すことは不可能でしょうし、大した支援などできるはずありませんが、せめて被災地域の復興までの期間、子供たちや施設年配者の受け入れなど検討していただきたいですね。

片浜小学校が空いています。

希望者の有無をどうのこうのと思量するのではなく「友好」の文言の証として何か手をあげて欲しいところです。

「言うは易し行うは難し」・・・はいつもの私の事。

 

熊本の豪雨と静岡各地のまとまった雨による被害とは裏腹に、こちら牧之原市はいつもの「前線通過国道一号線理論」(私の勝手な持論)の通り少雨。

前線の通過する場所がいつも国道一号線に沿っていて大平洋に出張った沿海部・・・当地相良は案外降らないということです。

 

いつものように法事は「ウェットスーツ持ってこい」の状況を覚悟していましたが、寺を出る間際は小雨はあったものの傘の持参はなし。

最後の墓参の際はお陽さままで顔を覗かせていました。

みなさん同様に「おかげさま」と。

 

昨日はまた静岡新聞読者投稿欄「ひろば」頻出お馴染みの秋野氏より「先日の植木等、視た?」と。

そういえば私は直前まで覚えていたもののてっきり失念していました。

時に植木等をネタにお話しをさせていただいてまた、自身敬うべき先達としていますので是非視聴したいと思っています。

再放送「歴史秘話ヒストリア」は

7月7日(火)午後3時08分~ 午後3時55分ですね。

 

さて、可児長山明智城の二の丸平坦地に7つの小さな墳墓が並んでいます。

掲示板によれば

溝尾庄左衛門

三宅式部之助

藤田藤次郎

肥田玄蕃

池田織部

可児才右衛門

森勘解由

の名があげられています。

彼らの苗字が元々ある土岐氏縁故の名なのでしょうね。

昨日記した「可児」さんも。 

 

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2020年

7月

04日

可児長山城(明智城)周辺には可児さんだらけ

当家夕食のテーブルには二日続けてケバブ(チキンでした)が上がりました。

奥方がコミック(「天(そら)は赤い河のほとり」)を全巻取り寄せるなどから始まったヒッタイト、トルコのマイブームにはまっているからです。テレビを点ければ何故かトルコの番組が映っていてますます頭が「トルコ」になっているよう。

 

どこからかそれを作るセットを購入してきたようで、私も嫌いではないものですから喜んで食しています。

そもそもタップリ生野菜が突っ込まれているところは悪くないですね。

 

先日奥方は「ヒッタイトの遺跡を死ぬまでに見に行く」と言い出してトルコ旅行のパンフでも・・・とSC内の旅行会社に。

もっとも私は「そんなとこ、ノー天気に行かねぇよ・・・」と言い放っていますが。

どちらにしろ息子が寺に入って「いよいよ隠居」と時間が有り余るくらいに無ければ無理な話ですが。

 

今大型ショッピングモールではたくさんのお店が何の制約もなく再開しだしていますがそれにも関わらず、依然まともに店を開けられない店を発見。

それが「旅行」を取り扱う店でした。

国内旅行を扱う店舗は営業日を限定し、国際旅行中心の店は完全休業の状態でした。

「そりゃあそうだ・・・」と奥方が。

先日はインバウンド99.9%ダウンの報がありましたし、国際便を飛ばす海外航空会社の倒産の話も聞こえていましたね。

 

昨日は東京(新規124人)はじめ首都圏のお祭り騒ぎの様と静岡のおつきあい(5人)を見せつけられました。旅行などする気は失せましょう。

何せ海外とくればU.S.Aの「1日5万人以上新規」のスケールの大きさも圧巻ですが、どこもかしこも惨憺たるコロナ禍のありさまで、「誰が海外旅行なんて行くか!!」の気持ちになるのは当然でしょうね。

一瞬「ヒッタイトの考古遺跡巡り(ハットゥシャの石遺跡)」などと言われて私も「ほぅ・・・」と気持ちを動かされましたが・・・

 

パンフのトルコ旅行は、市場の食べ歩き観光が主ですが、遺跡やアンカラの博物館ツアー入りは30万円弱で行けると見込んでいました。しかしこの騒ぎで募集も無くなっているようです。

あの辺りはテロも時折ありますし今、航空機に乗ることほどのリスクはないでしょうね。

毎年、「今年こそは」などと思っている沖縄でさえ今は行く気にはなれません。

 

ということでこの旅行業界はボロボロでしょう。

テナント料もかかることでしょうし、従業員のお給料はどうするの? 単純にそう思います。最低1~2年は不要不急の海外交流(旅行)は絶望でしょう。勿論オリンピックも同様。

 

これを第二波という人がいますが、おそらくそれは秋冬のことかと私は思います。

このリバンドは一波対応の甘さに尽きるということ。ただのブリ返し・・・となれば政策の失敗でしょう。

 

さて、可児の長山明智城へ取り付こうとその近くまで辿り着けば道の左に東栄寺がありました。そしてその右側には真宗本願寺派(お西)の光蓮寺がありました。

「元和三年(1617)尾張黒田村(現一宮市)より入植者を連れてこちら瀬田に入った」といいますのでこの地には明智一統逃散のあとしばらく人が居なかったというブランクの歴史があったのかも知れません。

 

よってこの瀬田地区は江戸期に入った人々と在地の人々が協力しあってここまで築いてきたという歴史があったのかと。

こちらをさらっと歩けば表札に「可児」の二字があるのに気づきます。

可児市ならではというか「可児の可児氏」にはその由緒の深みというものを感じますね。

 

特に拙ブログでは可児才蔵(こちらまたはこちら)について記している通りですが、こちら可児は可児さん発祥の地ですね。

よって岐阜と愛知で8割以上、可児市には1000件以上の可児さんがいらっしゃるようです。

 

以外地方では珍しい名ですがこの地では当たり前の名です。

案外と散らばらないものと感心した次第です。

①③④は大河館にて。③④は山崎合戦屏風の写し。

 

 

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2020年

7月

03日

明智荘を望む 明智城展望台 海開き・・・ナシよ

前日の土砂降りから一夜明けて快晴の相良。

実は7/1は海難物故者慰霊の日でした。相良仏教会寺院と牧之原市長ほか関係者が集まるというのが恒例です。

通常年でしたらその仏事のあとに海開き神事があるというのがいつものパターンでしたが今年は海開きイベントはナシ。

主に例年依頼している東海大学の学生さんたちによるレスキュー部隊が編制できず、やむなく中止としたといいます。

 

その7/1といえばやはり酷い雨予想で、その前日には早々に「2日に順延します」の報が入っていました。

すると昨日2日はこの上ないお天気に恵まれたというワケでした。

ふざけた話で申し訳ありません。

朝出がけに自身無精髭に気づきました。

法縁があることをまったく失念していて前夜に髭剃りをしていなかったということですが、ここはニヤリ・・・

マスクを装着して完了でした。

 

「やっちゃった感」ある東京の107人という数字にはまったくやれやれです。

再規制基準の「数字」も出さないは「モニタリング」なる新しく登場させた言葉で煙に巻くはで知事殿もそうですが、お国の方も「まだ平ちゃら・・・」の躰。会見などマスクを外しちゃってOKOKの様。

「その時は・・・適切に迅速に」とか言っていますがまるでいつもの禅問答の感。

世は「7月1日をもって再開」と通常営業に移りつつあるノー天気の風潮、悪い傾向重なります。

 

昨日は夕刻に門前で立ち話になった方がいましたが、その方の意見はこうでした。

東京の知事は選挙対策一本。経済優先の舵取りとなって都民・・・国民の健康は二の次。要は自身安泰の方策であると。

「夜のお仕事」に責任を擦り付けて、「だからしょうがない みなさんはおのおの気を付けてね」のうっちゃり。

そういえば「夜」の仕事もそれなりにリスキーとは思いますがまるで「魔女狩り」の如くでしたからね。

 

まともに正確な陽性患者を把握しようとすれば「夜」だけでなく都内の数か所、駅や会社、学校、役所などのポイントを決めてランダムにピックアップして検査を進めますがね。

そんな検査作業は民間業者に任せちまえばおそらく数日で数字が出てくるはずですが、未だそのバカでもわかる(私です)そのやり方を実践しないのは「本当のことを明らかにしたくない」の心が見えて来ます。

 

先日は可児の大河ドラマ館のパネルで「光秀の敵」という括りの中に「本願寺」があってそれを拙ブログでは「歴史を見誤る・・・」などと記しましたが、その隣に掲げられていた「光秀の味方」のパネルに登場した人物の中に筒井順慶がありました。

彼はいわゆる「洞が峠」(洞が峠を決め込む)の人でしたね。

そのパネルに首を傾げていたのでしたが、その「洞が峠」といえば一言で言い換えれば「狡猾」のイメージです。

それは昨日記したフロイスの「日本の坊主たち」のことでもありました。

よって筒井順慶のそのズルさは光秀の死に繋がったワケで彼の対応を「友」とは言いませんね。むしろ保身であって戦国にあっては致し方ないとはいうものの光秀からすれば大いなる裏切りと感じたはずですからね。

 

よって「経済か人名か」の選択について、「洞が峠」を決め込んでいるのがあの狸女史である・・・というのがその立ち話の結論でした。

 

画像は可児明智城の本丸の先、新造の物見台。そちらから明智荘を望むことができます。

ドラマでもCGで幾度か描かれている様子を見た覚えが。

 

最後の画像が昨日の相良海水浴場。

海の家は1件も建ちません。

山梨県民オンリーで牧之原市内ホテル民宿の宿泊費5000円バックの件、お金がない牧之原市ですが予算1500万円を計上しています。予約は好調で現状すでにあと残りは「400万円」と。

海岸の監視員については「数人」を限定的に置くそうですが、水難が無いようお願いしたいものです。

 

もっとも私も若き頃ビーチで仕事をしていましたが、基本は遊泳者の自己責任。そこのところ監視をしていても災難は起こりますのでね。

 

東京と政府の無策は疑問です。

検査数を増やし状況を把握(適格な監視)そして経済を3週間完全に止めることができれば感染者は激減するはずですがね。何事も様子見ばかりで。

 

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2020年

7月

02日

明智家菩提寺墓石整列 ただし寛永二年 可児天龍寺

前線通過によって大雨警報まで発令されて、当家庫裏の前年の台風以来、雨漏りの発生に対処するために天井を見上げていました。大雨によって外のウィルスが流れ去ることを想像していました。首都圏も夜間は激しい雨となるようですが、そうなると人の行動を制限することになりますのでほんの少しだけですが「悪くない・・・」とも思いました。

 

先般の全世界をキリスト教徒に・・・」のNHK番組「戦国」にて宣教師たちの策略が見えてきたのですが、これは新発見のイエズス会宣教師たちが本国の教会に送った文書(報告と記録と後発指南)が次々に公開されるようになったからですね。

まだまだ新しい発見は出てくるでしょうからこの領域(スペイン・ポルトガル・ローマのカトリック教会が保存する未公開資料)は要注目です。

 

その宣教師の布教戦略の最終目的が「世界侵略」(スペイン無敵艦隊-フェリペ二世)であったこと、それはうすうすはわかっていたことなのではありますが、その手段、先鋒として人の命や道徳感そして最大安息を流布(「心の支配」)するため(改宗)の宗教行動だったということと、私がその宗教者の端くれとして生かされていることを考えて、他流の、それも今も存在している・・・その教義と布教の「当初の事」に関してとやかく揶揄することなど憚れますしザビエル上陸以来始まった宣教師たちの布教活動に疑問を抱くことなど考えられないことでした。

 

そして、その布教使の中でも、今もその戦国時代において我が国における歴史書のなかで特筆すべき「フロイス日本史」を遺した宣教師ルイス・フロイスの偉業とその存在に畏敬の念を抱いていたことも間違いのないところでした。

まぁ彼の記述の中の端々に私どもの先達、仏教の僧侶に対しての「忌み嫌う」感情がわかる言葉もありましたね。

たとえば「狡猾」なる表現で形容されるところもあって「いったい何があったのだ・・・」と思わせるところ。

 

私がその語句を使用する状況を勘案すると相手はやはり永田町の政治屋くらいしかいませんから。

また序文に日本人の性質について記す部分に面白い部分がありましたので記します。

 

「日本人は一枚のハンカチでただの一度しか鼻をかまない」(欧州ではその件、滑稽で奇異と思うだろう)と記しています。

「彼らは一度ハンカチに唾を吐いたり鼻をかんだりするとそれを洗うことなく捨ててしまう」・・・

 

その説明として「ハンカチの代わりに折りたたんだ薄い紙をたくさん懐に入れて持ち歩いている」「貴人たちはその紙の間に白または青色の亜麻布を一枚携えているがこれは汗を拭くためだけに用いられる」「一般の人はそれに手拭を帯の中に入れ汗をふいたり手や顔を洗ったりするときにそれを用いる」

でした。

 

宣教師たちは「懐紙」についてその驚きについて記していますが、この記述はこっちが仰天するくらいです。

勿論「洗って使う」という用途。

時々目にすることがありますが、ハンカチや手拭で鼻をかんだり唾を吐いたりはしませんね。

今でしたらウィルスを持ち歩いているようで・・・

まぁ当たり前のことですがポルトガル人が日本に来て、その文化風習に違和感を思うのは当然で各所に彼らの「驚き」が見えて来ます。

もっともその日本の戦国というものは日本の歴史上次から次にと言ってもいいくらい色々な事件が起こった時代でした。

日本人でさえ驚かされることばかりの時代でした。

 

さて、昨日記した可児の太元神社の手前には明智一統の墓域があることで有名な天龍寺があります。

そちらの本堂にはビッグサイズの位牌(長存字殿明窓玄智大禅定門)と光秀の木像も・・・

掲示板の通り、開基が江戸初期ということですから、どうい経緯で・・・(もともとは東栄寺)と余計なことを考えてしまいました(場所はこちら)。

 

 

 

 

 

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2020年

7月

01日

皿と血の漢字語源と「盟」と明智 可児太元神社

ハイ、あっという間に7月。

この分で行けばスグ年末ではないでしょうか・・・

おそろしやおそろしや~横浜在住の息子や「奥の墓道」氏への「帰ってくるな」の継続はやむを得ない、と思う数字が出ましたね。東京のおエライおばさんは「数字じゃない」などと言いだしていましたがちょっと待って・・・私たちがその判断する基準と言えば(真面目に正確なものが表に出されているとして)その「数字」以外何物でもありませんからね。

 

急に無茶苦茶な論理です。

「検査が広がった結果」とは言い訳をしていますが、検査は大風呂敷を広げていた(一日二万人)とは程遠い増加率の様。まさにヤルヤル詐欺。

PCR検査がまともに増えていず、検査といっても「本当にヤバそうな人たち」だけという状況です。

殆どの人たちを野放しと言ったら語弊がありますが、ちゃんと追跡できていないのです。

今更ながら「検査と医療」のボードを掲げていましたがその語彙は3月からず~っと同じですね。

 

そして昨日の横浜の28人という数字にはさすがにガッカリ。

20代~40代の人たちばかりでそのうち26人がホストクラブ関係といいます。

関連店のある新宿との往来をしていたと。公共交通機関の使用があったのでしょうが感染してからどのくらいの人たちがこれらの人たちと「接触」していたかを思えばビョーキは「当分なくならない」と思うのでした。

 

私たちは「ホストクラブやキャバクラに縁はナイ」では済まないのですね。それだけに東京の野放しにだんだんと腹が立ってきました。

東京も政府もお偉いさんたちは検査と保証の財貨の提供をケチ渋り、経済再稼働へのウェイトに方向性を決めているようですが

その件、博打打ちと同じ。勝てる勝負ならイイのですがね。

検査体制の遅れに苛立ちを感じるばかりです。

 

中国ではまた新しい新型インフル発生のニュースがありましたが今回同様の猛威となったら・・・経済界としてはそれは考えたくないでしょうね。

一般庶民の命が生贄の如く賭けの代償として差し出されるようで・・・。弱い者ばかりが淘汰される社会、それを是としてよろしいか・・・

 

さて、昨日は可児の天台宗の太元山東栄寺について記しましたがその山号と同じ名の神社が近くにあります。

東栄寺の掲示板の通り、その関連について記されていましたが、この神社の看板(場所はこちら)にも別の「なるほど・・・」が記されていました。

 

それが表記「皿」の件。

たくさんの皿が出土したといいますから、どれだけの・・・(血)と思わせるところありますね。

まぁ「皿」という漢字と「血」の文字面が似ていることからどなたもその件ご承知のことと漢字の発祥については割愛。

 

私がひょっとすると・・・などと想像をめぐらしたのは「明智」姓の件です。

明智姓の発祥として豊饒の大地が開かれる・・・開け・・アケ・・明け・・・た「地」という説を聞いたものですが、私が改めて思ったのは「盟」の文字です。

血の儀式を一言で「ちかいの儀」と言えばそれ。

「盟」を厳密に言えば「明+皿」ですがこれは皿も血も語源は同じ。

「明+血」でアケチ。

土岐一族からの分流、土岐明智家流の元の菩提寺東栄寺との

関連からその太元神社で月夜の晩に催される戦勝御礼の儀に彼ら団結(盟)の証としてその苗字とした・・・などと呪術発祥を考えるのも面白いかと。

豊饒の大地の開墾というのも悪くありませんが結構に「キラキラ」ですからね。

まぁ名のりにはキラキラがつきものですが。

 

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2020年

6月

30日

「一隅を照らす」ときたら・・・天台のお寺 可児

横浜在住の息子や「奥の墓道」氏はGWの連休の帰省は自粛して自宅待機。もっとも息子の場合はさして連休は無かったようですが。

それは当然に「公共の福祉」・・・といえば大袈裟ですが「新コロ」発生源とも言えなくもない「首都圏」がその活動圏であって、帰省によって出身地静岡に「迷惑をかけたくない」の心ですね。

 

トーキョーのエライ人が掲げだした自粛解除の旗印のもと、こちらもそろそろいいだろう・・・と言う具合に緩んで「いつ帰ってくるんだ?」などと双方に打診したばかりでしたが、この頃のトーキョーはじめ首都圏の陽性者の大量出現に閉口。

ひょっとすると当方としても縁者ながら相良帰郷を依然拒否すべきものか悩まなくてはならないのかも。

 

しかし昨日浜松で出た陽性者は東京間、新幹線で往来している人だといいます。制御コントロールを勧めていることがバカバカしくもなったということで、やはりこうなったら「好きにしてくれ」と投げやりになります。

 

東京のざまは酷いものですね。

一週間の平均が50人以上でなんたら・・・と言っていた数字が現実となりましたが、今回は「平気の平左」、ますます緩み傾向にステップアップするようです。

東京がしっかりしないので周辺のわれらが面倒な事にかかわらなくてはイケなくなる構図です。

「カンベンして欲しい。人口の多少かかわらず、まじめに仕事してくれや・・・」それが本音。

選挙で忙しい?・・・国民は不幸なことで・・・

 

さて、可児の明智城の大手道にとりつく前にそのスグ前にあるお寺にさらっと寄ってみました。

すると石塔に表記の言葉が記してあって「これは天台のお寺・・・であるか・・・」などと頷いたワケですが、この言葉は最澄さんの結構に有名な語で天台宗のお寺で見かけることがあります。

時に「照隅」などとも。

 

その宗派のキャンペーン活動の標語としてもあるようで、元は最澄の「山家学生式」が出典といいます。

まぁ私がその解釈することは適格ではありませんので各お調べいただければと思います。

 

こちらが太元山東栄寺(場所はこちら)。

掲示板によれば明智土岐頼兼が建てた寺といいます。

近くには山号と同じ太元神社がありました。

 

その石標の下には宝篋印塔の残欠やら何やらがハチャメチャと言っては申し分けないですが・・・積まれていました。

宝篋印塔の笠の隅飾りの立ち具合からしてかなりの古さはあるとお見受けしましたが・・・

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2020年

6月

29日

布教による富の搾取 可児の光秀井戸伝承と石塔残欠

梅雨という季節の一大イベントですから、嫌らしい雨続きと湿潤の不快について文句はいえませんが、そういう日の法務は色々と頭を悩ませます。

朝から本降りで覚悟を決めての先方ご自宅への訪問でしたが寺を出る間際になって小降りに。

こりゃあ、しめた・・・という具合に機嫌よく時間が過ぎていけば、結局最後の墓参前には完全に雨は上がっていました。

「ありがたし」以外の何物でも無い一日でした。

一旦は、「ズブ濡れ」まで覚悟している身としてはまるで-100点のところから+100点を戴いたような感覚でした。その差200!!

 

夜のテレビ小僧はNHK9時からの「戦国」。

宣教師による「全世界をキリスト教徒に・・・」という策略という観点から「戦国」を紐解こうとした番組で切り口として今まで無かったものです。

よってとても面白く視聴しました。

再放送がきっとあるでしょうから、歴史好きの皆さんでしたら是非に視聴をおすすめします。

 

日本国内における彼らの諜報戦についても凄まじいバイタリティを感じましたが、キリスト教布教許可と戦争物資(鉄砲と弾丸)の取引の相手に見込んだのが信長だったという着眼もまさに的を射ていたわけですからね。

信長が石山本願寺を執拗に追い落とそうとした背景が宣教師の記述「日本の坊主たちはキリスト教布教の障害」という記録から「これはなるほど」と思ったところです。

 

要は信長を使って日本をキリスト教国家に仕立て、ゆくゆく統一されたその軍事力を利用して中国を侵略(アジアを制服せよ―フェリペ二世)しようとする国王の方策の実行組織が宣教師などのキリスト教布教グループだったのでした。

勿論、アジアの富の奪取が最終目的です。

富の収奪のための「心の支配」が目的だったのです。

 

余談ですが番組では石山本願寺の象徴、顕如さんの画像は例の石川県立博物館のものを使用していました。

あの画像は如何にも強そうですからね。

 

ということで信長の日本の仏教勢力を一掃しようとした行動とキリスト教宣教師の計略があったこととを思うと、明智光秀による信長への謀反は本願寺含めて既成仏教集団との利害は完全に一致していることがわかりますし、光秀はこれからのキリスト教勢力の傀儡となって信長に牽引される日本が中国(明)侵略の駒とされることによる国内疲弊、死屍累々の戦争の災禍を止めてくれたのかも知れません。

いや結果的にそうなったのです。

 

この番組を見て、映画「沈黙」の如き、キリスト教徒への異常な弾圧抑圧とその前の秀吉の禁教令から執った無慈悲なキリスト教徒への行いに対して大いに同情を抱いたものですが、それらへの厳格な対応に関して、もしかするとそれもやむを得なかったのでは・・・と心が動きました。

 

何故ならば、植民地政策によって侵略した国々へのキリスト教の布教にあたって、民衆の「改宗」作業は絶対となりますが、それを拒む者に対しては、その日本国内でキリスト教徒に対して行ったような残虐行為と同じことを彼ら宣教師たちは行っていたに違いないからですね。

現実、彼らは植民地化した国でそのように動いていました。

 

 

やはり、信長の宣教師との共同計略に関して「逆に利用してやろう」という考えがあったとしても継続してキリスト教宣教師の「布教画策」を許容し、日本全国の信長による支配が完了していたとすればひょっとして今の仏教施設は勿論、その文化そのものの存在も危ぶまれることになっていたかもしれません。

番組では高山右近への懐柔工作も指摘されていました。

 

彼らによるキリシタンに改宗させた大名の数々を見てもこの国の宗教を使用した「心の支配」から始まる「すべての支配」を目論んでいたことはまさに否定できないことです。

キリスト教に対する見方が大いに変わった番組でもありました。来週の第2回目も見逃せません。

 

さて、その宣教師の野望(信長を動かして最終的に中国の富の収奪)をまず打ち砕いたのが明智光秀ということになります。

光秀の本能寺の件が如何に私ども本願寺にとってどれほどありがたかったことだったかは幾度か拙ブログで記していますが、先日立ち寄った可児の大河ドラマ館で見た光秀関連図の紹介には「明智光秀の敵」のパネルに「石山本願寺」と記されていました。

光秀は本願寺と戦っていますがそれは光秀そのものの「敵」ではなく信長の「敵」であって信長の戦駒として光秀が動いたということです。

そこのところ見誤っては「敵は本能寺」の真意が(私の勝手な意見ですが)わかりにくくなってしまいます。

 

ここで一つその本能寺の理由の推測として「宣教師の野望を砕き日本の文化を守るとともに人々の平和を望んだ」という項目が一つ増えました。

そう考えればまさに「麒麟」になった人かも知れません。

日本と日本人を救ってくれたのかも・・・

 

さて、明智光秀の産湯の井戸址は以前山県市のものを記しましたがこちら可児にも同様にあります。

既に改変されていて今となっては忘れ去られていたような場所のようですが最近の光秀再評価と町おこしブームから地元に残る伝承を掘り起こして看板が建てられています(場所はこちら)。

最後の画像が元の屋敷と井戸があった辺りとのことですが、その背後の山が明智城のある台地。

 

この樹木の1本は元あった場所から移植されたといいますが、それ以前といえば違う大木があったそう。

そして近くにある自然石を使った石塔と下に散らばる五輪塔残欠に私は惹かれました。

わからないことばかりですが、この石仏は「すべてをご存知」・・・と合掌。

 

 

 

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2020年

6月

28日

丸に違い鷹の羽紋付きの鮫小紋 創造 波さんの暗躍

昨日の法要の参列者だった年配の女性(86歳)と墓参後立ち話。

お天気は良かったですからね。

「実はあなたのお爺さんが私の名をつけてくれたの」と。

祖父(十三代目)に付けてもらった名とは「菊江」さん。

その際「キクエ」にする・・・と言われ、親は「菊枝」と「枝」の方を選択しようとしたそうですが、「それはダメ 江じゃなくちゃね」と言われたという経緯があったそうです。

そこで私ならどうだろう・・・とふと思いました。「やはり江戸の江」ですね。まぁ今その立場になったとしたら(100%ナイ)その名は出てこないかも知れません。

 

その方は、「そういえばお爺さんは貴方と同じロン毛だったね」と。それもへ~でしたが私の知っている祖父は既に髪は薄かったのです。また私は自分の今の髪を「ロン毛」だとはまったく思っていませんが。

て、ことは・・・爺さんの頭と同じになるの?といえば、「図々しい!どこまで生きてんだ・・・」と奥方が。

 

さて、広大院→専行院→波さんと渡った着物について、プロカメラマンが撮ったデータをいただいて「どれだけ高額(のカメラ)・・・」などと思いつつそれら眺めまわしています。

昨日はその一部をさらっと記しましたが、ついでに打って変わって地味ではありますが鮫小紋の生地を。

 

波さんが持ちかえった着物は①夏用と思われる薄手の「源氏物語」②葵紋の入った「石橋」ですが①の裏地はまさに裏生地で、その隅に拙寺十代祐賢による着物の云われについて記してありました。そして②の葵紋の豪奢な方のウラにこの鮫小紋の生地が縫い合わさっていたということです。

 

誰がどう見てもこの「石橋」の図柄の葵紋の存在とその手が込んだ素晴らしさに波さん自身の思い入れというものをも連想するわけですが、その生地の裏側にこの「鮫小紋」が裏側としてですが重ね合わせて縫われていることに波さんの思いまで勝手に推測していたのが以前の「阿部正弘」の存在でした。

 

それを推察できる書面・書付のないただの「思い」ではあるにしろ十分にその可能性はあると思ったのでした。

波さんの立場についていったいどういったものだったのか・・・ですがその辺りはすべて推測です。

 

この阿部正弘を唐突と考えることもできますが、この天下に名だたる(特に大奥世界で)両名の名(広大院 専行院)が出てきているという現状その時代背景から「阿部正弘」の名を私が挙げたとしても不思議はない、切っても切れない登場人物だったからですね。過去ブログではこちらこちらですが今も色々と思いが沸きあがります。

 

波さんの父十代祐賢の記した裏書の冒頭部分を今一度復習してみます。

当山十世娘おなみ江戸西之御丸御殿弐の側おみよ様乃御部屋を篤実ニ勤て御たもんゟ出世して御つほね迄ニ相成」

の通りで永年「江戸西之御丸御殿弐の側おみよ様乃御部屋」にいたということですが、私どもが当初勘違いしたのは「おみよ」の「よ」を「て」と解したこともありますが、この「御殿弐の側」の箇所。「」を西之丸御殿の「弐の御殿」のことだろうと建屋の名称であると読んでしまったからですね。

要は「江戸西之御丸御殿、弐の側おみよ様乃御部屋」と句読点があればピンとくるはずだったのです。

こう読めばそのあとから出で来る「一位様」との関わり(家斉の正室 広大院)と側室のトップで実質NO.2だった専行院を考えれば弐の側といえばおみよでないワケが無かったのでした。

その指摘は藤田先生によるものでしたね。

 

当流チャキチャキの真宗門徒の仏飯を食んだ娘が若かったとはいえその神仏祈祷土俗迷信入り乱れた江戸城内に上がっての生活は相当の自我の抑制と対応力の素晴らしさを感じずには居られないのです。

波さんまとめ」にも記していますが、御持仏を持ち続け、最後に真宗寺院には付き物といっていい聖徳太子の像まで手配したのか餞別だったのかいまだ判明しませんが、真宗専修念仏の気構えは捨てていないはずですね。

 

ところがどうでしょう。波さんのボス(旦那)はといえば専育院(おみよ)でした。皮肉といえば皮肉なことですが、そのおみよといえば、大奥中、前代未聞の宗教スキャンダルを惹起した側室でしたね。

その件、各お調べいただくとして実際、ボス主導とはいえ他流の本尊や坊さんたちと仲良くできたのか不思議です。

私は当流の「血」というものはそこのところ耐えるのはなかなか難しいのかな・・・と思えてなりません。

 

その側室おみよの暴走についてバッサリ切り込んだ人が阿部正弘だったのですが、ひょっとして波さんは常々の不満を重ねてどこかの段階でプツンと切れてその内情を阿部に漏洩させたのかも知れない・・・などと思ったのでした。

まるでスパイの如くに・・・。

 

余談ですが、専行院登場のテレビ、映画は多数。直近のフジテレビ系の『大奥』「第一部〜最凶の女〜」ではあの「麒麟が来る」で直前の不祥事で帰蝶役を降ろされた役者が演じていたようで、キャラとしてはそんな感じ・・・とも思うところ。敵は多かっただろうとも。

 

ブログのどこかでも記していると思いますが、波さんは大奥で起こった話については殆ど他言せず独身のまま明治二十二年八月二十日に亡くなっています。

その際、「妙人祠堂金100円」の寄進を別に受けていることが過去帳に記されていました。

葬儀代として残したようですが(現在の約200万円)、その他本山への寄進含め、寺の存続に多大の貢献をしたことが伝わっていますがそれはその法名で納得できます。

 

それが「宝樹庵釋妙好」でした。おそらく院号を使用しなかったのは彼女のボスたちの院号の「院」と重なって、憚られるとの意向だったとと思います。

彼女が余生を送った「庵」が本堂の北西の敷地あたりにあったのでしょうね。

 

お寺にとっては下賤ですがまさに「カネの成る木」をも推測しうる名でもありますし、なにせその法名の「妙好」など「妙好人」という言葉があるように真宗的に言って「このうえない篤信」を意味しますからね。

 

彼女の人生からすると「ただ寺のため、家のため」の人生だったのかも知れませんがお寺にとっては最大危機だった明治を乗り越えるための絶大なる財貨を得たことは確実です。

永年のお勤めの対価以上の金員を頂いたことなど考え阿部正弘との秘密や彼の仕事のご褒美などもひらめいたところです。

 

またたとえば、あの生地と生地を剥がして「中を見てみたい~」などとも。

何か記されていたりして・・・

二つを剥がすことに問題はナイはず。あとは度胸だけですね。

 

昨日と同じ精細画像70%縮小版③。

まぁ今度大奥の専行院と広大院あたりにスポットを当てるような番組を作るとしたら、女中お局の名として拙寺の「お波」さんの名を入れて欲しいところ。

人の目にあまり触れられないこの手のブログでのアピールではダメダメですね。

波さんの暗躍を脚本として売り出そうにも劇ネタとして古いしそもそも才能もなし。

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2020年

6月

27日

広大院着物 プロの高精細高画質撮影 ただし重い

先日出版された「相良海老」の価格について、その格安設定の太っ腹は驚きを越して「唖然」という喜びの声が吉祥寺の叔父周辺から上がっています。

それでいて紙の質を落としているワケでもなくしっかりした装丁、なによりも中身の充実そして原文と解読が上下に出て「見やすい」とそのスジの方たちから好評だといいます。

 

こういう場合他にどのような物があるかの比較ということになりますが、しっかりした原文があってなお、このように見やすい作りのものといえば叔父はかつて購入したという冨士講の行者「食行身禄」(じきぎょうみろく)の解読文付き解説書「富士講中興の祖・食行身禄伝」をあげていました。

いくら研究資料としてでもその金額を見てドン引きしますよ。

税抜きで6900円ですからね。

発行部数が少なくて、そうは売り上げを予想できない学術書の金額といえばこんなもので、「高い」などいうのは野暮な話。

ただ、「相良海老」は最初から利益を考えずむしろ大損を覚悟で出した書物でした。

 

その相良海老の巻末には小澤氏のはからいで大奥に上がった拙寺10代祐賢の娘、波が広大院→専行院経由で頂戴した着物2枚についてスペースをいただきましたが、これは相良と田沼には切っても切れない一橋家(・・・当家出身の徳川将軍11代家斉の正室が広大院、側室が専行院)との関わりを推測してのものでした。

 

前回、「相良海老」の各ページを撮影したカメラマンがこの着物(実際は波さんたちが自宅で尊前を飾る打ち敷に仕立てています)を撮影してくださいました。

その各部分についてこのほど精細画像データを提供いただきましたので一部紹介させていただきます。

これでも中には70%程度に縮小しているもの③④がありますが、相当重たくなっているのではないでしょうか。他のものは30%~20%程度に小さくしてます。

 

刺繍といっても遠目で見れば型染めの如くに見えますが、こうして拡大してみると、その仕事の細かさにため息が出るというものです。

尚、波さんと広大院関係のブログはこちらにまとめてあります。

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2020年

6月

26日

本光坊了顕墓再掲 蓮如上人御文「疫癘」えきれい

まったくもって収束の気配が感じられない「新コロ」ですが、「女墓場放浪記」を断られた東京の病院に勤務する友人が言うには、確かに病院でのコロナ陽性者は日々1~2人で「減るには減った」ただし「病院経営がヤバい」とのこと。

数億円の赤字だといい、賞与昇給ナシ・・・の憂き目となることを予想していました。もしかすると「整理されるか」・・・とも。

 

病院に付き物のリハビリ課など、敬遠して患者が来なくなったということで大抵はスタッフは「手持ち無沙汰にブラブラ」とのこと。

 

最近はHISや航空会社の「緊迫状況」が伝えられていますが、本当の所をいえばお国は「病院の存続」というものに焦点を合わせていただかないとね。

二波が来たら・・・「患者は受け付けない」という病院が増えつつあると聞きます。

 

まぁ経済・・経済・・・と言っていられるうちが花、病院破産で庶民は行くところ無し・・・路上をブラブラということが無いように頼みますよ。

そもそもハナから病院等現場への備品等の確保、後詰に関してまったくナシの様相でしたね。

「やってられない」という状況の中、その働きを口先で誉めたり飛行機を飛ばしたりの件は見聞しましたが「まず医療従事者は絶対に守る」という質を伴うバックアップの気概というものは見ることができませんでしたので。

まだまだこの「コロナ禍」序の口・・・を危惧します。

 

拙寺では恒例の「春の法要」を中止したあたりから次々と法要の予約はなくなって週末といえば超ド級。持て余すほどの時間をいただいたワケです。

まぁそんなこんなでここまで何とか無事の牧之原市の様には感謝するばかりで。

 

もっとも最近は相当の緩みは出ていますが、どうやら最近の新規感染者といえば「9割方首都圏」だといいますので、それを聞けば「大丈夫、平気・・・」とますます増長。

足を掬われかねない状況ということはわかりますが、ここは一つ蓮如さんの御文(四帖-九)「疫癘」を思い出しながら次の仏縁「盂蘭盆会法要」は「やる」ことと決めました。

 

マスク着用の入堂のお願いは当然です。

また参集者の座する間隔のことを考えて全5回に分けて行うこととしました。勿論恒例のイベントもナシです。

 

今後、報恩講に除夕鐘という行事も控えていますが、収束が見えず、秋冬の大流行などあればまたいろいろ中止になってしまうのでしょうかね。それをあれこれ考えるのが面倒で・・・

 

さて、蓮如さんといえば御文ですがやはりまた吉崎御坊を思い出します。

拙ブログでも幾度か御坊についても記しています。

 

その御坊でのその事件について私が「適当な事を言ってやがる」と言われそうなこと。

「正信偈の経本は何故に赤い・・・」という檀信徒の疑問が時にあって(私は祖父や本山研修で聞きました)それを「血の色」だから・・・とチコちゃん風に答えます。

阿弥陀経もそうですが、当流の経本の表紙は「赤」が多いですね。まぁ気分次第では「夕陽の色」とも言ったりしていますが・・・

 

その一つの論拠が「本光坊了顕の血染めの聖経」の件でした。

結構に有名なお話で各サイトでも挙げられていますがこれは吉崎御坊であったこと。

その件以前も拙ブログにて記していますが自分自身「忘れるな」の気持ち。表記②の墓は再掲です。

火事に天災も怖いの一語ですし常々頭の片隅に入れておく事案でもあります。

緩みっぱなしの私には「繰り返し」思うべきものと記すことにしました。

 

文明六1474年に火災で燃える吉崎坊舎に蓮如さんが持ち出すことができなかった『教行信証』証巻を本光坊了顕が炎上する堂内に取りに戻ったのですが焼死してしまいます。

私なら「戻れるかな・・・」ともいつも考えてしまいます。

 

あの際、当然にご聖教も灰に・・・というところですが、その遺体の腹部に経巻が収められていたという話。

腹を掻っ捌いて我が身の腹の中に聖教を収めたということですが、その経典の「赤」こそが本光坊了顕の血に染まった色だと。

真宗門徒は本光坊了顕に限らず命を賭して権力と闘ってきた歴史、違う意味での血縁がありますが、そのおかげさまによって「私がある」ことを聞かされたものです。

 

「いのちをかけて」ということから、これら経典を粗末に扱うことはタブーであると、父は経典を「畳の上に置くな」とまで口うるさく言っていたものです。

赤本を見れば父親の剣幕まで思い起こします。

 

それでは蓮如さんが亡くなる七年前、七十八歳の時に記された

御文「疫癘」(流行病)を。

こちらが本日の主題となります・・・。

今回の盂蘭盆会法要の回文に添えました。

 

 

御文四帖-九 「疫癘」(えきれい)                            

当時このごろ ことのほかに疫癘とてひと死去す 

これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず 

生まれはじめしよりして さだまれる定業なり 

さのみふかくおどろくまじきことなり 

しかれども今の時分にあたりて死去するときは 

さもありぬべきやうにみなひとおもへり 

これまことに道理ぞかし 

このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは 

「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの 

罪はいかほどふかくとも われを一心にたのまん衆生をば 

かならずすくふべし」と仰せられたり 

かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて 

極楽に往生すべしとおもひとりて 一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ 露ちりほども もつまじきことなり 

かくのごとくこころえのうへには ねてもさめても南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と 申すは かやうにやすくたすけまします御ありがたさ 御うれしさを申す 御礼のこころなり 

これをすなはち仏恩報謝の念仏とは申すなり

     あなかしこ あなかしこ   [延徳四年1492六月]

 

 

①は本光坊了顕像 ③御坊の図 御坊東別院にて。

 

 

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2020年

6月

25日

南鐐二朱銀 着目点・味ともに高評価 

昨晩のテレビ小僧はNHK「英雄たちの選択」→朝日「京都ぶらり歴史探訪」を視聴。

両番組とも当家で「城郭界のさかなクン」呼ばわりをしている千田嘉博先生が出演していました。

大桑城を登っての取材の様子は体を張っている感ありました。冬場のスタイルでしたが、上着はスグに邪魔になるはず。

先生はケロッとしていましたが大桑の城は岐阜城と違ってロープウェイはありませんからね。

NHKの方は特集が斎藤道三。

ふ~ん・・・と思ったのはコメンテイターの誰一人とも斎藤義龍の存在についてのこれまで囃されている実子か土岐頼芸の子かについては一切触れず、「父対子」の対立のみを観点にしていたこと。

 

そいえば昨日記した光秀の奥方の名「煕子でなく槙」の採用のレベルとは違いますが「国盗り物語」のストーリーでは義龍は100%頼芸の子という展開でしたからね。

まぁ原作(司馬遼太郎)があるワケですが。

時代を経ると色々歴史そのものが変わってくるというのも面白い。

NHKの番組には今、歴史番組売り出し中?の「一乗谷のお姉ちゃん」(失礼、コレも我が家での愛称です・・・石川美咲氏)が出ていました。

結構に最近「学者している」感出てきて惚れ直したところです。

朝倉だけでなく道三研究にも進出しているようで・・・

 

そのあとは地上波に戻って「ヒストリア」。三好長慶、私の次の「戦国大河」と見込んでいる人です。ただし当時の本願寺勢の敵方ですがね。また、戦国期の「面白くなる頃」には弟殺しのあとスグ亡くなってしまうところがネックではあります。

 

さて、先日は「相良海老」ではボロクソの評価が文面を踊っていた「南鐐二朱銀」について記しましたが先日そのお菓子屋さんに出向いて購入(勿論予約して)、早速吉祥寺の叔父に送りました。

私の食レポはナシにして、叔父家族では絶賛。甘すぎず上品、遠州の田舎でこれほどのものができるのか・・・と。

またお菓子に添えられた口上「南鐐二朱銀」についての一片ですが、良くできています。

 

先日は静岡新聞の記事を紹介しましたが、中日新聞にも取り上げられていたのですね。お店に飾られていました。

このお菓子は何せイブシ銀の渋さと奥ゆかしさがあるのです。当たり前ですが、知らない人にはそれまでのことですが、こういった歴史事象に着眼して商品を出せばそれに注目する事情通は少なからずいるわけで、応援もしたくなるというものです。

 

以前には「賄賂最中」という自虐ネタのお菓子が出回りましたが、この「南鐐二朱銀」というものはまさに田沼意次の実績を物語る逸品。

しかしながら、地元相良の本通り、新町あたりの和菓子屋さんからこういった発想が出なかったのは惜しいという方もいらっしゃいました。

 

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2020年

6月

24日

大樹好きの頭をよぎるあの事案 強制代執行まで行くと

この夏はかなり暑くなりそう。

何せあの顔半分を覆うアレ、かないませんね。

まだ今のうちは何とか耐えられますがこれから予想される酷暑となれば人と接する事に苦痛を感じる・・・などいう人も出てくるでしょうね。自然の中に独りでいたとすればマスクなど不要ですから。

それを取ろうにも市中には「マスク警察」とやらが巡って「おいコラ!」とばかりの難癖をつけられたり白い眼を向けられるなどの不愉快を味わうことになりますからね。

 

そもそも暖冬でした。

おかげでブーゲンは機嫌よく咲き誇り、私もさほど凍えずに済んで安堵していたわけですが、春先からのコロナ流行によって「季節のどうのこうの・・・」は二の次になってしまいました。

 

当家では6月初旬に恒例の梅の実の収穫は終わっていますが、今年の特徴としては実の付き具合はよくなかったですね。

何故か虫どもの発生もなし。

奥方は「暖冬のせい」と言っていましたがそういえば店頭にもそう並んでいなかったような。

例年、静波の笠原氏が大量に梅を持ってこられていますが、今年はありませんでしたので、不作だったのでしょう。

その分、実のサイズは立派なもの。

量が少なかった分まぁいいか・・・です。さっそく奥方が漬けています。

 

先般は本堂裏手の道路上の漏水について記しましたが、その止水工事は何と50m以上回り込んだ拙寺の門の手前でした。

まさかそのような配管が繋がっているものかと驚かされました。

それ以前のこの管の漏水箇所は拙寺の境内墓地内で、市の方から「基本敷地所有者の回復義務」について言わましたが、その土地に関しては先代の頃、墓地とする以前は別所有者で住居がありました。

そのまま末端のみ止水して不使用の水道管を生かしたままにしていた「瑕疵」についてやんわり主張し、その工事費を免れたという経緯がありましたが、そもそもその位置の居住者に拙寺門前から水道管を引っ張ってくるものか・・・と疑問にも思いました。

 

するとその門前の配管止水工事で漏水は止まること無く今一度掘り直しとなっていました。

どうやら管は国道側から来ているとのことで、市の図面の記載ミスだったよう。

ちょっとした漏水で3回掘削工事埋め戻ししたことになりました。よって経費は相当のものになったでしょうね。

水資源は大切ですから徹底的にやらなくては・・・でも少々のお粗末を思いました。

 

さて、画像③は先日のキレイな日没後のオレンジ①と昼間の図②と同じ場所からの図ですが、今回の工事個所とその先の道路側に「槙」が覆っている様子です。

 

そういえば先日の大河ドラマの埋め合わせの時間「国盗り物語」のダイジェスト版をちらっと見ましたがしっかりと明智光秀の奥方の名を「槙」と表示していましたね。

どなたか現在の大河の「煕子」との違いを指摘するかと思いきやみなさんそこのところは完全無視でした・・・

 

拙寺槙の木は私がお寺に入ってからぼちぼちと伐採してスッキリさせていましたがそれからどんどん回復してまったく元通り。

もうボサボサです。そこで気がかりなこと。

 

以前も電力会社の人が、樹木が倒れると「電線が引っ張られて電柱が倒れ、思いもよらない被害が出るがその回復工事の経費は樹木管理者」と言われたことがあります。

デカい木のパワーを感じて拙ブログでも何度か歴史の「生き証人」の主張をして記していますが、拙寺の如く近くに民家が立ち並ぶ環境というのも冷や冷やです。

 

八王寺の由緒ある神社の木々について私どもからすると驚愕のニュースが入ってきました。

「境内からはみ出して周辺道路の安全を妨げているとして、同市と国土交通省関東地方整備局相武国道事務所ははみ出した木の枝の伐採し撤去した」と。

 

神社管理者の方は「御神木」との主張をされてこれまでの各方面からの陳情に耳を傾けなかったそう。一時は市の方から「経費は市で」という提案もあったそうですが、それも一蹴。

遂に代執行という大事になってしまったのでした。

 

「市と事務所は5月下旬に行政代執行に移る戒告書」を出していたそうです。

神社の成立は周囲よりずっとが歴史が深く「あとからやってきたお前ら無茶言うな」の気持ちは十分わかりますが、今の世は「公共の福祉」に勝る発想はありませんね。

 

その主張をしつづけて人の声を聞かなかった代償とは・・・

「市と国は費用約1250万円を神社側に請求する」とのこと。

もっとうまいこと立ちまわれなかったのでしょうかね。

 

その「強制代執行」意地を張りすぎてよくその状況に陥る話を耳にしますが「絶対に」そこまで行政を敵に回してはイケませんね。

作業員70人+大型重機の動員といいますから大がかりです。

それほどのことにならぬよう頑なにならぬよう。怒っちゃダメ。

 

まぁ短期勝負とペナルティ含めた人員大量投入による経費でしょうがね、1250万円。私なら夜逃げレベルですが。

もっともそこまで引っ張らない。

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2020年

6月

23日

長谷寺「二本の杉」の先 俊成と定家父子

「世界は危険な新局面に入った」とWHOの事務局長が警鐘を鳴らすのは世界中で広がる「緩みと解放」の風潮を見てのことでしょう。

昨日も日本国内と地元の溢れる人出について記しましたが世界中の人たちも規制や自粛からの解放感爆発の様相でもはや後先考えない暴走とも思える弾け具合が伝わってきました。

 

なんといっても抗体保有率が0.1%という都内の数値からして、もしも強毒化した第二波の襲来があればこれまで以上の痛みを味わうことを覚悟して、それが行動の前提に無いということはリスクでしょう。

 

当初から「緩みっぱなし」、軍人あがりの短慮というかバカというかブラジルの大統領殿(トランプの弟分といわれる)のノー天気と無知なる施策によって「新コロ」による死者は5万人を超えた(19日の発表)という異常なる数字。

予想では8月にもアメリカ超えの11万人となる予想も。

 

私にはブラジル国籍の従姉妹が3人いますがそのうち二人は日本国内の領事館や福祉施設にて従事。

国内にいるその一人が言うにはこういう病禍に軍人上がりのトップというものは大抵国民に向かって「戦争」という語彙を使用して鼓舞する傾向があると分析。

そういえば日本の政治家にもそれに似たのが居たような・・・

 

それはどういう意味かといえば「戦争なのだから・・・」

①死人が出るのは当然②弱い者が死ぬのは当たり前③強き者が生き残るべき④ただただ勝利を得るまで国民は我慢するべき

⑤よって自分には直接責任がない・・・の理論ということだそうです。

当然に、保証も支援も殆どゼロ。自己責任充満世界なのでした。

 

個人レベルの衛生管理は大切ですがそれですべて責任を国民個々に投げるようなことがあってはイケませんね。

どこかの知事さんもそんな風なことを仰って私もイラっと来たものでした・・・。

 

さて、昨日の長谷寺の二本の杉のちょっと先に石塔と石碑が立っています。

大樹の元には何故かこういった石塔がありますが、大抵は残欠状でどなたの由縁があるものか伝わっていないものばかりですがこちらの石塔はしっかりとした形状を保っています。

ただし中央の「定家の墓」などと標識が付けられるようになった五輪塔をよく見ると各石質と摩滅状況が違って見えます。

 

もともとこちらにあったものかもわかりませんが、ベース部分と地輪が同質のようでそちらは当初からのものかも知れません。

他、特に火輪のバランスも悪く風空は一体であきらかに後補でしょう。

 

定家はこちら「初瀬」について歌ったものが新古今和歌集にありました。

「年もへぬ祈る契りははつせ山をのへの鐘のよその夕暮」

                    (新古1142)

解説はこちらのサイト参照(恋歌です)

 

長谷寺は「であい」成就のお寺なのですね。

 

その向かって右側の定家父俊成の碑というのはまぁ親子ということで。後世になって建てられたのでしょう。

その関連で行けば向かって左側の碑は・・・定家血縁のどなたかの顕彰、追善碑でしょうか。

 

最後の画像は先日入った巷間