2018年

10月

18日

駿府城金箔瓦発掘の件 私は11月22日以降に

天気良好の日はまず片付け。

 

駐車場脇の車庫の中をやっつけようと思い地頭方処理場に1回と夕刻からは市内の買い取り屋さんへ向かいました。

車庫は2つ並立していますが、現在片方は物置化しています。

小田原→横浜金沢区→相良と二度の引っ越し荷物がそのまま放り込んでありました。中には梱包すら解いていないものも。

とにかく不要と思われるものは横付けした軽トラに積み込みましたが他に未使用の瀬戸物等が「爆発」的に山積みされていましたので処理場で投げるよりはマシということでリサイクルショップに持ち込んだのでした。

 

どうせゴミだから「ゴミのような金額」しか出ないでしょうし断られでもしたら徒労となるので「ヨシにしよう」と奥方に言ったものの処理場ならおカネがかかるがそこなら逆におカネがもらえると説得されました。私は境内寺楽市で最悪タダというのはどうか?との案を提示しましたが、「こんなものを使う人はいないし面倒」ということで一蹴されてしまいました。

 

査定に1時間以上かかって「家で寝ていた方がマシ」とブーブーいいながら外の車の中で待ちました。

案の定何点かは門前払いですべてが「C級品」の査定。要は5円10円が殆どでした。

ちなみに未使用の折りたたみ傘が3点ありましたが査定価格は1個5円で15円。店頭ではそれと同じものが350円で並んでいたそう。5円で仕入れ350円の値付けとは・・・物凄い利益率。

いい勉強になりました。もい行きたくないですね。

 

さて、既にニュース等新聞紙上にもありましたが、駿府城発掘でこれまで知られていなかった事が判明しました。

家康時代の天守の下には今川時代の城館があったとは言われていますが今回発見されたのは中村一氏の天守のよう。

家康の天守とは場所が少し離れています。

野面積の石積みということから「家康時代ではない」というのがその推測の根拠ですが、もっと「凄い」と唸らされたのが大量(330余)の金箔瓦が出土したということ。

家康は瓦に金箔を施すなど趣味の悪い黄金趣味はありませんね。

 

瓦に金箔を貼るのは関白(秀吉)の仕業とも推測できます。

これは駿府に豊臣政権の威勢を示すことに意義があったのでしょう。

 

今週の土日20、21日9:00~16:00に静岡市は急遽現地説明会を催すとのこと。私は都合がつきませんので11月22日(木)からの展示会を覗きに行くつもりです。

 

④⑤慶長十二(1607)駿府城天下普請「築城図屏風」より。

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2018年

10月

17日

米原インター口近く 真宗寺院をお参りぶらぶら

昨日は近江の「醒ヶ井」なる地を無理やり出しました。

以前はこの字の読みに首を傾げたものでしたが関ケ原から彦根辺りをちょくちょく走れば否が応でも目に入ってくる地名です。

こちらの近隣でいえばまずは番場蓮華寺鎌刃城箕浦城そして柏原宿清滝寺京極家墓所等キリがないほど見どころ満点です。

 

以前も触れましたが私は真宗寺院には必ず立ち姿の阿弥陀如来がおわしますのでそれとわかればできるだけその門をくぐることにしています。

 

真宗寺院であるかないかの判定はまず御堂の屋根ですが、近江辺りでいえばかなりの確率で「当たり」です。

ただし最近はガッチリと鍵が掛けられて堂内に入れない場合も多々ありますのでそんな時は外から手を合わせておしまいですが。

 

山間部など檀家さんの件数が「十数件」にまで減少しているというお寺さんなども見られるようになりました。

そういうお寺は平日は家族皆で外部の仕事に従事し、どなたかがお寺に居られるのは休日のみといいますので、通常本堂の入口は閉まっているのは当たり前のことです。

 

また真宗寺院は基本門徒有志の「道場」から発達したという歴史がありますので寺が「代々の家」であって兼務をお願いしたり「苦しいからやめる」とはなかなか言えないところがありますね。

 

最近ではそれにつけて後継者不在という違う意味での危機が迫っていますので現状「全体数はコンビニより多し」といわれる寺の数もいよいよ減少に向かっていくことでしょう。

どの業種でも同じですが、需要が無ければ衰退して淘汰されていくというのが世のならいですからね。

拙寺もひしひしとその波を感じつつあります。

まぁいつものように言わせていただければ「けせらせら」ですが。

 

上記の件とはまったく関係ありませんが、米原インターの近くを走行中に独特の屋根のカタチが気になって寄り道したのが真宗仏光寺派のお寺(場所はこちら)でした。

お隣には真宗大谷派のお寺が並んでありました。

そこで印象深かった件といえば正面階段に尚補助階段を設けるという配慮というものが見られた件。

この手の階段は他の真宗寺院を訪問していて何度か見かけていますが、これは親切な工作だと思います。

 

私どもの年齢では今の拙寺本堂の階段を上がり下がりすることは何の苦労もいりませんが、年配者の場合はそうはいきません。どちらでもステップの上がり下がりで難渋している様子はよく見かけますね。

拙寺は中央部分に手摺りのみを設け、右サイドにはスロープを設置していますが、階段の方の段数はそのままです。

年配者にとっては段々の高さが高く滑り止めもありません。

画像の如く、傾斜を緩くして段数を増やすことは特に効果があるでしょうね。

これなら年配者のお参りも苦にならないでしょう。

 

私もいつかはコイツを真似してやろうと思っています。

勿論DIYですが、階段の工作とその計算は結構難しそうですね。

やはり手摺りは握りやすい丸くなければダメなのでしょう。

拙寺スロープの方の手摺りは恰好を気にして角材なのです。

 

最後の画像は近くの国道沿い、伊吹山をバックにした番場忠太郎の像。

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2018年

10月

16日

源氏六条堀川館址 西本願寺 「左女牛井」

昨日朝のニュースで「これはナイス!」と絶賛したくなったのは京都西本願寺からのニュース。

日ごろ漠然と「何とかならないものか」と思案している電力のあれこれのうち、その計略には諸手を打ちました。

 

お西の坊さんたちが考えた新会社の立ち上げということでその名も「TERA Energy」、こちらは売電会社の様。

お東からでなくお西からこの手の斬新な方向性が示されたことは「やられた」というところですがここは一つそれに乗っかってより強力な体制として欲しいものです。

 

これはまず比較的本願寺派の寺院の多い中国地方5県にて家庭向け電気を販売するもので運用時期も寺来年4月からとかなりのスピード感がありますが「ゆくゆくは全国展開」といいますから非常に頼もしいこと。

当初は自然エネルギー事業会社から供給を受けての稼働だそうですが軌道に乗れば発電事業までヤルと意気込みを見せています。

 

当然に競合する既存電力会社より料金を2%程度安くするとのこと。売電で得た利益からは昨今の檀家さん減少と寺院整備維持等の金銭的補完も期待出来て今のところは「とらぬ狸」ではありますが私どもも「静観している場合ではない」と歓喜したニュースでした。

 

坊さんが営業マン、檀家さんのネットワークを活用すれば比較的スンナリ行きそうな・・・檀家さんも寺の維持費に関してその経費の軽減の提案があれば合点していただける要素は高いと思われます。黙っていればただ寺は痛んでいきますからね。

他の宗派も巻き込んで・・・と言いますので当然に当流や他の真宗系寺院にも声が掛かる事でしょう。

北海道なども真宗寺院は多いと聞きますのでそのシステムを道内にひろげて先般の電力会社の失策のお返しをしてあげましょう。

九州電力の太陽光発電イジメの件数日新聞紙上にありましたが、これも九州のお寺おさんたちでまとめて買い上げて面倒をいう電力からはオサラバしてしまうのがいいのですが。

 

プラのストロー会社のエライ方が「そう簡単にはプラスチックストローを無くすことはできない」とニヤついていたようですが(今のところ紙のストローのコストはプラのストローの約10倍)、世の中の流れは早いですよ。

次々にその存在を問題視する発想が生まれています。

レジ袋の有料化の動きなども将来的にはそれを無くそうという動きです。

その流れに抗う企業があるとしたら未来はありませんね。

私は飲食店で提供されているストローは使用しませんし。

直接飲めばイイ話。

 

私どもの利便性の欠落・コストアップに関しては環境重視の考え方に優るものではありませんので私として少々の不便などは「全然OK」です。

面白くなってきました(ただし国の後押しが絶対に必要です。既存電力会社を特別に守ろうとする動きはあるでしょうから)。

 

さて、西本願寺といえば六条堀川。近くには「源氏六条堀川館」があった場所ですね。

義経がその館から退去した後に焼滅したといいます。

今の堀川通の西本願寺の北側の大きな駐車場と京都東急ホテルの間辺りに「左女牛井」(さめがい)という館内にあった井戸址の碑が立っています(場所はこちら)。

戦前まで井戸は残っていたそう。

こちらの水は村田珠光(こちらに庵を構えています)・千利休などの茶人が好んで使用したとあります。

 

この「左女牛井」(さめがい)という字ですが私は近江坂田郡(米原市)の「醒ヶ井」(さめがい)の地を思い出しました(⑥画像)。

やはりこちらも「キレイな水」(地蔵川)がウリですね。

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2018年

10月

15日

図書館に行こう 健康寿命 長久手 堀秀政本陣址

「身の丈にあった成長」。

マレーシア首相の打ち出したイスラム金融の考え方は案外とすばらしい、これからの資本主義の在り方なのかと考えさせられました。昨晩のNスぺ「借金に潰される」を視聴して。

世界中の企業も国も個人も借金まみれの世の中でもうこれ以上の成長(資本主義)はありえない・・・という専門家の話には少しばかりショッキングでしたね。

そもそも借金というものは成長するための手段で再投資に向かうものなのですが、その回収というものが想うようにいかず、最悪借金のために借金をするという自身がんじがらめの破綻状況に陥るというところを見せつけられ今後世界の人々は最悪の痛みを味わうかも知れないとのこと。

 

やはり「For a Few Dollars More」と「柄にもないことをするからだ」(→ブログ)はすべての人々に対する教訓ですね。

 

テレビ番組としては上記番組の直前の大河では一応はガトリング銃と河井継之助という名前(人物登場はありませんでした)だけは台詞の中で登場していました。

これからの巷間評価が上がることが楽しみです。

 

そしてまた、一昨日の同局の「AIに聞いてみた・・・健康寿命」なる番組のいろいろには驚かされました。

特に「へ~え」と口を開けて視聴したテーマは、健康寿命には一番にそれをあげたくなる「運動と食事」よりもずっと「読書」が大切であるというところ。

驚きのデータを紹介されていました。

まずは健康寿命の第一位として登場した山梨県。

何と人口10万人あたりの図書館の数が全国1位という件。ただの偶然とは思うべからず。図書館が近くにある人の要介護リスクは「低い」という数値も出ているよう。

しかし山梨県の図書館数は(10万人あたり)全国平均の2.61館と比して6.59館と突出しているのは凄い数字です。

牧之原市相良庁舎に併設されている図書館はその名は図書館ではありますが私がこれまで見てきたそれとは比較にならないほどの寂しさがありますからね。

 

しかしそれでも図書館に行って本を探して読むということが何よりの健康長寿であるのですから、大切な存在です。

番組によれば図書館に行って図書を探すことそのものが運動に繋がっていてそれをひも解くことによって脳に知的刺激を受けまた、かつての経験、記憶が呼び起こされて次の新たな行動を起こすスイッチになるとのこと。

暇があったら図書館やお隣の史料館で適当に目についた本をいじくりまわせばいいですね。

まぁ私には土蔵から出た多数の古文書が控えていますが。

 

さて、昨日は唐突に名古屋界隈のお寺を昔の画像から引っ張り出したわけですが本日も同様です。

以前の小牧山城から池田輝政討死の碑周辺(小牧長久手戦)、かなり広範囲ですがその際に立ち寄った場所です。

 

こちらはやはり斎藤家から信長→秀吉と天下盗りを渡り歩いてその勇猛果敢を全国に知らしめた堀秀政の長久手の本陣跡。

本願寺との関わりは同じ信長家臣団の森一統と同様にあったようです。

拙寺御門徒に美濃出身の堀さんがいらっしゃいますが美濃と言う地も近江・北陸と同様真宗の繁盛した地だったのでしょうね。

 

家康軍の押せ押せムードの中、知略によって家康軍を敗走させたことはその後の秀吉の対家康との交渉で優位に働いたことは言うまでもないこと。ちなみに秀政にやられた徳川方武将は大須賀康高に榊原康政といいます。

 

彼が本陣を置いた場所が「桧ヶ根」という小高い丘の上。

今となってはそのような風情はまったく感じませんが当時は見渡しのイイ場所だったのでしょうね。付近を流れる香流川を堀に見立てた本陣だったのでしょう。

現在は公園化して長久手市中央図書館が建っています(場所はこちら)。

きっと付近の方々は健康寿命の長さを享受していることでしょう。 

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2018年

10月

14日

名古屋大仏 桃巌寺 織田信秀の墓 信行と柴田修理も

朝の冷たい空気と庫裏の隙間風ガタガタ音には毎度の事ながらイラっとさせられますが外のハイビスカスの鉢が風のために倒されているのを見てさらに不愉快な気分になります。

冬が近づいている事がいよいよ実感されてきたからです。

厳冬は生命を途絶えさせる季節であり、私にとってもこれから忍耐の季節になります。

少々大袈裟な言い回しかも知れませんが身体にとってあまりイイ季節ではないですね。

 

ハイビスカスたちは毎冬、室内に退避させていますが、今期は新調する物置の2階に置くことを計画していました。

11月初旬には完成してスンナリの左団扇のつもりだったのですがあの台風が過ぎてから当初の計画が一変します。

以前も記しましたが、あの台風は御前崎を中心に家屋、特に屋根や外壁を痛めてそれらの対応に工事業者が大忙しで出払っているからです。

職人だけでなくそれらを手当てするための素材、三州瓦にスレート等生産が追い付かず入荷待ちになっているものもあるようです。

 

よって土蔵はキレイになくなって更地とはなりましたが次のステップには進んでいません。

これから報恩講に僧俗研修会とイベントは目白押しですが散らかりきって行く場所を失った品物たちは何方に放り込めばいいのか只今思案中です。

また「年内いっぱいは何とかなるだろう」とは言っても熱帯性植物たちは一旦どちらかに退避させなくてはなりませんから。

 

さて、数日前からスキャンダラスな報道がされている名古屋のお寺さんについて、そういえばまだブログにアップしていなかったことを思い出したものですから、この機会にと。

ここのところあまり新しくない画像をアップしていますがそもそも「古いもの」を対象としたブログですのでご容赦いただきたく思います。

 

以前、信長の父織田信秀の墓と万松寺について記しましたが、そちらとは別に信秀の墓があるお寺が桃巌寺。

元は末森城主織田信行が父の信秀(法名「桃巌道見大禅定門」)の菩提を弔うために末森城の近くに建てたお寺が始まりです(現在はこちら)。

信行は父信秀の葬儀(ドラマ等であの有名な場面)の際、信長の奇行とは対照的に「非常にまとも」に振る舞った人物でのちに信長に騙し討ちにされています。

 

何せこちらには日本全国公然とあるいは密かにそれぞれ「大仏」と呼ばれるものが存在しますが、こちらにはいわゆる「名古屋大仏」なる仏が鎮座しています。

その色彩感覚には少々度肝を抜かれますが・・・。ただしこちらは昭和62年に作られたもので古さという点では有難みが薄れます。ご住職の趣味的なものの意義が強いかと。

 

それにしても万松寺にしろこちらのお寺もどうしてそれほどの土地が現在もなお伝承できたのか不思議ではありますね。

土地そのものの価値も名古屋という大都会とこちら相良とは比べ物になりませんが、私どもも戦前はある程度の土地が地域に存在していました。

寺の寺領というものは江戸時代より公儀より安堵されてきたもので規模の違いはあるでしょうがどちらであっても土地というものは確保されているものです。

その土地は戦後のマッカーサーの施策、農地改革によって召し上げられることになりますが、いかにしてその土地が今に至って存在できたのか・・・きっとかなりのヤリ手だったのでしょうね。

 

五輪塔3基と銘文の記された石塔一石が以前の末森城近くから移設されていますが、その銘文には興味深い事が記されています。

(大きい五輪塔⑤は移設の際、設けられたもので遺骨がまとめられているといいます)

一石塔が三つの五輪塔の墓碑銘を記したものだとすると3つのうちの真ん中のものが「前備州太守桃巌道見大禅定門」」で信秀というのは間違いないところ。

そして右側が「織田武蔵守信行公」。左側が「柴田修理勝家公」とあります。こちらで柴田勝家の名を見かけたことに感動したものでした。

そもそも勝家は信秀に仕えたのち信行の家老でした。

 

左右の五輪塔については何方が何方とは確定できるはずもなく。正確に持ち出され設置されたという確証がありませんね。

一石塔の左右での位置関係はとりあえず決まっているようでそれを理由としてこじつければ右側が柴田か・・・。

 

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2018年

10月

13日

花木伝右衛門「反本丸」(へんぽんがん)近江彦根牛

私の心のふるさと(色々ありますが・・・)の滋賀県というところは真に面白い情報を流します。

「今年のツキノワグマの出没予測」というものですが、やはりその獣について私どもとは違って、より滋賀県民にとって身近な生き物だということがわかります。

静岡でそのような情報を流す慣習はありませんから。

 

牧之原市内では以前その目撃の噂があったりしますが、まずはカモシカあたりの見誤りでしょうね。単発であって続報というものが途絶えますので。

最近になって当地のカモシカの出没話は結構聞くようになりました。あれと藪の中で出くわせば一瞬驚いて「すわ、クマ」と思っても不思議はありません。私の場合は慣れっこになってしまいましたが。

 

滋賀のクマニュースに関して今年は人の居住区境界への出没が「多そう」とのこと。

ドングリが不作ということで食を求めての彷徨とのことですが、私がこれからのシーズンに美味い空気を吸いに城歩きなど兼ねて歩きたいとその趣向を求めるエリアといえばむしろ彼らの居住区の方ですからね。

琵琶湖周辺の山には隈なく生息数が「ある」ということを知らされただけで滋賀の山に足を踏み入れる事を躊躇います。

私が思うに雪が降る前のこの時期ほど快適な散策はないのですが、彼らの冬眠前の絶妙な果実捕食時と重なるというのは痛いですね。最近のクマは「冬眠しない」なる話も聞きますしそうなればうかうか厳冬期も歩けなくなりました。

 

奥方と滋賀県内を歩くことがありましたが、その時はつくづく思いました。

クマと遭遇したとして、果たしてうまいことやりすごせるか・・・もし我先にトンズラしたとしたら家庭崩壊に成りかねませんからね。かといってクマではいかにも分が悪すぎます。

 

さて当ブログにてかつて幾度か(たしか2回)「For a Few Dollars More」なる語を好んで使用していますが、これは私が中学高校時代に何度も見た(以前は頻繁にテレビ放映されていました)映画のタイトル(原題)です。

C・イーストウッド好きということもありますが、そのタイトルは特にお気に入りです。こうなると一生モノですね。

煩悩まみれの私は当たり前、人間というものの性質をよく表した語だと合点して口ずさんでいます。

状況に応じて「a Few Dollars」の部分をその失敗に至る欲求の対象を変えて言うこともあります。

 

この「格言」的示唆は最後の「More」がイイのです。

日本語の「もっと」や「もうちょっと」のところですがその「あと少しだけ」の余計な欲求が往々にして致命的に至るという人の本性の空しさを感じさせます。

 

これは、老子の「足るを知る者は富み(知足者富)~」とは真逆の指向であって物欲その他もろもろ「もっと富むために・・・」ですからね。

要はそのリスクを取る考え方は「私は大丈夫だろう」「少しくらいなら」の慢心でもあります。

敗時多因得意時」と同じですね。

 

今年はドングリの実が少ないといいますが、山にキノコたちの生育は豊かなようです。

その収穫は年配者の楽しみでもありましょうし、農家の現金収益の一助になっているとも聞きます。

私はそもそもキノコの有毒無毒の判定はできませんしその味覚についても良し悪しの判断もできませんので興味の外なのですが、ニュースではキノコ狩りに出向いて滑落等の死傷事故が今年は多数あると聞きます。

 

その件奥方と語っていると「お前も、『あと数枚の墓を撮る』などと欲を張って事故るなよ」と。

「墓を欲張って墓に入る」のはさぞかし皮肉だとも。

私はすかさず「獲る」「取る」「盗る」ではなく「撮る」だからと言い逃れようとしましたが、「心の充足感は同じ」であってそこにも慢心があるのだとの仰せ。

 

やはり常に自分というものは疑ってかからなくてはなりません。映画のタイトルを胸に抱いて成長してきましたが、仏から見たら小賢しさと「変な自信」ばかりで危うい事このうえなしですね。

 

画像は以前奥方に連れていかれた彦根の千成亭。

その時は近江の山城登りを計画しましたが、クマのいるエリアではなく彦根市街地の牛の昼食を強要されました。

仕方ないですね。

やはり私独りで歩いた方がいかにも効率的です。

独りだったら昼食などにのんびり時間をとることはありませんしクマ出没の際ののちのちのゴタゴタを想像しないで済みますから。

 

花木伝右衛門は彦根藩士。

彦根藩は江戸期に牛皮加工と牛肉生産(屠殺)を公認されていた唯一の藩でしたが花木は「牛肉を食す」という今では当たり前の食材の最初の道を開いた人でした。

勿論、当初は「薬剤」―「反本丸(へんぽんがん)」として御禁制除外の言い回しがあったのですが、いつしか禁制もなし崩しになって献上品ほか多様な加工も広まり人々の口に入って行ったのでしょう。ただし庶民の口に入るまでは明治以降まで時間がかかります。

 

この店は近江牛・・・彦根牛という日本で最初に公然と牛が食べられた地の由緒ある店です。

最後の画像は彦根市内袋町の別館の「華見」です。

こちらは少しばかり敷居が高かったので遠慮いたしました。

私どもが入ったお店は①地図の通り。

 

⑤の植栽が外の明るさによってその影が室内⑥に映っている図。普段は行かないような、私にとって柄でもない場所ではありましたが近江彦根の歴史の一面を知ることができました。

尚「柄でもない事をするからだ」はイーストウッドのある映画の吹き替え台詞の一つ。自重しろ調子に乗るなの戒め。

映画に育てられたということかも知れません。

 

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2018年

10月

12日

浅井家家臣に山崎新平の名 仙石秀久 小諸城石垣

10月に入ってから半袖1枚の外仕事が当たり前といった日が続いています。

北海道在住の方からは冬の使者「雪虫」が飛んだとのことでそろそろ「初雪」の報せを聞く頃とのこと。ちなみにその「虫」についてその地の寒さとともに私は知りません。

 

そんな中、昨日は本堂スロープにクレオソート(防腐剤)を塗っていると何とクマゼミが泣き出しました。

先日、解体した土蔵あとからセミの幼虫を掘り出してしまったために鐘撞堂の裏の枯れ葉の下に「スマン」と言って埋め戻したのですが、まさか彼が季節を間違って出てきてしまったということではないですよねぇ。それでしたら本当に申し訳ない事をしたものです。

奥方がそれを聞いて、「独りで出てきても寂しいね」と。

当地はこれから雨交じりで寒くなるそう。

まったく気の毒な奴です。

ここで一生を終わるというタイミングですが来年まで待てなかったということでしょうかねぇ。

 

さて、ここ数日相良近江屋さんの山崎家について少々触れましたが私の知りうるところは野洲郡三上村の豪農あがりの麹商というところまでです。

拙ブログの「江州佐々木南北諸士帳」の「5 犬上郡」には佐々木末籏頭として山崎城主の3人の名が見えます。

まったくのあてずっぽうで犬上郡と野洲郡では少しばかり距離がありますが、何かの関係も考えられる・・・と勝手に頷いている私があります。

 

また一つこれも推量の域ですが「山崎」といえば「改撰仙石家譜」にサラっと登場するといわれる「山崎新平」の名があります。

その人は今のところその書物にのみを以て他所には見かけることはできない名ですがそれによると「浅井長政配下の兵」とあり、仙石秀久に元亀元年の姉川の戦いで討ち取られたとあります。山崎一統は六角(佐々木)、浅井、信長、秀吉など時代を追ってある時は主に従って滅亡離散しまたは主従の関係を変えて生き残って脈々と家を繋いでいったのだ思いますが、特定するには他の文書の出現を待ちたいところです。

 

画像はやはり戦国時代にあって浮沈は有りましたが希有な出世と存続を遂げた家、次から次に天下取りの配下に収まった仙石秀久(主は概略土岐家→斎藤家→織田家→豊臣家→徳川家)が天正十八(1590)に入った小諸城の石垣。壮観です。

 

まずは右手上方の二の丸へ向かうスロープを上がります。

④の虎口を曲がると右側に二の丸へ上がる階段が。

⑪のストレートを進めば本丸天守の石垣が。

どなたも居なくて息子が一緒に居たりしたら天守台下から張り付いて登攀したい衝動に駆られるでしょうね。

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2018年

10月

11日

門徒のことば遊び 南無阿弥陀仏の折句

昨日は他人様の詐欺メール来襲のやれやれを記しましたが私の携帯電話には「0800」で始まる発信者からのダイレクト電がありました。

以前も記しましたがこの「0800」は「0110」と同様のフリーダイヤルの番号で、まず「出なきゃよかった」のセールストークが電話口から聞こえてくるはずです。

当初は自宅の回線に掛かってきていましたが遂に携帯電話にも・・・と驚かされました。

その時は「080」で始まるといえば携帯電話からと思い込んでいて、そういう場合はまず知り合い限定ですね。

ということで何の躊躇いもなく電話に出てつまらぬ時間を取らされたことに地団太を踏むことになったのですが、もう学習しています。ひたすらシカト(無視)ですね。

080のスグあとに0が連なる0800~の番号はセールストークのマシンガントークが控えているのです。

それにしても何処から番号が流出しているのか・・・いつもながら信用のならない時代を思います。

「個人情報の取り扱いについて」責任を持つ等々の安心安全の言葉は嘘ばかり。裏で何をやっているかわかりはしませんね。

 

さて、先日は近江門徒出身の相良近江屋の山崎氏(またはこちら)ついて記しましたが大正から昭和初期に当家御当主の奥様が石油の布施家の奥様に出した手紙があります。

その中に「南無阿弥陀仏」の名号を詩に折り込んだ(折句)言葉遊びの文言がありましたので紹介させていただきます。

2つあるそれの1つ目には「南無阿弥陀仏の今一日は」なるタイトルが記されていました。

今この一日を大切に生かさせて頂いているその喜びが溢れていて何とも素朴ではありますが、今の私たちに欠けている事それぞれについていかにも御指摘をいただいているようで。

 

少なくともあの想像を絶するアホな大統領トランプの自国、いや自身第一主義の自画自賛とは掛け離れていて清々しい思い。

常に自分の立場は仏と浄土にある(「いずれ死ぬ」)ことをちゃんと知っていることの表明かも。

お調子に乗っているお前さん、ガラにもないことをやっての痛ましさの数々。仏は見ていますよ。

煩悩具足の私は自分自身など到底信じられませんね。

「信」は南無阿弥陀仏でしょ。

 

「南無阿弥陀仏の今一日は」

 

何(南)の不足も 今一日は 私しゃいわずに 只にこにこと 

無何がたたれば 今一日は 私しゃ精出す お国の為に

明日(阿)といわずに 今一日は ご恩報謝に 私しゃ働らこう

御名(弥)を唱へて 今一日は お慈悲喜ぶ 私しゃしみじみと

誰(陀)に逢ふても 今一日は 私しゃ笑顔で 親切に

仏にだかれて 今一日は 私しゃ行きます お浄土へ

 

何()の不足も 手足を思へ 親の伸して くれたもの

無理か道理か 見わけてもらへ 神も仏も お目がある

()寝するなよ もったいないぞ あけて下さる 朝日さま

身()持ち大切 大酒のむな 酒がさせるぞ 打ちたたき

大(陀)わすれて おとがめうけて 貧の種まく 勝負ごと

仏にならねば 親にも子にも これが此世の 暇乞い

 

②はイカしたお寺の掲示板。サイト上から拝借しました。

郡上八幡の願蓮寺は真宗大谷派のお寺です。

 

「私も死ぬ」があっての「お前も死ぬ」ですね。

五帖-16白骨御文の「われや先 人や先~」。

 

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2018年

10月

10日

波津古地図にある大澤寺に消滅した喜盛庵と宝泉寺

先日の法要の読経が終わって内陣から外陣に移動するために一旦外廊下に出るのですが拙寺で昔から「坪ノ内」と呼んでいる本堂北側の庭に人が居るのに気が付きました。

通常、そのエリアに人が居ることはありえない場所で、もしそれが夜間であれば庫裏へそっと戻って「さて何(槍か刀か)を持ち出すか」と思案するような異常事態です。

その際は袈裟を纏っていましたし大勢の皆さんを本堂に待たせている身でしたので一瞬間棒立ちになってしまいました。

 

狭いエリアですので私の存在に気付くはずなのですが、その人は

懸命に柿の実の重みで下がった枝に背伸びしてその実をもいでいるところだったのです。

2つばかりの「収穫」のあとにその知らない人と目があいました。何を言ってくれるのかと思って様子をうかがえば「法事は終わった?」でした。

私も「一体誰? 何?」という気持ちでしたが「ただ柿のことで他愛ない」と判断して本堂に入りました。

関係者を装うその機転の発言(先手を切って質問する)に私も何も返す言葉はありませんでしたので一本取られたの感。

 

柿は父が好きで2本ほど木を植えたのですが、毎年適当に実をつけます。私は特にその果実を期待しているわけでもなく最近はずっと放ったらかしにしてただ鳥たちの憩いの場としていました。

びっくりしちゃいますからね。庫裏に一声かけてくれればよかったのですが。尚、檀家さんでしたら全然問題ないですよ。

(ただし夜間はダメです。押っ取り刀となってハチャメチャです。目も悪くなりました。イキナリ刃物を振り回しかねません。)

 

私も経験はあります。

柿やイチジクに栗、タケノコ、海ではサザエ取りなど。ただしその楽しみの多くは学生時代くらいまで。

それもさすがに他人の屋敷に入るリスクはまず取りませんでしたね(ただし墓への要求はなかなか・・・)。

 

いろいろケチって収穫物ほか自分でやれる事は自身で何とかしようと試みますが、たかだか「柿の果実2個のために」そのようなリスクをとるなんて。ちょっと信じられません。

山でタケノコ堀りをして「通報されちゃった」(警察沙汰)という方を知っていますが相当に面倒な事になりますからね。

何よりみっともないでしょうよ。というかやはり犯罪です。

 

まぁ最近の世相というか人様を騙そうという輩が溢れかえっている様を見させられていますので古き良き時代を思わすアナログ的お気楽さにむしろホッとさせられました。

 

さて、昨日の相良波津の古地図の右上の部分、東西に走る飯津佐和神社前の波津中通(国道150号線はまだありません)が二つに分岐する辺りがよくわかります。

そちら辺りが昨日記した樋尻川と交差している場所でした。

 

今の地図⑤に青いラインで記されていますが田沼時代はその先で「むら池」(昨日ブログ)からの流れと相良城の堀と繋がっていたというのが推測されているところ。

 

地図を拡大したのが①。

その樋尻川から「むら池」側に戻った路地に二つのお寺のマークがありますが、その南側の寺が私どもの大澤寺。

向かいのお寺が曹洞宗般若寺の末寺の喜盛庵(きせあん)です。

喜盛庵は本尊が薬師如来。慶長十年に般若寺三世が創建とありました。昭和も戦後辺りまであったようですが廃寺となって今は墓地のみになっています。

 

そして今一つ、やはり廃寺になった黄檗宗の宝泉寺が見えます。

現在の地図上には曹洞宗泰盛寺が記されていますが、今一つ小堤にあった泰㝎庵という般若寺の末寺と喜盛庵が合併。双方1字ずつを取って牛頭山泰盛寺となったわけです。

②③④は相良町誌より。

 

古地図の宝泉寺の南側の辻に記されているのが高札場。

今は国道473号線と中道の交差点となりますが、古き相良にはその道らしき道といえばその交差点から拙寺と宝泉寺を結んだ辺りまでの小径程度。

そちらから北方向に延びている国道のある場所はかつての田圃でした。というわワケで古地図にはしるされていないのでした。

安政地震の際の宝泉寺から山へ上がる避難はその畦道を走ったのでした。

 

念のため本日はアナログではない、よく考えれば「そんなアホな」的スマホメール詐欺サイト勧誘メールについて面白がってアップいたします。くれぐれもお気をつけいただければと。

某人に送られてきたものをスクショして送っていただきました。これらは全部詐欺メッセージですね。

 

ちなみにその方は楽天とヤフーの利用をしているそうですからおそらくそういったサイトからアドレスが流出したのでしょう。アドレス1件ナンボで売っている不届き者がいるということ。厳重な管理などできませんからね。

面倒ですがひたすら無視してゴミ箱に放り込むことのみ。

それにしてもこれだけの不審メールが来たら私ならブチ切れそう。

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2018年

10月

09日

キラキラネーム「汐見台」の古字名判明 古地図から

午前の法事とお斎は喉の具合含めて体力的にいっぱいいっぱいとなって長めの昼寝をとりました。

私の喉の質というものは以前からあまりよくないことはわかっていましたが、これほど今回の気管支炎風の咳が長引くとは想像だにしていませんでした。このまま厳冬期に入って風邪でもかかれば相当長引いてしまうのでは・・・と少々心配でもあります。

この今回の私の「土蔵病」はやはりその手の古文書あさりの経験のある方では「結構あるある・・・」の様のようで、少しは安心しましたがある方は「2か月かかった」とその完治に時間が必要であることを告げられました。

それでも治ったという事実が大切ですね。

慢性的気管支炎にでも発展するかも・・・という不安もありましたから。

 

そろそろ処方された薬が切れますので今後は日々ハチミツで喉を潤して様子を見ようと思います。

その日の夕刻の正信偈は案外と声が出て自分でも驚いたほどです。

 

さて、先日ある人が相良の「汐見台に住んでいる」と。

「へ~え、それはそれは」とニヤニヤしながら嫌味を言ってきました。

汐見台に住む檀家さんや知り合いもいらっしゃって、その方々にはそのような失礼はストレートに言ったりはしませんが当人もその事情についてよく知っていますし、そんな不躾な談も気にしない人ですので思いついたことをずけずけと言い放つ私がありました。

 

汐見台(その上の高台の晴海台)などいう地名は今となっては大抵の相良人ならば通じる名ですが、私がその名を知ったのはそれほど昔の話ではありませんね。

私のイメージとしては小堤山の南、「むら池」から飯津佐和神社につながる田圃の広がる谷で、その昔といえば下りの畔道を自転車でフルスピードで直滑降遊びをする場でした。

特に二人乗りでゲラゲラと爆笑しながらそのスリルを味わったことを思い出します。

 

その地が不動産デべと町が組んだのか分譲されて汐見台・晴海台なる名称が付けられたのを知ったのはだいたい20年くらい前のこと。

小ぎれいな家がどんどん建って人気の住宅地と化していました。

するとしばらくして入居者からは「水が出ちゃって」という声があちこちで上がってきたのでした。

なるほど、田圃を埋め立てたのですからそうなることも有り得ますね。地盤改良も当然になされたでしょうが、まして元々は水が溜まるような地形でした。

ということは今はやりの液状化も考えられますし、周囲の山を開削していますので山側でしたら山津波も想像できますね。

 

波津・須々木あたりの低地よりは高くなっていますが150号線からもストレートの開口部があるため、もしやの高波もコースを変えることなく流入するであろう立地になっています。

 

そこで今回私が知ったそのキラキラネーム「汐見台」(場所はこちら)の古い字名。

古地図にはなんと「波津谷」と記されていました。寛政二年の地図で史料館の長谷川氏から。

「波津谷」・・・などの名はとってもおどろおどろしい。

読みは「はずのたに」か「はずのや」か不明。牧之原台地の北に「金谷」という「谷」を「や」と読む場所がありますので「や」が正解かも。

近くに「波津ノ谷公園」の名称、古字のヒントとなる名が秘かに存在していました。

古い地名は橋の名や公園に残るというセオリー通りですね。

 

 

波津谷の名のある古地図②には鳥居と社殿が記されていますがそちらが飯津佐和神社。

③地図の青〇が「むら池」があった場所で今は地元ではBGといえば通じます。

私は中学校時代の夏の日に鮒釣りに出かけましたが、諸先輩より「女の人がそこで浮かんだ」という強烈な事実を知らされてからあまり気分のイイ場所ではないと思ってから敬遠、忘れた頃に気づけば埋め立てられてBGの体育館とプールに変わっていました。

 

むら池は樋尻川(鎌倉時代の古き相良湊)の源流のような位置にあって古来からその池で育ったカモたちの子孫なのでしょうね、そちらにわずかに残る排水池で今も尚抱卵し雛を育てて旅立たせています。池らしきものが少しでも残されたことは良かったと思います。

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2018年

10月

08日

小山平吉屋敷銅版画 丸尾復明館と仁田野村幸右衛門

昨日の法要には中学高校の同級生の参列がありました。

その方のお父さんお母さんの回忌法要です。

法要のあとに来年の同窓会には是非来るよう告げられましたがその件は先日記した久保氏のお誘いと同様です。

その方が言うには3名ほどの名を挙げて「あの人もあの子もそしてあの方も亡くなっちゃった」と。

私の今回の「加齢による免疫不全から悪化した気管支炎」・・<土蔵病>(自身勝手に診断)の治癒の遅さと不自由と苦痛を嫌と言うほど知らされて心身弱気になっていたところですのでそれを聞いて少々驚かされまた「なるほどそういう齢になったものだ」と思わず合点しました。

 

私の場合はたまたま母親は健在ですが父母を亡くして「次の順番」について考えるようになった頃の同窓会ということ。

今回は複数の人たちからのお誘いがあって、二次会はともかくとして初めて参加してみようかという方向により心が動きだしました。

 

さて、拙寺の「有徳なる」家として古くから適宜総代世話人に名を連ねている小山家御一統がありますが、先日行った史料館にて小山平吉屋敷の銅版画を見つけました。

こちらは明治~大正期のものでしょう。

20~30年前に当地で「航空写真撮ります」のサービスを請け負う会社がありましたが、おそらくその手のものの走りかと思います。

静岡県内の富豪大店の屋敷や寺社を鳥瞰した図を繊細銅版画に仕上げたというもの。

版元原版はまず依頼者の元に置いて行ったといいますので小山宅に保管されているかと思われます。今度伺ってみましょう。

小山家は相良湊での薬舗が始まりですが分家筋は各広がって大店を構えました。

 

墓石に記したものによれば小山の元の名のりは鈴木とありました。

経緯については不明ですが薬店の先代の奥様、約半世紀に渡って拙寺婦人部を仕切って頂いた千代さんに伺ったところによると「三州足助ご縁」の鎧具足が伝わっていてそちらをかつて足助神社に奉納したと聞いたことがありますので、そうなると足助の鈴木家からの「スズキ」が推測できます。

本通りは当初より近江商人系が幅を利かせていましたのでその長い歴史の中、近江から商売上手の血が流入しているのかも知れません。

そしてまた拙寺二代祐伝は成瀬藤蔵の息子ですので当然に足助とは切っても切れないご縁となっています。

 

薬舗「大阪屋大平薬局」は現在は大沢に移転していますが版画の方は以前の本通りの図ですね。

尚、ケチをつけるワケではありませんが今の「大阪屋」は「大坂」が時代と共に変化していったのだと思います。

その屋号を見ても元の関西系を想像します。

それは取り扱い薬種の入手先が大坂問屋の品を主に取り扱った事からとも考えられます。

 

版画はその家の屋敷のみをクローズアップして他を省略、後景もデフォルメしています。

店舗裏の大きな土蔵に広い中庭には畑らしきスペースも見えます。東側の通路沿いの建物は使用人たちの住居区でしょうか。

②は城東郡池新田の復明館丸尾瞭益邸。

この「瞭益」は医系丸尾家の代々の名のりですね。

③が川崎仁田の野村幸右衛門邸。

江戸期の代々の庄屋といわれていますが拙寺野村一統との関係は不明です。こちらの家系は既に遠州を離れているそう。

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2018年

10月

07日

田沼転封 3,253両のうちの1/3を負担 山崎長兵衛

静岡のド田舎にいる私には殆ど関係がないことですが築地市場の営業が閉鎖されて新たな地に移転するとのこと。

一連のドサクサがようやくに収まったということでしょうか。

秘密のトラブルを抱えているようでまだまだ何か出てきそうな気がしますが、オリンピックを誘致した東京都の件(話が大分違う「コンパクトな祭典」)もそうですが、あまり私どもには関わりの無い(いや関わりたくない)事ではあります。

 

その築地閉鎖について、あるニュースによれば嘘かホントか、生息するネズミたちの大移動が始まってその近くの銀座あたりの飲食店ではいよいよ戦々恐々としているとのこと。

1万匹以上のネズミたちが新天地を探すといいますから。

 

築地の食べ物屋について食通を気取った皆さんがこぞってその美味しさについて推奨している様子を拝見しますが、その話を聞いて、好んで行くところではないな・・・と思った次第です。

「どこも同じだ」とご立腹になる方もおられるでしょうが、それだけ不衛生かつ対策もなく放置していたということですからね。今時ネズミが這い廻っている飲食店など行く理由はありません。新たな場所の環境も衛生状態も不信感漂いますしね。

 

ネズミは「鼠算」といって強烈な勢いで増えますし生命力はやたらと強いですからね。

東京の小ぎれいなレストランの裏にその厄介者の影を想像してしまいます。

「ハーメルンの笛吹き男」風が多く生息している場所はその銀座よりもう少し奥の永田町。そちらの魑魅魍魎にネズミたちを集めてもらえればいいのですが笛吹男たちは人をも騙しますからね。

 

築地での思い出は・・・昨日ブログに記した拙寺の有徳なる人、山崎貞一氏の築地本願寺で催された葬儀式です。

最近は葬儀をこじんまりとお身内だけで・・・といったカンタン形式を所望する風に変わりつつありますが、その時の葬儀のスケールは「箱」の大きさもさることながら参列者の数も半端ではありませんでした。政財界人の参列も多かったようで、静岡高校出身の元総理の顔もあったりで私の緊張度は勿論、父親もかなり気張っていてピリピリしていました。

 

真宗の葬儀では珍しく坊さんは5人もいましたが私は一番の年少で五人男のうちの頭数。

いずれにしろそのような盛大な葬儀式は私にとって最初で最後の経験でした。

 

その山崎家に田沼家の借用書が残っていたそう(現在はその存在について不明です)。

相良の郷土歴史家の後藤一郎氏の「今日の相良史話」という書にあるようです(私はその転載された書面を拝見したのみですが・・・)

それによると文政七年(1824)、田沼意次の四男意正が相良城破却以来、相良復帰復権が叶って陸奥下村藩より相良に入るにあたりその移動費、荒れた相良城址地に再建する陣屋に官舎の費用として3,253両を工面することになりますがその配分が城東郡・小笠郡で1,320両、榛原郡で996両だったといいます。

そして当時の山崎長兵衛が単独で937両を調達したそう。

 

期間は1年といいますが、借用書が残っていたということは・・・布施家と同様に踏み倒されたのかとも思いますが他の利権での弁済も考えられます。

昨日相良史料館の長谷川氏と話しましたが借用書が残っている場合、勿論踏み倒されたということもありますが、土地売買について御禁制の時代ですので土地の権利の移動はできません、表向き借用の躰を取る事もあったといいます。

しかしさすがにそのような見え見えの捻出方法は田沼家としてはやっと帰ってこれた相良にては憚られるかも。

 

御用商人とし藩内の顔として商い全体を仕切らせることによって還元させたというところでしょうがその借用書はいわゆる賃借の証というよりも「権利証文」と同等なのかも知れません。

現在のお国の借金となると状況が違いますね。

国債を乱発して無茶を積み重ねていますがいずれぶっ壊れるかもというのがまともな人の考え方。

中央に居座る法螺(笛)吹きは子孫の世代に負の遺産を押し付けようとしています。

 

長兵衛はそれだけのキャッシュをポンと出せる財力があったわけで、利益の再投資がたまたま殿様に向いたのでしょうが近江商人の凄さというものが推量できますね。

 

画像は三上山。①が大津S.A.②が野洲川の橋から。

長兵衛は本家のある三上村に戻ったところで逝去します。

 

 

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2018年

10月

06日

野洲郡三上村からの手紙文中 近江屋山崎家

午前外で所用を済まして帰宅すると解体屋さんが私を確認するや「ごめんなさい やっちやいました」と。

なるほど教育委員会が建てた看板はへし曲がり八重桜が折れ大事に育てていた松の幼木が瓦礫に埋もれていました。

門を入ってスグの通路側に土蔵の東面を倒したということ。

呆れ果てましたが、お墓参りの人がいなくてよかったと安堵しました。しかし無茶やりますね。

松や桜の命が断たれた事は悲しいことではありますが「これもご縁」と何とか割り切る事はできましょう。しかしもし人様に怪我をさせていたら「ご縁です」などとは言えませんからね。

家に居た奥方にその様子を聞けば「ああ あああ~!」の次にガシャーン。想像するだけで恐ろしい。

私もかなりイイ加減、門前に注意喚起の看板すら掲げていませんでした。

 

排水溝もガラで埋まってしまいましたので大雨が降ったらさあどうなることやら。

何とか今度の台風25号は日本海を北上するような気配ですので私どもは台風のケアはしなくてよさそうです。かといって境内は埃っぽいことこの上なし。

少々の雨を・・・など都合のイイ具合にお願いしたいところです。

進路予想を見れば北海道の先日来の地震頻発地区を通過しそうです。そちらの方が大変です。同じ場所へ災禍が集中するというのは「公平じゃない」と人間世界であったならボヤキの一つも言えましょうが相手が自然となると問答無用です。

時間があるうちに念入りにご準備を。

たとえ徒労に終わったとしても、次に繋がります。

 

さて、門前に立つ寺標と一處墓前の御開祖銅像に記された「山崎貞一」氏も相良の偉人として地元ではその名を知らしめている方ですがやはりチャキチャキの近江門徒です。

屋号も「近江屋」でした。

 

江戸中期に近江野洲郡三上村から分家して遠州に下ったという歴史がありますが、山崎家に残る興味深い手紙がありましたので勝手に抜粋して記させていただきます。

 

「~候却説(さてまた)  布施様西村様板倉様各別家衆モ 御無事ニ御座候哉 御伺申上候  右ニ因別家衆へ乍憚  御伝言被下度候 布施様ヘハ特ニ宜敷御伝ヘ被下度候」

 

明治の頃、野洲三上山の麓にある本家(代々糀商)より相良山崎家へ送られてきた手紙の一部ですが私が驚いたのは①当時もまだ近江―相良の親戚付き合いが続いていたということ②そして布施・西村・板倉の三家をあげている(布施家には特別に・・・)ところからかなり親密に相良との交流があったことがうかがえます。

 

今は「遠い親戚より近くの・・・」などいう言葉を耳にして遠方親族は疎遠になる事が多いものですが、現代とはむしろ通信や移動について安易ではなかった時代です。きっと「大切にするもの」が違っていたのでしょうね。

 

また「布施・板倉」両家とも近江出自は承知していますが、「西村様」に関しては拙寺檀家にありませんので不明です。

 

①は文化六年(1808)拙寺九代祐厳時代に近江屋から寄贈された打敷の裏側。三者の法名をあげ「為 報恩謝徳」イイ言葉ですね。寄進日9月11日の日付から宗祖の五百五十回忌御遠忌の報恩講にあわせてのご寄進だったのでしょう。

劣化が激しくぼろぼろですが。

 

片付けはあと1日かかりそう。あの埃を吸い込むのが怖くて・・・

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2018年

10月

05日

絶不調の中のうしろめたさ 蔵の漆喰の美しさを見て

今度の台風大停電に見舞われた静岡県内でかなりの人出があったのは、停電しなかったエリアのショッピングセンターと食堂について思いましたが、まだほかにもありました。

コインランドリーと日帰り温泉です。

相良の「子生まれ温泉」などは入場制限が出るほどごった返していたといいますね。

お湯さえ沸かせればちょっとした行水で済ます事ができますので、カセットコンロとガスボンベがあればその手の人混みの風呂に浸からなくて済みます。今の時期さすがに水だけは寒すぎます。

災害時の必需品として「是非に置いておけ」と横浜の友人に知らせておきました。

 

また、お寺のように人が集まる場所として今「あればいいなぁ」

と思っているのがカセットボンベ式の発電機。

物置が完成したらそちらに置きたいですね。

燃料保管についてあまり気を使わなくてもイイというところがベスト。

婦人部からこれまでテント3張りに大型ストーブを寄進いただいていますが「次は?」と聞かれたら勿論それをお頼みすることとなりましょう。

 

さて、昨日は土蔵取り壊しの重機が午前10時に来るということで、朝から最後の踏ん張りでまだ散らかっている土蔵内部を片付けました。昨日と同様の什物の箱や父親の榛原中学時代の教科書などの整理に追われました。勿論捨てるべきものは容赦なく処理場行きにしましたが、戦前の教科書についてざっとは見てみたいという欲望にかられて会館の1階にとりあえず残しました。

 

これまでの蔵との関わりでの気管支炎発病とあってこれ以上のあの場での仕事は心底忌避したいところでしたが、そうも言っていられませんので普通のマスクの上に活性炭フィルターのついた少々値の張るマスクを重ねた防御性アップ仕様でのチャレンジでした。

 

勿論症状は悪化。丁度薬も切れていたこともあって重機が動き出してから医師の元に。5回目の通院でした。

余りに治りが悪いために冗談で「もう来ないで」と医師から告げられていましたが、薬によって強烈な咳の連続の症状からは免れているため投薬が切れた場合の恐怖もあって4回目と同様のコンビネーションを処方してもらいました。

奥方も同様です。

 

今ある物、受け継いだ物を壊して中にある物もろとも廃棄するということに関してあの空の下に明らかとなった土蔵の漆喰と格子状にがっしり組まれた木の絶妙に「果たしてこれでよかったのか」と軽薄短慮の後ろめたさに襲われています。

何を想ったとしてもすべて手遅れですが・・・。床部分はシロアリによって完全に落ち込んでいましたのでこれほど側面がしっかりとしているとは思いもしませんでした。

蔵は「何てことをしてくれるんだ」と私を怨んでいるように思えました。

本堂に駆け込んでごめんなさいのお念仏をあげて勝手ながらの自己保全に走る始末。

 

時間の無い中、結構に重量物を出したため今度は腰痛が発生、今回ばかりは罰当たりな仕事をしたためだと諦めきっています。

蔵自体を生かしてリフォームしたら・・・のタラレバを今更語る愚かな自分もありました。

御開祖も自ら「愚禿」と名のったほどですから私が愚かでない理由はありませんが(昨日はNHK「日本人のお名前」で「愚禿」が登場しました)。

それにしても日々右往左往、後悔とぼやきの連続です。

 

シロアリたちへは二度と這い上がってこないようにこの工事が終わったら消毒剤と石灰を撒く予定です。

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2018年

10月

04日

報恩講には御膳でご接待というのが倣いでした 

昨朝からその日の予定をぶち壊されたのは浜岡の叔母からの電話。携帯電話からの発信でしたがそれは叔母が隣の家の奥さんに依頼したからと。

停電でご飯が炊くことができないとのこと。

一瞬「また出鱈目」と頭をよぎりましたが電話口には他人様がいますからまさかと思い「昼に行くから」ということで電話を早々に切ってもらいました。

 

台風24号が過ぎて丸一日の停電については承知していましたが、当に復旧しているはずですからね。

ゴミ片付けで忙しいところに呼び出されて訳のわからない事あることないこと聞かされて閉口していると、どうやら朝から池新田の東町で火事がありそれが原因で停電になったとのこと。

11時30分頃には復旧していたとのことでした。

 

帰り際に懐中電灯を買いに行きたいというので、どうしたかと聞けば「盗まれた」と。「もう停電は無いよと」相手にもせず逃げてきましたが途中で「しょうがねぇなあ」という感じでホームセンターに寄ってみれば、カセットコンロとともに普通の懐中電灯は売り切れになっていました。

私の家には台風24号が来る前に3個も追加買いしていましたので念入りです。数日中に1つ叔母の家に届けるつもりです。

 

さて、気管支炎悪化で先日は静岡市内の古本屋の前を通過するだけでその匂いに胸がむかつくほどでしたが、マスク着用で土蔵チャレンジ。

その日は無数の「腐った」書籍を2階から落し、1つ2つ木の箱を開けてみました。

 

明治二十三年と記された箱には4名の世話役(小山家2名、布施家2名)の名とお盆が数点。

そしてお椀が5個。お椀の箱は朽ちていましたが中身のお椀はまったく新品同様。

塗りもキレイで「コレは別格」という具合に丁重に洗浄し、庫裏の食器棚に収めました。

しかし奥方はこんな「大きな椀を何に使うの」と。

お茶碗と丼の中間の大きさになります。

 

浜岡の叔母が言うには報恩講にはたくさんの人たちが庫裏や本堂に集い、御膳が振る舞われたそう。

子供の頃(戦前)にそちらへの飯盛りの手伝いをしたことを懐かしんでいました。

今となると簡易的報恩講で御先祖さまには申し訳ないような気がします。もっともこれらは相当昔(100年近く)から蔵の中に押し込まれていました。

 

料理を作る側も食べる側もみなさん「時間がない」というのがその理由ですね。

何故に人はそれほどに「忙しく」なってしまったのでしょう。

「心を亡くす」と書いて「忙」。

せめてそれを口にしない事を「心」に留めようと思います。

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2018年

10月

03日

漢字「裏」と「里」は同族 訓読みイメージ消さないと

土蔵のすべての瓦を下ろし終わって屋根の上で屋根土まで下ろせないか算段していると檀家さんが様子うかがいに声をかけてきました。

今回の工事の親方として任せている方ですが「今、屋根屋(瓦屋とブリキ・トタン職人)はどこも居ないよ」と。

「みんな御前崎に行っちゃっている」とのこと。

台風24号の被害で補修依頼の引手が数多ということですが忙しいことはイイことだとは言えない現象ですね。

浜松地区ではまだ停電が続いている場所があります。台風被災とはいえ前代未聞でしょう。オール電化が流行っていますがツブシが効かないことが大いにわかりました。

絶対にありえないと拙寺では不採用です。

 

ちなみに屋根土は境内南側境界線に積んだらどうか・・・とひらめいたからです。

 

さて、先日記した大竹蒋塘(おおたけ しょうとう)の書、拙寺の家訓と勝手に決めつけたものですが

「断送一生棋局裏 破除万事酒杯中   ―  蒋塘漁者」について、叔父に「棋局裏」でなくて「棋局里」、要は「裏でなくて里」がもともとは正解なのでは?という質問をしました。

それは中国系の某サイトにその詩文が掲載されているのを見つけて、そちらが棋局里」だったからでした。

 

それというのも先日芸能人女性の飲酒運転による事故の画像を嫌と言うほど見せつけられ、やっぱり「酒は身を滅ぼすもの」は紛れもない事実であることを確認したからです。

まぁそういう人に限って「自分を信じて」などキレイごとを宣っていることはだいたい予想できますが。

 

すると叔父は今の日本人は「訓読み脳」になっているからイカンと。音読みすれば両方とも「り」でそもそもその二つは同族の漢字だとの談。

半信半疑で調べれば「里」の異体字は「裡」(うち)で元字は「裏」とありました。

 

意味は「うち」「なか」で読みも「うち」でいいだろうとのこと。

叔父は思わず書家の衒学的趣味を感じてニヤリとするところなのだと。「酒杯中」の「中」も「うち」と読ませようとするところも面白がっていました。

古文書に触れていても音読み当て字風はまたぞろですからね。

訓読みで考えない・・・なるほどです。

 

田圃の土と書いて「里」、わたしが一昨日来遊んだのは屋根の土でした。2日間、カラカラに乾いたその土と下の杉皮にそれらを外気を遮断するように覆う日本瓦のベストコンビネーションを感じました。湿気の多い日本の建築の粋ですね。100年以上の経過がありますが屋根の異常は見当たりませんでした。

当初は屋根を突き抜けて落ちることも考えましたがまったく丈夫でした。ただし相当の重量になりますが。

 

③④土蔵向かいの会館2階天井隙間から覗く舞鶴殿。

境内が騒がしいとこちらに逃げ込んでしまいます。

 

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2018年

10月

02日

「教科書も自分も信じるな」 ケガをするぞ(私)

24号台風は風台風でしたね。

一夜明けてみれば案の定、私の作った木塀は倒れて道を塞いでいましたね。どうせ「やられる」と覚悟のうえ就寝しましたのでショックはまったくなし。

これでアレを取っ払う踏ん切りがついたというものです。

 

しかしあの台風は特に静岡県内の電線に被害を及ぼしています。色々な場所で断線して当市内も周辺地域もまたぞろ停電が続いています。

現状回復していない地域もあってそれはそれは気の毒な事です。中にはもう数日続くかも・・・なる情報もあります。

 

夕方になって浜岡の叔母の事を思い出し急いで尋ねれば薄暗い部屋から懐中電灯片手に出てきたくらいです。

檀家さんには生鮮食品を扱う店が何件かありますが何故かそういう方の住むエリアに限って停電が続いていました。まったくあの台風は厄介者、大きな損害は可哀そう。

拙寺の住むエリアは夜間何度か停電はありましたが朝の段階では完全に復帰していましたので何らの不便もありませんでしたから。

 

特に御前崎は停電だらけで復旧が遅れていました。

停電が続く店はコンビニはじめショッピングセンターなどは閉店。電気が通じている場所は大繁盛の様で恐ろしかったのは信号機の殆どが無灯となって交差点は無茶苦茶だったところ。

他に看板が落ちカーブミラーが倒れるなど散見、屋根瓦の飛んでブルーシートが掛けられた家が各所に見受けられました。

 

牧之原市内の被害といえば看板落下と静波・相良両海岸の砂の堆積が顕著のよう。御前崎上岬の如く突風の通り道にはありませんので家屋への直接被害は少なかったようです。

次に25号が追っかけて来るといいますのでご注意を。

 

予定では2日に土蔵の瓦を下ろすことにしていましたが台風一過のスカ晴れのもと「えいやぁ」と二連梯子を掛けました。

お参りに来られる方は誰もが強風の被害について声をかけてきましたがまぁ紛らわしいことでした。

殆どこの瓦下ろしは強行です。予定をかなり押してしまいましたから。

体調不良の中、咳をしながら瓦剥がしての仕事は相当きついものがありましたし、あの土ぼこりを吸い込んで再発は必定でしょうね。「どうにでもナレ」で上がったのですがやはり体力が落ちたせいでしょう、下りる際、梯子の一段目を踏み外しました。

 

初めての凡ミス。普通なら有り得ないと思うイージーミスをやらかしてしまいました。ただし予めロープを固定してかけていてそれをたよりに降りていたため足を梯子にすりぬけて逆さになった所でしたが何とかセーフ。

下に居た奥方に梯子を保持してもらって何とか危機を脱出。

こういう事故は梯子にはしがみつけますが大抵は梯子といっしょに転倒落下するものですからね。

 

ということで私の座右の銘の一つ「自分を信じるな」を。

昨晩のノーベル医学生理学賞を受賞した本庶氏は「教科書に書いてある事を信じるな」「疑ってかかれ」と仰っていました。

 

私は高い所は嫌いではありませんが高い所に上がれば落下と言うリスクを伴いますので「慣れ」というものは一番の禁物と心得ています。何度も致命的寸前のポカをやらかす自分がありますのでその「信じるな」はいつも念頭に入れやることなす事すべて疑ってかかっています。

 

よって上記の如くまず確保用ロープを左右に渡すという段取りが肝要。そのロープを荷下ろし用にも使用します。

それに何より独りで仕事をせず、奥方を無理やりにつき合わせるということも大事。

奥方も気管支炎療養中でしたが。

あと1/4残っていますが、高い所から発見、庫裏の屋根のトタン部分が剥がれていましたので明日はそちらから。

 

高所仕事はクライミンググッズが使用できるのが楽しい。

③図は「アッセンダー」なる器具。

その手のものでは一番簡易のものですがスグレモノです。

カムが付いていて下降(落ちる)する力にはロックして固定、上方には回るという器具でこのおかげで体を固定して両手が使用できるというもの。

これら器具の扱いも慣れは必要ですが、その慣れを持った自分を信じてはいけないのです。

 

偉そうなことを記しましたが咳の具合は悪化しました。勿論体も筋肉痛でガタガタです。これは齢のせい。

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2018年

10月

01日

相良に来た大域 「思無邪」と「信為萬事本」

台風の直撃予報は大幅に遅れて昨日の昼頃は風雨なし。

日差しまで出るほどでした。

法事を2件順延にしていて「なんじゃこりゃぁ・・・」と呆気に取られましたがこのようなスタンスは次に繋がるでしょう。

「自然への敬意」です。

人間の都合の「大丈夫だろう」の表意は必ずといって足元を掬われますからね。

あまりの予想外の天気に奥方と「どこかに繰り出す」ことを思案しましたがやはり自重、自重・・・一日中寺に引き籠っていました。

 

さて、私は相良中学校に3年生の時に小田原より転入したのですが、こちらでの学校生活には多少なりとも不安があったワケですがそれを一掃してくれて、大いにこの変人をフォローしてくれたのが久保氏でした。

彼の真面目さと包容力の大きさによって私を理解してくれたのです。おそらく他のクラスメイト達にとっては「都会からやってきたイヤな奴」的雰囲気を醸し出していた私があったかと思われます。小田原などはまったく都会とはいえないのですが。

 

先日その久保氏が寺にやって来て、同窓会をやるので是非にというお誘いがありました。

これまで何度もその同窓会のお誘いを受けていましたが一度も出向いた事がありませんでした。ハガキでの勧誘には返信ハガキでお断りをしていたということです。

 

直接その久保氏からのお誘いを受けたことに私の心は「たまにはいいか・・・」と出席に傾いたというところです。

実は内心その久保氏というといったい何故に・・・という疑問の残る書を相良史料館の長谷川氏に紹介されていました。

それが「為 久保氏雅嘱」の落款のある書です。

 

書は成瀬大域で三字「思無邪」~おもいは よこしま なし

明治乙未( きのと ひつじ)は明治二十八年(1895)です。

ということは大域が六十八歳。

先日蔵から出てきた大域の書も同じ年のもの。

日坂成瀬家との交流がうかがえる書面も同時に出てきていますので大域はちょくちょく相良に来ていたのでしょう。

果たして久保氏との関わりは今一つわかりません。

 

例によって拙寺の蔵にあったものはクシャクシャで慎重に解くように広げたものです。こちらも何とかしてあげたい一物です。

「信為萬事本」~しんは ばんじの ほんとなす

成瀬大域は真宗門徒ですのでその「信」といえば「行」に対する、つまるところ南無阿弥陀仏の称名とその信心。そこのところを汲んで書し拙寺に遺したのでしょう。

久保家の「思無邪」と同様、額装して掲げるに価する訓です。

「不信と邪」の御時節だけに。

 

成瀬大域は明治八年(1875)に宮中に出仕して書を天皇に、山岡鉄舟は明治五年(1872)から10年間宮中にて天皇の相談役をしていますので当然に面識はあったのでしょうね。

 

①②③は無風無雨の境内の昼過ぎ。

 

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2018年

9月

30日

イカした山岡鉄舟の軸「聲斗」 100年振りの日の目

金曜日は晴れ渡った空でしたが、午前早くに本日30日に法要を予定していた施主あてに電話にてお伺いを立てました。

予定通りに法事を開催するか、その段階で中止にするかハッキリさせた方がいいからです。

すると先方様一同もどうするか悩んでいたそうで、私のその電話によっていよいよ延期という検討を始められていました。

台風24号の列島縦断の予報が出ていたためです。

 

そのあと、予報が少々変わって30日午前の台風の位置が四国あたりとなっていましたので念のため直接お会いしてお聞きすれば「(人を集めて)何かあったら・・・」が心配とのことでしたので、

「天気の事はまったくわからないが、ここはひとつ自然に敬意を表するということで・・・」と順延の英断を讃えました。

その日の晩には1900時開催のお取越しの予定がありましたが延期するとの連絡がありました。

 

私の喉、発声に関しては今のところ五分程度。

咳は何とか堪えられるものの連続発声ができないため呼吸、経文の拝読はゆっくりになります。よって順延は内心ほっとしています。

ということで日曜は家でじっと閉じこもっているつもりです。

何とかやりすごしたいところです。

そして週明けより土蔵の瓦剥がしを手掛ける予定です。しかし25号がそのあとを追っているようでこの先の予定はハッキリしませんね。

 

その土蔵の発掘発見の古文書の品々を何回か記してきましたがこちら(またはこちら)です。

世間一般的にいう「お宝」ではなく古文書の類ですが、有名どころとしては鉄舟の軸が1本に小島蕉園が3本というのはお伝えした通り。

現状体調不良のため途中で投げてしまっていますがきっとまだ何か出て来るかも知れません。

 

蕉園の書については新発見(ブログアップ済)であることは間違いないところ(小島蕉園の偽物の意味がナシ)ですがこの鉄舟の軸は何せ偽物が多いためにスンナリ「そうだ」とは言い切れないところがあります。

拙寺の軸の落款印について全生庵所蔵のものに近いものはありますが・・・

 

模写を真正のものに近づけるために仕上げようとすれば落款印もソックリに作るでしょうからね。

そもそも鉄舟も泥舟も「書き屋」に自らの落款印をゴソっと貸し出していたとも聞きますし。

ということで真贋に関してのさらなる判断材料が時や理由を記した落款と出所です。

しかし落款印はあったとしてもいわゆる落款―「書の事情」を記すものがないものはまたぞろに存在します。

ということでその書の出所がどこなのかが次に重要になるのです。

 

ということで拙寺に突如現れた鉄舟の書の真贋については微妙な点も残りますが私の思いとしては真正であると考えています。寺の蔵出し初物という点ですね。

布施家に残る「鉄舟骸骨」は真正のものであると疑問の余地はありませんがその流れ(石坂周造との関わり)でいえば石坂の「天香閣」直近の拙寺にも布施新助に連れられて立ち寄ったことが考えられます。

まぁ今後の調査でその辺りの経緯を表す文書が出てくれば確信に変わるのでしょうが。

どうしても「鉄舟の書」というとやはり疑ってかかってしまいます。

 

さて拙寺から出た鉄舟の軸はやはり気が利いているとしかいいようがない文言が記されています。

布施家の骸骨は「南無阿弥陀仏」のあとに宗祖親鸞聖人の有名な歌「明日ありと思ふ心のあだ桜~」が記されていて、布施家が熱心な門徒であることを配慮した感がありました。

ただ布施家の骸骨に記された「宮内少輔正五位山岡鉄太郎謹書」の落款はイイですね。拙寺のものにはありませんので。

 

そしてその軸。

こちらにもそのスジではかなり有名な歌が書されています。

一遍さんの駆け出しの頃に詠んだといわれる歌ですね。

やはり「南無阿弥陀仏」を入れたというところから考えても「鉄舟の配慮」を考えてしまいます。

今のところ経緯は勿論わからず、偽物の可能性も少々残りますが、私はこの歌を選択したということからして真正と考えました。

 

一遍上人のオリジナルは

 

となふれば 仏もわれも なかりけり 

            南無阿弥陀仏の 聲ばかりして

です。

その「こえばかり」の部分を漢字二文字、表記「聲斗」で強調しています。そういうオリジナル性は鉄舟らしさが出ているのかと勝手に思いこんでいます。

「聲」は声の旧字で「斗」を「ばかり」にあてています。「斗」は計量の単位の「斗」ですが「はかり」「ばかり」の読みは明治期あたりでは他にも各散見できます。

 

布施家の「骸骨」に対してこちらは「聲斗」と呼びたいところですが、これと同様の鉄舟の軸をお見かけの方は是非に御連絡ください。専門家のご意見ご評価をお聞かせください。

 

若き一遍上人はその歌について添削を受け、

 「となふれば 仏もわれも なかりけり              

            南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ」

と歌を変えていますが、まぁ両者とも悪くないと思われます。

 

「聲斗」の部分が自我に固執している・・・というところがイケナイという添削があったといいますが、「聲」が出されている事は称名念仏にとって一番に大切な事ですからね。

そもそも聲が出ることも「他力」と解しますので「我」にとらわれている様子とはとれません。

 

鉄舟が布施新助に連れられ訪れたか、石坂の家にいて散歩がてらに拙寺にやって来て読経の「聲」を耳にし、その歌を思い出して記したというのが私の連想です。

 

どちらにせよこの軸も相当傷んでいますので修復は喫緊の課題です。

蔵を壊す事になって出費がどんどん増えることになりました。

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2018年

9月

29日

讃えられること神のごとし 松岡万 池主神社

昨日午前は今月4回目の受診でそれは奥方も同様。

医師からは「呪いが感染したからもう来ないで」との第一声。

聞けば「喉が痛くて鼻が詰まって頭がクラクラする」とのこと。

それは「風邪です」と私が逆診断をしてあげました。

私どもは鼻づまりはなく風邪の症状ではありません。

しかし咳の具合は一向に治まる様子がなくクスリが切れたという不安(もっと酷くなるかもという・・・)がありました。

咳の症状は当初のものとは変化しています。

今は喉のスグ先あたりに何かが詰まっているという感覚で息を吸い込むとそれに空気が当たって咳こむという具合です。

咳をしていると体力を消耗してそれだけでクタクタになります。

薬を変えて処方していただきました。

 

これで殆ど1か月の間このワケのわからん病気と闘っていますが

いい加減何とかならぬものかと・・・。

 

さて、静岡関りとして全生庵の鉄舟の墓近くに眠る松岡万について記しましたが、何故にして山岡や勝などが静岡に関わったかといえば維新直後は江戸幕府のミニチュア版として静岡藩(駿府藩)七〇万石があったからです。

松岡万もその流れで慶喜の護衛として静岡に来たというわけですね。

静岡という県は富士・安倍・大井・天竜の大河ほか中小の河川が流れ、その治水の観点から水利路程掛なる役職が置かれ、石油掘削だけでなく土木工事の面でも海外からの新技術を取り込もうという方向性が模索されていました。

 

その水利路程掛に就任した松岡万は意外にもその英断から「神」として祭られているのです。

現在の磐田市の南側は平地に田圃の広がる長閑な場所ですが、静岡産業大学の北側に大池なる池があります。

明治初頭の「開発」ラッシュの旗印としてこの大池の干拓というテーマが掲げられることになります。

 

自然を破壊して人的構造物を作ってきたのが近代化だったわけですが、この大池の件には地元住民からは大きな反対意見が持ち上がります。

それが穀倉地帯ともいえるこの地で大池という一大水源が消滅することに危機感を抱いた農民たちでした。もともと水利に関して地区同士のもめごとがあった地でしたので訴えには慣れっことなっていた幕府以来の末端役人たちはその訴えを起こした者たちを捕えてしまいます(大池事件)。明治三年のことです。

 

その陳情を水利官として耳を傾けて現地に向かって調査し、農民の立場になって「その開拓は無効」という判断を下したといいます。

その農民の死活問題に対しての英断を住民たちは喜び松岡が生きているうち(明治九年)に彼を祀る神社、その名も「池主神社」(別名松岡霊社)を建てて彼の功績を讃え、後世に残したのでした(場所はこちら)。

その後松岡は明治八年には東京の警視庁に入っていますが、利権者を無視して弱い立場の人たちの意見を優先、開拓阻止を上申するなど今の役人さんとは違いますね。

昔の役人と言う者は公正正義に生きていたのでした。

尚、ここでいうお役人とは立法府の長に忖度する行政と特に司法の事です。

「地主神社」なる神社は聞き慣れていますが「池主神社」というのも面白い所ですね。

 

大池は今時少ない住宅地にある絶妙の野鳥の楽園。

磐田市の宝物です。

これが今も残るということが松岡の采配だったということを「忘れまい」という当時の民の感謝の結晶が池主神社でした。

生祀(せいし)というカタチは存命中の人間を祀ることですが、小島蕉園の徳政に礼して祭神となった件を思い出しました。

 

⑥池主神社は水神社のお隣。周囲には川に水路が目立ちますが古くから水争いが絶えなかったよう。こちらの北方にも水神社があります。

「命の水」その有難さを私たちは知りません。

最後の画像は大池から見た静岡産業大学(SSU)。

環境は良さげですが磐田駅からは少々遠そう。若い書生さんなら大した距離(1.8㎞)ではないでしょう・・・。

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2018年

9月

28日

「雅嘱」と天香閣主人(石坂) 泥舟落款 相良史料館

相良油田については何度か当ブログでも記していますが「産業技術遺産探訪」というサイトに画像付きでまとめられた記事が掲載されていますのでこちらにリンクさせていただきます。

 

昨日は相良布施家に残る石坂の借用書の件その他の鉄舟→泥舟の借金の流れを推しました。

鉄舟も泥舟も揮毫乱発をその助けとしていたことは世に残る彼らの名の記された書の多さをもって知ることができますね。

それに加えて偽物の夥しい量が出回ったということは先日記した通りです(鈴木鉄舟)。

 

画像の「風月雙清」扁額は相良の某醤油醸造を商う家から出たといわれるもの。相良史料館の入り口に架けられています。

落款は為天香閣主人雅嘱御手余人書」、落款印は高橋泥舟。

 

香閣とは上記油田紹介のサイトにもありました。

石坂が相良滞在の為に工面した場所でその主は勿論石坂周造。相良宝泉寺跡の事でしょう。

さて「落款」と言えば書画の「印」と通常捉えますがその「印」は厳密に「落款印」と言い、本来の落款とは揮毫するにあたっての状況・動機・理由・時・場所などを記す事を言います。

よってその揮毫についての当時当人のその気持ちが伝わってくるもので落款印だけのものと比べてその真正度は高いと思われます。

 

「為 香閣の主、石坂周造 雅嘱(がしょく)」ということ。「雅嘱」とは「依頼され」の落款特有の言い回しです。

その後に続く「御手余人」の解釈ですが、自己を謙遜したのか実は「手に余す」義弟石坂への「やれやれ」を記したものか・・・後者のウェイトが高いかと。

 

お醤油屋さんは石坂周造が相良を去る際に借金の方として貰い受けたか・・・。

①②相良史料館と③油田の里公園④掲示物とは場所が違いますのでご注意を。⑤⑥は③の相良側。

石油井戸が乱立していた④の図はこのあたりでしょう。

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2018年

9月

27日

静岡関りでは高橋泥舟も 谷中大雄寺 

こう雨が降り続くとやらねばならぬことばかり抱え込んでいる身としてまったく困り切ってしまいます。

もっとも体調の方も万全ではなくあまり「さぁ、さぁ」という具合に張り切って動くという体調ではありませんね。

境内周辺は草ぼうぼうとなって土蔵周辺は散らかりっぱなし。

どちらかでも記しましたが物置再建工事にあたりケチって土蔵の瓦は私共で下ろすことにしていますがまずそれができないと工事が始まりません。

土蔵南側に足場を建てるために木々の枝払いが必要ですがそちらの宿題も残っています。

お天気が晴れていれば「ぼちぼち」という気になりますが、こう雨が多いとお手上げです。

 

そこへきて台風24号が進路を変えて本州縦断コースを辿る予想が出ました。金曜日が晴の予想なのですが、とにかく台風対策から始めなくてはなりません。土日は法事でどうにもなりませんし・・・。何時までたっても工事が始まりませんね。

 

さて、勝海舟のメッセージを山岡鉄舟が駿府に出向いたシーンが先週の大河ドラマにありましたが、本当は西郷へのメッセンジャーの大役は鉄舟ではなく、高橋泥舟だったことは劇中省略されていました。高橋は当時不穏な空気の漂う江戸の慶喜警護という重大任務があったうえ慶喜も絶対的信頼をしていた高橋の不在に対して心細さを露呈したようです。そこで急遽駿府に飛んだのが山岡だったのでした。

 

高橋は槍一本で出世(将軍付き)したと言うほどの剣豪でしたが、それにしても幕末で活躍あるいは生き残った武士というものは剣の腕は剣豪師範クラス。

それに人を口説く話術があればまさに鬼に金棒だったのでしょうね。

そして何より山岡鉄舟も高橋泥舟もともに新政府政権への地位に拘らなかったところがいいですね。

昨日は鉄舟と義弟の松岡万の件を記しましたが鉄舟が亡くなったあと、その借金は泥舟が肩代わりしたといいます。

要は泥舟もおカネには困っていたと思われますがそこで例の揮毫乱発ということになったのでしょうね。

 

ここでおさらいしておきますが、そもそも山岡鉄舟の旧姓は小野で小野鉄太郎。そして高橋泥舟の旧姓が山岡でした。

石坂の件がありますので混乱しますね。

山岡家の長兄に就いて槍術を磨き、母方の高橋家を継ぎますがその後長兄が死し、やむなくその妹の英子に婿養子として小野鉄太郎を迎えたのでした。山岡英子の妹が桂子で石坂周造へ。

石坂の借金は鉄舟→泥舟へと継承されたものと。

 

高橋泥舟の墓は谷中の大雄寺(場所はこちら)。本堂前の大きな楠の下にあります。鉄舟の全生庵と距離的にそう遠くはありません。大雄寺は母方の菩提寺だったのでしょう、全生庵とは宗旨が違いました。「家」を大事に生きた時代でした。

 

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2018年

9月

26日

この人も静岡に縁 新番組 松岡万 墓は全生庵

相良の布施新助が石坂周造から資金貸し出しの要請を受けて受け取った借用書の発行日は明治十二年の七月でした(ブログ)。

鉄舟門下として石坂は筆頭クラスのキレもので鉄舟に目をかけられていたことがわかるのは石坂の三回目の明治二年の投獄の際、山岡のとりなしで山岡お預かりとして娑婆に出してもらっているところ。

その際明治三年に鉄舟の奥方の英子の妹の桂子と再婚して「義弟」となっています。

 

その後信州に「石油が出た」という(殆ど眉唾的な・・・)情報を入手してからその世界に飛び込んで行ったというのが日本における石油資源開発のはじまりです(明治四年)。

「長野石炭油会社」の創設がそれでのちに「炭」が取れて「長野石油会社」。その社名から今の「石油」という語が意味をなしたとのこと。目の付け所は凄いとは思いますが・・・

 

彼は弁舌に長けて上から下までうまく丸め込むことに関しては右に出る者はいなかったよう。

鉄舟を特に信奉する者たちに松岡万・村上政忠・中野信成の猛者の名がありますが彼らよりもさらに一枚上手だったとのこと。

 

今考えれば口が上手いといえば「山師」を思いますがそもそもその語は「詐欺師」に近いイメージがありますからね。

とにかくその画期的新素材「石油」は将来の日本を背負って立つ産業になり、これからの国にとって欠くことはできない産品であることを説いて歩き、資金を集めまくったといいます。

当初の資金集めは順調に進んだ模様。

 

明治五年にその山師石坂(そのように揶揄された)は遠州相良の菅山に油が浮かぶ田んぼの存在を聞きつけ村上正局と共同で相良油田採掘事業を始めます。

当初はそれなりに相良油田からの産出があって(年最大720㎘余)彼の事業としては相良は成功例でした。

彼の石油に対する思い入れとその「山師」的野心は野放図に借金と開削試掘を推し進めるばかりでそれに見合った果実の伴わないものだったのでした(長野善光寺北、相良菅山→新潟尼瀬)。

まぁ「どちらか掘れば石油が出て来るかもしれない・・・」などという発想は今でいえば有り得ない事はわかりますが、当時においてそのような「夢」の見方について十分にわかりますが。

 

殊に黒船来航からアメリカナイズ(何でもアメリカ人のやることなすことは凄いので見習うべき)されていた世相が彼の背中を押したのでしょうがアメリカ製掘削機械の導入とアメリカ人技師の招聘にコストがかかったようです。

その技師はまったく役立たずのズブの素人だったようで潤沢資金の一部は彼への対応(雇用契約)でも疲弊したといいます。

弁舌上手の石坂も「アメリカ」にはまったくかなわなかったのでしょうね。山師もアメリカのペテン師にはかなわなかったのでした。

何やら今の状況と同じような・・・イージスアショアなる大層な装備品を買わされそうで。今聞き慣れた「生産性」とやらは皆無ですからね。

車をアメリカに輸出させてもらうため・・・のよう。

 

資金欠乏の石坂が頼りにしたのは兄貴の山岡鉄舟。

その援助資金を元に明治八年に石坂は渡米して最新式掘削機を買い付けますが結局すべてが徒労に終わって、財産も差し押さえられたうえ彼の会社も破産と相成ります。

その状況の中であっても明治九年には石坂の長男宗之助を鉄舟は娘の松子の婿に向えるほどですから鉄舟の石坂家に対する面倒見は半端ではなかったのでしょうね。

 

そこで石坂が相良に舞い戻ったのが明治十二年でした。

各油井破綻の中、こちらの相良菅山の井戸は稼働し収益を上げていましたので、まだまだその仕事に未練があったということでしょう。

その段階での借金工面が布施新助へ向いたということです(借用書)。

鉄舟は石坂の布施家の借金以前の借金の保証人になっていたようで、コツコツとそれを返済(本来の「なし崩し」)していったようです。

 

カネと飲み代欲しさに相良じゅうの金持ちの家に行って揮毫したという鉄舟のお話は相良に残っていますが、これらはすべて弟の石坂のためだったということですね。

その鉄舟のなみなみならぬ思いとその血縁的関係が昨日の墓の位置に現れているのでしょう。

ただの「近さ」ではありませんからね。

 

鉄舟門下「鉄門」の一人、松岡万は新番組隊長として慶喜と駿府に下っています。その流れで「水利路程掛」になり牧之原開墾を手掛けた中條景昭らその他交流し今の静岡茶産業の基礎発展に尽力しています。

 

 

「孤松院安息養気不隣居士」は全生庵の松岡万の墓。

鉄舟のスグ近です。③画像奥に鉄舟の墓が見えます。

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2018年

9月

25日

石坂周造夫妻の墓 山岡鉄舟家墓地前 全生庵 

物騒な事件のニュースが日々お茶の間に舞い込んできてはいるものの最近つくづくこの日本は「平和な国」を思わせたのは市内地頭方新庄の猿出没ニュース。

てっきり地方版のニュースと思いきや全国版でした。

何年か前に拙寺周辺にも猿が出たこともありました。小田原では奥方の車に猿が乗り込む寸前までいくほどその遭遇は普通の景色でしたからどちらかに「何とかしろ」の通報などは思いつきもしませんでした。

 

連日マスコミが張り付いて下手人探しの捕物劇。

市の方からも休日出勤なのでしょう、大分駆り出されている様。

当の猿はその人間どものあたふたをあざ笑うかの如く逃げ回っています。1枚も2枚も上手の感があります。

「放っておけばいいじゃん」じゃあダメですかねぇ?

 

彼らに齧られた方、痛い思いをした人には気の毒ですが、交通事故のようなもの。それも確率はもっと低いでしょうが。

彼らがいるということは自然豊かの裏返しですし、長閑な場所とのお墨付きをいただいたようなものでどうか許してあげてください。マスコミさんの集中取材は却って不安を煽りすぎるきらいがありますね。

彼らも生きているのですから。収穫前の作物色々なども拝借することだってあるでしょう。

 

今一つ(今のところ)「日本とは違うなぁ」と思う事はベネズエラの今年のインフレ率が100万%という殆ど、もはや笑うしかないようなお遊びの如くの数字を見て。

そちらの国民はたまったものではないのでしょうが。

ニュースでは2014年以降230万人が出国(脱出)しているようですが、それは100万円が1年で100円の価値になるということらしいです。100円ショップが100万円ショップに?

 

私にはその辺りの事情はよくわかりませんが国が紙切れを刷りまくっているのでしょうね。

日本もベネズエラの大統領と負けず劣らず、3期目とその座にしがみついているソーリが居ますし国は巨額の借金をしまくってその解法すら手掛けられない様を見せていますがあの2.0%のインフレ率が達成できないでいるほどにモノの価値は超安定的。

その良好なバランスはいつかはぶっ壊れそうな気ももしないでもありませんが今のところは「ベネズエラでなくてよかった」という気はします。

 

しかし昔からインフレ率の天文学的数字と0が限りなく並んだお札を拝見しますがいったいどういう実生活となるのか少しだけ味わってみたいという興味は少なからず起きます。

 

さて、その天文学的という表現に近い数字ではありますが明治期に巨額の借金を踏み倒された相良の布施石油の件を思い起こしました。借用書の発行者は石坂周造でした。

その借用書は相良の菅山にある油田資料館に展示されています(ブログまたはこちらそしてこちら)。

借用書にある金額の換算推定額は上記ブログに記していますが

(相当いい加減な数字ですが)事業と投資の失敗というものは色々な人に迷惑をかけるものですね。

 

石坂周造と彼の奥方桂子の墓は全生庵の山岡鉄舟の墓のスグ手前にあります。

高橋泥舟の妹が石坂桂子、桂子の姉(英子)は鉄舟の妻という関係。

とにもかくにも鉄舟と周造そして泥舟は相良の石油に目をつけて相良に滞留していました。

勿論相良に一番に長く居たのは石坂で、先日は廻船業で繁盛した小田家にも来ていたという話を伺いました。

ちなみに石坂が住んでいたのは宝泉館といいます。

今の波津コミュニティセンターの南側、以前の黄檗宗宝泉寺廃寺跡ですね。

拙寺と目と鼻の先ですので顔を出していることが考えられます。古文書の探索はまだまだ手掛けたばかり、慎重何かの痕跡を探してみます。

 

④の画像は拙寺の本堂裏から。あの赤には惹かれます。

 

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2018年

9月

24日

全生庵 山岡鉄舟居士之賛 碑文は勝海舟

ピークアウトなどとんでもない。

のたうち回りの朝としては最悪の日でした。

昨朝はあの奥方の呼吸困難のメカニズムというものを身をもって体現させていただきました。

気管支炎のの連続は生体の防御反応であることは了解していますが、「咳が止まらない」ということはどういうことかということですがそれは「息が吸う間がない」ということ。

 

特に明け方に酷い症状に陥ります。

まずは咳が連続すると同時に鼻づまりが発生します。喉の炎症状態が鼻に派生するのでしょうね。ここで鼻呼吸が遮断されるワケです。

そこへ来て咳が止まらなくなり、どこかのタイミングで息を吸い込まなくてはならなくなるのですが咳と咳の間を見計らって吸い込みます。ところがその吸い込んだ空気が気管支にからむようにむせて、咳が重ねて発生するのです。

吸った空気に対して生体反応としてそれを排除すべく咳が出てしまうということなのですね。

「なるほど」とその呼吸困難のシステムを理解し鼻づまりながらも何とか細かい鼻呼吸を心がけて事なきを得ました。

 

体力を消耗しヘトヘトになって起床しますが、投薬の連続で胃が荒れていること、血圧が高めになったということが不愉快さ加減に拍車をかけます。

檀家さんの中には気管支を患う方や中には酸素呼吸器を離せない方もいらっしゃいます。そのような苦しみがあったということを知らされました。

私たちのからだは当たり前のように吸いこんだ息を吐き、また再び吸い込んで吐くという不思議の作業を続けていますがこの「あたりまえ」は実は「奇跡」でありその綱渡り的偶然の上に命があることを感じました。

蓮如さんの白骨の御文(五帖-十六)

「ひとつの息ながく絶えぬれば・・・」を思います。

うまい空気が吸えること、それほどの仕合わせはありませんね。

 

さて、昨日の「大河ドラマ」はちゃんと見ました。

山岡鉄太郎の例の台詞(朝敵徳川慶喜の家来 山岡鉄太郎)もありました。

先週のその晩は苦しんで眠り呆けていましたので再放送をチラッとばかし見ていましたが。

竜馬の近江屋の件、西郷陰謀説を示唆する内容でしたね。

あの竜馬の台詞回しだと竜馬にむしろ好感が持てる内容でした。

昨晩もそうですが、一貫して徳川慶喜悪者という流れからの非戦論の展開のオチとしては「薩長交戦好き」の線。

「錦の御旗」のでっち上げを提示する内容で本当のワルはどちらでしょうというところ。

 

さすがに河井継之助は出てこないでしょうねぇ。

維新迎合の物語―本当は私的な制裁や権力奪取が目的(河井)―に水を差すものですから。

 

さて、鉄太郎(鉄舟)の建てた全生庵の本堂の脇に標記「山岡鉄舟居士之賛」の碑が建っています。

題字はあの番組にも台詞の中で出ていました有栖川宮熾仁親王、詩文は勝海舟によります。

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2018年

9月

23日

小仁田薬師堂御開帳は25日(火)まで 17年振り

昨日は朝から土砂降りに見舞われて屋根を叩く雨音に目が覚めました。当家ではそれを「羅生門」と呼んでいますが、今年の夏は各地でそれがありましたね。ただしここ相良にあっては一瞬ではありましたが珍しいくらいの強い降りでした。

 

昨日で約3週間。奥方に尻を押されて再再診を予定していて、この雨で尻込みしていると「敢えて10時過ぎに行けば空いていだろうからそれまでしばらく・・・」との忠告を受けました。

すると雨は止み青空が・・・待合室はガラガラでスグに診察室に向かう事ができました。

「まったく治らないよ先生」が私の第一声で「それじゃあ」ということで予定通りレントゲン撮影での診断となりました。

それにしても今年はCT(MRIは2回)は別としてもX線は4回とかなりの被曝振りです。

すると「肺がきたないね」と。

「肺炎にはいたらないが気管支炎・・・」との診断となり投薬する薬を替え、吸入器を処方されて帰宅しました。

 

帰宅してからスグ、カメラ片手にゴホゴホやりながら小仁田の薬師堂へ向かいました。

以前記した今年の御開帳2題の一つでもう一件が先月の清水堂でした。

こちらは場所的には勝間田城の段丘の勝間田川を挟んだ向かいの段丘「穴ケ谷城」の南麓になります(場所はこちら)。

 

小仁田の部落全体を囲むようにして白い布状の物が巡っていて疑問が沸いたところでしたが元を辿れば薬師如来の指に繋がっているようでした。

野山の彼岸花の赤が青い空に映えています。地元の方々総動員の様で御堂の前では甘酒の接待を受けました。

やはり清水堂と同様、「次(17年後)は来れないね」の声が行き交っていました。私なんぞそれどころか・・・

 

いいパンフが配布されていましたのでそちらをupします。

 

⑨日光⑩月光の両菩薩は薬師如来の脇。

近年の修復の痕が薬師の顔と胸のキラキラテカテカ部分。

スペインの遺物修復のセンスよりはマシですが昭和の終わりからバブルの頃はあの手の修復の手が施されてしまっているのが散見されます。

拙寺の海の如来さんもそうでしたから他所のことは言えませんが・・・。

下の最後の画像、五人男の額もよく見るといたずら書きらしき箇所が見受けられます。享保九年とありなかなか良さげですから惜しい事ですね。

 

尚25日(火)は17時までですが26日(水)は10時30分閉扉式。

その日は8時から10時30分までギリギリ拝観できそうです。

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2018年

9月

22日

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