2017年

9月

22日

古城町続き 藤原邸閑院と今の妙顕院

最近の若年層事件の頻発が目立ちます。

まずは「自分の息子を心配していろ」との御指摘がありそうですが、あくまでも一般論として・・・。

先日報じられた静岡の事件。

私が一番に嫌悪しているあの「ゲーム」というものへの没頭から転じた狂気についてです。

父親からゲームについて注意された高校1年の息子が「激高して父を刺殺した」という痛ましい事件でした。

 

ゲームという「ただの娯楽」と考えていたアイテムが人を、いや肉親を殺めるきっかけとなるなど、十分に世の中狂っていると思う事ですし、それはあってはならないことです。

いかなるお遊びの範疇のもので、どういった種類の「16歳の楽しみ」だったのかは知る由もありませんが、私たちはアレに関する許容と鷹揚の考え方は今一度修正していくべきかも知れません。

最近子供が、そして社会がオカシイのは「ゲームが原因である」という仮説をたてるとしたら果たしていかなる反論が出て来るでしょうか。

 

ゲーム会社の大人たちは日々「儲けの種」であるゲームの新作を模索しています。

誘引し没頭継続させることだけに心血を注いでいる様子をうかがうことができます。

どうやってハマリ込ませて課金するか。ただそれだけですね。ビジネスといえばビジネスですが・・・。ただそのカネ儲け、おかしいと思わないですかね・・・コントロール仕切れないのでしょうかねぇ。

 

それが「親を殺してまでゲーム継続を守る」というところにまで精神構造を変化させている事に焦燥感を抱きます。

この件、彼特有の問題として片づけていいのでしょうか・・・

何よりその行為がゲームの継続どころか、わが身人生そのものの継続を危うくするということのリスク思考までをも消し去っているのですから。

その許容については「社会の病的重症性」を特に考えると、もはや容認できないことです。

一言でいえば「バーチャル非現実世界」へ誘うそれは現実人間関係の醸造期を阻害して場合によってはその人の人生そのものをも破綻させるというところに繋がるということでしょうか。

 

さて、一昨日相良に帰宅してヘロヘロになっているところでブログを更新したのですが、結構いい加減な画像(昨日の②)をアップしていました。

今一度本日も①にアップしますが、そもそもあの駒札は字が消えてしまって何が記しているか判読不能でした。

 

その内容は「京都観光ナビ」に記されていますので転記します。

「ここから北西に当る西洞院通、押小路通、油小路通、二条通に囲まれた地域は、平安時代から鎌倉時代の初期にかけて藤原氏の邸があった所である。

当初は藤原冬嗣の邸であったが、11世紀初期に藤原公季が伝領してから「閑院」と称した。

また、高倉天皇の時代(161~1181)大内裏が甚しく荒廃した為、閑院邸が里内裏(臨時に設けられる皇居)して利用され、ついで後鳥羽天皇もここで皇位を承継されるなど朝廷の中心となったところでもある。

以来、後深草天皇に至る9代90余年間、里内裏ともなっていたが、正元元年(1259)五月に火災で焼失した。

 

閑院の南殿にて月前松を詠める 

「いまはまた 世々をかさぬる 庭の花 

    ふりてぞみゆる 秋の夜の露」 ~順徳天皇~ 

                        京都市」

 

秀吉はそういった一昔前の公家権威の盟主「藤原」に縁深いその地に自身の「これから」を準えて「城」を建てたということになります。そこでなくてはいけなかったのでしょうね。

そして秀吉に追い出された格好となった妙顕寺はこちらから北方向にいった堀川寺之内、その名も妙顕寺町(場所はこちら)にあります。この辺りもぶらっと歩きましたが塔頭寺院も各あるよう。私が一番に気に入った景色はあの「朽ちて滅ぶ」を表したような「絵」です。

築地塀が崩れて廃墟の様に変化するところここでも「無常」を感じます。

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2017年

9月

21日

古城町なる古の名称 秀吉の二条城 妙顕寺城

息子を京都に送り届け、買い込んだ生活用品に食料を部屋に納めたあとは「昼飯でも・・・」ということになりますね。

しかし京都市内は食事をとれる店は各ある中、ひょいと車を停められて入店できる店はそうは無いですね。

最寄りのコインパーキングを利用すればいいのですが、最低でも1時間400円の出費は加算しなくてはなりません。

地所が高いから仕方がないのでしょうが、駐車場設置の店を探すのが面倒ですからね。

 

先日は渋谷・恵比寿界隈でしたがちょいと仕事を済ませたあとに食事をしただけで3000円を超えていました。よって京都はまだマシの部類です。

コインパーキングの仕切りですが京都は30分単位(人気の場所は高い!)、東京は15分単位です。ここでも都内車所有のバカバカしさを思います。

 

その時入ったのは彼の家の近くの「宮本むなし」チェーン。

ふざけた店名ですが何しろお財布にやさしくてガッツリいけますので書生さんからサラリーマンまで気安い店。

なにしろ定食なら御飯のおかわりが何杯でもOKというのがウリの店ですね。

大通りに面していますので勿論コインパーキングを使用しなくてはなりません。まぁ見知らぬ街をブラつくのは悪くないものです。

その時もうまそうなカレー屋をみつけましたので次はそちらに行こうということになりました。

 

息子の住まう場所は堀川通りを入った弾正町界隈。

その辺りには食べ物屋さんはありませんし、堀川通の北行きの商店街には数件は目にとまるものの南下しだすとUターンは面倒になりますしそもそもコインパーキング自体ありません。

「宮本むなし」は堀川通を二条城を挟み込むように丸田町通と御池通にそれも堀川通に比較的近い場所に2件あります。

 

御池通のその店の北側、御池通と並行して走る押小路通近くの地名に「古城」なる地名がありますが、この地名はしっかりと訴えているものがあります。

それが秀吉の二条城といわれる妙顕寺城の址です。

秀吉が聚楽第を建てる以前に京都で政務を執るための「城」といいますね。

普通「二条城」といえば今の二条城、修学旅行の学生さんと外国人観光客で溢れかえっている場所ですが、そちらは一言でいえば江戸期の城、徳川の城ですね。

 

信長の二条城は武衛陣町の現平安女学院

秀吉の方はといえば息子が今居る弾正町や一条戻り橋あたりが北限と言われる聚楽第があまりにも有名ですが、当初の京都の屋敷はこの妙顕寺を追い出して(秀吉は寺を移動させて集約しました)築いた「京都の新二条城」でした。

 

周辺、遺構などというものはまったくなし。城址など微塵も感じない、高級住宅地の佇まい。

今は真宗大谷派の西福寺前にそれを記す石柱が建っていますがその古の「古城」なる地名を残していただいただけでもうれしいことではあります。

上記⑤画像の奥に「今の」二条城の隅櫓が見えます(場所はこちら)。

一番最後の画像は今度絶対に寄りたいカレー屋さん。

京都の町にはカレー専門店かなり多し。丸太町通から新町通の「カリル」なる店。食レポブログになりそう。

尚、「奥の墓道」氏はカレー食を週3回に減らしたとのこと。

理由は私が奨励した皮付きピーナッツ食を並行して痛風が悪化したことによるそうです。

なんでも食べ過ぎはよくないですね。

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2017年

9月

20日

今どきちょっと変 田沼意次評 浪花節的カタリくち

不動産価格は首都圏に限ってバブルの様相を呈しているそうです。トーキョー中心のみのようですが・・・。

先日は当地新聞折り込み広告にて静波の「バスターミナル徒歩30秒」の如くの分譲地が3万円/坪という数字を見て開いた口がふさがらなくなったばかりですが東京山手線内のマンション価格の高騰はまるで魔法でも使っているようにも感じてしまいます。

 

以前は東京のドーナツ化現象というものが言われましたが今は都心回帰、一言でいえば「逆ドーナツ化」ともいわれているよう。東京でいえば山手線内、昔はそこがドーナツの如く穴が開いていたのですが、今はそこに住まいを求める人々が多くなっているということ。

半面これまでの人気沿線宅地(一戸建て)の価格は下降、人気は都心マンションにはかなわないよう。

お金持ちの方々は交通機関に困らず自家用車不要、何から何まで便利で不自由なしの集合住宅への人気が上がっているとのこと。バブリーな投資用ではなく、自ら住むというのが大きな違いです。

 

本当のリッチなリタイア後の生活というのはやはり田舎暮らしであるという絶対的自信がありますが、果たして自家用車を取り上げられてしまったとしたら・・・何をしていいかわからなくなりますね。そりゃ田舎は刺激なさすぎ・・・和みはあってもボケるかも。

 

では中古マンションは?・・・不動産屋現役の叔父が言うには、東京オリンピックと品川新駅新設の決定(コレが「魔法」か)により中古でも「昭和57年」(耐震基準)をクリアしていれば山手線内は値持ちがよく「一相場」の再現があるかも・・・とのこと。

新駅が出来るのは山手線の「田町」と「品川」の間ですが周辺の人気化は波及しつつあるよう。ここでも同じ山手線でも南西方面が勝ち組ですね。

 

まぁ不動産価格など「あってないもの」の如く、10社の不動産屋がいれば10種の値がつくほどテキトーのようです。

そしてたとえば1~2週間で物件が売れてしまったら不動産屋の値付けが「失敗した」というそうです。

買いたい人が出るまで待つというスタンスで最初から自分の思う「利益」をのせて提示し、喰いついてきたら様子を見ながら値引きするということのようです。

踊らされるのは嫌なものですが、私どもにその辺りの需要は皆無ですので遠巻きに見ていればいいだけ。まったく異次元、これも日銀の「魔法」が演出。

 

さて、これは看過できないと、檀家さんに持ち込まれた書面が上記。藤枝若宮八幡宮の手配り用印刷物。神社の紹介ですね。

私はこれまでその手のものへ意地悪く誤字を指摘したりしたことがありますが今回はそういった感じとは違います。

まぁこういったものは仰々しく立派に、そのすばらしさというものを記し地元排出の偉人を過大に評価するものと理解していますが、そのあまりに他者を揶揄、中傷しすぎている点、そしてそもそも記述がおかしい(「寛政の改革の・・・」件)というところが「見逃しておけない」点なのでしょう。

 

まぁその「悪徳悪名の名高い」といわれる殿様はその地の近隣市民にとっては、その失脚に関して大いに異議があって残念無念の悔恨を未だ引きずっていることでありますから、下手をすれば自治体同士で喧嘩になりかねないような文言ではあります。

 

どなたがどういう理由で記されたかは知る由もありませんが、現実に今年にいたって尚この手のものが配布されているのであれば、笑って見ているというレベルではないかもしれません。

 

当地の方たちは地元愛があります。

私は逆に無知を晒して恥ずかしいことと「放っておけぱ」の気持ちですが、史跡研究会の他のみなさんの意見もお聞きしたいと思いました。

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2017年

9月

19日

 「敗時多因得意時」は何事にも通ずるベストな訓戒 

そろそろ息子を京都に送りに行くにあたって、念頭注意を要することがありますね。

高速道路の通行は不可欠ですが、世間ではやたらと事故が多いよう。いつものことですが長距離の高速道路の移動は気が重くなります。

人間は人それぞれの性格がありますし、技量やその時の心の動き(イライラorのんびり・・・)のタイミングによって状況は違います。そこへ来てうっかりミスや居眠り、そしてスマホの件などもあって最悪、事故につながってしまうのですがそれらの各人々が心身状態ごちゃ混ぜになって走っているというのが高速道路閉鎖的空間。

こちとら、まともに走っていたとしても(齢は重ねてピンぼけ増していますが)そういう現場に遭遇してしまうという不運もありますし、やはり一番に「無常」と隣り合わせを感じるのが「道」なのです。

また当局の取り締まりにあって罰金を支払うというのもどうしても精神衛生上イイものではありません。

 

息子の助手席に居て今一番に強く言っているのは「追い越し車線を漫然と走るな」です。

コレはしばしば速度超過に繋がってしまいますが、世間ではその件、取り締まりの対象になる事を意外に知らないということ、そしてその取り締まりの判断が曖昧で明確でないという、より消化不良の結末を招きます(警察官のその時の判断・気分にて)。

 

よって前の車両と一緒に追い越し車線をただ走っているだけで「取り締まられるのはオマエだけだぞ」と脅しています。

 

道交法では「通行帯が2つある道路では左側の通行帯、通行帯が3つ以上ある場合には一番右側以外の通行帯を走らなければならない」と決められていますのでそれを根拠に取り締まりが行われます。ちなみに高速道路上の取り締まり件数の第2位です。

これはスピード違反の場合はスピードオーバーの数字を提示して証拠とします(慎重性を要する)が、「追い越し車線に入って追い越ししたのちに速やかに走行車線に戻らなかった」「漫然と追い越し車線を走っていた」という事実を突きつけられたら文句の言いようがありませんからね。

まぁ調子に乗ってスイスイ走っていたらロクな事がないというワケで。

 

さて「四苦」(生老病死)についてはコレ、人生をおくるうえでの「付き物」、人間付帯事項ですからたとえ折角の「成功」の足を引っ張ったりその人の目的を道半ばで頓挫させてしまったりの件、これだけは「縁」としていただくほかは無いでしょうし受け入れるのみ。仏教の伝える「無常」そのものですからね。

 

そしてそれ以外、人生やその道を踏み外したり、大失策、後悔しても後悔しきれない態様に陥る「その時」の状況というのが大抵は自身によって惹起されるという標記。

 

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」なるビスマルクの放言を聞いた事がありますが、コレは端折りすぎた語かも知れません。

「他者はバカで自分は利口」風の言い回しにちょっとした嫌悪を抱いてしまいますが本意は「自身の経験のみによってその道や未来を判断するよりも多くの過去に生きた人々が繰り返してきたこと(歴史)から学んだ方がイイ」ということでしょうから案外その語は私としては合点のいくものとなります。

 

では歴史は何を私たちに教えているかといえばいかにもカンタンでそれは昔から私が先生たちに言われ続けた語です。

それが「お調子にのるな」です(信長も秀吉も・・・その他大勢)。

私は子供の頃にそれを言われ続けて成長しましたがこの語は大人になるにつれて聞こえる雰囲気が違ってきます。

それが、つけあがる・増長する・驕る・傲慢、慢心になる等々「自己過信」という宗教世界にいてサイテーの烙印を押されるような酷評のレベルとなりますからね。

 

そういうことでこの手の態様は身を滅ぼすことが鉄則であるということを知らせていることがわかるのでありますが、「歴史」はその手の「失敗」の繰り返しを教えています。

今でいえば政治家の類がその代表格なのでしょうがみな学習できていないというか歴史というものを生かしきれていないのです。大先生がそこにいらっしゃるのに・・・

 

表記「敗時多因得意時」は中国の故事。

読んで字の如く、いたってわかりやすい。

ただし先日その字のどちらかで見た解説に「恚」の字に「志」をあてていましたがそちらは少々意味が違うかも。

まだ瞋恚の「恚」としてそのまま「怒り」として解釈するのもイイでしょうがここではスンナリ『「得意」の時』。

 

実はこの語は対の語があってその前に 

「成名毎在窮苦日」が付きます。

「成名毎在窮苦日 敗時多因得意時」で一つのことわざ。

昔は「名を成す」ことは人としての一義でしたのでこの言葉は致し方ないでしょうが現代にいたっては「敗時多因得意時」こそが一大事となる訓ですね。

 

失敗はまま得意の時に因る・・・。

 

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2017年

9月

18日

香沼姫なる姫様の伝承 屋敷跡に埋葬の伝

風は強いが気持ちのイイ秋晴れ。これが台風一過というヤツですね。雨も大した降りはなく当地色々無事のよう。

どうにか相良の祭礼は終了していましたがどうこう言いながら大した雨にもならずイイ塩梅に過ごせたようですね。

それにしても小堤山という耳元であげる花火の爆音は何とかしてほしいものがあります。

意味があるのでしょうかねぇ、中日は5~6回は打ち上げていました。

「十分告知されているんだからもういいよ・・・」という感じ。

 

昨日は私の思い出深い「井蛙」の現場を記しました。

この小田原陸上競技場の直近、東に降りる道を下ってから出たところを右に、再び右方向に上がったあたりは小田原高校前のテニスコートの下方という位置関係になりますが、その地点は北条家一統「香沼姫」の屋敷址推定地といいます(場所はこちら)。

10坪強のスペースに祠が一つ。彼女の墓のようです。周辺には

石塔・石仏等が無造作に。

 

私は中一までこの台地の東端の城山中学校に通っていましたが同級にY君という人がいました。御先祖は「北条の姫様だ」と吹聴していることを友人から聞いた覚えがあります。

どうせハッタリかヨタ話の類だろうと思っていたのですが北条家には謎の姫様の伝承があって、今更ながらそんな話もまんざらではないのかも・・・などと思っているところがあります。

尚、ズバリ北条姓を名乗る家も散見されていました。

 

姫様はそもそも北条氏綱の娘説もありますがその名は正式に出てきませんのであまりアテになりません。

まぁ文書に残っていないからといって「違う」とは決して言いきってはいけませんが・・・。

家として正式に承認されていない子供があったと解すこともできますので。

しかし当時の大名クラスとしては子供はたとえ女子であっても政略結婚用としてスペアとしていくらでも需要はあります。

必要あらば家臣の子を一旦自分の養子にして当家縁組して婚姻させることまであるくらいですから。

よって「姫様」と呼ばれていたならばやはり一応は「姫様」だったと信じるのがスジ。婚期が遅れて行きそびれたの類か・・・

 

しかしこの姫様は生涯一度も婚姻を結んだこともなく小田原で一生を過ごしたとも伝承があります。

いづれも言い伝えどまりですが婚姻してないのに何で子孫なのだ・・・と思うところなのでもあります。

言い方は悪いですが、「墓守」発祥の家系というものは名家にはつきものですので、おそらくその手ことを言っているのかも知れません。

 

一昔前まではただの丘の斜面でしたが新興住宅地として分譲されています。江戸期の文書にもそのY君の苗字が出てきますのでおそらくその屋敷、墓域の管理を任されていたのでしょう。

私設個人管理の墓域というものは往々にしてその手のものが多いですね。

移動撤去しないだけマシなのかもしれません。

 

最期の画像、鋭角に道を上がります。

 

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2017年

9月

17日

競技場トラック 小田原城外郭御前曲輪 人質曲輪 

私の「井蛙」はここ。

小田原時代の小学校の頃、区やら学校の企画で「城山陸上競技場」という案外早くからアンツーカーによる整備がされているトラックでのイベントがありました。

競技での参加で私の思い出に残る件といえば大学3年の時に「冗談で受けた」南関東競輪選手適正試験選考会でした。

 

競輪選手になるための試験には自転車競技の「実技」か「適正」の二つの道がありました。

今はどうなっているのか知りません。当時適正組の試験とは①100m②立ち幅跳び③1500mの三種と学科試験で、腕自慢いや足自慢の猛者が集まると聞いていましたので自身どの程度のものか「試しに受けよう」ということで願書を提出しました。

 

私は当時すでに真宗僧侶になるための学校(大学1年の時夜学で行った専修学院)は終了していましたので坊さんになるまでは「何でもOK」という気持ちはありましたが学校を中退する気はまったくありませんでした。

 

どこかに記録が残っているかも知れませんが私はこのアンツーカーでスパイク無しシューズで100m走を11秒5というタイムで走りました。

南関東在住の体育会系のチャレンジャー参加者五十数名のうちなんと2位だったということに気をよくして、入社試験の集団面接で「運動はサッカーが主、100mは11.5秒で走ります!!」などと鼻高々に調子づいてハッタリ含めて語ったあとに、次の回答者が「私は11.2秒ですが・・・」とドヤ顔で横目で見られた事が忘れられませんね。

 

「井蛙」(せいあ)とは「井の中の蛙 大海を知らず」です。

「今居る井戸の中、自分世界オンリーで得意になっている狭量な蛙は本当の広い世界を知らない」まさに私の姓「今井」です。まあどんな小さな世界であってもなんとなくでもちょっとでも「輝」があればヨシとしましょう。

 

その小田原陸上競技場は周囲を山に囲まれ箱根外輪山からの裾の東端。西から箱根の山系がCの字の如くその谷を囲みます。

東側開口部からなだらかな下りで「谷津」と呼ばれる地に続きます。

 

古くから御前曲輪と呼ばれ内部の掲示板の如く敷石が発掘されていますが「祭祀」の場であったと記されています。

私には唐突のようでよくわかりませんが(ずっとその解釈)、別名の「人質曲輪」の方がどうもしっくりくるのですが・・・

周囲を山に囲まれて、非常に狭小閉鎖的な谷部ですからね。

北条氏が関東を平定していく段階で攻略していった支配一族の人質たちをこちらの屋敷群に居留させたと考えたくなりました。勿論、二心には酷い仕打ちにて対処・・・という場だったかも知れません。

 

この場所に行ってみればわかります。市内在住の人たちからすれば滅多に訪れるような場所ではありませんから。

①~⑤は西から東側開口部。⑥⑧⑨は南から北。

最後の画像がクラブハウス上部西側に迫る崖部(場所はこちら またはこちら、あるいはこちら)。

 

試験の方は1500mを途中棄権しておしまい。

小中の同級生の競輪選手がたまたまそちらで計測していたのですが、彼から「1500mを適当に完走していれば合格だったよ」と聞いて、ますます増長したものでした。100mのウェイトが高かったようです。

今は年齢制限がなくなっているようですがその頃はその制限によって翌年の再チャレンジはできませんでした。

そちらの方向に行っていたとしたら寺に入っていることはまず間違いありませんがもっと違った人生があったことと思われます。タラレバですが。

 

 

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2017年

9月

15日

「尾三相州転遷之道場」正恩寺 忠隣の妻妙賢院

連休初日の法事は1件のみ。

後の二日間に法事が無いのは、既報の通り相良の暗黙、「祭礼の日に法事開催しない」からですね。

ちなみに昨日の法事は吉田町からでした。

朝から降雨はありましたが酷くもならず、有難くもお墓参りの際は雨も止んで傘いらずでした。その後もずっと大した雨にならず、御輿が行き交う様子はわかりました。

 

私どもは法要終了後ばったりと寝床へ。

夕方に目が覚めた時にはまた朝が来たような気がするほど、前日のハードワークの疲労感が際立って出ていました。

これは奥方の様相を東奔西走のうえ「七転八倒」とまで記したようにその「後処理」のそれぞれについて着手の検討を兼ねてたち回ったからです。

 

何も、いくら「姉さん」とまで慕っている叔母さんが亡くなったからといってそこまでヘロヘロに疲労するワケはないだろうと思われます。普通はそうでしょう。

しかしこの叔母さんは一人住まいで家族がいなかったのです。

何らかの理由で自宅で倒れてしまったのですが、たまたま約束を入れて会う約束を入れていた当奥方とその母親が第一発見者の如くの立場で救急依頼、聴取から検死、解剖そして搬送・葬送依頼まで2日間かけて回ったということと挙句は母親の入院というオチまでついたのでした。

 

そこで昨日記した施主代行の葬儀を奥方がすべてをとりしきって、終了後は遺骨を積んでから叔母の部屋の様子伺いに。

それはただただ立ち尽くすのみでした。

どうやって片付けよう・・・

その後私を引き連れて母親の病院に見舞って報告、そして実家の犬の様子を見るなど、色々を行ったということです。

まぁ借家ではないので時間はかけられますが、何せこちらから遠いというのがネック。

 

不動産屋世界のいわゆる「クリーナー」を依頼すれば事足りるかとは思いますが、高いですよ。ちなみに洋画に出て来る「クリーナー」は事件現場をあたかも無かったようにするか、遺体を片付けるプロのことですね。

 

叔父が言っていましたが、独り住まいの年配者が亡くなって相続権者の子供たち(三人)がその賃貸物件のクリーニング代金を「誰が払うか」で揉めた例を示していました。

その時は80万円の請求があったそうです。

最近はゴミ屋敷ブームというかその部屋を掃除する代わりに一部始終を放送するという番組がありますが、結構製作コストがかかってますね。聞くところによると持ち出すものは基本的にすべて無価値というか「ゴミ」で買い取りはなし。家具などは階上にて出しにくい場合は部屋でバラすそうです。

 

先日画像をアップしたエンディングノートはその叔母さんのものでしたが、結局得られるデータはなし。皆そこのところまでは用意するものの、死というものがそれほど身に迫っているなどとは思いもしていないのですね。みんなそんなものです。致し方なし。

 

さて、毎年9月のこの頃といえば台風に見舞われることはいつものことですね。

昨年の今頃小田原の正恩寺について記した際も同じように台風対策について触れていましたね。

 

真宗大嫌いの北条家の小田原にあっての大谷派の正恩寺は北条家滅亡後(文禄二年 1593)の建立であることを記しました。

石川家成(数正の叔父)の娘の妙賢院が夫の大久保忠世が小田原城に入ってから自身が帰依していた寺+僧をこちらに移転建立させたといいます。よってその変遷について「尾三相州轉遷之道場」というワケですね。

嫁が主人の宗旨には従わず、慣れ親しんだ宗旨を選択、わざわざ故郷から呼び寄せるというところが素晴らしいこと。今では考えられませんね。

 

当家奥方の母方一統は会津出身で「桑原」(桑は旧字「桒」)。まったくよく知りませんが会津には桑原という地もありますし、昔から祖母より「白虎隊ばなし」を聞かされたと言っていました。当初それを聞いた私は「佐幕」というところで親しみも抱いたものです。また父方は他宗派でしたが新家でしたので両方とも真宗に。拙寺にお招きしています。

私も他宗派の葬儀に赴くことがありますが、やはり真宗が一番イイというのは当たり前でしょうね。

 

画像は釋妙賢の墓。

水鉢の台か、丸に笹竜胆らしき紋(石川家紋)が。石柵に囲まれた木が目印。木の成長によって崩壊が進みそうな墓でした。 

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2017年

9月

15日

代々幡斎場 やはり古くからの荼毘所 玉川上水

私と同様にカレー食を続けて異変をきたしたのは「奥の墓道」氏。「ちょっと控える」と言い出しました。

といってもターメリック+黒コショウの調味料としての使用は続けるようです。

 

ここ数日「足の関節が痛くて顔がむくんできた」とのこと。

すると「カレー痛風でググれ」と言われて調べれば、カレーのルーは肉のエキスが詰まっていて栄養過多、プリン体も多く痛風が悪化するのは当たり前のよう。

私もここのところの体重upの原因はカレー食の連続以外は考えられませんのでクールダウン必定です。

週一くらいがちょうどいいのかも知れませんね。

盛夏の候はよかったのですがこれからますます体を動かさなくなる時節、カレーは肥満の元かも知れません。

 

さて昨日は東京の代々幡斎場まで。

帰宅は夜10時を回っていました。

とにかく境内の植木鉢を風当たりの弱い場所移動しようと息子にも手伝わせ奥方と3人で。

あの台風、なめてかかるとロクなことがありませんので、雨の降り出さないうちに・・・という作戦でした。

 

数日前のブログにて奥方の「東奔西走七転八倒」など記しましたがこれは、東京の叔母さん(奥方の)が急逝したためでした。

姉―妹の如く関係といってもいい付き合い方をしていました。

前日までメールにて交信があったそうですが、人の命はわかりません。

「朝(あした)には紅顔あって 

        夕(ゆうべ)には白骨の身となれる身なり」

などと蓮如さんの御文(5-16)の台詞を仰々しく御文の拝読やら法話などで触れることが多い私ですが、自身がそういう場に遭遇してやはり

「それこそ一定」(「地獄は一定すみかぞかし」)を思います。

 

体調絶不調(声が出ない)の私への導師ご指名は遠慮し、いい「機縁」と息子に導師デビューをさせるべく前日まで用意していましたが朝になって「熱が出た」と。

38℃オーバーでしたので同行を諦め結局私が導師ということになってしまいました。

そしてまた施主は義母のはずでしたがその件、奥方の「東奔西走七転八倒」の動きに終始リンクしていたせいか心身消耗でダウン。即入院ということで葬儀にも出られませんでした。

 

代々幡斎場には何度かお邪魔していますが今回は一番に小じんまりした部屋でした。斎場の八畳ほどの小部屋にはおそらく10人で限界くらいのスペースしかありません。

当初は誰も来ない(殆どといって知らせていないため)はずと思いそちらの会場を手配したそうです。

ところが7人も友人たちが集まったのには少々驚かされました。

奥方はここでやってあげて良かったと。

選択肢に相良ですべて済まそうという案もあったほどです。

それにしても超混雑のトーキョー火葬場事情の中、よくもこう早い時間(インターバル2日)にできたものかと驚きつつ感謝しています。

 

ちなみに代々幡斎場への支払いが20弱、葬儀屋さん色々が50でした。

こちらの斎場も桐ヶ谷斎場と同様に歴史は古いようです。特に渋谷の高級住宅地の火葬場という環境に驚くところですが元は江戸中心部からの辺地。最初に荼毘所があったところに次々と後から承知の上で住宅がやってきたのです。

 

代々幡斎場近くの玉川上水のあと。

橋の址がたくさんありますが、下には川流れていません。

 

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2017年

9月

15日

謎多き西郷で一番の謎 北条家の墓たち

病原性大腸菌「0-157」というミクロ世界から現れる脅威は絶対に放置できない状況にいたっています。いわゆる大腸菌の中でも一番にタチの悪い代物ですからね(大腸菌の種類などみな嫌悪しますが・・・)。

先般もスーパーのお惣菜コーナーにて大量食中毒が発生していましたが遂に子供さんが亡くなるなどの最悪の事案に。

感染源は当初の「ポテトサラダ」だったのですがトングを介して違うお惣菜に広がっていたといいます。

 

私は以前から「こりゃ参った」という景色を見て「こんなんでいいのか」と疑問に思っていたことがありますが、それがホテルの朝食やら各飲食店で見かけるお気軽サービス、「バイキング(ブュッフェ)形式」。

自身で勝手に給仕して食べるというヤツです。DIYでご自由というスタイルはいかにも「好きなものをお好きにどうぞ」というものですのでファンも多く私どもも当たり前のようにそれもよろこんで利用していました。

 

しかし「ご自由にの対象が一言で言って「不特定多数」に尽きるのです。悪意の有る無しに関わらずやはり上記のトングやスプーンフォークからしゃもじまで管理が「イイ加減だろ」と思わせる事が多々目に付きますね。

給仕器具を落としたり、他の品の使用をごちゃ混ぜにしたり、握りの部分が食品に触れていたり・・・

 

特にこれでは感染症をバラまいているようにしか思えないというのが、御飯のお替りの図。使用したお茶碗に炊飯器からよそったしゃもじの御飯をよそりつける場面は見たくないです。

そのしゃもじは水の注がれた容器に納められますが、おそらくアレはばい菌だらけの水溶液のような気がしてなりません。

せめてお替りの際は新たにお茶碗を用意していただきたいですね。

 

食品の並べられたエリアでも誰かゴホゴホやっていれば興ざめになりますね。温暖異常気象は大腸菌等の増殖をたすけましょう。人の口に入るものの「扱いを生業とする」方たちはその大いなる「恥」に至らないよう。ケアしていただきたいものです。

しっかりとした業界ではコストをかけているはずです。

0-157などの検体キットシステムなどは市場に出ていますのでまともな会社では的確なチェックを行っているはずです。

また蛇足ですが0-157には緑茶カテキンが有効と昔から言われています・・・。がぶ飲み推奨!!

 

さて掛川の西郷について何回か記しましたが、この地区で「はてさて・・・」と思わずをいられない墓地群があります。

 

特に「北条直政」という人物に「え?」と思わぬ人はいないでしょう。

こちらでの「直政」とは北条氏政の子(またはこちら)で小田原北条氏が滅亡した折に、この地に辿り着いたといいます。

 

 

4つあるうち一番大きな左から2番目の墓碑①③。

墓碑銘に北条氏政の法名の「慈雲院殿勝岩傑公大居士」が見えますが「凰翔院寄雲宗詳大禅定尼」は氏政の継室だそうです。

そして「慈光院殿祥雲妙禎大姉」も氏政の妻で直政の母とのこと。

元和の頃に直政が建てたものを田辺氏が再建したものと⑥裏側に。

 

一番右の墓石⑤

「長盛院殿泉厳玄清大居士」が氏重、「宝珠院殿月性玉鈴大姉」に五十鈴とあります。北条氏重夫婦と思われます⑨。

氏重の法名は袋井上嶽寺のものと同じです。

 

右から2番目④

「高徳院殿禅岳泰定大居士」が直政「承徳院殿禅室貞戒大姉」が萩乃とあります⑧。

 

一番左②

「筒徳院寒岩霊松居士」 資久 「承徳院松岩貞操大姉」小菊

⑥は寛文時代(1661~1673)のもの。 

 

わからないことばかり。

改修前の墓石も拝見したかったというのもありますが・・・

 

個人お宅の敷地内にて管理されています(場所はこのあたり)。

小田原北条の末裔としてこの地にて血縁をつなげているとすれば奇特なことです。

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2017年

9月

14日

滄桑之変 そらごとたわごと まことあることなきに

あの嫌がらせの如く進路を変更して週末を襲うという面倒くさい台風にはまったくうんざりです。

相良の祭礼にあたるようですが・・・。

当初の予想では大陸へそのまま行ってしまうような感じでしたので。

私としては秋晴れの清々しい空気を期待していましたので残念でもあります。

 

3連休のうちの土曜日に法事が入っていますが何とか軽めでお願いしたいところ(墓参りは「天気がイイ」の件はこちら)。

まあ各「天変」によって艱難辛苦を味わう方々が溢れかえるようにある昨今、私だけが「無事でいたい」という主張は憚られるワケではありますが、それは一個人としての本能的なものとご容赦いただきたいものです。

「大陸に行っちゃえ」なんていうのもいささか「放言」の部類でしたが。

 

しかしながら常々思うことは人間世界の「無常」。毎度のフリでごめんなさい。

天地激変の環境もあいまって「受けがたき人身」であっても一旦病を得て、寿命尽きれば死する他はありません。

そのことはやはり落語の「死神」のローソクを思い起こしますね。

 

寺に住すという「業」(ゴウ)を務めるという「業務」からは色々なそれ(無常)を私どもに体験させていただいていますが、周囲の変化というものは勿論、私自身のそれにも驚かされます。

自身発生する各不具合は当然のことですね。

 

表記「滄桑之変」とは激変する無常を言う四文字熟語。

出典は西暦300年前後の中国道教思想の仙女「麻姑」から。

ちなみに昨日「痒いところに手が・・・」と記しましたがそれの解法として「孫の手」の使用があります。その「麻姑」(まこ まご)が元ネタのよう。麻姑の爪がやたらと長かったというところからです。

 

「滄桑」(そうそう)は「滄」から「桑」への変化の事。

「蒼い海」→「桑畑」へと変わってしまうかの如くの激変を言います。

上記『墓参りは「天気がイイ」』で記しましたが「ちょっと昔まで墓場の原野」がビル群に一変することですね。

この地区では1年2年で茶畑が「放置林」になっていることは日常茶飯事。まぁそんなところなのですが「人生」のそれを思うとやはりますます考えさせられます。

 

先般お会いしたばかりの方が最近不調を訴えて検診に行ったそう。医師より癌の告知をされていたとのこと。その方の親族にお聞きしました。

人は青年期を越せばあとは「老」と「病」まっしぐら。

 

尚私の体調、おかげさまで昨日より断然よくなりました。

朦朧としていた頭の具合がとれました。

昨日晩に帰宅した奥方はそれでも「ただの風邪だろ 寝とけ」とのこと。それだったらまた有難い。

 

そらごとたわごと   まことあることなきに(ただ念仏のみぞまことにておわします)」はご存知歎異抄から。

 

①「麻姑」は長寿の象徴ですが、現代はまさに長寿社会。

しかし病気と同様認知症は怖いですね。その病によってどれだけ性格が変化するかを記したグラフ。

②先日亡くなった東京の叔母の部屋から出てきたエンディングノート。肝心なところは何も記されていませんでした。 

 

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2017年

9月

13日

本能寺新史料 今度は本願寺教如の匂いがプンプン

昨日は人を雇って境内作業をしていたてだいたことを記しましたが、実は相当ストレスが溜まっていました。

失礼とは思いますが「痒いところに手が届かない」のです。

 

痒いどころか今、私の体調は絶不調の域に達しています。

これは数年に1回という頻度で出現する体調不良ですが、何しろ体がダルくて人との接触が辛い。

最近のカレー(ターメリック)食によって抵抗力もついたものと思っていましたがこの思いがけない絶不調には少々ガッカリしています。

まぁカレー食効能に完璧を求めるのもおかしなことですが。

よって境内にて一緒に仕事をしながら指示ができないという辛さがありました。引きこもりです。

 

昨日は土砂降りにより私は1歩も外には出ず、時折りセールスやら何たらの電話と訪問に起こされましたが一日中布団の中。

お昼と夕飯は息子の提供のものをいただきました。

尚奥方は実家帰省してこちらも思わぬことから東奔西走七転八倒しているとの報せ。

 

 

今回の絶不調はまったくもって理由(ワケ)がわかりません。

先日サッカーの深夜放送を「夜更かしした罰」と記しましたが、それ以外考えられないくらいの意味不明の変調振りでした。

布団に入っていて「ああ こうやって人は死ぬのだ」と思ったほどですから。

よって最悪期にある今、ブログへの集中力は無し。

思考力もなし。

 

そんな大袈裟とも思える私の泣き言はいつものことですが、新聞紙上に「こりゃ元気になれそう」という記事が躍っていました。

それが本能寺の変10日後に光秀が密書として土橋重治に出した書面が出てきたというものです。

 

主旨が「将軍の入京をお受けした」というものですので、信長によって京都を追われていた将軍足利義昭が毛利輝元のもと備後の鞆から完全復帰を目する動きがあったということを証しそれこそが光秀の目的かも・・・との報道でした。

 

もっともこの書面が出てきたからと言って光秀の信長討ちの目的が足利幕府再興だったとは限りませんが・・・。

当時あの時の光秀が各方面に「イイ顔しまくり」は当然ですからね。

しかし一つの史料として裏に武闘派雑賀衆そして当然に武闘派本願寺(教如)の影が感じられたということが如何にも愉快。

 

本願寺顕如さんの石山本願寺開城にいたった理由は雑賀衆の内紛も一因です。

いわゆる雑賀衆といえば司馬遼太郎作で映画化された「尻啖え孫市」の「雑賀孫一」(鈴木重秀)、映画では萬屋錦之介のオーバーアクションが思い出されます。

 

本願寺に入っての彼の織田軍を翻弄する戦働きについては誰もが認めるところでその名は雑賀党の盟主。しかし本願寺開城後は信長について本願寺武闘派の教如さん配下の者たちの思いは一種の消化不良。

 

当時開城派の顕如さんと反目した武闘派教如さんの懐刀は土橋重治だったかも知れません。

やはり対信長強硬派の兄の守重が開城派鈴木重秀に謀殺されたという恨みが重なって信長憎しの気持ちは人一倍だったことは確か。

 

本願寺も土橋雑賀衆もともに「天下統一」などの言葉は心にもないグループです。

光秀が彼らの意を汲むということはやはり将軍再入洛こそが目的だったと考えるのがスジなのかも知れません。

面白い発見でした。

 

本日は手抜き画像。①②が信長いた方の本能寺。③が寺町に後世作られた本能寺。④は丹波亀山にて。

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2017年

9月

12日

溝江公園 観音寺址の墓石 巨石は平塚砦の古墳か

ここのところ2回ほど、お寺の手伝いをしたいという方が訪れました。

勿論日当をお支払いするものですが、奥方の顔は少々渋めになります。

要は私たち親子(息子もまだいます)で行えば給金の支払いは発生しないのですから余計な出費とはなります。

 

そして何かの作業を手伝うといっても素人さんですからいたって作業は限定的になります。

昨日の方などは「木には登れません」でした。

 

ということで、昨日は「墓地の掃除」を依頼。

そもそも墓地の清掃に関しては墓地所有の方におまかせし、上部を覆う大木に関しては寺で・・・というスタンスですが、その方はやれること限定ですから致し方なし。

奥方が言うには「断ることも肝要」・・・とまぁそれも的を射ている談とは思うものの、寺としてはこれも一つの「縁」ですからね。

 

「もう二日やらせてほしい」と帰り際に。仕方がないので近所の檀家さんに連絡して

「草むしりのバイトいりませんか? お寺の軽トラ貸し〼!」と彼をセールスしてあげました。

この間見たコストコのバイトが1250円/hでしたが私のところでは800✖8h+昼食付きです。これが限界。

その檀家さんは了解してくれましたが紹介したからにはまともな仕事をしてもらわないと・・・

 

さて、本日も掛川の西郷。

西郷の局の生誕地構江に観音寺廃寺址がありますが、今は「構江遊園地」という名称のよう。「平塚」なる古墳群のある丘の麓になります。

 

昨日同様、看板記述の文言が溢れていますので、私の能書きは割愛。

 

疑問としては観音寺なる石ケ谷家菩提を弔う寺院がそう簡単に廃寺になるものかというところ。近くの霊栄大明神神官を石田家が継承しているようで、神道への変更があったのかも知れません。

西郷局の従姉妹(忠春の妹)「於國」といわれる墓もありますが、とーたるに言って荒れています。

特に一番目を引く大きさの宝篋印塔+五輪塔の積みの様子はいかにもやっつけ仕事の様。

外見上もあきらかに異質なものの組み合わせと考えます。

バランスも悪すぎですね。

上下の安定性は製作者が一番に傾注するものですから。装飾や銘はその次ですね。

 

 

野村氏から「実際に九つの石があるが草ぼうぼう」とのところ、私が決めつけてしまうのはいけないこととは思いますが、後世の演出があるような気がしてなりません。

看板の地図右下にその石の件が出ていますが、昭和36年に古墳から発掘されたとあります。

城郭大系は昭和54年の発行で静岡担当の学者が「見つかっていない」と断定していますね。

 

そもそも「古墳から発掘された」では古墳時代以前まで遡ってしまい、かなり端折ってしまっているという感は否めません。

如何でしょう。

 

私は土地改良があったということでまったく不明ではありますが、この平塚山周辺にかつては「九つ」の古墳があって、その古墳を「石」と呼びその麓の谷を「石ケ谷」などと・・・考えた次第です。

 

この古墳群のある台地を「平塚砦」とも呼ぶようです。

画像に掛川城が見えますが、言うまでもなく新しい方、古城は左側の小山ですね。Googleの航空図を見れば上部の殆どが茶畑に改変されていることがわかります(場所はこちら)。

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2017年

9月

11日

溝江の西郷局生誕地と石ケ谷 地元石田の名も

昨晩のNHK「沖縄と核」視聴しました。

沖縄が今の日本本土の捨て石の如くの扱いにあることは承知していますが、まさかあの伊江島が核兵器訓練の射爆場となっていたとは・・・かなり驚きました。

誤爆によって伊江島島民が亡くなっていることも・・・そういうことで冷戦時代の沖縄が「核兵器のデパート」と思われるほどの供給基地にもなっていたようです。

 

それにしても公開された小坂某とかいう外務大臣のアメリカ側との折衝記録を見ているとクサクサきました。

要は核基地をつくるなら「事前に発表しないでこっそりやってほしい」(世論がうるさい)ですからね。

ロクでもない政治屋さんがいたものです。佐藤―Nixonの各密約というのもありましたが沖縄の人たちにはあらためて気の毒な話を蒸し返しました。

 

そんなに必要なら原発と同様、東京に配備すればいいのに・・・と単純に思ってしまいます。

まぁそんなウラ話がここへ来て出て来るだけ少しはマシなのでしょうが、そういう話は米国の公開資料が元ですから、そもそも日本からは永久的に表に出てこなかった話で・・・それが「あったことを無かったことにして隠す」という傾向、政治家オンリー国民不参加型、二流国家と言われる由縁です。

 

かつて私は核弾薬庫のあった嘉手納は勿論、伊江島でもよく遊びました。

本島西海岸から東シナ海を望めばあの独特な山(伊江島タッチュー)が目に入ります。本島直近では「美ら海水族館」の向かい側。沖縄の方たちには失礼ながら伊江島には楽しい思い出しかありません。

 

水納島というパンのクロワッサンの形の小さな海水浴場のある島がありましたが、大阪の大層なお金持ちT氏のクルーザーのクルーとして同乗させてもらった際、水納島で降ろしたカワサキの550というジェットスキー(T氏所有)で伊江島まで渡ったことがあります。

地図上で見ても実際にもスグ目の前に見えますので結構近く感じますが、実際は相当時間がかかった思いがします(6km程度)。

湖とは違いますからね。外洋同等の波と流れを感じました。

 

そもそもあのジェットスキーは信頼性はないですね。

転倒すれば(550はスタンド式)キャブレターにビルジという溜水が入り込んでエンストするか何よりもオーバーヒートが怖かったです。

あの海域はサメがいるということも聞いていましたので・・・。

無茶しました。

 

どうしても沖縄というと私の楽しかった思い出ばかり、その頃は沖縄の人たちの気持ちへの理解度が低かったことは違いないところ。

 

さて、掛川の「西郷」周辺についてここのところ記していますが、西郷の西郷たる中心、溝江の西郷の局(宝台院)の生誕地といわれる地。

局は局でも掛川城から見て西郷郵便局の先に①の看板が右側に立っていますで「伊奈治療院」(お隣の「鎌江公民館」)を目標に西方向に折れればスグです。

 

美人ケ谷城から見て掛川よりとなりますが滝ノ谷城のところで記したこの辺りの城郭大系からの記述、

「政清の住したという九個の巨石が残る石谷の里、あるいは石谷氏三代の霊を祀る霊栄大明神のある構江(かまえ)など、石谷氏屋敷跡と伝える地もあるが、これを立証する史料や遺構はみあたらない」の「構江(かまえ)」という場所になります。

 

その字面からして城館風遺構の存在を推するところです。後ろから2枚目の看板の寄贈者にブログコメントを寄せて頂いている野村氏の仰るよう「石田さん」二名の名が見えます。

上記霊栄大明神の神官の系でもあるよう

 

石ケ谷氏の家紋「九曜紋」の意が九つの巨石を称していることからその石とはどこぞ・・・と考えるところですが・・・

まぁそういうものは往々に直近のデカイ城に使用されていると考えるのがスジかも知れません。

一豊あたりが運び出したか・・・

画像はかなり前のいつかの正月他に出向いた時のものです

(場所はこちら)。詳細画像で。

周辺に石田姓が目に付きます。当時の相良呉服屋野村家がこちらの名家と思われる石田家から嫁を嫁がせたということは私の知り得ぬ世界でした。

 

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2017年

9月

10日

温泉とセットのお寺 法泉寺の石仏

息子の同級生が御殿場のアウトレットに勤めているということで先日も小田原行脚のついでに立ちよりましたが、こちらでもその客層、中国系観光客に圧倒されました。

まぁ色々なツアーがあって買い物ツアーが組み込まれているのでしょうが、清水港からの直行も多いようです。

 

清水には「清水港客船誘致委員会」なるものがあってかなりの張り切りようを見せていますが、これはお上から清水港が「国際旅客船拠点形成港湾」なるお墨付きをもらってからのもののよう。

実績としては昨年よりは3倍も増加しているのですから凄い勢いです。

 

しかし「張り切って」の中にはこれまでの入港接岸使用料をも無料にしてより訪問しやすくするという施策があるよう。

またそれ以外の効果を期待しての活動のようですが、観光客は静岡市内の商店街に一銭もカネを落とすワケでもなく、アウトレットモールに直行して再び船に乗り込むようです。

 

「観光立国」の掛け声とともに静岡県民が潤うようにその手の活動と期待があったのかとは思いますが現実は厳しいですね。

アウトレットモールに入店していなければ「負け組」の様相。

勝ち残るのは県外大手だけという構図ですが、清水港と地元商店街には何らの恩恵もないというのも首を傾げるシステムです。

静岡の滞留は「富士山見て降りて買ったらズラかる」それが基本のよう。

静岡空港と似たような図式ですが、静岡県民としては何ともやるせないところでした。

 

さて、昨日のつづき。「滝ノ谷城の滝ってコレ?」と思わすのが法泉寺裏の滝。今は滝不動なる名称と石仏の不動さんが立っています。

 

こちらの法泉寺で有名なのは倉真と同様、温泉です(場所はこちら)。

掛川市内からもそう遠い場所でもなく、山間の湯治場としてイイ雰囲気があるようです。

墓域には各石仏が鎮座されていますが、やはり個人的に「イイ味!」と興味深いものは宝篋印塔の大小が並べられた様子。

これは基礎部分が補足されているなど明らかに後世整列させられたことは分りますが。

しかし3列目の宝篋印塔はまるで「ダブルバーガー」。

誰がどういう発想でコレをやったのか知る由はありませんが、ここでも凄いものを見せつけられた思いです。

 

日本の良さはこういった温泉。

まさかこちらに外国観光客が大挙して押し寄せるなどは考えられませんが、もう少しは宣伝して引っ張ってこれればと思います。買い物ツアー相手に古いものの良さは通じないものなのでしょうか。まぁ本格的にやろうというのなら設備改修など受け入れ態勢の確立という課題がありますが。

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2017年

9月

09日

美人ケ谷城の北の備えの出城 滝ノ谷城

寅さんの映画のタイトルにもあった「~記念日」。

文字通り何かの事案について祝おうというものらしいですが、私ども野暮な人間にとって過去の栄誉を蒸し返して懐古、しみじみと祝福するなどまったくピンとこないことです。「今を一所懸命」それだけです。

まぁ人それぞれなのでしょうが、その手の事にこだわる思考というのは女子たちに多いのかとも感じます。

 

自らの誕生日を主に、キリストの生誕、バレンタインなんたら・・・

キリがありませんが、お隣の北の大将は毎年それにこだわっているといいます。

他にもいろいろ「〇〇記念」と称してお祭り騒ぎをしている様子を見聞きしますが、アレ(動員の様子)では仕事もロクに手につかないくらい?と心配したくなりますね。

 

まぁ大方の予想ではまたあの花火をぶち上げるのではないかとのことですが、ここへきて「太陽フレア」という天からのお達しがありました。この件、電子機器に異常をもたらすそうですね。

 

今の「花火」は電子機器のかたまりとあって、折角の大枚はたいての打ち上げにもかかわらずデータが得られないという大将にとってのリスクがあるとのこと。

よってここへ来てその理由によって「打ち上げないかも」という意見も出てきました。

そしてまた、米国あたりでは「是非撃ってほしい」と考えているともいいます。それはそのような状況の中での迎撃態勢のテストができるからだとのこと。

まぁ「勝手にしやがれ」のスタンスは以前と同じ。

 

トランプは「地球温暖化はフェイクニュース」と豪語し石炭石油業界の票を得ましたが、今度の米国に襲来した台風(ハリケーン)と強烈な被害、また次に連発して発生、上陸しようとする状況を何と思うのでしょうかね。興味深いところです。

 

さて、美人ケ谷のつづき。

拙寺14代の私の父と親しかったといわれる野村静夫さんのお母さんは石田姓。その石田家は石谷氏の霊栄神社を祭祀して今も「石谷氏居館跡」に住んでいるとのこと。

 

そういえば掛川から北上して直線方向が西郷・美人ケ谷、右折すれば倉真という交差点の名が「石畑」でしたが、「石」繋がりの変化は何かを示唆しているような・・・

 

美人ケ谷城(石谷城)の西郷民部少輔某(夫人は石谷行秋の妹)を推測する資料「山科家礼記」について城郭大系にありますので転記します。

「文明三年12月27日、幕府奉行人飯尾為信と飯尾之種連署で西郷八郎宛てに『山科家の雑掌(年貢の徴収雑務をする者)が申すには遠江国西郷荘の年貢が応仁元年(1467)以来滞納し難渋しているとのことである。違背せず早々に済ませるように』という趣旨の文面が出されたとある。」

 

そして西郷氏が山科家の荘園を管理する西郷荘土着の有力者で「殿垣戸」(石谷城の別名)に居館を構え、また年貢の滞納の件から西郷氏衰退の様もうかがえられて政清の代に西郷から石谷へと変えたと推測できるとのこと。

 

最後に「政清の住したという九個の巨石が残る石谷の里、あるいは石谷氏三代の霊を祀る霊栄大明神のある構江(かまえ)など、石谷氏屋敷跡と伝える地もあるが、これを立証する史料や遺構はみあたらない」とありました。

 

表記の滝ノ谷城(場所はこちら)とは原氏の孕石へ通じる直線的な街道が小山のために少々西側に回り込まねばならない場所がありますが、その山に築城されていました。美人ケ谷城の北の備えの出城というくくりの様です。

 

以前山中で猪やカモシカに出くわした事を記しましたがまさにそちらの山です。

美人ケ谷城と同様、法泉寺川を天然の堀としています。

遺構はそういえばそう・・・という感じでしょうか。

あの際は城址といえよりカモシカ近接に感動したものでした。

最後の画像が法泉寺方向。

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2017年

9月

08日

美人ケ谷城(石谷城) 寛政譜からの推測

以前からもこうだったのか・・・と首を傾げているのが今の境内の蝉の声。クマゼミの早朝からの大合唱の件は盛夏の候お知らせした通りですが、今は既にそれはなし。

まったくクマゼミが居なくなったワケではありませんが静かなものです。

それに代わって只今の主役はミンミンゼミ。

 

横浜に居た時はミンミンゼミの声ばかりが聞こえてきましたが(クマゼミ少なし)、夏の両主役は微妙に生態が違うのでしょうね。

8月の悪天候のせいで海水浴場の客が20%減とニュースでありましたが、そんな状況でご商売が成り立つものかこちらも首を傾げたくなりますね。

そもそも「ボクら」が相良含めて海水浴場なる所に行く際は「海の家」系施設の使用機会はゼロ。海水浴場で皆と遊ぶなどの思い出はありますが、立ち入る事はありませんでした。

なぜならおカネが無かったからですが、成長後は海で遊ぶことばかりでしたが一時は「イモ洗い」の如く形容された海水浴場などは禁忌として近寄りもしませんでした。

 

海の家の利用は家族連れの海水浴客限定の施設なのですね。

ところが「海水浴をする家族連れ」は今や絶滅危惧種。

遊びのバリエーション多々と美白と健康ブームが仇になってますますビーチは閑散。

相良の人々は昔の砂浜の様子が頭にこびりついていて「いつかまた」の気持ちで頑張っている方々もいらっしゃることと思いますが、現状は厳しくなるばかり。

子供の絶対数が不在ですしゲームやアニメの主人公にバーチャル恋愛、この国の滅亡の道を一直線。どうにも止まりませんね人口減少。

アジアの大量難民問題、「ロヒンギャ」へ手を伸ばしていただきたいものです。アジアの盟主を自負する日本なら。

 

さて、昨日は木村重成の首塚と佐和山城門移築の赤門、三成の御持仏・・・と彦根が彦根城と佐和山城だけではない奥の深さというものを感じる宗安寺について記しました。

 

木村重成についてブログでは幾度か記しましたが、彼が亡くなった場所といえば河内は若江の地でした。その若江城址の碑の道路を挟んだ向かいにある美女堂家の石碑について記しましたがそちらと「掛川」との関わりとして最後に無理やり「美女」「美人」と連想させて「美人ケ谷」(石ケ谷)の地名を出していました。

 

いつかはその地について記そうと思っていましたがかなり放ったらかしになっていましたのでここでも無理やり・・・

 

掛川の「美人ケ谷」は知る人ぞ知る掛川の地名です。

そして掛川城から見て北に位置し美人ケ谷城があります(場所はこちら)。

掛川城北門の交差点をそのまま北へ。バイパスでいえば西郷I.C.です。

 

月並みな発想ですが美女とか美人などと言われると、どうしても私共男どもは興味津々となります。

さぞかしやんごとなき麗しい方々がたくさんいらしたことを想像してしまいます。

西郷といば西郷局。きっと美人だったのでしょうね。

 

また西郷氏は遠州群雄割拠の時代、資料は少ないながら「遠江三十六人衆」に名を連ねる国衆の一人。

この城は石谷城とも呼ばれていますが一説には西郷氏と関わる石谷氏が入ったからだとのこと。

 

城郭大系の標題は石谷城(いしがや)。「殿垣戸城(とのがいと)」「美人ケ谷城」が別名になっています。

遠江石谷氏史料初見が家康が石谷政清に出した所領宛行状で彼の出自の件、寛政譜では行秋を始祖としそれを継ぐ行晴を西郷民部少輔某(夫人は行秋の妹)の次男で

「行晴幼にしてその母死するにより舅(母方のおじ)行秋が養子となりて其の家を継ぐ 文明十六年(1484)死す 年六十七」

政清は行晴から三代の孫で石谷村に居住し、二階堂改め石谷氏を称したとのこと。

 

そして永正三年(1506)の今川氏親の命をうけた伊勢宗瑞の三河攻めの際に石谷氏の名が無いことから石谷氏は政清を祖とする永禄年中からの呼称が推されているようです。

勿論三河攻めの際には西郷の名があってそれが政清の父の清長のようです。

 

こちらのお城は山本神社の手前に車を停めてあがります。

標高は100m程度と見渡しのイイ「丘」程度。3つの郭に区切られています。南側の掛川城方向の眺望が特に開けているという感がありました。倉真川とそれに流れ込む支流(法泉寺川)を天然の堀に駆使した天然地形を利した城です。

当然に冬場の風景となります。何度も記していますが夏は忙しいということもありますがまず城遊びには出向きません。

それが不健康に直結するということになります。

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2017年

9月

07日

伝佐和山城門に伝石田三成のあれこれ 彦根宗安寺 

何故か風邪の初期症状。

おそらく遅くまでサッカーを見て遅起きする不摂生の罰か。

それにしてもアジア予選A・B組ともそれぞれの2位3位4位の争いが熾烈で面白すぎでした。

1位2位がW杯本戦出場が決定し、3位は「地獄のプレーオフ」という苦難の道のりで望みを繋ぎ、4位で脱落決定という勝負の世界。

 

B組ですでに出場を決定させている日本の相手はサウジアラビアでしたが「無理はしない」消化試合のスタンス。

A組のイランも日本と同様、出場が決定していますのでやはり「消化」系でシリア戦。

一番の見ものは韓国vsウズベキスタンでした。ウズベキ応援隊に急遽編入した私と「奥の墓道」氏でした。これはバクチは成立しませんでしたね。

 

その首位の日本が負けてイランも引き分けだった最終戦は他の国の悲喜こもごもを演出していました。

オーストラリアはホームでタイを迎えて「楽勝得点ラッシュ」を誰もが想定していましたが2-1と「たったの1点」の貯金となって日本が負けた結果、サウジに得失点差で負けて3位が確定。

 

ウズベキスタンはホームで韓国に勝てば初の出場が決定するところでしたが引き分けで韓国が2位。その裏でシリアがイランと引き分けをしたためにウズベキスタンは4位となってしまい絶望。プレーオフにてオーストラリアと対戦するのはシリアとなりました。それ(2試合)に勝利したチームが北中米カリブ海予選の4位チームと対戦(大陸間プレーオフ~2試合)してそこで初めて勝った方が本戦に進出するという超絶遠回りとなります。

1点の得点と失点が「天国と地獄」の表裏の現実を出現させるという意味で外せない日だったのでした。予選は案外面白いのです。

 

映画「関ケ原」について今一度。

人様と違うつまらないところに感動してしまうのが私の性分。昨日につづき二点ほど。一点が宗旨的、もう一点が歴史のフェチな台詞でした。

 

この人も出てたの?とサラッとだけの出演でしたがあの「妙善」なる尼僧が発した言葉。

三条河原での凄惨(秀次事件)のあとのシーン島左近が立ち寄った庵での再会時の掛け合いでした。

たしか「お念仏のおかげさまです」でしたね。

そんな劇中では滅多に聞けない台詞に感動してしまいます。

「念仏」も「おかげさま」も当流坊さんのスタンスとして切っても切れないところですからね。

そうでした、尼僧「妙善」でした。当家の成瀬藤蔵の奥方の名は禄さん。法名が「釋尼妙意」でご主人が亡くなって僧籍に入ったのですが、劇中での推測はやはり「討死した友の妻」という類推もされました。

 

あと一点、家康の太鼓腹の図はどうやったの?と興味深いところがありますが、ノリノリで母衣を竹を編んでつくるところでの台詞が面白い。まぁ「母衣―ほろ」の解説でしたが、きっと原作にその件があったのでしょうね。

「ほろ」そのものの理解のために家康がはしゃいで母衣を背にして走り回って観客に知らせていましたが、意味不明に陥った御仁もいらしたかと。

 

さて、本日は石田三成に関する史料はここにもあったな・・・と思い出してかつて伺った彦根の宗安寺を。

木村重成の首塚のある浄土宗のお寺で数年前の春の図です。

 

こちらのお寺の坊守さんはとても雰囲気のイイ方で入場に懇志金は必要ですが、地元のお菓子までいただいてほんわかさせられたことが思い出されます。

何しろ撮影に関してケチな事を言わないこと。

真宗本廟(お東)で撮影禁止の件、檀家さんの仲では超有名な話で「なぜだろう」「どうして」との声が大多数ですからね。

まぁ「参拝の場である」という理由がされるのでしょうが、真宗はどこでもかしこでも「念仏の場」であって阿弥陀様や御開祖はお堂の中限定ではない筈なのですが。

 

ざっと画像を見ていただければと存じますが、石田三成関係の品が散見されます。山門がまずお迎えしてくれますが、この門が佐和山城の城門と伝わります。

当地には石田三成に代わって入った井伊直政が佐和山を嫌って彦根城を建てたのですが、城下のこの寺に城門を移築させたのでしょうか。

 

庫裏の拝観エリアには石田地蔵尊なる木仏念持仏や石田家千仏その他いろいろお楽しみの品が拝観できます。

別に私が感動したのは、本堂の前の石灯籠。

例の金属回収令で供出された青銅製の灯籠の代替品を作るにあたって川勝政太郎氏が関わっていたということ。

川勝氏に関しては仏塔石仏などで拙ブログでも度々氏の評価を記させていただいています。

「川勝氏のスタンダード」がこちらにありますので、予算があればこちらの灯籠をコピーして石屋さんに依頼すればいいものが設置できるということです。

本日も季節感がない画像失礼しました。

ターメリック粉末を喉に振りかけて眠れば・・・

 

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2017年

9月

06日

浜松か静岡か迷った挙句 関ケ原とコストコ

5日は爽やかな秋晴れ、天気予報では降雨予想もありましたが、清々しいお日和で快適なドライブをしました。

いつもほっつき歩いている息子が留守番です。

 

出立前に母親の様子を見に息子を遣りました。

母親は先週末に原因不明の38℃代の熱を出して現状早々に復活したものの機嫌がすこぶる悪いのです。

朝食で出された牛乳を飲む飲まないの押問答の挙句、「もう来るな」の語は一昨日の私、昨日の息子とも同じ様相と台詞。

むかっ腹が立たなくもありませんが、いわゆる「腹の虫の居所」というヤツで父母ともそう珍しいことでもありません。

こういう時はしばらくの間のインターバルで。

肉親であっても「人の心はわからない」ものです。

 

実はどちらに向かうかを私は迷っていました。

迷いとは天候の件もありますが、『映画「関ケ原」+静岡県立美術館開催の「戦国!井伊直虎から直政へ」』なのか『「関ケ原」+コストコ』の二択でした。静岡市か浜松市です。

 

だいたいコストコなど9月1日にオープンしたばかりで、その常軌を逸した開店前の混雑(行列が過ぎて5時代に開店)と日々夕刻の地方ニュース各局の過熱気味報道によってもう少々の冷却期間は必要だろうと思っていましたが、奥方の気持ちは殆ど100-0で浜松行きでした。

私がそれらネガティブ意見を上申すれば「車で寝てろ!」との談。「映画とチャラだろう」とも。

まぁ平日火曜日にそれほどの混雑があるものなのか怖いモノ見たさということもありました。

 

10数年前に横浜金沢区に居た頃には自宅直近のその店にはちょくちょく出向いたものですが、何しろ当家奥方はその店がお気に入りのよう。浜松にオープンするの報に色めき出っていたワケでした。

 

いったいどんなものかと「期待」に胸を膨らませて行ってみれば、予想に反してまったく大したことなし。カンタンに駐車はできましたし、なくなるという噂のカートも山ほどありました。

私が率先して購入したものといえばウコン100日分(コストは1日あたり20円)でした。

その日の昼も500円のカレーライスをいただきましたが、最近は体重増加気味傾向にありましたので、コレを使用してカレーを1日おきくらいにしてみようと思っているところです。

 

さて、先月末から鳴り物入りで公開された「関ケ原」。

まぁ色々と評価は分かれているようですが、私はハッキリ申上げれば「おもしろい」の一言。

久し振りの「まじめな戦国モノ」映画で楽しく過ごさせていただきました。

何せ司馬遼太郎原作をベース。それを意識させているところがその物語へのワクワク感を盛り上げていました。

 

私が「つう」であるなどというのは滅相もないことではありますがある程度は「関ケ原」についての背景やら地名、布陣地、登場人物の事前情報が無ければ強烈な物語の進行の速さと台詞の連打の如くの早口にはおそらくついて行けないかも知れません。

台詞の内容は歴史の用語も散見されて、中にはチンプンカンプンになる方もいるのかな?などと思って隣の奥方を見やれば案の定鼻ボコ提灯。いやはやそんなものでしょうね。

 

たとえば旗差し物の家紋をご存知の方でしたら「どちらさん」とお分かりになるところですが・・・

 

私の所感はあの「おあむ物語」のあれ(女衆による首の処理)のシーンがありましたが、やはりその現場は従来通り大垣城なのだなぁ・・・という納得感。今は佐和山城の件というのが通説です。それは当然でしょうが。

 

また映像としては古風がイイのですが、「伏見城」のロケ地、東本願寺大寝殿の図で畳の劣化が目立っていたという点、まぁしょうがないとしましょう。

敢えて記せば他の伏見城の屋敷が新築のピカピカではなかったこと。伏見城と付随する家臣の屋敷は新品でなくてはね。

そして城の石垣の図。あれでは「城址」。

櫓なり何なりの建造物がなければおかしいですね。却って城の上部は画面に入れない方がよかったです。

 

しかしアレだけのエキストラを使ったスケールの大きな戦闘シーンはありません。

石田三成(またはこちら こちら こちら)再評価もそうですがそれ以上これからより島左近とその役者さんの評価があがるような気がしてきました。

 

映画では島左近の出自について触れていませんでしたが、それは「不明」が通説だからです。

私は勝手ながら「近江国坂田郡飯村 島記録」の通り近江今井家臣の出自を想います。

 

②大谷③浮田④細川。戸川達安の名が見えますが島(嶋とも)左近(清興)を討ち取ったと言われています。

 

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2017年

9月

05日

井伊直平は社山城には行っていない 社山城

先日は東京にお住いの90歳になる統計学の先生(女性)が静岡にて講演を行ったあとその足で拙寺にお参りに来られました。

フランス語ペラペラで頭脳明晰と聞きますが耳も目も衰えている感はありません。

さすがに歩行の際の足の運びは自信がなくなっているようですが、東京の自宅から公共機関とタクシーを駆使してごく当たり前の如くやってきたとのこと。

 

80歳を過ぎてからも新しい習い事(オルガン)を初めて益々意気軒高。つい私も「カレーライスはお好きですか?」などとくだらない質問をしてしまいました。

勿論その付き合いも「大好きでよく食べるよ」と気軽に応じてくれました。

 

ざっと今回の講演の内容をお聞きすると「懲役等で収監された人の釈放後の再犯率について」だったような。

これは相当高い率で再び刑務所の門を叩くという傾向があるようです。

 

私としてはどちらかと言えば「カレーを毎日食べている人の疾病罹患率」が知りたいところでした。

 

また、新聞紙上では米科学アカデミー紀要に発表された調査結果が報じられていました。

それが「貧しいほど独裁者を求める」というもの。

「貧困」・・・・「人生を自分でどれだけコントロールできているか」を自己評価した点数が低い人ほど、また失業率が高い地域の人ほど、「議会や選挙を気にしなくてもいい強い指導者」を求める傾向が強いとのこと。

 

世界恐慌の荒波を一番に喰らっていたといわれる第一次大戦後のドイツがヒットラーを選び、今回のアメリカ大統領選挙でも失業率・貧困率の高い地域ほどトランプの投票率が高かったようです。

ということで独裁者は自身の政権維持には国民を飢えさせておく(格差大歓迎)ことが一番手っ取り早いことなのでしょう。

北の大将の経営手腕(飢えさせておく)は統計学上まんざら違う方向ではなかったということでしょうか。

いやこの段階は粛清と恐怖政治があるからですね。

一旦独裁者を作るとあとあと困るということなのです。

私どもの国も好き勝手ができる法律いじりができないよう監視していなくてはなりません。

 

「粛清」とはいかにも強い言葉に見えますがコレは要は「人の意見に耳を傾けない」という性質(タチ)が「都合の悪い事を言うヤツを黙らせる」という思考と強権化が顕著な結果を招いていることなのですが、基本「他者意見を尊重しない」傾向の首班を選択させないということが肝要です。

そしてその論文に記された「人生を自分でどれだけコントロールできているか」が「貧困」に結びつくのかとなるほどと思ったところで、「自己制御」の重要性も合点がいきました。

 

さて、先日の井伊直平の鎧橋の件。

大河ドラマではナレーションのみで「描いた」その死。

川名の鎧橋の掲示板もそう記していましたが、それが飯尾連龍の奥方のお田鶴の方に一服盛られて「有玉にて落馬」して死んだということ。

まぁ説としては一番に有力でありますのでもう一つの戦死の場所と言われている社山城攻めの方は記しませんでした。

 

静岡古城研究会の水野会長の記述を転記すれば『「寛政重修諸家譜には永禄六年(1563)九月十八日死す。享年七十五歳。法名顕祖」とあるだけで、死因は明記されていない』といいますので本当のところよくわかっていないのですね。

その年齢のことを考えれば病没の可能性すらありますが、まぁ私も毒茶を飲まされての「有玉落馬説」を取ったところです。

 

その社山城は、天竜川の川向うの河岸段丘上にあります。

段丘上からの城攻めは脆弱性はありうる城ですが、天竜川渡河はキツい行脚ですね。岸から弓の狙い撃ちの的になりえますし

当時でいえばなおさらという感覚です。

しかしもとより敵は誰なのかというのも疑問点ありますね。

 

社山城は八代山とも記し、斯波対今川の時代にはその争奪戦となった城といいます。今川時代はこの地より南にある匂坂城(こちらも)同様匂坂氏(鷺坂氏)の城になります。

ただし築城年代はこちらの方がずっと古く寛和二年(986)に参議中将藤原友実の長子で匂坂(鷺坂)十郎則実が築城したといいます。そして十一代六郎右衛門入道長能の時に社山を菅沼重左衛門定平に任せて匂坂城に出たとあります(城郭大系)。

 

の件も史料的に疑いもあるようですが、宗長日記には「社山に左衛門佐殿在城 配流を以て二俣に退く」とあって「二俣近江守昌長」の築城説もあります(尚、両名が同一人物か不明)。

二俣近江守昌長は「二俣」の如く二俣城を築城したといわれますが、この人は今川家寄親クラスの人物らしく米倉城の築城にも名があって駿河・遠州・三河と転戦・在城していることは分っていますが敗者の今川家臣団ということもあって謎の人物です。

 

とにかくも井伊家がこの城に攻めかかったなどいうのは腑に落ちませんね。

直平が死した時期は未だ今川の息かかっていた時代であり主城たる匂坂城の戦闘そして落城は元亀二(1571)年の武田信玄の来攻です(場所はこちら)。

 

遠州豊田I.Cを出て「ららぽーと」の丘を西に下れば天竜川の砂状平坦地に。

そのまま二俣城方面に台地を右に見て北上しますが、右側に慈眼寺の石柱と小さな社山城の案内がありますのでそちらの右折がポイントとなります。

 

尚、画像はありませんが、お寺に着く前、保育園の手前に社殿の無い「ただの鳥居」が左手にありますが、これが特殊なもの。

こちらの鳥居の奥、北方約25㌔、秋葉神社の鳥居となります。

火伏(ひぶせ)の神ですから生活に密着した地域信仰ですね。

 

慈眼寺に並立した諏訪神社からして武田の雰囲気が十分に漂ってきます。 

寺の脇の道を上がると右側に社山城の案内がありますので以降案内に沿って進めば城の入口に着きます。

車は1台程度は置くことができますがお茶シーズンに上がれば顔をしかめられますね

 

そう高い山でなく何となくの散策で十二分に残存する遺構を満喫できますがやはり冬がいいですね。

東側の二の丸と西側の帯曲輪が見ものですが夏は草ぼうぼうということになりますので。

帯曲輪の小石の残存は・・・投石用か?

 

 

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2017年

9月

04日

超大国に囲まれてまるで遠州忩劇 錯乱アホくさし

北の御大将は今度も大きな花火で皇室の祝典に祝砲をあげるかの如くでした。

それにしても例によって超スペシャルワンパターンの言葉「断じで容認できない」「断固たる対応」云々にはイイ加減空しくなってきませんかね? 

 

サイコなお山の大将のそれぞれについてはもはや相手にもせず、放っておくのが一番効くはずなのですがね。

「かまってちゃん」に反応すること自体バカバカしく思います。政府はそれが政策の如くですしマスコミも大騒ぎしすぎ。

 

バカ大将殿は「アメリカ」のみを交渉のテーブルに引き出すことが目標のようですからもはや日本はカンケーなし。

普通はあそこまで勝手きままな暴挙というものは国としてはあり得ないことであることはわかります。

要は普通は四面楚歌状態になります。

まずは経済と金融の制裁がくだされて「食べる」事さえ難しくなり、国民の不満は増長、クーデター等の政権転覆騒ぎが出てくるものです。

まぁそれを狙っての制裁の発動なのでしょうが。

 

ところがまったくその四面楚歌状態は感じられず、「口だけ制裁」はまったくもってどこ吹く風。何をやっても痛くも痒くもないといったところでしょう。

それもそのはずこの状況は冷戦時代と同じような構図なのですね。

共産主義は資本経済を甘受し、国の繁栄を取り戻しました。

ロシアと中国ですね。しかし両国は政権の形態はともかくとして依然として「アメリカ1国にでしゃばらせない」という気概は持ち合わせていて、また世界中で利権の鎬を削っているわけです。

 

トランプが「アメリカファースト」などという語を標語にするようになりましたがそもそもロシアも中国もそれぞれがその「ファースト」を国の後に付けている事は当然ですね。

ただただ「1番争い」をしているだけです。

 

ちなみにその「ファーストブーム」に乗っかって「日本ファースト」なる言葉を最近聞きましたが、物真似以前にその「愚」を感じないわけにはいきませんでしたね。

 

米・露・中という3つの大国の中、世界の警察官の章を誇示するアメリカがその中でも一歩抜きんでていることは自明ですが、やはりその状況に満足していないのがロシアと中国です。

中国とロシアの共通理念の凝縮された場所が北朝鮮であり、それが両国がのらりくらりとしてガッツリした経済制裁に至らない理由ですね。また表面的に「制裁します」と言ったとしても内実は分かったものではありません。

 

これはフランスのたばこ行政に似ています。税収増と喫煙率抑制の健康施策ですが、2020年まで段階的に一箱1300円まで値上げするというものです。

まぁ1300円程度で驚いていてはダメ、本当に国民の健康を願っている国なのでしょう、オーストラリアは現在2000円程度ですが行く行く3000円以上に持っていくようです・・・

 

オーストラリアは島国ですから、うまくいきそうな気がしますがフランスの場合は他国から格安のたばこが流入して「うまくいきやしない」という意見が大勢。

需給に応じて物資は法のウラで流れ込みますからね。制御不能の部分もあるワケです。

 

また金融もしかり、たとえば株にしろ為替にしろ第三国からの先物投資等が可能であれば、事前に仕込んでおいたところをミサイルなり核実験で脅しをかけて反対売買して儲けるという常軌を逸したインサイダー取引ができるワケで、実際その辺りの所をどう監視できているのか不思議なところです。

まぁネット操作により他国銀行に進入してキャッシュを掠め取るという荒業もなしうる国ですから「何でもアリ」。

 

この問題はどうにもならないこととあきらめましょう。

日本はテーブルにはついていないのです。

そしてまた日本の資本は中国とロシアとの儲け話(投資)に片足を突っ込んでいるのですからね。

とにかくかまってちゃんの対処法は「ほったらかし」が一番効果的なのです。 

 

さて「堀川城の虐殺と井伊の現状は酒井忠次と近藤康用のせいである」とまとめようという意図が見えた大河ドラマ。

かなりの「新発想」でもはや脱帽。

昔見た大河の本能寺での件、鉄砲を撃ちまくる信長役の舘ひろしを思い出しました。舘ひろしのイメージとしては鉄砲(西部警察)。そこで鉄砲を撃っていないという確たる文献が残っていないのだから「撃ってもイイ」という脚本家の弁があったような。

 

撃ったり撃たれたり、煽られて結局、一同勇ましい事がお好きなのでしょうね。国と国の威信というものにいつも大迷惑するのが子供達だということをご理解のほどを。

自然消滅を待つほかはないでしょうね。時間をかけて。

歴史を信じましょう。

 

既報の通り、私は「奥の墓道」氏との間で「カレー戦争」が勃発しています。

7月から毎日お昼か夕飯に「ターメリック使用の何か」を食べるようになってからその画像の交換をしているのですが、今日来た画像には驚きました。もはや普通のカレーでは飽き足らず手の込んだものも出てきました。

 

画像最後の2つが昨日一昨日と彼の送って来た画像ですが、一つはレトルトに納豆を加えたもの(確かにこのマニアはいます)。そして2枚目が単品注文のみでラッシーを入れて2700円弱との出費を嘆いたもの。

他の店ではディナーセット1280円~があるそうでこの専門店は失敗したと言っていました。

 

①はこの土日で檀家さんにいただいたカレーたち。

楽しみです。③④は②を使って作っもらいました。御台所様に依頼、研究の結果ですがなかなかイケました。

ただしナンは専門の料理屋に絶対勝てませんね。

 

「玉ねぎ飴色カレーロード」の製作に30分、3種のターメリック、カイエンペッパー、コリアンダーを小さじ1杯とニンニクに塩そしてチキンで約60分の仕事だといいます。カレー屋はコストがあまりかからないということがわかります。

 

⑤はネギたっぷりカレーうどん。コレにターメリック+黒コショウ追加でいただきます。ターメリック効果を数倍にあげるのが黒コショウですね。

⑥は先日行った藤枝の専門店のメニュー。ナンの大きさも手ごろで無茶苦茶な満腹感はありませんでした。

往々にして食べきれないほど出てきますから。

1000円でお釣りが来ない店はムリですね。

私は納豆添えよりも冷奴の方がイイです。納豆は朝、白いご飯といっしょが一番。

 

ブログに訪問いただきありがとうございます。

是非に皆様方とご家族の健康のために「争うように」ターメリック効果を享受いただきたいと思います。

 

おそらくあの大将殿、刈り上げ頭にメガネの弦が喰い込んでいる様子は不健康そのものを推測。

私たちはしっかり自身の健康寿命を延ばしその一部始終と一件の始末を傍観しようではありませんか。

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2017年

9月

03日

三界に家無し 勝過三界道 三井山砦五輪塔と神宮寺砦

土曜の夜のテレビ小僧はNHK「植木等・・・」から「都市直下地震」。座りっぱなしの不健康を指摘されていますので30分おきに立って屈伸運動。

 

「植木等・・・」に関しては予告を見てちょっと「無茶だろう」という怪訝を感じましたが、もしかすると当流の宗旨について触れられる場面もあるかと思い、チャンネルをそのままにしていました。お方様がチャンネルいじりをし始めようとしたためそれを制止して。

 

すると冒頭から父親植木徹誠役の伊東四朗が出てきて「わかっちゃいるけどやめられない」は「親鸞聖人の考え方そのもの」「寺を継がない罪滅ぼしに(スーダラ節を)歌って来い」との台詞があり、お方さまへドヤ顔をしつつ嬉しくなって1回目はすべて視聴しました。この件は有名なエピソードでした。今後もそこのところに注視して(坊さんを継がずに芸人の身となった)見ていきたいと思います。

 

地震の件、大阪の「上町断層帯」の高層ビルをシミュレーションした「長周期パルス」の脅威を「小劇」にしていましたが、アレでは「あべのハルカスなんて恐ろしくて上れない」と思うばかりです。

関東ローム層と名古屋の「地下」については「わからない」だけでたまたま大阪を例にしたようですが・・・。

まぁ高層マンションにこれから住むなら

①近くの活断層を調べよ

②直下の地盤はどうなっているか調べよ 

既に住まわれている方は

③準備せよ 

④リスク存在の事実を無視して対策を取らないことが「想定外」を生む

 

さて、他にも「わかっているようでわからない」のが「三界」の語。

三界とは「欲界、色界、無色界」という「人間の性」により抜け出せそうもない「生まれ変わりのローテーション」の如き事を表す語(流転三界中・・・)ですが、まぁその「3つ」についてどうこうと考える事はありませんね。

これは一言で言って私の好きな「すててこその身」の推奨です。そもそも捨て切れるものではないからです。

そのローテーションから脱する事を(一昔前・・・)あの人口に膾炙した語の「解脱」ですね。

よって私はそのようなデキもしない大層な仏教用語を軽々しく口にしようとは思いません。

 

わかっているようで実際にはわかっていないのがそこのところで、諸所の事、生きている限り捨てることが可能な事は少ないものです。

ここで捨てきれてこそ「わかった」と言えるのでしょうが・・・。

 

昨日の法話の中であげたのが当流で扱う「勝」の字。

まず「勝」の字は相手があるものではなく自分がどうであるかということ。どちらかと記せば「勝負」のイメージではなく「勝れた」の意でしょう。

極端な言い方で「地獄より極楽に行こう」、極楽の方があらゆる点で「勝(まさ)っている」という意がわかりやすいかとその例を提示させていただきました。

 

「勝る」のこだわりは「執着しない、すてる」とはダブルスタンダードとなりますが、「執着しない、すてること」にこだわりつつも「お念仏に特に執着」して「極楽(こちらにも執着)に行こう」のキャンペーンが当流であってその執着こそが他に勝らなくてはなりませんからね。「すててこそ」の旗を振っている身としてもよくわからなくなりますが。

 

一応「勝」の字を見ていくと善導さんの至心懺悔の「勝縁勝境 悉現前」であり表記「願生偈」の一節「勝過三界道」が。

私は「願生偈」については少々長めですので墓前では拝読いたしませんが(主に三誓偈です)、その中間の長さの嘆仏偈と同様、本堂内あげ経等で拝読しています(いずれもいわゆる「お経」ではありません)。

尚、表記のもう一つ、「三界に家無し」については大谷大学のサイトを参照。

 

画像は三井山砦の五輪塔たち。

推測ですが、こちら三峯山両軍攻防の際に死んでいったものたちを弔うために縁者がそれぞれの地に建てた石塔を後世になってこちらにまとめたものでしょう。

このタイプの一石五輪塔は室町期に流行ったものですから。

画像は訪問時期に2年程のインターバルがありますので微妙に位置が変わって見えます。

自分で動いていたら面白いのですが・・・。

 

この砦の今一つの着目点は堀の如くの溜池を設けたこと。

最後の画像はその中で一番大きい高天神城側にある神宮寺砦のため池。

下の画像が神宮寺(場所はこちら)本堂奥の丘とその内部。

ただの竹藪と化しています。詳細はこちらへ。 

 

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2017年

9月

02日

大石外記氏久の五代前の祖は大石三河守憲儀 

朝の涼しさはもはや「秋」を感じさせられました。

遠く南の台風がもたらす風が一役買っているのでしょうが、気まぐれなコース変更だけは勘弁していただきたいところです。

 

昨日記したブログについて各コメントをいただきました。

表題の酒井与四郎重忠ではなく、攻め方武田、籠城小笠原の際(第一次)の高天神城追手池の段の守兵として内藤昌豊軍と激戦中、命を落とした大石外記氏久の件です。

引用した文書を記して推測のうえ記したものでしたが、調査不能の部分がありましたので記すことにしました。

 

書物は藤田鶴南氏の「高天神の跡を尋ねて」です。

「大石外記氏久 鎗疵深く二か所程深手を負うて引き上げかね既にして敵兵に首を掻かれようとした所へ、城兵中山是非之助、小池左近等が槍を揃えて敵を突き退けて追い払っている有様を、

外記が長男新次郎久末当年十八歳、東の尾根で戦っていたが是を見て驀地に飛び来たって親を肩に掛けて城中に引き入れたが、三日の後遂に卒去した。時に年五十六歳。大石外記は遣唐使大石麿の末裔で旧今川氏の武将であった。」

とありました。

 

この「遣唐使大石麿(二十七代の)末裔」の件ですが私はテキトーにそこのところを転記したワケです。それでは藤田鶴南氏の引用文献はどこから?というところ。

 

奈良時代に万葉集にて粋な歌を残し、遣唐使ではなくて遣新羅使として朝鮮半島に向かった「大石蓑麻呂」なる官吏が居るのですがどうも他に「大石」なる遣唐使は見えてきません。

というか回数ある遣唐使として唐に向かった役人の名を調べる気にはなりません。

ということで昨日記した「遣唐使大石麿の末裔」の件、保留にして判明次第追記ということで。

 

そのあとのことについて転記すれば、「天正十年久末退隠して宗兵衛と言い、大坂村を招いて居住した。長男彦左衛門は大須賀家に仕え、後徳川頼宣に従って紀州に仕えた。

久末長女に今川浪士喜平治を迎えて大坂村大石家を継がしめ、長女に本間清光を配して池新田村、本間丸尾両家を興さしめた(この段端折りすぎか?)」

 

しかし大石外記五代前の「大石三河守憲儀」の件についての信頼性は高いのかと。

大石三河守憲儀は永享の乱で鎌倉永安寺に籠った足利持氏の追腹を切っています。弟の大石憲重も同座していたといいますが(永享記に「大石源左衛門尉憲儀」の名で・・・)、足利持氏攻めに関しては駿河守護の今川範忠の出兵がありました。

しかし拙ブログにかつて「三の姫さま」を記していますが彼女は持氏の三女といわれています。

 

持氏は鎌倉の情勢不安定を危惧して今の高天神城の北に娘を疎開させたというのが通説で同行した家臣では「大澤」と「佐束」の名が地元に残ります。

そこで思うのが鎌倉の持氏と今川のパイプの存在がかねてからあったのではないかということです。

ということから持氏と死を共にした大石の子息を駿河(当初富士川善徳寺と)に招いて家臣として取り込んだのだと推するところです。

そののち大石外記は三浦との一件(昨ブログ)もあって氏真を見限って高天神の小笠原を頼ったというところでしょう。

 

大石家は各家との姻戚を結んだということを「名家」であることを理由に記しましたが、私は主君足利持氏と潔く腹を切った大石兄弟の美談というものが三の姫伝説と同様に囃されてその血筋をわが家に取り入れたいという意図もそれぞれがあったのかとも思いました。

 

また大石といえば高天神城近くの渥美源五郎屋敷跡を思い出します。現在の屋敷の所有者は大石家となっていますね。

そして磐田の泉蔵寺の渥美源五郎の名が中心に記された墓碑を見れば大石三河守憲儀の名が併記されています。

「永享十一年」(1439)の銘もしっかり判読出来て素敵!です。

 

前ブログでの画像は直立修正しています。

実際は今にも倒れそうな墓石でした。磨滅と剥離が進んで相当怪しくなっていますがこの墓碑は大切に保存していただきたく思いました。場所はこちらになります。5年ほど前に伺った図だと思います。

 

ちなみに上記遣新羅使「大石蓑麻呂」の万葉集歌とは

 

「石走る(いわばしる)  滝もとどろに  鳴く蝉の 

                                        声をし聞けば  京し思ほゆ」

 

拙寺境内の朝は既にセミの大合唱はありません。

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2017年

9月

01日

三井山砦はベテラン三十歳 酒井与四郎重忠の持口

私の大口たたきもそんなもの。

ハリルの感極まった涙の通り2-0で日本の勝利。

開始前は気温22℃と絶好のオーストラリア日和と思いましたが

開始早々私のオーストラリアへの幻想が顕在化、家族に罵倒されながらほくそ笑む「奥の墓道」氏とのラインでの実況感想合戦を終えました。

年末まで「鰻重とカレー三杯」の予算工面が課題となりましたが、楽しく観戦させていただきました。

ハリルの感慨はひとえに「井手口」の抜擢の妙ですね。

衆人知られたホンダをベンチに下げて若衆が走り回っての勝利。この件、これまでになかった日本代表チームの采配で、往々にして「なんで出さなかった」という監督に対する声が怖くてできないものなのですが、英断でしたね。

 

若い代表選手が育つということと、その中で「自分でもやれる」という気持ちが広がって選手層が厚くなります。

それに反して有力選手の欠場もありましたが、オーストラリアは途中でベテランのケーヒルを投入するなど、采配がいたって古風。パスサッカーを目指しているようですが、サマになっていませんでしたね。

 

決定後のサウジアラビア戦は湿度95%と凄いコンディションですが、もはや日本はリゾート気分(消化試合)。反面サウジは血眼になって勝ちを目指しますので怪我の無いようにうまいこと90分過ごすというスタンスですが、あまり点を取られてサウジに勝ち点を与えるとオーストラリアに恨まれましょう。

オーストラリアはタイ戦で勝ち点3と大量得点を目論んでいるのですが、タイが善戦すると思わぬ3位が待ちうけていますので。

 

さて、三井山砦の画像(すべて冬季)がありますので昨日に続いてupします。

三井山砦は武田方の伏兵を追い立てたのちに設けられた砦ですがのちに武蔵川越藩初代藩主、上野厩橋藩初代藩主と出世した

三河西尾城主、酒井与四郎重忠の持ち口だったと言われています。

 

いつもの「高天神の跡を尋ねて」から引用すれば、こうあります(他説ありますが・・・)。

「天正六年九月十三日、徳川方大須賀康高三峯山(昨日ブログ)に出兵し、高天神城兵と戦う。久世三四郎弓矢を以て城兵多数を射て功を立てた。同十月八日大須賀康高三峯山に出て城兵と戦う。坂部三十郎(廣勝 横須賀七人衆の一 坂部治兵衛正定の兄)十八歳、敵将野中郷左衛門を討ち取った。

天正七年九月十三日大須賀康高二百余の軍勢を率いて三峯山及び麓の地方を焼働して城兵を追手門に追撃した。同年十月中旬家康は三井山に高天神包囲の為六砦の一つを此所に築き酒井与四郎重忠の持口とした」。

 

家康が時間をかけてこつこつと包囲網を狭めている様子がわかりますね。勿論三井山砦に関しては高天神大手口に睨みを効かせる要衝ということもあって若手の起用は考えられないところだったでしょう。

 

三峯山は周囲展望がひらけて横須賀城とも直近かつ高天神城の南にあって海側からの兵糧を監視するうえでも重要地点。画像①②は昨日の櫓の上からの眺望ですが、天正期となれば海はもっと手前にあったはずですね。③は三井山から北を見たところですが、木が邪魔をして北側はよく見えませんでした。冬でもこの通りですから。三峯トータルで見れば規模は大きく感じられますが、小笠山砦と比して三井山砦そのものではそう大きくは感じられません。何しろ小笠山砦は山深く谷も深い「堅牢」を感じますからね。

 

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2017年

8月

31日

時間調整 昼寝は三井山砦 夏季は橋の下どまり

夕方の海岸から150号線の視界が悪かったのは台風の影響ですね。

関東地方では落雷と豪雨と河川の増水の報がありました。

今、神奈川県の山北に雨が100mm以上降っている様。昔ながらの私の感ずるところこういう場合あの周辺の山は崩れたり、川の増水での事故がたびたびありました。

世界中どちらでも豪雨と洪水のニュースがひっきりなしに入ってきますがこれほどおかしな地球、滅多に無かったように思います。

 

しかしここ相良は日中はいいお天気でした。

ちょっとした工夫が必要な大工仕事がありましたので、のんびりと境内で。

明日以降は荒れ気味の天気が予想されますので、海山の油断は即致命的な結果を招きかねません、各配慮が必要です。

 

サッカー、豪州戦はひょっとすると大雨になるかも。

最悪のコンデションとなるかもしれませんが、涼しくなるとオーストラリア有利でしょうね。

日本は後半の高温多湿下の体力勝負に持ち込みたいところでしょうから気温30℃以下だと体力を温存されてオーストラリアの消耗がそうはなくなって、いよいよ苦しいゲームになるかも。

(相手の消耗待ち・・)しかし何事も「雨のせい」にしてはいけませんよ。

朝のニュースでは同組のサウジがUAEに負けたとの報。

数字上はサウジ戦に引き分けでも本戦出場が決まりますが、逆に言えばサウジは日本にがむしゃらに勝ちに来るはずです。

 

佳境を迎えてA組の方もいよいよ目が離せなくなりました。

すでに本戦出場が決定しているイランとウズベキスタンと2位争いをしている韓国の戦い。

韓国はアウェーでイランに勝たないとまず3位。ウズベキスタン対戦はビリの中国戦です。イラン✖韓国は「荒れる」という下馬評ですから違う意味でも見物になります。

8月最終日の夜は、ぼけーっとサッカー三昧です。

 

さて、一昨日29日のハードスケジュールな午後は組会出席のために横須賀大渕の善福寺に向かいました。集合時間までに40分程度の時間があったため「少し昼寝でも・・・」ということで「大坂北」の交差点を過ぎたあたりで私のお好みの場所に寄り道しました。

あと10分程度走れば大渕ですから時間調整には丁度いい場所になります。

 

木漏れ日とミンミンゼミのシャワーの中でシートを倒して(さすがにエンジン-エアコンは切れませんでした)いると、そういえばこちらの砦についてブログアップした覚えがないということに気づきました。

高天神六砦のうち南の要衝「三井山砦」です。

ちなみに北の要は小笠山砦(ホーム参照)です(場所はこちら)。

 

ちなみに上記「大坂北」の交差点は相良から朝比奈経由、新野川を渡ってから浜岡運動場を左に見てひたすら西進するとこちらに到達できます。この交差点を右に曲がれば高天神のある土方方面ですね。

そのまま西に進んでスグがかつて走っていた駿遠線「南大坂」の駅があった場所で昔の「大浜町」の中心地。

砦はその先の信号機のある交差点「大浜公園入口」を右折します。

 

そこでこの砦跡が今は公園化しているのか・・・という理解が得られますが(この公園は貞永寺という寺の民有地になっています)

初めて向かう方は交差点を曲がってそのまま頂上を目指して上がればワケがわからなくなるはずです。

私もかつて迷い迷いしながら砦の本丸方向に行き着いたものですが、頂上の櫓やトイレのある駐車場に到着したらもはやそちらは三井山ではないのです。

 

三井山は高天神城の南2.6㎞、その名のとおり三つの井戸があったということからその名が伝わりますが、その他三井山の他、山王山、宗兵衛山があって総称「三峯山」という小笠山から南東に延びる舌状台地の先端にあたります。

要は砦の位置がわかり難いということです。

 

この駐車場に車を置いて、掲示地図③の通りに所々にある石仏モニュメントを見ながら大回りして行く道はありますが、私の砦へのショートカットはもっとカンタン。上記「木漏れ日」の下、車を停めた場所からあがります。

 

その際そちらから5分もかかりませんので「久し振りに上がってみようか」と頭をよぎりましたが、蜘蛛の巣かき分けて汗だくになる気にもなれず、休憩後その場を去りました。

 

秘密のショートカットを披露すれば(自己の責任においてお願いします)ごくカンタン。

上記交差点を曲がって真っすぐ山道を上がり、1つ目の左カーブが出てきたらそのまま行かずに右のスペースに車を入れて停車するだけ。

 

よく見るとそこは切通しになっていて細い下りの道、そして通り前方上部には鉄の橋が架かっているのが見えます。

左手を見れば傾斜地を上に通じる道がありますのでそこを上がって行けば橋の北側に出られます。

勿論、その橋の向こうの山塊が三井山砦。

 

横須賀城に近く台地の最南端にあたって南北の監視力強く特に高天神に対する砦としての防御性と他の砦群のコントローラーとしてあったものと思われます。

台地を分断するこの意表を衝く高さを誇る切岸風空堀はかつておそらく木橋で結ばれていて、イザという時にはそれを落として防御するという意図があったことが推察されます。

 

上記①の看板は先日は見えなかったような。撤去されている可能性があります。③④が公園の展望台です。

⑤の左カーブの所で右スペースに入り⑥の→へ。

下図は一昨日の様子で茂りすぎにつき登っていく気にはなれませんでした。

⑦⑧が西から見た橋。⑨が逆側からの様子。

⑥を上がってスグ橋の入口⑩⑪。⑫三井山砦へ。

⑬以降が橋を潜ってからの道の様子。お寺の門前に到着します。展望台からも車で時計回りに降りることができます。

 

上記画像は数年前の冬季のもの。この山も夏季に行く山ではありません。放置されたままの倒木もあって殆ど藪です。

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2017年

8月

30日

横須賀は大渕 善福寺 大須賀氏

偶然もここまで重なるものでしょうかね。

29日は1日中座り通しでくたくたになりました。

この日は陰陽道「友引」の日。

我が宗旨に安倍晴明や星占いによって「日の良しあし」のどうこうをいう習慣はありませんが、何せこのあたりの火葬場の定休日が「友引の日」と決まっていますのでそれにあわせて坊さんの集会は「友引」にするというのがお決まり事項。

絶対に葬儀と重ならない日でもあります。

バカバカしい話ではありますが致し方ないのです。

 

そして8月最終の友引という日は拙寺がお世話になっている岡崎教区の「組」(そ)の毎年決まった寄合の日です。

その日は組費やら寺院賦課金の支払いに本9月から支払い受付がされる本山経常費御依頼金の決定事項があります。

かなりの額になのますので一年でかなりのストレスが発生する時期でもありますね。

例年の事ですからその「組会」(そかい)についてはまぁイイにしろたまたまその日に重なったのが自動車免許の更新、そしてよりによって船舶免許の更新でした。

 

うまい具合に3件とも時間帯が違って(9時より榛原警察署 14時より横須賀善福寺 1830より御前崎)何とか滞りなくやりすごすことができました。

さすがに1830は当家奥方も同行しましたが船だけに「船をこいていたぞ、一番前の席で」との御指摘。

夫婦ともこの5年間船の操船をしていませんので、先般失効させた「宅建」と同様「放っちゃう?」という選択肢もありましたが、まぁコレが最後だろ・・・という気持ちで更新に赴いたところでした。

 

自動車の方もいずれ更新御辞退申し上げる日が来るのだろうと思うと一抹の寂しさも。朝方の講習は1時間で、ゴールド→ブルーに変わって気持ちもブルー。たしか、ただ1回たすき掛けにしたショルダーバックをシートベルトのつもりで走った「装着違反」でのご指導を賜ったものでした。

 

さて、拙寺が入る組の組長は今年から遠州横須賀、大渕の善福寺 住職の大須賀さんです(こちらまたはこちら こちらも)。

ゆっくりのんびり境内を散策というワケにもいきませんが、立派な松の木含め手が入った植木たちに唖然とさせられます。

 

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2017年

8月

29日

小田原くんだり盗撮趣味惹起 氏政と氏照墓も

余命数週間と告知された方が病床で「『さわやか』のげんこつハンバーグが食べたい」と仰っていた事を以前記しました。

ご家族で何とか病院から連れ出しその希望を実現したということを聞いて少しばかりの安堵を得たのでしたが、空しくも数日前に亡くなりました。

医者の見立ての通りでしたが致し方なし。

まだ若かったこと(30代前半)もあって父母に祖父・母兄姉の悲しみはご年配者のそれとは明らかに異なるものがありました。

 

通夜葬儀はカンタンに、ということで市中看板も出さずに拙寺本堂にて「おくやみ」の式を挙行いたしましたが、結局は一般と変わらないものになっていました。

やはり空調の効かない本堂ですから朝の出棺の際より私は「血圧の高い方は特にご注意」ということですすんで水分の摂取を心がけるようお伝えしていました。

 

午後からの葬儀が終わって仰天。

初七日法要に移ろうとする時、「今、救急車を手配しました」と。何のことやらサッパリわからない私は思わず「え~」でした。

見ると本堂の脇で座布団の上に寝かされている年配の方(75歳)が。周囲には声を掛けている近親者が取り巻いていました。

聞けば本葬時の焼香の際、立ち上がった瞬間に変調をきたしたそう。驚きました。

焼香からその時間まで約20分はあったでしょうか。

それまでそのまま寝かしていたなんて・・・驚愕の事実。

「熱中症みたい・・・」と周囲の一同は私に。

 

私はこの寺の「AED担当」ですので、スグにその推測を捨てて、意識と呼吸・心機能のチェックのため脈拍を計って頂きました。

ごく正常ということで私の出番はなし。救急の到着を待ちました。すると血圧の上が80ということを告げられて搬送、かなり心配しましたが榛原病院到着後、しばらくして「何事もなく復活」の報を聞いて安堵した次第です。

聞くところによると通時高血圧で血圧降下剤を服用していたといいますが、火葬場で飲酒したところに緊張がピークに達して卒倒したとのこと。

 

葬儀式のまっただ中であることを忖度したのでしょうが、事後ではありましたが担当者に「その必要はない」と告げ、「これは与えられたテーマ」であると会社に持ち帰って検討すべきと提案しました。

緊急救命についての研修会出席へ葬儀担当者すべてが出席するなどして、イザという時の対応に遅延が無いよう心掛けなくてはなりません。

その為には葬儀式であろうが読経中の僧侶の背中を叩いて中断させるという判断もあってしかるべきですね。

それに憤慨するような坊主はいないでしょう。

この時ばかりは厳粛な葬儀であろうと坊さんにも忖度は不要です。

 

さて、カメラを首にかけ、史蹟を目指して住宅地を歩いている際、「通報されたかも」と思われるシーンが何度かあったことを記しましたが、それはカメラ=観光客を推すダミーグッズとしてのカメラ小僧の姿であって本来の目的が別の何かにあるのかまたは撮影対象が不謹慎なものなのかを問う警戒です。

 

先日の小田原墓参りの小田原行脚、表記「くんだり」などと記せば今小田原に住まう人々のお怒りをまたもや頂戴しそうですが、

カメラを持って立ち停まってキョロキョロしていれば殆ど不審者呼ばわりされても致し方なし。「それって盗撮じゃん」と息子に言われて「ハッ」とさせられました。

 

昨年も丁度この頃の小田原のこの件を記していますが1年経ってもあの駐車場址は発掘調査中①②。

道路脇を通過中、フェンス越しに見えたトレンチの中から顔を出す木柱らしき物体に目が留まりました③と④。

何が出てきたのでしょう、きっとそろそろ現説があるでしょうね。フェンスの小さな隙間から撮影しました。

 

①②は新しくできた立体駐車場の北側を見た図。⑤⑥が同南側からの図。⑤は現在の小田原城が見えますが⑥は八幡山古郭総構の東郭の図になります。大森氏時代の城域はこちらから西の方角かと。

東海道線の通過する場所との高低差は、工事による掘削を配慮したとしてもかなりのものがあります。

ちなみに駅側から古郭方向に向かう橋が「青橋」で、たしか戦時中の艦載機の銃弾が貫通した痕がありました。

 

下図は小田原駅前をうろつけば必ず参る北条氏政と氏照の墓

本日は大正十二年(1923)9月1日の関東大震災で被災した一統の墓について復興の碑をアップしました。

9月1日といえば震災を今一度思い出す日ですが、今の教育界で最大の危惧「子供達の自殺が一番多い日」であります。

 

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2017年

8月

27日

いつもの憎まれ口 駿府の主張を 北条早雲像をパクれ 

緊迫したいわゆる「土壇場」の如くの状況。

どんなものであってもそれは見物ですね。

特にサッカーのここぞという試合には毎度「奥の墓道」氏と「鰻重一杯」を懸賞として鰻バクチをしています。

勝敗はトータルでは殆どチャラで奢ったり奢られたり。

ということで勝率は50-50。しかし傾向としては最近の私の予想は冴えていて3連勝はしていると思います。

 

少々しょっぱいお話を。

今そのバクチのゲームはといえば8月31日に日本で行われるサッカーのオーストラリア戦です。得点までの指定はありませんが、私の予想は0-2でオ―ストラリアの勝ちにしました。

彼の方はというと鰻重にさらに+カレー三杯とレートをあげてきましたが私もスンナリ了承しました。

 

0-2予想の論拠は日本代表のいつもの凡ミスによる失点が前半にあって同点に追いつこうと引き気味のOGに焦りにまかせて前のめりとなったところをカウンターを喰らって失点するというものです。

「絶対に落とせない試合」と監督も選手も周囲も異口同音。

サッカー好きにはたまらない一戦です。

そういう時は往々にして闘争心は空回りするもの。

何せ残り2試合(残りは日本時間9月6日サウジアラビア アウェー戦)でのうち1試合でも勝てばロシアW杯出場が決定するという緊張重圧の感覚は計り知れない試合です。日本人はそういうシチュエーションは本来苦手ですね。

 

また「オーストラリアに負けてもサウジがあるさ」の気持ちが芽生えたら2連敗は確定。

私は今、鰻はあまり食べたくないので。「カレー10杯」が良かったかな・・・

 

また「あと一つ勝てば」などと記せば「楽勝」を思います。

私の「土壇場」の表現などはあたらないだろうと思う方もいらっしゃるでしょうが、この出場をかけた最後の2試合というものは三チームによる潰し合いになります。

 

参考までに現状の順位は1位日本(勝ち点17)2位サウジアラビア(同16)3位オーストラリア(同16)ですから、何も日本だけが「絶対に落とせない試合」ではないのです(1位2位が本戦出場決定)。

どちらの国も「あと1勝」を目指して遮二無二相手ゴールを目指しましょう。

 

もしここで敗戦ともなれば次は敵地サウジ、熱砂のコンディションで「中東の笛」の洗礼を受ける事は必定。

かなりヤバい雰囲気がしますね。

2敗すると3位が確定。しかしプレーオフが残されていますが今のところグループAの3位は韓国ですのでそちらとホーム&アウェー。勝った方が北中米カリブ海予選で4位のチームと大陸間プレーオフに出場勝利して本戦へとなりますが、かの国はここぞ(というか対日本)となるとパワーアップするというお国柄です。どちらにしろ3位は超面倒なことになるということです。

 

ハングリー精神には程遠い「ちやほやアスリートおぼっちゃま」(違ったら失礼)に勝ち目はありましょうか。

ひょっとするとロシアへ行くのははムリな状況かも知れないといえる土壇場なのです。

 

ちなみにオーストラリアの2戦目はグルーブのビリ、タイ戦です。たとえ日本で引き分けしても勝ち点計算は1+3で20。

オーストラリアは「余裕のよっちゃん」の気持ちで日本に。

秋葉で買い物ツアーの気分、だったら・・・そういうスタンスは心理的に上手のように感じます。

そして対戦成績、W杯予選にてオーストラリア戦は何せ日本は分が悪い。8戦して0勝・・・勝率0%。

 

数字の件はまぁ無視したとして、私のオーストラリア勝利の予想は直近のコンフェデ杯での戦い振りです。

キレも突破力も日本に無いものを持っていました。

いつものパターン、バックスのあたふたと、闘争心の履き違え、つまるところ「つまらないファール」をPエリアでやらかして頭を抱えるシーンも頭に思い描けますね。

 

先制されたら「ドアーズ」(・・The end)です。

もし日本が勝ったとしたら喜んで「奥の墓道」氏に鰻重とカレーを振る舞いましょう。

 

さて、先日墓参りに行った小田原にて。

裏駅に義母を送り届けた際、ロータリーの乗降エリアに停めて撮影。

すると30秒後、係員がどこからか飛んできて私の車をパチパチ撮影開始。「なに?」と聞けば「早く移動せよ」と。

よく見れば他のスペースの車両には運転手が待機中。「車から出たら駐車」となるようです。

 

腹いせにひねくれ者の憎まれ口を例によって記します。

「北条早雲といえば小田原」のイメージ。

しかしそれは作られたもの。

彼、「伊勢宗瑞」が小田原に居た時間と駿府(・・・静岡県内ならもっと)に居た時間を比べたら(かつてそんな数字を検討したことはありませんが)・・・99対1くらいでしょうか?いやもっと差があるはず。

 

よって静岡駅前に「伊勢宗瑞」にカッコ付で「北条早雲」として「銅像作っちまえ」(あの銅像より恰好イイものを・・・)なのです。

小田原生まれ小田原育ちの私ですが今は静岡県民。

もっと伊勢宗瑞で盛り上げましょうよ、静岡県民。

勿論今川含めて・・・小田原北条は今川が無ければ「無かった」のですから。

 

最後の画像が小田原城板橋口外郭と言われる段丘が見られる光円寺境内。祖母のお墓辺りから北側を撮影しました。

最後の画像の右方向が居神神社(またはこちら)なります。

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2017年

8月

27日

井平氏居館跡②殿村館と伊平氏墓地 小田原にて討死

ごく身近にある「まさか」の一つに交通事故がありますが、先日の徳島の事故はその画像からも厳しい現実を見せつけられた思いがしました。私も高速道路を走る機会が多いので、他人事とは思えません。

 

簡単に言ってしまえば高速道路で車両故障で停車せざるを得ないという不運に前方不注意のトラックが追突したという事故でしたが、事故を惹起した運転手の「前をよく見ていなかった」という言葉では原因と責任の究明には至ることはできませんね。

 

何かの結果「前を見ていない」ということになったのでしょうが、その「何か」にも推測できるところがあります。

①まずは「居眠り」。すると運行管理者の責任もありますね。②は加害者の言葉を単純に信じて「わき見運転」。ただし高速道路走行中にリスクを背負ってまでわき見をするほどの物体はそうはありません。水着の美女が歩いていたとでも・・・。

③ラジオ、テレビ、カーナビ等々の操作そして④が今のお決まり、スマホです。

 

息子が運転、私が助手席というパターンも多くなりましたが、追い越し車線からお隣の走行車線を走る車の運転手の様子が目に入ってきます。

そこで思うのがスマホの「ながら運転」をするドライバーが多い事多い事。

走行車線でのんびり走る車はスマホの「ながら」多しの現実。ちんたら運転はスマホしながらの彼らの「安全運転」なのかも。渋滞の要因にもなりますね。

それでいて追い越し車線を走り続ければお上に検挙されますし・・・

 

おまわりさんはスマホ運転の違反を言っていますが、あくまでも目視が基本。なかなか「指導」まではいかないでしょう。

こうなったらどこでもかしこでも動画撮影をして、ナンバープレートと同時に間抜け顔のながらスマホの図を撮影して「後日ご指導」のシステムを確立する他はないでしょうね。

それとも高速道路上の妨害電波・・・。これでは運転手のみではなくなってしまいますね。

 

事故を起こした人も「スマホを見ていた」「ゲームをしていた」の理由はあまりにもアホ呼ばわりされることはわかっていますので、「前をよく見ていなかった」などとあいまいな事を言うのでしょうね。隠れたスマホ原罪はあるでしょう。

 

ご一同「自分は大丈夫」の高慢な態度でスマホ運転をしているようですが、そこでヘマをやらかして「まさか」の「坂」を転げ落ちるのが人間であるということを再認識しなくてはなりません。

それはいつも同様「私も含めて」のことです。

他者の命を奪ったあとにどんな言い訳も通じやしません。

 

さて、昨日の井平氏居館跡とは別に「殿村」の居館跡があります。同様に井平城南麓でスグ近く。この辺り全域に屋敷があったことが推測できます。

井伊家分家の井平氏について平成元年に作られた「殿村館」の掲示板がありましたのでそのまま記します。

 

 

殿村館

「井平氏の初祖井平四郎右衛門直時は井伊左衛門尉彌直(みつなお 井伊家七代)より分家し井平・花平二郷を治めた。この地に居館を構え裏山に八幡宮を勧進、城山には砦を築いて戦時に備えた。井平城は元亀三年(1572)十月武田信玄の将山県三郎兵衛昌景の侵攻を受け落城、この時井平氏は潰滅的な被害を受けた。

このため天正二年(1574)には再び井伊家より井平河内守直種が井平の領主として派遣された。

井平実記には『井平河内守殿は先立て率し給ひ御子息彌三郎、未だ十八歳なりしが此の度の井伊直政殿御出陣につき御幕下に属して小田原に向かひ給ふ』とあるように井平河内守彌三郎は天正十八年(1590)小田原城内にて討死し井平氏は絶家となった。

居館跡は殿村の字名、地名は中村で今に伝えている。

井平氏の墓地は井成にあり、八幡宮は林森神社に合祀されている。

                  平成元年 引佐町 」

 

上記「派遣された」の件。

少々付け加えさせていただければ「井平家継承のため井平に入った」ですね。

殿村館から100mほど北の藪の中には井平河内守直種とその妻そして井平河内守彌三郎の墓があります。

祠の宝篋印塔が直種のものでしょうか、この宝篋印塔はそれらしい形状を保っていますが横に並べられた石塔はあきらかにパーツ取り、組み合わせの姿が見えます。

 

18歳という年齢での戦陣は当時としては珍しいことではありませんが、若殿様は周囲が身を挺して守るものですし、ここでもまさかの坂があったのでしょう。何事も油断大敵。

 

最後の画像が殿村屋敷跡の近くで見た煉瓦造りの土蔵? 

②画像地図にありましたが「銀行」などもあってセンスのいい開けた場所だったこともうかがえます。

井平家墓地と殿村屋敷跡の位置はこちら

 

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2017年

8月

26日

伊平の井平氏居館跡 整備と案内板の新説に感服

「おもてなし」の大風呂敷を広げられても現状、「そんなこと言っていられない」という京都のバス事情について記しましたが、観光の目玉が集中する京都ならではのところ大であって他の観光地はそう切実ではないかも知れません。

何しろ「常軌を逸した」に近い大挙ですからね、京都の地は。

日本国内でも人気最上位で、海外からのお客さんがそちらに集中

すれば、右肩上がりの「インバウンド(Inbound)―訪日旅行」の3年後の夏の京都は地獄を見せつけられるかもしれません。

オリンピック時期の「ついでに京都へ」の選択はかなりの確率であることでしょうから。

 

バスの件はおそらく些末な事。

以前記した伏見稲荷の観光バス駐車場のトイレなど劣悪のお手上げの躰を曝していましたからね。「迎える」ということのベースとなる処方を今一度見直すことが必要でしょう。

 

トイレと言えば人気のウォシュレットがホテルから宿泊客に持ち出されるという事案があったといいますね。「新しい客」を迎えるということはどのようなネガティブ要因が待ち構えているか一つ覚悟のようなものも必要です。

お国柄と文化が違うということは私たちの想像を超えています。ちなみに最近はホテルによっては備品持ち出しに際しての弁済についてチェックイン時に「誓約書」まで書かせているようですね。

 

さて、井平城について昨日に引き続き・・・。

この井平城を井伊谷に客人として招かれた連歌師の「宗牧」(宗長に師事)がその紀行文(東国紀行)にこの城についてその存在を示唆している箇所があります。

「片岡かけたる古城あり之も井伊家一家の人」・・・の件。

 

とは言いながらも城址の本格的整備は大河ドラマの採用が決まってからのことで、それまではここに城があったという、確証をもっての専門家の主張はなかったのかと思われます。

案の定、城好きたちには欠かせないあのバイブル「日本城郭大系」の記載はありません。

まぁその書籍に採用されていない城たちはまたぞろありますが・・・

 

今こちら周辺を歩くと所々設置された親切な案内看板の多さには驚きです。

伊平といえばその本命たる井伊谷とはかなり離れていますし、失礼ながら「山間地」でとても利便とは言えない場所ですから。

 

余所者の私にはありがたいことですがこれが何ともななく観光客として歓迎されているという雰囲気になれるのです。

ハッキリ言って小銭一つの出費を期待しているものではありません。飲食店といえばあのうどん・そばの店くらいでしょうか。

 

放送開始前の荒れ気味の城址の遺構について地区の人々が集まって整備活動をしていた様子を思い出しましたが、これこそが「おもてなし」というものを感じたところ。

 

看板は昨日の「→」の通りに行けばスグ。季節感ナシ失礼。

 

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2017年

8月

25日

誰にも知られずお宝埋めてこの世おさらば 井平城

京都盆地の中心地は人家が密集していますが周囲(南を除いて)山に囲まれています。よって東京の都心とは違って猪や鹿が出たり猿が出たり・・・。

かなり「自然が近い」というところが感じられます。

 

都市であって自然が身近、その空間に流れる文化に憧れて世界から人々が集まっているようですね。

私の「気持ちは京滋」のところは変わりませんし、常に時間さえあれば「当地を出奔」する用意はありますが、現在のところ自嘲気味。

まぁ雑用の類は山積していますから致し方ないのですが。

 

その京都、誰がクレームを言い出すのか「市内バスが外国人観光客のトランクのせいでやたらと不便」と。

その話がそうだそうだと広がって、バスターミナルに立たせた担当者にホテルまでのトランク配達サービス(別便)を勧めるようにしたといいますが、ほとんどその提案は受け入れられていないようでその策不発の様。

 

ブログにてかつて記した通り、四条河原町は一車線化して観光バスの進入を締め出しました。そのために四条通は大混雑に至ったということと一昨年の拙寺バスツアーでは皆さんを河原町のホテルまで烏丸通に停めたバスから歩いていただいたことを記しました。

 

その時は観光立国の大本命たる京都の主張は歩行者優位の町づくりでありこれも外国からのお客様への配慮のひとつと納得していました。

 

ところがこの「バス乗降時観光客のトランク大迷惑」の雑音とその対案について甚だ疑問に感じました。

まずは「何が観光立国だ」です。

おカネを落としてもらってホクホクではなかったのでしょうかねぇ。

「おもてなし」を吹聴しておいて今更「迷惑」だなんてまったくおかしな話です。

まぁ他にも外国人観光客のマナー等を言い放ち(私たち自身の過去と現在の実を棚に上げて)鼻高々に道徳論を掲げての権利の主張とはまさに笑止千万ですね。

 

そしてバス車内へのトランクの持ち込み。

それは今になってコントロールはムリでしょうし如何にも無策でした。

市内循環のバスにトランクルームはありませんしね。

だいたいトランクの別送など、ターミナルで直接告げられてもそんな言葉を信用する人は誰もいないでしょう。

海外の感覚では荷物は「肌身離さず握りしめろ」が常識ですから。

私でさえ外国に行ってバス待ちをしている際に「その重そうな荷物をホテルまでお運びしましょう」などと言われて「ハイお願いします」にはなりません。「いいえ自分で持ちます」が一番の安心ですから。

旅行者は異国で気軽に荷物を預けられるという気楽さはまずないでしょうね。

 

ツアー客が格安の循環バスで移動することを思量していなかった京都市の失敗でしょう。

バスを増便するなりして対応しないと、「おもてなし」の意義は何かと吐き捨てるように言われてしまいますよ。

掛け声だけでガッチリ儲けられるなど虫が良すぎます。

 

さて、ガッチリ儲けて貯蓄したカネというものは「信用」のシステムが確立した現在は最寄りの金融機関に預けておけばそれで「安心」の二文字を得ることができます。

しかし何から何まで不安定な時代において、確実にそれを維持できる場所と言えば「土の中」でした。

今でいうタンス預金のようなものでしょうが、手元にあるというだけで不安要素は多分にありますね。

尚2017年2月末時点で日本のタンス預金は43兆円といわれますので、未だその「土の中」と同様の事は行われているということです。

 

災害で流された家の中から出てきたもので多いのが「お札」といいますか、如実にそれを表しているのかと。

人為的災禍から財産を守るには「土の中」は、いかにも最良の隠し場所でしょうが、何せ当の本人の「記憶とその存在」こそが「土の中」のお宝を担保しますのでこの世には時折、土中よりお宝出現の話が出て来るというワケです。

埋めた本人が亡くなれば「土の中」については誰も知る由がありませんからね。

こちら相良でも各所でお宝発見のニュースは耳にしていますが「土の中」の件では平田地区の畑の中というのが有名な話のよう。

 

井平城(こちらまたはこちらも)の麓の畑の中から昭和15年に5000枚の銭貨が出てきたと。

お宝発見の報は楽しくワクワクしてきますが(通貨としての価値は無価値化し骨董価値は微々たるもの?)、どなたがどういう経緯でそれを土の中に収めたのか・・・それを想像するとまた楽し。

いつ頃の時代のものか詳細はわかりませんが、武田に蹂躙された地でもありますから、それを考えると納得できますね。

 

上記銭瓶出土の地は伊平保育園の裏側の段地(場所はこちら)。

城の南麓にあたります。

 

③は拙寺の昔からのタンス預金。1000枚くらいはあるかと。

整理すれば面白いかもしれませんが、手を付ける気になりません。また昔から墓場に銭を隠すというのは常道ですから、古い墓を改葬する時に顔を出すことがあります。

 

おカネはしっかり金融機関に預けて、なおかつ遺言を記しておきましょう。

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2017年

8月

24日

「初山流」なる語は超のつく地元人でなくては・・・

息子が叔母さんをカモにするバイトとして提案したのでしょうが、「草刈を依頼された」と私の草刈り機を持ち出す算段をしています。

盛夏の草刈り機はオーバーヒートを含む不調もありますが、彼はかつて草刈り機を使用したことがありません。

 

口では「平気だよ、大丈夫!」などと言っていますが、経験上その語を並べたてる奴が一番危ないことはわかっています。

 

熟練していても結構ポカをやりますし大事な機械を壊されても、他者にまた自分がケガをしても困ります。

特におっちょこちょいは通行車両へ石を飛ばしてあるいは隣家のガラスなどを割ったりをしでかすものです。

 

先日もDIYで目撃しましたが「草刈り機が動かない」と年配の方。担当者は一発で始動させていましたが、何のことはない、スイッチをOFFにしたままスロットを引きまくっていたようでした。他にも「始動できない理由」はありますが、それらは長年使用していればピンとくるものです。

経験の浅い息子にすべて「まかせる」ほど私に度胸はありません。

前回のチェーンソーの息子のデビュー時は墓石を壊しましたからね。

 

さて、川名の地から井平(伊平)方面に向かう道すがら「阿弥陀堂」という看板が目に付きます。

私にとって阿弥陀さんと言われて立ち止まらない野暮はありませんね。

ということでそちらの小高い丘を登って祠の扉をあけて御対面させていただきました。

江戸中期(正徳期)の立ち姿の阿弥陀石仏が・・・

お隣の松ぼっくりを首に巻かれた石仏が「ねぶつの神様」と言うらしいです。「ねぶつ」とは「膿のあるおでき、腫物」の類で松ぼっくりの「ネックレス」を首にかけると「治る」というもの。地元の民間信仰でしょうね。

以前も「疣観音」を記しましたが、疣とか腫物、できものの類ははワルいものに「取りつかれた結果」と解して重大性を考えて神仏に何とかしてもらおうとする習慣が出来上がっていたのでしょう。

 

阿弥陀さんは一見したところ私どもが見慣れた感じではありませんね。衣のひだの部分がアバウトなところと髪が生えているようにみえること、そして耳が大きくて首まで垂れているが如く。

この形式の石仏はこの辺りでは珍しいものではなく「初山系」といって中国の石工によるものとのこと。まぁ私は他のその中国系の阿弥陀仏を見ていませんので比較のしようがありませんが・・・ 

 

その「初山」とは近藤家の菩提寺黄檗宗「初山宝林寺」のことですね。⑦~⑪画像が宝林寺。

①②は川名から西に進んだあたりの図。詳細不明です。

③の上に上がると祠があります(場所はこちら)。

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2017年

8月

23日

鎧橋と目と鼻の先 井伊直平の墓は民有地管理

息子と久し振りにキャッチボールをしてカレーの凄さ(に決まっています!!)に驚いています。

前回あった肩の違和感がまったくないのです。

息子の方から「やめよう」と泣きが入ったくらいですし。

そういえば肩こりと頭痛がなくなっています。これまでは週に1~2度は頭痛薬を飲んでいましたから・・・

 

そして私と「奥の墓道」氏との「カレー喰い合戦」はますます拍車がかかって毎日一食必ずカレーを食してはいます。只今いかにうまそうなカレーを喰うかのレベルに。

しかし現状当方は「敗色濃厚」です。

まぁそんなものに勝敗などつくものではありませんが、彼の住まう横浜はインドにネパールそしてタイとカレー専門店がまたぞろで乱立状態の地。

 

ということで格安のカレーをそして多様なバリエーションを楽しむことができるので「飽き」というものが出てこないのです。この健康法は是非に持続させたいものですからね。三日坊主にはしたくない心強い習慣です。

 

カレー専門店利用のベテランは「持ち帰り」の選択があるようですがそのランチタイムの弁当のセットが凄いのです。

いわゆる1コイン、500円で「お腹いっぱい」になるというもの。彼は「儲けがあるのか心配になる」と言っていましたが、これだけ安価で健康が得られるのならそれはうれしい環境だと思います。

ここにきて気づきましたがステーキと焼き肉は食事の選択肢からは完全に外さなくてはなりません。

 

さて、井伊直平の墓は昨日の川名の鎧橋の向こうに見える山になります。こちらは行き来自由とはなっておりますが民地ですので各配慮が必要になります。

民有地の農地にその墓は建ちますが、そちらのお宅が代々この墓を見守っているとのこと(場所はこちら)。

 

推測ですが「久留女木の棚田」の管理者の中には井伊家に仕えた人々の末裔がいらっしゃいましたのでこちらのお宅も当然の如く井伊家との関わりがあるものかと思われます。

大河ドラマが決まってから掲示板等の整備があったこと、そして何よりも参拝客が増えた事が変わったと仰っていました。

 

尚車両は薬師堂前の駐車スペースに置いて鎧橋を渡ってお墓を目指すのがベスト。

①が橋を渡って振り返った様子。スグに②が。この道を上がっていきます。途中2つに道が分かれますがどちらも同じです。

特に④の如く石積みの箇所もあったりして砦の如く屋敷があった?・・・と想像を膨らませてしまいます。

 

下図①は昨日の彼の持ち帰りのお昼とのこと。

ターメリックライス山盛りにサラダ付き。待ち時間に熱々のスープが出たそう。

私がターメリック+黒コショウのコンビは「抗がん作用としても最強らしい」という情報を送ると、早速カレーに追加するターメリックの脇にブラックペッパーの小瓶を置いていました。

同じく②が私どものランチ850円。

レトルトも今、相当買い込んでいます。

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2017年

8月

22日

井伊直平の鎧を脱がせた? 川名の鎧橋 

日曜の大河ドラマはこれまでの流れから見て、「らしくない」展開を見せていました。

小野政次の刑死の描き方の意外が専ら。

昨日も少々記させていただきましたが、本日も少々。

というか番組はそろそろ終盤にかかっていますので画像UPは今のうちにした方が気が利いていますし・・・。

 

劇中会話にて政次と桶狭間で討ち死にした彼弟の小野玄蕃の奥方との会話にて「ひよんどり」の語が出てきたと思いましたが、おそらくその名について視聴者の殆どの方は「何の事やら」とチンプンカンプンだったかも。

それは以前ブログにて記しました川名の福満寺薬師堂の「火踊りまつり」のことですね。

 

番組として地元への心配りが為されていることを証した一場面でしたが、川名といえば上記に同時に記した井伊直平菩提寺の渓雲寺や「おみたらしの井戸」があります。

その「目と鼻の先」に鉄筋コンクリート製ではありますが「鎧橋」なる意味深な橋が架かっています。

 

井伊家元当首で虎松の曾祖父の井伊直平はドラマでは「ナレ死」とインパクトある役回りだけに後味が悪い消え方をしたという印象でしたが、それは直平が実際にどのようにして亡くなったのかハッキリしていないからですね。

各説ある中、最もそれらしいその死とは、遠州のもう一人の女城主、飯尾連龍の奥方のお田鶴の方に一服盛られたというものです。

 

橋のたもとの掲示板には毒入りの茶を飲まされた井伊直平は「有玉にて落馬」して落命したと。

家臣の大石作左衛門という家臣がその死を隠すよう馬に載せて川名に連れてきてこの橋の上で鎧を脱がしたとの伝承です。

 

薬師堂から橋に下った図が①②③。

その背後の山に井伊直平の墓がありますが、そのさらに向こうが井伊谷方向となります。

川名とお田鶴さんがいる曳馬(浜松市街)は三岳山を越えたさらに南となりますが、この橋の場所で直線で至ったとしたら、三岳山麓を通る道が想定できます。

しかしその大きな山を越すよりも灰木の大平城を目指してから回り込むのが自然。

もしそうなるとわざわざこの橋まで降りて来たということになります。

あの山が井伊直平の隠居場であったというのなら話は別ですが・・・。

 

⑤は川を渡って振り返ったところ。

⑥⑦の街道が東向き、川の上流になりますが、浜松方向に向かうならこちらが最適です。

⑧が途中の道端で見かけた観音石仏。

最後の画像は市内「有玉」の駿遠お馴染みハンバーグ店「さわやか」。

 

尚、大河ドラマ第33回「嫌われ政次の一生」は「ドラマ@見とり八段」さんに詳しく記されています。

 

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2017年

8月

21日

迷った挙句の駿府城行脚 タイカレーはココナッツ味

NHK「戦後ゼロ年 東京ブラックホール」という番組を見ました。「ジョン・ダワー」が敗戦後の東京を、「飢えてのたうち回る大量の国民を騙した国家的犯罪(政治家・軍人・資産家による)」(食料・資財の横領とヤミ市への横流し)と断じていましたがまぁその通りですね。

少なくとも今ある政財界の顔役たちもその暴利を貪った流れの末端であるということは確かでしょう。心のどこかに父・祖父がやってきたその過去を痛感してもらいたいものです。

みんな当初は隠している資産を白ッとぼけていたといいます。

悪い奴らが蔓延る時代を、たとえ今、眺めているだけであっても吐き気が伴うものがあります。

 

そしてその時間の一コマ前に放映される大河ドラマは、直前に先週録画していたものと続けて視聴しました。小野道好(政次)についての不可思議な演出も「近藤の罠」ということで収めていましたが、それは以後の近藤家の辿った動き(→ブログ)からの発想だったのかも。一応は閉めとして唖然とはさせられましたが・・・同時に処刑された息子は・・・ドラマでは未婚、ややこしいことになっていましたが。

まぁドラマですから・・・尚、井伊谷城の城景色CGはちょっと手抜きだったのかも。現在城山をそのまま使っていたようでした。私の戦国の城のイメージは禿山と櫓と旗指物そして煮炊きする煙です。

 

相良は午前中好天に恵まれていましたので午後から駿府城へ向かう事にしました。何故駿府かといえば何故か今の私にとってつけたかの如くの「カレーワールドカップ」なるイベントがあったからです。

そもそも「人混み忌避」は我が家の方針ですのでその手の場所に出向くことは滅多にないことですが今回はその「カレー」という言葉につい誘い出されてしまいました。

 

まず行ってその人混みに閉口。カレー以外にも恐ろしいほどの食べ物やが出店し、イベント会場も盛り上がって人だかりができていました。

目標のカレーはといえば予定数が捌けてしまったのか人気店はまたぞろ「仕込み中」。そこへ来て食券売り場は長蛇の列。

食券の列に当初は3人で並んでいましたが、1名800円を3人で並んで「もし外したら・・・」、地団太モノでしょう。

よって1つだけ買って3人で味見、あとは行列レスの「ケバブ」を・・・ということで話はまとまりました。

 

800円という価格と、落ち着いて食する場所がない、飲み水もないという最悪のコンディションも加わりましたが選択したタイカレーの我が家での評価は高いものがありました。

タイカレーはココナッツミルクたっぷり、甘くて少々辛い不思議な味。チキンも二つばかりゴロっと入って後味がよくクセになりそう。新しい食べ物に出会ったという気持ちです。

 

最後の画像の通り、駿府城発掘ゾーンのお隣がカレー会場でした。結論としてはカレーに行列はいらない。

のんびりと涼しい場所の席に着いて水のお替りをしながら食べるものです。次は行きません。

 

下図ケバブにもターメリックと辛味成分は入っていました。

カメラの色味が不調で失礼。

 

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2017年

8月

20日

東山洛翠の「不明門」 伏見城移築

昨晩遅くに東海地区の大雨の報は犬山とのことでした。

前回の犬山を襲った線状降水帯による豪雨は相良から出た拙寺檀家さんのお宅に落雷を招いて、電気系統の損傷から「3日間風呂に入れなかった」と聞いたばかりでしたので、またか・・・と思っているとさらに中央道の土砂崩れのニュース。

 

その雨の名残か当地にも早暁に結構な雨がありましたが、夜明けとともに夏の日差しが訪れてくれました。

久し振りに法務予定のない週末の晴れとはありがたいことで私の腹積もりが進捗しました。

 

週末とあって社会人として大先輩の同級生らと「情報交換」と称しての夜遊びでほっつき歩いている愚息を叩き起こして、懸案の屋根屋の仕事をしてもらいました。

ちなみに情報交換とは元の同級生の不祥事についてのよう。

若い連中の間ではムリもないことかも知れませんが狭い町ですから関係者みなさん気の毒に思います。

 

屋根屋の仕事とは冬場に屋根裏を闊歩する野良ネコに対応するためです。

庫裏と本堂に連結する直角の連結部分の屋根下に開いた空間の2か所を閉鎖してもらう作業です。夏場の炎天下にはさすがにネコはいないでしょうから。大工さんはこういう些細な場所の作業は割愛するようです。

もしやネコが屋根裏に入っていると厄介なことになりかねませんので暑くて屋根裏などにはいられないという日を狙っていたのでした。

 

下で材を供給、作業をニヤニヤしながら指示するのが私。

息子は焼けた銅葺き屋根に熱い熱いと文句を言いながらの作業でしたがまぁこれで冬季の屋根裏のドタバタ大騒ぎがなくなる事を期待できます。

 

彼ら(ネコで間違いないとの確証は幾度もその出入りを目撃しているからです)の入出口に開かずの門扉を設けてがっしりと固めてやりました。まぁこういう仕事は気長にやっていかないと・・・古い家ですからまだまだどこかしらに出入り口がありそうです。

 

さて、カレーでも「カレーうどん+ネギ」のコンビは夏の食べ物として私のマイブームのイチ押しです。以前は夏季に?と見向きもしなかったのですが、東山の行列のうどん屋さんに息子に連れて行かれて以来、評価はup up 。そして冬よりも「夏こそ」とこの夏、かなりの頻度で食させていただいています。

奥方はいよいよ「有難い」と益々気軽にそれ+冷奴のコンビで出してくれます。少々心配なのは塩分ですが、バナナのカリウムで排出しようという腹積もり。

 

東山の鹿ケ谷通のうどん店の近く、白川通に伏見城から移築したといわれる「開かずの門」があります。洛翠なる庭園の通沿いになります(場所はこちら)。

 

正式名称は「不明門」でこの字をもって「あけずの門」。

横須賀城にもその手の門がありました。門が開くときは城内で死者が出た時のみといいましたが、こちらの門はいままで一度も開いたことがないといいます。

その存在たるや何のため?

 

画像③は不明門の先、京都市動物園入口。④⑤は鹿ケ谷通。

⑥が拙寺庫裏のネコの門入口。

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2017年

8月

19日

経典に見るガンジス川  恒河沙 恒沙ごうじゃ

東京地区におつきあいして「夏無し」の8月で終わるのかという不安がありましたが、一昨日はバッチリ晴れましたし、昨日は雷雲通過のパラパラはありましたが、それでも十分に「夏」でした。

昨日は盂蘭盆の繁忙もピークアウトしてお休みにしていたフローリングの四部屋目を95%完了しました。残りは最後のスペースのみ。

サイズ合わせしてカット、そして嵌め込みを残すだけです。

 

息子は、2日連続で浜岡の叔母さん宅へ小遣い稼ぎ。

朝方に外した畳の処分をしたのちにカイズカの剪定に出しました。

ということで室内汗だくになっての作業は奥方とのコンビ。

久し振りにくたくたになりました。

四畳半ながら四部屋目となると段取りも良くいたって効率的でした。あと一部屋は庫裏の玄関の八畳間を考えています。

 

先般、ある人から「中国に行かないか?」とツアーのお誘いを受けました。私の趣向にありませんし、この仕事をしていて毎年今年こそは・・・と期待に胸を膨らませている沖縄行脚でさえ実現しないくらいですので、そちらのお国についてはパスさせていただきました。

 

海外で興味があるのはインドはガンジス流域です。

何といってもガンジス川といえば仏教の故郷であり、「墓場」でもありますからね。

ただし、あの辺りの情報を聞くとすれば、日本国内の健全な環境と比較するとかなりの劣悪度、現在のガンジス川ときたら世界でも汚染河川の5本の指に入るほどとのこと。

 

私は「水が変わる」と強烈な体調不良になることがわかっていますので問題はそこのところ。

まぁ沐浴というチャレンジもありますが、水葬にした遺体等が何の気なしに漂ってくる地で、聖地といえば聖地ということは理解できますが、何かの病気になりそうな気もします。

 

とりあえず私はお隣、吉田町の150号線沿いにあるインド料理店「ガンジス川」でお茶を濁します。

こちらはセットを注文したその量に後悔するほどです。しかしバリエーション多すぎ(「辛さ」含めればまさに恒河沙)で何を注文していいかわからなくなります。

 

さて、「ガンジス川」といえばサンスクリットのガンガー、漢字で記せば「恒河」。仏教で出て来る喩えは「ガンジスの砂」が著名です。真宗でいえば「恒沙」(ごうじゃ)です。

「そんなの知らない」という事なかれ、私も拙寺で時折拝読する和讃にもあります。特にお配りしている同朋奉讃にはパート2の和讃で記されていますのでご確認ください。

 

また「恒河沙」は数の単位に使用されます。まったく使用頻度ナシに近いですが。

激しくたくさんあることに使用しますが、「億」→「兆」→「京」からさらに9段階、位が上がります。

そして「恒河沙」からさらに「阿僧祇」「那由他」「不可思議」「無量大数」。

ラスト2が阿弥陀如来の別名に。

 

 

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2017年

8月

18日

高野瀬氏館 天稚彦神社 金田池井戸脇墓石 苗売

知り合いでそのスジに詳しいという方が淡々と力説されていたのが、「銀行カードローンのえげつなさ」。

その方の息子二人にも絶対にその誘惑に負けるなと報せているそう。そして私にも息子に念入りに言い聞かせるようにとのことでした。

 

何しろ「気軽にカンタン審査終了」との甘い誘惑を信用度NO.1の堅いイメージで通る大手の銀行がまたぞろ手掛けたために自己破産する人たちがどっと増えているとのこと。

 

サラ金規制によってサラ金は淘汰された如く姿を消しつつありますが、それに代わって借入枠規制の無い銀行が高金利(15%近い)でガッツリ儲けているよう。

 

ここで思うのが自己破産されてしまったら「元も子もない」と。しかし綺麗で堅く賢明な銀行様は抜け目のないウラ技を使っています。

 

私は以前会館をぶち壊して避難タワー件住居を「建てたとしたら」というシミュレーションをしたことがあります。3000万円ほどの資金を銀行借り入れしようとするものですが、担保だ保証人だめんどくさいことこのうえ無し。結局ハンコ集めだなんだかんだの雑用がアホらしくなって「や~めた」になったのですが、この低金利時代に銀行の対応は少々意外ではありました。

 

そうなんです。3000万円を貸し出してもこういう場合の金利はせいぜい数%。私が途中で夜逃げすれば残金回収は銀行が当たることになって厄介な事になります。お寺という不良債権の処分など煩雑でしょうからね。

ということで貸し出しのメリットはそうないのですね。

 

ところが100万円を30人に貸し出せば一人当たり15%のアガリが出たとしたら・・・そして何よりそのうち数人が「トンだ」としても、保証協会が肩代わりというシステムが出来上がっているよう。要はサラ金屋さん組織で構成する協会に丸投げしているのでリスクはゼロなのでした。

ということで銀行カードローンとはサラ金が銀行の皮を被っているだけであることを「知るべし」というところですね。

 

銀行関係者の言い分はまず「借りるヤツが悪い」といい、かつて自己破産した人が「貸すヤツが悪い」とも言ってましたがもはやどっちもどっちの感。

少なくとも無知な若い人が「どーぞ、欲望のままに」などという感じでカードを使って返済不能に陥る姿は見たくないですからね。

ちなみに自己破産して「貸す奴が悪い」と息巻いている方は何とかそのカードを手に入れるために日々チャレンジしているとのこと。正攻法合法ではムリでしょうが・・・尚、その詳細テクニックについては存じ上げません。

 

画像は昨日の中仙道周辺の図。

①は高野瀬氏の城館があったといわれる天稚彦神社(あめわかひこ 場所はこちら)。

江州佐々木南北諸士帳の愛知郡

 

肥田城主    佐々木籏頭      〇高野瀬越中守秀隆

肥田城  佐々木随兵 野呂田合戦落城良再降参ニ而

   籏頭ニ取被立然処天正元小谷ニテ討死 高野修理亮貞季

                     高野備前守

                      と。

早くから「楽市」が開催された地といいます。

 

こちらは百済寺からの流れが注ぐ宇曽川の東岸にあたり「澤」という字名があります。川が近くても枯れる時は枯れるのかと思わせましたがこちらには「金田井戸」という湧き水があったとのこと。「大字澤」の「井」と立ち止まって見れば例によって石仏たちがお出迎え。なむあみだぶつ。

井戸モニュメントのはす向かいには造り酒屋「西沢藤平商店」。酒は水が命ですからね。

 

昨日の江州音頭追記。その江州音頭は各地にまた変化しながら広がっていきますがその歌詞にはシャレもきつくなって政治を風刺したり面白おかしく俗っぽくなっていったものがありました。