2017年

11月

18日

「三連寺」その3 連福寺  平重盛供養塔

この時期で音をあげるのはいささかみっともない話ではありますが・・・一言で「寒い」。

耐え切れずに居間に電気ストーブを引きずり出しました。

勿論本堂はもっと冷えますのでとりあえず大きいストーブを1台設置。すでにあそこ(外陣)に暖房器具ナシで1時間を過ごすのは殆どお仕置きと同じ。

私のいる御内陣、読経中はホットになれますので暖房は不要です。

 

晴れて穏やかな日の陽光の下と庫裏の中では相当の温度差があって、昨日などはひなたに停めた車の中でシートを倒して昼寝すれば絶妙だろうと感じました。

ただし現在、居間の北側の障子を襖にチェンジするための下準備をしているためその至福であろう時間は遠慮しておきました。

 

何故にその工作をしたいかといえば、障子だと冬季に北側からの隙間風がキツく感じる事と、時としてネコどもが障子を突き破って奥の仏間まで「侵攻」するからです。

仏間付近には火鉢が数点置いてありますが、彼らの習性か必ず火鉢の灰で遊んだであろう形跡が残っています。

「ネコ灰だらけ」とはよく言ったものです。

 

これからどんどん厳寒期に突き進んでいきますが、今私の「幸せ」を一つあげれば、「お風呂」にざぶんですね。

頭の周りの神経と筋肉の「解れた感」が大いに得られて、夕方から数時間波のように現れる不調(最近は主に頭痛)を一掃することができます。

体を温めて血行を良くすること。

風呂場のドアを開けるその時、それが私の「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア・・・」。父親もかつて冬場この風呂で倒れて救急車で運ばれています。いつもそれを考えてドアを・・・

風呂は極楽気分と地獄行き、両方の顔を持っています。

 

さて、昨日画像アップした駐車場の看板をもう一度。

そうですね、こちらの連福寺が磐田「三連寺」(蓮覚寺連城寺)の3つ目です(場所はこちら)。

3つのお寺の中でもっとも磐田の中心になって東海道線磐田駅からも近い場所になります。

このお寺には平重盛の供養塔といわれる石塔があります。

見た事もないカタチの石塔ですが、まぁ古い時代に積重ねられた結果、あのアンバランスになったものと。風化と劣化もあってどちらが正真のものなのか、わかりませんがよく見れば石質がちがいますね。一見6つのパーツのようですが、その中で組合そうなものがありませんので殆どバラバラになっていたそれぞれを組付けた感も拭えません。

パッとみたところまずは宝篋印塔の隅飾りが見えますのでその形式の仏塔かとは思いますが、他のパーツがどれもそれに合いそうなものはありません。

 

ベースの四角形のパーツが宝篋印塔の塔身にも見えますが、風化とも取れますが少々小さい感。4段目のパーツは反花座をひっくり返して置いているようにも感じます。団子の潰れたようなカタチは五輪塔の水輪の如くですが、特にレリーフされた文様が珍しい。

 

三つの寺は平重盛が父清盛の「やりすぎ」を反省して建てたといわれます。こちら連福寺―幸福が連なる意?―にはかつて七堂伽藍があったと伝わっています。

脇の「小松殿」の名を記した石標が目立っていました。

 

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2017年

11月

17日

恐縮 寺の駐車場の件 そして老舗料亭消滅事案

何が「親切」か、いやサービスなのかそれともコンビニエンスなのか・・・。

はたしてそれがそもそも必要不可欠のものなのか・・・

今拙寺では結構面倒くさい話題になっています。

もっとも私としては「そう突っ込んで関わることはない」というのがそのスタンス。しかし総代等一部の皆さんの考え方は「もっと手厚い配慮を・・・」検討して欲しいようです。

 

それは、法要等参詣の方々の車両対応についてです。

車を駐める場所が僅少であるからの悩みですが、私からすれば「ないものは仕方がないのでしょうがない」というところ。

先代、私の父の際にはその辺りの件はまったくノーケアでしたし・・・。

まぁ時代の流れというかこのくらいの手配は・・・ということで

私は春と報恩講そして最近では大晦日は、波津の公民館や小堤山公園の駐車場に回って駐車していただくよう、看板を配するなどして分散を期待しています。

 

この1~2年は駐車場に案内役を配していますが、今回の報恩講ではその案内役を2倍(4~5名)に増員したほど。さすがに交代要員がいなければ辛いですからね。

この辺りの件もこれまで無かったことですので「あれば親切だな」ということでアドバイス通りにそのシステムを採用したところでした。

先代の時代はゼロでしたので、案内人が不要であるとは思いませんが、それなら路上に立つのであれば法要に出て頂いた方がイイのでは・・・とも考えてしまいます。

 

すべてが終了したあと、担当者によれば「キーを付けっぱなしにしてもらって車を詰めこんだ」とそのテクニックを披露していただきましたが、これを聞いて私はひっくり返って驚いて「それはやめて欲しい」と声をあげてしまいました。

 

これまでは「顔見知り」限定の苦肉の策だったようで、私もそんなことも多少はあるかも・・・と問題視していませんでしたが、その流れで公民館の駐車場でもその「サービス」(車の入れ替え)が行われていることを聞いて愕然としたのでした。

 

まず「それってサービスじゃないよ」です。

「キーを付けといて」は私にとって考えれば他人様に運転を一時的にしろ任せることで結構ナーバスな問題。嫌な人は嫌でしょう。

そこへ来て、各種問題だって浮上してきます。

羅列すると

①車両移動中の事故への責任対応

  1 誘導

  2 代わりに運転

車両内紛失物への責任対応 ですね。

 

要はそもそも管理不可能であって過大なリスクに配慮されていないということです。

物損事故ならまだしも人身事故などのその責を負う事になることを考えていただきたいのです。

「①の2」 代わりに車両移動中での人身事故は刑事事件(過失致死傷)にもなりかねない事案ですが 「1誘導中」 であっても過失(過失-違法行為)があれば50%の負担割合民事)もありえます。

こじれれば裁判事案となりうるものですね。

 

特に私が「止めて欲しい」というのはこれは自己責任では済まないことですね。

「使用者責任」(民法第715条)は当然の如くで拙寺と代表者である私の管理責任を問われます。

重大な事案ともなれば下手をすればイベントどころか寺は潰れます。

 

そして実際には関わりのないことなどを主張されて車両の傷、紛失物について「やった-やらない」の問題を惹起しますからね。

それだけ大きな「責任を負う」ことになります。

そうなれば檀家さんと檀家さん、そして檀家さんとお寺との関わりもギクシャクしだします。

よって「そんなリスク負う事はない」というのが私の意見です。

じゃあどうするの?と言われれば「告知と案内」を厚くして、もし要員を配置するとしたら「あっち」「こっち」程度の案内にしていただきたい。それが私の切なる願い。

 

①はお寺の駐車場でよく見る注意書き。磐田連福寺駐車場の看板をここでお借りしました。

拙寺ではその手の文言は記していませんが、自ずとその責任についてタッチしない旨記しています。

上記、「滅多にないこと」と思いますが、「手出し無用」の範疇であってリスク管理からして首を突っ込んではいけないことでしょう。

どなたかが「小堤山から歩かせるのは不親切では」とも仰っていましたが、私は「まったくそれにはあたらない」と申しています。再三記しますが「タッチしないファジー」のスタンスがいい。

 

たとえば近隣波津佐和神社の祭礼等、参拝者に駐車場の手配をするでしょうか。みなさん「徒歩」は当たり前です。

サービス違いでもありますし、寺の行事にそこまでのコンビニエンスが必要でしょうか。

 

大晦日の「除夕の鐘」のために新しく駐車場を確保するという案も出ていますが、私はこれ以上の経費をかけることに二の足を踏んでいます。

ボランティア重視のイベントにおカネをかけてどうするの?というところ。

保険を掛けることも提案されましたが、保険の選択とその経費、なにより何かあった場合の事後事務処理に関して寺が背負っていくことは無理ですね。

大手の会社の如く「事故係」の役と対応マニュアルでも新設いただければ検討できましょうが・・・。

 

また、先日は第三者のお節介的アドバイスが平穏な家族や組織に波風をたてることがしばしばあることを記しましたが、相続の件でいっても波風をたてるのはやはり相続に関係ない外野の意見です。

「相続を争族」に変貌させるその方たちとは主に相続人の配偶者と配偶者の父母親類です。

 

要は「取り分」の主張合戦ですが、そこで「法定相続」を主張されたとしたらそれまで培われてきた「家」を主とした生業の継承が断たれる例を先日の報恩講で掛川公証役場、公証人の大霜憲司氏がこの史料を提示されてお話していました。

遺言がしっかりなされていればこんな争いが起こって「家が潰れる」までは至らなかったかも・・・という例②画像です。

 

今現在、「葬儀が争議」の場と化すこともしばしば。

「後生の一大事」とはまさにコレの事?と思わられるばかりです。

特にみなさん自身の死、自身が起こす事故については案外知らない気づかないもの。

こればっかりは「しらざぁ言って聞かせやしょう」という具合の口上を述べたとしてもやはり「でも自分は大丈夫」であってどうにもならないという傾向。まったく口惜しいことです。

誰も人は事故も起こしますしその時が来たら「その時」なのです。

ああ「後生の一大事」耳が痛いですよ。勿論私の事も含めて。

 

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2017年

11月

16日

平重盛ゆかりの磐田「三連寺」その2 蓮覚寺

来年のW杯ロシア大会の出場国の顔ぶれが固まってきました。

しかし予選は予選でも欧州のそれは「死闘」を感じますね。

オランダやイタリアが本戦出場を逸したというそのレベルの高さにも驚かされますが、アジア各国の精緻さの欠けた試合内容とそのうえの予選を勝ち上がった国々も同等に本戦の土俵に上がるワケですが、「なんか申し訳ない」という感じがします。

 

きっとオランダやイタリアのサッカーファンがその「どっちらけ」の状況を一番に感じているでしょうね。

「勝負の世界だから仕方がない」といえばそうなのでしょうが、その両国の名がないWカップというのも凄いことだと思います。

今後出場国の枠が広がるという噂もありますが、欧州と南米諸国が集まって「強い国だけでやろう」などという気持ちが本音だと思います。

立て続けの親善試合の「負け戦」を見ましたが、アレなら本戦のグループリーグ敗退に鰻重10杯は賭けてOKかも。ブラジル戦の前半など見ていれば子供と大人ほどの実力差を感じました。

「後半は勝ち」などとトボけた解説がいましたが、まったく参考になりません。

まぁ鰻バクチは「奥の墓道」氏が受けるかどうかわかりませんが。

FIFAランキングは44位。どういう組み合わせでも日本はビリで日本の下にはランクの低い国はないということでしょう。

すると同一グループ他の国は「ここだけは勝ち点を絶対に取りに行く」点数計算をしてきます。意気込みも違ってくるでしょうね。

 

昨日の「三連寺」の一、連城寺の続きで蓮覚寺(場所はこちら)。

寺の由縁については画像看板の通りで割愛。

場所的には3つのお寺のうち最も西に位置していてあと少しで天竜川。

看板に出て来る「門奈美作守」は今川時代後期、義元・氏真に仕えて家康に豊田郡岡村駒場を与えられたそうです。

高天神城籠城の士に「門奈(名)七郎右衛門」がいますが・・・

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2017年

11月

15日

平清盛、重盛親子の供養塔と大草氏墳墓 連城寺

昨日は出先でたまたまお会いした方の名が匂坂さん。結構顔見知りではありましたが・・・

その名からいろいろ推すこともあって興味の方向はお決まりのパターンとなりますが、おしゃべりが尽きなくなることがわかっていますので何も触れずにおりました。

するとその方から当ブログについての御指摘がありまして、それならとつい口が開いてしまいました。

 

匂坂姓は磐田を中心に広く広がっていますのでその家に伝わる「古い話」などを知っている方も少なく、大抵は「わかりません」という言葉が返ってくるものですが、その方が匂坂家に嫁いでからずっと義母から聞かされていた話があってそれこそが「ご先祖は高天神にいた」とのこと。

 

当ブログでも記した「高天神崩れ」の「匂坂」をご先祖に持つようです。

そちらには「匂坂牛之助 匂坂半之助 匂坂加賀」の3名の名がありますが、どちらかの家の流れでしょうか・・・。

 

その方にはつい突っ込んだ質問をしてしまいました。すると

①嫁入りして以来、母に連れられ毎年高天神参りは欠かしたこと

 が無い(代々嫁への継承を推測)

②自宅は旧浜岡の合戸(高天神城5㎞圏内)

③刀を捨てて帰農している

④家には古い土蔵があって何年も開けていない

 

という情報を得ました。

 

①などこれは伝承が生きていることの表れでしょうね。

私は④について、高天神城から出たあとの遺物の残存と古文書等の存在を確認していただきたくご主人に伝えて欲しいとお願いしました。また次にお会いする日が楽しみです。

 

さて、天竜川東岸の匂坂城から東の台地上をさらに東に向かえば太田川が削って作った平地があります。

太田川の西側の台地には新豊院山古墳群がありましたが、さらに太田川を下ってその西の三ケ野を経て東海道新幹線が交わる辺りから西に向かうとやはり古墳地帯があります。

 

一番有名なもので「経塚古墳(連城寺8号墳)」がかつてありましたがこちらは全長約90mで後円部径約54mの前方後円墳。静岡県内でも筆頭レベルといいます。

かつてあったということは今はないということですが、これはその東海道線敷設の際(明治18年)に削平されてしまったということですね。今となってはただ「勿体ない」と嘆くばかりですが今一つその古墳には不思議な伝承が残っています。

 

その古墳の頂上には平清盛と重盛親子の供養塔があったそうで現在は向かいにある連城寺に移されています。連城寺の本堂には清盛・重盛の位牌まであるといいます(場所はこちら)。

重盛が遠州国司に任じられた際、その際は遠州に下向していないと思いますが、3つの寺を建てたそう。

 

「連城寺」とその字面から見ると「城が連なる」でまさに遠州「城飼郡」などのよう連想してしまいますが、この「連」とは「蓮」の転化ですね。「草」を省略・・・?

この「蓮」の字は重盛の法名「浄蓮」からのもので、もう一つの「浄」を「城」にして上下ひっくり返して「連城」と結構安直でわかりやすし。そしてあと二つのお寺が連福寺と蓮覚寺でそれらまとめて「三連寺」というようです。

 

この「連城寺」のある単独丘には古墳群がありますが、その南側の墓域には清盛・重盛親子の供養塔があります。

彼らの石塔の近くにはこの地区で家康の10男頼宣の駿府藩時代に代官職にあった大草正家・正信父子はじめ大草家の墓域があります。大草家は代々こちら連城寺で檀家として続いているようで、私がこのあたりをフラフラしていた時はたまたま大草家の法要が執り行われていました。

 

あの五輪塔を肉彫りした板碑タイプの石標もなかなかいい感じです。大草氏は元は当地地名ともなっている「新貝家」を継承しているとも聞きます。名乗りは「太郎左衛門」。どちらにしろ古い家であることは確かですね。

 

航空図をみれば単独丘と東海道線が貫通したであろう様子がわかります。付近にはやはり古墳が点在しています。

 

①が平清盛・重盛石塔。どちらがどちら?わかりません。

⑨図でいえば左二つが正家夫妻。右二つが正信夫妻。

⑫いつもの残欠ミックスもの。宝篋印塔に一石五輪塔が乗っかっちゃってます。

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2017年

11月

14日

しばし思う 美辞麗句連ねる励まし盛り上げの詞

先般より家族の方より依頼されていた「説得」について、報恩講準備やらいろいろで関与できないままになっています。

家族の方には「月曜日(先週の)には声をかけてみます!!」と伝えていましたが、その日は免許証交付の「最終試験?」(そう仰っていました)ということで先方からお断りされてしまいました。しょうがないと諦めムードで過ごしていますがどうなったのでしょうか・・・

 

そうです。高齢者の自動車免許更新のお話です。

端的に言えば「本人は乗りたい 家族はNG」という構図で、今の日本全国「家族のわだかまり」要因の代表的なものとして問題提起されていますね。

高齢者にとっては大切な足を奪われる事に我慢がならないことでしょうし家族にとっては事故など起こされて他人様を傷つけたら・・・と頭の痛い大問題です。私はどうにか説得していただいて免許を諦める方向に向けて欲しいと切に頼まれていたのです。

 

家族の言い分としてはお国の審査は結構緩めで、基本的に合格を出してしまう。よって、もはやお手上げであると嘆いています。そしてそこまでご本人が免許証取得に自信があるというのはほかでもない、周囲友人たちの美辞麗句―「まだまだ大丈夫!!」と太鼓判を押し「ヨイショする」雰囲気であってそれへの恨み節。

褒められれば当然に本人は嬉しいでしょうしますます自信だけは増幅してきます。「私は大丈夫!」です。

 

そうなれば家族の苦言を聞く耳はもはやないというのが実情で家族内はぎくしゃくし続け結局何らの解決にもつながっていかないというワケです。

実態を把握していない第三者のその手の発言はおうおうに面倒くさいことに発展します。

 

他家の色々についての評価・判断(どれがイイこれがイイ)についてその家の関係者に対しては口を謹んだ方がよろしいのでは・・・と思うことは多々あります。

それを「お節介」ともいいますがせいぜい全然関わりのないご自身のお友達にする「陰口のレベル」でお停めになった方が得策。

まぁそういう方はその手のおしゃべりがコントロールできない性分のために波風をたてるわけですが・・・

 

これも世間様ではよくある話です。

先日の報恩講に訪れた私の妹に対してある檀家さんの奥さんの表現について拙寺お方様が聞いて「立場がないわなぁ」と。

妹はその辺りの件は分っている筈なのでそのオーバーな美辞を聞き流したことでしょうが、「お母さんは元気だよ」の声掛けはまぁ普通ではありますが(ただしその方の管理下にいるような物言い・・・私は何でも知っている・・・)その後の詞にショックを受けたとのこと。

 

当家北の方(母親)は以前ブログにても記していますが左手上腕にチタン合金が入り、思うように手が動かないうえ、腰の骨折から下半身の筋肉が落ちて車椅子状態での生活を余儀されていて現在、施設に入所させていただいて面倒をみてもらっています。

そこへ来て、「あんなとこ入れられちゃって」です。

あの施設で一番の健康体であるのだから「それはおかしい」との御判断。

これは当家、特に坊守(お方様)の差配がオカシイとの談と感じる他はないでしょう。

 

私どもには過大なただの「リップサービス」(おべんちゃらとも言うようです)程度にしか感じられませんが一般家庭ではこの手のお節介から家中のゴチャゴチャは広がっていきます。

兄妹兄弟関係が悪かった場合は特にそうでしょうね。

たとえばそれをきっかけに相続、法定相続の遺留分を強引に主張されたとしたら古くから続く家・・お寺などは維持できませんね。

当家でいえばさすがに境内地他、本堂は宗教法人で登記されていますが、「什物」の考え方としても一概にとは言えませんが「私物」であって相続ともなれば分散することは必定。

門徒寺はその傾向(私物)が強いものがありますが、他宗の寺において一昔前は前住が出たあとに「何もなかった」などということもよく聞いた話です。

 

ちなみに拙寺駐車場と周囲は祖父名義のまま移転登記が出来ずに固定資産税を払い続けています。そのくらい家族の中というものは揉め、絡まった糸は解けにくくなってしまうものなのです。

 

通常上記のようなパターンですと・・・、

実際に母親を入所させてそれを維持しているのは兄の責任ではあるものの、妹からすれば「そういうことならもっとまともな扱いをしてくれ」と思うのは当然かもしれません。

すると兄としては「月に1度くらい遠方からやって来やがって好き勝手な事を言うな」となります。

 

要はそのとびっきりの煽て文句は下手をすれば家族内の騒乱をけしかけているのと同じになってしまうのです。

そして「まだまだ大丈夫 家に連れ帰れるくらい元気(家で生活ができる!!)」との意見をも同時にされているようですが、私どもはもはやそれは選択肢から外しているのです。

無理だからそう(外部にお願いしている)なっている、ただそれだけですね。

 

理由は色々ありますが、車椅子対応の家に改装しなければならないということと、当家奥方の負担が増えすぎて寺の仕事が遂行できなくなることが見えているからです。

一昔前なら致し方ないことだったでしょうが・・・。

また奥方の叔父は車椅子対応のために家の中をバス・トイレ含めて改装して約1000万円の経費が掛かりましたがそののちスグに亡くなってしまいました。当家にはそれを負担する力はありませんし。

 

安直な美辞麗句、リップサービスはしばしば問題を起こします。

他家の固まった方向性についてとやかくちゃちゃを入れればえてして家中ゴチャゴチャの引き金に繋がることがあるということですね。

 

まぁ私が感じたところとしては・・・

あの方の件でいえば、しばしばあの施設に出入りしているようですが、「あんなとこ」の表現には違和感があります。

入所している方々もそうですが従事している方々にも失礼すぎの感。

また私が奥方に声を掛けた言葉は「仕方ないね」と。

なぜならばあの方は「婿さんを取った人だから・・・」と無茶な物言いをして双方納得していました(だからといってすべてがそういうことになるとは断じられませんが)。

これは他人(旦那さん)の親を看た経験がないから・・・ということですが、まんざら外れていないかもしれません。

 

私は「あんなとこ」と言われる施設に自身入所することになったとしても「仕方ないこと」と割り切れる自信はありますが・・・

そして少なくとも私はあの施設について「あんなとこ」という軽口はどんなに相手への「リップサービス」ということでも使用することはないでしょう。

「あんなとこ」に入れるということは良かれ悪しかれ「長生きの証で一つの縁である」と思っています。

どなたでも最期は御厄介になるのですがねぇ・・・。

自分だけポックリ逝けると思ってそんな軽口を漏らすのは傲慢そのものかもしれません。

まぁ人様のことより私のその時のこと・・・まったくわかりゃあしませんが。

 

画像は菊川某所の景色。①②野焼きとカラス。この町内で野焼きなどすれば119を呼ばれます。秋の景色。

③雨のあとに立ち上がった虹。

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2017年

11月

13日

門前に楠の巨木 善勝寺 棚草牧野の名も 

昨日は分解されたテントとドラム缶を片付けてから大量に発生したゴミを地頭方の処理場へ。一応は「元に戻っかな・・・」という感じです。

たまたまこの日曜日は稼働日とあってまさにナイスなタイミングでした。天気も含めめぐり合わせとはいいあらためて感謝です。

 

NHKよる9時はイギリスの「マン島」と「ロス疑惑」。ロス疑惑と言ってもあの三浦氏のものとは違います。トランプのロシアとのパイプが疑われる現役商務長官の「ロス」の件。

あの「パラダイスペーパー」の続編でした。

 

富裕層ならではの税金逃れのシステムについて番組では「不条理」という語を使用していましたが、数字でいえば昨年このシステムでの課税逃れが世界で54兆円。

漏洩文書に名の出た日本人や日本の会社が「1000」で数兆円の課税逃れがあったと言います

(突撃)取材に居留守を使おうが逃げようが体のいい言い訳をしようがいずれその名と意図は表に出てきますからね。

覚悟を持って申し開きいただかなくては・・・

 

その「不条理」の最大理由は彼ら富裕層の課税逃れによって本来ならば国家に入る筈の税金が消え失せて、結果それら失った部分を私たち庶民が負担するという構造になっているということ。

 

詐欺罪で公判中の西田被告がマン島に飛行機のリース会社―これは勿論ペーパーカンパニー―を設立していたことがそのリストから発覚したそうで、その飛行機に載せられたメガバンク融資担当(番組では3社)が「デカい商売」然と騙されてトータルで100億以上を引き出していたよう(直接の罪状はみずほ銀行の6億円の詐欺罪)。ちなみにマン島には飛行機のリース会社は約1000社の登記があるようですが、そちらの駐機場にあるのはたった1機のみ。

自家用ジェットが買える人の話で私たちには全く関りがありませんが、これはマン島で先に飛行機のリース会社を設立してその会社から飛行機を購入すればEU消費税20%が回避できるという仕組みです。

 

8%→10%の消費税アップでひーひー言っている私たちですが、20%の消費税(自家用ジェットっていくら?)を「コーヒーを飲んでいる間」(番組の取材)に「0」にできるという仕組みにも唸らされました。

 

収監中のご当人が言うには(取材インタビューの中で)「タックスヘブンのシステムは絶対にこの世かなくならない」ようなことを仰っていましたが、私から言わさせていただければ「臭い飯を喰うヤツもこの世からいなくならないだろ・・・」です。

 

とことん報道によって社会のウラに蠢く「ワル」を高く高く掲げていただきたく思います。

我が国だけで1000件もあるそうですから当分楽しめそうですよ。

 

さて、棚草「牧野」つづき。

棚草の3つの台地より塩買坂に近い丹野川の手前、北東の台地の上に天正九年創建の善勝寺があります(場所はこちらまたはこちら)。

こちらのお寺の名物は樹齢400年といわれる巨木です(クス)。

これだけの大きさはさすがに根本から見上げても全体像を把握できません。つい「どうやって上がろう」などと考えてしまいますが、デカくなりすぎて枝間も広くもはや取り付けないレベルです。

 

境内本堂前には牧野氏一統の方が寄贈した石標があります。

寺の由緒を記してあるのみで牧野氏の出自についてはわかりませんが、寺は今川時代の陣場の跡に犬居からやってきた僧が横須賀城の大須賀家のバックアップを得て建てたとのこと。

 

興味の方向としてはやはり今川の陣場の件。

塩買坂直近だけに・・・隠れた歴史がここにも。

陣場と言っても櫓等が設置されて滞留して掻揚の堀等あれば「城砦」としてもアリですから。

勿論、立地的に見て十二分に考えられる場所です。

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2017年

11月

12日

蓮根-レンコンは甘辛で煮たり炒めたり 蓮の三徳

昨日の報恩講晨朝は午前6時から。

6時前から雨足が強くなって終了間際までひどい雷雨となりました。そんな状況はだいたい予見できていましたのでこんなことなら中止の告知ができていれば・・・などと途中考えましたが、やはりそれはムリですね。

相良の前線通過時間は6時30分を体感しました。

 

晨朝はサラッと済ますのが常ですが、雷雨激しい中、スグに散会するワケにもいかず、目の前に掛けた御絵伝を指さして「平太郎はコチラ」などと私のつまらない話つづきのお付き合いをしていただきました。

 

さて「恋」という語について。

日本の歌謡曲の歌詞でよく耳にするアレですが、「御伝鈔」にてもその字を見ることができます。

ご法名を命名する際は仏典からの引用が多々ありますが、その根拠として御伝鈔からの出典ということでその字の使用を主張はできます。しかしあまりにもその字面のイメージが「軽い」ものですから、実際にそれを法名として採用する方はそうはいらっしゃらないでしょう。

 

「御伝鈔」(下 第六段)の件は

「終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おのおの在世の

   いにしへをおもひ、滅後のいまを悲しみて

              恋慕涕泣せずといふことなし」

 

親鸞聖人が亡くなった際の人々の「悲しみの思い」を記した文言でした。

このように古くから使用される「恋」の文字。

どうしてもその文字をチャラいと思ってしまうのは私だけでしょうか。

 

ちなみに法名に「レン」の文字を表すのならまず「蓮」ははずせないところですね。

何しろ蓮根は喰ってもうまい。甘辛煮に炒めたり揚げたりレシピ豊富。

有り難くも「蓮の徳」を思いつつあの食感を味わえばまさに浄土の食物。私はカリウム豊富ということで塩分過多の解毒作用があると思いつつ食しています。食品としての効能は色々あるようですがその辺りは割愛。各お調べを。

 

こちらでは昔からこの仏教世界でいわれる「蓮の三徳」について記します。ブログでもどちらかで記していると思いますが。

 

①「汚泥不染」は泥中にあって泥に染まらないこと。悪世界に 

 あって悪に染まらぬ清らかさ美しさを保つという意。

②「花果同時」は私たち門徒世界でいえば「称名即仏心」。

③「種子不失」は種の生命力の強さ。古墳から出てきた蓮の種  

 が発芽したなどいう話は耳にします。

 

蓮に恋して私は水盤に植えましたが花が咲いたのは2年くらいまで。以後なぜか葉はひろげますが花は咲きません。おそらく陽当たりが悪いからでしょう。そういうことから「光」の字も外せないとは思いますがコレは阿弥陀如来の本命の字となりますので本山、門主の法名に使用されています。

おこがましくも私の名にも使われているというのはやはり当家代々図々しい。

 

さて、画像は見ての通り、真宗教団連合が主催する、ご縁づくりの会、イベントの告知です。

要は世に云う「婚活」の類のものですが、この語は世に溢れかえってけっこう下世話風・・・

そこで工夫して命名したものがそれ「れんこん」ですね。

 

浄土真宗の御門徒限定ということですが、少しでもこの社会のその手の停滞を打開しようとチャレンジしているところは大いに評価したいところです。

ご興味のある方は東本願寺のサイトからどうぞ。

 

これまで五回開催して29組のペアが出来たというから高確率。

まぁ「目先を変える」という意味て参加してみるというのも一手ですね。

場所は名古屋別院ですので近所の目を気にすることもなし。

インチキ業者蔓延、人の弱みに付け込むワルばかりで心が荒むこの世の中、「寺主催」で「利害無し」だけでもイイ話だと思います。

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2017年

11月

11日

邪道といわれようがどうってことなし 平太郎がイイ

昨日は好天に恵まれて境内報恩講準備が捗りました。

「前日に雨が降らないのが一番いいね」と私が開き直って呟いたのは「11日の午前は雨」は殆ど確実といわれているからでした。しかし皆さんは楽観的で8時にはあがるだの9時前にはあがるだの言ってお帰りになりました。

私は「前線通過」の怖さを知らされるのは「おいらだけ」と思いつつ、皆さんが帰ったあとロープを持ち出して木に結びましたが、突風はテントそのものをバラバラにしてしまうのでホントはフレームのみでテントは張らずに前線をやりすごしてから当日の朝な張るというのがベストなのですが。

昨日の晴れに騙されて(私は騙されたフリをして)「えいやぁ」で流れに任せて「勝負」してしまいました。

大した風にならないことを望みます。

 

さて、お内陣の荘厳についての色々は奥方さまの仕事ですので関知いたしませんが、御絵伝掛けは私の仕事。

御絵伝といえば拙寺ではずっと長い間、というかどちらのお寺でも当たり前のように「余間」(蓮如さん側)に掛けていました。通常時の「七高僧」と「聖徳太子」の御軸を余間側面に掛け替えてからその4軸を掛けたものです。

 

しかしこの数年はその伝統はヤメにしました。

「オイオイそれ邪道じゃね?」という声が聞こえてきそうですが勿論私が決めた事で何を言われようが「どうぞ・・・」てな感じ。

前面にブラ下げています。

これにより、参拝者の感動が伝わってくるのです。

「へ~え」ってね。余間に掛けていたら一体何が記されているかわからないというのが異口同音。

 

先日は夜間のお取越しで御伝鈔のさわり、下巻の六段を早読みで披露しました。そしてその前「五段」に記された「平太郎」について紹介しました。

先日ブログで拙寺本堂の扁額を記しましたが、寄贈者小山平兵衛家の現当主が平太郎氏。その方が同席していたからです。

下巻第五段は「熊野霊告」というタイトルがついていますがその段にはなんと「平太郎」の名が三度も出てきます。

きっと門徒ちゃきちゃきの祖父母が御伝鈔からとって命名したと勝手に信じています。

 

まぁ私にとってその「平太郎」のあのリラックス度が何とも好きでたまらないですね。

ちなみに②あの場所は熊野本宮主殿の証誠殿とのことです。

朱色の建築物と狛犬のような対のもので神社であることがわかります。

 

その前面の建物でひっくり返って居眠りをしているがの如くの平太郎の躰、まさに一向専念無量寿仏。

私も神社に立ち寄ることがありますが、各作法は存じ上げませんし、私にとってはどうでもいいこと。

手を合わせて一言「南無阿弥陀仏」です。

 

黒いネコは報恩講恒例。なぜかこの時にはつきものです。

というか小さいのは既に住みついていますが。

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2017年

11月

10日

カメ先生と牧之原市企画「田沼のまちの屏風祭」

11日は報恩講日中。

境内には既に自前テントのフレームを建てたりでスタンバイOKにはなっています。しかし今のところ境内でお会いする皆さんが異口同音に口にするのは「お天気が心配!!」です。

天気予報は金と日が晴れで肝心の土曜日が雨の予報です。

憎らしい空の様相で少々ガッカリ。

拙寺は寺楽市を開催しています。その出展者の皆さんに品物の購入を期待されている方がいらっしゃいますので甚だ困っちゃいます。

 

さて昨日は朝比奈の行僧原にてお弔い。

この行僧原は約450年前に拙寺開基とともに石山本願寺にて信長とやりあって遠州に下向した一家、河原﨑家の定住した地です。近年になって池新田に降りて河原﨑→川原崎と字面を変えたり読みをカワラサキ→カワハラサキと変えたりして今に繋がりますが元は同じです。

 

都会では今ありえないことですがこの土地は「ご近所のつきあい」相互補完援助の態勢が強く残っていて、いざ葬儀ともなるとその動員力とヘルプの力は圧巻です。

おそらく私の知りうる一番の協力姿勢を発揮しています。

もっとも故人は河原﨑一統の中にあって、温厚・堅実(この一統の性格的特色はまずはそれで女性は特に優しい雰囲気を醸し出します)であって元は教師。そして平成二年に逝去されたご主人がこの地区ではその名を聞けば誰でも知っている通称「カメ先生」の河原﨑芳郎氏。

 

現在はアカウミガメ保護に環境保護などいう言葉は溢れて、その保護活動に従事するグループは駿河湾から遠州灘の各地にありますが、それら活動の大元となった方でした。

 

何せ現在では考えられませんが、先生の保護活動が始まった頃といえば、今よりもずっと産卵のために上陸するカメは多かったといいますが、子供達がそのカメを見つければ卵を掘り出してはピンポン玉のようにして弾ませたり投げたりのおもちゃの如くにしたり、海に戻り遅れたカメを見つければ上にまたがって遊んだといいます。

 

そこに「保護」の思想をもたらしたのが「カメ先生」でした。

行僧原の自宅には大きな水槽を設けて、成長の研究もされていたとのこと。アカウミガメの卵を保護して確実に孵化させるために御前崎下岬に卵の保管場所を設けるなど今の保護活動のベースを作った方でした。柵がカラスやハクビシン等の野生生物に襲われる事もあって夜間のパトロールも欠かさなかったといいます。アカウミガメの産卵は夜間が多いですから監視活動は夜になって周囲からは睡眠時間と健康について心配されていたとのこと。

そういうアカウミガメに人生を投じたカメ先生の奥さんということも周囲の皆さんが手厚く弔いたいという気持ちになったのでしょう。八十九歳という高齢にもかかわらず、多くの葬送の方々が参集されていました。

 

画像①「ウミガメ先生奮戦記」~アカウミガメを追って 御前崎小学校観察クラブの記録 (1981年)~に映るまさに放流されようとするカメの大きさからして、先生のお宅で育てられた個体であることがわかります。

 

画像②は「田沼のまちの屏風祭」ポスター。

牧之原市史料館2階で開催されます。

20点以上の地元縁の屏風が集合します。

入場料無料。9時~16時まで。

     11月18日(土)~11月26日(日)

 

以下の画像はブログアップ済みですが、再掲載。数年前は興味本位で懐中電灯片手に夜の海岸をブラついたものです。

今は到底そのようなガッツはありません。

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2017年

11月

09日

近代の棚草の牧野氏といえば・・・種子島

本当はあの「座間の件」には触れないでおきたいというのがどなたでも思う所ではないでしょうか。

我が国で私の知っている限り、初めてのタイプの犯罪でした。

理解に苦しむ事案で、これを何でもかんでも私たちや周囲の環境、そして国の施策が「病んでいる」という言葉だけで片づけていいものかと感じて少しばかり触れてみたいと思います。

 

この件「病んでいる」からという結をもってこれで「仕舞い」にしてしまうということはそれは社会の逃避ですね。

そしてそれは何よりも「私は健常ですから・・・」であって「関りが無い」「世界が違う」の吹聴に他なりません。

同じ社会にいる者としてこの件の特殊性をもって「他人事」として忌避していてはこの社会はきっとうまく回らなくなりましょう。

 

特に僧籍にある者として特大強烈な反省は絶対に必要でした。

何より寺として真摯に仏道を推奨する者の道場(お寺の本堂)には若者たちの姿を見かける事はできませんが、あの男の発するネット上媒体は開設間もないサイコな道場に多くの若者たちを集め、大層な「繁盛」の躰を見せていました。

まともな感覚でなかったから」と断じてはイケません。

 

某民放系のニュース番組にてあの男についてのコメントの前置きに「私はこういうことをする感覚がわからないので」というものがありましたが、私はこれにちょっとした違和感がありました。なぜなら今の社会の諸所異常性に関して、「私も同じ社会にいるもの」の感覚が欠落しているような気がしたからです。

 

もっとも当流には「悪人正機」という語がありますし、私などはそもそも「どこかしらイカれてる」と常時自認していますので、そういったスタンス(「わからない」と断じ切る)にはなれないのです。

他人様の最悪な病的発症もそれに応えて被害者になってしまう人の心境も「私の事」と考えるべきだと思いました。

 

この事案はやはりそういったサイトの宣伝に「応えたくなる」人の心情を汲まなくてはなりません。不特定の多数の若者が集まったことも・・・。

 

もはやこれは重大な社会が背負う役目となった気がします。

同じ社会で生きている、生かされている、痛みや悲しみはあなたと同じである、その同じ苦しみからは脱したいものだ・・・の気持ちにならなくてはいけません。

 

「私は健常健全である、強く生き抜いて自立している、自殺はあり得ないし考えた事もない、少々の痛みは我慢しろ」の主張を繰り返すばかりでしたらそれを成し得ない人、その解法の迷宮にハマり込んで道を見失った人の道筋とはなりません。

 

今の社会の混濁の中、皆が特に挫けてしまった心を抱えた人たちに同情でなく、本当の平身の気持ちで、同じ弱き人間として吐露される言を「聞かせていただく」気持ちが必要であるとあらためて気づかされました。

 

さて、画像は棚草付近をうろついた際に出会った乳牛。

やはり牧野さんのお宅の牛です。

一所懸命に「生きてるよ」と大きな眼で私を見返していました。「お前も生きてるな」と。

 

こちらの棚草を電話帳で調べれば10件弱。本家は既に北海道の方にいらっしゃるようですが・・・狭いエリアですが結構散見されます。

 

その中で③画像の地元の紹介掲示板にある「牧野篤好」について。この方は地元棚草では有名な方。そして種子島にても。

種子島茶を広めた方ですね。

熊毛郡(種子島と屋久島)の初代郡長(20年在職といいます)になった人で産業の無かった種子島という地に茶業を広めた人です。

 

以下種子島の観光情報誌より抜粋

「熊毛郡初代郡長牧野篤好氏が、明治35年職を辞して郷里の静岡に帰り、種子島が茶業の適地として将来性があることを郷里の茶業経営者に移住の勧めを図ったところ、明治四十二年松下助七、栗田茂三郎、松下清作の三氏が移住し、番屋峯の山林を拓き茶業経営を始めたのが種子島における製茶業の創始です」

 

私がお会いした牧野篤好氏の縁者の方はやはり棚草城城主の件は不詳ながらどうも三河の牧野古白(またはこちら)の関連性を示唆していました。牧野古白も元は豊橋の牟呂八幡宮の神官だったという説があります。

尚、種子島のお茶の味は?・・・と聞けば「生育が良すぎて・・・」とお茶を濁していました。

 

②は③の近隣、後藤粛堂という地元史家の顕彰碑。その裏側に自宅がありましたが、縁者が逝去、遺言によって菊川市管理となっているとのこと。

ただし現状このあたりの地区で土地を市に寄進したいという件、まず大抵は却下されますね。土地を市に献上したい、引き取ってもらいたいという家はますます増えているようですが。

自治体も固定資産税の徴収が期待できなくなりますし。

 

④⑤は近隣の祠、「辻の観音さま」。

⑥は棚草の公民館。のんびり散策するならこちらに車を置かせていただきましょう。

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2017年

11月

08日

棚草城にまつわる牧野氏 康平四年(1061年)

「依存、依存」と適当な事を記してきましたが、現代社会においてある意味私が「依存」しているのは自家用車。

今の生活の中でハッキリ言ってコレが無ければどうにもならないという不可欠アイテムです。

 

しかし最近のご時世は年配者の事故多発ということで免許更新時に70歳をすぎると余計なチェック項目が増えて75歳を過ぎると症状?によってさらに実技含む試験があるようです。

甚だ面倒くさそうな件、生きていればのことではありますが、ここでも「齢はとりたくないもの」と思うばかり。

 

このお上からのお達し(高齢運転者制度)はまぁ社会の要請に一応は応えたといったところで、免許証の返納をある程度期待する施策でしょうが、実際問題として運転が必要な人にとってはただの形式的ハードル程度のこと。

それに関わる手数料の収入の方に魅力があるかも・・・などと言ったら叱られる?

 

私の存じ上げるその方は以前、軽度の交通事故を3度立て続けに起こし、家族縁者、そして主治医からも運転を控えるよう指摘されているのですが、強行に「大丈夫」を主張してその高齢者免許講習に出向き、合格を得たとのこと。

聞けば、前回の事故で壊れた車を修理してこれからばんばん走り回る意気込みとのこと。

 

気づいた点は、家族等近親者は「絶対に運転はあり得ない」というスタンスであるにもかかわらず、その方の周囲のお友達が「まだまだ大丈夫」とイケイケ風の雰囲気で囃し、本人がその気になってしまうというところ。

こういう場合の「お友達」のリップサービスはタチが悪いものがあって家族の希望と相反してしまいます。

 

何が正しいのか・・・私にはわかりません。

 

さて、棚草城。

棚草の3つの段丘に城に関わる名が残り真ん中の「本城山」が「棚草城本郭」(そちらの画像ABCのB)という説が現状。

では他2つの段丘は?というのが普通に思う所ですが、結局「城の形態」を感ずる遺構も見当たらず、私の興味としては墓地のみですね。

 

AC両台地とも西の端にあってこちらでも「墓地は西面」のパターンを確認してそれぞれを確認しつつ歩きました。

Aの墓地は新しめの墓碑が並んでいましたが、それに対してCの墓域には興味深い墓碑と墓石に出会うことができます。

 

牧野家の墓碑に記された内容は驚きますよ。

牧野家初代は牧野與三兵衛で没年が康平四年(1061年)と記されています。「棚草に城を初代より・・・・」の件も凄い。これは口伝による記述とは思いますが・・・。

 

先般も本城山の直下に源義朝配下鎌田末裔と言われる方について記しましたがそれをも100年は遡ります。

また関わりのありそうな三河の牧野家の出自を推測する鎌倉期よりずっと以前から「牧野」を名のっていることになります。

この辺りの件はどちらかで混同があったのかも知れません。

1000年の口承となれば内容もかなりおかしくなって当然のこと。

 

これもまた何が正しいのかはわかりませんが、この家の系がどちらかの早い段階で荘園の在地管理を旨として都から下向した某が室町期頃に(三河あたり?)牧野からの婿を取ってそのままその名を名のったのかも・・・などとひらめき程度の考えが思い浮かびました。蔦柏が記されていますが三河の牧野氏の家紋は三柏、同系列も推測できます。まぁ家紋は参考程度です。

墓碑にある「ずっと神道にて」の件、古来から「柏」は「柏手」というくらいで「ひょっとして元は神官」とも想像の色々が広がります。

 

尚五輪塔及び宝篋印塔残欠は牧野家墓域でもおそらく墓地管理者たる家の墓周辺にあるものです。

 

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2017年

11月

07日

本城山 棚草城 もう一つ(三つめ)の祠 牧野氏

ボクたちにはまず縁のない「パラダイス文書」の件。

ちょっぴり期待したくなりました。

こちらに名を連ねる方々の評価は①大層なお金持ち、そして②自国に納税しないで③懐に隠すという特権階級のさらなる特権というか詐術を企図する人種・・・ということ。

 

どっちが先か?というのにはイロイロありますので、それはさておいて・・・「大層なお金持ち=社会的権威ある人」ということはだいたいお決まりのパターンですから、これからお偉いさんたちの登場、そして糾弾と言い訳がまたぞろありうるのです。

ということで名前が出ちゃったらそれはそれで大変ですねぇ。

これからどんどん露出しそうな雰囲気があります。

腹の中にイロイロ隠されている方は戦々恐々のことでしょう。

 

この文書のデビューは昨日。

前回のパナマ文書に引き続く漏洩モノで今度はケイマン諸島から。大西洋ケイマン諸島・・・「パラダイス」とお金持ちの楽園「租税回避地」とをかけていますね。

 

景気よさげで下々の実感が湧かないという理由はひょっとして皆さま内部留保は留保でもあの島に秘密の溜め込みをしていたとすれば少々納得です。

 

昨日の報道ではトランプ政権のロス商務長官の名が出ていました。また新たな大統領殿とロシアのプーチン大統領の怪しいパイプの一つが露出したということですが、彼の内心は「外遊している場合ではない」が本音でしょう。

 

さて棚草城に謎という文字がつきまとうのは、「よくわからない」ところにきて「いかにもいかにも・・・」という断片的な情報が残っている事ですね。

昨日記した二つの祠・・・「本城様」はともかくとして「今川様の朝比奈孫十郎」などがそうです。

そしてこの城のもう一つの謎として出てくるのが「牧野」の名。

その名は雲林寺境内の本堂手前に建つ祠にあります。

こちらは祠というよりもしっかりと「如意輪堂」と名があってお隣の江戸期の石仏たちを祀る覆堂とペアであります。

 

寺というよりも地元、特に「牧野家」の人々が代々に渡って管理を引き継いでいるところがうかがえます。

城郭大系の棚草城の記述にもその「牧野氏」との関わりを「不詳」という語をつけながら関わりを示唆していました。

 

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2017年

11月

06日

本城山棚草城の意味深な祠 今川様と本城様

友人の「奥の墓道」氏よりすごい画像が送られてきました。

以前無知のまま松阪にて家族で松阪牛を食し財布がカラっぽになった経験がありました。

以来それに懲りてビーフは「ガシっとしたしっかりした食感」(オーストラリアかアメリカ産)を好むようになりましたので、国産の高価なものを選ぼうという気は起こりません。

 

そこに彼から送られてきた「これからありつこう」という昼食のライブ感ある画像は、なんと「特選  山形牛一頭コース」というもの。

前菜のあと特上牛タン塩、特選山形牛一頭六種、海老焼、牛にぎり(山形牛大トロあぶりにぎり)・・・デザート等、それに追加でもう一皿と。彼の事だから生ビールが付いていることは言うまでもないこと。

 

昼間からの贅沢三昧の理由。

それは遡る事数日前の書生さんたちが屯するようなファミレスの食事会の画像からでした。

彼の友人の競馬通というか殆ど病的な陶酔者、いわゆる競馬が生活の一部となってそれのためのみに仕事をし、その公営のバクチにとことんハマり込んでいる方ですが、大抵は生活困窮のために周囲の友人たちがバックアップし、その食事会の様子でした。

300円代のナポリタン?の画像がメイン。

 

友人たちは何故にスパゲティでその彼を支援するか・・・それが山形牛の奢り返しにあります。

バクチ依存の方はずっと負けっぱなしで尚その前日に有り金の殆ど(その際は12万円)を競馬で失ってオケラ状態。

しかし翌日(おそらく11/3)残りの小銭で勝負(全てなくなるまで使う)、購入した3連単100円が大アタリとなったとのこと。

その配当が134万円。

ということで昼間の焼き肉接待が催されたのでした。

 

すべてのことのスケールがデカすぎて溜息しか出ませんが、その話を聞いて息子に「競馬をやってないだろうな」とメールしている私がありました。コマーシャルはきれいごと、「騙されるな」とお頭の弱い愚息に言い聞かせ。

 

ちなみにその競馬ファン(美化して申せば)の方は相当な高学歴であり、独身であることを付け加えて記させていただきます。

今度、「貯金はしてるの?」と聞いてもらいます。

 

さて、棚草の城址はまぁ「本城山」(こちらの最後の画像B)というのが通説です。ということで「雲林寺のやや東方の郭坂(くるまざか)を登る」(日本城郭大系)に沿って歩を進めてみます。

 

茶畑に改変されていて敢えて言えば段丘上の平たん部を郭とした西向きの城砦を推測できます。

お寺の本堂の上方となる「郭」(これまた敢えて言えば「三の郭」)に祠が建っています①②③④。①は二郭方向から振り返ったところです。

コンクリート製で作り直しなのでしょうがその名は「今川さま」。「何のこっちゃあ・・・」ですが城郭大系によれば、

「永禄九年今川氏から地頭朝比奈孫十郎に宛てた書状」(棚草共有文書)の存在から棚草は今川配下の朝比奈氏の支配下にあったというのが通説です。ただし永禄九年といえば1566年、「遠州忩劇」の真っ最中で遠州が不安定期にある時で氏真が掛川城を出たのが永禄十二年になります。

 

私はその朝比奈一族とすれば誰がいたのか、それとも別の誰かがいたのか色々思う所がありました。

またその上段の「二の郭」(整備された茶畑)を超えるとその上の「本郭」に辿り着きますが、そちらは今、茶畑につきものの放棄地となって茶の木の白い花が咲き誇っていました。

 

堤城千畳敷をかき分けた如く進めば、気休め程度の小さな空堀を思う結界の上部に地元有志が掲げたと思われる「棚草城」標識が現れます⑧⑨⑩。その段の上に上がって北側方向に回り込むと先ほどの今川様と同じような祠の「本城様」があります⑤⑥。

 

本郭の背後をのぞき込めば一応、切岸状急傾斜が見られますし、堀切を推測できるような場所もありました。

 

最後の画像は航空図を拡大しましたが、今川様(黄〇)と本城様(青〇)の両祠が確認できました。本城様の祠の丈夫にも何か不明の札が付いていましたが態勢が苦しかったため未確認。

 

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2017年

11月

05日

まぁ藤枝にはかなわないね・・・藤枝郷土博物館

先日ブログにて依存症について少々触れました。

何かに依存する当人は当然自覚してのことですから仕方がないといえば仕方がないと割り切るところかもしれません。

ただし今流行の「自己責任」を振りかざしてしまうのは同じ社会にいる者として責任が無さすぎ。

病気ですから治癒の方向に向かうべく周囲も当人も努力しなくてはならないのです。

 

私の知る限りその「病気」はかなり厄介で、まずは他者の意に「聞く耳」を持ち合わせずその依存を阻止しようとも試みればいたって狂暴化することが多々あります。

 

一昔前はというとやはり主人の家族無視の振舞いはいたって多くあってそういう場合も家業即衰退の憂き目などよく聞く話でした。一昔前の博打は現在のような出資法などの規制がありませんので、ゴロつきの高利貸しがハナから家と田畑を掠め取ろうと虎視眈々とその賭場を運営していました。

一夜にして当人は勿論、文字通り家族が路頭に迷うことになりますが、そんな時、世の中の風潮は「お父さんのやったことだから仕方がない」「何といってもあなたの父親だ」と説き伏せられて家族もろとも皆で力を併せて一から出直していくという美談を期待されたものです。

 

しかし今は違いますね。

一言で言って「そんな親なら捨てなさい」の時代のようです。

「親孝行」に縛られて子供も妻も早々に結論(捨てて夜逃げ)を出すことも選択肢に入れておくことがそれこそ常識であるというのが社会の流れのようです。

これは依存症の父親だけでなく、子供を親の支配下におこうと暴力で制圧しようとする母・父に対する子供のよりよい判断として推奨されつつある傾向のようでもあります。もっともそういう環境下にある子供は逃げ出せる判断ができるまでにある程度の成長を待たなくてはなりませんし、何らかの精神的ダメージを蓄積させてしまいますので、苦しい忍耐を課してしまいます。

 

子供たちの自殺願望の遠因のすべてが「親との関り」による何かであるというのは早計ですが、この世の中の若者たちの思考も私たちのいる社会もどこか「病んでいる」感が覆っています。

 

さて、画像はお馴染み藤枝郷土博物館の現在の企画。

神主の中村氏よりチケットを戴くことになっていますので報恩講が終了したら行ってこようと思いますが、ちょっぴり口惜しく感じました。

展示品に相良の某家所有の「高天神兼明」等三振りが出品されているとのこと。これらは既に佐野美術館に委託されている重要刀剣たちですが、無理はわかっていることですが、やはりこういったフェアは「相良でできないものかな」と思いました。

初日はイベントもあってかなり賑わっていたようです。

 

刀剣の場合はかなり特殊ですから独自のコネクションがないと役所関係だけの力では実現は不可能です。

相良には展示会ができるハコもありませんしね。

さすが藤枝、牧之原など何やってもかなわないと思ったところです。

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2017年

11月

04日

城主城域不詳ながら立地は塩買坂の東 棚草城

この「棚草」という名は意外に全国的に独特の名のようでそれをそのままググってみれば一発で菊川市の棚草がヒットします。

その地名の「棚」とは地形を表しているのかもしれませんし、ひょっとしてそれを示唆しているのは段丘の連郭式山城?・・・などとそちらの近くを通過する際に思いを膨らませていました。

 

というのは先日もブログにて堤城直下の街道は週一で通るくらいの時期があったと記しましたが、相良から菊川、掛川方面、最近ではバイパス利用の浜松方面へ向かうに通過する頻度が高い道です(県道69号線)。

また、高天神城に向かうにもこちらを通過しています。県道69号線はかの有名な「塩買坂」(しょうかいさか)の新道(旧道は南東側尾根上)から西進する道ですから。

(「塩買坂」はかつてのブログ     )

 

上記③で記しましたよう龍泉寺背後の尾根の西の端が獅子ケ鼻砦から高天神城までの見晴らしが絶妙といいところから、私は武田軍の「塩買坂に旗を立てる」の位置はこのあたりでは・・・と勝手に考えたものでしたが、その尾根から北側の平地に降りたその連なる舌状台地帯が棚草の地となります(場所はこちらまたはこちら)。

 

武田軍進行の本体は二回とも菊川の下流の国安まで南下してから渡河していますが、やはり多少なりとも高天神に近い北側に転回する部隊があったことは推測できます。

すると直近北側の城砦といえばこの棚草の「棚草城」です。

もしこちらに敵の伏兵が忍んでいて、南下する兵の背後を襲われることを考えればリスクの芽は摘み取っておくことがベスト。

 

そのことから棚草城が武田軍によって蹂躙されていることが想像できるのです。そしてそれが棚草城に関する史料が殆ど残っていない理由であると。

 

「棚草城」は漠然と地名として3つの台地と谷にその城址を示唆する名前が残っています。もしこの3つの台地が一領主の城だとするとかなり大きな城郭となります。

 

ただし上記「棚状」の曲輪を感じる場所は茶畑に化し耕作の手が入っていて明確に遺構としての確証はありません。

最北の平地は「星ケ谷」という廃寺があったあとといわれますが、その次の「北ノ谷」との間の台地が「平城」(ひらしろ)―上記航空図A。

次の「殿ノ谷」との間、真ん中の台地が「本城山」(ほんじょうさん)B。そして「殿ノ谷」と県道69号線の走る狭間との間の台地を「城山」(しろやま)C・・・これは現在でも地元で通じる名称であるということも驚きですが、3つの台地ともすべて「城」の称付きということも凄い場所です。

 

まさか3つの台地を使った(本丸 二の曲輪 三の曲輪・・・等々)広大な連郭式城郭があたかも存在していたように感じますが、いくら何でも広範すぎて防御の集約ができません。

ということで説としては真ん中の「本城山」こそが棚草城としての体裁であるというのが有力ですね。

 

「中央部の殿ケ谷付近に居館があり、本城山に主郭を置く根古屋式城郭であったと推測」「雲林寺のやや東方の郭坂(くるまざか)を登る」(日本城郭大系)

 

その根古屋付近をブラついていた際、お会いしたのが鎌田氏。

古くからの地主さんという鎌田氏と立ち話となりましたが、この方のご先祖は源義朝の郎党鎌田政清と仰っていました。

今は「かまだ」と名のっているとのこと。

ますます壮大な歴史とこの城の謎の一部に触れられたように感じました。

 

画像1・2番目は西側から見た台地。2の矢印が雲林寺。真ん中B

の台地です

航空図の左上に堤城と好運寺が見えます。堤城の下の好運寺霊園の本寺ということになります。

 

本城山台地上からは西に台地が重なるため高天神城側への見通しがよくないことがわかります。

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2017年

11月

03日

東洋氏の原点 堤城 直下墓域と「千畳敷」の現状 

昨晩の横浜球場、拙守によるヨコハマの有様を見て、チャンネルをNHK Eテレ「♡ネットTV」の「シリーズ 依存症」という企画番組。その日は「家族の苦痛」についてでした。

特にアルコールとギャンブルにのめり込んで家族が崩壊していく様子は壮絶です。「病気」としての周囲の理解力がないこと、駆け込み寺的社会の装置の不足がその苦痛に拍車をかけているよう。「精神科」での処方が適格なのでしょうが、とにかく最寄りの保健所に相談してみるのがまずスタートのようです。

 

そもそも父親が、主人が「依存症なんです」といって近所の人に相談したり理解を求めるといった雰囲気にはなり難いと思います。海外ではそれらを取り巻く環境が比較的整っているといいますので、ここでも国民一部の「希有な事象」として、放置している国の無能さがうかがえます。バクチと酒そしてタバコは国にとっても重要な資金源ですから。

 

ゲーム依存という語も最近聞くようになりましたが(ネトゲ廃人)、為政者は末端庶民が「政」(まつりごと)に注意がいかないよう他の何かへ注意が向かってもらえることは自らの安泰に繋がりますのでそのような傾注は喜んで放置し、逆に盛り上げたりするというのが歴史です(まつり 祭り 奉り)。

お国に踊らされちゃあダメですね(他にも色々アイテムがありますから気づいていただきたいものです)。

国民が阿呆でおカネが入る、これほど都合いい自分勝手はないでしょう。

 

尚Eテレのサイトに「ギャンブル依存症チェックリスト」ほか各関係リンク先があります。「無関係だから」とは言わずチェックしてみてください。

 

私どもにももっと「ケアして見守るべき」という温かさがなければ関係者の抱える悲劇はいよいよ進行していきます。

理解がなければ周囲に苦しみが連鎖して当人の完治も非常に難しくしてしまう「病気」です。

 

さて、堤城についてはあまりにも街道に近いというお気軽さとあの出城的郭に松井氏五輪塔の存在もあいまって何とかお城好きの方である程度の満足感が得られてお帰りになるのではないでしょうか。

特に最近になって説明版等も建てられ、城としての見栄えは充実してきました。

 

ところが堤城の城としての体裁というか本曲輪はそちらではありませんね。現在の墓域をまたいだ大堀切の如く連想する「谷」の向こうの段丘がそれです。画像①。

塩の道-相良街道がその山塊の下を通っていますが、以前の画像の如く、この単独段丘はあまりにも直立しているため、取付いて登ってみようという事は誰でも躊躇することと思います⑮⑯。

 

またその堀切状の「ひょっとして連結部分?」と解して無理に取付いたとしてもそちらは殆ど一段は上がった曲輪のあったような場所で今は足の踏み場もない雑木の藪になっています。

そちらを抜けられたとしても(殆ど不可能だと思います)また大きな崖状の台地を上がらなくてはなりません。

 

ではどちらから?というところですが、塩の道を南側に回り込むと春日神社③からという手もありますが、おそらく地形的にこちらも結構南側に出張った出曲輪状で、西側の平坦地よりも一段低い場所になっています。⑧奥に神社の木々が見えます。

 

まぁ上記よりはマシといったところですが、何せ以前はこの台地の平坦部分は茶畑があって管理されていました。

1年弱前からの放棄放置状態(管理者)ということで旧茶畑周囲であっても歩行に難儀するような場所になっていますので距離的に遠くなってしまう神社上部からの突入もかなり厳しいものがあるでしょう。

 

そして現在の台地の上に辿り着いたとしても何も城の雰囲気は味わうことはできません。

ただ昭和五十一年に建てられた「堤城千畳敷跡」を示す石標が建っていますので、それのみを目的に目指すワケです。

ハッキリ言って今後何らかの手筈を整えないと二度とこの石柱は拝めなくなることは確実です。来夏を過ぎたらアウトでしょう。

もっともこちらは私有地になっていますのである程度の交渉力とタイミングが合わなければ相当ハードルは高いかも知れません。

 

その所有者が昨日記した鈴木東洋氏の御実家になります。

大きなトマトのハウスは航空図(再アップしました)でも確認できます④。

そちらのお宅にはもはや道とは言えなくなってしまった登攀路がありますのでそちらを利用させていただくのが石標までの最短距離になります⑤。

現在は急傾斜地の崩落地と指定されて、市の方での保全工事が進んでいます。

 

現住鈴木氏の許可を得て背後の登攀路を上りますが、草ぼうぼうは言うまでもないこと。初めての方でしたら100%迷うでしょう。

登攀路を信じて(南側の平たん部の景気を左手に見ながら)30~40m登ると左手に桜が2本⑥。

2本目の桜を過ぎたあたりで右手北側進と作業用モノレールが確認できる筈。

そのモノレールが見つけられれば段差があったり鬱蒼とした草木をかけ分ける苦労がありますが目的の石標に辿り着くことができます⑩。途中漆らしき木がありますのでご注意ください。

この時分なら蜂の動きも警戒が必要ですね。

いつもスズメバチの巣でも「踏んだらどうしよう・・・」とは思いつつも「えいやぁ」の気持ちで突き進んでいます。今のところ結果オーライ。⑪は南側から見た堤城。⑫は城を囲む水路。

墓石・石仏は私の好み。好運寺霊園で見かけたもの。

 

墓と城址歩きの「依存」はやはり人によっては理解し難いこともしれませんが、我が家では見守るというよりも「勝手に城!!」の放任を勝ち得ています。尚、このビョーキは治療は不要というのが一般的。

 

♡ネットTV終了後、暫くたってからチャンネルを戻すとヨコハマの再逆転の絶妙。うまいこといってよかった。奇跡などはしんじませんが「とんとん拍子のイケイケ」というのは見ていて楽しいところです。

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2017年

11月

02日

志瑞墓地 遠目際立つ五輪塔 鈴木東洋氏の墓

朝は肌寒く、昼は暑さも感じるほどの陽気。

油断は禁物ですがやはりこの時期の晴れ間は有難いものです。

10月は散々雨に悩まされましたから。

そして日没後のクリアな空気に浮かぶ十三夜の月はこうこうとして美しい。

昔から「十三夜に曇り無し」などというくらいですからね。

 

以前、秋にバスツアーを企画した際、雨に降られて閉口したものですが、この十三夜に雨が降らないという古人の語を信じて、その日にツアーを企画してみるのも一手と思いました。

雨に降られたとしても古の人に責任を擦り付ければそれでOK。

 

さて、昨日のブログ「志瑞の墓地」追記です。

「河東出身者」さんから鈴木東洋氏(河東さんのブログ)ついてコメントをいただきましたが実はあの墓地に鈴木東洋家の墓地があります。

昨日の画像、墓地遠景の図を拡大したものが①ですが、矢印の五輪塔をご注目。

近くに寄れば新しい石材であることがわかりますが、さすがに東洋氏はそのスジの方、この仏塔形式ははずせないというところでしょうね。

以前は、私も「一石五輪塔のカワイイやつでも」とこのタイプを所望したいという思いがありました。

もっとも門徒寺に五輪塔はいかにも具合がよくありませんので仕方がありません。自己満足以外の何物でもありませんし・・・

 

その東洋氏が亡くなったのは平成二十五年の11月2日。

まさに本日の4年前のこと。

特に静岡県内での先生の活動についてこの道に興味のある方でその名を聞かない方はないくらいの著名人です。

 

最近では新野左馬之助の件ではありますがその顕彰会会長として左馬之助を掘り起こしたことが有意義。先生の作成された新野氏系図その他研究については圧巻でした。何よりも「静岡古城研究会」の会長職を30年以上つとめて、新発見の城たちの数は200を超えているといいます。

医師としての地域貢献をしつつ、それだけの業績を残した方ですからまさに静岡県の宝ともいうべきですね。

 

私は先生とは面識はありませんが、残された史料を拝見しながらその名声と偉大な働きを確認しています。 

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2017年

11月

01日

人間界狭しと言いえどかなり奇遇なり 志瑞の墓場にて

菊川の牛渕川と相良街道(塩の道)堤城、山の麓の墓地は以前から確認していました。

場所は今のバス通りから少しばかり東側、相良街道と呼ばれる場所で地名でいえば「志瑞」(しずい)です。

その墓地は「志味堂」と呼ばれる地蔵堂が建っていて、卵塔の数基からどちらかの廃寺跡が推測できる場所です(場所はこちら) 。

 

私は何の気なしに墓場に訪れますが、まずはお寺の境内の墓地とは違う地元の区や個人の管理する墓地にて他者とすれ違う確率は低いものがあります。というか「まずはない」・・・

しかし稀に地元住民とバッタリすれ違うことがありますが、そんな時は必要以上に笑顔でもってこちらから声を掛けることにしています。

 

何度か通報されたであろうと思う事態も経験していますしね。

一般的に「墓場によそ者」は「まずはない」のが常識です。

この世情は悪しきものがありますので、致し方がないのですが、今、墓場・社・祠など宗教施設で頭の痛い犯罪被害は仏像と賽銭の盗難です。最近ではオークション出品の為に石仏を盗む輩が出現しているようですね。

 

当然に私とすれ違った方はその辺りの件につき「ピンとくる」ことは当然のことです。

モノをかっぱらった形跡が無くとも下見の可能性があって「怪しさを醸し出せば」有耶無耶が残るはずです。

ということで私は「その辺のかっぱらい、下衆の類ではない」という事を主張するためにとびっきりの笑顔で「こんにちわ~」です。そして墓場を歩いた所感と思いついた疑問をぶつけるのです。まぁ「墓に関しての質問」などはうしろめたさ満点のコソ泥には出てこないでしょうし。

 

その際の私のその女性への質問は

①鈴木・相羽・加藤さん三家の墓しか見当たらないが②こちらの墓地で一番古そうな墓石を見つけたがそれはどちらの家?でした。

すると加藤家は比較的新しい家で相羽家は古くからの名主で昔からその本家を地区では「相羽さま」と呼んでいたそう。大地主の家系で分家が広がったそう。鈴木家はその奥様の系統で私が指摘させていただいた「一番古そうな・・・」の持ち主でした。

また、以前から賽銭泥棒がやってくるという事も。

 

私の知っている、墓石とその方が嫁入りして以来義母さんから教わって一緒に花を添えている「三界万霊」についてのうんちくを語ったあとに、「あなたはどちらから?」と逆質問されました。これも当然の流れではあります。

「本当はあなたは誰?」というところが本意なのでしょうが私は適当にはぐらかそうと「相良からです」と。

「坊主です」などと言っても逆に嘘くさいことは分ってますので・・・

場合によっては名刺を出すこともありますが、その日は持ち合わせがありませんでした。

 

するとその方はいよいよニコニコしながら「相良といえばヒロコさんを思い出す」と仰います。

私の「ヒロコさん」と言えば先般亡くなった永田裕子さんですが、まさかと思っていると「旧姓は野村で今は永田さんでお隣が紙屋さん」・・・ということで確定。そこから私の存じ上げる名前と色々な懐かしい話が飛び出してその墓場での長話となりました。勿論私の「寺の者」ということも明かして・・・

どうやら永田さんが亡くなった事は知らなかったようです。

 

そちらの鈴木さんは屋号は「酢屋」で相良街道沿いで造り酒屋をやっていたようです。ご主人まで呼び出して紹介してくださいました。

 

ご主人は体を壊して造園業を廃業したそうですが、現在はご健勝。皆さんとこちらの祠に祀られている仏のおかげさまであると申してました。そういえば永田さん宅は以前から春と秋の年二回、植木屋さんが入っていたことを思い出しました。

この祠には昔から家の手配のできない方々が住まわれたといいますが、そのおかげかもろとも皆成長、成功しているとのこと。

 

しきりに仏縁のなせるわざに感謝して別れましたがひ孫を3人?持つ幸せ満点、笑顔の奥様から「また来て」と言われてその日はとても上機嫌に過ごしました。

 

①②は拙寺本堂。父が植えた柿の色がポイント。すべて鳥たちへの「志」となります。③が上記「志味堂」墓地④は鈴木家の「墓地で一番古そう」と指摘した宝篋印塔残欠。以前は所有されている背後の山の中腹に墓地があったそうで、すべてを降ろすのに相当の経費が掛かったとのことです。

⑤は志瑞屋台小屋、相良街道から東。

⑥は墓地前の道路から西。堤城の段丘が見えます。

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2017年

10月

31日

堤城街道側出郭 松井氏五輪塔

トランプさん、窮地に追い込まれるか・・・

先日も記しましたが大統領選挙の際のロシア疑惑の線、いよいよ司直の手が入ったようで注目しています。彼は相変わらずツイッターで吠えているようですが・・・

 

アメリカ合衆国の大統領殿の権威は絶大で、クビにするには前途厳しいところがあるようですが一刻も早く退場を願う者として黙って傍観できませんね。

まあ決めるのはアメリカ国民、うまいことやってくださいな。

 

さて松井氏の堤城に関わる以前の事はといえば「歴史學研究會 」菊池武雄氏の「戦国大名の権力構造」~に詳しいというのですが、何せ入手できずに未確認。

 

小和田先生の「今川氏家臣団の研究 戦国大名今川氏の家臣団構成」記載の今川範国書状(建武四年1337  七月五日)

「山城国御家人松井八郎助宗申軍忠事」(土佐国蠹簡集-とかんしゅう-残編)によって松井氏は山城国の御家人だったことがわかります。

 

そしてその翌年一月二日に今川範国に

「駿河国葉梨庄(藤枝花倉)内田地一町幷屋敷一所地頭代職」の安堵されています。

そして永正十年(1513)に今川氏親より

「遠江国下平河事 

  右於当国別而依被走廻充行訖 者弥可抽忠節之状仍而如件

         松井山城守殿」

この段階で堤城が築城されたという説がありますが、元々何らかの砦・関等の施設はあった可能性はあります。

 

しかし昨日の如く「信薫二俣の城に移る」が翌年の永正十一年ですから松井氏の堤城在城期間は1年にも満たないということになります。

 

尚、昨日「寄親寄子(→ブログ)制の教科書的」と記したのは松井氏が在地密着型の土豪(地頭)ではなく守護(今川氏)の差配によって転々と領地を変えたため、その地元村落有力名主以下(寄子)との繋がりの弱さ、ベースの脆さはどうしても避けられないところで、それを補うシステムとして寄親と寄子は有意義だったということですね。

 

地頭は守護の配下は当然、その地頭の下の有力名主クラスも守護の配下と考えればスンナリ理解できるかもしれません。

これは三河武士団の結束感というものと比較すると、やはり脆弱感は否めませんね。

もっとカンタンに考えれば「選挙出馬の地盤」に似ていますし、地頭(店長)クラスが守護(社長)人事によってチェーン店に派遣されるが如く、お店の店員は店長の直接配下ではありませんね。

地盤の無い場所で立候補しても集票にも限界があります。

 

堤城に関して見ると以前は荒れていましたがここ数年来、整備の手が届いて、街道筋からも新しい掲示板が見えるようになりました。

最後の画像2枚、獅子ケ鼻砦が見えます。

 

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2017年

10月

30日

菊川下平川 牛渕川 堤城 松井信薫の城

午後6時代には台風は通過。通過後の外気の蒸し暑さは台風が連れて来たものでしょう。雨の量は前週以上を感じました。

菊川の横地や下平川に避難準備が出ていましたがあそこいらは案外地盤が低くて、水が捌けにくい地形になっているようです。

そして牛渕川が一時氾濫危険水位を超えたという報がでていたよう。

 

5時を回ってブレーカーが落ちましたので各部屋をチェック。

一部屋のブレーカーが上がりません。どこかに漏電があるようです。また面倒な問題が発生してうんざりです。

 

昨日は前婦人部三人衆の一人、千代さんについてたまたま記しましたが昨晩そのうちの一人のやゑさんが亡くなったとの知らせを受けました。九十三才でした。

私がこちらに入った頃(11年前)はまだまだバリバリの健康状態、お得意のバイクを乗り回すほどで、周囲は「100才は固い」と囃していましたが、その壁の高さを改めて知ることになりました。

低気圧の接近が心肺不安のある年配者にとってケアすべき事であったとも感じたところ。

 

これでしずさん、千代さん、やゑさんの旧大澤寺婦人部の大御所がすべて逝去したことになります。

御三名には長い間ご苦労をおかけしました。あらためて感謝御礼申し上げます。

 

さて牛渕川は菊川水系で黒田代官屋敷のところで記しましたが水害の多い場所であったことは大いに推測されるところ。

この地域には横地城・高天神城と舌状台地上に比較的名のある城がありますがちょうど両城の中間地点、水の手の悪そうな場所に両城にも劣らぬ通好みの城があります。

「牛渕」の名を耳にすると長篠城の牛渕橋を思いますが、城に「牛」がつきもの?というよりも人との関わりという点で馬と牛に関してより深い縁を感じます。

それでも人は馬には敬意を払う傾向がありますが、牛だとどうしても家畜・・・

 

それが堤城。幹線道路の目の前にあって地元の方々にとっては当たり前のような地名でもあります。

これまで確か一度もこの城について記していなかったと思いますが一時期は週一でこの前の道路を通過しているほど親しみ深い城です(場所はこちら)。眼前の街道の南の先には新野の城砦群を控え、東方からは「塩の道」が合流するという要衝の地。

 

さすがに牛渕川の氾濫にそなえて比高36m程度の台地に構築されていますが、その西北を北から街道と平行して流れる牛渕川は天然の堀として想定できる立地になります。

「堤」の名の通り、川の土手の城という地形の様を名にしたのでしょうか。尚、近隣には「堤」という地名、バス停があります。

 

堤城は築城年代がハッキリしないということと小和田先生による今川氏の家臣団構成「寄親寄子制」の教科書的代表例である松井氏がいつ頃入っていたのか、松井氏が在地領主からの今川編入とするとそれ以前の相良・横地・勝間田・新野あたりとの関わりはどうだったかなど疑問が残ってハッキリしないところが多々あります。推測としてはそれらと同様に藤原南家出身と考えればスンナリでしょうか(その辺りは明日のブログにて)・・・。

 

また華々しい戦闘の形跡がないことも歴史上ひっそりと消えていきつつある城なのかも知れませんね。

 

小笠郡誌(城郭大系)

「堤の城墟 平田村城山古へ之を堤の城と云う。伝へ云ふ今川氏親の臣松井左衛門尉信薫此城を守れりと。

永正十一年信薫二俣の城に移る。記伝に云ふ、堤の古城蹟在上平川下平川二村の間。」

 

城は二郭、画像にある西側の単独の丘と大堀切状に区切られた東側の台地とセットです。

出張った街道から西の単独丘を見上げる位置は松井氏館があった場所と推測されています。

 

車両で向かうには城山霊園に停めて散策を。

もっとも本曲輪は塩の道の真上の丘ですので、こちらへは冬場がお薦めですね。

 

本日はこれまで気が向くままに撮影してきた西側の川沿いの丘の画像、特に街道から見た少々をアップしてみます。 

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2017年

10月

29日

大澤寺本堂扁額のウラを覗く 小山平兵衛

毎日曜日を狙っているが如くの台風襲来にもはや「勝手にどうぞ」と開き直っています。

こうなったらもう一回「上陸してみろ」と放言したくなりましたね。まぁ殆どの植木鉢は室内に収めてしまっていることと静岡という地はほどほど台風に耐力があるということは分っていますので。

勿論、法事を控えています・・・。小ずるい事を記せば「午前中は控えめにお願いします」という気持ち。

 

台風の速度は北上に従ってぐっと早くなりますが、季節のうつろいも秋となるとそのあとはあっという間。既に11月の声を聞きますので今年もあとほんの僅かという感じです。

私どもは東京の叔母がかつて居た住まいのあと片付けに傾注していますが、今、奥方に赦しを乞うている台詞は「運慶展に行かせて」です。11月26日の最終日までまだ余裕がありますが、これから11月一週までは東京圏に近づきたくない事情が発生しています。

 

世に「なんとかファースト」を流行らした米国のトランプが来るとのこと。お頭の弱そうな人たちがしきりにその「ファースト」なる語を真似て使用していましたが、今度は中国までが「中国一番」を標榜しだして呆れ果てています。嫌な時代になりました。

ということで都内は検問の嵐で車両での進入は諦めた方が得策。折角の台風一過の晴れ間?が台無しです。

まったくくさくささせられる行事で、あの方に尻尾を振り振りする輩も道化に見えて仕方がありません。

 

27日のアメリカCNNのニュースで報じられていました。

大統領選にロシアが介入した疑惑を捜査する特別検察官が、最初の容疑者を訴追、連邦大陪審に受理された。容疑者は明らかにされていないが、早ければ30日にも拘束される可能性がある」

 

彼の側近が逮捕されることを示唆しているようでもありますが、そうともなればトランプも無事ではいられないでしょう。

また罵詈雑言を浴びせる姿が思い起こせますが「壮大な不正義・・・・インチキ大統領選挙」というウラの部分が明らかにされるかも知れません。まぁ白黒ハッキリさせることも有意義、すべてが納得できる権威(連邦大陪審)ですからね。

できれば大統領殿には日本に来ないでいただいて私のちょっとばかりの願い、秋の穏やかな上野の散策を実現したいものです。

 

さて、「ウラ」と言えば拙寺本堂正面に掛かる「釘浦山」山号を記す扁額の裏側についてまだ記したことがありませんでしたので紹介させてください。

以前から歴史用語「有徳人」を好んで使用していますが、相良本通りには小山家一統の各店舗があります。

どちらも大店で、拙寺が他のお寺さん方に羨望の目で見られているような事も聞いたことがありました。

 

まぁ本通りが家康が鷹狩陣場として開発の手を入れた頃、数件ほどの家があるばかりのところに家康の命によってこの寺が相良大沢村から本通りに降りてきたことから始まっていますので本通りと拙寺の関りは深いものがあります。

そして当初から初代の故郷近江とのパイプから近江商人の定住があったのだと思います。

 

その小山一統の本家にあたるのが大平薬局(現在は大沢に店舗)で大澤寺婦人部を半世紀近く引っ張っていただいた小山千代さんの家。平成26年に95歳で亡くなりましたが私の小僧の頃からこの間まで「若さま」と言って「よいしょ」していただいた事が忘れられません。

 

その千代さんが中興したという薬舗「大平」の名は「大坂屋平兵衛」を祖といいますが、当家過去帳に見る最初の大坂屋の名のりは「大坂屋吉兵衛」で没年は安永四(1775)でした。

吉兵衛は国元に帰って没しているといいますので、相良にて骨をうずめるべくの一所懸命は子の(おそらく)「平兵衛」~天明三(1783)没~からでしょう。

 

以後大坂屋の名のりは「平兵衛」がスティックされていたようで、小山家の通字は「平」。その名の変化はありますが、現社長の名は「平太郎」氏でした。

ちなみに大坂屋弥平の倅に万作という人が居ますがその万作の嫁が拙寺10代目の今井祐賢の娘です。

寺が大店と関わる事は昔からあることでした。

 

それでは明治二十五年南條文雄扁額について。

拙寺12代目祐闡の時、寄進者は小山平兵衛、彫刻矢部宗普でした。

 

未確認ですが矢部家といえば拙寺本堂建立の棟梁伊藤平左衛門が三州牛窪からやってきて大江の矢部某に婿入りした旨を伝え聞いていますのでその系統の「矢部」でしょうね。

別の本堂の上棟板には「平田村住矢部宗右衛門・庄右衛門」の名がありました。

 

南條文雄とのパイプも推察される小山平兵衛による差配があの扁額になったのでした。125年もあちらにぶら下がっているということもおそれいります。

 

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2017年

10月

28日

長篠五砦潰滅の追撃戦 長篠の有海 松平伊忠 

何度か長篠城周辺をブログで記していますが長篠・設楽原周辺は歩けば関ヶ原をも凌ぐほどの戦跡が残っていてブログに記述する材料に事欠くことはありません。

特にあの地は新東名高速の開通によって以前より断然に行きやすくなりました。

特にあの辺りの地理について復習(場所はこちら)予習しておけばわかりやすさもupすると思います。

 

V字形に豊川と宇連川が交差する渓谷にその二つの川を天然の深堀とする要害(牛渕橋)が長篠城ですが、その徳川方の城をじわじわと攻め掛けたのが武田勝頼でした。とくに武田勢は城の宇連川対岸の山並みに連ねた砦群(長篠五砦)をもって城中を威圧しました。

そのあとにこれと同様の策を采配したのが家康でしたね。

武田勢が籠る高天神城をやはり力攻めではなく周囲に夥しい砦を構築して(主に高天神六砦)長期戦に持ち込みました。

 

二つの城の運命は逆の結末を辿りますが、これは後詰の違い。

但し負け戦はともに武田で勝ち戦は徳川・織田連合軍でした。

高天神城は武田方の後詰期待も兵糧尽きて城から討って出で壊滅。

勝頼軍との別動隊として長篠城包囲陣の五砦を纏めていたのは武田(河窪)信実ですが、酒井忠次による夜陰に乗じてのまさかの奇襲で五砦は総崩れ、日本史上「夜討ち」の例は数ある中それがあまりにもうまい具合に「図星」となったのがこちらでした。

武田方にも大いに油断があったことと思います。

本隊は移動し主戦場の推定地が離れていることから心の緩みを生んだのかも知れません。

 

いわゆる設楽原の本戦の前哨戦となったこの戦いで今一つ油断があった?と思わせるのが敗走して本隊と合流しようとする武田勢を追い込もうとする徳川方手勢の一人、松平伊忠です。

 

彼の息子が「家忠日記」で著名な松平家忠ですが、彼ら親子はこの長篠別動隊に参加していたのでした。

そもそも勇壮で名の通る松平伊忠ですが、砦を降って豊川方向に川沿いに武田本隊に合流しようと逃げる武田勢の背後を襲うべく猛追にかかります。

 

豊川がL字型に北上しだしたあたりに「有海」という地があります。以前も「牛渕橋」のところで「津」(みなと)地名の多さについて記しましたが、この「有海」なども豊川を海に見立てたところが窺えますね。

①②は有海の交差点ですが、その北には「大海」という地名まであります。

 

その有海作神という地に「松平伊忠戦死の地」の石碑が立っています。彼は一気呵成に追い込みの先頭に立って敗走する武田の最後部に斬りかかっていましたが、思わぬ反撃を受けて討死しています。武田軍の殿(しんがり)は小山田昌成(まさゆき)だったといいます。

 

勝ち戦に乗って敗軍を追い立てることは容易いように見えます。軍勢としての躰は失っていますからね。

しかしながら人はそういう時に足をすくわれることは昔から言われていること(敗時多因得意時)。

敵もただ背中を見せているばかりではありません。

寸前の負け戦に対しての鬱憤を晴らす起死回生を虎視眈々で狙うのは当然のことです。

やはり油断は禁物です。

 

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2017年

10月

27日

庫裏床材もリサイクル木材 シロアリに殺される

面倒くさい2週連続の台風の襲来に備えて昨日の晴れ間はちょこまかと動いていました。

以前庫裏の各部屋の畳を打ち捨てて自前フローリング工事をしていることを記しました。

庫裏玄関のたたきの前の八畳間についてもそのつもりでいたところ、奥方より「いくらなんでもそこは畳だろ」との指摘を受けてしょんぼりしながら畳屋さんへの依頼をしていました。

 

そもそもあの部屋はいわくつきというか畳が沈む箇所があったためどちらにしろ面倒な工事が付属するとも考えていましたので外注を試みた方がラクかもと思いました。

予算はオーバーしますが、人目に触れる場所ですし少しはまともな部屋も欲しいところです。

 

そこで畳の納入が昨日の朝一にあったのですが、畳をあげてみてびっくり。畳が沈む要因がわかりました。

床下の梁がシロアリで喰われまくって殆ど中空状態だったことが判明したのです。

ということで畳屋さんは「知り合いの大工を呼ぶ」といいだしてその突貫工事が午後遅くまで。そんなことなら私自身で床の修理を行いたかったところでしたが、致し方なし。時間がありませんからね。

突貫工事ではなくもっと時間をかけて念入りに行いたかったものでした。

 

畳は明日朝の納入になって時間が空きましたので、これ幸いとシロアリ防除剤を撒くつもりで用意に入ろうとすると、「アレは猫たちによくない」と注文が入って急遽中止。

石灰の散布のみ行いました。それでも少なからず効果はあると思います。

 

シロアリに食べられた時はおそらくかなり前を推測。畳のブカブカ期間は私の知りうる限りやはり相当前だっただけにそう思いますし、喰い尽されたあとの残骸は殆ど「土」状態でアリ一匹いませんでした。

 

気づいた点等記せば

①庫裏の部材もリサイクル材を多用している

②そこいらじゅうこの様なら次の地震でこの庫裏は崩壊する

③思わぬ出費に沈黙

 

本堂の床材が相良城お取り潰しのリサイクル材であることは以前より記していますが、庫裏にもどこかのリサイクル材を持ってきていることがわかりました。

相良城のものであるとは断定できませんが・・・

 

まぁ相良城撤去の際は幕府(松平定信)のお達しで「相良に残すな」があったそうですが、大量に出る木材が相良からすべて流出させられるワケがありませんからどこかでプールされていたのかも知れません。

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2017年

10月

26日

初倉 今井信郎屋敷再訪 100回忌法要とイベント

鼻高々に「拒絶」を強調した方が逆に「拒絶されちゃった」なんてことはイソップ物語や昔話に出てきそうな教訓的結末。

部外者としては面白くまた悲しくもある事象でしたが「人間」の哀れを見た思いです。

「そうなるよ!」という警鐘(「敗時多因得意時ゴリアテ・・等)はしっかりとされているワケなのですが・・・

 

御当人は「ガラスの天井」の比喩を持ち出していましたがそれってちょっと・・・と違和感も。

ご自身のいかにも高慢と思わせる態度がもたらした結果でしょうね。それがお判りにならないのでしたら今回の結果に押された「駄目」の烙印はなかなか消すことはできないでしょう。

 

しかしながら日本人の男どもは厚顔無恥のタカピー女史の出現には結構におどおど、ドギマギする傾向にありますので、選挙という投票行動となればなかなか厳しいかも・・・一旦その烙印を押されたとなると・・・まぁ政治生命の終焉を匂わしてもいます。

 

部外者の田舎坊主から言わせていただければ「がんばりや~」かな? 先だっては賄賂インチキ誘致の報もあった東京オリンピックですがせいぜいそちらへ向けてのスピーチを練ってくださいませ。アンフェア(不正義)のイメージがつきまとうオリンピック開催に有意義を感じませんが・・・。

 

さて先日、私が不在の時「こういうのがあります!!」と紹介されたというのが「NPO法人初倉まほろばの会」発行の冊子と今井信郎関係のイベント開催のお知らせでした。

お持ちいただいたのが今井信郎の愛娘しずさんが嫁いだ家系の方です(今井信郎~幕末勇士)。

 

あいにくと拙寺報恩講とかち合ってしまいました。

今井信郎の100回忌法要が11月11日(土曜日)に種月院で行われます。

アトラクション「歴史演壇」竜馬を斬った男「聖夜の刺客」も注目の様。

 

100回忌イベント(今井信郎屋敷)今井邦子歌碑三基除幕式 1000~

                                                     

100回忌法要(種月院)

12時30分受付

法要終了後歴史演壇開演

 

看板が新しく設置されたといわれましたので早速確認に行ってまいりました。

初倉はじめ地元のみなさんのヤル気を感じることができました。

 

尚、「歴史演壇」に関しては別の日にも開催があります。

12月9日(土) 坂部区民センター17時開場です。

 

初倉まほろばの会の入会お問い合わせは

             090-9936-3397 塚本さん

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2017年

10月

25日

「味知」との遭遇 三浦雅楽之助 誓願寺 

台風21号の被害は上陸した当地よりも案外その周辺で発生したようです。

150号線を走れば看板が落ちている個所も散見されていましたが、「やはり」と思ったのが東名高速道路。下り車線の富士~清水間は昨晩夜8時までは通行止めでした。

 

先日滋賀県日野から三重の鈴鹿山脈超えをチャレンジしたことを記しましたがあの鈴鹿スカイラインが通行止めになっているそう。おそらく未だ通行止めの解除はされていないと思いますね。通常時でもリスキーな道を感じましたので。

ヘタをすれば来年までそれが続くこともあり得ますね。

昨日は繁忙の為前日集めた落葉の処理ができないでそのまま放置していましたが、夜間に報じられた三重県に大雨注意報に驚いてゴミ袋3つを屋根の下に移動しました。

予報では晴れの筈だったのですが・・・また台風22号が北上して週末をうかがっているようです。まったく・・・カンベンしてもらいたいですね。

 

さて、丸子の誓願寺にて。以前うろついた際に初めて目にした人の墓ですが、「未知」という家の区画がありました。その前を通過しなければ片桐且元夫妻の墓に当たりませんのでどうしても立ち止まらないわけにはいかなくなります。

 

まず目にとまるのが「駿州横山城主~」の石標と中心に建つ「味知家」の墓碑。

横山城は「興津の?」と思う所。そちらは元今川領で武田信玄に落とされたあとは北条氏と激戦があった城ですが、「味知」なる名はまさに未知。

家紋は「三つ引き両」で相模三浦氏と同様。関連は不詳。

右手前の笠塔婆形墓石には三浦雅楽之助の名があり東照宮(家康)より軍功によって「味知」の名を賜ったとのこと。

家康が三浦の名を嫌ったのか何故に姓を変えたのか、これも不詳。ひょっとして「あの三浦」のイメージが強すぎたのかも。

 

遠州の今川系家臣団が武田に浸潤された後、武田に付いて徳川に掃討される姿は目にしましたが、駿河の今川配下が武田に攻略されていく中、徳川配下に至るタイミングというものが今一つわかりません。

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2017年

10月

24日

バイパス静岡行脚 片桐且元夫妻墓再訪 丸子誓願寺 

台風コース予測はドンピシャでした。

ピシャリと当たったのは「まさか私の頭の上を・・・」というところです。

午前3時に上陸と言いますので私は爆睡時間帯。

おそらく本堂が吹っ飛んだとしても朝まで気が付かなかったかと。

朝方からお見舞いのメールや電話をいただきましたが、あれだけの勢力(上陸時は950hPaまで落ちていたか・・・)を保ったままデカイ雲の塊を引き連れてやってきて、まっく無傷でいられたということはまたも奇特な事。

おかげさまで有り難くも朝の陽光の下、境内掃き掃除をさせていただきました。

各地悲痛の状況を目の当たりにして、恐れ入るばかりの台風一過でした。

 

当地では各所区民会館等で避難所の開設があったようですが、開けたからには責任者が詰めなくてはなりませんね。

この避難所の開設はてっきり市の方針かと思いきや、実は各区レベルでの判断だといいます。それもすべてボランティア。

よって区によってその判断は分かれます。ちなみに波津区は無かったとのこと。

避難所を開設にあたって民生委員が中心になって特に独り暮らしの年配者に声かけしているとのことですが、ボランティアの方は自身も朝まで過ごすための「あれこれ」を持参して会館に入るそうです。まったく頭の下がる思いがします。

 

私が爆睡している間の「ドタバタ」を耳にしましたがまさに「異次元」のご苦労があったようです。出したお菓子類を平らげたおじいさんに水洗トイレにオムツ系の吸収剤を落としてトイレを詰まらしたお婆さん、嵐の中に送迎した自家用車に異臭が籠った件等々、聞いていれば爆笑ではありますが、地域安心のためとはいえなかなかその献身は真似できるものではありませんね。

 

本日は大昔に撮った画像をあらためて。

最近は静岡方面に行くに東名高速は滅多に使用しません。

高速代をケチって150号線をそのまま東進するか、金谷まで出て1号バイパスを使うかですね。

ただし1号バイパスは突如として渋滞が発生したりトンネルが多すぎておっかない・・・対向車がビュービュー走っていますが、一昔前にトンネル通過中に対向車に向かって投石する輩がいたことから通過時にはそのことが必ず脳裏に思い浮かびます・・・

 

そのバイパスを使用し、静岡市内に入る頃、左手にあるのが丸子城。そしてその手前の誓願寺の辺りは年間でも10回以上は通過するのですが、そちらには「最近御無沙汰しちゃって~」と思うお墓がありました。

賤ケ岳七本槍一人、片桐且元です。

片桐且元の墓は以前記した際は、テキトーに撮ってきた写真をアップしていたものでいつかは撮り直ししたいものと考えていましたので、久々誓願寺を散策を兼ねて寄ってみました。

 

我が家では片桐且元といえば当奥方に言わせれば「小林稔侍だろ」(大河ドラマ「葵 三代」)と間髪を入れず返ってくるくらいの親しみのある戦国武将です。

本願寺との付き合いもあったようですし何よりも静岡に墓があることもその思いは重なっていきますね。

 

ということで誓願寺撮り直し。墓石は卵塔形式。

裏に回り込むも判読不可。

法名「顕孝院殿東市令三英宗元居士」

画像最後の3つが丸子城の丘陵。

 

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2017年

10月

23日

新豊院山は向笠城 消滅は必定今川→武田 向笠氏

日曜の午前は御前崎の先方ご自宅にて法事。

一応はそののちに予定されていた本堂参拝とお墓参りは別の日に変更いたしました。

「横殴りの雨」に無理をすることはないですから。

150号線を走る車もまばら、途中防波堤を波が超えていました。

ちなみに午後も3時からも須々木地区にて「お取越し」がありました。本当は家でじっとしているのが一番ですが、その時間帯でしたらまぁ何とかなるレベルでした。

ただ何事も無きよう、明日の朝を待つのみです。

 

さて、昨日記した新豊院山の古墳地帯は天竜川東岸の河岸段丘でその段丘を降りた東側には太田川が流れます。

要はその台地の東西に大河が流れていますのでこの台地の縁に城砦を設けることは合理性がありますね。

 

尚、この太田川の下流が三方ヶ原戦の前哨戦の「木原畷」(1/29 1/30)であり、この台地上には本多忠勝が武田軍南下の状況を見物した三ケ野の大日堂があります。

 

その新豊院(場所はこちら)の背後にある東に向いた段丘、新豊院山には向笠氏の向笠城があったといいます。新豊院のスグ下には敷地川と小藪川の2本の太田川系支流が流れ、特にその三本の川は天然の堀の役目をして要害性をアップしていたことは手に取るようにわかるような地形になっています。

 

今川氏親時代に伊勢宗瑞配下として三州岩津城(こちらも)攻城戦に遠州勢として「無笠」の名があるようですが、武田の遠州浸潤の中、武田方として浜松と高天神ラインの北側を分断する城として機能していたようです。

その流れの中で武田と共倒れし歴史から消え去っていった地元国衆の名は数多に及ぶでしょうね。こちらの地名として残る向笠の盟主は歴史から退場の憂き目にあっているようです。

 

③は新豊院に集められた定福寺(廃寺)に散在していたといわれる五輪塔残欠。森の中腹に威厳を放つように立ち尽くす五輪塔が向笠伯耆守のものといわれます。

 

この城は台地上から三方に展開して攻められればひとたまりもないでしょう。最終的に向笠氏は酒井忠次の手で排除されたといいますが、「武徳編年集成」では「可久輪の城(各和城)をば石川日向守(家成)、久野三郎左衛門宗能宵より是を攻る処、暁天に及で城陥り城将を斬獲しければ、六笠(向笠)一宮(一ノ宮)の両城は味方の旌旗をだに見ずして逃奔り数砦惣陥り畢ぬ」と落城が一方的であったことがわかります。丘を駆け降りて川を渡るなど散り散りになって逃げまくったことが想像できます。

 

 

また「煕庵遺書」には「此地は向笠五郎、向笠伯耆守住す。甲斐軍に属し其孫向笠平兵衛、井伊掃部守に仕ふ。」「天正元年三月平岩親吉をして天方城を攻めしむ。守将久野弾正甲州に奔る。石川家成、久野宗能をして可久輪を攻めしむ。敵出奔す。酒井忠次をして鳳来寺城 六笠一之宮の両城を抜かしむ。伯耆守六笠に在り、武藤刑部一之宮にあり」(城郭大系)。

 

ちなみに高天神城戦の天正九年、徳川軍に包囲された最期の時、武田軍城兵の中で橘ケ谷から切って出た三百騎のうちの一人に「六笠彦三郎」なる人の名が見えます。また、直系子孫は小田原北条に逃げ込んだといいますが、結果論とはいうもののいずれも選択を間違ったという感は拭えません。

 

以下最後の二枚が昨日お昼頃の新遠渡坂から見た地頭方港周辺。

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2017年

10月

22日

天竜川東岸台地は墳墓地帯 新豊院山古墳群

「マジか!」と目を疑うような台風21号の勢力。

先ほど見た進路予報は静岡県ド真中の通過で925hPaです。

スピードはこれから増すはずで、通過してしまえば結果、「あっという間」なのでしょうが、その分「勢力が衰えている隙がない」ということですから、恐ろしきこと。

「925」などという数字を維持したまま、もし静岡から首都圏を直撃したとしたら過酷な状況が想定できますね。

その勢力で浜松から御前崎の間を上陸したら、本堂は無事ではないでしょうね。

とにかく皆さま何事もなく過ごしていただきたいと思います。

 

昨日は22日の夜に予定されていたお取越しの件、「無理しないで延期しましょう」との連絡がありました。お言葉に甘えてそうさせていただきましたが、実は午前・午後と法事がありますのでその時間だけでも「なんとかならないかな~」と都合のいいことを考えています。傘を差してのお墓参りはちょいと辛いですからね。臨機にいこうと思います。

尚本堂は正面1つを除いてすべて雨戸で覆いました。

 

さて、昨日記した長者屋敷遺跡の周辺は古墳地帯。

その台地上には多くの墳墓たちが鎮座する場所でした。

特にこの台地を東に行った向笠の地は太田川という大きな川が作った扇状地にかけてやはり墳墓地帯が台地上に広がります。

こちらの古墳群は国の史跡にも指定されている新豊院山古墳群(場所はこちら)という名称がされています。

 

新豊院のお寺は東向きにありますがその背後の台地がそちら。

時代的には弥生時代~古墳時代といい、墳墓の形式もバリエーションに富んでいるよう③。当地では大きな前方後円墳のようです。

 

昨日はその台地の西の「奈良時代の役所の跡」(長者屋敷)を記しましたが、国分寺とも遠く、それ以前の墓域にどういう役所があったのでしょうか。いよいよ疑問です。

 

最後の画像は三角縁神獣鏡(新豊院山2号墳出土 磐田市より)

 

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2017年

10月

21日

天竜川東台地上長者遺跡 勝手に想い膨らます

まさかと思った晴れ間の下、植木鉢の避難作業を行いました。

あの天気図の台風進路を見てボケっとしていられる人はいないでしょう。しかし杞憂で終わればそれでヨシ。

 

各地区お取越しの真っ最中ですが、今の話題は「祖父母の投票はどうなった?」です。

齢を重ねていけばもっともなことですが、当然に不自由な生活を強いられている中、せめて国民の最低限の権利は行使させてあげたいというのが家族の思い。

ところがなかなか痒い所に手が届かないというのがこのお国の事情。

まあ年配者は切り捨てられているという感覚がしないではありません。

 

「もうムリ、棄権した」という声もちらほらする中、しっかりと要望も聞こえてきます。

①大小かかわらず各施設くまなく出前投票所を設定して欲しい

②不在者投票所をもっと増やせ

③投票所の靴を脱ぐ場所は面倒

投票者に若者を発掘する(中途半端ですが)方向性はうかがえますが年配者のことはまったく思考の範囲にないですね。

 

今回の投票箱工面のドタバタ(牧之原市は最低5個)を笑って聞いていましたが今度は新調した「投票箱の置場が無い」という笑い話もありました。

 

さて、匂坂城について適当な事を書き散らしてきましたが、ここへきてもっと適当な思い付きを記します。

特に匂坂は社山城から「こんな場所に・・・」なぜ・・・というのが一番にあることを先日記しました。

天竜川東岸の河川敷とは言いすぎではありますが、水害に対しての脆弱性は顕著のはず。

おちついて雨季の夜半に枕を高くして眠っていられないような場所を感じます。治水への技量がまだまだの時代ですからね。

ということで匂坂の本城はここではなく背後の段丘の上にあったのではないかと思うのももっともなことで・・・

 

では匂坂城推定地に建つ石碑の辺りには何があったか・・・といっても遺構の「い」の字も残っていませんので全くわかりませんが私が思うに匂坂の天竜川西岸に目をやるための出城的要塞施設だったと思っています。

何故にしつこく記すかと言えばあの位置は戦略的メリットを感ずるとすればその西を意識した施設のほかはあり得ないからです。

 

そして、では匂坂の本城は何処?ということになりますが・・・

以下私の勝手な思いで、地元の教育委員会の発掘調査でもそのあたりは確定的な伝えられ方をしている「長者屋敷遺跡」です。

地元調査では「奈良時代」の役所跡の遺跡とのことです(場所はこちら)。

 

発掘調査の結果、奈良期以降の遺物は出ていないということからその役所としての施設を判断されているのでしょうが、ド素人の戦国好きの私がそちらを歩くと・・・敷地は100×80mの四方とまさに国人領主の館址を連想させられます。

 

ましてあの明確に残存する掻揚土塁を見て匂坂氏はこちらに居たのでは・・・などと連想してしまいました。

殆ど段丘の西端にあたりますし、平地上のあの砦と合わせた立体感を西岸からうかがえば、かなりの強靭さをも訴えることができましょう。

 

かつて磐田市には遠江国分寺があるほどの政治の中心地でしたからこの手の奈良時代施設があったというのは勿論合点がいくところですが、あまりにも匂坂氏との関りが近くて捨てきれずそのような思いを記してしまいました。「長者屋敷」の名称は地域の伝承からなのでしょうが、その意からしても奈良時代役所跡とは飛躍し、むしろ領主系を連想する名でもありますね。

 

冬場の散策にはもってこいの場所ですからその辺りの私の感覚を味わっていただければ幸いです。

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2017年

10月

20日

井伊直虎お馴染み徳政令文書 「匂坂直興」

すでに静岡では10月の1か月平年分の降雨があったとのこと。

まったく雨ばかりで日照なく低温化も招いています。

一昨日の晴れ間の時間、1か月ほど前から居ついている野良猫の為に綿を入れた発泡スチロール箱を外部にフィルムで防寒した木箱に嵌め込んで置いておきましたが、案の定その中に入っていました。雌猫ですから、今後の対応を考えなくてはなりません。

 

そして台風21号はまるでこちら静岡に狙いを絞った如くのコースを辿るようでこれは頭痛のタネ。935hpなどの勢力のまま来られたらたまったものではありません。

週末にかけて色々な予定が入っていますがその間隙をついて境内の植木鉢の退避もしなくてはなりません。

 

さて、「匂坂」といえば天竜川東岸の匂坂氏。

井伊家との関りでは以前「社山城」で記しましたよう、井伊直平が攻城したという説がありました。まぁそのあたりのあったかなかったかについてはまったくわかりません。

 

ちなみに昨日記した真如寺の件ですが、無住となるとではどちらのお寺が法務等の手を差し伸べているかと言えば・・・社山城麓、豊岡の慈眼寺だとのこと。

社山城は匂坂家が元居た場所ですからね。

500年の関わり合いも感じたものです。

 

また井伊に関わる匂坂といえば「匂坂直興書状」でお馴染みの「匂坂」があります。

大河ドラマでは「徳政令」を出すのか出さないのかのシーンが思い浮かびますがその件の根拠が祝田の祝田禰宜について(井伊直親はこちら)の文書でした。

「井伊直虎関口氏経連書状」「井伊直盛書状」がありましたが特に直虎や新野の名が登場することによって重宝された文書でした。

 

ところがドラマ内でも小野と密談する胡散臭そうな禰宜が演じられていましたがこの件、実は関口氏経よりももっと裏で動いていたのが「匂坂直興」という人なのです。

彼が関わる永禄十年の6月から翌年まで1年間の「徳政」に関する文書が4通ほど残っているのでした。

 

そこで大河ドラマでの登場が不発に終わった「匂坂直興」ですが、彼は不詳なる「匂坂」です。

彼の文書はすべて駿府から発せられ、今川氏真との仲介が絡んでいますので今川家重臣クラスというのは間違いないところ。

昨日も記しましたが匂坂長能が家康人質時代には岡崎城に入っていたことからも匂坂家は今川家臣団でも有力武門だったことはわかります。

 

匂坂家は社山城で記しましたがやはり元は「藤原流」が示唆されているところであって今川家との合流は歴史の成り行きと思われます。そこで思うのが匂坂直興の「直」の字。

匂坂家の通字は「長・重」の類ですがこの彼の「直」を見て、

井伊との関わりを感じました。推測は色々広がります。

 

親族で紛争を起こしたことがきっかけに今一つ江戸幕府内で頭角を表せなかった匂坂氏ですが遠州には各血脈を残しました。

名家匂坂家のあの姉川の勇壮果敢はもう少し評価されてもいいですね。

以下書状。

 

①匂坂直興書状(永禄十年1567)6月30日

 

彼一義種種越後殿ヘ申候 先年御判形のすち

めにて候間 御切紙御越ともくるしからす候へ共

我等共御奉公まへにてさいきよニむすひ候て 御ひらう

なきまへニハいかかのよしおほせ候 小但(小野但馬)へ

申候而 次郎殿(直虎)御存分しかときゝとゝけ候て 早々被仰

付候而尤之由 次郎殿より関越(関口氏経)ヘ被仰候様ニ小但ヘ

可被申候 我等方よりも小但ヘ其由申候 たとへ次郎殿

より御状御越候ハす候共 小但より(安西)安助兵まて

尤之由被仰候と 御切紙とりこされへく候 二郎殿もそれにて

関越ヘ可申候 小但ヘ能々談合候へく候 恐々謹言

        六月卅日 匂左  直興(花押)

                   (上書)  自駿府

 ほう田の禰宜とのへ 匂左近

        まいる

 

 

②匂坂直興書状(永禄十年1567)12月28日

 

月はくニ候而無御披露候ゆへ 当年相澄候ハす候而

此方ニ而越年候 さりなからかわる

儀候ハぬ間 可有御心易候 就中儀モ御そうしや

少モ隙なく候而 相とゝのわす候 小但と此方ニ而談合

申候 可有御心易候 何も此分御心得候へく候 よくよくそ

なたにて御おんミつニ候へく候 恐々謹言

 

        十二月廿八日 匂左近  直興(花押)

    祝田禰宜殿

         まいる

        (上書)          自駿府

       祝田禰宜殿 まいる 匂左近   

 

 

③匂坂直興書状(永禄十一年1568)1月25日

④匂坂直興書状(永禄十一年1568)8月3日

⑤関口氏経書状(永禄十一年1568)8月4日

⑥関口氏経書状写し(永禄十一年1568)8月4日

 今川氏真判物(永禄十一年1568)9月14日

         ~瀬戸方久への安堵状

 

 

世の中にはこれら文書についてしっかりと目を付けて尚、現代文に変えてくださっているすばらしい方がいらっしゃいます。

 

関連書面もありますのでそちらをどうぞ。そちらの方がわかりやすい!!

 

http://www.rek.jp/021

http://privatter.net/p/2032071

 

 

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2017年

10月

19日

匂坂家墓域は真如寺 ただし無住の祠

天気予報の通り午前限定の晴れに母を連れて期日前投票へ向かいました。すると皆さん考えていることは同様、車椅子の介護付きの投票者が私どもの後ろに並んでいました。

これは通常市役所の1階の特設会場での投票所ということになりますが、今回は市長選+市議会選が重なっていますのでスペース不足から3階に変更されていました。

それがまた「超遅い」と思わせまた車椅子1台ギリの小さなエレベーターですから同伴者は苦慮したことでしょう。
滅多にないことで、しょうがないことでしょうが、「3階」というのは反則です。
まぁ次の4年後に母を連れてこれるかどうかはわかりません。
浄土へ向かうに私が先か母が先かの決まりはありませんし、現状母は元気そのもので私はカラ元気。
どちらが先でもかまいませんが、もし次の選挙まで両健在だとしても母を連れて投票には行きたくないですね。
なぜならデカい声で投票者の名を読み上げて恥ずかしくてしょうがない。
最高裁判所のアレ・・「どうするの?」「面倒だから全部×しとけ」。ドタバタになります。
さて先日記した匂坂城推定地鬼門の方角に建つ増参寺の墓域には匂坂家離檀済みのため墓地がないことを記しました。
ではどちらに・・・というところですが、やはり大ざっばに北東方向となる位置に真如寺という寺がありました。
まぁ寺というか殆ど祠の様で、遠目からはそれを確認することはできません。道路が脇を通っていますが隣接する墓地とともに植栽の垣根で覆われていることも判りにくい要因です。
目標はJAの建物。その西側の畑の植栽に覆われた区画が真如寺とその墓域となります(場所はこちら)。
真如寺は匂坂一統+αに特化した寺であることは言うまでもないというところ。
①南側入り口、槙の植え込みの入口に五輪塔2基がお迎えしてくれます②。
その背後の自然石の墓石の右側が延徳三年1491生、匂坂長能の墓。家康の駿府時代に岡崎城に入っていたといいます。
法名が「増参寺殿玉叟長全大禅定門」から匂坂家が当初は増参寺と関わっていたことがわかります。おそらく開山は彼だったのでしょう。
向って左の自然石が匂坂政佑の長男の信重夫妻の墓。
信重は例の匂坂一族の争いで刃傷沙汰を起こし(叔父の長政を殺したという)その咎を受けて帰農したといいます。
夫妻の法名(「祥雲院殿祖岳一宗居士」と妻で長政の娘の「華景貞春比丘尼」)にあと二人、次男の政重夫妻のもの(岩堀元樹氏)のよう。
所領を没収された匂坂家ですが、ある程度の田畑と財力は確保されていたようで、領主の高木久助のコネもあって藤左エ門という人が所有していた「大雄山真如寺」という号を買い取ったとのことなどが祠の中に記されていました。こちらの寺には高木家も檀信徒として入っているようです。 

 

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2017年

10月

18日

マルタの無茶苦茶事件と甲子園のおもろい人

昨日も朝からの降雨と12月初旬の気温。

天気図を見れば太平洋上には台風。

何と予報進路図はこっちに向かっているではありませんか・・・

ここへ来てのそれはやはり「やっきり」(静岡弁)させられますね。18日午前中は久々にお天道様が顔を出しそうとのことで母親でも誘って投票に行ってこようか・・・と思っています。

 

私が昨日のニュースで思ったことは本当の事でも相手を葬り去るような事実を表に出すと・・・「秘密裏に葬られる(暗殺)」ということ。恐ろしやぁ・・・

中国や北の親方の国ではそれは当たり前の事であって外からの文句などつけようがありません。しかし結構「西側」とかつて呼ばれた自由と民主主義を標榜し資本主義を旨とする国でも絶対にありうることだろうとは思っていましたが、ありますね。

昨日イタリア発のニュースにて昔見た映画「ゴッドファーザー」を彷彿とさせる事件が報じられていました。

 

記事は

「世界の富豪や権力者が租税回避地を利用している実態を暴露したパナマ文書報道に参加したジャーナリストが16日、自宅のある地中海のマルタで自動車爆弾により殺害された」

というもの。

「不正義」をただすことは道徳感も含み、人として重大な方向性ですが、やはり人は「私の不正」を指摘されるのは「やっきり」させられるもの。

そこでの発想が「消してしまえ」・・・リセット。

 

背後に政治家等有力者の影もちらほらしているようですが、当局はアメリカのFBIへ捜査協力を依頼しているとのこと。

まるで映画、人が亡くなっているだけに不謹慎ではありますが驚かすような展開を期待します。まぁハリウッド世界ではこういうネタを待っていますので。

アレは政治マフィアの仕業か・・・色々出てきそう。

 

旧東西陣営のお偉いさんたちの隠し資産の集積所へのメスが入ったのでしたがそれを深く手掛けると・・・「始末される」では世界的不正義の蔓延を推測します。そもそも「タックスヘブン」など持たざる者を排除する思想ですのでいかがわしいものですね。

ヤバい話に口を挟まず目をつぶって見なかった聞かなかったことをヨシとする考え方は封建時代の日光東照宮の「見ざる聞かざる言わざる」の如く。

本当の事、真実を申す者を消し去るという前近代的暴挙が依然としてまかり通る現実に唖然としたのでした。

 

身近なところでは本邦総理の不正の件がありますが、もはや陳腐化してしまったのでしょうか。

当人と周囲は幕引きを狙っているのでしょうがいわゆる「各周辺状況」は限りなくクロに近いグレーを思いますからね。

 

世間揶揄の「緑の狸」の女性はあの墓穴(サラサラ拒絶)によって形無しになった感。

「増長するとああなる」という範は私のような歴史的事案の考察をもってリンクさせてしまう者としてはいかにも「イイ例」でした。東京ではボロボロになるまで負けそうといいますからね。ただし増長して我が物顔の瓦解ほどニヤリとするものはありません。政治に必要なものはやはり利他と謙虚さと思いますが違いますかね。

 

都議選応援の際の秋葉の首相の一言といい、知事のあの言からの「世間の風の一変」はスゴイの一言でした。

また民衆はある意味賢さを見せますが、流行と操作に載せられ易い「衆愚」であることは歴史が教えています。

 

昨日は実は横浜在住「奥の細道」氏とラインで実況コメントをしていました。

セリーグ終盤ファーストステージで2位阪神✖3位横浜で勝った方が1位広島とのステージに勝ち上がるというものです。

世の中の流れとしては「ドッちらけ」を思わすところはテレビでの地上波放送が無いということですね。

 

しかし私どもは一応は横浜に居たということもあって(ヤクルトは飲んでいますがもはやスワローズへの指向は消え失せています)、広島も応援しつつも、どうしても横浜贔屓の気持ちは残っています。

まして夫婦で世話になった「NHKニッパツ」は横浜スタジアムのレフト側外野フェンスの広告主であり、スタジアム中継でしたらまず目に触れる場所ですから。

 

ちなみにニッパツ(日本発条)は日産系主体に懸架バネと自動車シートを作っていますが(精密製品のTDKとの関わりも著名)昨日記した世界的EVの流れに対して危惧することはない会社です。両主力製品とも自動車そのものに不可欠ですからね。

ニッパツに居た時の横浜ファンのそれぞれの皆さんの喜んでいる顔が浮かびました。

タイガースも嫌いではありませんが、微妙に嬉しかったのはそのせいです。

 

画像は選挙ニュースに辟易としてチャンネル変更したNHKのBS野球番組。こちらに変えたら変えたでバックネット裏にてパフォーマンスなのかやたらと目立つ「掛布おじさん」に家庭内で無茶苦茶盛り上がって野球どころではあらず逐一横浜、細道氏と交信していました。

当人も目立ちたがり屋さんのようで、手を振ったりストロボをたいたりテレビでの映像では私の見た限り3回ほど警備員が降りて注意していました。

局としてはできるだけ「映したくない」という気持ちが伝わってきましたが何せバッターボックスの後ろに鎮座されていましたからね。

 

野球どころでない爆笑ウキウキの私どもは「いつ摘み出されるのか」を期待していましたがそれは何とかセーフでした。

しかしこんな無茶苦茶画像を勢いでアップしたら怒られるかな?

関西系では有名な方なのでしょうかねぇ・・・

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2017年

10月

17日

その昔の匂坂家菩提寺は増参寺 阿弥陀堂礎石

先般のお取越しでの雑談。

ガソリンスタンドを経営されている方が、仰いました。

「2030年まで生きちゃあいない」と。要は「知ったこっちゃあない、勝手にしやがれ」の捨て台詞風です。

世のEV(電気自動車)の流れですが、フランスあたりでは全ガソリン車、ジーゼル車の販売を2040年までに終了させると発表していましたが、中国ではそれをグッと早めて「2030年」と。

ちなみにスゥエーデンのボルボは2019年~電気化を開始するとまで。

 

産油国も石油元売り各社もそれに備えて対応を試行しているようですが、「末端は廃業するのみ」と。

それだけではありません、拙寺檀家さんには自動車産業を支えている各パーツ類の製造に関わる方々がいらっしゃいますが、電気自動車になるとボディーの中はまるでウニの中身の様に空っぽになるそうですね。使用パーツが1/3になるといいます。

 

ということは分業の広がった自動車産業従事者の半数以上に「退場」が待っているということでしょうか。

別の方向ですが既に始まっているのはカメラとモニターのシステムによってバックミラーとサイドミラーを廃止するというものです。

流れに乗るか乗らぬかそれとも投げるか、人間世界の営みにはどちらかで岐路の提示を試されます。

 

さて、匂坂城の推定地は磐田市立岩田小学校(磐田市匂坂中)あたりで、例の石碑について何度か記していますが、では匂坂家の菩提寺は?・・・というのが次の疑問ですね。

こちらの南、加茂の平野氏館のスグ北側には菩提寺の大円寺がありました通り、城館の直近に菩提寺が「ある」というのが通常。まぁ、そういう場合、菩提寺は城館から見て丑寅(北東)の方角を中心に考えます。それってちょっとした常識ですね。

 

そこであの城の石碑の直近で北~東方向の寺を探せば・・・大きな本堂が目に入りました。

それが増参寺です(場所はこちら)。セオリー通りいたってわかりやすい!!

しかし墓域には古そうな匂坂一統の墓石はありません。

本家は元禄十年(1697)に亡くなった匂坂家十八代目の善兵衛勝重(ちなみに社山城を降りて匂坂城を築城した匂坂重能が八代目)が増参寺を離団したといいます。

 

寺標のウラには匂坂さんの文字が見えますが、本家は400年近く前に移っていたようでした。

 

門前には六地蔵覆堂と遠州伝承の一つらしき「天竜川石投げの力比べの石」が置かれていました。

お寺のご本尊は釈迦如来、こちらの石はどちらかの阿弥陀堂の礎石だったようです。 

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2017年

10月

16日

盗品偽物(ぎぶつ)蔓延のオークション 真贋不詳 

梅雨時よりもクセの悪い雨続きの感。

天気予報もこの先一週間は晴れ間なし。

すでに私は就寝時には首にタオルを巻いて朝方の冷えに対応していますが油断できませんね。

つくづく感じますが、寒風の中墓場や山の中を歩いていて風邪などはひいたことがありませんが、夏であっても人混みの中を歩けばカンタンに罹患します。

いかに街中、人中が不健康な環境にあるかがわかります。

未だ墓場は不気味と仰る声が聞こえてきますが、生きている人の中ほど怖い場所はありません。

 

「この齢になると風邪をひいたら即死ぬ」と瀬戸内寂聴氏が仰っていましたが、まさにその通り、あの感染症は若い人の体の中で培養されたヤツはより強靭化しているでしょうからね。

まぁ抵抗力というものが加齢によって落ち込むのは当然の事。

以前は2週間もあれば完治したものが、風邪とは別に、肺炎を併発しますからね。喘息の気があったりしたら酷い苦しみを伴います。

ちなみに肺炎でも風邪とは関係なく誤嚥性肺炎が年配者の死亡事案にあがるようになりましたがこの予防はどちらかでも記しましたが「カプサイシン」(唐辛子)で嚥下反射を良くすることができるといいますね。案外年配者ご一同「ワシは好かん」という声が聞こえてきますが、アルツハイマー予防も兼ねて「辛めのカレーライス」ほどいいものはないのですがね。

 

昨日の法事で伺ったのですが、20年ほど前にウコンの栽培が農家で流行ったそうで知らぬ間に廃れて「やめちゃった」と。

温暖な気候につきウコンは育てやすいそうですね。

今はその名残でやたらと蔓延って「そこら中に生えている」とのこと。ほったらかしでもどんどん増えるとも。

何がどう流行るかわかりませんので、「もう一旗あげよう」と言って別れました。

 

その際は「二日酔い」解消にイイということでの栽培だったのでしょうが、薬事法に引っかかりますのでなんとなく「アルツハイマーにいいかも・・・」的サプリメントとして「お寺から売り出す」と申せば、皆さん案の定呆れていました。

 

さて、面白いオークションがあると友人から連絡がありました。

檄文で差出し人は本願寺の「顕如」さん。受け手が「鈴木源右衛門尉」という人でした。

内容は、「信長侵攻の危機迫る状況(羽檄-急ぎの檄-)、本願寺のために兵卒を率いて(石山本願寺に)登山(とうざん)して欲しい」というものでした。

特に、顕如さんがこの檄文に添えたのか、別の言上の使いの者(「別使」)に持たせたか「備前清光之太刀」の名があります。

こちらは勿論「長船」ですね。

当家にある一番の太刀が「長船清光」ですので、偶然とはいえこの軸に大いに興味がいきました。

 

そこで古文書に詳しい叔父と数日間検討した結果・・・

やはり「手出し無用」というところで収拾。

私たちは結論として偽物という判断をしたワケですが(ホンモノの可能性も十分あります)理由は

①鈴木源右衛門なる人物について、一見紀伊門徒風の名で、雑賀党の鈴木孫一を連想する名ではありますがイマイチ、ピンとこない。

②拙寺には顕如さんの署名のものが二つありますが、その二つには「釋」付で法名になっていますが出品物は「顕如」だけ(坊さんですからね・・・法名に「釋」は忘れない筈 ただし「釋」無し例の有無について未調査)。

③署名の「如」の書き方が違う。私どもに残るものは「如」は小さ目で「顕」の下に「お印程度」なのに対して、出品物は「如」が存在感を主張しています。

④花押も少々違いますね。

まぁ祐筆がサインまですることはあるにしろ、疑問が残ることは違いないところ。

 

最終的に叔父と決論にいたった理由は、ホンモノだとすれば「この手のモノはだいたい両本願寺内研究員のお歴々が放っておくワケがない」こととそもそも提示されているような金額で売買される筈はないだろうということ。

 

ホンモノだったらごめんなさい。

私どもの目が甘かったということ。

それにしても抜群にワクワクするような中身で偽物だとしたらコレを記した人は相当のプロ。

当初は遊び心だったのでしょうが、人の手に渡ると・・・。

まぁ「わかりません」ということで・・・。

 

以下叔父による読み下し文。

 

羽檄染毫候今般

織田勢向当山

危難在爰一宗之

存亡難斗貴将

有登山希軍配

委曲別使可伸

備前清光之太刀

令進之畢

    顕如

八月七日

鈴木源右衛門尉殿

 

①②とも拙寺初代今井権七(郎)釋浄了が顕如さんからからいただいたもの。①阿弥陀如来軸の裏書②は御文の添え。

③④がオークションの品物。

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2017年

10月

15日

現在の「おこん所」地蔵のある場所が平野館跡

昨日の法事のお斉に同席された方に当地で400年以上も続く豪農の御当主夫妻がいらっしゃいました。

御説は茶の盛況衰微の循環は60年周忌なので、これからは最悪期を脱して必ずや再び繁盛の時代が来るとの談。

また先般、この地区お茶の刈り入れの件を記しましたがアレは3番茶ではなく4番茶だろうとのこと。

 

私のそれまで聞いていたところでは3番以降の茶は無価値に近く、刈り入れの労力だけ無駄であるというものですが、どうやら茶葉の価格下落は止まって収穫が割に合うようになったからだと。

思うに跡継ぎサラリーマン化による継承者不在につき廃業農家が溢れて需給のバランスが均衡してきたことによるものだと思いますが・・・。いずれにせよ牧之原台地の南端は日照も安定し良好な植生が期待できる場所ですから地道にイイ茶葉を育てていれば復活のチャンスはあるように思えます。

その方はもはや引退していますが地形を見ただけでどのくらいの茶葉ができるか見分けられるとのこと。

ポイントとしては「陽当たり」も肝心ながら「風が流れやすい地形」とのこと。

 

降霜と氷結が製品の質を左右することから、風は茶農場に不可欠とのこと。

現在の茶畑についてはすべて貸し出しているとのことですが、収入はゼロだとのこと。

その際昔の田圃でいう比較をされていましたが、地主と小作の関係でいえば一町歩の田で30俵は確実だったと。ちなみにその一町歩で「60俵いくかいかないか」の収穫量といいますから小作農の過酷さがわかるような気がします。

 

疑問点としてはあのマッカーサーの農地改革をどうやって過ごしたかですね。山間部の土地所有が多かったのでしょうか。

拙寺も多くの先祖伝来の土地があったようですが、農地改革と祖父の代の売却によって殆ど無くなってイベント等開催時は駐車場の手配に走らなくてはいけなくなってしまいました。

 

さて、昨日記した「おこん所」。娘の名としてはちょっと首を傾げたくなるのが「所」ですね。それが無ければ「おこん」さんでスンナリなのですが。それでしたら本名は「こん」さんなのでしょうが、あくまでも地元では「おこん所」。

 

「所」の読みは「じょ」でしょうが~私は当初は「おこん」さんが住まわれていた屋敷を指すかと思っていました~きっと元は「女」だったと思います。

おそらく後世になって伝承が活字になったあたりに混同があって「所」に変化したのではないかと勝手に考えた次第です。

 

平野家菩提寺の大円寺南側にまさに一町歩程度の四角形の空き地があります。

100✖100の典型的国人領主の館を想像しますが、そちらが平野館推定地となります(場所はこちら)。

その区画南西片隅、道路際に祠が建っていますが、そちらに「おこん所」を祀った地蔵があります。大正十四年に平野家末のどなたかが建てたそう。

 

以前は区画の奥にあったようですが、整理されてこちらに移動しているようです。

地元ではいまだ「おこん」姉さんの伝承が残っていて、「女子」でいろいろ(家庭内、学校等)悩みがあった場合など「おこんさんにお参りしたか・・・」が合言葉になっていると聞きました。

 

祠の隅で見かけた石はかつてあった建物の礎石でしょうか。

こちらの地名は「豊田」といいますが東名高速スマートインター「遠州豊田」として名が通っています。

①画像段丘上に「ららぽーと」の塔が見えます。

 

昨日ニュースで安堵したのは、箱根駅伝予選会にて中央大学が通過したこと。

拙寺檀家さんで昨年末に亡くなった「姉さん」、伊藤敏子さんは中央大陸上部卒でした。

箱根の頃には大手町のゴールにすっ飛んでいくほどの箱根筋金入りの応援団で昨年の箱根落選にはさぞかし悔しい思いをしたことでしょう。

とにかく中央大の復活に「伊藤さん、よかったね!」と墓地に報告に行こうと思います。

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2017年

10月

14日

後の時代劇採用の元ネタ逸話はコレ 「おこん所」 

新聞紙上を賑わしている「不正」の文字。

みんなが大好き「正義」の正反対がその語ですが、まぁ当家にはご先祖にそれを名のる「正義さん」がいますので(ちなみに私の祖父の名は「匡」で「ただし」)、一応は生き方として「正」の字について意識はしていました。

 

しかし最近になってはこの「正」ほどイイ加減な語はないと思いつつあります。

小学校入学同時に覚える字で簡単かつ親しみ深く小さいころから「そうあるべき」生き方を表わしてもいました。道徳の授業はそれが基本でしたしね。

 

ところがだんだん齢を重ねていくと、自分なりの勝手な「正」が醸成し、そしてまた育まれてきた「正義」などはカンタンにかなぐり捨ててその人の一番に信じることに奔走するようになります。その信心とは「カネ」。

昔の人は「一所に懸命」に生きたものですが、最近では「一生をカネに懸命に」生きることこそが一義と変化しています。

要は「正」に非ずことであっても「自分(たち)が正しいと思えば正しい」・・・これは馬の肉を鹿の肉と言わせる逸話と同等の「バカ」の一例。

 

今「不正」の文字は「神戸製鋼所」という日本でも有数な一流企業に浴びせられている語です。「商工中金」などもまたぞろ不正をやらかしていたとのこと。

ホントのところ会社ぐるみの不正とはいいますが、内部ではみなさん外部に漏洩させないことを含めてそれこそが「正義」とされていたことでしょう。

 

バレちゃったからには何とかしなくちゃあね・・・。

「神戸」さんは各ハイテク産業での需要があるようですが、発覚後の「安全に問題ない」という即答に根拠があるのでしょうかねぇ。

消費者を黙らせられればヨシなのでしょうが、海外の安全基準は厳しいですよ。会社にリコール弁済の耐力はありそうですが先のエアバックの件で潰れた会社もありましたから。

 

何が正義で何が不正義かわからない時代となっています。

技術大国として信用をウリにしていた日本もいよいよ不信が蔓延しているようでなりません。「不正は不信」です。日本離れは世界の潮流になりつつあります。

 

さて、先日は映画の「関ケ原」について少々触れましたが家康の陣場、桃配山でのフィクションについて。

時代劇進行上、どうしても欠かす事のできないのは「忍び」。

彼らの呼び名は色々ありますが、その「語り」によってお話を進めていくやり方は時代劇の常套です。

 

この映画でのそれは伊賀忍者にスポット(よってその辺りすべて架空)が当てられていましたが、実際に家康が戦に連れ歩いていた阿茶局?・・・と錯覚させられる(ストーリー中「阿茶」の名を賜る)忍者の女(劇中「蛇白」の名)が居ました。

彼女は家康を殺そうと裏切って斬り込んだ忍者を抑え込み、自らと暗殺者を一緒に刺し貫くよう家康を促しました。

結局その「蛇白改め阿茶」は暗殺者の忍者とともに絶命しますが家康は事なきを得たという設定でした。

 

この手のストーリーはよくありますね。

「自らが犠牲となって他者を助ける」という気概ですが、この生き方は古来より日本人の心に親しんできた仏教思想ベースの考え方に他ならないと思います。

今はといえば・・・言うだけ野暮。

「私が私が・・・と他を引きずり落としてまで(カネと名誉のために)生きよう」とすることが主です。

 

昨日まで2日間平野三郎右衛門重定の英雄譚を記しましたが、彼のその地元の雄としての名に華を添えたエビソードが伝わっています。

それは昨日ブログても触れましたが、武田方「川合助九郎直澄」との一戦です。

 

平野重定夫妻の墓域には隣接して彼の妹の「おこん所」の供養塔が立っています。①の石柱にもその名がうっすらと読み取ることができますね。

その「おこん所」さんの供養塔には銅板の「おこん所略伝」が設置されていますがその内容をざっと記せば・・・

 

天正元年12月31日の夜に加茂の砦に甲州勢の一部が奇襲したこと。敵将川井直澄は城中侵入したものの劣勢。重定の槍術の反抗にあって身が危うくなった際、重定の妹の「おこん所」を捕らえて盾にしたそう。

十八歳の「おこん所」は躊躇する兄に向って「我と共に討ち給え」と・・・

ということで2人ともども槍で貫かれ、おかげで武田勢排除と家康への面目が立ったということですね。

 

「おこん所」の隠れた悲話があったからこそ重定は地元ヒーローになり得たと言ってもいいのかも。

尚こちら大円寺には「白蛇弁財天」がありますが、この「白蛇」といい、関ケ原の「蛇白」のフィクション、そして若き娘の献身はこちらにヒントを得たのかも・・・と思った次第です。 

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2017年

10月

13日

加茂大円寺 平野一統の墓 名乗りは三郎右衛門

ここのところのお天道様の勢いはまるで夏。

施設から母を連れ出して近くのショッピングセンター(というかスーパーマーケット)へ向かいましたが帰りの上り坂の車椅子は結構に体力消耗を体感

しかし途中コスモスが咲き乱れる中に、涼し気な風が吹きますがそれには心地よさがありました。

 

天気予報を見ればこの一週間は雨の連続の様。

いよいよ気温低下も進んで秋も深まっていくことでしょう。

とりあえずは報恩講前までに境内の南国系植栽の鉢の退避です。

このところ冬場だけの拵え、私のインチキ温室製作の前に鉢をキレイに洗って、庫裏2階の拙寺一番の陽当たり絶妙の場所に移動しなくてはなりません。2階にあげない寒冷耐力のあるものたちはその温室で冬を越してもらうことになります。

現在はアブラムシ等の駆除のため、薬剤を使用しながらそのタイミングを図っていますが、どうやら11月に入る前あたりになりそうです。

 

さて、昨日は賀茂神社について記しましたが、そういえば磐田加茂の近く、段丘下部にもその神社はありました。

御前崎比木のそれについてもかつてブログにて触れましたが、この賀茂神社の所領(荘園)は遠州各掘り出してみればトータルでもかなりの広さであったことが推測されます。

残存する地名としての「かも」の多さを考えるとどれだけ裕福な神社だったかがわかります。

 

室町期に勃発した応仁文明の乱なども強大寺社の利権関係がその代理人たる武将たちも含めた騒乱に繋がったといっても過言ではないと思います。土地争いが戦乱の歴史(荘園の崩壊)ですね。よってやはりアレ、「一生懸命」ではなくて「一所懸命」と記すのが賢明でしょうね。相変わらず私はそれだけはこだわっています。

 

その「平野氏」についてさすがにこの相良あたりまでその名が聞こえるとは言えませんが、地元にとっては「特別なヒーロー」だったのではないでしょうか。

昨日の顕彰碑の通り「寺谷用水」の整備は地元に多大な恩恵をもたらしたことは優に推測できます。

何せその用水路の規模は大きく、最終的には24㎞にまで拡大していますのでたくさんの村々の開墾が進んだことでしょう。

そのきっかけとなったのが平野家の主、「平野三郎右衛門重定」でした。

 

昨日ブログで既報ですが彼は美濃出身でこちらの加茂に土着したのちに当初の今川から徳川の配下に入りますが、肝心の用水路開拓は運河や堰など土木系のプロの「伊奈備前守忠次」のもとの働きだったといいますので、伊奈忠次との出会いとその存在は大きかったでしょう。

平野重定は当初の3年間で12㎞を掘り進んだといいます。

 

彼の名はその地元を穀倉地帯に仕上げた力量についてはやされることが多いですが天正二年(1574)武田勝頼による遠州襲来(第二次高天神戦)に呼応した武田勢の「川合助九郎直澄」なる将との迎撃戦で奮闘し傷を負ったといいます。

 

平野家の墓域は大円寺本堂脇に集合していますがやはり平野重定の墓石は特別の様。門の左側③の区画一段高い場所にあります。「寶月浄珍居士」が重定の法名。並んで「相室妙圓大姉」が彼の奥さん。⑨の卍紋までが上記区画。

 

彼の子平野重政の名のりも三郎右衛門⑩⑪。家康に仕えて頼宣―秀忠と主を変えています。「超山浄越居士」が重政の法名。

 

最期の画像はオマケ。

当然に眼がいきますし点になるほど凝視してしまいました。

真面目に復元工作している姿はわかりますが・・・

宝篋印塔の隅飾が見えますがあたかも相輪に準えたと思われる石材は一石五輪塔の風化の進んだもの。よく見れば接合部はモルタルでした。まぁレゴ風パーツ重ねはどこでもやっていることですし、堅い事は言いません。

ただ私なら・・・あの墓地の中で一番の古さを誇っている?と思われる石塔ですし、思わず「かわいい」と思えるくらいのサイズ。

透明ケースに入れて本堂に鎮座していただきたくなります。

 

尚、平野氏末裔本流はこの地元にはいらっしゃらないようです。

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2017年

10月

12日

磐田の加茂十三重塔 平野家も今川→徳川で代官職

世の中には道徳もへったくりもないまともではない人がいますが、「ムカついたから」の理由で高速道路を追いかけまわされて挙句死に至らしめられるなど、いやはやバカバカしいことですしたまったものではありませんね。

 

現場に関して、私もよく通過する場所でだいたいの想像がつきます。

気持ちとしては東京から1時間弱、それまでの混雑気味の厚木インターまでを過ぎて「さぁ、ぶっ飛ばして帰るぞ」と調子に乗ってくる場所ですね。その先の下り二流分岐直前の場所で右側コースが癖になっている人は追い越し車線をキープするはずです。

私は中井のSAは余程の事がない限り立ち寄りませんが事の発端はそちらで起こったようですね。

 

「注意されて激昂」して人を殺人に近いカタチで死に至らしめたのですから大人として責任はとっていただかなくては・・・。

しかし、他者に向かって「一言申すこと」がこれほどリスキーなことに直結するのでしたら「君子危うきに近寄らず」(無視して関わらない)が正解なのでしょうか。嫌な時代です。

昔は「知らざあ 言って聞かせやしょう・・・」てなことになれば一応は年長者の言には耳を貸すものですがねぇ。

今一度「承認対話共存共栄助け合い」の精神を。

 

いちいち言うのもおこがましいが・・・。

まともじゃないこと、己本位のことばかり。

世間の幅を利かせてます。

くだらん言葉を流行らせた、トランプ殿もアホですが、

それを物真似、使ってみたり、そのものズバリ「モリとカケ」、

日本全国「自分ファースト」 バカバカしくて仕方なし。

 

さて先日は岡崎の笠原を記しました。

あの時は姓について少々記しましたが地名としては荘園の名「笠原荘」からですね。牧之原の「牧」と同様、主に馬を飼育して中央に供給する地だったようです。

そして浅羽は茶の供給地でもあったそうで、そうなると県下茶の生産地としてありますが、こちらの茶は歴史的に見てもかなり古いということが言えましょう。

 

しかしまぁ中央の有力貴族、皇族、大寺社の「所有権」がこの辺境の地にまで及んでいたことは驚きです。まぁそのことから代理人として派遣された者もしくは在地領主たちが、今でいう「自分ファースト」「われこそが」の精神が芽生えて、「歴史」を構成していったことがわかります。

あらためて歴史とは「自分本位」という人間の性が交錯しているものと考えます。

 

それらとは別に遠州には「加茂」なる地名を見る事ができます静岡県では伊豆の「賀茂郡」を思いおこしますがそれは全国的に見られる郡名でもあります・・・)。

 

御前崎の比木には賀茂神社がありますし、菊川や磐田にも「加茂」の地名がありますね。

これは中央(京都)の神社実力者の系統が「所有権」(荘園)を主張してそう呼ばせたことが発祥と思われます。

 

上記「笠原荘」の所有者の変遷があったようですが鎌倉時代には「賀茂斎院」の名が出ているとのこと。

 

本日は磐田の「加茂」。場所としては匂坂城の南、一言坂との中間地点、天竜川東岸河岸段丘の下方になります。

昨日は代官職を世襲した秋鹿(あいか)氏を記しましたがこの地の代官職は平野氏。

この平野氏は美濃国安八郡平野荘にあったといわれていますが

移住した理由が「織田と斎藤による戦乱」を嫌ったとのこと。

当地では今川義元に従って義元が滅したあとは家康という流れは秋鹿と同様です。

 

加茂東交差点脇にごく新しい十三重塔が建っています(場所は

こちらまたはこちら)。

これは天竜川の治水と農地開発(・・・「寺谷用水」)のために天正時代から明治大正にいたるまで尽力した人々を顕彰するものですが、その天正期の「治水」活動のさきがけとなったのが平野家でした。

塔と道路の間に水路がありました。

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2017年

10月

11日

こちらはさすがに・・・手が出ないか 秋鹿氏墓域

昨日の相良は夏日。

なんやかやでちょいと境内で動けば汗がにじみます。

イラっとさせられるのは蚊のあの羽音とあとからやってくる痒み。盛夏のころは蚊の活動も沈静していますが、あ奴らも人間同様、心地よい季節にいよいよ活発となります。

消費しきっていた蚊取り線香を慌てて買いに走りました。

 

それにしてもサッカーの親善試合、ハイチ戦はお寒い結果でした。若い衆主体の構成でしたが、アレでは監督の配慮も台無し。

みんな「私が主役」の意気込みで点を取りに行く姿はイイのですが、相手ゴール真ん前での勝負を急ぎすぎ。

何故にして外を使わないの?とあまりにもワンパターンの攻撃に歯がゆさを感じました。失礼な物言い、お許しください。

この二試合のお相手での日本の総得点は5~8点は固いのでは・・・と思ったのが普通ですね(しかし現実はハイチ戦3-3 ニュージーランド戦2-1)。

欧州予選ではオランダの敗退が確定しているといいます。今の日本のお粗末な姿ではW杯で目の肥えた観客を唸らす事はできませんね。

そういう意味では評価としては「ボロボロ」、入場料を払って観戦した方にお気の毒を感じました。まぁ選手御親類とお友達関係でしょうが。

 

ボロボロといえば「どうすんの?」と思わせる墓がありますので記します。

こちらは昨日と同様磐田泉蔵寺。

大石・渥美の墓があるのは一般の墓域の中ですが、こちら墓碑群は本堂の真裏になります。

以前訪れた時とは変わりはありませんでしたが、やはり一見したところは「相当危うい」を感じました。

 

要は風化崩壊が進んでいるということです。

「形あるものはいつかは滅ぶ」はこの世のならいでもありますから、こちらもしょうがないといったらしょうがないこと。

ただし文化財という観点からの保存を鑑みるに、これでいいのかな?という疑問は残ります。

 

墓石の主はこの地区では古くから名のある「秋鹿」(あいか)氏です。

墓石は五輪塔形でズッシリ感はなく背が高くて逆に不安定な感じを醸し出しています。これは上部、風輪・空輪がやたらとデカイこと。他に火輪の隅が立気味で宝篋印塔のそれを感じます。

要は江戸初期の大名墓(遠州では大須賀大沢)を踏襲しているような感じがしないでもありません。

 

同時期製作にもかかわらず風化崩壊に差異があるのは当時の石材選択の誤りでしょうね。

当然にコストの違いが質の違いになるのでしょうが、鉄分含有が多いと後世になっての酸性雨も相まって赤化して崩落したり、密度が甘いとカビ等が内部にまで蔓延って水分が入り、早々に砂に帰すことになります。

 

新旧数基の同様の墓が立っていますが、「地震が来たらどうしよう」と思わずにいられないような危険を感じます。

手前から3つ目で一番崩壊が進んでいる石塔が秋鹿朝正の墓といいます。「朝」は秋鹿家の通字です。

元々は出雲国の宍道湖と日本海に挟まれた「秋鹿郡」という地から発して、鎌倉期に主家を源家として名をなし、足利尊氏時代になって地頭として遠州に入っているようです。

 

秋鹿朝正は兄に朝忠という人が居ましたが父直朝が亡くなったあとスグに兄も亡くなったために家督を相続しています。

若いころは兄がいたため一旦母方の家に養子に出ていますが先方で子供が生まれたために家に戻っています。

徳川秀忠に仕えて1600年の関ケ原の別働、信州上田城攻めに参加しているといいます。

 

出雲出身の武家、名家らしく神職も兼ねて代々代官職を継承されていたようです。

法名「俊光院殿雄嶽仙英大居士」の名のりがあるからには葬儀は仏式なのでしょうね。

まぁロクにしらべてもいませんのでよくわかりません。

①画像は昨日の拙寺境内。あとは泉蔵寺。

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2017年

10月

10日

キレイになっていた大石家渥美源五郎墓 泉蔵寺

宗旨は違いますが、瀬戸内寂聴氏はすばらしい。

昨晩のNHKニュースの特集で久し振りに元気な声を聴いて安心しました。

ユーモア交えてのお話は頭脳明晰、笑顔も健在でした。

そして「楽しい事をする」の語。

当然といえば当然ですが、なかなかそれができない、続けられないのも実社会埋没のわが身です。

いや私に限ってはそのスタンスでやらせていただいていましたか・・・贅沢な事を云うものではありません。

 

氏は数えで96歳とのこと。その数字も凄いの一言。

「もう死んでもイイ」くらいのことを仰っていましたがああいう方こそガンガン長生きしていただきたいものです。何から何まで凄い人です。世にはつまらない生き方死に方・・・たくさんありますからね。

 

さて、ブログにて古い画像を調子づいてアップしていますが、その中には結構に変わっているものがありますね。

 

先日「大石・渥美」の墓碑を記しましたが、実は心配していました。よって先日磐田の三菱UFJ銀行に行ったついでにちょこっと寄ってみようと奥方を誘って目的の墓石に。

前回も奥方と一緒でしたがそういう場合は不愉快のようです。

まぁ一日中寺に居て、外に出ても寺に行くことにはクサクサしているような・・・

 

ちなみにその銀行は首都圏に居た時のものですが、こればっかりは不自由千万。ド田舎にてその名を探すのは苦労する銀行です。

このあたりでは一番近い場所が磐田そして静岡駅前に浜松ですから。余計な事ですが滋賀県には1か所、草津にしかありません。ビタ銭しか残っていませんが横浜銀行の口座もまだ残っていますのでまさに「どうすんだよぉ」という感じ。

 

あの墓石はかなり昔のものを画像アップはしたのですが、まさかひょっとしてどうにかなってはいないか・・・といった気持ちがありました。

すると、大石家、渥美源五郎の銘のあるあの墓碑は90度角度が変わって(正面がこれまでの西向きから南向き)そして竿(石塔本体)部分の傾斜も修正されてしっかりと据えられていました。

墓地東側敷地が一段低くなっていますのでもし落下したらバラバラになるという心配がありましたので固定に関してはひとまず安心しました。

まぁ磐田市の文化財の考え方が不明の中、人様が管理する墓碑にどうこうブログで記すというのもとんだお節介のような気もしないではありませんが・・・。

 

時間にもよりますがこれによってこれまでの文字の見え方が変わって西日の当たる右サイド部分に記された文字の判別が至極確認しやすくなりました。

左サイド側の右端⑥⑦、クラックが入って少々危うい部位に記されているのが渥美源五郎の法名「長盛院殿漏善叟無大禅定門」ですが、この肝心な場所が欠けて無くなることは口惜しいことです。明らかに崩壊が進んでいます。

墓石では「五」でなくて「吾」ですね。

その他の法名は大石家のものです。

 

私が惚れこんでいる墓石のため念入りにアップしました。

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2017年

10月

09日

匂坂城のどう考えても不思議 あの石碑のもとへ 

先日の市長候補者の短い挨拶の中、一番に重要である、彼らが推進したい思うことに照準を合わせてくる事は当然です。

ただしライバル候補と同じことオウム返ししてもイメージはマイナスですが。

要は他者と「どこがどう、そしてどれだけ違うか」をアピールするかにかかっているのです。

 

そして皆さんのお話のさわりは、どれもすばらしい。

しすし、私たちが思うアレについてはどちら様も一切触れずでした。

何やらアレだけは口をつぐんでいた方が適切・・・というコンセンシャスが一同共通にあるような気がしました。

それは「浜岡原発どうするの?」です。

庶民の声として「フクシマ」の悲惨の二の舞を想像しない人はいないでしょう。

 

それを発する事によってマイナスとなる、支援が受けられない・・等々の計算が働いているのだったらまったく興ざめです。

当然にその辺りはこれから大いに突っ込まれて避けては通れないような重要事項ですので数日中には明らかになってくるとは思いますが、まぁ雰囲気的には適当にお茶を濁していくような気がします。

 

さて先日いろいろ不思議な社山城を記しましたが、私の一番の不思議は、その城から出た匂坂六郎五郎長能が天文元年(1532)が築いたところまではわかりますがどう考えても「なぜにここにどうして・・・」と腑に落ちませんね。わざわざ社山から下りた平地ですから。

天竜川東の河岸段丘から見れば「底部」、背後は天竜川が流れていますので段丘から一気呵成に攻められたら「瞬殺」されそうに思う場所です。

 

駿府よりも浜松方面好きになりつつある今、あのあたりの通過頻度が多くなりましたが通行時はいつもその城の背景を色々考えてしまいます。

一説に匂坂の平時の館はその台地上にあったといわれますので、そうなるとこの城はいったい何?と思わざるを得ません。

まぁそういった疑問への優等生回答としては周囲深田にあった浮城と考えるのがスジですね。

 

元亀三年の三方ケ原の前夜武田の兵火によって落とされていますが、続けて信玄は穴山梅雪を置いていますので一応は城としての機能は評価していたということになりますね。

 「磐田郡史」によるその位置について「匂坂城址は岩田村匂坂中にあり」と記されているところがその根拠なのでしょう。

 

磐田市立岩田小学校(磐田市匂坂中)周辺が城址推定地となりますがまったく城としての遺構はありませんし、城址の「匂い」のしない場所ではあります。

例の石碑(こちらも)を再アップします。テカテカに磨かれた石碑で判読しにくいため両方向から撮影してみました(場所はこちら)。

下図は周辺航空図。天竜川の大きさがわかります。東側の緑色のラインが丘陵の縁になります。 

 

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2017年

10月

08日

三浦宗有一統埋葬地は岡崎沓掛原 右衛門坂

土曜の午後は世話人会がありました。

報恩講詳細告知のための寄合で、いわばこれも恒例行事の一環です。既報の通り市長選候補者御三名はじめ檀家さん市議2名の挨拶をいただきました。

寺でそのようなことになることは思ってもいませんでしたが私としては「たまにはいいや・・・」程度で、成り行きに任せました。総代さんたちが仕切って進行しましたが、肝心の報恩講の件で時間を気にしすぎて話しきれないところがあったのは本末が前後して私としては心残りな世話人会となってしまいました。

 

また祭典法被を着こんだまま出席された鬼女地区の世話人さんもいらっしゃいましたが少々気の毒に思って帰り際「ごめんなさい」と声をかけていました。

 

この連休は私の知っているところ、須々木・鬼女・池新田のお祭りです。池新田の世話人さんはそのため欠席の報せが入っていたほどですから。

私が「決の毒」と思ったのは鬼女行僧原の檀家さん一統(というのもすべて姓は「河原﨑」)は一部境界が牧之原市に出るお宅があるものの殆どが御前崎市民で今度の選挙の話はまったく関係ないことでしたから。

 

まぁ他の世話人さんたちにはいつもより時間をオーバーさせてしまいましたがその「顔見世」に快く耳を傾けていただき有難く思いました。

 

さて、昨日は三浦宗有の供養碑(宗有寺)の件を記しました。

寺そのものは事件のあとに入った横須賀康高がその死を憐れんで建てたもので、石碑も後付けになります。

そもそも三浦宗有が四ノ宮右近を頼って滞留した場所は四ノ宮屋敷があったといわれる宗有寺に近接した場所ではありません。

宗有寺や岡崎城の北側の小高い丘を沓掛原といいますが、そちらに花澤城から脱出した三浦宗有と合流したであろう三浦家一統の者たちが入った四ノ宮家手配の屋敷があったと思われます。

 

現在は人の手を拒んできた歴史を推測しうるような荒れた雑木に覆われていますが、かつては陽当たりのイイ長閑な場所であったことがわかります。

往々として街道筋の畑の中にこういった林や竹藪が残っている場合は何かの云われがあるものですね(場所はこちら)。

⑩画像でもおわかりの通り坂の北側は地区の墓苑となっています。その伝承があっての墓地新造改修の流れがあったのかも知れません(推測です)。

75人という数字がその小笠原の追捕にあって滅亡したといわれますが「父親(小原鎮実)の始末」13名とは断トツに掛け離れた数。これを「やりすぎ」と評されたのは言うまでもないこと。

尚、三浦の父小原もこの沓掛原で自害したという説もありますが、まぁ墓と小原屋敷なる伝承もあることですし、やはり父と子の最期は別々であったと思われます。

尚「沓掛」なる地名は街道筋でも宿場の中間地点の一休みの場、殊に高い場所。沓はクツで履物のことです。履物を脱いで掛けておく場所からと。

 

墓碑や案内板はこの坂道の南側にありますが、この一帯は遠州須恵器の代表的な窯があったとのこと。

⑧が西行き馬伏塚城方面⑨が東の高天神方面。

⑩航空図交差点南方向に行けば宗有寺、岡崎城へ。

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2017年

10月

07日

宗有寺の名は三浦宗有(右衛門義鎮) 四ノ宮右近屋敷址 

政治家の世界では「目立たず世間無名」よりも「多少の悪名であっても世に名が知られる」方が「ヨシ」とされるといいます。また最近では「ちょっとばかり度を越したCM」を製作して、ワザと炎上させ世間に周知させるという手法があるようですがそのような「奇をてらう」奇策が結果的に成功すれば、暴挙ともいえるような周囲ドン引きの手法も歴史の中では「有能勇壮」などと囃されたりします。まぁうまくいった場合のみですが・・・

 

大抵の場合は当初はたとえ成功譚として評価されたとしても、最終的に地位禅譲がなされず争いが起こりあるいは非業の死を遂げたりすれば世間様は一転「それみたことか」風の後ろ指をしながら「仏罰」を囃すことになりますね。

そういう意味では私たち真宗門徒のご先祖たちは信長の本能寺の評価は、大いに「仏罰」を思ったことでしょう。

そのような因果応報の論理、種を撒けば必ず自分で刈り取る(善因善果・悪因悪果)という考え方は未来を担う子供達に向かって示唆していくべきものと思っています。

すべて「わたしの言動・はたらき」がわたしに作用するという思考は頭に入れておくべきスタンスです。

 

そのあたりの考え方は古くから日本の文化と人の心の中に潜在的に強く伝わっていますので、為政者による暴徒への処断は往々にして「因果」理論を中心に「やったらやられる」報復代行に近いカタチで処されてきました。罰を仏に代わって処断するということ。

このカタチは今のお国のそれ、死刑制度に引き継がれているのですが、まぁいつも記させていただいていますがこの件はいかにも「前近代的」です。

たまたま公然のショー的見せしめの効果はないものの、その存在が厳然と「ある」ということでの犯罪抑止効果を狙っていることはわかります。しかし、実際にはその効果はゼロに近いといいますからね。そもそも仏はそんな事(人が人を殺す)をしろとは言っていません。

 

よって死刑とは為政者のパフォーマンス程度のことと考えられます。まず犠牲者遺族感情を斟酌した処刑代行という立場もその後からついてくるにすぎませんね。

 

どういう理由にしろその死刑の執行権を維持する理由の根拠はかなり古い考え方であって、そこのところだけを考えればお国の思考はカチカチであり、政治屋諸兄の憧れの語とも思われる「賢明」「紳士的」「先進国のお仲間入り」などとは甚だ言い得ぬ事と思うばかりなのです。今や「死刑システム」があるだけで「野蛮な国民」「後進国」と断じられる嫌いがありますね。

 

さて、昨日の小原鎮実の処断とは要は人質の死刑の執行人としての立場でした。それは世間体としては惨い事との評価はくだりましょうが、ある意味人質たちには覚悟というものがあったでしょうね。「人質」の性質上その件は切っても切れないという事情がありますから。

ただしその鎮実の悪名を大いに三遠駿に轟かせたのが「十三人婦女子」の「串刺し」事件でした。

 

その行為は被害者の徳川方三河の家臣団の恨みと仕返しを将来に約する団結力となったわけですが、利を得たのは当然にトップの家康でしたし、今川氏真からすれば忌避したい立ち回りによく働いたという評価が鎮実に向かいます。

鎮実もまた今川家重臣としての地位と責任があったワケでそれはあの流れの中でよく今川家につき従ったという武士としての一途さは、今川家の盛り返しがあったとしたらすばらしきヒーローとして承認されていたくらいの立場の筈ですね。

 

実際の今川家は衰退の一途、崖を崩れ落ちていくよう歴史から姿を消していくのですが、やはりその流れの過程での抗いは空しいというのも歴史上証明していることです。

 

そのヒーローになり損ねた小原鎮実には子たちがあって、越後に落ちた本来なら家督を継ぐべき実子?とは別に同じく今川家臣団の三浦氏に養子に入った三浦宗有(右衛門義鎮)がいました。

この人の評価はその父親の小原鎮実よりもさらに悪いものがありました。

例によって藤田鶴南氏の言を借りれば

「氏真の暗愚に乗じて今川の旧領を恣ままに処理して我欲を満した」

とありますのでかなりのワルのイメージが匂います。

 

花澤城脱出時はおそらく小原親子一統ともどもであったことは間違いないところですが、「この際一統分散が勝る」と解して、それぞれが各思う所へ走ったのでしょう。

 

それが三浦宗有の(袋井)岡崎城の四ノ宮右近の元だったのですが、この四ノ宮(四宮)右近なる人は三浦宗有の奥方の弟で要は親族頼りの苦肉の策だった感があります。

ちなみにこの奥方、菊鶴は今川義元の元の側室でいわゆる拝領妻だったようです。

そのくらいこれら一族は今川中枢に喰い込んでいたグループだったことがわかります。

 

ところがこちら岡崎地区はやはり今川に拾われたとも言っても過言ではない小笠原家、長忠の領地でした。

当初遠州入りした際に今川から与えられた馬伏塚城の目と鼻の先です。

長忠の三浦宗有の処断について時期については殆ど父親の小原鎮実を自害に追い込んだ頃だと思われますが、三浦の場合も父同様に討伐と称して三浦が引き連れてきた一族郎党を漏れなく成敗してしまいます。

 

この件は「親の因果が子に報い」と「自身因果の報い」と揶揄されたことは違いないところですが、あまりにも惨い仕業であったとこの所業について今度はこれを差配した小笠原長忠の因果応報について世の中は囁いていたともいいます。

 

こちら宗有寺(そうゆうじ)は彼の戒名を冠にした寺で後年に横須賀城に入った大須賀康高の夢枕に三浦が立って、康高に対して

「過去の罪業 深く苦しみに堪えず 是非に弔祭を望む」

との談。

亡霊の話に痛み入り康高は四ノ宮右近屋敷址に船原山宗有寺を建てて彼らの菩提を弔ったそうです(場所はこちら)。

 

この宗有寺については覆堂の石仏を先日紹介しましたが、本堂の左側奥の茂みの中に、彼とその妻の供養碑があります。

ただし建立当初のものではなさそうで再建碑の様。

私はコロっと転がる五輪塔パーツの方が気になりました。

 

寺には位牌が残るそうです。

左 宗有 正覚院殿無庵宗有居士 

右 菊鶴 円通院実渓貞参大姉

 

画像⑦⑨の通り両脇茶畑の参道の奥、左側の楠の下に夫婦の供養碑が並びます。

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2017年

10月

06日

小原鎮実の処断 怨念の播種 「富本」地名の転訛

昨日朝方の空気で「完全に夏は去った」とそれを名残惜しく感じ入ったものですが、まだまだ半袖シャツ1枚にて過ごすことができました。

やせ我慢ではなく、何をするにしろ快適な時間をおくれますね。

ただし就寝時無防備と、うたた寝は禁物です。

 

西から天気が崩れる予想が出ていますので、私は地頭方処分場ゴミ処理に一往復してからお方様のご上洛(叔母自宅掃除と除籍等手続き)のため金谷まで見送りました。

通常ならバスにて静岡まで行ってもらいますが今回は東名高速の集中工事がありますので、直接在来線乗車コースを選択しました。

 

大して強さを感じませんでしたが一日中風が吹いていました。夕方の天気予報でも強風注意報が出ていたくらいです。

私は連日に渡ってバイパスを利用したのですが昨日も「前代未聞」の現場に遭遇しました。

昨日はやはり翌日の雨天の予報があったためか、連休前にやっつけようという意図か、この辺りのお茶農家は一斉に早朝より三番茶の刈り入れをしています。

茶農家によっては3回目以降の収穫は「肥料代にもならない」と期待値の低い仕事のようですが、これはこれでペットボトル用になる茶葉ですので行き場所はしっかり用意されています。

 

ここで思いだすのが新茶シーズンに入ったばかりのペットボトルの新茶マーク。どの程度の量の新茶を混ぜればそれを掲げた商品になりうるのか甚だ疑問ですが(そもそも新茶が出回る前から店先に並びます)、ここ地元の人に言わせれば「ひでぇインチキ」と。

間違っていたらごめんなさい。私も大いにそう思います。

 

いずれにせよ茶葉は鮮度が一番。刈りいれたら瞬時に工場に持ち込まなくてはなりません。

選別も厳しくここでの検収が農家の信用を左右させますね。

鮮度の悪いもの劣悪な素材を納入すれば出入り禁止になるとも聞きます。

 

よって茶葉用の大きな袋を満載山積みにしたトラックがバイパス上を「はやくはやく」という感じで行き交っていました。

ところがその積載の様子たるやかなりというか超のつくイイ加減さ。

そこにあの強風ですから何と私の昨日の金谷1往復で茶袋3袋が路上に転がっているのを見ました。

そのうちの1つは車線のど真中、コレは通報しなくてはならないと思って減速しながら思案していれば前方にトラックを路側帯に駐車しドライバーらしき人が必死の形相でその荷を回収に走っているところでした。

 

あとの二つは既に走行車両に当たってしまったのか中身の茶葉が半分以上出ているものでした。なんとも連日の「のどかなド田舎」を見た気がしましたが、「事故が起きなくて幸い」とご当人たちが思ってくれなくてはしょうがないですね。

目前にあのデカ袋が迫った際は一瞬パニックに陥りますよ。

後続車が事故ってしまったらそのまま行ってしまいそうで怖い・・・袋に名前でも書いてあるのでしょうかねぇ。

 

さて、昨日ブログの小原鎮実続き。

信玄に追われて逃げ延びて行き着いたところが今川恩顧で旧知の小笠原長忠の元。まぁ花澤城から駿府方面、東方に逃亡するという選択肢はなかったでしょうが・・・。

そこを小笠原が手を貸すなど「さらさらない」と言ったかどうだかわかりませんが拒絶したあげく、(おそらく)軟禁し自害に追い込んだというものでした。

 

尚、彼の息子には彼同等に「憎まれ役」の三浦宗有がいますが、他に小原甚兵衛なる子が居て、花澤城脱出後は父に従わず、越後に流浪したと「藤田鶴南」氏(「高天神の跡を尋ねて」)にあります。甚兵衛は上杉謙信に仕え、その子の四郎右衛門は景勝に仕えたとのこと。

単独で越後に息子をやったことが事実だとしたら小原鎮実の判断は大正解だったということですね。一緒に高天神城に参ったら連座させられることは違いないところ。

そういう意味では鎮実は小笠原の出方についてまったく信じてはいなかったのでしょうね。

 

さて、昨日記しましたが小原鎮実が種まき、怨念の嵐を招いたその処断とは吉田城時代の龍拈寺(こちらも)門前で処された「串刺し」事件でした。

これは事件として誇張された部分があるような気もしますし、裏切りに対しての人質の処遇としてはお決まりコースの時代ですから、まぁ時代と状況からして「致し方ないこと」とは思われますが、そもそもあの「串刺し」事件はあくまでも今川氏真の命令があったからこそだと思います・・・。

誇張というのはその「串刺し」表現ですね。

磔にされて槍で衝くという方法がオーソドックスな処刑方法ですが、どこかでその表現に怨念と悪意によって変じたのかもしれません。しかし残忍非情さでは秀吉による秀次事件には及ばないでしょう。

 

龍拈寺で処刑されたのは人質として吉田城で暮らしていた奥三河は「山家三方衆[やまがさんぽうしゅう](~三河物語)」と呼ばれる①作手、奥平氏②長篠、菅沼氏③田峰、菅沼氏の婦女子たちです。彼らは戦国の「家」に生まれて今川―武田―徳川の勢力争いの中、大いに翻弄させられたグループでした。

 

話は飛びますが、大河ドラマはこれから戦国時代を離れますが、予想として次の戦国採用大本命は明智光秀(私の勝手)。また、相当突っ込んだところですが希望を含めてこの奥三河国衆周辺の危機的状況の数々を描くというのも面白いところです。

小原鎮実も当然に悪役としての登場が期待できますし。

 

処刑された人々は「十三人」といわれます。

この数字というものは各説があってハッキリしませんが龍拈寺から離れた「富本」という町名がある場所、現在は田原街道(国道259号)愛知大学前の北の「富本町」交差点のさらに一つ北に「高師口」という陸橋のある大きな交差点がありますが、その付近に埋葬されたとのこと。

交差点には小さな石碑が立っています(場所はこちら)。

 

その近く、豊橋駅方向に向かった福岡町に地蔵と看板が立っています。

数年前の画像ですが看板は更新されているかもしれません。

 

石田三成は関ケ原戦直前に結果的に細川ガラシャを殺しますがそれが徳川方の団結心を強固にさせる要因となったことは確かです。

看板の通りに裏切りの代償をあのような苛烈な形で負わせれば今川氏真と直接手を下した小原鎮実への恨みは絶対的団結心となって発現するでしょうね。

高天神城主小笠原長忠はそこのところ、家康はもとより三河衆に忖度して、小原鎮実の入城を拒絶、腹を切らせて首を家康への「手土産」にしたのでしょう。

 

私がホントかよ・・・と思ったのが「富本」という町名が実は「十三本」からと。「本」とは何か?

「人」「首」「からだ」「磔柱」「槍」・・・

「富本」はキラキラネーム・・・?

 

また「十三」のつく墓や塚、そして「富」がつく地名は日本全国に渡って見られます。「富塚」なる苗字もありました。

いろいろ決めつけはイケませんが・・・

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2017年

10月

05日

墓は小さいながら大悪役の強烈キャラ 小原鎮実

残念でした。中秋の名月は雲の中。楽しみにしていたのですが・・・しかし昨日は呆れ果てた図を目にしました。

バイパス(大沢インターと菅山インターの中間点)の車道脇に車を停車してススキ刈りの様。

この場所は緩いながらカーブになっていて見通しがいい場所ではなく以前死亡事故があったところ。

まぁ名月につきものの「コレで一杯」の風雅・・・はわかりますが助手席のお方様に「あれじゃあ自身枯れススキ」とあまり利口とはいえない行為に開いた口が塞がらないでいました。

 

若い人たちがハメを外して無謀な画像を撮影してサイトupすることが流行っています。崖や橋から落ちて命を落としたり怪我をすることがあるようですが、自分独りで結果的に責任をとる(想定外の死にいたる)ことは「しょうがない」という語で済ます他はありません。

高速でガンガン走るバイパスに停車してイイ歳したおっちゃんの植物採取の暴挙はあまりにも(昨日にひきつづき)「バカ」としか・・・。それもスペシャルな。

後続車の追突ともらい事故は往々にして本線上駐停車が引き起こしますね。

 

さて、本日は久々小原鎮実。ブログでも何度か登場しています。花澤城宇津山城ですね。他にも城でいえば今川時代の三河吉田城で伝わる彼の名は一種独特のワルのイメージを確立した地でしたね。

時代順位としては上記三城の羅列の逆となりますが、彼は今川義元から氏真への波乱の東海地区にあって、遠州忩劇の中、今川衰微に愚直にまでに抗ったという点ではある意味「筋金入」の武将としての評価は高いものがあります。

 

徳川・武田の有名どころの挟撃を受ける駿府方に各城代として合戦しつづけ、敗色濃くなれば必ず生きて逃げ切るというしぶとさも賢さも持っていた人ですね。

しかしながら鎮実は最終的に逃げ込もうとした高天神城にて自刃させられています。

この辺り概略を例によって「高天神城の跡を尋ねて」から抜粋すると

 

「氏真の武将で駿州花澤城主の小原肥前守鎮実は永禄十一年十一月武田信玄に攻略されて遁走し、旧知を頼って高天神城主小笠原長忠を尋ねて救助を求めた。長忠は永禄五年四月、鎮実が三州吉田城主の頃、家康の部下妻子を故あって串刺にした事実及び不当の数々を述べて鎮実の乞いを許さず之を追放した。鎮実は止むなく城下の毛森村にて自害して果てた。この地を今に小原屋敷と言い五輪の塔が建てられている。」とあります。

 

この「毛森」という地は「煙」(烽火台)から転じた地名ですが(勿論丘の上に烽火台はあったでしょうが)、小原屋敷の位置としては武田勝頼が陣を敷いた惣勢山(場所はこのあたり)砦の南側辺りです。

伝小原鎮実五輪塔は私有地の奥にひっそりと建てられていますが代々そちらのお宅にて仏事は催されているとのことです。

家主にお聞きしたところによるとこの墓石は本来はもっと惣勢山側にあったといいます。尚墓石の標識、案内等は一切ありません。

下図は惣勢山南西側。道路を挟んで2つの標識があります。

③の奥に高天神城が見えます。

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2017年

10月

04日

阿諛追従―あゆついしょうが莫迦? 相良配水池タンク  

相良史蹟研究会の会長より電話がありました。

田沼意次に関するテーマでどなたか(大石学氏か)を招いて講演会を催すことが決まっているのですが、その期日を本年12月中にて決めるとのことでした。

これは来年早々に放映されるNHK正月時代劇「風雲児たち〜蘭学革命篇〜」の「チョイ前」にやりたいという意向ですね。

こちらの番組は脚本三谷幸喜によるもので田沼意次を草刈正雄が演じるとのこと。ちなみに平賀源内役はといえば山本耕史とのことで、これら顔ぶれは先の大河ドラマを彷彿とします。

 

彼の田沼役を聞いた時はいよいよ世の田沼評価というものが修正の域を超えて、好感度up!up!のイメージアップを感じました。

先般の藤枝の神社が配布しているような田沼評価が陳腐化し歴史世界隅々にまで好印象が広まることを期待してやみません。

尚あの書面は教育委員会ほか多方面に渡っているそうですが、「笑い」のネタになっている模様。

書き記した方には気の毒ですがこればかりは致し方ないですね。ブログでしたら「ごめんなさい」して消去できますが、書き記したものは殆ど永遠に残ります。ああおそろしき。

 

さて一昨日に続き、総代さんは頭を痛めていてやたらと気にしているのが市長候補の世話人会でのあいさつの件。

私は「気にすることはない」、「その時はその時」と適当・適宜のスタンスでいたのですが、やはり総代ともなるとそういうワケにはいかないよう。

3人が立候補しているため、顔見世挨拶に関して「1名2名では具合が悪い」との御主張でした。

各候補も「来る?」と言われて「行かない」とは言えない状況、ほんとに大変です。

 

こちらでもイザ立候補ともなるとライバル候補の素性等、若いころのやんちゃなところまで「ねほりはほり」と罵しり倒すなどいう応援者の手法もあるようでその辺りを見ていると発信先の見苦しさは感じるものの、そこまで過去のことやらプライベートをあからさまにされるのはいくら何でも耐え切れないことです。これでは「消去法の選択肢」(あいつよりマシ)の主張がなされているようで前向きな「よき市制」を選ぶという投票行動には繋がらないかと・・・。

 

昨日もあの女史の下で「最も弁が立つ若者」と思う都議が彼女の元を離れたとの報道がありました。彼の判断とその離反の理由はスジが通っていました。

まぁ政治世界を魑魅魍魎と揶揄することがあるくらいでそれぞれの腹積もりもあることでしょうから、何がイイ何が悪いという素人の判定はなかなか難しいのですが、昔から「やっぱバカ?」と思わせる政治屋というものはいらっしゃるもので。

 

当ブログではその「バカ」をやたらと記して人様に不愉快を惹起させている嫌いがあります。

その語に関してやたらとムキになって怒り狂って反論する方もいらっしゃいますがその際「バカ=莫迦」とは算数苦手や非常識の人を言っているワケではありませんね。

 

そもそも仏語でもある「莫迦」の出展は梵語の「moha」からの転訛とのこと。二説あって一つは「釈迦の意が聞けず不理解、正誤不覚」の人、そして今一つが秦の皇帝の前にて鹿肉を馬肉と言わせて(白いものを黒と言わせて)、自らへの忠臣の姿を測った権力者の意図からですが、勿論権力者に迎合して「その通りです」とすり寄る人の姿を言います。

 

「虎の威を借る」奴はコソ泥的ワルですが、権威に迎合しその見苦しさ愚かさに気づかない、気づけない人を本当の莫迦、馬鹿、バカと言うようです。それを四文字熟語で「阿諛追従」といいます。

 

先日母親を連れて「たかばし」の道を。相良の街中から旧火葬場跡の「特養」を横目に「原」(台地上のこと)に上がる細道です。

お散歩には気持ちのイイお日和でした。これからグッと冷え込むようですから季節がすすむに従って体調管理は大切です。

①はあのタンク近くにあった石碑。古くはないモノですが記されている字が意味不明で不気味。②④は同じタンク。このタンクに水がホントに入っているかはわかりませんが、むか~しからありますので耐震力が疑問ではあります。

 

この真下に③の消防署がありますが、もしかしてタンクが壊れて中身が直撃したとしたら・・・などといつも考えています。

最悪、救急の拠点が救急の対象になったりして・・・

 

⑤は拙寺お馴染み月下美人咲き誇りの図。

夜中に一斉に咲き出しますが、事前に玄関内に入れておけば1週間以上の芳香効果が期待できます。

何故あの見すぼらしく汚らしくだら~っとした変な葉っぱからあのような妖艶美白の大輪が咲くのかまったく不思議でなりません。「月下美人」も挿し木で増しました。

チャレンジしたい方は一声おかけください。

切って差す、ただそれだけ・・・バカがつくほどカンタンです。

冬場は簡易温室に突っ込んでおくだけ。

 

本日の中秋名月と月下美人はさぞお似合いのことでしょうが、そううまい具合にはいきませんでした。

 

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2017年

10月

03日

総代会 世話人会の一週間 選挙も重なりさぁ大変

やることがありすぎて、放置せざるを得ない事多々ある中、第一義としてあるのは私の本来の姿「住職」のお仕事。

直近では報恩講という1年のうちでも当流の最重要イベントを控えています。

いつものことですが、「もう報恩講の季節か・・・」と時間経過の速さにため息が出るくらいですが、じたばたしているうちにどんどん日は巡っていくという感じです。

 

先週末も愚息がフットサルの試合と称して再び相良に舞い戻っていましたが、通常の私であれば「京都までお送りましょう」などと返して、2~3日は「墓場」に佇んでいるのですが、それも実現できずにいたくらいです。

 

叔母急逝のあとの住居の整理は手付かずで未だ冷蔵庫の中身の処分すらできていないくらいです。

ようやく先月末に携帯電話の契約解除ができて、無用の出費の継続が一つだけ解消したところですが、まだまだ自動引き落としされているような色々の契約が残っているようです。

いっそのこと督促状が来るのを待って動けばイイとは言ったものの、自動引き落としはそのまま継続されるため何しろ口座残高をカラにしなくてはなりませんね。よって今のところ着手不能。

 

相続やら何やら司法書士を依頼して事務手続きを進めていくこととはなっているもののその依頼者たる義母が療養中につき未だこれもそのステップに進んでいない歯がゆさがあります。

私が出しゃばる頃合いなのですが。

 

さて、私周辺の「ひっちゃかめっちゃか」はさておいて、今相良の人々も「それどころではない」の状況が今度の選挙です。

それもこれもあの余計な解散によって衆院選となったわけですが、そもそもあの日程は牧之原市長選挙・市議会議員選挙が入っていたのです。

こちらも、国政優先ということで「運動ができない歯がゆさ」があると関係者異口同音。

 

昨日は総代会があったのですが、その前に世話人が訪れて週末の世話人会にて市長選に出る方の一人(3人が名乗りをあげています)を連れてきて挨拶してもらう・・・との談。支援をしているそうです。

時を同じにしてやってきた檀家さんで現職市議の方も世話人会にて挨拶をしたいとのこと。

 

拙寺檀家さんの中で市長選出馬されるもう一名の方の支援者も多く、またもう一人の現役市議がいるため、そうなれば「バランスが取れなくなるかも・・」との意見がありました。

後から「いろいろある」かもしれないとの推測。

暗に多方面にわたって声をかけて欲しいとのことだったのかも・・・

 

私は先方からの依頼で機縁として本堂にてのご挨拶程度の登壇ならば拒む理由もなく受けいれますが、こちらからお願いすることなどは「御免蒙りたい」と申し上げました。

しかしながら市議のもう一人の方へは「檀家さんである」を大義に「よろしかったらどうぞ」と一声かけることを要請されました。

 

何しろ小さい町ですので市議会と市長選に関しては檀家さんの中でも支援がわかれて尚「各燃えている」感あるイベントです。よって寺といえども迂闊なことはできませんし発言も気を付けなくては・・・と思うところです。

寺はあくまでも中立のスタンスが大切です。一同ピリピリしていますからね。尚蛇足、私は「一向専念無量寿仏」オンリー。

 

尚、本日いらした市議の方に先日の袋井市の「あっぱれ」について「話は違うが・・・」と紹介すると「ヨシ!わかった」と早速検討着手することを約束していただきました。

史料館の長谷川氏にまとめていただければスグでしょう・・・。

要はおカネの出何処。

観光協会か教育委員会か・・・そのあたりのテクニックについてはおまかせです。

私の注文としては整備もゆくゆく進めていただくことは勿論、看板案内等の設置も同時進行で・・・とお願いしておきました。

 

画像は昨晩のお取越しのお土産の「松風」。熊本は菊池市のお菓子ですが、私の知っている松風とは西本願寺前のそれ

松風の上に「正観寺」とあります。

形状まったく異にするものの、京都のソフト感に対して熊本のそれは極薄に仕上げたパリパリ感。

食感は違うものの味はどこかしら似ています。

商標権利関係の方はどうなっているの?というのが私の疑問点。

 

栗ようかんのセットは近江八幡「たねや」の代物。

昨日叔母の供物として送られてきたものですが、アレを全部食していたら「病院行き」になることは必至(この家での甘いもの係は私だけです)。

本日の婦人部役員の会合にて皆さんに味わっていただこうと思います。

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2017年

10月

02日

「ちょっとコレおかしい」の感 古物ネット売買の件

昨日の法事は午後2時からの一周忌。

ご挨拶で「あの時棺に入れられたモンブランケーキがとてもおいしそうだった 栗の季節です」と触れるとご一同笑顔で一気に和んでくださいました。

 

奥様を昨年亡くした施主の口からぶっちゃけ話風、お気軽さ満点で出た言葉が「私、肝臓がん宣告されて6年目」と・・・

話のきっかけは「最近はやたらと疲れやすくなっちゃって・・・」と仰いましたので私は「ちゃんと食べてます? お肉もしっかり食べなきゃダメですよ・・・」などと説教染みた事を放言していただけに思わず絶句してしまいました。

 

その病の宣告をされていたこと、それも6年もその病とお付き合いしていたこと、それでいて頻繁にグランドゴルフの大会に参加されていること、現状変わりない元気さにです。

病数ある中でそれは命に係わる病であると私は理解していますが何しろ凄いことだと感じ入りました。尚切開手術はしなかったそうです。

 

人によって病によって年齢によってそれぞれ人体に対するインパクトの軽重と発現の仕方が違い、また大いに精神的ダメージ(ストレス)が重なって健全性損失の連鎖に陥ってしまうことは分りますが、その方のお元気な様子は、「ちょっとばかり病になったからといって落ち込むな」と若い愚僧を叱咤しているようにも感じました。

 

さて、先般熊本発のニュースで「用水路に石仏」の標題がありました。今のところ「盗難等の届けは出ていない」ということでしたが公開手配して持ち主を探すということで画像が公開されていました。

「石仏」と言われて私はまじまじとその画像を拝見しました。かわいらしい仏さんが肉彫されていますが、よくあるタイプではあります。

しかし道標と一緒に寄進奉納されるものではなさそう。

そうです、あれは墓石ですね。

なぜなら法名が記されていることでわかります。

それも「釋」付きですから、真宗系が思い浮かびます。

まぁその件は断定することはできませんが、寺の変遷経緯、受け入れの状況で宗旨とは違う仏もままあるからです。

 

また石仏・墓石だからといって寺の墓地にあるとは限りません。

一番に私が思いつく事は売買を目的としたコレクターの盗品の件。何かの不都合があってまたは仮置きのつもりでそちらに放置したのではないかということが思い浮かびました。

 

買いたいという需要があるから盗品を売る輩が出現するのですが、以前からネット上での石仏等の出品が目に付きます。

嫌な時代だと思いますね。

 

最近はなんでもかんでも売りさばけるネット上のサイトが幅を利かせていますが、あれは「ぬすっと・かっぱらいの類」の輩の為にあるような感じがしてなりません。

 

ネット上では相手が見えず盗品横領が見抜けませんし、殆ど無規制野放し状態ですね。

日本には古物営業法という法律があって名目しっかりと規制されているのですが・・・。

お相手は不特定多数の善意にあって盗品販売者の区別はつきようがありませんね。

若い連中も安直な「品物の手配」によって小遣い稼ぎに手を出しそうでこれはいわゆる「犯罪の温床」といってもいいかも知れません。

イイ加減あの御商売はお国から規制していただく方がよろしいかと。うかつにモノを置けばスグ無くなってあっという間に売っぱわられる時代になってしまいそうです。

オレオレ詐欺全盛時代、社会が信じられない・・・これも「政治が悪い」と一喝したいところです。

 

①がニュースにあった石仏。②③は袋井岡崎の宗有寺覆堂の石仏。

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2017年

10月

01日

袋井市の「歴史への取り組み」に敬服 馬伏塚城

東京都知事女史殿、おもろい事やるなぁ・・・と感心していれば「やっぱそんなもんか・・・」と思ったのがあの「さらさらない」の言。

解体野党のすべての受け入れはなく「拒絶する」という宣言なのでしょうが、言葉を選ぶということができない人だなぁ・・・との印象。もっと違う言い方ってあるでしょ・・・

まぁ私は、またここに「ゴリアテを見た」ような気になりましたが、あのひょっとして「増長してる?」と思わせる言葉によってかなり票は減ったかもしれません。

 

政治家がゴリアテ化する様子は多々見ていますが、その増長を見てひねくれものの私はそういう方には「天道おそろしき次第」を味わっていただくのも面白いと思ったところ。

ゴリアテのいく末と「天道」は決まっているといいます・・・。

 

都知事選立候補の際、あの「二重国籍」の件で引きづり降ろされた一方の女史の知事選立候補について戦々恐々としていた顔がまだ忘れられません。変わるに変わったものです。

タラレバですが、その人にあの時知事選立候補を真っ先に宣言されていたらあのタイミングでは逆に現知事の立候補は無かったかもしれませんね。そしてあの党の崩落も。

まったく「流れ」とかタイミングというものの重要性がよくわかります。あの世界、人の世界つくづく面白い。

 

「さらさら否定語」の「さらさら」は通常喧嘩腰の常套句。

まして聞いていて第三者をも不愉快にすること大ですね。

まともな社会人はそんな言葉はまず使いません。仮面をかぶっているところのボロが出てしまったのでしょうか。

「私はいろいろ不寛容です」の姿を公言しているようで、薄気味の悪さも感じます。

撤回して名をシンプル曖昧に変えていましたが以前子飼いの男どもが吹いていた「ジャパンファースト」の名が思い浮かびます。

 

それにしても公約と言われる「原発停止」には食指が動きますね・・・ウソかホントか。

増税はたまったものではありませんが私たちの切実はそれ一大事。

オリンピック開催など私には「さらに、さらに」関係ないことです。

 

さて、袋井市の歴史文化への取り組みのすばらしさについてあらためて感服いたしました。

私の勝手な評価ですが、城址パンフレットが二つ増えていました。馬伏塚城と久能城のカラー刷りパンフでコストもかなりかかっていそう。結構インパクトありますね。

 

以前馬伏塚城(こちらも)址から直近の袋井支所をブラついて数年が経過していましたのでその時は目につきませんでした。

これら紹介リーフレットがいつ頃からあるのかはわかりませんが、外から来た人にも、市民にもその歴史を知ってもらうためにこういった告知媒体を持つということはいいことですね。

私もつい手に取っていました。

 

こういう時、当牧之原市ならどうだろう・・・と考えてしまいますが、一言でこういうものは見当たりませんね。

牧之原市にも羅列するのも面倒ですから割愛しますが、ざっと7~8の城址(それ以上かも)があります。

何も一つづつ作成する必要はありませんが、一つにまとめてでも城址とそれに関わる寺社などを紹介するパンフはあってもいいと思うところです。

またしても「お金がない」の語が返ってきそうですが。

「予算無し」の自治体は辛いですね。それでは何もできやしません。ヤル気とやり方次第では歴史遺産は十分に観光資源となるはずです。

 

もう一言言わせていただければ、「陣台山」の高台は最近ついに命山(津波避難地)と改修されましたが、その名の通り、私は武田海軍の砦を推測できる場所と考えていました。

改修にあたって発掘調査の話はまったく耳にしていませんし

最初から「何もない」という判定がまかり通っていたような気もしないではありませんでした。

まあ相良の歴史通においてその辺りの件は「眼中にない」という傾向が強い(田沼オンリー郷土愛)のでそれが仇になっているとしたら寂しいことです。

 

もしそこから「何か」出ていたら「古相良砦(城)」の確信を得られたかも知れませんでした。そうするとこの件は自らの手でそれを壊してしまったことになります。勿体ない・・・。

私の勝手な思いでした。

 

②画像以下はすべて馬伏塚城。

二郭といわれるうち「城郭大系」と現在の案内では本丸推定地が違うのが面白いところですが、私はこの城の古地図にある「深田」という語にこの城の防御性を見ました。

社のある方の郭(そもそも不詳の城址でどちらが主郭かはどうでもイイところ)南側に「羽城」の語がまた併記されていました。

 

城はのちに破却されたためその「破」が転化して「羽」になったといいますが、「羽」ってそもそもこの地の地名「浅羽」の「羽」でもあるわけでして・・・。

すると「深田」と「浅羽」の「深い-浅い」の対比もありますが、「羽」(「ば」発音)は「場」だったかも・・・と思ったのでした。地元でも何の関わりもない私のタダの思い付きです。

 

昨日は周辺「浅」の字が使われる地名多し(浅羽・浅名・浅岡)と記しましたが「浅」は「深田」に対する「浅い-深い」?。

そしてそのパンフにもありましたが「羽城」には船着き場があったといいますので「船場の城」・・・そこから「船」がとれて「場城」から転化。

ということで「羽城」は「浅羽」の「羽」と同様「ば」発音ということで「ばじょう」。「浅羽」の語源は「浅い場所」の意?などなど。

そんなこんなで色々頭をめぐらした次第です。

 

②画像でも今の土地がぬかるんでいる様子がわかります。

⑥神社の上から平地を撮影しましたが、高さに関してはまっく優位性を感じない城。

当時は水路と「深田」に囲まれ、外部から見れば水に浮かんだよう見える馬伏塚城だったのではないでしょうか。

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2017年

9月

30日

岡崎城追記 軽便新岡崎駅

自画自賛と他者誹謗中傷の舌戦というまったく聞き苦しく苛立つこと甚だしいイベントが降ってわいたようにやってくるようです。大概またぞろ「手前の件、棚に上げ」の口先ですからね。

 

参加当事者はそれだけ「必死」なのでしょうが、アレって殆どバクチみたいなもの。一途に名誉とカネを求めて・・・というような感じがしますね。

どちらであっても「議員」さんは「1度やったらやめられない」と聞こえてきますし・・・。淡々と自身の「実現できそうな未来」を語って頂ければいいのですが。

 

地方(岩手県・北海道・大阪府で指摘されていました)ですが例の政務活動費に関してまたその使いみちの件、「爆笑」の言い種を耳にしました。

使い切れなかった活動費は自治体に返還するのが決まり事ですが、実は議員連盟でため込んで好き勝手に使っていたとのこと。

中には「文化芸術振興議員連盟」なるグループのどう考えても「どんちゃん騒ぎの宴会」の如くとしか思いつかない使途につき「お座敷文化の鑑賞と体験」なる言葉がありました。

この言い換え言葉、ウマすぎます。お座敷だけに「座布団持ってこい・・・」

 

衆議院議員は「今の半分にする」「補助金も給金も半減する」という国民にやさしく、己に厳しい公約をあげるくらいの気概がある人がイイですね。

末端庶民、そしてド素人の発想でした。

 

さて、昨日の岡崎城について追記します。

城址についてですが、国人領主の館のスタンダード(約100✖100m四方)とは異にすることから遠州陣取り合戦の布石としての意義が強かった風の事を記しました。

それは街道筋に面してその以前には伝承として四ノ宮氏の館があったことは十分に考えられますが・・・

 

本日の画像は北東方向からの城そのもののカタチ。昨日の図でいえば西郭の図になります。

①②③④の図ですが近年の道路拡幅工事等を無視して考えれば樹木の繁茂の具合からあきらかに切岸を思わせる外周となっています。⑤は④の先にある西側の木戸口に通じるのか堀切風登り口を上がったところにある茶畑から南の方角を見たところ。

右が馬伏塚城、左が横須賀城。この地区の平地は「浅」がつく地名が多く、湿地帯が西にかけて広がっていたかと・・・。

城の遺構を楽しむには神社社殿周辺、特に西側の空堀と掻揚の土塁があります。

 

⑥は東郭の東側になりますが、堀切を推測します。

この北側にもう一つ社がありました。

興味がある方は真冬の登城がお薦めです。「これは」と私が勝手に「画像映え」と思う箇所がありますが、荒れた城址の場合、「いったい何を撮ったかわからない」(ただの藪)という状況に陥りますので。

 

下図は「袋井と軽便鉄道」展から。

左側が新岡崎駅。右が市内に入った図でしょうか。

 

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2017年

9月

29日

伝四ノ宮右近居城 対高天神陣城 袋井岡崎城

袋井では今、袋井市歴史文化館にて「袋井と軽便鉄道」と題して

展示会を行っています。

 

こちらではかつて催された地震関係の展示会に拙寺所有の「地震記1」(2と襖絵由来とも左側ナビゲーションに)を展示させていただきました。

昨日記しました軽便の新岡崎駅跡からもごく近くになります。郷土資料館が併設されていますがこちらに通常史料展示があります(場所はこちら)。

期間は9月20日(水)~11月12日(日)。

基本土日は閉館日ですが開館日もあります。詳細は案内を。

 

さて、袋井岡崎の地にはやはり岡崎城があります。紛らわしいですね。

こちらはざっと馬伏塚城と横須賀城の中間地点にあたります。高天神城と同様の小笠山山塊の舌状台地の南西側の先端に位置していますが、その名「岡崎」は丘の先端を意味しているのでしょう。

 

しっかりと城郭大系にも記されていますが、詳細に関しては不明の城。国人領主の館と解するには少々規模が大きすぎるという点から高天神城攻めに際して浜松の橋頭保としてあった馬伏塚城のさらに一歩進んだこの地にかつてあった「何か」を造改築したというのが考えられるところ。

さらに進行して高天神との距離を縮めて横須賀城(こちらこちら)設けたことからおそらくこの城の使命は終わったかと。

横須賀城は海運の基地たる機能もありましたので岡崎はお役御免ということで。

 

①は袋井市史料。

②~城址は茶畑の東郭と竹藪の西郭。

郭を隔てる通路の先に北八雲神社の社殿が建っています。⑦は西郭の木戸口か。堀の向こうに土塁らしき盛り土のカタチがうかがえます。

竹藪の中も少々見渡しましたが早々に退散いたしました。この城址は既にup済と思っていましたが、記憶が定かでなく、最近になって何処を見渡してもないことに気づいて記した次第です。

最近、かなり忘れっぽくなってしまいました。

 

上の図は岡崎城と横須賀城、高天神城の位置関係。

横須賀城に本拠を移した家康は地図右下に見える大浜公園の位置にある三井山砦(こちらこちらも)を奪取し、高天神六砦の一つとします。

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2017年

9月

28日

岡崎に笠原の地名 袋井にて出会う 軽便駅跡

トランプさん、また一つ追い込まれたよう。

対外的にではなくアメリカ国内のお話です。

日本でも散々と他者の失策、非道徳を罵しり倒しておきながらご自身の事はといえば「棚の上」という様相を見聞きしていますが、その棚の上の何かが世間様に露呈したら結構恥ずかしいものがありますね。まぁ詭弁を並べ立てて保身を求めるというのもそもそもの人の性質(タチ)ですから、みんな「自分大好き」は基本なのです。

 

大統領周囲でそのあぶり出された内容は・・・

大統領の側近たちのうち少なくとも6人が私用のメールアドレスを公務に使っていたということです。

それって大統領選の際にトランプさんがお相手候補のクリントンさんの「私用メールの件」をしきりに問題視していましたから。結局同じ・・・いやもっとタチが悪いのかも。

 

政治と宗教の道にある者はやはり古来よりその「身を捨ててこそ」(・・・献身的・・・)の道がベストなのですがその自身名誉は当たり前、お調子に乗ってお友達への分け前なども想うところなどあるのは世の常ですからね。

蕎麦屋の出前ではあるまいし「もり」だ「かけ」だの見苦しい態様となるのでしょう。

 

ということで坊主としての資質としてまったくもって暗愚で人様から見て「不可解」の語に尽きるであろう私がとやかく他者を(思い付きだけで)中傷できる身ではないということは承知していますが、その辺りの件、ただただ御寛大にしてお許しいただきたく思うばかりです。

しかし私の違和感というものは今の永田町は政治屋さんオンリーの躰。何度か記していますが「屋」が付くということはそれを「生業」としている感を醸し出す人たちばかりということです。人の為、国民の為とは口ばかりなのです。

自分を犠牲にして(捨てて)「幼稚園の喧嘩」を仲裁してみろと言いたいですね。国難?なんのこっちゃあ・・・です。

おべっかと大風呂敷と自己自慢と自己陶酔の政治には辟易とします。

 

ちなみに真宗宗旨に「悪人正機」がありますね。

その本意からは少々逸れますが、そもそも「そんなもの(その程度)の私」なのだから「人様のことをどうこういえない」というところ・・・が想うところ。そして「人様を裁く」こともそのスジからのっとって「おかしい・・・のでは」というところからの発想が当流の死刑廃止論です。

今の死刑に関しては国による被害者の「仕返し代行業」の感がありますが、先進国の一員としても修正必要なところでしょう。

 

さて、画像は袋井の「岡崎」なる地名。

ただ私の感覚ではオカザキといえば愛知県岡崎市か京都の岡崎別院の岡崎しかありませんでしたからあの岡崎を目にした時は新鮮でした。

 

当相良から向かうには抜刀会の会場となる某屋敷や馬伏塚城(こちらも)に了教寺の途中でお目にかかることができます(場所はこちら)。

また今一つこの地方の地名ですが「笠原」がありますが、中遠のこの笠原姓の発祥は「こちらかな・・・」と思うところがあります。