2018年

11月

20日

浅野長政改名 浅野稲荷 山科毘沙門堂参道 

昨夕、少々の騒ぎになった感があるニュースが日産のゴーン会長が逮捕されたとの報。

以前私の世話になっていた会社の主たる取引先が日産で近隣の追浜工場などへは何度か出入り(催事イベント手伝い程度)していましたから、その人のカリスマ性というか神がかった経営手腕についてその力量について聞き及ぶものがありました。

人間性についても当然に清廉でフェアなものとてっきり思っていましたが逮捕理由がかなりゲスっぽい内容でまったく驚かされました。

所詮人間、神がかった帝王なるものはいつかは墓穴を掘って転落するものなのですね。

あの人が社長さんの時代は毎年10億円(実はもっと?)のギャラをとっていたといいますから到底庶民レベルの感覚にはない「自己中」世界に陥ったのかも知れません。

長期に渡って権力を持つと腐敗する。それ古今東西どちらにおいても人間の有様ということでしょう。

きっと社内を恣意的に牛耳って好き放題にしたといった咎なのでしょうね。となると君臨していた神もとんだ食わせ者だったというオチになります。

 

へ~えと思ったのは日産社内からの内部告発があったといいますね。本当の悪慣例を排除するにはそれが一番の方策です。

会長と取締役の両外国人の解職で会社は相当額の人件費を削減できそう。当分の間は混乱するでしょうがイイ方に解釈すれば・・・また、他方面に於いてもその「内部からの指摘」は特に有効だと思います。

悪い奴、あくどい事はどんどん白日の下に晒してしまいましょう。

 

さて、あと10日も過ぎるとついに師走の声が。

恐ろしいほど時間の過ぎるのが早い、いや早すぎるよう感じます。急坂を転げている感覚です。

若い頃はそんな感じはなかったのですが。

私の「命のローソク」の残りがどのくらい残っているかはわかりませんが行く着く先はお浄土というのは確約されています。しかしやはりそれまでの経過については未知数。

これは当たり前の事でした。

 

師走といえば忠臣蔵。

日本人が大好きなお話ですからね。

昨日記した山科の毘沙門堂から「平常心是道」を進むと右側に朱い提灯と朱の小さな祠そして石の鳥居が塀越しに目に入ってきます。

提灯には「浅野稲荷大明神」と。

こちらが浅野稲荷社です。

京都市内堀川紫明の近くに「瑞光院前町」がありますが元はそちらにあった瑞光院とともに今の毘沙門堂の参道に移転(昭和37年)してきたといいます。

 

そもそも堀川に元あった稲荷の名は「朝野稲荷」だったそうですが浅野長政がその地に屋敷を建てるにあたって朝野→浅野と変えて鎮守社にし、その後に瑞光院が建てられたとありました(稲荷の由縁)

尚、毘沙門道石柱のあるお宅の表札は近隣ですが関係ありません・・・。

 

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2018年

11月

19日

近郊在住の方のお散歩多し 山科毘沙門堂

NHK終末期医療の番組から。

現在80歳以上で透析を受けている人は6万人。医療技術の向上が目覚ましかったようでその透析患者の伸びは著しいそう。

透析技術は老化して以前の人間の肉体でいう終末を迎える時間が来ている人の自然なる寿命を延命させているといいます。

そして病院によってはその9割の方が認知症といいますが要は本人の意思とは関係なくその延命治療が「機械的」に行われているということです。

人工呼吸器も同様で救急医療の現場には90歳以上の終末期の患者がまたぞろ運び込まれるようになったといいますが、心臓は動いていても意識は戻らずにベッドに寝たきりとなるいわゆる先の見えない「延命治療」が始まるということです。

ちなみに一度心肺停止し救命医療と人工呼吸器(+胃ろう)によって呼吸が戻ったとしても意識が戻る人は0.5%といいます。

 

自宅にてピンピンコロリの大往生は元気なころの希望ですが、「その時」は選択できず大抵は皮肉にも病院のベッドに繋がれる余生を送る人がたくさん。まぁ救急医療の高度化のたまものですが「果たしてそれでいいの?」という疑問がようやく起こってきたようです。

「延命中止」を家族が選択できるようになってきているとのこと。

本人昏睡の場合であっても家族の意向が重んじられるようになったということですね。

家族の選択の意思は重いものがありましょうが、コレこそ「自然法爾」。人為的な時間の無駄遣いをするのはこの期に及んで「ちょっとね」という感じで一杯です。

 

自分の事だからこそ家族にその現場(終末期対策 ACP)の件、書面に記しておくことが大切です。自身の終末を棚の上に上げておくことは不幸なことですから。

 

事前指示書

「私が認知機能が低下しあるいは意識が戻らず、終末期と判断された場合、人工呼吸器、透析、胃ろう、心臓マッサージ等の医療を施さず早くお浄土に行かせてください 今井一光」 

もっと詳細に記したい方はこちらを参考にどうぞ。

 

さて、昨日の「下乗 極楽橋」の先が極楽世界、「毘沙門堂門跡」(天台宗五門跡  京都五箇室門跡)となります。

蛇足ですが「門跡」は「堂門の跡」ではなく「門跡寺院」の事。皇族公家が寺に入って住職を務めたその寺の事をいいますね。

 

大宝三年(703)文武天皇の勅願で僧行基によって開かれたといいますので平安遷都以前。当初は出雲路(上京区)にあったことから「護法山安国院出雲寺」が正式名称。勿論毘沙門天がご本尊になります。その後何度か廃寺寸前の荒廃の途をたどるものの、寛文五年(1665)、山科安朱(現地)に再建。

後西天皇の皇子公弁法親王が入寺してより門跡寺院という格式を持ちました。

 

現在は知る人ぞ知る春は桜、秋は紅葉の寺。

私は毘沙門天その他宝物等にはお会いしませんでした。

最後の画像2枚はHPから。直近境内の様子ともみじまつりの告知です。

 

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2018年

11月

18日

「下乗」と言えば早雲寺の助兵衛を 山科極楽橋

昨晩のNHKスペシャル「人生100年時代を生きる 第1回 終の住処はどこに」は介護保険制度の欠陥を露呈させていました。

「サ高住」(サービス付き高齢者向け住宅)についての問題ですが、介護給付金目当て(施設側としてはそうせざるを得ない経営状況)につき、要介護度(番組では4以上)が高くないと「おいしくない」ということで、介護度の低い入室者は退去を要求される場合があることを知りました。「(うちは)ボランティアじゃあない」とい施設側のセリフは御尤もでしたが・・・

 

また「リハビリなんてとんでもない」という風潮が流れていて気分が悪くなります。

要は元気になって介護度が軽くなれば施設の報酬がダウンしてしまうということです。介護度が上がって寝たきり、そしてずっと長生きしてくれれば「儲かる」というシステムに乗っかったといところ。

結局、国、税金が使われているのですがね。

この件、人の本来の意思(健康の維持)に反する流れであり、質の向上という点からは程遠いものがあります。

何とかしてくださいな。人生100年時代。「長生きしちゃってごめんなさい(早く死にたい)」の如く仰った車椅子のおじいさんの言葉が耳に残ります。

 

さて、昨日記した疎水の安朱橋から真北方向に行けば毘沙門堂という古寺がありますがそちらの門前に極楽橋なる小さな橋が架かっています。

毘沙門天の御本尊として「極楽」の語の雰囲気のギャップは私の勝手な阿弥陀=極楽浄土という発想からですが、こちらの「極楽」名称の所以は橋の前に立つ石刻板にあります。

後西天皇の行幸の際その先の景色の美しさに「極楽浄土!!」と感嘆、ということで「極楽へ渡る橋」ということになったそう。

意味としては単純明快でした。

 

こちらは春は桜、晩秋は紅葉の美しさで名高い場所ですのでおそらくそれらへの感慨を口にしたのでしょう。

「下乗」の石柱が建っていますがこちらは「乗り物から降りる場所」を指定したもので、それ以上は「徒歩にて上がれ」の標識ですね。

他にも「貴人麗人」の存在があるので「敬意を表せ」の意があるものですが、この手の標識を見ると、私は司馬遼太郎の「助兵衛物語」(すけのびょうえ―花房職秀)を思います。

助兵衛が早雲寺に陣取った秀吉の門前通過の際の出来事でした。爽快な場面でニヤリとしてしまうところでした。

 

下乗の裏側には「平常心是道」。極楽世界から出てきたということでしょうか。しかし語彙としてはイイ言葉です。

 

 

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2018年

11月

17日

山科疎水と安祥寺川 散策絶妙時期はやはり桜

檀家さんでその季節が来ると、船から上がったばかりのそれを買い出しに行っては御裾分けをしてくれる方がいますが今年はまったくその声は上がりません。

それもそのはず空前の不漁というか、今般操業自粛が提案されたとのニュースがありました。

試験操業では水揚げに適さない「0歳」のサクラエビが大半で 出漁は「やめた方がイイ」との学術的お達し。

しかしそれで生活をしている漁師等は苦渋の選択でしょうね。

 

しかしこの機に水産資源を取りつくしてしまうというのではあまりにも愚かなこと。ここはひとつ我慢のしどころでしょう。

資源の回復を待つこと。それが賢者の方策。

無限、無尽蔵にそこに「ある」と思うのは無理ですね。

 

また一時的に台風等の影響で不作、高値続きだった野菜は今や市場に溢れるようになって野菜高騰の声は聞こえなくなりましたが今度は北海道で小豆が不作となって和菓子屋さんが困っているいるとのこと。

 

自然の恩恵をいただいて私たちは生かされているのですが、土俵は「自然」ですからね。何事も人間本位に都合よく行かないもの。上下良し悪しの振幅はつきものですね。

 

さて、昨日は山科駅から旧東海道を歩いて山科の當麻寺について記しましたが、あの時は桜の季節は過ぎていましたがJRを潜って北側の山の方向に向かいました。

そちらの散策コースは今や京都観光非主流派に人気の場所でもあります。安祥寺川沿いに咲く桜と山科疎水(看板参照)が目当てです。

川の名ともなった安祥寺手前(画像⑪⑫ 場所はこちら)から東方向に安朱橋画像⑩まで進みました。

途中に府立洛東高校がありますが、環境はこのうえなく上々の場所と察します。

 

こちら周辺の地名には「御陵〇〇」とまたぞろ「御陵」が付きます。こちらは「ごりょう」読みしたいところですが「みささぎ」、天智天皇陵墓です。

山科駅前から京都駅方面に、右手にその「御陵」を見て京都市内に行く手前に粟田口処刑場がありました。

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2018年

11月

16日

山科の當麻寺(たいまじ) 伝定朝作「丈六阿弥陀」

また興味深いニュースがありましたね。

国宝級の発見だそうです。

今年のお寺のバスツアーは當麻寺でしたが、西塔は丁度改修工事の真っ最中でした。

東西両塔の残る寺院は他に見当たりませんので奇特なことでもあります。まあ完成後にまた訪問するというお楽しみということですね。

 

ニュースではその西塔三重塔先端に納められていた舎利容器が、推定白鳳期(七世紀後半)のもので、国内最古級とのこと(奈良国立博物館等)。

金、銀、銅の三重の容器に入った「入れ子型」。一番小さな金の容器の中にはガラス製の「舎利」が入っているそう。

まるでロシアのお土産「マトリョーシカ」、そしてオリンピックのメダルの色を思い出しました。

 

複製品を作って塔内に戻し実物は展示に回るよう。

取りあえず来年奈良国立博物館でお目にかかれそうです。

2月19日~3月14日と決まっていますので何とか時間を取りたいと思います。

 

さて當麻寺といえば當麻曼荼羅ですが、そちらも奈良国立に出張していました。その曼荼羅=當麻寺ではありますが、以前京都の

寺町にある「曼荼羅山當麻院天性寺」について記しましたが今一つ京都山科の旧東海道に「當麻寺」があります。ただしこちらの読み方は「たいまじ」になります(場所はこちら)。

宗旨は勿論浄土宗、山号は 弘誓山。山号の文字を一見しただけで阿弥陀如来がご本尊であることを主張していることがわかります(六八弘誓)。

 

本堂前の石塔にも気を取られますがご本尊にお会いしてまたびっくり、伝定朝作の巨大座像です(丈六阿弥陀 2.67m)。

実はこちらにも曼荼羅がありますが、こちらは公開日が指定されていますのでその日に伺わなくてはなりません。

 

かなり前の画像ですが本堂前の庭をうろうろしているところを「どうぞ本堂へ」と声をかけていただき本堂内を撮影させていただきました。

気さくなご住職とご家族のご配慮をいただいて有難く、ご本尊にも感謝いたしました。

 

山科駅からの旧街道を京都方面に歩いてスグの場所に當麻寺はありますが、京都でも穴場的絶妙のおすすめ散策路。

五条別れの道標は少し感動。京都大仏の名も見えますね。

最後の画像は奈良葛城の當麻寺西塔から出た舎利容器。

奈良国立博物館より拝借しました。

 

 

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2018年

11月

15日

夫婦不仲 家光正室 鷹司考子はお公家から 伝通院

昨日の奥方は午前八時発の渋谷行バス(「5号東急」)で都内へ向かいました。

前日にチケットを購入、「さてさてどんなもんだ」とのチャレンジだと。キャンペーン中で片道2500円、そして急ぎの用事ではないという条件が重なったということですね。

 

すると暫くたって榛原静波から空港に上がるという遠回りはかなりのストレスとのボヤキ節。バス乗客は奥方独りきりだとのメールが。

藤枝に着いたときにようやく5人乗車があったといいます。

渋滞に遭遇した人で渋谷-相良間「7時間」と聞いていましたが奥方が「渋谷に着いた」の連絡は13時を回っていました。

予定より遅れたようで5時間以上の時間がかかったのでした。

「よくもまぁ」とあきれ返ったワケですが、あの空港遠回りに関しては余計で腹が立ちますね。

それがネックとなって利用したくない人も多そう。

どなたか言い出しっぺのプライドのためでしょうか。それにしても赤字はあきらかな気がします。

あとは耐力の問題。そろそろ「や~めた」の声があがる頃かも。

 

さて、伝通院の墓域には江戸期大名系の墓塔がズラっと並んでいますが三代将軍家光の正室の考子も眠っています。

この人は鷹司信房の娘で鷹司孝子「本理院殿照誉円光徹心大姉」

この鷹司信房は二条家から鷹司を継承して関白まで登りつめた人ですが公家であってこの信房の名の「信」は信長からという変わりダネ。というか孝子の弟の信平は公家から旗本(武家)と転身していますのでそれもまた「信」の字がそうさせたのか・・・と考えてしまいます。

 

家光と孝子は婚姻当初から「性格の不一致」があったのか早々に別居、離縁されて「御台所さま」の称号は剥奪されてしまいます。離縁も実家に帰されずに江戸城に軟禁状態にあったといわれます。

将軍家にしろお公家さんの家にしろ庶民レベルでは想像もつかない事がおこります。

 

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2018年

11月

14日

相良史料館の新展示品 福田半香の襖

昨日は物置工事の追加部材に塗装をしたあと、この日から催されている「田沼のまちとむらを歩く」展を見ようと史料館へ出向きました。

塗装は朝から空の様子が怪しかったので20㎏の部材を本堂裏の屋根のある場所に運んでからの作業。丁度史料館から出た頃は小雨が降りだしていました。史料館内容は一見の価値あり。

これだけのものをよく集めたと感心させられました。

相良城周辺図は勿論のこと隣町吉田町の坂口谷川下流「福田」(ふんだ)付近の今の流れと違う様子、勝間田と東の初倉、西の法京・大磯(片浜)との境界が記された図なども揃っていて足を止めて食い入るように見入っていました。

 

問題は私の眼。

ひとつひとつ興味深く画と文字を追うのは少々キツいものがありますので、「図録があったら・・・」とつい長谷川氏に無理を言っていました。

耳を澄ましていればその意見をしている方が他に居ましたので画像撮影をファイルしているようですのでいずれ時間と予算を調整していただいて発行していただければと思います。

 

展覧会等に足を運ぶとサラッと見物したら図録を購入しさっさと退場するのが常ですので・・・

 

史料館の今回の主たる展示は特別に2階の会場となりますが、通常展示室の1階には「新顔」の出展がありました。

それが福田半香による襖絵です。

彼は遠州(磐田見附)出身の画家で渡辺崋山の弟子ですね。

 

その襖絵は須々木の庄屋クラスの旧家から出たそうで史料館に寄託されたとのこと。その際、所有者は襖を修復し絵もキレイにお洗濯してからだったそう。

史料館には展示されていない品がまだたくさんありますので。一同に展示するにはハコを大きくしてあげなくてはなりませんね。

そしてまた資料を作成する人員も不足していると思います。

 

画像は1月に檀家さんのお宅に押し掛けて拝見した福田半香の掛け軸。安政五年(1859)作で驟雨(にわかあめ)の図。箱には「夕立ち」とありました。

軸の箱には山下青厓の弟子だった鈴木白華の極書も。

 

こちらの福田半香も山水の手本としてこぞって模写されたそうで、贋作が多いとのこと。

今回初お目見えの福田の襖絵の実物は相良史料館でどうぞ。

岸和田藩の相良絵図とともに・・・

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2018年

11月

13日

入浴怖いが健康の秘訣 こちらにも千姫の墓 伝通院

最近、冬場に風呂場で亡くなる方の件をよく耳にするあまり「酒を飲んだら特に風呂は気を付けて・・・」(入浴時CPA-心肺停止)

などと機を見てその危うさについて身近な方におせっかいをやいていますがこのリスクは「私の事」でもありますから。

私同様に飲酒の習慣のない先代(父)にあっても風呂場で倒れています。心筋梗塞です。

ということで当家で「風呂場は怖い」イメージは当然のことではありますが、それとは逆に冬こそ風呂へは毎日入るべきというデータもあります。

 

それが「毎日の入浴習慣がある人は要介護になりにくい」というものです。なるほどと思いましたね。

齢を重ねていくと風呂に入ることが面倒になるようで、段々とその間隔が広がっていく現実を周辺見てきました。

そもそも今の高齢者世代というものは戦前生まれ、昭和一桁から十年代の方たちですが、かつてそれら皆さんの若き時代は今のように水事情がよろしくありませんから風呂に毎日入るという習慣はあり得なかったでしょう。

 

私の家でも「今日お風呂、沸かす?」などの問いかけが母からありました。小田原時代は道の蛇口をひねれば水は簡単に風呂に溜めることができましたが、風呂の外から薪をくべて「沸かす」という一大作業が必ずありました。

後に湯沸かし器の導入もあって大分ラクになりましたが今のようにお湯をじゃぶじゃぷに使える環境にはありませんでしたからね。よってそもそも毎日風呂に入るという習慣はなかったのでした。

 

しかし今となれば一日の終わりに風呂の中に飛び込んで疲れを癒すということは当然の習慣となっています。

そこで私が見かけたデータは「週7回以上お風呂に浸かる習慣があるグループは、そうでないグループに比べて、自立度が1.85倍高かった」そう。

入浴によって心身ともにリラックスすることは当然ですが「幸福度」アップもあるとのこと。

 

一時半身浴ブームというのがありましたが「全身浴で10分」がベストといいますね。

ただし冬季の脱衣場の寒さ(血圧上昇)対策と入浴前の水分補給についてはケアする必要はありますね。

入浴は健康維持と健康寿命に欠かせないことは確実ですがその導入方法は間違えてはいけませんね。

面倒がらずいづれの時も注意すること不可欠です。 

 

伝通院は「伝通院殿光岳蓉誉智光」・・・於大の方から始まる将軍家菩提寺ですが、墓域を散策すれば江戸期大名クラスの石塔がまたぞろ並びます。

以前知恩院墓域の千姫の墓を記しましたがこちら伝通院にも墓塔が建っています。知恩院の方が分骨によって建てられたものでした。

影がかかって判読しにくいですが・・・「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。

慕われる人は墓が多数できるのかも。

舎利のように遺骨の取り合いの如くになるかも知れません。

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2018年

11月

12日

七卿落ちの一人 澤宣嘉の墓 伝通院

桜木町で起こったバスの事故は衝撃的でした。

観光バスでの各重大事故も記憶に新しいものがありますが、どちらでも耳にするのが乗務員の過酷な勤務状況と健康管理の不十分。

これも色々な職種で聞きますが人手不足が原因だそうです。

バス会社では定期採用は行っているものの十分な数は確保できず若手はどんどん辞めていくと。

会社となれば業務を回転させていかなくてはなりませんので、就業の駒が減れば残った者たちで回して行かなくてはなりませんね。

仕事の量はそのままでやり手が減ればその減った分を残っている人材で就業時間を増やすなどしてあたるのですが、そうともなれば仕事内容はいよいよ過酷。それでは心身ともに壊れるでしょう。

 

京都市内を走る市バスは民間バス会社に委託して経費を削減しようと進めてきたものですがいよいよその目論見は破綻した様相を。その民間事業者は「人手不足」を理由に撤退を表明してしまいました。

ちなみに京都の市バス運転手は公務員となりますし厚遇。給与は48万円で、委託された業者は26万円程度と大きな開きがあるよう。

それで京都市バス事業は赤字が黒字に転換したといいます。

 

同じバスの運転手として業務するならその給与差はどう考えても「やってられねぇ」でしょう。

ヤル気というものも失せますね。請け負った会社としてももっと儲けのある方向へ修正していくというのも判ります。

 

私は寺のバス旅行の関係でバス会社の方とは懇意にしていますが、「まったく人手が足りない」というのは異口同音。

当家愚息に「免許取得から面倒を見られるが寺を継ぐまでどうか」などとの声があがるくらいです。

まさか、あの男に人様の命を預かる責任ある仕事を任せられるワケがありませんが。

 

かといって外国人材を持ってくればイイという問題でもなく。

やはりそれら各対応として今の国内就労者の給与を上げていけば人材は育って行くと思いますが・・・。

企業や国レベルの「儲け」ではなく今働いている個人レベルて報酬を上げていけば人手不足は解決するのではないでしょうか。

格安人材を大量に導入すれば国内就労者の将来の給与の上昇も見込めなくなりますね。

働かない日本人はイラナイという切り捨ての風潮が吹くかも知れません。そもそも給与が上がらなければ景気など良くなるワケもなく。

 

さて当初大河ドラマは視聴しないつもりでいましたが、ここ後半になって山岡鉄舟が出てきた辺りからチャンネルをそのままにしています。

丁度これから「長州やりたい放題」の方向性がうかがえる内容になっていますね。

主役の西郷にとって馴染みだった大久保は敵役となり、視聴者みな様、さぞかし腹が立つところでしょうが、西郷が成敗された翌年には紀尾井町で惨殺されていますね。

 

殆どめった刺しにされる惨忍な仕留め方でしたがそれだけ各方面に恨みを買ったということでしょうね。

それからはいよいよ長州閥が大手を振るう世になって今に繋がっているというのが近代日本の歴史ということです。

ドラマでは長州閥の新政府内で我が物顔、私利私欲の金権政治の走りが会話の中にもありました。

前回辺りの一般人の放った「徳川様の方がよかった・・・」のセリフにスカッとしたところ。

 

元を辿って文久三年(1863)の八月十八日の政変「七卿落ち」というクーデター派(過激派)の粛清追い落としがありました。

長州に匿われたそれら逃避の者たちは明治新政府の要職に就いていますね。

まぁ機運に恵まれたの一言でしょうが。

 

伝通院にはその7人のうちの一人、澤宣嘉の墓がありました。

長州に逃げたあとは各地につてを頼って潜伏先を渡り歩きギリギリのところを生き抜いて明治を迎えます。

参与として要職に就きますが西郷が大久保らに失脚させら下野に至る明治六年に病没しています。

 

伝通院本堂には舟形光背の立ち姿の阿弥陀さんが。三尊形式です。

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2018年

11月

11日

完成間近 拙寺の変な建物 史実無視の尼崎城

空前絶後と言っていいのか昨日報恩講当日は晨朝(午前6時)用意の時間帯から半袖OKの温かさ。

殆ど「夏」といっても過言ではないくらいの一日を楽しませていただきました。

私の報恩講の記憶といえば北風と白い息そして総代さんたちの鎮座する庫裏玄関にはストーブというところ定番ですからね

やっぱり暖冬というか温暖化傾向なのでしょうかねぇ。

後者でしたらあまりその快適を喜んではいられませんが、たまたまの天気のいたずらでしたらサプライズなおかげさまでした。

そうなれば逆に酷い目に遭遇することもあったりで、この件平均化されるのでしょうが。

 

さて、拙寺の土蔵撤去後の跡地には当初は物置、しかし「耐震化して庫裏倒壊後の退避場ともしたい」といったリクエストをしましたので、大層立派な様相となりました。

途中であの様子を見て「3にしちゃえば・・・」なる意見を聞きますがそうしたいことはやまやまなのですが。

3階と2階では基礎と柱の太さが違ってしまいそうなればさぞかしもっとお高い「物置」となってしまうのでした。

ということで、現状でも物置では勿体ないという気持ちが芽生えてから、2階部分は私の住空間とするとして、1階部分はイベントや展示スペースにできたら・・・などと思いついたところです。

掛軸の修復等を進め解説付きで展示してみたいと思います。

 

まったくノー天気に着手依頼したことは手洗い、流し等の設備がまったくないというところ。そこが使用を限定させてしまっています。

「思いつきだけで生きている」と奥方がため息をついています。

 

先週末に折半屋根の工事が殆ど完了したかの図。あとは大工さんが入ります。

 

やはり思いつきでお城を建てるという有徳人については以前記しましたが(尼崎城)やはり「ちょっとね・・・」という気持ちがあります。

発見された相良城の地図に「天守はなかった」ということから三重の天守の夢を見たばかりにイイ加減なものを建てなくて良かったとも記しました。

また吉田の小山砦について天下のインチキ城の如くの罵詈雑言を浴びせている私ですのでその尼崎城を地元の皆さんが喜んでいるということを差っ引いてももやもやというものが残ります。

まぁ遊園地や史料館のレベルとして考えてあげればいいのでしょうね。

ちなみに城郭考古学の奈良大千田嘉博さんは、石垣の積み方も伝統の技法でなく「史実を踏まえる必要があり、本当の姿も示してほしい」との談。本当である(あるいは本当に近い)ことが大切であると。

出鱈目なモノであっても価値観の違いがあるのでしょうがそれ(史実無視)を「恥」と思うかについては地元の皆さん次第です。少なくとも観光資源となるかどうかは未知数でしょうね。

 

まぁこれから積み重なるメンテと維持費で悲鳴があがってくることも想定できます。

 

「城といえば天守閣」との連想をする人ばかりではないのですからね。天守閣や櫓、御殿、屋敷など何もない(遺構)「城」を好んで(・・・ありのまま重視)廻っている方たちからすればそれを「邪道」というのかもしれません。

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2018年

11月

10日

本日は拙寺報恩講日中 延仁寺 親鸞聖人荼毘所

昨日は雨の降り出しが早く、殆ど寺楽市の支度ができませんでしたね。

10日の報恩講の天気の晴れは確実ですが、欲を言わせてもらえばやはり・・・前日の雨というのは勘弁願いたいところでした。

何せ朝が忙しすぎになります。

その日はたくさんの女性陣にお集まりいただきましたが、ドシャ降りでは境内の掃除はできませんね。

会館のトイレ掃除と焼き芋用の芋のセッティングを(新聞紙を濡らして一本ずつ包んでからさらにアルミホイルで包みます)して早々に解散。雨中お集まりいただいた皆様に感謝いたします。

ということで今回は(今回もまた?)省エネ・省略系でやらせていただくことにしました。

とにもかくにも雨がやんだ後の暖かいお逮夜は有り難いことでした。無風がなによりですね。

 

さて、延仁寺の墓域はお寺の前の道路を隔てて北、阿弥陀ケ峰側。そちらに御開祖(親鸞聖人)を火葬したといわれる荼毘所があります。

参道脇の覆堂にはさすが京都の古くからの葬送の地、鳥辺野を思わせる石仏が並んでいます。コロっという具合にある仏頭が目をひきます。その道を行くと薄暗い森という静謐の雰囲気の中、親鸞聖人の荼毘所はありました。

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2018年

11月

09日

御伝鈔下 第六段「洛陽遷化」の東山鳥辺野延仁寺 

10日の報恩講日中に備えて婦人部のみなさんや楽市運営委員等が準備の為に前日9日午後に集合することになっています。

しかし予報はどう見ても雨。

前線の通過がありますので場合によっては突風も有り得ます。

ということで、9日は準備といえどもロクな仕事はできないでしょうね。

門前の幕と提灯は設置しないのは致し方ないとして本堂の幕はどうしよう・・・というところです。

 

テントは前日に設営することになっていますが、雨の中での作業ではくさくさしてしまいますので、昨日のうちに3張分のフレームのみ立ててしまいました。

天井のシートは当日の朝、人出のある時にやっつけるという算段です。

突風予想の中、それを張るリスクも頭をよぎりましたから。

 

ちなみにテントのフレームは面倒ですが最悪私1人でも立てられます。しかしさすがに1つめでイライラっときて2号3号は本堂ご本尊前でお華の支度をしていた奥方に声をかけました。

最初の2本の支柱を支えられる手があればカンタンです。

 

さて、私の仕事としては御絵伝を掛けるという少々面倒な作業が待っていますが、御絵伝と言えば御伝鈔といういわば解説書がセットにあります。

御伝鈔のクライマックスに御開祖の遷化の様子が描かれたシーンがありますがそれが表記、下の第六段「洛陽遷化」です。

「洛陽」とは京都の事。

勿論中国王朝の都に因んでの名ですが、「洛中洛外図屏風」や「上洛」の如く「洛」一文字でも「京」という意味になりました。

 

御伝承下第六段「洛陽遷化」

 

『聖人 弘長二歳壬戌仲冬(1262年11月)下旬の候より、いささか不例の気まします。

それよりこのかた、口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。

声に余言をあらはさず、もつぱら称名たゆることなし。

しかうしておなじき第八日午時頭北面西右脇に臥したまひて、つひに念仏の息たえをはりぬ。

ときに頽齢九旬(90歳)にみちたまふ。

禅房は長安馮翊の辺 押小路の南、万里小路より東 なれば、はるかに河東の路を歴て、洛陽東山の西の麓、鳥部野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる。

遺骨を拾ひて、おなじき山の麓、鳥部野の北の辺、大谷にこれををさめをはりぬ。

しかるに終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おのおの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲しみて、恋慕涕泣せずといふことなし。』

 

「長安馮翊の辺 押小路の南、万里小路より東」と聖人のいらした場所が記されていますが未だ特定できていないというのが本当のところ。蛇足ですがこの「長安」も中国首都に倣っての京都の事です。

 

そして延仁寺。西大谷の鳥辺野にあった火葬場の寺といわれていてやはり場所に関しては不詳です。

現在は京都市東山区今熊野にあります。

厳密いう聖人の荼毘所と断定はできないようですが当流大谷派としてはこちらが荼毘所ということで。

また延仁寺の名も荼毘所の指定も明治以降のものになります。

祖廟と本廟のダブルスタンダードがあるようお西にはお西解釈の荼毘所があるかと。

両派とも本質は「よくわからない」ということで、強く「ここです」という宣伝はしていませんね。

 

今熊野は東大路通。京都駅から京都国立博物館を左に見て東山七条T字交差点を右折。約500mで今熊野交差点に。延仁寺はそちらを左折して細い道に注意しながら登っていきます。

バスツアーで皆さんをお連れしたいとも思いましたがさすがに観光バスは無理でしょう。

京都国立からもそう大した距離ではありませんが、やはりあの登り道におそらくクレームが出るでしょうね。

場所的には豊国廟、阿弥陀ケ峰の南になります(場所はこちら)。

 

本堂の阿弥陀さんにご挨拶させていただきましたが阿弥陀さんは舟形光背を背負っている様子。

大谷派といえば放射光背を思いますが珍しい景色です。

なにか由縁があるのでしょう。

洛東山の山号がそのだいたいの位置を示していますね。

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2018年

11月

08日

「伝通院」は「於大の方」の法名から 将軍家菩提寺

以前お医者のお話で「人体は腐りにくくなった」ということがあったのを思い出しました。

ありとあらゆる防腐剤を体に蓄積してきたということですね。

 

葬儀社は夏場でなくとも亡き人のお腹の上にドライアイスを置き、式まで時間があれば頻繁にそれを取り換えに来ることは承知していましたが、ひょっとすればその件、過剰なサービスだったのかも。

私もこの世界に入って、夏場の枕経にて失礼ながら「腐臭」など感じたことはありません。

だいたい香を焚くという行為は「仏になったかならないか」(勿論当流にはそのようなタイミングを区切る何かはありません)ではなく殆ど古来から「消臭」の役目でしたから。

 

ちなみに香花の樒(しきみ)や墓地の結界に植える彼岸花は動物除けでした。その毒性を期待したものですね。

 

「マイクロプラスチック」による海洋汚染について拙ブログでも何度か触れていますが、それはプラスチックのストローやレジ袋、ペットボトルどころの騒ぎではないというところを頭に入れておかなくてはなりません。指摘を受けてなるほどと思ったのが洗顔剤歯磨き、化粧品に使用されているスクラブやマイクロビーズなどもそうです。

ちなみに「花王」のサイトには既に代替品を導入しているとのこと。直接下水道に流して海に流れるものですからそれら特にイケませんね。

 

またノニルフェノールなる有機化合物はプラスチックやゴム製品の劣化・腐食を防止するなどの添加剤ですが、そのような添加物も海洋生物が摂取、結局は私たち人間がそれらを口にして発癌や未知なる病の発病につながるのでしょう。

人体が「腐敗」しなくなった件、その「環境ホルモン」(「沈黙の春」)としても人への加害の疑いのあるノニルフェノール+αのプラ類を減らしていく心構えが不可欠です。

 

取りあえずまた目に見えるところ、年間使用300億枚のレジ袋、200億本以上のペットボトルを何とかしなくては。

このままだと20年後の海は今の10倍プラで汚染されるといいますので。

 

さて、ここのところ伝通院について記してきましたがその「伝通院」の名称は家康の母親、「於大の方」の法名「伝通院殿光岳蓉誉智光」からでした。

 

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2018年

11月

07日

「ジョセフ岡本三衛門」供養塔 伝通院

報恩講日中を週末に控え大分各家庭でのお取越しはこなされてきました。

昨日も本通りにてお取越しがありました。

帰り際に「安倍文殊院に行ってきました」と声がかかりました。私はそのお寺についてはまったく不詳。

日ごろ、仏像だの寺だのと並び立てている私ですが・・・。

 

奈良についても駆け出しの身ではあって未知の仏像に寺・・・またぞろあります。

そちらのお寺には快慶作の「かなりデカイ」渡海文殊(国宝)が脇侍4体と一所に並んでいるとのこと。

 

奈良は最近の私の趣向です。行きたいところはたくさんありますがいずれその「乗り物」(獅子)と文殊さんの威風堂々を拝したいと思ったところです。

 

さて、伝通院にはスコセッシの映画「沈黙」(原作 遠藤周作)のイエズス会宣教師「ジュゼッペ・キアラ」(ジョセフ岡本三衛門)の供養塔があります。

元このお寺の隣には無量院というお寺があって(明治以降廃寺)彼が亡くなった際にそちらに葬られたからです。

墓碑は現在調布の神学院に移されています。

 

映画のネタバレですが彼は拷問を受けたのちキリスト教を棄教し江戸に連行されて日本人の妻と日本人の名、岡本三衛門を名のります。

生涯その身は幽閉されたままで自由にはなりませんでした。

 

供養塔には法名「入専浄真信士霊」「貞享二乙丑年七月廿五日」 碑文には日本名と「神父」。シチリア王国出身ということで駐日イタリア大使の名が見えます。

 

①画像は文殊院の文殊さん。HPより。

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2018年

11月

06日

「奇妙なり八郎」清河八郎の墓 彰義隊シンポジウム

そうイイお天気とは言えませんが遠州はかなり暖かです。

風がないというのが一番うれしいことですね。

ここ1週間程度は気温高めのご褒美が味わえそうで大いに満足。

 

昨日は報恩講前の恒例「お磨き」。

新町地区の皆さん14名が集まって仏具磨きに励んでいただきました。

今週末に報恩講を迎えますがこの1年もあっという間に過ぎてしまいました。いやはや時の流れに抗うことはできませんね。

 

さて、先日記した伝通院、そして清河八郎。

表記、「奇妙なり八郎」は司馬遼太郎の小説のタイトルですが、そのタイトル通り清河八郎は「奇妙」というか相当変わった男でした。

出羽国清川村(山形県庄内町―庄内藩)と江戸とは離れた地に於いて当時武士の本流となっていた「攘夷と尊王」をセットにした思想にのちの大勢がそれを「倒幕」というカタチに昇華した突然変異の道筋をまるでハナから倒幕思想を持ちあわせていたが如くそれを心に秘めて急先鋒渦巻く江戸―京都に上った金持ちのボンボン・・・といった感じ。

時期的には江戸市中で進行していた各事案(井伊直弼からみ)に影響されたと見るのがスジでしょうが。

 

尊王攘夷+なぜか倒幕などの大義は一般の人からすれば自ら人生にまったく関係ない事象といえなくもない事ではあります。

それを財力をベースにその頭の良さと弁舌の美味さ、人を惹きつける力もあったのでしょう私塾の開設まで行って「倒幕」を隠し主に「攘夷」をうたって多くの人を集めたのでした。

山岡鉄舟に石坂周造、松岡万なども合流(虎尾の会)していたといいますので余程の力量があったのでしょうね。

 

清河のその行動力がやはり結果的に倒幕へと繋がったのかも知れませんが(彼の死後、明治政府から一定の評価)、京都上洛後スグにその「尊攘」(そして本心「倒幕」)を表して佐幕派からは総スカンを喰って分裂。幕府からも要注意人物としてマークされることになりました。

京都に残ったグループが新選組に発展したことは先日記しました。

 

江戸に戻った清河八郎は麻布の赤羽橋で斬られますが彼を斬ったのが会津藩お馴染みの佐々木只三郎ら。

京都見廻り組、今井信郎と近江屋にて「坂本竜馬を斬った男」でもあります。

 

こちらは有名な話ですが赤羽橋にて清河が斬られた報を聞いた山岡鉄舟は石坂周造に走らせ首を切り落として持ち戻ります。

この本意は彼の懐にあった連盟状を取り戻す事だったといいますね。

書状が表に出るということは山岡ファミリーは勿論、攘夷派の面々の名が記されていましたので幕府から追われるハメになるということでしょうか。

首は山岡英子(鉄舟の妻)が保管し伝通院に葬ってのちに遺族に渡したといいます。

画像は伝通院の清河八郎と獄死した妻、阿連の墓。

 

どこかでも記していますが、拙寺先祖は徳川様のおかげで今があるというところ。

幕末の騒乱期はおそらく寺と言う立場とわが身可愛さの中、忸怩たる思いで明治期を迎えたと思います。

「強い主張」などして目立てばたちどころに反意を持った者から恨みを買う時代ですし。

 

きっと東海道と離れた田舎町(相良)で息をひそめていたのでしょう。

また私の奥方の母方は会津藩中の商家出身。

縁あってその残り少ない資産をこの貧乏寺に資してくれています。

そういうこともあって、どうしても「負け組」ではありますが「佐幕」という語には心地よさを感じますね。

 

このほど

「彰義隊の上野戦争-明治150年に考える」と題したシンポジウムが開催されるとのこと。

彰義隊の「高貴なる敗北(Nobility of Failure/I. Morris)」についての講演は実に興味がありますね。

 

期 日:2018年12月1日(土曜)

時 間:午後2時~午後5時半(開場・受付は午後1時から)

会 場:東京大学大講堂(安田講堂)

       東京都文京区 本郷7−3−1

交 通:東京メトロ南北線「東大前」

   丸ノ内線・都営大江戸線「本郷三丁目」下車

入場料:2,000円(全席自由・先着順・当日払、中学生以下無料)定 員:1,100名 

 

 

 

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2018年

11月

05日

江戸期幼小児向き教書(往来物) ベストの「今川」

お国の政策において「何も対策はしていないのでは・・・」(あるいは対応しつつも進捗効果が見られない)と思わされる件は多々あって挙げていればキリがありませんが、今度発表された小中高生の自殺者数が高止まりして減らないという件、他の色々の無策の中でも特に焦燥感が増します。

人工減少傾向の中・・・、などと言えば叱られそうですが我ら老いの坂を急加速して転がっている身としては前途有望な若き命が失われていくというのは勿体なさすぎの感。

 

先般も「幸福度ランキング」なる数字のお遊びを記しましたが、日本全国津々浦々でこういった現象が繰り広げられているのなら両親は勿論親族縁者から近隣に住まう者そして友人たちみなもって不幸感が漂いますからそのランクが凡庸であるのは致し方ない事か・・・。

 

以前「戦争にとられる」ことが「死の覚悟」として若者の脳裏を支配した時期がありましたが、今は「学校に行くこと」が死に繋がっていることだとしたらいやはや不幸の度を越しています。

 

全体の自殺者は2003年の34000余でピークをつけ減少傾向(2016年22000弱)の中にあって小中校生の場合は高止まりのまま。ここ10年は年間300人前後で、時に350人を超えた年もあるとのこと。15~19歳では自殺が死因の1位。10~14歳では2位(厚生労働省)

 

それぞれの悩み(自殺を誘発する原因)がありますが学業と学校の問題が1位で36%。家庭問題が23%。健康問題が20%。そして1位の学校問題と同じだと思いますが「いじめ」のくくりでは2%だったといいます(2016警視庁しらべ)。

学校に行って子供が死ぬなどこれは異常事態ですよ。

そこやかしこの家庭には引きこもっている若者がまたぞろです。これらを放置しているのでしたら政治という意味が無いに等しいと言わざるを得ないでしょうね。

 

「盲亀の浮木 優曇華の華」という奇特な命を頂いた不思議の意味を知らず軽々とわが身を放じてしまう幼き心を支えるような社会が切望されます。「自己責任」なる四文字が一つ覚えのように発想され、その考えが跋扈している社会ではやはりダメですね。それだけで「優しさ」や「思いやり」というものを感じられませんから。

 

※ 24時間こどもSOSダイヤル  0120-0-78310

※ いのち支える窓口一覧 都道府県

      http://jssc.ncnp.go.jp/soudan.php

 

 

さて、今は若き書生さんたちへの指導というものは難しい時代となっていますが日本の歴史の中ではどうだったのでしょうね。

若者のひきこもりや自死などということはそう聞きませんし統計などありませんからまったく知り得ませんが。

ただしその幼少時教育のうち江戸期のどちらにでも採用、重宝に扱われて伝播した「教科書」がありました。

それが表記「今川」でした。

 

今川了俊が自らの養子にした弟の仲秋に対して遺した訓戒書で「今川了俊愚息仲秋對制詞条ゝ」。通称「今川帖」「今川状」略して「今川」です。

それは表紙に「今川」とあることからですね。

一瞬「応永十九年(1412)」とあります(没年永享元年と記された物も)ので書物の古さと勘違いさせられますがそれは今川了俊(貞世)当初の年のことです。

彼が亡くなったのが1420ですから次代に伝えるという気持ちが感じられます。

 

江戸初期(1630)に刊行されて以来、幼少時教育の手本となり勿論書写手習いからはじめてのその訓戒、倫理道徳的各項を行動規範として頭の中に叩き込まれました。「往来物」と呼ばれる手習いの一つです。

「時代が違う」などと一笑されるでしょうが、内容は結構面白いですよ。

「23条と後述」の体となりますが、追加発行により形式は変わっているようです。

 

基本的にこの訓戒の主題は「文武両道」。

その中、無益の殺生、罪人への公正な裁き、領民に対する心構え(非道の戒め)、そして自己の奢侈、先祖と祖先からの建造物保持、神社仏閣への敬意、忠孝怠慢、賞罰の公平性、臣下を見て己を慎むこと、他人の不幸を己の利とせず分限相応、賢臣と侫人の見極め、非道の富裕と正しき零落、遊楽と家職、上下や友人の善悪にその善悪の見極め・・・等々。

 

武家の心得として記されたものですが、江戸期の寺子屋等でこちらが持て囃されたのは庶民に於いてもやはり重要な生き方の規範であると解されていたからでしょう。

 

「120番」は拙寺解体土蔵から出た文書に私が付けた番号。

120番目ということです。

書によっては表現や順番が多少違っているようですがだいたいこんな感じ。

 

★一、不知文道 武道終に不得勝利事

★一、好鵜鷹逍遥 楽無益殺生之事

★一、小過輩不遂糺 明令行死罪事

★一、大科輩 為贔屓沙汰 至宥免之事

★一、貧民 令沒倒神社 極栄華之事

★一、祖先之山庄寺塔 敗壊 荘私宅事

★一、令忘却君父 之重恩猥忠孝之事

★一、軽公務 重使用 天道不恐働事

★一、不弁臣下善悪 賞罰不正之事

★一、我臣如知 之君又可為同前事

★一、企過乱両説 以他人愁楽身楽之事

★一、不知身分限 或過分或不足之事

★一、他人之理を失 濫望致し権威に募る事

★一、嫌賢臣 愛侫人 致沙汰之事

★一、非道而冨 不可羨正 路而衰不可慢之事

★一、長酒宴遊興 勝負 忘家職之事

★一、迷己利根 就万端嘲他人事

★一、人来則 構虚病 不能対面之事

★一、好独味 不能施人 令隠居之事

★一、出家沙門 尤致尊崇礼可正之事

★一、分国 立諸関令 煩往還旅人事

★一、武具衣装 己は過分 臣下は見苦事

★一、貴賎不弁 因果道理 住安楽之事

 

後段は割愛。武家としての統治の在り方が主。

検索していただければヒットしますのでそちらはおまかせいたします。

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2018年

11月

04日

「冬は怖い」の根拠 入浴時CPA(心肺停止)の件

昨日の本堂はこの秋初めて石油ストーブを1台稼働させました。私自身それほどとは思いませんでしたが先週の法事では「寒い」の声がありましたので念のためということで。

すると生まれたての赤ちゃんや子供たちが一処していましたのですこしでも暖かな場所を作っておいてよかったな・・・と。

 

体感温度に関して、人それぞれではありますが参列者は終始じっとしていますから寒く感じるでしょうし一方私の方はお腹から声を出しているためまったくもって寒さなど感じません。

そのギャップについて先回りして配慮していかないと「本堂苦痛」のイメージを増長させてしまいますね。

タダでさえ法事といものに関しては、「忍耐の時間」と解している方が多い様に感じますので。

 

また、私も各所で冬季「寒い」と思ったら危険・・・と体感不調の予兆についてその感覚に注意したいということ、特に室内温度

について家庭内各所ギャップ無く温めることが肝要・・・などと話していますので「寒い」などと訴えられる事は反省しなくてはなりません。

 

さて、「わが国における入浴中心肺停止状態(CPA)発生の実態」

     -47都道府県の救急搬送事例 9360 件の分析-

なるデータがありました。

東京都健康長寿医療センター研究所ほか多数の研究組織がまとめたもので救急隊が現場に行ったとき浴室で心肺停止状態(CPA)事例9360件についてのデータです。

 

拙ブログでも何度かそれに触れていますが当地相良においてもトイレや浴室で亡くなってしまう例はよく聞きます。

亡き父も浴室で倒れました(心筋梗塞)が幸いにも復活、しかしその後脳梗塞にて亡くなりましたが。

 

要は「冬場の家の中(風呂場・・・)ほど危ない」ということですがそれが「伝説」ではなくおそらく事実であるに思える数値が並んでいました。

 

「これは面白い」と思った点は都道府県中一番にその事案が発生しにくい地区が沖縄県であるのは当然といえば当然(冬場の家の中の温度が高い)ですが断トツ2位というのがなんと北海道という不思議。

そういえば北海道の暖房への考え方は(あまりに寒すぎるからか)部屋個別ではなく家の中全体だといいますね。よって家に居さえすれば「温かい」ということ。

温かい=安全です。そして当然に「寒い=危険」なのでした。

 

画像はその研究機関がまとめたPCA発生の月別グラフと発生時間帯。冬場の寒い頃の発生が手に取るようにわかります。

時間帯も「一杯やったあとの入浴時」ということでしょうか。

年齢別では65歳辺りから急上昇して70代後半から80代前半がピーク。

厳冬期は風呂場を温めておく等、ひと手間かけることが肝要ですが、酒を飲んだら風呂に入らないこと、外で飲酒する機会には自身の健康ケアは特別に考えないといけません。

 

それとともに世の中には冷たい風潮が流れ出していますのでそういうことに対しても、もしかして「自己責任」なんぞと揶揄する人がいるも知れません。くれぐれも自身大丈夫は禁物、冬のお気軽、ズボラ行動には注意です。

 

私はその語でもって人を非難することに首を傾げるようなりました。

まずは「人生自己の責任」で生かされているに決まっていることですのでそれを言われたとしたら「あんたはどうよ」ってところですね。

中には「秘書のせい、女房のせい」という御仁も見かけますし。

 

 

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2018年

11月

03日

昭和51年1976 相良城再建を推進する会の件

やはり今回の静岡大停電台風は遠州各業態隈なく被害を及ぼしていますね。昨日は農家のハウス大変の件をうかがいました。既に植え込みが終わっているハウスのビニールが飛ばされてしまったと。

こつこつとビニールを張りなおし完了したそうですがこの秋、暖冬気味で何とか助かったそう。

 

私も北西風がやんだこの数日の外仕事は薄着に戻して動いていました。風の無い良いお天気の下で気を詰めて仕事をすれば汗が出てくるくらいです。

昨日はナギの木の伐採(軽一車分)を主に行いました。

 

毎年恒例の赤色ハイビスカス用に工作している自前の温室は、前年の地植えベンジャミンが枯れたためにパイプを短くして設置しなおしました。さすがにベンジャミンは南遠といえども地植えは無茶でした。尚、ビニール張は来週あたりに行う予定です。

 

さて、相良城の件、昨日の続き。

今から半世紀ほど前、相良が「牧之原市」などいう野暮な名ではなく「城下町相良」として胸を張っていた頃の件。

よく言われていた、当地の一大キャンペーンの一つ「相良城の再建」についての冊子。こちらは昭和51年(1976)の年号が入っています。

 

今回画像は②→①が正順。

相良の陣、砦、城の推移がかなり端折っていますが適当に纏められています。

やはり「天守閣」の三文字に拘っているところがありますね。

どこかでも記したことがありますが「城」といえば「天守閣」というイメージは致し方ないにしろ、当時はその勇壮な天守閣は当然にあっただろうと思われていてそちらを復元したいというパワーが蠢いていたのでした。

相良「御殿」の構造が図面で残っていなかったことから再建運動は頓挫してしまいましたが、今となっては強行に建設しなくて良かったと思うばかりです。

吉田の小山城の見苦しさと同類になってしまいます。

尚11月3日は小山城まつり。模擬天守の下の広場にはたくさんの人たちで賑わいます。

私は午前法事、午後からペンキ塗りの予定です。

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2018年

11月

02日

相良城三重櫓 岸和田岡部の古地図 11/13(火)より

相良の「乃庄」といえば釜飯。

ブラジルからやってくる叔父一家は必ずそれを所望します。

先日もやはり叔父たちがやってきたため釜飯を自宅まで運んでいただきましたが、現在は店は開けずに限定メニュー配達のみとなっています。

それは奥様の体調不良によるもので一時は配達すらもしていずに店を閉めていました。配達のみの営業は助走段階。いよいよ調子が戻ってきたことから今月中旬あたりより店の方も開けて頑張るとのこと。

 

この時期といえば「乃庄」ではカキフライが始まりますので期待したいところです。その旨境内でお会いした奥様に伝えると、「今年は台風で浜名湖のカキがやられて出荷が遅れている」と。

先日もゴルフ場の植栽の仕事をされている方が、台風被害の樹木の片付けで休みも取れないとヘロヘロになっていましたが色々なところで台風の影響が出ています。

 

さて昨日の新聞紙上(地方版)にもありましたが、岡部岸和田藩の旧庄屋から出た相良城の地図が相良史料館でお披露目(複製)されることになりました。

相良では初めての企画です。

何故岸和田から出たかといえば老中松平定信による相良城破却の首班として藩主岡部長備が指名されたからです。

はるばる大人数を連れて大坂からやってきたのでした。

庄屋は藩主お目見えの前に相良に先乗りして詳細図面を起こしていたということです。

図面では天守閣ではなく「御殿」。三重櫓の文字は門と並立している図で内堀に接しています。どう見てもそれを天守閣というには首を傾げなくてはいけなくなります。

これまでのいろいろな書物に記された「三重櫓の天守閣」はなかったと断じていいのかも。

 

「田沼のまちとむらを歩く」-昔の地図を見よう!-

11月13日(火)~12月2日(日)9時~16時 牧之原市史料館

 

乃庄(根上がり松の隣です)の再開は中旬以降とのことでカキフライはそれより遅れそうですが釜飯は食べられるはずです。

一応は定休日等御確認を。

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2018年

11月

01日

病と天災 あの台風、京都名刹も散々 高山寺開山堂も

この秋一番の冷え込み。

気温的には17℃と大したことはないのですが遠州特有の北西風が吹き出して体感温度はずっと低く感じました。

ということでこの日をもって半そでシャツ1枚というのはあきらめ、その上に一つ着込むことにしました。

「粋がって薄着をして」(奥方)、風邪でもひいたら後悔することになりますからね。

ただでさえ喉(気管支)の調子は完全ではありませんので。

この手の不調で3か月経ってまともになれないことなど未だかつて無かったことですから、免疫力の低下を疑っています。

というか一言で「齢」なのですが。

 

「齢」のせいとはカンタンに言いますが先日はその思考を完全に停止させられるような死についてある法事のあとに聞かされました。

その方のお姉さんが「大動脈解離」で突然倒れたということでした。その方の年齢から推測するにその方は40代と思われますのでまったくその「齢のせい」などとは言えません。

私が20代の頃、同年代の女子がやはりその手の病で亡くなっていますのでしかりです。

 

その方が後悔させられたのは、お姉さんは検診にて若干の異常を指摘されて、「次回は念入りに」と再診を約していたこと。

厳しくも結果的に「次」はなかったということですが、私たちの命というものは偶然の中に生まれて、奇特に長らえていることを今一度思わされたのでした。

 

先般は私の以前の活動エリアでもあった桜木町駅近くの国道16号でのバスの事故の件も衝撃的でした。市内巡行のバスがあれほど大破する様子を見たことがありませんでしたし。

その原因が運転手の病といいます。

睡眠時無呼吸症候群で運転中に意識を失ってしまったとのことでした。

法的責任についてともかくとして、そのことも私たちの病についての認識を改める必要があると思ったところです。

しかしながら基本、人というものは「自分は大丈夫」という基幹的発想の上に立っていますので「お前も死ぬぞ」なる警告があったとしても「合点はするがそれはそれ、異次元のこと」と笑って済ますのでしょうね。

 

天災といえば先の台風は御前崎を中心にかなりの被害(蓬莱橋)をもたらしましたが京都でもその前の台風によって多くの名刹が痛んでいました。

西本願寺の壁が崩れたほか、仁和寺、平野神社、鞍馬寺そして高山寺などなど、そこいら中です。

そのうち平野神社の拝殿は倒壊。こちらは平安遷都の際に平城京から移築されたといいます。

古刹というものは気の遠くなるような時間とその価値がありますし、今度の台風被害の状況が半端ではなかったことを思います。

藤枝渡辺商店(瓦)が拙寺報恩講の寺楽市出店を見送る理由はそれらへの対応も入っていることでしょうね

 

上記でも鞍馬寺と高山寺などは重機が入れない山腹にありますので、倒木撤去と修繕などヘリコプターの手を借りなくては無理という場所があります。

何せその寺のある山ときたら樹齢400年クラスの大木が根こそぎ倒れているようです。

資金的にもかなりの出費になることは必定。

お寺としては秋の紅葉シーズンを見込んで何とかしたい気持ちがあるようですが、人の手だけでは仕事は遅々として進んでいないようですね。

 

画像は参道倒木によって通行不可となっている高山寺

①の参道前の「不許飲酒」はわかりやすい結界(戒壇)。

大抵は「禁」か「不許」の次に「葷酒入山門」というのがオーソドックスです。

②が倒木が屋根に当たったままになっている開山堂。

 

最後の画像の石水院(国宝)は通常通り公開しているようです。

11月1日(木)から12月2日(日)までは「遺香庵」という茶室が公開されるとのこと。

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2018年

10月

31日

江州佐々木南北諸士帳 矢守城に杉立又九郎

この頃の「見苦しいもの」と徒然なるままに記せば渋谷のバカ騒ぎの件。

私どもの学生時代といえばやはり渋谷辺りで各催しがありましたが、あれほど破目を外すような無茶な振る舞いには至らなかったかと。

「みんなでやれば怖くない」という集団心理と祭りは無礼講であって少々の脱線も「許される」のだという勝手な思いがそうさせるのでしょうね。

 

特にマスメディアも煽り気味。

「○○が本番」などと報じれば成長段階の弱いお頭弱そうな若人は「じゃあ行こう」になるでしょう。それに負じとお頭の弱い私が言うのですから間違いありません。

マスコミはこの報道は放ったらかしにして当局は機動隊でも何でも動員して迷惑行為・暴力・違法行為に対しては粛々と検挙、お仕置きをしてあげるのが一番かと思います。

 

政は「まつりごと」というだけにある程度の許容と寛容の立場をとるものなのですね。民が阿呆になって適当に不満の捌け口を見つけてくれることは為政者にとって都合の良いことですから。

 

あの渋谷は世界でも稀ともいえるバカバカしい醜態を曝しているような気がしてなりません。

 

さて、昨日の矢守の続き(場所はこちらこちらも参考まで)。

矢守の中心地、というか矢守バス停の脇には矢守城(屋守城)の標識があります。

愛知川と並行して琵琶湖に注ぐ宇曽川に合流する安壷川と小河川を堀にした平城、屋敷の址です。

 

元は矢守氏の築城とは言われますが杉立高政・高秀の名が六角氏(佐々木)家臣団としてあり、江州佐々木南北諸士帳の愛知郡、矢守城には佐々木随兵「杉立又九郎」の名が見えます。

当時(永禄三年1560)は浅井氏の勢力が六角氏を蹂躙している頃でこの矢守城は浅井方の手に落ちて杉立家は平井(居)城に逃げ込んだといいます。

 

どう見ても要害性はそう感じられませんので、大軍による包囲には脆弱であることは推すことができます。

これはこの地の城館に共通して言えることですがまっ平の野原に多少の河川と小土塁で仕切ったものですからこれはやむを得ないでしょうね。

六角の観音寺城や浅井の小谷城のスケールからすれば雲泥の差。ここでも当時の力関係がよくわかります。

 

⑦は城址から街道を隔てた光源寺側の街区。小さな水路が入り組んでいる様子。

⑧は光源寺境内の御開祖像。

 

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2018年

10月

30日

愛荘町矢守の二ケ寺で見た標語 ラクになろう

先日は「世界幸福度ランキング」なる各国国民の幸福度というものを数値化して上から並べた順位が「日本は53位」という件に少々唖然とさせられた件を記しました。

そのあとに驚いた数字といえば、日本国内の引きこもりの人の数は予備軍含めて70万人というもの。

就労人口が少ないとか人工減少の危惧とか言っている中、それだけの数の人たちが自室、あるいは自宅に籠りっきりだというのですから。時に「自分の趣味」のみを目的の外出はする、という人が予備軍だそう。

 

その原因、理由は色々あって元から障がいのある方から何らかの病の発病や、学校や社会の中での経験からメンタル的障害に陥るなどなどです。

 

就労せずに親の年金目当てで放蕩生活をした挙句、親や親族に反発して自傷・他者(親へ)傷害行為に及ぶなどの事件を耳目にするようになりましたが、まったく痛ましいことです。

親の寿命など後先思量せずに、浪費のみに明け暮れ親の年金を喰い潰してしまうということに関して通常思考がされていればいわゆる破綻状態を推測できるのですが、やはりそこのところの修正が効かない点は、やはり病的でもあります。

病気であるならある意味致し方ないという面もありますが・・・

 

ではその病的な欲求(独りだけでいたい)の発達が自己の疎外感から起こっただとすると・・・

やはりそうさせたのは社会(学校)のあり方であると考えるのが私どもの反省すべきところ。

大切な事、人生のウェイトを掛けるべき要所、その目的について正確に伝えられなかったなどなど。

 

ただただ「やればできる」「努力すれば報われる」「大丈夫」という根拠レスな励ましと得るべき「宝物」(たからもの)指示と暗示の誤りを重ねてきた結果なのかも知れません。

 

さて、近江百済寺から愛荘町、琵琶湖に宇曽川が注ぐ方向(県道28)に進むと香之庄。

香之神社前の宝篋印塔を左手に進むと右手に大谷派の養専寺がありました。

そちらの標語

「あなたはいったいどうなりたいと生活しているのですか?」は漫然と日々生活を送る者にとって(私も含めて)厳しいお達しでした。

 

その道をさらに進むと面白い地名「野々目」があってこの「目」とはここからそう遠くはない場所の「目賀田」と同じ「目」なのかなど(自分の目なのか他人の目なのか仏が見た私なのか・・・それともまったく違う意味か・・・など)を考えながら「未来あふれる」という「むらじまん」と地区名を記した看板を横目に少し行けば「矢守」という区に入ります。

 

その矢守(場所はこちら)にあった大谷派と本願寺派のお寺で見かけた標語もなかなか悪くないと思い記させていただきます。

 

大谷派の願成寺前に掲げられたその地の仏教会の標語が

「いろいろと不思議は多いが 

     今生きていることが いちばんの不思議」

 

本願寺派の光源寺が

「いまの自分 『らしく』『身の丈』で乗り越える」

 

二つとも今(いま)の字が入っていました。

今を生かされている私(のいのち)こそが宝物であり、その私は背伸びする必要もなく、ありのままでイイのだ、ラクにいこう・・・ということ。

みんな大層な目標を掲げて自暴自棄になりすぎ。

気楽にいきましょうよ。

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2018年

10月

29日

浪士組 壬生浪士組(新選組)と新徴組の前身 伝通院

快晴の秋の空、本堂内からは「寒い」との声が。

寒暖計は18℃でした。

私的にはストーブはまだ早いとは思っていましたが、電気ストーブ程度の物は置くべきとの御指摘。

それもありうるかとは思いましたが本堂暖房器具といえば石油スト―ブというのが定番です。何せ本堂の電力は軽めに設定されていますので、フレーカーが落ちるのも厄介ですが、古い配線に負荷はかけたくないというのが本音。

本堂の季節の寒暖差には慣れている私ですが、「体感」一つとっても人それぞれであることがわかりました。

 

見回せば本堂隅には扇風機がまだ置いてあるくらい、早い所そちらは片づけて次回は小さな石油ストーブの一つも中央に置くことにしました。

 

さて、伝通院前「表町」の主体、伝通院といえば幕末の文久三年浪士組結成の現場となった地です。

厳密には処静院(しょじょういん)という伝通院の塔頭寺院がそれですが、山岡鉄舟と処静院住職の琳瑞が親しく、浪士組結成の意図、徳川家茂上洛の警護と攘夷という大義にのっとって寺を開放したといいます。

 

会の発起人は清河八郎、目付として鵜殿鳩翁そして山岡鉄舟に中条景昭、石坂周造、松岡万らが取締役として名を連ねています。

「腕に覚えのある者」という何とも勇ましい号礼によって招集され「ここは一つ」とそれぞれの何かを抱いた連中が集結しました。

彼ら230余名の兵(つわもの)どもが京都に上っていきましたがその中に後に壬生浪士組-新選組-のメンバーたち(芹沢鴨・近藤勇・土方歳三・永倉新八・沖田総司・・・・)が居て、京都に到着するや清川八郎の本当の趣旨(過激な尊王攘夷運動)を展開するやこの集合体「浪士組」は早々に分裂しました。

 

江戸に戻った清河の浪士組に対して会津藩預かり(京都守護職)となった芹沢に近藤らはのちの新選組となる壬生浪士組を名のることになります。

新徴組は江戸帰還の浪士組のうち山岡鉄舟と高橋泥舟が主に再編成した幕府方江戸治安維持にあたったグループです。

 

幕末混乱の導火線はどこだとは言い難いところではありますが、少なからずこちら伝通院(処静院)はその一端となったことは確かでしょうね(伝通院はこちら)。

 

処静院は廃寺となっていて今はその門柱(不許葷酒~)が伝通院前に立っています。

この禁止標はこれまで色々見てきましたが浄土宗の寺にては案外珍しくこれまでお目にかかったみとがありませんでしたので真宗(100%ナイと言い切れます)がいかにモノを禁ずることを為さない教えかと再認識した次第です。

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2018年

10月

28日

扶桑第一の険難「厩崎」 (小島蕉園)  遠州五港

昨日朝9時30分頃は牧之原(インター近く)のお宅でお勤め。

10時過ぎに寺に帰れば境内からの排水をする溝が溢れかえっていました。

「ついさっき豪雨が来た」とのことでした。

原の台地は殆ど降っていませんでしたから驚きましたね。

いわゆる前線の通過というヤツでしょうがその後は晴れ間が広がりました。

 

さて昨日ブログでは古地名の「表」とは何をもって「表」などと記しましたが、それは概して「表立って人目に付く方」のことですね。以前は日本海側を「裏日本」などという記述や評価がありましたが、それを言ったらマズいことが周知されて知らないうちに消滅しました。

しかし字面の変更もありますがまだ「裏」の地名はありますね。

 

そしてそれに似たような字が「前と後」、距離的な感覚が強いもので「こっちとあっち」のような違いでしょうか。

時に「中」がその間にあります。国名でいえば備前・備中・備後等々です。

 

「前」の地名でいえば近くの御前崎。

ただし以前小島蕉園の蕉園渉筆の「厩崎」二題で御前崎の記述を記しました通り、御前崎の地名の元は「厩崎」。

「厩の先」という地名が通説で、それではちょっと聞こえが悪い・・・と思われたか「御前」という大層仰々しい名前が思い浮かんだのでしょうね。

やはり「キラっと」(キラキラネーム)したような。

「前橋」も元は「厩橋」ですので、「厩」は「前」に代わるものというのが私のイメージ。

 

これまた以前、高天神城の「御前曲輪」について記したことがあったと思いますが、これも「厩曲輪」と解せば案外スンナリ合点できます。決めつけはできませんが・・・

 

その旧御前崎町民がカンカンになる蕉園渉筆の記述二題ですが、その他に今一つ「厩崎」について記したものがあります。

こちらは「蕉園渉筆」のトップバッターでもありました。

 

「遠州有五港、曰川崎、曰相良、曰新井、曰福田、曰挂須賀、而其實非港也共皆官船貢運所発、因有港名、勢之鳥羽、至于豆之下田、大海七十五里、無一處泊船、所謂七十灘、扶桑第一嶮灘也況厩崎洋中、巉巖屹立者五六十、伏水底者、不知其数也、西州、上自貢運、下至賈仮、其達江都、必皆由焉、迅雨暴風漂於狂瀾、觸悪巖、闇夜最為甚、自古覆没死亡之患、其餘財貨之失、不知其幾千万也、此危灘而無澳港、可謂闕典矣」

 

「遠州には五港有り、曰く川崎、曰く相良、曰く新井、曰く福田、曰く挂(横)須賀、而して其實 港にあらざる也、共に皆官船の貢運(年貢運搬舟)が発する所、因て港名有り、勢(伊勢)之鳥羽より、豆(伊豆)之下田に至る、大海七十五里、一所として船を泊する無し、所謂七十灘にして、扶桑第一の嶮灘也 況んや厩崎洋中、巉巖の屹立者五六十、水底に伏す者、其数知れず也、西州、上は貢運より、下は賈仮(商船・大船)に至る迄、其れ江都に達すに、必ず皆由る焉、迅雨暴風には漂狂瀾に漂い、悪巖に觸れ、闇夜は最も甚しと為す、古より覆没死亡之患、其餘財貨之失、其幾千万を知らず也、此危灘にして澳港無し、闕典(制度ダメ 不完全)と謂うべし矣」

 

昔から遠州には「湊」の如く静かな海の環境下での小舟の荷下ろしを主とした船着き場は各あったものの大きな船が立ち寄れる場所、特に避難港は無かったということが記されています。

天気予報など無い時代、船行は便利で大きな稼ぎにはつながるものの「水商売」たる由、いつ何時嵐に見舞われるかわからなかったのですがことに船が遠州を通過する際、この「厩崎」に避難場所を求めるにあたって大変リスキーだったことがわかります。

 

画像は土蔵址に建築依頼した耐震物置のベース。

物置なれど拙寺唯一の耐震強化の建造物となります。

いざという時の待避所とする予定です。まぁ庫裏が崩れて生き残った時のみの活用となりますが。

 

②は土蔵を壊して判明した排水溝として利用された墓標。

その名を過去帳で調べましたが不明です。

④は今回の工事で掘り出された相良城石垣転用材であろう石。

計8個です。廃棄という選択肢もありましたが、土建屋さんに頼んで駐車場脇の石垣の上に積んでもらいました。

先の台風で壊れたフェンスを撤去していましたので丁度うまい具合に据え付けられました。

以前は永田邸(旧姓野村さん)から出た石を私が据え付けを行っていましたが現状体力では苦痛でしかありませんからね。

本当に助かりました。

まだまだ置く場所はありますので相良城外堀址付近の工事で出た石については是非に声掛けください。

路盤材にしてしまうのは惜しいですからね。

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2018年

10月

27日

旧地名変更無念 伝通院前「表町」と空襲ムクノキ

「寒くなりましたね」は最近の御挨拶。

しかし「これからだ!!」とその厳冬期の楽しみについて嬉しそうに語る方がいました

シラスウナギの漁業権を持っている人で、相良の拙寺檀家さんの中にも数件あります。

 

その年の漁獲と稼ぎについてよく話になりますが、世に云うように必ずしも「不漁だ」とは言いませんね。

それはそれは自然のモノですから当たりはずれがあって「ダメな時は全然ダメ」のようですが、ザルを一回すくってシラスが一面にビッシリということがあって、それを経験すれば寒さも一気に吹っ飛ぶとのこと。

ちなみにシラス1匹が200円以上で引き取られるそうで、そんな時(ザルびっしり)は「数万円どころじゃあない」とのこと。

 

シラスウナギの漁場は大抵、川の汽水域がポイントとなりますが

(ウナギは海から入ってそこで真水に体を慣らす)、どなたでもその件はわかっていますので場所取りが肝要となります。

ということで稼ぎのためには家にも帰らず、ずっとその場に滞留して他のライバルを蹴散らすことになりますが、何せ真冬ですので体を壊します。

バケツ等を置いて車の中から監視する(夜を待つ)そうですがそれでも実際、無理がたたって亡くなった人もいるくらい。

楽しみもほどほどにしなくては・・・

 

小遣い稼ぎができるとなればまず現れ出るのが密漁者。

時々お縄になった件が報じられていますがそれらは氷山の一角といいます。

世の中インチキばかりまかり通っている感がありますが、その数値の矛盾には驚かされます。

それは前年の採捕許可都道府県のデータで、漁獲量が5.3トンの報告。そして実際に養殖池に入れられた数字が8.9トンといいますから3.6トンが出所不明なのですね。要はインチキがなされているということ。

 

東北地方ではナマコやアワビなどの海産物の密漁が年ごとに増えているとのこと。高額取引のなされる海産物は特に一攫千金の対象になりやすく、漁業関係者以外の組織的密漁が流行っているようです。

彼らは捕まったとしても現行法の「懲役3年以下、罰金200万円以下」にいわば守られているようなもので、たとえその罰金を払ったとしても「捕り徳」になってしまうことからその手の稼ぎ手は増えるばかりのよう。

ということで今般「漁業法」の改正の方向が。

「違法に捕ったり密漁品を譲り受けた」場合、懲役3年以下は同じでも罰金が200万円→3000万円と破格の値上がりとなります。

果たして抑止力となるのかどうか。仕置きがキツくなれば無理な逃走劇が惹起されそう

 

いずれにせよ真っ当な人々はそのような件とは関係がありませんので別の世界の事とは感じますが・・・、とはいうものの人間世界の事ですから私どもにも責任があります。

特に夏になると「土用の丑」だなんだのと(それ以外にも)やたらと鰻を所望します。

シラスの輸入に関してもインチキを指摘されています。ワシントン条約の規制もありうる話で「好物」「おいしい」ものに天罰が落ちるかも。

世に云う漁獲減少がホントならやはりそれは問題です。

2~3年完全禁漁にするくらいの英断が必要なのかも。

 

人間の行いについて。

夏場に東京を歩いた際に見かけた善光寺坂のムクノキ。

昭和20年の空襲により上部が焼けてしまったそう。

しかし枯れることなく現在もいたって元気に葉を茂らせていました。自然界生き物たちの復活力は驚異的です。

これも自然治癒力なのでしょうね。

空襲の激しかった東京にはこういった大樹が見られますね。

麻布善福寺の銀杏もそうでした。

 

この辺りの地名は今は文京区小石川で耳に馴染みがありますがこれは新しい地名。江戸時代の小石川村からですが・・・。

こちらの地名は大元は「伝通院前表町」そして明治に入って「表町」と簡略化されたとのこと。しかしそれも何をもってその「表」であるか・・・とかなんとかのクレーマーが居たのでしょうね。

伝通院は徳川将軍家菩提寺でした。

④はムクノキの近く澤蔵司(たくぞうす)稲荷(場所はこちら)。

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2018年

10月

26日

銅像建てるの建てないの 蓬莱橋に勝海舟銅像 新設

先日は今井信郎屋敷址に彼の像の除幕式があったという地元のニュースがありました。

そちらの白系の石材を使用した完成品は私的には彼のイメージとのギャップがありましたが、それはそれ地元有志の気持ちと資財が投じられていますので部外者の口出しは無用です。

 

しかしそういったモニュメントの素材として一番に考えられるのが銅像ですが、そちらはコスト的にかなりのモノになりそうですね。石材ですとコンピューターでサンドブラストすれば比較的安価にできるかも・・・今は石材といえば中国からですし。データもそのまま送って完成品を待つだけ。昔の石工は腕一本でしたが今の石屋さんは据え付けのみとも。これは石屋さんに聞いた話・・・。

 

静岡駅前の家康の銅像の他に「今川義元の銅像はないのか」とか「伊勢宗瑞(北条早雲)に武田信玄に太田道灌の銅像も建てちまえ」等かつてブログにも記していますがその手の像は出身地関係なく少しでも関りがあれば「建てたもの勝ち」の雰囲気があります。

桶狭間にあって駿府にない今川義元像の不思議はかねてから小和田先生が首を傾げていましたね。

現在の駿府城公園には家康の銅像がありますが、今度の発掘調査からして中村一氏の銅像なども候補に挙げてもいいかも(今川の前にそれはないか・・・)。

 

太田道灌の銅像も色々な場所に建てられていますし、銅像を建ててはダメといった規制などあるはずもなく。

資金面がクリアーできさえすればどんどん建ててOKなのがその銅像(場所の許可も必要ですが・・・)です。

地元自己満足的ではありますが観光スポットには成りうるアイテムでした。

 

今の相良という町は家康の仕事でしたし、それ以前は信玄も勝頼

も居て武田方の高坂弾正が海運基地(相良城砦)の縄張りを行っているといいますので上記どなたの銅像を建ててもまったく荒唐無稽とは言えませんね。

 

実は相良では田沼意次生誕300年を迎える2019年にあわせて銅像製作の計画があります。

まぁそれに関してはこれまで「あっても良かった」とは思うもので私も応援はしていますが、予算を伺えば確かに相当な覚悟が必要となります。

どちらにせよ完成後の「顔」次第で、好感度アップの反面、幻滅に繋がるという恐ろしい現実がありますね。

最悪の仕上がりとなれば公費の無駄使いなどいう中傷を受けるという不安がよぎります。

 

この人も鉄舟や泥舟らと相良に来ているといいますが、さすが島田はお金持ちと思ったのが勝海舟の銅像の新設。

昨日記した蓬莱橋の袂に立っていました。

今年の建造とのことでしたが、あの道の近くを走っていてこれまでまったく気づきませんでした。

 

 

④画像は今井信郎屋敷址の石像除幕式の図。

拙寺専属カメラマン?の池田氏より。

この対岸には中條景昭の銅像(上記「今井屋敷」リンク先)があります。

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2018年

10月

25日

台風24号被害 島田蓬莱橋は未だ通行止め

先般発表された「世界幸福度ランキング2018」というものをざっと眺めてみました。

やはりこの日本という国がどの程度にランク付けされたか・・・というのが興味の一つでしたが、何処を探してもその50位の中には入っていませんでした。

当日本国はランク外53位にその名があってけっこうにみっともない感じが。

総理殿ほかその人をよいしょする方々の「大層大丈夫」(ここでは「御立派な」「鼻高々な」の意)の躰にもかかわらずですから、ここは新喜劇風にコケるところでしょうか。

 

そのランキング評価とはどの点に着眼しその順位を決めるかというと

①国民1人当たりのGDP②社会保障③健康寿命④人生選択の自由度⑤寛容度⑥汚職のなさ の6つを点数化するそうです。

一見、③などはトップレベルを自負できる高ポイントを期待できる項目が入っていますので大抵の方はこれは「ベスト5くらいは・・・」と思うかも知れません。

 

ところがその156国中53番目という凡庸な成績となったわけですが、よくよく考えてみればその③以外の項目は大いに足を引っ張っていそうな気が。

 

⑥の「汚職のなさ」など、政治家と役人と利害関係人とのあれこれ(今流行りの政治家の「口利き・・・」)に関してこの日本国では当たり前のように感じますからね。

ベスト5はフィンランド、ノルウェー、デンマーク、アイスランドスイスでした。

 

気候もそうですが人の心も澄み切っているようなイメージ。

クリーンなうえ国民にウェイトがかかった政が想像できます。

まぁアジア勢はボロボロでした。

 

さて台風24号の県内影響はかなりのものが出ている事を境内土蔵物置建て替え工事の遅延として記していますが、要は屋根屋さん系、ブリキ屋さん系、大工さん系の職人が出払ってかつ部材の欠品が続いているということです。

 

毎度報恩講の寺楽市でお世話になっている渡辺商店(瓦葺き)ご担当から先日「今年は無理のよう」との連絡がありました。

いつも同行される大工さんも仕事がビッシリ詰まっているとのこと。

屋根の損傷に関しては「待ったなし」であることは私も重々承知していますので了承しました。

それにしてもまだまだ修復されていない家があるというのは辛いものがありますね。

雨漏りに冷や冷やさせられるのは住環境として劣悪ですし、その雨が屋根裏を腐らせますから気が気ではありませんね。

 

未改修といえば先日立ち寄った島田の蓬莱橋。

大井川が増水するたびにこの橋は壊れて毎度毎度の通行止めと修復そして開通のニュース。

まぁいつもの事ですが、修理費もバカにならないでしょうね。

 

橋脚周辺には今も尚漂着した樹木が転がったままになっていました。次の台風26号のコースもまだ不安。

着手は台風シーズンが終わってからでしょう。

 

最後の画像は静岡新聞より。

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2018年

10月

24日

黄檗宗寺院 白岩寺と愛宕権現由来記

数日前に報じられた東北地方の飲酒暴走死傷事故の件、「まだまだそういうことをやらかすものなのか・・・」と落胆の思いです。

すべてにおいてその件をやらかせばいったいどういう結末を招くことになるか等々、耳にタコができるほど言われ続けている事ですからね。

まぁ結論を言えばいつものように「自分は大丈夫」なのでしょうね。

実際、この事故を起こした人は「酒を飲んだが自分は正常だった」なる不思議なことを語っているそう。

殆ど殺人事件にも等しい事案で4人も命を絶たれています。