2024年

2月

21日

夏の陽気 本堂床下照明配線と手元スイッチ完成 

夜間の激しい降りは収まって朝から日差しがそそぎました。

グングンと寒暖計の数字は上昇し、午前中には20℃オーバー。

昨日一日、全国的に嘘のような気温だったようです。

境内垂れ梅の前には小桜がありますが花芽は日々膨らんできて一昨日あたりから開花しだしました。

画像はまだ枝垂れ梅(ピンク色)が圧倒的に目立ちますが赤が濃く下向きに開花する小桜がいよいよとばかりに存在の主張をしだしました。

ソメイヨシノの開花予報は約1カ月後、この個体は毎年早めに開花しますが、ある程度の寒さが無いと花は早く終わってしまいそう。

 

トレーナーを脱ぎ捨てて床下照明の手元スイッチ増設工事の準備をいつもの軽トラの荷台で。昨日の続きです。

何とか頭の中で描いた図で配線の仕上げてイザ床下へ。

電気工事はD.I.Yですからいわゆるモグリ。まぁ他のいろいろもそのようなものですが。

ちなみに私の持つ真っ当な資格とは船舶と宅建そして今の手前の仕事関係。船舶も宅建も免許切れ、更新はそう難しいことではありませんが更新料をケチってそのまま。

よって期限がナイ坊さん(教師免許)の仕事は死ぬまでOK。まぁそれも毎年の更新料の如くの経費はありますが。

 

しかしこの電気というものは結構に不安がつきまとうものです。「自分が信用できない」という点もありますが・・・

いつものポカをやらかして回路短絡したとしたら・・・本堂が燃えてしまいますからね。

配線は入念に絶縁しているつもりですが、不安はつきまといますね。当分の間は注意していくつもりです。

 

前回の案内板の直下、本堂濡れ縁の下にスイッチボックスを設置しました③④。100円ショップで仕入れたものですから劣化しやすいかと思いますが。

背面に穴を空けるため軟質なプラスチックを選択。

風によって不安定になりますので地面に埋めた杭を縁側下部に固定しました。

 

スイッチボックスの蓋を開けると⑤配線したON-OFFスイッチがありONにすれば⑥床下の照明が点灯する仕組み。OFFの時はパイロットランプが点灯。

この赤いボックスはお墓参りの方が普通に歩いていたら気づきにくいものがあります。

あくまでも掲示板に注意をひかれ、あるいはその床下状況をハナから確認しに来られた方がそのボックスのスイッチを「押してみよう」と思った時、それでOKなのでした。低く屈まないとそれは確認できません。

どうでもいい方にはどうでもいいようなサービスですからね。

それだけに火でも出したら・・・恐ろしい。

 

さぁ、夜警に境内を見回りにいくとしよう。

 

 

0 コメント

2024年

2月

20日

大沼城主家臣供養塔 洞樹院西側の山

天候不順で朝から自宅待機。

本堂床下照明のスイッチ位置を変更すべく一昨日購入した部材を工作。

あとは少々の追加パーツを仕入れて床下に潜るだけというところまで。

床下と言っても時折降る雨の中、敢えてその仕事をする理由は見出せません。

 

尚、床下のスイッチは現状、見学推奨位置から10m程離れて、なお

見つかりにくい場所にあるために推奨位置直近に変更する必要があると思量。

午後からそのためのパーツを改めて購入に走りました。

 

前回はその配慮は頭にありませんでしたが、このほど来年の相良来訪客「30万人目標」の大風呂敷が広げられました(大河ドラマ)のでそれに敬意を表して・・・そのうちの10%の来客があったとしても・・・ありえない数字ですが。

現状、その方々を寺へ案内されたとしても土日祭日がメインとなることでしょう。法事があれば入堂できませんし案内も不可。

また現状外トイレの整備は相当遅れていますからね。

 

たかがトイレといっても掃除もありますし備品光熱費もある程度の負担があるわけで。

次の「春の法要」世話人会でその件了承を得て、婦人部の皆さんのお手伝いなども投げかけてみます。

観光協会や市の方から、上から目線の協力するのが当たり前風の雰囲気が漂ってきたとしたら・・・「ケツを捲れ」の言も出ていますからね。

 

私としては千載一遇の相良アピール(田沼時代の演出はドラマ前半の夏頃まで)のチャンスに協力は惜しまないといったスタンスです。期待は大いにするところですが寺としてあくまでもご門徒さんの利便、要望が重視されますので。

踊り踊らされるのはイヤですし、まぁ企画書もあがっていないうちから騒いでも仕方ありませんがね。

 

扨、昨日の洞樹院西方の山、こちらには祠二つと新し目の宝篋印塔が建っていました。

大沼城主と家臣たちの供養塔とのこと。

祠の中の自然石は判読不能。

 

 

2 コメント

2024年

2月

19日

洞樹院西側の山 大沼城別郭を推測 

朝起きると曇天ながら思わぬ暖かさで一安心。

その前日の夕刻から「もしかして・・・」とちょっとした体調の変化があり、念のため葛根湯を飲んで就寝したのでしたが、事なきを得ました。有り難き仕合わせ。

 

午前の法要が終わってしばらく、奥方の運転手を兼ねて浜岡方面に出向きました。

通常、日曜日に動く事はありませんが本堂のセンサーライトが壊れたため早急にそれを新規購入する必要もあって仲良くお買い物に。

 

私の目的の品々を購入後近くの大型食料品店で奥方と合流。

お菓子売り場が私のチェックポイントですが、そちらをふらつくと初老の作業ジャンパーを着た男性が品物を買い物かごではなくビニール袋に入れている様を目にしました。

するとその方と目が合ってバツの悪そうな顔をされてしまいました。

いわゆる「万引き」実行中というところ。

そのオジサンは通路を行ったり来たりし什器の陰から私はその方の視線を感じていました。

 

ああ、私を私服警備員と勘違いしている・・・などと思いましたが、奥方にいわせればその人がじろじろこっち見てるのは、お前さんを万引き犯とみてるんじゃ・・・?

逆にその人が私服警備員であるとの推測。

すると私が買い物用カーゴを押す奥方と話している様子を確認(その人の不審な行動を話していたのですが)、ただの一般買い物客と断定したか、それからまたあっちこっちで品物を手に取りだしました。

奥方も確かに「犯行を目撃」したといいます。

さっきまで左手に持っていたジュース(100円程度か)や菓子を詰めていた袋が消えてジャンパーのポケットが膨らんでいました。

 

丁度私どもと同時にレジを通っていましたが会計していたのはミネラルウォーター1本でした。

まぁ私どもに対して限りない怪しさを醸し出していた人でしたが私どもにそれを指摘したり咎める資格はなし。その権利も義務もありゃしません。

そもそも確証がありませんし、それを店の人に通報する必要もなし。何より、店にとっては一大事ではありますが、その方の精神と生活そのものの貧苦をも推測してしまいます。

 

永田町の政治屋どもほどではありませんがここでもそのおじさんに「気の毒」を感じてしまいました。

前者は中央で数千万の裏金でお咎めなし、方やド田舎のスーパーマーケットで500円程度の盗みはたらき・・・。子供でももっとうまくやりそう・・・。

唖然とするもただただ沈黙するだけでした。

そして私は前者が地獄に堕ちようが知った事ではありませんが、そのおじさんには仕合わせに生き抜いて欲しいと思うのでした。

 

扨、昨日記した洞樹院の墓石たち。

その東側の山が大沼城ということ先日記しましたが、洞樹院墓地の西側にも山が広がります。

地形を今一度顧みれば、谷部の洞樹院を中心にして東の山系に大沼城、西側の山系もやはり城郭をイメージさせられます。 

要は一城別郭のような感じ。

高天神城の深い谷部と尾根上に分けられた別郭というよりも谷部両翼に開いた山系を郭にしたようなカタチ。

山が左右に開きすぎている点は防御力はイマイチですが。

 

①②は洞樹院山門前に立つ掲示板と観音堂。

山道には各有志が築いた石仏・石塔が各所に見受けられます。

宝篋印塔残欠がこちらから出ているのか、するとやはりこの山に墓域が存在したということか。

 

0 コメント

2024年

2月

18日

洞樹院の古仏 ミニ五重塔のどっしり感

異例の温かさだったことは承知していますがイキナリ昨日の気温低下には降参です。

史蹟調査会の会合が終わって、若手の二人を仙台河岸の石垣までお連れした時、「なんだこりゃぁ」の冷えを体感。

 

「寒い」と言いながら帰宅、庫裏に入って温度計に目をやると一週間ほど前の気温と同じで「どおってことはない」ような数字でした。

それを寒いと感じるのは、一瞬とあってもあの(2日ほど前)心地よい暖かさを感じたからに相違ありませんね。

 

人は厳しい環境から脱出しその微温湯に一旦浸かると元の環境には戻れないもの。過去と今の差というものを身に染みて感じたからですね。

勿論、「(かつての境遇に)戻りたくない」というのは当然の事

 

政治屋も同じ、一端オイシイ思いをし、それが常態的、甘い蜜をお仲間たちと独占していたとすればアカの他人にそれを脅かされ、修正を強要されること拒絶したくなるのはよくわかります。

代償だなんて一文も支払う気はなし。ずっと温かい湯に浸かっていたい・・・

それが手に取るようにわかるもの。

一度他国の新興の神とやらに魂を売りそのスバラシイと思われた状態に味を占めそれが未来永劫続くとの錯覚も。

一攫千金政治屋稼業とは哀れなものです。

 

扨、昨日の洞樹院、門を潜って左手の墓を見やりながら本堂にご挨拶、そして墓域に向かいました。

掲示板の件の通り古そうな石仏たちが。卵塔の数からも歴史の深さを感じ取れます。

崖の下とあって崩壊が進み、残欠といった類もありますが、人の手に触れられず苔生した感じは趣があります。

 

最後の画像には石塔は見えませんが、花立があるところを見るとかつての墓石たちの存在が推測できます。

 

あの石像五重塔はあまり目にしないタイプです。

安定感がありますね。

そのベース部分については当初製作者の意図があったのかはわかりませんが五重塔の各笠とその上部は改変が無いように思います。

塔の形を以て残存していることも奇特なことです。

 

 

 

0 コメント

2024年

2月

17日

大沼城主菩提寺 洞樹院の門前 味のある鐘楼

昨日早朝にかけての土砂降り。

不安は残りましたが夜が明ければ雨はスカッとあがって絶妙のお葬儀日和。

先般私どもの手で病院からお連れし、本堂にてしばしの間おすごしいただいたお婆さんのお弔いの日でした。

本堂でのお葬儀はそれなりに私どものやることが増えますが(施主も勿論のこと)拙寺ならではの木仏本尊阿弥陀さんやそれを演出する荘厳は格別です。

葬儀屋さんではありませんので行き届かない点多々あったでしょうが・・・まぁそれを所望されるのであればハナから私にその話は来なかったでしょう。

 

火葬場から帰って~昨日は当地で言う「先葬」(火葬場に向かう前にご遺体の前で葬儀を執り行います。当地では出棺、火葬後にご遺骨の前で葬儀というのが大抵の流れです)~いつものBS放送のチャンネルでは古い、古~い西部劇が始まったところでした。

何せ1956年のものですからね。

父親が購入したばかりの白黒テレビでアメリカ製テレビドラマから西部劇、戦争映画を観だしたのが1962年あたりでそれから私にもその手の映像趣味が伝染していることは確かです。

その傾向があるので父の孫(私の息子)も同様のこと。

 

先日は「ヘイトフルエイト」は「3回観た」と豪語していました。凶暴でクレイジーな映画など、奥方などはそれこそ「憎むべき」と見向きもしませんが私も彼がタランティーノ(映画監督)が好みというのには閉口します。面白いですがね。

 

1956年のその映画のタイトルは「誇り高き男」。

父親が好きだったロバート・ライアンの出演です。

役者もその映画タイトル、流れる♫まで知っていましたがおそらくそれを洋画劇場等のテレビ放映で私が観たのがその10年後くらいでしょう。

それでも半世紀以上のブランクがあって新鮮さ100%(お話についてはまったく覚えていません)でした。

 

ハチャメチャ映像と荒唐無稽なストーリーと違って昔ながらのオーソドックスな勧善懲悪系、最後はめでたしめでたし・・・で終わるタイプですね。

タイトルの通り主役は町の法と秩序のために誠実に働く保安官。その誠実の高さを「誇り」と。

台詞にもありましたが、「カネで心を売る」だとか一瞬の迷いのようなものが一生後悔して生きなくてはならない・・・の如くありました。

今の政治屋に観ていただきたい映画です。

彼らは表向きは高尚な事を言ってウラでは「裏金と根回し」。

あたかもタイトルは「欲深き男たち」。西洋風に言えば票とカネのために心を悪魔に売ったとでも形容しましょうか。

昔の西部劇ではワルは正義の銃弾で倒れるというのが常でした。今も身の滅ぼし方いろいろですが、つまるところ古今東西そういう輩は露と消えること必定。

そうあってほしい希望もありますが。

やはり正義が勝たなくちゃ・・・めでたし・・・・で行きたいものですね。

 

扨、大沼城に向かうにはどうしてもこちら洞樹院の門前を通ることになりますがこのお寺にも当然に立ち寄りたくなる雰囲気があります。

度々拙ブログに登場しているお気に入りの名「郡界川」の起点近く。

そして門前左に立つ「大沼城主菩提寺」の石柱は勿論、右側奥に立つ茅葺の鐘楼も実に味があって吸引されてしまいます。

 

最後の画像が門前から大沼街区方向を振り返ったところ。

左方向が等順寺(またはこちら こちら)そして孫根城です。

以前私がうろついていた頃「熊が出た」とのニュースがありましたがその後、は熊情報は聞こえてきません。

 

0 コメント

2024年

2月

16日

大沼城の元は勝頼に滅ぼされた木村氏 そして大給松平

昼以降やたらと気温が上がって本堂作業は半袖。

暖かいと血の巡りが良くなっているはずですがお頭の具合が良くないのは温度関係なし。

物忘れが多くて・・・

よく考えれば若い頃もそうでしたから自分に関してはこがれも年齢関係なしか。

 

ここでいつもの話に戻りますが「年寄りだから免許返納せよ」の思考は誤認かと。

うっかり、忘れ物、まちがい、思い込みは老若男女関係なし。

先般発生しましたがプロの整備士が思いっきりバックでアクセルを踏んで歩道を歩いていた母子の命を奪っていました。

脳そのものの劣化については別に病としてあることですからすべてそれと同等に扱うのはおかしな話。

 

扨、先日は下山代官屋敷について記しましたので大沼城を。

城郭大系の住所地は「東加茂郡下山村大字東大沼」とあります。現在は下山村と同様豊田市になりますが、こちら大沼城が本城だったにもかかわらず下山村の大沼は「字」となっています。豊田市の支所は下山にありました(場所はこちら)。

 

大沼城の件、城郭大系から転記。

「大沼城址は、大沼の町並みに沿った城山と呼ばれる小高い山にあり、西方にある洞樹院という寺との間に深い洞があって小川が流れており、東方は起伏した山続きとなっている。

洞を流れる山水を桶で堀に引き入れたので、この流水のあたりを『桶が入り』といい今は『豊が入』と書いている。

城は文明年間に木村東見入道安信が築いたものである。

安信は天文元年(1532)、城の西麓に入宝山神宮寺を建て、翌二年八月十四日、城中で逝去した。

ついで嫡子木村新九郎信基が城主となり、神宮寺の高地を選んで若宮八幡宮を再建した。今も洞樹院の裏にその祠があり、八月十五日を祭日として同寺前の人々が祭礼を行っている。

元亀二年(1571)四月十五日、武田信玄の兵が足助を落し、城主鈴木越後守仲綱を追い、部将の下条氏に城を守らせた。その後四年間に武田勢は『足助七城』を攻略した。

七城とは足助城・賀茂村浅谷城・阿須利城・阿摺村八桑城・大沼城・田代城・安代城をいう。

その間、天正二年(1574)に武田勝頼の兵が大沼城に殺到し、攻防の末四月十四日、火攻めにあって大沼城はついに落城した。

こうして木村氏は滅んだが、武田氏の支配は受けなかったらしく木村新九郎の養子で松平村の大給城城主松平乗正の次男飛騨守近清が天正三年、大沼城主となった。

近清は神宮寺を八沢山洞樹院と改めて菩提寺とし同十一年に病没した。

 

二代目近正ははじめ、荻生伝蔵といい近清の嫡子である。松平家に仕えて大給新田千五百石を領していたが、父近清の死に伴い大沼城主となった。

天正十二年、徳川家康が織田信雄を助けて羽柴秀吉と戦った際、家康の命によって蟹江城を攻めて功を立て、翌十三年家康の家臣石川氏が家康に背いて秀吉に従おうとして近正を誘ったが、近正は応ぜず、かえって嫡子一生を浜松の家康のもとに送り人質として忠誠を誓った。

同十八年に家康が関東に移ってから上野三ノ倉の地に五千石を領することになった。その後大沼城は廃城になったと思われる。現在、遺構としては山頂の檜の立ち並んでいるあたりに、本丸・二の丸・三の丸・堀などの跡がわずかに残っている。」

 

 

0 コメント

2024年

2月

15日

私の意趣は「南無」 暖かい境内と76ナナロク 

 

昨日は「奥の墓道」氏とのアメリカの歴史談義に興じたこと少々触れました。

「アメリカの歴史」などいうと日本や他の文明と比して比べようもない「浅薄」なものを感じますが、軽んずることなかれ。

ウェスタン好きにはたまらない時代でもあります。

それを重んじる精神たるや相当のものがあって逆に今の我らがそういった歴史というものに疎くなっているのでは・・・と考えさせられる面があります。

 

昨日は「銀行強盗の日」の「1866年2月13日」について記しました。本日も数字遊び。

私の車のナンバーは指定選択したものですが遠乗り用は「76」そして法務と近場用の軽が「76-76」です。因みに息子はその手のことに興味なし。すべて白い目で見ています。

まぁお遊びの一環ですが勿論この「76」は南無阿弥陀仏、六字の名号の「南無」の語呂合わせ。

「他力」と「おまかせ」の称ですがこれを提示して走れば走行中に陥りがちな自己本位と主張の心が鎮静化するのでは・・・との思いもあってのことですが、墓道氏も奥方も「まったく意味をなさない」とさらなる自重を促します。

いっそのこと高齢者ステッカーを貼れとのご指摘も。

いずれにしろ昨日の如くの気温上昇と青空の下にいて、どちらか出かけたくなるといのが真っ当な人間の思い。

昨日クロ現はバス減便とタクシー運転手不足について。

年配者の足となる地方の公共交通機関が激減し、家にいることが多くなり、買い物にも行けなくなって不便な社会になっていることを指摘されていました。

高齢者が免許証返上に踏み切れない理由はまさにそこ。

家に居続けてテレビ画像と睨めっこ(今の私)をしていたら絶対に呆けますから。何しろ動きたい。

 

アメリカMLBはキャンプイン。あと1カ月もすれば開幕の運びとなりますね。

オオタニサンが韓国での開幕2連戦に出るかも・・・ということで韓国行野球ツアーが凄い盛り上がり。

バカバカしくなるような旅行代金で苦笑するしかありませんが、私は開幕戦に彼が韓国に行くなど真っ当に信じていません。

何といってもリハビリ中の身。

チームがお宝中のお宝という彼にリスクを負わせる(気温差によるコンディション維持)とは思いませんが・・・。どちらにしろテレビ画面から離れる機会が少なくなりそうで。それが不安。

 

扨、「76」特に②の画について見覚えがある方は多いかと思います。私の学生時代など車好きはそれを知らない人はいないくらいメジャーな印象がありました。

ハリウッド映画の中でもたびたび登場しますし今年はドジャースタジアムにスポットが当たることは目に見えていますが、あの球場にはその「76」のそれが各所に見ることができましょう。

今は経緯あってガソリンスタンドのイメージですが、その大元は1776年7月4日(独立記念日)の「76」ですね。

それを絶対に忘れてはイケない、頭に叩き込んでおくという意図があるのですね。

ちなみに③画像がアメリカNBAの「フィラデルフィア・セブンティシクサーズ」のロゴ。こちらは「墓道氏」からの講釈。

フィラデルフィアは1776年の独立宣言がされた当時の首都でした。星の数が当初の独立13州の意とのこと。蛇足ですがNFLのサンフランシスコ49ersの49は1849年のカリホルニアでのゴールドラッシュが由来といいます。

 

数字二けたのチーム名はその地の由来、歴史を表していたのでした。日本にもスポーツチームはたくさんありますが、その地の歴史というものに踏み込んだ名はあまり見ませんね。安直さキラキラの方が際立っているような。まぁ数字遊びはキリがない。

ちなみに「ドジャース」は元はかつてのブルックリン時代の街中の状況をチーム名にしたもので「LA」は転移後の冠。

 

最近のMLBの動きでは2022年にクリーブランド・ガーディアンズのチーム名変更が天晴れ感。

旧インディアンスからの変更でしたがこれは「ポリティカル・コレクトネス」という「配慮」から。

他者の不快な差別用語を吐きまくる政治屋が日本にも存在しますが、これにはスカッとさせられました。

まぁ私としてはインディアンスも耳に馴染んでいただけに悪く

ないとは思っていましたが。

 

④は昨日記した竹の工作物。青竹は気持ちがいい。

押さえているのが盆栽を地植えにした小桜。バックが咲き始めた枝垂れ梅。

⑤⑥は花を落とし始めた梅。

⑦⑧はオオシマだったか。下向きに咲いています。

 

 

0 コメント

2024年

2月

14日

大沼城松平墓域 下山代官屋敷城  銀行強盗の日

 

横浜の「奥の墓道」氏にアメリカの西部開拓時代、独立記念日、南北戦争のネタそれぞれの蘊蓄を披露しつつ遊んでいましたが私が「2月13日は何の日か」などのクイズを出しました。

さすがにそれを即答できる人はそうはいないでしょう。

この日は「銀行強盗の日」ですね。

その次日など「知ったこっちゃあない」ですが。

私が「今日それをやればシャレが効いている・・・」などと。

また政治屋も強盗のようなものですから。

彼らは年がら年中ですからね。ケチな強盗事件が社会に散見されますがそういう連中をターゲットにすれば・・・如何にも面白い。不謹慎失礼・・・。

 

「銀行強盗の日」は牧師の子であるジェシー・ジェイムズが1866年2月13日に銀行強盗をした日でそれが世界で初めてだったということ。銀行強盗の始まり・・・

 

昨日2024年の2月13日は気温高めながら昼間は冷たい風が強めに。世の中は平穏の感。少なからず私の周囲は・・・。

境内水屋前の垂れ梅に接して参道側に盆栽の小桜を地植えにしたのが息子が横浜の寺に就職が決まった6年ほど前。

横浜への引っ越しに向かう途中、富士川S.A.の植木市で購入しましたが昨年の今頃は1.5mに満たないくらい。昨年中はどんどん成長して現在2m超えにまで。

それが参道側に張り出してきますのでその押さえにする竹材を山へ伐りに向かいました。

久々その藪に入りましたが、案外不法投棄は無く安心しました。

どなたか竹を伐って不要材を突っ込んでいる様子は窺えましたが・・・

 

その他境内雑用をテキトーに終わらせて夜間はのんびり撮りだめしていた映画鑑賞を。やはり西部劇でした。

すると20時近くに都内在住の檀家さんから「母親が危篤」との報せが。

相良在住の方ですが焼津の病院に搬送されて入院中とのことでした。

 

以前からその相談を受けていましたが「その時は出来る限り何とか手伝いたい」旨伝えていました。

まさか焼津にいらっしゃったとは・・・。

そしてその30分後に逝去の連絡がありました。

それが病院からは「22時頃までにお迎え」を・・・とのこと。

いつもの「さぁ、どうする・・・」(「スピード」のWhat Do You Do ?)。の状況に。結構好きですね、難題の提示。

まぁできないときは「ブン投げる」というのが私のやり方ですが。

 

その時、周囲を見回してもヘルプは奥方とネコたちしかいませんので奥方を軽トラの助手席に座らせ棺を荷台に載せて「東名高速をGo」と考えましたが奥方から大正生まれのお婆さんなら軽の助手席を倒せば乗ってもらえるとのアイディア。

何より棺に入いってしまえば後のことがカンタンではありますが桐材とはいえ棺自体の重量もありお婆さんとは言えども相当な重さになりますからね。2人ではさすがにきついものがあります。

よってご自宅の鍵を預かっていましたので布団一式を積み込んで軽乗用車で病院へ。

 

病院着到が2130でしたが、ここでの説明が少々ややこしかったことはありましたが病院側からお二人の手伝いがあり、うまいことお婆さんにはご乗車いただけました。

そのお二人は夜間の寒さの中、「我々3人」の乗った車に深々とお辞儀をして見送ってくれたのが印象的。

 

尚、案内されたナースステーションでの少々のややこしさとは私の素性を明かすことが却って現場の判断を混乱させること・・・

葬儀屋さん、搬送の業者さんではなくお寺の住職がお迎えに来たということですが(本来、それは整合性があるのかも・・・)よりによってこれまたお気楽な恰好、特に昨日は真っ赤なトレーナー着用で傍から見ればサンタクロースの如くだったかも。

黒衣を来ての訪問は論外ですが、あの状況でファッションの件を思考する余裕はありませんでしたからね。

 

問答の中で名刺を出してハッキリすることができましたが「こういう状況は初めて」と苦笑されていました。

22時30分すぎには本堂安置。焼香して読経。

35キロのお婆さんだったことが奥方との二人で対応が可能となったわけで。

 

扨、昨日の下山代官屋敷城。

ざっと曲輪らしきそこここを歩いて少々東、南側斜面の縁に大沼城松平の墓域があります。

宝篋印塔、五輪塔等の古仏たちが整列してお迎えしてくれます。

掲示板によれば大沼城三代松平近清の建立の二基のうち一基は松平親忠の供養塔、もう一基が父で二代城主の乗正の供養塔とのこと。

 

近くには「鈴木」を名のる墓域が。

この地区は鈴木姓は多いですからね。特に鈴木といえば足助の地もイメージします。

 

 

2 コメント

2024年

2月

13日

下山代官屋敷とはいいながら大沼城の支城 ?

無風で気温上昇。

今週は春一番の予報が出ていますが、やはり寒いより暖かい方が過ごしやすい。というか体にとってラクですね。

来訪者なし。法事もなし。

殆ど何もしない一日でしたが、檀家さんの自動車修理会社に頼んでいた20ℓのオイル缶が3個ばかり届きましたので、容器として使用できるよう油分を除去しました。

アレはどちらでも使用後は廃品として処分に出してしまうようですが、案外使い勝手のイイものです。

 

通常の容器としては勿論、災害時に野外焚火等で暖を取るには絶妙。サイドに空気穴を空ければ即使用できます。

またやはり災害時、20ℓの水が入るということで井戸からの水を溜め込むことができます。直接火にかけて沸かすこともできます。

先般もそのために拙寺の井戸に単管パイプの三脚(その為の器具があります)を立てて急造の櫓を設置、水量を確認しましたが水深2mの水量は変わりませんでした。

そのような事があることは苦痛このうえないことですが、念のための対応力を着けつつあるところです。

 

扨、以前豊田市の下山支所田代城について記しましたがその近隣、特に下山支所の南西側裏山にあるのが下山代官屋敷(場所はこちら)。

代官屋敷というと近隣では昨日の酒呑代官屋敷また大給代官屋敷等を連想しますが、その名「代官」のイメージとは違って殆ど山城の類になります。

 

また以前郡界川について記しましたがその川が流れさらなる分岐がある大沼川がその城郭のある台地の境界となし外堀の役目をしています。

中には代官屋敷城と「城」であることを示唆する名称もあるくらいで、そのそうは高くはない台地上には土塁に切岸、空堀等の遺構を見ることができます。

 

やはり田代城同様、武田の手によって落されたよう。

 

 

0 コメント

2024年

2月

12日

幸海町 酒呑陣屋址の石垣とムクノキ

「広告だらけで独自性のない低品質コンテンツを集めたサイト」の件新聞社系のニュースで見ました。

その手の広告だらけに誘導するサイトのことを「MFA(メード・フォー・アドバタイジング)サイト」なる語で呼ばれるそうでその広告の成果はアクセス数によるもの。宣伝主たる企業はそれによってサイト運営者から請求があるようでそれが殆ど無意味な広告投資になっているとのこと。

 

私は朝晩、就寝前起床後にぼんやりとスマホのニュースサイトをスクロールするような生活をしていますが、最近になってやたらとその傾向(無駄広告)が強いを感じるようになりました。

一言で言ってついつい面白そうな表題で大衆が喰いつきたくなるようなものになっています。

それでいて中身は海外のニュースコンテンツから引っ張ってきたようなネタで、新しいものではないことが多いですね。

要は表題のインパクトとは違い相当貧弱さを感じます。

ネタもバカバカしくなるような内容のうえ、すべてを読み終えるまで幾度も広告が現れます。

最近はその手の誘引ネタもそうですが発信元が出ていますので「ほう・・・」と思うような記事もその発信先を見ただけで「ああ誘引広告主ね・・・」と判断してクリックしないようになりました。時間の無駄。

私はNTTドコモのニュースサイトになりますが、まぁ大手の新聞社、週刊誌、テレビ局系の発信に限定するということでしょうか。

 

扨、以前酒呑あらため幸海町のいろいろを記しましたが(酒呑城

  そしてジュリンナ等)酒呑陣屋の件、そのままになっていました。

豊田松平I.C.を背にしてジュリンナ方向に走ると県道左手にムクノキの高木のある祐源寺という禅寺がありますがその上部が陣屋址⑪⑫(場所はこちら)。①図は集会所前を走る県道方向を振り返ったところ。

 

お寺の街道側は石垣で囲われています。

地名の「豊田市幸海町池杁」の「池杁」。

地形的にその上部に池がありますのでその取水取り入れ口のことを言っているのでしょうがこの「杁」の字について興味深い新聞記事があります。

 

陣屋は酒呑城の酒呑鈴木の流れ鈴木重氏が入ったとのこと。

 

 

 

0 コメント

2024年

2月

11日

家康の矢作川渡河さらなる伝承 鹿ケ松

三連休の初日は完全フリーの一日。

朝は寒いが陽光に恵まれ、外仕事に少々集中するだけで、上着を脱ぎ棄てて半袖になろうかとも思ったくらい。午後、日が傾きだすと強風が吹きだしましたが・・・

風が吹く前に気に掛けつつ後回しにしていた数カ所の雑務を何とかやっつけました。

 

これはひょっとしてこれは・・・と心ときめきましたが、先日道路を飛び出して不慮の死を遂げたネコちゃんの飼い主さんが夕刻に訪れました。

ご門徒さんではありませんが、あの時は本堂で家族ご一同と正信偈をあげて「生々流転墓」に遺骨を納めさせていただきましたが、昨日はお参りに来られ庫裏に立ち寄ってくれました。

そこで頂戴したのが拙寺ネコ用の鰹節、そして私にその方の手作りラスク。

ピンク色の菓子袋に「Thank You」とありました。

嬉しく、また美味しくいただきました。

 

扨、本日も矢作川関りですが、あの家康の矢作川渡河の最後の難関クリアの地については先般記した通り。

舟を仕立てて渡ったというものですが、そちらより上流矢作川西岸に「鹿ケ松」(三鹿の渡し)という伝承があります(場所はこちら)。

三匹の鹿が渡っている様を見てそれに続いたというものです。

鹿は奈良公園では神の使いとして大事にされていますが、今や鹿は害獣の部類。いつぞやその肉を喰えとばかりに勧められ食しましたがどうも私には無理。

普段口では馬だ鹿だと口ずさむわたしですが、その生き物を喰らうこと(シビエ)慣れませんね。

 

その地には別に矢作川用水について顕彰碑が建てられていました。こちら北野という地、北野用水の名が。

 

 

0 コメント

2024年

2月

10日

古仏たちのお出迎え 丸根城鬼門に浄土宗心学院 

昨日は人心に付け込んでホストクラブの無茶な金額のツケ(売掛金―殆ど言いがかり)によって身心ともに縛り上げる荒稼ぎの件について記しましたが、昨日破廉恥事案で逮捕された(要は痴漢)容疑者が放った言葉が「記憶にない」でした。

よく耳にする「身に覚えはない」と同等、つまるところ「知らぬ存ぜぬ」。否認ということですね。

 

その破廉恥の言はまた最近国会議員殿が連発する自己保身の用語。スバラシイお頭の中身なのか大臣様(職)への余程の執着心からなのかは知り得ませんが苦笑する他はありませんね。

ただ哀れな御仁として。

 

それにしてもおエライ様方々筆頭に何か都合の悪いことがバレた時はソレ、とばかりに国民一同ピンからキリまでその語を咎の免罪符が如く吐かれてしらばっくれる世の中・・・せめて「バレたら責任」の心は最低限持ち合わせていただきたい。

 

扨、昨日は丸根城の主郭について記しました。

一概には言えませんが、城郭の鬼門・裏鬼門を探索するというのも放浪の一つのパターンです。

特に領主系の安定期があった城には菩提寺たる寺を建て、お気に入りの僧を招くというのもその家のステータスとなります。

その丸根城の鬼門(北東)方向を見やれば浄土宗の心学院というお寺がありました。

 

丸根城を南西に見下ろす台地には野見の墓域がありましたが

むしろこの辺りに寺があればまさに磁針通りの鬼門となるところですが微妙に北方向にはズレはあります。

その手の事は結構イイ加減でアバウトに「鬼門除けです」といえばそれでOKのようなものですし、その野見の墓地には卵塔が見えましたので古くはこちらに寺があったことも考えられますが・・・

 

まぁ心学寺は浄土宗の寺で代数も重ねた古い寺。

城主の松平系を思えばその菩提寺ということも有り得ます。

山号の「庭松山」の「松」もそれを示唆しているようですね。

西向きの本堂入口門前から南方を望めば丸根城の小山が見えます②。

境内の石仏を拝見すると名号の碑が目に入りますが蓮台の上に円柱形のそれは珍しきもの。

他に多くの古仏にお目にかかることができます(場所はこちら)。

大型・小型の宝篋印塔残欠はまさしく領主系を連想します。

住職のお話などが聞けたら良かったのですが・・・。

何事もタイミング次第ですからね。

 

「心を学ぶ」心学寺。

自分の心に問いかけること多々あります。

私も御一同同様、見苦しい限り・・・。

 

0 コメント

2024年

2月

09日

整備された丸根城 主郭付近真っ平 広すぎ・・・

しかしまぁ世の中には自分さえ良ければ他者のことはどうでもいいといった悪どい輩、蔓延していますね。

三面記事に顔を出す逮捕者たちの罪状を見ればそのような世の中であることはスグにわかります。

騙される奴が悪いという意見もままありますが、それは違います。まず自らの利益、幸福の成就のみを目途とし、他者のその幸せになる権利はトコトン無視し、踏み台にまでするということですから。

人というものの「弱さ」に付け込んでガッツリ金をむしり取るというホストクラブなどの件、最近その報道が多いよう。

毎度呆れ果てるばかりですが、政治家を支援し都合よく信者たちを増やしてのやりたい放題の集金システム(統一教会)と同じ。

その横暴の心、エライ人たちの模倣をしているかの様。

 

その手のマンネリ化したストーリー、私は昔流行った時代劇「必殺シリーズ」を思いだします。

その手の悪漢は「仕事人」へ依頼、抹殺されてめでたしめでたし。スカッとクライマックスを迎えたものでした。

本当にストレスが溜まる世の中。

 

特にその手の若い連中の髪の色。昨晩も逮捕された女性(男女関わらずお人よしをカモにする様)を見ました。

髪を何色に染めようが勝手ですが、生えたばかりの黒髪と染め上げた金髪のコントラスト「みっともねぇ・・・」。

やるからには日々ケアしなくちゃね。所詮黒髪の東洋人なのですから。因みに私はその黒に憧れる派。しかしやはり地毛の白が目立つようになります。

 

扨、矢作川「鵜の首」の丸根城

空堀に土塁は整備が行き届いて見事な部類。

しかし主郭と周辺のフラットさに違和感。

私ども周辺の滝境城や諏訪原城は20年近く前は畑でした。

地所の所有者は農耕のために土地を平らかにすることはやむを得ないこと。

高低差や土塁などの土盛を削平、撤去したのでしょう。

主郭が周辺曲輪と境界なしで露出しているなどの例はそうありません。

 

 

0 コメント

2024年

2月

08日

湯水行水 二村氏から大正期「少年王」仲裁は本多忠勝

期間限定(5日間)で金2000えんプレゼントという広告が数日前当地区にありました。

食器の買い取りを主にうたっていました。

私も食器といえば山ほど積みあがっていましたが(まだまだある・・・)勿体ないとは思うものの殆どは処分場行きになりました。それはどちらの家でも同じこと、数代経てば無数の皿や椀たちが山になることは皆さん承知しているところですがそこは心を鬼にしないと処分という流れになりにくいものです。

先代、先々代から受け継いだ新品同様、まだまだ使えそうな品ばかりですからね。

 

それを「えいっ」とばかりに引き取りに来てくれる・・・そんな有難い話はありません。それもダメ元、必ず2000円が頂けるというのですから。価値があれば「それ以上」の夢も抱かせるものです。

しかし、しかしですよ、そんなうまい話がある筈がない !というのが私の思いです。

「またお婆さんたちがカモになるのかな・・・」でした。

 

これは「押買い」の変則バージョンですね。

一時大流行りして社会問題になりましたが金などの貴金属、貴重品、骨董品を無理やり(安価で)買い取るというもので、断れない雰囲気、時に「何かうま味のあるものを提示しなければ帰らない」状況を作ってそれを漂わせ根負けさせる戦法です。

以前は家の中まで入り込んであれこれ家探ししてぼったくり荒稼ぎが問題になりました。

 

押し売りも押し買いも以前のように個別訪問で呼び鈴を押してもまず門前払いというのが常、空振りが多いもの。

それを相手に電話をさせて来訪を請うというやり方にしたのでしょう。

心の堀を深くし城門の閂をガッチリかけているところ、通常は中には入れませんが、この方法ならばいともカンタンに入門できます。

2000円貰ってどれだけ損をさせられるのかいやはや。

皿や椀の食器類など殆ど無価値ですからね。

境内のガラクタ市で並べて賑やかにさせる程度というのが食器類。

よって食器(ガラクタ)というワードで釣り上げて本題は貴金属等の買い取りなのですよ。

東京の業者の様で、ヒットエンドラン風を感じました。

 

扨、いつも三河の情報をご教示頂いている二村氏ですが先般お送りいただいた史料の中に大正期に発刊された「少年王」なる書籍に成瀬と鳥居の、例の湯水の行水のお話があることを知りました。

しかし今の中学生を対象にした読み物のようですが驚きでもあります。私が読んでも「ふむふむ・・・」という感じですからね。今の中学生はスマホオンリーというのが私の感覚ですが・・・。

 

その「湯水の行水」ときたら今は講談。

以前にも記しましたがその二人の仲裁に入ったのが当初(20年以上前)は「本多」で最近は「酒井」に変化していることに触れましたがその大正期の読み物は・・・やはり「本多」。

どういう理由で本多→酒井に変えたのか講談師に聞いてみたいものです。

元は本多だったものをそれに変えた理由を。

 

画像は二村氏にお送りいただいた史料。

 

 

 

0 コメント

2024年

2月

07日

川原崎次郎氏 小島蕉園と初代藩主本多忠晴の相良

お日さまが出てくることは承知していましたが予想より相当遅め。気温も上がらず結局自坊に籠りっきりでした。

それにしても首都圏の皆さん、またしても雪対応の脆弱性を露呈していましたね。救急出動が多かった様です。

今やこの時節の南岸低気圧の通過ときたらそれなりの降りになることは定説。

それをノーマル&ノーチェーンで走るなんて。

 

スタッドレスにチェーン装着をしていたとしてもリスクがあるのですから。

それは走っているのは自分だけではないということ。

ノーマルタイヤとチェーン無しの大丈夫の躰の輩たちが市中交錯しているのですから。

一般道渋滞ドハマリで「東名閉鎖が早すぎる」とお怒りの御仁がいらっしゃいましたが、道路公団はしっかり学習しているということ。

たった一台のスタックによりその後続からは微動だにしないことを知らないのでしょうね。因みに私は若き頃道路公団の下請けの会社でアルバイト(旧箱根新道・小田厚・西湘バイパスの管轄)をしていましたのでその辺りの件よくわかります。

通行の閉鎖をしても「オレは大丈夫だ」と捨て台詞を残して制止を振り切って箱根に登る車両、そういうのに限って「車がハマって動かない」のヘルプを出すものでした。

みんな「オレは大丈夫」の気持ちで突っ切って挙句「まさか」と呟くのでした。

 

また一つ、箱根で動けなくなって「JAFにヘルプ」というドライバーがインタビューを受けていましたが「布チェーンを着けたがダメだった」とのコメント。

それは最近市販されるようになったお気軽雪対策グッズですが、それを信じるとすれば役に立たない無意味なものということでしょうか?

まぁあの予報を見ていたらハコネなど上がろうなどという気はさらさら起りません。

 

扨、当相良の史跡調査会の重鎮にかつて川原崎次郎氏がいらっしゃいました。私は一度だけ自宅へ押しかけてお話を聞かせていただいたことがありますがその後間もなくして逝去されました。よってお付き合いは殆どなかったのと同様です。

そして先ごろ氏の小島蕉園についての記述をその方の息子さんからいただきました。

また相良の街の家康以降の発達についても少々の記述があります。

 

特に蕉園といえば「善政」の政治家というのが人口に膾炙したところですが、その件、ポイントとなるところが記されていました。

 

 

0 コメント

2024年

2月

06日

首都圏雪大変 当方お気楽失礼 お大事に

当地は殆ど小雨の一日。

夜間ザっと降る時間がありましたがそのあとから大和市の義母から「雪が本降り」と。こっちの雨があっちに行くと雪・・・そんな感じなのでしょうね

先日菊川にて長野県から雪のプレゼントということで特設会場でそり遊びを楽しむ子供たちの様子がニュースでありましたが、南遠には雪は降らない・・・が定説になりつつあります。

一昔前の当地には積雪はないにしろ少しくらいなら白いものがボチボチと見かけたものでしたが。

 

昨晩のNHKクロ現。

ペットブームの裏側ともいうべきペットショップの実情について。タイトルは「さまよう繁殖引退犬 ペット業界の“異変”を追う 」「10万頭の犬が行き場を失う?手放される“繁殖引退犬”」でした。

ペットブリーダーなる語を耳にして久しいものがありますが、その命のやり取りを生業にしている人たちの悪どさにスポットが当たりました。

 

番組に取り上げられていたのは繁殖マシーンとなって子犬を「量産」した親犬が御役御免、要は「稼げなくなった時」それは餌をやるだけでマイナスであるからという理由に他なりませんが彼らの行き場のない姿。聞いているだけで吐き気をもよおします。

中には山に捨てる例もあったくらい。

まともな国は既にペットショップ禁止の国があるくらいなのに。

せめて犬にも猫にもその命に敬意を持っていただきたいものです。

単純計算ですが現状親犬に子犬を産ませる回数は6回までのお約束があります。

それが厳密に守られているかどうかは知りませんがその6回に5匹が産まれたとして・・・6回×5匹で30匹。

幾らで売るのかも分かりませんが中には25万円の値がつくものもありますからね。

ぼろ儲けの感漂いますが、生産性の無いモノは捨てるの短絡がまかり通る社会ならば私たちはそれを受け入れるべきではありませんね。

購入する者がいるから売り方(繁殖者)はお調子にのる。 

この件も世界から笑いものになりましょう。

 

画像①②③は「女墓場放浪」から都内夕刻の図。

専門学校講師ですが急きょ休講になったと。

自転車を某大学構内に置いて徒歩で帰宅中、目の前でバイクがスっ転んでいた・・・と。

④⑤は「奥の墓道」氏の横浜からの図。22時に雪はやんだと。

近くの坂道には3台ほど放棄された車があったそうです。

ノーマルタイヤにノーチェーンでこんな晩に走るなんて・・・

無謀。問題は朝でしょうね。

 

当地はまったくお気楽。息子も浜松ですしもはやこの手の天候による心配はなし。

皆さんお大事に。お二人とも出勤とのことでした。

 

 

0 コメント

2024年

2月

05日

矢作川狭小「鵜の首」に丸根城

小雨の朝でしたが法要終了時にはあがってお墓参りも難なく終了することができました。

無風という条件は何より有難いことでした。

施主は「いつも法事が雨 私は雨女」と呟いていました。

私は「たまたまですよ~」。

空気の流れのローテーション。巡り合わせ・・・どうしようもないことだと。

お話は名号の「南無」について。

(ありのままを受け入れて)「まかせる」「(できないことは)頑張らない」ということ、そして「煩悩具足」の私ですがそれを身に纏っているのではなく「私こそ煩悩(そのもの)」であること、よって先生たちがお好きな言葉「人事を尽くして」の「人事」とは結構イイ加減なもの。

清沢満之の「天命に安んじて 人事を尽くす」・・・この天命こそが阿弥陀に「まかせる」でした。

立ち止まって考えれば毎度私のお話は同じようなものですね。

また、御文の添えに歎異抄四条の拝読も。

 

扨、先日記した矢作川の細く川幅の狭い「鵜の首」。

その東岸の丘が丸根城になります。

①~④が矢作川側の崖になります。今は道路が走っていますが矢作川の最狭小部といいながら堀としての機能は抜群。

こちら側(野見)南西方向からの要害性は十分ですね(場所はこちら)。

 

さほど高さはありませんが整備が行き届いた城跡は見事。

まず大きな空堀がお出迎えしてくれます。

それは北側住宅地側からも同様ですが私が知らなかった城だけに感動ものでした。

 

例によって城郭大系。本編には無し。

その他の城郭にて。

229丸根城 豊田市野見町

「丸根宗勝在城。 

現在は畑地であるが幅7m、延長100mほどの堀が残る」でしす。石標には丸根宗勝の名は記されず松平系を示唆するものでした。

 

 

0 コメント

2024年

2月

04日

親鸞オンライン講座 代官小島蕉園揮毫墓碑案内板 

風も無く寒さはそう酷くもない一日。

よって掲示板建ての続きと本堂雨戸のちょっとした修繕を行いました。

拙寺累代墓碑の側面には相良代官小島蕉園の揮毫がありますのでその紹介を。

ちなみにその本文はこちらにもあります。

何せ小島蕉園は一言で善政の人ですが代官所が近かったこともあって拙寺九代の祐厳と通じるものがあったかその交流、遺っている史料は豊富です。

勝手なことをたびたび記ますが、大河ドラマに採用されたとしても不思議ではないと考えます。

次回の大河ドラマでは田沼意次が登場することは決定していますが、その田沼―松平時代といえば「文化」の大らかさと統制についてのギャップが表に出てくることと思いますがその時代といえば「狂歌」というものの登場が何らかのカタチで描かれるはず。当時の狂歌といえば真っ先に

「白河の 清きに魚も 棲みかねて 

             もとの濁りの 田沼恋しき」がありました。

 

その狂歌師(三大狂歌師)の一人、唐衣橘洲の息子が小島蕉園というところがミソ。橘洲のその番組への登場があれば小島蕉園を

引っ張ってきやすいのですが。

橘洲の名はこの掲示板には記していませんので、登場の兆候があれば差し替えることにしましょう。

 

⑤⑥画像は当流のオンライン勉強会。

「親鸞仏教 オンライン学舎」全51講義。充実しています。

 

 

2 コメント

2024年

2月

03日

豊田矢作川 鵜の首橋 驚愕の構造物

「もう限界」の声が。

NHK「震災から1カ月 将来が見えない・・・」を視聴しました。

家があって水と電気と暖かい布団がある私がなんと仕合わせなことか。

それでいてつまらない泣き言ばかりの自分があるわけですから。「次は自分だから」の開き直りもありますが、内心こちらだけは来ないで(地震が)欲しいといった勝手な思いも。

まぁ人間はとりあえず自分の事が一番の大事。

 

よく神仏にタノム、お願いごとの一番は我が身の事といいますからね。因みに二番は家族の事。三番がおカネの事と続くよう。

それはそれはもっともな話ですが今被災地の皆さんも当然の如く。①②を何とかやり過ごした方にとっては特に今③のおカネについて相当の不安があるようです。

 

あれだけ壊れた家、稼業を復旧させることは勿論、その仕事も失っている中、日々の生活維持費、要はどうやって生き続けるかが不安材料になっているのは当然の事。

首相官邸の震災当初の出遅れと震災規模の判断ミスの件、ニュースにありましたがこれだけ災害頻発の日本にはどこかの国にあるように「緊急事態省」の如くの省庁を新設した方が話は早いのでは・・・などと思いますね。

 

情報管理、統制は勿論素早い対応に移るために常時被災地救済用の緊急品や仮設住宅資材、人材育成と人員の確保が必要なのでは・・・と。勿論そのトップは高効率な対応のために総理大臣の顔色を窺わない独自の判断ができる即現場に行ける方。

自衛隊とは連携は必要ですが別個の動きをしてもらいたいですね。

何かあった時コスプレ姿に着替えて神妙な顔で雁首揃えてのお偉いさんたち御一同、遠慮したいものですから。

 

扨、昨日は野見の丘から矢作川方向を見やりましたが、この近くの矢作川に以前から河川氾濫の名所と言われる場所があります。

雁首ならぬ「鵜の首」という名称で言われています。

細長くくねるよう流れる河川域のことでしばしばこのように河川狭小な地形というものは大雨による氾濫がつきものになります。

 

そちらに行くと「鵜の首橋」なる鉄橋が架かっているわけでそれがまた「鵜の首」というだけにかやたらと細い。

それでいて車の通行はOKなのでした。

そのうえ驚いたのが両面交通の生活道路というところ。

面白がって徒歩で橋を進みましたが、それはまた強烈です。

「構うことはない」という感じがモロ。

人がいようが車は突っ込んできて私は「申し訳ない」とばかりに欄干にへばりついてギリ車を通しました。対向車がいないを判断すれば真っ先にアクセルをふかします。

「ところ変われば」と感心させられましたが何しろ見た事のないような超絶の橋。

川幅も相当狭い場所ですが(場所はこちら)・・・。

 

 

0 コメント

2024年

2月

02日

住宅地にある古仏の見える野見墓地 豊田

暖かでしたが風強め。

またこれから寒くなるとのこと。

昨日は本山の能登半島地震義援金をカタチだけの自己満足レベル、微々たるものではありますがゆうちょ銀行より送金しました。

手数料がかかったことに「なんだかな~」。

 

永田町のお偉いさんたちの件、連日賑やか。

裏ガネ、中抜きの3000万円を隠していた連中がどう能登のために身銭を切ったのか知りませんが、派閥全体トータルで6億円にも上るといいます。

そのうす汚れたカネを能登半島でキレイにしていただければいいのに・・・と単純に思うのですが。

 

先日は某校長先生がコンビニコーヒーをレギュラー購入後にラージにしたのがバレ、話が大きくなったのか懲戒免職になっていました。

もっとうまいこと処理できなかったのか・・・と心根の悪い私などは思ったのですがその差額は僅か70円といいますからね。

同じ人間で70円はアウト・・・、そして〇千万円はセーフというのはどういうこと?

世の中一筋縄ではいかないのか不思議の国に生かされているのか。

 

また昨日は奥さんと子供3人をあの地震で同時に亡くしてしまった方のインタビュー画像を視聴しました。

その夫のバックには家族4人の遺骨と仮位牌が。

どなたであっても悲しいことですがその法名の「釋」と「釋尼」に私どもとの近しさを感じ一層の無力感が漂いました。

 

先般は当流の倒壊本堂から住職の亡骸が・・・というニュースもありましたがどの画像を見ても言葉に窮します。ため息しか出ませんね。

日本全国「次はどちら・・・」「ひよっとして私?」を思うことしきり。

 

扨、墓場放浪の醍醐味。

何となくふらっと墓地を廻って、古仏石塔に出あうこと、嬉しいものがあります。

こちらは豊田、矢作川を見やる野見墓地。

一見新しく造成された墓地のように感じますが①蓮台に経台も見えて墓地自体の古さを感じます。ただし「大師塚」の意は不明。

名号板碑が中央にあるところ特に。MIX集合された墓地かも。

他に一石五輪塔、宝篋印塔残欠などなど、整理は行き届いていますが歴史を感じました。

卵塔も見えますからどちらかの寺との関りもありそうです。

 

今は宅地と化している丘の上というところですが、造成前にはこの辺りが墓場であったことが推測できます。近くの公園の名称が「三ツ塚」でした。

⑨は矢作川方向。この河川の作った河岸段丘、「野を見やる丘」そんな名に納得して墓地を後にしました。

古瀬間城からも遠くない場所になります。

 

 

0 コメント

2024年

2月

01日

中電工事能登修復出張ご苦労さま 浅草東本願寺

雨降りの予想がありましたので花ガラ三袋含めて地頭方処理場へ。お日さまはほとんど顔を出しませんでしたが上着なしでも十分すごせる一日でした。

こうやって一日一日と本格的な春が訪れるということでしょう。

先般能登大地震とともにやってきた2024年は早一月。

1/12が過ぎ去りました。

こうやって一歩一歩その「区切り」まで歩んでいる私どもがあるわけで。

 

一昨日は浅草の東本願寺にお参りしたのですが、こちらは私が近くに寄った場合は必ず立ち寄ります。

厳密にいえば私どもの宗旨とは異にするお寺のわけですが私がこちらに拘るのはかつてこのお寺が真宗大谷派だった頃、半世紀近く前の事、こちらに併設されていた専修学院に一年通学、今の私の根拠となるものを得た場だからですね。

 

夜間の学校でしたから、昼間の学校が終わってから小田急―千代田線―銀座線と乗り継いでのお勉強タイム。もはや居眠りの連続だった感ありますが。

ロクな勉強もせずにただそこの席に居座って1年をギリギリの成績で過ごしたのでしたが、これだけのロクでもない阿呆を受け入れ、最終的に卒業という果実を与えてくれた御恩は忘れられません。

 

今となってはバカバカしい話で以前も記したことがありますが、友人の「奥の墓道」氏もその教室に同座して授業を受けたこともありました。

付き合いがイイというか興味の幅が広いのかはたまた私と同じバカなのか彼は別に私の昼間の授業(法律学)にも出ていました。

そのせいで自分の学校(横浜)の出席が疎かになり結果、一定の咎を受け煩雑な手続きに追い込まれていました。

「付き合わせる奴が悪い」「いや付き合う奴が悪い」の問答が思いだされます。

ちなみに私は彼の学校(経済学)の授業には出たことがありません。

 

①は中電の電柱支柱工事完了の図。

能登半島の電力事情は回復とのこと。

早速こちらの工事を手掛けていただきました。

ということで会館の工事担当者に連絡。

さてさてどうなることやら・・・

 

②からは浅草の「東本願寺」。

門を入って左側にその建屋、専修学院はありました。

蓮如さん像にも挨拶は欠かせませんが新しい石碑が。

「天竺の庭」とやら。

 

 

0 コメント

2024年

1月

31日

浅草公会堂 「花こぶし」観劇と池波正太郎展

6時30分に出立、10時過ぎに浅草着。

16時前に再び首都高に入って19時30過ぎに相良帰還。

結構ハードなドライブでした。

しかし浅草が目標となると首都高速は毎度ベタ混み、用賀から三号線と環状線のコースは上下とも使用しないで済みますのでこれといった渋滞ハマリはありませんでした。

 

東名青葉ジャンクションから湾岸線へワープする作戦です。

生麦に出るまではトンネルばかりですがタイミングさえ良ければストレスなく車を進めることができます。

ただし分岐が多くまごまごしているとコースを間違えること必定。

特にいつもと違う方向・・・これは早朝西方向に向かって夕刻相良に帰るのとは逆・・・東京方面の場合は結構にリスキーなことがあります。×2です。

それが天気が良ければ良いほど・・・

早朝の東進は日の出、夕刻の西進は日没の眩しさ。標識も場合によっては前車も「消える」ほどに。

 

やはり朝は西、夕は東に向かうのがお気楽です。

 

浅草公会堂には初めて入館しました。チケットは叔父からのご接待です。

観劇のあとロビーでは池波正太郎展と書籍の販売コーナーが。

彼は浅草出身だったのですね。

 

それにしても浅草は一昔前と全く変わっていました。

日本人はその劣化度に外国人はその多数圧巻に驚かされました。まぁ人混みにくさくささせられて尻尾を巻いて帰ってきた田舎者夫婦でした。

特に奥方から「人気のどら焼き屋」に付き合わされましたが、店の前に辿り着くとズラッと行列。

店員さんに「あちらの最後尾にどうぞ・・・」でした。

勿論「それなら結構」の捨て台詞。

奥方には「並んでまでして喰うもんじゃない・・・」。納得していました。

 

東本願寺(昔の東京本願寺)にはご挨拶にお参りしましたが、もはやそう行きたいと思える場所ではなくなりましたね。

②は閉演後の撮影OKのご挨拶タイム。

尚、そのタイトル名は恵信尼の五輪塔脇にある花こぶしから。

 

2 コメント

2024年

1月

30日

レイシャルプロファイリング 世界人権宣言 志賀墓地

はじめて「レイシャルプロファイリング」なる語を聞きました。表向きオトナの外交に「日本に来てください」なる商売上手のいろいろを見ていますが、それに対してこの件恥ずかしいことです。

「外国人」という理由だけで積極的に(当人にはその理由等を示さず身体検査、暴言を吐きながら如何にも「差別的な」)職務質問をするというもので、あたかも外国人(特に有色人種が多いよう)・・・という理由で犯罪者を想起するという発想。

まさかそれほど酷い「思い込み」がここでも常態化しているとは思いもしませんでした。

特に今回国と愛知県警が提訴されたわけですがまったくみっともない話で言葉もありません。

愛知県警のマニュアルの件も酷い錯誤。旧態依然の陳腐な発想をもってずっと維持されていたということでしょう。

島国根性丸出しなのか、それが日本だったのか・・・と唖然とさせられました。自分たち黄色人種がかつて白人の地で思わぬ差別を受けていたことを忘れたのでしょうか。

日本人は同じ日本人に対してもその違いについて一種独特の歪んだ視点から見廻わそうとしますからね。

ただ自分と違うというだけで。

 

警察官は今職務の前に「世界人権宣言」の件、お頭に入れておいた方がいいようですね。変な「伝統」?を振りかざす前に。

恥ずかしいですよ。日本人。

 

「世界人権宣言」

第一条

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

第二条

すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。

さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。

第三条

すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。

 

扨、画像は昨日の志賀神社に隣接した高台の志賀墓地から。

名号板碑と六地蔵ほか墓石たちはどちらからか移転してきたようです。古そうな墓石を探してうろつきましたが、新墓地ということでムリでした。

うろうろしていると墓参の方に会って「珍しい苗字ですね・・・」

蟹さんでした。縁者も多いようでその墓塔をみかけました。

家紋から連想すると笹の才蔵を思いますが、「可児」の件には触れませんでした。

また加藤さんが多いことも。

 

この高台からも古瀬間城の櫓が見えます。

 

 

0 コメント

2024年

1月

29日

思い思えば闇の世や 浮世は夢よ 裏切り御免 志賀

昨日はBSでクロサワの「隠し砦の三悪人」が放映されていました。最近は滅多にその機会はありませんから何となくチャンネルをそのままにしていました。

モノクロ画像と台詞廻し、そして各オーバーアクションについてはともかくとして、やはりついつい見とれてしまいます。

ハリウッド映画の巨匠たちがこれに倣って各新境地を開拓していったその原点ともいうべき映画です。

特に私は黒くて汚らしくて油汗ドロドロの顔を見るとセルジオレオーネのマカロニウェスタンの色々を思い起こします。

まずクロサワから始まった・・・

今や日本映画はそのハリウッド映画のモノ真似専らの感。

アニメ以外ではもうムリなのでしょうね。

 

それにしてもそのタイトル「隠し砦の三悪人」は如何にも如何にも・・・というくらいインパクトがありまた伝説的。

現在、永田町では「なんとか派の五人衆」なる語が闊歩していますがキックバックだか隠しカネだか知りませんがまさに「五悪人」。

映画の中ではでたらめ、いろいろしでかしてそれでも「めでたしめでたし」で終わりました。

現実の彼らもお目出度い緩みっぱなしの顔を一昨日晒していました。お咎めなしの躰。それでいいのでしょうかねぇ。

同情できない「悪人」自省のない「悪人」多すぎます。

 

表題「思い思えば闇の世や 浮世は夢よ」は劇中「火をどり」の中の歌詞。「裏切り御免」は愉快で爽快な台詞。

敵役の侍大将がその言葉で寝返り、形勢逆転、囚われの身が助かったのでした。

 

扨、画像は志賀神社。

最後の画像中央右が昨日の志賀公民館。その先の小山に古瀬間城の櫓が見えます。

この神社も元は古瀬間の松平関りの社のようです。

ぐるっと尾根伝いに古瀬間城ウラの散策コースが巡っているはずです。私はチャレンジしませんでしたが。

 

 

2 コメント

2024年

1月

28日

豊田志賀町区民会館 秋葉灯と畜魂碑

昨晩はグレートネイチャーの「モンゴル草原~」を視聴しました(湧き水 永久凍土 氷河によってもたらされた豊かな大草原)。

何から何まで私の頭の中を超越しているというかスケールそのものが私が普段目にしている物たち色々との段違いの様相を。

そもそもあのモンゴルの大草原が「2億5000万年前に海だったものが閉じた」の件、仰天です。そして5000万年前にインド亜大陸が大陸に衝突し各山脈(天山、アルプスそしてアルタイ・・・)と平原が形成されたという地殻変動の歴史でした。

あまりにも天文学的スケールの如くで狐につままれた気もしないわけではないですが。

 

溜息が出るのはその草原に人があまり見えない事。

人口密集、家々がひしめき合って建つ日本国内の様が普段から目に焼き付いている者としては圧巻の自然世界です。

遊牧民は3000年も前から馬を放牧しながら彼らと生活を共にしているのですが、その保有頭数も半端な数ではありませんでした。一家族で馬数百頭、その他羊や山羊も。

だからこそ彼らの主食である草を求めて「遊牧」するわけですが、その生活をこれまでずっと同じカタチで続けているという彼ら遊牧民に偉大を思いました。

それこそこれが素朴で鷹揚そして忍耐強い性質を生むのでしょうね。

ついつい大相撲の現実世界、頭の中をよぎります。

 

扨、昨日の西谷院のあるちょっとした丘を下って、同じ志賀町の区民会館の前に秋葉塔と石碑が道の脇に。

この手の平らかな石碑というものは大抵が地域偉人か出征兵士を讃えるものですが、それはこれまでの私の理解を超えるものでした。

文言が道路側にあってざっと眺めるにこれはいつもの石碑の類とは違うことがわかって正面に廻りこんで確認。

すると畜魂碑と。

裏面には国の隆盛は農業に関わっていてそれには家畜の力か必需・・・のようなことが記されています。

一家に一頭・・・それって馬でしょうか。

ということはよく街路に立つ馬頭観音の如き石塔、その動物顕彰碑の大判ですね。並々ならぬ愛情と感謝の思いが伝わってきました。

動物たちに代わって機械化された農業もまた廃れ、機械そのものに振り回される人間の様。

機械(AI)はヒトの顕彰碑を建てるのでしょうかねぇ。

 

 

0 コメント

2024年

1月

27日

川島掲示板続き 西谷院卵塔たちの奥に宝篋印塔

川島清右衛門墓の掲示板の続き

まずは「御用所」の件。

私はその「史跡」の記述について検証する術を知りませんがそれから推測するに、まず城内に「御室御用所」を招へい設立し、その後相良波津の「百花」にまたその「御用所」を開設したというところ理解したのですが、その御用所とは何かといえば相良藩の経営する金貸しシステムのことですね。

貸付業務(銀行業務)により金利、今で言えば法律に抵触しそうな高金利・・・、を稼ぐというやり方ですね。

当時、キャッシュの少ない時代ですから需要はあった筈で藩の財政はそれなりに潤ったに違いありません。

 

そのキャッシュの貸し出しと金利含めたカネの回収のノウハウを得るためにその「御室御用所」をまず最初に招いたのだと思いますが・・・

ノウハウだけでなくその元金の借り入れに「御用所」の名も頂戴するという算段。

そこで「御室御用所」とは・・・。

単純に「御室~おむろ」といえば仁和寺の事。言わずと知れた絶大門跡寺院ですが、江戸期における権勢(財産)も突出していた

わけで、当時その門跡寺院たちは有り余る金子をさらに投資、その窓口(銀行支店)を各藩の求めに応じて出張開設したのかと。また「御用所」は富籤御用所(宝くじ事業)手形の発行などの事業細分化して武家社会に密かに君臨していたことでしょう。

その「御室」とは通称は仁和寺ですがその類の門跡寺院の金貸し出張所「御用所」にも「御室」を冠したのではないでしょうか。

 

幕末の武家の懐事情はかなり悪かったため、その御用所より手形や現金の貸し出しを受け自転車操業に陥って、幕府の財政の破綻を加速させたのでしょうね。

また川島らの御用所運営は相良藩財務の逼迫に一瞬間は貢献できたでしょうがその時代の流れには到底抗うことはできなかったことかと。

 

そして今一つが川島の妻二人の件。

概略は昨日記した通りですが、推測の域を出ませんがそこに睦まじい「三人」の姿が想像できます。

相良藩勘定奉行としての川島の働きと彼の死を受けて五年。

妻たちそれぞれの思い、どうあったのだろう・・・などと歴史小説のできあがり・・・どなたか、うまいこと仕上げてくださいませ。

 

扨、豊田志賀町ブラつきの続き。

古瀬間城を浄願寺境内に下りると、お寺の屋根が見えます。①図中央左。

浄土宗の西谷院ですが卵塔の数からして古い歴史があるお寺とお見受けいたします(場所はこちら)。

その卵塔たちの居並ぶ場所の奥に一基の古そうな宝篋印塔が立っています。完全形ではありませんが、一部相輪も残っていて、ただそこにいらっしゃるだけで威風を放っています。

ありがたいことです。

 

 

0 コメント

2024年

1月

26日

川嶋(島)清右衛門重固家墓碑掲示板差し替え

天気は晴れながら寒くて風の強い最低の一日。

寒さには慣れもしましたが、ここ数日サボりまくっていた例の川島清右衛門墓の掲示板の修正作業を。

ご指摘を受けた「御要所」の「要→用」に文字を改めたほかそもそもその文言の元ネタは先日も記しました通り平成20年発刊の「相良史跡」からでしたが清右衛門の法名といえば大元の史料としては拙寺の過去帳ほかありませんので念のためそれをチェックしたところ転記ミスがありました。

相良史跡のものは清徳院重永となっていましたが清徳院釋重水が正解でした。

法名を間違えては申し訳なし。

その妻が清心院釋徳水とありましたのでまずそれは「水」で間違いないでしょう(過去帳そのものにも誤記はあるものです)。

夫婦で同じ文字を法名に入れることはままありますからね。

 

過去帳を眺めていて気付いたことはその妻に二人目が存在したこと。二人目の方には院号が命名さずに法名だけですから明らかに上下関係(正妻と側妻)といったところが推測できますが本当のところはわかりません。

またその二人の命日。

慶應四年1868六月十二日と六月十三日。

清右衛門が文久三年1863七月十二日その十二に何かの決意のようなものを感じます。彼の息子清次郎重基の名も過去帳にあり

ました。彼が没してからは明治期くらいまで水野家がこの墓を管理していたのでしょう。

 

④は清次郎重基の娘が水野家嫁いだ際に持参したという田沼意知の画。

⑤は参考のため清右衛門の発した貸付書の書き下しを添えました。

 

相良藩奉行 川島清右衛門重固と妻 清次郎重基 墓

川島清右衛門は須々木村の出身ともいわれるが不詳。 相良藩主田沼備前守意留に仕え、生来利発 天保七年1836 勘定役に取立てられた。 天保十一年四十二歳の時田沼玄蕃頭意尊が藩主になった際 勘定奉行に抜擢され幕末期の苦しい藩財政の保持に専念した。 年貢免定(賦課率)を決め天保七年より安政六年1859まで 二十四年のあいだ井上寛司とともに田沼家を支えた。 藩中では「御室御用所」を設け町内百花に通称「御用所」を 開設。東遠における金融機関として掛川、横須賀、相良領を 中心に貸付を行った。 文久三年1863七月十二日六十四歳。

法名清徳院釋重水。 妻は清心院釋徳水慶應四年1868六月十二日。 また釋妙清同年六月十三日。大澤寺過去帳よると妻は二人いた ことが推測できる。 清右衛門没日と同じ十二日とその翌日の死は謎である。

 

重固の子清次郎重基は分限帳に「給人席」(藩内身分)二十三石。 水戸征伐には「大炮役」として出陣。文久三に父の家督を継ぐ。 明治元年田沼意尊の小久保藩転封に従い明治三年に「小久保藩 大属」さらに「小久保藩庁掌」を任命される。 後、郷里に戻り相良警察署池新田巡査になった。 その娘が朝比奈山ケ谷の水野家に嫁いだが嫁入りの際持参した 田沼意知が描いたといわれる画が伝わっている。 明治十九年九月三十日没 法名釋離塵

 

相良藩奉行御室御所川島清右衛門重固貸付書

以剪紙致啓上候向寒 之節御座候得共弥御堅固 被成御勤役珍重奉存候 然者当領分榛原郡波津村 当暮取賄金差支候ニ付 御室御所御貸付金之内 弐拾五両拝借仕度旨 願出候間相糺候処相違無之候 之間御貸付相成候様御取計 可被下候尤拝借人差出候 証文質物等之儀相改 其 御用所江差出申候 右願人三保太郎願之通 御聞届宜御取扱被下候 勿論元利返済方之儀ハ 聊無滞様可申付候此段 可得貴意如此御座候 恐惶謹言 田沼玄蕃頭内

川島清右衛門 重固 花押

十一月十三日  御室御所

御貸付 御役人中様

 

 

 

 

 

 

0 コメント

2024年

1月

25日

古瀬間城本郭の裏山 小督局の墓 ?

 

お気楽野郎の泣き言と思われるでしょうが寒すぎて何もする気にはなれません。

バカバカしい寒さ・・・早いところ暖かな季節の到来を待ちます。

とはいえここ南遠州、相良では雪の一粒も降ったわけでもなく昨日のドカ雪で高速道路上で雪ならぬ「雪隠攻め」となっている人たちがいることは同じ東海道ということもあって少々の驚きがありました。

まぁ以前から近江から関ケ原には北側に高い山脈がないためにその降雪傾向が強いということは身をもって承知していますがあの様を見ていれば移動と高速道路の利用には天気予報の確認は絶対的要件であって、ヤバいと思ったら中止にするか早めの対応が必要になります。

 

昨日は息子が島田でラーメン食べたついでということで立ち寄りましたが週末に東京で法要2件を受けたとのこと。

私もかつて厚木インターから小田原方向に向かうにインターに入ってスグ、チェーン規制に遭遇して大渋滞。微動だにしなくなって朝まで道路上にいたことがありますが、予報が怪しい時は高速道路は控えるというのが肝要。

そもそも移動はせず、家にいるのが一番です。

家の中がこれだけ寒いのに被災地の皆さんの仮宿や車上での時間は私には想像できません。

被災したら・・・真っ先にすべて諦めて・・・死ぬ。そう断言します。

熱いお湯に入るとき「生かされている」の至福を感じる今日この頃。

 

 

扨、昨日記した古瀬間城

浄願寺の奥、扉を開けて山道をのぼり切れば①の如くの看板が。

ということで古瀬間城の本郭をブラついたあとはその矢印の左方向「小督局」とやらの墓へご挨拶。

豊田方向に睨みを利かせている風からしてこちら方向は城址の裏山という感じ。

その参道には地域のみなさん方でしょう歌碑が並びます。

看板から100mも行けばその墓塔に会うことができました。

小型のかつては宝篋印塔が三基あったような出で立ち。

 

右端の大きいもの、上部に相輪が残っているのが小督局でしょう。いずれもバランスが悪く、本来のパーツの組み合わせではないかと。

最後の画像は宝篋印塔の笠、隅飾りの部分だけ。

 

その小督局について各お調べいただければ。

数ある小督のうち平安末期のそれを主張していますがそもそも

何故にしてこちらにという理由がわかりませんので、ハイそうですか・・・という具合に鵜呑みにできないところ。

パーツの組み合わせを推すところは浄願寺奥の松平の宝篋印塔と同様ですが隅飾りの姿は古式溢れて美的要素は満点。

こちらの散策も春がおすすめのよう。

ヤマザクラには早かったのでしょう、それには気づきませんでしたが。

 

 

0 コメント

2024年

1月

24日

古瀬間城 お気軽散策コース 梅咲く季節がおすすめ 

 

クロ現は佐藤優氏。

多くの印象的な言葉に満ちたインタビュー番組でした。

苦しい時は頑張らずに「助けてくれ」を言おうそしてそういう社会に・・・まさにその通りです。

しかしどちらに向かってそれが言えるのでしょう、我々はプライドというものを持ち合わせていますのでなかなかそれを打ち明けられないもの。そんな場所といえば・・・寺なのか。

植木等の「カネの無い時」「オレも無いけど何とかなるさ」とありましたが今そのナイのレベルが半端ではありませんからね。

そんな格差社会にたれがした。

 

また「縦の贈与」という言葉は良き言葉。

今、父や爺様はとっくのとうにお浄土ですが、日々を暮らしていてわからないこと聞きたかったことのいろいろとブチあたったとき聞きたくても聞けません。訪(とぶら)って耳を澄ます他はありませんからね。

もっと聞いておけばよかった、教えを請えばよかった・・・の想いが。

生前の頃はそんなことを考えもしなかったことで、これを「バカは死ななきゃなおらない」と言うのでしょう。

死んだのは私の父であり「なおる」は気づき。

今更気づいても既に遅し・・・

息子には何を伝えて行くか。 

 

扨、昨日の墓碑を見送り(②の左側が墓域です)階段を上がれば獣除けの扉があります。それを開けてほんの少し進めばそこが古瀬間城。土塁等の残存遺構も垣間見れます。

台地の先端にあって豊田市内を見渡すことができる眺望がいいところですが背後の台地はそう険しくなくなだらか。さほどの要害性は感じません。

 

整備が行き届いたのが最近のことで梅を植樹したことからそれが咲くころには絶妙の山歩きが楽しめます。

⑤が厳冬期⑥が3月初旬の図ですが今年は梅の開花が早そう。拙寺のとち狂った梅4本は既に咲いてしまっています。

 

そして城郭大系の本編記述はなし。

「その他」の扱いで「松平宗忠・鈴木重政在城。大字馬場の地名が残る」とだけ。鈴木重政は足助鈴木氏。

 

 

 

 

0 コメント

2024年

1月

23日

松平弥三郎宗忠墓所 浄願寺

 

ボランティアなる語を聞けば「すばらしい心がけ」として感心させられます。

自分の時間を他者の為に奉仕「尽くす」ことですが並大抵の労力ではないでしょうね。仏教でも慈悲の実践として昔から高僧たちが取り組んできたものです。

 

最近は高校・大学ででボランティア部なる活動があることを聞きますが先般そのボランティアに向う若者たちについて聞きかじったことがあります。

それは大きな意義があることですが、いとも簡単に挫折し時にトラウマとなって精神的なダメージを被るということです。

要は思うほど美しい人助けとは違うということですね。

それはそうでしょう、究極の困窮と苦痛を背負った人々に勝手な慈悲の心を向けたとしても「違う」と思われてしまうようです。

若者たちはとかく経験が薄い。

現場に出たことが無いこれがデビュー戦のような子供たちが時に罵声を浴びせられありがとうの言葉の一つもない殆ど戦場の様な場所にお気楽気分で「人の為」と向かって逃げ帰ってくるということですね。

泥だらけになって食事や風呂は被災者第一に優先、その覚悟というものが必要です。

 

扨、昨日記した浄願寺の奥に墓塔が数基見えました。

あっちこっちから素材を組み合わせたような姿に見えますが

松平弥三郎宗忠墓所の標が。

宗忠は松平信光より分かれた長沢松平勝宗の子といいます。

 

 

0 コメント

2024年

1月

22日

浄願寺鐘楼山門と堂内阿弥陀仏ちらり

 

昨日日曜日には3件の法務がありましたがそのうち1件、浜松霊園での墓前法要は息子に向かってもらいました。

当初土砂降り予想で、彼には「ズブ濡れでも笑顔で行ってくれ」と依頼していましたがその頃は完全に雨があがっていました。ありがたいことです。

 

私は法要が1日複数の法務というものがいよいよ辛くなってきましたので彼が代わりに行ってくれることは頼もしい限り。

いよいよ寺の戦力として計算できるようになりました。

しかし伐採や片づけ、メンテナンスの手助けフォロー依頼の呼びかけには顔を出しません。

法務よりも私が行っている「雑務」による維持作業が本題であることも伝えて行かなければなりませんね。

そこを「他力」(一般的な)で済ませていては出費が嵩むだけですからね。

 

「辛くなった」というのは喉の具合のことです。発声の質も悪くなっているような気がします。

昨日も2度目の法縁の正信偈拝読の際、突然声が出なくなってしまいました。それには相当焦ります。

何とか復活するという妙がありましたが、御一同にもハラハラにさせることになります。

 

その症状の発生頻度が高くなったこと、そろそろ「いい加減すっこんでろ~」と声があがって来そう。

ただ風邪の症状の様な気もしないではありませんが。

それはそれで困ったことになります。

様子見て彼を呼びつけるという選択も視野に入れています。

 

扨、「他力」は誤解の多い言葉であり当流の「他力本願」という熟語にするともっと批判的イメージを抱く方がいらっしゃるのでまた困る。

困るといえどもそれこそが私ども真宗の本貫となる教えです。

以前もその件、かつての「オリンパス」社の無知の露呈、それに対して本山の抗議文まで出たことを記しましたが当流はその意の解釈について特に敏感です。

要は「他」とは阿弥陀仏以外ほかでもなく「人」に対してではないということ。

要は仏教の語が独り歩きしてしまったのでした。

 

そして「悪人正機」というのも当流の看板。

悪人だからこそ阿弥陀仏の救済の第一義、対象になるということですが、だからこそ自力作善ではお手上げであって阿弥陀に(他力に)タノム(まかせる)わけでそれにはお念仏・・・という構図が出来上がるのでした。それも大いに誤解を招きます。

 

まぁ善行を重ねることに意義を感じ生きる(自力作善)という他者の考えはそれはそれでヨシ。これは善を以って救われるという考えですね。

しかしその善というものの捉え方は人によって違うのです。

歎異抄四条の語を借りれば「すゑとおり」がナイわけで・・・

まぁそれは自分本位の「善」であるということ。

 

そして「自分を信じて」のことば。よく耳にします。

私はこれだけはどうも好きになれませんね。

 

何故ならば何度かこちらでも記していますが「私自身が一番に自分を信じられない」からですね。

まぁ煩悩のまゝ動いていろいろやらかす私があるからですが、それは一言で言えば、良いこと(善)である、これこそベストであるの様々な「思い込み」から発するもの。

「錯覚」ばかりの夢見心地で生きているが如くの私を信じようがありませんからね。

その思い込みによって、まま人を傷つけ失敗を重ねまくる私(悪人)があるのでした。まぁこれは死んでも治らないでしょうね。

 

同様の件、適宜ブログに記すのは私はバカだからなのです。

幾度も幾度も繰り返しその件、立ち止まって記し、私自身に言い聞かし自分に問うことが継続的に行われないと・・・忘れるから。

そして「阿弥陀にまかせます」の念仏を唱えることは欠かせません。

 

昨日は法話の時間の中で「自力作善」とは「ウオッシュレットのボタンを押すようなもの」と。

自分自身のお尻のために・・・

表現が下手クソで申し訳なし・・・

 

因みに「自分を信じて~」が嫌だとして何がいいかを思量すれば「普段通りに~」「ありのままに~」「自身できうる限り~」がいいな・・・。

まぁその言葉(自力の自分教)がお好きな方はご自由にどうぞ。

それを「悪い」というのも私の言いがかりかも。

 

画像は先日記した浄願寺の山門を再び。

あの門は素晴らしい。

あの椿三十郎も鐘楼に上がって居眠りができそう(映画のストーリーの中では彼がでっち上げた話の寺の山門は茅葺で二階建てではなく「そこで居眠りしていたら~」の大嘘はバレてしまいます)。

こちらは実際「二階建て」。

 

 

 

0 コメント

2024年

1月

21日

川島家墓標のお隣 この文字は・・・「卑」の異体字

 

先般記したばかりの川島清右衛門重固の墓碑紹介掲示板に誤記が数点みつかったことと追記も数行あってその改作を試みています。

文言製作(といっても転記主体で文字合わせが主です)さえできればお天気の具合を見て貼りなおせばOKですから。

よってその紹介文の作り直しで一日を過ごしました。

朝から冷たい雨でしたから一歩も外に出ず。

奥方が買い物等で出入りしていましたが私はずっと留守番でした。

というのもその日の午前は法事を承っていましたが施主がインフルエンザに罹ったということで中止順延になったのでした。

今、どちらでもそのインフルとコロナなどの感染症が流行しています。

逆に私が罹患した場合はどうなるのだろう・・・「その時になってみなくてはわからない」としか言いようがないですね。

無理をしたとしても他者への影響を考えると・・・

ああ、思いつきました・・・副住職(息子の自称)を呼び寄せればイイだけでした。

尚、正式に「副住職」を名のるには本山の承認が必要になります。

私が亡くなるか引退し彼が住職として継承するにはスムーズに進むのですが。

 

扨、先日記した川島家の墓標ですがそのお隣に長い間放置されていた墓碑があります。

ずっとその川島家の墓に寄り添うようにあってこのほど川島家の墓碑をキレイに据え付けていただいた松永氏が「折角のご縁だから」とこの墓も据えなおしてくださいました。

 

一見すると「早川源三郎」の如く。

しかしよく見れば「早」ではなくその文字は下の「十」の部分が上に突き抜けて上の部分が「日」でなくて「田」。

「田に十」が組み合わされたような字。

よって過去帳を探します。その苗字はナシ。

しかし正面に没年が記されていますので話は早い。

 

「文化十三年十一月六日 釋了本 源三郎事 新町」とあって

墓碑の源三郎と相違ないところですが過去帳にはその問題の苗字が不記載。

当時の過去帳には名前のみというのはまたぞろですが墓碑には記されていて過去帳にその苗字がナイというのはちょっと首を傾げるところ。

 

そして今、やはりその新町には勿論その名から推測できる家はナシ。川島家と同様いわゆる無縁墓でした。

私は苗字があること、新町というお城の前の通りに住まったことから身分的には武士であったかとを推測します。

源三郎・・・あなたはたれ?

 

そしてその早川ならぬその字と読みは?

「早」に見紛うその字は「卑」の異体字ですね。

よってその読みは「ひかわ」源三郎さん?

その「卑」の字については神の名や卑弥呼の如く使われている例はありますが、現代は苗字として見かけることはありません。

江戸期くらいまでは普通にあったのかも知れませんが、その文字をきらって多様な字を当てて今があるのかと。

 

また川島家の墓に寄り添うようにあったのはこじつけのような気もしますが何らかの関りがあったかも・・・などと。

ただし清右衛門の没したのは文久三(1863)ですから源三郎の文化十三(1816)ですので半世紀ほどギャップがあります。

田沼家家臣(意次時代)にもざっと見当たりません。

 

しかしまた清右衛門の須々木出身の説ですが、拙寺過去帳には元文期(1736~41)に「浜主」という文字面とともに「川嶋」の文字が出てきますのでその系統ということもあり得ます。

そのころからの付き合いがヒカワ氏とあった可能性もありますしまったくの無関係というのも。

いずれにしろわからない・・・というのが本当の所。

 

 

 

2 コメント

2024年

1月

20日

廣陵兼純師 久能山東照宮二里十一町 里程標塔 

 

石川県輪島市に門前町なる町名があります。

その名を示すお寺の「門」とは総持寺祖院ですね。

曹洞宗大本山の古刹で横浜鶴見のお寺の前身になります。

前回平成19年の地震被災による耐震改修を加えた復興を遂げて先般、それを記念した大法要が勤められていましたが今回の能登半島地震により再び甚大な損傷を被ったことが伝えられています。

ごく小さいながら同じように仏教施設を管理する身としては本当にそのやるせなさと意気消沈の気持ちがわかります。

大本山というくらいですから時間さえあれば何とかなるような気がしますが。

ところが各宗派とも末寺クラスともなれば「全てに於いて苦しい」というのが実情でしょうね。

 

未だ当流寺院の被災状況について詳らかな情報は入っていませんが14日現在、そのエリア能登教区(寺院数353ヵ寺)の確認済み寺院数322ヵ寺(未確認寺院数31ヵ寺というのはまた恐ろしい)のうち何かしらの被害が報告されている寺院数は262ヵ寺と。

そして本堂の大規模被害報告66ヵ寺、庫裏の大規模被害が報告されている寺院64ヵ寺でした。その両方の被害があるお寺もあるでしょうし、未確認不明のお寺がまだ多くあるというのはその

被災の甚大さが改めて図れるというもの。

 

その門前町の総持寺祖院には多くの支院があったそうですが、その支院の一つだったといわれる寺に満覚寺があります。

同じ門前町にあるお寺で現在は真宗大谷派。

不確かな情報ですがどちらかの時点で真宗に改宗したという歴史があるようです。

 

そのお寺といえば節談説教の廣陵兼純師(前住)が。

確か「全国行脚、どちらにでも行って説教する」と仰っていたのは前回地震での本堂被災の修復のための「出稼ぎ」との自虐の言葉があったこと、今考えるとさらに辛い。

そして今回の地震。

大層な被害があったことが想像できますが・・・切ないことです。

溜息しかでてきませんね。

尚、廣陵兼純師のお説教はユーチューブで視聴できます。 

 

扨、昨日も一層暖かい朝。

奥方が「なんでこんなに早い時間(9時)に予約を・・・」とぷりぷりしていましたが二人で7時に家を出ました。

静岡市内の歯科医院に奥方の検診と私の予約を入れていたことからです。

奥方の検診結果は良好と褒められていました。3年のブランクがありましたが虫歯はありませんでした。

私への評価はやんわりと「歯の裏側のブラッシングが苦手なようですね~」ですが奥方の場合は「上手にブラシができています」でここでも差をつけられてしまいました。

 

歯科診療の序でに静岡駅ビルが新装したというのでそちらをブラリ。時間が少々早かったせいでお店はまだ開店準備中でした。

南口のトイレに立ち寄ってから駅南ロータリーに出ます。

滅多なことではこの辺りを歩きませんが、今や南口の待ち合わせ場所となっている里程標塔に目が留まりましたのでそちらを。

 

案の定数人の若者たちが標塔ベースに寄りかかってスマホをいじってましたが、私はお構いなし。

「はい、ごめんなさいよぉ~」といいながらスマホのカメラを向けるとあっという間に消えて居なくなってしまいました。

結果的に私が蹴散らしてしまったよう。

 

この標塔の元あった場所は今とは違うところ。

時代の流れであっちこっち移動させられているといいます。

要は開発のために邪魔だということですね。

ということでその東照宮までの距離は正確なものではないでしょう。

まぁ何とかいい場所に据えられて安寧を得たかのように街に溶け込んでいますが、やはり怖いのは地震。

しかし大正時代に建てられた石塔が無事にここまで残っている(如何にも地震には弱そう・・・)ということ、奇特なことだと思います。

 

 

0 コメント

2024年

1月

19日

相良藩勘定奉行川嶋清右衛門重固 田沼玄蕃頭意尊の時

 

暖かさのおかげで屋根の上にてアンテナ基盤の設置と調整を。

BSアンテナのベース部分が腐食し最近の超強風でアンテナの方向が維持できなくなって衛星放送が視聴困難に陥っていました。

その手の仕事は風のない穏やかな日でなくてはムリな話ですからね。またやらなければならないことばかりでやっとこ昨日完成できました。

これはテレビの前で待機する奥方とアンテナを固定する私が携帯電話を繋いで調整しました。

 

その後は課題の一つでもあった境内墓碑の掲示板を二基設置。

1つは成瀬蔵の息、成瀬鼎の墓碑の掲示板の修復です。

その紹介掲示板が腐食して倒れたのが昨年の夏のことでした。

昨年春にマダニにヤラれたこともあってこちらの笹の中に入ることを恐怖に感じこれまで放置していました。

今一つは川嶋(川島)清右衛門重固とその家族の墓の紹介掲示板を立てました。

彼は後期田沼、田沼玄蕃頭意尊が藩主になった際の勘定奉行です。

 

そのあと1件だけですが法務に出かけて帰った際、駐車場から出てきたであろう見覚えのある女性が墓地裏側に入っていく姿を見送りました。

確認するとやはり…

その方が静岡市在住の松永氏。 

川嶋(川島)清右衛門重固から三代―清次郎重基―新太郎重之の三女が水野家―松永家と女系で繋がっている子孫の方になります。

新太郎重之には女子3名の名がありましたが男子不在のため弟の重代に三女を嫁がせて家の継承を図りますが生まれた子に男子はいなかったようです。

よって現状その墓は世間一般で言う「無縁墓」のくくり。

それから明治よりこれまで放置されていたということですね。

その存在を知っているのは殆どこの寺の私だけかと思っていましたが・・・昨日の史蹟調査会発刊のものにはその所在について掲載されていました。

 

その松永氏が昨年夏ころ突如拙寺に訪れて、川島家の縁者末裔の者として墓をキレイにしたいとのご提案をいただき、その意の通りにおまかせしていました。

昨年末に息子さん同伴で来られて改修が完成していました。

私もそのご厚意に応えるべく看板を立てたのでした。

 

そこへ偶然にもその松永氏が参拝に訪れたということですね。

不思議なことがあるものです。

 

墓場と歴史がお好きな方はそうはいらっしゃらないとは思うものの拙寺の古い墓を探し出して今後紹介の看板を記して行こうかと思った次第。有縁無縁関わらず墓の掘り起こし・・・結構面白そう。

 

※ 2024年1月26日 掲示板文言訂正 追記しています。

 

 

 

2 コメント

2024年

1月

18日

2025大河 平賀源内の配役? 唐衣橘洲の登場期待

 

降雪量半端ない地域の皆さんには申し訳ないことですが、昨日の当地はべらぼうな暖かさ。特に車の中は夏の如し。

なさに好天に恵まれ仕事が捗りました。まぁ色々です。

 

ウォシュレット2基交換は完了しましたが来客用女子用和便トイレ漏水の修繕用のパーツ探しに走りました。

2日かけでチャレンジしましたが、完治せず。

まぁ洋便器の方がしっかり稼働していますので、当分そのままでヨシということに。これで男子1 女子1になります。

滅多に使用しないトイレたち3→2となっても問題ないかと。

その個室は外からロックして貼紙をもってお断りすることにしました。

 

しかし今時、和式トイレというのは少々首を傾げたくなるところで将来は何とかしたいとは思いますが交換設置には何かと経費がかさみます。

また、会館新築工事後は外トイレ(以前は汲み取り式)を設けますのでトイレばかりは要らないというもの。

外トイレ増設はおカネがかかりますからね。

 

来年のNHK大河ドラマへの期待が膨らみつつある昨今ですが、千載一遇のチャンスとはいえ「どうしていいかわからない」というのが現状かも知れません。

 

番組のタイトル「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ですがその治世が田沼意次時代が絡み、その意次の配役に渡辺謙が決定したことから俄かにその件知る人ぞ知る人たちの盛り上り。

実際の視聴率の方から見るとやはり、「興味が・・・」という人も多いような気もしますが成功不成功に関しては私どもの心配の外。

 

そして「どうする牧之原」(厳密には「どうする相良」?)となっているのですがとりあえず「大河館みたいなもの」はどうよ・・・という方向になるわけです。

しかし今のところ、資金的都合の問題で既存建屋を使用してスケールダウンした「大河ドラマ展」にという感じになるようです。

それでもやるからには来訪者を見込んでの華々しい企画を想定しなくてはなりませんが、これもなかなか難題山積。

渡辺謙に常駐いただければ話は早いのですが、それはムリな話。

何とか他所から相良の「展」に来ていただきできるだけ長時間滞留してもらわなくてはなりません。

それも楽しく、またこちらに来てみたいと思っていただけるくらいの・・・

早々に纏めていくべき課題ですが、そもそもその「展」の場となるハコが史料館の2階であるということ。数年後の建替えも視野に入っている建屋ですからね。

 

そしてこちらでも問題になっているのがトイレの件。

ウォッシュレットもない便座と和式トイレといいます。

たくさんのお客さんを招くうえにはその改修と会場のリフォームそして史料館半地下の展示スペースへの空調の問題もあるよう。

ぱっと見出費ばかりで大赤字の徒労のみという感じ、大いに有り得るところですが、とにかく何とかやり遂げなくてはなりませんね。

「利益が出なければ協力できない」・・・皆さんクールですから。

ちなみに「大河ドラマ展」企画の段階では入場無料とのこと。

 

一番にやるせないのは相良がお客を吸引しそのあとは御前崎「なぶら館」へGO!というツアー企画です。

現状庁舎駐車場の車が問題ですが、テント村でもいいですから「相良土産館」なるものでも設けておカネを落してもらうというのは如何。

今から何を売るのがベストか考えなくてはね。

時間はナイですよ・・・。

 

扨、先般相良史跡調査会で盛り上がったのは平賀源内の配役は誰なのか、狂歌師の唐衣橘洲の登場はあるのか・・・でした。

彼は三大狂歌師(他に大田南畝、朱楽菅江)の一人で本名は小島源之助、相良代官に赴任する小島蕉園の父ですので、そこからも「田沼後の相良」として引っ張ってくることができるというもの。

 

尚、平賀源内について獄中死せずに(~遺体の引き取りは平秩東作といわれその人は唐衣橘洲の狂歌会に出入りしています~)

意次の差配で相良に逃避し相良で没したという説が以前からありました。

相良各所にその伝承があるにはありますね。

そのあたりの物語も興味あるところではありますが。

言い伝えレベルで全く確証はありませんが、ただその説を信じるか信じないかだけです。

それらを掘り起こして名所として披露していくというのも一案ではあります。

ちなみに私は獄中死の方に一票。

まぁ「歴史」とは事実と伝承そして期待が入り混じってあるものですからね。

 

画像は平賀源内についてかつて史蹟調査会が発刊した冊子とその内容断片。

 

 

 

0 コメント

2024年

1月

17日

古瀬間城は大谷派の浄願寺 豊田市志賀町

能登半島地震以来、芸人さんが大手を振って登場するいわゆるおバカ番組にはますます縁が遠くなって、テレビといえばニュース番組を主に選択します。

寒風の中未だ悲惨な境遇の中の人々がある中、オチャラケている連中を見て少々の嫌悪を抱きまた、こんなの見ていていいのかといった疑問もわいてくるワケで。

 

時間がある時にテレビのスイッチを何となく入れて、ざっとBSまで見廻してからEテレに落ち着いてぼんやりすることがままあります。今やEテレは私の避難地になりました。

また今節の日曜の晩の恒例番組も一切興味はなし。

平安時代のホームドラマなどちょっとね。

それは友人の「奥の墓道」氏も同じです。

 

来年に期待したいとはいうものの最近の傾向からそれですら視聴率という観点で危うい感あって、いよいよNHKは正念場といったところ。

恐ろしい勢いでネット社会は進みこのようにテレビのリモコンを机の上に置いておくのは爺さん婆さんだけになっているのかと。

映画をダウンロードして視聴している息子がいますが私はそれもやる気がせず。流されている画像を単純に眺めているだけですが、まぁ一応の選択権だけは持っているつもり。

 

そのEテレ。昨晩は「瞽女唄が響く」を視聴しました。

瞽女とは盲目の女旅芸人のことで「唄」(+三味線)で生計を立てた人たちが居たのでした。日本の歴史の一端でもありましょう、その存在は結構に歴史が古い。

そして芸能と一言で言うのはあまりにも短絡、その彼女たちが幼き頃より抱えた境遇は半端なものではなかったことが窺えます。

 

番組の中にあった「さずきもん」という語はいかにも仏教的でありまた納得させられました。

生まれながらに「さずからなかった」視力、暗い世界にいるかに思える彼女たちが明るく前向きに生きる姿と今さずかっている多くのありがたさを表している言葉でした。

 

ただの苦労ではありませんね。冬季には雪深い日本海を三味線を担いで旅をしたのでしょうが「落ちたら死ぬ」と覚悟して渡る一本橋の様など、何から何までそれとは段違いに贅沢な「さずきもん」ばかりの私です。まるで仏の域に入っている様に感じさせられます。

彼女らからすれば、私などただ見えているフリをして何も理解していない盲目の坊主なのかも知れません。

 

扨、石川県志賀町の志賀、最近やたらと耳にすることが多くなりました。原発でも名がありますが。

そしてそれで私が連想するのが豊田市の志賀町。

 

以前幾度かブラついたその地の真宗大谷派の浄願寺を。

威風かつ情趣あふれる鐘楼門がお迎えしてくれるお寺です。

そしてこのお寺の裏山が古瀬間城址になります。

お墓も散見できて私の趣向、「ハカ・テラ・シロ」すべてが満喫できる地です。場所は豊田松平ICの近く

 

これからいよいよ本格的春の温かさを迎える(予定)。

三月、木々の新芽が吹くころ、おすすめの地でもあります。

 

 

 

0 コメント

2024年

1月

16日

救急搬送につき「病院ガチャ」

能登半島地震による被災者の「災害関連死」についてその数が増えているとのこと。

地震による直接の災害については相手が自然だけにどうにもならないところがありますがそのあとの関連死は「人災」と断ずる人もいます。

 

学習経験は幾度か重ねてきたはずですが真面目にその対策をしてこなかったことの結果、現状の如くになっているとの言。

その通りでしょうね、初動の遅れ、正月早々という気の緩みもあったのでしょうが政府が的確に被害状況を把握できていなかったということです。

石川の知事殿は政府を庇って「地殻が5mもあがるような地震」だから仕方ないという物言いでしたが、地震の発生への対応はそもそもその大小で決めるものではありませんし人命に関わる地震というものを最初から想定しておくべきもの。

 

あの人にお聞きしたいのはその地殻変動が志賀町の原発の直下で起こった場合、そしてその時の住民退避のルートについて「どうなってるの?」です。

「地震が大きかったから仕方がナイ」とまた政府に肩を持つつもり? 五輪誘致のために大層なアルバムを配って悦に入っている方の様。

まぁ石川県民は大変です。

 

現地避難所へ集中して寝起きする避難者のみなさんの住環境は劣悪を思います。あれでは感染症対策も覚束ないでしょうね。

かといって「地元故郷を離れる」ことに抵抗があるのも尤もな事です。壊れた家であっても未練は残りますし、家族、親戚縁者と離れての生活は心細い。

「管理」という意からすれば上手に配分できればやりやすいでしょうが、そこのところを重視した避難所というものを目標に手掛けていただきたいものです。

それはインフラ復旧は勿論、住環境、特に個別プライバシーを保護できる避難所を。そういった避難所をイザという時に早急に手掛け、対応していこうという準備が必要なのですがね。

散々それを学んできたにもかかわらず・・・大きな地震だったから仕方ない・・・笑止千万。

次はもっとデカイと言われ続けている南海トラフ。

「仕方ない」は仕方ないで承知していますが、稀にも命を繋げた奇特を大切に維持し守ろうとする施策を事前に試みていただきたい。

まぁ御身のみの大切を指向する政の方々ではムリな話。

庶民は諦めが肝心。「業縁にさしまかせ」でした。

 

扨、父の緊急入院の際にも記しましたが、救急救命の依頼(119)連絡をすると早急に駆けつけてはくれますが、患者の様を現着した担当者の所見を通して受け入れ可能な病院のその可否について「OK」が出てから車が出発するわけですが、それまではどちらの病院に向かうのかまったく患者にも縁者にもわからないものです。

ちなみに父は島田H、母は掛川中東遠Hに榛原H、私が脚立から落ちた時は榛原Hでした。

 

病状病因にもよりますが、通常対応できそうな症状だと牧之原市内だと榛原病院、御前崎市内だと御前崎病院というイメージです。しかし現状緊急搬送は多種多様の病院に分かれてしまいます。

特に土日祭日にその傾向が強いものがありますが菊川、掛川、藤枝から中には浜松、静岡市内まで。

要は近場の病院に搬送されれば有難く感じるものです。

のちのちのフォロー等色々、頻繁に遠方病院まで足を運ぶのは面倒なものです。

そして、私はその病院の遠近について私どもの意思通りに決められず、受け入れるのみであることを「病院ガチャ」と呼んでいます。

 

先週、知り合いの縁者が救急搬送されたというのが掛川中東遠H。

大したことはなかったようで数日程の療養後退院できるそうですが御前崎在住です。

御前崎の岬の台地上の自宅からその病院に向かうに車の運転をしないその人ですが入院時必需品を届けるにあたりどういう行程となるかといえば・・・、バスで浜岡ターミナルへ、そちらから菊川駅行きバスに乗り換え、JRで掛川へ、そして病院までの循環バスとなります。

各待ち時間の間の寒さは「こたえる」とのことでした。

よって昨日その自宅から病院までの直行便(拙寺の自動車)を出すことにしました。

「御前崎病院だったらよかったのに・・・雲泥の差」とポツリ。

それはそれは御前崎病院ならば有難いでしょうね。

 

私は車でひょいとどちらでも行けますからその病院も許容できますが、「足がない」というのは「ガチャ」でそれを引いてしまったとはいえここ南遠地区は「その時」の対応は厳しい。

イザという時のそれとは違う場面(地震被災、道路寸断)のこともまた思います。

 

①中東遠は巨大な病院。②は先日の袋戸の中、ベニヤの天井を剥がして板を打ち付けました。通常この中は隠れていますので私のテキトーな工事。

そして先日の38.4℃の彼はコロナだったとのこと。

病院も今再び面会を制限されているそう。

 

 

 

0 コメント

2024年

1月

15日

中電に依頼した電柱支柱線移動工事遅延の件

自宅を取り壊し新築工事に着手するということでお内仏の閉扉式に向かいました。

お内仏は新しい家に併せて新調するそうで、今あるお内仏にはこれが最後のお勤めになりました。

新しいお内仏は多少コンパクトになりますがカタログ画像を拝見するに真宗特有の金仏壇ということで少々安心した次第。

最近はそれがめっきり減りつつあって各形式の箱型が増えていますが、まぁ礼拝の対象があるということだけで結構なことです。

 

新築工事というとつい「大工さんはどちら?・・・」などと伺ってしまいました。

というのは拙寺の会館あとの新築工事がやたらと遅れて、一向に進捗がないからですが、いい加減ボヤキも出てくるというものです。

周囲からも「一体どうなっているんだ」の問い合わせも多数あって当方としても「まったくもってわからない」というのみ。

 

当初はコロナ禍による建築資材高騰と資材不足・・・などと理解、気持ちを落ち着かせていましたがもはやそれではなさそう。

あとからあとから周辺新築工事完成の様を見ていますので。

当初は奥方が思いつくたびに電話で催促、その度に図面を持ってきたり測量業者が来たり、地盤調査も2度違う業者が来ていますが未だ正式な見積もりすら出てこない始末。

 

11月にコンクリ屋さんを同伴で来たのが最後でしたが、いよいよ地盤の調整とベタ基礎、東側の壁も含む工事が始まるかと思っていればそのコンクリ工事すら始まる様子なし。

もっとも肝心の全体見積もり金額が出ていませんが。

 

ここへきて「しょうがない」と納得するしかなかったのは中部電力からの連絡。

隣地了解済の工事ですが中電の電柱支柱線の位置移動を依頼していました。

塀の撤去と新設のため一端セットバックが必要とコンクリ屋さんからその件あったためです。

その移動工事は1月8日に予定されていましたが、工事当日に中電の作業者は来ず。

そもそも移動工事が無くとも別の部分から着手しておけばいいだけの話ですが、先週10日に中電から連絡があって2月末になるとのことでした。

その理由は「工事業者は今すべて能登半島に出払ってしまっている」ということ。

あの能登半島の様子を見ていればそれには沈黙する他はなし。

彼の地の電力の復旧が日本全体最優先事項でした。

しかしあの無茶苦茶の状況「一体その2月末で済むのか?」

単純な疑問。

つまるところは「天命に安んじて・・・」なのですが。

 

 

0 コメント

2024年

1月

14日

正信偈拝読後「生々流転墓」へ 田沼と岡崎教区通信 

午前中はネコの葬儀と納骨。

葬儀と言っても通常の儀式とは違い本堂で縁者揃っての正信偈の拝読のみですが・・・。

今回はご門徒さんではありませんでしたがいつも通り気軽に拙寺ペット墓「生々流転墓」への納骨を承りました。

2歳の彼女は元気そのもの、先日自宅前の国道に飛び出してこの悲劇となってしまったとのこと。

電話で承った際、奥さんの悲しそうな声が深く印象に残ります。

 

参列者は家族のみで5人ほどでしたが中には縁者勢揃いで十数人も集まる場合もあります。

人間の葬儀で一人二人の例がありますがペットへの思いというところは格別、家族以上のウェイトの高さを見ます。

拙寺のその流転墓の生花が絶えないというところ特筆的。

参拝が殆どないような一般の墓は結構ありますからね。

 

私はその写真を見てついつい息子が飼っているネコを思いだしました。溺愛していますのでもし彼だったら・・・を思い、またその子の境遇に気持ちが入って読経の声が上ずってしまいました。

ヒトに対しては淡々と法務をこなし「無常」への諦観を思うばかりですが、何故かその手の、「無知」「無垢」なる生き物たち~特に不慮の事故を遂げた無念~へ感情が移入します。

動物、ペットは法的には「物」というのがお決まりですが、決してそのカタチで「親心」と執着を治められるものではありませんね。

 

午後からは史跡研究会の会合へ。

前年10月以降その会に2人の若手が入会し賑やかになりつつありますが、その若手の一人が朝からこの様です、という具合に体温計の図を。

最近はやたらとコロナも増加傾向、インフルエンザも流行って、かつ風邪だか何だかわからない高熱も流行っているよう。

昨日の会参加者は全員マスク装着。

「そんな熱になったら死んじゃうよぉ」の声が出るほどの年配者の声が。

 

内容は来年の大河ドラマは概略2段構成になっていて前半が大雑把に「田沼時代」、後半が「松平時代」と両老中の治世の違いに沿って描かれるということで、相良としては「前半勝負だね~」。

3月頃に相良のイベントを集中したいという意見があり、では・・・と2025年の拙寺の「春の法要」を3月29日ということ、その場で決めたところ。

2024年の「春」も済んでいないのに・・・そこまで生き延びられるか・・・予期せぬことばかりで。

 

③④は岡崎教区通信から。

能登半島の当流系寺院の被災状況と資材搬入、そして救援金勧募について。

連絡がつけられないお寺があること、将に震え上がるほどの恐怖。

 

0 コメント

2024年

1月

13日

三年振りに歯医者へ 夕刻 赤富士には見えずとも

3年ぶりに歯科医へ。

コロナ禍で検診すら行けませんでしたが今回は治療です。

前回入れた詰め物が割れたためですが14時に医院に入って出たのが16時。

相良にはそこまで滞留させる医院はおそらくないでしょう。

静岡市内の医院ですが相良からやってくる人も多く(私もご門徒さんからの紹介)相良人には「手厚い」を感じさせる医院です。

「遠くからわざわざ~」ということでしょう、ちょこっとやって「また次ね」という風にはなりません。

 

この日は2カ所の施術。

施術前に歯石取りに約1時間程度。

虫歯が見つかったため欠損箇所とその削った処の型を取るまで。

かつて虫歯の充填、被せものと言えば「金属製」でした。要は銀歯というヤツですが、ロシアからの輸入が多いということと希少金属ということで厚労省から白色の充填剤が認可(保険適用)されたそう。

しかし出回って僅かなため品薄であることを知らされました。

2月頃から新しいメーカーの参入があって品薄は解消するとのこと。私は悪い話ではないと思い他の銀色部位も白色に変えていくようお願いしました。

 

扨、突飛ですがイギリスでやらかした富士通の件、話がデカくなりそうです。

私はただ興味本位で見ているだけ「そんなこと(予期せぬ出来事)もあるもんだ・・・」程度ですが、イギリスでは国会に富士通を呼んで喚問するほどに国民すべての「敵」に成り下がっている日本の会社といった風になっているよう。

 

そもそもイギリスのソフト会社(発祥は英国政府)を富士通が買収しなければそんなことにはならなかったのでしょうがその会計ソフトがイギリスで類まれな冤罪事件を惹起したというもの。

その会計ソフトは英国の郵便局用(英国の郵便局は私的施設)のものでその不具合(というかデタラメ)によって700人以上の郵便局長や経理担当が横領罪等で訴追されたというもの。

中には収監された人、罪過を晴らすべく活動している最中に亡くなってしまった人もあるとのこと。

 

長い間、疑われ生活まで奪われた人々の横領罪について被疑者たちは、ソフトの不具合を主張したそうですが、やはりその会社のバックに政府があったということからか黙殺されつづけていたよう。

 

最近いよいよそのソフトに問題があるということが判明しつつあってイギリス政府としては責任問題を忌避したいのはやまやま。ここで親会社の富士通を引っ張り出そうという流れでしょう。どちらに責任があるかなど私にはわかりませんが、富士通の責任は普通に「ある」と思いますね。

親会社としての責任というものですが、イギリス政府とはズブズブの関係のようで、とはいえ全責任を会社に覆い被すことはムリのよう。

6-4程度(形として富士通が悪い)の負担(損害賠償)割合で落ち着かせるのかと勝手に推測。政府のプライドと富士通も保護したいの思惑ですね。まぁ裁判になったら・・・知りません。

 

それにしても長期にわたってそれほど横領罪が出現することに何らの疑いを持たず、かつ被疑者の反論を意に介すことなく逮捕しまくるその警察と司法ってどうよ・・・って感じ。

結構にお粗末なものですね。

 

富士通は国内でも色々不始末をやらかしていますから何とも言えません。問題は不具合について「知っていた」かどうかでしょうね。

また冤罪は案外少なくなく存在するということ。結構恐ろしい。

 

画像は何となくスマホで撮った新遠渡坂(おんどさか)の日没のオレンジ。

お日様とは反対側の駿河湾越しの富士です。昼間は真っ青の海と空の富士になりますが、このオレンジ色に浄土を感じます。

 

 

0 コメント

2024年

1月

12日

設楽原歴史資料館を歩けば思い出交錯

能登半島の超絶荒廃の図と多数の孤立村落とその人々の数が報じられています。

思うにその地に伝わる「地震の歴史」というものについてその有無、そしてどういった伝承があるのか知りたいものです。

地震には地震学者が言うようにその発生のスパン(時間の幅)があるようでよく「そろそろヤバい」の声があがったりします。

100年200年あるいは500年1000年の如く大地震発生の予知に使用されるそのスパンですが大抵は直近の大地震から〇〇年というカタチでその「ヤバい」が伝わってきます。

 

そして活断層の調査についてこの地区については専門家から調査未達とのことを仰っていましたが要はその辺りについてロクな調査もされていなかったということではないでしょうか。

当然に調査にしろ研究にしろ優先順位というものがありますから裏を返せば後回しということ。

「人少なし」=「緊急性軽微」という考え方(表立ってそれは口にできません)で当然に首都圏や人口密集地、国内物流動脈の走る東海道へのウェイトが高くなるでしょう。

 

よって被災多大な能登半島北部の現状、半ば見殺し的放ったらかしに見えるが如くの様を見て今後の国そして経済界のスタンスをまた思います。

「あまり深入りできない」でしょうか。

何よりそこに住まう人々が太平洋プレートの端にあって周辺活断層が次に動くことを考えると、そこに居る希望が喪失しかねないということですが、若い世代となれば尚更の事かもしれません。

 

散々に地震にヤラれて(これは私どもの住まう東海地区も同じことですが)やり直そうという気が起こるのか・・・と。

人々のヤル気が失せた所に「再建」を旗印に大風呂敷を広げたとしても果たして・・・という疑問ですね。

よって「少々の支援はするが前がかりの投資はできない」という感じ。

それが国のスローな対応に出ているのかも・・・などと見てしまいました。

 

訓練ではヘリコプターからの降下や大型機材等を吊るしての搬送を見せつけられていますが、何故か「大変です」の様で彼らが山道を物資を背負いながら歩く姿が映し出されています。

被災の為の救援実利より彼らの鍛錬(訓練)の延長を思ってしまいます。

米軍に頼めば彼らは効果的に物事を進めますから痒いところに手が届くはず。その依頼すらしていないように見えます。

グズモタの施策、見ていて不愉快にされますし東日本、熊本の学習ができていないよう感じてなりません。

 

パー券だキックバックだ政治屋が私腹を肥やすまま怠慢になったリスク管理、タイホするだけでなく能登半島にまたぞろそのバカバカしい濡れ手に粟のカネを廻していただきたいものです。

拙寺の微々に拍車を掛けたような浄財1か月分からすれば遥かに多くの命を助けられるというものです。

 

画像は設楽原歴史資料館の展示物。これまで多種の素材をアップしていますが大概の品物は撮影OKです。

①を見ると私が小学校か中学だったか図工の課題「オルゴール」の蓋を思いだします。

彫刻刀で何か好きなものを描くというもの。この旗を見るとその時の教師の完無視ノーコメントの顔が思い浮かびます。

私のドベタさ溢れる彫刻で評価に価しないということもありますが、きっと教師にとっては意味不明理解不能に感じたこと大いにあるかと。

拙ブログでもその件記したことがあったかと思いますが、その表面には武田菱の家紋と「風林火山」の4文字を彫ったのでした。

 

「あまり失礼なことを御云いでないですよ・・・」と御叱りを受けますが「そんなもの・・・」(教師)というのが最近了解できるようになりました。

「どうでもいいこと」なのですね。歴史など、人によっては・・・

相良小学校の小島蕉園の碑について記しましたが先生たち、みなさまその人のこと、ご存知ですよね。

歴史を紐解くことは未来の生き方の模索でもありますから。

 

そして②は実に面白いと感じるもの。

敵か味方くんずほぐれつの混乱接近戦の中、仲間をハッキリ確認できるようにその標として体のどちらかに付けたものといいます。

まぁそれだけ接近戦で味方同士の殺し合いが発生していたことの証左でしょうね。

乱戦の折、それが脱落したらと落ちた標を付けて本陣に進入することもあり得た筈でその辺りの件想像してしまいます。

当然にスペアも持参していたでしょうし種類も多くあって日によって変えていたなどあったのかも知れません。

 

③は極楽寺址から出土した瓦。

設楽原極楽寺といえば信長が当初こちらに入った際の陣ですが私がそこを探索した時、藪に隠れた深い排水溝に危うく落ちそうになったことを思いだします。

 

設楽原には色々な思い出が交錯します。

 

 

0 コメント

2024年

1月

11日

呆然錯乱 仏間の違い棚 丸尾月嶂襖戸袋戸の中

曇天ながら風もなく比較的暖かい一日でした。

先般の羽田空港の日本航空×海保機の航空機事故以来、耳にする事が多くなった「スイスチーズ」。

事故をそのチーズの穴に喩えるものです。

切られた複数のチーズをランダムに並べて、チーズに棒(リスク)を通すことはまずできません。それをリスクをシャットアウトできたと考えます。

そのたくさんの穴を塞ぐことができる安全対策が施されて物事は運営されるわけですが、たまたま何かのタイミングで「穴」が重なれば刺した棒が通り抜けて重大事案の発生となるというもの。

これは幾重にも安全対策を重ねて徹底的に「穴」を塞ごうという考え方です。

 

その「穴」には色々な種類があり、また人間なるが故のヒューマンエラーが付いて回るものです。

先般の事故の原因とも言われるものは「錯覚」「思い込み」等でした。

「予期せぬ出来事」は普通にまたぞろ遭遇、今生かされている私たちがあるのですが、要はそれらたくさん、溢れるほどある自らの「お頭のリスク」を自認し変てこな自信を捨てることがポイントでしょうね。

人の「自信」などいい加減。「人事を尽くして」の「人事」「想定外」の「想定」など結局「人」のやることであってまた個々の違いがあるのでした。

あるべき姿は「絶対に私はやらかす」を念頭にちょっとした臆病ともいえる慎重躊躇でしょうか。

しかしそれでも毎度毎度やらかしますからね。

それこそが「人間であると」私は開き直っていますが。

またそれを開きなおってはイケない仕事もあるわけで。

 

扨、画像は拙寺の予期せぬ出来事。とはいえ、緊急性はないとみてこれまで放置していた庫裏内。

発見したのは昨年10月頃でしたが、やらねばならぬ事が目白押しでこれまで知らんぷりを決め込んでいました。

 

こちらは庫裏仏間の袋戸の様。上部の壁面が崩れて袋戸天井を突き抜けて堆積しています。

この4枚の小さな引戸は丸尾月嶂のものでそれを開けた際大いに慌てさせられました。

 

30年近く前に庫裏北側を先代がどちらかの工務店の言うがままにサイディングを行った箇所ですが、その当初私は「それは表面上の化粧壁であって内部のババ隠しに他ならず」と父に忠告していたものです。

やはり外側からその状況の一端も事前に気づくことがなく内部崩壊をしていたということですが気づいたときはあまりの酷さ。詳細の確認には外のサイディングを剥がしてみなくてはわかりません。大工事になってしまいます。

 

とにかく「とりあえず」の作業のみですが、その袋戸の崩落土壁の撤去と袋戸スグ上の天井のみの板を貼り付けようとチャレンジ。

壁が崩れていても外壁のサイディングがありますから雨の吹き込みはあったとしても微小であると勝手に判定。

 

ということで昨日は奥方と二人がかりでバケツ7~8杯ほどの壁土を掻きだしました。奥方は以前土蔵の中の掃除で発症した肺疾患について思いだしたようで「また通院させるのか・・・」とやれやれ感満載。

 

暖かい日で半袖になって埃だらけになって苦闘しました。

結局この日での完成はムリでした。

夕刻には熱い風呂にざぶんと入っておしまい。

丸尾月嶂の戸の代りのものを用意して退避させておくことも考えなくてはなりません。

 

そして庫裏の耐震? 家が崩れたら・・・あの土壁を浴びまくる程度ならOKのレベル、そして梁・柱に瓦が落ちてきたら・・・

まぁ「その時」なのでしょうね。

古い家のリスク・・・わかっていてもなかなか・・・。

たった一つの「穴」なのに。

 

 

2 コメント

2024年

1月

10日

謎の大振り宝篋印塔残欠 それも上部 久延寺

寒い寒いと言ってそれを動かない理由としていましたが連休明けということでいつまでも引き籠っているわけにもいかず、各雑務にとりかかりました。

軽トラを運転していると陽光を浴びるためドカジャン着用の私は「暑い」を感じるほど。

年末年始に発生したゴミ類の搬出をするにあたり、懸案だった温水便座の処分の件チャレンジしましたが、スンナリ受け取ってくれました。

 

予め処分できる品について市のサイトを確認していましたがその温水便座については掲載がなかったためです。

まぁそれを自分で交換する人はそうはいないということか。

これはかねてから設置されていた本堂側のトイレのもの。劣化故障のため今回私が交換することになったということです。

業者に依頼すれば工賃+処理費がかかりますので奥方に背中を押されたこともありますがケチな性分の私がよろこんで工事に取り掛かったわけです。

 

尚、大型家電店等で新品を購入すれば大概は引き取り無料です。

そして設置は他の場所のものと2カ所。来週以降の完成予定。指定のブツを取り寄せ中です。一応必要なパーツ類は確保しているつもりですが・・・。

 

扨、九延寺の続き。

本堂の西側に三位良政と月小夜姫の新設された宝篋印塔の間に目が留まりました。

以前は周辺にも見あたりませんでした。それとも節穴か。

 

何故こちらにあるか不詳ですが珍しい風景です。

残存する宝篋印塔は損壊が甚だしく特に隅飾りから上部の相輪部分の欠損があったり相輪そのものが失われていることが多いものです。

特に大型の宝篋印塔で塔身以下基礎部分が逆に無いという例はあまり見かけません。

一見したところ南北朝以前のものとお見受けしますが、もし完全な形で、出所詳細が判明できたら文化財クラスのものかと。

全体像を思えばそれはそれは見事なものでしょう。

宝塔や基礎部分には何か手がかりがあるやも知れず、惜しいことです。

 

しかしどこから出てきたの?    単純な疑問。

同じ峠からの出土とすると・・・近くの鎧塚を連想。

「北条時行の一族の名越太郎邦時が今川頼国に討たれた」とありました。

 

墓石の大きい部材は土木工事に転用されることもあり、使い道がない相輪部分が投げ捨てられていたことが考えられます。

いや破損がないことからどなたかの家でその部分のみ大切に保管されていたか・・・

畔や水路に渡された石橋など古墳の石室・・・と思わせるようなものは各地に見えますからね。

 

 

0 コメント

2024年

1月

09日

久延寺 天明九年 松平土佐建碑

日照がある太平洋岸に住まう私がまたボヤく。

寒い一日でした。

外仕事などさらさら向かう気になりませんし、こういう日は体が機敏に動けません。

暖房代を節約するためには車中が一番と午後から藤枝・島田方面に奥方の買い物の運転手として出かけました。

太陽の方向に車を駐めてシートを倒して居眠り。勿論エンジンは停止していますが十分な暖かさとなります。

 

車の中で尚ぼんやりしていると避難所に向かわずに車内泊を続けている方が。

しかしコレ、私は昼間の温暖時間帯の少しの間のことですからまったく比較にならずお気楽なものですが、極寒の夜間のことなど想像できません。

寝返りするにのも難儀しエコノミークラス症候群の恐怖もありそう。

辛い車中泊、まだまだ続くのでしょうね。

未来の希望<bright future>が彼らに、いや日本にあるのでしょうか。

 

扨、先日は久々に小夜の中山の久延寺に寄りました。

そちらには山内一豊が関ケ原直前に家康の接待に使用した茶亭がありましたが、そちらにはまた天明九年建碑、それに因んだ石標が。

松平土佐守とあります。九代山内豊雍(とよちか)ですね。

 

 

0 コメント

2024年

1月

08日

雲影 濤聲 小華堂東雨の松

一日中強風が吹きっぱなし。

降雪そして大雪予報に群発地震の被災地のことを思うと如何にもそれは些細なことですが。

静岡でも東部の画像を見ているとその風の件、殆ど感じない様子でしたから、中西部特有の恒例の自然現象なのでしょうね。

 

被災地から比べれば泣き言レベルですが私はそれを理由に庫裏の温かい場所に籠りっきりで三食の食事に熱いお湯に浸かることができています。

まったく恵まれた環境で申し訳なく思うも、それが平常なのでした。

現場からは倒壊家屋からの死亡案件が多数寄せられていました。縁者を亡くした人にマイクを向けられる様が放映、それはそれは気の毒を感じるばかり。

またその応対に窮する方へ罪な事をするものだ・・・とも。

 

それには特に平常というものはありません。異常の連鎖を強く思いますが、その異常事態のきっかけというべき地震への即座対応について思い起こすのは祖父の姿です。

昭和40年代の後半でしたが、祖父は地震を感じるとほんの僅かな揺れであっても境内に飛び出していました。

時に褌以外の他に何も着用せずに家を飛び出す姿を見送った縁者一同はやれやれ感の言葉と嘲笑を浴びせていました。

それでも我先に下駄の音を鳴らしながら庫裏を飛び出す様を地震のたびに見ることはできましたがこれは、拙寺の安政大地震後の口伝があったからでしょうね。

 

他の子孫に言ったとしても取り合わない故か、自分だけさっさと逃げ去るところは不信感が募りますが、命を守るためにやるべきことは「建物からの一刻も早い退去」の旨、心に刻んでいたのでしょうね。

それを今になってようやくそれこそが正解なのではないかと思うようになりました。

 

タイミング次第ではただ見送る以外のことはできないかとは思いますが、地震がきたらのんびりせずに(冷静にとは言われますが)できればダッシュで飛び出すことが必要かと。

何せ拙寺の庫裏は古くて相当傷んでいますので。

 

扨、拙ブログでは「松」について時に記していますが、それは墓場に近い、また相応しいというか古くから墓標として代わる植物でありそれでいて雄々しく雄大、豪傑、優美と日本文化の象徴ともいえる木です。要は「松」の見えない文化はこの国には皆無といっていいのかも知れません。

先日はN氏より戴いた柄杓について記しましたが、その際、「これもどうぞ」という具合に持たされたのがこちらの松の額。

 

おそらく以前何かに描かれていたものを改めたものかと思いますが「小華堂東雨寫」と。

この人は掛川の人、兼子東雨(文久二年小笠郡掛川町生まれ。別号に小華堂  渡辺小華の弟子)。

渡辺小華とは渡辺崋山の二男。

 

雲影 

濤聲

丙辰仲夏

 

 

0 コメント

2024年

1月

07日

首洗池直近東壇上山南端丘の上 岡部竹雲斎 本田玉

 

手つかずだった境内の仮設焼き芋店の鉄骨をようやく昨日片づけました。

太平洋岸は絶妙なお天気につき外仕事は捗ります。

だからこその「やっつけちまおう(片づけ)」という気持ちになれるというものです。

それに反して日本海側の天気ときたら朝から土砂降りの様。

そしてまた0℃に近い低温。

 

倒壊した家屋に生存しているかもしれないというつましい希望のもと縁者たちはその境遇にひたすら耐えていることを思うと私のお気楽気分は「善人こそ」を旗印に掲げていればもはや犯罪行為かも知れません。

やはり私は悪人でした。念仏するだけ。

家の倒壊から逃れたとしても集団避難場では感染症が広がりつつあるとのこと。他者のせいにするのも何ですが、国にしかできないことたくさんありますが・・・遅すぎます。

テレビから発せられる安否不明者名リストとそれを読みあげるアナウンサーの声を聞きながら。

 

念のため記しますが、暫しの間、子供たちを疎開させておきたいという方がいらっしゃればお報せください。

現状その窓口を私が持っているわけではありませんし限定的とは思いますが奔走させていただきます。

「なんとかなる」その意気でどん底から這い上がっていただきたい。

 

 

扨、東弾正山南端丘の岩手左馬之助の墓碑の隣には岡部竹雲斎の墓碑が。二者仲良く並んでいます。

その「岡部」の名を聞いてそれを推測するのは当然、藤枝岡部、元は今川衆の流れ(高天神の岡部)。

身近なところでは相良城取り壊しにやってきた岸和田岡部の流れが思い浮かびます。

 

ただし例によって判然としませんし当初は鳶が巣砦に配していてその鳶が巣で討死したという説もあります。 

「長篇長篠軍記」から再び転記すれば

「左翼軍の東弾正山の中に岡部竹雲斎盛久があり。~大須賀の手に殪(たお)れた」でした。

 

また、甲斐にも「岡部」地名は散見できますのでその地出身の名のりそれも出家名?ということも考えられます。

 

②~⑥は草ぼうぼうの頃の図。

首洗い池からの上り口が⑤。⑥は池を見下ろした図。

本田玉については小林芳春氏の「設楽原の鉛玉とその周辺」をどうぞ。

 

 

0 コメント

2024年

1月

06日

始終なしも念仏に少々の行動付随 本山救援金勧募

 

さあ、私に何ができるか・・・

ハッキリ言って偉そうなことをここで記していてもまったくの無力です。

歎異抄四条の末尾「今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。

しかれば念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと 云々。」

の狭小解釈に陥るという愚、南無阿弥陀仏の称名を申すのみでいるというのもやはり心持ちが良くありません。

お念仏はいろいろな思いからその都度、口から出てくるものですが、では「お前は・・・」と問われ、どう動いていけるのかと試されているような気がします。しかし何も動けない。

 

本山東本願寺としては「第一次として一月三日より救援物資とともに6名の職員を派遣している」とのこと。

情報もなかなか伝わり難いところで、詳細はまだ一部です。

本山のコメントとしては今のところ「寺院・教会・ご門徒の被害について情報収集中ですが、既に本堂・庫裡の倒壊をはじめとした寺院建物の大規模被害が報告されています」と。

テレビ画面からの画で相当な被災があったことは窺えますがここで初めて「本堂倒壊」という言葉にあたりました。

 

それほど辛く悲しい言葉はありません。

人的損害については当たり前ですが私としてはそれも大いに気がかりなところでした。

先日拙ブログでも記した七尾一本杉のろうそく屋さんの建物(文化財指定)が倒壊したという報がありましたし直下型地震の恐ろしさを改めて知らされることになりました。

文化遺産の喪失は辛すぎます。あの辺りには古い建物がたくさんあってまた伝統工芸文化の発信地でもあります。

 

相良界隈の皆さま、それぞれその思いを同じように持たれていることだと思います。

静岡県では既に消防本部の人材と救助犬が現地に赴いて活動、早速成果を出していますが、私ができることなどは限定的・・・というか無いに等しい。

そうです、微々たる金額で甚だ恐縮ですが募金寄付というカタチでその気持を受け入れていただくことにしました。

 

募金といってもこのような時、雨後の筍の如くその声は聞こえてきますが何が何だかわからないようなものもありますし、すべての声に対応するにはキリがありません。

まさに「始終なし」に陥ります。

 

そこで募金は東本願寺へ。

何より信用のおける窓口です。信心(まことのこころ)の場ですからね。

ここ年末年始から1月末までの期間にご門徒さんからいただいた本堂賽銭箱の浄財を送らせていただくこととしました。

それならば地区ご門徒さんの心も伝わっていくというものです。むしろ私の「やった感」の自己満足的なものかも知れませんが、まぁ何もしないよりマシというところ。

居ても立っても居られない、そんな方々は直接どうぞ。

 

 

★ 宗派では、このたびの「令和6年能登半島地震」に対する

    救援金を勧募いたします。

  皆様からの温かいご支援をお願い申し上げます

 

【救援金口座】郵便振替口座番号 00920-3-203053

【加入者名】真宗大谷派

     ※通信欄に「令和6年能登半島地震」とご記載ください

 

画像は境内の様子。

梅は開花間近。蝋梅は既に春の香を放っています。

 

 

0 コメント

2024年

1月

05日

首洗池直近東弾正山南端丘の上 岩手左馬之助

 

飲まず食わず動けない状態で救出待ちしている人の生存率が、急減するという境界「72時間」が地震発生から過ぎたのですが、未だ行方の分からない方たちが能登地方に多くいらっしゃると。

要は地震による建物崩落に巻き込まれて、下敷きになっている・・・かも知れない人多数ということです。

 

よってその「72」という数字にこだわるわけですが、ソーリ殿がいくら「寄り添って」と御一同コスプレ風かつ晴朗な作業着風を纏って如何にも希望的なことを仰っていただいたとしても現実は殆ど見殺しに等しい有様。

まぁ次は瓦礫の下でその時間を過ごすのは私なのでしょうね。

冷たく暗く重たい瓦礫の中、その美しい言葉の数々への恨み骨髄より、ただ脱力してひっそりと息を引き取るのでしょう。

やはり多くを助けられなかった自称経済大国の現実。

 

大災害だから仕方ないと云うこと勿れ。

さんざんその件学んできたはずで「その時」どう対応するかシミュレーションして(おカネをかけて)きたはずです。

道路が寸断、陥没崖崩れの発生によって地区孤立化してしまった時・・・どうするかということ。

 

それにはヘリコプター等の機敏な小型航空機の出動が期待されるわけです。いつものド素人の発想かも知れませんが・・・

しかしそれらの活用がまったくのゼロとは言いませんが相変わらず救援の手が届かない理由にその「道路」の件とその「修復を早く」について語るのみ。

小学校のグラウンドのSOSを見てそう思ったのですが、被災者の一団が避難するその手の場所には広い着陸エリアがあるものです。

 

飛行訓練だとかで日頃出張ってあっちこっち飛び回っている姿を見ていますが、日本全国、自衛隊、国の管理するヘリコプターはたくさんあるはず。石川の知事殿も東京からお気軽にヘリを飛ばしてきたくらいなのに。

それらを小松基地に・・・集結させてドンドン活用させれば「いいのに~」などと思うところ。

極論あのオスプレーを飛ばして資材食料を搬入したとしても文句はそうは出ないでしょうが。

そういう決断ができてこその指導力なのですがね。

不名誉の数々、それを挽回するチャンスがそこにあるのに。

歯がゆい男。だめだこりゃ。

 

扨、設楽原決戦場、連吾川を挟んで両軍対峙した武田軍隊列背後の台地を弾正山と呼びます。

右手右利きの文化の色濃い我が国の傾向としてその軍列の火ぶたが切られる際の一気呵成は隊列の右の突進にかかっているとよく言われます。

右側から敵陣(敵から見たら左側)に攻めかかって敵の隊列を崩し、空いたスペースから中央に向かって抉り一気にゴールへ雪崩込むというチームプレー。

 

以前、待ち伏せについて「右翼に気を付けろ」と記しましたが正々堂々の決戦隊列では相手の左翼狙いが常道。

要は左側の隊列へ、さらに廻りこんだ左翼横腹と正面からの二面三面の侵攻。振り挙げられた「右手」の刀槍に対し守勢は右手での防御を強いられることになり劣勢となりうるという面があるということ。半身になって右手で応戦するには分が悪いですからね。

 

武田方もそんなことは百も承知、正面の徳川勢に山県に原など歴戦の雄を配していたわけですが、彼らは武勇に溺れたのでしょうか敗戦覚悟の水杯もありましたが、中心の指揮系統が殲滅させられ武田軍は弾正山台地を徳川の攻め手に背を見せて駆け上がりいわゆる総崩れの憂き目となりました。

 

この台地の東端、あの首洗池に降りる手前に二つの石塔があります。

墓標は新しく設置されたもので一つが岩手左馬之助、そしてもう一つが岡部竹雲斎の墓です。

 

「長篇長篠軍記」の表現を記せば

「東弾正山に押し寄せた徳川勢は大須賀五郎左衛門康高、菅沼藤蔵定政、三宅惣左衛門康定、菅沼小大膳定利、戸田三郎衛門忠次、高力権左衛門康長等元気旺盛」

 

岩手氏は清和源氏義光流(Wikipedia)。山梨郡岩手郷に住したため岩手を称しますが岩手縄美より武田家親類衆になります。

設楽原敗走の勝頼配下岩手左馬之助胤秀は当然に参謀クラスといいますが天正十に天目山勝頼滅亡の際やはり勝頼に従って死んだ岩手信景という人があってそれと同一人物か兄弟なのかは不詳とのこと。

一族は信玄の一字を拝領するならいがあったことが窺えますが

当時名のりは複数あって当たり前の時代ですから複雑です。

 

 

0 コメント

2024年

1月

04日

午後のUターンラッシュを避けて たまたま久延寺

 

正月三日目は一体どんな災いが待ち受けているのかと不安がありましたが小倉で大火がありました。

石川―東京―小倉と毎晩激しい火災の画像を見ています。

 

そして、当方こそ「管制許可があった」の阿保らしい問答の決着があったようです。

正月二日の飛行機同士の衝突事案。

最初からド素人の私でも「確定的」と思っていたことですがそれを「勘違い」、要は昨日も記しましたが人間の欠陥(人的ミス)が原因であるということです。

 

それも定期的に業務で離着陸を行っている民間航空会社の旅客機の機長の言い分の方が如何にも真っ当であろうと思いました。

それを保安庁機の機長は「管制の許可があった」との主張がなされたわけでしたが、そもそもそういった交信記録がありますから何を言ったとしても無駄。その記録が発表されていました。

 

判断ミスによる事故と推測することができますが、民間空港業務も保安庁も管轄は国土交通省そしてそれらを統括するのがつまるところ総理大臣殿でしょうよ。

 

とりあえずといってしまえば何ですが、「増税メガネくん」とやらの第一声としては「関係者、国民にご迷惑、御心配をお掛けして大変申し訳ありません」が正当では・・・?と思ったのは私だけでしょうか。

大きな時間と労力を強いられ自身の不運を嘆かれた人たちが大層いらしたことが推測できますが(焼け死んだペットも)、彼の声は亡くなった保安庁の方たちへの任務慰労とお決まりの「御冥福」なんたらの言葉からでしたからね。

 

それはその事故による死は不慮のことで気の毒なことではありますが、空港システムを所轄する国のトップの発する言葉として違和感がありました。

「それとこれとは違う」ということです。

 

あたかもまだ原因が確定しない中「謝罪には及ばず」の指向

あるいは保身の心が見えたような。

そういえばあの手の人達は「ごめんなさい」は言いたがりませんからね。「謝ったら負け」の如くの強い芯が通っているようで。

地震対応についての演説には総理大臣たる確たる使命の旨をしきりに(胸を張って)強調していましたが。

その職務としてすべてのシステム管理の長として何らかの責を感じて欲しいものです。

しかし、聞き間違い、勘違い、御冥福・・・で済ましていたら世界からきっと嗤われます。警察は刑法案件として動いていますが。

日本全体の安全管理というものにギモンを呈する事案でした。

全ての事に・・・。

国が関わると何事もその件劣化するような気がしてなりません。

 

扨、昨日は「奥の細道」氏が三日のうちに横浜へ帰るというので奥方に寺務をおまかせして彼を在来線の駅のどちらかに送り届けることになりました。

まずは掛川道の駅でラーメンととろろご飯(小)を所望したいとのことでそちらから金谷に向かうことにしました。

その金谷に向かう段になってバイパスも旧国道もかなりの混雑。

早々に金谷を諦めて一駅掛川寄りの菊川に目的地を変えました。

 

すると菊川駅寸前になって彼が「金谷にしよう」と目的地を覆しました。よって少々のロスはありましたが再び車を国道方面に。

積もる話の続きがありますからね。

適当に山道を上がって小夜の中山の峠道に。

ということで道すがらにある山之内一豊の久延寺に寄ってみました。

彼とその寺の門を潜るのは10数年前のことですし私もかなりご無沙汰している山の寺です。

 

正月のお飾りと堂前の葵の紋の幕が光っていました。

門前の掲示板はメンテ必要かと。

尚、拙寺は門前に飾り一つつけていません。まぁいつもの事ですが。

石川の震災被災者を思えば特にね。

テレビのスポーツ番組(おバカ番組またぞろ)などさらさら、そんな気にはなりません。

 

 

0 コメント

2024年

1月

03日

金沢城大手門石垣 松管理の見事

 

相変わらず東海地区は穏やか。小雨にはなりましたが・・・。

私は夜が明けてからの能登震災の状況を知るべくNHK地上波を。

次々流れるてくる被災状況を目の当たりにし愕然。

どちらのお寺なのか詳細不明ですがお寺の本堂らしき建物がくしゃんという具合に倒壊している様は将にショックを受けました。

また昨日の一本杉通りのろうそく店が倒壊したとの報、まさかとは思いますがもし事実としたらとても悲しいことです。

 

そもそも私はその「おめでとう」の語は口にしたことがありませんが新年の来訪者のご挨拶の言葉はまずそれですね。

とてもそれに違和感を覚えることしきり。

 

そして昨日の逆、16時前に奥方は買い物に出かけ、私は留守番となりました。

ぼんやりしていると帰宅した奥方が別の部屋のテレビから伝えられるあの羽田空港の件を私に。

「空港で飛行機が燃えてるよ」でした。テレビを点けてまたびっくり。

飛行機同士の衝突ですから「人的ミス」ということは確かです。

一寸先は闇・・・には二つありますね。

自然世界のどうにも抗えない力、そして人そのものが持つどうにもならないうっかりお間抜けミス。

たまたま私どもはそれらからうまく避けつつ生きながらえているのでしょうね。たまたま生きて、いや生かされている。

 

民間機に死者が出なかったことはただの運だけ。幸運中の幸運でした。

何しろあのような画像(火だるまになって着陸滑走する旅客機)など目にすることはまずありませんからね。

 

連日連夜次々にそうは見た事もないようなバカバカしくもさせられる現実に対面させられ人間世界に生きていく恐ろしさというものを感じるわけで。

年変わりなどめでたくなんかありゃしません。ねぇ一休さん。

 

扨、あまりに酷い能登半島の景色にドン引きしつつもあれだけの市街地の被害状況から七尾城本丸付近の石垣について一体どうなってしまっただろうという気持ちが~土砂崩れ山道崩壊で毎度通行止めがある地です~。

しかし毎度突飛ですが彼の地を離れて金沢城の石垣を。

昨日のテレビからの画像で金沢城の石垣崩落のニュースがありました。

人的損害が次々と報じられる中、文化財どうのを心配することに顰蹙を買うところかとは思いますが。

 

画面から確か崩落の場所はこちらあたりの感じがしました・・・。

金沢城には夥しいほどの石垣が積まれていますが大手門の石垣をアップしました。

この辺りを歩くと石垣もそうですが、松の管理に手が行き届いているところを見てその天晴れに感心させられます。

相良辺りではマツクイムシの被害が酷く、また無管理のものがあって結構に見苦しいですからね。

温暖な東海地区と寒冷な北陸とではその差が出るものなのでしょうかね。

 

やはりそれへの防疫知識そして予算配分の違いでしょう、そこのところ知りたいものです。お抱えの植木職人に兼六園とともに管理すべてをまかせているのでしょうが。

まぁ、松の管理はマツクイムシより金食い虫。

 

 

0 コメント

2024年

1月

02日

幼子は網戸をぶち抜き両親は這い 七尾光徳寺掲示板

 

温かく穏やかな本年のスタートでした。

このように快適な暮れに正月はこれまで経験したことがありません。不思議なことです。

お客さんには「(こんな季節感は)もう二度と味わえないかも」と呟いたものの温暖化が続けば例年の事となるやも知れず。

「気持ちが悪い」と感じたのは無数の蠅が昨日受付のテントの屋根に張り付いて日光を浴びていたこと。

生き物の生態も狂っているのでは・・・

 

昨日の除夕鐘の締め、世話人さん皆さんへの挨拶にあたり私は「10年目の鐘撞にあたり当初はそろそろ何かあるやも・・・の不安が頭をよぎった」と切り出しそれでも「おかかげさま」にて何事も起きずに無事やり過ごすことができたことへの御礼を申させていただいたわけですが、それは漫然への警鐘、「何かあるその何か」とは私が忘れた頃に訪れるということが言いたかったのです。そうなればまさに「正月なんて目出度くない」になってしまいます。

 

昨日は来客多数のため外仕事は15時30分を過ぎてから。

再び雨予報が出ていたため昨日使用したドラム缶を2つ片づけなくてはなりませんでした。使用直後のそれは冷却時間が必要ですから毎度しばらく放置してからの仕事になります。

門の中にあったそれを大音響をたてながら倒して、中の灰を掻きだしていると耳慣れない音が近くで・・・。

手を止めて耳を澄ますと音の発生源は門。

長い間みしみしみしみしと聞こえてきます。

最初はネコ等動物の仕業かと思い「口を開けて」門の下で見上げるもまったくもってそれを確認できません。

 

「何?」という具合にその不思議に首を傾げていましたが「もしかして・・」と庫裏に踵を返すとちょうど奥方が飛び出してきたところでした。

すると奥方は「おい、本堂は大丈夫か?」と。

私はその時点で初めて地震だったことに気づいたのでした。

本堂内部もやはりその「みしみし」と電灯や瓔珞の振子状の様を見せつけていました。

 

その日はテレビというものには一切縁無くすごしていたわけですが初めてその時スイッチオンしてみればすべての放送局がその地震情報になっていました。

この辺り(相良)が震度3とは。外に居て動いていけば気づかないレベルなのでしょう。

車から降りてきた方もわからなかったと。

 

すると「奥の墓道」氏からメール。

彼の友人の帰省先(新潟)の情報が。

家の中は落下物で無茶苦茶、逃げようにも玄関が傾いて開かず、小さい子は網戸をぶち抜き親たちの手を引いて這うようにして家から出たと。

 

明るくならないと正確な状況は把握できないと思いますが、せめて命だけは何とか取り留め人的被害のなきことを願います。

他人事の如く申し訳ないことですがあとは各支援が来るのを耐え忍んで待つしかありません。

私もその時に・・・考えることは辛いことです。

 

扨、今回の地震震源地近く、かつてフラっと寄らせていただいた七尾の光徳寺。

そちらの掲示板の文言を(場所はこちら)思い出しました。

お寺は御祓川が七尾湾に流れる海近くにあって地元では有名な一本杉通りに面している古刹、本願寺派のお寺です。

地震というとどちらであってもお寺の本堂の状況が気になります。

それもこれも人の意図に反していることですから「無常」なのですが。

掲示板の人間の「水」の受け取り方・・・あの辺りの地では津波のイメージまで膨らまなかったかも。

水も大地も人間のことなど気にもかけていません。

 

①②は「奥の墓道」氏の新潟在住の友人からの地震直後の自宅内の様子。③~⑥七尾の光徳寺。

こちら付近の和ろうそく屋さんにもお世話になっています。

皆々さま、無事でありますよう。

 

 

0 コメント

2024年

1月

01日

葷酒山門・・・OK~受付に赤提灯ようこそ大澤寺に

 

予報通り朝は雨。

除夕鐘は今年で10回を数えます。

 

当初の「大荒れ」予想は大外れで10時すぎからの晴予報を信じ朝からやるべきことのために雨天動きました。