2020年

1月

25日

当尾の辻へ向かう 新川の石橋と墓石たち

「年金は国家による詐欺」と言われるようになってから久しいものがあります。

その「意義が違う」と主催者側に一蹴されそうですが、苦しい思いをして若い頃からそれを支払い続けた者としてのスタンスはただ一つ。

「払ったものは取り返す」そして「できればそれ以上の色をつける」というのが切なるものですね。

 

人生の時間切れについては当たり前のこととわかっているつもりですしそれについて「だからこそ・・・」の投げかけと「さあどうする」のこれからのきっかけ作りに仏法を聞いていただかなくてはならないと思う私ではありますが最近広く「人生100年時代」などと囃され刷り込まれ図々しく「そんじゃあ私も・・・」という具合に・・・まさかそううまくはいかないでしょうね。

 

昨日も記しましたようにまさかの坂はどこにもありますし、「自分だけはうまいことヤル」などというのはムシが良すぎる話でその「100」は仏教で説かれる「無常」について少々舐めている感あります。

まぁ、色々な延命危惧に繋げられてのその数字かも知れませんがね。

 

ということで最近お国の方で推奨されるようになった「75歳以上~」などの「年金受給を遅らせてガッチリ」の甘言はまともに信じてはダメですね。まさにそれこそ博打なのかも知れません。

だいたい「意義が違う」と主張される当局の方でその件を餌にするが如く宣伝していることはまずすべてが疑わしく感じます。

要は周囲俯瞰して年金受給前や「元を取れないまま」亡くなってしまう方が如何に多いことか・・・そして「年金が破綻するかも・・・」の声も昨今多く聞こえてきます。

それなら早いうちから受給し、健康長寿を心がけた方がまだマシという結論です。

 

詐欺と言えば先日「こんなハガキが来ましたけど」とある方から(下の画像)。

警察には届け済みだそうですが、いわゆる今流行りものの詐欺の手口でしょう。心当たりがまったくないという年配者です。

 

ありもしない負債について提示しそれについての問い合わせをしてきたお人よしに「過去の〇〇についての支払いが完済されていない」風のデタラメを信じ込ませてカモにするという手口ですね。

 

その手の郵便物やメールの数々は「人を騙して金を奪う」ことを目的としていますが今や世の中、その類の話で溢れかえっていて嫌な時代となり果てています。

 

ネットでその会社の名を調べてみましたが「詐欺の疑い」でヒットしていました。

何故に警察はそのような会社にやりたい放題をさせているのかわかりません。

電話番号から辿れば犯罪行為は監視できるはずですからね。

 

悪事を働いて得た金は無造作に使われるに決まっていますから(こつこつ「貯金」などしない)オレオレ詐欺はじめその類は結果的に国の期待する景気浮揚のために一役買っているということとなりましょう。

消費税を上げて景気後退を軽く見せたいために詐欺蔓延社会を作り出せば数字のアップに繋がるのか・・・などと穿って考えてしまいます。

年寄りのタンス預金を市場に吐き出させるという期待があったりして・・・

 

いろいろと信用のおけない時代です。

まぁ詐欺師と永田町に居る茶番師たちの行きつく先は決まっているものですが・・・。

でも私は彼らにもお念仏だけはさせていただきます。

気の毒な人たちでもありますからね。

 

さて、上記画像は先日ブログで記しました当尾の新川沿いの野山の図です。

珍しい細長い1本の石材を掛けただけの石橋がありました。

さも「どうぞ・・・」と言っているように感じて心が動きました。

 

まさか私がそれを渡った時に限ってその石橋が落ちることは考えられませんでしたが、土手との接地面も浅くまったく信用ならない作り。

「石橋をたたく」よりも「天使の前髪」・・・というか「拙速こそ命」の私ですが、この橋に足を掛ける気にはなりませんでした。

ちなみにこういった石材というものは概して古墳から出て来た石棺部材の転用が多いものですが。

 

③の辺りに先日の「川の中の二体仏」がありました。

周辺散在の墓石たちが集められている場所がありますがそちらにも「地蔵+阿弥陀」の二体仏の石塔が見受けられました。

阿弥陀仏は浄土信仰を表すところ当然それは「おたすけ」を意味します。

しかしながら浄土往生が「一定(いちじょう)治定(じじょう)」されない(と思う)衆生にとっては、「間違いなく地獄に堕ちる」という信仰が強まって、それであるなら地蔵に堕ちたあと、そちらでの多くの責め苦から少しでも救済されたいと求めるようになったのが地蔵信仰の元となる考え方ですね。

 

この地は平安期に貴族世界から繁盛しだした阿弥陀信仰が民間に降りてなおかつ土俗的地蔵信仰と結合した頃の人々の「素朴」を感じます。

 

蛇足ですが、それら面々(詐欺師・茶番師)はまずその地蔵菩薩・・・地獄の閻魔さんの浄玻璃鏡でこれまでのあらゆる嘘が見破られてそれなりの責め苦を大いに受けるというのがそのならいでしょう。

挙句人々に「ざまぁみやがれ」と後ろ指を指されて「針の筵」となるのがオチですね。

 

当流では地獄も極楽も決して死して行く場所ではないということもさらに付け加えておきましょう。

 

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2020年

1月

24日

篤姫の死はヒートショック 41℃が最適 再び岩船

BS「偉人たちの健康診断」を視聴しました。

「篤姫 ヒートショックの恐怖」というタイトルです。

49歳で波乱の人生に幕を閉じた天璋院篤姫の「健康」にスポットをあてた番組でしたが、彼女の死の直接の原因はヒートショックからの脳溢血との目立て。

風呂場で転んでから何とか自力で寝室まで長い廊下を歩ききってから寝床で昏倒してからそのまま帰らぬ人となったようです。

 

先日もご近所の方が風呂場で亡くなったことを記しましたが(その方は約1日気づかれずにいたといいます)毎年のようにその手の不慮の事故の件耳にしています。

風呂も「命がけ」を思うと私が屋根屋の真似事をすることに「危ないとの御指摘はあたらない」・・・と政治屋ばりに言わなくてはなりません。家の中こそ危険が潜んでいるのに・・・

 

番組によれば、篤姫は寒い屋敷の中、浴場に入り熱い風呂に身を投じたことによるヒートショックになったと断じていました。

メカニズム的には熱い風呂に足を入れた途端に一気に血圧が20以上上昇、そして風呂に体が浸かるとそこからまた「すーっと」血圧が下がるとのこと。

その下がり方が急激で時として意識がなくなるほどになるといいます。

人によってはそのまま湯舟の中に沈み意識の無いまま溺死すると。

篤姫は風呂から出た後に脳溢血を発症したようです。脳溢血を発症してもスグに意識不明にはならないこともあるそうです。

 

その風呂の温度については「40℃~41℃」が適当であるといいます。

「熱い風呂が好き」という声も聞こえてきそうですが、その1℃の違い、42℃となると相当危険であると伝えていました。

私は若い頃は箱根辺りの日帰り温泉のサウナや高温の風呂で「我慢大会」など称して喜んでいましたが今考えると自殺行為だったわけで。

我が家も早速41℃に調整済みですが、今一つインパクトの無さを感じます。

まぁ今の我が家は昔ほど風呂に隙間風は入りませんから快適です。昔の風呂場は寒かったですからね。

風呂場を温かくすれば「死ななくて済む・・」コレはある意味正論でしょうね。

 

寒そうな風呂というとやはり思いつくのは岩船寺の石風呂。

以前ブログにてもそちらをさらっと記しましたが本日はその排水口をアップ。

一瞬石棺の如くにも感じましたが、水栓の口があるということはやはり「風呂」だったのでしょうか。

ただし実際に湯が張られていたかどうかは知りません。

たとえばダイコンや野菜を洗うにも便利かも。

 

造作はリッチな石風呂と感じますが私の子供の頃に入った木枠の五右衛門風呂のが方がはるかに温まりそうですね。

 

「岩船」の名称はこのフネ(岩風呂)からか・・・門前の階段の上り口にそれはあります①。

⑥は石風呂前の小屋に掲げられている額。

 

 

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2020年

1月

23日

貯金も必要だけど貯筋もね 西山寺寒柿 小島蕉園

歳を重ねて「その時」が来るまでに「いくら必要」などと騒がれています。

切実なところは大いに理解できますし私もやはり不安なところでもありますが・・・

しかしその心配(貯金)をするよりも、その語呂合わせで何よりも「貯筋」が大事と言われています。

昨日記した映画の中で伝えられた通りたとえお金があったとしても「時間」は買えませんのでもっと違うものを貯めるよう心がけよう・・・というのが健康寿命の基本である「筋肉の鍛錬」です。それはそれはお金があればそれに越したことはありませんがね。

 

筋肉維持・持続が健康維持に不可欠(フレイルの予防)ということですが、やはりそれは昨日の映画のエンドに流れた曲の歌詞、「立ち上がって外に出よう」なのです。

中には立ち上がることができない方もいらっしゃるかと思いますのでそれなら座位でもトレーニングしなくては。

外に出にくいというハンデがあるのは辛いでしょうが「貯筋運動」は誰のためでもなく本人の仕合わせに通じますからね。

 

畏れ多くももし私が100年の寿命を長らえることができるとして、フレイルと痴呆の時間をいかに少なくするか・・・それはただ自身の心がけです。

 

さて、久し振りに蕉園渉筆から。

その31番目の記述はとても短くて意味も分かりやすいのですが、

蕉園自身はそれについて「よくわからない」と歯切れ悪し。「蓋」はもしかすると・・・ですからね。

 

そちらが

  「西山寺村山中 有一柿樹 寒中結実 蓋異樹也

                         

西山寺とは当地の古刹です。

蕉園は周辺の寺院についてその時感じたことを記していますが、こちらはあたり障りもなくほんの少々の観想でおしまい。

 

「西山寺村の山中に柿の木があって真冬に実を結ぶがこれは柿とは違う木かもしれない」とのこと。

 

何の事やらと思って冬の西山寺周辺をブラついたことがありますが、まったくそれらしき果樹は発見できませんでした。

蕉園が見た「柿」と思わす果樹はいったい何なのかこの目で確かめたかったのです。

要は暖系色の何かを見つければいいのですが、お寺の西側の台地上を歩いても「これだ」と思うそれの発見には至りませんでした。

 

西山寺の門前から相良方面に帰る際、東側の丘の上に「赤」の鮮やかを主張している木がありましたので確認に。

こちらはサザンカでしょうか。

まさかこちらを「柿」と間違えるワケがありません。

③④のカラスウリも色的には柿に似ていますが蕉園がそれを知らないはずもなく・・・。

 

⑤⑥は最近の野山の柿の様子ですが実がしっかりとあります。

秋ごろから生って熟しきった柿はそろそろそのまま干し柿になりそうな有様ですが鳥たち憩いの場となっています。

私の推測ですが、やはり蕉園の見たものは柿ではなかったのでしょうか。

食糧事情の難しい時代とあって、折角の自然の恵みを収穫しないことは考えにくいのですが、私が以前から聞いていた事は、自然の恵みは人がすべてを取り去るのではなく少々の「お裾分け」を他の生き物たちのために残すものである・・・という考えがあるということ。

 

「足るを知り他と分かち合う」という謙虚な生き方に通じるものがありますが、その蕉園が江戸からやってきた頃といえば「蓄えて増やす」という発想が闊歩しだした時期、すべての果実を得ず、厳冬期にも尚その実を晒すその姿に違和感を覚えたのかも知れません。

 

⑦は蝋梅満開の様子。野に春の香りを漂わせています。

 

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2020年

1月

22日

お金で何でも買えたが時間だけは買えなかった 当尾

時にC・イーストウッドの作品について思う所あって拙ブログでも幾度か記していますが昨年公開された「運び屋」もなかなかいい映画でした。

ストーリーについては各お調べいただくとして、私の第一印象としては「僕らのヒーロー」がお爺さんになっていた・・・ということ。そしてその分映画を見ている私も齢をとったということ。

 

彼の映画のお楽しみはその台詞。一言一言が爽快に感じますが、彼のアクションスターから老人を演じる事そのものからも伝わってきますがお話のそこそこに「無常」(時の流れ)感が漂います。

ストーリーも悪くなかったですが、一番に気に入ったのはエンドに流れて来る曲「Don’t let the old man in」と歌詞の和訳。

 

  老いを迎え入れるな  

 もう少し生きたいから  

 老いに身をゆだねるな

 ドアをノックされても

 

 ずっと分かっていた

 いつか終わりが来ると

 立ち上がって外に出よう

 

特に1番のこの歌詞の一句一句「まったく同感」。

そのように生きながらえれば仕合わせです。

「ドアをノック」は和的にいえば「お迎え」なのでしょうがこちらからドアを開けることはないですね。

ボブ・ディランの「Knockin' on Heaven's Door」なども連想してその比喩もニヤリとさせられました。

 

「老いを迎え入れずあともう少し生きたいのなら外に出る」

それでよろしいかと。私の今の考えを追認していただいた気がしました。尚、表記はやはり映画の最後で語られた台詞。

「時は金なり」などいう諺は耳タコでわかっているつもりではありますが、彼がそれをしみじみと語ったときビシッと響いてきました。

 

さて、昨日は道に転がる墓石の件、記しましたが外に出て何気なく歩けばやはり墓石を見つけますがそれは野に流れる小川の中でした。

まぁ場所的に南山城当尾(木津川市)という土地柄ということもありますが、まず私が川の中に目をやって気づいたのは④の円形。自然界にあの球形物はまずないでしょうね。

 

五輪塔などの石塔類のパーツの可能性がありますが、その付近に目を転ずれば⑤の画像が。

台座に据えるためのソケット状の突起がわかりますね。

⑥⑦⑧が御対面の図ですが、どうやらこの墓石は水路の溝に使用されていたようでした。

きっとこの石仏はたくさんの時間を重ねたのでしょうね。

このタイプの地蔵+阿弥陀(おそらく・・・)のパターンはこの地区に多く登場しますが(岩船寺にも)、この水路のパーツにされた「石材」は南北朝期~室町中期はカタイかと。

ブロック2個(約300円)と交換して持ち帰りたくなりました。

何も溝の工作にこちらを使用しなくても・・・

やはりこれら、お金で買えるものではありませんね。

小川の名は「新川」場所はこちらから。

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2020年

1月

21日

「独り善がり」も まぁいいか・・・高島清水山城

大河ドラマは野盗に人買い(人身売買)そして寺院による関銭の徴収など、当時の社会情勢を取り入れて描こうという方向性のようなものを感じました。

これまでの戦国時代の大河ドラマではその手の庶民の困窮を表現する場面はそうありませんでしたのでそれはそれでまた楽しく見られます。

特にまた僧形の屈強者が「さっきも払ったのにまたか・・・」と文句をつけた商人らしき旅人に殴る蹴るの暴行を加えるシーンがありましたが、まぁ場所的に考えれば比叡山の僧兵をイメージするところです。

 

商人の「さっきも・・・」の台詞から「関」がいたる所に設けられていたことを示唆していましたね。

関は国・郡・町村の境界、物流の拠点、船着き場に橋など通行料含めて私設・公設含めて手っ取り早い現金収入ですがやはり「銭」というものが広く流布していませんので米を主体に「物」も徴収したことでしょう。

 

生産性も良くない時代ですのでそれら物の流れを阻害する関の存在はインフレを招き、庶民の生活は劣悪だったでしょう。

大名による国内、関を廃して楽市楽座を推奨したのは商人に物流と売買に特権を与え経済活動を円滑に行わせて利潤を多くあげさせその上前を独占して徴収するシステムです。

商人は当国の大名権威者にのみ税を支払い、他の各徴収活動を拒絶し保護されるというメリットがあったのでしょう。

 

それにしても今回の大河の衣装は特筆モノ。

民衆レベルであっても、きらびやかで原色の着物はさすがに無理がありますが、その件はキレイだから「まぁいいか・・・」です。

 

私が「それで良かった」の自己満足のあとずっと後を引きづっている件・・・。

 

それが近江の清水山城をブラついた帰り途(場所はこちら)。

おそらく大手道の直線だと思いますが、「竪堀の掻き揚げ土塁の底部を歩行するタイプか?」などと考えながら歩いている時・・・「土塁上の植物繁茂のせいで崩壊が免れ現在は堀底ではなく土塁上を歩いているいるのかも・・・」などと色々思案しながらですが、平らかに見える石がべったりと土に張り付いて埋まり、ちょうど良さげのステップになっている様子が目に入りました。

 

将棋の駒のような形の花崗岩質のそれに立ち止まって「まさかね」と言いながら、カメラを首に掛けなおしてから両手での石を起こしました。するとやはりそれは石仏でした。

 

この辺りは信長に蹂躙された地であり、城の一部には各所から出た石仏が集められている場所がありますが、そういった石仏が上部から流れ落ちて来たのでしょうか。

近江の城址は結構に寺と共存していた時期(それは山岳寺院を城塞として拡幅する趣向)があって城も寺も同時期に廃されていると墓域も荒れて石塔類は離散するでしょうから。

 

するとそのスグ近くにもう一つ同じような、黒くなった石仏が表を上にして転がっていることに気づきました。

黒色は炎上痕ではないと思いますが・・・

私は勝手に「夫婦ならいっしょがイイでしょ」などと決めつけて、一人おしゃべりしつつ並べ満足し、下山した次第です。

 

しかし置いた場所は道のド真ん中。

人が踏んづけたり蹴飛ばしたり、また大水に流されることもあるかも知れません。

どでかい台風の直撃多数によってどちらの山も相当に荒れていますが自然と化した彼らにもはや人の手は無用と。

しかしながらもう少しばかり道の脇にしっかりと据えてあげればよかったのか・・・と頭から離れません。

 

「拙寺境内にお迎えしても・・・」などは暴挙、二人の故郷はこちらですし(重すぎます)、誘拐、人買いと同様のこと。

次回もし行く機会があれば、チェックしたいところでもあります。

 

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2020年

1月

20日

無い頭を絞ってのんびりと 南面破風下の劣化

拙寺の大規模改修工事は2011年(画像集)でした。

大層な、そして私の「一世一代」だったわけですが、最近になって気になりだした件があってそれを「今年一番の課題」としていました。

「一番」とわざわざ記すほどですからいつもの「朝飯前」の軽口は出てきません。

 

それが本堂破風と破風下壁の痛み。

塗装面が風化して木の地肌が露出してきました。

日々目にしている面(本通り側)は駐車場側の北面で、今のところそちらは大した痛みは現れていません。

ところが普段目につきにくい南面といえばあの様になっていました。

海側南面で一日中日光と潮風が当たる方向になりますから致し方ないのでしょうが、それほど両極で違いが現れるとは驚きでした。

 

どちらにしろこのメンテナンスはいずれ「私が」と心得ていましたのでその心づもりはできていました。

奥方は「またいつものダイハードごっこか・・・」と呆れていますが気が向いた時、風が吹かない時間に奥方を助手にして最良の作業性を思案しつつ、足場を組んでいます。

一昨日、とりあえず先端部分まで足場が伸びましたのでちょいとヘリから顔を出してご挨拶。

あと少々、足場トップでの仕事ができるよう工作をすることになっています。

 

足場が確保できたら次は屋根上の動きをラクにするためのハシゴ状の足場を木材で組み破風下まで伸ばします。

⑤画像に見えるリング状金物に期待値が膨らんでいますが、その設定は古く信頼性はありません。

 

この存在は有難いのですが、かつて息子のやらかした「おしゃぶりの件」に準えて話すと奥方は爆笑していました。

それは彼が2歳くらいの時、同年代の子が咥えていたおしゃぶりを興味本位に「すぽん」という具合にすっぱ抜いてから打ち捨てたこと。

相手の子供は驚いて泣き出し、あたふたさせられた奥方の様子は今も彷彿とさせられます。

 

要は私があの金物にザイルをかけてテンションを掛けた瞬間に「すぽん」と抜けてそこから「スローモーション」そして「回想場面のシーン」ということです。

すべて最悪の事だけは念頭に入れて行動しなくてはね。

 

部材の金額予算は3万円以内での完成を目途としていますが、もしこの仕事を外注したとしたら100万円は超えるかもしれません。世話人有志に頼むこともまずムリですし問題提起することも野暮な話。

 

足場の設営コスト(時間と労力)が9割以上の仕事です。

その辺りの件ならばクライミンググッズとザイル、そして少々のお頭と度胸でカバーするということで。

 

高所作業車が入らない本堂側面の工事はやっかいです。

かといって負の状態を知っていながら息子にバトンタッチはできませんのでヤレる限りは。

 

①は北側の図。②~南側。

傾斜は案外あります。2月いっぱいで完了させたいですね。

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2020年

1月

19日

高天神城の攻防と比木の城 黒山―山小屋論争

午前中の史跡研究会の会合の延長。

会の増田氏の声掛けによって午後から比木公民館に向かいました。

比木にて「古城」(静岡古城研究会)の前会長の水野氏が来られるということでした。

新野の鈴木東洋先生の活動を引き継いだ会ですが、水野氏も既に名誉会長に勇退されていたとは・・・まったく時間が経つのは早い。

 

演題は表記「高天神城の攻防と比木の城」でした。

それにしても失礼な言い回しですが、こちらの比木という地の公民館での開催に「なんで?」とは思いましたが、演題に「比木城」が入っていましたね。

ちなみに公民館の位置といえば比木賀茂神社の西隣(場所はこちら)。

それにしても「比木の城」といってもその存在について承知していた人は稀れなのではないでしょうか。

どちらかにも記しましたが御前崎エリアに「城など一つもない」などという(大き目の)声を聞いたものでしたし・・・。

 

拙ブログではかつて比木の城について(またはこちら こちら)記していましたのでこのタイトルは面白いと思って増田氏の提案に乗ったというワケでした。

 

水野先生の主眼は当御前崎地区に山城が点在していてかつその築城と活用が誰だったのか・・・(なのですが、残存史料皆無につきすべてが推測ということになりますが・・・)その史料が残っていないことこそが、敗者撤収組の武田勝頼の仕置であることが推すことが出来、かつ当時の民衆(中世以降の「地下人」)の立ち位置、方向性とは基本的に戦乱からの逃避・・・逃散・欠落であってそれこそが「山」だったいう解説でした。

 

日本全国夥しいほどの山城があって、現代であっても新発見の報は枚挙にいとまがありませんが、そこのところを「山小屋論争」の件、引いていました。

 

「山小屋」は戦闘地帯(草刈り場)に住し、農耕生活を行っていた地元民がそれから逃げて、山に暮らすベースを言いますが、その地での集団生活に於いて外部からの襲来を恐れることは当然でしょう。

 

尚、「山小屋」の点在する場所は地名として「黒山」「中山」でありそれらの名称は「境界地」を意味し、「中山」は読んで字のごとく、「村と村の真ん中の山」。

また「黒山」の「黒」は図面境界を黒く(墨で)囲って示したならいから「黒〇〇」は境界を示唆する場合があるとの説明をされていました。

 

よって境界逃避場所の規模が大きくなると曲輪状の開削地(住居域)に土塁・空堀などの防御施設を附属することもあって、現状我が国の戦乱の起こった地にはたくさんの城砦が見られるのはそのための可能性があるとの結論を得る事ができると。

戦乱期にはそれら民を自軍に取り込んで戦闘員とすることも至上命題であって結果的にそれら城塞も接収され自軍の前線あるいは後詰の城として耐えうる改変を加えたということもこの地の城塞たちの歴史として付け加えられていました。

 

特に塩買坂経由の高天神兵糧納入路が困難になりつあった勝頼軍がより沿海側に移るとともにこれら比木の城から朝比奈城に新野の各城塞にかけて整備したという流れでの解説でした。

 

「信長を引き込んで一矢を報いる準備」との御説には少しばかり先生の当地へのリップサービスがあったように感じましたが。

 

尚、山小屋論争について「週刊長野記事アーカイブ」に井原今朝男氏の記事がありますのでリンクさせていただきます。

 

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2020年

1月

18日

駿府城現説情報 駿遠から首都圏降雪情報につき

昨日早朝「後夜」に入った頃(2時過ぎ)息子が横浜から相良に舞い戻ってきました。

正月に数珠その他忘れて帰ったいろいろを回収に来たとのこと。

彼の深夜行動は勿論、東名高速の深夜割引のため。

仕事から帰って一風呂浴び、うつらうつらと休憩しての時間調整をしての出立です。

それはまずは渋滞に遭遇する確率は低いですからね。

私も割引などない時代から深夜行動の高効率を毎度採用しています。

 

折角のお休み(正月明けは忙しかったそう)ですから、親としても彼の好きな「さわやか」にでも・・・と考えるところですが、昨日は大晦日の「除夕の鐘」スタッフの「お疲れ昼食会」があったことと雲行きが悪そうなことから「明るいうちに即攻で帰れ」と指示して11時前に追い立てました。

 

その「雲行き」というのが駿遠から首都圏の降雪情報です。

要は西から雨雲が迫っているということですが、それがかかってくる前に「御殿場は通過しろ」という至上命題を与えました。

「チェーン規制」が出たらアウトだぞ・・・と言い聞かせたのですが、彼は温暖な南遠にあって「雪の怖さ」については未知ですからね。

 

どんな寒気が、前線が通過しようが、「なんなら雪を降らしてみろ!!」と天に向かって高慢な罵りのことばを入れようとも、まったく大丈夫と言っていいほど相良に雪は降りませんので・・・

要は滑ったことがない、滑り出しがわからない、制御不能の車の怖さ、チェーン規制の高速道路の大渋滞を知らないということで、「とっとと」帰らせました。

 

聞けば土曜日は法事が2件だそう。

山間部の霊園などでしたらヤバイと思って「勿論車にはチェーンが搭載されているのだろうな」と聞けば「ない」といいます。仕事の移動は前輪駆動の軽自動車ですから降雪時のチェーンは必需品です。

雪が降ったらどちらもチェーンは売り切れになること、その件言うのを忘れていました。

しかし衣を着たままチェーンの装着など考えるだけでもうんざりしますね。

書生さんたちには大事な試験の日のようでもありますから、その天からのお達しもほどほどにしてあげてくださいな。

 

さて、昨日はブログの返信で「お祭り」さんより駿府城現説の情報をいただきました。

それによると

 

新発見の小天守現場説明会

2/22 土曜 9:00~16:30 申込不要

 調査員の説明:9:30~・11:00~・13:30~・15:00~

 

とのことです。

変更等があるかも知れませんので各詳細ご確認ください。

 

2月22日はニャンニャンニャン。

息子は時間があまりないなか、全部のネコたちに挨拶をして帰りました。

画像はどこで仕入れたか「にゃいおんきんぐ」を舞鶴殿で。

てことはやっぱりお前は「エテ公」だな・・・

亡父が彼の事をよくそう呼んでいましたので。

 

なお「エテ」とは「得て」で「優る」「勝る」・・・まさる。

「さる」は「去る」の連想で「縁起が悪い」ので真逆の語を持ってきたといいます。

イイ言葉ではないですか。

私は彼に「知」を得て欲しいと思います。

本日は午前に変更した史跡研究会の会合に、午後からは皆さんと比木の公民館で催されている講演会に向かう予定です。

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2020年

1月

17日

田沼意次遺訓七か条と小和田先生ブログ駿府城

小和田哲男先生のブログは毎度拝見させていただいていますが、凄い事が記されていました。

私ごときのド素人ではその辺りの件を知るに、まず報道関係からですからね。

 

その内容が、先日私も駆け付けた駿府城天守台の次に出た小天守台の遺構ですが先生は「今川時代の遺構の確認」という表現までされていました。

 

何しろ天正期遺物の下(遺構の下の遺構)ということで一番下にあるだろう今川時代の遺構を露わにするためにはその上の全てを取り去るほかはありませんから…

先生もそうでしょうが、一番に知りたいのは今川館の全容というのがそのスジの方々が念頭に入れていたところですからもどかしいところです。

 

今川館の所在もまぁ、現在の駿府城の下だろうというところは推測されていましたが、ひょっとするともっと賎機山側に近いエリアの可能性も捨てきれないというところでした。

広大な駿府エリアの地下に埋まっている事は確かですが、館の中心部についてピンポイントにここであるとは確定されていませんね。

 

しかし、先生のブログによると薬研堀が出て来たそうで「これは今川館の堀と見ていい」とのこと。

そうなると今後駿府城公園は発掘現場の垣根を取っ払って掘りまくらなくてはイケませんね。

先の長い話ですが、楽しみが増えました。

 

さて、先月12月初旬にお知らせしていた通り、藤田覚先生を相良にお招きしての講演会が催されましたが、その演題が「田沼意次遺訓案と田沼時代」でした。

 

色々その姿勢を脚色揶揄されての歴史が田沼意次の政(まつりごと)のイメージですが、この遺訓は家訓としての意味が強く、何よりも田沼意次の本当の性質がうかがえるというものです。

 

画像は観光課が作った意次通信に記された七か条の要約ですが、その冒頭に記されたその主旨について藤田先生の記した読み下し文を転記します。

 

( )内は削除予定と思われる部分、『 』は削除部分

 

人情の正道なるところは相知れぬ候わけに候らえども(もっともその教えの大体を知らざる者もこれなく候らえども)善悪の人これあるは、用いると用いざるとにこれあり候なり、我がままよりおこり候ことに候、学問厚き面々にも、かの教えは別のことのように学問と名付け除け置き、芸のように致し、今日の行いは我がまま次第に過ぎゆく者多くこれあり候(勿論教え方悪しきにはこれ無く、学ぶ者よく心得るべく候)、『学問心がけらくべく、先ず」)

これにより、先ず早々(無道これなき「ようにと」ため)

左の七か条違いなきようにとこれを認め候

 

 

「武芸出精の余暇に遊芸を嗜むこと自由」の件、特に素晴らしい殿様です。

 

ただし「遊芸」とは

謡曲・茶の湯・鞠・揚弓・生花・舞踏・琴・三味線・尺八・笛・香・講談・浪花節・落語・俗謡・詩歌・歌舞・文芸ということで文武以外の趣味的なもの。

今の「遊び」とは違いますが、それらさえも禁じられた時代がありました。

 

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2020年

1月

16日

ネコと子供にはかなわない コンクリ屋さん

その方面の第一人者の検証を得るということで、話が終わった当家「波さん」の江戸城大奥土産から作った打ち敷の件。

広大院の着物ですね。

調査費として本年度の予算計上となるようですが、場合によっては「重ねての調査」などの指摘があるかもしれないと牧之原市史料館学芸員の長谷川氏。

 

要は「お楽しみはゆっくり」ということなのですが、私としては4月頭の「春の法要」の際に昨年に一部史料を公開したのと同様に避難タワー兼物置の1階でそれを皆さんにお披露目しようかと考えていました。

見物の方法は掛け軸のような「吊るし」ではなく、大きなテーブルを2枚づづ2セット用意して平置きにするつもりでした。

 

勿論、その際境内寺楽市で販売されている雑多な飲食物と子供のおさわり災難から逃れるために透明ビニールクロスを敷くという算段です。

 

経費的に安上がりに紹介できますので自分的にはその頃合いは「悪くないんじゃ・・・」程度にしか考えていませんでしたが、長谷川氏より「一応、正式な専門家の見解を聞いてからでも・・・」との意見を頂きそれに合点した次第です。

 

しかし衣類等のフカフカのものは家の中であっても油断はできません。ひょいとどちらかに置こうものなら知らないうちにネコがやってきてその上で寝ています。

勿論、ネコの毛だらけについてはカンベン願いたいところですが、毛玉や何か吐かれでもしたらガッカリさせられます。

 

画像は先月末のコンクリ屋さんのサービス補修作業の図。

敷地に架かる路面部分のクラックの修理でしたがやはり何故でしょう翌日見ればネコの足跡が。

 

④画像は雨降りのあと傘で砂利をぶちまける子供がいてうんざり。高学年になるとやらなくなるのですが・・・

 

コンクリ屋さんはニヤニヤしながら「ネコと子供にはかなわない」。

 

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2020年

1月

15日

本能寺 本願寺が生き残れたのは偶然に非ず 状況推測

天正十年六月二日の本能寺の件、かねてから時々思い出したように拙ブログにて。

世に光秀の「なぜ、どうして・・・」のあれこれが面白おかしく論じられていますが、最近になってから文書の発見による新説が飛び出すなど新旧織り交ぜなお迷宮迷走の様。

 

ふっと考えれば私たちも普段行動を起こす際、大した理由など考えない「えい、やぁ」の衝動は結構あるものですし・・・。

また人の心はわからない・・・というのはいつものこと。

人がもし一つの考えに至ってその結論を出して行動を起こすまでにある程度の時間(躊躇と醸成)を要したとして、その「衝動」は他者から見ればいかにも突発的な理不尽を思ったとしても本人としてはそれなりの思案と迷いがあったに決まっています。

 

従来言われてきた安土家康饗応の失態や信長からのパワハラの数々をその理由にしていたら、光秀のあの決断はあまりにも短絡的を思わざるを得ません。

結果はそれでも大いに各方面の見誤りを多々発生させていましたが・・・

 

しかし、光秀の性格の「思いやり」の心―これは今回大河ドラマで強調して描かれるはずだと思います―から考えると当初信長麾下で対浅井・朝倉掃討の戦働きの中、進出展開した湖西志賀の人々との接触からその信長を最終的に「摘み取らなければならない」という結論に至ったのではないかと思えてなりません。

 

先日も「揆を一にする」で記した通り、当流ではあまり明智光秀の快挙を慶事とすることはあまり前面に出したりしませんが、さらっとだけ東本願寺のサイトに記されていますのでそれを紹介

させていただきます。

 

この文中にある『大谷本願寺由緒通鑑 第三巻』『金鍮記 巻上』とありますが、その内容と同様のことは「石山退去録」にもありました。

それが「本能寺の変の前月、四国攻めのため堺周辺に集結していた織田の軍勢は、実は当時紀州にあった鷺森本願寺を目標にしていた。六月三日、織田軍の来襲によって本願寺は滅亡するかに見えたが、突然織田軍が引き上げたため危機を脱した。」の件です。

 

六月三日が総攻撃の日でした。

本願寺では水杯をあげてその最後を迎える準備と覚悟を決めていたわけです。ところがその日になると信長の軍勢はキレイに居なくなっていたのでした。

その前日に本能寺で信長が光秀に討たれたことによる撤収だったのですが、結果からのみを考えてみても本願寺からすればその六月二日の朝の本能寺は絶対に「その日その時」でなければならなかったわけで、ギリギリのピンポイントなる日なのでした。

 

私はこの人生たかだかの年数しか重ねていませんが、そのようなタイミングの良さというものはあまり見たことがありません。

本願寺としても滅亡の危機どころの騒ぎではないまさに風前の灯状態にあったのですから。

その件私どもは単純にそれこそ仏縁であって報謝の念仏という具合になるのではありますが、いくら何でもちょっと待ってくださいよ・・・ですよね。

そのような「偶然」があり得るのか・・・?というのがやはり本音です。

 

それが私が思う「本能寺の件は本願寺のためでもあった」です。まぁ結果的にそうなったのは偶然であるというのがこれまでの歴史観ですが、私の考えは「そんな偶然はない」が結論です。光秀に色々な思案があったにしろそのスイッチを押すに有力な後押しになったかと・・・

 

要は、光秀の「天正十年六月二日」には色々な要因があったにしろとにかく「本願寺を助ける」の意図があったと考えます。

これは文書による証拠は出ていませんので状況証拠のみですが・・・。

たとえば本願寺滅亡という緊迫状況の中、本願寺から近隣門徒衆にそれを知らせる中、当時もはや本願寺に救援を送れる後詰勢力はありません。

 

どうすれば劇的効果があるかといえば以前から本願寺が企図した「信長のクビ」でしょう。もはやそれしかないのですが、それが出来る人物も不在。

 

そんな中、明智光秀が統治し関わっていた近江志賀郡の人々に着眼します。

さすがに信長軍のこちらへの進出に関しては浅井の息のかかる場所ではありますが、延暦寺に本願寺門徒衆の激しい抵抗がありましたから当初の光秀の統治は容易いものではなかったでしょう。

しかし其の後の状況を見回すと、案外早いうちに良好で安定的を思わす節が多々見受けられます。

 

小和田哲男先生の『明智光秀: つくられた「謀反人」』を参考に記します。

光秀は元亀二年~三年頃に京都奉行職から坂本城の築城に入ります。当初は忙しすぎた光秀の志賀統治は完全ではなかったようですが天正七年の「兼見卿記」(吉田兼見)の「兼見小姓蓄電事件」での対応力の早さからその統治力は進んでいたと解していました。

吉田兼見の小姓は志賀郡御琴出身だったということで光秀がカンタンに探索成功させたというものです。これが光秀は意外に早くまずまずの「統治力を発揮していた」証しとなるものです。

 

よくよく考えてみてもこの志賀という地は蓮如上人所縁の地でいわばガチガチの本願寺門徒の地盤です。

他所においても本願寺勢には信長自身勿論、配下の武将もその激しい抵抗には手を焼いていました。

それがどうでしょう、光秀に限ってというか門徒衆は何故か従順と言っていいか当初の抵抗はあったものの協力的な動きさえ感じられてきます。

 

これは早い時期になります。

「信長公記」元亀三年七月に猪飼野甚介(猪飼昇貞)ほか堅田の水軍が江北の浅井の喉元に「囲舟(軍船)」で襲い掛かった記事が出ていますが、その「堅田湖賊」を早くから光秀が掌握していたことを示唆しています。

 

この堅田こそ蓮如上人が滞在し本願寺門徒繁盛の地盤(本福寺光徳寺またはこちら)ですね。

本願寺門徒衆もそれは一枚板とは言い難い部分がありますから懐柔を受けることもありますが、それにしても光秀の統治力は特筆すべきことかと。

 

人心それも民レベルまでの心を掴んでいたことを想像しますが、それは光秀の真面目な気配りがそれまでの為政者と違っていたからかも知れません。

そんな中、特に志賀郡でその交流が密になったと思われる本願寺門徒衆(もっとも光秀の居た場所はどちらも本願寺の勢力が強い場所ばかりでした)との関わりがあって、紀伊に退去しさらに滅亡寸前となった本願寺が窮余の助けを求める勢力として明智を頼んだこともあり得るか・・・と思ったのでした。

 

①はかつて次男とぶらついた本福寺門前の図。彼の中学か高校の頃でしょう。②は光徳寺。堅田の源兵衛の讃歌です。

③~⑥湖族の郷史料館にて(場所はこちら)。

 

堅田の地は海運物流商運が栄えて当然に利権争いから各紛争の当事者となりました。特に「堅田大責」は有名です。

以来堅田衆は紛争より交渉というものにその有益性を模索してきたのではないでしょうか。

 

最後の画像が最近テレビ等お目にかかるようなった西教寺(またはこちら)の文書。

戦死した十八名の配下の者の名を記し供養米を西教寺に寄進した際のものですが最後に記された人物に苗字が無く「中間」(またはこちら)とありますね。

この文書はかなり以前から小和田先生も指摘していますが、「分け隔てない」(公平と人情)という光秀の性格を表しているといわれています。 

 

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2020年

1月

14日

妻木崇禅寺は土岐頼重開山 菩提寺

昨日のブログの最期に日本代表オリンピック世代の稀に見る酷評受けるべき試合について触れましたが、本日はその真逆、稀有なる爽快感に満ちました。

それは高校サッカー選手権静岡代表の静岡学園が優勝したことに尽きますが戦前はと言えばどちらの方もまずは青森の勝利は固いと思っていたことでしょう。

 

私が居間のテレビのスイッチを点けようとすると、奥方からうんざりするように「もう2点取られたから・・・」(もうあきらめろ・・・)と。

半分冗談だろうとテレビを点ければ本当に0-2。

それほど差があるものかと見ていれば、点差はたまたま2点あるもののまったく拮抗している試合。だいたい同じ高校生ですので「次の1点」どちらが取ってもそこまで付き合おうと観戦。

前半中に1点返しておけば、「2-0」のジンクスが効いてきますしね。

力が拮抗したチーム同士、プレッシャーあるチームが「2-0」でリードした場合本当に力の差があれば「1-0」の段階よりは断然有利になりますが、その2点目の奪取による「安心」とその「キープしたい」という気持ちは過度に働いて集団の精神状態は「1-0」の時の緊張感とは違う不安に覆われます。

それが早い段階で1点返されたとき。

前回のWカップでもそれを見た覚えがありましたが・・・

 

2点の余裕から「もしかして同点、いやひょっとして逆転されるのでは」という不安で足元も心も揺らいでくるものなのです。

折角の「2点リードが・・・」の心残りも重くあとを引きずります。そして追いついた方といえば「イケるぞ」のイケイケムードとなってその心中縮みきった相手を飲み込めるくらいの勢いに繋がりますね。

 

案の定前半終了前に1点を返して1-2。絶好のお膳立てができたというワケですね。そこから後半の2点、見ている者からすれば絵に描いたような絶妙の逆転劇。

久し振りの爽快、ご機嫌を味あわせていただきました。

もう既に静岡の「サッカー王国」なる美辞は死後となったと感じていた昨今、高校女子の藤枝の優勝といい、ここ静岡は「春から縁起がイイ」。

 

さて、標記妻木の崇禅寺(明智関係ブログ)は土岐頼重の開山です。

その「土岐頼重」こそ通説明智家(土岐明智)の始まりで明智光秀の祖と言われています。

よって大河ドラマではその「土岐」は名門守護家流だけに当然の如く頻発するでしょうね。

 

その崇禅寺本堂と薬師堂の間には土岐家の静謐の空間が仕切られています。ガッチリと木戸が閉められていますがそちらにも桔梗紋が光っていました。

位牌堂から見下ろした際のチラ見でしたが五輪塔が・・・。 

 

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2020年

1月

13日

鰯豊漁は「鰯を喰え」の機 ω-3脂肪酸 

歌舞伎世界では新作の類「鰯売恋曳網」(いわしうりこいのひきあみ)はその主人公の名「猿源氏」と父「海老名なむあみだぶつ」とはなんとも風変りを思いますが、その「猿源氏」のキャラもまた「バカ殿」そのもの。

それもそのはず鰯売りが大名クラス専門の上級遊女に恋をした挙句、殿様に化けて遊郭に潜入するというストーリー。

先日も記しました「松竹梅湯島掛額」と同じく歌舞伎の中でも喜劇の部類。

 

ここで思ったのは「猿」といえばバカ、「鰯」といえば庶民のことでその「鰯売りの猿」となれば上流階級の者からすれば歯牙にもかけない低俗底流の部類ということでしょうね。

 

その「鰯売り」はめでたしめでたしの結末となるのですが、お話の内容は各お調べいただくとして、いわばバカとも言われようとも鰯売りはその策略によって勝利を収めるのです。

 

さて、昨年来近海漁業の不漁の件、耳に入ってきました。

当地ではサクラエビの件切実ですが、秋の名物サンマの漁獲量が激減していまや庶民の味サンマがその希少度から高級魚に変貌しつつあると聞きます。

そしてそのサンマの代わりに獲れまくっているのがイワシだそう。

 

先日も鮮魚売り場にそのイワシの新鮮なものが並んでいましたのでそれを焼いて夕ご飯にしてもらいました。

その日は他にもイワシの水煮缶も付けて堪能しましたが、その意図は「オメガ3(ω-3)脂肪酸を取ろう」というものでした。

ブログでも以前「えごま油」について記しましたが、我が家ではずっとそれについて気にかけていました。

その件、昨晩のNHKの「食の起源―脂」で復習しました。

 

オメガ3脂肪酸摂取の効能は「細胞膜の柔軟性」にあってそれは即血管をしなやかに伸縮させることに繋がります。

またその内部を通る赤血球も柔軟伸縮し、その流れをサラサラにするといいます。

要は「循環」が健やかであるということでいわゆる「動脈硬化」を防ぎ結果「心臓病」「脳梗塞」などの老化を遅らせることができるということ。

特にまた脳の高度な機能に関わるエリアにそのω-3脂肪酸が密集しているそうでその不足が脳機能の維持にも不可欠とのこと。それこそが人類祖先の進化の歴史に関わる重大な成分という説明がありました。

 

ω-3脂肪酸といえば「海の幸」に豊富。

かつて海辺に暮らすことの有益性が進化の過程で示唆されていましたが、それこそそれが「強さ」を養ったのでしょうね。

先日記した山側に住む人の「海の近くの人は荒々しい・・・強そう」の感覚こそそこにあったのかも知れません。

 

ω-3脂肪酸は海のものに多く、ω-6脂肪酸は鳥・豚・牛などいわゆる現代の美食に多く含まれていますがその摂取量の比のベストはω-3脂肪酸1に対してω-6脂肪酸が2といいます。

それが健康のポイントのようですが、今の日本人の食生活はといえばω-3脂肪酸1に対してω-6脂肪酸が何と10だといいます。

 

最近、「肉の摂取は長寿の秘訣」などという甘言にそそのかされつつありましたが、日本人は十分「摂りすぎ」だったわけで。

 

イワシがそれほど獲れるのであればイワシを食さない手はありません。イワシを貧者の食と言って食卓から遠ざけることは自らの首を絞めているのと同じでしょう。

とにかく魚屋へGO!!です。

今年は頭も体もしなやか柔軟に。どこまでイケるか・・・

 

画像は崇禅寺の境内。

石塔たちを見回してみました。

②③はおそらく金剛界五仏(四仏)を表した宝篋印塔が元のスタイルだと思います。ただしバーツ合わせによる創作も推測できます。どちらかの廃寺などから転居してきたかと推察されますが・・・

 

嗚呼それから無駄なサッカー(オリンピックアジア予選シリア戦)の時間でした。監督はクビかもね。

 

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2020年

1月

12日

桔梗紋光る妻木崇禅寺 有難きご縁 揆を一にする 

イラン首都テヘラン上空の悲劇、ウクライナ機が墜落して乗員全員の176人が亡くなった件、「不注意で撃墜してしまった」とイランが発表していました。

色々な角度から見た「証拠」たちから否定はできないとそれまでの立場を180°転換したものでした。

「現実の時の巡りあわせ」というものの恐ろしさを感じたものですが、「やはりそうだったのか・・・」と思ったところでした。

 

イランにとっては悪夢のような結末となりましたが、詮無き事でした。

命を落とさなくてもいい一般の多くの人たちの犠牲を生んでしまったことは言葉も出ないくらいの悲劇ですが、国レベルの過失というもので100%自らの非を認めるという結末(誤射を認める)はあまり見たことが無かったものですからその発表には少々驚きさえ覚えました。

 

世にある航空機事故の中「怪しい」事案(どこかの国の関与)というものは結構ありましたが、まずは有耶無耶の終わり方。

「国家」というものの体裁、メンツについては吐き気がするほど平気で嘘で塗り固めますからね。

まぁ「国」ではありませんが政治家が「賄賂を貰ってない」と断固主張するなどというのはそれに準じた体裁なのでしょうね。

 

ミサイルの誤射をしてしまったイランではありますが、そもそもそのような間違いを起こさせてしまった原因は何かと言えば例のトランプの暴走がきっかけ。

アレがなければ176人の「無駄死には無かった」ということだけは確かなことです。

あの男に引っ掻き回されるのは御免です。いい加減勘弁していただきたい。勿論ゴマを擦って平こらすることも。

 

昨日は米科学者が多く集う「憂慮する科学者同盟」の方の長崎市で催された講演の記事がありました。

その方は、トランプが実戦的小型核兵器の配備を進めていることに対して「日本は被爆経験があるのに米国の核戦略を支持していることは全く理解できない」と。

そういう人がアメリカにいるというのが救いです。

 

さて、衣装が煌びやかすぎの感。

溜息の出る画像の大河ドラマ予告編を見ると「あの映像は・・・」やはりクロサワを思いだします。そういう見どころもありますね。

そして最近になって重ねて耳にする「麒麟」の語。

その麒麟とは、「王が仁のある政治を行うときに現れる」と言いますがその「王」様(よう)の、世界の盟主を振る舞うあの大統領殿ではその麒麟などは絶対に現れないでしょうね。

 

ただわれら真宗門徒には結果として・・・、何か裏にあったのかわかりませんが明智光秀の「その日」(天正十年六月二日)以来「麒麟がきた」思いは少なからずあります。

御本山レベルでは「ある人の死」について幸不幸を問うことはしませんので「本能寺」についてはまず触れることはないでしょうが、もしそれがなかったとしたら、まず我らもまた宗派も無かったのかも知れません。

私の本音としてはいつも記していますように「歓喜踊躍」以外の何物でもありませんね。

たまたまの結果なのか企図なのか「仏敵信長」と「敵は本能寺」は「揆を一にする」(孟子)ことになったわけで・・・。

 

画像は妻木崇禅寺の本堂。

二段構えのように見えるその本堂位牌堂。

上段厨子には秘仏が。最後の画像が本堂隣の堂。観音堂?。

 

格天井の絵は地元ではかなり有名。

テレビでお馴染みの「あの先生」のお祖父さんの作とのこと。

たまたまのご縁あってのお参りでした。

ありがとうございます。

 

 

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2020年

1月

11日

相良海老は再撮影となりました 相良史料館にて

先日、地元の方との雑談で「〇〇の人はキツイ」(〇〇は地区名)の談。

面白そうなので「へ~ぇ」っとその意味について食い下がってその意味を探りました。

その方は年配の女性で、とても気さくな方。よく私も色々とご指導をいただいています。

 

その方の住まいは相良でも山間部で半世紀以上はそちらにて生活している方ですが、この狭い町、相良にあってそのエリアによってその人たちの性質について相違があるというものです。

まぁ経験値から得た感想なのでしょう。

そちら出身の方との関わりが多く重なってそのイメージが固まったかそれともたまたまあまりにも強烈な性質の人だったのかは知りませんがその方が断言する「〇〇の人はキツイ」にはインパクトがありました。

 

勿論アホな私はニヤニヤしながら「じゃあ、波津は? 相良は? 」と立て続けに聞いてその方を黙らしてしまいました。

その方が言うには昔から海岸端に居て、漁に出る人が多くて荒っぽいから・・・と仰っていました。すべての言葉が強く喧嘩腰と制圧される感じとのこと。

そういえば、私のいた小田原でも特に海岸近くの人たちは言葉が汚かったような。他所から来た人だったら驚いてしまうかも。

 

 

まぁ「ところ変われば」と言って住む場所によって人の気質というものが微妙に変わるというのはわかりますが、それは尾張、三河、遠江・・・のようにもう少し広範囲のエリアですからね。

その地には檀家さんは一件もなくイメージは沸いてきませんが何しろ驚いて、「〇〇の人」の見方が少し変わったような。

 

しかしその手の発想というのは実は旧態依然の差別意識に繋がるやも知れないこと。

「○○の人は・・・である」の何気ない会話は特に子供たちには禁物です。笑って流せられない無邪気の中の悪意というものを醸し出しかねません。

 

その方の話の中で、それは特に年配者の口から出てきますが「〇〇の人たちは顔が似ている」なる言もありました(上記〇〇とは違います)。

これは差別が蔓延する時代(それは戦後かなりたっても残っていました)地区の外との婚姻関係についても差別がずっと残りました。よって婚姻が長い間同族間で繰り返されていた歴史があったことを仰っているのでしょう。

 

たしか妹の結婚の際、夫の両親は「念のため」と調査をしたといいます。その「念のため」というのがそれで、ひょっとすると狭い日本にあっても今も尚残っているかも知れません。

日本史そして地区の歴史など紐解いていると否が応でもそのあたりの色々を知りうるわけですが、それについては子供には伝えず先入観は植え付けないよう心掛けています。

こればかりは消し去らなければならない負の歴史ですね。

 

さて、先日史跡研究会の小澤会長から史料館に来るよう連絡がありました。先日の激しい雨の中、躊躇しましたが暇でしたので史料館に向かいました。

すると「相良海老」に添付する画像を全ページ差し替えるということでその撮影が行われていました。

 

本は書き下し文と原文を照合させながらページを捲るタイプになりますが、「今イチ解像度が悪い」との指摘があったそう。

カメラマンに聞いたところでは、そもそも書物を撮影するようなカメラではなく「本来は動体が得意」のハイエンドカメラ。

本体とレンズで100万円を超えるような代物といいます。

 

五部ある「相良海老」を全頁撮影するというのはラクではありませんね。二人がかりの気の抜けない仕事です。

ページ捲り役は特に慎重。

 

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2020年

1月

10日

過剰適応による衝動殺人 本能寺 晴れ渡って駿府城

NHKのBS「偉人たちの健康診断 明智光秀 本能寺の変“敵は腸にあり!”」を視聴。

特に犯罪心理学の切り口から光秀の深夜漆黒の闇の行軍の中、醸成しつつあった信長への「怒り」の爆発、沓掛の二俣の選択について面白く解説していました。

ちなみに沓掛とは亀山から出立して中国と京都本能寺方面への分かれ道(場所はこちら)。

同夜は新月で夜空に月はなかったようです。

また多聞院日記の御ツマ木件も指摘されていました。

 

何より光秀は「本能寺」の6年前に「ふうり」なる腸の感染症の病で数カ月寝込んでいて、当時の医療最先端にいた曲直瀬道三の治療を受けていたといいます。

長患いの快癒後に妻を亡くしたうえ、その病から発展したという「レビー小体型認知症」(推測)によって「本能寺」が惹起されたというものでした。

 

光秀の大河ドラマ放映を前にして新説が次から次に出ていますが、今俄かに言い出されているのが「光秀若き頃は医者だった」というものですね。

論拠は「針薬方」なる文書で、熊本で公開されるようです。

熊本藩細川家の医者米田貞能家に伝わる医学書で6年前に発見されたといいます。

 

その件、今回の大河ドラマで台詞の中に差し込めればカッコいいですね。

 

さて、昨日は少々の風はありましたが歩いていてジャンバーがひどく邪魔と感じるくらいの暖かさになりました。

年末から新年にかけて色々なことが重なってどちらにも動けていませんでしたので気分転換に奥方と駿府へ。

数日前に天正期の天守台の並びに小天守の天守台が見つかったという報道がありましたのでその位置だけでも確認したかったのです。

 

案の定現場は立ち入り禁止になっていて目視できませんでしたし、まだその手の配布史料も出来上がっているワケもなくただの自己満足でした。

岐阜城金華山でも発掘調査が進んで、「信長の手による天守閣の天守台石垣が出た」との報がありましたが、そちらはまだ確証はないようです。

 

各発掘調査の進捗と文書の発見から歴史の解釈が次々と変わり、見ている方も頭の切り替えを早くしないとあっという間に置いて行かれそう。

 

画像①②は東海道安倍川の橋上から。これだけクリアな富士山は珍しいことです。

画像⑦右側の2本木が生えている所の下あたりから石垣が出てきています。

家康お手植えのみかんの木の間に通路がありますがその向かい側の発掘現場用のフェンスを拡大していく必要があるでしょうね。

 

しかしあれだけ広大な発掘現場を「どうぞ・・・」という感じに気楽に散策できるように公開するというのは稀有なことなのでは・・・。駿府に立ち寄るのが楽しみです。

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2020年

1月

09日

大晦日の危機 追記 春も近い

日本の総理殿は急遽中東訪問の取りやめを考えているそう。

そこは違うでしょうよ。

御身大切からのご判断の様をお見受けしますがこういう世界的危機にこそ紛争国アメリカとイランの間に立って冷静を促すよう動き回らなくては存在の意味が無いのでは。

 

「桜」に自身お友達らしい詐欺師を呼んだこと、博打場開設に子飼いの衆が賄賂を貰っていたことなど、次々に良からぬ事案が吹きあがっている現状、それらを晴らせるかも知れない「チャンス」・・・。勿体ない。

タイミングとしては双方「このあたりで」と手を打ちたいというのが本音であって、直接は役に立たなくても、アピール度は高いものがありますからね。

 

日本という国は「火消し役」「仲裁」にうってつけの立場にいる国です。両国とも関りが深いですからね。

そういった義務と責任を放棄して「危ないから」と引っ込んでいるのはね・・・

それでいて自衛隊の皆さんだけには「行ってこい」の状況。

まるで自衛隊は「イヌころ?」の様にも感じます。

 

さて、1月としては珍しい土砂降り、しかし温かい。

発達した南岸低気圧の通過で風もビュービュー・・・もしかして春一番・・・のワケは無いか・・・一旦昼過ぎは晴れ間が覗きましたが夜間は嵐の如くの風再びビュービュー。

 

冬場の乾燥と低温は血管に悪いですからね。温暖化の論は別として早いところ温かい春にチェンジして欲しい。

 

先日もご近所の顔見知りの方の入浴中の急変という事案がありました。特にその「風呂場とトイレ」での異変についてはこの地で多く聞きますがきっとこれは全国的にも頻発しているのでしょうね。

特に飲酒してからの入浴はタブーですね。しかし飲酒は「重ねて」良くないのであって酒を飲まない人でも風呂場で倒れる人は多いです。

ここで運・不運。病状を発する場所もその生死に関わります。

脱衣場に風呂の洗い場ならまだしも浴槽であればそのまま溺死ですからね。ここ相良でも浴槽内での不慮はよく耳にしますが発見が遅れるとまた悲惨です。

 

かつて父は冬の風呂の洗い場で心筋梗塞を起こして倒れてから奇跡的復活がありましたが、その際は母が気が付いて何とか対応していました。父のその後、往生に繋がる病状は心発性の脳梗塞でした・・・

こういう場合、もし家族に気づかれず、発見が遅れたりしたらまずアウトでしょう。独り住まいの方でしたら危険度が増します。

ちなみに父のそのとき母は「重たくてどうにもならなかった」と裸のまま「寒かろう・・・」と柄杓で風呂の湯をかけて救護を待ったとのこと。

海岸に打ち上げられた鯨を思い出しますが、それを聞いている私は冬の「風呂場」に入るたびに「まさか・・・」と恐怖心にかられています。そんな図を想像するとハッキリ言って高所に上がっての作業よりも風呂に入る際の覚悟の方が余程必要です。

 

さて、先の大晦日の危険極まりなかったあの件でしたが、先日の晴れた日に今一度鐘撞堂の上のケヤキの枝を見上げてみると・・・まだ折れていない朽木の太い枝が・・・この時期は葉を落としていますので凝視しないと見落とします。

何れのタイミングかで落下することがわかっていますので今年の大晦日の用意をするまでもなく早速梯子を持ち出して切り落とすことにしました。

 

あの重量からいってもしものことがあったら間違いなく重大事案になりうるリスクでした。

これは不慮の事故ということで、民事では保険で対応できるようになっています。ただし管理責任というものがありますので私の法的責任は免れないでしょう。特にその件「概ね知っていました」から。

そして枝が折れたことによる事故は、そこのところ微妙ではありますが、要はお寺が「紛争」の当事者になるのは避けなくてはなりませんからね。

そういった悲劇を起こさないために「念には念を」のスタンスを維持しなくてはならないと再再認識。

 

①は梵鐘の下からの図。

②に朽ちた枝からキノコ様のものが生えているのがわかります。③ロープで吊りながらの作業でしたがコレが落ちたとしたら・・・

④は昨年も一番早く(1月11日)咲いた梅。やはり開花は早いでしょう。

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2020年

1月

08日

一所懸命史観は一所不住に 背井離郷 福知山城の井

若さは素晴らしい。

それは大いに結構なことで私もそのパワーとバイタリティにはもう既に白幡をあげる齢になりました。

しかし、しばしば経験不足から来る若者の失敗談はよく耳にします。

要は経験不足というヤツですが、その成長の未熟を感じずにはいられませんね。身近な若者といえば息子のことでその頻度は少なくなりましたが年に何度かはまったくもってがっかりさせられることがありますね。

 

要は「知らない」ということで仏教的にはそれは「罪になりうる」イケないことではありますが、一般的に「しょうがないねぇ」で済む話がまたぞろ。命あっての結果オーライならいいのですが。

しかし「知らなかったでは済まない」といった場面も多々ありますね。

それが「命に関わること」全般です。

 

ほんの一例ですが、たとえば可燃性物質を空気中に放出して引火爆発させて惨事を起こすことなどよくあります。

若者が車内でシンナー遊びをして・・・、防湿スプレーを撒いて・・・などなどですが、イイ歳した大人で消臭剤を撒いて処分しようとした挙句引火爆発させて周辺地域を大混乱に陥れたことなどつい最近の事案でした。

また京都での大量殺傷行為となったガソリン放火事案など、当初は自身の大ヤケドにあれほどの大惨事までは想定していなかったでしょう。

 

これは可燃性物質と空気が(密閉空間など)好条件でミックスされたところに何かの引火があった場合容易に爆発するということで(それは小学校の理科で教わったことでもありますが)、その現象がよくあることを理解していなかった(知らなかった)ということに他なりません。

 

知っているか知らなかったで、痛い思いをするかしないか(死ぬか生きるか)に繋がってしまうのですから「知らなかった」では済まない「残念な事案」が多々ありますね。

 

だから息子には外に出てよりたくさんの知識を得て欲しいと思うわけです。それがたくさんの経験を重ねるということ。

できれば坊さんだけではなく、色々な職種でそれを得て欲しいものなのですがそれをやっていくことは結局私のような半端者ができあがりそうで親としては半ば怖いものがあります。

 

それを親バカとでも言うのでしょうが、やはり獅子の如くの振る舞う(崖から突き落とす)ことがホントはあるべき姿なのでしょうね。とにかく私は「井蛙」であってはイケないと思っていますが・・・。

 

「井」と言えば当家の名のりの一字ですが、井戸端会議とも言うように「井」はムラの生活の中心になる場所。

清らかな水は日々生活の基本であり故郷の味です。

そこから離れての生活などは考えられませんし、その井戸というもの自体掘削に多大な労力がかかっての最大の果実、水が得られる権利があるわけです。

他所で水利を得ることの困難を考えれば、その井にすがって生きた方が遥かに楽でしょう。私的に川から水を得る行為が対立を生む時代がありました。

 

「背井離郷」(はいせいりきょう)という言葉がありますが、これは「故郷、慣れ親しんだ水の味を捨てて新地に向かうこと」を言味します。

一つの決断ですが、これから味わう苦労を経験知識として身に着けて一回り大きくなって故郷に帰って来られれば・・・というポジティブな離反を感じます。もっとも離散・逃散しなくてはいけない場合もあったでしょうが。

昨日も記しました「外に出ろ」と同等でしょう。

 

世間大好きな言葉「いっしょ(う)うけんめい」について拙ブログでは度々その「懸命」とは「一生」ではなくて「一所」が歴史的に見て「正」である旨記していますが(現在はどちらも正解のようです)それは一言で土地というものを家と結びつけて死守伝承していくという至上命題のもと命を繋いできた歴史があるからです。

しかしその言葉とは相反する「一所不住」という言葉もありました。

 

その言葉の発祥は浄土教系の先達の生き様からですね。

一所懸命が煩悩のままに自由奔放に生きることを言うのに反してではありますが、初期浄土教から生まれたその伝道とは一所の井戸の近くに居たままでは限界があったからですね。

要は遊行僧で空也や一遍の聖(ひじり)たちがそうでした。

 

「厭離穢土」の思想はその「井戸」(現実世界の生活)も十分汚れていて現実の「門を出なくては始まらない」というものですからそういった日常から離れることが第一義であるという思考が生まれその「一所不住」(捨てる)に至ったのでしょうね。

 

ちなみに真宗の坊さんは「同朋」「凡夫」の集団の中から「自宅を道場」にしようと提供者が出現し、その「自宅」に「講」を開いたというのが寺の始まり。

それを主催した者が坊さんとなって代々その家を継ぐものが坊主として寺を引き継いだという形態だったことはどちらかブログで記しました。

 

今の大概の人たちはといえば「一所不住」で故郷の水を捨て、都会で「一所懸命」、臭い水を飲む・・・そんな状況でしょうか。

息子には「一所懸命」ほどほどでの「一所不住」。

うまいこと色々な経験を積んで帰ってきて欲しいものです。

取り敢えず「外に出る」ことはできましたので。

 

画像は福知山城「豊磐井」井戸の深さ50mで海面下7mといいます。この高さで水深37m、井戸掘りは朽木の時代だったそうですがどれだけの苦労によって「水」を近くに求めたのでしょう。

それだけ「井戸」は命に関わる生活に不可欠なものでした。

 

最後の画像は同じく天守の下にある銅門番所。

 

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2020年

1月

07日

いよいよ外に向かいたい「閦」福知山城釣鐘門 狭間

昨日はご門徒さまご自宅でさらっと正信偈。

今年初めてのお勤めのご依頼でした。

その後の雑談で、今年は「家族一同風邪をひいての寝正月」と聞かされました。

そういえば皆さん鼻声のうえ咳きこんでいたような・・・。

一瞬硬直させられましたが「インフルでなくて良かった・・・」などとそれを確認し、平静を装って早々に退散させていただきました。

何せ私は風邪で寝込んでいる間はありません。

風邪そのものの苦しみを味わいたくないのは当然ですがこれからピンピン元気にしていないと仕事にも関わります。

法事をパスするというのはやはり意識として大問題ですが今年のテーマとして腹積もりしている難題も多く抱えています。

 

よって帰宅後は外出後の風邪予防の作法を念入りに行ってから、緑茶を浴びるように飲みました。がぶがぶです。

勿論、急須で入れたお茶で、ペットボトル茶の邪道ではありませんよ。ただただ新鮮で濃い緑茶が搾られる茶カテキンの力を借りようというものです。

そのために昼間はトイレに行く回数がひどく増えました。

 

ベッドボトルでない急須から出す緑茶ほど健康にいいものはないのですが(科学的根拠アリ)、世の中の流れというものはその逆です。

緑茶という強力かつ身近な健康飲料を捨て置く手はないのにまったく勿体ないことです。

「知らなかった」では後の祭りでしょうね。子孫にも伝えて行かなくてはならないのに・・・

 

さて、漢字の「門構え」について。

上記の中だけでもその「門」で構成される文字が結構に出てきました。

「ご門徒、聞かされ、関わる、間、問題・・」で普通に身近な「門」に関わる文字たちでした。

 

「門」とはいわば一つの結界ですが私はその中に居ることを否定し「外に出る」ことを主に皆さんに勧めていることは拙ブログでも何度か記しています。

それは「家」とは「癒え」を得る場所ではありますが、そちらに居心地の良さを求め続け、長きに籠っていたりすれば「病気になる」ということです。

 

たとえば私でいえば「家(寺)に居るから住職」、よって「そこに居ろ」というのは病気になれというのと同じです。

この「病気になる」とは・・・「健康を保ち憎い」ということですがこれは私が多数の方たちの「おみおくり」をしていてこれまで感じたことです。

それは確定的であって嘘や過大なものではありません。

よってもっとキツイ言葉で言えば「家に居れば死ぬ」です。