2019年

7月

17日

こんにゃくのさしみもすこし梅の花 墓地侵奪

「聞く」「人の話に耳を傾ける」ことの大切さは坊さんとしてだけでなく人としても必須の課題です。その件常々ブログでも記していますが・・・

他人さんを誹謗中傷するなどの談も耳にすることがありますがそんな時は笑って「まぁまぁ・・・」などと怒りを抑えていただくよう勧める余裕の私がいたりします。

 

しかし滅多にないことではありますが、私自身への御注進と事の対処について問われた場合「まぁまぁ・・・」などと笑っていられない私があります。

他者から見れば例の「修業が足りない」という一言が出るところでしょう。

かつては隣家より寺の土地建物がはみ出しているという指摘に役場に駆け込んで資料を集めて反論したことがありましたが今度は檀家さんからの一件です。

まぁその修行多寡についてはともかくとして先日私が頂戴したその主張に関して、ついついあまりに腹が立って「よろしかったらお引き取りくださって結構・・・」などと言い放ってしまったのでした。

要はお墓を引き払い「離檀してかまわない」ということですね。コレは私の最後通牒的無慈悲無碍とも思える言葉ですが、それが解法であるとの判断でした。

因果応報、そのタネを蒔いたのは先方様ですから。

 

父親に似ている自身を思い「血は争えない」などとあとから苦笑い。

当然に私の性格的なものがありますが、一線を越えたと思われる弁に聞くに堪えられなくなると語気も強くキレがちになってしまいます。自己分析すれば特にそういった場合、異常なほどに強い口調でまくしたてがちになりますので井戸端でならした風の皆さんではドン引きになるでしょうね。良くないこととわかっていながらもその線を超えると制御不能になってしまいます。

 

そもそもアカの他人様ではなく長いお付き合いをしていただいている檀家さんですから当初は控えていましたが・・・。

我ながら「しょうもないこと」とは思いますがそれをため込んでいったらストレスにもなりますし煩雑な仕事も増えるということで適宜「バルブの解放」を生理的に行うといったところでしょうね。

何事もコントロールも必要なのですが、やはりこの件、要は「虫の居所」だったのかも知れません。相手様もさぞかし腹が立ったでしょうね。

 

その会話は「売り言葉に買い言葉」であるのでしょうが、「寅さん」で言ったら「それを言ったらおしめぇよ」の語に強圧的を感じて私の言葉は一線を越えてしまいました。

 

その方の主張は「境内墓地境界線」のクレームでした。

先般新しく改められた墓石のお隣さんであるその方からその墓地が「はみ出している」とのご主張です。

拙寺ではかつてその手の事案はありませんでしたが全国的によく聞く話ではありますね。

 

私は墓石建碑に関しては施主と石屋さんの双方におまかせしていて口を出すとすれば墓碑の文字の件程度。

よって出来上がりの状況について関知していませんが、「はみ出している」(領地を侵している)ということと管理義務を全うしていないという御指摘ですので、「それが事実なら私の責任」と申しあげ「何か代替案を思考」したい旨即座に提案しました。

完成仕上がってしまった墓石ですからね。

完成する数週間前から工事が始まっていましたので当初に指摘が上がらなかったことも不可解でしたが。

 

「事実なら」の言はその石屋さんもプロフェッショナルですのでその手のミスはやらかさないだろうとの判断です。

やはりその後、施工した石屋さんに問い合わせたところ「境界線センターを意識してギリギリの大きさに仕上げた」とのこと。これまではその1/4くらいの小さな石塔が立っていて墓地敷地に空間があったため今度の「ギリギリ」によって境界を圧迫されているように感じるのだろうとのことでした。

ただしもう一方の側の境界は確かにそちらより幅がありました。

 

その方の主張を法律的に記せば

①不動産侵奪

②契約書の不備による職務怠慢

そして感情論としては

③さんざん寺を面倒見て来たのに酷い仕打ち

でしょうか。

 

ということでその件、寺院境内の墓地建碑についての権利関係について「不動産、財産や所有権に非ず」ということ、あくまでも「貸与」という形態であることを説明しました。

そこは一般社会には受け入れがたいところがあるかも知れません。依然世間様の認識は薄いようです。

またその墓地に関しては旧形体の墓域で明確な敷地面積の取り決めや交付書面はない場所です。

 

約200年も前の墓碑で当然ながらその書付などもありません。

当時そのような慣例はなかったでしょうしその辺りはかなり適当でいい加減な部分で現在のように「キッチリ」させるということに主眼がなかった時代です。

尚、その「適当」も「いい加減」も「良き方」に解釈していただくものです。

 

よってその主張の「根拠はない」のであって政治屋さん風の物言いをすれば「ご理解いただく」ですね。

しかしながら、その際は石屋さんの主張を聞く以前のことでしたから、何か代替案を・・・と口走ったのではありますが、その方の主張はあくまでも「一旦壊して現状回復して欲しい」の一本やりでした。

それを聞いて私の態度は一変しあの放言をしたのでした。

 

その新しい墓碑を壊して更地に戻しまた作りなおすということの経費の問題もありますが、その建碑に大いに喜んでいた多くの関係者の顔が思い浮かんできて、「それはできない」と反論したのでした。「無駄なことを・・・」のため息です。

 

新造墓碑の施主、石屋さんに関しては責任はナシ、それを許諾した寺の私に責任がありますが、その「壊せ!」の談はまさに横暴を極めるを感じてしまいつい余計な事(離檀OK、OK)を口走っていました。

「その言はお寺に喧嘩を売っているのと同様。それならばいつでもお引き取りください」です。

あのトランプの有様にも似てなんともお粗末なことではありました。老いぼれた感で我ながら滑稽。

 

しかしどうしても私の判定に納得いただけないようでした。 

この件、世話人会にかけてその判断を委ねることも考えていましたが(ご当人と石屋さんと私のそれぞれの主張を聞いていただいて世話人と総代でとるべき道を決めてもらうのが一番と・・・)

昨夕になってその話を聞いた新墓石施主側から石屋さんに「場所を改める方向を検討している」旨連絡があったとのこと。

 

しかしながらそれに関しては私がNGを。

それは新しい墓地に取り壊したお墓を建て直すことになりますからいわゆる「おカネでの解決」です。

かといって心に痛みとわだかまりは残りますね。

それがすべてを丸く収めるということになるわけでもなく。

 

またそれを私が見過ごしていたら管理者たる住職の存在意義がなくなります。

一檀信徒があたかも墓地管理者の如くに振る舞ってありもしない権利に基づいてお隣の墓地をどうこう差配する件、放置は有り得ませんね。

次の横暴に繋がりかねませんしその風潮を境内に持ち込まれるのはカンベンしていただきたいもの。

 

ということで今回は先回りして総代にこの事案についてご報告を。現場の確認をしていただき詳細の説明をしました。

「世話人会などかけずに穏便にやりましょう」とのアドバイスでした。離檀の背中を押すなど「檀家さん1件減っちゃうのでダメでしょ・・・」の言葉も。

それはそうですが私の方は「これもまたご縁ということで・・・!」でした。

「ややこしいこと、面倒は御免」は私のモットーですが何より「私の墓場を引っ掻き回すな」ですね。

ご先祖様が何より笑ってらぁ・・・

 

総代からの提案は「再度説明」しそれでもわからなかったら今一度考えましょうと。さすがオトナです。暴走しそうな私を抑えてくれています。

 

いつまでたってもガキで「豆腐の角に頭をぶつけて・・・」レベルのつまらない事を記しましたが人間の心の在り方としては豆腐よりもコンニャクでしょう(唐突・・・)。

のらりくらりブリブリグニャグニャしていながら腰があって食感はヨシ。食べてもノンカロリー。当たり障りナシ。

栄養として「得るものも無し」ではありますが、味付けと調理のバリエーションは豊富です。

 

芭蕉はその蒟蒻を好んで食べたといいます。伊賀の名物なのでしょうか。

時に親しかった故人への供物として出しその後食したと。

やはり蒟蒻でお馴染みの永源寺境内に表記芭蕉の碑がありました。

元の句には(なきひと)「去来子へ遣す」の詞が添えられているようです。

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2019年

7月

16日

菊水鉾町の発祥 菊水井戸 武野紹鴎 大黒庵址

「あと一週間もすれば・・・」など、とんだお笑い種でした。

梅雨明けの期待でしたが、日々出る週間予報は毎度毎度1週間後も晴れマークはなし。

青空が見られるのはまだまだ先の様です。

 

昨日は14日の法要の朝に発見した庫裏の雨漏箇所の確認のために屋根に上がる事ばかり考えていました。雨がやんだら・・・ということです。

 

雨漏り箇所は庫裏西側のかつての増設時のジョイント部分を推測しました。午後から雨がやんだために梯子をかけて現場目視。

すると落葉が溜まって、排水を邪魔している様子、そしてジョイント部分の壁面パネルと排水用のトタンの間に微妙に隙間があるようでした。

よって掃除してからシリコンの充填をし数日様子を見ることに。ボロ家でため息が出ます。

 

さて、京都市内は祇園祭の真っ最中のよう。

お祭り嫌いの私に似て息子はその期間、京都の祭り中心部には寄り付かなかったようですが、当時話のネタに一度くらいなら・・・と思ったものです。その辺の町内の祭りとは趣が違いますからね。

とは言いながらも私は人混みは真っ平御免の躰ですのでそれを息子に行ってこいというのは酷なことでした。

 

昨日は蛤御門の変について少々触れました。

あの時に放たれた火をきっかけとした京都中心部の火災(どんどん焼け)によって焼け出された人々の苦難を聞きますが、実は祇園祭に曳きまわされる山鉾も多数焼失してしまい、長い間祭りに参加できなかった時期があったのでした。

その後ぽつりぽつりと再建が進んで以前の如くの顔ぶれとはなったものの、その事件以降消えてしまった鉾もあるそうです。

蛤御門の変による大迷惑はそういう所にも残っていたのでした。

 

やはり一旦焼失し、再建された鉾に「菊水鉾」があります。

その菊水鉾は京都の地名にもありますが、元はと言えば菊水の井戸から(場所はこちら)。北から南への一方通行、室町通りです。

 

そちら菊水井戸には茶人武野紹鴎の屋敷があっと言われます。

それ以前は「夷(えびす)の社」の井ということで武野紹鴎はその井水を所望してこちらの住処に「大黒庵」なる名をつけています。

これは「感動的」と思ったのはその「菊水」と彫られた石がマンション建設現場から発掘されたということですね。

 

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2019年

7月

15日

こちらにも百々橋台座が 室町小学校

おかげさまで昨日の盂蘭盆会法要(日中と日没)は無事終了しました。お天気ニュースの「最悪の一日」になるや、の予報に覚悟を決めていた割には大したことなく、法要開式の10時には傘は不要になっていました。

夜間も雨は無くまったくOKの一言。

有難い・・・有難い・・・の連発でした。

 

盂蘭盆会法要は元号が変わってお初ということで、戦没者追悼法要を兼ねました。よって頭をひねって短いながらの表白を考え冒頭拝読し「至心懴悔」を。

 

法話は「二月二十二日講」なる法要の存在を解説し乗如さんの件のいろいろ。

乗如さんのお軸も引っ張り出して掛け、あの「火だし本願寺」と揶揄される四回の大火の最初の天明の大火とそれ以降の苦難を。

ちなみに東本願寺四回目の幕末の火事が「蛤御門の変」で長州軍に火をかけられたということも触れました。

 

2回の法座はいつもの調子とは違うために疲労度はアップしますが、息子からのメールでは「昨日も三回、今日も三回」と調子よく法要をこなしているようでこの件も有難い有難い・・・となりました。

 

婦人部の方からの差し入れのカボチャ16個はお供物として仏前にお供え、法要後に「あみだくじ」で配布させていただきました。来年もよろしくおねがいしま~す。

 

さて、京都市内を南北に走る主要道路、堀川通と烏丸通を東西に結ぶ寺之内通の堀川通側に一般に百々橋遺蹟として知られる遺構がありました。その一方通行の道の烏丸通に出る手前に室町小学校があります(場所はこちら)。

その名の通り漠然とこの辺りが「室町幕府」花の御所というイメージがある場所ですね。

 

昨日は百々橋遺構について記しましたがこの小学校の敷地内にも百々橋の橋脚台座がありました。

 

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2019年

7月

14日

東陣 小川児童公園と百々橋ちょい昔と今

イージス・アショアが「日本国民を守るため」という言を聞いて「嘘ばっかり」と思うのは私だけでしょうか。

大枚はたいてあの無用の長物・・・戦争が無い世界を望むのであればその実現の為に動くのが政治たるものであって、放たれたミサイルを撃ち落とすための武器を導入するというのはどうしても首を傾げます・・・を設置するのはトランプを黙らせるための手段でしょう。

要は武器商人の押し売りの口上に負けた風にしかみえませんね。

 

アメリカの本音を思う人といえば大平洋上のアメリカ軍基地、ハワイ諸島やアメリカ本土を守るための「第一ゲート」となるとの解釈で歓迎ムードがあるよう。

やはりトランプの本音はアメリカ本土を日本に守らせるというところにあるよう。

アメリカを守るものを日本を守ると子供だましの説得をしてアメリカ産の高額商品を買わせるなんて・・・とんだ厚顔ぼったくり。

そもそも日本を狙った落下加速が増したミサイルを撃ち落とせるものかその能力にも疑問がありますね。

 

何より、ホントに戦争をするのでしたらお相手さんとしては稼働中の日本海側の原発に魚雷でも打ち込んだ方が確実に効果が上がりそうですし、まずはイージス・アショアの迎撃システムそのものを無効化するためにその破壊を目して攻撃に及ぶはずですね。あんなものが地元にあれば「その時」はひどいとばっちりを喰らいそうで・・・

永田町には戦争好きが揃っているクセにそんなことへの発想が及ばないワケがありませんね。

 

まして「日本国民を守るため」ではなく「日本の車を買ってもらうために」、要は「日本の自動車産業を守るため」と言った方が一部の人への説得力があるような。

 

そもそもトランプのその言いなり大金注入の結果、ロシアとの北方領土交渉がチャラになりかけているのですがね。それも計算づくです。

 

さて、昨晩のブラタモリは京都西陣でしたので楽しく視聴させていただきました。

息子がかつて西陣に住んでいたためその辺りの様子は手に取るようにわかりますが、面白がって息子にlineで問い合わせれば「見てる」と。

 

14日の盂蘭盆会法要は雨を覚悟していますが、番組内で応仁の乱を解説する際の「小川児童公園」より「船岡山」までかなりの雨の中。

出演者はじめスタッフまで雨に文句を言うでもなし(当たり前か・・・)、しかし「さすがプロ」スケジュールをたんたんとこなさなくてはなりませんからね。

船岡山などかなりの水たまりができていました。

 

もっとも私の場合は皆様方をその日に限って集めるという後ろめたさがその焦燥感の主たるものです。

 

以前息子の住まう西陣地区の一条戻り橋周辺はブログにて記していますが、百々橋遺構周辺の状況は既に息子が京都に居つきはじめたころから一変していますね。

史跡整備が進んだという事です。

そういえば竹林公園には発掘物から再現された百々橋がありました。

 

私が最初にあの辺りをブラついた頃はその細川方東陣推定地といわれる小川児童公園には看板の一つもありませんでしたからね。

 

基本は徒歩ブラ歩き、しっかり現場を紹介する看板の整備はどちらに於いても必要です。

日本の歴史だからといって海外の皆さんに紹介しない手はありません。できれば外国語での紹介も必要ですね。

以下2016年と改修後2017年7月に見た百々橋の様子。

堀川寺之内通、宝鏡寺のお隣ということになります(場所はこちら)。

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2019年

7月

13日

風情はこちら 非公開 井伊直興墓所 永源寺参道

二つの耳を与えられた道理に応えるべく境内で佇みます。

何の目的をもってのことでもなくただ気づいた事々について、なんとなく午前をすごしました。

昼からは陽の光も差して、気温も上昇。

牧之原市から発令された熱中症注意報がスマホに飛び込んでくるくらいでした。

夜間はトレーナーを引っ張り出すほどの気温でしたからその温度差にはついていけない人が多いかも知れません。

奥方は「喉をヤラれた」と言っていました。

 

しかしどうやらあと1週間も我慢すればこの憎らしい梅雨は晴れるよう。一時は先が見えない不安がありましたからホッとしています。

どのような夏になるかはまさに「明けて」みなくてはわかりませんがクマゼミたちの大合唱がこれほどまで待ち遠しいと思ったことはありません。

 

「耳」に関してはとにかくやはり最初は「口」から。これだけはこちらから切り出さないとダメですね。

昨日は嫁に出して亡くなった方の実家お母さんと娘(故人の妹?)さんが墓参に来られているのを見かけて、14日の盂蘭盆会法要への参拝を勧めました。しかしあっさりお断りされてしまいました。

すると先般その娘さんのご主人が亡くなられて(50代前半)その初盆と重なっているとのこと。

辛い話を口にさせてしまったこととあまりにも気安いお誘いの仕方(「欣笑」の真似事)をした無礼を省みて、思わず頭を下げてしまいました。

そういった言い出しにくい件を真摯に伝えてくれたことへの感謝に応えるべくまた、寺に居る者として次に何か別の対応を試行できる機会をいただいたということで、一声掛ける事は肝要と確認しました。

この件、小学生が教えてくれますね。

オトナになって齢を重ねるとともにその件忘れてしまうのですが。

 

さて、先日は愛知川右岸の段丘上にある松雲寺の彦根藩四代藩主井伊直興の墓について記しました。

その際永源寺にも同様に墓があることも。

 

臨済宗永源寺派の大本山、永源寺は私のお得意、鈴鹿越えの八風街道の途中にあるお寺で(場所はこちら)、一時期は赤い蒟蒻にハマったことがあってそれを買いに寄り道をしたものです。

それは高速道の近隣S.A.のどこかしらでも見かけますが・・・

大雨の後と厳冬期を避ければあの道はお奨め。鈴鹿の雄大に触れることができます。

一部狭小部分も残ってはいますが、以前より大分走りやすくなっています。石榑トンネルの長さに感動しますね。

 

永源寺の参道の左側山側には注意して歩くと石仏たちのお出迎えがあることに気づきます。そしてその先の深い緑の中に「井伊家の霊廟」があります。

この井伊直興とその奥方たちの墓ですが、直興に限ってこちら永源寺と永源寺つながりで松雲寺にその墓が建てられています。

 

永源寺の廟内の立ち入りは制限されていますので、覗ける範囲での撮影でした。

 

戒名は「長壽院正四位上前羽林中郎將覺翁知性大居士」とやはり強烈に「長い」を感じます。

 

あの時は門の修理中でした。毎度古い画像です。

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2019年

7月

12日

源信開基といわれる蓮光院の石仏 石塔残欠

今年の1月1日現在の人口も案の定減少したとのこと。

10年連続のマイナスで前年からは43万3239人減ったそう。

丁度参議院選挙がありますが、お偉い風のあの人たちは自分の手柄話と優れたいろいろについて調子よい軽口で語っています。

「そろそろ気づけよ」と思うところ。

惚けているのか今さえよければイイという発想なのか、どこでその減少現象をストップさせるというのでしょうか。

 

当牧之原市の人口が4.5万弱といいますが今年は市の人口の10倍近くが消滅したということですからね。

「それでいいの?」対策なしの無能。

外国人の数は確実に増加しているようですが・・・

 

雨ばかりですね。

江州の寺院散策はまぁどちらに赴いたとしてもハズレはないと思います。まぁそれぞれの興味の問題ですが・・・、

しかしこれほど晴れ間の無い夏ともなれば外仕事はほとんどできずに山積。

普段なら境内の雑用に飽きた頃にどちらかフラつく機会があれば有難いとわくわくしながらすごしている頃ですが、今年はまったくツイていません。人生の大事な時期を無駄にした思いです。

日照時間が平年の33%といいますから、健康度、ヤル気度も1/3ですね。

 

昨日は昼過ぎの降雨予想がありましたが午前中は外の物置の片付け。13年前に横浜から持ってきた段ボール箱を開けて整理。

そして布団用の大きな箱を二つ、軽トラに積み込んで小雨が降り出す中、地頭方処理場に持ち込みました。

家具についてはバラさなくても受け入れ可能。処理費200円は助かります。

 

昔は泊まり込みで報恩講にお参りに来られましたからね。布団は旅館なみにありました。

次回は古い桐の箪笥のボロボロのものを処分します。

物置整理は昨年夏に患った気管支炎の苦しみを思い出します。

 

さて、昨日の福林寺の宝塔は素晴らしいものがありましたが、そちら宝塔の奥からの画像に写り込んだお寺の本堂はそのお寺のものではありませんでした。

勿論立ち寄ってみました。

お寺の名は蓮光院。天台宗のお寺で山号は三上山。

なるほど野洲の近江富士から頂戴したのでしょうか(場所はこちら)。

「蓮の上から光・・・」といえば阿弥陀さんですからこちらの寺号からそれは判読。

開基は源信さんで永観三年(985)といいますのでなりの古刹ですね。

 

阿弥陀さんは拝観しませんでしたが境内の古仏たちにご挨拶。

宝篋印塔は天明の銘があるように一目で江戸以降を思わせる隅飾りの開き具合。

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2019年

7月

11日

伝佐々木高綱納経 福林寺美形宝塔×2  

「性善説」などいう語が言い訳になっているようです。

保釈率の上昇に伴ってか「逃走率」も上昇して事件化する件、多発してのその理由、「性善説に基づいていますから・・・」はちょいと不可思議。

ぶっちゃけ「人はみな善人で法定の出頭命令に応じるものである」ということですが、そもそもその当事者の皆さんは一定の違法行為を犯しての収監か保釈との選択がされているワケでいわば「性悪」。そこに大いなる矛盾を感じます。

単純に考えると待ち伏せしての交通違反の取締まりには厳しく切符を切っていますがそちらは「性悪説」の採用ですね。

 

保釈は手続きとして保釈金という質種さえ用意できれば大手を振って社会生活ができるシステムですが、今その「性善」思想は大いに「性悪」思想に押し負けて今やたらと保釈逃亡流行りとも聞きます。

 

先日の愛川町の件は「保釈金600万円没収」とのニュースがありましたが、おそらくご当人は痛くも痒くもないでしょうね。どうせ借入金でしょうから。

保釈して逃げた場合の責任やら捕縛にかかる経費はその結果を招いた裁判所を問い詰めるべきですね。

安直な保釈について再考していただき保釈金を2倍3倍にすることも効果があるかも。

 

話は違いますが今熊本から車で逃げている人は、事情聴取(任意)ということで警官が振り切られてしまったそうですが、よく聞けば「ヤク中」らしいとのこと。

麻薬中毒者は尿検査で「シロ」が出るまで時間稼ぎをしたがるといいますので逃げる理由はわかります。

警察ともあろうものが該当者の所有車の前に車を置くなどの発想が浮かんでこないものでしょうかね。ぼ~っとしていたのでしょうか。ワケがわかりません。

その逃亡者は国会議員の秘書を最近までしていたといいますので、「警察が忖度してわざと逃がした・・・」などと思われても仕方ないかも。

 

どうやら車で東上していることはわかりましたが、そろそろ違う車両に乗り換えることを考えるでしょう。

すると次の犯罪被害者の発生が予見できるワケで・・・しっかりして欲しいものです、関係者の方々。

 

さて、本日は愛知川から離れて野洲川をも渡って守山になります。

対岸の堅田(またはこちら こちら こちら こちら こちら)渡る琵琶湖大橋に通じる477号線沿いの木浜町に福林寺(天台宗)というお寺があります(場所はこちら)。元々は野洲にあったお寺といいますね。

 

昨日の妙法寺町自治会所の宝篋印塔の阿弥陀さんと同様、仏が彫り出された石塔が・・・。

門を入ってスグに双子の如くしかも大型(南218㎝ 北254㎝)の宝塔が二つ目に入ります。

 

基礎は側面四方に格狭間。

塔身軸部正面のみ「二重光背型のほりくぼめに如来坐像を浮彫~手印が判然としないが法界定印の釈迦か多宝如来かと思われる」(川勝政太郎)

との評価がありますがこちらはさすがに美的センスを疑うあの前掛けはありません。

また折れた相輪にどちらからか持ってきての修復の様子は一目で判定。惜しい。

 

川勝氏は建立を鎌倉中期以前の示唆をしていますが、こちらの寺伝によれば「佐々木高綱が塔内に経典を納めた」といいますのでそうであれば、平安末~鎌倉初期ということになります。

いずれにせよこの二塔の並立する様子は圧巻。

 

国宝の平安時代十一面観音は開帳限定。普段はムリ。

地元観光協会から画像を頂戴しました。

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2019年

7月

10日

街区にさりげなく立つ宝篋印塔 妙法寺町自治会所

奥方は私よりもずっと「すばらしい」という息子が就職して4か月目に入りました。

まったく将来のことなどわかったものではない「一寸先」であることはわかっていますがとりあえず「社会人」として(本人の口からそれが出た)自覚、独り立ちできたことはとても有難いことです。

 

私としては私の二の舞、「いつでもどこでもケツまくっちゃう」お気軽、超楽観の「まぁ何とかなるさ」的生き方を送られ、もしかして苦渋生活につながるというのであれば親としても辛いものがありますからね。

世に「ひきこもり」なる言葉が行き交うようになりましたが、そもそも坊さんなどは寺に引籠っているのが仕事(住職)のようなもの。不健全な仕事です。

私は法事などではつい堰を切ったごとくおしゃべりをしたくなってしまいます。日頃ぼ~っとしていますから。

この支離滅裂ブログは寺ひきこもり坊主のボケ防止になっていますね。

 

息子の方はといえば横浜のお寺にてお世話になっています。

霊園付属のホールでの法要が多く時としてあっちこっちと飛び回っているようで「昼はどうするんだ?」と聞けばコンビニで購入して車中で済まして次の法事に行くなどといいます。

法衣のままでコンビニに入るなど私にはできませんのでそれだけでも驚きました。

 

コンビニどうこうはともかくとして外に出て動き回ってお給金を頂戴しているということもそうですが、まったく知らない初めての家中に飛び込んでいけるというのも平チャラの様。

ある意味ノー天気、「何とかなるさ」を受け継いでいるのかも知れません。

 

私どもの職種として主眼は聞き役としてなくてはならないのですが、人と接していなくては「耳」は無駄なものになります。

やはり奇異の目で見られがちな外の世界に身を投じ、耳をすましていれば自然にそれは聞こえてきましょう。

慣れ過ぎの図々しさは鼻につきますが。

 

皆さんはなかなか坊さんとのやり取りに有益どころか「面倒くさい」を思うようで・・・いやこれもまだまだ私の聞き手としての術がなっていないということなのでしょう。

とにかくこの不順続きの天候があけてから寺から脱出することばかり考えています。彼とは違う静謐の場の方にですが。

 

さて、昨日の光林寺の門前には妙法寺町の公民館集会所がありますが、その建屋の端の道路際に祠や石塔が見えます。

その建屋側に大き目の宝篋印塔が立っています(場所はこちら)。

あいにく相輪は欠けてしまっていますが大きさは約2メートル。塔身正面に阿弥陀さんが肉彫りされています。

私の嫌う例の前掛けが掛かっているということで、梵字ではない何かがあると思いきややはり「化身」でした。

 

この辺りでは地蔵・石仏と見れば前掛けを作ってそれをつけてあげることに注力される方が多いようで・・・、その気持ちはわかりますが私としては何も着けていない自然体を拝みたいというところがあります。

よって観察のために前掛けは一旦外させていただきました。

 

永仁参年(1295)の銘。

「吉田四郎次郎西円」という人が亡き人の供養のために建立したという意の記述が塔身の他の三面に記されているようです。

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2019年

7月

09日

八日市妙法寺町は光林寺前身寺院名か? 美形宝篋印塔

まったく晴れ間を忘れてしまったお空ですが、昨日は雨が降らなかっただけマシ。

午前と夕方に先方ご自宅での法務がありましたが、幸いにも両家ともエアコンぎんぎん。たすかりました。

それでも雨で濡れたらそんな快適はありませんからね。

 

さて、ここのところ江州愛知川の右岸域について記してきましたが本日はその愛知川を渡ってみます。

愛知川左岸には鯰江上岸本の間の東近江大橋を渡ります。

そのまま直進すれば名神高速の八日市I.C.になりますがその手前で八風街道と交差しますのでそちらをその街道の起点とする武佐方向に右折します。

 

そしてスグの信号「八日市I.C.口西」を右折。

このあたりの地名は妙法寺町(八日市市)と呼びます。

ではパッと見その妙法寺があるかといえば見当たりません。

街区の中心部であろう公民館のある場所に光林寺というお寺があります(いつもと地図を変えて・・・場所はこちら)。

 

またも「光」が寺号に使用されていますがその光が「林」にくっついて阿弥陀さんを推測するのは「ちょっとこじつけ」かとも思いましたが・・・現場に行ってやはりご本尊は阿弥陀さんということが分かります。

尚、「林」といえば正信偈では「遊煩悩林現神通」(煩悩の林)の件がありますね。

 

そもそもこちらのお寺は天台宗ですが山号が「来迎山」門前の石柱にも「称名念仏」とあって刻まれた梵字はキリーク、阿弥陀如来でした。

そして寺の由緒といえば天正元年(1573)中興とあって古くは「妙法蓮華寺」といったそう。

ということで地名の妙法寺町の元はやはりこちらの光林寺だったということでしょう。

 

こちら光林寺の山門を入って境内右側に凛々しく立つのが美形の宝篋印塔。

何をもって宝篋印塔の良し悪しを伺うかといえば、まずは大きさと一見したところの隅飾りの立ち具合ですが、とりあえずは相輪が欠損ないことですね。

その辺りを含めて隅飾りの完存、笠上下の形状、塔身そしてレリーフ、彫りの残存、願主建碑年月の明示です。

 

こちらの宝篋印塔塔身は四面に金剛界四仏(東に阿閦 、南に宝生、西に阿弥陀、北に不空成就)の梵字が刻まれています。

隅飾りは輪郭付き三弧でここは手の抜きどころと思うところですが繊細。月輪を陽刻し八面とも梵字「ア」の彫りがあります。塔の高さ220㎝。

「願主藤井行剛 嘉元二二年三月廿四日(1306)」と(川勝政太郎氏)。

蛇足ですが周囲のお団子のように重ねた石塔はパーツ寄せ集めのように思います。

 

 

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2019年

7月

08日

下岸本城と祇園社の宝篋印塔

先日来の九州南部の集中豪雨は地元の皆さんにとって大変なことでしたが、いろいろと勉強させていただきました。

「誰が避難所など行くか」という声があったほか、人口と同じ数の避難指示が出て「どこに避難すればいいの」とかそもそも避難所に行ってももはやスペースがなく「どこも入れなかった」、避難所の立地と比較して「我が家の方がぜんぜんマシ」・・・そしてその現実を見た行政はいつものお決まり文句「課題が残る避難指示だった」と締めていました。

 

その課題は何も鹿児島の自治体に限るものではなく日本全国同じでしょう。そして「次」があったとしてもまったく同様の事々が繰り返されて「課題が残った」と終わるのでしょうね。

皆さん滅多なことでは「次はナイ」と踏んでいることも確か。

自分は大丈夫(-災害に被災しない-)ということですね。

 

昨朝も当地では朝5時半に避難訓練なのかミスなのか相良じゅうにサイレンが響いていましたが「訓練」という言葉が入っていたため完全無視。

またかつてこの地で幾度か避難指示のようなものを経験していますが、私は一度たりともその指定場所などに出向いたことがありません。

檀家さんでその手の独居老人の避難に声を掛けている方々がいますが、最近は避難者は少なくなっていると聞いたことがあります。

 

それは暴風雨や萩間川の水量が増した際に発令されますが、外に出る方が危険であるということもありますが、避難したら避難したで相当の苦痛が伴うからですね。

体育館や公民館の床で「プライバシー無しの雑魚寝」となるからです。

 

しかしコレ、私たち日本人には慣れさせられている光景で半ば致し方ないものと刷り込まれていますが、「世界標準」というものから比べると強烈な人権侵害の如く評価されているよう。

一部表現を借りると「ソマリアの難民キャンプ以下」といいますね。

この日本という国は真の意味で世界と肩を並べるに至っていないということがわかります。

またも「間抜け」の政治の一端を見せつけられた思いです。

カネを落とす場所が間違っています。

 

参考指針

 「スフィアハンドブック 2018」 日本語版7 避難所および避難先の居住地(本文のみ)

 

さて、下岸本城という元々の土豪領主の城の伝承があります。

昨日ブログの本正寺からスグ(場所はこちら)。

先日は南北諸士帳から岸本関連を引っ張ってきましたが佐々木系諸士が出入りしていたのでしょうが、現場は一見したところはただの竹藪。城址といっても小さな屋敷といった感。

防御性に関しては専ら周囲の泥田の中を思わせます。

 

古墳時代の小さな円墳かとも思わせる形状ですが、「竹藪」だからといって捨て置いてはイケないというのが一応は鉄則。

どちらかでも記していますが「竹藪」ということは当然に長期に渡って人の手が入っていない場所ですが特に周囲に開墾地があってその手のエリアが今も残るということは「不自然」と考えるべきなのです。

開墾によって土砂の利用他田畑として利することができるのですが、何故に手が付けられないかといえば地元の言い伝え「そこはさわるな」なのですね。

いわゆる禁忌の地の示唆です。

ただの館の跡程度の伝承でしたら禁忌にはなりません。

私はこの竹藪が一時墓地化していた時期があったと決めつけて

当然ながらズカズカと申し訳なくもその竹藪を歩きました。

まぁ特にピンとくるものはありませんでしたが・・・。

外構空堀らしき段差を推すところもありますが、なんとも確定的なことは言えません。

 

ただし、この「円墳」の北側に小さな祠①が見えます。

(②が祠から見た西 愛知川段丘の縁 ③が東側鈴鹿山系)

そちらが祇園神社、地名としては東近江市小田苅町」となりますが室町期以前の創建は優にありそうな宝篋印塔があります。

この石塔たちを見てこの地の在地領主、荘官、地頭の存在を思いつつその流れから出た土豪がそちらの館にいたのかとも推測したりしました。

 

塔身に金剛界四仏が肉彫りされていますが、大きい方と小さい方それぞれ四仏の方向が違いますね。

長い間にあっちこっち移動、載せ替えがあったのでしょう。

まぁよーく見ると塔身の色質が違っていたりして・・・するとパーツ取りか・・・?

四つの隅飾り8カ所に阿弥陀の梵字キリーク種子、あるいは「ア」か・・・が推測できます。

相輪の欠損は惜しいですね。

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2019年

7月

07日

下岸本二つの日枝神社 二つの耳 本正寺

ニューヨーク・タイムズ電子版の記述で日本政府の記者会見の際に飛び出た「あなたに答える必要はない」が報道の自由を阻害していると。

時に「独裁政権の如く振る舞っている」との論評があったそう。

 

何とも高慢ちきで横暴な態度としか言いようがありません。

官房長官殿の記者対応だそうですが、人のよさそうな顔をしていますが心の狭さ、人の器の小ささを感じます。

 

まるでトランプの真似事のよう。

困ったものでお頭の短絡している政治家は大ボスの悪い所ばかり伝染してしまいます。

質問されて答えないでは会見の意味がまったくありませんし、政治家が国民に対して応えられないというのであれば民主主義の根幹にかかわる事ですからね。

 

まぁ応えにくいこと、都合の悪いことへの指摘を受けて、当人のムシの居所が悪かったのか本心が露呈、いわゆる「キレた」だけの感じ。

ああいう場で本心むき出しでキレることができるということが慢心の域に入っているということかもしれません。

「聞く耳を持たない」のは政治家として「恥ずべき事」だという論理がどこかに飛んで行ってしまったのでしょうか。

 

私は「仏罰」の存在について常々畏怖というものを感じていますが日本昔話的オチ風に言えば「聞く耳を持たないならいらねぇだろ」と言う具合に「耳」取られちゃったり、耳繋がりで特に「耳なし芳一」を思い出します。

それは子供の頃父親に聞かされて震えあがった思い出がありました。

「知らんぷり」はダメ、私は気を付けることの第一・・・。

 

さて、昨日ブログの岸本のつづき、下岸本の街区を。

日枝神社がなぜか二つ。町の中心にあたるのか5~6本の道が交差する地に一段高くなった場所が。そちらが御旅所の日枝神社。そこを起点に歩きだしました(場所はこちら)。

 

そちらからスグにもう一つの日枝神社(最後の画像)の間に大谷派のお寺「本正寺」と遭遇しました。

ここのところ阿弥陀さんを示唆する寺号のお寺を見てきましたが(宗旨は違いましたがすべてビンゴ !)こちらのお寺の名前を一瞬見ただけではその判断はできず石標を確認してから神妙になったわけでそれから本堂前に進み出て合掌しました。

創建は天正期と古く天台宗からの改宗のようですが、その山号寺号の由来は不詳。

 

  「より多く聞く為 より少なく話す為 

            それが二つの耳と 一つの口」

 

有難さを感じましたね。

私の如く薄っぺらな人間というものはどうしても自分の意見ばかり言って他者の言を聞き流してしまいがち。

坊さんとしても致命的でもあります。

日々修正を誓っていますが・・・

 

お寺の扁額も古銭を並べて字を描いていました。初見です。

何事も耳・口にくわえてやはり目で見て確認することは必須です。

周辺墓地同様石仏たちのお出迎えもありました。 

 

 

 

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2019年

7月

06日

晴れた日の遠くに墓地が見える 岸本で墓探し

ブン殴られたからブン殴り返す。

そんな感じのする隣人韓国との関係。トランプのイランとの関係に似ています。

トランプ親方(御屋方とは呼ばない)に尻尾を振る宰相ですので同様の手法を学んだのでしょうね。

 

「政治」(まつりごとをおさめる)と言う語がこれほど「そんなもの」感が漂うものとはね・・・

まぁこれも陳腐ですが選挙で選ばれた高給と名誉を確定させている連中が恣意的感情でもって子供じみた喧嘩をしている様。それを見て何も大層な学歴・経歴に高度な交渉力など不要な職業を思います。

 

先日は「ガキの喧嘩」と表現しましたが小学校の学級内での様子にアメリカとイランの関係は弟分のイスラエルやお友達のサウジの王様たちと宗教の違いから仲違いしている強面イランを懲らしめてやろうと級長トランプが中東にまで首を突っ込んでいる様子ですが日韓の場合はクラスメイト同士の昔からの因縁話がもと。

 

難癖を掲げあって「取引しない(つきあいしない)」の姿勢は世界にその「懐の狭い」風呂敷を広げているようでみっともないことこの上なし。耐力の差を計算していたらまさにイジメっ子。

 

やはり先日記しましたが商業捕鯨を開始して一番喜ぶ人たち(利権)とははいったい何なのか私には知り得ませんが何事も「政治」(特に外交)が機能していませんね。

その手の風を晒すことは日本の文化にまで傷をつけましょう。日本の外交下手は今に始まったことではありませんが・・・。

 

韓国との交渉はすでに我慢比べになっているところ。

日本政府は相手が音をあげるところまで持って行こうという算段でしょうが、韓国国内でも日本製品の不買運動が広がるといいますから、この政治ショーも国民同士の反韓・反日の感情へと伝染、醸成されて行きそう

総理殿は先日も「ミスOSAKA」(大阪城エレベーター)の件で「滑って」笑いをとるどころか嘲笑、非難まで買っていましたがあのやり方もステージの上で我らを煽っているように見えます。

 

一観客として笑って見ていられませんね。笑いのセンス全然なし。

それって以前でいえばいわゆる戦争になる兆候の際たるものです。双方もっとオトナの外交政策が模索できないものか。

「バカバカしいからよしなさい」の声があがらず皆さんがそれに同調していることはもっと恐ろしいことです。

結果的に国民同士の協調を分断してしまう手法でした。

 

さて、昨日の石碑の通り「岸本」の戦乱で亡くなったと思しき兵どもの石塔墓碑類の存在がわかったわけで、では「その石碑はどちらへ?」と単純に思います。

世のならいとしてはお寺に引き取ってもらうのがスジというものですが、場合によってはその収容に限界があるでしょう。

 

その手配の件、折衝が難しいと考えれば「砕石場→路盤材」のコースもよくあるパターンですのでそうあれば探索も無効。

まぁ土地改良にあって散在する墓塔を一緒くたにして埋めちゃうということはまずないでしょうが。

 

「岸本」地名でも上岸本と下岸本そしてその間の中岸本なる地名がありますが、何しろこの辺りは見通しが効いて360度見渡せます。

ランドマークといえば鈴鹿山系の山並みに愛知川段丘に沿ってある林の緑。近くでは工場等の建屋ですね。

そこであの昨日ブログの交差点から愛知川方向、緑のラインに向って進むと遠くに墓地が見えました(場所はこちら)。

 

光照寺というお寺の管理であることがわかりました。

やはりその「光照」から阿弥陀如来ご本尊の示唆がありますが、

上岸本には天台宗のその名のお寺があって阿弥陀さんがご本尊のようでしたね。

墓地の南無阿弥陀仏が際立っていました。

やはりかつて集められたのであろう古い墓石が並んでいました。

彼らは400年以上の間あの地に居て世の人の愚かさを見続けているのでしょうね。

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2019年

7月

05日

南北諸士帳の井口上岸本を考える 岸本城記述と墓碑

梅雨だから仕方ないとは思うもののいい加減カンベンしていただきたいものです。

この(気圧の)谷の底を這うような不健康極まりない状況からの脱出はいつになるのでしょう。予報ではこれからずっと晴れマークがありませんでした。

 

私の天候不順、気圧低下からの絶不調は決して「気のせい」とは言い切れないものがあって、実は左足関節痛から始まって上腕から肩の痺れからくる倦怠感に耐えきれず、その原因を探るべく近くの医院にて血液検査の依頼までしていました。

9月には例年行っている人間ドックを予定していますが、それを待つほどの悠長さはあり得ない程の躰でしたから。

結果はいつもと同様「修業が足りない」の診断結果。

 

坊さんがそれを言われればムッとするところかも知れませんが

私の生活にも宗派にもその行はありませんし(敢えて言えば称名)何より「何でもなかった」ということで一応の安堵とニッコリ・・・。

原因は「季節がら」と「年齢」ということで収まりました。

晴れ間が出て動き回れれば解消するでしょう。

晴れた日に畿内の墓場でもほっつき歩くことが出来ればなお全快しそうです。

まぁ週末は雨が続き気温も低下するそうですから辛抱しましょう。

 

 

さて、愛知川右岸の真っ平に広がる段丘を鯰江から愛荘町琵琶湖方面に愛知川と同じように進むと岸本という地名があります。

そちらに「岸本城」とその死者とかつての墓石の存在をそっと示唆する墓碑が建っています。

交差点掲示は特にありませんがその手前の交差点には「上岸本東」とあります(場所はこちら)。以前記した極楽橋よりは手前になります。

 

建碑の裏面をのぞき込めば「大規模な開墾」があって昔からの色々を壊したという反省文らしきものが。

きっとたくさんの墓碑石塔の類のものが出てきたのでしょうね。

「往古以来の無名の古墳群消滅す此無縁墓は岸本城主以下将軍連の葬られた~」とありました。

 

岸本城に関しては「城郭大系」への掲載はありませんが南北諸士帳の愛知郡には

目加田城に「佐々木随兵小倉源氏 岸本佐馬亮」そして「井口」地名の羅列の中

「井口上岸本 佐々木随兵小倉源氏 岸本六郎」の名が見えますね。

 

また在地土豪の城館を思う岸本城と鯰江城包囲のための付城として信長が築かせた岸本城があるといいますが、それを区別するために下岸本・上岸本(信長)の名を聞きます。

ただし後者の場合、地元の屋敷等をのっとったり、元ある城塞を防御性を上げるなど改修しているのでしょうから、信長が築いたというよりも付城として信長が活用したと解釈すればよろしいかと。

 

この「井口」の字名について詳細当たっていませんがこれは「井戸の井」だけに往々にして小さなエリアを想定しがちです。しかしこの「井」は時に「河川」をも表す事がありますのでそうなると愛知川右岸に沿う地域をそのように呼んでいたと推測することもできます。

「居」を「井」と充てる事もありますからそうなると「水」から離れますので何事も決めつけることはイケませんが。

まぁ単純に「愛知川からの水の手取り口の河岸段丘の元」とこじつければその地名は合点できるところです。

 

どちらにしろこの石碑の「岸本城」の件各特定は難しそう。 

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2019年

7月

04日

信長の蹂躙から逃れた仏像たちの存在 曽根 福性寺

チャンス到来とばかりに今営業トークに花が咲いた感のあるモノ2つ。

1つはあの「2000万円」に関してです。

年金以外に2000万円が必要であるという試算は、日本中が震えあがったわけで・・・。

保険会社の営業の方が言うには「よく言ってくれた」と周辺大いに沸いているそうです。

「足りないのはうすうす感じていた」とはいうもののその数字をズバリ提示したのですからね。

 

特に子供の将来に不安を感じた親たちへの感触は良さそうで、貯蓄同様の積立て年金の勧誘がやりやすくなったそうです。

あの「2000万円の不安」はその営業の後押しとなっていたのでした。

 

今一つ。こちらはちょっと恐ろしい。

池袋の暴走死傷事件以降、高齢者の免許返納件数が増えているといいますが、そのおかげでシニアカー販売営業がやりやすくなったといいます。

営業文句としては「外出難民解消」ですね。

私のよく表現するオートマチック車・・・ゴーカート、それから降りるという事は対人、対物の傷害行為の不安には意義あることですが、シニアカーもそのゴーカートのようなもの。

そもそも免許証というシバリはありませんからお気軽です。

それは速度も大きさもミニチュアですからミスによる加害事故は起こりにくくなるでしょうが、今度は被害者になる確率が増えるに決まっています。

 

これから免許証返納者の外出手段としてそのミニゴーカートが普及したくさんのそれが世に走り出したら、普通車が公道を走ることがいよいよ恐ろしくなりますね。

自分がもしそれを買い与えられたとしたらきっと「我がもの顔の暴走」をするでしょうから。

 

さて、昨日ブログの曽根城址といわれる段丘中断のJA施設の下方に曽根の交差点があります。

そしてその直近に福性寺というお寺があります(場所はこちら)。

そちらには平安期の作といわれる聖観音坐像はじめ深沙大将、多聞天、持国天の仏像たちがあります。

それらは信長の焼き討ちから逃れて曽根の山林に避難していたといいます。

 

曽根城とともにこの辺りの建物などは焦土となっていたでしょうし元々あった寺も焼失、時間を経てこちらのお寺が建てられたということですね。

信長襲来という「災い」が迫ってくることがわかっていたということでの事前の避難はまさに正解でした。

 

やはり墓域には松雲寺と同様石塔たちが並びます。

特に「曽根城に関わる人たち?」を思わせる五輪塔が目を惹きます。掲示板の「満福寺」には寺号の変遷を思わせます。

 

福性寺は愛知川河岸段丘下に位置しますが、画像でも曽根城址(JA施設)が台地中腹にあることがわかります。

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2019年

7月

03日

妹から曽根城址方向 松雲寺井伊直興廟所ほか石仏

国同士の駆け引きで面倒くさい問題の対応として関税をUPしたり輸出入の規制をしたりで最悪、自国にあるお相手国の資産を凍結したりもしますね。

最近よくある程度の低い国交のお決まりのパターンです。

 

問題とは直接関係ないところで相手の足を引っ張りダメージを与えて自国有利の方向を模索しながらより良い条件を引き出そうというもの。

 

トランプお得意の「ディール」ですがこのほど日本政府は韓国に対して半導体や電子機器の輸出規制に動いているそう。

徴用工問題の対応への不満が今回の見え見えのディールなのでしょうが、傍から見ていれば喧嘩と同じ。

この手の交渉術は両国とも痛みを伴うワケで、「どっちが痛みが少ないか」の我慢比べのようなものですね。

とにかくガキの喧嘩と同じ、政治が如何に愚かな発想で執るものかわかります。

 

ディールとしての駆け引きが「我慢比べ」とすると初めから勝者が決まっているような交渉と思えるのが「JR東海 vs 静岡県」。リニア中央新幹線の件ですね。

 

JRが大井川水系の元となる南アルプス(静岡工区)の横ッ腹にトンネルをブチ開けるというものですが、「静岡県」としてはこの路線開通にメリットはゼロ。

そのうえ、ただでさえ水量の減っている大井川の水が「どうなるかわからん」というデメリットしかないような工事ですから「水が減ったらどうしてくれるの」と静岡がゴネているのがこの件。

 

JR東海としてはリニア新幹線の完成(2027年)が遅れることへの焦りは半端ないでしょう。

遅延のコストアップは1年で数千億円となるようで2年3年の遅延ともなればその2倍3倍以上に膨らむという試算があるようです。

と言いながら静岡県としては別に焦る理由はまったくなし。ハッキリ言って遅れようが進捗しようが知った事じゃあありませんね。

 

歴史上「水あらそい」は近隣争議の最たるもの。殺し合いにもなっています。

ハッキリしているのはJR東海は静岡県を甘く見たというところ。

先般牧之原市長の「JR東海はけしからん」風のコメントがテレビから流れていましたが、牧之原市の水道は大井川の恵みを戴いています。

それがなくなったり減少したら「市民生活は・・・」と不安になるのは当たり前です。

その心配に対してハッキリ説明できないJRの理論構成がお寒いのですよ。

 

ただし私に言わせれば・・・

「とっとと富士山静岡空港に新幹線を停めろ」です。

それを予定して新幹線の真上に飛行場を建てたのですからね。

そうあればみなさん「水あらそい」の件はとりあえず棚の上に置いて「しょうがねぇなあ まぁ、いいよぉ~」になるのですがね。

静岡県が三年も粘れば2兆円の損失を被るかもしれないJR。

「時刻表をイジらなくては・・・駅間が近いから・・・」などと言っている場合じゃあないでしょう。

この籠城戦のポイントはやはり「水の手」ですし「ディール」なのでした。

これまでのイメージ一新、ヒールの忠臣の松永久秀(昨日の「知恵泉」・・・多聞城 ~ 2   3も「出演」(彼のすべての伝わる悪業は全否定、信貴山の爆死もナシ)のようなキレ者がいればね。再放送は7月9日火曜日午後12時~。

 

さて、愛知川右岸の段丘「妹」の交差点を東に行くと彦根藩中興といわれる井伊直興廟所がある松雲寺があります(場所はこちら)。

臨済宗永源寺派のお寺で、特に永源寺へのかかわりの深い井伊直興の宝塔(多宝塔)を据えたのでしょう。

本廟はやはり永源寺の参道脇にあったことを思い出しました。

 

⑨の宝塔のバックに見えるJAの要塞のような建造物の辺りは曽根城なる城址といいます。

この建物の造成により、また案内板の一つも見えませんのでその昔を知る由はもはやありません。

 

段丘から見下ろすように削平地があったようでそちらに城館が並んでいたことがうかがえます。するとこの段丘より下方になりますので背後の防御性について考えてしまいますが、現地をぶらついてもその辺りの件、サッパリわかりません。

 

松雲寺の由縁については石碑の通りで創建が天正期も後期。

古い石塔たちは周辺から持ち寄られて並べられたものでしょうね。

信長の蹂躙を受けた地域であることは間違いありません。 

 

 

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2019年

7月

02日

鯰江郷「妹」はかつて興福寺荘園 春日神社 井本城

よせばいいのにこの国は大手を振って鯨を捕まえて喰うことを始めました。31年振りといいます。

IWC(国際捕鯨委員会)を「脱退」しての世界へのアピールでしたが見苦しいことこのうえなし。

 

他のいろいろについて、世界の「リーダーシップ」だとか「協調」などいう言葉で飾り、時にそれを振りかざし円卓に臨むというスタンスを維持してきた日本がその「IWC」に居心地の悪さを感じて「もはや聞く耳を持たない」という意思の断行である「脱退」という行為はどう考えてもそのやり方に違和感がありますね。

 

飽食の時代、他に喰らうものがいくらでもあるにもかかわらず、世界から総スカンを喰らうようなやり方が不満です。

どちらにせよ私はそれらを買いませんし食べませんね。

そもそも食生活に不可欠であるとも思えません。酒の肴程度の趣向のような気がします。

 

さて、昨日記した光明寺の近く「妹南」といえば春日神社。

由来については画像⑤の文言の通り。

全国各ある春日神社と言えば奈良の春日大社の分祀で要はかつての興福寺の荘園というところを示唆しています(場所はこちら)。

その神社の裏手の段丘上に通説信長が鯰江城攻めのために付けた俄仕立ての陣城、井本城址があります。

 

この辺りでは残存遺構にしろスケールにしろ一枚二枚上手の青山城がありますが、宅地化された鯰江よりはマシとはいうものの、歴史の表舞台への登場もない城ということでただの森の中といった感じ。ただしそれなりに城址を味わうことはできましょう。

最後の画像が台地上から見た春日神社の杜。

 

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2019年

7月

01日

妹(イモト)の鯰江山(ねんこうざん)光明寺 宝篋印塔

鯰江城址周辺には石仏たちが散在していました(昨日)。

当時の戦没者墓標というものは遺族が現地に据えるといった傾向、きっと「追善供養」のならいのようなものがあったのでしょう。

そしてまた鯰江城の終末である信長包囲網での戦没者の数はハッキリ分かりませんが、やはり死者の数は夥しいものがあったでしょう(なぜなら相手が信長だから)、そうなると半世紀程度は「荒涼とした墓場」といった時期があったと考えられなくともありません。

江戸時代に入ったあたり「かつて戦乱の地」というものが忘れられた頃に開拓と整理の手が入り、時代の変遷とともに家々が立ち並んでいったのでしょうね。

「鯰江さん」が今も残る理由はその開発者としての籏頭となった者たちにこの地の名を名のった人々が居たということですね。

 

墓碑散在の理由としては六信眷属ともあればこの地で亡くなった縁者につき小さな墓標の一つも建てたいという気持ちになるのは当然でしょうし・・・。

ということで、まぁその件どちらの戦跡でも同様ですが、彼の地を発掘すればまだまだ石塔の類は出てくると踏んでます。

 

さて、以前「イモト」読みについて「井本」か「妹」かとつまらないことを書き散らかしましたがその「妹」の集落がこの鯰江から名神高速を跨いで同じ距離程度を行ったあたりにあります。

左側に織田方の付城井本城址といわれる春日神社がありますが、その先が「妹南」の交差点。左が段丘上で左折すれば「妹」の中心部に。

 

そしてその交差点を愛知川方向に右折して少々行けば、光明寺というお寺があります。

昨日の「専修」にひきつづきこの「光明」もまた阿弥陀如来の代名詞の如くの名で、親しみが湧いてきますが、宗旨は天台宗となります。

勿論、御本尊は阿弥陀如来ですね。

 

光明寺のある地名は「妹」ですがお寺の山号が「鯰江山」。

山号は大抵が音読みとなりますので「ねんこうざん」です。

近江でも特筆的な地名「鯰江」と「妹」が両方一緒に寺号として名のられる寺でもあります(場所はこちら)。

 

そちらのお寺にはこの辺りでは美形で長身(183㎝)、各パーツ完存の宝篋印塔があります。

時代は鎌倉時代後期のものでスタイルも完璧。

コレだけのものの建立はある程度の地位のある者の手配であることは間違いないところでしょうね。地頭クラスでしょうか。

それにしても戦乱で荒れた当地にここまで美しい姿を維持しつつ今も残っているということに感動を覚えます。

何らかの文化財指定にならないところは疑問でもありますね。

 

川勝政太郎氏の詳細評価を転記すると

「相輪は完存。基礎は四方とも輪郭を巻き、格狭間内に開蓮を浮彫。上端は二段、塔身は四方に月輪内の金剛界四仏種子を薬研堀する。笠上は六段、下は二段。隅飾は三弧輪郭付きで内部には八面とも梵字『ア』を刻む。

「塔身のキリーク(四仏の阿弥陀)の右と左に正安弐季(1300)庚子十一月廿四日 奉造立之 為悲母・・・」

 

一見、また参拝の価値があります。

私が今一つ「ふむふむ」と頭の片隅に残った件を記せば、本堂大棟下にゴールドに輝く寺紋が四ツ目であってこちらのお寺の住職の姓が佐々木さん。

佐々木姓数ある中、「それは偶然」とのご指摘がありそうですが、そこは思わずニヤリとするところでしょうね。

 

もっとも寺歴としては江戸初期で宝篋印塔建碑の時期と離れますし他の石塔の積みはかなりテキトーのように見えますから、この付近のどちらかにあった石塔を移動してきたことも十分にありえます。

 

江戸初期に寺の再建があったということとすれば上述の「戦乱後の再開発」とタイミングが合います。

寺はまず火をかけられるというのが戦闘のならいのようなものですからね。

 

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2019年

6月

30日

森一族の五輪塔? 鯰江専修院と鯰江集落の墓石たち

梅雨時の一番の不快を大いに味わう一日でした。

台風が連れてきた空気でしょうが、充満した湿気は大した温度にもないのに不快指数は全快にしました。

ざっと降って止んではまた降るの繰り返し。それでもその降っていないタイミングはありがたく移動に墓参にと活用できましたがそれは気まぐれ。

大丈夫と思いきや瞬時に裏切られ衣など、より一層の湿気に覆われてしまいました。

 

沖縄は平年より6日の遅延での梅雨明けとなりましたね。

「お肌にワルイ」とはいうもののあの強烈な光が懐かしく思います。高い温度については私は問題ありませんから。どうしても未練は残ります。

 

午前の法事で濡れた衣はエアコン、フル回転で乾かしますが、アレが無かった父親以前の時代を考えるとおそらく「疲労度100倍」でしょう。各ご苦労を思います。

「ヤワな生活をしてやがる」と叱責を受けそうですが・・・

エアコンが無い居間は考えられなくなってしまいました。

 

さて昨日ブログに引き続き、鯰江の街区を歩いて目に留まるのが専修院というお寺。

自治会館のお隣になります。

専修の名からして(専修念仏)御本尊は阿弥陀さんを連想します。やはり浄土宗のお寺でした。ただしお釈迦さんの古い金銅仏像が指定文化財になっているようでそちらの看板が掲げられていました。

 

昨日同様の「掲示板」⑤を記しますがそちらの一番下の段にご注目。「森備前守」なる人の名が出てきますがこのお寺の開基といいます。そしてこちら鯰江城の築城主が森氏です。

この辺りの地名としては鯰江に加えて森村の呼称があるようですが・・・

佐々木南北諸氏帳 ( 6 愛東町)に目をやれば

「愛知郡 森村住 佐々木隋兵 森豊後守」の名が見えます。ただしどのような変遷があって城主が森→鯰江となったのかは不詳です。

 

掲示板に戻ります。

「専修院には鯰江城主であった森備前守一族の墓といわれる五輪塔」とあります。

また、「森備前守の霊を~」の件を眺めていると何がしかの強権力(一番に佐々木六角)による謀殺があったのか・・・などと考えてしまいます。非業の死を連想してしまいます。

 

寺の境内には案内らしきものがありませんのでどちらの「五輪塔が・・・」と悩むところではありますが、覆堂にキレイに整列した・・・「一族の墓」と考えるのが妥当でしょうね画像⑥⑦。

⑧⑨・・・この地に今も残る鯰江さんと城さんの墓碑も。

 

集落の北側にあるグラウンド脇の「精霊塚」周辺の石仏含め鯰江の墓石を・・・私のお気に入りは五輪塔を肉彫りした小さい石塔です。宝篋印塔を模したものもあります。

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2019年

6月

29日

鯰江城 土塁跡の推測 段丘上現住宅地を歩く

 

台風一過の遠州はスカッ晴れ。

 

そしてその台風とやら、おかげさまでまったく拍子抜け。

昨夜は普通の雨といった感じでした。

まぁ梅雨前線がこれから停滞しますので、一時の爽快を楽しませていただき感謝しております。

 

先日「30年以内に大地震『危ない活断層トップ30』」なる記事がありました。

地震には日頃から警戒して散々ヤラれもしている私たち遠州人ですが大いに興味をひきます。

そのような見出しに飛びつかないワケがありませんが、その「ベスト30」にリストアップされた活断層たちを見て、「・・・?」となりましたね。

地震に関してはもはや自虐的、悲観論に満ち満ちている私どもではありますが、何とその30ベストの中に私の住まう近隣地域の活断層はピックアップされていませんでした。

 

「うれしい」といったら「ベスト」を指摘された地域にお住まいの方に申し訳ありませんが、一瞬間気持ちがすーっとラクになったことは事実です。

その研究が正当で本当にそのようになるのかは不明です。

てっきり真っ先に「静岡県かなりヤバい」と指摘されると思っていましたので。

 

しかしよく読めば「日本海東縁ひずみ集中帯をはじめ、地震の発生源として最も警戒されている南海トラフなど、これらの大規模な地震源に加えて」とありました。

とんだ早とちりで頭を掻く始末ですが、日本中どこでも地震が来ても不思議はないということでしょうね。

 

地震といえば鯰。

以前ブログにてその「鯰」という地名と城址(鯰江城)を記しました。珍しい地名、鯰江は鎌倉期の興福寺荘園の地名として登場してくるというほどの由緒。特に佐々木氏の最後の城として名が残ります。

 

その後、尻切れというか当ブログ支離滅裂の例にもれず、放ったらかしになっていましたところ昨日なぜか近江八幡辺りを突然記したことから思い出しての追記になります。

 

鯰江城(場所はこちら)を記した際には「愛知川右岸の段丘上にあって今はまったく面影はなし」と記したのは住宅地と化していたからですがその「まったく」には語弊がありますね。

 

土塁あるいは多少の石積みの類で遺構を十分に推測できる箇所はありました。

ただし違和感が残るのは「攻衆人数佐久間右衛門尉、蒲生右兵衛大輔、丹羽五郎左衛門尉、柴田修理亮仰付けられ、四方より取詰め付城させ・・・」とありますから攻め手として「十分に慎重を期した」と思わせる記述があること。

 

現地を訪れて、比高もそれほどでもない段丘(7m)にある城の攻略に信長がそれほど悠長と思えるような姿勢だったのは何故だろうかというところ。圧倒的勢力をジワリと見せつけて相手の戦意を喪失させる戦略(そのうえ退路を提供)があったのでしょうか。

 

まずは攻め手としては台地背後からの攻略が一番と思われますが、当時は愛知川河岸側以外、東西北の三方には堀が廻らされていたのでしょうね。

ただし城の構としては規模(半町)も大きくなく、兵糧としても長期戦は一見してムリのような・・・。

私でしたらこちらに籠城する気にはなれないようなロケーションです。

 

堀は掻きあげで土塁を設けるのがスジですが、後世の再開発となれば、その逆、土塁を壊して堀を埋めて整地し、その上に家々が建てられていったのでしょうね。

あの家々の下には多くの遺構が残っているのでしょう。

 

不思議なのはあの集落で人とすれ違わないところ。

いつ行ってもそう。

 

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2019年

6月

28日

1日5000歩でもイイ 近江八幡八幡堀脇の石仏

元号が変わって第1発目の台風襲来となりました。

そんな中、各国のお歴々の衆が大阪に集まっているようですが、まぁご苦労なことではございます。

大阪周辺の皆さんは雨とは関係なくいろいろ「大迷惑」を被っているいるようで、こんな時は暇人の私であってもくわばらくわばらの感、じっとしているのが肝要です。

 

台風通過の土砂降り予想は早朝になるようで、昨日は午後からの小雨で以降降ったり止んだり。よって午後散歩は無し。

午前中は「寺テラス」2階での雑用と買い物で歩数は稼いでいますので「まぁいいか・・・」です。

近所の檀家さんで毎度お寺のバス遠足にも同行いただいている方がいますが、その方の散歩というか歩数の目標を聞いた事があります。

 

その驚愕の数字は「一日2万歩」。この数字を週で管理しているとのこと。

雨の日は当然に外に出られませんので歩ける時に天気を見て「歩きだめ」するのだといいます。

その時「昨日は3万歩」と聞きましたが、私の場合その数字は年に数回、1日に山城を2つ3つ登った際に出てくるものですからね。

 

この時期はずっ~と寺に居て法務以外は何かしらの雑用に追われその3万歩の機会はまったくありませんね。それにしても凄い数字です。

 

また最近現れた左足の膝関節痛の対応にとお菓子の「グミ喰い」を久し振りに再開しましたが今後どうなることか。

今後山城歩きをしてまともに帰ってこれるかも少しばかり自信がなくなってきました。今のところ歩行には問題がないようですが。

やはり京滋・大和・摂河泉辺り、歩き回りたいですね。

 

さて、その歩行による万歩計の数値の大抵の皆さんの目標数値である「一日1万歩」ですが、「あまり意味がないのでは・・」とも聞きます。

その達成感はなにより素晴らしく充実、そのイイ習慣の背中を押してくれます。歩いた実績は絶対にマイナスとなるワケがありませんが、案外とその目標はこの生活にズッポリハマっている私にとってハードルが高いものがあります。

 

ところがやはり最近になってハーバード大学医学大学院のグループの研究による数値を見ました。

それによると平均72歳の女性で、1日4400歩程度で、2700歩程度の人と比べて全死亡リスクが41%低かったといいます。

これでとにかくは「2700歩」より「4400歩」と1日の歩数が増えた方がイイということがわかります。そして4400歩よりさらに歩くと全死亡リスクはもっと低下したともいいます。

ただし、その効果は1日7500歩前後が最大。それ以上歩数を伸ばしたとしても効果は表れなかったそう。

 

そのデータを信じればちょうど「7500歩」がちょうどいい私の目標値ということになりますね。これなら歩きだめをしなくても何とかクリアできそう。

 

画像は近江八幡の八幡堀の傍らにある石仏残欠。

祠の脇に整列される姿はこの辺りではよく見る風景です。

料亭「宮前」の前辺り(場所はこちら)の様子ですが、私のほっつき歩きの中で、のんびり舟遊びや高級な食べ物との組み合わせはまずありえませんね。ただ一度はチャレンジしてみたいところです。店名の「宮」とは勿論「近江八幡」でしょうね。

また贅沢な煩悩を晒してしまいました。

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2019年

6月

27日

田沼意次記念オリジナル切手シート発売は7月1日

先週滋賀県からのお参りの御門徒さまから「関西は梅雨入りまだですよ」と聞いて驚いたところでしたが昨日、近畿地方が梅雨入りした(かもしれない・・・)というニュースがありました。

平年は「6月7日」ですから19日も遅かったそう。

それまで関西地区は晴れ間を楽しめたということでしょうか、これでここいら辺りと同時期に梅雨明けしたら今年は結構ラッキーだったのかも。

 

昨日は今年のホトトギスの初音が遅かった旨記しましたが私が今年第一に感じる天変地異は沖縄の梅雨明けの件。

20代後半に沖縄に飛び出し数年をそちらで暮らしてからずっとそこでの生活の未練を捨てきれずにいて、一時期は「そのとき、読谷村の火葬場で頼む」と口癖にしていたくらいですがそのタイミングは自己の意思にかかわらないことですので、強くそれを指定することは無茶に近いものがあります。よってその夢はトーンダウンしつつあります。

 

自分の足でそこへ行くことができればベストですが無理でしょう。

しかし息子が目出度くもこの寺を仕切ってくれて、自分自身、「お荷物の役立たず」(引き際)を確信し、尚健やかなる老衰を迎える機縁を戴けたとすれば実現できるかもしれません。

青い海と青い空に降り注ぐ光の日中をデッキチェアの上ですごし、規則的に寄せる静かな波の音を聞きながら東シナ海に沈む夕日のオレンジ色の向こうに渡るというのが私の想う環です。至福の贅沢ですね。

 

そのイメージが沖縄の梅雨明けの平年6月22日ころ。

夏至の頃であり沖縄では終戦記念(慰霊の日-23日)がありますね。

読谷村といえば、軍の「捨て石作戦」、3か月あまり続いた「鉄の暴風」の始まりの地でもありました。

現在の所在は不明ですが読谷の「親鸞塾」なる場に半年ほど転がり込んでいたこともありましたが近くには「チビチリガマ」もあってかつて若い衆を引き連れて向かったこともありました。

 

どうしてもその夏至の頃といえば私の想う一番の沖縄風景なのですが今年はそんなワケにはいかないようです。

私は毎年この時期に沖縄の想いについて記していたかとおもいますが、「コレ絶対外さない天気の予想」というのがあってそれが6月22~23の梅雨明けの日です。

たしか昨年あたりもこの頃「来年こそ」とばかりにこの時期に「狙いを定める」ようなことを記していたと思いますが(結果的に無理でしたが)、今年ばかりは「それを予定しなくて良かった」と安堵しています。

 

もし、チケットとホテルの予約を入れていたら悲惨でしたね。

沖縄は梅雨明けには程遠くずっと雨。私はこれほど梅雨明けの遅れた沖縄を見たことがありません。

そしてまた昨日の沖縄の図をニュースで見ましたが熱帯低気圧の通過による暴風と水浸し。

これから明日にかけて熱帯低気圧×2個が北上する天気図を見て、昨日夕刻にはハイビスカスたちを軽トラの荷台に積み込んで避難させました。厄介なことにならなければいいのですが。

 

また先日の慰霊の日で小学生の女の子がスピーチしていました。そのスピーチの「幸福について」の部分が「悪くない」と印象に残りましたね。

「お金持ちになることや 有名になることが幸せではない」「家族と友達と笑い合える毎日こそが 本当の幸せ」

「未来に夢を持つことこそが 最高の幸せ」

 

尚、「笑い」がある人はそれがまったくない人に比べて健康であることは確実。しかし、お国が言っていた「2000万円」がないと健康長寿の夢も儚くなるようですから「最高」にはなれないようで・・・やっぱカネかよ・・・ですね。恥ずかしいオトナで反省。

しかし「如来におまかせ」ではありながら今、死ぬにも死ねない切迫を感じてしまいます。

長生きほど怖いものはないというのは何よりも空しい。

 

さて、ご近所ネタで「それどうする?」と意見が交わされているのが表記「田沼意次侯」の生誕300年記念オリジナル記念切手シート。それを買いに並ぶか並ばないかの件です。

1人1シートしか購入できず、発行枚数1000枚のうち「なくなり次第終了」とありました。その文言に追い立てられました。

 

ある人は「絶対に欲しい」「2シートは欲しいので家族動員」など「当日並ぶ」という強気の意気ごみを発する方も散見します。

拙寺の場合は切手図案採用はボツとなっていますが、一応事前に「どうぞ」ということで1シート頂戴しています。

この際、叔父の分もどうだろうと考えていますので7月1日は是非に「並びたい」と思ったものの当日は海開きの法要で海岸に行かなくてはなりません・・・8時15分からですのでダッシュで行けば間に合うという計算も。

また、そう慌てずにでも買えそうな気もします。

大騒ぎするほどでもなかったりして・・・

 

価格  1シート 1,500円(税込) ※82円切手×10枚

発行数 1,000シート ※1人1シート限定

販売日 7月1日(月)午前8時15分~ なくなり次第終了

 

直接販売の場所

①牧之原市役所 観光課(市役所相良庁舎2階)

②牧之原市役所 会計課(市役所榛原庁舎2階)

③牧之原市史料館 こちらだけ9時から 

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2019年

6月

26日

九品仏は元は奥沢城 サギソウ伝説 住宅地奥沢 

夜間のドシャ降りのあとは相良の地は好天に恵まれました。

昼間の雑用タイムが終わって、夕刻からの散歩は小堤山から「いーら」へ抜けて大沢の高橋を潜って戻るコースを選択しました。

そこでついに今年初めてホトトギスの声を聞きました。

 

先日来テレビからやたらと「愛川町」の事件での取材がありましたがその地の音声のバックにその声が聞こえて「相良は飛び越えて行っちゃった」などと奥方と話していました。

昨日も「聞こえない」不思議について話していましたので、その初音には少しばかり感動を覚えました。

よって鬼女に上がる道あたりでうすら明かりとなった時間に「ベストポイントは・・・」などとうろうろしている二人組がありました。それにしても遅かったですね。

 

さて、九品仏浄真寺のお浚いを昨日ブログにて記しましたが、そのお寺の地は元はと言えば城跡。奥沢城址です。

世田谷区奥沢といえば都内でも閑静な住宅地。

そのような資産価値として目がくらみそうな広大な場所に浄真寺があるわけですがやはり寺としてあったことが開発から逃れることができたということに他なりません。

よってここに城址と緑が残ったという奇跡を感じます。

 

天正十八年(1590)以降、廃城荒れ果てた湿地の中に浮かぶ丘(比高5~6m)を名主の七左衛門が寛文五年(1665)に寺地と請け延宝六年(1678)珂碩上人が九品九会の霊場として浄真寺を開設しました。

 

東側に土塁が見えないのは山門を作るために崩されたというのがその理由のようです。

 

奥沢城は通説では世田谷城の出城として吉良頼康によって築かれたといいます。

 

江戸名所図会には

「小田原北条家の属将吉良家の老臣大平左馬(或いは出羽守とも)

といひし人の構へたし類隍の旧跡」「今も北より西南の方へ繞りて、堤の形空堀の跡を存す。後門の方は大沼にてありしとなり。今は耕田となれり」(日本城郭大系)とあります。

 

ということは・・・寺の周囲にある住宅地は、かなり地盤が悪そう。堀を埋め立てたこと、かつての田圃と湿地帯に沼・・・まぁ私の住まう場所も同じようなモノか・・・お寺の境内が台地の上ということですから、避難場所は近いですね。

 

世田谷区の花が「サギソウ」となるその元となった伝承について境内に掲げられていましたが、以下の如く。

「世田谷城主吉良頼康には奥沢城主 大平出羽守の娘で常盤という美しい側室がいました。

常盤姫は頼康の愛情を一身に集めましたが、それに嫉妬した側妾たちは、つくり話を頼康につげ口しました。

その度重なるつげ口から頼康は常盤姫に冷たくあたるようになりま した。

愛情を疑われ、悲しみにくれた姫は死を決意し、幼い頃からかわいがってい た白さぎの足に遺書を結びつけ自分の育った奥沢城へ向けて放しました。

 

白さぎは奥沢城の近くで狩をしていた頼康の目にとまり、矢で射落とされてしまいました。白さぎの足に結んであった遺書を見て初めて常盤姫の無実を知りいそいで世田谷城に帰りましたがすでに姫は息をひきとっていました。

その時、白さぎの血のあとから一本の草が生え、さぎに似た白いかれんな花を咲かせました。」

 

最後の画像3つ阿弥陀堂の裏の「阿育塔」。

阿育塔といえば石塔寺のそれを思い出しますがこちらは天保期のものです。

その背後にも土塁が広がります。その向こうは住宅地。

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2019年

6月

25日

姓は野村 珂碩開山堂・仁王門・鐘楼 九品仏浄真寺 

例年とは違ってこの梅雨は天気が読めませんね。

昨日は午後からの雨予報でしたがなぜか遠州南部は晴天。

午前中に軽トラで濡らすことができない部材を空の急変をビクビクしながら、それも慌てて購入に出かけていましたが、結局日中はポツリとも来ないという幸運を得ました。

その後は夜間に激しい雨となりましたが、その日の数回の地震の方にも驚きました。すべてテレビでの速報で知りました。

 

朝の1発目、横浜にいる息子は「ちょっとビビった」という震度4。午後7時すぎの2回目は伊豆東方、熱海で震度4。夜10時の3回目は熱海で震度2という具合。

 

場所は千葉県沖から相模湾ということらしいですが、実はこちら相良に居てその地震についてまったく揺れを感じることはありませんでしたので「そんなものなのか?」というところ。

 

私は奥方に「伊豆半島のおかげ」とワケのわからない事を口走っていましたが、震度1、2程度でしたら隙間だらけで古くて傾いて揺らいでいる家の中でフラフラと動いていれば地面の少々の揺れは吸収されてしまうのでしょうね。

とにかくこの近く(駿河湾)で起こったとすれば今度こそ家の下敷きになるような気がします。

 

 

昨日ブログでは「はたらけど  はたらけど~」などと記しましたが昨日のニュースでは父親の死を隠していた「はたらかない息子」の件がありましたね。

その人の理由は「将来の事を考えると・・・」とのことでした。

やはり親の年金だけが一縷の望みだったということでしょうが、そもそもそういった法の逸脱は何らかの精神的障害の有無を感じるグレーラインにいるのでは、などと思ってしまいます。

そもそも葬儀を出すことなどはかなり厄介で重荷になる作業ですから。

 

葬儀の差配と準備ほど煩雑な時間は他にそうはないでしょうし何しろ「それなりの出費」は覚悟しなくてはなりません。

よって「将来のこと」どころか「今」のことも覚束ない状況なのです。

「8050」問題は結果的に多様な法の逸脱に繋がってしまうことを考えていかなくてはなりませんね。

今や死語になりましたが「村八分」の通り、昔から火事と葬儀だけはどんなに普段は関係を断っていようが協力して事に当たるというのが日本社会だったのですが・・・。

 

さて、九品仏浄真寺のお浚い。

何度かあの圧倒的な九体の阿弥陀如来で名のある浄真寺について記してきましたがそちらの境内地でも初っ端にある開山堂、仁王門、鐘楼をさらっと。

その開山堂こそこちらのお寺をあの阿弥陀仏をもってスタートさせた僧の珂碩(かせき)がやはり自身で彫り上げたという像があるお堂です。

彼は僧籍に入る前は「野村」姓を名のっていたとのことですが、俗にある時に「何かやらかした」という伝承が残っていてその名を含めて、経緯も親しみを感じます。

 

また特にこちらのお寺での代名詞の如くの行事が知られていますがそれが「お面かぶり」。

正式には「二十五菩薩来迎会」というものですが、その「二十五菩薩」が仁王門(紫雲桜)桜上に阿弥陀さんと一緒にいる二十五菩薩ですね。

 

仁王門の脇には鐘楼があります。

こちらの掲示板はすべて日本語と英語の2か国語で紹介されていますが、この作業は結構に労力が入ることが想像できます。

仏教の特別な用語を英訳することは難しそうですからね。

ただしこの鐘楼の訳、「Bell  Tower」を見て何のことはない・・・とも思ったのでした。 

 

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2019年

6月

24日

「五劫思惟之摂受」五劫思惟像 浄真寺と金戒光明寺

貧乏は辛いです。

「はたらけど  はたらけど~」(  はたらけど   はたらけど  猶わが生活(くらし)楽にならざり   ぢつと手を見る  )は「一握の砂」からですが、時代は明治です。

ただし石川啄木が24歳の感性ではあるものの彼は26歳で人生を閉じていますしその若さもそうですが語彙はストレートで今の私たちには相当のインパクトがありました。

 

現在に至っては仕事を選ばず「はたらく」という意思さえあれば憲法25条に記された「最低限」はラクにクリアできるはず。

問題は障害者への社会の対応です。

障害者雇用に関しては2018年に法定雇用率(全従業員-44人程度の事業所の2.2%)の算定基礎に精神障害者を加えるなどの法改正があるなど少しずつは改善されていますがこれだけ貧困問題が大きくクローズアップされてきた中「まだまだ」の感ありますね。

 

きっと経団連のお偉いさんが「これ以上はカンベンしてくれ」と言い出すのでしょうがそもそも障害者の認定制度、特に知的障害者への救済が薄く感じます。

手っ取り早くその「障害」の範疇を吟味しなおすべきと思う所ですが、失礼なことは知りながら記せば、昨日ブログの「歯医者に行けないので自分で歯を抜く」という行為に及ぶ人はまずその障害を疑います。

他にも給料をすべてバクチにつぎ込むなどの先を考えずの破天荒に見える行動もそう。

 

そもそも「月に2万円~4万円の収入」というところでこの社会の機能不全を思いますが私の知りうるところでは、その手の「荒んだ生活」を送っている方でやはり障害を抱えている場合がありますが、特に一見健常に見えても知的障害を疑われるグレーゾーンがあると思います。

健常者と障害者の区別は国の承認あってこそでしょうが、そういうグレーな人たち、少なからず精神に傷を負っている方たちに向って手を差し伸ばせないのでは相互扶助の社会とは言えないですね。

 

自分自身どこかしら「オカシイのではないか」と思い続け人生を送ってきた私がそう思いました。

 

さて「五劫思惟」(ごこうしゆい)といえば当流第一の「正信偈」の早いページ、3ページ目の冒頭の「五劫思惟之摂受」があってまずはその「五劫」の語はチャキチャキの門徒衆でなくともご存知であろうと思うところ。

 

また最近はなぜか聞かなくなりましたが落語の「寿限無」の中に出て来る「五劫の擦り切れ~」でもお馴染みです。

子供の頃その「寿限無~~」をスラスラと暗唱する子に「なんだコイツ・・・」などと白い目で見た覚えがあります。ホントに悪い子でした。

 

詳細は各お調べいただければと思いますが、その「五劫思惟」とは「阿弥陀さんがまだ法蔵菩薩の時(法蔵菩薩因位時)に相当期間考えてくれた」の表現で元はと言えば「大無量寿経」から。

その経典は私ども浄土真宗以外でも阿弥陀如来を信奉する浄土系の宗旨にあっては根本聖典とされています。

ただ当流にあってはその経典を中心にあと二つ(観無量寿経と阿弥陀経)、いわゆる「浄土三部経」のみを「経典」として他の経文は「拝読しない」というところがポイント。

 

尚前述「正信偈」は真宗勤行の中心ではありますがいわゆる「経」ではなく「偈」というくくりになります。

 

拙寺はじめ当流のご本尊のカタチは立ち姿の阿弥陀如来というのが定番ですが、九品仏(浄瑠璃寺・浄真寺)座像はじめ色々な阿弥陀さんの化身があります。画像は勿論木仏、石仏それぞれの時代、作者によって様々です。

 

そのカタチの中で全体数の中では希少ですが、「五劫思惟阿弥陀如来」があります。

京都の金戒光明寺(場所はこちら   京都岡崎の北の山になります)の石仏①~③と九品仏浄真寺本堂の木仏④です。