2025年

2月

12日

七尾木越山光徳寺 元は金沢木越 冨樫氏所縁

相良仏教会の歓談の中で、私が飛びつきたくなるような話がありました。

あるお寺さんがそのお寺の玄関に入った際、「度肝を抜かされた」と。

「ウチの10年、いやそれ以上の塔婆が積まれていた」と言います。

拙寺には「塔婆」の概念はありませんが、それを見たお寺さんは「どんだけ法事をこなしてるんだ~」と驚愕したそうです。

ところがそれらは「薪として貰い集めた」といいます。

 

10年ほど前に居間に暖炉を導入したとのことでおかげで冬は暖かく、暖房代は相当額の節約になったとのこと。十分に「元は取った」・・・

私はその暖炉設営についてここのところ「やってみたい」とずっと頭から離れないでいましたのでこれはチャンスとばかりに話を聞き出しました。

 

その方は「今すぐの導入を勧める」といいます。

煙突の設営に出費はあるが暖炉そのものはそれほど値のはるものではないとの意。

私がやるとなればDIYで煙突工事を行うつもりですが・・・。

ただし火に関することですからなかなか踏ん切りがつかないでいたのでした。

 

デメリットは2つ。

居間が「煤で汚れる」ことと近所から「洗濯物が焦げ臭い」と時に嫌味を言われるとのこと。無視できるレベルと。

壁から1m以上離して設置することが第一ですが残り火があったとしても炉の中だから平チャラ、安全安心だとのこと。

しかし地震で家が崩れたとすると・・・やはり心配か。

 

また、塔婆は処理場で受け入れてもらえないそうで、そちらで焚き付け程度とは仰っていましたがお炊き上げすればまさに「濡れ手に粟餅」。

当局のご指導も「煙突さえあれば文句は出ない」との主張でした。ただし焼却炉はNGですね。

 

扨、能登七尾の件、昨年は地震の翌日に記しましたがあの地震が

あまりにも彼の地の人々を痛めつけて、1年余。私なりに自粛していました。

生命切迫の大困窮の地について遠方の輩のノー天気な歴史話など拒絶どころか反感をも持たれることもあるでしょうし。

 

あらためて七尾といえばやはり真宗寺院の多い場所です。

門徒坊主の私ですからいつもそこばかりに目が行くところですが、それを差っ引いても門徒寺は多い。

真宗寺院というものは代々血縁で道場(寺)を継承するというのが一般的であり特に苗字を引き継いでいることはご承知の通り。

他流で一般的というのは「本山からの差配ご指名」ですが親鸞さん以来そこだけはどうしても・・・という必須でした。

今はどちらにおいても血縁継承の道を開いているようですが。

 

そして七尾という地で戦国以来の氏姓を思うにやはり二つ「畠山」と「冨樫」(富樫)でしょうか。

この二つはそれぞれ深い歴史というものがありますが、現在の当地の真宗系寺院にもその名残がありますね。

 

前年に記した木越山光徳寺は元は今の金沢にあって真宗(一向宗)勢力をまとめた大坊主の四カ寺の一寺(吉藤の専光寺 鳥越の弘願寺 磯部の勝願寺)で長享二1488年には守護冨樫政親を滅ぼして「百姓の持ちたる国」にしてしまった主役。

蓮如さんが吉崎に来られる以前の光徳寺は真言のお寺でその冨樫氏とは遠縁にあたる血筋と。

何より一向一揆の先鋭化は蓮如さんもコントロール不能、一揆全盛期の主たる寺になります。

 

一旦はこちらに移って焼失の憂き目を見ているそうですがあの本堂の大きさは驚きです。真宗でも古刹を思います。

⑥は本堂から門を見た様ですが、門の外に地震被害が甚大だった一本杉通が見えます。

 

 

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2025年

2月

11日

22回静岡県仏教徒大会 高尾警察署からの依頼 

本堂内補修作業と先日来のソテツ剪定の残りを。

剪定はハシゴを掛けなくてはならない高所のものが残っていました。

伐採したものを処理場に持ち込めなくなったため落した葉をさらに細かく切って境内の隅っこに。

その手のインチキがどこまで続くのか・・・

 

夕方からは相良仏教会の新年会へ。

現状の長老の前の席に着座し色々御指南を受けました。

なるほどの納得話、悲しい話、爆笑話、楽しい時間を過ごさせていただきました。

 

なるほどと思ったところは「本堂を鉄筋コンクリートにしてよかったという寺は皆無である」とのこと。

それでも今はコンクリートの値が以前より相当上がっているそうですが、何が何でも木で作らなくては後悔することになるとのことでした。

ちなみに拙寺は現状満足していますので参考までに耳を澄ませました。

コンクリートの耐用年数は50年とはいわれているものの「10年で雨漏り」の例を話されていました。大いにあるそうです。

その雨漏りの原因が掴めないというのもコンクリート製のありがちなところで、そうなってしまうと劣化はドンドン進むとのことでした。

 

その件知ってのことかコンクリート製の本堂を建てたのちにしばらく「木製本堂を」と更なる建て替え議案を世話人会に通したお寺があり、その件長らく紛糾し反対多数となったのちに「没になった」とのことでした。

ご時節がらその手の案件を檀家さんに提示することは大きいお寺であったとしてもなかなか難しいことでしょうね。

 

扨、画像は会で渡された静岡県仏教徒大会の案内。

6月5日木曜日1300開式ですが、事前に申込が必要です。

そして高尾警察署からの協力依頼。

「全国お寺専門ドロ」の件。参拝ではなく泥棒です。

 

 

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2025年

2月

10日

後藤海堂お墨付き 現物との相違 海の如来さん

毎朝毎朝本堂の気温を計っているわけではありませんが、法要前にストーブに現れるその値は否が応でも目に入ってきます。

庫裏の居間の気温は8℃で仏間が6℃(それらは室温計)。

そして9時30分の本堂のストーブのスイッチを入れると・・・

圧巻の2℃でした。

見た事もない数値で思わずニヤリ。笑うしかありません。

 

本堂本法要前のご自宅での短いお勤めの際、御一同様にはその時の「御覚悟」について付け加えさせていただきました。

「ストーブ3台で対応もコート類を着込んだまま、マフラー手袋装着もOKと」まで。

 

しかしより冷え冷えのお内陣での読経の身は防寒具なしでストーブの用意はなしです。それは防火の意味もありますからね。

助かるのは足許マットのみ。極端な手指の冷たさに関しては無視するしかありません。

よってその温度は笑うしか無いのでした。

体温維持は発声、これは存外温かくなれるものです。

 

扨、清掃のため(昨日)に庫裏玄関の鎮座させた海の如来さん。

まぁ色々あってこの金ぴかになって戻ったというわけです。

昭和41年に後藤氏(やはり昨日)のお墨付きの額がありますが、奥方は毎度これと見比べて「ヤラれたのでは?」と言い放ちます。

「顔が違う・・・」(すり替えられた)と言い張るわけで・・・

ヤラれたと推測するその相手は、仏具屋なのか誰なのかはわかりませんが、ノー天気で頓着ナシの父でしたから十分有り得ることですからね。

ただしそれを考えることはいかにも辛い。

阿弥陀さんにも申し訳ないことです。

常識では市であっても文化財指定を受けているのですから、寺から持ち出す際は許可がいるはずですがその形跡もなし。

 

その台座には仏像の所縁の文言が記されていたといいますが、おそらく画像の物は新調したものでしょう。

まぁそもそも仏像が台座と一緒に海から引き揚げられることなどあり得ません。

それらは簡単に脱着できるようになっている代物です。

 

父なら平気で(台座を)「(古いので)捨てといて~」と言うことくらい思い浮かびますね。それが旧いもの嫌いの昭和一桁生まれの性分。

「死人に口なし」そして父親への敬意・・・とはいいますが「何やってんだ~」のトホホの思いが再び。

まぁ疑念、疑問はつきもの、キリがありません。

 

まぁ後藤氏が祖父の時代に当家に訪れていたことだけはわかります。

 

 

 

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2025年

2月

09日

ゆがめられた経世の政治家 田沼意次 後藤一朗著

厳しい冬というものを何度か経験していますが、まさかこれほど寒いとは・・・というのが昨朝あたりの感想。

県内いたるところで氷点下。

夜間の風は殆ど台風なみ、北側の洗濯部屋の屋根が今にもぶっ飛びそうな音をたてていました。

「厳冬ピーク」の声は一体何度聞かされるのでしょう。

息子は当方宅に一泊し、早朝静岡での葬儀に向っていました。

 

来週は絶対に温かくなってくれよ・・・切なる願いですね。

 

現在ここ数日の私どもの作業といえば、本堂内陣の余間にいらっしゃる「海の如来」さんを引き釣り出して本体と余間の清掃作業。

先代の本堂修繕の際、当時の総代が京都の仏具屋に金箔を貼らせたといい、私が気づいたときは金ぴかの阿保丸出しの姿で戻ってきました。

同時代のお寺の坊さんでやはり寺に伝わる聖徳太子像を金色に塗りたくったものがありましたが、浄土の荘厳を表現するといえどもあそこまで(髪の毛まで)やるか?とがっかりさせられたものです。海の如来さんは仏具屋の手だったことから螺髪は金ではありませんでしたが。

「昭和一桁生まれだから」と私はその傾向を断じ自身納得させていますが・・・「修繕」だからと安直に手を加えれば本来の姿を劇的に変えてしまいますね。センスの問題もありますが。

 

特に拙寺の海の如来さんの台座もその銘文まで見えなくなってしまうほど。手でなすって金箔を剥がしてやろうか・・・とも思うほど分厚く。

 

その伝承である「海の如来」と呼ばれる由縁は文字通り漁師の網にかけられてあがったというものですが、静波の明照寺の梵鐘(小島蕉園)の出所も海でした。

全国どちらにでもある「海から 川から・・・」はまず取ってつけたような作り話でしょうね。

本当のところは誰も判りません。

常識的に「そんなワケない・・・」ですからね。

 

先日も中村氏が「そんなワケない・・・」とばかりに拙寺本堂の建築材について相良城との関りを否定されていたことを記しましたが、中村氏以前の相良田沼史の先達後藤一朗氏はその書籍の中で拙寺本堂について触れています。

 

この書籍は一昔前の相良田沼意次研究の第一人者後藤氏によるもので、その意図するところは田沼意次への誤解を解くことです。

今の田沼評価変遷のその端緒ともいうべき道を開いた方ですね。

発刊は1971年。

副題に「ゆがめられた経世の政治家」とありました。

 

拙寺関係の記述には櫓太鼓もありますが、拙寺本堂の移転再建のきっかけが相良町誌にはない「焼失」とありますが・・・。

ここのところも実は何が本当かわからないのでした。

要は城の正面にあって邪魔になるということ、内々の了解があって火をつけたのではないかという推測もあるのでした。

 

 

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2025年

2月

08日

奥の院弥勒堂 新緑の岡寺と拙寺の膨らむ梅

寒さもピークといいます。

午前は本堂内での作業、陽があたらない本堂は冷えました。

午後は部材の購入とあげ経2件。

 

「来週半ばからは気温は上昇傾向」とのことですからただそれを信じて今を抜かりなくすごすのみですね。

未だインフルだコロナだとその罹患について話題にあがる昨今。

境内では「先日の私はこうだった」の如く無事回復の安堵からか軽やかに話がはずんでいます。

その手の話題(発病と症状)は次々に耳にしますが、本当に人それぞれ、千差万別、その時罹ってみなくてはわからない・・・といった感じ。

それは今回は軽くても次はどうなるかなどわからないということであって、毎度私だけ「軽く済む」など思うというのは甚だしい迷信なのですね。

まぁ私なりのウィルス対策というのは・・・食べて寝てストレスをためないといったところでしょうか。

「寒い」と感じることがまたストレスでしょうから心も体も暖かくして過ごしたいものです。

 

扨、岡寺境内の様を記してきましたが、それら画像は新緑の頃のもので思えばその季節が待ち遠しいものです。

 

岡寺の中腹に奥の院なる場所があります。

通常その名称の場所といえば寺の境内諸堂から更に山を上り詰めたようなところにあるものですが、こちらは殆ど本堂から僅か、昨日の宝篋印塔に上る道すがらといった感じ。

 

石窟の前に覆堂の如くの屋根がありその奥に弥勒菩薩坐像が鎮座していました。

散策中「ふ~ん」と思われたのが木に貼り付けられた警告文。

まだアジサイの季節ではありませんが、挿木には絶好の時期でしょう。

「これは岡寺のアジサイ」と悦に入る姿が思い浮かびますが・・・

アジサイの挿木は比較的カンタンと聞きます(私は梅雨をイメージしますので好みではありません)ので気軽に「プチっ」という具合に持ち去る観光客がいるのでしょうね。

 

最後の画像は昨日の拙寺境内。

これからどんどん季節は進んで行きます。

否応なしに、すべてが「あっという間」。

 

 

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2025年

2月

07日

龍蓋寺岡寺開山 法相宗僧正義淵の宝篋印塔

ここ1週間は辛抱の時間、何とか(笑って)やり過ごす他はありませんね。

まぁ大概の地で悩まされている災害級降雪が皆無というところは有難いことです。

 

拙寺開祖は戦国期に信長を嫌って近江安土から遠江に辿り着き顕如さんの号令に従って再び大坂本願寺―紀州へと赴いてからしばらく「本能寺」を機に本格的に道場として宗旨を伝えるべく当地に戻ったのでしたが、どう見てもこの駿遠の地は真宗には馴染みの薄い場所です。

 

戦国末期の大勢としては真宗王国とも言われる北陸方面でありそちらに向かうという選択肢もあったはずですからね。

越前加賀能登越中越後です。

たまたま拙寺開祖の今井権七に三河赤松の叔父の伝手があったとはいえ、何も六字の名号(南無阿弥陀仏)の感覚に縁遠い地へ向かうことは大変な冒険だったのかも知れません(真宗寺院で大坂本願寺籠城組、解散組~天正期~が地方へ下って道場を開設し今に続いている寺は古刹からの改宗組を除いて案外多いものがあります)。

もっとも拙寺には後から次々と近江から多くの人々を呼び寄せている感があります。

その件、現状の檀家さんたちに繋がっていますね。

 

要は「遠州は良いところ 雪は無いし温かい 移住するなら当地へ」のようなキャンペーンが近江辺りで繰り広げられていたのかも。

 

ということで今の私どもが胸を張る南遠住環境の良さはすべてご先祖様のおかげということになります。

もしあの時、別の地に向かっていたら・・・このようなお調子にのった日々が送れなかったのかも。

「寒い寒いといっても知れている」(「奥の墓道」氏談)。

それもあと少しの辛抱。

境内ではようやく梅が一輪開花しました。

 

扨、岡寺の岡のさらに上、本堂を見下ろす岡。

僧義淵の墓と伝わるの宝篋印塔があります。

岡寺の開祖、法相宗義淵のイメージは国宝に指定されている座像

がありますのでこちらを。

 

南北朝中期(延文五)の銘のある宝篋印塔です。大きな欠損も見当たらず、永年にわたりこの岡の上から明日香の地を見下ろしていたことでしょう。

 

以下奈良県史より。

高さは108cm花崗岩製。

基礎側面四方に輪郭を巻き三面格狭間、一面に次の刻銘。

竜蓋寺

如法経(法華経)奉納

延文五年十一月廿日

(あと二行判読不能)

 

塔身月輪内に金剛界四仏の種子を刻み笠下二段上六段、隅飾りはニ弧輪郭巻き、相輪も完備する。

 

 

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2025年

2月

06日

龍蓋寺岡寺 三重塔は昭和61年製

昨日も一日中外仕事。

水盤は久しぶりに氷結し、なお寒風ビュービュー。

朝方は室内5℃。外は氷点下だったよう。

天気予報は大当たり、各地でドカ雪のニュースがありました。

あの短時間での強烈な積雪を見て、これだけは調子にのらせてくれと言い放ったのが、「雪下ろしなどしたことが無い」と。

 

軽口を叩くとまず、その「口」に因んだ因果の法則に地団太を踏むことになるというのが人の道の常です。アメリカの統領の軽口(ガザはアメリカが管理)には呆れるばかりですが、まぁ傍観者としてはその沈黙の機会を待つことにしましょう。仏教では必然ですが・・・さて。

 

また私には今後そういった豪雪地帯に住まう予定がありません。

不測の事態でということもありますが、私が逃避する地といえば沖縄以外考えられませんので「雪下ろし」なる作業とは一生無縁でしょうね。

それはそれはあの異常な雪を何とかしなくてはならないという日々の苦痛は気の毒に思います。

そこで「体験雪下ろしツアー」など企画するのはダメか?と奥方が。

結構あの仕事は命がけかつ、疲労度が著しいものがありますからね。余程の酔狂な人でなくては無理な話。

気軽にボランティアというワケにはいかないでしょうね。

 

沖縄といえば東京の「女墓場放浪」から「ジャングリア沖縄(JUNGLIA OKINAWA)行きてぇ~」と。

さすが独身、お金に余裕があるようで。

今年の夏に今帰仁(なきじん)村の山の中にオープンする娯楽施設。奥方は「いい歳こいて・・・」と言い放っていましたが、私としては何もないただの森、大自然を「ぶっ壊してまで・・・」との思いの方が強し。

 

那覇からの距離もお気軽とは言えない距離、ホントに「客が来るのかよ~」とも。インバウンド期待なら尚更行かないでしょうね。

今帰仁といえば今帰仁城と鎮西八郎為朝の運天港の碑。

行くならそちらに再訪を。前回は40年近く前のことでした。

 

扨、岡寺の塔。十三重石塔、三重塔も新調されたもの。

以前にあった三重塔は倒壊し、その材は仁王門建造用にリサイクルされたとも。

遥か昔にここにあったということで「再建」は悲願だったのでしょうね。

それにしてもどのくらいの金額がかかるものか・・・想像を絶する額なのでしょうね。

 

 

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2025年

2月

05日

龍蓋寺岡寺 龍蓋池の伝え 塑像如意輪観音は珍品

昨日の殆どの時間は大工仕事。

各掲示板の更新です。

鐘楼に掲げた「時鐘御用」と相良誌から、抽出した拙寺の件を記した看板など当初新設してから既に10年近く経て殆どボロボロになっています。

道路に面した掲示板兼フェンスのポスターも酷いものです。

まぁぼちぼちやっていくこととします。

 

昨日「こりゃまいった~」と思ったのは昨夕放映された田沼関係の遺構を巡る民放番組で案内役の史料館学芸員長谷川氏とレポーターのバックに拙寺の物置化した旧玄関が映り込んでしまったこと。

除夕鐘以来片づけに至っていないゴチャゴチャ乱雑に置かれたそちらの様が・・・奥方が「そんなとこ映すなよ~」。

そこも何とかしていかないと・・・宿題ばかり増えていく。

 

扨、昨日の岡の上の岡寺から再。

仁王門①②を抜けて突き当たるのが岡寺の古くからの寺号(龍蓋寺)の原点、龍蓋池があります。

その伝説がベースとなった参詣のご利益として「悪い龍」(災厄)から免れることができるなどいうお話が出来たのでしょうね。

 

本堂⑥の本尊は塑像の如意輪観音。塑像としては日本一大きい

といいます。

開山堂は談山神社(妙楽寺)からの移築。廃仏毀釈のドサクサの際。元は妙楽寺の護摩堂だったそう。

 

⑧の鐘楼は「どなたでも~」とありますが、私は遠慮させていただきました。

⑩遠景の向こうの岡の下に橘寺が見えます。

 

 

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2025年

2月

04日

悪龍の池に蓋 龍蓋寺 通称岡寺重文仁王門

千葉県内の法要に出向いていた息子から法務終了後に電話がありました。

ナビに浜松の自宅を入力したところ所用時間5.5時間の掲示となって「一瞬クラっときた」と。

途中各所で休憩を取りつつ無事に帰宅できたそう。

心残りはお斎を誘われたことだと。

どうしても明るいうちに家に着きたかったので遠慮させていただいたといいます。

致し方ないでしょうね。都内の通過を控えているとなれば不安は一層増幅しますからね。私であってもそうあったことでしょう。

 

これから数日の「最強寒波」についてメディア各注意呼びかけがありますが今回の件、終わってみればうまいタイミング・・・

有り難き仕合わせでした。まぁ東海・関東の平地には降雪はないようですが。

 

昨日、御門徒の伊藤才次郎氏から直電が。

時折私の携帯電話に連絡をいただいていますが、今回の件、酷く驚かされました。それが・・・

「先月末で店を閉めた」と。

失敗しましたね、1月の体調不良やら繁忙で「お店に行く機会がまったくなかった」(奥方の後悔)。

聞けば予定より(閉店を)早めたようですが、水槽、冷蔵庫、冷凍庫の更新に「500万円かかる」ことと店舗にも雨漏りがあるそうです。特に冷凍庫の状態は尋常ではなく、「スゴイ異音」により怖くなって電源を切ったと。

設備の維持、再投資が一番のネックなのでした。

当初は継承者の件を明るく話す様がありましたので残念このうえないことです。

相良での老舗廃業の話が次々と出てきます。某民宿の件も先日耳にしたばかり。

酷い様です。

田沼相良・・・で浮かれているのは私だけか。先の事も知らずに。

 

扨、談山神社の山を明日香側下りれば石舞台。

そちらから少々北方向に行くと岡寺があります(場所はこちら)。

「岡寺」は通称で「龍蓋寺」(りゅうがいじ)という名もありますが、なぜかこの岡の寺、「岡寺」が正式名称になっています。

元はといえば興福寺系の法相宗。

そちらから真言宗への変遷は他の奈良古刹と同様ですね。

 

画像は重要文化財の仁王門。

 

 

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2025年

2月

03日

鷺山城道三碑と礎石の伝承 ポスト近くの不審サイン

天のお達し(首都圏降雪予報)は寒いながらもただの雨という恵となりました。

冷や冷やさせられましたが、息子は何とか印旛沼近くの法要(通夜)に「余裕で間に合った」よう。

お弔いの方も滞りなく勤修して無事浜松へ帰還してもらいたいものです。

 

節分寒波とかいうそうですが寒いですね。

数日前に奥方と門前のポストがある木戸を開けて、買い込んだ灯油のポリタンクの搬入を行っていると奥方より「コレは御前の仕業か?」と。

はっと見れば、幾筋かの縦線とその上に文字のような記号のような印がありました。

同様の素材、薄墨のようなスグ消せるようなもので記されていました。

しばらくたって見れば見えなくなっていましたので奥方に聞けば「ブチ消してやったわ・・・」と勝ち誇っていました。

 

ひょっとすると闇の世界(強盗、窃盗、空き巣)の暗号伝達記号である可能性もあったわけで。私は画像を撮影しようと考えていましたので、「早まったことを・・・」とだけ。

どのような情報を伝達したかったのか分かりませんが、とにかく注意するにこしたことがありません。

一応は選択肢、ターゲットにされたということを念頭に置かなくては。

 

いますぐご自宅ポスト周辺をチェックしましょう。

記号、文字等心当たりのない「しるし」に気づいた場合、注意に注意を重ねることが肝要です。

ドアにアラーム、家屋周辺にセンサーライト、カメラを設置しましょう。割安になったトレイルカメラもあれば安心。

特に、心配な方はまずは警察に相談してみましょう。

私は五感頼りに早期察知して、運試しの抵抗を試みることにします。まだまだ強がりは言えますから。

 

扨、黒野城は秀吉時代に作られた城で、当初入った加藤氏は元はといえば斎藤龍興の家臣。

岐阜と言えば金華山という大きな山城とスケールは小さいながらも対岸の小山、美濃の歴史からすれば土岐頼芸、道三、龍興の名があるの鷺山城の方が腑に落ちるところですが、黒野に平城を構えさせたのでした。

 

鷺山城は道三滅亡とともに廃城になっていますが、城址南の神社側の斜面から大きめな石塊が発掘されたといいます。

地元には鷺山城の礎石との表示がありました。

廃城となって礎石等、転用材として各移動することがありますが、一つだけ発見されても確証を得られませんね。

他所、移動先など同様のものが見つかっていれば検証できるというものですが・・・

ということはたまたま地中から出てきた石・・・という域に納まってしまいます。

 

今後、新発見史料の何かが出てくるかも知れません。

歴史というものは時間の経過で何かの発見が「あるかも知れない」と期待を持ちつつ放置しておく忍耐も肝要。

わからないから面白い・・・。

 

 

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2025年

2月

02日

旧黒野別院脇 本願寺派 専長寺 明善寺

首都圏に降雪予報があってやきもき。

2日夕刻に千葉印旛沼近くで通夜と翌日の葬儀に息子が行くことになっていますが、「よりによって・・・」の溜息。

2日は拙寺にて法要があり、また3日午前は本堂内部を見学に来られる皆さんがいらっしゃいます。

以前からの約束があって私が不在になるわけにはいきませんでした。

 

そして息子の言説を聞いていると如何にも甘っちょろい。

雪の怖さを知らないということですが、それがどうしても歯がゆいのです。

大和の祖母の家で前泊し「早く出るので大丈夫」と言いますが、私は首都高なんて閉鎖されているかも知れないし、自分は大丈夫でも他者(他車)の失策によって「道路は1mmも動かなくなる」と脅しますがどこ吹く風の躰。

特にトレーラーの雪上走行力は貧弱そのもので、それらが前方でスタックしたり走行不能になれば後ろを走る車も身動きがとれなくなりますからね。

それでいて彼の車のタイヤはスタッドレスではなく、チェーンも持っていませんからね。

 

「辛い思いをするのもいいが、通夜に遅刻するのは絶対NGだ」と告げていますが、経験不足、無知の輩という者はこれまでたまたま運よく生かされてきたということがわからない。

私は前々乗り込みの2連泊を勧めていましたが、どうなることやら。天にまかせる他はないのですが。

南岸低気圧がずっと南を通過してくれれば有難い。

 

印旛沼といえば田沼意次が手掛けようとした地で、私も機会が合えば是非にといった地。周辺には城跡たちもあるようですからね。

 

扨、黒野別院跡の本願寺派光順寺について昨日記しましたがこちらには他に2件の本願寺派のお寺がありました。

昨日は光順寺の石標の「加藤」について不詳ながら記していましたがこちら専長寺は黒野城主の加藤貞泰がこの地に移転させたといいますので、この辺りの本願寺系のお寺は加藤氏の息がかかっていた感ありますね。

 

一方の明善寺は黒野小学校の前身といわれる寺子屋があったといいますが、創建は拙寺の創建今井権七と同じ大坂本願寺で顕如さんの下で戦働きをしていたことがうかがわれます。同じ釜の飯といったところか。

 

 

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2025年

2月

01日

旧黒野別院脇 本願寺派光順寺

夜明け前までの強風は弱まったもののやはり冷たい風が吹きまくる境内。

昨日も大工さんから貰った木材残材の回収と整理、そして花ガラゴミ袋スタンドの製作を。

本日はうまいこと完成できましたので、これで4袋が設置できることになりました。

 

今後、テラスの更なる整理整頓を試みます。

捨てずに溜め込んでいるばかりですからね。 

かなり無茶苦茶で、1回入れば3回は躓く難所と化しています。

 

拙寺本堂がリサイクル材と相良城建築残材で作られていることもありますが、当家は代々「もったいない」が伝承されているのでしょうかね。

 

逝去された中村肇氏は旧来父と何があったのか存じませんが、拙寺に対してかなり厳しい見立てをしていた印象がありました。

私が入寺して小和田哲男先生をお呼びして講演会を本堂で催すことになった際、尋常ではない様を感じました。

 

①大澤寺に行って「(小和田氏を)吊るし上げてやる」と周辺に吹聴していたこと

②虫の居所が悪かったのか拙寺で催された史蹟調査会の会計報告会で「全却下」と怒りまくっていたこと

③氏の教室の生徒に大澤寺のリサイクル材と相良城残材での建立は松平定信のお達しがすべてであり「相良城とは関係ない」と氏の持論を展開していたこと等ありました。

 

①はその件、事前に私の耳に入ったため、別の筋を通して、「大人しく聞いていて・・・」と説得していただいたという次第。

これも氏と仰ぐ教室の生徒たちへの「私はスゴイ」の強がりアピールだったのでしょうが・・・

理由は「お寺の支出で私が招いた講師」でありお寺で講演(制限なし入場無料)をするので「無茶は容認できない」というのが私の主張でした。

③に関しては父が確りと説明していなかったこともありますがあの床下リサイクル材の件も、宮沢氷魚氏来訪の際に見ていただいた史料など、ここ数年くらいの間に私が初めて公開したものですからね。氏は目にしていないのでした。

 

ある人はその中村氏の論によって大澤寺への消火設備の設置は不要である(文化財遺構として無価値)との方向になったといいます。

その消防設備の充実については今の私どもの課題になっていますが、そのようなフェイク情報を氏は過去に色々なところで展開していたようで、その意が未だ各人の心中に生きていることに驚かされています。

 

ちなみに中村氏は郷土愛の人で「勝間田氏大好き」。

小和田先生といえば今川氏研究の第一人者です。

まったく関係のない件ですが「今川は勝間田を滅ぼしたので敵である」といった発想だったのでしょうね。

 

あの時のことは忘れようがありませんか小和田先生には「こうこうしかじか」と事前に説明していました。

すると先生は「そんなの慣れているのでまったく大丈夫!!」と。

そういえば榛原高校の歴史部から発展した郷土史家が戦国期研究で論文多数の教授に太刀打ちできるはずもなく。

却って大恥をかくことになったかも知れませんね。

その時間、氏の動向を見守っていましたが、ずっと大人しくしてお帰りになりました。

私は内心返り討ちにあうところなど視たかったのですが・・・

 

扨、画像は先日記した黒野別院跡にある本願寺派の光順寺。

山門と鐘楼は別院からの移築とのこと。

山門脇の門柱の「加藤」とは加藤貞泰からなのか?不詳です。

 

 

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2025年

1月

31日

全国花のまちづくり牧之原大会 大河ドラマ展にて

昨日も低温、風強め。

テラス物置作業場の片づけから始めて、それを材に告知看板を二つ製作しました。

そのあとは花ガラごみ袋スタンドの追加分の製作を。

こちらは以前のスタンドを元にリメイクしたのでしたが、奥方より「大きすぎてダメ」とNGが出てしまいましたので体も冷え切ったこともあり15時には作業を終了、灯油を購入に走ったあとは庫裏でうとうとした次第。

寒かろうが暑かろうが怠惰な毎日です。

 

扨、昨日の資料館、大河ドラマ展の件つづき。

そちらでは一部を除いて撮影OKでしたので撮ってきましたが、表記「全国花のまちづくり牧之原大会」のポスターがありました。

私が勝手に「花の井」と宮沢氷魚氏トークショーにNHKが手配された生花をこちらに並べました。

現場ではバラバラに展示されていましたが・・・

 

そして脈略なく意次の詰将棋とお土産コーナーに並べられた「意次せんべい」。

品物の展示等、すべておまかせしていましたので案外その出来は上々。さすがプロに委託しただけありますね。

たくさんのお土産に溢れていましたが地場のものは・・・。

珍しい物多し、よってついつい購入してしまいました。

 

 

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2025年

1月

30日

オープンしたばかりの大河ドラマ展へ 史料館 

昨日は朝から低温、風強めのコンディション。

ただし寒さもこの時期になると案外体の方が慣れてきて、平チャラで動けるようになります。

 

午前中は昨日集めた木材の整理から。

満足のいく整理整頓ではありませんが、一応「片付け」という前向きな仕事が始まり私の作業場の立ち位置くらいは確保できるようになるでしょう。

 

昼すぎに奥方と史料館へ。

先般オープンした大河ドラマ展(2F)と新発見の殿のお国入り史料(1F)を見るためです。

一階の史料展示場は入館料220円が必要ですが、大河ドラマ展は無料です。

②は当日の御城印を兼ねた入場券になります。

 

史料館は長谷川氏はじめ関係者の労力がつたわってきました。

やはり学芸員長谷川氏はここ20日以上休みナシのよう。

それを聞いて奥方は「え~、死んじゃうよぉ・・・」。

楽しければそれでいいのですがね。

 

「ドラマ館」(入館料アリ)ではなく「ドラマ展」(入館料ナシ)の展示とあってパネル等の紹介が主となりますが、こちらのセッティングは史料館スタッフではなくNHK側で手掛けたとのこと。

雰囲気がいつもと違うシャレた感じになっていました。

手元の南鐐二朱銀を持参してドラマに使用され展示されているそれと比較。

まぁそれは意味がありませんでしたね。殆ど同じに近いでしょうから。

 

ドラマの主役は蔦重でありその役者なのですが、私の目当ては殿と若殿のパネル。

それは致し方ないところでしょう。

 

殿のコメント⑨を一読してニヤリとしながらそちらを後にしたことは言うまでもないこと。

先日、若殿も拙寺の印象を口にしていたと聞いていましたが、殿からもそのようなお言葉をいただいたことは恐悦至極。

 

 

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2025年

1月

29日

「そんじゃあ893と同じじゃん」 黒野別院跡

朝「ふ~ん」と特に冷徹な感覚になったアメリカからのニュースがありました。

人工知能用の半導体製造で飛ぶ鳥を落とす勢いの「NVIDIA」の株価(時価総額世界一)が暴落して一夜で91兆円が消えたと。

 

トランプのアメリカ第一主義という大層な旗振りの掛け声が聞こえていますが、その世界一の技術独占とも思えた「NVIDIA」

をはじめ足をすくわれた感あるのが今回の事案。

きっかけが中国の企業生成AI(人工知能)のスタートアップ「DeepSeek(ディープシーク)」が新モデルを発表したからですが、米オープンAIの「ChatGPT」を超えるといわれています。

スゴイのが開発費(9億円)の安さ。ちなみにメタの1/10といいますから・・・。

 

中国企業ですから「天安門事件」の検索をすると「できない」と応えるそうですが、そんなことはどうでもいいかも。

これからアメリカ大陸を除いた地域でDeepSeekが席巻していく

のでしょうね。

私はアメリカ第一主義に「いっちょう乗ってやろう」など考えていませんし縁がないことですのでこれは面白き現象だと思った次第。どうでもいいことといえばそれ・・・

それにしても中国企業・・・おそるべし。

 

休憩中の大工さんから溜まった廃材を処理するので「使えるものがあるか?」と声をかけられました。

私が日曜大工用に活用したい材料のことですが、「ヨシ!!」と欲張ってたくさんの材をキープ。

これにより物置は足の踏み場が無くなってその整理にかからなくてはなりません。

 

休憩中の雑談の中で御前崎を主にお寺の本堂建て替え事案が各有るがどちらもべらぼうな金額になっていると。

昨日記した平田寺は銅葺き屋根の改修でしたね。

海外のニュース番組で銅線の盗難が頻発していることを報じていましたが以前より銅の価格が1.6倍になっているからだと。

銅に限らず、あらゆるものの価格が値上げラッシュ。

拙寺会館の建設遅延の原因もその件少なからずあったワケで、現状箱物建造は信じられないような見積が出てきます。

大阪万博建造費と同様その経費は見積通りに収まることはまずあり得ません。

公共の場合は別格といえるほどその数字は当初のものと乖離するというのが常ですからね。浜松のドーム型球場の建設も「どうなることやら」です。

 

その際、ある大工さんが「あそこのお寺」は檀家数が少ないようで1件当たりの拠出金が130万円ということ。そこでそちらの檀家さんが「それではやめます」と退去を依頼すると「では退去料100万円」と宣告された例を話していました。

それを聞いた別の大工さんが「そんじゃあ893と同じじゃん!」と一言。

内心、私どもはそのように見られているのだな~と感じさせられましたが。

 

しかしそちらの住職は古いタイプの方なのかも。

本堂維持の気持ちは大いにわかりますが退去料の論拠などまったくありませんからね。偏に「信教の自由」だからです。

今は入檀も脱退もフリーなのですから。

当流は「無碍の一道」。

(本堂が)潰れる時は潰れるだけ。

少しは抗いたいものですがね。

 

昨日は夜中に地震で目が覚めました。

良寛さんのメッセージを思い出します。

 

「災難に逢時節には 災難に逢がよく候

       死ぬ時節には 死ぬがよく候

         是ハこれ 災難をのがるゝ妙法にて候」

 

扨、黒野城近くに本願寺黒野別院跡があります(場所はこちら)。

岐阜別院に編入され廃寺。

今は老人福祉施設「黒野あそか苑」なる建物になっています。

この「編入」という名の廃寺。

色々なところで見聞きしますね。

宗教法人は「893と同じ」というか、あくどい筋に法人格を売却して夜逃げ、なども聞くようになりました。

生き辛い世の中です、いろいろ。

それはお寺に限ったことではないでしょうね。

 

 

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2025年

1月

28日

古のまきのはらを巡る旅 特別公開

朝から「ゴミ袋スタンド」の製作。

安物の材木は店頭の段階で既に反っています。

そんな木材を切り貼りしてもピッタリ納まるワケがありませんが何とか奥方の合格点はいただけたよう。3年ももてば上出来でしょう。

問題はお盆や彼岸の時期。

花ガラゴミの量に対応できるかどうか・・・

無茶な捨て方でなければ何とかなると踏んでいますが。

今、奥方はゴミ出し監視役になってピリピリしています。

 

作業もひと段落してジャンバーを脱いだタイミングで史料館の長谷川氏が。

26日オープンで月曜の休館日・・・と思いきや、特別に「昨日の今日ということで急きょ開けることになった」とのことで忙しそう。いつものパートさんはお休みということで。

そしてまたここ毎日曜の当地はイベント続きで彼が動きまくっていましたので、一体いつ休みを取っているのだろう・・・不思議です。

 

来訪の目的は一昨日に撮影した画像色々、私の端末への転送と新しい広報パンフの更新のために本堂の画像を撮影に来られたのでした。

1ショット「推しはどちらですか?」とのこと。

私は「やはりご本尊」ということでお願いしました。

 

③のちらしの画像の更新作業ですから、こちらは現状、「工事中」の画面。以前の物は私とミス・ユニバースの宮崎氏とのツーショットでしたが今回は阿弥陀さんのみになります。

 

①は「特別企画」のちらし。

期間を決めてのいろいろですが、拙寺の場合は「特別」ではなく通常通り。

たまたま法事もなく、庫裏・境内でドカジャン姿を見かけたら「お声かけください」といったところですね。

タイミング次第で。

 

②は平田寺のオリジナル。

聞くところによれば平田寺は屋根改修の予定がありその経費が何と「2億円」の予算だとのこと。

既に銅葺き屋根からは雨漏りが発生しているそうですから・・・。

胃に穴が開くような仕事が控えているのですね。

維持管理は「頭が痛い」どころか、心身ともに疲弊しますからね。

 

 

 

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2025年

1月

27日

若殿 !!ようこそ お待ち申し上げ  「意知」氏との機縁

ゴミ袋スタンド用木材の購入やら境内仕事でドタバタしていましたが朝から見知らぬ方々が境内でうろうろ。

本通り辺りの様子も「いつもと違う・・・」という方も。

午後から「い~ら」で催される宮沢氷魚氏のトークショーに参加される方たちの時間調整だと思い、境内の方たちへ声掛けをしていきました。

「どうぞお気軽に本堂へ・・・」。

土日はできるだけ堂内照明をONしなくてはならないようです。

 

トークショーは約一時間、遠近関わらず多くの聴衆が集まったそうですが、さすがに女性が目立っていたとのこと。

トークショーの後は地元NHKのアナウンサーによるインタビュータイムがあったようで、拙寺の本堂床下の廃材利用の様が印象にのこったとのことを聞きました。

よって急きょNHKカメラマンが日没後に再度訪れてそちらを撮影していかれました。

 

聞けば来週火曜日28日の1815~のニュース番組のどちらかで放映されるとのこと。

ただし主題は宮沢氏のトークショーですからね・・・。

 

4台の車を連ねてスタッフ御一行とともに到着したのでした。

スタッフが「あの方です」と教えてくれましたが、とびぬけて身長か高いのでスグにわかりました。

私の第一声は表記「若殿~ようこそ」でしたがニッコリ笑顔で返してくれました。

イキナリ「住職とツーショット」と牧之原市広報の方からありましたが・・・身長さの凸凹具合よ・・・

 

時間の少ない中、端折りました。

そう事前に理解して私は説得力ある史料をと画像の明治12年に御上に提出した拙寺遺物色々の目録の控えを用意していました。ちなみに提出者は拙寺十一代祐曜が記したもの。

「義誉」なる名は相良一橋領時代の七代目の代官、小島蕉園が命名。その妻が滝江で清水の堀江山専念寺から嫁入りした人になります。

この件を説明しているシーンが早速宮沢氏のインスタに紹介されていました。

 

寄付物

本堂材木 田沼玄蕃頭

について「貴方様」の弟、四男の意正の名になっているのは破却時にはその差配がありませんでしたから田沼意正(玄蕃頭)が文政六年1823に相良藩復帰の際に「実は・・・」といった具合でそのお墨付きを得ていたかと。

 

また「」についてもつづけて。

「貴方様」の妹にあたる千賀姫が嫁いだのがこちらの西尾隠岐守で太鼓は二の丸太鼓櫓にあったものです・・・とこの書面を提示して説明させていただきました。一目瞭然の関連性。

そしてまた結界の竹についても城内旗指物の竹です・・・と紹介すると漆の部分について「触ってもいいですか・・・」「どうぞ・・・」という会話がありました。

 

昨晩の大河ドラマでは意知さんの出演機会が多かったような。

現物の「人間」としても役柄同様好印象。

優しい物腰、ハイセンス高貴・・・といった感じ。

奥方もいよいよファンになったようです。

「意次せんべい」をお土産に手渡していました。

 

尚、個人レベルの撮影はマネージャーさん、NHKスタッフから解禁されましたが、こちらでそれをアップすることはできません。

顔形そのものに権利を有している人ですからね。

 

書面には他所いろいろ記してありますが、物理的に檀家数150戸であの本堂が建てられるとは思いません。

拙寺三代目祐傳父(成瀬正義)の三方ヶ原戦役の功労により江戸時代はかなり優遇されていたということが推測できます。

「海船役寺」については不詳ですが、時鐘御用、林守御用など各お役を戴いてうまいこと繋いで来れたのでしょうね。

 

そういった御用は実際に働いているのは使用人で、要は役職手当で少々ズルめです。

拙寺七代目祐信が文化二1805年に亡くなるまでの4年間、一橋治済から「老齢年金」の類をもらっていたこともそういった流れでしょう。

 

 

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2025年

1月

26日

岐阜古市場 小女と大女の伝承 黒野西町 楽市の現場

寝ても覚めても昨日記した「花ガラ」の件が思い浮かんで頭から離れません。

そういうのをストレスというのでしょうね。

些細な事といえばそうなのですが、お寺としては痛切な問題です。

お参りの方から「他のお寺さんはどうなってんの?」という質問がありましたが、私にはわかりません。

花ガラに限らず、ゴミの処理作業は一般家庭よりも多いはずでかつ厄介な問題ですからね。

 

というワケで午前の法要の始まる前にすべての大バックを片づけて家庭ごみ用の袋をセッティングしました。

「はやいがいいや・・・」とばかりに。

勿論、花ガラ処分の変更点(主に小さく切って袋に入れる)についても水屋の前後に掲示しました。

 

すると午後、奥方が殆どの人が「そのまま袋に突っ込んでいる・・・」とボヤキ顔。

そんなことは百も承知の助です。

まだまだこれから~、「様子見の時間でしょ・・・」。

今頭の中は、袋の口を開けたまま自立するスタンドの工作について。

 

夕刻からは本年最初のメディテーションの時間。

しかしもう1年の1/12が過ぎたということですから出るのは花ガラゴミと溜息ばかりです。

26日日曜日午後から宮沢氷魚氏のトークショーがい~らで催されますが、メディテーション参加のお一人(相良)は「抽選で落ちた」と。違う方は親戚の方(菊川)で「3人当たった」と。

 

聞くところによれば、熱狂的ファンの方で九州から応募し来られるというのですから驚きです。

やはり恣意的に遠方者の来訪を期待しているかの如く感じましたが・・・定かのところはわかりません。

午前中の法事に参加した女子中学生も「ひおクン」と呼んでいたくらい。

知らないのは私だけだったよう。「奥の墓道」氏に問い合わせても「知ってるよ」でした。

 

扨、黒野城の⑦図、北西櫓跡の看板、熊野神社(古市場)について。

こちらには大女と小女なる伝承があります③。④は紹介板に隣接した杜、熊野神社(こちら)。

また黒野西町(こちら)の交差点には加藤貞泰の善政の痕跡が。

 

 

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2025年

1月

25日

べらぼう NHKと牧之原市 パンフ完成

好天続きで本堂前ソテツの伐採作業を久しぶりに。

花ガラもガッツリ軽トラに積んで地頭方の処理場へ持ち込みましたがその際、初めてショッキングな宣告を受けました。

 

「お寺の搬入は本日より個人ではなく事業所とします」。

唖然呆然で精算時お財布がカラに。

「事業所」の概念がよくわかりませんが、花ガラ、伐採物の搬出に関してお寺が収益をあげているワケではなく、まったくもってサービスの様な作業。

すると「今お寺というものは花ガラは個人で持ち帰ってもらうのが大勢であって(寺がまとめて出すのはオカシイ・・・)檀家さん個人レベルでゴミ出しをお願いすれば・・・とのご指導でした。

その件奥方に告げると首を傾げていましたが、「事業所」のくくりというものが収益の有無ではなく法人か個人かの違いでそうなるのかも知れません。

役所の窓口で問い合わせればいいのでしょうが甚だ面倒くさい。

 

役所からは別部署ではありますが、協力を惜しまず積極的に対応させていただいていますが、通常のお寺の維持管理について市からケチが付けられるのは・・・ガクッときますね。

 

さぁどうしよう・・・。

これまでの花ガラを放り込んでもらっていた大きなゴミバックはこれにて廃止ということになります(猶予期間をいれます)。

墓参の際に「花ガラを持ち戻れ」というのはさすがに酷ですので、市指定の燃えるゴミ用のビニール袋をセットし花ガラを細かく切って入れてもらうことにします。それもかなり手間がかかる仕事ですから皆さんがその辺りの件をご理解いただけるものか。

夏場の腐敗の激しい時は特に辛いかも知れません。

 

週明けからゴミ袋スタンドの製作にかかることにします。

他に良き方法があるでしょうか・・・検討課題になりました。

 

扨、昨日午前に再び史料館の長谷川氏か。

大河ドラマべらぼうの「NHK&牧之原市」のパンフレットが完成したとのこと。

本堂に置いたらスグになくなりそう。

 

 

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2025年

1月

24日

牧之原市 デジタルサイネージ 本堂内に設置さる

大工仕事の色々が捗りました。

温かくて体も動く。

本堂の北側雨戸のレールの取り換えと庫裏の障子の補修が主たる仕事でした。

本堂雨戸の設置は下部ローラーのサビ取り等含めて走り具合は翌日に回しました。

 

午後からは史料館の長谷川氏・石川氏が大きな機械を持ち込まれていました。

事前に情報がありましたが、これほど大がかりのものとは・・・驚かされました。

デジタルサイネージなる「看板」の設置ですが、史料館・平田寺・般若寺そして拙寺の4カ所に置くようです。

 

外部からのお客さんが来られたら「コレでも見てって・・・」という具合に当方ラクができる代物。

スバラシイのは英語と中国語に切り替えられることですがポルトガル語があったらもっと良かったのにね。

「本堂におあがりください」の案内も付けた方がよさそう。

ということは照明の点灯しておかなくてはならないかも。

 

画面電源のオン・オフは私の担当となりましたが、法事の際におしゃべりしだすと(人感センサー)やかましいので事前に奥方がオフすることになりました。

 

価格は大層な金額のようでしたが50%は国の支援だとのこと。

期限は設定していないそうで、これからずっと市の方で「ヤメにする」というまで継続するとのこと。

 

 

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2025年

1月

23日

黒野城残存遺構② 盛者必衰 驕れる人も久しからず

昨日も続けて無風で温かな日。

お弔いがありましたが、11時からの開式でした。

お勤めのあとに火葬場へとの流れ、ありがちな早朝からではなく日が昇ってからの行動となり血の廻りは十分でした。

どうやら火葬場が混みあっているようですね。

 

発声もまずまずでおかげさま。

その「声」の件ですが、これは第一声を発してみて初めて調子がわかるというもの。

時に劣悪を思う時がありますからね。

かすれる、息継ぎが苦しい、声が出ない、などなど。その日のコンディション、やってみなくちゃわからない。

なぜなら・・・ジジーになったから。

 

当流の葬儀式次第は本山指定の流れにはありますが、耳にした感覚は「お寺によって、人によって違う」というのが当然のところで、それぞれ僧侶が培ってきた音程・発声方法で進めていきますから。

よってお寺、読経する者によって微妙に違うのです。そしてまた違っていてそれでOKというのが当流の感覚。要は坊さんも力量通りのありのまま。

聞いている方が「違う!!」を思うことがあるでしょうが、当方はまったくお構いなしというのがその発想ですね。

まぁ私の声明など「甚だギモン」と感じられる事は多々あるかとは思いますが。

 

先代、先々代と私とでは音程その他まったく違うことは私でも分かりますし、次代の息子ともかなり違います。

調声がやりにくいといえばそうかも知れませんが、それこそ当流ならでは「違っていてそれでイイ・・・」というヤツですね。

 

棒読み系ではなく、音程の変化、スピードの違い(これは結構ランダム)が各あることからこそ、そうなるのでしょうがそれは当流ならではなのかも知れません。

聞いている方も違いが分かるだけスゴイことですが。

 

故人は数えの95歳でした。

ここ5~6年お顔を拝見することがなくなってしまったのでしたが内心「100歳くらいは・・・」などと思いだすたびにその数字が出てきたものでした。

私からすればその95という数字だけでも畏れ多く感じますが、女性の場合、案外90超えを見ることはできます。

ところが男性の場合はその数字は結構に難しいものがありますね。最近の私の感じるところでは80の壁というか70代での逝去が多いようにも思います。

その違いについて諸説ありますが、ここではそれには触れないでおきましょう。皆さんのお考えの通りですから。

 

話が飛びますがアメリカであのトランプが大統領に再選されました。その70代後半で、任期中にその80の壁を超えるという御仁です。

現状、年齢による衰えのようなものを微塵も感じさせないパワーを見せつけていますが、傍観する私としては「どうなることやら」といった感じ。

また日本の文化・仏教的感覚(無常観)に浸っている私としてはやはりコレが思い浮かびます。「春の夜の夢」を。

 

「祇園精舍の鐘の声 諸行無常の響きあり

娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす

驕れる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし

猛き者もつひにはほろびぬ ひとへに風の前の塵に同じ」

 

4年間、のんびり見物させていただきます。4年は長い。

続くものなのかどうなのか?

私であってもこの先どうなるかなどわからないのに。

 

扨、黒野城残存遺構の2回目。

本丸を囲む大土塁上を散策。

 

 

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2025年

1月

22日

田沼意次お国入り「田沼意次の新時代展」 蝋梅満開

夕刻の通夜開式前には小雨の時間がありましたが連日の気温高めの感は有難し。

午前は確りとお日さまの恩恵がありましたが以前からのお約束があったテレビ局スタッフを長谷川氏がお連れしていました。同じ時間にたまたま同じ局の他部署のスタッフが来られて一瞬間、賑やかな境内となりました。

 

後者は「しずおか遺産」に認定された田沼街道とまぼろしの城 

関係の取材の下見でした。

前者の放送日は2月初旬、後者の本取材もその辺りになるとのことでした。

どちらも解説は長谷川氏ということで。

「出たがり坊主」とのうしろ指は御免ですからね。

 

扨、26日から史料館で開催される「田沼意次の新時代展」なる企画の目玉の品①。

1780年に完成した相良城の見分と視察に同年4月13日~23日に意次は相良に来られていますがこれまでその内実については不明でした。

これまで「1回だけ来られた」とだけ。

 

ところが庄屋の矢部六郎右衛門なる人が記した

「安永九年 御地頭様御入国萬覚(よろずおぼえ)」が昨年3月に発見されてその日々行動の詳細が判明したとのこと。

時間が経つことは「恐ろしい」ことですが、こうやってその経過によっては新しい事実が出てくるということはよろしきことです。

 

②③は昨日の境内。蝋梅のよき香りが充満していました。

梅たちもそろそろでしょう。昨年にはもう咲いていましたからね。

④~はテラス2階の様。

⑥はマンゴーの発育状況。その奥にあるのがパイナップル。

今のところ何とか枯らすことなく元気に育っています。

彼らの為にも早く温かくなって欲しい。

 

 

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2025年

1月

21日

美濃黒野城残存遺構 父が三成に毒殺? 東軍へ機転

昨日大寒の朝はお湿り程度の小雨のあと、信じられないくらいの温かさとなりました。

法事はありませんので本堂内気温はチェックしませんでしたが楽に10℃以上はあったでしょうね。

一枚少ない上掛けナシで本堂に入りましたがまったく苦になりませんでした。

 

午後は15時からの般若寺前住の通夜へ。

私が20年前に拙寺住職として相良に来た時から目を掛けていただいて大層なお世話になった方。

そちらの庫裏は史跡調査会の会場としても永らくお世話になっていました。

 

駐車場の余地は無いと聞いて奥方に門前まで送ってもらいましたがそれは大正解、さすがの曹洞宗、大和尚の通夜式、半端ない参列者と坊さんの数で圧倒されました。

一昨日のい~ら以上の・・・

付近曹洞宗のお坊さんたちの大集結といったところでしょうね。有髪の坊さんは私だけだったような。

 

曹洞宗の通夜式に座することは初めてのことでしたが、入堂の際、経本を手渡しされました。

興味深く、そちらをペラペラっと捲ってみましたが漢文ではなく、書き下し文でド素人の私でも少しばかり分かりやすいものでした。

「仏垂般涅槃略説教誡経」通称「遺教経」(ゆいきょうぎょう)という経典で要は釈迦入滅時の最期の説法(遺言)とのことですが内容は厳しい。

「罪悪深重・煩悩熾盛」(歎異抄一条)の私というものがまさに懺悔しなくてはならないような詞の数々が。

良き経験をさせていただきました。

 

帰宅時は奥方に再び拾ってもらいましたが、まだお日様もあって無風、いつもの薄っぺらの装束ながら、まったく寒さを感じることはありませんでした。般若寺さんありがとう。

 

扨、美濃の黒野城(場所はこちら)。

平城で高低差は殆どなしではありますが周囲の堀と本丸を囲む土塁が見事に残存しています。

 

日本城郭大系から。

「城の規模はほぼ方形で面積10500㎡、水堀の周囲6970㎡で高さ5.4mの土塁が残っている。南西側に入場門があり城門の礎石周囲の水堀は、現在も水をたたえている。古図によれば東西・南北ともに1㎞の方形で四方に隅櫓を構え、鉄砲の使用を考慮した城郭であった。」

「黒野城城主加藤左近大夫貞泰は加藤遠江守光泰の子である。加藤氏は西美濃安藤家の一族で土岐氏の旧臣であった。

加藤氏は黒野を領し、土岐氏に属してからは厚見郡今泉の橋爪に住んだ。

光泰はその後、斎藤氏に仕え、のち秀吉に従って戦功をあげ、丹波周山城(または)、近江高島城、尾張犬山城を経て天正十三年(1585)大垣城(または)に入った。

一時秀吉の勘気をこうむり豊臣秀長付きになったが、ほどなく召し帰され佐和山城(または)城主となった。

 

天正十八年小田原征伐に功をたて甲斐国(またはまたはまたは)二十四万石を領した。文禄元年(1592)文禄の役に戦功をあげたが、同二年八月、帰国の途中に急死した。

一説には石田三成に毒殺されたとも・・・

 

子貞泰は幼少という理由で翌三年、黒野城に移され四万石に削封された。

慶長五年(1600)関ケ原では初め西軍に与したが、まもなく東軍に転じて宇喜多秀家の軍を破った。同十五年七月伯耆米子六万石に移封となった。

 

関ケ原の際、当初西軍で突如東軍寝返りはひょっとして事前に調整されていたのかも・・・などと思ってしまいます。

事実かフェイクかわかりませんが「お父さんは三成に毒殺された・・・」などと摺りこまれていれば「よしやってやる・・・」という気持ちに変化するのは自然の流れかも。

 

その転機のおかげで生き残れたのですから・・・ヨシとしましょう。

 

 

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2025年

1月

20日

人混みの恐怖 いーらの密集に突入 どうにでもなれ

昨日も本堂温度が7℃で外は無風。

許容範囲です。

むしろ風がないのはベストコンディションかも知れませんね。

その有無で体感温度は相当違ってきますので。

 

午後からはい~らにて観劇「田沼意次物語」へ。

この時期に敢えてリスクを取りに行く必要があるのか、直前まで悩みましたが、「えいやぁ」の気持ちで山を上がりました。

市長が挨拶をされていましたが、「当日券の発売が無かったことに御叱りを受けた」ほど、前売り券が売り切れてしまったとのことでホールは満員御礼。

 

あちこちでゴホゴホが聞こえてきましたので震え上がっての時間を過ごしました。もっともそこに入ってしまえば「運・不運」の開き直りしかありませんが。

しかしここでインフル感染ともなれば自身の軽率を恨むことになりますから気休めながらマスクは装着していました。

 

次回のい~ら開催のトークショーは大河ドラマで田沼意知役の宮沢氷魚(みやざわひお)氏が来訪するとのこと。

そちらも事前参加400人募集のところ1200人の応募があったということで地元の熱気は案外とスゴイ。

その当日予定では宮沢氷魚氏が拙寺に立ち寄ってくれるかも・・・

との情報を得ましたが、時間が押せばい~ら直行もあるということですから期待しすぎは禁物。

当家奥方は化粧してツーショット・・・とほざいていますので。

まぁお調子にのれば学芸員の長谷川氏にハリセンで叩かれるでしょう。

 

③は帰路、小堤山から駿河湾。

 

 

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2025年

1月

19日

郡山 外堀緑地北門 六葉釘隠しの猪目

昨日の本堂温度は7℃。

先週の3℃とは倍以上ですが、皆さん一言「寒い」。

風もなく穏やかな朝でしたが日差しはありませんでしたからね。

「生きている」故のボヤき。煩悩あっての我ら凡夫ですからそれもありのままの感情でOK、OK。

ただし私の手指の感覚は前回と同じ、冷たくてカチカチ。

血の巡りが悪くなったのかも。

 

先日は静岡県庁の皆さんが視察に訪れたことを記しましたが、方々から頂いた名刺について凝視すると「静岡県スポーツ・文化観光部文化局文化財課」なるやたらと長くて一発では覚えきれないような部署でした。

これは令和六年度の「しずおか遺産」に認定されたことからの視察でした。

 

このほど2件の認定物件があって

1 富士山の清流が織り成した産業革命 小山町・富士宮市

2 田沼街道とまぼろしの城 牧之原市・藤枝市・焼津市・吉田町

がそれです。

 

拙寺にお越しいただいたのは史料館見学のついでとは思うもののこういったカタチで視察→クローズアップされるのは悪くないこと。

問題は「さぁ、これから・・・」ですが。果たして。

 

扨、画像は昨日ブログの続き、郡山の外堀緑地ストリートの北門から。

最後の画像はまず私が目が行ってしまう金物たち。

猪目が光っていますね。

復元門ですからそう新しい代物ではないのでしょうが。

 

 

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2025年

1月

18日

城下町町屋整備の努力 郡山 外堀緑地南門

単管パイプを組んだ自作の簡易シェルターで奥方と私のベットそれぞれを覆っていますが、当家ではもはやそれをも放棄して「2階で就寝」案が再び起こっています。

家屋崩壊によって命が繋いだ人、亡くなった人の差がそこに顕著に表れているといいますからね。

 

息子のアパート入居にあたっても「1階はやめて2階にしておけ」と注進した割に私どもはこれまでずっと1階就寝を続けていました。

反省しなくてはなりません。

震災被災者の残した教訓を生かすことは大事です。

 

扨、城下町と町屋の雰囲気を現代に遺していこうという気概は大和郡山を歩いて思います(昨日)。

洞泉寺にほど近い通りに面した場所に外堀緑地なる保存遺構が整備されていました。

おカネと地権者の調整に莫大な労力がかかることですが、そういった整備が街の雰囲気を盛り上げるというものです。

 

「歴史的遺構を潰して開発」の近代の悔恨は目に余るところ、大和郡山の格別に感動するばかりです。

④は外堀緑地南門~復元~(場所はこちら)。

 

 

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2025年

1月

17日

洞泉寺周辺をブラつく 洞泉寺裏池外濠跡

阪神大震災から30年。地震番組いろいろ。

これから30年の間の地震発生確率が70%→80%にアップというのもありました。

それらを視聴していて「気分が悪くなった」という方はたくさんあったのではないでしょうか。

 

気分が悪くなっても殆どの方は「その時はその時~」とペロっと舌を出しての余裕のスタンスでいるのでしょうが・・・

しかしどうしても「その時」の悲惨の中に自身投入されたこと考えてしまいます。

このほどのニュースで南海トラフ想定域で「避難所不足53万人」とありました。

たまたま生きながらえて家が潰れて外に放り出されることになったとしても、まともな避難所には入れずあぶれ出てしまうということですね。

 

また「避難所」には国際基準なるものがあってその面積の件、8割がその基準未満だといいます。

避難所に入れたとしても狭いスペースのノープライぺイト空間に押し込まれることになるということですから、「車の中」が選択肢となって血栓症を起こして亡くなるパターンが増えるということ。

 

政府は庶民に「準備しておけ」とは言うものの、お国はその手の国民の命を守るための施設であっても、経済活動とは直接関わらないというイメージがそうさせるのか、まったく準備不足の躰です。

震災はいつもの「自己責任」とでもいうのでしょうかね。

稼ぎの良さそうな、華やかなイベントには湯水のごとくカネを使いまくりますが。

辛いことです。「その時」のことを考えるのは・・・

 

扨、洞泉寺境内の病没娼妓石橋屋の墓碑後方に土塁が見えましたが(①の突き当り)そちらには洞泉寺裏池外濠跡なる名称で土塁と石垣が残存しています(場所はこちら)。

大和郡山城の外堀にあたりますが、そういった城郭遺構であっても主郭から離れると市街宅地化はやむを得ないところでなかなかその手の遺物に遭遇することはできません。

 

たまたまこの墓地に隣接してスーパーマーケットの広大な敷地があり、その境界線として石垣と土塁を見ることが出来ました。

②の消防団分団庫の脇から石垣がスタート③④。そしてスーパーの敷地に。

⑩の突き当りが洞泉寺の墓地になります。

近隣の郡山児童公園からも眺めることができました。

 

 

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2025年

1月

16日

意次はラッパーだった?乱舞 洞泉寺石風呂の特異

 昨日は先日伺った例とは別、やはり正月の医院軒並み休診期間中にインフルエンザに感染し、右往左往の末に結局亡くなってしまった方の悲惨の件をお聞きしました。

 

当家奥方もボヤいてしましたが年末年始に「どこだかわからない当番医に行くなど御免だ」とあって「そんなら自宅で~」になるのはやむを得ないことだと。

その亡くなった方の際もまったく当番は「畑違い」の医院だったそうです。それでいて救急車を呼ぶことになるのですから・・・

正月などまったく目出度くない・・・

 

昨日も殆ど一日中外仕事。

静岡県庁からお客さんが3名ほど視察に来られましたが・・・。

 

排水溝に凝縮して詰まった落葉の除去にてこずりましたが風が吹いて落葉たちは何故か境内に舞戻って行きました。

落葉「乱舞」といったところ。あ奴らが再た雨に流されて排水溝に詰まれば・・・バカの極み・・・。

まぁ私は「バカを歓ぶ」宗旨と心得ていますので、いつものことですが。

 

この「バカを歓ぶ」には語弊がありましょうが、他流の坊さんにあっておそらく当流の阿弥陀仏への憧れのような思いを持った方がいましたね。

多くの歌を残していますが一つ記します。私も大好きな歌です。

 

  「おろかなる 身こそなかなか うれしけれ 

        弥陀のちかいに あふとおもへば」(良寛)

 

私が思うに父親も息子も相当なバカ、勿論私も大バカで・・・目出度たさ強烈、乱舞レベル。

 

その落葉はじめ「乱舞」から。

先日記した「相良海老」の意次多能の人に「乱舞」とありましたが、一般的にそれを聞いて「何のこっちゃ・・・」となることは当然のこと。

 

 日本大百科全書[高山 茂]

「とくに定まった型や曲はなく、歌や音楽にあわせて自由奔放に手足を動かして舞い踊るものをいう。平安末期から鎌倉時代にかけて、公家貴族の殿上淵酔 (てんじょうえんずい) で乱舞が盛んに行われたが、このときの乱舞は朗詠、今様や白拍子、万歳楽などを取り入れて歌い舞われた。このような殿上淵酔の乱舞は猿楽 (さるがく) ともいわれ、やがて専業の猿楽者の演ずる猿楽をも乱舞といった。乱舞はその後の猿楽能はじめ、さらには風流(ふりゅう) 踊にも影響を与えたと思われるが、具体的なことは不明である。なお、能楽の乱舞 (らっぷ) は一曲のうちの一節を舞うことをいったようである。」

 

扨、洞泉寺の墓地を散策してからこのお寺の石風呂に会いに。

川勝政太郎氏の日本石造美術辞典にも掲載がある特異な代物です。

川勝さんの掲載では本堂前の地蔵堂の傍に「放置」してある感とのことですが、現在は大切にその安置場が庫裏と本堂の間のスペースに設けられています。

「南北朝時代後期 高50㎝ 硬砂岩 

かたい石をくりぬいて、また手のこんだ仕事がしてある特異な水船である。長さ2m幅1.25mであるが先端部に段を設けているので水船主体部は2mはない。三方に縁を取り、内部四壁にそれぞれ金剛界四仏の種子が刻んである。

先端の段には地蔵堂の地蔵菩薩をはめ込んだという。おそらくこの水船は石風呂であろう。

四方の側面外側は、ある高さだけ仕上げて、下方は荒石のまま残してある。荒石の部分は浴室の床板下に隠される部分と考えられる。」

また、奈良だけに奈良県史7石造美術にも詳しく、サイズに関しては多少の違いはありますが、地蔵堂安置の地蔵に関して「垢弧湯船地蔵」(高147㎝幅90㎝厚さ47㎝の箱型石仏)とあります。

「上面に孔があけられ、地蔵の上から湯を流して施湯したと伝えているがその真意は確かではないとのこと。

一説では、この水船は郡山城築城のおりに石垣用材として他所より運ばれてきたが、城内雨落ち用に使用され、後にこの寺に運ばれたものといわれる。」

 

壊されないで遺されて良かった。

石風呂はたまたま運よく助かったのでしょうね。

あの時代の城郭石垣用材集めはどちらも念入りでした。

現実、郡山城の石垣には石仏・墓石たちが多く見られます。

 

しかしこのような浴槽はかなりの贅沢ですね。

私は地蔵より阿弥陀仏からお湯を・・・など考えますが。

こういった石風呂がウリの銭湯があれば行きたいですね。

 

 

 

 

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2025年

1月

15日

洞泉寺墓地 奈良山野へのあこがれ再び 踏ん切り

「温かい」の予報で喜んでいれば、風が吹きまくって寒い寒い。

朝一D.I.Y店オープンと同時に風呂の引戸のレールの購入へ走りました。

開け閉めの際ガタガタと引っかかるようになってイラっとすること多々、踏ん切りを付けて交換することに。

サイズ合わせのカット作業がありましたが1000円弱でストレスが解消。

 

帰宅すると史料館の長谷川氏が地元民放のニュース番組(テレ静「ただいまテレビ」)の取材の下見にスタッフを連れて本堂に。

私の不在時に奥方が対応していました。

一週間後の取材のようでしたが下見とは気合が入っていますね。大抵の場合ぶっつけ本番ですから。

その日は地元仏教会の長老の葬儀(曹洞宗)に当たってしまいましたので、私はその前日、20日の通夜にお邪魔させていただこうと思います。

 

扨、洞泉寺墓地の3回目。

奈良郡山は人家が集中していますが、奈良の山野を再た歩いてみたい。その欲求に駆られる昨今です。

そういう場所なら寒さなど何でもないというのが不思議なところです。

勿論、木々の間をそよぐ風と鳥たちの声、視覚の先は石垣か五輪塔たち・・・最高のシチュエーション。

大層な夢や希望の類ではないのに・・・踏ん切りだけか。

 

 

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2025年

1月

14日

田沼意次多能の人 将棋四段「相良海老」P32 P33

寒いといってもここ数日から比べれば余程マシ。

気合を入れて中庭のテラスの2階に上がるスロープの改修作業を行いました。

案外腐食が進んでボロボロになっていて、奥方は「危なっかしくて・・・」とそのエリアへ足を踏み入れなくなっていました。

 

材料は会館工事で出た端材です。

うまいこと材料費ゼロで仕上げました。

切ったり貼ったり一日かかりましたが、富士から来られたという3名の見学者が。

先ずは史料館に寄ってきたとのことでした。

ドカジャンに工具片手で皆さんの会話に割って入ることになったのでしたが、初対面の来訪者共通の唖然の姿(貴方はお寺の関係者・・・? )をされるのはいつもの事。

「失礼しました」とはなりますが、失礼でも何でもなし。

「坊さんの仕事などこんなもの(大工仕事・草むしり・伐採・片づけ・・・維持管理)でしょ・・・」まぁ「髪が私よりある」ことも驚いていましたが。

 

堂内の電気を点けてざっと紹介、大河ドラマ第2回の終わりに出た「相良海老」について在庫が少なくなっているのでご興味があるなら今一度史料館に戻っての購入を勧めました。

 

画像はその「相良海老」の田沼意次多能の人の件。

この将棋四段が今相良の将棋ブームの根拠ですね。

「相良海老」は最初のうちは意次を持ち上げて、段々とフェイクな考察含めて酷いバッシングに変わっていきます。

 

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2025年

1月

13日

洞泉寺墓域 山積みの古仏たち 東本願寺能舞台ロケ場

「そりゃ、インフルにきまってらぁ・・・」結局先週末に地元医院に飛び込んだ奥方が医師に言われた言葉。

そして「もっと早く来なくちゃ~ね」。

 

医師が続けてインフルエンザには多種あって「あっちが治ってこっち こっちが治ったら次は・・・いやいや実はコロナだった・・・」などなってドハマりの人はとことんドツボにハマるものだと奥方に。

私がそれじゃぁ「フォーリングダウン」だね・・・。

古い映画ですが何かが一つキレるとそれをきっかけに螺旋的にぷつんぷつんとキレながら人生堕ちていく。

世の中で「異常」と揶揄される人たち・・・それかも知れません。

そして彼らからすれば私が異常。

そんなことは百も承知、驚くことはありませんがね。

 

奥方はまともな薬も処方されておかげで現状夜間の咳は収まっています。食欲はまだのようですが。

しかし免疫の存在というものは不思議なこと。

人それぞれ堕ちかたが違う様に、感染と発症の違いはまったく顕著。

私はごく軽度でとてもラッキーでした。日頃低体温で36℃が平熱ですが、奥方が40℃近く行った際は私はそれでも37.5℃。

まぁいろいろある。

 

大河ドラマは第二回にして「相良」が登場。最後の紀行のコーナーで本編ではありませんでしたが。

何しろ「相良海老」の紹介には驚かされました。

叔父が気合を入れて解読した甲斐があったというものです

(相良海老)。

尚、新訂「相良海老」をお持ちの方に・・・田沼意次多能の人の件はP33になります。

そちら御所望の方はまだ少しばかり史料館に在庫しておりますのでお問い合わせください。この分だとあっという間になくなりそう。

 

ということでクイズ「相良」登場回数は1回ということで。

南鐐二朱銀」(またはこちら)も平賀源内から蔦重の手に・・・の場面で早々に登場していました。

こちらは史料館に展示してあります。拙寺もどちらかにブン投げていますが。

 

東本願寺がロケ地として登場したことも嬉しい回でした。

白書院と能楽堂のロケでしたが、障子を取り去って幕を張り、奥をCGで合成した感じがよくわかりました。

まさかまさかの田沼意次・・・登場頻度は思っていたより高し。

 

扨、昨日の続き洞泉寺の境内墓地。

いわゆる無縁塔の感覚ですが、古仏の山。

奈良でお見受けするタイプの古そうな石仏が積まれていました。

九重塔も見ごたえあります。

 

 

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2025年

1月

12日

洞泉寺墓域 土塁手前 病没娼妓石橋屋の墓碑

今年初めての本堂での法要。

その日の法要を承る際奥方は「本当にその日でいいんですね・・・」と念を押したそう。

「後悔しても知らないぞ !」とは言いませんが、寒すぎる空間に長時間滞留することが予想できるところですので、一応。

「大丈夫」とのことでした。 

すると終了後「よぉ~く警告の意味が理解できたので、次回は十二月に・・・」とのことでした。

 

昨日の本堂は今シーズンの最低気温の3℃。

読経の吐く息も白かったですが、高い天井と広い堂内でいくらストーブを複数用意したとしてもその寒さは痛みにも感じ、流れる時間は苦しく長かったのではないでしょうか。

私の手指の感覚もありませんでした。

 

テラスでは熱帯植物によっては簡易温室をさらに用意してダブルで覆って対応していますが、参列者数もありますが、皆さんの天井を今一つ覆うテント状のものが用意できればもう少しばかり温かくできるかも知れません。

しかし光熱費を考えればこの時節の法要はパスしていただくのが有難い。まぁそういうワケにはいかないのでしょうね。

 

扨、昨日の源九郎稲荷入口に洞泉寺の入口が隣接していますが、その境内は墓域も広く稲荷とは格別に大きいものがあります。

勿論墓域をブラつかせていただきましたが立ち止まって合掌したのが「病没娼妓」なる碑文のある塔です。

「石橋屋」の屋号がありました(こちら⑦図に)。

亡くなると出身地実家には一報は入れるのでしょうが各遊郭単位で弔いを出したのでしょうね。

親が一旦手放した娘というものは永遠の別れを意味していたのかも知れません。

 

過酷な就労で体を壊して亡くなることなど日常茶飯事だったのでしょう。無茶な時代でした。

 

 

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2025年

1月

11日

源九郎稲荷 洞泉寺遊郭 花魁の崇敬があったか

今年初めて水盤に氷。

たまたま山形に転居した檀家さんからのメールで「通常ではない降雪」とありましたが、お天気番組で「山形は積雪2m」と。

唖然とさせられました。

昨日は名古屋で1㎝ほど積雪があったようですが、当地は氷結程度。雪下ろしなどしたことがありませんし今後も100%その機会はないでしょうね。

 

このクソ寒い朝、「のんびり起床した」息子は通夜と葬儀が催される横浜へ向かいました。

朝方は東名高速で通行止め情報がありましたのでその件を伝えるためにメールを。

その際「無理は禁物」と一言。

交通状況と天気の変化についての注意も兼ねましたが、特に御殿場あたりの天候状況の変化を。

 

「チェーン規制が出た瞬間、終わるよ・・・」と毎度口を酸っぱくして言いますが、まったくわかっちゃいない感。

御殿場で規制が出たとして厚木・用賀辺りまではびっしり。

気づいたときは缶詰の中です。

どちらの皆さんも「その時はその時」くらいにしか思わないでしょうが、実際ハマったら、後悔の嵐となります。

来るんじゃなかった、のるんじゃ(東名に)なかった、もっと早く出ればよかった・・・・

 

自分の車は何でもなくとも先頭の大型のトレーラーの一台が、もし不動になれば後続車全滅というのが高速道路の流れ。

そのトレーラー・・・雪が降ると嘘のように空転して走れなくなりますからね。

そんな一網打尽のリスクを味わいたくありません。

どちらにも行かないというのが一番なのですがそれはたまたまのこと、気の毒といっちゃあ気の毒。

内心「断っちまえ~」とは思いますが。

 

扨、洞泉寺遊郭の就労女がどれほどの自由度があってそちらへの崇敬があったのか図り知れませんが、川本桜(昨日)のごく近隣に源九郎稲荷なる社があります(場所はこちら)。

源九郎・・・源義経ということですが彼の所縁が記されていました。

 

川本桜は浄土宗のお寺に挟まれて建っていますが、今一つの浄土宗のお寺の地名にもなっている「洞泉寺」に源九郎稲荷は隣接してあります。

彼女たちが日々の絶望の中、稲荷に一縷の希望を見出さんと手を合わせてきた・・・などと想像できますが。

 

 

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2025年

1月

10日

遊客の「花代」各々 名簿も残存 川本桜耐震パーツ

インフルエンザ感染者数がスゴイとのこと。

ここ2日ほど、会う人会う人「風邪ひいちゃって」の語が。

年末から年始にかけて体調を崩した人がまたぞろ。

当家でも息子、奥方ともに40℃の高熱を叩きだしていましたが、

息子は医師の診断でウィルス系有無の判定はゼロでした。

奥方は診療なし。今更行っても・・・と投ヤリ。

 

息子が「経験上アレはコロナだった」と言っていますが当初検査するもインフルやコロナの痕跡はナシ、「大丈夫だよ~」と医師がお墨付きを与えておいてから帰宅。その後悪化していました。

世には同様に様態が変わってから別の医院へ出向いて再検査してもらうと「コロナでした、インフルエンザ〇型でした」などと宣告される例が聞こえてきます。

おそらくPCR検査ではない簡易の抗原検査との違いからそのような差が出てしまうのかも・・・などと首を傾げるところですが、子供のインフルエンザ脳症での重篤、大人のコロナウィルスの心筋浸潤による重症化の例など、何よりも出来るだけ早い対応が必要になりますので、適当に検査されて「大丈夫だよ~」の気休めで帰宅させられるのはゴメンですね。

「大丈夫じゃね~よ」ってところ。

 

数日前お聞きした近隣であった悲劇もそれ。

ご夫婦で超絶不調の年末年始となってたまたま奥さんの回復が早く休日診療に夫を連れて行ったと。

当初はやはりすべての検査が陰性(抗原検査かPCRか知りません)となって帰宅。

要は我ら家族と同様「原因不明の絶不調高熱」だったのでしょう、他の医院に行って再検査するも陰性だったと。

すると歩行困難に陥ったため「おかしい・・・」と医師に訴えると「痛風」を診断されて帰されたとのこと。

見かねた妻は榛原病院に駆け込んで精密検査に至ると「心臓にコロナウィルスが・・・」に。

その時は既に手遅れになっていたと。

数日前に40代で逝去された件です。死因はコロナ感染症。

医療関係者は「滅多にないこと」ととはいいますが結構にその手の話は耳にします。

医師は「どうしてもっと早く来なかったんだ」と。

それも最後のオチ。あまりにも気の毒すぎます。

 

扨、昨日に続いて川本桜。

先ずクイズのこたえから。最後の分厚いガラスの破片がそれですが、床には水槽が設えてあり、中には金魚たちが泳いでいたといいます。

管理が大変そう・・・女子たちのうち特に若い衆の担当だったのでしょうね。「1匹死んだら給金減額」ありそうなペナルティ。

 

大正期に川本桜が建てられたあたりがここ洞泉寺遊郭のピークだったそうですが、そのきっかけは近鉄線がこちらまで伸びたこと。大阪方面からの旦那衆が大挙するようになったとのこと。

 

こちら川本桜は⑧図の如くお寺とお寺の間に建てられました。

⑤⑥⑦は浄慶寺。⑦は川本桜三階から見た鬼瓦。

 

①②はガス灯の痕跡。③④最近の耐震補強、パーツで部材強化の図。

「遊客名簿」の中身が気になりますが、追跡調査などできれば面白いかも。

ただし子孫の協力などはないでしょうね。「やめてくれぇ~」でしょう。

100年以上前の名簿であっても「今」への繋がりがハッキリすると個人情報として扱わなくてはならないでしょうね。

過去帳と同じか・・・

 

 

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2025年

1月

09日

猪目窓のある川本桜炊事場 建屋中央は吹き抜け

ここ二日間靴下を履いての就寝。

初日は暑くて途中脱ぎましたが二日目は朝までそれで。

何しろ寒すぎるのです。

日中も風がイヤというほど吹いて、心身冷えました。

それでいて水盤の水は未だ氷結せず、これ以上の寒さは私の息の根を止めますね・・・もっと寒くなると脅かされていますので。

 

昨日は今年初めて朝から、のんびりした時間を満喫しました。

奥方は依然不調が続いていて、私が「なんだそりゃぁ・・・」とその弱きを指摘すると、一旦40℃の高熱に「焼かれる」とボロボロになってその復活には時間がかかるものだとのこと。

まぁなるほどですがそろそろ10日になりますからね。

 

当然に私どもはこれまで満足な食事にありつけていませんでしたので「久々、外で・・・」栄養食の提案。「さわやか」に向かいました。

奥方は完食できませんでしたが、私はガッツリといかせていただきました。

「喰えなきゃ死ぬよ~」とはいうものの、本当に調子が悪ければ食べ物が喉を通らないことも知っています・・・。

食べられるうちが花ともいいますが。

 

扨、川本桜の二回目。

遊郭だけあってその作りはかなり凝ってます。

三階建ての建屋の中央が吹き抜けになっていて中庭には井戸と植栽が。

遊女たちが見上げた「自由の青空」を見上げることができます。

 

各所に「窓」が設えてありますが、やはり彼女らの炊事場にある三連の猪目窓はオシャレ①②。③はそちらの天井で、今はポリカーボネイトの板が貼られていますが元はといえば突っとおし、その空間は煙突を兼ねています。

よって吹き抜けの中庭と同様、雨があれば濡れる。

 

この猪目窓・・・拙寺もどちらかに採用したいものです。

猪目とご理解いただけないと・・・面倒くさい。

 

※クイズ 最後の画像1階のトイレの近く、消火器のある床は張り替えられてられますが元は何があったでしょう。

ヒント:郡山特産品

 

 

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2025年

1月

08日

郡山洞泉寺町旧川本桜遊郭へ 木造三階建 寺と寺の間

比較的強めの雨の翌日は冷たい風が吹きまくり。

あの様ではあっという間に乾燥注意報に逆戻りでしょうね。

 

通夜・葬儀は施主より脇僧として息子を招へいいただきました。よってここぞとばかりに存分に働いてもらいました。

たとえば調声にキン、は勿論冒頭「先請伽陀」四句も。

二人以上の場合伽陀の調声をする伽陀役を決めますが、それは最初の七言を拝読します。

 

ところが「今日は・・・」ということで事前にその旨を伝え、全て(四句)を彼に謳ってもらうことをさらっと了解いただきました。

以前は「伽陀は省略しよう」などと言っていた小僧が今はうまいことやります。

勿論私は聞いているだけ。

 

終了後息子が小学生時代に同伴させた法縁の施主家族の方に「どんなもんでしょう・・・」と問い合わせると「スバラシイ」と。

そう聞けばそう応えてくれるでものでしょうが・・・と苦笑いしていると何よりも後継者が成長している様がイイのだと。

なるほど、ありがた山。

 

扨、郡山の火見櫓からごく近い場所に旧川本桜遊郭があります。

生まれて初めて「旧」とはいえ遊郭の門を潜りました。

大正十三年に建築された建屋は木造3階建て、市が本腰をあげて川本家より買い上げて整備をして現状公開しています。

今は登録有形文化財指定。

 

当地の遊郭は大正期には十七件もあって特に北陸方面から搔き集められた女子たちが詰めていたとのこと。

元々この地の遊郭の最初は江戸初期といいますので完全にその業態が消滅する昭和33年までの間多くの女たちの「気の毒」の場になったことでしょう。

 

家族を養うため、親の借金の返済のため「売られてきた」といったら語弊があるかもしれませんが、そこにいるのは決して女たちの本意ではなかったでしょう。

 

細い格子の窓は如何にもオシャレですが、きっと脱出防止のためなのでしょうね(場所はこちら)。

⑤は帳場。⑪が顔見世と待機スペース。

彼女たちそれぞれが自分の部屋で生活し、客がきまればその部屋に案内⑨⑩。部屋と部屋の仕切り壁の厚さは決して厚いものではありません。そして広かったり狭かったり・・・格差があったのでしょうね。

ニ階が彼女たちの住+就労スペースで三階が主人家族の住む場所とのこと。

 

 

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2025年

1月

07日

箱本十三町役割分担の妙 鮫島庸一先生からの便り

恵みの雨。気温も温かめ。予報はバッチリでした。

インフルも火災もここ数日は何とかなるかと。

 

以前本堂にて講演いただいた鮫島庸一先生からお便りをいただきましたので拙ブログに転記させていただきます。

 

「厚労省が、高齢化社会の進行とともに『誰もが認知症になりうる』と明記し共生社会実現の推進を呼びかけました。

第一次・第二次ベビーブームの団塊が、認知症及びフレイル(加齢により心身が老い衰えた状態)の好発年齢に突入し、日本の医療・介護体制に多大な社会的・経済的負荷をかけます。

近い将来必ず発生する南海トラフ巨大複合大震災では、多くの認知症・フレイル患者が犠牲になります。

 

認知症・フレイル対策には科学的知見の集積に基づく提言を待ってはおられません。走りながら考えなければならないのです。昨年12月に厚労省は静岡県が男女とも健康寿命が日本一だと発表しました。

緑茶が認知症を予防するという研究が世界でも多数報告されています。おいしいお茶を飲めば会話も弾みます。

緑茶の摂取こそ、誰でも、いつでも、どこでも、長く続けられる安全安心な、日本人にふさわしい費用対効果に優れた認知症予防法です。

緑茶の摂取を健康寿命の延伸および認知症対策のガイドラインの中心に据えた上で、全国で地域の実情に応じた対策を練るべきです。

『誰もが認知症の発症・重症化を防ぎ得る社会への転換』を目指すべきではないでしょうか。」

 

現在の先生は東京石神井のクリニックの院長先生。

昨日当ブログは火事への警鐘について記しましたがそれら文言には健常時には「どうってことはない」「その時はその時」などと思いがちな認知症に対して、緑茶の効能という対策があるにもかかわらず、どうして何もしないで平チャラでいられるのか・・・寿命が尽きるその瞬間まで健康寿命を保てる秘策がここにあるのに、といった先生の焦りと警鐘が感じ取れます。

 

認知症になったとして当人はその件一切わかりませんので二の次いやそれ以上に無関係というくらいに考えているのが大勢でしょうね。

「私が生きていることが家族の、社会の負担になる」ということを思えば健康寿命を引っ張り上げることは重要課題となります。

 

静岡県の健康寿命のトップについて私はまだまだ不満。

ブッチギリで上位を維持していただきたいのですが、これは急須で淹れる緑茶を飲む習慣が当静岡でも若い世代で減退しているからですね。「家庭教育」「学校教育」に尽きましょう。

 

先生は石神井で認知症予防として緑茶の効能を定期的に講演しているとのこと。

 

扨、画像は昨日の火見櫓の近くに見える案内図。

そこには箱本なる町別の役割分担があったことが記されていました。

なるほど年がら年中櫓の管理などしてはいられませんからね。

ただし1か月おきに交代といいますが、何かあったら責任重大だったでしょうね。

町内からごくマトモな人選があったでしょうが、おそらく私のような軽率半端者は真っ先にはじかれるでしょうね。

それはそれでラクができるというもので。

 

 

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2025年

1月

06日

2026大河ドラマは「豊臣兄弟!」大和郡山の火見櫓

久し振りに雨降りの予報。

乾燥しまくっていましたから良きことです。

雨嫌いの私がそれを歓ぶなど有り得ないことでしたが、さすがに異常乾燥と火災多発の様、それからは晴れ一色の予報がありますので気休めではありますが、命永らえた気分です。

 

扨、NHK大河ドラマが始まりました。

なかなか有難いことと思ったのが牧之原市史料館が史料提供として出ていたことと初回から田沼意次が登場していたこと。

私のクイズ「相良」の語の登場はありませんでしたが・・・。

まぁ初回から田沼親子が登場するとなればこれから期待ができるというものです。

番組は吉原炎上からでしたね。

主役の蔦重が櫓の半鐘(喚鐘)を打ち鳴らしていました。

 

扨、大河が始まったばかりで恐縮ですが、来年の大河ドラマは「豊臣兄弟!」とのこと。秀吉はどうしても好きになれない男ですが主役は弟の秀長(大和大納言)のようです。

それはそれで面白いかも・・・

秀長と言えば大和郡山。

そちらをぶらつけば画像の如く火見櫓がその威容を誇っていました。

昔はこういった火事を報せる物は各所にあったものです。

人々がラクをしているということでしょう。

初期消火は重要なことですがね。

あの喚鐘の音こそ火事への警鐘なのに。

 

その場所は消防団の詰所になっていました。

 

 

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2025年

1月

05日

火事発生ご注意 ここには紫式部銅像が 

やはり火事の報がやたらと多いような気がします。

「やたら」は明日から放映される「べらぼう」と殆ど同意。

以前からその語は使用していましたがこれからやたらと口に

し耳にすることでしょう。

 

先日はお寺の本堂が焼失したとのことでしたがそれを聞いているだだけで気持ちが悪くなります。

 

強烈に恐ろしい話を今一つ。大晦日の14時過ぎには焼き芋ドラム缶等火を消したのですが、

二日の午後それらを片づけようとした際、残り火がまだちらほらあって驚かされました。

他の火鉢等もそうで、残り火は案外生きているということ。

火鉢の火は外に出さずにそのまま安定した場所に置いおくことが肝要です。

 

扨、昨日の多宝塔背後の宝篋印塔を見たあとは懸造りの「光堂」がありますが、こちらは新設、こういったもののご寄進があったということですが何ともスケールが大きいこと。

其の下には例の多宝塔前にいらした他者排除のみなさんが。

早々に退去させていただました。

 

 

 

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2025年

1月

04日

石山寺多宝塔裏 ツイン宝篋印塔 ウィキに画像も

坊守絶不調継続(夜間39.7)につき私は16時すぎまで庫裏にて。

本堂の電気を消し入口の閂を掛けてから、奥方所望のバナナ、プリン、紅茶飲料を購入に走りました。

私の夕飯はその際購入した冷凍マカロニグラタン。

石油ストーブの上に置いて温めるつもりで購入しましたがよく見ると電子レンジ用でした。

恥ずかしいことですがこの家にあるそれはこれまで一度たりともイジった覚えがなくお手上げ。

奥方を寝床から引っ張り出して操作してもらいました。

「まぁ、プリン喰えゃ」といいながら。

大概の電気器具は何とかなるのですが、アレはだけは私には無理。一昔前のそれはもっとカンタンでしたがね。

米を炊こうにもコメの在処がわからなかったので朝は探し出したパウンドケーキ、昼はカップ麺で誤魔化しました。

奥方不在は荒みます、生活が・・・

仕事も山積、早い復活を望みます。

 

扨、昨日は石山寺多宝塔の隅っこにある花崗岩製宝塔を記しましたが、あの多宝塔背後には着目すべき宝篋印塔が二つ並んでいます。

他にも宝篋印塔が境内に見られますがそれはお印程度の感。

特にこちらの向かって左側(181㎝)のものが重要文化財指定になっています。

 

川勝政太郎氏はお褒めに。

やはり素人目にもカタチの良さを感じます。

ウィキペディアの「宝篋印塔」の項目で画像が使われているくらいですからね。

 

「基礎側面は輪郭を巻き、立派な鎌倉様式の格狭間が四面に作られ、塔身には月輪内に胎蔵界四仏の種子を薬研堀する。梵字が大きくないため迫力がないが整った美しさがある。」

「向かって右の塔はやや小さく(147㎝)壇上積式の基礎側面の四方に開蓮花彫出の格狭間を作る。基礎上端は複弁反花とし、塔身には月輪内に金剛界四仏の種子を刻む。

左塔よりも多少造立時はあとであろう。」

 

胎蔵界四仏・金剛界四仏の種子(しゅじ)については左側ナビゲーションの「石造美術の分類」の最下段をご参考までにどうぞ。

 

 

 

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2025年

1月

03日

境内片づけ完了 石山寺多宝塔の隅 石造宝塔 

午前中の庫裏玄関は奥方にまかせて私は大晦日のドタバタの片づけを。

終了後、万歩計のカウントは境内だけで8000歩。

正月はご馳走にありつけるというタイミングでもあって皆さん「血糖値上昇にご注意」といいます。

その日はおかげさまで運動ができました。

 

たくさんの方たちにお手伝いいただいてのお遊び成就でしたが、設営の際、法務の為に立ち会えなかったことは残念無念。

それは私の当初の計画「お願い」が大きく外れていたことですね。

 

総代受付の設営位置が私の計画と違っていたことがまずそれ。

事前のポップ類貼り付けの矢印方向が変わってしまったこともありますが、設置位置が当初予定した周囲何にも干渉しない広いスペースの鐘楼前ではなくて只今工事中の建屋と門の間にカッチリとはめ込まれてしまっていたこと、それには悶絶しました。

 

4人で各支柱を持って移動させたことでしょうが「うまく嵌めたから・・・」とのことでした(奥方の「計画と違う」の弁への返答)が・・・、問題は組立も解体も私一人で行う、というところです。

組まれた単管パイプを解体する際は最悪倒してもいいような(大きなスペースで)感覚でバラしていくことを想定しての作業ですが、よもやの変更事項。

建築中の建屋、門の隣でお参りの方の通行もある狭小の場ということから気をつかいながらの解体となりました。

何事もありませんでしたから、まぁいいか。

 

バラしたすべての単管パイプを本堂西側の床下に片づけておしまい。

またその仕事だけは大人数で行うことはできません。

「わーっ」という流れは絶対に墓石にぶつけて傷つけますからね。長尺モノは私独りで出し入れすることに限ります。

 

焼き芋の販売は1個200円に値上げしたためプラスになったのではありません(人件費はまったく無視して)。

これまでその「焼き」のご担当が主張していた「豆炭」の購入をヤメてもらったからです。それは大分高値になってますし。

私が子供の頃より見ていた焼き芋屋でそんなものを使っているところは無かったからで、その件以前から疑問に思っていました。

前回の報恩講からそれを「マキの火力のみでタノム」を主張しました。マキだけの方が火力が強く早く美味しく感じますしね。

皮もパリッとしてそのまま食してもOKなくらい。

 

ところが私が法務から一旦拙寺に舞い戻った際に息子が「鋸は買いなおさなくちゃね~」と一言。

私が用意して積み上げていたマキが「釜に入りきらない」ということでひと騒ぎになったとのことでした。

電動工具やらノコを小屋から探し出したようで、夕刻にはそれら外に出ていました。拙寺の電動工具は廃棄用で動かないものでしたが。

よって総代さんが自宅まで丸鋸を取りに行ったそう。

 

私がいればそんなことにはならなかったでしょう。

イザとなればチェーンソーをブン廻すことは楽勝にできますが、そもそも釜に「材が入りきれない」などは想定内のことでした。

朝方は私がそれでもって火を入れて維持していたのですからね。

 

燃やしてしまう材をわざわざ丁寧に切りそろえる必要はありませんし、マキそれぞれ全体を釜に入れ込む必要もナシというのが私の考えでした。

釜口からはみ出ても奥が燃えれば中に押し込めばイイといったところ。

釜の周りには息子も含めて3人もいるのですから。火の管理はバッチリのはず。

 

皆さん几帳面すぎなのですね。

その手の野卑な仕事にはあまり関わったことがないのでしょう。まぁ文句など言えませんが。

私がアバウトすぎとは感じるところまぁありますし。

 

焼き芋販売がプラスになったとはいえ、鋸を新調しなくてはなりません。いい機会だと奥方に頼み込みます。

それもそのノコは大工用の繊細加工用の薄っぺらいものでマキを切るなどありえない代物でした。

もし私が以前の仕事先でそのように道具の選択ができないところを目撃したとすればおそらくド素人呼ばわりして笑ったことでしょう。

 

ご門徒さんたちが善意でやったこと、私が不在にしたことからそうなったので致し方ないですね。

息子もその流れは止めることができなかったかと。

尚、小型のノコは亡くなった叔母さんの遺品だったことで大事に使っていました。

これからは大事なものは物置の奥に隠しておこう・・・。

あの「流れ」は・・・怖い。

 

昨日の片づけ仕事は独りで行いましたが、それは奥方が絶不調に陥っていたため。夕刻過ぎの体温は39.5でした。

ということで夕飯は冷飯と缶詰でした。

何だかわかりませんが、感染症だとすると6日と7日の法務を抱える身として気が重い。

 

扨、石山寺の多宝塔がある広場の隅っこには3mはありそうな

ずっしりどっしり感ある花崗岩造の宝塔が見えます。

あのガイド付き一団が階段上を占拠していましたので私はまずその存在感示しているそちらへ。

 

厳密に笠上端までは205㎝。

わざわざそう記すのは相輪が後補だからですが、この世界の権威川勝政太郎氏によればその相輪の造りは「まずい」と酷評。

後補製作者がその時代の様式を配慮しなかったか、工作自体がまずいのか、それともその両方か。

どちらにしろ寺がOKを出したのですから仕方がない。

①②は多宝塔下の鐘楼前。

最期の「叶う」の記述も後補でしょう。そなワケないだろう・・・の嫌味。

 

 

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2025年

1月

02日

無慙無愧のこの身にて 石山寺天智天皇石切り場 

ただの365分の1である・・・という割り切り方もありますが、ご門徒さんで大晦日に亡くなった方がいらっしゃいました。

勿論例の回忌表に追記しなくてはなりませんが、あと一方、当家遠縁の方が12月31日というタイミングでの逝去の件もありました。

そして拙寺ご門徒(前者)宅ではつい先日、12月24日に亡くなった方があって、続けざまの訃報になったといいます。

 

そういう一大事に私が関わっていることもあってこの時期大多数の方たちから「おめでとう」といわれてもそのままその語でもって返す気にはさらさらなれません。まぁ毎年のことですが。

毎度、世間でいう「喪中」なんですね。

自身人間の器が小さいこともあって割り切ってその台詞を吐いて演じることができないというところも。

ただ報謝御礼の言葉をもってつなげますが・・・。

 

特にこの時節のお弔い全般を取り仕切る御家近親者の疲労困憊、憔悴による健康への悪影響は察するにあまりあるところ。厳寒期、心も体も冷え冷えは当然です。

大晦日の真昼間にノー天気で遊び呆けていた自分が思い起こされて恥じ入るばかり。

 

昨晩のNHKドキュメント「能登半島地震」のラストでも家族を亡くした方が「おめでとうなど無い」と仰っていました(昨日はテレビを点けたのは19時のニュースからでした)。

ただし、そうは言っても私など「こんなもの」であって「まかせてある」身。ありのままで、背伸びはしません。

 

よってあのキリストの誕生日辺りから正月三が日にかけての世の浮れっぱなしの時間は私の「慙愧」の機縁でもありました。

 

それでは、その「慙愧」という語ににちなんだ親鸞さんの和讃を一つ。

 

無慙無愧のこの身にて

 まことのこころはなけれども

 弥陀の回向の御名なれば

 功徳は十方にみちたまう

 

扨、石山寺のスタートは660年代の天智天皇の石切り場との伝承があります。

なるほど、石の上に堂宇建つ様が窺えます。

あの懸造りの本堂の下に「天智天皇の石切り場」なる砕石場の跡があります。

分析検証技術の向上もあってか天智天皇によって建立された奈良川原寺中金堂の礎石であることが判明したそう。

この石材の輸送ルートが瀬田川→淀川→大和川をさかのぼって飛鳥ということです。

「石山寺縁起絵巻」第四巻 承暦二年(1078)の本堂火災の場面に今ある切り出し途中の岩が描かれているのだそう⑥。

 

④⑤は瀬田の唐橋方向。

先日のバス遠足では叔父叔母たちは寺へは上がらず、川べりを歩いて唐橋往復して「楽しんできた」と。

さすが着眼点が違います。

 

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2025年

1月

01日

2024除夕鐘は321回 喚鐘の設営は大正解

先ずは1年前の能登半島地震にて困窮を極めた皆さま方にあらためてお見舞いいたします。

できる限りの早い復興を願います。心の安寧と。

 

昨日は比較的暖かな境内。

「除夕鐘」なる締めくくりのイベントの運営に世話人、役員の皆さんが朝から勢ぞろいしました。

その前日の準備に出られなかったこともあり私はまだ暗いうちから境内であっちへ行ったりこっちへ行ったり。

境内を歩いた歩数が終了後15000歩弱となっていましたので、これは大きな山城を登ったのと同等。良き運動機会にもなりました。

 

開始は10時予定でしたが9時から来られた若者が二人。

いくら何でも時間厳守というのは野暮なこと。よって「打っちゃヘ打っちゃえ」と1時間前に取り敢えずどうぞ~。

鐘撞のあとは「寒いから」とばかりに特設テントにご招待。

そちらで焼き立て、やまめの串焼きを楽しんでいました。

 

今回からイカ焼き700円、もつ煮400円も登場しましたが両方とも好評でした。

また、やはり新設した喚鐘打ちも悪くない企画。

子供達が喜んで叩いていました。

くじびきもそうですが、小さい子供が目を輝かせているのは、いつ見てもいいものです。

ちなみにこの喚鐘は第一回(1/5)大河ドラマの劇中に登場、打ち鳴らされるかと・・・

 

14時過ぎに終了、16時前に3名が鐘楼に上がって、全部で321回の梵鐘が撞かれました。

本年もよろしくお願いします。

 

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2024年

12月

31日

「牧之原」頻出NHKBS 御前は牧之原市の広報か

信じられないような猛スピードでこの年が過ぎてしまった感。

毎度おなじみの感覚ではありますが、今年はより一層早い。

特にここ1週間などあたかも記憶を喪失したが如く、気が付いたら今・・・になっていたような。

 

それでもテレビ小僧はやはりNHK。

ザ・プロファイラー 「ラスト サムライ」を視聴しました。

次回大河ドラマとは関係のないソースですが、「牧之原」の言葉が、まぁ10回以上はラクに出たのではないでしょうか。

牧之原の住む方必見の番組だったと思いますが、見逃された方は再放送の機会をお待ちください。

 

冒頭①では大政奉還後に幕府→静岡と幕臣たちが集結、牧之原台地を茶畑として開いたサムライたち、中條景昭に大草高重そして蓬莱橋と勝海舟の気概を紹介していました。

②は今井信郎の師匠榊原健吉にスポットが。滅多にない取り合わせです。

静岡に関わる人々が多く登場する番組でした。

 

番組の中で、牧之原茶の始まりは「意外に新しい(そう古くない)」といった言葉がありましたがこういったシチュエーションでその言葉が出るとなると私が思いつくのはどうしても「靖国神社も古い神社ではない・・・」ですね。

 

幕末明治維新直前に静岡の神道系の血気盛んが東上したものの江戸無血開城によって矛を収めることになるわけですが、その静岡は旧幕臣たちの国となって彼らは故郷に帰るに帰れなくなります。

してやむなく神社を開設したというのがその流れと心得ていますが・・・

ちなみに私はそちらに足を踏み入れたことがありません。何と言っても討幕派ですからね。

 

扨、奥方が「御前は牧之原市の広報か・・・」などと嘲笑った私の大晦日からここ数日間の境内での賑やかし企画。

反応の多寡はどうでもイイというところで、とにかくやってみようの気概。

こちらも滅多にないことが起こりましたからね(大河ドラマに田沼意次の登場)。

「ホントかよ~」(番組で相良の名が登場するなんて・・・)と思っていただくだけでそれでOK。

 

投票用紙と投票箱を用意しました。まぁイタズラレベル。

 

 

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2024年

12月

30日

多宝塔と大日如来 石山寺 ガイドさんの存在

嫌がらせのように吹きまくる風。

前日に単管パイプを覆ったシートが暴れまくっていました。

何しろ体が冷えるので夕刻の仕事に差支えがないよう残る外仕事は諦めました。

なるようにしかならない・・・そう言い聞かせて。

 

出来た仕事と言えば回忌表を仕上げて本堂に掲示したこと。

冷たい堂内でのその仕事も苦痛ですので掲示板ごと庫裏の玄関内に運び込んでその作業を。

経年による板の粘着物の堆積が見苦しくまた前回の書面がうまく除去できません。思わぬ難儀となってしまいました。

サンダーや電動カンナまで繰り出しましたがキレイになったとは程遠く適当なところで妥協した次第。

次回は板そのものを入れ替えるのが手っとりばやいかも知れませんね。

 

扨、石山寺の多宝塔。

源頼朝の寄進によって再興されたと伝わる多宝塔。

現存多宝塔の年代としては最古といいます。

その年代については解体修理の際、須弥壇上框裏の墨書によって

「建久五年(1194)」頃と明確になっているとのこと。

 

この多宝塔はこのお寺の本堂と並ぶ2トップの如き存在。

今は雨漏りがあるようでその修理対策が課題のよう、本尊は大津市歴史博物館に逃がしていてこちらには不在。

 

この堂の前に上がった際、バス同乗のご門徒さんが堂正面階段から降りてきて「まったく頭にくる!!」と私に。

聞けばその集団の中にガイドがいて数人の拝観者を引率していたとのこと。

大きな寺院の有名どころではその手のガイドがいることは承知していましたが私はそれはボランティアが趣味的に案内しているかと思っていましたが(聞いたワケではありませんのでよくわかりませんが)その引率されていた拝観客の1人から「私たちが頼んだガイドだからついて来ないで欲しい」と投げかけられたと。頭から湯気が出るほどカンカンになって私に訴えてきました。

それはそれは頭に来る話です。

「とんでもない人がいたものだ」と返しましたが、その件はガイドがイケませんね。年配の方でプライドがあるのかもしれませんが、ここはひとつ「まぁまぁ」と自分の顧客をなだめるくらいの力量が必要でした。

要は特設飛び入り解説ツアーにたまたま別の拝観者が居合わせただけであり、こちらにそれを「遠慮しろ」などの警句はありませんし。

どなたでも自由に拝観回遊できるというのが大前提ですからね。

 

もし、私なら・・・そのガイドさんに注進するでしょうね。

「それでいいのか?」と。使命を逸脱しているということです。

 

本尊は大日如来。

快慶の若き時代のもので、多宝塔の再建以前からの本尊というのが定説になっています。

 

 

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2024年

12月

29日

三重宝篋印塔の一見した違和感 芭蕉句碑 石山寺 

人の命の儚さ。

私の思慮の浅さ。

万事、早くするばかりがベストではないことも。

 

「締め切った」筈の回忌表(一周忌)に追記事案が発生してしまいました。

昨日の午後にでもその掲示替えを行う予定でした。

こればっかりは予期はせぬども、有り得ることでしたね。

勿論回忌表の直近1年は記し直しとなりますが、まだ貼り付けていなかっただけ対応はラクです。

 

その程度の追加作業につべこべボヤく・・・自身癪に障る。

先方ご家族では思考停止するが如くのその1000倍、1万倍の難儀が発生したということですからね、それもこの時期に・・・

「まさかの坂」のローリングストーン。

それでも施主は私の大晦日のお遊び(除夕鐘)について承知されていて、31を避けて29、30日を打診されました。

いずれにしろ私の境内でのやるべきことについて、どうにか29日昼過ぎまでに「やっつける」ことは無理にしろ、妥協点を探す事になります。

 

すべてが一つ、「人の思う通りにはいかない」ということをあらためて知らされました。

何度もその辺りの件知り尽くしているつもりなのですが、先の事への期待というものが頭に描かれてから膨らんでくると往々にして瓦解。

「私の予定」などいうものの道筋から外れていくものですね。

まぁそんな私の「道」など大したモノではありませんし、私の命が続いていさえすれば、また元のノー天気に戻ることができるのですから。

また、そのような僅かな希望すら思う通りにいかないこともあります。

とにかく人の命は儚い。

震災、戦争などと縁遠い身であっても。

 

扨、石山寺のつづき。

先日の経蔵からさらに上がると、違和感満点の宝篋印塔が出現します。

宝篋印塔とは記しましたがやはりその形式とは少々異にしています。三層の三重塔のようでもあり一般的な宝篋印塔の形式とは違ってオカシな形。相輪部分が五輪塔の「風輪」と「空輪」になっていて不思議なる姿。

 

しかし、こちらは経年後補のパーツ寄せ集めではなく本来の宝篋印塔の笠部と軸部を積み重ねて意図的に三重にしたものだといいます。要は「三重宝篋印塔」。

そこで川勝政太郎氏の石造美術辞典記述から転記。

「初重の軸部四方は舟形にほりくぼめ四方仏を陽刻する。その上の笠と二段目の笠の段型は上二段、下二段で、三重目は上を三段として相輪を失い、代わりに五輪塔の風・空輪をのせる(やはりそこは「寄せ集め」のパーツ取りでした)。

寺ではこの塔を紫式部供養塔といっている。」

川勝氏はきっとこの「紫式部供養塔」の寺側主張には「?」があったのでしょうね。

 

そのお隣の石柱が芭蕉の句碑。

活動時期に開きがある彼ら、それを並べて顕彰する意図は如何に。

 

 

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2024年

12月

28日

鐘楼階段補修 波津百花稲荷 拙寺より30秒 

一昨日の夕刻すぎにTBSの電話取材の依頼があり、先方担当の要望通り対応していましたが、早速昨日朝7時過ぎのニュース番組で数点の過去の画像と電話インタビューでの私の声がテレビの向こうから聞こえていました。

除夕鐘と称して夕方→昼→午前10時と開始時刻を変えてきたわけですがニュースとしては大分こなされて新鮮味がなくなっている事と承知。

しかしスポットが当たるということは陳腐な私事の話であっても少しばかり嬉しものです。

「午前10時から」(鐘撞開始)とのテロップが入っていましたので知る人ぞ知る・・・PRができたことでしょう。

 

昨日は風が強め、鐘楼階段の手すり等の補修やら何やらで1日中外にいたため心底冷えました。鼻水まで出る始末。

それにしてもかなり腐食が進んでいるところを確認、次節は木質部分の総入れ替えをしないとダメなレベルですね。

今回は補修と付けたしで何とか修繕完了しましたが・・・

 

扨、昨日記しました相良旅中の彼は奥方に「百花稲荷の礎石を見てきた」と告げたそう。彼にはたくさん意表を突かれたのでしたが、そもそも初めて相良に降り立った人間が「そんなとこ行くかぁ?」と私も彼に聞き返してしまいました。

「看板も無く、そういったいかにも秘密っぽい遺構がイイ」との弁でしたが、「それは市に予算がナイから」と私。

 

おそらく史料館で配布された地図をもとに訪れたのでしょうが、考えれば相良の、それもごく近隣の方々にその存在について尋ねたとして、まず九割以上の人は「知らない」という場所です。

小さな稲荷なりに管理者はいらっしゃると思いますが、夏場は

草ぼうぼうでその石に近づこうなどと思いませんからね。

 

私は彼の弁を想い出し「今どうなってる?」とふと思いついて、門を出て30秒、歩いてみました。

 

この時期ならば稲荷社前のスペースに立つことができました。

こちらは以前の画像

拙寺の門を出て東に20歩、T字路を左に約20歩。

あまりにも可哀想すぎる場所。

史料館か拙寺で引き取るか・・・、先日史蹟調査会でもその展示場所について話が出ましたが、正面となれば拙寺には置く場所がナイ。また、奥方が反旗を翻すでしょう。

嫌いではありませんが軽自動車約1台分のスペースを取りますからね。

 

 

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2024年

12月

27日

石山寺経蔵の高床校倉

室内はそれほどでもありませんでしたが冷たい風が吹きまくった一日でした。

師走もこの時節は特に忙しい。

まさに「忙=心をなくす」というものです。

 

色々重なって榛原方面に2往復するなどドタバタ。

突然壊れた台車のキャスターの購入して取り換え作業にも追われました。

その間、移動中にも次々にメールが入りあたふたしながらも何とか対応。

金曜日は今年最後の地頭方処理場の稼働日です。

当日は混み合う事は必至。

よって昨日はその前日ということで花ガラとゴミ類を持ち込みました。

私は午後一番にその10台ほどの列に付いたのですがまさか行列ができているとは思いませんでしたね。

考えていることはみんな同じか・・・

おそらく最終日はその行列が下の道路まで続く事でしょうね。

 

年始の境内はゴミだらけになりますので少しでも処理しようと動きましたがそれは墓参が集中することと大晦日の除夕鐘でのゴミ類が大量に出るからです。

 

夕刻17時前に「小樽で仕事をされていて実家の相模原に帰省する途中の方」が拙寺に現れました。史料館でじっくり見学されたということで。

小樽?相模原?と一瞬間意味不明に陥りましたが毎年、年末年始の休暇は例年関西方面に出てから実家まで辿るというのが恒例といいます。

 

その方の趣向といえば・・・殆ど私と同じ、いやそれ以上に深く突っ込むという気合があります。

移動はバスと自転車(折りたたみ)といいますからね。

高速バスを吉田で降り近くのホテルに投宿、そちらからチャリで相良まで来られたと言いますから、驚かされました。

 

今年は「来年の大河ドラマが始まる前に」ということで相良を中心にした歴史旅をしているとのこと。

こちら相良周辺に「3日かける」といいますので気合の入り方が違います。

当初、玄関で奥方が対応していましたが、そこに並べられている私の趣味の書籍たちを見て「わくわくする」とのことでした。

私があたふたしていない時ならば、高天神城、滝境城を案内できたのですが。

やはり城廻は「冬がイイ」と。さすが通です。

ちなみにその二つの城は今こそが絶妙。

本堂に備えている資料等お渡しすると「ホテルに帰って復習し見落としがあったらまた来たい」と。

何しろ気合がスゴイ。

 

扨、画像は石山寺。

源氏の間から上がってスグ。

江戸以降を思わせる宝篋印塔が一基。一見、隅飾りの開き具合がその古さを感じません。

 

 

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2024年

12月

26日

すろーかる2025年1月号 静岡県健康寿命No.1

昨日の朝方は遠方のご門徒さんに書状を記したのちドカジャンを着込んで境内へ。

 

除夕鐘の棚店(コレは池田屋酒店の店兼飲み屋)の設営を奥方とあーでもないこーでもないと言いながら。

単管パイプの組みつけですが、スグにホットとなってジャンバーを脱ぎ捨てました。

ここ数日に無い暖かい空気の恩恵を頂戴したからですが、まさに雲泥の差ともいうべきベストな環境、「こうこなくっちゃいけねぇ」とばかりに思いつく作業に動きました。

 

あっちこっち痛み痺れの発現は出てきましたが、こうして「動ける」ことは何とも有難いこと。

こうやって前を向いて歩めることが一体どこまで続けられるのか・・・甚だ疑問ではありますが、まぁその件考えたとしても答えなど出るはずもなく。

(如来に)「まかせている」からには心配無用とは言えますが、病いの身で、日々頭で描いた動きができないというのは辛い以外何物でもないことです。

なにより「私」の意識が無いままチューブからの高栄養を以って命を維持している姿は想像するだけで恐ろしい。

 

それはいわゆる「健康寿命」がテーマとなりますが、このほど静岡県が新たに胸を張れるニュースが(静岡県 日本一の健康寿命)。

令和4年データに基づく都道府県別の「健康寿命」が公表されたのですが静岡県(令和4年)の健康寿命は、男性が73.75歳、女性は76.68歳で男も女も何と全国で1位。スゴい。

 

うれしいニュースでしたがその数値は「案外低いな~」といった感じがします。それ以上の年齢で元気に活躍されている方々を多数見知っていますが、その平均値を下げている要因、何かがあるのでしょうね。

まかせてはいるものの、自身その平均値を大幅に上回ることをただただ願うところ。努力しなくては・・・。対策はいろいろあるのですがね。

まぁ他府県の方々へ・・・緑茶をどうぞ積極的にお飲みください。

 

扨、静岡県のフリーマガジン「すろーかる」2025年1月号の地域クローズアップが「牧之原」です。

その中身について表記ざっとアップさせていただきましたが上述の池田屋酒店が紹介されてていました。

あれだけの商品バリエーションはさすがに棚店に並べられないと思いますが、境内のそちらは酒場と変じることは確かです。

「葷酒入山大歓迎」。さぁ赤提灯をぶら下げよう。

 

 

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2024年

12月

25日

息子のいたお寺からのメッセージ 私のベスト4

朝起きてから昼前まで庫裏内でデスクワーク。

毎年の事ですがコレを仕上げておかないと年が越せません。

これまでずっと、もぞもぞして進捗がありませんでしたが昨日ここぞとばかりにやっつけて今は一安心。

その仕事とは、2025年の回忌表の作成です。

あとは出力して掲示板に貼り付けておしまい。

「やっつけた」とは不遜な言い回しですが、私から言わせれば謙遜の語。私の仕事など自分自身、毎度自信など持てる代物ではないからですね。

 

とにかくそれさえ完成しておけば「除夕鐘」が終了してからであってもどうにか対応可能ですので、今は「やった感」を満喫。

何せその年回表はお初のお参りの際に大抵の方が見渡していくもの。

それだけに漏れや誤りがあることは避けたいところですが、それを気にしすぎれば、どうにも仕事が進んで行きません。

よってコレには「間違っていたらゴメンなさい」の自身の狡さをも秘めているのでした。

 

拙寺の年回表は大抵のお寺さんが記している五十回忌あるいは百回忌迄ではなく二百回忌、三百回忌、固定して掲示している四百回忌前後まで記していますがその百~三百回忌の抽出が結構に煩雑。

そのため数年前に百五十回忌の掲示をヤメにしたくらいです。

 

イラっとさせられるのは過去帳書式に一貫性がナイということ、それさえ「まぁいいか」と自身了承しさえすれば何とかなります。まぁ何をするにしろ人それぞれですね。

 

とにかくこの年末の仕事は「今は無縁」とも感じられる多くの先達の菩提を「とむらう」 (訪う)という意味でもその名を記すことは私にとって意味大アリなのでした。

 

また、災禍等によって過去帳が喪失しているお寺が多々ある中、数百年に渡って存在する過去帳のあたり障りのない部分を何年かのインターバルを置いて公開するというのは悪くない。

 

今回気づいたこと、百回忌を記していて記憶の片隅にあったお名前が各所にお出まししてること。私も「だいぶ近づいている」といった感じ。

 

扨、息子が以前お世話になっていた横浜のお寺のカレンダーの文言をご紹介。2024年のものですが・・・。

12の標語が掲示されていますがそのうちの私の思うベスト4を並べてみました。

特に①、他者存在の違和感によく使用される締めの諦観がそれ。

「まぁ、いろんな人がいますね」などと自身納得させ、話を打ち切るときに使われることが多いような。

以前、本山の標語にあった「みんな違ってそれでいい」ことは分かっていながら②私の正義感をもとにして他者を断じている傲慢さがありますね。

そういうものすべて③先入観から発するのでしょう。

しかしながらそんな阿呆な私、大ドジ踏んで人も自分も傷ついたとしても④「そんなこともあらぁな 勝手にしやがれ」が私の処世術。

それしかできませんが・・・。

 

 

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2024年

12月

24日

京都市有形文化財下里家住宅 祇園するがや下里

 「寒い」などと言うのも腹が立つきつい冷え込み。

 

一瞬40.5℃の高熱に見舞われたという息子は、その間何も口に入れることなく過ごしたといい、「2㎏痩せた」とのことでした。

昨日午後になってようやく平熱にまで戻ったということで「さわやか」に赴き真っ当な食事にありついたそう。

すると20時頃になって再び38℃にまでぶり返したといいます。

「食い意地の張ったバカが・・・」と奥方が吐き捨てていました。

彼は「おそらくコロナだろう 医者が見落とした~」と。

ホントに医者が「うっかり」診療ミスなどするものだろうか。

そういえば大事故になって訴訟問題、賠償問題に繋がったその手の案件、結構に耳にします。

もし彼がそうだとすれば・・・彼の周囲に居た人たち・・・御愁傷。

どちらでもそんなケースがあるとすれば・・・

私は40℃なんて真っ平です。

 

昨日ブログで「浄土の英訳はHeavenでイイ」と記しましたが

 なかなかその辺りのニュアンスについて(仏教に)相いれないという感覚の方が御見受けできますね。

特にHeavenの直訳・・・「天国」ですが、その言葉を忌み嫌う仏教

関係者がいて、ホールの担当者にきつくそれについて戒めていることがあったといいます。

 

私は司会の方たちの内情は理解しているつもりですが、その件をあの方たちに詳細こまごまお達ししたとしてもそれは酷な事でしょう。

弔辞やお別れの詞について「検閲」するよう厳しくチェックさせたといいます。

私?私は「そんなのどーでもイイ」の立場ですね。

さすがに私自身でしたらその語彙(「天国」)は使用しませんが、特に子供さんが一所懸命記したそれについてとやかく言う気はさらさらナシ。

 

それよりもやれやれ感溢れるのはlineの着信音。

中にはline電話のあのトボけた呼び出し音が相変わらずホール内に響くことがありますからね。

ご担当が「式中は~」と念入りにその件についてアナウンスしていますがそれでもなくならないのがそれ。

そこまでやってると「うっかりしてました」の域は結構に皆さんイイ加減か。

以前記しましたが読経中に坊さんの携帯が鳴り響き、事もあろうかそれ応対したというシーンを目撃した人がいたといいます。やはり人間そのものが不思議、そんな生き物なのかも知れません。

「お前に言われるか・・・」といわれるでしょうね。ハイ。

 

扨、先般のバス遠足にて京都では烏丸通と六角通の交差する辺りのホテルに泊まったのでしたが、チェックイン後は四条通を祇園方向に奥方に連れられて。

「祇園するがや下里」なる店に辿り着きました。

しかしその時間帯では殆どの品が売り切れ。

がっかりしながら店を後にしました。

 

そちらは昔ながらの飴や、菓子やの類ですが人気店であり開店と同時に行かないとダメかも知れません。

その翌日に祖廟のお参りがありましたが、開店時間は11時と遅くバスの出発時間となり奥方は地団太を踏んでいました。

 

私は飴系の「美味しい」には「たかが飴」の如くに評していましたが、奥方が悔しがっている姿は尋常でなく、一度は口にしてみたいものと次回の入店を約しました。

 

こちらの建屋は京都市有形文化財に登録されています。

食い意地が全うできず意気も消沈。

この下里家住宅についてこまごまと見届ける気力はありませんでした。よって外観のみ。

 

 

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2024年

12月

23日

弥陀の誓願不思議 有難し 三井寺金堂前 無名指燈籠

 昨日午前は島田市のご自宅でお内仏あげ経。

元は相良にいらした方々です。

おそらくこれが今年最後の法務でしょう。あとは境内と庫裏でのお仕事が少々。

 

何故にこの時期に・・・と思いつつお宅の仏間に入ると家族が勢ぞろい。正信偈が終わってからしばらく・・・。

73歳になるというご主人が「今年一番の仕合わせ」について嬉しそうに語り始めました

それが11月に「曾孫が生まれたこと」。

それはこのうえない僥倖と、私もその羨ましき目出度さを讃えました。坊さんが他人を羨むことはイケないこと・・・と付け加えながら。