2017年

7月

23日

「ここへきてカレーとはありがてぇ」7晩連続試行

昨未明のちょっとキツ目のお湿りは日中の激しい蒸し暑さを招きました。夕方の植木鉢への水やりの際、まだ土は湿気ていましたので日中の直射日光による乾燥以上に空気中には水分が飽和していたように感じました。

あの雨によって蚊の連中も息を吹き返したのか、夕刻には多数の襲来がありました。

 

法事はご自宅の御内佛前でのお勤めでしたが、泣き言を言わせていただけばこの夏一番の発汗率UPの様。

これからの本格的夏に向けて今私が試行しているのがカレーライス。どこかで聞いた事がある「夏はカレー」の宣伝文句ではありませんが私はこのところ7月16日から毎夕カレーライスを所望しています。

 

NHKの「AIに聞いてみた」は面白く視聴させていただきました。たくさんの今の日本人が感じる不安について数点をあげてそれらのテーマの解法を集積されたデータから探ろうとするものです。

まぁ「風が吹けば桶屋が儲かる」的な導き方のようにも感じます、データから出た数字で関連する何かの傾向がわかるかも知れないというところ。

 

なるほどね、と思ったのが「賃貸家賃を8万円から7万円に1万円値下げすると40代独身者が15パーセント減る」というところ。

それならお国が「持ち家」だけでなく独り暮らしの賃借物件に補助金(たった1万円)を出せば日本の危機は緩和できるということです(別の「40代独身男子が国を亡ぼす」から)。

 

もう一つ「これだ」と思って納得したのが、「病床数が減ると健康になる」というところ。要は病院が無ければ「住民は健康に配慮して元気になる」というのですが、まるでこちら相良がそれにあたるではないか・・と。

また「健康」と同様そのような際「バナナが売れる」ともありました。

私は「解毒剤」と称してバナナは常時食卓に置き、家以外の場所でも塩分がキツいと思った際は「八百屋に走る」ほどのバナナ信奉者です。「それで良かった」と確証を得たような気になりました。

 

さて、16日から毎晩カレーというのはお盆の法話のテーマが「アルツハイマーにならないためにカレーを」でしたもので・・・。

自分で試さなくては・・・

 

私の父はカレーがあまり好きではなく、私の奥方が作るカレーをぶつぶつ言って食べていましたがある時、ついに「カレーならいらない」と食卓に着かなくなりました。

奥方も「御自由に」ということになって、以来「勝手に食べるから」と二家族別々の食事形態ということになりました。

 

私も「まぁ、まぁ」という具合にその場を収めればよかったのですが、今考えると父母は近くの弁当屋と外食オンリーになり結果的にその食生活が決定的病因(脳梗塞)となったというのが私の思うところ。

 

父親が亡くなってからその弁当屋さんは転居して今は空き家になっていますが、当時の油の匂いは強烈で「アレを食べていたら命は落とすかも」と感じました。

風向きによっては日曜の朝から本堂が揚げ物の匂いで充満することがありましたので、あの弁当屋がいらっしゃらないということは今、結構の幸せ感がありますね。店の裏は何故か油でベタベタで換気扇からは黒いものが滴っていました。

 

ちなみにお弁当屋さんの駐車場に拙寺檀家さんが車を停めたままお参りに来たりするとお弁当屋さんが怒鳴り込んできました。しかし私はその「匂い」に対しては黙認です。匂いは個人差がありますから言いがかりと断じられかねませんしね。

 

ということで7月のお盆の法話で「カレー」のすばらしさを吹聴したのですが、私自身がが「アルツハイマー」にならないためにやはりその常食を試さなくてはなりません。

 

現状、多少の物忘れは自覚していますが、今のところ「病的」とは感じていません。

よって今そのチャレンジをする必要はないのですが、その傾向が現れた時、果たしてそう食べられるものかというところも試してみたかったのです。

ということで7日間連続カレーライスということなったのでした。

 

別に最初からその意図(7日間)はありませんでしたが、「奥方から今晩何にする?」と言われて毎度返すのも面倒ですからここのところ「カレー」と反応しただけといえばそうなのです。

 

そこで奥方から発せられた言葉が標記、「ここへきてカレーとはありがてぇ」でした。

一週間のうち、まともに家カレーにしたのは2度。3度はカレー専門店等。2回はレトルトでした。

いわゆる主婦の出番なし。ゆで卵かツナ缶に福神漬け。添えるとすればサラダか冷ややっこでOKですから。

1度だけレトルト+カツがありましたが・・・。

 

アルツハイマーは別として、食べ続けて感ずるところ「悪くない」という気がします。何か気合が入るような・・・

以前イチローが「毎朝カレー」というのを聞いていましたし、やってみれば大したことはありませんね。

ただし、食後だけは「カレーはもういいや」という気にはなりますが、一晩経つと案外「全然OK!」となります。

カレー香辛料の効能については各検索ください。

インド人のアルツハイマー罹患率は低いと聞きますね。

 

将来のためのチャレンジですから香辛料ターメリック(ウコン)粉末を胡椒のようにふりかけて追加します。こちらはたしか160円程度でした。

アルツハイマーが疑われたら家カレーにMyターメリック添加で効果期待です。

尚、カレー(ウコン)はアルツハイマーになった後からでも改善の効果が期待できるといいますので、病になったとしても遅くはないよう。

 

当家では最後の画像4袋298円のレトルトを使用。②と⑤がそれです。今地元で発売されている「マキティカレー」も推奨されますが、少々それはお高いよう。

また「カレーは飲み物」とも言う人もいますがそれはムリ。

私は加えて今はエピガロカテキンのがぶ飲み(冷茶)と「オレンジ色の安いヤツ」(果糖ブドウ糖の入らない100%野菜果実ジュース)で対応しています。

それでも私がアルツハイマーになったりヤバそうな病気に掛かったとしても、やはり「人間界は無常」だったとそれを確認するだけのこと。

 

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2017年

7月

22日

居神神社石塔 自然石塔婆の種子字「वं」(バン)

前日の天気予報は「相当暑くなる」とのことでしたがズバリ大当たり。今の世の中「ハズレとウソ」ばかり見ていますので感心したところです。

昨日は全国的に猛暑日になったとのことで夜のニュースでは638人が熱中症で病院に運ばれ、数名の方が亡くなったと。

信じられないようなその数字でした。

 

私は沖縄の炎天下での仕事経験がありますが、「暑い」という環境にいることは嫌いではありません。

ただ年甲斐もなく海に行って黒くなることは「控えるべき」という発想が芽生えたのと昨夏腕に残ったシミから年齢を重ねたという実感を得たことからこのような絶好の晴天にあっても境内雑用に励んでいます。

シミとは日焼けが回復する場所と日焼けした部分が残って斑になることです。まぁ1年を経て今年の草刈による日焼けによってかなり同化してきているようですが・・・。

 

「歳はとりたくない」というのと「まだまだ若い」というのが私の希望と希薄な存在感ですが、こちらはどちらの方であってもだいたいそんな程度ではないかと思います。

この思考はある面大事なことで、「リタイヤ」と「できない」人生ではもはや「余生」の諦観、それはそれは捨ててはイケナイ思想です。しかし・・・やはり何せ「体力と耐力」というものが「劣化」していることを自覚しなくてはなりませんね。

 

ということでこの一週間は庫裏二部屋目のフローリング作業に取り掛かっていますが、部屋は殆どサウナ状態。

庭に出て材を切っては床に貼り付ける作業の繰り返しです。

分かったことは「昔はこんなに汗はかかなかった」という点。

恐ろしいほど汗だくになりましたが、無駄とも思うほど水分をあおりました。水分摂取も「ダメ」(スポーツ根性論の闊歩)という時代を過ごしていますのでそれをしなくてもどうということはないような気もしないではではありませんが、「熱中症」という病気に隠れている血管系の突然変異(血液ドロドロによる)をケアしなくてはなりませんから。

 

さて、再び小田原居神神社

私の住まいの近隣というか遊び場にそれほど古くて価値ありげな石仏があることなど思いもしませんでした。

よってこちらにそれら石仏群があることを知ったのは私が小田原を去って横浜に転居した後の事でした。

 

こちらには先日の神社掲示板に記されていた通り、自然石を使った板碑、塔婆やら石仏が暗くて鬱蒼とした森の中にある社殿脇に並んでいます。

それらの中で史料的に価値があるというかハッキリとその意図と年代が判明している点で優位な石塔婆があります。

 

時代は文保元年(1317)ですから鎌倉期。

例によって川勝政太郎氏の目立ては・・・

「念仏衆らによる毎月二十四日の仏事」と。この地区の念仏とは阿弥陀が前面にでてこなかった?ということが分かります。

 

氏はこれは「天台浄土教」の流れと断じています。

この碑に大きく薬研彫された「金剛界大日如来」の種子字「वं(バン)に法華経方便品の偈・・・以下4行

  「十方仏土中 唯有一乗法 無二亦無三 除仏方便説」から

地蔵菩薩の縁日(上記「二十四日の仏事」から)と極楽浄土信仰のカタチは天台系というものです。

このような念仏「講」が一向宗遊行僧によってさらに拡大し、一部浄土真宗へと収斂していったのでしょう。

 

ちなみに真宗の現在の墓碑に「梵字」の使用はありません。

好みで使用される方もいらっしゃいますが、私の代では強く御辞退いただいております。感ずるところ「真言系密教」が繋がってしまいますし、阿弥陀専修念仏の当流の一義は易行道他力、要はわかりやすさにあります。

ただし阿弥陀如来を表す種子字「ह्रीः」があります。

画像③右がそうだと思いますが時に五輪塔の「地輪」等の西方に記されています。

 

石碑の上記四行の下には

「右志者 毎月廿四日一衆等 衆子等 念仏衆等 利益他

 敬白 文保元年 十二月二十四日」です。

 

現在のその上記の日は地蔵菩薩信仰ではなく「ケーキを食べる日」に成り果てています。尚掲示板の月日(二月)は間違いでしょう。

 

おそらく開発にともなって各出土したものがこちらに持ち込まれていったものだと思いますが、私の好みは線刻五輪塔。それにしても変わり種石塔が多い場所ですね。

 

最後の石碑画像は国道1号を渡ったところにありますが、バックに母方菩提寺光円寺と居神神社をいれました。

古地図には石仏脇の空堀と土塁が記されています。

戦国期城址と墓場放浪ができる場所になりますね。

ただし夏は蚊の餌食。

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2017年

7月

21日

小田原大久寺の大久保家石塔・宝塔・五輪塔

仏の顔も三度までとはいいますが、一国の「政策」に関するお役所でまず「第一番」といわれる立場にあるあの人(クロちゃん)がまた「インフレ率2.0%」の達成期日を先延ばししました。

 

6回目の「先延ばし」ですがそうなるとほとんど「ペテン」のレベル。できやしないことを大風呂敷を広げて「バズーカ」と鳴り物入りの金融緩和はまさに笛吹けど踊らず。

超低金利とその維持なる教科書通りのセオリーは今の日本社会には通じませんね。

特殊なお役で「嘘ついてもイイ」部署のよう。御咎めはないようですね。

成果主義の日本においてまさに異例中の異例の職種でした。

 

物価が上がらない要因は大企業がバッチリ溜め込んで給与をあげないことにあることは見えていますが、それを黙認して国民に向かって「節約は悪」の如く「買いまくれ」と言いたそうな雰囲気。

流通大手もこの夏、値下げラッシュの声が聞こえてきますし、庶民の節約モードはより一層拍車がかかりそう。財布の紐は固くなるばかりです。

 

思うにそれはひとえに「不安心理」。あげればキリがないほどたくさんの不安要素があります。おカネは少しでも節約しておかないとイザという時に対応ができません。

オレオレ詐欺から政治家まで社会全体が信じられないのです。

 

以前も記しましたが正信偈にある「獲三忍」の1つ、「信忍」の本意こそ「一点の曇りもない・・・信」であり「疑いがない」ことを言いますが今世の多くの事象がまずは疑ってかからなければならなくなったことは悲しいこと。

 

まぁその「一点の曇りもない」などのフレーズは政治家が口にしていましたね。それがまたおかしなことですが、「それこそ信じられない」ところがミソ。

 

身近なところで一番に信じてはいけないのがオレオレ詐欺ですね。詐欺られてしまう人の共通心理は「自分は絶対大丈夫」の気持ち。これを見て最も強く信じてはいけないものは「私自身」であることに気づくのでした。

 

いつもいつもコレは記していますがやはり自分(の心)ほど怪しいものはありません。

その件どなた様でもその「心」と各煩悩(はからい)との葛藤をお持ちと思いますが、それを「強い心 忍」にて知ろうとすれば(悟忍)、「一点の曇りもない」等々の「軽口」は発せられないはずです。よってそれは即「自己保身からの法螺(吹き)」と感じてしまうのです。

 

さて、昨日は小田原光円寺と居神神社で私が子供時代にバカをやったことを記しましたが、かつて当ブログで同じことを記していました。

記憶などいうものは微かではあるもののそう消えるものではありませんから同じことが蘇ってきて当然、ただ同じような事を記しているというのも少々恥ずかしいことでした。

 

最近は過去に何を記したかもワケが分からなくなって、また過去ブログの復習も面倒となりました。

表題でしたら検索がかけられますが、ブログ本文の詳細はまったく無理なのです。

 

それは2012年の記述でしたがそちらでは上記2つの寺社に加えて大久寺(場所はこちら)についても記していました。

ところがそちらでサラッとアップしたことでずっと本題の「大久寺」の「大久」は大久保がらみ、また大久保家の菩提寺としての墓たちの画像についてUPしたのかしないのかまったく失念してしまいました。

 

できるだけUP済の画像は重ならないよう管理らしきことはしていますが、一応それは「まだ」(かもしれない)の様。

それでいて記憶ではUP済なのですから怪しきことこのうえなし。奥の墓道氏にそのことをボヤけば、「そうであったとしてもそのことに気づく人は皆無、そもそも見ていないよ・・・」と。

 

その言葉に安心してここに大久寺の様子を。

まぁこんな感じ・・・程度ですが詳細は境内の掲示板の通り。

余計ですが「どれが好き?」と言われればこちらでは⑧図のただの五輪塔。シンプル・・・。

 

こちらのお寺は国道1号線と伊豆方面に向かう135号線が交わる「早川口」の交差点付近になります。

今は小田原駅を結ぶトンネルができて(135の反対側)いますので土日にこの辺りをうろつくことはありませんが激しい渋滞が考えられます。

最後の画像が境内から見た東海道線のガード。

今は閉鎖されているようですが、135号線が通って交通量が激しくなる前はその向こう側の南町(十字町・西海子)に通じていました。

画像の135号線の向こう側、渡って南方向に早川口遺構があります。

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2017年

7月

20日

新井城~飛んできた三浦荒次郎の首 小田原居神神社 

朝のテレビのコメンテイター御一同が面白い事を言っていました。

『「記憶にありません」=「嘘をついています」と表裏です・・・』とのこと。

24日の国会予算委(閉会中審査)に招かれる「要人」たちがポイントとなる質問に対していつもよく吐かれる台詞を推測して盛り上がっていました。

 

なるほど、都合の悪い事を指摘された時、その言葉は大いに責任から逃れるにベストな言葉ですね。

ただしこれまでの悪役共に使い古された台詞でもあります。まぁ、オリジナルで「自身の言葉」を伝えて欲しいと市民は思いますが「保身第一に生きる腹黒いワル」というものはしばしば「記憶」など無くして「君臨」を所望するものであると私は心得ていますので、どうぞすべてを「なかったこと」にしてくださいというところ。

私は新喜劇で笑いを取れなかった芸人に対して突っ込む言葉「なかったことにすんな!!」の如くお茶の間で拝見させていただきます。爆笑する場面だというところです。

 

あちらの攻防はまさに「首取り合戦」の如く言われることがありますが、議員であろうが役人であろうが、その地位に「恋々と」~他者の腹の中をそう決めつけて中傷する際に使用されるようですが、案外その言葉を吐いた人がまずその通り「恋々」なのですが・・・~しがみつかなければイイだけのこと。

捨てちまえです(「いかにも身を捨ててこそ」空也)。

 

戦国期で籠城(地位を守る)戦の敗者ともなればいともカンタンに首と胴体は離れてしまうワケでして、国会なんぞの「攻防」は死ぬわけではありませんから「別にいいじゃん」と思うところ。

エライ人はとかく「もっと」エラクなりたいとのこだわりがありますから困りものなのです。足るを知らぬが故の「地位に恋々」。それこそ(それを発した)「自分じゃ~ん」と思えてなりません。

 

最近、小田原に祖母すずさんの墓参りに行く機会がありません。

お盆ですからね、ただし気持ちとしては小田原の光円寺参りは「記憶」の隅に置いていいます。

どこかでも記していますが光円寺は小田原でも珍しい真宗でお西のお寺です。すずさんが嫁いだ高浦家墓碑銘の「信士や信女」を見て「違うだろ・・・」と疑問に思った方がいらしたらそのスジの人。

ひと昔前ならば致し方ないにしろ現在は大抵その文字は真宗寺院で使用しない方向になっています。

取りやめる機会がないのでしょうね。

 

ちなみに拙寺ではその二文字の使用はありません(過去帳に見られません)。

過去に付属する何かがあったとすれば「不退」か「不退位」ですね。時々耳にする「不退転の決意・・・」のアレです。

仏教的なイメージとしてはズバリ「仏になる」ことで「解脱」「覚る」です。

今私の時代では使用しません。やはり今それを使用する方(政治家の皆さんに多い)にはどうぞ「成仏」してください・・・。

そもそもが「嘘くさい」のです。

 

私は母方の祖母の名はいつも耳から聞いた「すず」の語と法名の「釋尼妙鈴」の「鈴」から「すず」読みをしていました。

しかし前回マジマジと墓碑の銘を見て驚きました。

「スズ子」とありました。墓碑が正しいとは限りませんが・・・

ということですずさんの旧姓は「鈴木スズ子」と判明。

散々墓参していたにも関わらず亡くなってから40年近く経ってから本名が分かったなんぞは罰当たりな無礼、恥じ入るばかりでした。しかしこれまで誰もが「すずさん」と呼んでいましたからね。

「すずさんの」勘違い読みは過去ブログ北条氏政・氏照のところで記しています。

 

この光円寺は「板橋」という地ですが、東海道の箱根へ至る街道筋にあたります。そしてこのお寺の東側の丘が小田原城の土塁址になっていてその大土塁の上にあたる神社が居神神社(場所はこちら)。

 

この光円寺と居神神社といえば私の小学校時代、放課後の主戦場でした。

今はなき「2B」(過去製造中止になった花火)や爆竹の赤いやつ(今のものより火薬が多い)の投げっこにロケット花火の水平撃ちで遊びました。特にワクワクだったのは当時街のそこいらじゅうに転がっていた犬の糞にそれを差して火をつけるというお遊び。ゲラゲラ笑いながら逃げ回った思い出があります。

今そのような面白くて危険な遊びは町中どこを探してもあり得ませんが、当時は無茶をやりましたし社会は寛容でした。

よくまぁ人様や自身含めて無事でいられたと思い返すばかり。小遣いの使い道はアイスバーと駄菓子と爆竹が定番の時代でした。懐かしい・・・

 

前記過去ブログリンク先にも記しましたが「居」は居るですね。では何がここに居るかといえば「神」。

その神らしきものといえば、やはり「三浦荒次郎義意」。

そう記せば「なるほど、よりおどろおどろしい!!」ということになっていよいよ興味が湧いてきます。

 

三浦荒次郎義意の伝承はハッキリ言ってバケモノです。

神社の境内の看板にもありますが伊勢宗瑞に攻め滅ぼされた新井城(三浦城とも)の城主(父の義同-道寸)の子で彼は最後の三浦氏と記されることが多いです。

三浦一統は3年間籠城しつづけますが結局兵糧が尽きて永正十三年(1516)7月11日に城から出て義同は自刃、同じく義意は北条勢を500人殺したあとに自らの首を切ったといいます。

「身長は七尺五寸(227㎝)で85人力」は北条五代記の記述と言いますがこれではまるで漫画でしょう。

 

また凄いのは「首は死ななかった」という伝承。

胴体から離れた首は恨めしい北条の本拠、小田原まで飛んできてこちらの木に食らいつき東海道を通行する人々を睨み続けたと。

三浦とは・・・神奈川でも風光明媚な海のダイコンでも有名なあの三浦半島の三浦ですが、近くの「油壷」なる地の発祥は三浦一統の「血の海」を示唆しているといいます。

 

平将門伝説にヒントを得ていると思わせるような「荒次郎の首」のお話でした。

 

美濃屋鈴木家から高浦家に嫁いだスズ子さんの「スズ」は北条氏政、氏照首塚に吊るされる「鈴」つながりというのは少々考えすぎの感がありますが、スズさんの夫、私の母方祖父の名は「高浦浦次郎」です。夫婦揃って苗字と韻を踏むような名も特異です。ちなみにその親(曾祖父)が高浦高太郎。

 

明治24年生まれの浦次郎さんの銘々の経緯はわかりません。

しかし「三浦荒次郎」の名は地元では「勇壮で荒々しい」を表しますのでそれを考えるとなかなか面白いとニヤリとくるものがあります。

 

この居神神社は小田原の子供会区割りで「30区」になりますが私は「32区」でごく近隣。30区のイベントにも顔をだしたりもしていました。

当時はキリスト教会に通って子供会では御輿を担ぐなど宗教観ゼロでしたが、こちらの神社の大祭が昔は「三浦荒次郎」の首が飛んできた「7月11日」だったことからもこの神社が三浦が宿る社であったことがわかります。

 

余談ですが私の同級生はこの神社の賽銭箱投入口にちり紙を仕掛けてその「釣果」を確認に行ったところを御用になったと聞きます。ワル知恵の働く子でしたが・・・

①~⑤が光円寺。⑥~がお隣の居神神社。

 

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2017年

7月

19日

蓮華王院三十三間堂の本坊 東大路通妙法院門跡

梅雨明けの宣言などというものはどうでもいいのです。しかし気象庁はその「入りとあけ」について結構気合を入れて「決定宣言」しています。天気のことですから「まぁ色々ある」ことは承知していますが、いい加減その宣言をしなくてはいけない頃合いでしょうね。今年の降雨は局地的であったために躊躇しているのでしょうか。

 

この遠州でも中南部限定なのかも知れませんが「そもそも梅雨は無かった」という感じがしないまでもありません。

1度だけ強烈な降雨はありましたが、あとはロクに雨は降っていないような・・・昨日の朝は涼しさを感じましたが、陽が登っていくにつれて気温は急上昇。

昼過ぎの境内のハイビスカスはあまりにもキツイ直射と鉢土の蒸発の速さに葉がしおれ気味になっていました。

 

意外ですが彼らはあまり暑い夏は苦手のようで7月末から8月中までは花の付きが悪くなります。

1日でも水やりを忘れたら鉢植えは全滅になりますね。

 

仏教はしばしば「人」あるいは「人とその生き方」を植物に喩えますが、まさにあの鉢植えの植物こそ私なのかも知れないと思うところがあります。

その喩えについて2つほどあげれば

日中無常偈心を弘誓の仏地に樹て ・・・でしょうか。

 

すべて自身では何もできず、提供されたベストな環境(土)と水と肥料によって生かされ成長するところ。

「挿し木」という偶然によって与えられた「生」を「生かす」ために発根しそして土に根を強く張って、ただ花を咲かせるだけなのですが・・・我が家のハイビスカスは株によってはひと夏に200以上の花を咲かせてかれます。

すべてのものに「地と水」が必須のところは五輪塔ベース部分の地輪-水輪を思います。

どんな人でも花を咲かせることができるのですが、昨日ブログの如く人の根っこがしっかりしない浮き草流行りというのも現代の風潮かも。

 

さて、先般拙寺の京都遠足のフリータイムは京都国立博物館拝観後の数時間でしたが、帰りのバス内である方に「どちらへ?」とうかがったところ「タクシーにて京都の豆腐三昧を」と。

ちょっぴりがっかりでしたが致し方なし。

周辺には見るべきところはたくさんあるエリアですが、何せ食べる場所が少ないですからね。ちなみに「お味は?」と聞き返せば「地元の味付けの方がおいしい」と。だいたいその雰囲気はわかるような気がします。

 

昼食は博物館内にもレストランがありますので、どうにかなるだろうとは思っていましたがタクシーを駆使して廻った方たちも多かったようです。

 

まぁあの辺りにはお店が少ないですが、五条東大路通周辺(画像①)まで出れば清水入口あたりには結構お店は並んでいます。

わたしが「ちょっぴり残念」と感じたのは「もっとたくさんの見どころがあったのに・・・」というところで、事前には見にくくて恐縮しましたが自作の名所地図を配布していました。

ブログで記した「秀吉 京都輪廻転生のライン」以下、能書きを記すに気合の入る場所です。

 

特にこちらの地図を見ていただければ一目瞭然、一日でも回り切れないほどで、昼食のために心と時間を割いては「勿体ない」くらいです(地図のポイントをクリックしていただければ過去ブログアップの日にちが出ますので、一番下のサイトマップから検索いただければと思います)。

 

東大路通を五条通を背にして京都国立博物館方向の東山七条方向に向かえば佐藤兄弟塔(馬町はこちら)のあった馬町の交差点(②画像)、その辺りの路地を右に見れば奥に大仏殿址の雑草地

(③画像)が見えます。

すると左前方に立派な門構えのあるお寺が目に入ってきます。

そちらが南叡山妙法院。天台宗のお寺で山号だけ見ても「比叡の南」の如く、門跡寺院としての由緒があります。

とにかく誰でも知っているあの蓮華王院三十三間堂の本坊となります。

まぁ内部については特別拝観を待たねばなりませんが、境内散策は自由(無料)、本堂(普賢堂)の御本尊、普賢菩薩を戸の奥に「垣間見る」ことができます。

左は京都国立博物館の南門入ってスグの「カフェからふね屋」のランチ。以前の画像です。

この時は息子と待ち合わせした際の時間調整でこちらに滞留しましたが、本来ならばあっちこっち歩き回らなければ気が済まないような場所です。

博物館の方(平成館)にもレストランがあります。

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2017年

7月

18日

小栗栖明智藪と目と鼻の先 小栗栖城飯田党

60歳以上の人で子や孫(18歳以上)の生活費を一定以上負担している人2割いるそう。

この割合は内閣府が出したものですが実数としては「もっと多い」といいます。

要は自らは職に就かず、主に在宅してPCやゲームに没頭、祖父母の年金のみをターゲットにして生活する子供or孫が増えているということ。

 

違う数字ですが親と同居する35~44歳の未婚男女の数は約300万人(昨年)いて、年々増加傾向。45歳以上の男女も含めると、さらに数百万人が加算されるといいますから尋常な数字ではありません。

 

それを「父母祖父母へ『寄生』する孫と子」と結構シビアな表現をされていましたが、これはすべてにおいて辛いことだと思った次第です。すべてとはすべて・・・なのです。

個々人、親、家族、親戚、周囲、ご近所、地域・・・社会・・・国。

 

そんなこととは知らず(健全に)孫子も巣立って日々を暮らしているご家庭の方々にとって「とるにたらない」一事象とは思いがちになりますがこれ(2割以上のアブノーマル)は絶対にきっとヤバいことになりそうな雰囲気がしますね。

 

「すべてがいずれ(近いうちに)破たんする」ことを意味しています。まずは仕事をされない(働けるはずなのに働かない―働けない)子供を抱える家庭が真っ先にトんでしまうのは言うまでもないこと。

各事情あることで私がそれをどうこうという資格はありませんが一番に仕事ができて家を背負っていくべき者が「部屋に籠って独りでゲーム」(大抵がそうだといいます・・・)は悲劇以外の何ものでもありません。

 

そして遅かれ早かれそのような形態の維持継続はあり得ませんのでどこかの時点で修正が図られますが、それが金銭減額とゲームの規制ということに。

私が知っている限りでまず大抵その対応を間違えるといよいよ家庭内は崩壊に近づいてきます。

程度にもよりますがその鬱屈した逃避癖は往々に爆発して、暴力的になることを見ています。

一旦逃避して自分の世界に入り込むとそれを脱するにはかなりの難渋が待ち構えていますし。

 

これも限定してその責任を問うことなどは憚られ、その業界として多くの資財を稼ぎ出していることは承知していますが、それら遊戯機やソフトを野放図に垂れ流していたらまずおかしな社会になるでしょうね。

米国あたりでもその手の就労しない若者が増えているといいますし。

 

早いうちに子供たちからゲーム機を取り上げるか、あるいは厳しいコントロールについて思考していかなくてはならないでしょう。

家庭崩壊のリスクもさながら国自体がなりたたなくなります。

 

辛くて世間体の悪そうなその件、我慢するのは得策ではありません。子供が嫌がろうが相談できる場所と多くを関わって少しでも若いうちに改善を図りましょう。

これは家族のみで抱え込む話ではありません。社会が責任を負っていかなくてならない大問題です。

籠城する彼のその発端は精神的ダメージを受けての引きこもりが考えられますのでまずは専門家へ。

齢を重ねた心身にこれほど堪える仕打ちはないですから。

 

さて明智光秀は山崎合戦の敗走後、勝竜寺城に籠るかと見せかけて坂本城を目指します。

巨椋池の湿地帯を乗り切って小栗栖街道を山科川沿いに山科へ出で大津、坂本へ向かう手筈です。その途中の醍醐寺周辺から山科まで広範囲にその終焉推定地は及びますが小栗栖明智藪にて土民の手(落武者狩り)によって落命したというのが一般的。

その明智藪の、その「土民」の語の示す一団が「小栗栖城の飯田一党」という説があります。

 

明智藪についての地元有志の製作した石碑にその旨記されていました。

しかしそれは当時の絶大なる成功譚であって大層な褒美が出ているはずにもかかわらず、まったく光秀を討ち取った主人公が判然としていないところはやはり疑わしいと首を傾げるところではあります。

 

画像小栗栖八幡宮のある丘が飯田党の小栗栖城といわれていますが裏山をうろついたところで「土塁といえば土塁かも」程度のアップダウンが見られるだけでした(場所はこちら)。

明智藪とは目と鼻の先になります。

小栗栖宮山小学校入口の右側の丘ですが明智藪で記しましたよう自家用車の進入が難しい場所ですので、こちらの八幡宮社務所に了承を得て鳥居前スペースに置かせていただければ、のんびりと散策ができるかもしれません。

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2017年

7月

17日

巨椋池に浮かぶ槙島城 攻略にあたり 信長

数日前に「北海道が日本で1番暑かった」(37℃オーバー)の報には驚きました。まぁこれも「局地的タイムリー」という自然の驚異の一つなのでしょうが・・・

これは不思議なことですが、私のいた沖縄でそのような「過激」な数値は見たことがありませんでした。

涼しそうな37℃とジリジリした32℃(沖縄)この違いを目と体で確認してみたくなりましたね。

 

陽が傾いて境内を日陰が覆った頃、私の水やりの時間となります。

素足にサンダルで表に出れば蚊の餌食となることは確定的。

しかし靴下を履いてまで表に出るのもシャクですので、適当にハッカオイルをたらすなどの対策はたてています。ただし殆ど気休めの部類ですね。

 

昨日「こりゃあイイ!!」と思ったのが蚊の出現が無かったこと。

奴らも人間が心地よければ気持ちよく活動し、人が暑くてヘロヘロになっていれば「苦しい」のですね。

水たまりが蒸発し、花入れの水が「沸騰」するが如く高温になれば彼らの生活環境はおそらく劣悪。

この暑さ、考えようですが悪い事だけではありませんね。

蚊にいい思いはさせたくありません。

 

今回の大河ドラマは少々趣を変えて歴史に向き合ったところを見せていました。井伊を少し離れて今川氏真周辺について。

 

寿桂尼は子の義元なき後の今川家を代する立場にいたことは違いないところ。

いわば「何も知らない」孫の氏真の後見人であったのです。

今川家惣主氏真の心の動きを演出上引き出す意味で、寿桂尼が氏真を呼ぶその名が「龍王」は良かったですね。

これはいわゆる「幼名」であって「お婆さんと孫」の関係を引きずっていることを意図しています。

 

昨日の氏真については別の切り口による再評価であって歴史的に見れば寿桂尼が「尼将軍」、氏真が「馬嫁なる大将」というイメージは確たるもの。その点を描くにまさに適格な演出でした。

小野がますます「いいもの」に描かれていく進行は少々違和感が残りますが、結構面白い回でした。

 

さて宇治槙島城について。

一度ブログに記していますが、今回は別の場所からの図。

 

昨晩のニュースにありましたが宇治市では今、野犬が問題になっているといいます。住宅街で鹿を咥えているシェパード風野犬の映像を見て恐れおののきました。

あの辺りの住人の証言にありましたが、飼い犬が手に負えなくなると普通に山に捨てているといいます。

まさか私の信奉する京都の人々の口から今時そのような無責任な発言が出て来るとは思いもしませんでした。

 

私の保身ではありますが、あの辺りをうろつく私としてはあんなデカイ野犬の群れと山で鉢合わせになるのは・・・もう「無理」。

私が沖縄に住んでいた頃は野良犬は普通に街区から山間部までいて追い回された経験もありましたが、さすがに今は無いでしょう。

 

飼えなくなったから捨てる・・・人間のエゴに振り回される動物たちに罪はないのですが・・・行政は罠を仕掛けて捕獲しているようですが、彼らの行先はきっと・・・

 

信長は槙島城攻めの宇治川渡河作戦は勿論、歴史的エピソード「宇治川の先陣争い」を自身に準えたといいます。

やはり宇治川の水量は多く、軍勢はその進行を躊躇したといいますが、自ら率先して川を渡ったと。

トップに立つものが配下・部下の者に暗黙の叱咤をするために口でいうのではなく自ら率先し「背中を見せる」ことの重さを示す1例でもありました。

 

前回記した任天堂宇治工場とは反対方向に槙島公園という小さな公園があります(場所はこちら)。

より、宇治川に近い場所にあり、また石碑なども充実していて城址の感覚としてはこちらでしょう。

前回の公園はあまりにも宅地の一画という感がありました。

宇治川側が住宅地、北と東は広大な畑が広がっていますが、かつては低湿地帯で水路が網の目状に堀の如く廻らされた城だったのでしょう。

 

局地的降雨がもし宇治に発生したら、あの辺りは浸水夥しいという立地であると思います。

最後の画像は公園の北側になりますがかつて巨椋池(おぐらいけ)という湖がありました。⑥画像の高架が京滋バイパスで北側。⑦方向が南側で宇治川橋方面となります。

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2017年

7月

16日

大名跡捨てて家名を残す 今川氏真・早川殿 観泉寺

梅雨明け宣言が出ていないのが不思議。

盂蘭盆会法要の昨日の本堂はHOTでした。たくさんの皆さまにお集まりいただきました。ありがとうございます。

 

先週金曜のNHK「歴史秘話・・・」は今川氏真でした。

「戦国一華麗な敗者復活戦」という副題。

内容はこれまでの氏真無能のイメージとは違っていました。

武士としての生きざまとしては失格の烙印を押されるはずの「戦わない」「生きながらえた」ことが後世大いに「子孫繁栄」として開花したという構成です。

これまでの氏真イメージを覆して逆に「だからこそ」と好印象をもたらすもので番組の意図として「戦国」ではなく「平和」な世にこそ意義があるという風にも捉えることができました。

 

「私には敵もいないし恨みもない」という中国人のノーベル平和賞受賞者、劉氏の言葉も胸に響きました。

国家としての中国の愚かさを改めて思うところです。

文書を書いて国家転覆罪で収監されて犯罪者呼ばわりされる国ですからね。

その罪とは今の日本の共謀罪がポケモンの如く「進化した」ものと承知していますが、中国政府として都合悪しと思ったのでしょう国外からの劉氏死去のニュースは画面が真っ黒。情報操作の意図はむしろ「相変わらず滑稽」を思いました。

 

小田原から脱出した氏真が「ノー天気」に浜松の家康のもとに訪れた際の図は、いかにも氏真の「ひょっとしてアホ?」を思わせるシーンでしたが「家康はオッサンにして氏真は青年」の如くの演出でした。

ブログでもどこかで記していますが実際は氏真の方が5歳ほど年上です。番組はちょっとヤリすぎの感ありました。

 

ふむふむと唸ったのはさすが小和田先生です。

「あの城」のことを「牧野城」と。番組内でも統一していましたね。

現在その城の名は「諏訪原城」と呼ばれていて誰もがその城の名を違和感なく使用していますが、その名は「武田の城」になってしまいます。

 

地元教育委員会は敗者である「武田」に肩入れしたかったのか命名された「牧野」については完全無視を決め込んでいます。

通常ならば最新の名称か、カッコ付け等併記するなどで矛盾を回避しようとするものなのです。

 

氏真が入ったのは武田を追い出したあとの話ですから厳密には「牧野城」。ひょっとして小和田先生は「牧之原市」の名のイメージを全国に広めようと一役買ってくださったのかと勝手に思うところです。

氏真関わりの文献では「諏訪」なんぞの城の名は出てきませんし。

牧野城は島田市(旧金谷町)ですが、相良あたりから「牧野城」(牧野原城)の名を押し出そうなどと考えてみたところです。もっとも諏訪原城の名すらこの辺りの皆さんにとって親しみがある名ではありませんので「牧野と言われてもまったくちんぷんかんぷんかも知れません。しかし「牧野」の方が受け入れられやすいことは確実です。

城の名は「牧之原台地」の発祥と同様「牧野原」からと言われています(牧野氏が城普請に関わったという説もありますが)。

 

まぁ氏真の掛川城開城しての退去は「いずれ駿府に戻る」ことが念頭にあったことは確かでしょうが、「武」の主張をもって雌雄を決しての「家の存続」を図ることの限界を察知し、違うカタチでの「家」というものの継続をチョイスしたというところでしょう。

 

画像は現在の杉並区今川二丁目にある観泉寺の氏真と北川殿の墓、そして代々の墓。その墓域には卵塔形式も含まれていますがそれらが僧籍にあったかは不明です。

夫婦の墓は二基とも当初の墓地から改められています。

私がこちらに参ったのは雨の中で画像は不明瞭。被葬者の戒名もロクに確認せずに退散しました。

 

江戸期の宝篋印塔の大き目二基、右が氏真、左が早川殿とのこと。

氏真以降代々の墓域となりますが、氏真の嫡子今川範以の墓もお隣に並びます。範以室の吉良上野介義安娘の墓もさらに仲良く。

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2017年

7月

15日

132→87 LDLコレステロール激減の法 確信

急な天候の激変に懲らしめられている東海地区ですが何故か当相良は早朝から「ド」がつくピーカン天気。

朝はクマゼミがガンガン鳴いています。

天気予報を鵜呑みにしていれば「聞いてないよ」くらいの好天でした。

こういう日に雑草対策をしたいものなのですが、金曜日はどうしても外せない用事がありました。

 

先般行った人間ドックの結果が届いていて、「要精密検査」の告知を受けた項目がありました。

「両目に異常」というのは数年前からの恒例事案であって、毎度毎度「無視」を決め込んでいたワケですが今回結果の「所見」、「白内障の疑い」の記述を見て、飛びあがって病院に向かったのでした。

 

榛原病院の眼科は週一金曜日(午前11時まで)オンリーの「開店」となりますので、この日この時間を逃すと1週間を悶々として送らなければなりせん。

「白内障」と聞けば、まずその名称は年配者の口から発せられる語です。

年齢を重ねれば人はその病に関わっていかなければならないことは承知していますが、今の私にその「告知」はあまりにショッキングでした。「そうかオレもついに・・・」です。

その病気は施術によって改善することは知っていましたが早期発見で早期治療は肝心とのこと。何とか早めの対応をということで一番最初の金曜日の午前に榛原まで走ったのでした。

 

結果は所見に反して「異常なし」。

胸を撫で下ろしましたがこの「原因」は私の眼球の「カタチが変」だからとのこと。

医師は私の目玉が「球体ではなく楕円に近いため画像が歪んだようだ」との説明でした。

帰宅してお方様へその説明をすると、ヤレヤレとばかりに「目玉が楕円形で何かイイ事あるのか!!」と。「病院にしろ私にしろ適当な事並べ立て」おちょくられているよう感じたのかも。

盂蘭盆会法要の前日に(結果的に)何でもないのにノー天気で病院に行ったことへ「一言いわにゃあなるまい」というのは無理もないところ。

まぁ本堂で少しでも動けばクラクラしてきますからね。

 

今回の人間ドックで分かったことは尿酸値高めの指摘と目玉のカタチだけではありません。

確信を得た部分があったのです。

 

運動不足と食べ過ぎの象徴「中性脂肪」に関してはここ数年高数値を維持していて医師より「ヤバいよ」の指摘を受けていましたのでこれをうけて私なりの対応をしていました(中性脂肪に関してはダメダメでしたが)。

 

運動不足はスグには改善できませんし節食についてもなかなかできないことですから「+@」(食する 摂取する)によって改善を試みたのでした。まぁ虫のいい話ではあります。

 

ところが今回、数値の結果としてLDLコレステロールがこの1年で劇的に改善されていました。なんと「132→87 ④図」です。

問診に「コレステロールを下げる薬を飲んでませんね?」と確認されるほどです。

LDLコレステロールとはいわゆる「悪玉・・・」といわれる例のヤツで動脈硬化の大敵といわれるもの。

 

この半年以上、私が心がけて積極的に摂取していた「これだ」と思われる飲食物を2つあげれば・・・

日ごろは緑茶については申し分ないほど飲んでいますが、まずはナッツ類です。おやつはナッツ&フルーツ。

 

アーモンドはじめナッツ類とラズベリー、レーズンの袋詰めそしてバターピーナッツを食卓隣の棚に常時置いて特に夕食後に食していました。

中性脂肪の多さはお腹いっぱいのところにナッツ類を追食したことと、乾燥フルーツの糖分が原因であることはうすうすわかっていますが、LDLコレステロールの減少に役立ったことはまず間違いないでしょう。

 

そしてもう一つが、水分摂取はお茶だけでは少々飽きるということで特に近頃風呂上りに嗜んでいるのが、野菜フルーツジュースの類。あの「オレンジ色の安いヤツ」です。近頃はお茶以外ですとこちらです。

1000mlパックで150~160円前後(メーカーもので200円オーバー)ですが、ポイントは「果糖ブドウ糖液糖」が使われていない100%もの。どこかでも記していますがコレは殆どお砂糖のことですからね。

 

私は今この二つの飲食物を活用して健康を維持するという自信がついたというところ。

今後の課題としてはご飯類を減らして、ナッツ類を増やすというところです。ナッツはカロリー高めですから却って太るという愚に陥ります。

今後はバターピーはやめて「皮付きピーナッツ1日15粒」を試してみようと思います。

今残っているバタピーを処理したら今度は「皮付き」で。

皮付きの件は先日テレビでその効能が伝えられていましたが自らの体で実験してみます。

 

現在「アルツハイマー痴ほう」対策として当家ではカレーライス(「うこん」)を見なおしていますがその「皮付きPの効果」というのは画期的でした。

 

カレーライスの件、大人数にない当家としては一から調理することはなくなりました。

一晩おいたカレーは以前でしたら絶妙といわれていましたが実は「細菌の温床」だったということでもはや過去のたべもの。作り置きもできません。よって最近カレーといえば外食かレトルトカレーです。

 

「うこん」は沖縄お得意のお茶がありますが、ホンモノは結構値が張ります。そういう点から皮付きピーナッツの存在はデカイのです。

LDLコレステロールを下げ同時にアルツハイマーのリスクも下げる、一挙両得、救世主のような食材となりました。

 

牧之原カレーはダイコンの主張もイイのですが、カレーの成分のターメリック(うこん)と「緑茶」に「皮付きP」を混ぜ込んで、「健康長寿」を前面に出せばいいのに・・・と思うところです。

 

ちなみに「アミロイド・ベータ」というたんぱく質が脳内に蓄積してアルツハイマーを進行させますが、ターメリックがそれらの排除に有力だということは確かめられていることです。

週一の夕飯でレトルトカレーというのはまた、主婦にとって棚ぼたですね。ご飯を炊けばイイだけで夕食の献立を考える必要がなくなります。

 

①は先日行った静波墓地の隣地境界線の図。

日ごろ行っていないこともありますが、隣地の浸食が激しいですね。いつあのはみ出した木をバッサリやろうか思案中。ただし面倒は御免ですからね。

②は「うこん」製品の中で一番格安のもの。ハッキリ言ってマズイ。夏だからがぶ飲みできますが・・・。

 

人様の健康云々を語る身。何とか自身の健康維持を務めたいものですが、果たして・・・ 

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2017年

7月

14日

後世モニュメントと誤解? 宇治の浮島十三重塔

昨日も遠州は天候不順。

おそらく全国でもこの辺りの天気が一番悪かったのではないでしょうか。例によって大雨やら竜巻の注意報が発せられていましたが、朝からは陽の出ている時間帯もあったりでさっぱり予測ができません。

 

考えていても仕方なし、怪しい天気でしたが「えいやぁ」という気持ちで身支度を整え静波墓苑の草取りと除草剤噴霧へ。

除草剤を噴霧すればせめて数時間は雨には降られたくありません。効果がなくなってしまいますからね。よって躊躇していたのでした(薬剤は葉から入って根に吸収されるタイプです)。

この週末にやっつけておかないと時間がとれないうえ、ますます雑草は繁茂しますし。

 

帰宅してしばらくして遂に例の「局地的」というヤツに見舞われてしまいました。まるで薬剤を洗い流すかのように・・・

まったく裏目に出てしまいましたね。

もっと腹立たしかったのは花ガラが入ったバケットに雨が降り注いで溜まっていました

 

花ガラは昨日処分場に行ったばかりでしたが既に2袋がいっぱいになっていました。

天候不順の中でしたがお盆のお参りの方々がひっきりなしに訪れていましたから。

みなさんお花をキレイに交換して15日を迎えたいですからね。

 

午後からは浜岡チェック。

叔母さんの様子を久しぶりにこの目で確認しに向かいました。

家に入ってみると・・・案の定、室内は「高温多湿」ジャングルの様。

私は「死んじまうぞ!!」といいながらエアコンをオンしました。

年配者の温度感覚はかなり鈍く、それを放置していたら「熱中症」になるのでしょうね。

これから電話で毎日のようにエアコンスイッチオンのチェックをしなくてはならないでしょう。

 

さて、宇治平等院の先、宇治浮島には昨日記した「一番乗り」の碑があります。ただし浮島は2つあって対岸の宇治神社方向に向かう朝霧橋の架かる橘島とそして塔ノ島です。

二つの浮島は「中の島橋」で結ばれていますが塔ノ島の方は喜撰橋で平等院側につながっています。

昨日記した舟が係留されている画像が喜撰橋上からのものになります。

 

こちら塔ノ島の名は文字通り塔が建っているからなのでしょうが、岸側から見たその塔は、ぱっと見「粋狂な後世のモニュメント」のようにしか見えないデカさがあります。

最近ブログで記した層塔といえば馬町十三重石塔(永仁三年 1295)の「6m」でした。

しかしこちらの層塔はなんと約15m。

普通に考えれば「遊園地?」と思われても仕方がないような巨大なもの。

そして何よりもお気軽すぎて(スグ間近まで行ける)大した貴重性というものが感じられない立ち位置となっているのです。

 

しかし・・・そうです、この塔が弘安九年(1286)の銘がある層塔で「古くて一番大きい」もの。重文指定の石塔です。

水害で流された宇治橋の再架建造の際、災害の因果の報い(川での殺生)を払拭するために奈良西大寺の叡尊がこの塔(供養塔)を建てたといわれます。

馬町塔はこちらの塔より後になりますが、やはり馬町塔を建てた僧は叡尊の影響を受けていたようです。

 

こちらも史上幾度もなく水害に見舞われて倒壊、流出、逸失を重ねているようで、明治期の数点の後補(九重目の屋根と相輪)を含みますがこれだけのものが残ってなお雄姿を見せつけているところは特筆ものです。

 

勿論軸部分四面梵字種子は当時のものです。

例によって川勝政太郎氏の表現を記せば・・・

 

「宇治川の急流に臨んで立つこの大石塔は我が国古石塔中第一位の高さを誇る。低平な基礎上に据えられた初重軸部四面の金剛界四仏の種子は、実に雄大 薬研彫の迫力が十分に発揮される。屋根の軒厚く両端への反りの確かさ、鎌倉中期から後期への様式の整備されていくところがわかる。

第一重屋根裏だけに一段の垂木型が作られている。基礎の北面輪郭内に1000字を超える長文の刻銘がある。

磨滅して読めぬところもあるが宇治架橋の歴史からはじめて、西大寺の叡尊が橋を再興するにあたり 

゛於橋南起石塔一十三重河上、泰安仏舎利幷数巻妙典・・方今

弘安第九歳(1286)厳寒十一月仲旬九刻゛・・・の如く建塔について記してある。 

慶長元年(1596)の大地震に相輪が落ちて砕け、上方四重が傾いたのを、慶安三年(1650)淀城城主永井尚政が再興した時の追銘が基礎南面にある

 

 

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2017年

7月

13日

当時も水量多そう 宇治川先陣争い 梶原景季

前夜から安定した天気を予想してその日の動きを家中で宣言していたものの朝からパラっときてからの「遠州南部大雨洪水警報」の発令にはまいりました。

朝一番の浜岡でのお盆のあげ経は小雨とも言えないくらいのポツポツ状態で何の苦渋もありませんでしたが、湿度はかなり上昇ギミ。

帰宅してからもその発令に敬意を表して自宅待機を決め込めば、それ以後こちら相良では一滴も雨が降りませんでした。

 

陽ざしも出て「何のこっちゃ」と言いながらせめてゴミ出しでも・・・と水屋の花ガラを軽トラに積み込んで処分場へ。

帰宅してテレビの画面を前にびっくり、中部から関東で大雨が降っていました。

やはりこちら相良は太平洋岸にちょこっと突き出している地形が効果的なのか(どこかで記しましたが私の「前線通過は国道1号線」論の通り?)同じ遠州でも他所とは違っているようです。

 

それにしても犬山城天守の落雷?による「鯱の欠損」の画像も驚きました。あの程度で済んだことは良かったですが、「誰があそこへ上がって修理するのだ」と余計なところまで心配する私がありました。

国宝指定ですから、お国の方で面倒を見てくれるのでしょうかね。足場の工作からでしょうが、酷い散財でしょう。

自然の驚異をまた一つ感じさせられました。

 

さて、梶原山梶原堂の墓碑の如く駿府で亡くなった梶原景時一統ではありますが、景時本人の義経との不仲からの「噂」、頼朝への義経排除の画策としての「腹黒い男」の汚名(もっとも北条家による演出が見え見え)は彼の嫡男の梶原景季には及ばず、景季そのものへの世間の風当たりと後世の評価は悪くはなかったようです。

 

梶原景季といえば佐々木高綱とのエピソードが有名で戦働きとしては勇猛さが伝わっています。

源義仲(木曽義仲)は政に関しては後手に回ってというか後白河法皇にいいように利用されてからキレギレになって、あの法住寺殿を焼き払ったワケですが、その後の対頼朝との戦闘とその後の滅亡は予見していなかったでしょうね。

 

歴史を俯瞰してその頼朝も殆ど「道化の如く」(結果として北条家の台頭を許した)のですが、当時の戦争状態・・・治承・寿永の乱はまさにトーナメント方式(ノックアウト方式の勝ち抜き戦)の如くでした。

殆どベスト4くらい?まで勝ち上がっていた木曽義仲は頼朝の弟たち(範頼・義経)との決戦で敗れたのでした。

範頼・義経も結果的に頼朝によって「敗者の兵」を余儀なくされたのでしたが、そこまでうまく詰め将棋の駒の如く兵たちを駆使して征夷大将軍となった頼朝もカミさん(政子)と実家(北条)には、「してやられた」というところ。

昨日は今川義元の妹、龍泉院について記しましたが奥方というかその実家次第ということでしょうか。恐ろしや。

 

範頼は京都を占拠する義仲軍を正攻法であたる本軍となり近江の瀬田にて今井兼平と乱戦(もっとも今井500対範頼3万で)、義経はその背後を迂回して一旦南下、宇治川を渡って都を目指す木曽勢挟み込み作戦をとりました。

 

その義経勢に従ったのが梶原景季と佐々木高綱で、二人の宇治川渡河に関しての先陣争いが語り草として伝わっています。

渡河一番乗りのお話は畠山重忠らにもありました。

色々と二人の関係やら人間性やら面白いところが伝わっていますがその辺りは割愛。

 

私が今春宇治川辺りをほっつき歩いた際は護岸工事中で肝心のその戦の顕彰碑はどちらかに移動されていました。

現在河川の護岸工事は当たり前の如く、適宜拡大されていますが、こちら宇治川でもいまだ手を加えなくてはならない箇所があるようですね。

 

話は飛びますが護岸工事をすることで流れは速く深さは深くなりがちになりますが、その際はこれまでの橋脚の強度を補強しないと橋が流されることになります。

そういう工事は「手抜き」評価の部類になると思いますが見落としがちになるところ。

 

先般「柵」(しがらみ)で触れましたが水量と漂流物についてはリスク、耐力計算は必要ですね。特に護岸の嵩を増したり周囲にコンクリートを敷設したら・・・

 

古から人々の生活は河川氾濫との闘いであることは間違いないところですが、堤防護岸についての技術がまったくもって脆弱な頃ですから、「水は溢れて当然」の考えがあったワケで、時として川以外の地を水が流れることは普通にあったでしょう。

そういうことから人々は定住地をある程度の高台に絞っていたはずですね。現在は堤防を100%信じ切っている私たちがあります。

「ナスD」(テレビ番組)を見ているとアマゾン流域には堤防らしい堤防などはありませんから、低地に住む人たちの家はみな高床式でした。

自然には抗わないことが徹底されているように感じました。

 

話は元に戻って、その頃の宇治川。ある程度の流れはあったでしょうが、今のような深さはなかったと思われます。

 

碑が設置されている場所は「浮島」②③④あたり。

山側から合流して来る川は結構な激流振り⑦。

これからの季節は鵜飼の季節です。

舟遊びとともに賑わう観光地ど真中となりますのでこちらも私は敬遠すべき場所となります。

 

先般清水寺でも記しましたがこちらも早朝の観光客のいない時間帯狙いでした。

 

下図一番左の梶原景季の旗差し「並び矢筈(やはず)」が見えますが梶原堂の紋は「丸に矢筈」でした。

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2017年

7月

12日

光鏡院隣接のもう一つの寺 龍泉院の宝篋印塔 

果たして梅雨あけ前にこのような暑さがあったのか、記憶を辿ってみてもそうはなかったような・・・梅雨のイメージは毎日のように雨が降り続いて時として「油断すれば風邪」といった寒さがあったような・・・こういう状況はもっと若い時に経験したかったものです。

まぁおかげで境内のハイビスカスは咲き誇って、また数十年前に沖縄土産で買ったブーゲンの木っ端から成長した株は今年2度目の開花です。いまのうちはまだわずかですが見栄えがしてきたらアップしたいですね。

 

沖縄といえば、奥方が沖縄ショップに行って「金武」(きん)のタコライス(通称「キンタコ」)他いろいろを買ってきてくれました。こういったものが内地で売られていることは驚きでしたがやはり現地で「出来立て」を食するのが一番です。

 

さて、光鏡院の掲示板のとおりその寺は昨日記した二代氏貞の菩提寺松寿院とこちらの龍泉院にはさまれてあると記されていますが、こちら龍泉院は三代氏俊・・・ではなくてその奥さんの菩提寺です。龍泉院とはその人の戒名、龍泉院殿からですね。

氏貞の院号も「松寿院殿」でした。

 

奥方に頭があがらないというのはよく見かける図式で、そうは珍しいことではありませんが、「奥方様の菩提寺」というのは少々「主人よりも格上」を感じます。

では瀬名氏俊室とは・・・御屋形さま、今川義元の妹だったからでしょう。

 

格上の家から嫁をもらうと・・・まぁ一生頭があがらないワケで・・・むしろ家庭は円満?

いやそうでもないですね。信長の娘をもらった築山殿の息子でもある松平信康の件がありました。

 

お寺のある山腹中段に磨滅がキツイながら宝篋印塔が単独で建っています。「龍」の字はこのあたりの山系に使用されているようですが泉が湧き出たのでしょうか、それを推察されますが、地盤が比較的丈夫であることをも思います。

こちらのお寺は光鏡院墓域のお隣にあってそちらの墓地に上がったらそのまま北西側に歩を進めます。画像最後から2枚目が光鏡院墓域から西を見た図ですが、龍泉院本堂が見えます。

最後から3枚目が石塔背後から光鏡院方向を見た図。

最後の画像が石塔付近から見た駿府館方面。

 

石塔そのものはバランス的には不安定感アリアリ。果たしてすべてのパーツが当初のものかも疑いたくなるほどのアンバランス。相輪がデカすぎで塔身のカタチ・・・というか五輪塔水輪のようなのも積まれています。

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2017年

7月

11日

瀬名二代目 松寿院殿 瀬名氏貞 松寿院墓域

昨日は年に一度の病院アトラクション(人間ドッグ)の日。

お楽しみのオプション選択は当家奥方の仕事です。

日程から内容までのお膳立ては勿論、事前申告書まで書いていただいて私はただ病院に向かうのみ。

 

しかし早朝ダッシュの順番取りは肝心で7時に家を出て(遅すぎた感ありましたが)「3番」のチケットをゲット。

これだけは指定の時間「8時10分までに受付」を真に受けていたら酷いことになりますから。

毎年「次は1番」と思っていてもこのようなものですが、3番はほぼ先頭集団ですから待たされてイラっとさせることはありませんでした。

 

今年はバリウムではなくて胃カメラ、そして心臓エコーに心臓冠動脈のCTが入っていて時間がかかる事は覚悟していましたが、途中の医師の問診と血液検査やら血圧等の判定から「CTをやったとしても異常ナシの確率が高い」と仰ったことと、造影剤点滴による重篤後遺症発症例の説明と署名承諾に怖気づき「ヤメタ」を決め込んで早々に帰宅してきました。

 

これにより当初の予算が30000円以上浮いてしまいました。

この結果は私の「体調管理の成果」ということ「リスクを取るのは私である」を理由に「成功報酬」そして「小遣い」を打診しましたが敢え無く「バカか!」と一蹴されてしまいました。

来年のオプション「脳ドック」に回すようです。

 

尿酸値の高さを指摘されたのはいつもの如くでしたがあの「行ったり来たり」の中、血圧が「上  117」の数値は絶妙でした。

しかし尿酸値の高維持など以前でしたら「お酒も飲まれないのに・・・グルメでいらっしゃる・・・」と痛烈な皮肉を含ませながらの「痛風」ケア程度で済んだものでしたが、今の医学界では高尿酸値こそ動脈硬化の要因であって脳いっ血、心筋梗塞に直結すると・・・「ヤバイよ」と脅かされました。

 

医師が何度も説かれていたことが

「腹八分目」「一日20分のウォーキング」「継続は力なり」です。あと「食事後30分は横になるな」と。

昔の人の言っていることはウソではなかったことに気づきました(牛になる―反芻する―胃から食堂に戻る―逆流性食道炎)。

 

さて昨日も記した梶原山からその西麓の地はのちに今川義秀改め瀬名弌秀一統が居館を構えた場所。瀬名弌秀の菩提寺光鏡院

あたりがその中心といわれますが、その南隣に瀬名氏二代目の氏貞の菩提寺があります。

 

御一統の寺として光鏡院があるのですから、何もこちらに新たに菩提寺を作らなくてもいいのでは?とは思うところですが、まぁいろいろあるのが親子関係というものなのでしょうが。

代替わりの度に当主の寺を建てるのではキリがありませんからね。

この瀬名氏貞の次男義広が関口氏の養子に入って関口氏を継承、当初瀬名義広。その後今川氏親の偏諱、瀬名親永を名のっています。瀬名親永の娘が築山殿。

 

お寺は住宅街の奥。一見わかり難いですが、案内板があります。

向かいのマンション入り口にある番地のプレートを目指していただければ・・・(場所はこちら)。

 

古い卵塔も並んでいますので創建時の寺域は光鏡院と変わらなかったことでしょう。

石塔の不完備も明治期に何らかの圧力と縮小を余儀なくされた感があります。

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2017年

7月

09日

矢崎とは矢面に立たされたこと? 梶原堂の宝篋印塔

お斉で榛原在住の方と話しました。

現市長の引退ということから次期市長がいったい誰になるのかというとこ・・・。

ポイントは旧榛原から二人が手を挙げているようで一方の旧相良から手を挙げようという人が今のところ不在という点。

相良の人たちからは、榛原出身の市長だと「ますます相良が置いて行かれる」といった雰囲気があると私がいえば、榛原の人たちはずっと相良の後塵を拝する思いでいたといいます。

 

どちらから市長が出ようがもはや旧町どうのこうのと言っているレベルではありませんね。

まぁどっちもどっちと言っちゃあ何ですが、前途多難であることは変わりませんからね。

しかし相良住民からすればご近所から出た市長がイイに決まっています。

 

一昨日は藤沢の妹家族が墓参に訪れました。話題は九州朝倉の災害の件。

私か聞きかじった九州「朝倉市」の地名の発祥は天智時代の「ちょうあん」にありそれを漢字で記せば「朝闇」。

闇→暗→倉と転じたのでしょう。そちらには今も「朝闇神社」なる社があるそうですが、その地の伝承に近くの池の水を汲むと大雨が降るというものがあったようです。

倉」という字は「長者」を示唆するとも思えますがその転移は「朝闇神社」周辺の「長安寺廃寺」の存在があるということから頷けます。「長」はいわゆるキラキラネームへの転移を推測します。「長らくの安寧」は人々の願いであって深読みすればその真逆の歴史があった・・・のかも・・・というところ。

 

また、お隣の「日田」の語源は「干た 引いた」の如くで「水」を意識させます。

 

その辺りを知ったかぶりをして妹家族が住む藤沢大庭、羽鳥地区の水害の歴史を示唆する「引地川」の字面の表す意を勝手に論じました。古い地名には「改変とそのまま」があるもので、「何かショッキングな事象」があったとしたらまず地名として残るものと。

私は「大地を引き裂くような河川氾濫」の過去があったと自論を展開・・・。

文書には残っていない地歴の推測でした。

 

さて瀬名一秀の「西奈→瀬名」という地の光鏡院(またはこちら)の東側の丘陵が梶原山。梶原氏一統33名の滅亡の地です。

その山の南東側の地、東海道にほど近い、現在は東名高速道路の高架と平行して走る街道筋に「矢崎」という地があります。

交差点にもその地が記されていていました(場所はこちら)。

 

そちらの交差点を山側にほんの少々入った場所に梶原堂という殆ど祠のような、かつてあった寺院(龍泉院)の面影のみを残す堂が建っています。

住宅地で細道ですが、石柱が建てられていますので石柱を見つけた段階で広い場所に車を置かせていただいてから徒歩で目指しましょう。お堂まで行こうとすると車のすれ違いが難儀な場所となってしまいます。

 

このあたりは現在は住宅地になっていて平らかに削平されていますが、大掛かりな造成工事があったからのもので、かつてはもっと山が張り出していた場所。その山腹にあって幕末前に焼失した龍泉院の跡地もろとも山が削り取られたとのこと。

龍泉院は室町初期に梶原景時、長男景季、二男景高その他一族を弔うために建てられた寺で、その際に建立された供養塔石仏がこちらに移されて堂の裏に並べられています。

 

状態は決していいものではありませんが、形式としてはやはり古き良きカタチがうかがえます。

「昭和五年」とはっきりした年代がありますので、何らかの調査資料が残っているのでしょうその頃は「墓も刻字もしっかり」していたとのこと。延文五年(1360)十二月二十八日の銘が判読できたそう。

 

墓は造成工事やら酷く無下に扱われた時期があったのでしょう、現状風雨にさらされての摩滅もありますが、こういう石仏遺構は放っておけば壊れますので、これ以上の崩壊を防ぐためには何らかの対処が必要となります。

地域によってはこの手の石仏は覆堂に納められていても不思議はない代物です。出所が明らかなものですからね。

文化財を後世に残しておこうという感覚が少々希薄なような。

彼らが朽ちていく姿は心苦しいものがあります。

 

以下光鏡院脇、梶原山公園に上がる道の入口に掲げられた看板。

 

看板③の「矢射タム橋」なる地名から推測してこちら「矢崎」の地名を梶原一族が矢面に立った地?を思ったところでした。

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2017年

7月

09日

「誤解」とは「おまえはバカ」か体のイイ言い訳

人というものの物事の捉え方、感じ方はそれぞれであって「違っていること」の当たり前は日々感じているところ。

そこに「誤解」というものが生じれば、摩擦が発生して時に重大な事案へと発展したりしています。

 

そういった「感覚の差」から始まって、人種・宗教・国・貧富・イデオロギー等の「差」によって発生した「分別思考」が今世界中を駆け巡っているように感じます。

そのような風潮の中突然出現した米国の大統領の奇異が拍車をかけているようにも。

 

まぁ色々あってイイという許容は必要ですね。

「許さない」(その語彙はみなさん最近得意!)と言わずに何とか「一所」に考える方向性はどちらにおいてでも残しておいて欲しいところです。

 

そんな中「良かったな」と思えたのが「核兵器禁止条約」が国連交渉会議で採択されたこと。

しかしながらこの条約に日本が参加しないというのは上記米国大統領の件以上の「奇異」。こればかりは海外からは日本人のお頭の具合はいったいどうなっているのか疑われても致し方ないですね。

世界で2発核爆弾を喰らっている国が、その存在について同盟国の顔色を窺うなんて・・・「バカみたい」な話のような。

そのように各事案にその感じる「温度差」というものがあるワケですね。

 

「誤解」といえば昨日記した「三帰依文」の帰依し敬うべきは仏法僧の件、「知らない人」がそれを聞けば誤解されて「冷や冷や気分」と記しましたが、ここは「僧」をそのままスンナリよめば「僧侶」であってサンガー修行者一同・・・「みなさん」の解釈はまずないところ。大抵の方々はそんな部分まで知り得ないところです。

よって「知らない人」と記しましたがある意味この「僧」に関してのあれこれは「知らなくて当然」なのですね。

よって「知らないから誤解」するワケで、逆にいえば「誤解」する人は「モノを知らない」の御説に等しいのです。

 

先日はその御説を連呼した人がいましたね。

防衛省のお大臣女史です。

あのスジの方々は時としてその語をやたらと吐く事は承知していますが、あの時は何と35回と。

35回「お前らモノを知らない」と言われているようで見ていてやはり「気イわるい」。

「防衛省、自衛隊、防衛大臣としてお願いしたい」と言ったことに各法令違反を指摘されて「防衛省、自衛隊、防衛大臣としてお願いしたという意図はない」と「誤解×35回」を発した会見でした。

禅問答チックで私には理解不能。

 

別報道でも聞きかじりましたがあの方は「も  一回やりたい」と仰ったとか。つぎは外務大臣が御所望とのこと。

やっぱり私が相当のバカだったということで納得させていただきました。

 

昨日は某ホールにて。

日ごろTシャツかポロシャツ1枚の生活をしている私ですがその日はいわゆる「最上級に近い」衣替えをしなければならない日でした。

まぁ「和装で着込む」ということですが、この異常な陽気と湿度の中でのその時間は「まさに修行」の感覚ではあります。

毎度この時期のことといえばそうなのでして、今更その状況を人さまにこぼすことはありませんが、ホールの担当者が気を利かしてくれて、少々申し訳ない気持ちでした。

 

担当者は申し訳なさそうに「25℃に設定させてください」と私に声を掛けてきたことからその私のいないところでの「温度差」を知ることができました。

皆さんは「寒い」とのクレームを出されて常設ブランケットが飛び交っていたようです。

 

私のハンカチで汗を拭いながらのお勤めへの心遣いだったのでしょう、目いっぱい空調温度を低めに設定してくれていたよう。

そういえば上半身は暑いとは思うものの(それは当たり前、上半身に着込みますので)足元はやたら「冷えるなぁ」と感じていました。

緊張感を維持しつつ長時間腹から声を出し続けるという(これはもはやスポーツに近い!!)有酸素運動の雰囲気もあるこの様子を見ての配慮は実は大多数の参拝者にとって真逆の忍耐が必要だったワケで・・・。

この件、多数の主張ですからここは常識的に考えて私は引くところ(先方が配慮してくれたのですが)。私はニコリと笑って「温度高めで可」とご一同を凍えさせてしまっことに謝りました。

ついつい坊さんはこういう場合「誤解」して結果「傲慢」に陥りがちになりますが、あくまでも(導師とはいえども)「主役」は「みなさん」ですからね。

 

画像①は先日記した自作フローリング完成図。

この部屋は広め(8畳)で少々面倒でした。あと3部屋、4.5畳、6畳そして掘り炬燵のある6畳が残っています。

1階は断熱材を入れますので経費が嵩みます。畳をあげてみて床下がまともであればスンナリいきますが・・・。

②~④は毎年恒例の月下美人。今年2度目ですが、彼女の美しさは絶世といえましょう。

何がスゴイか・・・

花の白さと美しさ、その「華麗」は申し分無いですが、芳香がスゴイ。よって今晩あたり・・・と思ったら玄関内に移動させておきます。

 

挿し木がカンタンにできますので何鉢かありますが、不思議なのは開花が同時かそれに近くそれが神秘的です。

下手をすれば玄関に入れ忘れたものが翌朝萎んでいる姿を晒していますが、その姿に「何て謙虚な花なのだ」といつもいつも思わされます。

誰にも知られず暗い中で咲いて、明るくなった途端にその美しさを隠してしまいます。そして「なんてこんなに見すぼらしい葉から咲くの?」というくらい放置状態の株。「まさか」を思いますね。そういう彼女のありさまは人も見習うべきところがありましょう。「見られていないところで美しい」

 

こちらも株分け可能。お声かけください。

 

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2017年

7月

08日

福田(ふくでん)の一 「恩田」 種まきと収穫 因果 

九州被災映像の図は「驚愕」を通り越してもはや「悲」をも感じます。あの3.11と変わらないようなそれです。

地形的にいって激しい降雨が山間部の起伏がある地に続いたことが大きな被害へとつながったのでしょうが、それだけにインフラは寸断されて、一部いまだ連絡さえ取れていないという歯がゆさにもなっているのでしょう。

物資の搬入もままならず、そういった要望さえも伝えられない場所がまだあるようです。

「行方不明」の文字から伝わってくるのはまだ何もかもが判然としないということでしょう。

 

それにしても今年は異常な蒸し暑さを感じます。

当地相良は梅雨にもかかわらず晴れ渡っていましたが、陽ざしの暑さはまだそれなり、先日の36℃から見れば大分落ち着いていて温度的には大した上昇とはなっていません。

しかし何故か湿度が・・・。まさに不快指数満点!!という感じ。

 

私たちはこちらで何もしなくても「強烈」な不快感を味わっている感がありますが、不安とともにあの「泥田」にまみれながら日々避難所生活を余儀なくされている方々に「すべての物事がはやく改善の方向に進んでいきますよう」願います。

 

さて、仏教に福田(ふくでん)という考え方があることは司馬遼太郎が本名(福田定一)について記した箇所にありましたが、その「福田」とは一言でいえば「福徳の果実を期待する田」の事でしょう・・・。種まきをする場です。

司馬遼太郎は真宗にとってそれは「土地ではなく門徒」であると。

武田信玄が言ったといわれる「人は石垣」のような感覚に通じる部分があります。

 

そして「福田」には三種あって「三福田」という表現があります。これは「善行として福徳の果実を得る」(善い事をして悪い事はしない・・・)という教え、それは本来の真宗的感覚にはありませんが(そもそも善に向おうとしても善を成し得ない―だからこそ、悪を抱えたままで・・・「悪人正機」)、仏教底流にはその意義は不可欠な根本思想として流れていますので外すことはできない考え方です。

 

①に「敬田」。「仏法僧」を敬うことでしょうか。敢えて追記しますがここでの「僧」とは僧侶のことではなくサンスクリットの「サンガ」のこと。まぁ「修行者集団」転じて「みなさん」でよろしいかと。

よって「坊さんを敬え」という意ではありません。

「三帰依文」の拝読を時に行いますが、知らない人がそれを聞けば坊さんが自分のことを「敬いなさい」と言っているようで毎度冷や冷やする気分です。

 

②に「恩田」。父と母、祖父母などその身を育んでくれた師へ報いることによって福徳を得ること。

 

③が「悲田」です。困窮している人に手をさし伸ばす・・・

 

それらに「布施」することによって得られる徳のことです。

利他が自利につながることを伝えているのでしょうが、まぁ福徳とはゲットするものにもよりますが、物質的物欲が絡むと(見返りの期待)ロクなことはないことはこれも歴史の示唆するところでした。

 

とにかくこの「福田」のうち③「悲田」こそ今の困窮する人々に向けられるべきであり、政(まつりごと)の主たる使命です。

「会議は踊る」ではかないません。

時間をかけてじっくり・・・「動かざること山の如し」は他の場でお願いしたいです。

いまこそ「疾きこと風の如く」動いてもらいたいですね。

国が信じられないという不幸はありませんから。

 

昨日同様記しますが、G20などは欠席で良かったのです。

各国首脳はむしろそのことに英断と高評価したでしょうね。

 

表舞台に出る事ばかり、形式的な担ぎあげと拍手喝采を期待するのみに傾注している姿だけが目立ちます。

「アッキーからあの秋葉原の醜態」を見ていて人間としてどこかDNAが欠損しているとも見てとれます。

私と同じ?・・・かも知れません・・・。

過去日本には「悲田院」「施薬院」なる名称の寺院施設の名が見られましたが。

 

②の「恩田」の「恩」。例によって「心」のつく漢字です。

先日は「忍」の字で色々記しました。

「心」の上の字が「因」。

「因果」や「因縁」、そして「悪因悪果」など仏教に関わる語のオンパレードとなります。

やはりその「恩」を思うにそれらの「原因」、「因を知ろうとする心」のことだと再認識します。

 

「原因」とは「悪因悪果」で表す通り、「種まきすること」です。

種まきが「おかげさま(成果)」となるのか、否いわゆる「自分の撒いた種」となって悪果の収穫となり結果自らの首を絞めることになるのか・・・それは色々種まき次第。

 

ということで因を知る心をして「恩」。

要は「私の存在そのものの縁」を知ることでもありましょう。

それを知らないでいることを時に「恩知らず」と揶揄されることになります。

 

他人様の事ではありますが「福田」ならぬ「票田」を期待し、そのおかげさまで今の舞台に存在させていただいているという恩を忘れている姿をあの方に思います。

世界中にあの状況は報道されていますよ。

 

画像は先日記したダンドクに「種ができた」の図。

この種は黒くて丸いので海外では「ショットガンの弾」と形容されています。

この実からの発芽はまだチャレンジしたことがありません。

ダンドクは球根から芽を伸ばすのでいつも放ったらかしにしていますが、今年は種をキープして来春に発芽チャレンジをしてみようかと思います。

 

本堂裏の道路脇にたくさん実っていますのでどうぞ・・・。

これから花が②画像の如く緑色に膨らんで③の如く熟れ、④黒の「弾丸」が弾けます。

 

最後の画像は昨夕の庫裏天井付近の図。

室温30℃、ネコたちは同じような格好でだら~っとしています。

「危ないぞ」と声掛けしても「お前も危ないぞ!」と返してくるような・・・道林禅師と白楽天の問答ばり・・・。

道林の「諸悪莫作 衆善奉行」はかつてブログで記していると思いますがその場所は失念してしまいました。

各あらためてお調べいただければ・・・。

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2017年

7月

07日

解体工事によって判明 今井町称念寺本堂建立時期

「筆舌に尽くしがたい」という言葉を被災地報道の中で聞きましたがまさにその通り。

視界の悪いながら暗い朝を迎えて徐々にその状況が伝えられてきましたが、あのテレビ画面の姿は、日本中どちらで起こっても不思議ないこと。ただ最近よく耳にするようになった「線状降水帯」の仕業ですね。

 

現状、正確な被害状況は把握できるはずもなく、被災地の方々は難儀を強いられるわけで何とか早く対策を練って早急に動いていただきたいと思います。

 

自動車での商売優先という意気込みはわかりますが、自国民災難というこの時期、日ごろ国家国民の生命一大事を発するお方(総理殿)のなされる事とは違うような・・・。まだ泥の中で救助を待っている方が大勢いるといいます。

EUのお歴々もそのあたりのニュアンスは受け入れてくれるはず。

「外遊」という字面も庶民からすれば「気ィわるい」ですね。

悲惨のニュースの合間に自己の仕事の成果を吹聴する声高の様子に違和感を思うのは私だけでしょうか。

 

もし私が何かご注進できる立場だとしたら・・・

早々に「欧州大返し」くらいの勢いで帰日し、ネクタイなどむしり取って作業着に着替えてから(恰好だけでも)スコップの1本も持って現場指揮でもすれば「支持率up!uo!」と。

泥の一杯もかぶるくらいのパフォーマンスがあれば「尚ヨシ!」でしょう。確実に5%はあがるでしょうね。

 

問題噴出のあの女史(防衛大臣様)もたくさんの自衛隊員を現場に配しているのですから指揮官「統制者」をチャレンジすればやはり国民は唸りますね・・・飛んでくるかどうかわからないようなお隣の国のミサイルについて何か仰っていましたが・・・

 

しかしダメですよハイヒールでは・・・「長靴」は持参してください。間違っても担がれたりでもしたらもっとブーイングが鳴りましょう・・・

やはりやはりそれを実現したとしても「邪魔!!」と現場から声が出るかも知れませんが。

 

そもそも「目線」が違うからそれらはムリっていうものでしょう。ただし昔から「イザというときに寄り添わない指導者」は「いらない」と聞いています。

 

ところが今上天皇は少々違いますね。

もう既に慰問スケジュールをたてているやも知れません。

もし先に行かれたとしたら政権は大恥をかくことになりますから、それだけは何とかストップさせるでしょうね。

 

さて先日、奈良県橿原市今井町の称念寺本堂解体工事の報がありました。昨日に続き今井町です。

称念寺は何度かお邪魔していますが(こちらまたはこちら)私の父も母を連れてピンポイントで訪問させていただいているお寺です。

もう20年以上も前になるでしょうか父は先々代の住職と色々お話をさせていただいてその時の様子を感動して私に話していたことを思い出します。

 

そういうことから私も父にならってこちらには是非にということで家族で、あるいは「奥の墓道氏」を伴って向かっていました。

私は先代の住職とも現住職とも立ち話程度ですがご挨拶させていただいています。あの時は現住職に突き付けられていた難題とそれを解消していこうとするバイタリティにさらに感動させられたものでした。

 

その報じられた内容ですが建替え工事(と言っても旧材利用の)中の本堂(重要文化財)ですがその上棟式を迎えたということの他、本堂の建立時期が「江戸初期の建築を裏付ける墨書」が出たというものでした。

橿原市教育委員会の記した称念寺掲示板(平成14)にこういった一文がありました。

「本堂は真宗寺院の典型的な平面を有し~当初の形態をよくとどめ十七世紀初期は降らない建物」いま一つの掲示板では「本堂の建立時期はあきらかではないが・・・」です。

 

要は「1600年代初期の推定」ということです。

解体の途中、棟木についての発見はなかったとのことですが、内陣と外陣の境の建築部材から寛永十八年(1641)の墨書を発見したとのこと。

 

これにより本堂建立の時期が確定したわけで書き換えあるいは追記が色々と必要になりましたね。

その年の拙寺の事象といえば釋宣如(教如の三男)花押付きの「本證寺下遠州榛原郡相良庄新町」の書面、現在の本堂木仏尊像(本尊阿弥陀如来)の認証を受けたことがあげられます。

 

先般称名寺にうかがった際は工事開始の時、それから解体と発掘調査を経て今回の上棟となったわけで完成が平成34年といいますからかなりの長丁場。総事業費は20億円余りとも。

ここでも気が遠くなるような数字を見ました。

元号も変わる事が決定しているようですから、この完成時期の数字も変更しなくてはなりませんね。

 

HPがあることをわすれていました(→称念寺サイト)。

画像は過去のもので失礼。

今のグーグルマップを見れば素屋根に覆われている様子がわかります。

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2017年

7月

06日

柵 「しがらみ」 たつかたてるか それとも流すか 

当初は御前崎通過予報の出ていた台風は南の海にかなり外れて相良地区は少々の雨で済みました。

それにしても九州地方の居座る停滞前線の豪雨は酷いですね。

一点集中の弱り目に祟り目の如くで、早い天候回復を願います。

 

梅雨前線ともいいましょうがこれは太平洋高気圧とシベリア産の高気圧の谷間がその位置ということになります。高気圧の張り出し具合(強弱)によって居場所が違ってきますね。

「夏=太平洋高気圧の優勢」ですからあともう少しの辛抱でしょう。

一気に前線を押し上げて早いところ日本列島から遠ざけて欲しいものです。雨が止まなくては被害状況さえつかめませんし・・・。

何しろこうやって私が穏やかに今居られることこそ(先日来流行の気配のあった)「僥倖」といってもいいのかもしれません。

 

さて、先日は親鸞さんの言葉、「慶哉~樹心弘誓佛地 流情難思法海」を記しました。

樹心」の「樹てる」と「流情」の「流す」の使用は絶妙です。そして「樹てる」所は「佛地」であり「流す」所は「法海」との対比もまた見事だと思います。

 

九州地方の河川の激流を見て思います。

川に架かる橋の橋脚が溢れんばかりの水量に姿を消して今にも橋そのものが水に浸かりそうな様相。橋を通過する車に危うさを感じる画像でした。

現在の橋といえば鉄筋コンクリート製でベースもしっかりと川底に固定されているようですから滅多なことでは橋脚が流されるようなことはないとは思いますが・・・

 

そのような工法が確立していない一昔前といえば、人々は橋に関しては一工夫を施したものですね。

「沈下橋」の類でハナから河川の氾濫、増水に対して抗わないというものです。橋脚を高くせずにわざと増水時に潜るようにして作る橋ですね。

 

低コストで(流されても)「また作ればイイ」程度の橋にするという意図がありますが、別にしっかりとした目的もあります。

沈下橋は欄干手すりなどの今でいう落下防止の安全のための配慮はありませんが、これは流木類の引っかかりと滞留を避ける意味があります。

そもそも川の流れに身を沈めるということは水の抵抗を和らげることを期待してのことですがこれは漂流物の「引っかかり」を回避したいという意図そのものでしょう。

 

脳いっ血等血管を詰まらせる要因は最初の何かのちっぽけなつまりがその病を誘引しますね。それと同様で川の流れのコントロールというものはとにかく止めずに流れてもらうことが第一義。「流れにまかせる」という語がありますがまさにポイントはそこなのです。

 

よってその身を完沈させることによってたとえ水草1本であっても引っかかる余地を残さないようにした昔の人の知恵でした。そのことによって低コストではあるものの無事であることの果実を期待できたのです。

各地にこのタイプの橋が残っていることからかなりの効果があったことが想像できます。

昔はダム整備など皆無、すべての水の流れが川に集まった時代ですから。

 

昨日は柿本城の本丸付近に造作された「柵」の画像を記しました。この文字「柵」の読みは「さく」というのが一般的。

そして「しがらみ」の読みも。

「しがらみ」といえば昨今使用される例といえばいわゆるアレ。人が社会に出れば背負っていかなければいけないといわれる複雑な人間関係のこと。

 

しかし本来の「柵-しがらみ」の役割は橋の上流側にたてる杭や柱のことでしょう。要は柵状(さくじょう)に構造物をたててそちらに漂流物を絡ませて下流にある橋脚を守るものです。

 

私が気になるところとしては溜まりきった漂流物が堰を切るように流れ出した際はかなりのパワーに増幅されるような・・・かえって橋を壊すような気がして。

 

心の「柵」もそうですがやはり「断てる」ものでも「建てる」ものでもないですね。やっぱり「流しちまう」のが一番・・・

 

画像は先日の柿本城転じて(まったく関係ありません)万葉集、柿本人麻呂の歌碑。

 

「明日香川 しがらみ渡し 塞かませば 

             流るる水も のどにかあるまし」

 

(人の逝去にあたり)今味わうこの無常の流れの激しさはしがらみを渡してその流れを塞ぐことができれば穏やかになれる・・・

 

明日香川は藤原京から甘樫の丘④を回り込む河川のこと。

歌碑は「今井まちなみ交流センター華甍」という史料館脇の緑地帯のものです(場所はこちら)。

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2017年

7月

05日

柿本(山吉田)城新設登城路 満光寺裏宝篋印塔

九州地方から今度の台風での被害の報がありました。

突風でお寺の本堂屋根が吹き飛ばされた画像は衝撃を受けました。あの規模の台風なら「ちょっとした低気圧が発達したくらい」と高をくくっていましたが実際の強風の様子を見て自分の知識や感もアテにならないことをあらためて・・・

ということで拙寺本堂は午後から正面の戸は閂で押さえ全扉を閉鎖しました。

また背の高い鉢モノは軽トラの荷台に詰め込んで避難させました。台風のコースはやはり運・不運ではありますが、最悪のパターンは加味して早めに対応することだけは心がけています。

 

さて、柿本城(山吉田城)に関して「登城路が見つけにくい」→「登城路が作られていた」までを記していました。その登攀路の整備はなかなかの苦労があったことはうかがえますが、城の本丸へ行ってまた驚かされました。

 

道の駅の裏の満光寺が本丸直下であることは見当がつきましたので本堂裏手からの道はかつてあったことは違いないところ。

要は手入れがされず放置されていたために道が消失していたのでしょう。

 

本丸付近は以前は木々が乱立していましたが、それらを伐採して戦国の城の如く風の雰囲気に仕上げていました。

おそらく形状変化をさせない程度(学術調査の障害とならない)

の演出でしょう。

とにかくお気軽さは以前とくらべて10倍。あの時は登攀路さえ見つけられませんでしたから。

 

相良には戦国の城、滝境城がありますが、民地で茶畑となっていて「整備しよう」などの声は上がってきません。たくさんの人たちの力でここまでやり遂げた姿を見て感動しました。

 

本堂西側からの登城中、本堂の裏側に墓域があって祠があります。鈴木重勝・重好の宝篋印塔がありますので「開基堂」の戸を開けさせていただいて参拝させていただきます。

井伊谷三人衆のひとり鈴木重時の父親が重勝で重時が堀江城攻略で落命したためその子の重好が家を継ぎました。

お堂の中、向って右から鈴木重勝と妻、鈴木重好と妻と言われます。

 

堂の周囲にも同時期に建立されたであろう宝篋印塔が数基建てられています。相輪が太めで長く全体的に長細く見えます、隅飾りも開き気味で製作年代はどちらも江戸期かと・・・

 

 

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2017年

7月

04日

大沢基胤 舘山寺堀江城と宿蘆寺墓域

静岡は暑かったです。

たまたま二週連続で月曜日に法事がありましたが本堂内陣は蒸し風呂状態でした。

お内陣はお灯明があるため周囲の戸は締め切りですので風通しに関してはまったく期待できません。

また一つ齢を重ねたせいですね。法事が終了したあとはつい「ふ~ぅ」と出ていました。

昼食後スグに静岡方面へ所用で移動しましたが、気温はどんどん上がって、この時期「こんなの見たことない」というのが①画像。予報によると梅雨明けも早そうですし、暑さも「より一層」と聞きます。ここのところ法事終了後のご挨拶は「エアコン活用して水分とってね」。

台風の接近がありますから当面の注意点はそちらですが・・・。

 

帰宅してからは日曜日に録画していた大河ドラマをさらっと。

城を作る作らないの段でしたが、この城とは堀川城(またはこちら)か刑部城ですね。

まず堀川城で間違いないと思いますがこの城には瀬戸方久が関わっていたという説もあるくらいです。

 

番組では大沢基胤と堀江城の名が出てきました。

そして番組最後の紹介部分はそちらの城址と大沢家菩提寺の宿蘆寺が。堀江城と堀川城と紛らわしいですが・・・

場所はこちらになりますが、堀江城はあの「平蜘蛛釡」の展示のある舘山寺博物館の直近になります。とはいえ現在はただの遊園地となっていて城としての見ものは地名の「堀江」以外無し。

 

宿蘆寺には江戸期風、背の高い大名家風宝篋印塔があります。

大沢基胤といえば三河から一気の力攻めによって劣勢となった今川氏真にギリギリのところまで忠誠を尽した家ですね。

家康軍は相当堀江城の大沢基胤に痛い目にあいましたが、タイミングでしょう、家康は根負けして大沢一統の本領安堵を約して和議と収め、配下とします。

 

家康はその約束を違えず大沢家を以後戦働きに活用、基胤にその子の基宿も戦功をあげて「高家」として引き立てられて堀江藩は明治まで続いています。

家康は名家好きといいますが、大沢家は藤原道長の血を引くといわれています。墓碑にも「藤原」が強調されているところがうかがわれます(最後の画像)。

 

画像②③④堀江城跡の遊園地。④の遊園地案内図に御陣山と堀江城の名が見えます。⑤⑥が近隣の舘山寺。

⑦~が宿蘆寺と墓域。

 

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2017年

7月

03日

心を弘誓の仏地に樹て 情を難思の法海に流す 句仏

昨日のテレビ小僧は悩みましたね。ゴールデンタイムです。

朝から続く将棋のつづき、NHKニュースに大河ドラマに都議会議員選挙、そして「ナスD」でした。

午後からのお勤めがありましたが、強烈な湿度と気温によって久し振りに大汗をかきました。

「法事ってこんなん体力勝負?」と思いつつ一息ついてから境内のお気に入りの鉢モノ植物たちに水やりをして夕刻からのテレビ視聴のため、英気を養うべく・・昼寝。

 

私はBS大河を録画して、民放の演出・脚色っぽくない、体を張った彼の番組を見てしまいました。アマゾン紀行のバラエティですが普段は深夜放送なのにあの時間帯に局はぶつけてきたのでした。

 

選挙の方は土曜日の秋葉原演説の様を見て「勝負あった」感がありましたので・・・結果は予想通りでしたね。

まさに「歴史は繰り返す」です。

早々に敗戦の弁が聞こえてきましたがこの期に及んで「わかっちゃいねぇなぁ」の感じがしないでもありません。

 

さて、「樹心弘誓佛地 流情難思法海」。

「 心を弘誓の仏地に樹て 情を難思の法海に流す 」

は先日記した句仏さんの書「勿体なや~」(こちらも)の右肩にさらっと記されていた言葉です(画像①②)。

カンタンに記せば

「大地にしっかりと心(仏心)の根っこを張りなさい 

    流されちゃダメ(流しちまうのは諸所の雑念)

        そして法の海に身を投じてまかせましょう

の如くでしょうか。

勿論開祖親鸞聖人の言葉(浄土文類聚鈔)ですが、どうやらこの言葉は元ネタがあってそれが玄奘三蔵の「大唐西域記」からだとのこと。いい言葉はイタダキ。それもヨシですね。

昨日は海の法要で雨に祟られなかったことを私は「喜ばしきかな」と軽々とそんな言葉を記しましたが上記の「樹心弘誓佛地」の冒頭には「慶ばしきかな」とあるのです。

御開祖は標記の語をそのように感動していたのでした。

 

そして元の語は

「心を仏地に樹て、情を法海に流す」だったそうですが、親鸞さんは「弘誓の」と「難思の」の追加脚色(阿弥陀の働き)を加えたようです。

 

私事、心を建てる場所が違うか、根が張っていないフラフラ、流されてばかりの身であったこと、此処でも反省させられます。

まあ都議会選挙を考えると、多くの政治屋さん世界で根を張り巡らせることといえば・・・「カネと地位名誉そしてお友達」というところが一番(ファースト)であったことが市民には「見えた」のでしょうね。

 

③④は近所の調整池。こちらは以前「むら池」と呼ばれる沼がありましたが今は埋め立てられています。いわくつきの地でしたが私は中高時代は鮒釣りの場。調整池といっても生活排水が流れ込んで環境は劣悪ですがここにカモが抱卵してコガモをかえしています。

 

画像は2家族めの親子の図ですが先発家族はすでに出立済み。

飛び立ったのではなく必死のチャレンジで地上に上がってから「歩き」で親が連れて行ったとのこと。

この先に池などありませんからそれは不思議です。

きっと大昔からこの池にいたカモの子孫が引き継いでいるのかと考えると人は惨い事をするものと思うばかりです。

 

ヤマモモの図はこの地区でも比較的大粒が実る木が近くにありますが、まず見向きもされません。

境内はアジサイが調子ついて咲き誇っていますが、この時期は私は春先に次いで絶不調な時期です。

梅雨だけは早く終わって欲しいとおもう今日この頃。 

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2017年

7月

02日

法住寺境内 あそびをせんとや うまれけん

7月1日は恒例の「海開き」。

相良の海の家にて仏事神事のミニ法要がありました。

 

今年は拙寺が幹事(導師)のお役を戴いていますので仏壇のセットアップのために30分以上前から「海で」あたふたしていました。

喜ばしきかな、世の中は豪雨被災の報が入っていますがこの日は雨は一粒も降りませんでした。その前の日は静波地区でのイベントがありましたが、あちらの方は雨でしたから。

地元テレビ局は「残念ながら・・・」(園児の初泳ぎが中止)と報じていましたが今年の相良ビーチにはテレビクルーは来ていませんでしたし初泳ぎの企画もありませんでした。

 

東京オリンピックの盛り上がりに便乗して「そうだ静岡に行こう!」というキャンペーン企画を耳にしましたが2年後の2019年は田沼意次生誕300年。

ということでその時期に合わせた「出し物を探している」というのが牧之原市。勿論「歴史」にスポットをあてたいということですね。

お寺には古いモノがたくさんあるからひと肌脱いでほしいというところです。

「今まで出ていない秘密のお宝」という要望をいただきましたが少々ハードルが高そう。

 

これから「これぞ」という「江戸中期」以降の目玉に目を配っていきたいと思います。

海では相良のお寺さんの集合写真を撮って頂いて散会しました。例の「御朱印」の宣伝用に使うそうです。

 

さて、昨日の法住寺の続き。

昨日の画像の①後白河陵へ向かう細道の右側が現在の法住寺山門になりますが、石柱が建っています。

こちらのお寺には親鸞さんの木像があるのです。

真偽はハッキリしませんが、あの六角堂へ抜け出した際の身代わりとして自ら製作したものといいます(→お寺のサイト)。

 

墓地に回ると昨日記した宮内庁の看板の通り、諸々の方々のお墓たちが・・・なぜか卵塔形式。

⑨の旧御陵正門の右手に見えるのが⑩のクスノキ。

その下にあったのが⑪の五輪塔パーツの積重ね。コレに関しては特に野暮なことは記しませんが、やはり気になるのは電線と電柱。まったく超野暮な光景です。

海外からの観光客がどっと溢れかえるエリアだけに。やはりカメラを向けてその両者の存在に「イラっ」ときます。

 

そして後白河院といえば「梁塵秘抄」です。

兼好法師もお墨付きで「梁塵秘抄の郢曲・・・」との高評価は以前永観堂(またはこちら)の「仏は常にいませども・・・」の碑を記した際にも・・・。

 

やはり後白河院の寺ということでしょうが、あの歌の冒頭部分が記された碑があります。

「あの歌」とは大河ドラマ「平清盛」でしきりに流れていたような覚えがあるからです。

 

あの歌のアタマの部分をあらためて見て、これもまた古い日本の文化であったと再確証を得たのでした。

 

それが上記最後の画像です。

 

「あそびをせんとや うまれけん 

      たわむれせんとや うまれけん

  

 あそぶ子供の声聞きけば 我が身さえこそ動がるれ」

 

石標にはインパクトある冒頭部分しか刻まれていませんが、以上が全体の歌詞。

各各「あそび-たわむれ」の意味、歌った人の立場、状況を深読みして解釈してまた、感慨を深めているものですが、私の取り方はごく単純。

 

それは子供時代の郷愁は当然にあることでしょうが、当たり前のように「子供」そのものの存在の愛おしさだと思っています。

 

最近、気になる騒音問題での一番というと幼稚園、保育園の近隣住民のクレームがありますね。

先だっても刃物を持ち出して施設に進入し保育士を脅して逮捕された人もいました。

私は幼稚園の隣に20年以上の居住経験がありますが、子供の声は「あたりまえ」であって文句をつけようなどという気は起こりませんでした。

 

拙寺の「除夕の鐘」についてある方々は「文化」を指摘されますがこの「梁塵秘抄」(1180年前後の編纂)のこの歌の後段は一つの日本の文化を顕かにしていると思います。

 

「あそぶ子供の声聞きけば 我が身さえこそ動がるれ」

 

「子供の声を聞いてパワーをもらう」と語った方もいらっしゃいましたがそれこそが「日本の文化」といっていいのかも知れません。 

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2017年

7月

01日

蓮華王院東通 法住寺殿 後白河上皇宮廷址

火事の恐怖は常に頭から離れません。

一昨日のニュースでは新潟は三条のお寺の火災について報じていました。

私は同じ立場にある者としてその災禍に絶句しました。

出火は本堂からで、ご家族は庫裏に居て無事だったよう。

状況から察するに本堂での何らかの火の不始末が考えられますね。先日も色々火種について記しましたがそのちょっとした扱かい方、僅かな原因(始末)が致命的結末を惹起します。

 

寺としてそのような時の近隣迷惑は必定であると再確認させられたのはその寺院火災の周囲の住民の証言でした。

こぶし大の火の粉が風に乗って飛んできたそうで小規模ながら七件の家屋に延焼したとのこと。

同じ新潟の糸魚川で昨年の12月に発生したラーメン屋さんからの火災では「147棟」を焼失させたといいますが火災の被害者となることも加害者となることも絶対にあってはならないと再々確認した次第です。

 

火種について記したブログでは年配者の免許証返上によって拍車をかけるが如く心身が衰えてしまうので、高齢者運転もある程度致し方ないと擁護の気持ちを記しましたが、昨日は高齢者マークの車両にギリギリのところでその洗礼を受けるところでした。

ノンストップで車線に合流(右折)してきた車のドライバー(女性)は本線を直進しているこちらには一切目視無し。

自車の進行方向のみにしか目をやっていませんでした。

 

幸いにして低速でしたから何とかハンドルで回避しましたが、私どもは口を開けたまま、車を停止してしまいました。

私は「運がよかった」と口に出して胸を撫でおろしたのでしたが、「本当に幸運だけで走っているのはあの方」であって「自分が幸運であることさえもわかっていない」ことの皮肉は笑うに笑えないものがありました。

 

午後の明るいうちのショッピングセンターやスーパーから出てくる車は要注意ですね。その手の現場での事故をよく耳にします。生鮮食品を買い込んだ達成感から一刻も早く帰宅したいという気持ちが先走るのでしょうか。

近いうちに重大な事故に遭わないとも限らない様子でしたね。

 

昨日のニュースでは車両をハイテク化してリスクを低減させる「限定免許」の提言がされていましたが、「認知力の低下」こればかりは人によって相当の差異がありますし車も高価になりがちでしょう・・・。

まぁ私の方もアテにはなりませんし、「幸運だけ」」という状況は多々ありますが・・・。

 

火災は人の過失、重過失によって甚大な被害をもたらしますが、どうにもならないのは故意ですね。

今でこそ故意でその手の事をやらかせば・・・最近では静岡市内でいたずら半分で神社に火をかけて少年たちが逮捕補導されていましたが・・・大層な刑事罰と大きな損害賠償費用の支払い義務が発生(未成年者の場合は親権者―世にはたくさんいるはずです)することは必定。

 

ただし歴史的に見てとなれば寺に火を放たれる事は「戦につきもの」ではありますね。 

拙寺でも高天神城戦で火をかけられていますが、のちに家康が再建してくれています。

しかしそういったスポンサー(有徳人)が不在の場合は大変です。

その手の奇特者が出現するまで、中には100年も200年もかかってその間は住職不在の「荒れ寺朽ち寺」の時間を経るものですね。それだけ寺を建てることほどの難題は無いワケで・・・。

 

さて、本日も蓮華王院三十三間堂の東の通。養源院のお隣のお寺です。南大門の記述で方広寺の南限としての南門と「都」としての門について記しました。それは秀吉の方広寺南大門ということで収まるのですが、まんざら「都」の様ではなかったとは言い切れない土地柄でした。

何故ならば秀吉よりはるか昔のこの蓮華王院の敷地というものはこちら法住寺、いや「法住寺殿」と呼ばれた後白河上皇の宮廷

の址でした。

流れとしては法住寺殿→法住寺・・・蓮華王院→方広寺大仏殿ですね。

 

平家滅亡に至る平安末期の戦乱を「治承・寿永の乱」と大雑把にひとくくりでいうことがありますが、実はその戦乱の一つに、教科書には出てきませんが、この法住寺が主体となる「法住寺合戦」がありました。

 

その際に法住寺は灰燼に帰すのですが、その戦いの主が私の信奉する木曽殿こと源義仲でした。その寺を焼いたということです。

後白河上皇とまともに対峙してその法住寺殿(城砦化していたといいます)を焼き払ったことは上皇の二枚舌に対する義仲の怒りも最たるものだったのでしょうが、当時は「天下に刃向かう武士の狼藉」として驚愕すべきニュースだったでしょうね。

ある記述には市中、火焔と煙で「万人迷惑」と見えます。

 

そういう経緯から後白河上皇が亡くなったあとはこの址に陵墓がつくられています。

住寺御陵は法華堂と併設されている通り、当然に仏式となります(場所はこちら)。

墓は養源院と法住寺の間の細い道を入ります(案内あり②)。

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2017年

6月

30日

住職の心意気 月一掲示板 磐田見性寺日本左衛門

沖縄に引き続いて鹿児島奄美が梅雨明けとの報せ。

あの青い空の下で「無駄に時間を使う贅沢」を味わいたい欲望は今年も抑え込んで健全な住職生活の実践。

画面に広がる透き通った瑠璃光世界を見ながら溜息を吐いていると「お前はまだそんなところに未練があるのか」と言わんばかりにお方さまは鼻で息を・・・そういえばこちら相良が私のお浄土。最大の幸福でした。

ちなみに瑠璃光は薬師如来、「東方」の代名詞でもありました。

 

さてブログでも何度か記している私の好きな禅語「動中工夫」、もっとも禅語とはいっても私の知っている唯一のものですが・・・かなり昔に奈良国立博物館で見た大慧宋杲(だいえそうこう)の語を記した『白隠墨跡〔中字〕』(はくいんぼくせき〔ちゅうじ〕)です。

 

カンタンでわかりやすく説得力がある語としてスグ当時「私の座右の銘」としていただいたものでした。

「座右の銘」を聞かれるシチュエーションは滅多に訪れることはありませんが、万が一何かの機会に尋ねられることがあったとしたら・・・それが滑らかに口から出てこなかったとしたら、やはり困りますね。

ましてやアドリブで適当な言葉を吐いたとしたら収まりが悪いモノがあります。

まぁ好きな言葉としては「一所懸命」という語がありますが「一所」を「一生」にはしないなどという能書き付きで説明、悦に入るのもイイのですが、あまりにも月並みですからね。

 

ということで「動中工夫」。

その「中字」とは「動中工夫 勝静中 百千億倍」のこと。

私が自覚している不注意・多動性・衝動性の性格を思いっきり自己肯定する意も含んでいました。本来の意味とは違うようですが私なりにイタダキでしたね。

 

また、現在の座右の銘はいかにも 身を捨ててこそ」に変更済み。こちらは牧之原市の御朱印案内の住職紹介で披露しています。禅語もイイのですがこちらは空也さんの発した語ですから浄土系に修正したというところです。

 

前置きが長くなりましたがこの「動中工夫」の語を先日新聞紙上で見かけました。

勿論禅宗の住職の談でしたが、お寺の掲示板を使ってメッセージを外に向かって働きかけることをそれに喩えていました。

そのお寺が磐田の見性寺です。

ブログではかつて日本左衛門の墓⑤で記しました。

 

ご住職は40年間続けて毎月1日に新しい文言を掲げているそうですが、すばらしいですね。

以前の私は寺に入ってから「時々更新」していましたが最近はサボりどおしです。ブログの方に偏りすぎている感は否めませんね。

 

そちらのご住職は当初の掲示板は仏法の教えが主だったそうですが、最近は戦争に関わる文言が増えたとのこと。

それも当然、違和感はありません、仏法は殺生を嫌う教えですからね。

何より今の政治は戦争を是とする風を感じますし

 

国民を守るという意気込みは武力ではなく対話であることは子供でも知っている当然の事。その力量というものを政治屋が持ち合わせていないということなのか、やはり武器を作って消費して一儲けしたいのか・・・戦争ごっこをしたがる傾向が強いように思われます。

 

私は子供の頃はそのお遊びは大好きでしたがとっくに卒業しています。今度磐田の見性寺付近を通りかかった際は掲示板を拝見することを楽しみにしています。

 

《テロと報復で社会は絶滅危惧種》

《足枷の九条から平和の楯の九条に》

《不戦から可戦の国へ向かってはならない》

 

ご住職は

「世の中がきな臭くなって、みんなが火種を集めている。

その火で自分も熱を帯びる。そんな悪循環を感じる」

 

最近「火事」について記していますが本当の危うい「火」というものは私の心の中に潜んでいるということでしょうね。

 

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2017年

6月

29日

三十三間堂裏 方広寺南大門とその景観

本日もひきつづき火事について。

「出火」の原因を考えるとやはり「火の不始末」が断トツであることは思います。

お寺でいえば線香・ローソク・炭に関しては一般家庭と比して特異であって常にケアすべきものと心得ています。

その三種のグッズの他、着火用のマッチは意外にリスキーな代物です。

お内陣のそれらについては私の注意と責任に於いて消火作業の完了を旨としますが、外陣の一般参拝者用の焼香については皆さんにおまかせするしかありません。

お内陣の灯明の管理は私はすべて燃えカスの残らないライターに統一していますが、外陣のそれはそういうわけにはいかないのです。

 

「ライターが使えない」という年配者からのクレームです。

最近はことに子供の火遊び防止のために各メーカーはカンタンに着火できない仕組みが導入されていますので、それもその筈です。よって「マッチを用意して欲しい」という要望が途絶えませんね。中には「マイマッチ」を持参しての参拝があるほどです。

ところがこのマッチの燃えカスはやはりその「始末の悪さ」というものを感じますね。年配者となると失礼ではありますが、その取扱いが粗雑となってしまいます。

それを見越して不燃材のシートを敷いていますが時折そのカスが落ちている様子を目にして愕然とさせられています。

 

まぁどちらにしろ火を使う事が多いお寺にいて、何より人一倍そそっかしい私は自身原因の「ヒヤリ・ハット」は幾度も経験していますが。そのたびごとに「自分ほど信じられないものはない」と思うくらいです。

 

ということで運転免許証の件もありますが単身住まいの年配者の台所仕事について別居している家族はまず大抵はその「禁止令」を出す事が多いですね。

これもやはり日本の文化「他者への気遣い、配慮」の一つでしょうが自動車運転も火災も当人のリスクは当然ながら「他者加害行為」(火災でいえば近隣延焼)の芽は摘んでおきたいところです。

 

その家族の心配によって「奪われる」利便2件の場合、大抵は免許証から。その後徐々に「限界」を考慮されて火の使用の停止となる順番となりますが、私の感じるところですが「自動車運転の停止」と免許証の返上を行うと、「崖を転がり落ちるように」自分のことができなくなるという傾向があるような・・・。スグにでも火の使用も危うくなるような状態になっています。

 

ちなみに最初から車の運転をしていない人というのはまぁ比較の仕様がありませんが、急激に衰えるというきっかけとなりうるものは大病あるいは骨折しての入院ですね。

車の運転ができなくなったことの不便がより精神的な苦痛となってまたこれまでの対社会、接触交流機会の激減はあらゆる身体の「衰弱」を進めるのではないでしょうか。

 

齢を重ねて自動車免許証の返上は最近のテーマとなってはいますが、返上した途端に「なんでこんなに・・・」と激変してしまう年配者を見ていますので、なんでもかんでも「免許証返上」を推奨する気にはなれなくなっています。

車の運転という作業が如何に脳の働きの維持と身体運動機能に役立っているのか・・・一考すべき事でもあります。

 

さて、昨日ブログで記した養源院。その通の前が三十三間堂というロケーションにあることを記しましたが、奥にある門が「南大門」とだけ。その門についての追記です。

位置的に見て、三十三間堂の門でないことは推測できますし、そもそも「南大門」という名称も不思議です(場所はこちら)。

 

「南大門」の使用の例といえば

①「君子南面す」の「都」か②大規模寺院の南門のこと。

では北方を振り返れば・・・ざっとブチ当たるのは七条通の向こうに京都国立博物館の正面玄関。

そこで気が付くのは方広寺大仏殿(今は豊国神社)ですね。

この南大門は方広寺の南限だったということです。

これをもっても方広寺(こちら そしてこちら こちら こちら  

 等々)のスケールがいかに大きかったかがわかります。

 

かつて蓮華王院三十三間堂はその方広寺境内に取り込まれていたということでもあります。

築地塀は太閤塀と呼ばれていてこの門とセットで重要文化財。

これだけの建造物を振り向かないというのは勿体ない。

拝観料はタダ。門の通行は自由。

公道同様で車人の往来もあります。

 

ただし勿体ないのはあの景観。

人家と接していて京都らしくてイイかも・・・という方もいらっしゃるかも知れませんし、私の如くの部外者の無責任な意見として記しますが、門の向こうに見える喫茶店の看板と民家前の自販機はどうにも絵的には不服。

広隆寺の画像をアップした際は電線電柱の不細工が目に入って「京都はいったい何やっているんだ」と思ったものですが・・・

京都の景観条例について詳しく知りません。

 

⑥画像は南大門を背にして北方を見たところ。

⑦は博物館入場口から見た南方。

 

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2017年

6月

28日

七条通の今一つの法橋の名 養源院 俵屋宗達

拙ブログでは日頃「火事の恐ろしさ」について記していますが、昨晩はGWが終わった5月7日に北九州市で発生したアパート火災について報じられていました。

強風注意報発令下の火災であっという間に火が広がったといいます。

 

こちらはアパートとは言いますが家賃は500円~/1日で殆ど簡易宿泊所の躰。

6名の方が亡くなっているそうですが当初はすべて身元に関しては把握できなかったとのこと。

 

当然に無届けの共同住宅であって消火設備の不備が指摘されていました。管理責任について刑事は当然ですが、民事についてはいったいどうなるのか興味が湧くところです。

もっともこういった施設は生活保護認定の「つなぎ」としてホームレス生活から貧困者を引っ張り上げる役割を担っていますので、必要といえば必要。

そして、その番組ではそちらで亡くなった人たちのこのアパートに住むことになった経緯と一部生活について取材していました。

 

「1日500円」の簡易共同住宅に入るそのきっかけですが・・・、

亡くなった方々は一同高齢者の独身でしたが、共通の不遇の人生に自身へ向かう厳しさを持っていたことが共通していました。

 

友人の連帯保証人となって6000万円の借金を背負ってから離婚して(家族への迷惑を回避するため)ホームレスとなって日雇い労働に従事し借金を完済後に入居した人、確固とした仕事に従事していたが疾病のために会社や周囲に惜しまれる中、退職して入居した人・・他の人たちも各「他者のために動く」(高齢者と病院まで同行するなど)という一面があったことが紹介されていました。

 

「自分に厳しく(たとえば借金を背負わされた方は自己破産の宣告の手段はとらずに完済した)他者につくす」という語、私は簡単には口にはできますが、その受け入れ方に「なんで~」と思うほど私にはできないことです。

もし私が彼のように他人の借金を肩代わりすることになったとしたら・・・「離婚して夜逃げ」の方が頭をよぎります。

破産しちまうのが一番ラクですからね。私でなくともそこは選択肢と思う方は多数だと思います。

 

話が飛びますが知り合いのバクチ好きの職人さん(こちらで紹介)は「破産宣告」で借りたサラ金の借金をチャラにしていますが、今も「金を貸す奴が悪い」と豪語しています。

ちなみにこの辺りの殆どの金貸し屋さんの門を叩いているようですが、最近は(身分証の検索をされて)「1発で拒絶される」とのことで今は地道に働くしかないようです。

 

火災によって非業の死を遂げた方々の「人生のほんの少し」を垣間見た思いでそれは衝撃的でした。

しかし皆さんの「我を捨てる」それぞれの生き方はまさに「法橋」。

「法鏡」という語は拙寺法話でよく使用させていだいている語(阿弥陀さまは私を映し出してくれる鏡)ですが、こちらは「橋」の方。

 

ブログでは七条通の七条仏所跡について記していましたが仏師「定朝」が授与された僧としての位階が「法橋」でした。

まぁこちらは名誉位階で勲章のようなものですが、私ども宗旨的にはその「橋」といえば源信さんの母親が歌った「世の橋」であり善導さんの記した「二河白道」を思います。

源信さんの母の諫言の歌は

「後の世を 渡す橋とぞ 思ひしに

            世渡る僧と なるぞ悲しき」

源信さんも善導さんも当流親鸞さんご指名の七高僧のうち。

正信偈にも登場される方々です。「二河白道」は映画「白い道」の「白」ですね。各お調べください。

 

さて、七条通には今一つ「法橋」位を授与された人の名が残ります。養源院にその人の作品が遺されています。

なかなか一般に広く知られていないようで少々残念な感がありますが、昨日の夕刊にピックアップされていました。

 

先般のバス遠足で京都国立周辺をぶらついた事をお知らせしていましたが、養源院(場所はこちら)はあまりにも超有名寺社の居並ぶ立地にあってなかなか目立ちにくいという難点がありますね。見どころとして「血天井」というおどろおどろしい名も一般客の「躊躇」を招いてしまうのかも知れませんが・・・

 

しかし、小粒のお寺ではありますが充実したお宝が揃っています。それがのちに「法橋」の位を授与された俵屋宗達の重文指定の襖12面に杉戸4面です。

 

俵屋宗達は国宝の「風神雷神図」でお馴染みの琳派の祖。

その人の作品があの養源院のお坊様の解説付きで拝観することができます。勿論上を見上げれば「血天井」も。

今回のフリータイムで入場した方もいらっしゃいました。

私が一番最初に訪れたのは勿論「天井」見たさでしたが・・・

 

画像①朱色の建物は三十三間堂。奥が南大門。

その向かい②~養源院。

皆さんは大抵その朱色の方の建物にこぞってまた観光バスで吸い込まれていきます。

 

俵屋宗達の白象図はどちらかで見たことがあるという方も多いかも知れません。以前、絵葉書を購入した思い出がありますが、今は所在不明。

探し出すのに数時間はかかるか紛失のどちらか。

 

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2017年

6月

27日

卑下すべき 毎事卑下被成候様専要 御師の様

昨日は将棋の竜王戦、藤井四段の29連勝がかかった一戦を観戦させていただきました。

「羽生は宇宙人、藤井は化け物」という他のプロ棋士のわかりやすい彼の評価を聞いていましたので、一度くらいはまともに拝見してみようということでインターネットの生中継のモニターを凝視。

ただし観戦と言っても状況をずっとへばりつくように椅子に座っていることはできません。午前10時に始まって終わったのが午後9時30分近くでした。

 

そもそもこの月曜日はたまたま午前と午後、2件の法事が入っていましたので・・・

午前の10時30分開式の法事が終わってその画面の将棋盤を見て驚きました。何も変わっていないのです。

1時間もインターバルがあったのにかかわらずです。

これだけでも私には「絶対無理」を思いました。将棋等、頭を使うゲームにはつきもののと言われる「長考」というヤツですね。

 

先の先を読んで最善の選択肢を思考しているようですが、その一手が首を絞めることにもなりかねない将棋のプロは極端に慎重さを持ち合わせいなければ成立しえない職業であることがわかります。

よってあの快挙は驚異であり尊敬すべき14歳なのでした。

軽率無分別、思慮軽薄の徒と自身卑下してもしたりない私に於いて、その真似事すら我慢がならないと思う次第、すべてにおいて呆れ果てるばかりです。

 

ちなみに私はその「軽率無分別、思慮軽薄の開き直り」を「取柄だ」と自負して生きてきた(厳密には「生かされてきた」)身でありますが、この「立ち止まって考えずに行動に移す」人生経験だけは時として大層な「無駄」もありましたが私の「長考人生」のうちの無数の手数でありこれはどこかしら有意義として身についてきたのではないでしょうか。

天才少年と私を比較しても始まりません。

生きる世界が違う」の一言で締めましょう。

 

さあ、本日は「卑下」について。

この語は最近では「卑屈」という語と同様解釈されることが多くなりましたが、「卑屈」の方は「卑下」が行き過ぎでもはや鬱屈した精神状態をも思いますので、決して「同じ」とは言いきれないものと。

 

しかし卑下なる態度をとると「そう卑下することはないですよ」などという通常会話に発展するであろうことから、そのように受け止められた際、「かまってちゃん」か「逆に褒めてもらいたい」等々「何か裏がある」発言として見なされてしまうようです。よって過度な「卑下」は鼻につく・・・などと嫌われる面がありますね。

 

しかし「卑下」の反意語は「尊大」でしょう。

私は「卑下」とは「謙遜」「謙譲」の上をいく「日本の文化」ともいっていい言葉だと思います。

日本の文化・・・色々ありますが、本当の日本人の文化の心底に流れる日本人の意識とはこの「卑下」ではなかったかと思わせる古文書を叔父より紹介されました。

 

そのものズバリその語が記されていて「専ら必要なこと」と。

この文書は「御師の文」とのこと。

「御師」(おし、おんし―「御祈祷師」から)とは寺社に属し、参詣者を案内し参拝と宿泊等の世話をする者の事で、特殊な「神職」。

発祥は平安期ともいいますので、「日本の文化」と発したとしてもまんざら嘘っぱちではありません。

まぁこの職種も明治以降衰退し、今や殆ど耳にしなくなりましたが、全盛期には大神社や富士・白山・大山参りにはつきもので彼らが集まった「町」まで形成したほどでした。

 

その文書ですが御師の態様に「卑下」が奨励されていました。

ここでは「へりくだる」と注釈がありますが、やはり関西系お笑い劇でよく聞く言葉「偉そうにすな!!」ということでしょうね。

 

今の人々は尊大になりすぎました。

いや昔から人間という者は「慣れ(常)や安泰」が続くとしばしば「尊大になっちまう」ということを先読みしているかのようでもあります。

歴史文化から今の人間を知る一つの例、教訓なのです。

ということで「尊大」推奨というかそれこそをすばらしい生き方として「よいしょ」してきた昨今があるのでしょうね、今の人たちには。

 

特に坊さんは「尊大」になりがちであるから、何も悪くもない「袈裟」までも「憎い」という「とばっちり」を受けるのでしょう。憎いの連想の代表例として言われてきたくらいですからね。

 

今やその裏表のない「卑下」について日本人は今一度思い返す必要がありますね。

私はその語は「卑屈」の連想ではなく、すべてに向かっての「思いやり」であると今更ながら感づいたところです。

遅きに失した感も大アリですが。

 

「@ Jazz --- ♪ The One-Stop Jazz Information Site -- ♪」に松風鉱一 (sax,fl,cl)氏のスケジュール表が公開されていました。「2017.08.15 大澤寺」です。当ホーム参照。

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2017年

6月

26日

由比本陣と大法寺 岩邊郷衛門光端宝篋印塔

陸上の100mと200m、男女とも2冠、わくわくさせられました。

男子1位の方は18歳という年齢に驚き。

新しい顔が出て来る事はいいことですね。

最近はどの世界でも10代が活躍していますが、こちらの新陳代謝は頼もしいことです。当分彼で楽しめそう。

 

サッカーのコンフェデ杯(ロシア会場)について。

サッカー通の「奥の墓道氏」が言うには「面子が面白くない」とのことですが、たまたま昨日見た「ロシア―メキシコ」戦、両チーム選手はフィールドいっぱいに走り回ってスビードとスイッチングが早く、当たりも激しい様相。それを見て日本チームとのスケールの違いを大いに感じました。

 

今大会で「こりゃあ凄い」と思ったのはオーストラリアの攻撃力でした。W杯予選で本戦進出にリーチがかかっている日本ですが、次のオーストラリアに「勝ってナンボ」のことです。

あのドイツ戦のパワフルな攻撃を見て私が選手なら尻尾を巻いて逃げ出したくなります。

 

まぁ私は傍観者ですが、決してカンタンに勝てる相手とは思えませんね。いや双方の現状からして「負け」と思うのが普通でしょう。データ的にも日本はオーストラリアには勝ったことがなかったように思います。

もしここで敗戦となればスグにサウジアラビアの熱砂のアウェー戦に飛ぶことになりますが「首の皮1枚状態」ですのでガチガチになりますからね。

 

昨日のNHKゴールデンタイムは「人工知能 AI」についてでした。将棋を中心にタクシーの配車、株式、会社人事・・・実際既に各方面でその「電脳」が働いているということがわかりました。

進化しているといいますので何やら空恐ろしい気もしますが、面白い方向性も示唆していました。

 

それは政治家を「人工知能 AI」に変えてしまえば・・・それはいいひらめきです。そうなればまさにフェアで「忖度」など絶対にありえない政治、まさに私たちが希望する、学習した通りの清らかな「民主主義」が実践できるでしょうね。

 

そうなるとAI化は教師などの職業も脅かしそうです。

何よりも「えこひいき」の採点などありえませんし、生徒や父兄、同僚と問題を起こすなどの事件はありません。

人間の必ずついてくる曖昧性を画一的公平に行えるという点では最高の試みでしょうね。裁判なども裁判官によって違う判決が出るなどということは一切なくなるでしょう。

まぁ人々の「仕事」がどんどん失われてしまいそうで失業者も増えそう。

 

しかし、「AI」が如何に素晴らしい「知」であっても、さすがにお寺の坊さんがロボットだったら・・・そりゃあ無茶でしょうね。

「坊さんは人間」であってこそだと思います。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」・・・そう来なくてはいけません。

ただし世には出回りつつあるようですが・・・

 

その番組の直前が大河ドラマとなりますが、例によっておしまいの紹介コーナーが薩埵峠から由比。その周辺からの「塩の道」についてでした。

そして由比本陣がさらっと映されていました。

 

由比本陣の裏手の丘陵にはお寺があります(場所はこちら)。

そのお寺、大法寺の門前にある掲示板によると天正十三年(1585)に「由比助四郎光教の子の光広の妻による開創」(「光」は由比家の通字)とのことですから今川家が駿府から去ったあとのことですね。

 

こちらには大振りの宝篋印塔があります。 

同じく看板には天保六年(1835)由比本陣の「岩邊郷衛門光端(みつはし)」が先祖と両親の菩提のために建立したとありますがこの人の「光」という字から岩邊氏が由比家の流れであることを示唆しています。

墓碑に記された造立者の銘は「由比郷衛門大宅光端」とありますが、鎌倉期初めにこの地に配されたのが「大宅大次郎光延」でそちらが元祖となります。

墓塔としては古いモノではありませんがそれだけ標は判読可能です。

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2017年

6月

25日

ことなき こそ第一義 「無事」を喜ぶ 義元生誕500

また大雨の予報。

無事にやりすごしたいものです。

河川近くの低地や急傾斜地にお住まいの方、何事もありませんよう、また各ご配慮を。

 

昨日は法事のあと急きょ母親を連れて県知事選挙の事前投票に。本来の投票日に行くことは事前に母のいる施設に連絡していましたが、予報は雲行きの悪さを伝えていました。

事前投票のできる役場までの距離は本来の投票所の2~3倍はありますが、当日中にやっつけようという意気で車椅子を押しました。

知事選ということでまた現職圧倒的有利と報じられている中、無理に投票に行くこともないとは思いますが、「選挙権」は生きていて尚、ある程度の認識があってこそできる特権中の特権ですからね。

記入する場所に掲示された名前を写し記すだけの仕業ではありますが、母はギリギリ何とか投票ができていました。

 

一方浜岡の叔母の方。

投票用ハガキはこちらに配達されることになっていますので、それを届けに浜岡まで向かいました。叔母は自身歩いて投票所に行くことを主張していましたので。

すると家の中の気温は30℃近い様相で汗だくの躰で叔母は出てきました。エアコンのスイッチを入れて帰宅しましたが、あの様子では「熱中症で倒れるかも・・・」を思いました。

 

齢を重ねると暑さの感覚がなくなってくるのでしょうね。

母も外に出てスグは「寒いね」と言っていました。一瞬上掛けを取りに戻ろうかとは思いましたが「そんなはずはない」と返して歩を進めましたが・・・。

年配者の「体感」というものがいかに不正確か、熱中症と水分欠乏による心臓と脳の血管障害の発生メカニズムを知り得た気になりました。

 

除夜の鐘を深夜に衝く慣例を変更しお昼に衝いたことに関して拙寺としてはあの父の代でのクレームがその発端であることは事実ですがもはやそのようなことはどうでもイイというところ。

ところが世の人の圧倒的多数はその時間で衝くことこそ日本の文化であると強く主張しています。

私はその「文化」というものの中に生かされていることを自負し一般のみな様以上にそれを感じて喜んでいる身ではありますが、その身であっても「ち―が―う―だろお・・・」的御指摘。しょうがないっす・・・。

 

話が飛びますがあの議員女史殿の口から発せられたその語もまたあの「忖度」に引き続き流行語大賞の候補に躍り出た感。

さすがにその直前に発せられた語「この―ハゲ―!!!」とその類の罵声イロイロは・・・ムリでしょうが。

 

それにしても秘書さんの「被害届」とやら、まだですかね。

「検討」をひけらかしてイイ条件を引き出しているのでしょうか。まぁそれは1億円以上(+α・・・もしかして比例区名簿上位の約束などなど)の価値がありましょうね。

それを出すか出さないかではある関係者にとっては雲泥の差ですから。

「結局カネ目当てだった」とそのお騒がせを一部揶揄する「後ろ指」を指されるかも知れませんね。まぁその気配濃厚かも・・・

事なきを得るということでお得意の尻尾切りで収まりそう。

 

人の人生というものは、やはり何事もないことが一番。

いつもと同じ変わらない一日に幸せを感じるところですがそれを「無事」と一言でいいますね。

 

さて、拙寺過去帳から法名の傾向を見廻していくと「平」と「清」の使用が目立ちます。昔から「平穏無事と清栄」への希望が記されていたワケで。

 

画像は藤枝蓮花寺池公園奥の郷土博物館ホールにかかるスクリーン。

臨済寺大方丈に安置されている今川義元像(左)と氏輝木像。

注釈書によれば義元の像はもともと菩提寺の天澤寺にあったそうですが、江戸末期にその寺が廃寺となって臨済寺に参ったようです。氏輝像はそもそも臨済寺の開基であるということから、その像を近年になって作って並べたとのこと。

二つの像のバック、軸の文字が「無事」ですね。

 

あってはならぬことなれどあることもゆめゆめ忘れるべからず・・・。

さぁ何ができるか今川義元生誕五百年(1519年生まれ)。

駿府のセンス如何。

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2017年

6月

24日

夢の浮橋 源氏物語の情景 恵心僧都も登場

昨日23日は沖縄の慰霊の日。

例年梅雨あけと同時期に開催される沖縄の一大イベントですが、あの女子高生の口から発せられたあの詩は感動しました。私たち大人が平和を忘れたら・・・悲惨は子供達が味わうことになりましょう。

そして夜はNHKの番組、「歴史秘話・・・」の演出はコント交じりでお笑いの要素十分。一昨日の議員さんと秘書の「コント」は呆れた爆笑の躰でしたが、この番組アナウンサーと関西系役者さんの扮する小野篁のそれは微笑ましくも大笑いしてしまいました。

 

番組は「極楽と浄土」がテーマになっていてその両方を繋いで話を進める題材が「往生要集」。ついでに作者の源信(恵心僧都)を取り上げていました。

その方については当ブログにても何度か記していますが開祖親鸞さんご指名善知識「ベスト7」のお一人です。

当然の如く源信さんの「観想念仏」の語が出てきて、「極楽」のお話では阿弥陀さんが主役でした。

 

「コント」の方はアナウンサーが六道珍皇寺の井戸から地獄と現世を往来している小野篁のいる地獄の入口に堕ちてから。

その関西弁の篁が八大地獄の恐ろしさについてアナウンサーを案内するという設定でした。そのうち阿鼻地獄に等活地獄のほか特に「衆合地獄」に力を入れたコントの如くの解説に爆笑してしまいました。

まぁ、よりによってその地獄かよと思いましたが、通常その手の「解説書」による「そこに堕ちる人」の罪というのが、「殺生・ ・偸盗・邪淫」という語でさらっと流しているものですからね。

 

それを番組では「不倫をした人が堕ちる地獄」と。

なるほどわかりやすくてイイのですが、するとアナウンサーが「是非に見たい」という設定になっていて、その代表的な「罰」に「立ち会った」アナウンサーは「当然のこと」の如くのお怒りぶりとなったのでした。

「小野篁」から「何かあった~?」とのツッコミがあって思わず当家奥方に向かって「この人何かあったの?」と聞いてしまいました。

 

ちなみに「衆合地獄」の罰というのは美女が木の上で待っている状況に罪人は美女目がけてその木を登ろうとするのですが、その木というものの「葉」は文字違いで「刃」。木を登ればザクザクに体が切り刻まれることになります。

欲望を抑えきれないその罪人はそれでも木にすがりつきながら美女を目指しますが気が付くとその美女は地上にいるのです。今度は同じように血だらけになって肉を削がれながらも木を降りるのですが、地上に降りてみればまた美女は木の上。

その永遠の繰り返しとなるという地獄です。

 

さて、番組ではアナウンサーが番組冒頭に登場したのはたしか宇治川に架る朝霧橋だったような・・・。

平等院の近くの浮島のさらに向こう側の宇治神社方向から歩いてくる構図のようでした。

 

その宇治神社の近くには源氏物語ミュージアムがありますが、このエリアをその古跡として(源氏物語は創作)設定しているようです。

画像は神社側の川渕のモニュメント⑧⑨⑩⑪⑫(場所はこちら周辺)。①②~は紫式部像。宇治川西詰交差点を平等院方向に曲がってスグ。交通量も人の波も激しい場所。どちらにしろ京都でも人気のスポットです。

 

「夢の浮橋」は源氏のクライマックスですね。

この段には源信さんを示唆する横川(よかわ)の僧都が登場します。

当流では「帰敬式」でお馴染みの

「流転三界中 恩愛不能断」の語も登場していました。

 

 

 

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2017年

6月

23日

川名の郷は無事だった 「おみたらしの井戸」

昨日は朝から「よしもと新喜劇」の開演を思う風のニュース。

「エライ人の二面」について痛く感じ入ったものでしたが、あの方は次のお仕事は「お笑い」で十分食べて行けること請け合います。

 

朝からの爆笑は素晴らしい新人芸人の登場と思ったものでした。一気にメジャーに躍り出たものと思いきや、「体調不良」とのことでお隠れになってしまいました。

普段は出たがりのクセに何かをやらかしちまうと(というかバレると)「入院しました」とか仰って姿を隠すというのもあの手のご職業の方々のいつものパターン。

 

今頃「カネやカネ!!」ということで何とか刑事事件にしまいとさらに裏の裏でどなたかが暗躍していることでしょう。

結構まとまった金子(きんす)が提示されていることは優に想像できますが、まあ「何事もなかった」となるのでしょうか。

 

「いっちょカモったる」、それもヨシです。おカネは大事ですからね。しかしカネの問題だけではないかも知れません。

暴行による傷害行為による治療費と慰謝料は民事事件として当然に受け取ることができますが、やはり誰が見ても刑事事件の匂いがぷんぷんしています。診断書の存在もあるようですし。

やはりボイスレコーダーは証拠能力大ですね。

グーの音も出なかったようで、「出所不明の怪文書みたい」などの言い逃れはできなかったようです。

 

まぁそこのところを示談金というカタチで「大金を上乗せします」というのがまずこの手の事案のもみ消し方。

以前も役者さんの息子の事件で「そうだった?」と感じる事件の解決がありました。

 

「ハゲ~」と絶叫されてどつかれて、娘までネタにされたうえ「小遣いもらっておしまい」だとしたらこのお笑いの舞台(激情劇場)の幕引きとしてはごくフツ―の感じ。

万事手打ちとなれば庶民からすればやはり「カネ欲しさ」の計略と思われても致し方ないです。

徹底的にやったれぇ・・・秘書殿。それが貴殿の権利というものです。流されてまた流される人生。悲哀も感じてしまいました。

 

この件復習しますが「洗面器」が足りないのでしょうね。

エライ人特有の態様を垣間見るいや、おもいっきり見せつけられた気がします。

 

さて、「敵に塩を送る」という言葉について。

それは当地に直接関係のある語ではありませんが、「塩の道」と呼ばれる街道を控える相良の皆さんからすれば、だいたいその語の意味する雰囲気というものは小さいうちから心得ているところ。

まぁ「敵」とは言わず今でいう「嫌いな奴と私」という関係がありその相手が苦境にあって、あるいはそういった立場にあるときには「積極的に手を貸す」という「日本人の精神の美的感覚」をいうものですが、古来よりその意識はあったということですし、その語を聞けばやはり基本は「そのスタンスであるべき」であると思います。これは、仏教的慈悲の感が漂います。

仏教感からすれば「嫌悪」は「瞋恚」(怒り)―煩悩―を惹起しますので「敵」をつくらないこと。

結果的に相手に手を差し伸べてあげれば自然、「敵」には成り得ないという教えでした。

 

画像は川名の「おみたらしの井戸」(場所はこちら)。

先日記した福満寺薬師堂の通りを挟んでスグの場所にあります。

三方原合戦の前哨戦としてこの近くのふろんぼさまにて記しましたがここでの武田軍といえば山県昌景軍のことでしょうね。

伝承としては眼病を患った敵将にこちらの井戸に湧き出る水を提供して洗わしたところ、病が癒え、そのおかげで郷に火をかけられることが無かったというものです。

見たところ柄杓など設置されていて、「飲める」との推測はありましたが、私はチャレンジはしませんでした。

 

他者への慈しみの心は「歴史」の中にも散見できることであり、この日本人の心とはその仏心(恕)を礎にしていたのだろうと思います。

蛇足ですがその仏心とは「自身利益」を超越していますので、譬え意に反した結果(ここでは郷に火をかけられること)となったとしても悔やむことは無かったのでしょうね。

ただ「これで仕舞」を一義に、後世に恨みを繋げないということを心がけたのだと思います。

それを「強い心」という意味で「忍」の字をあてたのでしょうね、自身の心に。

これは私にはまだまだの領域でして、今のところいつも「洗面器」を探しながらヘラヘラと苦笑いを含めて笑っているだけです。

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2017年

6月

22日

長篠城のパターン 馬場信春の墓 中央構造線露頭

1年のうち昼間が長いこの頃といえば、外遊びに気合が入るというものですが昨日のこの地域の豪雨は久し振りのもの。夜明けから日没までずっと降り続きました。まるでこれまでの降雨無しの梅雨の帳尻を合わせるが如く。

こういう時にはこういう仕事・・・と、私はスコップ片手に境内の排水溝の清掃を少々。寒いな、と思った時が終了時間でお気軽。

 

温かいシャワーを浴びたあとスマホにアラームが入っていましたが土砂降りの中榛原方面でのお昼の約束場所に向かいました。予約をされていることはわかっていましたからそれは仕方ない事。

仕方ないといえば昨日は「商工会女性部」主催の日帰りバスツアーがあると聞いていましたので、ひとえにそれは気の毒なことだと思いました。

 

何かしらイベントを企画する際、「雨」だけはカンベン願いたいところでただそれだけを願って「天を仰ぐ」ものではありますが、コレにはまた絶対はありませんので「雨が降ったら降ったなりに楽しめばイイ」と開き直るしかありませんからね。

それにしてもロクな一日ではなかったですね。

昨日は久々に乗った新幹線について記しましたが、夜遅くまで架線の切断の影響で停車したままでしたし第2東名も通行止めになっていました。

 

さて長篠城に寄った際、2回に1度は馬場信春(信房)の墓まで歩きます。長篠城に車を停めたら絶対に徒歩で向かいましょう。

ほんの少し歩くだけですからね。

ここで色気を出して「車で・・・」などと思うと酷い事になります。ハッキリ言って長篠城から馬場の墓まで車両進入はできません。馬場美濃の墓参りは前回も記しましたように自己の反省のためですね。それは「聞く耳」に関してでした。

これを「私の金盥」といいます(私の造語)。

「盥」は「たらい」と読みますので「わたしのかなだらい」。洗面器です。

この字は学校では習いませんでしたが、それは社会に出て習わなくてはいけないことです。

 

「盥回し」という責任転嫁の比喩がありますが、私の思うそれは「大根屋」(節談説教)からです。

「心の垢も洗う金盥」、心にまた響きますが、人はいくつその盥を持てるかでしょうね。

エライ人鼻高々の人というものは自己保身からの「盥回し」に限って得意技。しかし自分の心の垢を洗う肝心の盥は持ち合わせていないというのが実際。

やりたい放題なんてもってのほか。

 

生きていれば当然に濁ってくるものですが私は色々な場所に「なむあみだぶつ」の置き盥をして適宜出向いては心身を洗わなくてはなりません。

 

さて、馬場信春の墓の先にはポツンと看板が立てられています。

「中央構造線露頭」の案内板です。これは九州から関東まで列島の真ん中を東西に走る断層のことで長篠周辺の豊川、宇連川沿いにそれが通っているとのこと。

この近くではその断層が露出している崖を見ることができるということですね(場所はこちら)。

 

説明板によれば「外帯の黒色片岩」の上に「内帯の花崗岩源圧砕岩」が覆いかぶさっている様子がハッキリと確認できるところが特筆的なところと。

ざっと見る限り「外」というものが「内」(下)にあって「内」と称されるものが外(上)にあることからかなり大昔に「尋常ではないこと」が起こったことだけはわかります。

それこそ「天と地がひっくり返る」ような状況だったのでしょうが私がアレを見た時、単純ですが「今後もこういう事が起こったりするの?」でした。

 

下図は昨日の私のスマホに入った避難を促すメール。そして帰り際にちょっと寄ってみた萩間川下(流)から上(流)です。

左奥が相良庁舎。

 

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2017年

6月

21日

有楽町駅前 南町奉行所 石垣・穴蔵・大岡越前墨書 

先日はまさに久し振りのおのぼりさん。

バスに新幹線と乗り継いで、山手線と地下鉄にて赤坂へ。

先方からは宿泊の件も打診されましたが、そちらはお断りして新幹線の最終で帰宅した次第です。

助かったのは静鉄の高速バスが結構遅い時間まで運行していて、ヘロヘロになりながらもその日のうちに帰宅できたことはありがたいことでした。

 

何をそう疲れたか・・・といえば「甘っちょろい事」と一笑されましょうが、「人の波」を久々に体感したことに尽きます。

日ごろ「半径数キロ以内に人皆無」という場所、聞こえる音は「木々の間を吹き抜ける風と小鳥の声」という環境を好んで歩く趣向が増したこともあるでしょう。

 

東京駅-赤坂往復のルートは選択肢は多くあるものの案外面倒なコースです。

先方の指示はおそらくタクシーの利用だったのでしょうが、行きがけは「ちょっと寄り道」ということで山手線で有楽町まで戻りましたがそのあたりのことはすべて想定内のこと。

 

私が世の「サラリーマンは辛い」とあらためて思ったこと、そしてこの状況が他者のイライラを増長させるのだと感じたのが帰りの終電新幹線の中。

その時間帯は一日の仕事が終わって私以上にヘロヘロに疲れているであろうサラリーマン諸兄の帰路の姿でした。

ラッシュ時ではありませんからそれほどの混みあいは想定していませんでしたが(行きは3人掛け席に私一人)品川駅からはどかどかと車両はほとんど満席になっていました。

 

東京あたりの車両混雑については「慣れたもの」のつもりでいましたが、日ごろ他人様とのこのような接近遭遇の機会はありませんのでまさに度肝を抜かされてしまいました。

パーソナル・スペースという語を聞くようになってしばし、まさにあの空間を他人様と数センチの距離で共有することに思わず「ストレス」を感じてしまいました。

 

しかしあのシチュエーションは別格でしたね。

乗車客はまず缶ビールの袋を持ち込んでいて、席が確保でき次第どこかしこからそれを開くあの独特のガスが抜ける音を発していますが、あの時私の隣に座った方は、牛丼弁当を出して頬張りだしました。それがうまそうに喰らい尽すのです。

その発する匂いと絶妙な咀嚼音を聞いて「おお、この世界か・・・」と半ば一部人間の態様と小宇宙を実体験し感動させられたのでした。

 

「人の事なんか気にしていては何もできやしないよ。図々しく生きなくちゃ」の心意気が伝わってきました。

彼にとっては何よりも、ひと仕事が終わったあとの至上の時間と空間なのでしょうね。

もっとも私はお昼抜き夕食抜きの空腹状態(タイミングの問題でそうなりました)でしたからその腹立ちらしき感慨は「お腹減った!!」からきていたのでした。

 

画像は行きがけの有楽町駅前。

ほとんど駅前ド真ん前の「遺跡」です。いろいろ歴史的遺構を尋ねてきましたがこういう場所は滅多にありませんからね。

表記の如くこちらが南町奉行所址になります。

 

石垣遺構の真下の地下通路には「穴蔵」遺構のモニュメントが。看板の通りあの大岡越前の墨書木札が出ているとのこと。

車では行く気がおこらない場所でもあります。

 

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2017年

6月

20日

「一」か「弌」か 画数違うが 瀬名一秀供養塔

まさかあのように時間を割かれてオンエアされるとは思いもしていませんでしたのでブログにて事前に予告しませんでした。昨晩のTBS「好きか嫌いか・・・」です。

 

2週間ほど前に赤坂まで出向いて収録にお付き合いしていましたが、何とそのビデオ撮り時間は90分以上。

もう一つの別話題がやはりその程度とすると計180分にもなります。実際のオンエアーは60分番組ですからCM除けば45分ですね。

 

私がちょこっとおしゃべりをしたのはごく僅かでしたし、大幅に編集カットされることなどは当然ですので、もはや「心配はいらない」(目立って恥を晒さずに)と思っていました。

ということで「もしかするとテレビに映るかも・・・」程度のことですら人様には内緒にしていました。

数日前の総代会でも世話人会にその件について触れていませんでしたし。

またその手の件「出ます」といっておいて「出ない」ことは世間では頻繁に耳にすることですからね。それこそみっともない・・・。

 

しかし実際はお恥ずかしながらおもいっきり画面に現れてしまいました。

まぁ奥の墓道氏からは「かなりニヤけた顔」との御指摘を受けましたが、それを言っちゃあおしまい。

何分「それだけ」が取り柄ですからね。

 

とにかく「寺」ということを忖度いただいたのか、うまい具合に編集していただいたようです。

局ご担当の方にもありがとうと言いたいですね。

よくわかりませんがユーチューブでアップされるかも知れません。

 

芸能界のことはまったくもって知りませんが、昨日ニュースで知ったことは芸人対メディアの契約ではなくてその芸人の属する事務所とメディア間の契約というのが正解のようでした。

いわゆるその契約(信用)というものは商品(芸人)に対する責任の所在をハッキリする意味も含まれてのことでしょう。

当家のお方様からは、売れっ子芸人であっても独立したら「2年間は宙ぶらりん」と聞きました。

 

「へ~面白い・・・」と思わず叫んでから、それって「奉公構?」と聞き返してしまいました。

私は「塙団右衛門だよ」と言い放っておしまいにしましたが、おそらくお方様にはその意は汲まれていなかったかもしれません。

 

いまさらということで「奉公構」と「塙団右衛門」についてはこちらでは割愛。各ググっていただくとして・・・

塙団右衛門についてはブログでは芥川龍之介の「古千屋」という作品の中の言葉「定めし本望」から「一定」という語について記していました。

 

「一定」の「一」という文字は画数は一の通りいたってカンタン。私の名にも「一」が使用されていますがその名の読み方も(戸籍上の)あまり気に入らないもので、昨日紹介した友人の如くいっそのこと変えちまった方も面白いかも・・・などと思ったことも実はありました。

 

意図としては「面白いかも」程度で根拠も浅薄ですから、途中で大抵はどうでもよくなってしまいますが、一時はその「一」の漢字を「弌」にしたらどうだろう・・・などと思い付きがありました。勿論画数を気にする方にとってはかなりの違いになりそうですが、やはり「横棒1本」は実に実務的で記しやすい。

論外でした。「弌」などに変えたらまさに「どうかしている」と嘲笑を受けそうです。

 

さて、昨日記した瀬名一秀の「一秀」の本来の名のりは「弌秀」ですね。もはやその字はどう考えても使用されない時代です。

「99.9%無い」と言い切れるのではないでしょうか。

 

画像は昨日と同様光鏡院。本堂裏側を上った墓域になります。

晴れれば静岡市内の景色良好、見渡すことができますが、こちらにも瀬名一秀の供養塔があります。

以前冬場に撮影したものですが・・・。

勿論私はこちらの方が断然!! 古くてイイ味だしています。

ただし江戸時代に作られたものでしょう。

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2017年

6月

19日

瀬名一秀 今川→瀬名 今川「天下一苗字」光鏡院 

呆れ果てて絶句した過去の思い出。

地元では親しくしてもらった友人が二人いましたがそのうちの一人が「見てもらった」結果、「名前が悪い」との指摘を受けたといわれ、悩んだ挙句改名したことがありました。

 

「見てもらった」のフレーズはブログでも何度か記していますが、占い呪術系の世界に詳しい人に・・・のこと。

当地では何かあると(まず大抵が不都合な事々)とか「見てもらったら?」とのアドバイスをする人が居て、結果「見てもらった」という人が結構いらっしゃるのです。

 

そのことを僧籍にある私に告げるという意味が当初はわかりませんでしたが、最近は「みんな悩んでいるんだ・・・」とか「結構弱いんだ・・・」程度に流しています。

要は「それ」と仏教を繋げた思考があるということで、唖然としたものでした。

 

「見てもらう」とはそれによって何らかの解決策を求めるというポジティブ思考のように思えますが、私にとっては「何それ・・・」ですね。

当たり前です。まず何より論理的ではないですよ。

中には「ご先祖様がお怒りになっている」と言われて慌てて回忌法要を執り行うこともあってまんざらその法縁を後押しするということからは「悪い」とは断言できませんが、そのきっかけはもうこれは自分本位以外何物でも無いですからね。

 

その非論理の最たるものが「改名しなさい」でした。

人は誰かが忌避すべきこと等を言い出すと何故か広まってそれに従おうとしますね。

大衆の心理とはそういうものですが(単純)、特に昔は「方角」とか最近でいえば名前の画数です。

おそらく彼はその名の字面と画数を指摘されたのでしょう。

 

幾らの「指導料」を支払ったのか不明ですが彼に披露されたその名は偶然にももう一人の友人が名のっている「秀」と私の「一」を合わせた「一秀」でした。

 

それを聞いた私たちは爆笑して半ば罵りに近いカタチで味噌クソに笑い倒したことがありました。

本人は当時必死でしたから今になってはそこまでバカにすることは無かったと思っていますが・・・その後彼はその名を元の名にに戻していました。

思うに、何て無駄なところに労力を使ったものかと。

結構に大変な作業があったと聞きますし。

 

見てもらおうがそうでなかろうが同じ、というかもっと悪い方向に向かってしまったようにも思えます。

真宗ではその手の似非ポジティブ思考を「自力作善」と言い放ち「雑行雑修自力のこころ」であって、これこそ「振り捨てる」べきものと伝えています(改悔文)。

 

まずまずみなさん「心が弱い」「不安である」と思われている方、発想の転換をしてほしいところです。

 

その助けとなるのは親鸞さんが記した「自然法爾」という語の力強いスタンス。是非にお薦めいたします。

どこかでも記しましたがそれは「刃の心」、強い心・・・「忍」の一字でもありましょう。

 

さて、大河ドラマは少々ダレぎみ。

最近はチャンネル合わせが面倒くさくなってしまいましたが、最後に駿府の梶原山が紹介されて気を取り直しました。

岡崎の瀬名の籠る寺を去る際に何気なく発せられた「数正!!」の台詞の如く「藤蔵!!」の台詞を待つ(まったくどうでもイイことでかつ勝手に・・・)私にはその視聴の継続は怠ることはできません。

 

ブログについて何を記そうかな・・・というのはだいたい前日の夜9時以降ですから、そのヒント<梶原>を戴いたという意味で頭の中がハッキリしてきたというところです。

 

その梶原山の駿府より西麓に位置する地が瀬名。

そちらの光鏡院もその番組の最後に紹介されていました。

その「光鏡院」(場所はこちら)とは瀬名一秀の戒名から。

 

本堂に掲げられた「丸に二つ引き両」の紋を見れば今川系であることにピンときますが、引っかかるのは曹洞宗であるというところ。

どうしても今川=臨済宗というイメージで固まってしまっていますので。

まぁ寺というものは浮沈を繰り返しながら仏法「継続」をただ一つ願うものですからどこかの時点で抜きんでて寺に尽くす僧などが出た場合、宗旨など関係なく、その変更がされることはよく見らます(こちらのお寺についての詳細は不明です)。

 

瀬名一秀の「瀬名」は地名からの名のりですが彼の屋敷のあった地の元の名が「西奈」でその呼び名が「瀬名」に変化したとも言われています。

 

そして彼の元の苗字は「今川」でした。遠江今川氏六代の今川貞延の次男です(兄は貞基)。

駿河今川氏五代当主今川範忠が足利義教から同族庶流の今川姓の使用を禁じるという恩賞、「天下一苗字」を与えたため遠江の今川系はその名を名のれなくなってしまいます。

 

ということで遠江今川系は「堀越」(兄は堀越貞基)を名のりました。弟の貞延は将軍義教もそうですが一族長子以外の弟たちの辿る道と同様当初は僧籍にあって海蔵寺に居たといいます。

 

遠江今川が手を焼いていた狩野氏や斯波氏を駿河から挟撃するために駿河今川と共同歩調をとっていた際、駿遠完全統一を目指した今川義忠が塩買坂で滅したために急遽一族の結束を固めるために還俗していた一秀(元の名は今川義秀)が「瀬名一秀」を名のって駿河に入り、義忠の子の氏親の補佐役に回ったといわれています。

 

そういうことから推察するに今川氏親派ということ(勿論それであったからこそ家名は残った)で駿河に下向した太田道灌との折衝やら伊勢宗瑞(北条早雲)との共同歩調が想えます。

 

画像五輪塔は五百回忌を記念して建てられた供養塔。

 

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2017年

6月

18日

野牛曲輪に牛渕橋 長篠城の堅固を橋上から眺む 

ある会社経営者が拙寺本堂に「密かに」掲示してある「朱印」を見て「これはイイ」と賽銭箱にお代の200円を入れる様子が目に入りました。

その方は最近になって朱印集めをするようになったそうですが、「本願寺は朱印を出していない筈なのに・・・」と返されてしまいました。

 

私は「町の要請」「町おこし協力の流れ」の件を説明して了解をいただきましたが続けざまに面白い事を仰っていました。

奥様から「どこへ行ったのか」問われるのでこの御朱印は堂々と「ここ」と主張できるアイテムとなるようです。

 

御朱印どころか免罪符にもなりうるということがわかりましたが、そこでこちらには日にちが記されていないので都合のイイ日にちを勝手に記せば、いよいよ有力なアリバイアイテムとなりますよと。

 

さて長篠城はもう何度も記していますが(前回はキモカワメシ)伊那街道沿いのトイレ休憩とそのついでの城内のブラつき散策を重ねていてもその要害性についてはあまりピンとくるものがありません。

 

寒狭川(豊川)宇連川が合流するV字の断崖と絶壁に囲まれた難攻不落の城と言われてきましたが、城側から見てその手の感じはあまり伝わってきません。

まぁ街道側(北側)からは現状何らの障害もなくあまりにもスンナリと駐車場に入れますから。

よって本日画像は牛渕橋の真ん中あたりから見た長篠城を。

こちらの橋(場所はこちら)はまさに上記2つの川が合流した地点に架けられていて城を南側から見ることができます。川というか断崖の渓流のイメージがハッキリと伝わってきます。

当時は城内を望むに樹木などの遮蔽物は無かったと思われますので両対岸と城内で怒鳴り声が飛び交っていた状況が分かります。画像④⑤ともに飯田線の豊川鉄橋が見えます

 

城の本丸の下、宇連川沿いに走る現在のJR飯田線の敷設によって破壊された野牛曲輪(「殿井」画像①②)の名に、牛渕という橋の名(③)と「牛」繋がりは興味が湧きますが、それよりも宇連川対岸の地名に注目。

坊貝津・舟津・中貝津・新井貝津・鍛冶屋貝津等々、よく見渡せば長篠城側にも点在しています。

この「津」の文字は「みなと」であって舟着き場の存在を示唆していますね。

またそれぞれに「貝」の文字が見えますが、「海産物」の陸揚げの物流拠点であったことが推察されます。

川の名が「豊川」というくらいですから豊川経由で渥美湾に出ることができます。⑥は橋から見た下流方面。新東名高速の橋脚が見えます。

 

橋を西に渡ってスグ、飯田線の踏切の名称が「篠原」。

語源は「長篠」の「篠」と同一でしょうね。踏切を渡って北方向が豊川でその向こう長篠城となりますが、その位置が鳥居強右衛門が磔に架けられた場所になります。

 

長篠城の面白さはこの踏切と橋から・・・

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2017年

6月

17日

真っ黄色の境内 昔母が言っていた語は

昨日記しました火災の件、あの先進国のイメージとして「大先輩」というイメージの英国ですらあのような様を呈したという驚きは半端のものではありません。

その「先輩」とは幕末から明治維新、そして日英同盟と「イギリスに倣え」の時代を通し、「帝国主義」というものを学んで自らの「侵略戦争の道」に舵を切って行ったという歴史の先達ということですが、私たち世代としては映画の007シリーズで垣間見れる「洗練されたスマートさと気品」です。

 

そのイメージが今回の件で完全に崩壊しましたね。

まぁEU離脱やら移民流入にストップをかけるなど対外的強行論の闊歩の反動では?と取られても不思議ではないテロの頻発の躰は結構お粗末の感。

 

そこで今回の件からしてあの国は「案外イイ加減かも・・・」と思い込むに至ったワケで・・・。

ところがやっぱりその国の「おかげさん?」である今の日本であっても結構に「信頼に値しない」モノはまたぞろありました。

 

まずは「想定外」という台詞、というかもはや耳慣れた言い訳の言葉で為されます。昨日もJR東海、新幹線の線路の脱線防止ガードが外れまくっていたことにその言葉を使用していました。外れたガードが通行した列車(時速250㎞オーバー)に接触したというものです。ボルトの緩みといいますが、そんなことは誰でも考えがつくことですよね。こういうのはボルトではなく「気の緩み」と昔から言い囃されたものでした。

 

フクシマの原発の件に、先日の被曝事故など当たり前のように「想定外」の語が聞こえてきましたし、先日の東名高速の中央線法面ジャンプ台事故もその言葉が行き交いました。

しかし余りにも鮮烈だったあの事故、素人の私が一見してもその絶妙なスロープは「飛んでも不思議ない」と思わせます。

 

当初は自家用車のスピードの出し過ぎが原因とメディアによっては「時速130㎞」などの数値まで出していましたが、新情報によればあの亡くなった医師の方はスピードはせいぜい90~100㎞程度しか出ていなかったといわれています。

結果的に多くのケガ人を出してしまったことから加害者というくくりになったことは事実ですが、あの方の名誉のためにも原因の探求は欠かせません。

 遺族の方たちは場合によっては道路公団や国土交通省の「管理不備」について指摘(訴え)してみるのも一手と思います。

 

また、今朝のニュースで驚いたのは欠陥エアバッグの大規模リコールでお騒がせのあの会社が来週にも民事再生法の適用を行うとの報がありました(現状会社は否定)。

「1兆円の負債」と言われてもピンときませんが私は日本の自動車業界の「内輪の独特なお約束」のような雰囲気で何とかあの会社を「守ってあげる」のだろうとてっきり思っていましたから・・・

 

特に私はあの会社の工場がある場所(彦根・愛知川・愛荘)をうろつくことが多いのでその文字は結構目に付きます。

近江の会社として同情しつつも案外とこの件もお粗末な品物であったということと、その対応策が全然なってなかったということは否めません。

 

昨日も記しましたが人間ですから、どこかしらおかしなことをきっとやらかすワケでして、「日本は大丈夫」「私は大丈夫」などいう軽口はもってのほかのことだと思います。

 

昨日の静岡は全国一暑かったとのニュース。

「ドピーでスカ晴れ」の青空でした。

ただし私の嫌いな風が吹きまくったうえ、消防車らしきサイレンも聞こえるなど心の安定には程遠い境内。

百合の開花がピークを迎えていますが、植物そのものの頭の重さで強い風が吹くと鉢が倒れまくってイライラがつのりました。

紐で縛ったり外したりで対応していますが、一昨日その紐を外したばかりでした。

 

何故か当家の百合は「黄色」ばかり。ハイビスカスたちも私が「黄色」を優遇(そもそも弱い品種です―赤は強い!!)するものですから今は繁盛の限りとなっています。

 

これは隠語で若い人はもはや使用しないと思いますが、私が何か黄色の選択を行うと母は黄色の「キ」と「気」をかけて「きじるし」と私を「やれやれ」という具合で罵りました。

私はむしろ「明るい」のイメージがその語にあると感じていましたので悪い気はしませんでしたが・・・

まぁそのようにして母からお前は「どこかしらオカシイ」と育てられたのでした。

真宗の教えは「違ってそれでイイ」ですからね。それでイイのです。

 

アメリカあたりでは黄色は弱虫の色との印象があるようですが(タランティーノの映画・・・)日没のオレンジ色や浄土の金色にも近い色で私の好みの色。決して気が強いワケでもありませんし日本人は「黄色人種」といわれるカテゴリーですし。

さすがにこの齢でこの色は着ませんが・・・。

また、黄色の袈裟に限っては「いいなぁ」(色彩的に)と思ったこともありましたが、この色は私のような小僧には着ることはできない色の筈です。

 

画像は黄色だらけの境内と8月15日のミニジャズコンサートのポスター(→HP)。布施氏の力作です。

本日の世話人会にてお披露目です。

 

 

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2017年

6月

16日

都合の悪い事は隠す コレ政の基本 天明の大火

ここ遠州相良では先日の梅雨入り宣言以来、まったくといっていいほど雨がありません。

私はこの時期になると6月下旬、梅雨明けしたばかりの沖縄のべた凪の海とドピー感の太陽が恋しくなりますが、今の相良の空はそれに近いモノがあります。

ということで本日は自前で内装工事に着手。

冬場ハイビスカスを置く2階の八畳間をフローリングにしようというものです。

 

畳を廃棄したことは少々心残りではありましたが、衛生面と掃除などの管理を考えれば選択肢は一つ。畳屋さんには申し訳ありませんが8枚の畳たちは処分場へ。

処理費は1300円(10㎏50円)。だいたい30㎏/1畳計算です。

2階の屋根から境内に放り投げましたが疲れたと感じたのはその重さでした。これを業者さんに依頼したとしたらこの価格では収まりませんからね。天気がイイので仕事がはかどります。

あと三部屋を板張りにする予定ですが材料費のみで3万円程度のやっつけ仕事です。

 

さて、それにしてもイギリスの高層住居ビルの火災は驚きと恐怖そして地獄を思いました。

「火が出ても安心だから部屋に居ろ」などという「そのとき」のマニュアルがあったようですが、とんだデタラメだったようで。

脅威には視覚的なものもありましたが私の一番に思ったのが「あの先進国のイギリスで?」でした。

人命尊重のポリシーはこういった市民の住環境においても隈なく配慮されているものだとてっきり思っていました。

日本では消防法上の規制が建築物に網をかけていますので「大丈夫です」とは聞こえてきますが、やはり今回の画像を見る限りでは高層建築物の逃げ場の無さというものを大いに感じてしまいます。

 

よく本堂の上や木の上に登っている私に対して、「よく怖くないね」と奇人の如くの問いかけがありますが、私からすればあのような高層ビルに住まう方がよほど奇怪に思うところ大ですね。私には身を確保するロープでバッチリ繋がっていますので。

ちなみに愚息の下宿部屋は3階ですが、念のため15m程度のロープを置かせています。

 

京都の火災といえば歴史上それはそれは半端ない規模で延焼した、天明の大火があります。

四条宮川から出火した火災は強風に煽られて何せ御所から二条城、東西本願寺も被災したといいます。

「京都市中1967町のうち焼失した町は1424町」とウィキにありますが、200以上のお寺が焼けたそう。

田沼を追いやった松平定信が事後処理に頭を痛めた大事件でしたが、まさにもう一つの案件「天明の大飢饉」の真っただ中の災禍でしたからね。

 

財政逼迫の中で御所の豪勢な建て直しの件で揉めたことは「そりゃ当然でしょ」とは思いますが、このあり得ないような無茶苦茶な火事で「焼死者150人」の公表数字は誰も信じなかったようです。どちらの時代も被害や損害は少な目控えめに公表する

というのがならいなのでしょうかね。

 

尚、NHKの夜10時は「空き家の活用」(再生)の件を伝えていましたが、この京都の大火の原因は空き家への放火だったそう。

「空き家」は放置できませんね。

 

先日の総代会では火災保険(年間50万円強)についてのチェックが入りましたが、あらためて「火災へのケアは念入りに」と管理者としての「心配」はいりました。

としても「火用心」(ブログ本多作左衛門重次)については十二分にケアしているつもりですが、こればっかりは100%大丈夫とは言えませんから。

外周の「木をあまり切らない方がイイ」という意見もありました。

 

画像は御所の東側、寺町通の清浄華院(場所はこちら)。

こちらには天明の大火で焼死したと伝わるその「150人」を弔う五輪塔があります。

まともな戸籍など無い時代、おそらくその150の数字とは戸主家主の数字であって家族や丁稚奉公人・使用人は含まれていないような気がします。

 

最後の画像は「安政五午六月四日午の刻」とあります。

「京都大火極本しらべ」なる瓦版から。安政の京都の火災についてで時折オークションに出品されています。

東本願寺の離れ、枳殻邸(渉成園)まで類焼したといいます。

 

人類は「火」のコントロールにより恩恵を戴いて発展しましたが忘れたころにその「火」というものによって痛い目にあってきたという歴史があることを忘れてはいけませんね。

尻に火が付く前に「火用心」。

さぁパトロールにいってきましょう。

 

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2017年

6月

15日

物集女クヅ子 物集女城 百舌鳥が語源 ?

気軽にライブ映像が撮影できて一瞬のうちにその映像が世界中に配信される時代。

便利といえば便利ですが、そういった映像先行の感覚を皆が持つことは往々にしてまた結果的に扇動利用されることがありますので受け手としては注意が必要です。政治なども「劇場型」と呼ばれるようになって久しいものがありますが、「悪代官」も台詞と演出次第では大衆を操作できるようです。

 

本年の流行語大賞候補NO.1は「忖度」で間違いないところですが2番目の候補として「印象操作」が俄然追いかけています。

これこそそれを発するご当人がシナリオを描いてその通りに「劇」を進めているように感じますが根底にある方針としてあるそれ(操作)がつい口から出てしまったのでしょう。

しかし誰もが想う見え見えのインチキをお仲間総出でたすける構図は「お涙頂だい」ではありますが、どなたかも仰っていましたがもはや「忖度とは(度を越えて)損得」であると。

お役人さんも御身大切。国民のためには動けません。

 

さて、昨日は長岡京市の開田城を記しました。

鎌倉期あたりからの土豪の成長と繁栄の址を見た思いでしたがこちらの近隣で少々京都寄りの街道筋となりますが、室町初期からその名を知らしめていた氏族がありました。

 

地名としても残っていますし、その街道の名としても今も知られています。それが物集女荘の物集女(もずめ)氏です。

古くからは「乙訓郡」でしたが現在は向日市になっています。

 

街道名としては西国街道から分岐する「物集女街道」という名称がありますが、勿論こちらには物集女氏の城館物集女城の址が今も残ります(場所はこちら)。

堀跡や土塁も残存しているようですが現状私有地(畑)となって標識と看板を見て満足するだけでした。

たまたまどなたかが居られたら事前許可も得られるというものですが・・・。

城址図面を拝見するに、やはりお決まりの国人領主系の館の如くですね。

 

物集女の語源は「百舌鳥」(もず)説が有力だそうです。その名を聞くと私は仁徳天皇陵の「百舌鳥耳原中陵」を思い出します。室町初期に土豪領主として頭角を現した物集女氏ですが、古来からこの地は物集女と称していますので「物集女住」からの名のりからであることが想像できます。

 

物集女の名が残るのは細川藤孝が勝竜寺に入ったころまで。

物集女忠重入道宗入という人は信長への服従を良しとしなかったようで天正三年(1575)に勝龍寺城で殺されたといいます。

ということで、近隣に「物集女さん」の名は見つかりません。

 

 

前に記した三氏(久貝・神足・中小路)の名が残っていることは一族すべてとは断言できませんが、それなりに織田―細川に従ったグループだったのかも知れません。

 

それにしてもこの「物集女」読みは面白いですね。

不思議なのは物集女にはいくつかのそれを冠とした地名が多くあること。そして物集女城の北東の「物集女クヅ子」という地名には一瞬の可笑しさを覚えてしまいました。

字面だけを見れば「物を集めゴミ(クズ)とする女性」を思いますから。

ちなみに「クヅ子」は「クヅネ」読みのようです。

詳細不明です。

 

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2017年

6月

14日

古の名を推す「開田」 開田城は中小路さん

寺にいて「聞き流してほしいが敢えて聞いちゃいます・・・」という「ぶっちやけ話的」機会にお付き合いすることがあります。

ここのところのその手の3題をあげますと・・・

 

①「親族が医師に余命告知されたが葬儀費用を心配している」

②「幽霊を見る、人に見てもらったら先祖に恨まれていると

③「双極性障害ですが話を聞いて」 です。

ちょっと前までは「死にたいんです・・・」という「内わけ話」もありましたが、そちらの方は今のところ何とかとどまっていただくという「おかげさま」を得ています。もう心配はないでしょう。

 

三者三様どちらさまの談も切迫の感あります。

まぁこの手の内容はまず、守秘義務のある坊さんへの問いかけですので、こちらとしてもいい加減な態度で「対峙」することはできませんね。

ここは坊さんとしての仕事の気概というものの発し処でもありましょう。

 

①は一般的にはあり得ないとても気の毒で辛いシチュエーション、すべてがどうにもならないことばかりでお手上げのレベル。

どうにもならないことはまるで「仕方ない」ことですから私は「できるところだけで」と了解し、葬儀社をできるだけ使用しない、本堂使用の「手作り葬儀」を勧めました。

 

世話人会と婦人部に声掛けして協力者を集める旨伝え、先日の総代会にてその件の了承を得ました。

私はそれよりも余命数週間と告知された方が病床で「さわやかのげんこつハンバーグが食べたい」との言葉を聞きましたので、病院に一番近いその店(病院はかなり遠方)を目標、容器に詰めて持参し一口でも食していただく事が第一義に考えるべきと伝えて別れました。

 

②の件はごく普通に耳にすることで、そのうちの半分は「奇をてらったことを言って注目を集める」もので、過去にはよくありましたがこのタイプには閉口させられます。

「私って霊感が強い方じゃぁないですか・・・」の人ですね。

ハッキリ言って顔では笑って腹の中では「やれやれ」の「知らねぇよ・・・」です。

 

で、残りの半数、坊主としての私に真顔でそれを言ってくる方はよもやいわゆる「ヨタ話」の域は超えていて結構に深刻の域に。そういう場合は・・こちらでは詳細は割愛しますが、「人間界無常合理」を仏教理念を本筋として持論を展開、ただそういう考えの事を「邪道」と一蹴させていただきます。

また、「見てもらう」というのは当地でよく言う昔ながらの呪占系の生業の人がいるということですが、大抵、その手の悩みを誰かに示すとお節介にもそういう人の介在を招いては話がこんがらがってより一層の呪縛を招いています。

 

そういう人たちの占いの結論としてまずポジティブ解説の例を知りませんし。

最後に私が告げた言葉は「その幽霊が出て来られたら是非私にも紹介して」そして「何が言いたいか耳を傾けてあげて・・・」です。

 

③は困惑しますね。その方は檀家さんではないのですがここのところ何度も私を尋ねてやってきます。

当家のお方さまが爆笑するのは、その方が私の事を「オレと同じだから話しやすい」と喋り続けているところ。

 

「双極性障害」であると自ら発し人間関係と家族関係で悩んでいるよう。

こればっかりは周囲がその理解をしてあげることが肝心で、どう治していくかではないですからね。周囲の理解力が増せば感情の振幅も抑えられるのですが。

ただただこの件ばかりは私は聞き役に徹しています。

 

さて、勝竜寺城周辺の城、久貝城神足城を記してきました。

続きまして本日は開田城。

上記神足城のところで記したカラーの乙訓郡の中世城館図でも画像①の図にもその開田(かいでん)という城の名称が記されています。

城は国人領主城砦のパターン100m×100mに近い70m×70mのエリアに土塁と堀で固めたものと発掘調査によりその規模が判明しているよう。まぁ城というか館の類でしょうが・・・

 

しかし「開田」とは古の名、領主開発新田を思わせる地名です。

地頭職かそれに準ずる土豪が台頭して新田開発を進め力をつけて行った歴史です。

現在のこの地は長岡京市の中心地にあたり、マンションや大型建造物の隙間にその遺構を「何とか残そう」という意思が強く見せられる場所(繁華街の中心地 場所はこちら)になりますが、まぁ何とか残存遺構があることだけでもヨシですね。

 

「開田」はさすがに当時新しく拓かれた土地のようで、こちらの居館の主の名は中小路氏。

こちらの「中小路」の名跡は神足神社の神足氏と同様、この地には確りと残っていることにまた驚きがありました。

 

近隣にツツジで著名な長岡天満宮がありますがそちらの宮司さんのお名前が中小路氏。

電話帳によれば周辺にもこの姓は6~7件ほどありますね。

中世より戦乱の中心となった地域にあって歴史から完全に姿を消したとしても不思議はないところ、その土豪、地頭クラスの旧領主の名もしくは血脈が引き継がれていることを想像することは楽しいことです。

勝手な想像ですが久貝、神足、中小路いずれも地元の名家でしょうね。

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2017年

6月

13日

此方でも歴史を思う 神足の神足さん 勝竜寺城

先日は拙寺の境内水道管からの漏れについて記しました。

何とか皆様のご配慮によって「拙寺には責任がない」ということに収まったようです。

ただそれは今のところ請求書が上がってこないというところでの判断ですから、ハッキリとは断言できませんが、工事完了から2週間を経ようとしている今の段階で、それを突きつけられていませんので、まず「おかげさま」の手打ちとなったと見ています。

 

そんな中、1年に一度のガスの検診があって、「漏れあり」との御指摘。係の人が持参したセンサーがかん高い音で発報していました。

「そう心配することはないがバルブを替えます」ということで対応済みですが・・・。

道理でプロパン臭がするとは思っていましたがこれまで何事もなくて安堵しました。

 

それにしても浅はかでした。あのガスにはわかりやすいよう「匂い」をつけているのにもかかわらず、「ちょっと匂うな」程度の感覚で放ったらかしにしてしまう自分をたすけて下さった「何か」に感謝した次第です。

まったく命拾いした思いです。

 

さて、先日は勝竜寺城界隈を歩いての感動(久貝城の久貝さん)について記しましたがまずは①の地図を見ていただきます。

勝竜寺のスグ南側に「久貝城」の名、北側に「神足(こうたり)城」の名がみえます。

 

この「神足」は②画像の信号機の掲示板(東神足)の通り、地名にもなっていますが元は信長侵攻以前の在地領主?「神足氏」の城があったということです。

 

ちなみに②のコンビニが勝竜寺城の堀の鯉に餌をと買いに走ったお店になりますが、このまさに裏側が「神足神社」(場所はこちら)。

そちらには勝竜寺城の外郭ともいえる遺構が調査の上公園化されて紹介されています。細川時代に勝竜寺城拡幅の際、吸収されていったことと思われます。

 

私の感動は勿論近隣に「神足」さんの表札があったこと。

戦乱の歴史を通してきた地だけにその歴史から消えずに名跡を残している奇特に思わず足を止めてしまいました。

 

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2017年

6月

12日

金ヶ崎 信長逃亡の論拠 尊良親王の件アリ

あのあまりにもショッキングな画像(東名高速新城SA付近の事故)の追加報道は各テレビ局は続けて流されていますね。

原因を考察するには、何故にしてあの乗用車が飛行機のように「離陸」したかということにつきます。

中央分離帯の構造の問題は確実で対策について早急に着手していただきたいところではありますが、何故ノーブレーキでハンドルを急激に右に切ったかというところが疑問です。

 

丁度あの辺りは新城SAから出た車両が左側から合流する緩やかな右カーブです。

結構スピード高めでも進入できるカーブで、もし左側から強引に車線に入って来ようとした車があったとしたら・・・なんてことを考えてしまいます。

高速道路の使用が頻繁で、それを欠かす事はまずありえない私ですが、走行車線と追い越し車線では後者がいかにリスキーかがわかりました。今後できるだけ走行車線を走るよう心掛けたいと思います。

 

そもそも法令上は追い越し車線の利用は追い越し時のみですしね。車線走行違反で切符を切られます。

そのことにより最近「流行り」の逆走事案にも対応可能ですし。

ただし事故の遭遇はすべてタイミング、人はひとえに「運」といいますが、そればっかりは避けようにも避けられないということも往々にあります。

とにかく「安全第一」は肝に命じなくては。

 

さて、先日はたまたま見た番組から思い出したように信長の脱兎の如くの逃走劇―「金ヶ崎の退き口」を思い出しました。

まぁ信長のひらめき」「九死に一生の逃避行」との感覚で後世伝えられている事件でした。

これは信長の判断力のすばらしさ(力量)と思われがちですが、あの判断~折角奪った城を捨てて逃走~には「前例の存在とその同じ轍」が頭をよぎったからに違いありません。

 

要は①城にこだわって籠城し、朝倉・浅井軍の包囲に耐えるのかそれとも②陣払いしてとにかく逃げるかの選択だと思いますが、結果的に②を選択したことがこの「金ヶ崎」のポイントとなります。過去にこの城で①を選択して滅した者たちが居たのでした。そういう彼なりの歴史的評価があっての成功譚となったのです。

①を即断して「尻尾を巻いて逃げた」などのありうる世間の評価などは無視してひたすら「安全第一」にハンドルを切ったのが信長でした。

私は信長憎しでずっと通していますが彼の歴史を知って自分の生を得たというこの判断には一本取られた感があります。

 

その信長が金ヶ崎の籠城に勝ち目がないとの判断は①兵糧の搬入の難しさ②それにより陥落した歴史を城が抱えているというところです。

話は飛びますが、経営者が事業を始めたり拡大する場合、新天地を事業用に求めることになりますが、倒産したり銀行に差し押さえされたりした場所は「縁起でもない!!」と敬遠すると聞きます。それと同様に信長も前例と同じ轍は踏みたくなかったのでしょうね。

 

②の陥落した歴史とは、前例としてはあまりにも有名な事案でした。それが新田義貞の長子新田義顕と後醍醐天皇の子尊良親王の籠城戦です。金ヶ崎は断崖絶壁に立つ難攻不落ともいえる城でしたが、それだけに兵糧攻めには弱いという弱点があります。

人数を揃えた籠城戦となれば、兵糧の欠乏に至る事は必定。

信長としては前線が伸びきったこの地での籠城は兵糧入れなどは期待できず城にこだわることは死を意味することが分かっていたのでした。

歴史のお勉強はいつの時代でも大切ですね。

 

尚、この金ヶ崎の戦いは南北朝動乱期の前哨戦ともいえる戦いでしたが尊良親王については各お調べいただければと思います。あの井伊谷の宗良親王(またはこちら)の同腹の兄です。

なお、彼らの「良」の字の読み方は未だ2説あって「よし・なが」両立併記になっています。

 

最後の画像は秋葉神社のお札。

先日ブログで記しましたように「火防守護」の文字があります。当家にも町内会からの配布がありました。

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2017年

6月

11日

山中長俊の卵塔 方広寺の北 東山五条 慈芳院再訪

ドライブレコーダーは付けておくべきですね。

昨日の東名高速新城SA近くで起こった観光バスに自家用車が空を舞うように衝突した動画を見せつけられてそう思いました。

別に特ダネを撮ろうという魂胆ではありません。

今回の件は逆車線の車が飛び込んできた事故で過失割合としては0-100%に近いことは想像できますが、通常の事故での状況や原因などなかなかつかみきれないものがあります。

要は当事者と目撃者の「やった-やらない」の論争などそういった画像によって一蹴できますからね。

 

そういう意味からして、FBIのコミー前長官が大統領に呼ばれて会食した際の会話を「メモに残した」のではなくボイスレコーダーに残していれば・・・と思うばかりです。

しかし彼ほどの人がなぜそこのところを思い浮かばなかったのか、不思議でなりません。

ひょっとしてコミ―さんのテクニック、散々「そんなこと言ってない」などと大統領に言わせておいてから「録音テープあり〼」などと後出ししてくれるかも知れません。

今後の展開を期待しています。

まぁそうなればアメリカは政治も経済も一旦は大荒れになるでしょうが・・・。しかし共和党から副大統領が昇格するだけのことですから、スグにも沈静化することは必定。

早いところあの大統領様にもお引き取り戴いた方が「世界のため」になるでしょうよ。

 

事故の件に戻りますが、バス遠足を企画して引率する機会がありますので、嫌な事故を見たという思いでいっぱいです。

それにしても道路会社は中央分離帯のあのスロープについて再検討する必要があるでしょうね。せめて同方向の車線に弾き返すような力学構造にしなければダメでしょう。

 

さて、先般方広寺界隈をブラついた際、東大路通を馬町交差点から東山五条を通りかかった際、ちょいとあの石仏にお会いしたくなってぶらっと立ち寄ったのが慈芳院でした(こちら)。

 

この辺りは邪魔な車など打ち捨ててまさに「歩くエリア」で、このお寺の近くは何度も通過しますが、あまりにもお気軽しすぎてパスしがちになります。

ということで本日は画像を少々大目にアップ。

 

というのもこちらのお寺は前回記したように山中山城守長俊の屋敷址で長俊が奥さんの菩提を弔うために建てたお寺でした。

その奥さんの法名が「慈芳院」ですね。

よって敷地としては最初から寺院として確保、設立されたものではないということで、いたってこじんまりしたお寺に思えます。山門をちょいと潜れば目の前に本堂があって、その左には覆堂(ふくどう)内から石仏薬師がこちらを呼んでいます。

 

こちらにも山中長俊の墓があります。

卵塔タイプの石塔ですから一見したところ武将のものとは思えません。しかしおそらく彼は屋敷を寺に改めたあと自身も僧となって妻を弔ったのでしょう。すると晩年は剃髪して寺に入ったと考えるのが常道。

亡き妻のために寺を建て入道・入堂とは何という妻思いの人。

 

山中長俊の卵塔に彫られた文字。

確かに没年の慶長十二年と法名の「紹春」が読めます。

卵塔とは無縫塔とも言いますが禅僧はまずこのタイプ。

こちらの「卵」が載る請花は竿部分と一体化した石材で装飾もごくシンプル。

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2017年

6月

10日

異説異論主張の特異 信長はずっとイイ人 ?

世の論議に「主説」というものがあれば傍流ともいえる「異説」というものが存在します。

歴史世界においてその手の「各説」が出てくることは珍しいことではありませんね。

そして面白いのは新たな説まで時折登場したりします。

 

「新説」の提唱というものはしばしば人の目を惹くことが多いですから、ちょっとした目立ちたがり屋さんや発言の機会を得るために手を挙げることも多くて、まずは「話半分」であるというスタンス。その程度のものと聞き流しておくところがベストでしょう。いわゆる「奇をてらう」行為ですね。

要は「違ったこと」は一瞬であったとしてもとりあえずは人の注意を集め、結果「自分自身」を主張できるワケです。

テレビを見ていても芸人さんたちが他者とは違う「変わったこと」を語ればそれは「注目」、カメラはその人を映します。

一つのテクニックというかそれを「破れかぶれの異説」と受けられます。

 

よって「異説」と呼ばれる「新説」に関しては私は最初から「眉に唾する」感じで受けることにしています。

ただし新資料の発見などの論拠が伴う場合は別ですよ。

 

さて、最近の信長に関するニュースでその「異説」というものの紹介がありました。

それが「信長の『野望』全国統一、目指していなかった?」

でした。色々とワケわからん解釈がされていましたがオイ、「あの天下布武のハンコ」は何だ・・・と言いたくなります。

 

解釈としては「武は武力に非ず」の意味するところはわかりますが、「天下を(武でもって)平らかにする」は平定・・・統一に決まっています。

説として

①信長自らの為ではなく「室町幕府のために」戦働きをした

といいますがそれを信じるワケにはいきません。戦国大名というものの旗印はその「大号令」をすること意義があったはず。

②「楽市楽座は信長が始めたものではない」と記されていましたがその件はとっくに知られていることです。六角氏による観音寺城下が初見です。

③信長の比叡山焼き討ちはいわゆる「演出」であって建築物を焼いただけ(人命は尊重している・・・?)。

「信長イイ人説」ですね。

しかし長島一向一揆(またはこちら)や岩村城の秋山虎繁とおつやの騙し討ちに城兵皆殺し等々、数えれば数多。信長の傍若無人と躊躇ない抹殺の歴史(仏敵信長)を教えられてきた私には到底その話は信じられませんね。

 

昨晩の歴史秘話はてっきり忘れていました。

終了5分前に慌ててチャンネルを合わせましたが、ちょうど金ヶ崎城からの退却(金ケ崎の退き口)の場面でした。

画像は2012年とかなり前のものですが、ついこの間の事のように思い浮かびます。

しかしあの辺りに一旦足を踏み入れると、集中力が欠落します。

「あそこも行きたい、ここも行きたい・・・」

 

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2017年

6月

09日

「忍」の字 田中藩士等の墓碑いろいろ 大慶寺

最近「忍」という名の方に続けざまに2度遭遇しました。

その名の読みは「しのぶ」ですが、イメージとしてはどうしても「耐」という字と合体して「忍耐」とか「耐え忍ぶ」というところ。

ということで「少々ネガティブ・・・」な感じもしないでもないでもない語です。

 

仏典から紐解けば(やはり正信偈からですが)

「 与韋提等獲三忍   即証法性之常楽 」に。

「観無量寿経」でお馴染みの韋提希婦人が譬えとして出てきます(→東本願寺)。

ちなみに一昔前は故人が女性だとこの韋提希婦人のストーリーにちなんで門徒寺では「無量寿経」を拝読したと聞きます。

 

その「三忍」とは「喜忍」・「悟忍」・「信忍」のこと。

だいたい訳を見て雰囲気的には「強い心」のことを記しています。字をよく見てみると・・・「刃物のようにキレのいい心」ですからね。「奴・如・己」+「心」について記してきましたが「刃」+「心」もなるほどとその深い意味を知ることになります。

 

さて、先日知った言葉に「三悪行」という語があります。

「三毒」といえば煩悩の貪欲・瞋恚・愚痴でした。

どうやらその語は仏典からではないようで、まぁ上記煩悩のうちではあります。

それは特に「定年男性」が陥りやすく、それらにハマれば折角のリタイア後の資金、老後の資金が消失し、よって妻や子との仲も険悪になって一人寂しく終末を迎える事になるようです。

 

それは

①暇につき日々の晩酌が昼間からスタート。

 深酒となってアルコール依存症となる。

②暇につきギャンブル依存症となる。

③飲み屋の娘に年甲斐もなく入れ込んで依存する。

 

それが「三悪行」とのこと。みんなやはり煩悩でした。

しかし定年退職後にそれらへの願望が「開花」するようで、最初から退職後の資金が豊富であれば、つい手を出したくなることはあるでしょうね。

ところが人間というものは常習性、依存性がありますので、やはり逃れられない「私の心」との闘いになるのでしょうが、大抵のリタイア世代の方々はドハマリになって身動きがつかなくなるといいます。

 

それらの人々はかつていた会社ではある程度の地位が約束された「エライ人」の割合が多いそう。

会社を辞めたあとにそういった地位を約束された仕事はありませんから、家でブラブラしているほかはないようです。

今更「時給800円のパートになどに出られるか」というプライドもありましょう。

 

ということで、そのような「悪行」の世界に身を落とすことのないようにするためには

まず①プライドを捨てて

②何かすることだそうです。趣味を持って違う世界に飛び込むのが一番ですね。

 

大慶寺(上記「心」リンク先とこちら)の墓域には藤枝田中藩関係者の墓が並んでいます。

画像②→⑤はコの字側の墓域の開口部右側から。

メジャーどころでは④が太田摂津守資直とあります。

本多家のお墓は蓮生寺にどうぞ。

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2017年

6月

08日

南蛮の嗜好品→受動喫煙病原 拙寺の壇特ダンドク 

受動喫煙の因果で年間に15000人が亡くなっているデータは去年の今頃、厚労省から発せられました(職場で男性3680人、女性4110人。家庭で男性840人、女性6320人)。