2017年

6月

23日

川名の郷は無事だった 「おみたらしの井戸」

昨日は朝から「よしもと新喜劇」の開演を思う風のニュース。

「エライ人の二面」について痛く感じ入ったものでしたが、あの方は次のお仕事は「お笑い」で十分食べて行けること請け合います。

 

朝からの爆笑は素晴らしい新人芸人の登場と思ったものでした。一気にメジャーに躍り出たものと思いきや、「体調不良」とのことでお隠れになってしまいました。

普段は出たがりのクセに何かをやらかしちまうと(というかバレると)「入院しました」とか仰って姿を隠すというのもあの手のご職業の方々のいつものパターン。

 

今頃「カネやカネ!!」ということで何とか刑事事件にしまいとさらに裏の裏でどなたかが暗躍していることでしょう。

結構まとまった金子(きんす)が提示されていることは優に想像できますが、まあ「何事もなかった」となるのでしょうか。

 

「いっちょカモったる」、それもヨシです。おカネは大事ですからね。しかしカネの問題だけではないかも知れません。

暴行による傷害行為による治療費と慰謝料は民事事件として当然に受け取ることができますが、やはり誰が見ても刑事事件の匂いがぷんぷんしています。診断書の存在もあるようですし。

やはりボイスレコーダーは証拠能力大ですね。

グーの音も出なかったようで、「出所不明の怪文書みたい」などの言い逃れはできなかったようです。

 

まぁそこのところを示談金というカタチで「大金を上乗せします」というのがまずこの手の事案のもみ消し方。

以前も役者さんの息子の事件で「そうだった?」と感じる事件の解決がありました。

 

「ハゲ~」と絶叫されてどつかれて、娘までネタにされたうえ「小遣いもらっておしまい」だとしたらこのお笑いの舞台の幕引きとしてはごくフツ―の感じ。

万事手打ちは庶民からすればやはり「カネ欲しさ」の計略と思われても致し方ないですよ。徹底的にやったれぇ・・・秘書殿。

それが貴殿の権利というものです。

 

復習しますが「洗面器」が足りないのでしょうね。

エライ人特有の態様を垣間見るいや、おもいっきり見せつけられた気がします。

 

さて、「敵に塩を送る」という言葉について。

それは当地に直接関係のある語ではありませんが、「塩の道」と呼ばれる街道を控える相良の皆さんからすれば、だいたいその語の意味する雰囲気というものは小さいうちから心得ているところ。

まぁ「敵」とは言わず今でいう「嫌いな奴と私」という関係がありその相手が苦境にあって、あるいはそういった立場にあるときには「積極的に手を貸す」という「日本人の精神の美的感覚」をいうものですが、古来よりその意識はあったということですし、その語を聞けばやはり基本は「そのスタンスであるべき」であると思います。これは、仏教的慈悲の感が漂います。

仏教感からすれば「嫌悪」は「瞋恚」(怒り)―煩悩―を惹起しますので「敵」をつくらないこと。

結果的に相手に手を差し伸べてあげれば自然、「敵」には成り得ないという教えでした。

 

画像は川名の「おみたらしの井戸」(場所はこちら)。

先日記した福満寺薬師堂の通りを挟んでスグの場所にあります。

三方原合戦の前哨戦としてこの近くのふろんぼさまにて記しましたがここでの武田軍といえば山県昌景軍のことでしょうね。

伝承としては眼病を患った敵将にこちらの井戸に湧き出る水を提供して洗わしたところ、病が癒え、そのおかげで郷に火をかけられることが無かったというものです。

見たところ柄杓など設置されていて、「飲める」との推測はありましたが、私はチャレンジはしませんでした。

 

他者への慈しみの心は「歴史」の中にも散見できることであり、この日本人の心とはその仏心(恕)を礎にしていたのだろうと思います。

蛇足ですがその仏心とは「自身利益」を超越していますので、譬え意に反した結果(ここでは郷に火をかけられること)となったとしても悔やむことは無かったのでしょうね。

ただ「これで仕舞」を一義に、後世に恨みを繋げないということを心がけたのだと思います。

それを「強い心」という意味で「忍」の字をあてたのでしょうね。

これは私にはまだまだの領域でして、今のところいつも「洗面器」を探しながらヘラヘラと苦笑いを含めて笑っているだけです。

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2017年

6月

22日

長篠城のパターン 馬場信春の墓 中央構造線露頭

1年のうち昼間が長いこの頃といえば、外遊びに気合が入るというものですが昨日のこの地域の豪雨は久し振りのもの。夜明けから日没までずっと降り続きました。まるでこれまでの降雨無しの梅雨の帳尻を合わせるが如く。

こういう時にはこういう仕事・・・と、私はスコップ片手に境内の排水溝の清掃を少々。寒いな、と思った時が終了時間でお気軽。

 

温かいシャワーを浴びたあとスマホにアラームが入っていましたが土砂降りの中榛原方面でのお昼の約束場所に向かいました。予約をされていることはわかっていましたからそれは仕方ない事。

仕方ないといえば昨日は「商工会女性部」主催の日帰りバスツアーがあると聞いていましたので、ひとえにそれは気の毒なことだと思いました。

 

何かしらイベントを企画する際、「雨」だけはカンベン願いたいところでただそれだけを願って「天を仰ぐ」ものではありますが、コレにはまた絶対はありませんので「雨が降ったら降ったなりに楽しめばイイ」と開き直るしかありませんからね。

それにしてもロクな一日ではなかったですね。

昨日は久々に乗った新幹線について記しましたが、夜遅くまで架線の切断の影響で停車したままでしたし第2東名も通行止めになっていました。

 

さて長篠城に寄った際、2回に1度は馬場信春(信房)の墓まで歩きます。長篠城に車を停めたら絶対に徒歩で向かいましょう。

ほんの少し歩くだけですからね。

ここで色気を出して「車で・・・」などと思うと酷い事になります。ハッキリ言って長篠城から馬場の墓まで車両進入はできません。馬場美濃の墓参りは前回も記しましたように自己の反省のためですね。それは「聞く耳」に関してでした。

これを「私の金盥」といいます(私の造語)。

「盥」は「たらい」と読みますので「わたしのかなだらい」。洗面器です。

この字は学校では習いませんでしたが、それは社会に出て習わなくてはいけないことです。

 

「盥回し」という責任転嫁の比喩がありますが、私の思うそれは「大根屋」(節談説教)からです。

「心の垢も洗う金盥」、心にまた響きますが、人はいくつその盥を持てるかでしょうね。

エライ人鼻高々の人というものは自己保身からの「盥回し」に限って得意技。しかし自分の心の垢を洗う肝心の盥は持ち合わせていないというのが実際。

やりたい放題なんてもってのほか。

 

生きていれば当然に濁ってくるものですが私は色々な場所に「なむあみだぶつ」の置き盥をして適宜出向いては心身を洗わなくてはなりません。

 

さて、馬場信春の墓の先にはポツンと看板が立てられています。

「中央構造線露頭」の案内板です。これは九州から関東まで列島の真ん中を東西に走る断層のことで長篠周辺の豊川、宇連川沿いにそれが通っているとのこと。

この近くではその断層が露出している崖を見ることができるということですね(場所はこちら)。

 

説明板によれば「外帯の黒色片岩」の上に「内帯の花崗岩源圧砕岩」が覆いかぶさっている様子がハッキリと確認できるところが特筆的なところと。

ざっと見る限り「外」というものが「内」(下)にあって「内」と称されるものが外(上)にあることからかなり大昔に「尋常ではないこと」が起こったことだけはわかります。

それこそ「天と地がひっくり返る」ような状況だったのでしょうが私がアレを見た時、単純ですが「今後もこういう事が起こったりするの?」でした。

 

下図は昨日の私のスマホに入った避難を促すメール。そして帰り際にちょっと寄ってみた萩間川下(流)から上(流)です。

左奥が相良庁舎。

 

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2017年

6月

21日

有楽町駅前 南町奉行所 石垣・穴蔵・大岡越前墨書 

先日はまさに久し振りのおのぼりさん。

バスに新幹線と乗り継いで、山手線と地下鉄にて赤坂へ。

先方からは宿泊の件も打診されましたが、そちらはお断りして新幹線の最終で帰宅した次第です。

助かったのは静鉄の高速バスが結構遅い時間まで運行していて、ヘロヘロになりながらもその日のうちに帰宅できたことはありがたいことでした。

 

何をそう疲れたか・・・といえば「甘っちょろい事」と一笑されましょうが、「人の波」を久々に体感したことに尽きます。

日ごろ「半径数キロ以内に人皆無」という場所、聞こえる音は「木々の間を吹き抜ける風と小鳥の声」という環境を好んで歩く趣向が増したこともあるでしょう。

 

東京駅-赤坂往復のルートは選択肢は多くあるものの案外面倒なコースです。

先方の指示はおそらくタクシーの利用だったのでしょうが、行きがけは「ちょっと寄り道」ということで山手線で有楽町まで戻りましたがそのあたりのことはすべて想定内のこと。

 

私が世の「サラリーマンは辛い」とあらためて思ったこと、そしてこの状況が他者のイライラを増長させるのだと感じたのが帰りの終電新幹線の中。

その時間帯は一日の仕事が終わって私以上にヘロヘロに疲れているであろうサラリーマン諸兄の帰路の姿でした。

ラッシュ時ではありませんからそれほどの混みあいは想定していませんでしたが(行きは3人掛け席に私一人)品川駅からはどかどかと車両はほとんど満席になっていました。

 

東京あたりの車両混雑については「慣れたもの」のつもりでいましたが、日ごろ他人様とのこのような接近遭遇の機会はありませんのでまさに度肝を抜かされてしまいました。

パーソナル・スペースという語を聞くようになってしばし、まさにあの空間を他人様と数センチの距離で共有することに思わず「ストレス」を感じてしまいました。

 

しかしあのシチュエーションは別格でしたね。

乗車客はまず缶ビールの袋を持ち込んでいて、席が確保でき次第どこかしこからそれを開くあの独特のガスが抜ける音を発していますが、あの時私の隣に座った方は、牛丼弁当を出して頬張りだしました。それがうまそうに喰らい尽すのです。

その発する匂いと絶妙な咀嚼音を聞いて「おお、この世界か・・・」と半ば一部人間の態様と小宇宙を実体験し感動させられたのでした。

 

「人の事なんか気にしていては何もできやしないよ。図々しく生きなくちゃ」の心意気が伝わってきました。

彼にとっては何よりも、ひと仕事が終わったあとの至上の時間と空間なのでしょうね。

もっとも私はお昼抜き夕食抜きの空腹状態(タイミングの問題でそうなりました)でしたからその腹立ちらしき感慨は「お腹減った!!」からきていたのでした。

 

画像は行きがけの有楽町駅前。

ほとんど駅前ド真ん前の「遺跡」です。いろいろ歴史的遺構を尋ねてきましたがこういう場所は滅多にありませんからね。

表記の如くこちらが南町奉行所址になります。

 

石垣遺構の真下の地下通路には「穴蔵」遺構のモニュメントが。看板の通りあの大岡越前の墨書木札が出ているとのこと。

車では行く気がおこらない場所でもあります。

 

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2017年

6月

20日

「一」か「弌」か 画数違うが 瀬名一秀供養塔

まさかあのように時間を割かれてオンエアされるとは思いもしていませんでしたのでブログにて事前に予告しませんでした。昨晩のTBS「好きか嫌いか・・・」です。

 

2週間ほど前に赤坂まで出向いて収録にお付き合いしていましたが、何とそのビデオ撮り時間は90分以上。

もう一つの別話題がやはりその程度とすると計180分にもなります。実際のオンエアーは60分番組ですからCM除けば45分ですね。

 

私がちょこっとおしゃべりをしたのはごく僅かでしたし、大幅に編集カットされることなどは当然ですので、もはや「心配はいらない」(目立って恥を晒さずに)と思っていました。

ということで「もしかするとテレビに映るかも・・・」程度のことですら人様には内緒にしていました。

数日前の総代会でも世話人会にその件について触れていませんでしたし。

またその手の件「出ます」といっておいて「出ない」ことは世間では頻繁に耳にすることですからね。それこそみっともない・・・。

 

しかし実際はお恥ずかしながらおもいっきり画面に現れてしまいました。

まぁ奥の墓道氏からは「かなりニヤけた顔」との御指摘を受けましたが、それを言っちゃあおしまい。

何分「それだけ」が取り柄ですからね。

 

とにかく「寺」ということを忖度いただいたのか、うまい具合に編集していただいたようです。

局ご担当の方にもありがとうと言いたいですね。

よくわかりませんがユーチューブでアップされるかも知れません。

 

芸能界のことはまったくもって知りませんが、昨日ニュースで知ったことは芸人対メディアの契約ではなくてその芸人の属する事務所とメディア間の契約というのが正解のようでした。

いわゆるその契約(信用)というものは商品(芸人)に対する責任の所在をハッキリする意味も含まれてのことでしょう。

当家のお方様からは、売れっ子芸人であっても独立したら「2年間は宙ぶらりん」と聞きました。

 

「へ~面白い・・・」と思わず叫んでから、それって「奉公構?」と聞き返してしまいました。

私は「塙団右衛門だよ」と言い放っておしまいにしましたが、おそらくお方様にはその意は汲まれていなかったかもしれません。

 

いまさらということで「奉公構」と「塙団右衛門」についてはこちらでは割愛。各ググっていただくとして・・・

塙団右衛門についてはブログでは芥川龍之介の「古千屋」という作品の中の言葉「定めし本望」から「一定」という語について記していました。

 

「一定」の「一」という文字は画数は一の通りいたってカンタン。私の名にも「一」が使用されていますがその名の読み方も(戸籍上の)あまり気に入らないもので、昨日紹介した友人の如くいっそのこと変えちまった方も面白いかも・・・などと思ったことも実はありました。

 

意図としては「面白いかも」程度で根拠も浅薄ですから、途中で大抵はどうでもよくなってしまいますが、一時はその「一」の漢字を「弌」にしたらどうだろう・・・などと思い付きがありました。勿論画数を気にする方にとってはかなりの違いになりそうですが、やはり「横棒1本」は実に実務的で記しやすい。

論外でした。「弌」などに変えたらまさに「どうかしている」と嘲笑を受けそうです。

 

さて、昨日記した瀬名一秀の「一秀」の本来の名のりは「弌秀」ですね。もはやその字はどう考えても使用されない時代です。

「99.9%無い」と言い切れるのではないでしょうか。

 

画像は昨日と同様光鏡院。本堂裏側を上った墓域になります。

晴れれば静岡市内の景色良好、見渡すことができますが、こちらにも瀬名一秀の供養塔があります。

以前冬場に撮影したものですが・・・。

勿論私はこちらの方が断然!! 古くてイイ味だしています。

ただし江戸時代に作られたものでしょう。

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2017年

6月

19日

瀬名一秀 今川→瀬名 今川「天下一苗字」 

呆れ果てて絶句した過去の思い出。

地元では親しくしてもらった友人が二人いましたがそのうちの一人が「見てもらった」結果、「名前が悪い」との指摘を受けたといわれ、悩んだ挙句改名したことがありました。

 

「見てもらった」のフレーズはブログでも何度か記していますが、占い呪術系の世界に詳しい人に・・・のこと。

当地では何かあると(まず大抵が不都合な事々)とか「見てもらったら?」とのアドバイスをする人が居て、結果「見てもらった」という人が結構いらっしゃるのです。

 

そのことを僧籍にある私に告げるという意味が当初はわかりませんでしたが、最近は「みんな悩んでいるんだ・・・」とか「結構弱いんだ・・・」程度に流しています。

要は「それ」と仏教を繋げた思考があるということで、唖然としたものでした。

 

「見てもらう」とはそれによって何らかの解決策を求めるというポジティブ思考のように思えますが、私にとっては「何それ・・・」ですね。

当たり前です。まず何より論理的ではないですよ。

中には「ご先祖様がお怒りになっている」と言われて慌てて回忌法要を執り行うこともあってまんざらその法縁を後押しするということからは「悪い」とは断言できませんが、そのきっかけはもうこれは自分本位以外何物でも無いですからね。

 

その非論理の最たるものが「改名しなさい」でした。

人は誰かが忌避すべきこと等を言い出すと何故か広まってそれに従おうとしますね。

大衆の心理とはそういうものですが(単純)、特に昔は「方角」とか最近でいえば名前の画数です。

おそらく彼はその名の字面と画数を指摘されたのでしょう。

 

幾らの「指導料」を支払ったのか不明ですが彼に披露されたその名は偶然にももう一人の友人が名のっている「秀」と私の「一」を合わせた「一秀」でした。

 

それを聞いた私たちは爆笑して半ば罵りに近いカタチで味噌クソに笑い倒したことがありました。

本人は当時必死でしたから今になってはそこまでバカにすることは無かったと思っていますが・・・その後彼はその名を元の名にに戻していました。

思うに、何て無駄なところに労力を使ったものかと。

結構に大変な作業があったと聞きますし。

 

見てもらおうがそうでなかろうが同じ、というかもっと悪い方向に向かってしまったようにも思えます。

真宗ではその手の似非ポジティブ思考を「自力作善」と言い放ち「雑行雑修自力のこころ」であって、これこそ「振り捨てる」べきものと伝えています(改悔文)。

 

まずまずみなさん「心が弱い」「不安である」と思われている方、発想の転換をしてほしいところです。

 

その助けとなるのは親鸞さんが記した「自然法爾」という語の力強いスタンス。是非にお薦めいたします。

どこかでも記しましたがそれは「刃の心」、強い心・・・「忍」の一字でもありましょう。

 

さて、大河ドラマは少々ダレぎみ。

最近はチャンネル合わせが面倒くさくなってしまいましたが、最後に駿府の梶原山が紹介されて気を取り直しました。

岡崎の瀬名の籠る寺を去る際に何気なく発せられた「数正!!」の台詞の如く「藤蔵!!」の台詞を待つ(まったくどうでもイイことでかつ勝手に・・・)私にはその視聴の継続は怠ることはできません。

 

ブログについて何を記そうかな・・・というのはだいたい前日の夜9時以降ですから、そのヒント<梶原>を戴いたという意味で頭の中がハッキリしてきたというところです。

 

その梶原山の駿府より西麓に位置する地が瀬名。

そちらの光鏡院もその番組の最後に紹介されていました。

その「光鏡院」(場所はこちら)とは瀬名一秀の戒名から。

 

本堂に掲げられた「丸に二つ引き両」の紋を見れば今川系であることにピンときますが、引っかかるのは曹洞宗であるというところ。

どうしても今川=臨済宗というイメージで固まってしまっていますので。

まぁ寺というものは浮沈を繰り返しながら仏法「継続」をただ一つ願うものですからどこかの時点で抜きんでて寺に尽くす僧などが出た場合、宗旨など関係なく、その変更がされることはよく見らます(こちらのお寺についての詳細は不明です)。

 

瀬名一秀の「瀬名」は地名からの名のりですが彼の屋敷のあった地の元の名が「西奈」でその呼び名が「瀬名」に変化したとも言われています。

 

そして彼の元の苗字は「今川」でした。遠江今川氏六代の今川貞延の次男です(兄は貞基)。

駿河今川氏五代当主今川範忠が足利義教から同族庶流の今川姓の使用を禁じるという恩賞、「天下一苗字」を与えたため遠江の今川系はその名を名のれなくなってしまいます。

 

ということで遠江今川系は「堀越」(兄は堀越貞基)を名のりました。弟の貞延は将軍義教もそうですが一族長子以外の弟たちの辿る道と同様当初は僧籍にあって海蔵寺に居たといいます。

 

遠江今川が手を焼いていた狩野氏や斯波氏を駿河から挟撃するために駿河今川と共同歩調をとっていた際、駿遠完全統一を目指した今川義忠が塩買坂で滅したために急遽一族の結束を固めるために還俗していた一秀(元の名は今川義秀)が「瀬名一秀」を名のって駿河に入り、義忠の子の氏親の補佐役に回ったといわれています。

 

そういうことから推察するに今川氏親派ということ(勿論それであったからこそ家名は残った)で駿河に下向した太田道灌との折衝やら伊勢宗瑞(北条早雲)との共同歩調が想えます。

 

画像五輪塔は五百回忌を記念して建てられた供養塔。

 

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2017年

6月

18日

野牛曲輪に牛渕橋 長篠城の堅固を橋上から眺む 

ある会社経営者が拙寺本堂に「密かに」掲示してある「朱印」を見て「これはイイ」と賽銭箱にお代の200円を入れる様子が目に入りました。

その方は最近になって朱印集めをするようになったそうですが、「本願寺は朱印を出していない筈なのに・・・」と返されてしまいました。

 

私は「町の要請」「町おこし協力の流れ」の件を説明して了解をいただきましたが続けざまに面白い事を仰っていました。

奥様から「どこへ行ったのか」問われるのでこの御朱印は堂々と「ここ」と主張できるアイテムとなるようです。

 

御朱印どころか免罪符にもなりうるということがわかりましたが、そこでこちらには日にちが記されていないので都合のイイ日にちを勝手に記せば、いよいよ有力なアリバイアイテムとなりますよと。

 

さて長篠城はもう何度も記していますが(前回はキモカワメシ)伊那街道沿いのトイレ休憩とそのついでの城内のブラつき散策を重ねていてもその要害性についてはあまりピンとくるものがありません。

 

寒狭川(豊川)宇連川が合流するV字の断崖と絶壁に囲まれた難攻不落の城と言われてきましたが、城側から見てその手の感じはあまり伝わってきません。

まぁ街道側(北側)からは現状何らの障害もなくあまりにもスンナリと駐車場に入れますから。

よって本日画像は牛渕橋の真ん中あたりから見た長篠城を。

こちらの橋(場所はこちら)はまさに上記2つの川が合流した地点に架けられていて城を南側から見ることができます。川というか断崖の渓流のイメージがハッキリと伝わってきます。

当時は城内を望むに樹木などの遮蔽物は無かったと思われますので両対岸と城内で怒鳴り声が飛び交っていた状況が分かります。画像④⑤ともに飯田線の豊川鉄橋が見えます

 

城の本丸の下、宇連川沿いに走る現在のJR飯田線の敷設によって破壊された野牛曲輪(「殿井」画像①②)の名に、牛渕という橋の名(③)と「牛」繋がりは興味が湧きますが、それよりも宇連川対岸の地名に注目。

坊貝津・舟津・中貝津・新井貝津・鍛冶屋貝津等々、よく見渡せば長篠城側にも点在しています。

この「津」の文字は「みなと」であって舟着き場の存在を示唆していますね。

またそれぞれに「貝」の文字が見えますが、「海産物」の陸揚げの物流拠点であったことが推察されます。

川の名が「豊川」というくらいですから豊川経由で渥美湾に出ることができます。⑥は橋から見た下流方面。新東名高速の橋脚が見えます。

 

橋を西に渡ってスグ、飯田線の踏切の名称が「篠原」。

語源は「長篠」の「篠」と同一でしょうね。踏切を渡って北方向が豊川でその向こう長篠城となりますが、その位置が鳥居強右衛門が磔に架けられた場所になります。

 

長篠城の面白さはこの踏切と橋から・・・

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2017年

6月

17日

真っ黄色の境内 昔母が言っていた語は

昨日記しました火災の件、あの先進国のイメージとして「大先輩」というイメージの英国ですらあのような様を呈したという驚きは半端のものではありません。

その「先輩」とは幕末から明治維新、そして日英同盟と「イギリスに倣え」の時代を通し、「帝国主義」というものを学んで自らの「侵略戦争の道」に舵を切って行ったという歴史の先達ということですが、私たち世代としては映画の007シリーズで垣間見れる「洗練されたスマートさと気品」です。

 

そのイメージが今回の件で完全に崩壊しましたね。

まぁEU離脱やら移民流入にストップをかけるなど対外的強行論の闊歩の反動では?と取られても不思議ではないテロの頻発の躰は結構お粗末の感。

 

そこで今回の件からしてあの国は「案外イイ加減かも・・・」と思い込むに至ったワケで・・・。

ところがやっぱりその国の「おかげさん?」である今の日本であっても結構に「信頼に値しない」モノはまたぞろありました。

 

まずは「想定外」という台詞、というかもはや耳慣れた言い訳の言葉で為されます。昨日もJR東海、新幹線の線路の脱線防止ガードが外れまくっていたことにその言葉を使用していました。外れたガードが通行した列車(時速250㎞オーバー)に接触したというものです。ボルトの緩みといいますが、そんなことは誰でも考えがつくことですよね。こういうのはボルトではなく「気の緩み」と昔から言い囃されたものでした。

 

フクシマの原発の件に、先日の被曝事故など当たり前のように「想定外」の語が聞こえてきましたし、先日の東名高速の中央線法面ジャンプ台事故もその言葉が行き交いました。

しかし余りにも鮮烈だったあの事故、素人の私が一見してもその絶妙なスロープは「飛んでも不思議ない」と思わせます。

 

当初は自家用車のスピードの出し過ぎが原因とメディアによっては「時速130㎞」などの数値まで出していましたが、新情報によればあの亡くなった医師の方はスピードはせいぜい90~100㎞程度しか出ていなかったといわれています。

結果的に多くのケガ人を出してしまったことから加害者というくくりになったことは事実ですが、あの方の名誉のためにも原因の探求は欠かせません。

 遺族の方たちは場合によっては道路公団や国土交通省の「管理不備」について指摘(訴え)してみるのも一手と思います。

 

また、今朝のニュースで驚いたのは欠陥エアバッグの大規模リコールでお騒がせのあの会社が来週にも民事再生法の適用を行うとの報がありました(現状会社は否定)。

「1兆円の負債」と言われてもピンときませんが私は日本の自動車業界の「内輪の独特なお約束」のような雰囲気で何とかあの会社を「守ってあげる」のだろうとてっきり思っていましたから・・・

 

特に私はあの会社の工場がある場所(彦根・愛知川・愛荘)をうろつくことが多いのでその文字は結構目に付きます。

近江の会社として同情しつつも案外とこの件もお粗末な品物であったということと、その対応策が全然なってなかったということは否めません。

 

昨日も記しましたが人間ですから、どこかしらおかしなことをきっとやらかすワケでして、「日本は大丈夫」「私は大丈夫」などいう軽口はもってのほかのことだと思います。

 

昨日の静岡は全国一暑かったとのニュース。

「ドピーでスカ晴れ」の青空でした。

ただし私の嫌いな風が吹きまくったうえ、消防車らしきサイレンも聞こえるなど心の安定には程遠い境内。

百合の開花がピークを迎えていますが、植物そのものの頭の重さで強い風が吹くと鉢が倒れまくってイライラがつのりました。

紐で縛ったり外したりで対応していますが、一昨日その紐を外したばかりでした。

 

何故か当家の百合は「黄色」ばかり。ハイビスカスたちも私が「黄色」を優遇(そもそも弱い品種です―赤は強い!!)するものですから今は繁盛の限りとなっています。

 

これは隠語で若い人はもはや使用しないと思いますが、私が何か黄色の選択を行うと母は黄色の「キ」と「気」をかけて「きじるし」と私を「やれやれ」という具合で罵りました。

私はむしろ「明るい」のイメージがその語にあると感じていましたので悪い気はしませんでしたが・・・

まぁそのようにして母からお前は「どこかしらオカシイ」と育てられたのでした。

真宗の教えは「違ってそれでイイ」ですからね。それでイイのです。

 

アメリカあたりでは黄色は弱虫の色との印象があるようですが(タランティーノの映画・・・)日没のオレンジ色や浄土の金色にも近い色で私の好みの色。決して気が強いワケでもありませんし日本人は「黄色人種」といわれるカテゴリーですし。

さすがにこの齢でこの色は着ませんが・・・。

また、黄色の袈裟に限っては「いいなぁ」(色彩的に)と思ったこともありましたが、この色は私のような小僧には着ることはできない色の筈です。

 

画像は黄色だらけの境内と8月15日のミニジャズコンサートのポスター(→HP)。布施氏の力作です。

本日の世話人会にてお披露目です。

 

 

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2017年

6月

16日

都合の悪い事は隠す コレ政の基本 天明の大火

ここ遠州相良では先日の梅雨入り宣言以来、まったくといっていいほど雨がありません。

私はこの時期になると6月下旬、梅雨明けしたばかりの沖縄のべた凪の海とドピー感の太陽が恋しくなりますが、今の相良の空はそれに近いモノがあります。

ということで本日は自前で内装工事に着手。

冬場ハイビスカスを置く2階の八畳間をフローリングにしようというものです。

 

畳を廃棄したことは少々心残りではありましたが、衛生面と掃除などの管理を考えれば選択肢は一つ。畳屋さんには申し訳ありませんが8枚の畳たちは処分場へ。

処理費は1300円(10㎏50円)。だいたい30㎏/1畳計算です。

2階の屋根から境内に放り投げましたが疲れたと感じたのはその重さでした。これを業者さんに依頼したとしたらこの価格では収まりませんからね。天気がイイので仕事がはかどります。

あと三部屋を板張りにする予定ですが材料費のみで3万円程度のやっつけ仕事です。

 

さて、それにしてもイギリスの高層住居ビルの火災は驚きと恐怖そして地獄を思いました。

「火が出ても安心だから部屋に居ろ」などという「そのとき」のマニュアルがあったようですが、とんだデタラメだったようで。

脅威には視覚的なものもありましたが私の一番に思ったのが「あの先進国のイギリスで?」でした。

人命尊重のポリシーはこういった市民の住環境においても隈なく配慮されているものだとてっきり思っていました。

日本では消防法上の規制が建築物に網をかけていますので「大丈夫です」とは聞こえてきますが、やはり今回の画像を見る限りでは高層建築物の逃げ場の無さというものを大いに感じてしまいます。

 

よく本堂の上や木の上に登っている私に対して、「よく怖くないね」と奇人の如くの問いかけがありますが、私からすればあのような高層ビルに住まう方がよほど奇怪に思うところ大ですね。私には身を確保するロープでバッチリ繋がっていますので。

ちなみに愚息の下宿部屋は3階ですが、念のため15m程度のロープを置かせています。

 

京都の火災といえば歴史上それはそれは半端ない規模で延焼した、天明の大火があります。

四条宮川から出火した火災は強風に煽られて何せ御所から二条城、東西本願寺も被災したといいます。

「京都市中1967町のうち焼失した町は1424町」とウィキにありますが、200以上のお寺が焼けたそう。

田沼を追いやった松平定信が事後処理に頭を痛めた大事件でしたが、まさにもう一つの案件「天明の大飢饉」の真っただ中の災禍でしたからね。

 

財政逼迫の中で御所の豪勢な建て直しの件で揉めたことは「そりゃ当然でしょ」とは思いますが、このあり得ないような無茶苦茶な火事で「焼死者150人」の公表数字は誰も信じなかったようです。どちらの時代も被害や損害は少な目控えめに公表する

というのがならいなのでしょうかね。

 

尚、NHKの夜10時は「空き家の活用」(再生)の件を伝えていましたが、この京都の大火の原因は空き家への放火だったそう。

「空き家」は放置できませんね。

 

先日の総代会では火災保険(年間50万円強)についてのチェックが入りましたが、あらためて「火災へのケアは念入りに」と管理者としての「心配」はいりました。

としても「火用心」(ブログ本多作左衛門重次)については十二分にケアしているつもりですが、こればっかりは100%大丈夫とは言えませんから。

外周の「木をあまり切らない方がイイ」という意見もありました。

 

画像は御所の東側、寺町通の清浄華院(場所はこちら)。

こちらには天明の大火で焼死したと伝わるその「150人」を弔う五輪塔があります。

まともな戸籍など無い時代、おそらくその150の数字とは戸主家主の数字であって家族や丁稚奉公人・使用人は含まれていないような気がします。

 

最後の画像は「安政五午六月四日午の刻」とあります。

「京都大火極本しらべ」なる瓦版から。安政の京都の火災についてで時折オークションに出品されています。

東本願寺の離れ、枳殻邸(渉成園)まで類焼したといいます。

 

人類は「火」のコントロールにより恩恵を戴いて発展しましたが忘れたころにその「火」というものによって痛い目にあってきたという歴史があることを忘れてはいけませんね。

尻に火が付く前に「火用心」。

さぁパトロールにいってきましょう。

 

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2017年

6月

15日

物集女クヅ子 物集女城 百舌鳥が語源 ?

気軽にライブ映像が撮影できて一瞬のうちにその映像が世界中に配信される時代。

便利といえば便利ですが、そういった映像先行の感覚を皆が持つことは往々にしてまた結果的に扇動利用されることがありますので受け手としては注意が必要です。政治なども「劇場型」と呼ばれるようになって久しいものがありますが、「悪代官」も台詞と演出次第では大衆を操作できるようです。

 

本年の流行語大賞候補NO.1は「忖度」で間違いないところですが2番目の候補として「印象操作」が俄然追いかけています。

これこそそれを発するご当人がシナリオを描いてその通りに「劇」を進めているように感じますが根底にある方針としてあるそれ(操作)がつい口から出てしまったのでしょう。

しかし誰もが想う見え見えのインチキをお仲間総出でたすける構図は「お涙頂だい」ではありますが、どなたかも仰っていましたがもはや「忖度とは(度を越えて)損得」であると。

お役人さんも御身大切。国民のためには動けません。

 

さて、昨日は長岡京市の開田城を記しました。

鎌倉期あたりからの土豪の成長と繁栄の址を見た思いでしたがこちらの近隣で少々京都寄りの街道筋となりますが、室町初期からその名を知らしめていた氏族がありました。

 

地名としても残っていますし、その街道の名としても今も知られています。それが物集女荘の物集女(もずめ)氏です。

古くからは「乙訓郡」でしたが現在は向日市になっています。

 

街道名としては西国街道から分岐する「物集女街道」という名称がありますが、勿論こちらには物集女氏の城館物集女城の址が今も残ります(場所はこちら)。

堀跡や土塁も残存しているようですが現状私有地(畑)となって標識と看板を見て満足するだけでした。

たまたまどなたかが居られたら事前許可も得られるというものですが・・・。

城址図面を拝見するに、やはりお決まりの国人領主系の館の如くですね。

 

物集女の語源は「百舌鳥」(もず)説が有力だそうです。その名を聞くと私は仁徳天皇陵の「百舌鳥耳原中陵」を思い出します。室町初期に土豪領主として頭角を現した物集女氏ですが、古来からこの地は物集女と称していますので「物集女住」からの名のりからであることが想像できます。

 

物集女の名が残るのは細川藤孝が勝竜寺に入ったころまで。

物集女忠重入道宗入という人は信長への服従を良しとしなかったようで天正三年(1575)に勝龍寺城で殺されたといいます。

ということで、近隣に「物集女さん」の名は見つかりません。

 

 

前に記した三氏(久貝・神足・中小路)の名が残っていることは一族すべてとは断言できませんが、それなりに織田―細川に従ったグループだったのかも知れません。

 

それにしてもこの「物集女」読みは面白いですね。

不思議なのは物集女にはいくつかのそれを冠とした地名が多くあること。そして物集女城の北東の「物集女クヅ子」という地名には一瞬の可笑しさを覚えてしまいました。

字面だけを見れば「物を集めゴミ(クズ)とする女性」を思いますから。

ちなみに「クヅ子」は「クヅネ」読みのようです。

詳細不明です。

 

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2017年

6月

14日

古の名を推す「開田」 開田城は中小路さん

寺にいて「聞き流してほしいが敢えて聞いちゃいます・・・」という「ぶっちやけ話的」機会にお付き合いすることがあります。

ここのところのその手の3題をあげますと・・・

 

①「親族が医師に余命告知されたが葬儀費用を心配している」

②「幽霊を見る、人に見てもらったら先祖に恨まれていると

③「双極性障害ですが話を聞いて」 です。

ちょっと前までは「死にたいんです・・・」という「内わけ話」もありましたが、そちらの方は今のところ何とかとどまっていただくという「おかげさま」を得ています。もう心配はないでしょう。

 

三者三様どちらさまの談も切迫の感あります。

まぁこの手の内容はまず、守秘義務のある坊さんへの問いかけですので、こちらとしてもいい加減な態度で「対峙」することはできませんね。

ここは坊さんとしての仕事の気概というものの発し処でもありましょう。

 

①は一般的にはあり得ないとても気の毒で辛いシチュエーション、すべてがどうにもならないことばかりでお手上げのレベル。

どうにもならないことはまるで「仕方ない」ことですから私は「できるところだけで」と了解し、葬儀社をできるだけ使用しない、本堂使用の「手作り葬儀」を勧めました。

 

世話人会と婦人部に声掛けして協力者を集める旨伝え、先日の総代会にてその件の了承を得ました。

私はそれよりも余命数週間と告知された方が病床で「さわやかのげんこつハンバーグが食べたい」との言葉を聞きましたので、病院に一番近いその店(病院はかなり遠方)を目標、容器に詰めて持参し一口でも食していただく事が第一義に考えるべきと伝えて別れました。

 

②の件はごく普通に耳にすることで、そのうちの半分は「奇をてらったことを言って注目を集める」もので、過去にはよくありましたがこのタイプには閉口させられます。

「私って霊感が強い方じゃぁないですか・・・」の人ですね。

ハッキリ言って顔では笑って腹の中では「やれやれ」の「知らねぇよ・・・」です。

 

で、残りの半数、坊主としての私に真顔でそれを言ってくる方はよもやいわゆる「ヨタ話」の域は超えていて結構に深刻の域に。そういう場合は・・こちらでは詳細は割愛しますが、「人間界無常合理」を仏教理念を本筋として持論を展開、ただそういう考えの事を「邪道」と一蹴させていただきます。

また、「見てもらう」というのは当地でよく言う昔ながらの呪占系の生業の人がいるということですが、大抵、その手の悩みを誰かに示すとお節介にもそういう人の介在を招いては話がこんがらがってより一層の呪縛を招いています。

 

そういう人たちの占いの結論としてまずポジティブ解説の例を知りませんし。

最後に私が告げた言葉は「その幽霊が出て来られたら是非私にも紹介して」そして「何が言いたいか耳を傾けてあげて・・・」です。

 

③は困惑しますね。その方は檀家さんではないのですがここのところ何度も私を尋ねてやってきます。

当家のお方さまが爆笑するのは、その方が私の事を「オレと同じだから話しやすい」と喋り続けているところ。

 

「双極性障害」であると自ら発し人間関係と家族関係で悩んでいるよう。

こればっかりは周囲がその理解をしてあげることが肝心で、どう治していくかではないですからね。周囲の理解力が増せば感情の振幅も抑えられるのですが。

ただただこの件ばかりは私は聞き役に徹しています。

 

さて、勝竜寺城周辺の城、久貝城神足城を記してきました。

続きまして本日は開田城。

上記神足城のところで記したカラーの乙訓郡の中世城館図でも画像①の図にもその開田(かいでん)という城の名称が記されています。

城は国人領主城砦のパターン100m×100mに近い70m×70mのエリアに土塁と堀で固めたものと発掘調査によりその規模が判明しているよう。まぁ城というか館の類でしょうが・・・

 

しかし「開田」とは古の名、領主開発新田を思わせる地名です。

地頭職かそれに準ずる土豪が台頭して新田開発を進め力をつけて行った歴史です。

現在のこの地は長岡京市の中心地にあたり、マンションや大型建造物の隙間にその遺構を「何とか残そう」という意思が強く見せられる場所(繁華街の中心地 場所はこちら)になりますが、まぁ何とか残存遺構があることだけでもヨシですね。

 

「開田」はさすがに当時新しく拓かれた土地のようで、こちらの居館の主の名は中小路氏。

こちらの「中小路」の名跡は神足神社の神足氏と同様、この地には確りと残っていることにまた驚きがありました。

 

近隣にツツジで著名な長岡天満宮がありますがそちらの宮司さんのお名前が中小路氏。

電話帳によれば周辺にもこの姓は6~7件ほどありますね。

中世より戦乱の中心となった地域にあって歴史から完全に姿を消したとしても不思議はないところ、その土豪、地頭クラスの旧領主の名もしくは血脈が引き継がれていることを想像することは楽しいことです。

勝手な想像ですが久貝、神足、中小路いずれも地元の名家でしょうね。

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2017年

6月

13日

此方でも歴史を思う 神足の神足さん 勝竜寺城

先日は拙寺の境内水道管からの漏れについて記しました。

何とか皆様のご配慮によって「拙寺には責任がない」ということに収まったようです。

ただそれは今のところ請求書が上がってこないというところでの判断ですから、ハッキリとは断言できませんが、工事完了から2週間を経ようとしている今の段階で、それを突きつけられていませんので、まず「おかげさま」の手打ちとなったと見ています。

 

そんな中、1年に一度のガスの検診があって、「漏れあり」との御指摘。係の人が持参したセンサーがかん高い音で発報していました。

「そう心配することはないがバルブを替えます」ということで対応済みですが・・・。

道理でプロパン臭がするとは思っていましたがこれまで何事もなくて安堵しました。

 

それにしても浅はかでした。あのガスにはわかりやすいよう「匂い」をつけているのにもかかわらず、「ちょっと匂うな」程度の感覚で放ったらかしにしてしまう自分をたすけて下さった「何か」に感謝した次第です。

まったく命拾いした思いです。

 

さて、先日は勝竜寺城界隈を歩いての感動(久貝城の久貝さん)について記しましたがまずは①の地図を見ていただきます。

勝竜寺のスグ南側に「久貝城」の名、北側に「神足(こうたり)城」の名がみえます。

 

この「神足」は②画像の信号機の掲示板(東神足)の通り、地名にもなっていますが元は信長侵攻以前の在地領主?「神足氏」の城があったということです。

 

ちなみに②のコンビニが勝竜寺城の堀の鯉に餌をと買いに走ったお店になりますが、このまさに裏側が「神足神社」(場所はこちら)。

そちらには勝竜寺城の外郭ともいえる遺構が調査の上公園化されて紹介されています。細川時代に勝竜寺城拡幅の際、吸収されていったことと思われます。

 

私の感動は勿論近隣に「神足」さんの表札があったこと。

戦乱の歴史を通してきた地だけにその歴史から消えずに名跡を残している奇特に思わず足を止めてしまいました。

 

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2017年

6月

12日

金ヶ崎 信長逃亡の論拠 尊良親王の件アリ

あのあまりにもショッキングな画像(東名高速新城SA付近の事故)の追加報道は各テレビ局は続けて流されていますね。

原因を考察するには、何故にしてあの乗用車が飛行機のように「離陸」したかということにつきます。

中央分離帯の構造の問題は確実で対策について早急に着手していただきたいところではありますが、何故ノーブレーキでハンドルを急激に右に切ったかというところが疑問です。

 

丁度あの辺りは新城SAから出た車両が左側から合流する緩やかな右カーブです。

結構スピード高めでも進入できるカーブで、もし左側から強引に車線に入って来ようとした車があったとしたら・・・なんてことを考えてしまいます。

高速道路の使用が頻繁で、それを欠かす事はまずありえない私ですが、走行車線と追い越し車線では後者がいかにリスキーかがわかりました。今後できるだけ走行車線を走るよう心掛けたいと思います。

 

そもそも法令上は追い越し車線の利用は追い越し時のみですしね。車線走行違反で切符を切られます。

そのことにより最近「流行り」の逆走事案にも対応可能ですし。

ただし事故の遭遇はすべてタイミング、人はひとえに「運」といいますが、そればっかりは避けようにも避けられないということも往々にあります。

とにかく「安全第一」は肝に命じなくては。

 

さて、先日はたまたま見た番組から思い出したように信長の脱兎の如くの逃走劇―「金ヶ崎の退き口」を思い出しました。

まぁ信長のひらめき」「九死に一生の逃避行」との感覚で後世伝えられている事件でした。

これは信長の判断力のすばらしさ(力量)と思われがちですが、あの判断~折角奪った城を捨てて逃走~には「前例の存在とその同じ轍」が頭をよぎったからに違いありません。

 

要は①城にこだわって籠城し、朝倉・浅井軍の包囲に耐えるのかそれとも②陣払いしてとにかく逃げるかの選択だと思いますが、結果的に②を選択したことがこの「金ヶ崎」のポイントとなります。過去にこの城で①を選択して滅した者たちが居たのでした。そういう彼なりの歴史的評価があっての成功譚となったのです。

①を即断して「尻尾を巻いて逃げた」などのありうる世間の評価などは無視してひたすら「安全第一」にハンドルを切ったのが信長でした。

私は信長憎しでずっと通していますが彼の歴史を知って自分の生を得たというこの判断には一本取られた感があります。

 

その信長が金ヶ崎の籠城に勝ち目がないとの判断は①兵糧の搬入の難しさ②それにより陥落した歴史を城が抱えているというところです。

話は飛びますが、経営者が事業を始めたり拡大する場合、新天地を事業用に求めることになりますが、倒産したり銀行に差し押さえされたりした場所は「縁起でもない!!」と敬遠すると聞きます。それと同様に信長も前例と同じ轍は踏みたくなかったのでしょうね。

 

②の陥落した歴史とは、前例としてはあまりにも有名な事案でした。それが新田義貞の長子新田義顕と後醍醐天皇の子尊良親王の籠城戦です。金ヶ崎は断崖絶壁に立つ難攻不落ともいえる城でしたが、それだけに兵糧攻めには弱いという弱点があります。

人数を揃えた籠城戦となれば、兵糧の欠乏に至る事は必定。

信長としては前線が伸びきったこの地での籠城は兵糧入れなどは期待できず城にこだわることは死を意味することが分かっていたのでした。

歴史のお勉強はいつの時代でも大切ですね。

 

尚、この金ヶ崎の戦いは南北朝動乱期の前哨戦ともいえる戦いでしたが尊良親王については各お調べいただければと思います。あの井伊谷の宗良親王(またはこちら)の同腹の兄です。

なお、彼らの「良」の字の読み方は未だ2説あって「よし・なが」両立併記になっています。

 

最後の画像は秋葉神社のお札。

先日ブログで記しましたように「火防守護」の文字があります。当家にも町内会からの配布がありました。

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2017年

6月

11日

山中長俊の卵塔 方広寺の北 東山五条 慈芳院再訪

ドライブレコーダーは付けておくべきですね。

昨日の東名高速新城SA近くで起こった観光バスに自家用車が空を舞うように衝突した動画を見せつけられてそう思いました。

別に特ダネを撮ろうという魂胆ではありません。

今回の件は逆車線の車が飛び込んできた事故で過失割合としては0-100%に近いことは想像できますが、通常の事故での状況や原因などなかなかつかみきれないものがあります。

要は当事者と目撃者の「やった-やらない」の論争などそういった画像によって一蹴できますからね。

 

そういう意味からして、FBIのコミー前長官が大統領に呼ばれて会食した際の会話を「メモに残した」のではなくボイスレコーダーに残していれば・・・と思うばかりです。

しかし彼ほどの人がなぜそこのところを思い浮かばなかったのか、不思議でなりません。

ひょっとしてコミ―さんのテクニック、散々「そんなこと言ってない」などと大統領に言わせておいてから「録音テープあり〼」などと後出ししてくれるかも知れません。

今後の展開を期待しています。

まぁそうなればアメリカは政治も経済も一旦は大荒れになるでしょうが・・・。しかし共和党から副大統領が昇格するだけのことですから、スグにも沈静化することは必定。

早いところあの大統領様にもお引き取り戴いた方が「世界のため」になるでしょうよ。

 

事故の件に戻りますが、バス遠足を企画して引率する機会がありますので、嫌な事故を見たという思いでいっぱいです。

それにしても道路会社は中央分離帯のあのスロープについて再検討する必要があるでしょうね。せめて同方向の車線に弾き返すような力学構造にしなければダメでしょう。

 

さて、先般方広寺界隈をブラついた際、東大路通を馬町交差点から東山五条を通りかかった際、ちょいとあの石仏にお会いしたくなってぶらっと立ち寄ったのが慈芳院でした(こちら)。

 

この辺りは邪魔な車など打ち捨ててまさに「歩くエリア」で、このお寺の近くは何度も通過しますが、あまりにもお気軽しすぎてパスしがちになります。

ということで本日は画像を少々大目にアップ。

 

というのもこちらのお寺は前回記したように山中山城守長俊の屋敷址で長俊が奥さんの菩提を弔うために建てたお寺でした。

その奥さんの法名が「慈芳院」ですね。

よって敷地としては最初から寺院として確保、設立されたものではないということで、いたってこじんまりしたお寺に思えます。山門をちょいと潜れば目の前に本堂があって、その左には覆堂(ふくどう)内から石仏薬師がこちらを呼んでいます。

 

こちらにも山中長俊の墓があります。

卵塔タイプの石塔ですから一見したところ武将のものとは思えません。しかしおそらく彼は屋敷を寺に改めたあと自身も僧となって妻を弔ったのでしょう。すると晩年は剃髪して寺に入ったと考えるのが常道。

亡き妻のために寺を建て入道・入堂とは何という妻思いの人。

 

山中長俊の卵塔に彫られた文字。

確かに没年の慶長十二年と法名の「紹春」が読めます。

卵塔とは無縫塔とも言いますが禅僧はまずこのタイプ。

こちらの「卵」が載る請花は竿部分と一体化した石材で装飾もごくシンプル。

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2017年

6月

10日

異説異論主張の特異 信長はずっとイイ人 ?

世の論議に「主説」というものがあれば傍流ともいえる「異説」というものが存在します。

歴史世界においてその手の「各説」が出てくることは珍しいことではありませんね。

そして面白いのは新たな説まで時折登場したりします。

 

「新説」の提唱というものはしばしば人の目を惹くことが多いですから、ちょっとした目立ちたがり屋さんや発言の機会を得るために手を挙げることも多くて、まずは「話半分」であるというスタンス。その程度のものと聞き流しておくところがベストでしょう。いわゆる「奇をてらう」行為ですね。

要は「違ったこと」は一瞬であったとしてもとりあえずは人の注意を集め、結果「自分自身」を主張できるワケです。

テレビを見ていても芸人さんたちが他者とは違う「変わったこと」を語ればそれは「注目」、カメラはその人を映します。

一つのテクニックというかそれを「破れかぶれの異説」と受けられます。

 

よって「異説」と呼ばれる「新説」に関しては私は最初から「眉に唾する」感じで受けることにしています。

ただし新資料の発見などの論拠が伴う場合は別ですよ。

 

さて、最近の信長に関するニュースでその「異説」というものの紹介がありました。

それが「信長の『野望』全国統一、目指していなかった?」

でした。色々とワケわからん解釈がされていましたがオイ、「あの天下布武のハンコ」は何だ・・・と言いたくなります。

 

解釈としては「武は武力に非ず」の意味するところはわかりますが、「天下を(武でもって)平らかにする」は平定・・・統一に決まっています。

説として

①信長自らの為ではなく「室町幕府のために」戦働きをした

といいますがそれを信じるワケにはいきません。戦国大名というものの旗印はその「大号令」をすること意義があったはず。

②「楽市楽座は信長が始めたものではない」と記されていましたがその件はとっくに知られていることです。六角氏による観音寺城下が初見です。

③信長の比叡山焼き討ちはいわゆる「演出」であって建築物を焼いただけ(人命は尊重している・・・?)。

「信長イイ人説」ですね。

しかし長島一向一揆(またはこちら)や岩村城の秋山虎繁とおつやの騙し討ちに城兵皆殺し等々、数えれば数多。信長の傍若無人と躊躇ない抹殺の歴史(仏敵信長)を教えられてきた私には到底その話は信じられませんね。

 

昨晩の歴史秘話はてっきり忘れていました。

終了5分前に慌ててチャンネルを合わせましたが、ちょうど金ヶ崎城からの退却(金ケ崎の退き口)の場面でした。

画像は2012年とかなり前のものですが、ついこの間の事のように思い浮かびます。

しかしあの辺りに一旦足を踏み入れると、集中力が欠落します。

「あそこも行きたい、ここも行きたい・・・」

 

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2017年

6月

09日

「忍」の字 田中藩士等の墓碑いろいろ 大慶寺

最近「忍」という名の方に続けざまに2度遭遇しました。

その名の読みは「しのぶ」ですが、イメージとしてはどうしても「耐」という字と合体して「忍耐」とか「耐え忍ぶ」というところ。

ということで「少々ネガティブ・・・」な感じもしないでもないでもない語です。

 

仏典から紐解けば(やはり正信偈からですが)

「 与韋提等獲三忍   即証法性之常楽 」に。

「観無量寿経」でお馴染みの韋提希婦人が譬えとして出てきます(→東本願寺)。

ちなみに一昔前は故人が女性だとこの韋提希婦人のストーリーにちなんで門徒寺では「無量寿経」を拝読したと聞きます。

 

その「三忍」とは「喜忍」・「悟忍」・「信忍」のこと。

だいたい訳を見て雰囲気的には「強い心」のことを記しています。字をよく見てみると・・・「刃物のようにキレのいい心」ですからね。「奴・如・己」+「心」について記してきましたが「刃」+「心」もなるほどとその深い意味を知ることになります。

 

さて、先日知った言葉に「三悪行」という語があります。

「三毒」といえば煩悩の貪欲・瞋恚・愚痴でした。

どうやらその語は仏典からではないようで、まぁ上記煩悩のうちではあります。

それは特に「定年男性」が陥りやすく、それらにハマれば折角のリタイア後の資金、老後の資金が消失し、よって妻や子との仲も険悪になって一人寂しく終末を迎える事になるようです。

 

それは

①暇につき日々の晩酌が昼間からスタート。

 深酒となってアルコール依存症となる。

②暇につきギャンブル依存症となる。

③飲み屋の娘に年甲斐もなく入れ込んで依存する。

 

それが「三悪行」とのこと。みんなやはり煩悩でした。

しかし定年退職後にそれらへの願望が「開花」するようで、最初から退職後の資金が豊富であれば、つい手を出したくなることはあるでしょうね。

ところが人間というものは常習性、依存性がありますので、やはり逃れられない「私の心」との闘いになるのでしょうが、大抵のリタイア世代の方々はドハマリになって身動きがつかなくなるといいます。

 

それらの人々はかつていた会社ではある程度の地位が約束された「エライ人」の割合が多いそう。

会社を辞めたあとにそういった地位を約束された仕事はありませんから、家でブラブラしているほかはないようです。

今更「時給800円のパートになどに出られるか」というプライドもありましょう。

 

ということで、そのような「悪行」の世界に身を落とすことのないようにするためには

まず①プライドを捨てて

②何かすることだそうです。趣味を持って違う世界に飛び込むのが一番ですね。

 

大慶寺(上記「心」リンク先とこちら)の墓域には藤枝田中藩関係者の墓が並んでいます。

画像②→⑤はコの字側の墓域の開口部右側から。

メジャーどころでは④が太田摂津守資直とあります。

本多家のお墓は蓮生寺にどうぞ。

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2017年

6月

08日

南蛮の嗜好品→受動喫煙病原 拙寺の壇特ダンドク 

受動喫煙の因果で年間に15000人が亡くなっているデータは去年の今頃、厚労省から発せられました(職場で男性3680人、女性4110人。家庭で男性840人、女性6320人)。

 

その現実的数値が顕わになってから丁度1年を経過した今、あらためてその驚異的数字を思うにその数の人たちがこの世から消えていること(肺がん、心筋梗塞、脳卒中)を思うと「いったい政府は何をやっているのだろう?!」という疑念が湧きおこります。

 

人口減少と医療費の負担増が国の課題であることはわかってながら小さくていかにも説得力のない理由をこじつけて「室内全面禁煙」を「決められない」理由とはいったい何なのでしょう?

 

受動喫煙を規制できないことにしろ国民を統制しようとする法案を強行することにしろそれらはまさに後進国の象徴ですからね。いやまっとうな先進国としての格式?(そんなものがあるかどうかは知りませんが)を標榜しないというのなら別に構いませんがねぇ。

これではいつまで経っても2、3流の国というレッテルを外すことはできないでしょう(経済一流、国民二流、政治三流)。

 

医療費については先月の厚労省の報告書から「喫煙で医療費1兆4900億円」の新聞記事の見出しが躍っていました。

もはや直接喫煙による患者数は100万人超え。

それらの人たちが入院等で働けないことによる「喫煙による生産性の損失額」は約2500億円。凄いに尽きます。

そして休憩時間を除く勤務時間中に、たばこを吸うために「席をたつ」ことによる損失額を5496億円と試算していました。

 

以前、会社同僚が仕事中に「さぁ一服しましょう・・・」などと言いながら居なくなることを嫌というほど見せつけられましたが、考えてみればその行為は職場放棄と同等ですね。

そんなとき喫煙習慣のない私が仕事を続けるなどしていれば逆に私のことを「煙たがった」ものでした。

 

以上喫煙に関する天文学的数字を羅列しましたが、いずれも歴としたお国の研究機関によるまっとうなものです。

 

たばこの葉の流入は南蛮船からというのが主説ですね。

慶長期ということですが江戸幕府は全面的禁制をとっていたといいます。

その理由は何にしろ、余程現在よりもまともに感じます。

結果的に健康被害はなかったのですから。

 

幕府弱体化とともに禁制はナシ崩しとなって庶民に広がり、いわゆる「嗜好品」としての地位を獲得したのではあります。

それが「疾病を惹起する」と確信を得たのは戦後になってからで、当時は今のように「受動喫煙被害」などの知識は殆どありませんでした。どこでもかしこでもプカプカやってましたね。

 

現在であっても「健康被害については根拠レス」を詠っているお頭の中身を疑ってしまうようなエライ人が跋扈する永田町ですから、国民はかわいそう。

ご自身が癌や誘引された何かしらの病でもって、床に繋がれて初めてそのことがわかるのでしょうから始末に負えません。

 

まあ、戦場での唯一の嗜みということで国がたばこ産業を育成したこともあって戦後以降の男子はタバコを吸うのは当たり前という風潮が出来上がってしまったのですが、その各疾病との因果関係とメカニズムが判明した今こそ、御英断をいただきたいものです。

 

さて、先日の水道管破裂の際の画像を見ていただきたいのですが赤い花がちらほらと写っています。

この花の名が標記の「壇特」(ダンドク)です。

人は「カンナ」と呼ぶのですが、その辺で見るカンナとは小振りです。実はこの「壇特」(ダンドク)はそれらカンナの原種といいます。

 

この花もタバコが南蛮船で日本にやってきたより少々後の頃(江戸初期)、同じく渡来したものです。

「壇特」とは釈迦修行の山(壇特山)の名からのもののようですが、そもそも熱帯地方をフィールドに広がった植物とのこと。

こちら相良が「暖地である」の一つの表れですね。

 

私の気づいた時にはこの花はこの時期になると花をつけていて、

いつからここに、なぜここにあるのかは知りません。

この場所はそう陽当りのイイ場所とは言えませんが彼らにとって居心地がいいのか、ハッとするようなあの赤とオレンジ色の可憐な姿を見せてくれます。

それとは対照的にタバコは肺と人の将来を真っ黒にします。

 

実生もチャレンジできそうですから、種が収穫できたらもっと陽の当たる場所に撒いてみようかと・・・同じような深い緑色の葉でハランが境内あちこちにありますが、こちらの「壇特」の赤い花はずっと楽しむことができそうです。

 

 

 

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2017年

6月

07日

相良御荒神社の石鳥居 桜宮神社 元の場所は 

梅雨入り前の大事な晴れ間(明日は雨予想)、境内でハイビスカスのチェック。そろそろヨトウムシを警戒しなくてはなりません。

彼らの好きがままを許せば株はボロボロになりますからね。

なおこのヨトウとは「与党」ではなく「夜盗」と書くようです。

 

彼らの幼虫の存在は一見してスグにわかります。

ハイビスカスの場合は葉を筒状に丸めてその中に潜んでいますのでそれを見つけることで葉ごと除去します。今の時期は緑色の生まれたての連中です。

この日は10匹程度の個体を見つけて「お引き取り」いただきましたが、彼らは1匹の蛾から最低1000近くの卵を産むという繁殖力の強さを誇っていますのでこれから以降の対策をしなくてはなりません。

よってすべての葉の裏側(卵がある)を確認しきれませんので対策用に用意している薬剤を散布しました。

 

しかし忘れたころに現われますので日ごろのチェックは怠れません。これからはアブラムシの出現も警戒事項になります。

 

のんびり境内をふらついているとお墓参りの檀家さんと久し振りの対面そして立ち話。

親鸞さんの銅像を見上げて、つくづくと「この人のお寺で良かった」と仰ってくださいました。

お調子者の私はリップサービス半分の社交辞令(失礼!)とは思いつつも舞い上がって開祖のすばらしさの一部を・・・

 

すると先般その方が参列したという葬儀の話に。そこで導師たるお坊さんが恫喝風剣幕で施主に怒鳴りつけていたというエピソード。理由は不明ながら会場は凍り付いてドン引きしたとのこと。

これは私も時々耳にする事例で、私は「ふ~ん」とは聞き流していますが坊さんはやはりそんなに「エライ人」なのか?とも思うところでもあります。

 

よく会社経営者や役員そしてやはり「エライ人」がやらかす・・・社会的成功者の部類の人たちがその配下の者たちへの「目下」感覚の接し方というヤツです。

 

そもそも坊さんを「エライ」と思われる宗教観念は今やナシと思われる中、何故にして・・・と感じられるでしょうが、相手の心中に「葬式」という個人として家として「滅多に無いイベント」を何しろとにかく無事に通過したいという気持ちがあるからなのでしょう。

えげつないのは坊さん側がそのことをちゃんと腹の中に承知しているということなのでしょうかね。

 

まさか、その場で檀家をやめるので今スグ「お引き取り」いただくというワケにはいきませんし。

ヨトウムシではないですから、その後に惹起しそうな何かを考えてしまいます。

そういう意味からしても面倒くさい人種と思われている可能性は大ですね。

 葬儀式会場の「エライ人」は自分の思い通りにいかない何かへの怒りを爆発させてしまったのでしょうが・・・。

 

「怒り」は人によって、年齢によって「発症」頻度も、その具合もそれぞれですが、ある意味「習慣」のように出てきますし、今に至っては怒りの蔓延する時代ですからいわゆる「現代病」ともいえるもの。

 

その「怒り」はどういう処から出て来るかといえばやはり「自分ファースト」「自分の偉大さ」の主張でしょう。

坊さんではリタイア後の学校教師(父がそうでした)が陥りやすいとも聞きますが・・・

 

その手のことを人は「尊大なヤツ」と評価しますね。

勿論当人には聞こえない場所でです。

尊大とは「ひどく偉そうに人を見下した態度」のことです。

 

私としてはそういった話を耳にした時、賢治さんの「雨ニモマケズ」の通りに、せめて「決シテ瞋ラズ」は実践していきたいところです。「瞋ラズ」は「瞋恚」の「瞋」で「いからず」です。

 

世の中で一番怒っちゃダメのお仕事はやはり坊さんでしょう?

再び記しますが「怒る」の真逆は「恕」。如来の心です。

念頭にいれておかなくてはなりません。

 

少なくともいかにも横暴で一方的と思われる怒りを受けたとしてもこちらがそれに怒りでもって対応していたら「怒り社会」に坊さんが一役買うことになってしまいますので。

とにかく「聞く」というスタンスが一番大切なことですね。

 

私どもの御開祖は自らを「煩悩具足の凡夫」と呼んで「愚禿」と名乗りました。「尊大」でなく「みなさんと同じ」を標榜した人でした。

その立ち話の方は親鸞聖人の銅像の前でそのことを話したかったのでしょう。

 

画像は藤枝蓮華寺池公園の先、桜宮神社の石鳥居。

知る人ぞ知る元、相良の御荒神社参道にあったやはり相良の住民からすればトホホの代物。

このまま放置していたらそろそろ崩れそうな感じを醸し出していますが、大慶寺の御殿と同様、あの時相良から没収されてこちらに移されたといいます(場所はこちら)。

花倉の長慶寺のほんの手前というあたり。

 

相良で「御荒神」といえば町うちでは知らぬ人はいませんね。一言で横町の小道の祠(こちら)。

田沼時代の御荒神は別とも聞きますが。

 

鳥居の柱には「天明二年」の文字がハッキリと。

最後は相良城古地図。ホントはどこかの国の人に盗られて返却されない仏像の如く「返して」と声をあげたいところですが。

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2017年

6月

06日

相良田沼好きにとって垂涎 大慶寺田沼御殿欄間

昨日の続き。

怒り蔓延の社会にあってスポーツの世界でもその手の「感情の爆発」がありました。

サッカーとテニスですがたまたま構図としては日本-韓国。

前者アジア・チャンピオンズリーグの様子は何ともお寒い乱闘騒ぎで、お恥ずかしいところを曝していました。子供が見てますよ!!

 

そしてテニスの彼。最近は故障がちでランキングも落ちぎみ、焦りというものも感じますがあのラケットブチ壊しは「気イ 悪い」ですね。要は思い通りにいかない「自分」のプレーに対して行き所の無い怒りが自分のラケットにぶつけられたのでしょうがやはりみっともないですよね。まさかと思う発散の仕方でしたが、ああいう場合、その動揺について相手選手も見ていることですし相手からすれば「してやったり」「マイペース」・・・ヤル気アップにつながる筈です。

卓球の「雄たけび」などもそうですが、「強い人」のやり方の踏襲(真似)にも感じます。スマートでクールが強そうに見えますが・・・「オレは怒っている」を表に出してまた、何かの行為に及んだとしてもプラスになることなど一つもないと思いますが。

そして素人が見ていて、あの高価そうなラケットをへし折ることに「勿体ない」を感じてしまいます。

 

さて、大慶寺は昨日の続き。

あの松は掲示板に記されている通り半端な代物ではありません。

松の木は杉に比べて寿命が短くて特に害虫にも弱いですね。

よってみすみす枯らした松の木の話はそこいらじゅうから聞こえてきます。

維持も大変そうですがアレがもし松くい虫にやられたら地団太を踏むことになりましょう。春先の消毒にも相当気をつかうでしょうね。

 

そしてその奥に見えるのが相良御殿の移築と伝わる庫裏。

相良の田沼ファン垂涎の代物です。コレを見るたびに松平定信憎しの思いが噴出するワケですね。

こちらのお寺は昨日の看板に記されているように「誰でも 気軽に ご覧あれ」。

内部は明るくキレイ。田沼時代のものとは思えないくらい。

欄間の美しさも感動ものです。

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2017年

6月

05日

インパクトアピールDKG 藤枝 大慶寺 私TKG

昨日の大河ドラマ。

まぁ台詞ですが・・・まず「ばかっつら」。そして「しょんない」その他・・・まさに遠州の方言が使われていて思わずニヤリ。

 まぁそれらは私の中高生時代以来、口にはしていませんでしたが。どっちかといえば、恥ずかしさをも感じる言葉です。

 

番組の終わりのワンポイントの解説コーナーは地元では「火坊(ひぶせ)」でお馴染み秋葉神社の紹介でした。

番組内「井伊家が材木の商い」を行ったという流れにつなげて天竜域にいかに木材が豊富にあったかを伝えていました。

樹齢500年の杉は圧巻でしたね。でも・・・待てよと・・・「助かったのだ・・・」と思ったのでした。

 

皮肉というか教訓的な言い回しに「秋葉山から火事」というものがあります。

読んで字の如く防火・火災防鎮の神が鎮座している秋葉神社が火事になることを言いますね。

この地区では今も、拙寺の「火用心」ではありませんが毎年そちらの発行するお札を購入してどこかしらに貼り付けているお宅が散見できます。

まぁ今でいう「消防署が火事」のような類だと思いますが。

この「秋葉山から火事」の話は実は実際にあった話でした。

 

私はこの件は先般亡くなった昭和三年生まれの永田(旧姓野村)さんから聞かされていました。

父からその話が聞こえて来なかったのは当時予科練に駆り出されていたからですね。

以前記したことがありましたが特攻の船舶版というヤツです。早いとこ戦争が終わったため生きながらえたというワケです。

 

その話は昭和18年の3月。雨不足と遠州の空っ風と呼ばれる強風の中、山林から出た火が延焼して神社が消失したといいます。付近の山林も広く(1369ha)焼失したといわれていますのでそのテレビ画面で見た樹齢500年の杉の存在には「へぇっ~」と思ったのでした。

 

永田さんの話でインパクトがあったのは「西の空が赤く見え」なおかつ「灰が杉の葉のカタチのまま舞ってきた」という話です。

同じ遠州といえど天竜と相良では相当な距離がありますからね。

 

当時の管轄消防団の多くがあの「金属回収令」で出払っていたということも初期消火が遅れた理由だとも聞きます。

ブログでも紹介している通り、この「金属回収令」によって拙寺の梵鐘が供出させられました。

 

檀家さんのおかげで昭和30年の再鋳造がかなったのでしたが、私が父がやめていた「除夜の鐘」(現在は除夕の鐘)を再開する必要があったのはその経済的余裕のない時代に檀家各家が力を合わせて資財を布施したことです。

梵鐘内にはびっしりと記された寄進者の名が。その皆さんへの感謝の気持ちをそれぞれの縁者とともに1年に一度だけですが、実際に衝いていただき、まさに「正覚大音 響流十方」(嘆仏偈)の風を体感していただきたかったのでした。

 

さて、今一つ直虎の台詞といったら「煩悩は滅した筈だったのに・・・」がありました。

臨済の僧でありながら井伊家の頭首となった直虎の言葉です。何か歴史ラブコメディ?の様でもありましたが真面目に坊さんらしく私がここで思ったことは、そもそも仏教には「煩悩即菩提」という語があるではないか?というところでした。

臨済宗について何も知っていることはありませんが・・・。

 

とにかく私は「煩悩」という語に反応しやすくなっています。

それは何よりも私が煩悩だらけに他なりませんが。

 

その煩悩というと、三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)のうち現代の最大テーマとして「瞋恚」が挙げられます。

「瞋恚」をやさしい言葉に言い換えれば「怒り」ですね。

上記「火用心」ブログにて記していますが、「心の中に燃え広がる火」でもあります。

 

私が檀家さんに配布したその「火用心の手拭い」の意図は「火」そのものの恐怖もそうですが「心中燃え盛る怒り」をも同時に「おそれるべきもの」としてお伝えしたかったのでした。

また三毒のうちの他の貪欲や愚痴もつまるところそれらが「思い通りにならない」シチュエーションになった場合、強弱はあるにしろまずは「怒り」に発展することは必定ですからね。

 

市中いや世界中にその「怒」が蔓延している時代、どのようにそれを少しでも解消していくかというのも私どもの仕事の一つ。仏教文化を伝承し、より理解しやすく解釈し民衆に広がった平和思想(兵戈無用 ひょうがむよう)~「無量寿経」~ともいえる仏教思想を受け継いだ日本人としての役目でもあります。

 

当流には上記「煩悩即菩提」という語に酷似している「煩悩即涅槃」という語があります。

親鸞聖人が記した「正信偈」の「不断煩悩即涅槃」です。

「煩悩を断つ(滅する)ことなく涅槃へ」です。

簡単に「涅槃」を言い換えれば「正覚」であり「覚り」「解脱」・・・「浄土」「往生」ということです。

 

ちなみに「そうか煩悩は滅することはないのか・・・」といって我が物顔に振る舞うことを「本願ぼこり」(欲望のままに悪事を行っても良いと思い込む)ともいいました。

「悪人正機」に通じる考え方でもありますが、そういう「早とちり」はイケませんと警告があったものでした。

 

その「煩悩を断つ(滅する)ことなく・・・」には条件がありました。それがその句の直前の「能発一念喜愛心」です。

「能発一念」は世間でよくいう「一念発起」と同じような語ですが、ただ「他力」(阿弥陀如来の力)という「私の本来の意図ではないもののおかげ」のような感覚が入っています。

 

その力によって「喜愛心」が発したタイミング、ということになります。ただし「喜」に関してはともかく「愛」という字が仏教経典に出てきたときはそれ自体を煩悩そのものと解する場合がありますので注意が必要なのですが、この場合の「愛」とは「好きと嫌い」のレベルではなく「慈悲」と解すべきといわれます。

しかしこのご時世、普通に字面通り受け止めたとしても「喜愛」というものが欠落していると思えますのでそのままの「喜愛の心」としても大いによろしいことかと。

 

これを相手を思いやる心。

昔から言われる言葉でいえば

 

「彼を先にして我を後にする想い 

            他を利して己を忘れる心」

 

(こちらは最澄さん)であってもう一つわかりやすく記せば

 

「己の欲せざる所は、人に施す勿れ」とも記せるかと。

 

このあとの方の語は論語、孔子の語録に登場しますがそれは当ブログでもお馴染みの「」(またはこちら そしてこちら)という字の解説でもあります。

 

「怒」という字は小学校で教わりますが「恕」はなかなか教わる機会がが無いような・・・。

 

ちなみに先日のバス遠足で、大山崎の信号待ちをしていた際、この字を再び見かけたため、マイクを取って「何と読みますか」などと教師染みた質問を皆さんに投げかけてしまったのですが、反応はゼロでした。

 

あいつ(奴)が悪いと思う心が「奴+心」で「怒」

如来さま(あるがまま)の心が「如+心」で「恕」。訓読みでは「ゆるす」でしたね。

 

学校では「怒と恕」は対で子供たちに教えていただきたいものです。「怒」ダケでは能がない・・・

 

煩悩だらけの私が偉そうなことを記してしまいました。

お前こそが「その通りだぞ」と言い聞かせるばかりです。

 

画像は藤枝博物館に出向いた帰りに立ち寄った大慶寺の道沿いの看板。相良城といえばこのお寺ですね。

御殿が移築されています。

私はあの松の大木を見て溜息が出ます。見事の一言。

 

私があちらの看板を見てスグ思いついたのがTKG・・・「たまごかけごはん」。

食欲旺盛で煩悩隙なし。みっともないことです。

それでいて座右の銘が「いかにも身を捨ててこそ」(空也さん)ですからね。

「お茶らけにも程がある」とお方さまに笑われています。

 

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2017年

6月

04日

津波と波津地名は関係なし 樋尻川河口と避難タワー

昨日は一昨日同様異常ともいえる強風で苛々がつのりました。

境内の「そろそろ咲くぞ」と蕾を膨らませて成長したユリの鉢がバタバタ倒れそれを直しても縛ってもその強風は鉢をぶっ倒しまくりました。とはいいながら空は快晴でしたので本堂等への被害はありませんでした。

 

さて「波津と静波の地名は隣町でいて意味真逆」とは昨日のブログを見た知り合いからのメール。

どうやら「波津」の名に「津波」をイメージしたようでした。

なるほどそれを津波と解せば今の旧榛原町の柏原、川崎に代わってつけられた「静波」とは真逆です。

しかし文字を逆さまにして意味をつけるという例を知りません。

 

私は以前の私の「波津」について記したように「津波とはカンケーない」ことを記して彼の納得を得ました。

川の名については付近恐ろし気な名を付けられた「死人川」など記していますがこの波津の湊=「津」とは樋尻川の河口付近の事を言いました。

 

どこかでも記していますが今の萩間川(相良川)の西側にあたりますが、そもそもその川の現在の位置は付け替えられた川です。

その付け替えられる前の川の流れの址が今の樋尻川というのが古い相良の伝承ですね。勿論現在の流れの場所にも川が流れていたのですが・・・

この「津」の発祥は鎌倉時代といいますのでいわゆる「相良みなと」の大元です。

 

コレも地元の通説ですが、その樋尻川をくねくねと(Googleマップにも細く青色で記されています)拙寺、大澤寺方向からの図がわかりますが、その拙寺手前の新聞店の海方あたりに船着き場があり、海運物流の拠点となったといわれています。

今ではそれを想像だにできない溝程度の流れしかありませんし、拙寺近くのその川の痕跡は暗渠となっています。

叔母の話によれば、一昔前まで(おそらく戦前)はその川は確認できていたといいます。

 

拙寺近隣には小さな稲荷社がありますが、そちらには相良城関わりの石垣が2個無造作に置かれています①~⑤。

何らの案内板も立っていません。その路地は超地元の人のみしか通行しませんので、「知る人ぞ知る」の部類、他所の方では知り得ない代物です。

以前は何が記されているか判読可能でしたが、今は「何か記されている」程度にその石に彫られた文字を見ることができます。

この稲荷社は相良城に向かう百花通りの入口にあたりかつ、その新聞屋さんからさらに伸びる川の直線上にあたります⑥⑦。

 

あと、今年4月8日にオープンした下波津の津波避難タワーからの図を・・・上記場所についてはこちら

⑮右側の屋根が拙寺とそのバックが小堤山。⑨は樋尻川と浄心寺墓地。⑬の道路のラインが昔の海岸。枯れた松が見えますがこちらも以前ブログで記したことがありました。

かつて道路の左側には松並木と土手がありました。この先に乃庄さんと根上松があります。

 

一番最後の画像は海水浴場方向。7月1日の海開きを目指して急ビッチで海の家を作っているところ。

微かに富士山が見えます。

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2017年

6月

03日

主人留守に生まれた子の名は 笠原家過去帳 添書き  

アメリカ人が選んだエライ人・・・大統領殿・・・ですからそれが「アメリカ」です。

そのアメリカはパリ協定(気候変動抑制)からの「離脱」を宣言しました。

 

アメリカファーストを一義にやりたい放題のアメリカを主導しているあの人の姿を見ているとやはり本当の一番大切なところは「自分自身」のように見えます。保護主義とは利己主義。

そして「私が一番の思想」はこの国のエライ人とも共通のようで、道理でウマが合いそうな感じを漂わせていました。

 

もっとも正式な離脱の効力が発生するのはその次の「アメリカさん」を選ぶ選挙の翌日だそうで、「次もある」と踏んでのことか、ただの選挙公約のポーズなのか・・・その両方かも。

そして身に迫りつつある弾劾の風をいい塩梅にはぐらかすという意味もあるようです。

 

彼が離脱を決断したその理由(温暖化なんてデッチあげ)も「根拠が薄弱」との指摘がありますね。

まぁ、これから埋蔵されている石炭やシェールガスをバンバン掘りまくって「儲けたい」という業界の後ろ盾があるのでしょうが。

 

とにかくエライ人はヤバくなると突飛なことをして、差し迫った問題をはぐらかそうとします。我が国の場合は黙っていてもヤバくなると自然にミサイルが飛んできて注意を削いでくれますから・・・不思議です。後ろで繋がっていたりして・・・

 

一昨日は当牧之原の市長が「今季限りでやめる」と正式発表がありました。

私としては相良から市長が出てくれないとますますバランスが悪くなるような気がしてなりません(旧榛原町とのつりあい)。

 

また現市長は浜岡原発の廃炉を強く主張していましたのでその意思を継承してくれる市長でなくては困りますね。

国レベルで少子化が止まらず人口減少に歯止めがかからない現状、あの迷惑施設(そのようにしか考えられません)が息を吹き返したらますますこの地の住人は消えて行くでしょう。

それまでされてここに住む意味、理由がなくなるということです。

 

さて、柏原の笠原家の家系図冒頭の添え書きの部分を拝見することができました。柏原とは旧掛川藩領時代の旧榛原町内の名称です。

当時は「静波」なるキラキラネームはありませんでしたから。しかし「古い人」には結構知られていた地名です。

ただしお隣の「川崎」という名の方は小学校などが残っているため、耳に馴染んでいますがもはや地元でも「柏原」を言う人はいないでしょうね。

 

笠原家についてはこちらこちらで記したのちこちらこちらでも・・・これまでの過去ブログを見ていると笠原家の出自について「近江説ありの三河説 三河説ありの近江説」のどっちつかずでしたがやはりこちらを見ても「三河くさい」部分大いに感じますが断定できません。

しかし天正年間に三河から柏原に引っ越し・・・との文言はそろそろ笠原家出自を三河説に固めるべきかと思った次第です。

それ以前の笠原家については本證寺に過去帳が残っていれば糸口はあるかもしれませんね。

 

面白いと唸ったのが初代笠原嘉兵衛が元亀二年生まれで柏原にやってきたのが十九歳の時(天正十八年)。そこまで詳細に記された文書が残っていることが驚きでした。

その長男が甚右衛門で2代目になりますが、長女出生の添え書きが面白い。誕生が元和元年(1615)とありますが、笠原嘉兵衛が大坂の陣に出征して家を留守にしていた際に生まれたということで「るす」と名付けたとあります。そのおおらかさが素敵に感じました。ちなみにその時笠原嘉兵衛は四十四歳。

どちらに属して大坂に赴いたのか不明です。

 

商家の大店のイメージがする笠原家はやはり大元は武門でしたね。現御当主が家に刀が数本伝わっていてかなり前に売りさばいたことを以前語っていました。

 

この添え書き部分は昭和初期に転記されたものですが興味深いことが色々記されています。天保期ですから笠原家が柏原にやって来てからかなりのブランクがありますが、本證寺(大澤寺の本寺)とかなりのコネがあったことが窺えます。

 

財物を大澤寺に入れたという記述です。

笠原家と拙寺が古くからの親戚つきあいをしているということは伝わっていますが、どれだけの財物を寄進していただいていたのか・・・

恐ろしいというか今寺に現存していないところも驚き。

似たようなものはあるにはありますが、「法然上人の御影」など聞いた事もありません。

また「家来 源右衛門」の記述など商人というよりも武家の如くですね。今後笠原家についても大坂・三河での活動がわかりましたので何かの折に調べられたらと思っています。

 

付属記事

事ハ前代八代ノ記事ニテ祖先ノ往時ニ深キ

関係ヲ有スト認ム特ニ付属記事トス

 

天保十一庚子年十月

三州野寺本證寺御宝物様相良大

澤寺江御入十月六日ヨリ同十日迄御弘通御座候

 

右ニ付御参詣仕て別段御披露御座候

依之御志シ印ス

 

一金弐百疋   御宝物様ノ志シ 

一金壱朱    御役寺ヘ 

一青銅弐百文  御役僧 

一同 四拾疋  御侍弐人ヘ  〆

 

右御宝物様之内 

祖師聖人様   御左上之御彰(影か)様 

元祖法然聖人様 御彰(影か)様

 

十月十二日

右御宝物御改付

御長持ニ入先祖恩縁ヲ以テ相良大澤寺

案内ニテ上下四人御入阿弥陀経并ニ御縁記

御座語リ尤モ御請待ニは無御座候

         右御志金百疋            

             差上申候

 

尚又先年家来源右衛門殿相譲リ候先祖

御守護申候額(顕)如上人様御裏御如来

様源右衛門方ヨリ御取寄御改御拝禮御座候

尚又源右衛門方へ相返し申候

天保十一庚子年十月十二日

 

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2017年

6月

02日

勝竜寺城支城 ここでも見られた 久貝城の久貝さん

昨日は御内佛の開扉式に向かいました。

新築の御宅で密閉性が良く、お勤めの声がまるでスタジオの如く響き渡り、ひょっとして「拝読が上手くなった?」と錯覚に陥るくらい。気分よく調子に乗っている私というものがわかりました。

この開扉式については先日もありましたし、ちょうど昨日御内佛を新調したので「お軸を注文したい」とメールがありましたのでおそらく近いうちに開扉式に向かうことになるでしょう。

 

御軸について今回は「本山から求める」との依頼がありましたので私が教務所へ発注を代わりに行いましたが、前回は仏具屋さん手配の御軸が使用されました。

基本的にお軸はどちらのものであっても「かまわない」というスタンスではありますが、やはり違うものは違います。

 

価格も違いますが、見た目に違いがハッキリと出ますね。どうしても安価なものは「それなり」です(「それなり」は「それなり」で十分ですが)。

また本山発行の御軸には裏書があって出何処が記されているところが違います。とにかくお軸選びはまずサイズからですね。ちなみに本山発行の御軸選びリストはこちらから。

 

さて、先だっての勝竜寺城遠足での私の「見るべきところはいくらでもある」風の言葉にのっとって足に自信のある一部のみなさんと向かったのは城の名ともなった勝竜寺へ。

例の「六親眷属」のエピタフのお話を事前にしていた関係もありました。

 

前回私が参った際はまったく気にも留めませんでしたが、実は「御利益」が掲げられていました。

ぼけ封じ観音さんでした。

やはりその語<ボケ>には皆さん敏感のようで一同「ボケませんように」と。すでにボケちゃっている身の私としては「この期に及んでもはや遅し」ですね。

 

こちらに再訪してまた新たに気づいたことが今一つありました。勝竜寺城内史料館にて「久貝城」という名があり、城の通り前の御宅に「久貝さんの表札があるよ」とご一緒した布施氏より声が掛かりました。

ということから歩いて5分の勝竜寺まで住宅街をプラッと歩いたのでした。

勝竜寺はお隣に春日神社その裏に例の墓地があるのですが、神社の氏子の名が記された提灯の並ぶ姿を見てまたびっくり。

久貝さんだらけでした。

 

「久貝」の地名はまだ残っています。

それがあのサントリービール工場と勝竜寺城の中間地点。

あの辺りは前回歩いていますがやはり住宅地で何らの遺構的なものを感じ取れませんんでしたが次の機会のお楽しみにしておきましょう。

 

城として南方をうかがえるロケーションともあれば、山崎の合戦で明智光秀の本陣となったであろうと推測されているビール工場の竹藪の線と同じく、この「久貝城」本陣説も捨てがたいところとなりましょう(春日神社と久貝はこちら)。

 

それにしても以前は近江の鯰江城にあった街区の住宅図で鯰江さんのオンパレードを見て感動したものですが、ここでも久貝城の久貝さんの登場にはワクワクさせられました。

地名と苗字と城の名が重なった時、私の感動はひとしおです。

 

最後の画像は前回と重なりますが、あらためてこれら墓石たちの古さを思います。室町期は確実の匂いがしますね。

特に画像緑色に変色したであろう五輪塔水輪の一番下の石材に注目しました。

上部に違う五輪塔火輪がテキトーに乗っけられていますが、彫りの月輪の梵字からして宝篋印塔の塔身を思わせます。

何しろバラバラになってしまっているのでしょうが、おそらくこの住宅街の下にはまだまだ埋まっていることだと思います。

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2017年

6月

01日

相良寺巡り御朱印企画 いかにも身を捨ててこそ 

拙寺財物の藤枝博物館への展示招へいのお話(今川氏展)をいただいて調子に乗って搬入したことは先日ブログにて記しました。

そのパンフを拙寺掲示板に貼り付けて、宣伝までしていますが、昨日はそれについての問い合わせが・・・

とりあえず行っていただきたいと告げましたが、実際オープンされて、展示されていなかったなどいうことがあれば、相当のボケをかますことになりますね。

恥をかくことは慣れていますのでそれはそれでイイのですが、今のところ「展示ナシ」の連絡は入っていません。

今川家発給文書数多の中、当家伝来のアレは異色を放っていますので、絵的には悪くないと思います。

 

さて、牧之原市には「地域おこし協力隊」なる組織があって(バックは市の産業経済部観光交流課)春先に相良町11か寺が集まった会合で寺ならではの前向きなお話を戴いていました。

それが画像①「そうだお寺へ行こう 城下町相良11か寺巡り」です。

 

その協力にあたって拙寺としては本山その他の真宗寺院に後ろめたく当初は相当な躊躇があった事案を「えいやぁ」という具合に「やっちまった」のでした。

それが「御朱印」ですね。

要は寺参りをお薦めしてその際、御朱印をもらっちゃおうという企画だったのでした。

 

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが当流では(おそらくお西も)「御朱印」はしていませんね。わざわざ本山ではその「御朱印」をしない理由まで意見広告しています。

 

左がそのリーフレットの表紙ですが、内容について私も同感ではあります。が・・・

まぁ「そう堅い事をいわずに・・・」というところが本音です。

 

たとえ「一見さん」で、流行りのゲームカードの収集の如く(御朱印ガール)の訪問があったとしても、それには何かの「機縁」をも感じますし、昔から寺に訪れた者を理由が何であれ「門前払い」することはありえないだろうということで、本山の意向には反することではありますが、今回の牧之原市の方向性に同調するに至りました。

イイ加減な田舎坊主の振る舞いとしてお目こぼしいただければありがたいことです。

 

ただし庫裏に常駐することはできませんので(それはどちらのお寺さんも同様)本堂内に予め和紙に書した押印済のそれを用意しておくことにしました。

よって「日にち」の記入はありません。

 

「11か寺」は旧相良の相良仏教会に所属するお寺のみになりますから、菅山や萩間そして旧榛原町のお寺は入っていません。

御朱印料は200~300円。

ちなみに拙寺は200円で「賽銭箱へ」です。

あくまでも「御朱印」は付属的なもの。

まずは正面阿弥陀如来に合掌して、「なむあみだぶつ」を口にまた胸に抱いていただければよろしいかと。

 

お断りしていたら永遠にゼロ。

受け入れれば何かがスタートしますね。

 

尚、画像②「座右の銘」はご存知の方が見られたら少々こっ恥ずかしい文言。

「果たしてお前が・・・」との御指摘もありそうですがこれもまぁ「御寛大に」願いたいところ。

だいたい「座右の銘」なんざぁ「デキもしない」ことを憧れも含めて「傍らに置く」ことですからね。

 

「いかにも身を捨ててこそ」の言葉を発した方は空也さん。

千観という高僧に言ったといわれ、千観はその意を受けて浄土の道に入ったと。

空也さんは我が国の民間浄土教(なむあみだぶつ 念佛)の創始に近い僧で以降法然さん当流親鸞さんに多大な影響を与えたことは確実といわれている人ですね。

歴史的カタチとしては一遍上人が継承したという感覚ですが・・・浄土教というくくり、一向専念阿弥陀仏、なむあみだぶつの他力と称名一途のところはみな同じです。

 

小者の拙僧はすべてを捨てることはできませんので「こだわらない 執着しない (如来におまかせ)」程度に。

もともとちゃらんぽらんな性格ですから、その辺りになら私にも「座右」に置いておくことができます。

 

尚、冊子は市庁舎、史料館等にあります。

 

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2017年

5月

31日

ビール工場の時間調整?・・・勝竜寺城

昨日もまずまずの好天につき殆どの時間を境内の樹木の剪定で過ごしました。

軽トラ1台分を処理場に搬入して終了しましたが、おそらくざっと見ても「何も変わっていないだろ」と思われるくらいのものです。チェーンソーなどの出番はなくサラっと刈り込みばさみを入れる程度でしたから。

だいたい塗装作業ではありませんので作業着は派手めのアロハシャツ。仕事感まるでナシ。

 

境内でブラついていればお墓参りの檀家さんとお話になることもままあって、そちらにも時間を割く事にもなりますから、あまり気張った仕事とはなりません。中には2時間以上も立ち話をして帰る人もいるくらいです。

 

「坊さん捕まえて、からかってやろう」という方は案外多いものですね。

境内にガラス張りの喫茶室でもあれば・・・などと考えてしまいます。勿論私がマスターに早変わり。アロハシャツにエプロンを着けて、そのおからかいの文言にお付き合いできれば楽しいひと時になりましょう。

「アイスコーヒー300円」ならどうでしょう・・・

私はコーヒーは淹れられないので、やはりネスカフェ・・・新喜劇ですね。

 

というワケで例年の如く結構に日焼けしているようです。

先般の法事でもそこのところは「酒は飲めない」と同時に突っ込まれるところですが、その「作業焼け」もまた皆さん半信半疑のようです(この坊さんはウソばっかり・・・)。

 

人でも物でも見た目で判断することはホントはイケないことです。第一印象が大切とはいいますが、「私の感覚」そのものが怪しかったりしますので。

私についてのことはどうでもいいのですが、しばしば「見た感じ」で何かを即断するということは間違いのもととなります。

私も大いにその傾向(即断即決衝動的判断)がありますが謹むべきスタンスだと思っています。この手の所作は下手をすれば大やけどでは済まないことになりましょう。

 

さて、先般のお寺の遠足では青龍殿からサントリービール工場あたりのお話を記しましたが、ビール工場待ちの時間として勝竜寺城を選択していました。

どちらかで記しましたが計画としてはこの間に竹林公園が入っていましたが水曜定休と重なってしまいましたので。

私の趣味がツアーに入っていることは仕方ないところですがかつてのこちらの城についてはブログでも記しています。

 

2016.06.24   勝竜寺城の九曜紋

2016.06.20   勝竜寺城

2016.06.19   勝竜寺

2016.06.14   勝竜寺城 沼田丸

2016.06.13   勝竜寺城

2016.06.12   勝竜寺城

 

そして墓域 品川区超一等地

 

時間が1時間30分程度ありましたので、その旨バス会社に伝えていたのですが担当者から「見るところないよ」とのアドバイスをいただきました。

私もそのあたりのことは重々承知の事で、一番の懸念材料でしたが私からすれば「1.5時間では時間が足りないよ」のレベルでもあります。「いや、周辺にはたくさんの見るべきところはある」と強がりを言っていました。

 

といいながらも「見るところ多数」はその筋の興味がある人限定ですから「ガラシャ」すら知らないという方もいらっしゃる中でその懸念は当たったようでした。

「どうやって時間を潰そうか」と足に不安のある方は休憩所で座り込んでいましたが、城外ですれ違った活動的な人たちに「どちらへ?」と聞けば一斉に「スイーツを探しに」と。

 

「そこかよ・・・」と内心思いましたが、やはり「そこ」が大事なところなのですね。しかしあの辺りでうまそうなスイーツを出す店は? 私のフィールド外です。

私にはあそこに「ローソンがあるよ」とコンビニを指さすのみでした。

 

勝竜寺でのバス時間待ちの間、皆さんは何故か堀の鯉に興味が集中し、わざわざ前述のコンビニに走って、鯉の餌にするパン類を買い込みに走った方多数。この鯉というヤツが「進化」すると「龍」になると昔から言われていました。青龍殿→勝竜寺城と龍つながりでもありましたが・・・。

 

遠州の人間がこの勝竜寺城に来る、あるいは知るということはそうはないことだと思います。コレについては私の「趣味に走りすぎる」との御指摘を受けそうなのですが、実は私の次の戦国時代を描く大河ドラマはもしかしてこの辺りかも・・・と思うところがあります。

 

戦国時代で尚且つ女性のストーリー・・・といえば「ガラシャ」などはうってつけですね。そして宗教的演出に関してはNHKはことキリスト教に関しては寛大ですからね。

「ガラシャ」がクローズアップすれば当然に父の明智光秀が前面に描かれるでしょうし、地域分散しますのでたくさんの地に恩恵がくだりましょう。

 

その際、必ずといって主城として出てくるのが勝竜寺城です。

天王山、山崎も目と鼻の先で戦国史でも王道を歩んだ人たちですからね。何年後になるかはわかりませんが、そろそろ「来そう」という感じがしています。

私の予想、次の戦国大河の大本命です。

 

下の画像は拙寺の梅の収穫4キロ。

昨日の夕方、仕事は終わったと一息ついていると、奥方より「まだ終わっていない・・ぞ」と追い立てられて脚立に上がりました。

たった1本きりの小さな木(春先から何度かブログに登場しています)ですが、今年はあたり年でした。あの白くて香りのイイ小さな花がこの実に化けるのですから・・・鯉が龍に化けるといわれてもまんざら信じられないことでもありません。

 

 

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2017年

5月

30日

忘れたころにやってくる 水のトラブル ちょっと特殊

寺は古いほど価値があるようですが、中途半端に古いモノは無価値ですね。価値云々というよりも厄介な話に発展します。

その厄介モノの最たるものが境内を這う水道管。

そのことを久しぶりに知ることになりました。

 

「雨も降っていないのに路面に水が出ている」図①は先週後半には知っていましたがその翌日になって町内会長らが見えて、「何とかしてほしい」との談。

「え?」と思って出てみると、なるほど水の出が多くなっていました。

 

水道管の漏水しか考えられませんがどう考えても墓地から公道側に漏れ出ているようにしか見えません。

当初は公道に敷設している管からの漏水が疑われて町内会長に通行人からクレームが入ったようですが、「出どころは寺」ということでそのお荷物のような話をバトンタッチされたというワケです。

 

通常「漏水」という事案の対応は「公道か民地か」で違ってきます。要はその対策に対しての「責任を負う」ということですから工事経費をどちらが負担するかが大きな違いとなります。

ということで漏水箇所が境内地=民地ということですのでその管理者である私が負担するというのが市の水道課の主張。

 

それは私も仕方ないことだと思います。最初は「しょうがねぇなぁ・・・」といった感覚。

しかし・・・「この水道管とはいったい何?」というのが腑に落ちなかったところ。

こちらに水道管が配管されているなどということは私の知っている限りあり得ない場所ですから。

 

数十年前にはこちらに6件程度の平屋住宅があったのは微かに記憶がありますが(先代が墓地敷地として購入)その住宅の共同炊事場がこの位置にあったという情報を得ました。こういった話は年配者に伺うのが一番手っ取り早いのです。

何しろ水道課は図面詳細については持っていませんからね。

 

そして漏水箇所があることから水道の元栓にあるメーターを見ればわずかに回っていることがわかりました。

そのことからこの漏水とメーターが回っていることがリンクしている可能性があったのでした。

 

しかしよく考えてみれば①水道管の敷設が境内を通過していることはありえない②メーターが同一なら十数年前の水道料金の徴収はどうなっていたのかという疑問が残りました。

境内、それも墓地の下を通過していることはまず考えられません。その住宅がいくら「古い」といえども当家墓地より古いワケがありませんからね。

 

ということで、私の主張は公道沿いに配管された水道管が直角にこの敷地に入っているはずであって、そもそも寺としてこの水道の使用をしていないしその存在すら知らなかったということ。そして、暗に敷地内止水詮について「不要のモノ」を生かしていたという当時の工事の瑕疵をやんわりと。

 

工事を発注した業者さんにもその旨忖度していただいて水道課の方に口添えしていただきました。

3人工程でユンボまで動員(深さ約1m)していますから、さて幾らになるのやら。まだ請求については聞いていませんがまず市の方がもつだろうとのこと。私の責任?とのことでしたら反論する用意はありますが。⑥の通り25mm管は一般的なものではなく集合住宅6~7件用の元管とのことで、配管も古いモノのようです。

 

尚、水道メーターが回っていることから、水道管末端箇所(トイレ・風呂・台所・水道蛇口 これは初歩的ですがパッキンや水洗トイレの浮きなどの劣化)について境内隈なく回って頂きましたが結論は不明。

メーターの回転状況から言って蛇口からに喩えれば「マッチ棒より少し太い」程度の漏水がどこかにある筈とのこと。

それが大きくなればコンクリートでもクラック等から沁みだしてくるそう。念頭に入れておかなくてはなりません。

どこかで水が漏れていることを考えるのは気分のイイことではありませんね。地中ならまだしも家の中の配管でしたら目も当てられないことになります。

水道屋さんがいうには、市内更新時期の管の漏水が増えているようです。

 

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2017年

5月

29日

遠州では耳馴染んだ地名 気賀 中村家

昨日は完全に「夏」。

熱中症が言われるようになって久しいですが、今のうちからこの様子ですと、盛夏の候にはいったいどういった騒ぎになっているのでしょう。遠く富士山や南アルプス方面を見やれば雪がハッキリ見えます。まだまだ高所は「冬」のよう。

 

日本人全体が軟(ヤワ)な体に(精神的にも)なっているようです。私どもの高校夏合宿(サッカー部)といったら、精神論繁盛の時代でしたから、炎天下の練習中に水を飲むなど厳禁当然の時代。

休憩タイムに「赤ら顔の先輩」が手洗い場まで付いてきて監視、少しでも不審な動きがあると「キーキー声」で「飲むな!」と叫びまくっていた姿を思い起こします。根性悪そう。

それでいてぶっ倒れた者など一人もいませんでしたから不思議なものです。

 

そんな夏日といえばちょっと前ならば時間を見つければデッキチェア+タオルを軽トラに積み込んで文庫本の1つも手に地頭方あたりの海でプチリゾート気分を味わったものですが、最近は躊躇するようになりました。気持ちとしてはその気分は味わいたい気持ちはあるのですが・・・

 

もっとも昨日の場合は午前中は法事+お斉、1400時からは無量寿茶の販売実績を発表いただく総会がありました。

販売の方はおかげさまである程度の実績がありました。

(婦人部からお寺への寄進としてテント2張りが加わって計3張になるなどまずまずの数字を戴きました)

 

 

私が高校1年の夏、野球部の静岡地方予選大会の1回戦、島田あたりの球場だったでしょうか、応援に動員させられたことがあります。

まぁクラスメィトの花道ですから、気持ちとしては前向きに応援席に着きましたが、意外に好試合になって結果勝利したことを思い出します。

サッカーでも野球でも殆ど勝ち目のないような高校でしたから特にその時の勝利は記憶に残っています。

 

そのお相手が「県立気賀高校」。

現在は統廃合によってその名は残っていませんが、「気賀」とは耳に馴染まない地名である、と却って記憶に刻まれていました。それ以来、気賀といえば井伊谷の南、「奥浜名湖」のことと、理解していました。

 

さて、昨日の大河ドラマに気賀が出てきたワケですが、直虎の台詞で「気賀とはどこ?」には違和感。視聴者の立場での台詞なら仕方ありませんが、当時の井伊惣領の言葉としてはオカシイですよね。

井伊谷の鼻っ先を流れる井伊谷川が浜名湖に流れ着く地が気賀ですし当時は河川を利した水運など当たり前のことで尚かつ伊平や三岳山あたりと同等あるいはむしろ楽に行けそうな場所ですからね。

 

まぁ歴史的にハッキリとわかっている人物を登場させなければならないという意図からの演出だったのでしょう。しかし、あまり「キーキー声」が過ぎると耳に付いてしまいますね。

 

気賀はドラマではこれから家康の侵攻によりボロボロにされる地でもあります(堀川城 獄門畷)。その地をまとめていたのが中村家でした。中村家址は気賀駅北、NTTの建屋のあたりです(場所はこちら こちらも参考まで)。⑥⑦は本陣前公園バス停前の図。⑦は正明寺。

①②③は小堤山から。ラスト3枚は境内の一コマ。色といい光の加減といい「夏」です。

ケヤキの実は葉につきます。ちょうど今これらがパラパラと。秋でもないのに・・・何故なのか私にはわかりません。

 

 

 

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2017年

5月

28日

決定「今川氏展」 藤枝市郷土博物館 6月2日より

介護というものが時に体力勝負であることは承知しています。先日久し振りに母を帰宅させ、昼食を摂って施設に戻しましたが、翌日からの筋肉痛の発生にそれをあらためて思ったところです。少々の腰痛を伴うもので、特に左右太ももの裏側の不快は日ごろの運動不足をも感じました。

 

何故に特に「足に来た」かといえば車椅子であの坂を含む道の往復をしたためでしょうね。自宅でも母を引き上げたり支えたりをしたため腕にも違和感が残ります。車椅子を押すなど「何の事はない」と一見思いますが、意外にトルクがかかるということを知りました。

 

たった数時間の付き添いをしただけでくたくたに疲れましたので、実際の「現場」で働く方々のご苦労というものがわかります。そしてあの場は体力だけでなく忍耐力、精神力も不可欠ですから・・・。並の人間ではやりきれない職場であることは毎度実感するところです。

特に母の場合は何故か体重が減りません。よってまるで石のように感じてしまいますね。

ちなみに母親が車椅子になってしまったのは「骨折」→「寝たまま」「歩かない」→「筋力低下」→「骨折」→・・・・の繰り返しでした。そのメカニズムはわかってはいましたが父親の発想「骨折するから歩かないでイイ」を主張したため気づいた時は体力がかなり衰えていました。

まだリハビリの機会は残っているのですが、片腕にチタン合金が入っている違和感からか、腕を動かそうともしないので、手すりなどに掴まって体を支えることもできません。

 

よって今更リハビリを行って再び骨折でもすれば、医療機関への入院となってしまい折角入所できた施設を出なくてならなくなることは必定。

それだけはどうしても避けたいですから「今更の勝負は無い」と考えています。この施設にはいる前は「さぁリハビリ」などいう意気込みはありましたが・・・こちらの体力もすでにないというのが本音ですね。

 

さて、4月の半ばに標記「今川氏展」について未定の部分含めてブログアップしていましたが、お約束通りその企画は進んでいよいよポスターとパンフ等も出来上がりです。

企画の方も固まって案の定小和田先生をお招きしての講演もアリと充実の感。そういえば先生の今川関係のニュース報道としては5月19日に「今川復権宣言!」と題し今川義元生誕500年-2019年を盛り上げようと臨済寺にて講演されていました。

いよいよ駿府も本腰をあげつつあるところでしょうか。

 

「駿河の戦国大名今川氏展 藤枝市郷土博物館」 

6月2日~7月17日です。

小和田先生の講演はあっという間に定員に達しそうです。

 

画像①②が拙寺掲示板。③は博物館入口の図。

あとはポスターより。

※拙寺からも出展依頼がありました。図々しくもその空間の片隅に発見できるかもしれません。100円玉×3個を握りしめて蓮華寺池池公園にGO !。 

 

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2017年

5月

27日

歴史秘話は岩村城 天空の城のイメージはないが・・・

一昨日から続くグズグズ天気は昨日も一日中つづいて少々不機嫌。これからの本格的梅雨の季節が思いやられます。

外に出なくてはならない理由がありましたのでそれは仕方ないといったら仕方なし。むしろ霧雨状態ということで有り難く戴かねば・・・

まぁ、こんな日にお寺の遠足とぶつかれば目も当てられませんのであらためて先般、京都旅行の「高気圧のご機嫌」をいただいたことは感謝するところです。

 

さて、一昨日は「北風と太陽」などいう語を記したのでしたが、今年の初めころ、アメリカ大統領の「悪口」を並べたてたところでその語を使っていました。

いつの時も御日様の下にいることに人は「快適」を感じますし逆に不順な「天」を仰いでいればヤル気も失せましょう。

「明るくて暖かい」が一番です。

それを「人の恣意」でもって「緊張」を強いられるのはたまったものではありませんからね。

 

さて、昨晩の歴史秘話は「おつやの方」でした。

この人がいわゆる戦国史上「女城主」の括りの中では断トツ大本命の人ですね。

上記「悪口」のところで少々記していましたが大河ドラマとして採用されるとすれば「井伊より岩村」と思うのが普通の感覚。歴史好きであれば誰もがそのように思うところがあったでしょうね。

 

また時間はかかるかも知れませんが、大河ドラマ採用の選考には「絶対」といえるくらい「おつや」は挙げられている筈で、案外と「女城主」シリーズというシャレもあって実現も早いのではないかと思っているくらいです。

 

一昨日の昼は当家奥方の親類が千葉の大多喜町から来られましたが、聞くところによれば「大河ドラマ誘致で盛り上がっている」とのこと。どちらの地方でも歴史に関わりがあって胸を張れるような遺構が残っていれば「大河ドラマを・・・」というのがまぁお決まりのスタンスであり、それは市民の目的を一にして団結するということからも良き古の縁です。どちらさまも実現に向けて一所懸命になっていただきたいと思います。

 

ちなみに大多喜城は主役としては「本多忠勝」ということになりましょうが、彼を中心に描くとすると・・・少々焦点がボケがちになるような気がしないでもありませんね。彼の主たる位置は「戦場と転戦」、戦いに生きた人でしたからね。

 

井伊直虎の場合はどちらかといえば成功譚、「おつやの方」は悲哀で、日本人好みの趣向としては後者の方です。

何よりも歴史的文献の少ない「直虎」を現状ドラマ演出でよくカバーしていると思うくらいですが、「おつや悲哀」については比較的文献も残っていてシナリオ次第では面白くならない理由はありません。

彼女の立ち位置と来たら戦国でも中心位置に近いところがあって(織田信長の叔母)その運命ともいえる結末に人は同情・同化していきますからね。人気のドラマに仕立てるには絶好の素材だと思います。

 

私が驚いたのがおつやさんと秋山虎繁との息子を落城前に持仏観音菩薩を抱かせて密かに脱出させたという話があったこと。

その伝承のある家が村上水軍に属していたことですね。父母を殺した信長と戦ったというイメージが湧きますが・・・彼の父母が長良川にて斬られたのは天正三年(1575)です。石山合戦が元亀元年(1570)~天正八年(1580)ですから水軍として戦場参加は不可能ですね。

おつやさんと秋山虎繁の婚姻は天正元でしょうからその子の齢は城を脱出時に1歳か2歳、大坂への兵糧搬入がなくなる天正八年から信長が死ぬ天正十年であっても7歳~9歳です。

気持ちからすれば信長に「一矢を報いた」とあれば気持ちのいいところですが、それはムリがありました。

番組冒頭に「天空の城」と称したのは「標高が高い」ことを喩えたのでしょう。岩村の「岩」の代表たるものが①②の画像に見られる巨石とのこと。

 

下の画像では秋山虎繁を秋山信友としていますがこちらは同一人物です。

 

余計なことですが、ウィキペディアの「村上水軍」を見たら「え?」と首を傾げる記述がありました。

そちらは上から3行目「彼らの多くは~」のところです。いかがでしょう。

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2017年

5月

26日

佐藤兄弟菩提寺信夫の医王寺 ここにも兄弟の墓

しかし「時代劇の悪代官」風役回りをよくもまぁこのご時世に演じられるものか、まさに永田町は茶番の聖地ですね。

「水戸黄門」や「遠山金さん」を見ているよう。

 

『誤って「芸家」に落つ』は天才絵師(海北友松)の謙遜した言葉でしたが、好きで役者・芸人になっているセンセー方たちときたら・・・恥ずかしいことこのうえない態を見せつけています。まぁあの世界の顔ぶれを見ればマスコミ・タレント・スポーツ選手と「成れの果て」をも想う職種となっている様。

 

クビにしたといわれる文科省事務次官のこのほどの「総理のご意向」の「有る無い」問答など最たるものですね。

総理の不都合をリークさせた腹いせに官邸主導で前川喜平氏のプライバシー(「出会い系バー」への出入り)を新聞週刊誌に曝露させるところなど何ともケツの穴の小き悪徳代官の仕業。

たとえそうであったとしても何らの違法性はないですからね。

政府のジタバタ感が伝わってきます。

 

何よりご当人が国会喚問に応じる(~「ソーリの意向文書は確実に存在」)と言っているにも関わらず拒絶する姿は先般の大阪の幼稚園の件と同様。

失態がバレたらうるさい奴は口を塞いで無かったことにするなんざぁ時代劇の悪役役人のいつものパターン。「ヤバいから呼ばない」・・・まるでお子様。だから茶番と思われても仕方なし。

 

都合の悪い事は無かったことにしようという姿が見えています。そもそも人間ですからそれ(隠し立てしたい事いろいろ)はある筈で、容認すへきこと多々ありますがこと国のトップにある人ですからね。子供も見ていますよ。

ご当人はその辺りの雰囲気が分からないのでしょうか。

誰が見ても道理に合っているとは言えないでしょう。

 

あのままうまい具合に何事もなかった風を装うのであれば善良な市民としてはもはや「必殺仕置人」を頼むしかないのかも。

 

どちらにしろコズルいことをやられていながらそれらを放置、その悪システムをただ傍観している一市民の私があります。

まぁ「時間が解決してくれるでしょ」と如来さんと苦笑している昨今です。

アメリカ国内と同様、中心部からの「リーク」ほど決定打となるものはありません。

悪いことにはフェアプレー「内部告発」によって正しましょう。是非に貴方様もお立ち上がり下さい。

 

さて、五月もそろそろ終わりではありますが旧暦でいえば「そろそろ始まり(皐月)」というのがこの時期。

「さつき」を紐解けばその「さ」+「つき」の「さ」とは「耕作」を意味するようです。という事で田植えの月であり要は「梅雨時」のことが本来の「さつき」です。

 

この頃の芭蕉の句で一番に思い浮かぶのが

「五月雨を あつめて早し 最上川」です。

どなたでもご存知の句ですね。たしか中学校の国語の教科書で初めて触れたものと思います。

 

「五月雨」(みだれ)が梅雨の大雨であると解せばまさに激しい流れの最上川を推することができます。

 

そこで今一つ芭蕉の句。

「笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟」

     (おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)

「笈」は背負子の一種ですが弁慶を表し「太刀」は勿論義経をイメージするグッズ。

芭蕉は「木曽義仲」好きではありましたが、やはり「滅亡」「敗軍の将」ということでは兄に追われた義経も同様。感ずるものがあったのでしょうね。

 

昨晩のNHK「日本人のお名前」は「佐藤さん」でした。

国内200万人と断トツ1位(鈴木さんは2位160万人)の苗字ですね。

あいにくとこちら相良の拙寺檀家さんの中ではその名は見当たりませんが・・・

私の「佐藤クン」のイメージは沖縄で知り合った「人のイイ 東北訛りのキツい男」です。

 

私が沖縄から引き揚げて数年間も地元ホテルに勤め、私どもが沖縄に出向いた時には色々と面倒を見てくれました。

現状消息不明ですが番組の中で「東北地方に圧倒的多数」を聞いてなるほどと思いつつ彼のことを懐かしく思ったところです。

是非再会し積もる話をしてみたいですね。当家の奥方とも共通の友人でもあります。

 

さて、先日来京都国立博物館の「馬町十三重塔」(佐藤兄弟塔 渋谷街道旧跡)について記していますがこの「佐藤」もやはり東北福島出身でした。

義経に同行し兄弟共故郷へは「帰らぬ人」となったワケですが、その上記番組でも彼らが取り上げられてビックリ。

地元では英雄だったのです。江戸期の一時期は「忠臣蔵」に匹敵するほどの悲哀を描いて庶民に絶大の人気を得た物語(「義経千本桜」)がありました。

 

その地元福島には佐藤氏、兄弟の菩提寺として医王寺があります。

福島といえば「信夫山」ともいいますが、昔からこの「信夫」(しのぶ)の地を治めたのが佐藤氏でした。

 

先日京都遠足におつきあいしていただいた布施氏があの「十三重塔」を見たあとに、「ほれ」ということでその医王寺画像を提供いただきました。

かつて「相馬野馬追」には行ったといわれていたことは存じ上げましたが「墓場放浪」をしていたとは・・・驚きです。

 

珍しい板碑状の兄弟の墓については私の所有する川勝政太郎先生の「日本石造美術辞典」への掲載はたまたまありませんでしたが、古い時代のものとしては異様なカタチをしています。

やはり「有名人の墓碑は名物」としてつい「薬効」に結び付けて削り取って服用、あるいはお守りにするという奇妙な風習があったようです。ひょっとして何代目かの墓かもしれません。

森石松」など博打打ち、義賊等の墓を思い起こします。

 

尚「悲哀」のストーリーとは佐藤継信・忠信兄弟二人の妻が亡き夫の雄姿を讃えて自ら甲冑をまとって夫の姿を装い兄弟の母を慰めたと言います。

 

尚、この地は古くから修験道系あるいは真言系の宗旨を思いますが、東本願寺のサイト「真宗移民の記憶」によれば「相馬中村藩」復興等、度重なる災難に力を集めたことが記されています。

 

画像はすべて布施氏によるもの。

「瑠璃光山医王寺」(場所はこちら)の名称の通り、薬師堂があって本尊は薬師如来を想像できます。山号の瑠璃光も薬師の別名です。そのお寺の兄弟の墓碑を削って飲むことに薬として何かの病への効果を期待したのでしょう。

 

最後の画像、五輪塔のカタチは以前見た瑞巌寺のお隣、五六八姫の天麟院(てんりんいん)の洞窟のものに似ています。

ただし宝篋印塔の形式を残していますね。私は慣れ親しんでいる五輪塔のオーソドックスなカタチがイイですが。

どうしても違和感があります。

 

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2017年

5月

25日

夏真っ盛り 8/15の法要はジャジーに 再び「松風」

イギリスの子供達をターゲットとしたテロは凄惨でした。

あの手の悲劇はその発生のたびに「もう目にしたくない」とは思っていても、忘れたころにあの様を見せつけられ続けています。嫌な時代ですね。「戦争」が国家ではなく、為政者でもなく直接市民に及ぶのですから。

ここで英首相がコメントした「これだけは言っておく 私たちは勝つ」について考えてしまいました。

 

意図としては大いにわかります。子供を狙うという「最大のソフトターゲット」は卑劣そのものですからね。怒りも頂点に達しているのは当然でしょう。

それはトップが国民の団結を促して平穏無事な国家の運営に軌道修正をしたいという気持ちをアピールしたのでしょうが、そもそも「テロリズムに勝つ」ということは何なのでしょうか。

 

それが「差別と格差社会を容認する世風に克つ」ということならばわかりますが「テロに勝つ」とはアピールに過ぎるような気がします。

これば「勝ち負け」のレベルではないような気がしてならないからです。

 

なぜならばテロとは自国民の中から自然発生的に出現する「鬱屈した歪んだ精神」の発露であると定義したら怒られましょうか?

私にはそれは「差別と格差社会」そのものの中に健全性を求め「自身勝ち抜く」ことにのみ有意義第一に生きる私たちの、今ある我らの中から現れると思うからです。

 

自分の体内健全性を脅かす癌細胞と同様で、細胞の突然変異によって悪性腫瘍化する姿に似ています。

テロとは「自身」の変化した姿なのですね。

よって海外の「不穏分子」の流入を想定する嫌いがありますが、これはまったくナンセンス。テロ思想とは市民から自然に芽生えるものなのです。

 

それを誘発するものは・・・

①政治の高慢な施策 ②抑圧された個人の敗北感 ですね。

①②とも受け入れる側の感覚が微妙に違います。

そもそも①などは為政者は高慢であるが故にまた自らの非を認めないものなので、それがありうることでさえも認めないでしょうね。よってもとからその変化などは期待できませんし・・・。

 

また、敢えて③を追記するとすれば「若さ」でしょう。

青年期の潔白意識と犠牲的精神は高く、一たび何か思うことがあれば「行動」を起こしやすいという傾向がありますね。

他者より感化されやすいといったらそうかも知れません。

 

日本政府はだからこそあの治安維持法もどき(共謀罪)の法案を通さねばならないと主張するでしょうが市民レベルの敗北感そのものを惹起するのは「発言と行動の抑圧」からと昔から決まっています。

少々の為政者の傲慢は目をつぶったとしても、その許されていたはずの「市民の権利」を抑止されたとしたら・・・「地下に潜伏」するしかありません。反動分子を生む、それが歴史です。

 

強く縛れば反発心も出現するということ、その副作用(テロ思想)は宗教に関わらず、個人的敗北感が元となることを忘れてはなりません。何人も「見捨てられている」を感じた時に病理のスイッチが入るのです。

 

ということで誰も「敗者をつくらない」「孤立感を抱かせない」ことが政治であって「勝ち負け」の台詞にこだわっていたら未来永劫その恐怖からは逃れられないでしょう。テロの撲滅(戦争も)はやはりイソップ物語の「北風と太陽」なのかも知れません。

地道な対話と共生の努力を放棄してはいけないのです。

 

さて、今年の盂蘭盆会法要の日程と恒例の8月15日の終戦記念日の兼戦没者法要(正信偈の会)のあとのイベントが決定しました。

時に何度か記していますが拙寺の盂蘭盆会法要は7月と8月の2度あります。これは地区によって時期が違うということからそれぞれに対応しようと行っています。

7月15日は今年は土曜日ですが通常、仕事に行って出られない方用に夜間開催も入れていますので法要としては全3回ということになります。

どちらかに参集いただければということなのですが、今年のお客さんをお呼びしての出し物は8月の法要の方。8月がおすすめ。

 

2017年盂蘭盆会法要  正信偈の会


※盂蘭盆会法要  7月15日  午前    10時
※盂蘭盆会法要  7月15日   夜     7時
 
※盂蘭盆会法要  8月15日  午後      2時

 

8月15日の法要開式は午後2時からで、正信偈拝読後の法話はバッサリ飛ばしてジャズコンサートになります。

 

8月15日14時30分頃より「盛夏のジャズライブ」と称してサックス奏者(サックスだけではありませんが)のKoichi Matsukaze 松風紘一氏とのひと時をおすごしいただきたいと思います。

 

松風紘一氏

静岡市出身1948年生まれ

高校在学中から国立音大教授石渡悠史氏に師事し国立音大在学中よりプロ活動を開始。自己のJAZZグループの他、様々な音楽シーンに参加。70年代に初リーダーアルバムを発表。

82年には、自己のグループ(サックスワークショップ)で合歓ジャズインに出演、その他公演共演多数。98年、今村昌平監督(山下洋輔音楽監督)"カンゾウ先生"の映画音楽にフルートで参加・・・詳細は当HPの「ホーム」に。

 

「松風」さんとは風流な姓ですね。昨日記した京都の御菓子の名には歴史の重みがありました。

特に「哲学的」を思わすのは一休さんの

 

  『心とは いかなるものを 言ふならん 

              墨絵に書きし 松風の音』

 

テロとは心の病であることを知らしめているようでもあります。私の心の動きなど私でもわかりゃあしない。

心が荒むとロクなことがないのは御承知の通り。心を大きく開いてお念仏し、美しい音色とテクニックに耳を傾けてみたら「何か」つかめることができるかも知れません。

 

尚、入場フリー、どなたでもどうぞ。

 

画像③は松風紘一氏 ②は昨日到着した真宗大谷派宗務所発行の新聞「同朋新聞」6月号の表紙。今年4月に行われた蓮如上人御影道中 御下向の難所 木の芽峠(福井県)の図。4月17日から23日まで240㎞(京都―福井吉崎)を7日間で歩く御仏事。

興味はありますが、コレは私には無理ですね。

また「6月」の声が聞こえるのも驚き。

 

「同朋」の通り仏道は「みな同じ」を基本としています。

眠そうにしているネコは私の僕(しもべ)。私の近くにいつもいてくれます。寝床は今のところ一所です。よって何度も寝返りで踏みつぶしていますが絶対に怒りませんね。真夏になったらさすがに独りで寝るのでしょうが。

他のネコたちもいたって友好的。喧嘩し殺し合う人間どもを知ってか知らぬか「静観」を決め込んでいます。

 

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2017年

5月

24日

石山本願寺 陣中食兵糧といえばコレ 松風 

みっともないのは法務大臣の「カラのお頭」だけではありません。国連の勧告を無視してまで「国民シバリ」のあの法案を通しました(衆議院)。

あの法律の対象は一般市民向け。

取り締まる側の警察含め役人、政治家、財界人はカンケーない法案ですからね。

それが戦前の治安維持法と同じといわれる由縁です

 

それをやらせるべく選んだのは国民。

この国の人々は結構マゾですね。縛られるのがお好きのようで。

 

国連へのキレぎみの返答メッセージもお寒いもので、あれを見ていると昭和天皇に毛嫌いされた松岡洋右の国際連盟脱退時の姿を思い起こしました。

日本人が「世界の一流」の仲間入りができないところが「そこ」というところがわかっちゃいないのでしょうね。

政治家の品位含めすべてが「恰好わるいねぇ」を思いました。

 

さて相良の人たち、というか檀家さんたちは京都の土産といえばまず「阿闍梨」を所望する傾向。

大阪方面の行脚でさえ、そちらを販売しているデパートの検索を頼まれるくらいです。

 

私も時にタイミングが合って、ちょいと予算に余裕があればそれを帰りのバスのおやつに出した憶えもあるくらいです。

しかし最近はなかなか購入のチャンスが現れませんね。

 

まぁ目的をそれだけに絞って一直線に店に直行すれば何とか購入はできそうですが京都駅構内や近くのデパートの販売所では

午後遅くともなれば「売り切れ」状態は当たり前。

まともにモノがあったとしても行列が発生していることもあるようです。よって「頼まれたのに売り切れちゃった」という悲鳴に近い声も聞こえてきます。

 

私が以前ほどその菓子へ向かわなくなったのは自分自身甘いモノは好きなのではありますがはっきり言ってそろそろ「飽き」がきたからではあります。しかしやはり土産にするには気軽で京都らしく妥当なものとは思います。

 

初日の17日(水)の夕方はみなさん京都伊勢丹の地下街になだれこんで土産の購入に回ったのではありますが、実はこの日は阿闍梨を販売する店は開店休業状態だったのです。驚きでした。

これは先般、ジャガイモ不足が原因でポテトチップが品薄になるというニュースがありましたが、この「阿闍梨」の原材料である「丹波大納言小豆」もまたかなりの不作となって阿闍梨本舗の京都地区の販売所は一律水曜日を定休日にし対応していたのでした(10月末まで)。

ということで木曜日午前の販売所に行列ができるワケですね。

 

品薄の菓子は無理して購入する必要はありません。

18日の早朝に堀川通を西本願寺に向かったことを昨日記しましたが同行者と「ここが松風」との会話を交わしていました。

その方は18日にスタートの「京都国立」を回ったあとタクシーで京都駅に再度戻ったとのこと。

そちらからの電話で「松風、売ってるよ」ずありました。

勿論購入をお願いしました。ただしこの松風も水曜が定休日と聞きます。

 

話は飛びますがこの17日のスケジュールには当初「竹林公園」も入っていましたがこの京都の定休日・・・「魔の水曜日」によって変更を余儀なくされています。

京都の水曜は土日祭日の次に気をつけなくてはなりません。

 

「松風」という菓子は一昔前の京の土産では八つ橋、五色豆に次ぐ代表的な菓子です。私には京都の叔母さん経由で子供の頃から慣れ親しんだ味で、その日の帰宅後真っ先に頬張ったのですが懐かし感ひとしおでした。ずっと忘れていましたね。

本当は車中ですすめられましたが、我慢した次第です。

 

餡が使用されていないので甘すぎ感はなく、あっさりで上品。

その私の「懐かしさ」あっての不思議なうまさなので、人それぞれの感覚ではありましょうが、つい「そういうものではない」ことはわかっていても3つ4つと続けざまに食してしまいました。

齢をとったということかも知れませんね。

 

この「松風」という菓子については「亀屋陸奥」のHPの通り、顕如さんが懐かしんで命名した名ですが、元は石山本願寺内、籠城戦の中、兵糧を絶たれた頃に作られた陣中食が発祥です。

 

こんなにおいしい兵糧でしたら、籠城戦が長期になったとしても案外イケちゃうかもしれません。信長はこの味を知らなかったとは思いますが、真宗門徒の反骨を思い知ったことでしょう。

ご先祖様の食べた味を思えば感慨ひとしお。

 

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2017年

5月

23日

晨朝勤行 西本願寺→→東本願寺 ハシゴお朝事

拙寺11月11日の報恩講日中の「法話」といっては何ですが、今年は死というものに付随する遺言について「面白く」語って頂こうと「公証役場」からご担当を招いてお話を伺おうという算段であることはどこかで記していました。

 

先般どこかであった事案について記しますね。

子供がいない夫婦でご主人が(遺言なしで)亡くなって奥さんが独りだけになった場合。すると遺産相続は・・・まず大抵の方が「奥さん総取り」でOK、と思われるでしょう。

ところがこの場合、むしろ特に遺言の効果を期待しなくてはならないケースなのです。公証役場に行って遺言手続きをしなかったことを後悔するハメになるでしょう。

 

要は他からの「主張」がありうるということ。

権利者がその件は当初は「どうでもいい」と思っていても「資産家」であったりすれば、まず周囲は黙っていませんね。

背中を押して「それでは・・・」という具合に手を挙げるということです。

 

その他の「権利者」とは・・・夫の父母や祖父母、もしくは、妻と夫の兄弟姉妹そして亡くなっていれば甥や姪までも。強烈に頭数が増えるという事です。

法定の分割は妻2/3で夫父母が1/3(1/6ずつ)、兄弟たちが相手となると妻3/4で残りの1/4が兄弟たちで分割となります。

 

これらのお相手がまっとうな方たちならマシですが、「遺産分割協議」という席を設けなくてなりませんので、それらに応じてもらえない、あるいは痴呆などで法律的決定ができないなどの理由があるともっともっと面倒な事になりますね。「遺産分割協議」によってハンコが集まった段階で凍結された口座に手を付けることができますし遺産の処分へと進むのです。

 

先日詐欺罪で捕まった方はご主人の遺言がなく、その「はかり知れない面倒」を知っていた方だったのですがご主人の母親には主人には多額の借金が存在することを伝えて「相続放棄」をさせていたといいます。ウラ技とは思いますが、所詮出るところに出て調べればすべて判明すること。かえってみっともないことにになってしまいました。「生きているうちにやることをやっとけ(公証役場で遺言)」ということでした。

 

当流は「後生の一大事」を旨としますが、お浄土に行った当人はいいが「後のことは勝手にどうぞ」ではうまくないですね。

 

さて、ブログにてどちらかでも記していますが、今年の本山へのお参りは「晨朝(じんじょう)=お朝事へ行こう」でした。

ホテルは京都駅前ということですが、これは本山にも近いということ。お参りは気軽です。

しかし私の企画は「西と東の両方、聞き比べ」というものでした。まぁ初日にくたくたに疲れてその二日目の早朝のことですから、まずは誰も手を挙げる人はいないだろうと思っていました。勿論「参加自由」です。

誰もいなければ「2度寝でも」と思いきや5時40分集合のロビーには7名が集まって感激。

 

まずは6時開始の西本願寺へ。

まず阿弥陀堂に入堂すると「ほうっ」と驚きました。

椅子席でした。参加者も私服がかなり。上に黒衣を羽織る一団も見受けましたが大半は一般人の様。カメラ片手にパチパチやっているのも驚きです。お東では警備員が飛んできますからね。

お勤めは超スローの嘆仏偈(讃仏偈)で意表を衝かれました。

お勤め終了後は案内があって場所を御影堂に変えます。ぞろぞろと皆さんのあとに続きますが、こちらもすべて椅子。

正信偈でしたがお西の正信偈を久々に耳にしました。節がお東とはまったく違って変なクセが付きそうで発声せず。それよりもあまりにもエンターテイメントな感覚で終始キョロキョロしていました。

 

6時50分にお西を出て東本願寺への到着は少々の遅刻となりました(7時00から)。

御影堂に入るとお東の晨朝のみに参加してくださった方々の顔も見えてついうれしくなってしまいました。

おつとめはお馴染みの節の正信偈でしたがご一緒した檀家さんによれば早すぎてついていけないとかなりの不評。「どっ早」と。おそらく阿弥陀堂では阿弥陀経が拝読されたのでしょうが、そちらはもっと早く感じますね。

 

ン十年前の事を思い出しましたが昔から「こんな感じ」で早読みに関しては「そういうもの」と思っていましたが「西を見て東」(当然に時間の順序はそうなります)となると違いは歴然。

今風に言えば明らかに「西のうまさ」が光っていました。

ということでお東の堂内は参加者もまばらで黒衣が多いというところ。

 

イイ悪いを評することはできませんが・・・

 

お東の読経の発声は荘厳系、堂の空間を生かした自然な音の響きを味わうといった感じです。私は嫌いではありませんが・・・

堂内照明はお内陣が暗く外陣が比較的明るくなっています。

そして基本的に畳の上に直に座ることになります。

 

お西はそのまったく逆。読経前に喚鐘が打ち鳴らされて雰囲気も盛り上がったところに照明は外陣が暗く、あたかも劇場を思わせるような効果があります。読経発声も比較的大きく聞き取りやすいですね。

素人目に見たら100-ゼロでお西の勝ちでしょうが、これは楽に参加しもらい「見せる」「聞かす」ことに傾注していることが窺えました。

 

どちらかというとお上品で正攻法なお西に対して野暮ながら斬新、時に過激というのがお東というイメージだったのですが、今のお東の晨朝は「昔と変わらない」ところを実感しました。

本来の主旨は違いますが本当にオープンな寺を標榜するのであればお西のやり方を真似てもっと変わってもイイかもしれません。お西の晨朝はまさに「ショータイム」。そういう意味からすればアレは外国からの観光客にはおすすめですね。見せますねぇ。参加はタダですし。5時起きの京都も面白いですよ。

 

ただし「西」から「東」への移動が辛いですね。

堂を抜け出すタイミングも・・・

 

上記最後の画像2枚はお東の御影堂ですが限りないデカさを感じます。画面に納めきれないくらいです。

左画像はお東からタクシーでホテルに帰る檀家さん。

「タクシーを止めて」の声に「スグそこじゃん!!」とつい返してしまいましたが年配者にとっては片道でも辛いとのこと。

まだまだ人の気持ちになっていない「わかっちゃいない」私があります。

またビュッフェ形式の朝食の際、ご一緒した比較的若い女性の檀家さんに向かって、トレーの上を見ながら「ガッツリいきますねぇ」とつい言ってしまったことも後悔の一つでした。

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2017年

5月

22日

高台寺山 東山青龍殿 堂の瓦は藤枝渡邉商店

昨日、バス会社(静鉄)の担当より今回のバスチャーター一式の請求書が回ってきました。

ひょっとしてプラマイゼロに何とか持ち込めるか・・・という期待はありましたがそれは少々甘すぎでした。

 

参加者の減による私の行ったケチケチ行脚への変更事項といえば、

①駐車場代金のかからない場所のみ選択(バス駐車場料金は普通車に比してバカ高です)

②昼食代予算の減

③相良帰還時の夕食タイムをなくし車内での弁当タイム(バスと乗務員の拘束時間を減らすため)

④前回マイナスだったことから会費を2000円upしての募集

 

といったカタチで対処していました。

 

しかしそれらの節約モードも水泡。

主たる原因はバスチャーター代金の値上げ(約2万円)でした。

まさかと思いましたが、それを確認せずに発注した私のミスでした。

そもそも「大浴場付きで京都駅近く」などという少々贅沢なくくりで決定したホテルは昨年より単価が2000円程度高かったのでした。そのためのオーバーは予測していましたが最悪「どちらかから流用すればイイ」といういつもの安直なドンぶり勘定をしていましたね。

 

昨年の四条河原町のホテルは四条通が観光バス進入を禁止していますので烏丸通から皆さんを歩かせたのでしたが、その不評を加味して、今回はホテルとバス降車場所との距離(今回は50m)を短くするということも決定の理由でした。

皮肉にも昨年それらについて指摘された方たちは非参加だったのですが、品質と対応、システムという点を比較して昨年と同様でも良かったかも知れないという気持ちは残りました。

 

全国各地で2、3流あるいは「もぐり」のバス会社による大事故の頻発により国の指導や社内安全基準は厳しくなって、またかつ大手への需要増も重なったためでしょう。

大手バス会社となればホクホク状態かも知れません。

そのうえ海外からの観光客増によるバスチャーター依頼に、学校の管理のしやすさということもあって「修学旅行はバスオンリー」という発想が今中学校では当たり前のようになっていることも「バスが足りない」理由といいます。

ちなみに私の学童時代は鉄道オンリーでしたが。

 

そういうワケで修学旅行シーズンのバス代金は高騰ぎみ。

半年以上前からフル稼働の京都(ホテルとバス)の予約を行ってコースを決定、駐車場手配に観光手配まで行えども、このやれやれ感ですからね。ホテルの団体予約など京都市内はもはや不可能に近いレベル。

 

参加者皆さんが無事のうち喜んで帰ってきていただければそれで上出来なのですが、もう少し「何とかしようよ」と自問しています。

そもそも利益など求めてはいませんが「私設旅行代理店」経営者としては落第点でした。まったく数合わせ勘定は苦手です。

 

「社内規定?」により添乗するようになったガイドさんにはお世話になったことは事実で色々と動いていただきましたが何分「ガイド料」(32400円)の発生はキツイものがあります。

宿泊費と食事代を合わせれば50000円になりました。

行先は私がすべて決めていますのでね。「ガイド」といわれても・・・

 

昨日は「35人」がレッドラインと記しましたがこの請求額で一夜にしてそれを訂正します。「37人」がプラマイゼロになりました。

38人以上で「婦人部皆さん集めてのランチ反省会ができる」といったところです。

当初私が寺に入ってからのバス遠足では代金はより低価格。

それでいて旅行後に返金に各家を廻ったほどですから現状凄い変わりようです。

この業界だけはインフレ率は上昇していますね。

それも「2%」どころの騒ぎではないくらい。お国からすれば優等生です。

 

画像は昨日の東山山頂公園から歩いて約100m。

青龍殿の景色(以前のブログ)は絶景。正式にはこちらは「高台寺山」と呼ぶようですね

初日17日の画像で少々雲が出ていますが翌日は雲が見当たらない真っ青な空でした。

集合写真はこちらで撮影しました。拙寺の門前掲示板に大判を貼り付けてあります。

 

こちらの建屋は大正時代のもので他所から移築されたのですが、拙寺「寺楽市」にて焼き団子やたい焼き屋、昨年では落語会を当山で開催お手伝いしていただいている瓦屋さんが瓦を葺いています。

拙寺本堂の瓦を葺いた瓦屋さん「渡邉商店」のホームページをどうぞ。

拙寺境内で団子を焼いている社長さんの顔もありました。

 

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2017年

5月

21日

一番悩むのが初日のお昼ご飯 東山山頂公園で弁当

毎年開催の寺遠足にそろそろ限界を感じるようになっているところですが、終わってみると「また行きたい」になりますね。

ここの所の年配者脱落による参加者減少に維持不能を思いますが、比較的若手の継続も増えつつあって止めてしまうのは惜しいような気がします。

 

今回も相良到着の際、「日程と場所が決まったら教えて・・・」の言葉に「は~い」と良いお返事をしたものの、婦人部の皆さんには「来年はお休みにしたい」を打診したりしています。

 

大型バスの使用で格安最低ラインのケチケチ行脚。

それで35人の参加を確保しませんと赤字になりますのでその「レッドライン」を目安に事前アンケートを行おうと思います。

それを告知して中止の確固とした理由を「ラインに満たない」と理解していただこうと思います。突然「中止にします」では納得のいかない人もおられるでしょうから。

突発的事案の発生は無視することは当然ですが、記名によるある程度の責任と覚悟というものを期待しつつ、何よりも遠足挙行の実際を推測する目安となります。

 

ことに最近は「行く行く」言われてカウント、期待していれば直前になって「行かない」というがっかりパターンが多々ありまして、その辺りの私の精神的プレッシャーは「もう無理」のレベル。まぁその辺りは私の「歩け歩けの号令」と「自由時間多し」「全般不手際多し」にあることもわかっていますが・・・

そして、行き当たりばったりの募集を行ってハナっからバスを予約する(35万~)というリスクから開放されたいというところが本音です。

①大谷祖廟の掲示板ではありませんが、結構辛いことです。

 

今回もギリギリで泣きを入れて何とか檀家さんに親戚中に声をかけて呼んでいただいたり私は老体の叔母を無理やり数字合わせで参加させたりでまったくギリでの催行でしたから。

今回の御納骨5件12名の参加は来期剥落することは必定です。今回は御納骨参加者が比較的多く、そのおかげでツアーがもったようなものですからね。

 

さて、いつも「どうしよう・・・」と皆さんを路頭に迷わすのが初日の「勝手に昼食タイム」です。二日目については完全自由時間ですから私の管轄外ということです。

 

昨年は本山でお斉をお願いしましたが前々回は最悪でした。

京都文化博物館での洛中洛外図屏風展のあとのランチはバラバラでどうしていいかわからないといった皆さんが付近に溢れてしまいました。たくさんの人が一時に入れるハコはそうはありませんし・・・。

 

ということで、今回は東山山頂公園で「景色を見ながらのお弁当」という企画にしました(以前のブログ)。

まぁ天気が悪かったら最悪ですがその時は「自分の不運を恨め」という具合で「えいやぁ!」で話を進めていました。

 

「たけのこ御飯と京のおばんさい」弁当を大谷祖廟のバス駐車場まで配達をお願いしておくという作戦です。お弁当屋さんの社長さんが色々面倒をみてくださいました。

勿論私は納骨の法要に参加していますので受け取りはガイドさんにお願いしておきました。

この方法はベストだったと思います。時間の節約になります。

 

公園の位置はちょうど大谷祖廟の真上、という位置になりますが、私の目論見は少しだけ外しました。三条蹴上から粟田口処刑場の碑の手前を左に折れるコースは東大路通の右折禁止は勘案していなかったということ。よって清水五条方向から東山トンネル前を左に入るルートの使用となりました。「歌中山」出口からです。

 

何故かその日は東大路通の通行は不思議なほど空いていました。未だかつてそのような車の少なさを見たことがないくらいでした。おかげさまでスンナリ山頂公園へ。

意外に公園駐車場は混みあっていて驚かされましたが、何とかバスを駐車していただきお弁当タイム。

 

お弁当は京都らしくて「おいしい」との声が。

あの手のあっさり感はこってり感に慣れている私たちにとっては逆に新鮮。

大阪のビル群が確認できたとの声もあって空気の澄み具合もヨシ。

とにかく天気が良かったのがなにより、一か八かの企画も図星となってまずまずのデキでした。

石の上に腰掛けるのも皆さん抵抗ないようで早速にお弁当を広げていました。

まぁ弁当を持ってこちらに来たら「それしかない」ですからね。

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2017年

5月

20日

ビール工場内に入ってみたい ・・・山崎合戦 明智の陣

私こと「テレビ小僧」の直近の「見たい」とスタンバイOKの番組といえば2週連続で放送されるという「今川義元」であることはどちらかブログで記していました。

番組はEテレの 「先人たちの底力 知恵泉」ですね。

昨晩そちらのHPを確認したところ、しっかり更新されていてその旨の予定が記されていました。

以前見た時は明記されていませんでしたので・・・

 

5月23日と30日午後10時00分~ 午後10時45分です。

 

「見たい、行きたい」は実現して初めて達成感があるのですが、一旦見てしまえば、あるいは行ってしまえば何のことはない、ただの「ふ~ん」で終わってしまうのは「常の事」とはいうものではあります。

それはわかっていても長期間にわたってその希望を持ち続けていると、とにかくこの目でと確認したくなるものです。

 

昨日は「歩きマニア」の方の一挙両得について記しましたが今回の「遠足」の予定に入れた私の「あさましさ」を記します。

 

色々今回の「旅の目玉」はありましたが、この「ビール工場の見学」というものは寺の旅行、いや私の企画としては皆さんの意表を衝いたのかも知れません。

 

そもそも私が酒は飲めない性分であること、それに関する一切合切のお付き合いもできない無作法者であることは皆さん殆どの方が承知だからです。

その私が何故にビール工場の見学を行程に入れたかといえば・・・

 

まぁ普通に考えれば①たまには目先が変わって面白い趣向②お酒を愛するといった檀家さんが多い(出来立てビールの試飲ができる)③ビール醸造の知識が増える・・・等々あってよろしいのかと思いますが、どれもこれも私にとってはそれらは2番目3番目の理由。

 

5月も後半にもなると「本能寺」を思い起こしますが天正十年という年は天下の情勢が一気に不安定となった季節です(新旧暦感違いますが)。

今川義元を破って我が世の春を謳歌していた織田信長のその「天下」たるや世の人は一部一向宗(真宗)門徒以外を除いては「盤石」を思わぬ人は居なかったでしょうね。

 

それが儚くも一夜の出来事(本能寺)でその彼の野望は灰燼に帰してしまったのでした。

結果的に見ればこの織田信長の大失態(凡ミス)は桶狭間の今川義元と同じといえば同じだったというワケで・・・。

要は自分が滅ぼした今川義元の轍を踏んじゃったのでした。

 

真宗門徒が「あの男もだいたいそんなこと」との思考があったというのは、

仏の教えたるや、基本は「後生の一大事」といわれているところであります。

現世において「ゆめゆめ油断あるべからず」を「本とするを常にして」「わが身生かされている」を感じながら「念仏するを喜ぶ」・・・といったスタンスですので、「仏敵信長は今は調子のにっているがいつかは滅ぶときが必ずくる」を一同それを承知して(盛者必滅)、ただその日が来るのを待ち続けていてということでしょう。

だからこそ石山本願寺は持ちこたえ続けて約11年もの間、信長と戦うことができたのです。

 

ここで11年間の籠城はいかにも長く、結果的に信長の完全なる天下統一というものを阻んだということで意義あるものとなったのでした。

それにしても「11年の籠城」とはいかにもギネスものです。

仏敵には仏罰というものが付いて回るものですからね。

 

坊主のクセに酷い放言をしますが仏罰があるからこそ、みな真摯に励むのです。