2022年

5月

25日

山号は本松山 阿弥陀如来立像と葵紋 高月院寂静寺

昨日も朝から連日の榛原病院行き。

人間ドッグで内視鏡検査(胃カメラ)を選択した場合は一日前にPCR検査で陰性の確信を得たい・・・というのが今の病院の態勢です。よって一昨日の来院は事前検査でした。

 

最近はブログにて「死ぬよ 死にます・・・」と「死」の語を吐き散らかしていますが、実は私、今年になってからこれまでになかったような体の不調が出てきていたわけで、まぁそれをあげていればキリがないのですが、特に「そろそろお年頃」ということでしょうね。

また、仕事がら頻繁に耳にする嫌悪すべき、「ステージ3」だとか「余命3カ月」の宣告について、それが今あったとして「覚悟があっていい」というのが昨今の気持ち。

 

それ(病)ばっかりは年齢に関係はありませんしいつもの蓮如さんの御文(5-16 白骨)からすれば

「我や先、人や先」の通り「私が先に(死ぬ)」こと往々にあって「(今日とも知らず、明日とも知らず)おくれ先だつ人は、本(もと)の雫、末(すえ)の露よりも繁しといえり」・・・で後から後からどんどん追いかけていくように人は死んでいくもの。

 

命の儚さをしばしば「露」に喩える(あっという間に消えてなくなる)ことがありますがその「もとの雫」と「すえの露」の対比について松の大木を連想してみてください。

 

「もと」とは大木の幹部分、「すえ」を松葉とし、その松葉の先端から零れる露を命に喩えます。

また幹は自身、松葉を他者とも。

するともとの大木の幹に流れ落ちる雫は先端の松葉の先からの露より断然多いもの。

なにしろこの「私」の生かされている世界には「死」というものが隣り合わせの如く無数に「ある」ということです。

 

それも「人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば」であって年齢老若の順番などまったく関係ありませんから。

 

ということでいつもと違った人間ドックの(仮の)検査発表を覚悟しながら神妙になってその部屋に入ったのでしたが、結果は「概ね問題ないだろう」との弁。

私のその継続許諾を頂いたようでありがたく生かされている自身の命をまたも実感。

 

改善すべき点への指摘は多々ありましたが、一番気になったのは先生が心電図を見ながら「飛んでいるね・・・」。

「心臓が止まっている時があるの?」と聞けば先生はニヤニヤして黙るのみ。

そもそもその件、若い頃に私は「洞性不整脈」を指摘されてい

て、この頃それを言われなくなったものだ・・・と安心していたのでで、治ったワケではなかったということですね。

 

スグにどうということはなさそうですが、「何がヤバいの?」と聞けば「血栓ができやすいかなぁ・・・」とのこと。

「要は食い物」注意のまとめ。

「天ぷらにラーメンとか・・・ダメだよ・・・」でした。

 

奥方の方は「甘いもの控えなさい」のご注進を頂いたわけですが、その件大いに不服そうでした。なぜなら当家で「甘いもの」の代名詞といえばすなわち私の方ですからね。

奥方の場合は「もっと運動しなさい!!」ということ。

 

さて、松平郷高月院(一昨日ブログ)。

通称「高月院」の寺号は「寂静寺」ですが、山号と言えば「本松 

山」。

いかにも意味深な山号と思えます。

松平の「松」の(そもそも)幹となる・・・のはこちらの「松」です・・・の主張の如く。

 

堂内に入ると立ち姿の阿弥陀さんがお迎えしてくださいます。

関西風に形容すれば「シュッとした」顔立ちと姿とでもいいましょうか。

勿論「葵紋」の数と煌びやかな荘厳はタダモノではない感漂います。

居並ぶ厨子の中身にも興味はありますが・・・太郎左衛門系の位牌が納まるのでしょう。

 

 

0 コメント

2022年

5月

24日

手作り棺 プロに依頼してみた コンパネ製

昨日は榛原病院からの帰りに、榛原警察署に寄り道。

交通課のカウンターで例の標識とその対応についてその担当部署を聞きに立ち寄りました。

すると管轄が島田土木事務所ということが判明し、自宅に帰ってから電話で陳情した次第。

対応を検討するとの返事をいただきました。

 

今のところはあの「直進の錯覚による逆行」からの事故発生はないようですが、まぁその件「わざわざそこまでやることもなかったのかもね・・・」と奥方にぼそりと言うと、「冗談じゃない。あの道は我らも頻繁に使用する道。私たちが走っている際に、たまたま逆行車があること。それを考えよ・・・」。

ごもっともなことでした。

 

まぁ「錯覚を起こす構造」について、それを黙っていたら、法律上「故意」に近いような市民としての無責任。

早急な対応を期待しますが、さぁ、どう動く島田土木事務所殿。

進入路のレーンにポールを数本立てて進入禁止の掲示をするか、あの「矢印」の掲示の方法を再検討するか・・・

 

ここ数日、市内は交通事故頻発。

当方過失についてそれが無きよう厳重な注意をもってハンドルを握ることは承知していますが、無過失でもたまたま、いわゆる「もらい事故」による死亡事案も多く見受けられます。

普通に自動車を運転していてどなたか知らない人の一方的な過失によって突然の死を迎えることになるのですが、被害者からすればあまりにも突然すぎて「自分が死したことさえも知らない」ようなこともあるでしょうね。

 

交通関係の「死」の悲劇は案外と身近なものがありますが、特にそのタイミングはその「交通」だけに関わる物でなく他にもいろいろ、そこここに転がっている事です。

「突然」で「身近」が昨日も記した蓮如さんの「朝には紅顔あって~」の通り。

 

「どこにでもある」のですから、「そろそろ死ぬぞ」といいながら、たまには息子にとlineではなく「直電」してみました。

 

3度目のワクチンを「打たない宣言」をしている彼で、メールでは苦言を呈していましたが、電話ではその件触れず。

いたって元気そうな声でした。

問題は何時「相良に帰ってくるか」なのですから、その件少々の振りをしてみました。

 

「いつ死んでも不思議のないところだが帰ってこられるのか 」です。その時はいつでも・・・と「臨機に動く」とのこと。

それさえ聞ければ、「ありがたい、ありがたい」と棺桶の蓋を閉めてもらえるというものです。

 

というのは先般、ある事情から棺桶を一つ大工さんに作ってもらいました。

早速本堂中央にそれを設置して、入棺。

するとお約束なのでしょうね。

世話人さんが「蓋の閉まり具合は・・・」と蓋を被せるやいなや「釘持ってこい」の声。

奥方がその画像を息子に転送したところやはり「(門徒の棺には釘は打たないが)ここは釘を打て」との即返信。

 

入った時の印象。

閉塞感と暗さはあまり気分のいいものではありませんね。

格安のコンパネのサイズ(1800×900)でその大きさが最大限になりますが高さを480になっていました。

それはさすがに高すぎますね。

その大工さんは製作にあたって火葬場の炉のサイズを問い合わせたそうですが480Hはギリ。

450~420でもOKです。コンパネ3枚で「窓無し」。

 

 

ちなみに一見して1800サイズだと身長がそれ以上の人は「どうするんだ・・・」の単純な疑問が生じますが、それは10㎝程度のオーバーなら「膝を折って」というのが昔からの常道。

なんとかなってしまうのです。

 

かなり以前、土葬が当たり前の地域では棺桶は今の如く縦長のものではなく一人用の風呂桶型のもの。

そのサイズは規格があって事前に作られているため体格の大きい人は硬直前に正座にするわけで、大抵の場合、無理に押し込む場合など「骨をボキボキ」と突っ込んだという例もあったようですから。

 

一同、「コレでイイよぉ~」。

 

豪華で華美になる葬儀に一石。

昔は戸板で代用、今は豪華すぎ。

私は蓋もイラナイと考えました。お顔に綿布だけでイイような。

ほんの少しの間「入るだけ」なのに高価なものは20万以上もしますからね。まぁ人それぞれですが・・・。

子や孫がいたら寄せ書きなどできたらいいかも・・・など。

 

日曜大工で作れるレベル。

DIY店ならカットサービス当たり前。釘と金槌があればワケも無しでできあがります。

ただそれを「持ち込みます」の度胸だけです。

 

①画像は息子の家の「寧々」。

釘ではなくてワクチンを打て・・・

 

 

0 コメント

2022年

5月

23日

高月院 元は在原信重が足助氏から招いた僧の寂静寺

昨日の法事でのお話は「お前も死ぬぞ」でした。

先日の掲示板の記憶があってそのような人様の耳に障る語を成行から吐いてしまいました。

まぁ法話としては死はベストな題材ですが。

 

人間は愚かですから、自身の命は未来永劫にわたって続くものと錯覚しがち。

時に「神の如く」我が物顔に立ち振る舞うというところ「ある ある・・・」。

 

蓮如さんの仰る「朝(あした)には紅顔あって 夕(ゆうべ)には白骨の身となれり」の文言もまた。

なにしろ人の命は「あっという間」ですからね。

感謝と思いやりが足りない昨今。修正していかなくては。

 

午後になるとある檀家さん(女性)からの電話で「今から寺へ行くのでヨロシク」と。

午後からは例の相良城石垣に使用されていた(模様・・・)の石を一回戦でも運び出しに行きたい・・・などと考えていたところでしたが、その声にいつもと違う雰囲気が漂いまさに非尋常。

「どうぞどうぞお気軽に・・・お待ちしてま~す」と予定を変更したのでした。

 

その手の「お話を聞いてください・・・」の件は、他の葬儀依頼の電話から比べれば私にとっては余程お気楽です。

ただし今回はその話を聞かされて、それはそれはひっくりかえらんばかりに驚かされたわけですが、ハッキリ言って前代未聞の無茶苦茶、「怒り心頭に発する」とのことでした。

それでいて要は軽々にブログに記すことができないようなことで残念。

 

そのような「ヤバそう」な話を私ども(その方は当方奥方とも懇意)にブチまけてしまうなど、ある程度の「信頼」の証拠でもあって、少々の嬉しさもありました。

雰囲気的にその差し迫った問題に対して当人は「訴訟になるだろう」との決意がありました。

気の小さい私は「その件私は聞かなかったことにしますが、応援はします!!」「『地裁で会いましょう』の台詞を吐いてやってください・・・」と。

 

その件、(私どもに)迷惑をかけたくないので勿論今後関りについては口外することなどなく、「弁護士を雇って徹底抗戦する」とのことでした

今後の推移を見守るだけです。

尚、訴訟に上がる先方様は当方檀家さんではありません。

いろいろ存じ上げている方ですが。

 

その方は「あいつが死ぬまでこっちもとことん頑張る」とぶちまけて帰られましたが、内心その相手さんも「いずれ死ぬ」(少なくとも年の順番だと「早い」)のだから「飛ぶ鳥~なんとやら」でもっとうまいことできないものかと呆れたところです。

死んだ後に「アホ」「ズル」「バカ」「あくどい」「卑劣」などなどの罵声の後ろ指を指されるのは気分が良くないですね。

齢を重ねて愈々その思いやりと温和も重ねて必要であると考えるのでした。

 

さて、先日記した「おまえも死ぬぞ」の掲示板のあった松平郷の高月院。

在原信重足助(成瀬氏発祥)氏から招いた僧のために創建した寂静寺がその元であるといいます。

 

先日は足助と松平の関係は古い・・・とも記しましたが、足助成瀬の末裔としてまた、三方ヶ原戦で亡くなった藤蔵正義の息子の寺(拙寺)としてこれまでの江戸期の各恩恵の積み重ねは幕府が拙寺に大きな支援の手を伸ばしていたことの現れでしょうね。

奇特にも、恵まれているということ

に尽きますがこれを「当たり前」と思ったら罰が当たります。

 

 

0 コメント

2022年

5月

22日

松平太郎左衛門親氏の始まりは在原家 信盛信繁水女

昨日は朝からずっと一日中、くずぐずの天気。

曇天-ポツポツの繰り返しで、堂内は「少し肌寒い」との声が聞こえてきました。

傘を持つか持たないか選択に迷う日でしたが、考えてみると私は最近になって殊に傘を持ち歩かなくなったことは確かな事です。

 

少々の降りならば「大したことない」とばかりに傘を持たずに家を飛び出すことが多くなったのは自家用車利用の「ドア―ドア」ばかり、その始末が面倒というのもあって存在意義が低下したのでした。

 

その件、基本雨の日は出歩きたくないという性分もありますが、自分の足で歩かなくなった証左。

「歩かないと死ぬ」に近い事を日々記している割に自分の事になるとこのザマ、恥ずかしいことです。

 

昨日は正座の時間が比較的長くあった一日でしたが、足の関節の痛みが久し振りに出現しました。

どちらの坊さんも最近は「椅子習慣」が常態化し、いざ正座となった際、耐力が落ちていると聞きますからね。

習慣というものは恐ろしい。

せめて足が退化してしまわないよう心掛けたいものです。

要は「歩け」なのです。

 

この雨がちな天気は逆に西三河の農家にはまずまずの天気でしょうね。

抜本的な改善(矢作川明治用水漏水事案)には至っていないのですが、私の単純な疑問・・・工業用水と農業用水の二者択一。

工業用水優先で水を供給するの件です。

 

あたかも強い者と弱い者を分けて強い者の方に肩入れするの施策。どちらが大事かの判断がそこで「勝手に」されたということですが、その根拠は・・・?です。

せめてその理由をハッキリ聞きたいものです。

世界のトヨタさんとその系列VS個人経営の農家たち。

個人的には「食の大切」を思いますが。

 

さて、時宗の流浪の念仏僧、徳阿弥がひょんなことから三河の矢作川中流域、準山間部の松平郷に現れて田舎の一土豪として松平親氏を名のり、めきめきと頭角を現して周囲を浸食、勢力拡大し瞬く間に三河松平の名を確固たるものとして、紆余曲折の中、家康からの天下獲りの道、というのがこの松平家サクセスストーリーの大雑把なところ。

 

徳阿弥こと松平太郎左衛門親氏を名乗ったそのきっかけが在原信重がその女(むすめ)「水女」の婿として徳阿弥を迎え、松平郷を継承させたというのが定説。

昨日記した松平東照宮の「産湯の井戸」の裏山、といっても前の道をしばらく行った場所に在原家の墓域があります。

 

正面中央に在原信重の父、信盛。向かって右が信重。

「三峰院殿従五位下天外重林大禅定門」とあります。

その娘「水女」の墓が左となります。

 

経年のため、墓石の角が取れて「溶けている」感。

味のある墓石です。

ただしどちらもベース部分(宝篋印塔基礎?)にテキトーの如く載せられた一石五輪塔やらその残欠は最初から無関係か別物の墓石でしょうね。

 

信重のもとにやってきた徳阿弥がよほど気に入られたということでしょうかね。

我が「娘の婿」として迎えて財物から領地まで「お前にすべてまかせる」に至ったその徳阿弥の力量たるや・・・

念仏僧から国人領主、「仏典経典」の「経」世界から武門主体の政と国の「経営」の道に変身していくわけです。

 

斎藤道三の如くの策士、計略の件、想像してしまいますが。

 

 

2 コメント

2022年

5月

21日

松平郷 松平東照宮の家康産湯の井戸

昨日は大腿骨等の骨折を起因とする高齢者の「五年以内死亡」について記しましたが、骨折は高齢者に限らず誰でも起こり得ること。

事後快方の行方は治療から同時進行するリハビリに当人が着いて行けるかどうかにかかっていることですね。

高齢ともなれば、根気も精神力も消えゆく身でありますから脱落も無理もないことです。だから「5年」なのでしょう。

 

また、「老」ではなく、高齢と骨折とは関係なくいわゆる「病」によって長期療養という例も多々あります。

昨日はたまたま11年間の診療入院のうえ亡くなった方と5年間の療養も「悪くなるばかり」という方のお話を伺いました。

前者は50代後半に若年性アルツハイマーを患ってから乳がんが発見されそれが、転移を重ねた結果の「死」でした。

終末はもはや意識が無くなって昏睡状態に近くなっていたそうですが、後者の方の進行性パーキンソン病の現状も同様のことといいます。

 

病にも色々あってまた、同じ病であっても人によって症状がまったく違って出現し、甚だ「よくわからない」というのが本当のところ。

そして他人様の病の辛さはやはり「私がそうでない」ことから、なかなか身に伝わってこないものがあります。

「気の毒なこと」とは思いますが、ニワトリではありませんが、ついつい刹那のうちに頭から消えてしまうものです。

 

かといってその件「私はダメだ」とは言い切れません。

「他人(ひと)のことはわからない」のは人間の性。

またそれぞれの人たちは「私の問題」を大いに抱えていますから。私なんぞは「私のこと」すら、わからないくらい。

みんな「いっぱいいっぱいで生きている」ということですね。

 

そこのところが御開祖の言う「悪人こそ・・・」の悪人正機と「他力の本願」なのでしょう。

なんでもかんでも意に反する都合の悪いことあれこれ「しゃあない しゃあない」とそれでも感謝しながら「今」生かされているご縁を心にして、前に進んでいこうとする心が当流の言う仏心でしょうね。途中サボったとしてもそれもヨシ。

 

さて、「老と病」そして「死」について記しましたから「生」について。

本日の「生」は「産」の方。

この字は「生きていく」苦しみを含めた産(生)まれたことから始まる「生」で四苦のうちで一番に長期に渡る苦しみなのかも知れません。

人によっては「楽」の境に持ち込める「遇う」があるのもこの生ですから人次第、多岐にわたって変化するところでもあります。

 

松平郷の松平東照宮には「産湯の井戸」なる井戸があって、まずは鳥居の下にその存在を主張する掲示板がありました。

 

世にはその「産湯の井戸」の類のものは案外とどちらでも目にします。

それでいて、ひねくれ者の私は大抵「眉に唾」というところでその言葉をサラリと流してしまいますが。

 

何故ならば家康生誕の際の産湯に使われた井戸である・・・ということですから、一瞬間、こちらで家康が生まれたとの主張ならば「都合のいい後付け」かも・・・などと考えたのでした。

家康が岡崎城で産まれたというのが定説でそちらにも産湯の井戸はありますからね。

 

ということで「ん、何々・・・」という具合にその説明文を眺めてみれば「伝承が多い」と前置きしながらも、「竹筒に詰めた井戸水を早馬で岡崎城に運んだ」と。

よって上記の説に矛盾ナシということで疑いの念は一応は晴れたのですが、そもそもこの頃の松平郷の歴史は「わからないこと」ばかりで「~である」などの断定はできませんから。

 

まぁえげつなくも私なら「天下取りの産湯」などして、竹筒に込めたそれを土産として売ったりすれば・・・などと考えてしまいました。裏書は「入浴剤」かな・・・。

密閉性を考えればペットボトルかな・・・

などなど、お遊び、お遊び。

 

 

 

0 コメント

2022年

5月

20日

「おまえも死ぬぞ」 高月院掲示板から 

昨晩の「トリセツ」(NHK番組)のテーマは「骨」。

骨といえば最近よく耳にするのが「大腿骨骨折」です。

叔母がそれで施設入所となりました。

年配者の場合はその事案の結果5年生存率が低くなるとのこと。

要は5年以内に亡くなることが多いということですがその件大いにわかります。

 

数日間寝込むことから始まるその治療そのものが致命的なのですね。筋肉を失うということです。

かといって治療はしなくてはなりませんしまた安静が大事ですから・・・

動かないで寝ていることからくる筋力低下のチェーンリアクション。動けないから動かない・・・すべてにおいて「ヤル気」をも喪失させますからね。治療が老化を早めるという歯がゆさ。

 

歩行ができなくなることによって「今」という恩恵を無くしてしまうのです(「死にむかって進んでいるのではない  『今』をもらって生きている」 西念寺坊守 鈴木章子さん)。

 

ということで寝込むことはヒジョーにヤバいのでその原因となる骨折をしないことが肝要となります。

骨の強さを死ぬまで維持してかなくてはならないのです。

 

40~50歳で骨粗しょう症と診断される人もいるようです。

骨を折ることなく「今」を全うするために番組推奨の体操を。

「30代から始める!1日たった90秒“骨の若返り術”」はたったの一日50回/90秒の「かかと落とし」です。

 

数回に分けてもイイその50回。

カンタンすぎるその効果が出るのは半年後とのことですが「続けること」大切です。

呆気に取られるようなカンタン体操。

以前から言われていますがますます拙寺本堂でも推奨していきます。

 

さて、表記のネガティブ風掲示板文言は以前もどちらかで記していますがそのダイレクトに心にインパクト与える文言は、世間様からは案外と肯定的に捉えられるようです。

まぁ「いたって当たり前」の事なのですが。

 

そしてそれは「突然」の到来も大いにあるということですが、「いつまでも『今』の如く」続かない」(無常)という仏教的思量からくる「私自身への警鐘」であると了承するのでしょう。

 

これから迎える夏、芭蕉の句

 

無常迅速              

    「 やがて死ぬ けしきは見えず 蝉のこえ 」

 

なども心に染み入るようになる年頃となりましたね。

 

「年頃」というのは若いころのイケイケ感が年とともに「諦観」へと変化していくということですが、とかく人というものは「自分のことはわからない」のが必定。

他者の「老病死」については「わかる、わかる」と相槌は打っても自身のそれはできるだけ避けて通りたいところで、考えたくもないというのが若さの本音。気づきなども起こることもなく。

 

蓮如さんの言う

「人の悪ろき事はよくよく見ゆるなり

        我が身の悪ろき事は覚えざるものなり」

にも通じる、そもそもの性質(たち)がありますが「私に関わる超ネガティブ現象・・・無常」はとりあえず「ナイ」と思いたいですからね。

 

そこへ来て掲示板の真実にあらためて「ハッと」させられるのでした。

わかっちちゃいるけど・・・いつも忘れていて、そのたびに驚かされている愚か者です。

 

画像は松平郷の高月院の掲示板、奥に見えるのが仏足石(場所はこちら)。私の好きな一休さんの歌も見えます。

0 コメント

2022年

5月

19日

松平東照宮の無量寿経の件 何事も「念には念を」 

矢作川の堰(豊田の明治用水)に大規模漏水が発生して下流域、工業用水と西三河の農業用水に影響が出ているというニュースがありました。

今時、我が国で水が枯渇することなど想像もできないことでした。海外では気温の上昇傾向、特に今年はラニーニャ現象による影響とやらで「少雨」になり異常な乾燥状態が続くという自然災害については聞こえてきますが、今回の「漏水」は人工物の経年劣化を思うところ。

 

流水の地下のことですからカンタンな対応はできないことですし日常のメンテナンスでは「手が届かない」ことはわかりますがこの件、対応が長引いたりすれば「どうするんだよ・・・」と素人の考え。

 

田に水が引き込むことかできないので田植えができないと農家の方が嘆いていました。

井戸水等水源の手当てのできる人は稀でしょうからね。

 

水というものは普段何気なく時として「無駄」(湯水のごとく)とも思えるほどタップリと使用させていただいていますが、イザそれが「一滴も出ない」などとなれば大慌てになることは必定のこと。

拙寺の井戸について旧来からの手動ポンプをメンテしつつ「時々」思い立った時に使用していましたが、今はまったく不能となってただのガラクタとなり果てています。

ピストンを新調してまもなく、革製パッキンが乾燥によって劣化、その後もピストン周囲に対策を施しましたがダメ。

諦めました。

 

それは「時々使用」という頻度の少なさが問題。どうしても「近くの蛇口をひねるだけ」に頼り切ってしまうということですが今はポンプそのものを交換しようと考えています。

今回の「水が無くて困る」は他人事ではありませんからね。

大井川上流の例のトンネル工事で「水」が消えてしまったら頼ることができるのは井戸ですからね。

それこそ「念には念」。ポンプの新調は一大事です。

 

さて、松平家始祖松平親氏の松平郷にも当たり前の如く東照宮があります。

ニュースの矢作川の明治用水からもさほど遠くない場所松平町。場所はこちらです。

 

ただしその名称は「神君家康」以降のものですから当初からのものでない「後付け」であることは推測できますね。

当初はやはり松平家の屋敷内の八幡だったとのこと。

そして当時は親氏自身「神になる」など考えもしなかったことでしょう。親氏が家康の東照宮に合祀されたのは昭和40年といいます。

 

本殿をさらっと拝見させていただいて、他の神社では見かけることはない文言が。

さすが時宗の僧「徳阿弥」=太郎左衛門親氏を祀る神社ならではを思いました。 

 

天下和順 てんげわじゅん 

日月清明 にちがっしょうみょう 

風雨以時 ふうういじ 

災厲不起 さいれい󠄂ふき

 

④画像は以下

国豊民安 こくぶみんなん 

兵戈無用 ひょうがむゆう 

崇徳興仁 しゅうとくこうにん 

務修礼譲 むしゅらいじょう

 

上記は浄土教系宗派の根本聖典である無量寿経から。

特にこちらは浄土宗では馴染みの深い伽陀(偈)として読誦される様です。

この中で特に今そうあるべきかつ馴染みのある「兵戈無用」についてはこちらも。

 

最後の風景は「松平橋」付近の図。

数年前のものになりますので今は違っています。

工事は完成し案内標識は撤去されているようです(直進して足助方面に)。

松平の地と足助(成瀬氏発祥)は「案外近い」とその松平と成瀬の関係について「古い付き合い」があったことを思います。

もし対立していたとしたら・・・なども。

 

また「念には念を」の注意喚起の標語に「ハッと」させられるところ。

私はそれを見てまた「念仏には念仏、称名には称名・・・」も。

 

 

0 コメント

2022年

5月

18日

松平郷 徳阿弥の放浪の仕舞い 松平太郎左衛門親氏

天気予報を参考に、午前から「さぁ、ひと仕事」という具合に取り掛かりました。

すると雨がポツポツと。しばらく様子を見ましたが雨のやむ気配はなく、途中で放り出しました。

 

カンタンなセメント敷設の仕事でしたが降雨はさすがに具合悪し。型枠のみ工作設置しておしまい。

晴れとはいわずもせめて雨が降らなければやれる仕事はあるのですがね。昨日はそのあとの仕事の予定も入れてありましたから残念な一日でした。

それが先日来持ち込んで並べた石垣の設置しなおしです。

どちらにしろ大差ない仕上がりになりましょうが・・・

 

また、搬出する石垣が置いてある場所は雨が降ればぬかるみますので、そちらでの行動ができる土日のその3日~4日前の連続した晴天が必要となります。

土日は大抵は法事が入っていますのでタイミングがなかなか合いませんね。

 

さて、法蔵寺(昨日まで)が松平家の菩提寺としての始まりは松平家そのものの始まりと言われる松平太郎左衛門親氏がこちらのお寺の有徳人となったことから。大旦那ですね。

徳川家の「菩提寺」といわれる寺は多々ありますが、法蔵寺も同様、宗旨は浄土宗というのが定番。

家康の旗印「厭離穢土 欣求浄土」の通りです。

 

それはそもそも始祖親氏が「徳阿弥」(→當麻山無量光寺)を名乗り時宗の念仏僧としての放浪の結末、三河松平郷に赴いての出世だったということ。

まぁその徳阿弥のストーリー含め、徳川家の源氏出自を脚色演出の創作だったというところは各指摘されていることで、その時代に関わる系譜等どれも「一説に・・・」付きの記述となることは致し方なし。

「都合よく書き換える」、「体裁を整える」は勝者の常道ですからね。

 

画像は松平郷(豊田市)に建つ松平親氏の像。

武将の銅像数ある中、私はこのあたかも短パン+ゴム草履の如くの恰好でデカイ人差し指を指す姿は「悪くない」と思います。

キレ者の性質(タチ)を連想。

 

 

0 コメント

2022年

5月

17日

まさかと一蹴できない近藤勇の首 法蔵寺

「あれからどうした?」と息子に問えば「まだだよ」と。

「あれ」とは牧之原市の3回目のワクチン接種券を転送したことです。

てっきり接種は済んでいるものと思いきや、平チャラの態で生活していたようです。

「自分もそうだが他人に迷惑がかかる」と説きましたがおそらく彼はその予約はしなそうな感じ。

それでも私は「お調子にのるのはほどほどにしろ・・・」。

 

若い連中のすべてがそうではないのでしょうが、ワクチンを打った副反応で具合が悪くなるくらいなら、軽度で済むことも多々あるコロナに罹った方がマシ、「仕方ない」という感覚が「蔓延」しているよう。若さ故のお調子者感覚なのでしょうね。

 

3回目のワクチンの接種が進まず、各地で有効期限切れのワクチンが廃棄されているようですが、彼らの体を宿主として強かにそのDNAを伝播させるべく変異を遂げようとするウィルスは今の収束感漂う人間界の雰囲気は大いなるチャンスなのかも知れません。

 

ウィルス(自然からの警告?)の戦略というものを考えれば「今はヒトへのダメージ」強毒性の致死率を下げて「種の保存」に傾注しているが如くに見えます。

未発症の若者の多さからそれを感じます。

 

そして淡々とヒトの体、あちらこちらにと生き続け、また再び人間たちに都合の悪い形として変異してさらなるパンデミックが起こるのでしょうね。

私の思うその根拠は毎度毎度「人というものの都合通りに物事(自然)は動いてくれない」というところ。

私もこの齢になって感じること。その「都合」は拒絶されることばかりで。

 

 

ここへきて北朝鮮の感染者が爆発的に増加しているようですが、大量なるウィルス培養地帯がそこに発生したということですね。

あのお国にはコロナ対策としてワクチンを接種するといったシステムがありませんので今後の展開が見ものとなります。

世界的なコロナ実験場になったということかも。

これまではそのお仲間の中国がヘルプするというのが常でしたが、今でいうとその国もまたコロナで国内経済が疲弊しているというニュースが毎日のように届いています。

 

日本では期限切れのワクチンを大量廃棄、あちらにはワクチン無し。人道上の支援の道を閉ざさないことは人として国として不可欠なことですが、あれだけ日々ミサイルをぶっ放していきり立っていたそのお口で「お願いしま~す」はさすがにみっともなくて言えないでしょうね。

 

「みっともない」といえばウクライナが日本に「感謝しないのはけしからん」というおバカ政治屋がいたとのこと。

ウクライナが発した支援ありがとうの国々の羅列の中に日本が入っていなかったことからのお怒りですが、その件まさに呆気にとられたニュースでした。

 

文句を言ってそのリストに「日本ありがとう」を追記してもらったという経緯がありましたがそれは思わず溜息モノ。

「ありがとう」の語が無かったことにクレームをするなんぞ、まったくもってナンセンス。

まず、①そんなこといいじゃない・・・とどうでもいいようなことでしょう。

たまたま「忘れちゃった」「漏れがあった」ということですよね。それだけ日本という国のイメージが彼らにとっては「薄かった」ということですが、それは致し方なし。

私たちも東欧の国についてそもそも思いは「薄い」ものがあります。

②笑って放置がカッコよかった。

③「ありがとう」のお返しの語が欲しくて手を伸ばしたということは、「それなら支援しませんよ」のメッセージにも・・・取れます。

 

どちらにしろ狭量な心の持ち主「日本人」を世界に売り込みました。

ああ、ヤダヤダ。

 

さて、またしても昨日に続いて法蔵寺。

大抵の人なら知っている近藤勇の墓です。

新撰組の局長で私ら「燃えよ剣」世代の者にとっては土方歳三とともにあの当時の「歯がゆさ」と同情を感じさせられる人ですね。

要は彼らのファンだったわけですがその近藤の首がこちら法蔵寺にあるというのは驚いたものでした。

今となってはその存在は他の墓たちの主以上に知られています。

 

ただしその墓の存在が明らかになったのはここ50年くらいだそうで、各疑問もあって「不確実な伝承」といったところでしょうか。

ただし「勝てば官軍」の明治政府からすれば「近藤」といえば大罪人ですから。

まともな墓標などを建碑することは憚られるでしょう。

そして隠し隠されこっそりと伝えていけば「わからないこと」たくさん生まれてくるでしょうから。

 

そもそも斬首後の首をかっぱらったこと自体、官軍にとっては敵対行為になりましょうし「大切に弔う」などの衆人の思いなど阻止したいところですからね。

 

その頃といえばこちらの法蔵寺も「朝敵 徳川家の菩提寺」ということで危険な寺扱いにあってピリピリ感が充満していたことでしょう。

 

墓碑下の台座④に土方歳三の名が筆頭に見えますが他の皆さんは新選組とは関係ないよう。

現状背後は木々の伐採があってスッキリしました。

 

0 コメント

2022年

5月

16日

将棋王位戦対局実現? 鐘楼門の雄姿色々 法蔵寺

先月末発信の牧之原市のサイトにもありますが、将棋の藤井聡太氏が相良にやってくるといいます。

将棋と言えば県内では掛川市が名乗りをあげていますが、ここへきて当牧之原市も手を挙げたよう。

 

それが「お~いお茶杯 第63期王位戦」第6局~というもので相良大江の平田寺書院が会場とのこと。

ただし第6局というところ。

王位戦のタイトルは4勝先取で決定するため、その「6局」まで対局が持ち込まれるかといえばかなりの確率の高さで空振りに終わるような気もします。

一方的な連勝があったりすればその企画はおじゃんですからね。3勝2敗、2勝3敗の拮抗した勝負がなくては・・・

 

それに関わるということは最初からその勝敗結果にやきもきしつつ待たなくてはなりませんので、結構に疲れますし辛いですね。「藤井さん、どうか負けてくれ~」となるのでしょう。

一応、予定は決まっています。2022年9月4日5日ですが。

 

せめて1局~4局、1歩譲って5局目くらいでないと実現は難しいかもね。

まぁその実現も時の運ですが今回その対局会場として誘致できたということは「へ~え」と感心したものです。

そのうちにいずれ実現できるのではないでしょうかね。

その際は、「い~ら」のステージに大きな将棋判を用意して、対局をライブ実演できるようにするとのこと。

 

この誘致活動の根拠というものが将軍家治が将棋好きで七~八段の名人クラスだったと。

「対局に忖度があったから」というのが定説(当然でしょう・・・)ですがその将棋を指南したのが「田沼意次だった」というところがその将棋の街に仕立てる道筋になります。

掛川が先行した将棋の街ですが、これから仲良くやっていけるかな? 

どちらであってもその対局の場を提供したいというか「藤井氏に来てもらいたい」ところよくわかりますから。

 

さて、昨日の法蔵寺来迎橋を渡っての圧巻は鐘楼門の存在です。

その門のタイプはそう珍しい建造物ではありませんがこちらのお寺の場合、その門が階段上にあってあたかも頭上に聳えるが如くに建っているところ。

 

別に1度撮影すればいいのですが、ついつい2度3度とこの門と景色に感動してカメラを向けてしまうのでした。

この門を潜ると阿弥陀さんが鎮座する堂があるというワケです。

 

 

0 コメント

2022年

5月

15日

鉢地川に架かる来迎橋 六字名号碑と松 法蔵寺

昨日は史蹟研究会の会合がありました。

ある方から「ここへきて体調があまりよくない」と浮かぬ顔。

私もパっとお顔を拝見すれば、覇気がなく「いつもと感じが違う」を思いました。

詳しく問えば「70歳中盤になると色々あるのだ」と。

 

とにかく今一番苦しんでいることは「眠れないことと便秘」とのことでした。

便秘に関しては「喰って運動で解消」と一蹴しましたが、問題は前者の方。

要は「精神的不安定」を推すものですが、その方と同い年の方がそれを聞いて「最近は『縊死』ってヤツあるからな・・・」と。

冗談のつもりでその方はその語を口にしたのでしたが、てっきり「一笑に付して」くれるものと顔を今一度見ると、いたって神妙な様子。

 

よって深くその「理」を聞き直してみればコロナで行動限定が当たり前となった世の中、人との交流が無くなったこと、おそらく社会との隔絶が長くあったからだろう・・・と自己分析されていました。

「この場が滅多にない楽しみになっている」とのことも。

私はその談に少々の不安(鬱の前兆)を感じ、内心拙寺の「メディテーション」に参加してもらいたいものだとは思いましたが、それは抑えて、とにかく(人には船が転覆しそうになっても復元力があるように)復活・回復する力をそもそも持っているものだから、それを引き出させるようスイッチングできればイイ・・・などと話しました。

スイッチング、コントロールの訓練がその「メディテーション」ですからね。

それは日常の訓練で徐々に身に付けられることですが、とりあえず「うまいこと」対応していくには「楽しく面白がって平気に生きる」よう仕向けることですね。

付け加えておけば「頑張る気などさらさら持たずにありのままに」。

 

さて、二上山法蔵寺

「二上山」の山号といえば奈良當麻寺と同じ。

やはり法蔵寺が真言→浄土の流れにありました。

本宿国道一号線からスグとあってのんびり行脚の際は「参拝」していく・・・というのがいつものパターンです。

岡崎教務所に向かっていたとしても東名高速岡崎インターで降りるのではなく一つ手前の音羽蒲郡で・・・という感じ。

 

山門前の様相は「浄土」的レイアウトになっています。

まずは家康関りの「松」がお出迎え。

松平氏だけにあの「二葉松」ではありませんが、松は徳川を語る一つのアイテムですね。

 

そして鉢地川(結構に離れていますが矢作川水系)の赤い欄干のある橋を渡ります。

尚、川の名称は本宿法蔵寺より南側にある「鉢地(はっち)」という地から。

文字通り「鉢の底」の如くを形容したのでしょうが、その川が削った谷の如くの地形になります。

 

法蔵寺前を流れる鉢地川を「三途の川」に見立て橋の名を「来迎橋」山門の向こうに浄土があって阿弥陀のお出ましがあるといった形になっています。

 

①④の如く六字名号が光っています。

 

 

0 コメント

2022年

5月

14日

「一切が諸仏」木村無相 田原安楽寺の掲示板より

バイパスの大沢インターの逆行車両について今回で2度目の目撃をしました。

以前は相良街区から牧之原インター方向へ向かう車が、バイパスから相良方向に降りる道に入らんとする状況だったのすが、今度は逆のパターン。

バイパスを南下する車が、相良からインター方向に北上して合流する道に「右折」する感じで進入したもので、まぁ普通それは「あり得ない」と思うところ。

 

たまたま私はその大沢インターではなく須々木インターからバイパスを北上していましたので、その恐怖を味わう事はありませんでしたが、その突破の様を横目で見たというわけです。

 

合流せんとする対向車がそれに気づいて車を脇に寄せて唖然としていましたがその進入車は「我関せず、躊躇なし」の平チャラの躰で突っ込んでいました。

その後の事は知る由がありませんが、帰りにその道を通った際、事故の様子はありませんでした。

言い換えれば自殺行為とも。

まぁ事なきを得て「よかったね・・・」。

しかしアレで事故が無かったなど将に強運の持ち主を思いました。本線を横切っていますからね。

 

助手席の奥方に「人間とはしばしば信じられない事をやらかすものだ」と言うと「アレはただの逆行じゃ・・・」と呆れかえって吐き捨てていました。

運転手の顔を見ましたが高齢首ではない女性でした。

 

帰り際にそのミス発生のメカニズムを私なりに推測、理解しました。

大沢インター直前に「←左」の相良と「↑直進」の御前崎方面を合体させた案内標識が出てきますがその直後スグ右側にこの車が「右折」した相良から合流する出路が見えてきます。

おそらくその道が御前崎方面である(直進)という錯覚があったのでしょう。

本線は左カーブで相良方面への出口は目視できません。

相良に降りたいなどと思っての逆行ではなかったということですが、その入路出口には進入禁止の標識はありませんでした。

それを付けなくては今後もヤバイことになりますね。

まさかと思うことをやらかすのが人間。その標識は必要でしょう。

 

今一つ思うことは、逆行車両との対抗遭遇した場合、「道を譲って事故回避」しようとすることはひとまず必須。本能的なことではありますが、それをそのまま進ませてしまうということはダメでしょう。

普通車でのすれ違いギリの道ですから当然スピードを緩めますので、そこはしっかり強く知らせるべきです。

そのまま進ませてしまうとなれば事故の誘発を招きます。

それを推測しながらの放置ですからね。

ほどほどの警告とはなりますが、そのあとに続く対向車に気の毒ですから。

 

大沢インターは慣れないドライバーにとって不親切かも。

暇なときにでもその件警察署に注進しましょうか・・・いやそうするべきです。路上の監視カメラはそちらには無いような・・・

 

ロシアのウクライナ侵攻での「戦争犯罪」について続々とその報が入っていますが、彼らロシア軍の蛮行について防犯カメラやスマホ等の被写体になっていることドローンそして衛星から監視されていることに気づかないところは何ともお寒いですね。

 

「見られている」ということですが、その画像の存在はデカイ。

フェイクだでっち上げだのテキトーな事を言って「なかったこと」にするなどの大噓は「もろバレ」ということになって、あまりにもその主張は間抜けすぎ。

 

車内カメラ装着がここまで普及している中、未だに煽り運転の狂気がなくならないというのも不思議ですが・・・

 

見られているから、監視されているから「悪いことはできない」というのはあまり感心できませんが、先人たちは毎度仏が傍にいて「見られている」という感覚がありましたね。

座頭市も「おてんとさんが見ている」といった台詞があったと思います。

 

「私」のことを自然界の一つ一つのものが仏の如く「見ているぞ」という思考の置き方です。

何もそれは「監視」だけでなく「見守る」ということもありますね。有難いことなのです。

 

さて、以前記した三河田原の西圓寺のお隣に埜林山安楽寺という大谷派のお寺があります(場所はこちら)。

「埜」は「野」と同意ですが、その山号の通り、自然溢れる長閑な地です。

 

白い壁が見事。

墓域を散策させていただきましたが④の五輪塔残欠に思いが向きます。たまたま本堂では法事があったようで阿弥陀さんへのご挨拶は外から。

 

掲示板の文言。

「私をとりまく 一切が 諸仏であると 今知った」

                     木村無相

 

この方の詩はなかなかイイですよ。

「自殺しなくて よかったね」。

「自殺」は今流行りものの様です。

この方は自殺未遂を2回したといいます。

 

最後の画像が昨夕奥方が撮影した大沢インター直前のピンボケ画像。見づらいですが対向車ヘッドランプの右側の合流路にその車が進入したということです。

 

 

0 コメント

2022年

5月

13日

順成寺の石川台嶺 石川山蓮泉寺へ 門前石標の3面 

GWの無軌道とも思える、お国も国民の尻腰を押した「お楽しみ」のあと、新型コロナの攻勢が強まっているよう。

まぁそのお楽しみへの参加者の皆さんたちであってもその件、ある程度の想定のうちだったことでしょう。

 

この期に徐々に増えつつある感染者数(全国で410741人)ですが、いずれこれが「第七波」と呼ぶような大波になってしまうのかは予想できませんが、これまでの様でいえば、大いにそれは有り得ること。

今も毎日のように死者が出ていて「お楽しみ」はまだ早い感ありました。

 

また、果たして取りあえずの「収束」やら「終息」の雰囲気が出てきたとしても今後そのウィルス変異は果てしなく連続し今後人類との毎度毎度のおつきあい共存が継続していくというのが定説ですからね。

 

継続的なワクチンの開発と接種が必要であるということになりますが、もはや私の感覚では「降り注ぐ紫外線の外気の下以外」はマスクとアルコールボトルの携行は必至。

「かかっちゃったら仕方ない」は今の社会の風潮にあるかと思いますし、私もそうではありますが・・・。

例の「自己責任」というヤツで社会参加していくことになりますが、やはりコロナに罹って苦しい思いをしたくないというのが本音です。

また制約その他、このうえなく不便なことになりますからね。

 

イギリスからの研究記事にありましたがコロナに罹ると回復しても「20年ほど老化が進む」などといいます。

体に痛みが走る中、できないことが増えた中、「歳はとりたくないねぇ」が口癖になっていますが、ここへ来てコロナで助かる「利」を得たとしてもその玉手箱を開けた煙を浴びた如く一気に「爺さん」になるなんて、くわばらくわばら・・・迂闊な事はできません。

そして大抵皆が思う「私は大丈夫」など、あり得ない。

 

つくづく、健勝で老病死を免れていられることに「奇跡」と感じるようになりました。

いつまでもそれが続かないことはわかっていますが、ここにある限りの一所懸命と時間の大切さをまた思いますね。

 

さて、昨日は石川台嶺の殉教の石標を記しましたが順成寺の安藤姓に生まれた台嶺が石川姓に変わるのは石川姓の寺に義子として入ったからです。

そのお寺が小川、志茂(安城市)の蓮泉寺です。

山号が石川山ですがこちらの「石川」は木戸の順因寺の石川と並んで三河石川の発祥説があるお寺で勿論真宗大谷派(場所はこちら)。

 

門前と本堂前のそれぞれ対の石灯籠は圧巻。

門柱の3面には石川台嶺についての文言が。

 

最後の画像はお寺の掲示板から。

先日は乳歯塚のところで記しましたが当家ではその語を感謝して戴いています。

 

 

0 コメント

2022年

5月

12日

石川台嶺殉教記念碑と西尾の女工哀史 吊魂碑

先日シニアカー(電動カート)を駆使して境内にお参りに来られる檀家さんの「入院」の件を記しましたが、詳しいその内容がわかりました。

昨日なんとなく先方の携帯電話を鳴らしてみたというわけですた。

 

筋力不足に至った原因はそのカート一本やりの生活であったことは違いないことですが、たまたま自宅で椅子に座る際にそのまま床に臀部から落ちてしまったよう。

その際「全身が動かなくなった」とのことです。

病状は「坐骨神経痛」。

「痛くて動けない」ということから2カ月弱の入院とリハビリ生活となったわけですが「何しろリハビリが辛い」と仰っていました。

 

リハビリの辛さ、苦しさは誰もが感じていることですし、その積み重ねをこなしていかないと、あとあと酷い不便の身となることは決まっていることですので「しっかりね・・・」と励ましました。

するとこれから墓参りは「墓近くの本堂脇までカートを乗り入れるのでヨロシク」と。

先般、それの進行を阻む大きなソテツの張り出し部分を伐っていますから何とかなるとは思いますが私としてはできるだけ「自分の足で」と思っていたところでしたのでその言には驚かされました。

え?と聞き返せば神経系の先生は「歩くな」とのお達しだとのこと。

 

筋力の維持と神経に障らないよう生活するは相反することだったのでした。筋肉の維持は大事ですが、「痛み」は避けたいところ。

まぁ「神経」の先生の主眼は患者の痛みの除去ですからね。

私の気持ちとしては少々の痛みは無視して筋力維持のための歩行を重点的に行って欲しいのですが。

 

さて、昨日の石川台嶺ですが、彼の不運は教義維持のために死したことになりますので、よくそういう場合に使用される「殉教」という語で形容がされます。

どちらかの方面でもよく言われる「自爆テロ」首謀者のことをそうも言いますから、今でいうとちょっとした違和感のある語彙とはなりましたが。

 

彼はあの高倉学寮での当流講義修練を経ての向学心、専らの真剣さも相まっての行動になりました。

ただあの大問題(大浜騒動の端緒)について「気合を入れて本意を聞きただそう」くらいの感覚で立ち上がったところに人々が集まりそれをただ先導しただけだったのですが、よりによってその行きがけに竹藪に入り竹やりを作って持ち出した者たちがいて先鋭化、そして偶発的な衝突に発展したということです。

小競り合いの中、相手方(刀を抜いたといいます)に死人が出てしまい大きく問題化したのでした。

 

結果その暴徒化誘因の責を取らされたということで、彼からすれば知らないところで行われていたこと(「不惜身命の赤心ヨリ事起り・・・」)でしょう。まさに彼の不関知「聞いてない・・・」ような話でした。

本意ではなくとも結果としてトップとしてあったということで責任を取らされたということですが、今風に言えば、戦争の主体となる人(戦争をしたがる指導者)というものは「事実・現実」にしばしば「私は知らない・指示していない」「やってない」、最近では「相手が仕組んだ偽装」「フェイクニュース」と逃げまくる姿を見せつけられていますので、その「責任」というものの重大性を感じます。

 

ここでまた一つ思うのが「武器を持てばそれを振り回したくなるというのが人の常」というところ。

やはり最近になって武力を持ちたがる方が増えていますが、それをやりだすとキリがないもの。

「常に相手の上を行く武力を持つこと」が命題になってしまいますので、永遠なる不毛の武器開発競争の連鎖となるのです。

 

石川台嶺の処刑場の跡地には「厳護法城」なる殉教碑とやはり西尾の悲哀の歴史、劣悪工場労務の寄宿舎に居た女工たちが焼死した事案を弔う「吊魂碑」が建っていて、亡くなった女工さんたちの法名が記されていました。

 

尚、「弔」と「吊」は同意。

西尾城の近く(場所はこちら)になります。

 

 

0 コメント

2022年

5月

11日

大浜騒動150年 順成寺は石川台嶺出生地

私の周辺でも数ケ寺の廃寺の件、見聞しているということを記しました。

その「廃寺」の語はあまり気分のいいものではありませんね。

日本史上、その廃寺はいたるところにあって「○○寺廃寺跡」等の石標を見かけることはありますが、それは長い歴史の中での消滅。ところが、これまでこの時代まで続いていた古い歴史ある寺が消えていくことは見ていて辛いものがあります。

 

廃寺とは最近の別の言葉で言い換えれば「宗教法人の解散」です。「これからはそれぞれ皆さんののご意思におまかせする」と檀家さんからその了解を得て本山やら県庁に手続きを進めることになります。当流では「代務者」としてその手続き進行を手伝う寺の住職が指名されますね。

 

拙寺先代(父)は静波の光正寺の解散に際してその代務者をしていましたが、かなり面倒な手続きだったように見受けられました。

本堂の解体が伴いましたので本尊と周辺遺物の取り扱い。

本尊に関しては本山に引き取りを依頼したそうですが、あとの色々の「始末」については私は関知していません。

 

何度か記していますが、真宗はその発祥が個人の所有家屋を聞法道場に変更したものが寺であるというところがありますのでまずは本堂・庫裏の解体も土地の転売も個人での処分になります。

当時は今のように当地の不動産にはそれなりの評価があった時代。

そして驚くべきことは解体更地後、スグに買い手がついてスグに家が建てられていました。

聞けばお墓はダメだが本堂の跡地は「むしろ好まれる」とのこと。その辺りの事情についてよくわかりませんが。

 

そのお寺も①後継者不在、②経営継続不可(檀家数少なし)、③本堂維持修繕費の3点のうち①が最大ネックでした。②③も当然の事ですが嫁に出た娘たちのみで男子は不在でした。

厳しいご時世ですから「無理なものはムリ・・・」という具合に解散申請-解体と今思えば「あっという間」の出来事だったような。

 

先日も「本堂を解体して更地にする・・・」といったニュースがありました。

信長の側室、吉乃(きつの)の墓のほか生駒家の菩提寺としてこれまで続いていた尾張は(現江南市)久昌寺の件。

以前からその寺の解散について報道で知っていましたがどうやら継続のための資金の工面ができなかったようです。

 

法人の解散があったとしても行政あるいは有志、有徳なる人の力で史跡保存できるのではないか・・・などと楽観視していましたが、このほど住職(生駒氏)は苦渋の決断をしたそう。

 

解体が決まってから初めて本堂の図面が起こされたようですがこれまで真っ当な調査の手は入っていなかった感。

要は市に「おカネがない」ということなのでしょうかね。

 

本堂の材は「天正期」とも言われていますので古め。

解体はいかにも気の毒で勿体ない。

ウィキペディアに本堂画像がありますのでそちらをどうぞ。

拙寺の本堂以上のスケールでしょうね。

報道で見た堂内の柱も立派でした。

 

西尾市が真宗寺院詳細について調査報告書など上げていることから比べて少しばかり「どうなんだろう」と感じたところ。

そしてまた西尾市の報告書に掲載されている本堂たちは殆ど江戸中期以降のものですからね。

 

さて、その西尾市の調査報告書に掲載がある拙寺の゙遠い親戚゛「順成寺」ですが、今のところ本堂庫裏を解体するという報せは聞こえていません。維持管理は大変なことですが何とかこのままでお願いしたいところです。

こういった事案が増えれば自治体としても「無理なものはムリ」なのでしょうね。ただし継承者が不在の場合は市で「なんとかする」他はないのでは・・・墓域も残っていますから難しいことは多々あります。

 

その順成寺本堂前の寺標。

そのサイドと裏側について文言「石川台嶺」の名があります。

その人は三河の真宗寺院ではかなりメジャーな人です。

その人の名もそうですが「大浜騒動」の方がこの地区では人口膾炙。

私からすればいつもの「腹が立つ維新と廃仏毀釈」の一つとなります。

 

石標ウラにありますように石川台嶺はこちら順成寺の出身。

元はといえば安藤家の人です。

拙寺七代目の祐信が順成寺の安藤家に正徳四(1714)年に生まれ、130年後の天保十四(1843)年に安藤家に生まれたのが台嶺。

長男は自坊を継ぐというのがスジですので三男の彼は義子(養子)として家を出たというところ。

同じ三河の寺(石川家)に入りました。

台嶺からすると拙寺七代祐信は大・・大叔父の如く。

果たしてその存在について知っていたかどうかというレベルですが、やはり私からすれば遠い遠い親類縁者の一人。

 

それにしても当時の順成寺は拙寺もそうあったのですが義子を輩出して他家を救ってくれていたことに相違ないこと。

今は廃寺となったとしても(復活の可能性も無くはない・・・)少なからず「記憶の片隅にある」という人たちは存在するわけですね。

 

維新という激動の中、「歴史の気まぐれ」の不慮な事案をきっかけに流され、結果、刑死とはなったのですが、私はその人を誇りに思って息子にそのあり方を伝えています。

時々、斬首される際の気分というものも想像しますが・・・

 

尚、石川台嶺の件は「大浜騒動」でググってください。

 

大浜騒動は明治四(1871)年のこと。

今年はその特別展が西尾市の岩瀬文庫にて催されます。

前後期2回に分けての開催ですから、奥方には三河行脚の絶妙の理由ができたわけで。

 

 

 

0 コメント

2022年

5月

10日

順成寺創建は顕宗寺 顕宗寺創建は勝鬘寺住職の隠居寺

先日はNHK「ヤングケアラー」の番組を視聴しました。

それはそのまま「若者介護人」ですがまさに「壮絶」を感じました。

ざっと記せば老いた父母、祖父母から始まって障がい、病気、怪我などの要介護の兄弟縁者のすべてまたは殆どの生活の補助を大概の場合「独り」で背負いこまなくてはならないという過酷な現実がこの華美で能天気ともいえる社会にいて私たちはそれらを見過ごしているというもの。

 

そして介護の連続によるストレスでその介護者自身も「病む」ことを知りました。

当然でしょう。

「自分」というもの主張したい自由な時間に恵まれませんし、自身も社会から隔絶された世界で「私」を抑制し、家族のためにただ、ひたすら尽くし限界ギリギリの時間と生活を強いられるのですから。

 

同世代の者たちが何不足なく、あるべき今あるはずの姿、若さそのものを謳歌している頃、縁者の介護に没頭し日々そのすべてに心を向けなくてはならないのです。

精神と体力は勿論、そもそも経済的にも彼らは困窮しています。

介護を受けている親たちの心境も苦しいものがあるでしょう。

親という者は子の成長と仕合わせを願うものですから。

 

私が日々「あーでもないこーでもない」と不満を記している中、今も「身を粉にして」親のため縁者のために「尽くす」若者がいるのですからね。

その「若い介護者」たちに何とか補助の手を向けられないものでしょうかね。

しっかりとお国はその手当てについて真っ当な援助のシステムの法制化なり、手を伸ばして欲しいものです。

 

彼の地の手違いとやらで補助金を振り込んでの「返せ!」、「いや返さない!」のお寒い問答を聞いていると、テスラのイーロン・マスクも言っていた「将来、日本は消滅する」・・・、まんざら極端な話でもなさそうな気がします。

 

さて、拙寺の遠い親戚(拙寺の七代目祐信の実家)順成寺(安藤姓)の創建は顕宗寺(安藤姓)から。

ではその顕宗寺の創建はといえばそのスタートは勝鬘寺住職の隠居寺からといいます。

 

「隠居寺」とは住職がその職を子に継承させて身を引くのですが、別の場所に住処を求め、そちらをさらなる聞法道場にするところから始まります。

今の如く「二世帯」的、感覚はなく寺としての継承は自らの死を待つのではなく「健勝のうちに寺を去る」ことによって次世代の者を育てるという意図があったのでしょうね。

 

たくさんの男子ができればそれぞれに聞法道場を起こさせ各地にその「血脈」・・・何度か記していますがそれは①まさに家のDNA、苗字と②真宗法脈の二つ・・・継承という意義がありました。

 

他流の感覚でいえば主たる教主坊主と弟子との関係でしょう。

大寺があってそちらから小寺(塔頭寺院)として分かれさせる際、かつては現在のように「血縁」についてはまったく考慮しませんね。

最近はどちらの寺でも血縁継承が主になっていますが真宗の場合は当初からずっと「そうでなければならない」でした。

それが親鸞さんが結婚したということ。

当時は相当のインパクトありましたからね。

他流では坊さんの結婚などあり得ませんでしたし。

 

その「隠居寺」からスタートした聞法道場が「顕宗寺」。

要は顕宗寺の「本寺」は勝鬘寺ということになりますね。

年齢からいけば隠居が先に亡くなることはまず必定、その際は基本、勝鬘寺住職が入ればいいのですが、場合によっては次男以下の男子をそこに入れるなどし、さらに自身が隠居する際に別の場所に隠居場の道場を作って入る・・・が繰り返されて「寺」が増えていくという真宗の流布の形がありました。

 

数代を経たとしても血縁の存在は強固な協調を得られるものです。

勝鬘寺の代々の姓も勿論「安藤」。

そこに勝鬘寺-顕宗寺-順成寺の流れがあって、その順成寺から拙寺に勝鬘寺の血脈の一滴が継承されているということです。

宗旨的に今は「どうでもいいことである」に違いありませんが、その本寺末寺、末寺間の婚姻関係枝分かれの血脈形成の姿こそが真宗寺院だったのでした。

他宗派との違いの決定的なところがこの「結婚」。

男子に聞法道場を継承させることに他ならなかったわけです。

勿論男子不在の場合は女子に義子を入れるということですが。

 

一言でいえば真宗寺院のご先祖様は寺同士で「必ずどこかでつながっている」ということになりますね。

本当のところの歴史観、日本人はお寺だけではなく、すべての人はみなどこかでつながっているということなのですが。

それが日本で言われる「袖振り合うも他生の縁」でした。

 

これからは世界中が繋がっているという感覚(同じ地球人として)を養成させる時ですからその血脈に拘ることは陳腐なこととなりました。

 

血縁を追求することは極端ではありますが差別に繋がりかねませんからね。「オレたちと違う」という、それです。

その究極の纏まりを求めようとするのが今やたらと耳にする「愛国心」というヤツでそれが質の悪いプロパガンダであることがわかります。

 

勝鬘寺はご存じ三河における真宗流布のスタートとなった寺ですね。そして若き家康を困らせた三河一向一揆の主体となった三河三ケ寺(本證寺・上宮寺・勝鬘寺)の一つです。

→勝鬘寺HP「勝鬘寺略歴」へ・・・

 

勝鬘寺門前の掲示板

  「みんなの人が  助かるように 

             それが  仏さまの心」

 

助けたい人、助かってほしい人は仰山いるのですが・・・

 

 

0 コメント

2022年

5月

09日

つまづくのも悪くない 顕宗寺掲示板より

昨日の日曜日は午前から例の「相良城の石」を軽トラで2回戦、トータルで17~8個を拙寺まで搬出しました。

この日の快晴は貴重でした。

週間予報は以降雨予報ばかり、「梅雨の走り」が始まるよう。

 

石が集められている場所は学校の裏の原っぱで、雨が降ると、ぬかるんで作業効率が悪くなることもありますが、最近の晴れ続きで車が「石たち」の直前まで近づけるという利がありました。

それまでは重さでタイヤがスタックするおそれがありましたからまさに「今日しかナイ」のチャンス。

そしてこの仕事はそもそもが土日祭日限定と市からお達しを受けていますから。

 

奥方の手伝いもあって大いに捗りました。

土曜日に菅山でシロアリの大量飛翔を目撃し、すっかり失念していたバルサンを本堂後堂から天井小屋裏にかけて4つ設置してからガタガタになった筋肉をほぐそうと風呂に漬かって終了・・・。

私の方は足も腕も関節に、梅雨どころか「電気」が走っていました。

 

昨日も記しましたが以前こういう日に「何か仕事を」という人がたまたま現れて(以前はよく現れた)、「それなら」と穴掘りをお願いしたところ、半日もたずに「帰りたい」と泣きが入ったことが思い出されます。

 

また本堂下でシロアリ防除剤噴霧のお仕事はその件、それを言っただけ、二連梯子を使用しての塗装など「明日頼む」などと依頼して次の日に現れないなどありましたね。

高所に上がってチェーンソーを振り回せなどと頼んでいるワケではありませんが結構にみなさん安直でヤワなものです。

 

ただし拙寺がお世話になっている石材屋さんは親方と若い人の二人コンビで仕事をしていましたが、最近その若い人は入院してしまいました。そして長期の療養の様子。

腰を痛めてのことですが、毎度重量物といえば私と違って100~200㎏級当たり前の世界ですから。経年痛めてきた積み重ねでしょうね。

 

親方も最近足を引きづって歩いていますので色々体調悪化の様見受けられとかく仕事の進捗も遅れがち。檀家さんもやりかけの仕事に対して「せっつくのはやめた」と配慮されるくらい。

仕事とはいえ体力勝負の限界を見せつけられています。

 

ちなみに私は重量物を動かす際は「腰を使わないよう意識」がモットーとなっています。

よって腕と指の関節はその日も「ミシミシ」言ってまた2日ばかり全身に痛みと痺れが残るということになります。

 

さて遠い遠い親類、顕宗寺の門前に立つと二つの掲示板に目が留まりました。

それが③お寺の掲示板④成瀬廣冬についての標です。

④の「成瀬」はその姓は岡崎にも多いものがあります。

勝鬘寺墓域などその名の墓標が目立ちました。

 

お寺の掲示板(つまづくのも)「悪くない」は私のその「悪くない」の使用と違っていて少々新鮮でしたね。

その「悪くない」はむしろ「良きこと」「都合よろしき事」「おいしいもの」「楽しいこと」として「ニヤリ」としながらそのフレーズを口にしていますので。

 

これは相当昔(1974年)のC・イースドウッドの映画劇中の吹き替えにありました

 

劇中アイスクリームを一口やった時、相方(ジェフ・ブリッジス)に「どうよ」と聞かれて彼がその言葉を吐きました。

「ああ、悪くない」。

以来、イーストウッド気取りでその語を使うようになったのでしたが。

もっとももっと印象的だったのは映画冒頭、長閑な原野に讃美歌の合唱とポツンと1件の教会シーンから。

イーストウッドが神父として演題に立って説教をしているところに昔のワル友が現れて「銃をぶっ放す」というシーンでした。

そんなシチュエーション「私にもありそうでなさそう・・・」の悪人正機。忘れられない映画です。

ということで半世紀前の映画の台詞を好んで使用しているワケです。

 

「つまづく」は要は「失敗」「失策」です。

毎度毎度やらかしている身には「失敗も良きこと」と言われて「え?」と見返してしまいます。

まぁ、それもそうとはいえ「痛いのはイヤだ」と思いつつ、その言葉は「お前に反省はあるのか?」と問われているようでもありますから。

 

躓きにも大小あって怪我も痛みもそれぞれですが、できれば小さい失敗で許していただきたいものです。

やはり一つ一つの小さな失敗を「聞いていく」(香道の「香りを聞く」)と同様、「気づき」というものが必要ですね。

ただし根っからのアホはどうしよう・・・とも。

 

①は庫裏とキレイに整えられた植木たち。

庫裏は延焼を免れたのでしょうね。

②は聖徳太子像。

詳細不明ですが、一見「真っ黒」。やはり被災したものの何とか「助かった」という様に見えます。

顕宗寺にはその後の大いなる果実があったことでしょう。

 

 

0 コメント

2022年

5月

08日

順成寺創建 顕宗寺安藤袈裟太郎の子房太郎 浄恵

権勢を握ると「馬揃」の行進をするというところ、よく聞く話です。

本邦では頼朝あたりからでしょうか。

要は軍事パレード、示威行為ですね。

特に著名なのは信長(1581年)でしたが秀吉の場合は朝鮮半島と大茶会の方に傾倒、家康は武家の嗜み、体力と勘の維持(いわゆるスポーツ)としての鷹狩程度でしたから以後軍事パレードの類といえば昭和の学徒動員くらいまで大きな威勢の誇示はなかったような。

それだけ徳川時代が平和だったということです。

徳川時代が終わってから日本の国は戦争だらけになったことからもその安泰は特筆でした。

 

現代のその「馬揃」と言えば各お騒がせの独裁者が威勢を張っている国というのが定番。

アレを目にするのは吐き気がするほど。気分のいいものではありませんね。

それに悦に入っているそのお偉いさんの顔はまったくアホに見えてなりませんし行進している連中も「よくやるよ・・・」です。

私などその行進に行列に修行に行儀・・・どれもこれも「行」が付くものは大嫌い。

 

過去には、ヒステリックに指導とやらを振りかざす教師に「ヤル気なし」の態度を察せられてさらに雷が落とされたものです。

 

平和はいいですね。

そしてまた、教育という名のもと、半強制によって自分の意思に反する事を無理強いされることがなくなった今、それを「あ~良かった」などとつくづく感じます。

私などは教師からすれば統制を乱す厄介者だったことでしょう。血は争えない、代々当家はそんなものなのです・・・

 

むしろ私など息子が幼稚園やら学校で何かをやらかして奥方が呼び出された際など内心腹の中でニヤニヤしていたくらいですが。奥方は「謝りに行く身にもなれ」でしたが。

 

ということで軍事パレードなど糞喰らえ。

プーチンのそれも今、話題になっていますが、悦に入るのは勝手ではありますが、お気をつけになった方がよろしいのでは。

ウクライナで散々に無茶をやらかして、無残な死に方をしたその縁者たちが溢れるほどいるということを。

「殺したら殺される」という理は鼻高々の者には意外と通じないものなのでしょうね。

 

特に日にちも時間も観覧、演説の場所もすべて決まっているようですからね。

「ゴルゴ」(スナイパー)の登場に関して、対策として周囲のビルに警備隊を配置し厳重をアピールするといった画像を流していましたが、射程が長く精度の高い兵器はたくさんありますからね。

ハリウッド映画好きの私など遠距離周囲から何が打ち込まれるか・・・など想像してしまいます。

同時に四方からハチャメチャに精密誘導の攻撃などされればさて・・・などと。

 

誰もがそのクビさえ獲れば「晴れて戦争終結」となると考えているでしょうし。

要はそのクビ一つですべてが解決しようと推測できるもの。

ウクライナいや世界の「怒り」「反示威」がそこに出現する・・・それをチラッと思ったのでした。

ちょっぴりその希望(戦争の終結)もあったりしますがね。

 

さて、本日も昨日の順成寺。当大澤寺の「遠い親戚」のことで

す。

寺史情報を直接に伺うことはもはやできませんが、あの西尾市の

教育委員会の発行する書物にはその寺の創建の由来についてサラりと記してありました。

 

それが表記、

「顕宗寺」(岡崎)―安藤袈裟太郎の子の房太郎(浄恵)からの系譜建立を示唆していました。

 

昭和四十九年建碑の墓碑には15代住職とありましたので「拙寺とあまり変わりない歴史である」などとは思っていましたがその浄恵の逝去が天正七(1579)年と記してありました。

歴史は約450年で拙寺と同じくらい。

 

勿論、顕宗寺代々の姓は「安藤」の名乗りで勿論順成寺「安藤」と同じ(場所はこちら)。

真宗の歴代の姓は「ずっと同じ」という掟は本山(大谷姓)と同様です。

一昔前の他宗派からすれば違和感があったことでしょうが最近はどちらのお寺も余程の事がない限り「そんな感じ」になっているよう(親族の踏襲、血脈-法灯-相続)です。

 

その拙寺と「遠い遠い親戚」の顕宗寺の本堂は鉄筋コンクリート製。

その件、拙寺にて以前あったことをブログで記したことがありますが、本堂下に入り込んだ浮浪者による失火といいます。

失火というか放火に近いものがありますね。

その火事によるお寺の「以後大変」の困窮は痛いほどに想像できますが、何しろ困り切ったことと言えば「過去帳と寺の歴史の喪失」だとのこと。

 

過去帳は完全なものとして取り戻すことはできないことは明らかですが、ご門徒さん各戸に判明分だけでもと聞いて回ったようです。

どちらかといえば、私など「宗門」については当然ですが社会よりも歴史に生かされているような生活を送っていますのでその辛さはひしひしと伝わってきます。

顕宗寺は「リセット」による大きな障害を越えて今があるのでした。

 

私は各お寺の本堂周辺をうろつくことが少なくありませんが、中には本堂下の空間にネコの子一匹入り込めないよう、金属製ネットが廻らされている様子を拝見します。

ネコならまだマシ、人が入り込んでそこで煮炊き「生活」などされるとなると、全くお手上げです。

床下への侵入を阻んでおけば余計な心配をしなくて済むということ。

 

以前祖父が本堂床下に入り込んでいる人を見つけ「スグ出てってもらった」と言っていましたが、それを許容することは命取りであるということですね(その際、私は「気の毒なこと」とは思いましたが)。

 

最近はそういった人の姿は見なくなりました。

「仕事をさせて欲しい」などいう人もまったくなくなりました。

「無茶ばかりやらせるので寄り付かなくなった」と奥方が言いますが。

私には通常の外仕事なのですがね。

 

0 コメント

2022年

5月

07日

三河龍照山順成寺 西尾市教育委員会報告書の存在

いつもお参りに来られていた方の顔が見られなくなって1か月。

別の檀家さんから「知ってる?・・・」と投げかけられました。

聞けば「今、入院しているよ・・・」とのこと。

お酒大好きでそれが原因の脳溢血で倒れてからこつこつとリハビリに励んで「復活」していましたが最近はそのお酒について「もうきっぱりと止めたのですよねぇ~」などと問えば(冗談じゃあない・・・)「飲むよぉ~」の語が返ってきていましたのでその入院を聞いて「やっぱり、やっちゃったのか・・・」と思ったのでした。

しかしその入院の理由は「転倒」だったとのこと。

転倒してどこかを負傷したということではなさそう。

 

その転倒の原因がただ「筋力不足」ということでその回復のためのリハビリ入院と聞きます。

何故にして筋力がなくなったのか・・・

 

それは数年前にシニアカー(電動カート)を導入したからだそう。それまでは杖と自分の足で墓参りに来られていましたね。

これで介護ナシで「どこにでも好きな時間に出向くことができる・・・」と喜んでいたことが思い出されます。

 

結局自身の足を「使わなくなった」というのが筋力低下の最大の原因のよう。

足が悪くなったら・・・より一層自身の足をイジめてやらないとイケないということでしょうね。

家康の「御文」の如く、幼少時教育だけでなく毎度自身を甘やかすことなく「きうくつ」にしておかないとダメなのでしょうね。

日々ラクばかりを求めている私は大いに反省させられました。

私はその方の今回の「リハビリ入院」に関してお酒も飲めない環境になるでしょうからむしろ良かったのかな・・・などとも思ったところです。

 

他にも医師から「酒はやめなさい」と言われながら「少しくらい」「たしなむ程度」から始まって「毎晩晩酌」に戻ってしまっている方を知っています。

人が自己のコントロールができないということはわかっています。私がそうですから。

 

さて、昨日の拙寺や私自身の「遠い親戚」三河の順成寺ですが残念ながら今は無住寺院になって、本堂に立ち入ることはできないというところ昨日記しました。

しかし西尾市教育委員会の発行する調査報告書にはその本堂についてさらっと記されていました。⑤画像がその一部。

 

そちら西尾市での研究課題としてただそれ(真宗寺院のくくり)だけで一つの冊子が出来上がってしまうということには驚き以外何もなかったですね。

さすが、真宗繁盛の三河の地というところです。

 

「現状(平成15年当時)西尾市域内の真宗寺院は58ケ寺、三河三ケ寺の末寺が多く、徳川家との所縁もあって51ケ寺が東本願寺(大谷派)・・・」という件がありました。

三河門徒の圧倒を再認識するところですがさりげなくそこに記された「徳川家との所縁」こそがその三河真宗の特殊性を示唆しているのかと。

 

何度もブログでは記していますが、家康はいわゆる一向一揆をやらかし、自身の地位を危うくさせた「反発の敵対勢力」としてただ一掃排除するのではなく「それはそれ」とスンナリと許して(三河三ケ寺―本證寺、上宮寺、勝鬘寺―については当初は国外追放に)門徒衆を自分の懐の中に取り込んでしまうその家康の「深い」人間姓は他の大名領主系にはあまり見られないところですからね。

真宗系武士団もしたたかに家康に随って協調、家の存続を図ったのでした。

 

尚、家康が寺そのものを赦免したのは妙春尼の願いを聞いたその20年後でした。

各家臣団もその」配慮に基づいて家の在り方について「上様と阿弥陀様」のダブルスタンダードもヨシとするスタンスに変化していったというところでしょう。

そもそもその二つを同じ土俵の上で崇めることはムリな話ですからね。

 

 

 

0 コメント

2022年

5月

06日

三河龍照山順成寺墓参のこと 七代住職祐信実家

以前、小島蕉園の記した文書「祐公令子名説」について記しましたが、「祐師住院僧也父祖無男皆以義子」の通り、拙寺は男子誕生に恵まれず義子・・・養子を以って寺を継承、ギリギリのところでその法縁を繋いでいたという経緯がありました。

過去帳を眺めてみれば明らかですが・・・。

過去帳が残っているということもなかなか奇特なことでもありますね。お寺によっては焼失等によって「まったくわからない」ということもありますから。

在家では古い時代のそれらが判明できるということは滅多にないことでしょう、まぁ寺ならではのことですね。

 

寺というものの婚姻の相手先は嫁を娶るときも養子を迎える時もまず「寺から」というところは当然だった時代です。

私の祖父くらいまではその傾向が強くありました。

 

ちなみに祖父も姉が3人、ようやく生まれた末っ子の長男でしたので曽祖父らは「娘の誰かに義子を・・・」と腰を上げようと思っていたところようやく男子(祖父)が生まれたといいます。

 

また個人レベルで婚姻(お相手)が決めるなどあり得ない時代でした。要は嫁も婿も在家の「家対家」の如く「寺対寺」条件の元決めていたのです。

ある意味、その手の希望する「人」の有無について、情報ネットワークがあったということは凄いことだと思いますね。

個人(子供)の意思など全くナイ時代でしたから、今の如く性格の一致だとか人間関係だの面倒な配慮もナシ。

存在するものは先方の家、または寺、そして苗字をもって決めていたことがだいたい判ります。

きっとコレと決めたとしたらトントン拍子でスンナリ物事が進んでいったのでしょう。

 

そして義子の場合は過去帳にその出身寺院が記されていますからわかりやすいのですが半面嫁入り、嫁に出た場合は殆ど先方の情報には触れられることはありません。

それを女性蔑視で怪しからんなどとお怒りにならないでください。まったくそういう時代でした。

寛政譜など女子の場合は殆ど無視レベルでしたね。

「女」はまずどうでもイイというのが常識の時代。

 

拙寺七代住職の祐信は文化二年(1805)に九十二歳で亡くなっていますが祐信も拙寺に婿入りし大澤寺の血脈継承を担った者の一人でした。

実家は三州(現西尾市)龍照山順成寺です。

 

その年齢から逆算して20歳頃に相良に入ったとすると1730年頃の話で今から300年ほど前。

私が「三河」それも西三河にその思いを寄せるのはその地域を筆頭に多くの縁者、ご先祖たちの存在が推測でき、またそちらの土に触れ、空気を吸ってきた人たちであるという思いがあるからですが。

 

ブログでは以前、安城の水井山法行寺の石川文子や清水の堀江山専念寺(ナビゲーション)の曽我滝江について記しましたその女性たちは当山への「嫁入り」でした。

何故に女子であるにもかかわらず判明しているかといえば明治から大正末と比較的近い時代だからですね。

 

順成寺からの義子祐信については当家過去帳にそのように記されています。

私は4~5度ほどそちらの本堂裏の墓地にお参りに行っていますが(幹線道路-西尾吉良線-から近く 場所はこちら)、驚いたのは本堂にお参りしようと思い立った時、既に無住寺院になっていたことが判明したからです。

それを知った時は「しまった!!」と思いましたね。

何故ならいずれは住職にお会いして「お話でも・・・」などと考えていましたから。

その手のことは何時でも可能であると先延べにしていた私の甘さがありますが、私が聞いたところでは最後の住職は私の父と同い年の女性だったということ。

とっくに亡くなっていたようです。

 

跡を継ぐどなたかがいるものと思いきや、それは叶わなかったようです。

おそらく住職を亡くしたあとにピンチヒッターとして寺を継承していた様子、父と同い年とすれば今は94歳ということですからね。

 

私は門前にある市立こども園に寺の敷地(駐車場)を貸しているということから元総代か代表の管理者にさらなる情報を得ようとそちらの園長先生にその旨を伝えておきました。今のところ連絡はありません。

今後深堀りしたいところですが・・・教務所は「個人情報」として口を閉じるのは致し方なし。

 

拙寺の血脈を繋げようと義子を出したその寺が300年後に住職不在になってしまうなど私の後悔もありますが(事情を聞けない事)寂しいことでした。

 

⑦の墓石から推測するにその方が住職とあったとすればとてつもない苦労があったことが推察できます。かなり早い時期ですからね。

住職を亡くされたあとスグにこの墓碑を建立し法務を継承したということでしょう。

 

周辺に置かれた宝篋印塔の相輪部分や五輪塔の残欠を見て、その地と寺の歴史の深さを感じました。

アレには室町期を推測してしまいます。

 

尚、順成寺代々、姓は安藤。

法名に「祐」が入っていますが拙寺や専念寺の法名の通字でもあります。

何故かこの「祐」字の法名は目につきます。

 

 

 

0 コメント

2022年

5月

05日

「二葉」直ぐなる木は幼木時きうくつに 神君御文

「新手の詐欺」っぽい電話があったという件某所で聞きました。

独り住まいの年配の方が出るとイキナリ「かつてあの頃、色々お世話になりました。感謝しても感謝しきれません。ありがとうございました。」と始まるとのこと。

勿論どこの誰とも名乗りません。

 

一方的に感謝と御礼の言葉の羅列(貴方様がいなかったら今の私は有り得ない風の言葉・・・)を提示したあと「数日後に改めてご挨拶に伺いたい」旨伝え、「ご住所の確認」となるわけです。

電話をブチ切ってしまえばそれでお仕舞なのですが、ついつい丁寧すぎるほどの感謝の言葉に騙されて聞き入ってしまうとのこと。

尚、住所氏名などを伝えたとしたら、まず「面倒なこと」に巻き込まれることは必定。

 

まずは人の言を「聞き入る」ことは大切なことですからね。

それを子供の頃から重ねて叩き込まれている人は特にそういった一見正当風トークともなれば警戒心が解かれてしまうのでしょうね。

要は犯罪者たちも手を変え品を変え、変化を遂げているわけで。

お気をつけください。聞くことは大切ですが、瞬時の正誤の判断力も必要です。

齢をかさねるとその判断力が落ちますので付け込まれやすくなるのですね。まず留守電待機が一番。

 

昨日地代の墓地は今年最高ともいえるお天気に恵まれました。

須々木区の展望良好の墓地ですから私がその墓地管理に関わっているとすれば、東屋風の建屋とベンチとテーブルが欲しい・・・などと提案したくなります。トイレはありませんが・・・

 

さすがに冬場の北西風が吹くころは一刻も早く退散したくなるような吹きっさらしの地ですが、昨日は霞がかかって富士山はお目見えできなかったものの、この時節ならではのお日和に、ウグイスほか鳥たちの声を聞きながら墓参りそしてお弁当のセットなどあれば何とも余裕のリッチな時間となります。

 

さて、昨日は「三河国二葉松(ふたばのまつ)」について記しましたが、その「二葉」という語を耳にして思い出すのは「神君御文」に登場する「二葉」です。

当流にも「御文」という蓮如さんが記した書物があまりにも有名ですが家康にも「是非に語っておかねばならない」件がありました。

 

やはり愛知県図書館より「東照宮御真筆写」としてあります(→こちら)。

そちらの紹介文をそのまま転機すれば

 

「駿河在城の徳川家康から二代将軍秀忠婦人のお江(崇源院)に宛てて出された書状で、二男国松の教育についての訓戒状である。家康自ら書いたかは不明とされる。

長子の竹千代(家光)と比べ利発な国松をかわいがる秀忠夫人に対し、二男としての立場をわきまえた教育を行うことなどを述べている。」です。

 

その「二葉」はその御文の中、幼少時教育について子供を立木に喩えたところに登場する語です。

私が嬉しいと思う件は「直ぐなる木にするため幼木時に<きうくつ>に育てよ」。

甘やかすと「ロクなことが無いよ」の忠告ですが、長男「岡崎三郎信康」の育て方の失敗・反省含めての語りアリ、説得力があります。

私はその「きうくつ」に育てる件表現も面白く「悪くない」と思います。

今、ひらめきましたが、来年から新生児誕生の祝いの際、わかりやすく簡略の「神君御文」を添付しようかと思った次第です。

 

「幼少之者、利候とて、

 立木のまゝに育候得 成人之節、気隋我儘(わがまま)ものに成、

 多く親の申言さへ聞かぬ様に成候へは、 

 召仕候者も申事、猶以之事  

 左候得は、後に國郡を治め候事は扨置(さておき)、

 身も立申さぬ様になり申候

 

 

 一体幼少の節は、何事も直成(すなおなる)ものに候まゝ、

 いか様にきうくつに育候ても、最初より仕附次

 外より存する程大義共なく候、

 

 是を植木にたとへ候へは、初(はじめ)二葉かい割候節、人之産

 立候(人の生まれたちと)同じ事故(ことゆえ)、随分養育いたし

 一二年も立、枝葉多く成候節、添木いたし直(まっすぐ)成候様  

 結立、そのうちに悪敷えたかきとり(悪しき枝はかきとり)

 年々右之通、手入いたし候得は、成木の後、直成る能木に(まっ

 すぐなよき木に)なり候

 

 人も其通り、四五歳より添木の人も附置候、悪敷えた(良くな 

 い枝葉)の我儘に育てぬ様にいたし候は、後直に能キ人と成 

 申候、幼少之時、育さへいたし候へは能と(ただ元気に育って

 くれさえすればヨシと)心得、我儘に致置、年比に成、急異見い

 たし候ても、我儘の悪敷枝斗り茂り、本心本木うせて、植なを

 り不申候(木の本来の心を失っているのでなおらない)

 

 是に、今以て存出し候事(存置候事)有之候」

 

最近は家庭教育もソフトになって「ビシっと厳しく」の親は減っている様。

大甘環境のもと、やりたい放題の子供が世に蔓延って歳ばかり喰ったら・・・それこそ無茶苦茶な世の中になるような。

家康は「少々の窮屈」-制限について推奨しているのであって子供を力で制圧しろとは言っていませんね。

また要点「言って聞かせ」、「聞く耳を持つ」よう育てるのがポイントと。

子育ての一つの考え方として面白く、できれば「次があれば」(息子の子・・・)採用させたいものです。

 

画像①②は岡崎市開催のシンポジウム「家康公と徳川四天王」のチラシ。とっくに満員御礼とのこと。

③④岡崎城の家康の銅像。⑤⑥は若き頃の馬上の家康。 

 

0 コメント

2022年

5月

04日

西三河 碧海 幡豆 加茂 額田 / 東三河 宝飯 八名 渥美 設楽 「三河国二葉松」ダウンロード シロ

先日のNHKの立花隆氏の番組の内容が結構に頭に残っています。

大抵はテレビ番組の内容などあっという間に消えてなくなるものなのですが、数日経ってもそれは私の中に「まだある」という感じ。

そしてその放送の翌朝に法事がありましたが、それについて少々所感を述べさせていただいたところでした。

 

自然科学に対する造詣が深い師から「生と死」という仏教的テーマが持ち出され、自問自答(我が死との対峙)の挙句、遺言として①夥しい数の蔵書をすべて処分②遺骨はゴミ箱に捨てる・・・だったわけです。

「死は無である」と結論付けていましたから、おそらくそれを発想したのでしょう。

師の思いとしてそれはそれで尊重すべきとは思いますがちょっと意思強調しすぎ。

問題は②でしたね。師らしくない短絡は、おそらくそうとでも考えていかなくては自らの死を超えられなかったのかも知れませんが。

 

番組としてどういった落としどころにするかとも思っていたワケですがそもそもその「ゴミ箱」行きについてはあきらかに脱法行為です。できるはずもなく最初から諦めなくてはなりません。番組でもその件は伝えていました。

①に関しては逝去後にその遺言が実行されて書物は1冊残らず処分されて空っぽの書棚が映し出されていましたが・・・。

 

②は結局「こうしました」といったアナウンスはありませんでした。ただし番組最後に大木とその新芽を愛でるシーンがあって明らかにその木の根元に「埋葬したのだろう・・・」と視聴者に勝手に想像させるシーンがありましたね。

 

それに関してはやはり限りなくグレーゾーンであってキレイなシーンのカットではありましたが、首を傾げるところ大です。

私が思うにその番組は師の偉大さを追悼する意図があるとは思うものの、結果、却って師の宗教への無理解、無知の人だった・・・などと貶めてしまった感もありました。

 

師の願いその②の「ゴミ箱」に関しては、そもそも無理な話なのですが、その意はいわゆる無神論、無宗教者としての師の自信であってその決定の根拠となったよう。

すべての理科学系の人がそうであるとは限りませんが、その発想に陥りやすいところはよくあるようで、私はそれを「自分教」と考えています。

当然にそれも「宗教」。

それも・・・教祖が「私自身」というヤツで私ども坊さんの立場からするといかにもチンケなものの類となります

 

番組最後のシーン「樹木葬」らしきことがあったことを推測できるところでしたが、その遺された親族知友が集まってその大樹より生えた新緑を愛でる様子、亡き立花氏を感じるところこそが「宗教」を感じたところでした。

そこにその番組と師の発想の矛盾を感じてしまいました。

 

結論、「私の死」は死して終わり(無への到達)などでは到底あり得ず、死しても故人は今生きる人々の心に残っていく・・・伝わっていく・・・ものなのです。

「無」に結論づけてしまったら「感謝」も「反省」の思い(「気づき」とも言う)すら芽生えることはナシ。

それを気づけない者はよく「薄らトンカチ」と言われたものです。

 

そしてまた1歩譲って、若くして病魔に襲われ死を待つのみの子供に、ミサイル攻撃を受けて瀕死の重傷の子供に向かって「死は無である」(あなたの人生は無駄であった)から「遺骨はゴミとして捨てます」などと言えるものですかねぇ?

 

 

また、昨日紹介した「参河志」を思い出してください。

それは「三河の歴史」と端的に言い換えられますが「史」が「志」になっていますね。

当時としては「音」主体の社会ですから「シ」の字体などどうでもいいところでもありますが(その「志」とはそもそもが「地誌」の意味があります)現代人にとっては違和感があるかも知れません。

それは歴史とは「人々の心の思い」の連続であるということを示唆しているのです。

「死、死した人」の遺したもの、あるいは遺徳までも一緒くたに捨て去るなどいうことはハナからできないというのが日本の文化であったのに・・・という残念無念をもその番組を視聴して思いました。

 

さて、その「参河志」下巻にある「二葉松」の単体は愛知県図書館にてダウンロードできます(→こちら)。

勿論「参河志」も(→こちら)。

 

この手のサイトは気まぐれで「いつ閉鎖、中止されるかわからない」という不安になった私は手元に置いておきたいと各ページのスクリーンショットにて保存しておきました。

そののち「参河志」を入手したのでしたが、まぁダウンロードと違いPC上でページを捲る必要がありませんのでそれはそれで適宜眺めることができますからヨシとしています。

 

画像は「二葉松」中の「勝手にしろ」(奥方)、「ハカ・テラ・シロ」のうち「城」について全掲載してみたところ。

現地には開削、改変によりかつてのそれらの存在を想像だにできない状態になっているところが多々あり、伝承のみで不詳のパターンもたくさん。

ただしそれらはその時代時代に我らのご先祖様たちが生きてきた証の数々ですね。それらの思いは無駄にするべきではナシ。

過去の全否定などできるわけもなく。

 

最後の画像がまた10個ばかり積載して持ち込んだ相良城の石垣。これで24個の受け入れとなりました。

体ガタガタ、昨日は左腕の関節がそれを持ち上げた時、ビシッと不快な音を立てていました。

まぁ、現状問題なし。右足親指の上にゴロンとやった時は卒倒しそうになりましたが。

尚、先般の「手の上ゴロリ」の件があってから、奥方のその仕事の手伝いはありません。

 

GWのお参りの方は少なくありませんでした。

それを外構に積んでいると「よくやるよ~」「腰に気を付けて」などなど「やれやれ」のため息交じりの声援が。

素人の野面積み(違う!!)はみっともなくまた、声援は照れくさい。

よって画像アップはできません。いずれまた・・・

 

厄介な「捨て去られた遺物」を場所を変えても積みなおして遺していくという私の気概です(市教育委員会了承済み)。

以前「砕石屋さんに引き取ってもらった」という例を知っていますので何としても「助けたい」という気持ちですね。

路盤材にしてしまうのはちょっとね・・・

 

尚、表題の「西三河 碧海 幡豆 加茂 額田  / 東三河 宝飯 八名 渥美 設楽」は三河のかつての郡名。

「二葉松」にしろ「参河志」にしろその郡別に掲載があります。

同じ三河でも西三河(碧海 幡豆 加茂 額田)が私の趣向であることは言うまでもないところです。

 

 

 

 

 

 

0 コメント

2022年

5月

03日

岡崎本宿法蔵寺 三河国二葉松と参河志 

30日に三回目のワクチン接種を済ませ、「さあ久々に遠州の地へ」と念入りにも自治体の無料PCR検査を受けての結果待ちの間、私の「どうよ・・・」の投げかけに横浜の「奥の墓道」氏から「悪寒がして熱がある」などと返信がありました。

 

検査では結果は「陰性」(夜中の24時近くにメールにて連絡)とのこと、セーフだったのでしたが、当人が言うにはここのところの寒さのせいの風邪気味を。

摂取してスグは「平チャラでこれまでで一番軽い」とは言っていたものの体調はどんどん悪く変じて仕舞には「やはり副反応」を示唆していました。

 

体調が悪いということは本来の免疫力が劣化していることですし、3回目のワクチンが効き出すのは2週間後。

私も「ムリすることはないのでは・・・」とメールしてしばらく、帰省断念の連絡を実家にしたと連絡がありました。

法事には出席できないということですね。

それらはGW直前まで「3回目」の接種ができなかった行政の責・・・?「経済活動」とやらを断念したということです。

 

世の中うかれまくっているGWの様。

お調子にのっている世間様の姿を見て呆れているのは、私たちが憶病なのでしょうかね。

普段は無茶ばかりやってる私どもであっても、ひと先ず立ち止まって理性を取り戻せば「ここは静観」のしどころというのが今でしょう。 

強行すべきではありませんね。よって中止は良策と讃えました。彼の全移動は公共交通機関(地下鉄―JR東海道―バス)ですからね。

 

今、私が頭が痛いのは盂蘭盆会法要前の世話人会の開催をどうするか。

世話人様と婦人部のみなさんを集めたら本堂に50人くらいが集まりますからね。

先般その件「どうするの?」と投げかけられましたが私は「しばらく様子見」とだけ応えておきました。

そしてこれまで盂蘭盆ともなると何かとイベントなど入れていましたが今のところはそれも白紙です。

 

さて、昨日記した法蔵寺についてそれを語っていけぱその切り口は無数にあってこの本宿の地関連、派生含めてエンドレス状態に陥りそう。

それくらいにその地の歴史の深さを思いますね。

 

それはそもそもが家康が幼少期に居た法蔵寺があってその寺を主に幕府天領として本陣が置かれたということです。

幕府としてその寺とその地を最高権威の元、特に重きに置く姿勢を強調しました。

寺やその周辺の事物もそうですが、昨日記した如く寺の墓域も実に興味深いものがありますしそのお寺の名事体が阿弥陀さんの名(菩薩の時)ですからね。思いは一層というものです。

以前拙ブログでは近江河瀬の法蔵寺について5回ほど記していました。

また「法蔵」といえば思いつくのは東本願寺前の仏教書専門の書店の名がありますね。

 

同じ東海道、国道1号線沿いの音羽蒲郡インターを降りてスグ、以前の宝飯郡(豊川市)長沢周辺(長沢松平家の地)と同等、それ以上に幕府のウェイトが高かった場所(法蔵寺は額田郡-岡崎)になりますね。

 

最近のブログのそのウェイトは三河に片足、いや両足とも突っ込んでいる感あります。

まぁそれは私の勝手な思いではありますが、拙寺15代450年の間その地との関りが深くあったからということです。

近江から下った初代今井権七以後、遠州にあって三河衆との関りを強く持ちました(本寺は三河本證寺)。

 

歴史上、三河武士団と真宗寺院との関わりも並々ならぬものがありましたし、当然に家康との関わりも深く、大きく俯瞰していくと他所にはない特筆、寺というものの独特の形成があったからでしょうか。

 

やはりこれからその三河について興味を持たれる方がいらっしゃるとなれば、その根拠とすべき私が思う書を(余計なお世話ですが)あげたいと思います。

 

それが「二葉松」ですね。

城郭の教科書「日本城郭大系9」の愛知、三河の城の解説に「二葉松によれば・・・」などなどの記述がよく見えます。

正式には「三河国二葉松」(みかわのくにふたばのまつ) 

元文五1740年の三河地誌のことで要は当方奥方が言う「勝手にしろ」―「ハカ・テラ・シロ」について簡略ながらビッシリと記されたもの。

 

「テラ」に関しては無数にある真宗寺院は割愛する傾向があってその辺りは少々不満にはあるもののその世界(三河史)のバイブルと言ってもいいのではないでしょうか。

ただしハカ・シロなども完璧を求めることはできません。誤りも散見されるよう。

よって「参河志」上下巻(渡辺政香 1836年)なども机上に置いて補完できればと思います。

 

まぁそれも比較参考としてであり、そもそも「歴史」についてはそれぞれの受け取り方、評価がありますし「本当のところはよくわからない」ということは頭に入れておかなくてはなりません。渡辺政香は神主ですからやはりテラのウェイトは低いかと。

「参河志」下巻にはその「二葉松」が掲載されています。

 

③画像は二葉松の「寺」のうちの1ページ。

右側中に三河一向一揆でお馴染み「三河三ケ寺」の一つ針(春)崎町の勝鬘寺が見えますが左ページに二村山法蔵寺、寺領八十三石とあります。

ちなみに右ページの七十九石の大寺、片寄村の廣澤山天恩寺(臨済宗)は家康には縁起のイイ寺。

長篠設楽原戦の出立前に一泊したといいます。

戦勝祈願と戦勝御礼はセット。

 

ちなみに真宗寺院になると一揆筆頭格「三ケ寺」は当初はキツイ咎を受けました。

 

④は「参河志」上下巻。

 

0 コメント

2022年

5月

02日

岡崎本宿法蔵寺 成長ありがとうの乳歯塚

昨日、年配の檀家さんからあった話。

70年ほど前に拙寺で催された「お稚児さん」の件でその方の弟さんとの思いを懐かしく語っていました。

 

その「お稚児さん」とは祖父の代に行われた「稚児行列」のことですが、私も先代の父の代にその行列に加わった覚えがあります。

勿論、主役は小学生1年生くらいまでの子供たちですから、私は行列に同伴する引率係としてです。

 

その意味としては我が子の「成長を祝う」祭りの類ではありますが、その子供たちを演出するにカタチというものが決まっています。

顔は白粉で化粧しお決まりの衣装を用意するということ。

すべてにおいて準備が大変なワケで。

 

70年前のその行列にその弟さんの参加についてその両親はとても悩んだそう。

何故ならばその衣装を調達するに「貧乏でおカネが無かった」からだといいます。

それでも親はその稚児行列に参加させてあげたいと思い、おカネを何とか工面しその参加にこぎつけることができたといいます。兄弟たちもその行列に参加しそれが楽しかった思い出になっていたようです。

 

行列は拙寺の鐘撞堂前から出発し、町内を練り歩いたのち鐘楼前に戻ってくるのですが、その方はあの鐘楼を見ると今もその時の情景が思い浮かんでくると。

きっとすべてが楽しく、また懐かしい「あの頃」だったのですね。

 

ちなみに私はその稚児行列を主催したことはありません。

本来ならば5~6年に一回はやるべきなのでしょうが。

なかなか踏ん切りがつきません。既に子供たちも少なくその声も上がらなくなってしまったような気がします。

 

その時私が返答したのは「親の子への思い」について。

それは子供の成長が難しい時代、簡単に亡くなる例は多分にありましたから。

それでも子供というものを完全に親が管理することはできませんのでここ相良では海での水難事故で亡くなる子供の例が少なくなく、拙寺過去帳にもそれがあったことも。

先日見た近江琵琶湖周辺の番組では、ある地域には自宅前にお地蔵さんが祀られている家が相当数あることが伝えられていましたがそれらは琵琶湖の水難で亡くなった「当家で亡くなった子」の供養のためだそう。

 

それだけ子供というものは病に不慮の事故と「生きながらえ、成長する」というハードルは高く、無難に(「つつがなく」・・・)成長していくことの難しさを伝えていましたからね。

 

よってその「稚児行列」によって我が子の「生」と「成長」について感謝のアピールをするのです。

今は「子は成長して当たり前」の感覚にある人がいますが、私の家ではその件「奇跡」と呼んでいます。

それだけで有難いものです。

それを「当たり前」と思えば「感謝」はありませね。

 

さて、昨日は「誕生ありがとう」の胞衣塚について記しましたが、その流れでもう一つ。

それが乳歯塚です。

基本は昨日の「誕生ありがとう」に続いての「成長ありがとう」ですね。

つい最近(父母の代くらい)まで、私たちの命が「有ることが難しい」(有難い)を強く感じていたという遺物がそこにありました。

やはりそれは今はゴミ箱(昨日)行きということでしょうかね。

とにかくもまた何事も「当たり前」と思っていたら「感謝」が生まれてきません。

成長も奇特と思う時代の遺構です。

 

乳歯塚はやはり岡崎の本宿、法蔵寺に(場所はこちら)。

 

その法蔵寺は岡崎では著名なお寺です。

私も何度かその境内を散策させていただいていますがなかなかそちらのお墓に触れられなかったのは墓がたくさんありすぎてどう記していいのかわからなくなるくらいに敬遠しがちになっていたからですが・・・

 

まあその寺号「法蔵寺」を見て本尊は「阿弥陀仏」?と「ピンときた」方があればなかなかのお達者。

ご門徒でしたらご存じ「正信偈」、その冒頭を記すと・・・

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と阿弥陀仏を讃嘆し 

「法蔵菩薩因位時」と続くところに出てきます。

 

その件、法蔵菩薩・・・「阿弥陀仏の菩薩の頃」ですね。

あの阿弥陀さんであっても成長があっての仏だったのでした。

 

よって寺号を見ただけで浄土系の寺であることが推測できるというもの。浄土宗のお寺ですね。

ただし元は法相宗で「二村山出生寺」が創建という古刹。

また家康の稚児時代、このお寺にて勉学に励んだということが伝わっています。

 

 

0 コメント

2022年

5月

01日

岡崎城 胞衣(えな)塚 ご誕生ありがとうの記念碑

昨晩はNHKスペシャル

「見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅~」を視聴。

「知の巨人」と言われるあの人の科学への探究心には圧倒されますね。

生涯勉強しつづけた人という感じ。真似はできません。

 

こんな会話がありました

立花 「人は何のために生きている?」

インディオの酋長 「人は死ぬために生きている」

 

未開のジャングルのインディオのその人生観にショックを受けていたようです。

師の場合自らの死を含めその時を「無」として結論づけていますからその未開(未文化・未文明)の社会にいる(勿論彼が信奉する「科学」とは縁遠い)人々の言葉として心に残ったのでしょうね。

 

案外、師の場合、科学思考にあって宗教思考には逆に縁遠かったのだな・・・と思った瞬間でした。

科学から哲学的思考に至ったということなのでしょうが、そのインディオの酋長の言った「人は死ぬためにいきている」的発想はきわめて仏教的であって、私などは今更その「生と死」の相関(時にコインの裏表の如くある)について「なるほど」とは思いません。

仏教世界にいればずっと長く言い古されてきたことですから。

 

刹那の時間に生かされ今ある命をただ精一杯にやり遂げるだけで感謝して生きるのがそれであり、師の如くあまりそのあとのこと(人類の進化であるとか)の「難しいこと」・・・要は「わからないこと」に思いを振らずただただ阿弥陀に「まかせる」他はナイという達観です。

 

永遠を「見たい」などとは思いませんし人や知の進化など考えもつきません。

私などひねくれ屋はこれから人間はピークアウト、退化の道を進むかも知れぬとも思っているくらいですから。

まぁそれはプラスチックと薬剤過多の環境ホルモンに暴露し続けた人類があるというちょっぴり科学的見地に立った私見ですが・・・。

 

死んだら無であるから「遺骨はゴミ箱に捨ててくれ」の言葉からもその意思についてわかりますが、逆に言えば死んだことが無いのにそれを「無である」と決めつけるのは実証的ステップを常とする科学の道から外れているとも思えますね。

遺骨を「ゴミだから捨ててくれ」の精神は自身の潔さ、人生未練の無さの主張でもありますが(そもそもそれは法的にムリな話ですね)日本人の文化への無理解があったような気がしないでもなし。

 

あまりにも偉大な知者にあまりにもチンケな田舎坊主が物申すことの身の程知らず。

おこがましいものがありますが、お許しください。

 

さて、師の言う「一人の人間の生きてきた残骸」・・・遺骨をゴミと一緒に処分することになれば、私のブログのタイトルの「墓場」や人々の営み・・・いわゆる奥方が言う「勝手にしろ」(ハカ・テラ・シロ)については無意味ということになってしまいますね。日本人のやってきた歴史とは何だったのか・・・です。

 

ということで本日も。

三河に戻って岡崎城の胞衣塚です。

 

胞衣塚(えなづか)については掲示板の通り。

要は偉人の誕生を後付けで祝福しようという意図ですね

普通のヒトからすれば胞衣はゴミ箱ですが。

 

①が胞衣塚に向かう道から後を振り返った感じ。

石垣の上が主郭。

 

 

0 コメント

2022年

4月

30日

立田古木江(子消・古川)城推定地を歩く 織田信興死地

遅い時間帯での雨予報でしたがお昼頃から降り出してしまいました。よって何も動くことはできず。

 

夜は新日本風土記「水の国 みちの国 近江」。琵琶湖周辺の番組を視聴。戦国時代のお話も盛り込まれていました。

宣如さんの「廻り仏」の風習に甲津原の「顕教おどり」を復活させる行徳寺について放映されていました。

「顕教」とは勿論、顕如さんと教如さんのことで信長から逃れてきたという言い伝え。

 

米原市によれば「甲津原に伝わる盆踊りで、石山合戦に敗れた本願寺顕如、教如上人が行徳寺に隠れ、村人がなぐさめるために踊ったのが始まりとされる。中世末から江戸時代にかけて流行した小歌踊の一種で、かつては、東浅井や伊香郡でも踊られたという。太鼓2、鉦1、拍子木1、音頭2と踊り手30で構成される。」

 

その復活には役集め等の難しい問題があるそうですが、「残していきたい」の気概がありました。

また柏原のお灸についてモグサは「ヨモギの綿毛」からというのには驚き。今はネパール産が注目されているよう。

ネパールでもその利用が流行りつつあるそうです。

 

唐川の赤後寺の観音さん二体(転利-コロリ-観音)はまた見事でした。

千手観音も聖観音も「手が無い」のは賤ケ岳の戦いの際に村人たちが赤川の底に沈めて逃がしたことによるものだそう(長浜市観光協会→サイト)。

 

雨の中を本通りを走ってみましたが、例の撮影による道路占有の儀式は無かったようでスンナリと進むことができました。

合羽を着たスタッフらしき人たちは雨中歩道で何やらせっせと動いていましたが、この雨は「濡れれば寒かろう・・・」という具合で傍から見ていれば「よくもまぁ・・・」という感じ。

 

助手席で奥方が「バスはどう迂回するのかねぇ」とぼそり。

バスターミナルが廃止されたうえに本通りの「通せんぼ」にバス利用で久々に帰郷した人たちは一瞬パニックに陥るのではなかろうか・・・と。

高齢者の足として不可欠なアイテムですが、現状、バス停がコロコロと変更されて、何処で乗って何処で降りればいいのかすら私でもわからないほどチンプンカンプンです。

また静鉄バスはステップが高く、以前母が榛原病院からの乗車で転倒したことがありますが、年配者には不向きなのですね。

年配者はもっと小さなコミュニティバスでさえ「転ぶ」と聞きますから自動車免許を返上してバス利用を推奨されたとしても何から何まで不便だということですね。

 

先日は高齢者の免許更新について記しましたが、偶然というか一昨日檀家さんで「免許更新、合格しちゃったよ」という方が現れました。

事前に警察署から「試験を受けに来て」との通知が来たとのこと。「いよいよこりゃダメかも・・・」と思いつつ試験会場の警察署に向かいそこに現れたのが6名の高齢者。

そのうち「オレより年下の2人が落ちた」とのことでした。

 

私は内心結構な合格率だと思いつつその方に「御年おいくつになられました?」と聞けば仰天の数字が返ってきました。

「93になるよ・・・」。

思わず声をあげてしまいました。

一週間のうち「5日は乗る」という方で、今自動車を取り上げられたら「何もできない」のでその合格は「良かった」と。

次の更新は何時かを聞けばやはり3年だそうですがその時も合格しそうな気丈さでした。周囲からは「もうやめなさい」とは言われるそうですが、私にはそれを注進することはできませんでした。

警察署のお墨付き(免許証の発行)があるのですから。

テーマとしてはその「3年」という期間に人は変化していきますからね。どう見守っていくかです。

 

つい駐車場まで見送ってその運転を確認している私がありました。オートマチックだそうです。

「私はその時どうだろう・・・」ですがそもそもその「93」という数字は激しく超難関な数値であることは確かです。

 

さて、立田の専随寺のサクラと堂内の阿弥陀さん(上記サイト)にお参りしたあとは門前の細い道を県道125号の「森川」の交差点⑦に向かって進みます。

左右にのどかな田園風景が広がる細い道になります。

その途中に小さな祠があって標柱には「冨岡神社」(場所はこちら)とあります①②③。

小字名が「下古川」でこの辺りの地にあったのが古川城といわれていますがピンときません。なぜなら周囲は殆ど低地帯で当時の水害から守る術というものが推測できないからですが・・・。

南側専随寺方向には多少の高まりはありますが西④⑤東⑥とい

った感じになります。

 

ただし④⑤の通り、浮島の如くある一角が鵜戸川の脇⑧にあってそれが冨岡神社。そちらが小木江(こきえ)城ということになっています。

織田信秀の七男、織田信長の弟の城、長島対策により信長が築かせた城ですね。

 

掲示板の紹介の通り「子消 コキエ」とはまた恐ろしい名称です。

実際、信長の弟が「消えた」ことになりますが何ともわかりません。いずれにしろ信長はその怒りにまかせて本気モードに入り長島衆の老若男女の皆殺しに及んだと言われています。

相手の勢力を甘く見すぎた信長のミスに他なりませんがね。

 

まぁ信長をプーチンに喩えれば黒海の旗艦「モスクワ」が撃沈させられたのと同じくらい地団太を踏んだことでしょうね。

「怒りにまかせて」の暴発は結構怖いものです。

 

最期の画像が西側冨岡神社から古川方向を見たところ。

 

 

0 コメント

2022年

4月

29日

成せば成るの高慢 空中分解 意次通信19号が到着

遠州相良は午後に向かって晴れ間が広がりました。

GW初日は低気圧の通過があって土砂降りの予報があります。

よって貴重な晴れを過ごしました。

かといって連日の雨でコンディションは悪く境内作業等はパスしました。

先日の静波での墓参の際にちらりと見やった拙寺静波墓園の草ぼうぼうの様を見て、「早いとこやっつけたい」とは思ったもののまずは草刈り機の修理から。

それ以外にも境内作業は山ほどありますからね。

最近はそうムキになってやろうという気はもはや起こらず。

いつもの「勝手にしやがれ」の心境ではあります。

 

GWといえば息子は帰省しないことになっていますが、同じ横浜在住の「奥の墓道」氏から「今年は帰る」とメールがありました。

丁度実家の方で「法要を入れた」とのこと。

彼は横浜で4月30日に3回目の接種を受けてからこちらに来るといいますので私は「間に合わないね(免疫力が獲得できるまで)」そして「リスキー」と返信しておきました。

彼が来たら来たで久しぶりにバカっ話の一つもしたいものですし。

 

「リスク」といえばコロナに限らずいたるところに隠れているのですが、それを言っていたら何もできません。

しかし私たちはその小さなリスクの存在が大きな致命的リスクに発展することがあるということに気づいていませんね。

 

その小さなリスクは外を歩けば至る所に存在してるワケで、たとえば通常の生活から飛び出したりすれば無限にそれが広がるということです。

要は「臆病」に慎重に行動しなければイケないほど。

その「リスク」の想定はキリがないのでそれを気にしていたらまったく「何もできない」ことになりますが。

よって何か行動を起こす時はそのリスクと行動の中止との天秤を掛けるわけです。

拙寺のバス遠足を中止順延にするなどの判断はその「リスク」との兼ね合いからのものでした。

 

昨晩は岩合さんの「ネコ歩き」視聴のあとは続けて「世界大惨事大全」を。

サブタイトルが「人はなぜ失敗を繰り返すのか? エリート集団NASAを襲った悲劇」です。

2003年にスペースシャトル「コロンビア号」が地球への帰還中に大気圏内で空中分解して搭乗員7人が亡くなったという惨事の件(→ウィキ)。

 

その番組を見て「宇宙船にも遊覧船にも乗りたくない」と奥方が囁いていましたが、その番組の方向性は「小さなリスク(綻び)から大きなリスク(惨事)に繋がる」ことは歴史の中で多々あって、そこのところ微かと思える異常(大惨事へステップアップする最初のメッセージ)にどう対応し惨事に繋げないよう努力すべきかというものでした。

 

私たち殆どの人間は「NASAのお仕事」とは全く関係のない場で生活していますが、その「人の営み」「ある社会の一員」という括りの中、たとえ違った場面でも同じようにリスクと遭遇することは当然の事。

その「人間社会」の分析を進めた番組でした。

どちらの現場においても通じるものが・・・。

 

コロンビア号の惨事に対する組織内の「人間」の検証は徹底的になされています。

番組でとりあげられていたのは、まず「スケジュール」というものの存在。終始それに追われているということです。

その重要度はどちらにあっても厳しくありますからね。

 

それをあまりにも強く重視して、物事を進めていこうというスタンスがまず必ずといって組織にはあります。

すると少々の問題が発生したとしてもスケジュールに歪みやそれを誘因するような改善手段は回避しなくては・・・と思う流れができてしまうということ。

それが「問題の許容」ですね。

「このくらいなら大丈夫だろう」というヤツです。

 

一言で「安全の意識が低下」していく過程の端緒。

どなたでもスケジュール、予定があることで多少のマイナス要因を無視して物事を強行した覚えはあるはずですね。ただそれが致命的状況に陥ったかどうかの違い。

 

するとまた安全マニュアルがあったとしても「今回は微々たる問題である」と決めつけてしまうのですがそれが「基準違反するも、その正当化」へと発展するわけです。

一言で「ガバナンス」が効かないと言われる組織の劣悪ですがそれを改めていかないとますます「暴走」するものであると。

 

NASA組織内のヒエラルキー(組織内上部階層)の問題があったとも示唆されていましたが、「アメリカ人は案外とその組織内で忖度しまくるものである」との解釈は「へ~」と驚かされました。

上司の目を気にしての忖度は日本人の十八番(おはこ)と思っていましたから。

 

まぁお偉いさんが鎮座する組織はどちらにおいてもそんなものなのでしょうね。

忖度して上目使いで動かなくては出世はできないですから。

そこで出世して上層部に上がった人間というものは「ダメの烙印」が押された番組でもあったのでした。

 

よって組織の大好きな言葉「問題ない」に諫言できない体質が生まれ「途中で止める」とか「注意深く安全を確認してから」などとは言えない空気に埋没してしまうというもの。

 

そもそもスケジュール重視世界にいる組織の管理者は下からの意見には耳を貸しませんし視野が狭くなりがち。

「我々は難しい問題に対応してきた。これからも成せば成るのだ。」諫言に「何を憶病風(ネガティブな意見)に吹かれているんだ!!」・・・それが大失敗の元なのでした。

 

どんな意見、異見にも耳を貸すことは「専一」(「神君御文」より)です。聞き入ることの大事を主張していました。

耳の痛い「心地よくない」話(注進)にしっかり耳を傾けられるか・・・それが大失敗を犯さない秘訣です。

「驕り」こそ身を滅ぼすことも。

 

これを記している私自身もまた、耳に残る多くの言葉の数々、痛く感じます。結果、たまたま「今ある」だけ、仕合わせなことですが。

 

画像は昨日届いた意次通信19号。

私の知った顔ぶれの奮闘が垣間見られました。

そして「ネコ歩き」を凝視する我が家のネコ。

 

そのあともずっとそのチャンネルを視聴して一日終了。

「メタンハイドレート」に「三つ子の魂」と続きました。

後者では幼児の「指さし」の特異の件。

社会を築くための(コミュニケーション)第一歩なのですね。

知を共有、共感しようとする行動(情報を知らせる)ことに満足(報酬系の活性)しているということ。

 

ブログを記すということもそれ(指さし)と同じかも。

共有の件、人間の基本的行動であってきわめて幼稚な発想なのでしょうね。

 

また発達(神経細胞)の臨界期(シナプス刈り込み)-感受性期というものがあるようですが・・・難しいので録画しておきましたが。

 

いや私の「臨界」はまだまだ。

その終了過程を遅らせることもできるようです。

しかし私、得たもの次々と忘れていく・・・

やはり脳が破壊(ストレス)されていることか・・・とも思います。

しかしまたその破壊(脳梗塞などで)があるとその幼児性のシナプスがまた増えていくといいます。脳神経の活動の深さにその凄さを思いました。そして幼児教育の件も。

 

子供の脳を壊す(暴言・体罰・夫婦喧嘩により前頭前野が委縮と発達の障害)行動を慎むこと(マルトリートメント お説教は60秒まで)、親が心がけなくてはならないことのよう。

それを心に置きつつ家康の子育て極意を聞いていくべきですね。

ただし私の場合は何から何まで「遅い!!」の後悔の念。

 

 

 

 

0 コメント

2022年

4月

28日

伊勢湾台風から63年 赤芽の白山桜 立田の専随寺

先日、当奥方が運転免許更新のために榛原警察署に。

優良ドライバーということで大人しく交通安全ビデオの前にしばらく座っておしまい。

 

ビデオ視聴中同じように窓口に更新の来訪者があるのがわかります。スグ目の前ですからね。

すると「強烈にピンボケ、チンプンカンプン」の高齢者がその手続きの窓口に立ったそう。

「耳も遠い様で、足元も覚束ない風のおじいさん」といいます。

その方の免許更新が無事に済んだのかどうかは分かりませんが、もしそのままその方が一般の街区に出たらと思うと「怖すぎる!!」と。

 

農家などこの田舎で自動車が使用できないのはさぞかし辛いとは思いますが事故を起こしては元も子もないですからね。

道路にはいろいろな人が走っていることはわかりますがドライバーの状態はわかりませんからね。

 

私も「それ」が何時になるのか分かりませんが、「その時」はきっと「まだまだ大丈夫だ」などと周囲の忠告を無視する私があるような気がします。助手席から罵声を浴びる頻度も高くなりました。

齢を重ねると人は往々に人の声を聞けなくなりますし、耳は勿論他の肉体的機能は必ず衰えてきますからね。

そのタイミングが難しい。

 

さて、昨日記した長島の閘門から北に離れて木曽川を渡ります。

愛知県の愛西市の「立田」というエリアに。

愛知県の西に位置するということから「愛西」なのでしょうがやはり長島同様木曽川に沿った田園風景(蓮田)が広がります。

ということでこの地区の大概、例に漏れず河川氾濫による水害との闘いの形跡が見られました。

 

明らかに輪中を思わす周囲より高い位置に大谷派の専隋寺がありそちらの門を潜ると「赤芽の白山桜」なるサクラの木が現れます。

 

サクラの前の掲示板の通り、昭和34年の伊勢湾台風で倒れたとのこと。サクラの大木を倒す水流も驚きですがその生命力の凄さたるや・・・です。

現在のそのサクラはいかにも大きく感じますが、倒れた跡の根株から出た若芽から成長したものだといいます。半世紀と少々でここまで大きくなるとは・・・

そして「立田村(海部郡)教育委員会」とありますから、愛西市以前に作られた標識ということ。以前の名の方がイイとは勝手な私の思い。

 

本堂の姿が如何にも拙寺に似ています。

創建はこの地の長島の門徒衆VS信長軍との争乱(1570~74)からしばらくしてとのことですから、だいたい拙寺の創建と同じような時代でしょうか(場所はこちら)。

 

 

 

0 コメント

2022年

4月

27日

船頭平閘門 治水の恩人 ヨハネス・デ・レーケ

昨日は平日ながら法要がありました。

ブログでは「足りない(私)」について記していましたがやはり足りませんでした。

故人の回忌、三十三回忌を十三回忌と掲示していたこと、施主に指摘されてしまいました。

要は「三」が足りなかったワケで、とんだ失礼をしてしまいました。昨日の通り「地団太」を踏みたくても正座でしたからね。

一瞬間、歯を喰いしばり謝罪するのみ。

 

法要後のお墓参りについて事前に施主から「雨だったらやめてもいい?」と打診がありましたが、私は「すべておまかせ」と。

「すべて~」とはお天気とご当家の判断のことですがそのお墓の前に立った時、不思議にもピタリと雨がやんで墓前の挨拶は傘の出番無し。

「おかげさま」の歓喜の声とともに終了できました。

お墓は静波でしたが帰り際には再び雨が降り出してニヤリ。

 

今度、今月末をもって当地のガソリンスタンドが店を閉めることになりました。

他にも一件六月の閉店というお店も相良にあります。

「長らくのご愛顧 ありがとうございました」の看板がその件を伝えていました。

そして既に数カ月前にも廃業した店舗(スタンド)もありました。まさに続けざまです。

 

この数年、拙寺檀家さんの稼業の閉店、廃業の報せは数多に上りました。檀家さん以外含めると軒並みの感。

どちらのその寂しい報せにも衝撃を受けるものですが、皆さんそれぞれ熟慮を重ねた結果、その結論を得たものでしょう。

ただただ残念と思うばかり。ため息しか出ませんね。

 

私の居る世界でも各所で「寺をやめる」という例が少なからずあります。当流、私の知る限りで4カ寺になります。

寺も民間も同じようなものですが、その理由の第一は「後継者がいない」。それが断トツです。

そしてその①に大いに関係がありますが②「維持が大変」そして③「食べていけない」(生計が成り立たない)という感じでしょうか。

 

単純に①後継者がいない・・・のみ、という例も中にはあるでしょうが、②と③という重大事案の解消があればまずそれはどうにかなるところでしょう。

お寺でしたらその宗教的世界に興味を持たれる方もいるはずですからその難題が解決できさえすればスンナリと継承者が見つかるはずですね。

 

ところがどちらも同じですが店舗施設(お寺だと本堂・庫裏・門・鐘楼・墓域などなど)の維持・管理の費用は膨大でそれでいてその後の収入が約束されているかといえば、そうでもなし。

強烈な不安に襲われるというのが昨今の社会情勢です。

そもそもスンナリなど行かないことばかりですからね。

また企業経営者だけでなく今、何事も「すべてがイヤになる」雰囲気が充満しているのですね。

 

ガソリンスタンドの経営という点で見れば、ロシア紛争による原油高、円安、物価高、コロナによる需要減衰も当然にありますが、あの世界は厳密な法令によるシバリが付きまといますので、それに関わる今後の維持コストアップは甚大でしょう。

 

さらっと店主にお聞きしましたが、「必要不可欠の改修費に1800万円」の見積もりが出たといいます。

それに対して店舗閉鎖に伴う費用(解体費含めて)が1200万円。

そして後者には補助金支給の期待があるようで、「ここで一気に閉店を決めた」とのこと。

「GWは職安が休みだからなぁ・・・」と笑っていましたが・・・

 

さて昨日の「船頭平閘門」(せんどうひらこうもん 重要文化

財)のつづき。

「閘門」の語は新鮮でしたが、そのシステムについては欧州のゆったりした河川でのその活躍についてはテレビ等でなんとなくは知っていました。

しかし長島でそれを見たとき「そんなものがここにあったのだ~」の感動がありました。

 

もっと驚いたのは国土交通省のお役人?が常駐しているとのことで、船が通行する際は「ベル」で呼びだして(事務所は昨日の画像)閘門扉の開閉操作を行ってもらうといいます。

 

地形的構造としては双方の川を結ぶ水路は意外に川と並行に近いというところにも納得

そして川上側の入出路は堰を設けるなどして溜まりのエリアを作っています(下の地図)。

それが無ければ木曽川の強烈な流れを水路に呼び込んでしまいますからね。

素人考えだと川と川をただ直角に繋げれば工事区間も少なそう・・・と考えがちですがコレがベストなのでしょう。

 

この大工事着工について治水の本場オランダから招かれたのがヨハネス・デ・レーケという技師です。

その活躍は当時の日本国内でフル回転だったよう。農水省のHPにても紹介されていました。

 

治水は衣食住、安心の基本。日本の近代化の礎になった隠れた恩人でした。

これからもその人の業績について触れることがあるかも知れませんね。

 

 

2 コメント

2022年

4月

26日

長島北船頭平閘門 伊勢湾台風 天候自然の脅威

オホーツク海のまだ所々雪が残っているような地の冷水に放り込まれることの恐ろしさよ・・・南無阿弥陀仏。

ほっこりとのんびりお湯に浸かりながら思ったことはそれでした。

その海の極度の冷たさを想像するに・・・まったく気の毒でなりません。

まず異常発生の第一報からの救助対応の「その時間差って何」ですね。適当な商売をやっている・・・の感。

 

私は若い頃、沖縄で小さな10人乗りくらいのボートでしたが遊覧船の如くの「なんちゃって船長」やジェットスキーの「インチキラクター」(インストラクターからの造語)の仕事をしたことがありますが、あの北海道の出鱈目遊覧の運営の「あり得なさ」と海に浸かり続ける体温の低下について痛いほどよく解ります。お客は大喜び、しかし常にリスクが付きまとうものばかり。

また同じ日に発生した蒲郡のリゾート施設での事故も「なるほど」と合点していました。

 

たとえば1回15分、当時お客さんの支払いは1名3000円くらいだったと思います。

繁忙期には1日20回以上の稼働となります。頭数の増えるボートでしたら会社の儲けは「ガッチリ」ですね。今回の北海海の遊覧船の料金は倍以上の様。

ただしあの沖縄の海(28℃以上)でさえ、海水と風に煽られているのは体が冷えるものです。

盛夏の候ならまだしも、天候不順ともなればお昼の従業員食道のエアコン18℃設定には閉口したものです。ガタガタ震えるほどでした。

それが今回事故の起こった海は2℃~5℃といいますので筆舌に尽くしがたい温度でしょう。

沖縄での寒さは「濡れて冷える」からですが北海道の海では殆ど氷水ですからね。それを想像しただけで気分が悪くなります。

 

 

やはりその手の「お遊戯」には事故が付き物です。

それは絶対に避けられないことと企業としては厚く保険を掛ける(コスト)わけですが、問題は天候と稼働可否の「人の判断」のレベルですね。

その件、大きな会社(当時の経営母体は全日空系のホテル)でしたからしっかりしていました。

システム的に現場主任が中止案内を機械的に出しますので「ダメなものはダメ」なのです。

 

しかし会社(経営者)としてはその中止判定に「遊んでいる従業員」を抱えていながらお客は取れないというジレンマが発生するわけです。

そんな時「だから水商売・・・」とは言ったものだ、などと思ったものですが、その判断こそが重大なポイントです。

「迷ったら中止」ですね。いい加減な儲け主義の経営者が陥るところ、ついつい「折角の稼ぎ時を無駄にできない」とイケイケドンドンになりがち。「中止」を宣告されたお客はガッカリしますがね。何も知らないお客は命を落とすことになるのです。

 

私の居た事務所では毎朝、天気図の解析と予報は確実に行っていました。 

私が拙ブログでとやかく天気のことについて記すのはかつて海に出てその天候急変、波風の恐ろしさ、流れの恐ろしさ、雷の恐ろしさ、漂流の恐怖、座礁の恐怖、そしてミスを犯すであろう私自身への不審というものがベースにあってその自然がもたらす「不意」がいずれの不慮を誘引するものだと確信しているからです。

 

また蒲郡での事故は「人はミスを犯すモノ」(人為的ミス)以前

の問題です。経営側の企画の無茶さ加減。

あの急ハンドルによるスプレーショーですがあのタイプの道具でしたら半日も乗れば初心者でもカンタンにその手のお遊びはできること。

ただしそれは広い海限定。

周囲に障害物やヒトがいないことがお決まりのことなのです。

 

自身の起したひき波によって挙動が安定しないところにきて、あの狭い区域、アクセル全開のパフォーマンスですから。

(海の動力にブレーキはありませんので小型船の最たるアレはアクセルの強弱のみでコントロールします。よって周囲にスペースが必要なのです。)

 

ということで客の目の前での「ショータイム」は企画自体の無謀以外何物でもありません。

ハッキリ言って無謀を越してその会社がおバカですね。

あの会社の母体は大企業のはず。

やはり別件、色々あった会社ですからなるほどとここでも合点。

しかしまぁ、あの巨体の突進で死人が出なかったことだけは何とラッキーな・・・。

 

「ダメなものはダメ」と言いつつ「少しだけだから」と自分にだけは甘いという私がここにいますが。

他人のおバカは特によく見えてくるもので。

それを見ながら我が身の「足りなさ」を修正できればヨシとしましょう。

ただし自分のそれを他人様に曝すというのは「みてござる」とはいうものの痛く恥ずかしいものですね。

 

「足りない」と言えば、特にブログなどを記していると後になってから誤字脱字が発覚して「アホだった」などよくあること。

昨日その「誤字脱字だけは(恥ずかしいので)気を付けたい」との会話が某方とありました。

そして「そういえば・・・」とアレ(文芸まきのはら)の特別寄稿の主題の件を指摘されていました。

「へ~え」という具合に見返してみればなるほどでした。

意次侯の「侯」が諸侯の「侯」ではなくて天候の「候」と「足りない」どころか、1本余計な棒が入っていました。

 

きっと今頃、小澤氏は気づいていると思いますが、校正ミスに地団太を踏んでいることでしょう。

私もまったく気づきませんでした。

教育委員会が「恥ずかしい」のかも知れませんがすべて手遅れ。書籍のトップバッター記事の冒頭でした。

まぁいずれにしろそればっかりは他人様のことを笑えません。

 

さて、長島の最北端。

「船頭平閘門」(せんどうひらこうもん 重要文化財)なる工作

物のある公園があります。

なお私は「閘門」なる名称をここで知ったのでした。

 

それは明治の三川分流の工事の付随工事の件。

これまで網の目のようにあった水流を三大河(木曽・長良・揖斐)にキッチリと分ける工事でもあったのですがそうなるとこれまで盛んだった海運業が成り立たなくなってしまいます。

横の動きができなくなる不便が発生するわけでそこに「閘門」を設置したというもの。

 

本場オランダから技師を招いての構築だったそうですがその技師は日本の川を見て(オランダのゆったりした川の流れと比べて)「滝の如し」と言ったとか。

 

川には「渡し」があって市が発達。

品物の流れが頻繁になり、また稲田の生育に不可欠な水について流域はその取り合いの必要もなし。他所ではしばしば争いの元になりました。

そういった超が付くほどのメリットの反面、水害からは逃れることができないというのがこういった地。

しかしこれほどに水害と闘った歴史のある地はそうはないのでは・・・

 

やはりこちらにはそれを巡る観光船が出ています(令和4年3月

19日(土)から11月13日(日) 、土日祝日のみ運航 完全予約制)。愛西市観光協会サイト

 

 

0 コメント

2022年

4月

25日

文芸まきのはら 相良にはたくさんの知者がいる

早く終わってほしいのは当たり前。

先日も記しましたがウクライナは結果的に世紀の異常者プーチンとの消耗戦を一人買って出たような気がしますね。

さっさと武装を放棄してニッコリとロシア軍を迎え入れ、すんなりロシア友好の大統領へ首が据え替えられていれば今の如くのウクライナの人々の悲しみと疲弊困窮には至らなかったというのがスジでしょうね。プーチンの筋書き通りに進めていればということです。

 

「早く終わってほしい」のはやまやまですが、ウクライナ人の気概、気質もありますが、アメリカやEU諸国としてはその「狂った偏執」をそのまま許容していくのはもはや考えられないといったレベルに達したのが現状。

 

というわけでとことんズブズブの大応援団としてウクライナに大量の兵器を注入するに至っているワケですが、もうどう期待しても仕方なし。

ここは長期戦に持ち込んでの総力戦、我慢比べに持ち込むほかはナイと褌を締めなおしたというところでしょうね。消耗戦となればその背中を押す国の多いウクライナが優位。

ここは一気にプーチンに決着を着けたいという野心も見えてきました。

 

世界に争乱を招く(最大最悪の)種が摘み取られるということは平和への道、平和こそ人類にとっての願いですのでもはやその方向性にまかせる他は無いのですが、やはり心に残るのはウクライナの人々の悲しみ。

自分の町が戦場になり家族をなくすこと、諸所の苦難を思うとそのような軽口は憚られます。

気が重たくなる「見守り」を当分間させられることになりそう。

 

プーチンのバックにいて思想的ブレーン、ロシア正教のキリルは75歳。そのプーチンは病を抱えているであろう69歳。

対するウクライナの大統領は44歳。

「早く終わってほしい」という奥方に、私は「10年も経てばウクライナ ゼレンスキーの勝ち」と説きましたが、それほど時間はかからないかも知れません。

 

どんなに財産と権力を持っていようが「生老病死」の件と「押し出し順番こ(ところてん)」は避けられないということ。

人生の退場という関門を潜らなければならないということ。

普通に考えれば「若さには勝てない」というのが道理ですからね。

各国物価高に悲鳴が上がっていますがウクライナのこと世界の事を考えればここは堪えどころです。残酷ですが悲惨に目を瞑って。

 

そしてこのお国のお偉いさんたちは攻撃兵器を供与できないことを口惜しく考えているようですが、それはいかにも単純な思想です。まるで「男の子」。

日本には他にいくらでもやるべきことがあるでしょうに。

それは避難民受け入れと近隣国に避難しているウクライナ国民への衣食住そして医療の支援です。

 

さて、昨日は旦那さんが先に逝ったあとの奥様方のお気楽余生などと放言しましたが、このほど出た「文芸まきのはら」のある方の記述を拝見して、いかにも、いかにも・・・その大変さを知らされました。

 

その方はやはり仁鶴師匠が奥さんを亡くされた「12年前」(記述が昨年でしたので実際は13年前)に夫を亡くされたといいます。

その時、私は(今は既に亡くなっていますが)ある檀家さんから、檀家さんではない方の火葬場のお勤めを「ピンチヒッターでお願いしたい」と電話があり(宗旨は同じ)、それに応じて出向いたことがありました。火葬場まで車で5分ですからね。

私の記憶違いかもしれませんが、「その方だったかも・・・」と思ったのでした。

 

「夫、六十一歳で『後は頼むぞ』と亡くなった」とのことですが会社の経営と二人の重度障害を持った息子さんを遺してのことだったそう。

二人三脚のすべてのことがその時から一人の肩に・・・その「タノム」の重荷は想像を絶します。

ただの悲しみどころではない大きな苦難について終始感謝の言葉を織り交ぜながら綴るその文章に昨日の拙ブログの軽口を反省したのでした。

金子みすゞの言葉も引用されていましたが「私は幸せ者 年齢は関係ない まだ若い」の心意気「今から育ちます」は連れ添いの健在、逝去関わらずに大いに見習うべきと思いました。

 

この「文芸まきのはら」は、この地の文化の深さというものを垣間見ることができる一物です。

それぞれの皆さんが深い考察においてそれぞれのテーマを老若男女問わず論じています。

 

当然歴史に重きを置くテーマもあって顔ぶれには当地の歴史好きの皆さんの名が並んでいます。

また「いつもの檀家さんたち」の名も散見します。

史跡研究会の会長の意次の歌の特別寄稿に池田氏の「撮記帳」(ざっきちょう)などなど。池田氏は今井信郎屋敷のボランティア、チェーンソーを振るっているご様子、さすが「若い」。

 

そしてまた、秋野氏の郷土研究、「相良油田見聞録」は氏の経年重ねた実地調査と関係者への聞き取りに文献読み取りと相当の力が入っているところがわかります。

当ブログでも何度か相良油田について記していますが、この秋野氏の記録に圧巻、相良油田の紹介のコーナーとして左側「ナビゲーション」枠にその記述を転載させていただくことにしました。

尚、画像については割愛させていただきましたのでご興味のある方は、その他の労作とともに本編を求めていただければと。

相良本通りの布施書店でどうぞ。

 

 

0 コメント

2022年

4月

24日

みてござる まってござる 長島城城門は 信行寺

昨朝、何の気なしに点けたテレビから笑福亭仁鶴が現れました。

昨年御年八十四歳で亡くなった上方お笑い界の代表者であり成功者ですね。

連れ添いを亡くして12年、相当に精神的にヤラれたといいます。

体調を壊したのもそれが遠因とも・・・

 

よく「時間(の経過)」が解決してくれる・・・とは言いますが師匠の場合はそうはならなかったとのこと。

私も時としてそういったニュアンスでお話をすることがありましたからドキッとさせられました。

その事実は決して心から離れることはないですからね。

 

自身生かされ続けるということはそれだけ近しい者たちを見送る機会が増えてくるのですが。

連れ添いというものは自分にとっての最大なる理解者ですから逆の立場(自分が先)の時はそうならないはずだ・・・と思っていても実際に男が独りぼっちになると、耐えられないところがあるでしょうね。

それが男の弱さなのですね。常ひごろ何もかも任せっきり頼りっきりのわが身ですから、そのことが起これば、以降何から何まで自身で始末しなくてはなりません。

見送ってからその大変さが身に染みてわかるというものです。

何より愚痴を聞いてくれる者が不在になるというのも痛い。

 

私の見ている限りその「逆の場合」(旦那が先)となると奥様の方は独り身お気楽、のびのび溌剌の様多々ですが。

 

その仁鶴が「座右の銘」として挙げたのが「みてござる」の語でした。ちなみに私のそれはカッコよく「捨ててこそ」とはどちらかで記した覚えがありますが。

 

師匠のその「みてござる」についてその意味を「観客それぞれが・・・いつもみている」(よって気を抜くことなく毎度しっかりやりなはれ・・・)のような受け取り方をする人がいますが、私はただそれだけではないと思うのですがね・・・

 

私の思うそれは(師匠の宗旨について知りません)そもそもそれについて当方宗旨的に阿弥陀仏を主語とする考え方がありますので「阿弥陀仏はいつも私をみていてくれる」という風に解釈したくなります。

南無阿弥陀仏の名号にそれが含まれているとも。

それは私の守護者でもあり監督者でもあるということですね。

勿論阿弥陀仏はどこにでも「おはします」ので「観客席」にもいるワケです。

よって噺家として手抜きなどあり得ないことは当然の事、緊張感を持ちつつ、一所懸命に事にあたりなさいという意味も含まれるのは当然でしょう。

 

私どもはこの社会にあって一挙手一投足、常に「みられている」ことを念頭に行動しなくてはならないということでしょうか。

それでいてどうしようもなくダメ駄目な私がそこに居たりしますがそれもまた阿弥陀仏は「まってござる」というのも当流の宗旨。

 

私は師匠の「みてござる」はやはり仏となった彼の連れ添いが「今の私をみてくれて、待ってくれている・・・」などとその短い番組の中ピンときたのでした。

たくさんの仏たちに「みられている」と考えるのが腑に落ちます。

 

さて、ブログは長島から離れられなくなってしまいました。

そちらの信行寺なる蓮如さん由来の大谷派のお寺にはその二つの語がお参りの方々に主張していました。

水盤の隣に巨大な自然石。その語が左右対称に鎮座していました。

 

門前の言葉

「仏法に明日ということはない

           今日の尊さ 今日のありがたさ」

もまさにその通り。

毎度「迂闊な私」・・・頭が下がる思いです。

「明日がある」と当たり前の如く思い込みがち・・・

世界でも日本国内でも命は儚いこと常に見せつけられています。

 

掲示板にありますようにこちらの山門は長島城の城門を移築したものだったとのことですが、あの伊勢湾台風で倒壊してしまったそう(場所はこちら)。

 

 

 

0 コメント

2022年

4月

23日

長島の真っ平の地にある墓地 蓮台の存在

昨晩の激しい降りはかなり激しいものがありました。

庫裏屋根の雨漏り対応後の本格的降雨でしたので幾度もその真下に行って天井を見上げていました。

以前の最悪期にはバケツ二つで対応しなくてはならないような勢いでしたが今回の漏れはナシ。

 

よって朝、高らかに勝利宣言をしたところです。

長期に渡る試行錯誤と実地での対応の成果です。

ただし「おかげさま」の気持ちだけは忘れていませんが。

 

その「勝利」はプーチンの勝利宣言の茶番よりかなりマシ。

一昨晩視聴した、その「マリウポリは掌握、開放は完了成功しました」の国防省の報告。

以前見た10mは離れているかと思える長机の端と端「長距離」ではなく正面近接の画でした。

プーチンは固まってかのように背もたれにふんぞり返り右手でテーブルの淵に「掴まっている」様子が映りだされていました。

 

対面による「戦果報告ショー」のテレビ中継についてですがアレを企画する者、出演する者、そしてそれを視て歓喜したり納得している者・・・阿波踊りの如く。

いやみんな阿呆の間抜けにしか見えない。

「そもそもそれってテレビ放送するもの?」ですね。

 

プーチンが抵抗勢力への「ハエが入り込まないよう」の表現に人の命とちっぽけな害虫と同一にするところ、いやはや・・・の驕りを感じます。「病気」についてその人を揶揄する気はありませんがお頭も体もかなりヤバそう・・・。

 

 

その「ハエ一匹」にまたドローンを連想したところです。

人間がハエならドローンはコバエ。

そのコバエの働きは今の戦闘には書くことのできないスペシャルアイテムです。

そのチッポケな最新「コバエ」に艦船のレーダー網が攪乱されてあの「モスクワ」なる雄姿は黒海に沈んだとも。

 

ゴリアテ化したプーチンがウクライナのダビデに首を獲られる・・・そんな歴史の1ページが見られるかも・・・

 

まぁウクライナVSロシアの戦争ではありますがどう考えても旧西側諸国(EU+アメリカ)VSプーチンの様。

気の毒なのはウクライナの人々ですね。それもその手の事などどうでもいい子供たち・・・悪い大人たちの犠牲になるのはいつもそう。

 

プーチンをバックアップしているのはロシア正教会のキリル総主教といいます。

そのご老体のお説教とやらを聞きましたが、どう考えても宗教者として「イカれている」というのが印象。お名前も英語読みすると「殺し」の様にも聞こえてきます。

まぁ核と武力を信奉するロシア第一主義の宗教だというのが理解できますが、私の単純、「怪僧ラスプーチン」なる語をも思い出すところです。

 

さて、長島の北「輪中ドーム」辺りから長良川の土手方向に向かえばそこは平坦な水田耕作地帯になります。水に関しては豊富な場所です。

この地が旧楠村なる地でしょうか(場所はこちら)。

殆ど畦道の如くの道を何の気なしに走ると小さいながらも墓域にあたりました。

墓地は珍しいものではありませんがあのカタチが目に入りましたので立ち止まってご挨拶することに。

それが蓮台です。

 

要は墓前参詣に付属する石壇で納骨の際などに今でも現役で使用されているものと拝察しますが、一昔前といえば棺を置いたものと。

となると土葬の件、あるいはその前面に火葬場(野焼場)があったことなど龕前堂の存在も想像できます。

 

その地は火葬にしろ土葬にしろ水害が頻発する地ですので、人々の考え方は殆ど「仏は海に還る」だったかも知れません。 

明治中期の木曽三川分流工事によって集約された笠塔婆「上阪手衆霊之碑」が。

 

①の六字の石塔前の石壇には加藤氏の名がありますが、比較的この地区に多い姓ですね。

③の奥が「輪中ドーム」。

 

0 コメント

2022年

4月

22日

長島北端の浄福寺 裏側は木曽川 八藤紋の起源

最近の地元テレビ局では藤枝の蓮華寺池公園で開催中の藤祭りの様子を映し出しています。

藤と言えばこの辺りでは熊野が有名ですが藤枝のそれはエリアも広く、さぞ見栄え良きものと期待して寄ってみました。

ところが平日にもかかわらずベタ混み渋滞。

駐車場はいつもの無料が有料と化していて「こりゃえげつなし・・・」と何も見ずに退散しました。

まずは人を見るようなものですからね

あの場所は自然の中とはいうものの「雑踏」に近しいものがありました。

 

昨日記したよう横浜の「奥の墓道」氏の3回目接種の予約日は30日土曜日とのこと。

「遅かった!!」といえば前回(2回目)は予約から5週間後だったのでそうでもない・・・と反論されましたが、私の言う「遅い」は「私の3回目」と比べてのこと。

人口の多寡による違いかとは思いますが彼と私ではその罹患のリスクは雲泥の差ですからね。

人との交流が多い社会(就業含め)で活動しているということですが、ここ数日は牧之原市の感染者が増えているようで(昨日は29人)少々不気味。

単純に人口密度が格段に低い場所であるにもかかわらずです。

 

GWの帰省について問えば「現状半々」とのこと。

ワクチンの効果出現はそのずっと後のことですし、その時分の感染者の状況を見て決めるようです。

今年もそれが成らないとすれば3年以上遠州の空気を味わうことができないということですからね。

彼の理性的に対応する性質には感服します。

世の中、GWの国民大移動を許容する雰囲気。

以前のような高速道路の大渋滞が予測されています。

 

息子も今年のGWはパスするようです。もっとも彼の方はあの地で忙しく動いている頃ですからね。

 

さて、遠地通行中に阿弥陀堂・・・特に立ち姿の阿弥陀如来のおはします御堂・・・が目に入れば挨拶に上がる習慣が身に付いてしまいました。

真宗系のお寺ならその阿弥陀仏とお遇いできることは必定です。

近江辺りだとガッチリ鍵のかかっているお寺もあったりますが、三河やこの長島ではではまず8割方、お参りが可能でしょう。

 

他宗派であっても興味はいろいろ、時間がいくらあっても足りないくらいです。ただし他流の場合、ご本尊は隠れていることが多いですね。

その一つ一つに深く重い歴史があることでしょう。

 

さて、一昨日記した長島の北端、聞光寺は長良川側。本願寺派のお寺でした。

こちら浄福寺はやはり聞光寺と同じくらいの北にあるお寺。

そしてこちらのお寺の後ろ側は木曽川という位置になります(場所はこちら)。

 

④お内陣の阿弥陀さん須弥壇には打敷大小が。

その紋が八藤紋。

 

八藤紋について「本願寺紋の変遷」(野村淳爾)より

証如・顕如の紋

表装裏面の書付に天正六年(1578)の年記をもつ本願寺蔵証如影像には袈裟に「八藤紋」が描かれている。

八藤紋は中心に藤花を置いて四方から八本の花のつるが囲んでいる文様である。

この形は煌びやかな美しさを呈している瑞祥とされている。

 

「法流故実条々秘録」には

「本願寺御家之御紋、根本ハ鶴丸也。

(中略)証如上人ヨリ初テ摂家ノ猶子ト成給テヨリ、御家之紋八ツ藤に改マリ候」

とあり第十代宗主証如(1516~1554)の時より九条家の猶子となったことから、九条家より八藤紋が贈られたと見られ「条々秘録」の文を窺うと、おそらく証如期にもこの紋を使用していたものと思われる。」

 

とのこと。

当家でも五條袈裟なとにその紋は見られますが、打敷だとその紋章はありません。

そのお寺と大谷家の関係を思わせるところですが瑞翔とはいえあまりにも普及している紋ですので何ともわかりません。

ご住職を訪ねることなく合掌して退席しました。

 

尚、①は輪中を思わす外観、鐘楼石垣周辺の図、グーグルマップより切り貼り。

 

 

0 コメント

2022年

4月

21日

明治の長良川の河川改修で沈む 願證寺 川の中

横浜在住二人の件。

「奥の墓道」氏に3回目ワクチンの案内が届いたのが先週末。

続けて息子にそれが届いたのが今週月曜日のこと。

息子は住民票を移していませんので、その「殆ど同じ」は自治体の仕事の違いでしょう。

 

横浜では指定日が無いとのことで「いつでもどうぞ・・・」になっているようですが、指定医院に出向いての予約。

息子は3回目の副反応についてビビり、当地に帰って、また戻るという複雑は回避したいそう。「横浜で打ちたい」旨伝えてきました。

ということで接種券を横浜に転送しました。

20日の静岡県の感染者数は1018人のうち牧之原市が36人、御前崎市が15人。

一言「ぜんぜん減る気配ナシ」というか「多し」の感。

収束先取り施策から緩み気分も増幅しての結果(地域間移動頻繁)なのでしょうが、GWの野放図・・・さてどうなることか・・・

 

さて、昨日は伊勢長島の北、長良川の土手の下、聞光寺について記しましたが、その寺に私が遇えたきっかけは長良川の土手に上がったことから。

それは昨日も記しましたが本来の目的は旧願證寺の位置を大体の雰囲気だけでも・・・と「見に行った」のでした。

 

願證寺は戦国時代前半には伊勢はもとより美濃・尾張の三ヵ国の真宗寺院の主体となった寺、要はその三ヵ国の真宗門徒衆をまとめた寺です。

それは三河でいえば三河触頭三ヵ寺(本證寺、上宮寺、勝鬘寺)の

如く。ちなみに拙寺は「本證寺末」でした。

尚、三河一向一揆の永禄六年(1563)~七年にかけて当家初代は安土と遠州を行き来している時、寺としての体裁はできていません。また初代今井権七の三河一向一揆についてその動向、考え方についてはまったく伝わっていません。

のちに家康の恩恵を受けることになりますので「余計な歴史」を封じることは肝心だったかも知れません。

 

真宗門徒は縦社会(封建君主)を嫌い、ただひたすら手を合わせて敬礼する対象をあげれば阿弥陀如来のみ・・・といった宗旨ですので、そういった社会(縦)を確立を目標に掲げる者にとっては排除すべきグループになります。

縦といえば阿弥陀の教え(経・・・経糸たていと)ですから特に無茶難題を押し付け権威を上から振るおうとする「人間」には反発してきた歴史がありました。

 

その長島を中心に周辺三川流域の明治以前といえば現在の如くハッキリとその川の流れを指定できないくらい陸地に細かく入り乱れ、年によってその流れをコロコロ変えてしまうような不安定な地域でした。

よって古来からその地域では水害からの「守り」の住処、輪中の発達となったのですが、明治以降それを国の力で何とかしてもらおうという動きが起こります。

明治二十から木曽三川分流工事が始まりその結果水流はコントロールしやすく纏められて、たまたまその地にあった旧願證寺は長良川の底ということになったのでした。

 

その位置はグーグルマップにも記されているくらいハッキリしています。

ただしその位置をこの目で確認できるわけもなく、その雰囲気を味わうだけのことのみですが(場所はこちら)。

 

③は土手の上から見た長良川の反対側、長島の陸地部分。

白いドームが「輪中の郷 輪中ドーム」。

 

川底を作りながら土手を形成させたのでしょうが(掻揚)、物凄い大工事だったことを思います。

 

 

0 コメント

2022年

4月

20日

大河に包囲される地 長島の北端 聞光寺の山門と鐘楼

5日ぶりに20℃超えになったといいます。

もうこれで寒さの逆戻りはないのかとは思いますが、全体的に気候の移りは早いですね。

サクラとツツジが混在しているというところも顕著に感じますが、昨日は違う場所でそれぞれ羽蟻の飛翔を見ました。

私の毎年のシロアリ対策は「5月5日」前というのを目途としていますので驚きでした。

遅れをとったということでしょうかね。

 

対策といっても本堂下は石灰を散布してシロアリが嫌う土壌に改めていますが毎年念のため本堂と庫裏の天井小屋裏に燻煙殺虫剤を散布しています。

よって早速明日あたりに着手したいと思います。

鳥たちが大喜びで羽蟻の飛び立ちを待ち受け空中で競うように啄んでいますので察知できます。

 

さて、最近は三河にウェイトがかかってブログを記していますが、今テレビ画面を見ていて伊勢の長島を思いつくようになりました。

ウクライナの東部のマリウポリなる地がロシア軍に包囲されて殲滅される寸前の様だそうです。

連日のエグイ画像を見せつけられ、イケないこととは思いつつも、ロシア人嫌いになった人は少なくないのでは・・・

 

昔、祖父や父がかつての彼らの仕業と性質(たち)を罵っていたことが思い出されます。

「まぁまぁ、過去の事だしロシア人すべてではないのでは・・・」などと私なりの考えでその子供じみた反感についてやれやれ、ニヤニヤしていたわけですが、もはやそれは私も同感、ロシア人許容不可のレベルになってしまいました。

 

しょうがないですね。大ボスプーチンをひき釣り下ろせるのはロシア国民なのですからやはり責任をもっていただかなくてはね。

洗脳されているとはいっても結局は貴方たちが選んだ「最低」なのですから。

祖父から数えて約100年の嫌悪があったとして今回の件であと100年はその汚名は消えないでしょう。好きにはなれない人々です。そこから差別が生まれていく構図・・・

 

そのプーチンとその配下のロシア人が行っている隣国ウクライナへの侵攻と都市封鎖、そして大量殺りくを見ていて、私のお頭の中ではマリウポリは伊勢長島か・・・と(相当飛躍していますが)感じてしまうのでした。

プーチンと信長が重なったということですが、真宗門徒にとって信長による石山本願寺の包囲と長島の婦女子含めて問答無用の大量殺人、今言うジェノサイドに相違ないかと。

武力での攻勢、制圧はプーチンも信長も同様と感じたというところです。

 

その長島では多くの真宗門徒が亡くなっていることがありますが真宗寺院がやはり多いということから近江、三河同様に気持ちが向く地でもあります。

お寺の門を潜り境内に足を踏み込んで、できれば堂内の阿弥陀さんに手を合わせることができれば、それなりの「只今の達成感」を得られるワケで。