2023年
6月
03日
土
冒険-苦痛・忍耐-は心を変えるグリーンブック 隣松寺
私の持論、前線降水帯「国道一号線通過理論」の通り、
河川の「氾濫間近」のニュースが東海各地で流れていました。
ところが23時20分になって当地にも「避難指示」が。
しかし誰がこの「雨の中に・・・」の溜息。
この付近に限ってなのでしょうが「家の中が一番」
夜が明けて朝が来ればいろいろ詳細報じられることでしょう。
息子が親の顔に泥を塗るの件、各拝見させていただいていますが、
要は世間知らずと言うことなのでしょうが、
私の父母と私、
そもそも人間は「おバカ」な生き物なのですから。一言で「伝え続きの順送り」。
子は成長によってそれを知っていくものなのですが、
やはり原因は親か・・・泥を塗られたとしても「自業自得」かも。
私の持論は「自分を信じるな」ですが、それは「息子を信じるな」
の通りです。
おバカな子はそれでも「可愛い」
後者の方は親の弁「戦争映画ばかり観させたせいで」
私など西部劇と戦争映画、アクション映画のハリウッド製ばかり観ていましたが、
息子も幼い頃からその手の洋画ばかり視聴していましたが、
奥方に対して、彼が「猟銃を買ってくれ」
それが普通の親の心では?
扨、昨日NHKで視聴した「グリーンブック」
たしか、「冒険は心を変える」のような語だったかと。
間違っていたらごめんなさい。
その「冒険」とは、
映画は1960年代の人種差別真っ盛りの時代の実話からです。
ジャマイカ系の有名ミュージシャンがイタリア系のボディカード兼運転手を雇ってアメリカ南部での2か月あまりのコンサートツアーに向かうというストーリー。
当時のアメリカ南部は黒人への差別が半端なものではなく各地で地元の「洗礼」を受けることになります。
「肌が黒い」という理由だけで脅され、ブン殴られ、レストランでの食事は拒絶され、トイレも白人との共用は許されないという世界に自らを投じたその理由が表記「冒険は心を変える」だったということでしょうか。
北部でのコンサートは名声もあって南部のツアーより「三倍稼げる」はずなのに彼はその「冒険」を求めたということですね。
辛く腹立たしく理不尽だらけを体感することが彼の冒険であり、その冒険を遂げた時、何かが変わる・・・といったメッセージだったかと。
ラクを求めて逃げてばかりいたら本当の私がわからないということかも。
画像は昨日の隣松寺本堂と三尊形式の阿弥陀さん。
須弥壇はごく賑やか。
2023年
6月
02日
金
一向宗との戦勝を祈願 稲荷山隣松寺
人間ドックの検診にて運動不足の指摘があったわけですが、顧みれば私どもはやはり歩かなくなりました。大いに自覚するところです。
奥方はショッピングセンターには行っても「ハカ・テラ・シロ」歩きは敬遠するようになってしまいました。
私はその奥方の独壇場は早々に飽きてしまい「車で寝ている・・・」となりますので外に出たとしても「ぐーたら」です。
奥方の場合は最近の体調不良からか「坂道が辛い」と言いますので私の嗜好には伴わなくなりました。
その私の好みの場といってもそれは数々あれど夏にかけてその気持ちは半減、先日もマダニに咬まれた老年とはいえない方が亡くなっていましたがその被害も頭の中に残ります。
3~5月の3カ月各月一回ずつ計3回のマダニに咬まれ、未だその箇所にはマダニの口が残っていて赤黒い豆粒ほどの腫れが引きません。今月咬まれると4カ月連続。
これまではただただ幸運、ウィルスを保有していないマダニだっただというわけで、さすがに4回目は「問屋が卸さない」のは常識的感覚。よって境内作業含めて晩秋を迎えるまでは山歩きと草むらは敬遠してしまいます。
マダニのいなそうなところ・・・それが課題です。
しかしムリなのですよ。特に「シロ」。私の方向は模擬天守のある観光城ではありませんからね。
扨、「テラ」でも拙寺のような「藪の中 木々ぼさぼさ」の寺ではなく三河岡崎周辺の浄土宗のお寺は流石に有徳なる人、絶大スポンサーが徳川家ということもあって広大かつ美しいと圧倒されるような寺が散見されます。
先日は岡崎市内の隨念寺について記しましたが、昨日ブログでしるした墓域の管理主体、隣松寺の境内の美しさは圧巻です。
以前「松の付くの寺の名は・・・」松平(徳川)関りかも・・・などと記しましたがこちらもその「松」が光っています。
境内にも松が多く(寺として珍しいことではありませんが)そのそれぞれに手入れの行き届いているところを拝見し、管理に苦心しているところがわかります。
松の手入れは年に2回、これだけの松をやる工数とは・・・などなどついその予算経費まで推測。建造物伽藍もやはり美しい。
あれだけの松をやるためには高所作業車を入れて・・・
あさましい心です。
稲荷山という山号も真宗門徒の私には相当の違和感がありますが、家康は真宗(一向宗)門徒との闘い(一向一揆)での戦勝祈願をこちらで行ったといいます。
本尊は同じ阿弥陀さんなのに・・・
2023年
6月
01日
木
鴛鴨松平氏 榊原清長・長政 於美津 隣松寺墓域
先日は人間ドック、自身健康管理の一環、年一度のお決まり。
不健康早期発見のための投資です。
ただしコストもさることながらあの胃カメラは苦痛とストレス蓄積タイムになります。
さっさとやっつけて帰宅・・・を目途にし6時半すぎに家を出て7時過ぎに到着。正面玄関はまだ閉まっていました。
よって救急外来の出入り口から。
「8時15分から」の指定ですが1番札ゲットが目的でした。
行列の中で待たされることは避けたい。「さっさと~」のためには動き出しを早くするのが一番ですからね。
勿論1番札は手に入れたものの、その一番に片づけたい胃カメラが「まだ準備が整っていませんので~」ということで他の諸検査廻り。すると最後に残った検診、胃カメラ受診室にようやく呼ばれて赴けば、何と先客が居て私が2番に降格。
その「2位」の方とは30分以上の大差でぶっちぎっていますのでこの早のりは一体何だったのか・・・何故にこのような結末になるのだ・・・とそのタイミングのいろいろに抗えない私とその徒労に先客の嗚咽の声を聞きながら脱力したのでした。
終わってみれば大したことはないのですが・・・
バリウムは意味が無いといいますし、終了後の問診であの明細画像を目視しながらの解説は捨てがたいものがあります。
以前からのポリープの数個の現状と悪性新生物が無いことが確認できればそれでOK。
運動不足を指摘されました。
本気で運動はしていませんが、境内作業や気まぐれ山城登城ではまったく及ばないということでしょうね。
扨、豊田ジャンクションの鴛鴨界隈ですがこの地で史跡を挙げれば枚挙に暇がありません。
昨日記した鴛鴨城の鴛鴨松平氏ですがその代々の墓があります。
今は境内とは少々離れた地になりますがかつては隣松寺の寺域だった場所。熊野神社の通り沿いになります。
その奥には榊原清長・長政そして松平忠吉の養母の於美津のかなり新し目の五輪塔がありました(場所はこちら)。
2023年
5月
31日
水
「おかげさま」と言える人生 鴛鴨松平 鴛鴨城
大学進学等で都会に出て独り暮らしを始めた子息に対し親が「調査」 (一体どういう生活をしているのか・・・まともに学校に行っているのか・・・知りたい)を依頼する件、増えているといいます。
日頃「自分が最も信用できない」を信条にしている私ですが子供に対してその「今」を確認したくなるのはやまやまのことだと思います。
何故なら自分の息子(娘)だから・・・です。
歎異抄の
「さるべき業縁のもよおせば いかなるふるまいもすべし」
の通り、普段「善なる行い」について語りそれを承諾していたとしてもある業縁(タイミング)に遭遇するとしばしば「やらかす」というのが「私」ですね。
よって可愛い息子、娘らの素行を調査して安心安堵の種としたい・・・というのが最近の親心なのでしょう。
まぁ、プロの力を借りることは別としてメールやlineでの消息確認だけでなく、適宜その独り暮らしを実地「急襲」するなどしてチェックすることは必要でしょう。
仕送りを送り自由勝手に暮らさせる・・・もはや無責任の時代になったかも知れません。
昨晩はNHKクロ現「闇バイト」に吸引される若者たちについて視聴しました。
田舎育ちの若者が都会に出て(繁華街流浪デビュー)、一攫千金の華々しい生活への憧れとその夢が芽生えた時、ネット社会の安直「濡れ手に粟」の安楽生活の誘いの情報氾濫もあいまってその「業縁」が舞い降りるといった図式でしょうか。
親としては自己防衛の意も含め子息の「おバカ行為」に至るその前にその無知を摘み取っておくことは肝心かも知れません。
私の息子もそうですが若い人たちに記しておきたいこと。
1 ラクに稼げる・・・うまい話 は詭弁 闇バイト間違いなし
そんなにうまい話は世間様に絶対に転がっていない
2 闇バイト承知の面白半分での参加冒険も蟻地獄に堕ちるもの
ボスに個人情報を握られて脅される
(組織から抜けることができない)
使い捨ての上下関係により重罪に至る犯罪の実行役に
そして絶対に捕まる 甘くない
責任を追及され拘束されまた大きな賠償を支払う
よって人生を棒に振ることになる
その親たちもこれまでの地位・信用そして時に住処を失う
3 豪華、華やかな世界に惑わされるな
人生の全う成就にショートカットはない
歴史上「好きな道を地道にこつこつ」以外成功の秘訣なし
尚、オモシロネタで画像を撮影、周囲混乱に陥れるというのは論外でしょうね。異次元のおバカ、バカ息子・・・まさに流行りもの。
私の息子はかつて学校持ち込み禁止のスマホで教師の後ろ姿を写メしてアップ。それが教師にバレて奥方が学校に呼び出されていました。
私はそれを笑っているだけ。
「異次元」ではないにしろただのバカ親です。
①画像は豊田の真宗大谷派徳山寺の看板。
長野中野市の事件、彼の憤怒のきっかけは「独りぼっち」と揶揄されたと思いこんだことからと。
ハナから人間は独りぼっちで歩むものです。
「ぼっち」を卑下することはありません(「私は私・・・」の気概大切)が、それを苦痛に感じて怒りを他人様にぶつけたとしても詮無き事。
もし「ぼっち」を苦痛に感じているのなら「お寺に」どうぞ。
私はたくさんの御縁に囲まれた煩悩具足の身で「おかげさま」世界に生かされていますが時に「ぼっち」を求めて「テラ・ハカ・シロ」へ。独りは独りでそれも格別です。
扨、鴛鴨の地、豊田ジャンクション周辺を記してきましたがその名もズバリ鴛鴨城を(場所はこちら)。
昨日の古墳公園から高速道のトンネルを潜ってスグ。
縄張りも道路の建築の際に消滅していることでしょう。
どちらにしろ今となっては平城は消滅するのが常ですから、僅かながらも遺構と石碑、紹介文が残されているだけ奇特なことです。
城郭大系 鴛鴨城
豊田市鴛鴨
松平親光在城 丘陵上に構えられた
とだけ。
松平親光については諸説あってハッキリしないところですが松平三代の信光からの別れというところは通説。
城址看板の如く、信光の子ではなくその孫(父は親忠)とも。
そして「鴛鴨松平」の系統の存在も示唆しています。
2023年
5月
30日
火
神明遺跡台地公園(三味線塚古墳) 豊田鴛鴨
やはり梅雨入り。
勝手な事ですが空梅雨になることを願うばかりです。
昨日日中は小雨程度で屋根下の仕事を。
午前は、本堂正面の引戸の走りの悪さを調整。
以前は劣化したレールを交換して様子を見ていましたがますます酷くなるばかり。
要は脱線して膠着するパターン。
いい加減こっちも何とかしなくては・・・ということで適宜道具をテラスを往復しながらなんとかお茶を濁すことができました。
通常ならばテラス前の軽トラ荷台で作業を行いますが、軽トラは車検、何より雨ではどうにもなりません。
その症状の発生理由は引戸滑車を留める木部が腐食劣化して滑車がまともに固定されていないことからの脱線でした。
木片を突っ込んで固定しましたが、イラっと来たのは事前に購入していた接着剤2種が固まって即廃棄となったこと。
未開封でも使い物にならないことがあるのですね。
教訓「接着剤(固着スピードの速い)は必要な時に購入」することでしょうか。「事前に用意」はムダ。
木工用ボンドとビスで木材を固定し、それに滑車を留めましたが今のところうまい具合に滑らかに「走って」います。
扨、昨日は豊田ジャンクション建設で割を食った墓(おしんぼ塚)について記しましたが鴛鴨地の墳墓「三味線塚」を。
古墳の場合、誰が見てもその大きな土饅頭が墳丘であることはわかりますので惚けて「壊しちゃった」となれば大問題。
よって見え見えの墳墓に関しては「道路を作るのに邪魔だから壊しますよ・・・」といった打診があるでしょうし、自治体もその打診に対して「はい、どうぞ」とは言えませんので予算を取って発掘調査ということになります。
まぁ線引きした段階で墓が引っ掛かることは事前にわかっていることですからね。
というわけでこの墓は発掘調査の上、場所を変えて公園化されたということですね(場所はこちら)。
ジャンクションの建設工事に並行してこの公園が整備されたのでしょうが被葬者としてはまさに寝耳に水でしょう。
掘り出されて何処行っちゃった?
⑨の景色は東名高速を西に向かったことのある方ならば目にしたことがあるでしょう。
当地からでは伊勢湾岸道に入って京都方面という方が殆どですが、つい名古屋経由で関ケ原、彦根、北陸道へ向かってしまったという方も多いのでは。
豊田ジャンクションは慣れていないと結構に緊張する場所ですね。
最期の画像は鴛鴨でもこちらとは違う字名、「畔畑」。
先日は「畔柳」-クロヤナギを記しましたが、今回も「クロ」読みか・・・と思ったら・・・予想を裏切られました。
「すみっこ」の意はわかるものの、これも難読。
2023年
5月
29日
月
おしんぼの家と墓 豊田鴛鴨 いつもありがとう
これから雨続き、無情にもそのまま梅雨入りになるかも・・・といった予報があります。
台風も進路を本州寄りに変えるかもと。
よって昨日、日曜の晴れは貴重な時間になりました。
午後から来客があったものの午前はフリーだったため、庫裏の引戸のガラス外し作業を再び。
当分その作業に注力しようと考えています。せめて居間周囲の戸だけでも。
あれだけ地震が各地で起こっているのですからもはや「尻に火」状態かも。
放ったらかしの色々たくさん抱えていますがまぁや優先順位上位のものから。
「雨が続く予報だから・・・」ということで「梅を一気に収穫した」とおすそわけをお持ちいただきました。
拙寺の梅も一昨日「雨」情報に尻を叩かれて奥方が脚立の上で奇声をあげながら収穫していましたので庫裏玄関は今、梅だらけ。
来客された方に「梅はいかが・・・」とその果実にまつわる作業を勧めましたがお断りさられていました。
その作業が煩わしいからではなく梅は既に収穫済みだったからだそうですが、たまたま昨日同行するはずだったその方の娘さんは収穫の際、脚立から落ちてケガをしたとのことでした。
この土日に梅の収穫に着手され、怪我をされるなどした方々、全国的に多かったのでは?
扨、昨日はもとあった墓が居所を変えられる羽目になった例を記しました(駮馬兵道塚)。
それも人の開発行為の結果でそうなったのですが、仏たちの立場からすれば改葬というキレイな語で言いもしますが彼らにとっては「安寧」を邪魔されたワケですからね。
それも開発行為を進めるうえで「邪魔」ということに他ならなかったということです。未来人の身勝手な思い。
その手の事でついつい気づかないところ、普段私も便利に利用しているものが高速道路。その件以前も記したことがあるかと。
無数の墳墓、遺跡等が私たちの知らないところで破壊されていることは想像ができます。
歴史的遺物の上を走っているのが高速道路と言っても過言ではないかもしれません。
高速道路というものは比較的人家を離れた山間部の麓を通過しますがそういう地は南面する墳墓の地となりますからね。
何かが出てきたとしても「現場判断で黙殺、工事続行」の暗黙の了解などがあるのでは・・・。
何故なら「歴史的遺物」が出現したとなれば工事はストップ、現場管轄はしかるべき部署に移って調査の段取りになるでしょうから。
よって大幅に工期は遅れてしまいますからね。
巷間に「東名高速の墓の近くは事故が多い」と言われたものですが、これは比較的新しい墓地の場合。
墓地の権利者全員にその移転許諾を得るとなれば時間と経費が掛かるためにその墓地を回避したいという気持ちはわかります。
よって道が無理に湾曲するという説。
墓地が多い→カーブが多い→事故が多いという論理ですね。
ところが遺跡級墳墓の場合は歴史の中に埋もれていたものですから、イキナリ工事中成り行きで出てきたとしても誰も知らないことですし権利者は不在です。敢えて言えば国でしょうかね。
文科省が口を出さなけれオールOKというところ。
東名高速は私が特に便利に使用している道ですが、豊田市は勿論岡崎の北に向かう場合など一旦矢作川を渡るものの豊田東インターを使用することが多いですね。
その豊田東インターを目指すには巨大な拘束道路交錯集合分散の迷路とも感じる豊田ジャンクションがあります。
東名高速と伊勢湾岸道、新東名、松平方向に向かう東海環状自動車道が集合分岐するという素人泣かせのジャンクション。
私も何度か寸前パニックに陥っていますし事故が多いジャンクションですね。昨年秋には発火プロパンが坂を転がって他車に引火するという信じられないような事故が起こったのもこちらでした。
何しろそのジャンクション自体の広さも半端ではなく、下の道を通っていても同じ風景が続いて、よそ者にはまったくわかりにくいのです。
そしてこれだけ広ければ割を食った墓たちは数多あったはずですね。
このジャンクション建設で移転の憂き目に合ったという「おしんぼ塚」が豊田のジャンクションの矢作川近くの「鴛鴨」(おしがも)という地にありました(場所はこちら)。
付近交差点各所にその「鴛鴨」の掲示はありますがこれもなかなか判読が難しい。
掲示板の通り、おしんぼなる娘の不仕合わせは親との別れの孤独そして矢作川水難によって家もろとも流され亡くなったうえ、その亡骸が埋葬された場所もジャンクション建設によって移転させられたということ。
この付近で事故が多いというのもまんざらカーブの多さだけではないのかも。
いやいや人々の欲望の渦巻く場所(ジャンクション)ということで自らを戒める・・・意。
墓標に記されている通り、私はお念仏を。
いつもその上の道を感謝して通させていただきます。
ありがとうございます。
2023年
5月
28日
日
駮馬山兵道塚からの移転墓 清康仮葬地 観音寺
教師のなり手が少なくなっているといいますが、今時どちらでも「人手不足」の話が聞こえてきます。
そこで教育界(60→65の動き)もそうですが一般企業も当たり前のように変化を遂げているのは定年の延長。
知り合いの仕事先はこのほど「70歳」にまで引き上げるというのには衝撃を受けました。
私の父は58歳の時に定年後に「相良に帰る」件を家族に話していたことを思い出しますがこれからはおそらく教師も70の声を聞くかも知れません。
寿命(健康寿命)が増進したこともありますが、これまで「退職したら何をする?」のお楽しみが当然にお預けになるわけで、「死ぬまで仕事」という感も残ります。時間を持った頃、足腰が立たなくなった・・・などありそう。
昨日、京都大学大学院の研究グループが「仕事を引退した人の方が、働き続けている人に比べて心疾患リスクが低い」との研究結果を発表していましたが、それは大いに有るだろうと思うところ。
同じ力量と気合をもって仕事を続けられることは、頭脳の明晰も維持できて如何にも健全に見えますが、身体の老化は進んでいて業務となれば通勤含めてストレスも発生しますからね。
ただし肉体労働のウェイトが高かった人が引退すると肥満となるそうで何事もほどほどがよろしいということで。
テキトーに体を動かす・・・それが肝要。できれば仕事もほどほどがイイ。
扨、昨日記した清康仮葬地の観音寺。
お寺の境内で目に留まったのは東条城の合戦で敗れて駮馬山に葬られた者たちの石標「兵道塚」でした。
石柱の文言によれば昭和六十年頃の土地改良工事によって居場所がなくなったということでしょう。
後世の人々の計らいによりしばしば「墓の移転」を余儀なくさせられること、よく見ます。
この「駮馬」も難読。
先日の「畔柳」同様字面を変えればわかりやすい。
「班目」とも記しますね。
2023年
5月
27日
土
清康仮葬地 権現さん玉屋 観音寺 闘争・逃走反応
最近、殊に息子がその軽率から親の面目を潰すような事案が多いような。
先日も記しましたが人気歌舞伎役者の「親殺し」―まだ罪状は決まったワケではありませんが、傍観者の印象としては今のところそれか、自殺幇助でしょうね。
理由はただの逃避。
時代劇風に言えば何かをやらかして御白洲に引き連れ出されての「針の筵」は「ありえなかった」のだと思いますが「両親を殺してまで・・・」(それ、やるか?)と疑問が湧くのが一般人の思考、いや大多数の意見でしょう。
首相官邸で、その息子が羽目を外した画像が出回って周囲から顰蹙を買い父親に恥をかかせていましたが、息子の存在というものは結構に親のリスクになるものなのでしょうかね。
私の場合も父母に「一般的」と思われる以上の面倒をかけた事は違いないところですが、私の息子もいろいろ学校でやらかして苦笑いの連続―殆ど奥方が事後処理班として動いていました。
一昨晩、ニュース番組の筆頭となった長野、中野市の件も一見してその人は「凄惨な凶悪犯」を思いますが、一夜明けてみれば報道では「普段は大人しくて口数が少ない人」と。
結果的にその父は一夜にして職(市議会議長)を失い母も繁盛していた店を閉めたといいますが、それ以上、地元で続けて生活することはできないかも知れません。
こちら相良でも一人の殺人であってもその人の親は退去し、新天地に向かったことを目撃しています。
後先の事をまったく考えない衝動とは・・・
昨晩は阿部定と坂口安吾の対談等、NHKの番組を視聴しましたが
その衝動は「ありのまま 人間だから・・・」発するのだと安吾が。
ということはその手の事案色々は「誰であってもやらかしうる」「縁次第 偶然」ということかも。
その時の「大した理由」など無いということ。
一人の人間の行動など他者から見て理解できないところは多々ありますし、自分の事であってもしばしば理解不能に陥りますからね。
私はそもそも自分を「信じて」などと到底言えませんし、だからこその「ありのまま」・・・絶対他力・・・であって「まかせる」ほか無いのですが。
まぁ「やりたい放題」とも言うようです(奥方)。人は少なからずそのようなところがあるのでは・・・
扨、昨日の清康の墓ですが、その隋念寺の廟墓は改葬墓。
そしてもともと清康が埋葬された塚のあった場所は西尾の長縄町の「権現さん 玉屋」観音寺です(場所はこちら)。
「アベの錯乱」守山崩れに関しては守山城でかつて記していますがあの事件は「闘争・逃走反応」の切り口で見れば少々納得。
昔から「奥の墓道氏」と互いの失策自虐の意で「ゲシュタルト崩壊」と。無脈略な行為ですね。
人間はそもそもどこかしらオカシイし意味不明な事を「やらかす」ものなのです。「まさか」と思うような人が「ウソだろ」と思わせること、しばしば見せつけられています。
みなそれぞれ、さまざまの「オカシイ」が「私」に同居しています。
①-②-③-④と荼毘所から墓地まで連続画像。
2023年
5月
26日
金
岡崎隨念寺 インパクトあるが2011年製
教師と言えば以前は皆生き生きしていたように感じます。
私で言えば父もそうでしたし叔母や叔父の中にもその職に就いた人はいました(今は現役教師はなし)。
私の知り得る限り今、言われているよう、職務(学校)の為に自ら、そして家庭をも犠牲にして没頭しなくてはならない、といった緊迫感もなければ、モンスターな親たちの出現など聞いたことがありませんでした。
かつての学校・教師は生徒、保護者の上に「君臨」していた感がありましたね。
奥方は女子中・高に通学していましたが登校時の朝の正門前の景色といえば物差しを持った怖い先生が仁王立ちの様だったといいます。
私の中高時代の教師というと体育会系の若い教師、剣道部顧問は竹刀、野球部はバット、陸上部はなぜかスコップという多彩なアイテムを片手に威風堂々の躰でしたからね。
現代はそれはさすがに無いのでしょう。
それが今、教師の愛情をもっての教育的指導であったとしてもそれを振るったとしたら各方面から吊るしあげられることはまず予想できます。
それは教師に限ったことではありませんが。
今、どなたでもそのお相手に対して精神的であろうが、外的圧力であろうがプレスを与え、それが如何に軽度であったとしても相手から「被害がありました」の主張があればその周囲の環境はそれで一旦はストップすることは当たり前のこととなりました。
場合によっては職を辞することになりかねませんからね。
小学校時代から教師たちの「愛の鞭」にガンガン育てられた私ですが、父母もそんな時に「えへへ・・・」の苦笑いでしたしあまりにも多くの「ご指導」がありましたからいちいち親への報告もナシ。
時代が違うといったらそれまでですがね。
今とは違う懐かしき学校の風景でした。
扨、昨日の岡崎隋念寺。
教務所前(三河別院)と同じ通りからその寺のある丘を仰ぎ見れば中段にそそり立つ層塔が目に入ります。
私がその塔の存在に気付いたのは2012年頃でそれが何しろピッカピカの雄姿、それは出来たばかりだったのでした。
下賤な坊主の身、ついつい「どんだけの余裕・・・」とその潤沢資金について「スゴイ!!」を思ってしまいました。
段丘状にズラッと並ぶ墓石も圧巻ですが、古い板碑に変り種の五輪塔など楽しみは尽きません。
中でも家康がそのためにこの寺を建てたという(清康と於久)だけにその御廟結界がありました⑨⑩。
ただし正面には⑪。
よって某ルートから墓石の図⑫を拝借しました。
2023年
5月
25日
木
岡崎隨念寺の参道の圧巻 家康差配の威厳
先般は法要に参加された書生さん(大学生2年生)が「教師の道に」とのことで、私はそれを聞いて即、勝手な意見をつらつらと。
「教師なんてやめた方がイイよ~」の軽口です。
「大変だよ~」と各ネガティブ要因を並べたてたのでしたが、勿論「最後は決めるのは自分だが~」ではありましたが。
実際に世は教師不足の声が。
子供が少ないのだから「OKじゃね?」とは思うもののそれでも相変わらず教師たちはハードな拘束と薄給で鞭打たれているよう。
先日お会いした教師(小学校)の方に「モンスターペアレントはどうよ」とお聞きしたところ、それが社会で騒がれたことから「子想いの狂気」は鎮静化しているようでその例は少なくなっているそうですが、地域がら南米系の子供の粗暴とその親たちの行き過ぎた振る舞いに閉口させられることが多くなった・・・とのこと。
ポルトガル語でまくしたてられるのは相互文化の違いと理解力の乖離もあってこれまた頭が痛いこと。
想像するだけで・・・私には無理な仕事。
子供たちの命を預かるという重大責務と任務の遂行のために自らの時間をどれだけ犠牲にしなくてはならないのか。
国のエラい方たちに任せた方がイイ。
扨、拙寺の本山との中間にあって寺務取次をお願いする寺は江戸期でいえば本證寺。「お願い」というか「本證寺末」の意味合いの方が強かったと思いますが、現在で言えば三河から伊豆まで三河別院お隣にある岡崎教務所の括りになることは幾度か記しています。
その三河別院にも教務所にも適宜お邪魔させていただいていますが、時間があれば周辺をほっつき歩きます。
その地に初めて足を踏み入れた頃その別院前の道を西方に歩いた際、唖然とさせられるような威容を感じたのが隨念寺(岡崎市門前町91-1)。
強烈なインパクトの寺は家康創建。
徳川家の庇護も継続してあったことでしょう、なるほどの圧巻です。
特に鐘楼門に辿る階段は絶妙。そこを上がるに恐れ多い。
2023年
5月
24日
水
死んで生まれ変わる? いのちは自分のものではない
大法要も無事終わって御本山(真宗本病-東本願寺)から発せられる色々を眺めていると本願寺境内の木彫刻を紹介する彫刻マップなるものが新たに。
参拝者を飽きさせない新たな切り口で悪くないと思った次第。
拙寺も何か真似したいですね。
子供向けに「夏休み 親子で境内猪目探し」とでも題して・・・
猪目なら案外どちらのお寺でも見られるものでしょうし日頃見落とししているところ各所あるはずです。
扨、表記「死んで生まれ変わる」は恰も劇中作り話の中の台詞のように感じますが、今巷を賑わす芸人さん世界にいる(いた?)人の言葉です。
私はその言葉を聞いての第一印象は「お花畑のメルヘン」風の世界観あるいは新興宗教?といった違和感を。
ところが意外なり。
同情論擁護論はもとよりオブラートで包んだような歯切れの悪い論が蔓延しているように感じます。
それは彼が人気者でファンも多数、「下手なこと」を言って嫌われたりバッシングされたくないという感情、いわゆる日本人の大好きだった忖度の心が働くのでしょうかね。
ましてここで彼を失うことに絶大なる損失を被るところがあるようで俄かにその事実を承服するに至れないというところもあるでしょうね。
要は金づるを失うことなのですがね。
私はその彼の増長(おそらくそれ・・・)が「前車の覆る」を自らの戒として生かせなかったことに繋がったと断じてしまいますが
仏飯を食んで生かされている末端の宗教者の立場として一言感じた事を言わせていただくとすればその「お花畑のメルヘン」だったわけで。
「オトナのお遊び」なる表現も目にしましたがとんだお子様思考。
要はその「死んで生まれ変わる」という台詞さえなければ黙殺レベルの事案だったのですが、当流に於いてその言葉を傍らに置いて「自死」に至るなどさすがに完全NGで、まさに怒りにも似た感情がこみ上げてくるわけです。
私は彼の演劇について以前の大河ドラマ以外はまったく知ることはありませんが、比較的若い世代の人たちに人気がある人といいます。
その人がどういった内容か知りませんが「無茶苦茶に都合の悪い」を感じるバッシングらしき評価(週刊誌)を受けて自死の選択をしたとのこと。
その自ら死を選ぶということとその死後に「生まれ変わる」の甘っちょろい感覚、それを私はメルヘンと評したわけですが、その行為を丸ごと受け入れてヨシと信じてしまう同様のメルヘン思考の者たちはいるかも知れません。
ちょいと挫折して「心が痛い苦しい」を感じた時、一旦リセットして「生まれ変わろう」などいう「命の軽さ」のメッセージとなるに他ありません。
まがりなりにも坊主。私としては冗談じゃあないとしか言いようがありません。
年端もいかない子供が、心神耗弱状態に陥っている方々が、その有名人の「選択肢」を真似ることがあるとすればそれこそが最大の罪悪となりましょう。
もっと楽しく有難く生きられないものか・・・。
「有難い」ではなくて「あたりまえ」の生き方(増長)をしばしば拝見させていただいていますがね。
後につづく「車」はこれを戒めとすべきですね。
画像①②はとある真宗寺院の掲示板と堂内にかかる阿弥陀仏についての記述。
二つとも当流で著名な方ですがこういう場合①の高史明氏の著述「生きることの意味」や『高史明の言葉ーいのちは自分のものではない』を思います。
順風満帆でほいほいと温かく見守られて自由にわがままに成長していくと・・・自らの挫折を承認できない「私が王様」となるのかも。
初めて遭遇した大きな障壁にぶつかって死を選ぶ様にしか見えません。
もっと辛く苦しい壁に跳ね返され、谷底に落ちこんで、それでいて立ち直って這い上がった人たちがたくさんいることを私は知っています。
2023年
5月
23日
火
男川 丸山町の阿弥陀寺 ビリー・ザ・キッドNHK
昨日の法要でお話した方。
「私、脳梗塞やったでしょ・・・忘れっぽくて・・・」の言葉にはっとさせられました。その件は以前お聞きしていたこと、それを思い出したわけですが、忘れっぽいのは私の方・・・。
要はその方の回復がかなり良好だったということでしょう。
何らの障害、あるいは後遺症の何か・・・それをまったく感じられないのでした。
「忘れる」などは年齢相応というヤツで、まさに普通ですからね。
もっともご当人が仰っていましたが「やっちゃったところが、たまたまよかった」そうで「運・不運の問題」と。
しかし直後はリハビリの一つのテーマ「食事」の際・・・スプーンより箸の推奨・・・当初はどうやってその箸を使っていいのか「まったく体が動かなかった」といいますので運動機能に関わる神経を侵していたことは確かな事。
運・不運も大いにあるでしょうが、当人のリハビリへの地道な努力が重大だったかと思います。
私の知っているその病からの復帰の例の中、最上位の回復状況でしょうか。
いずれにせよ、「脳溢血」「心筋梗塞」の血管系障害は致命的とは陥らなくとも回復がよくありませんので、そうならないことを念頭に生活するばかりですね。
夜は23時からBS 「ビリー・ザ・キッド伝説」を視聴。
番組内では昨日ブログで記したボブ・ディランの曲が登場。
「Knockin' on Heaven's Door」が流れていました。
さすがノーベル文学賞。詩的です。
またニューメキシコ州にある彼の墓が紹介されていましたが檻の中の墓。人気者の証拠ですね。画像はNHKサイトから。
彼の名は私が幼稚園の頃から頭にありました。
西部劇カルタの「ビリー・ザ・キッドは左利き」の語。今も忘れません。
扨、また昨日は岡崎の河川「乙川―男川」の対比的な河川の名称を出しました。
岡崎を流れる河川としては矢作川という大河は別として「乙川」の方が断然有名ですが「男川」を冠にした保育園が丸山という地にあってその向いに真宗大谷派の阿弥陀寺があります(場所はこちら)。この辺りの河川名は乙川のはずなのに何故か男川と。乙川近くの名鉄の駅名にも男川とあります。
男から乙女への変異がある川ではありますが、「乙川」に統一しないところが鷹揚なところか。
この道は東名岡崎インターから秦梨や八面石塔方面に至る道で、平地の住宅地。お寺の住所地「丸山」とありますがかつては付近に丸山城なる城塞があったようです。
この乙川流域にはたくさんの城塞がありますからね。
私は阿弥陀寺の前をたまたま通過した際、その道路に面した鐘楼門と石柱の大谷派の字面が目に入って急きょお邪魔することにしました。
時刻はお昼過ぎ、こちらのお参りが済んだ後、昨日の喫茶店に寄ったのでした。
2023年
5月
22日
月
乙川畔 竹・青空 風に吹かれて 喫茶養生 蛍の碑
一昔前の畿内の独り散策など時間を惜しんで朝から晩まで食事タイムは勿論、水分すら取らずにあちこち歩いたものです。
山城の2~3もほっつき歩けばスマホの万歩計は2万歩を超えたりしました。
ある時、公衆トイレに立ち寄った際、血尿が出たため「こりゃ」体にイイわけない」と自覚し、食事はともかくとして適宜自動販売機に立ち寄ることを習慣としました。
水分を摂取しなくても平チャラの習慣は高校時代の部活での修練(とはいっても前近代的アホ・バカのシゴキの一環)を通して身に付いたわけですが、その辺りのカラダのケアを怠れば今では強烈なしっぺ返しを味わうことは「前車の覆る」様を見て了解するようになりました。
それにしてもあの時代、「熱中症」など言う症状について聞いたこともありませんでしたし、炎天下に水分も摂らずにグラウンドを走り廻ってこその鍛錬という思想でしたからね。
休憩といえばそのアホ・バカ先輩が水道場までご丁寧に付いて来て「顔を洗うだけだぞ、絶対水は飲むな!!」とその意味不明の受け売り根性論完遂の件、喚き散らしていたことを思い出します。
今の彼がどんな状況かちょっぴり知りたいものですが・・・。
というワケで最近は水分摂取は特に心がけるようになりましたが、特に三河辺りの場合、自宅からもさほど遠くなく、そう焦ることもなし、自動販売機ではなく、何となく目前に現れたお店に入ることが増えました。そうカンタンにはナイスなタイミングは訪れませんがね。
先日は「奥の墓道」氏ともその周辺を通過しましたが、私がその店に飛び込んだのはそれ以前の某日、単独でした。
乙川の畔にある旧車たちが並ぶお店です。
軽食もありますが、アイスコーヒーにケーキを付けてもらい、しばしせせらぎと竹と青空そして「風に吹かれて」の時間を十二分に味あわせていただきました。
奥方にその画像を送ると「ガラにもなく・・・」と嘲笑されましたが、大きなガレージの中にもプレミアム付の垂涎の車がズラリ。
博物館的でもあってそちらもブラつくことができます。
①③の橋の左方向が八面石塔。
乙川はこの橋の向こうで二つに分かれますがその上流部分が「男川」。こちらから乙川沿いに進めば秦梨城。
橋を渡って少し、道路右側にあったのが⑦⑧ゲンジボタル発生の碑。如何にも蛍が飛び交いそうな場所です。
そろそろでしょうかね。
⑥は知る人ぞ知るアレ・・・のエンジンルーム。
大きい声では言えませんが、大昔、他人様のそれを小田原厚木道路でビクビクしながらもブッとばしたことがあります。
ミッションの心地よい入り具合と何とも言えぬ胸のすく加速は忘れられませんね。
今となっては高嶺の花。見るだけ・・・。
帰り際にお店の方から「どちらから? 何しに?」のようなことを聞かれましたが「秦梨城って知ってる?」と逆質問。
地元の人間でも知らないのにここの娘さんが知ってるワケがありませんでした。
何故か旗を振ってのお見送りをいただきました。
とても不思議なお店。
ちなみに表記「風に吹かれて」は勿論ボブ・ディランから、私の頭の中。
曲も歌詞もすばらしい。
2023年
5月
21日
日
後世の城郭防衛ライン 山科本願寺 榛原高校書道部
早朝は僅かに雨らしきものがありましたがしばらくして晴れ間が広がりました。
おかげさまで法務も修めることができてありがたく思います。
回忌法要にあわせて「用意するもの」に関して予めお寺から指定している毎度「お決まり」の品があります。
他に御当家におまかせするところ(最近は遺影等)とがありますが、前者は華瓶(けびょう)1つ分の生花と御供物ですね。
御供物は以前と違い「白い饅頭」に拘らず「お好きな物」と告げ法要後に皆さんで「食することができるもの」と付け加えています。
その遺影について、開式30分前にどうするべきかの問い合わせがありました。
要は「本堂に持参しなかったが・・・」とのことでした。
そもそも写真の遺影というものは葬祭屋さんのサービスですから(料金は入っている)昔からあったものではありません。
かといって「不要です」と断言する理由はありませんし、故人の生前の絵姿を若い孫たちにイメージさせて、坊主たる私もその昔の姿を再認識することは悪いことではありません。
「基本おまかせ」のスタンスでその旨伝えるとその方の孫がご自宅まで取りに行っていました。
十七回忌の法要で当時孫たちが10歳そこそこの年齢。
それが今、健康に成長し、お爺さんの遺影のために一手間かけるという姿も喜ばしく思いました。
法要後にその姿をまじまじ拝見し、「この感じは○○さんにそっくり」などと話が盛り上がりました。一概にそれを「不要です」とは言い難い。
午後からは史跡研究会の会合で史料館に。
史料館では先日新御城印のパンフをお持ちいただいた社会教育課の松下氏とたまたまお会いし「御城印ガチャ」の紹介を受けました。
実を言うと・・・とぶっちゃけられたのは上段にある薄ピンク色の「限定版」なる代物について。
「コレをやらせたいために娘をここにやった」と。
よく見れば「榛原高校書道部揮毫」とありました。
なるほど・・・とは思いましたが、「あの子が高校生になっていた」とここでも時の流れの早さを思い知らされました。
賢い子ですから地元の歴史学芸員等に成長していただければ・・・などと思うのはダメでしょうか。
本人意向無視の超勝手な発想でした。
夜間はNHKブラタモリ。
京都山科というので息子にもlineで知らせて視聴。
やはりそちらは当流でいえば山科本願寺(お東)画像③④ですね。画像は「春の法要」直前の頃だったか。
彼とは幾度もあの辺りを探索(こちらは南殿幼稚園南の土塁)していましたから。
尚、番組に出ていた「5m土塁と堀」はこちら。
番組で指摘されていましたが土塁+堀の外郭の構成に「角」を多く採用しているところは防衛上画期的と。
以後の城郭建築の先駆的な城だったとの評価。
フラットな直線ではなく、より角を多く入れた作りです。それにより横矢横槍投石など防御力は2倍以上になります。
今風でいえば十字砲火を攻め手に与えられるということでしょうか。
各街道の交わる京都の東にあって誰もが目にしたその有様は各地の城の防衛ライン構築の参考となったわけですね。
2023年
5月
20日
土
「二葉之松」に「在二ケ所」 西浅井古城八幡社
朝からずっと雨。
一日中、罰当たりにもグータラと過ごしました。
外に出られなくてはお話になりません。
それでいて小降りの時間もあってお参りもありました。
たまたま気づいたのがローソクと電気の消し忘れがあったこと。別々のお参りです。
毎度「最も信じられないのは私」であるとかつてやらかした色々の事例をあげて「人」というものの不完全さを示していますが、本堂の焼香鉢前にあるローソクの火が灯っていることはさすがに私の「忘れ物」ではありません。
境内の電気はおそらく年回表を確認するためにスイッチをONされたことでしょうがどなたも居ない本堂に電灯やローソクが灯っているのはさすがにビクッとさせられます。
まぁそういった不始末の予測について私は燭台の下部には真鍮製のプレートを溶接していただき転倒防止を図り、猶その下には不燃シートそのテーブル下にも大型の不燃シートを敷いて対策していますが・・・。電気は「勿体ない」で収まりますが火は怖ろしい。
ローソクも燃焼時間が少ない小さなものとしマッチは撤去してライターのみの設置です。
それでもマッチの「信奉者」はいらっしゃって持参マッチで点火されていますが。
本堂見回りは欠かせません。
ということでどれもこれも私の責ということ。
扨、昨日の西浅井土濠屋敷ですがそのスグ近くの丘が古城八幡
(場所はこちら)。
本日は「三河国二葉之松 三州古城記 幡豆郡」から。
浅井村古城
在二ケ所 清康御弟松平十郎三郎康孝ハ西ノ古城 大津土左衛門ハ東古城也」
とあります(画像最後の図 赤→が屋敷 黄色が八幡宮 青が浅井東城)。
こちらでも黒柳氏の名がありました。
2023年
5月
19日
金
松平十郎三郎康孝在城 浅井西城と白山神社 畔柳
お天気は最高「こうなったらこちらも・・・」ということで庫裏玄関と居間を隔てるガラス引き戸2枚のうちの1枚を軽トラ荷台に移動。工作に取り掛かりました。
例の地震対策、ガラスを撤去して木板に交換する作業です。
よくよく考えればガラスは通常は透明で美しい光沢がありますがその崩壊した瞬間に強烈な変化を遂げます。
鋭利で厄介な危険物と化しますね。なまくらな包丁などとは比べ物にならないほどの切れ味抜群、リスキーな代物となります。
「その時」の行動のリスクとなり得る物は「排除すべし」の奥方からの指令があったこと、先日記しました。
最近頻発している地震の報を受けて私も本腰をあげたというところですが、これは私的には「阿弥陀さんほか諸仏のお達しである」と解釈。
地震が発生しそのガラスが私どもに対する凶器になるかどうかは別としてそのお達しに「敬意を表する」というスタンスでもありました。
「増長して我を忘れる」などというのは人の大きな過ち。
テレビの世界で最近よく拝見するところですね。
自分の有様は常に仏に見られていることを念頭に入れて動かねば・・・ご指摘(今回は奥方・・・廬舎那仏・・・大仏の声)は素直に耳に入れて修正、改善すべきと。
さもないと「ザクザクの血だらけになって痛い思いをしますよ」の声でした。
扨、昨日記した源空院創建の松平十郎三郎康孝ですがその人が在城したのが浅井西城といいます。
まずは日本城郭大系から。
日本城郭大系
「浅井西城 西尾市西浅井町
松平康孝が在城した。三河一向一揆に与して廃城となった。
土塁の高さ5m、堀の一部が残る。」
場所はこちらです。
源空院①でも記しましたが古矢作川が南へ向きを変え東側は広田川安藤川と天然の外堀を成し周辺平地ながら城塞の立地としては最適でしょう。
その土濠屋敷の形跡は今は円形状の藪のように見えますが(家屋
点在)になっています。いわゆる国人領主の屋敷のスケール(100m✖100m)よりも一回り大きいような感じ。
土塁と堀を差っ引けばそのくらいになるのかも知れません。
近くの宿縁寺の住所地が「西尾市西浅井町古城1」というくらいで付近、古の雰囲気が漂います。
④⑤⑥と屋敷址の段丘をぐるっと回ったところ。
⑦の建設会社の名前を見て、なるほどね。
黒柳・・・畔柳姓は三河に多く見受けられる苗字です。
ちなみに後車の「畔柳」の「畔」ですがこちらは私も最近知ったのでしたが静岡の方言にありました。
「畔」は訓読みで通常は「あぜ」読みしますが「湖畔」の如く「ほとり」の意があります。
要は「隅っこ、端、きわ」という意もあって当地では隅っこの事を「くろ」と言います。
私の同年代の遠州人ならば誰もが知っている方言のようですが「クロヤナギ」氏の元はといえば「黒」ではなくて「畔」だった・・・などとも思いつつ三河の墓地を歩いたものでした。
「柳の木が隅っこにある地」の方が説得力があります。
大小河川に囲まれてランドマークになった柳もあったのでは。
⑧~⑪は源空院近くの白山神社。
こちらにもその名を拝見。また、この内藤氏の名もよく拝見します。
松平氏の息がかかる地で白山神社との覚えは私の記憶にありますが「阿弥陀如来を本地」の件、少々驚きでした。
2023年
5月
18日
木
松平十郎三郎康孝卵塔たちの最奥 源空院浅井寺
電気料金の値上の報。来月からガッツリ行くとのこと。
それがイヤなら「原発再開と増設を受け入れなさい」の脅しの様にも見えますがね。
値上げを黙って受け入れるのみ。弱者は沈黙するしかありません。
そして叔母の入所施設からも値上げの連絡がありました。
食費と部屋代合わせて一日あたり360円の値上げとのこと。
月額で1万円以上ですね。
また、そろそろ介護認定ステージの更新時期になります。
叔母は一時期の大腿骨骨折からの車椅子生活と筋力の減衰、歩行困難に陥っていましたが最近は「調子上々」のよう。
相当の回復が見られて尚、認知症状もそれほどでもなし。
施設から退去を勧告されるかも知れませんので覚悟とその用意が必要です。
トイレが近く手摺があってテレビが視聴できる部屋・・・今更そのようなことを考えたくなかった・・・
以前も記しましたが叔母(父の妹)の夫は年上の元皇宮警察。
大陸には軍医として戦場へ。
子供がいなかったので私が成り行きで叔母を見ることになりました。
少々エゲツナイことですが、その年金+αを合わせて叔母の施設入所資金に充てていますがこちらで一緒に生活すればその月13~14万円が浮くということになります。
奥方は「そんなのイラネ・・・」。
施設での快適生活の継続こそが叔母の為であると。
値上がり分はやはり沈黙か。
直近未来の事、どうなるかなどわかりはしませんが。
扨、昨日の源空院。
サクラの開花が見事だとのことですが、私が行った頃といえば確かそれより早い時期でした。
このお寺は大永三年(1523)松平康孝(十郎三郎)が菩提寺として創建といわれています。
松平康孝は松平氏六代の松平信忠の三男。
その長男が清康。そして廣忠―家康の流れです。
境内には代々の卵塔(無縫塔)が並びその最奥に松平十郎三郎康孝の五輪塔が。地輪は当初の部品ではなさそうですが・・・。
石標の後ろ側⑥に天文十一年(1542)三月十八日と没年が記されています。
家康の父廣忠の元、三河侵入の織田信秀軍との奮戦が聞こえています。
2023年
5月
17日
水
西浅井町札木 源空院浅井寺 古矢作川
当地には朝から強い日差しが降り注ぎました。
私はやりかけの風呂場脱衣場の戸の仕上げを行いました。
脱衣場ということもありますが木板にカビが生えることが予想されますのでそれを阻止するための塗装作業を。
天気良好につき、あっという間に乾燥して、夕刻前には装着できました。その引き戸④は中央分割部分上下ともガラス板でしたがこれでその破損散乱による通行不能のおそれは解消できました。
奥方は「西部劇調?」とのことでしたが私にはその意図はありません。
昼過ぎに沖縄時代の友人が来訪。
茨城からでした。
近くに来たので「お参りだけ」とやってきてあっという間に帰っていきました。
本堂に案内して「久しぶり」と沖縄話になりました。
拙寺が度々の火災によって当地に落ち着いたのが240年ほど前・・・と紹介をすると、沖縄といえば先の首里城の大火の印象が強いものの当時、身近なところでは大きな火事は無かったという話に。
救急の出動といえば交通事故(特に飲酒を伴う)か海難事故が主でした。
あの頃は飲酒運転当たり前の時代、ビーチパーティなる騒ぎが適宜催されて、皆泥酔して平チャラの躰で帰宅していましたね。
赤信号の信号待ちと同時に睡魔に落ち入り交差点で「熟睡していた」などの猛者もいました。
結局は事故を起こしてしまうわけで、命を落としたなどいう話もよく聞いたものです。
スコール後などあちらの道路はよく滑るということ、夏場の暑さによる疲労で居眠り運転の結果事故を起こすなども。
関西系の年下の連中に「車を貸して」などよくあって、彼らの夜遊び、無事帰るまで冷や冷やでした。
彼とは「今度はゆっくり」と再会を期して別れました。
茨城往復ご苦労様でした。私には真似できない。
しかし奈良京都となれば話は別ですが・・・
扨、支離滅裂ブログ、本日は西尾の源空院。
源空院浅井寺とも(場所はこちら)。
以前数度にわたって近くの宿縁寺(または② ③ ④)ついて記しています。
この辺りは西尾市になりますが近くの矢作川の向こう岸には成瀬正義が居た木戸城や長因寺、木戸観音があり、また宗旨でいえば本證寺の地盤といった場所になります(こちらは安城市)。
木戸城址の堤の上からその川向を眺めたものでしたが、この源空院こそ、その「お向い」になる地になります。
「源空」の名を聞いて当流の方ならばどなたでも即答できるでしょうが「?」の方もいらっしゃるかと思いますので念のため。
先日記した親鸞さんご指名の七高僧のNo.7「法然さん」と言い換えた方が早いですね。
正信偈に登場する際も「本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人」と「源空」になります。
「善悪の民を分かつことなく・・・」のところですね。ありがたい言葉です。
よってこちらのお寺の宗旨は浄土宗。
この矢作川ですが、かつてはこの地で大きく南下して三河湾に注いでいたのでした(矢作小川)。
源空院の住所地が「西浅井町札木」とありますが、矢作川流域の高札場(渡し?)があったことが推察されます。
2023年
5月
16日
火
岩戸城跡 神明社 松平古参天野氏 相良海岸散歩注意
土砂降りにうんざりさせられる日々が続きました。
やんだと思っていれば、ザー・・・その繰り返し。
それでも昨日はようやくお昼近くから太陽が顔を出してくれました。
「うれしや」とばかりに外へ出て雨が嫌いなブーゲンを陽の下に引きずり出してから、先日ガラスを除去した風呂脱衣場の戸に木板と樹脂パネルを装着する作業を。
テラス1階に工具一式がありますのでその入口真ん前に置いた軽トラの荷台が作業机になりました。
テラスにはまだロクに紐解いていない古い文書が放り込んである箱があります。
お日さまが出たこともあって虫干しを兼ねて荷台の上に。
ただし、スグにうんざりして元の場所に戻してしまいました。
「また今度・・・」の先延ばし。ずっと放ったらかし。
そして下の図は昨日ポストに放り込まれていた回覧板。
外の作業の合間にこれをまじまじ見入れば思うこと多多。
当地の海岸線に連なる松枯れの惨憺たる状況は適宜ブログでも記していますが、回覧にはその対策の薬剤散布の予定日と注意書きが。
私は小田原在住期間が長く、城内の松枯れ対策を見ていますが以前からその件知る人ぞ知る「発がん物質疑惑」と囁かれていてやはりこういった文言を見ると「大丈夫かよ~」の想いが。
小田原と違って当地は海岸線限定ですからずっとマシではありますが。
またさすがに一昔前に撒かれていた薬剤(スミチオン)とは違うようですが、殺虫剤は殺虫剤、人間も生き物ですから「安心」などとは言い切れません。犬や鳥類にもよくない薬ですからね。
ヒトは勿論犬と散歩するのも次の雨まで控えた方がイイかも。
この紙切れ1枚の告知も「なんだかなぁ~」。
そして私がかつて聞いたその殺虫剤の散布時期は3月「啓蟄すぎ」が有効との件、この時期に散布するというのはどちらでも固定されているようですが、本当の所が知りたい。
撒いても撒いても松枯れが続いているという現状をふまえて。
温暖化傾向もあって活動は早いはずですから。
扨、昨日まで岡崎の秦梨周辺について記していましたが、秦梨街区からさらに乙川沿いに北上、ついでと言ったら申し訳ないですが岩戸城址といわれている神社に寄りました。
神明社周辺が城址といいますが周囲より一段高くなっている様と乙川とその支流を堀に見立てたであろう城塞を思いました(場所はこちら)。
日本城郭大系には
「岩戸城
岡崎市岩戸町 天野遠貞が在城し天野氏が代々居城した」
「中山岩戸の天野」。天野氏 595ページ上段。
「遠貞四家七名字の人々とともに良王を奉じ處々に逃れてときをまつ~」。
2023年
5月
15日
月
マルチリード奏者 松風鉱一氏逝去 勿体ない 福正寺
先日叔母から松風鉱一さんの逝去の報せを受けました。
2017年、18年と2年連続、拙寺盂蘭盆会法要にてお世話になっていました。
当サイト「ホーム」に当時のジャズ独奏会の件を記しています。
東京を活動拠点とする松風さんがこの相良のド田舎での演奏会を快く引き受けていただいて盛夏の本堂にジャジーで涼し気な音を響かせてくれたこと、懐かしく思います。
ご門徒さんからのちょっとスジ違いなリクエストも受け入れてくださったことが印象的。
気さくで温厚な性格を思いました。
「また、お願いしま~す」と軽口を叩きインターバルを開けていたところ病気蔓延の社会に突入してしまい、再開に至らなかったところ今回の訃報でショックで残念の感。
2019年に癌が見つかって治療を続けていたとのことですが今年に入って各所転移が。
亡くなる一週間前まで演奏活動を続けていたとのことでそのバイタリティとガッツに頭が下がります。
再た本堂で演奏していただきたかった・・・
本堂での氏の姿を思い浮かべ、南無阿弥陀仏。
なにより拙寺への来訪そのものが勿体ないことでした。
扨、先日は秦梨山城チャレンジの際に墓地の駐車場に車を置いてから周辺をブラついたことを記しましたが、私は墓があれば一応は墓石たちにざっとご挨拶。
勿論その意図といえば「古そうな石塔」にうまいことお目にかかれれば・・・という願望も含みます。
その墓地の中で、明らかに真宗系の法名のある墓塔と周辺にちらばる一石五輪塔やその残欠たちに目が留まりました。
この城周辺では戦国期に戦闘が行われていますので、その戦死者を弔った・・・などなど想像が広がるワケですね。
また、この地区の周辺には興味深い字名があります。
乙川の西側に「寺向」という地がありますがその寺はおそらく真宗大谷派の福正寺でしょう(場所はこちら)。
そしてその「寺向」の隣に「阿弥陀前」に「阿弥陀」という小字。墓地の石塔の推測いろいろやはりご門徒さんだったのかな~などとこれも想像。
ちなみに⑩墓地にはやはり「蜂須賀」さんの名が。
①~⑨は福正寺にて。
親鸞さんと蓮如さんの像そしてその標文言が。
城塞の西というこの寺の立地に阿弥陀の名。
太鼓桜らしき建造物も風情があります⑧。勿論その後ろ側に見える山が秦梨山城になります。
お隣が保育園になっていて子供たちの声で賑やかではありますが。
⑦は本堂にお参り。その余間になりますが親鸞さんの奥に昨日記した七高僧の軸が見えます。柱で隠れていますがそのお隣には聖徳太子が。余間のそれ(聖徳太子+七高僧)は拙寺とは左右逆の配置になります。
たくさんの門徒寺を拝見していますが、まぁ拙寺の配置の方が少数派になります。
②お寺の掲示板。「愚痴を言いたい心」。
私はどうにもならないことばかり悔やむ・・・
特に「老」そして「病」。
まったくどう仕様もないのにね。
勿体ない仕方がないに生かされる。まぁそれしかない。
まかせましょう。
2023年
5月
14日
日
浄土門こそ~道綽 相良新御城印 小和田氏来訪予定
朝から酷いというか「酷すぎる」の印象の雨。
そんな中、お向いの墓地から読経が。もちろんご門徒さんの家ではありません。
よく見ると墓石にはテントが張られいました。
天気予報から施主が事前にそれを手配していたということでしょうが、墓への読経に拘ったということはご納骨の日どりがあったということでしょう。
拙寺の方といえばたまたま遠方からの参列が多いということで午後1時からの法事がありました。
その時間帯には何とかなって欲しいとは思うものの当地への移動中にあの雨ではたまったものではありませんね。
何を成すにも辛い一日を予感しましたがその雨は1時前にはあがって「こりゃあ、しめた!!」のドヤ顔。
法要後のお話の中でこの時間帯の選択は最良でした・・・等々その嬉しさを言葉に表し、「さぁ墓参へ」というタイミングで再び降雨が。
私が余計な事を言ったから「天気なんてそんなもの 気に掛けるな」を阿弥陀さんが伝えてくれたのだろうと謝罪しました。
その後施主から「墓参はナシで・・・」との提案を受けましたので私は「それじゃあ・・・」ということで尊前を墓前に代えて今一つご焼香をしていただきました。
以前は納骨のタイミングで土砂降りになるということがありましたが私は「次の機縁(その時は盂蘭盆会法要)で納骨は如何?」とそれまで本尊須弥壇にお預かりしたことがあります。
すべてタイミングと臨機。49日だからといって納骨にはこだわりませんね。まぁ先方次第ですが。
扨、昨日のお話の冒頭は
「前に生まれん者は後を導き 後に生まれん者は前を訪え」
から。
こちらは親鸞さんが善知識として正信偈等に記した七高僧のうちの一人道綽が著した「安楽集」に記された言葉で親鸞さんの著書「教行信証」に引用したことで、当流では度々耳にする言葉になっています。
ポイントとしては「前に」を「さきに」、「後に」を「のちに」「者」を「ひと」と通常の読み方とは替えることと特筆すべきは「訪え」を「とぶらえ」と読むところ。
その「訪う」から「弔う」へイメージアップさせて葬儀式冒頭でしばしばその語は当流僧侶から耳にすることが多いかも知れません。
私がその語を入れたのは先日の「前車の覆るは 後車の戒」そして「同じ轍を踏む」へ引っ張り、それこそが煩悩主体に動く無反省な私と結びつつ、しかし阿弥陀さんは「それでいいよ・・・」とあちらで(中央須弥壇を指して)言ってくださっているが、だからいいといってそれでイイというわけではなく、時に立ち止まって「先ずは反省」。
他人様(前車)の件もまぁ、ありますが、かつて「私がやらかした」ことの色々や故人の想いについて「聞いていく」(訪う)時間を持つことの大切さについてお話しさせていただきました。
道綽は七高僧のNo.4 浄土三部経の「観無量寿経」についての講釈を重ねた人で何より仏教を聖道門と浄土門という流れに分けて、末法の世こそ浄土門(修行研鑽ではなくお念仏)であると説きました。
その思想こそが以後浄土系の善知識に繋がりゆきて我らが宗祖親鸞聖人に。
そのお念仏の教え~阿弥陀さんから「それでOKだよぉ 大丈夫だよぉ」に対する私どものお礼の言葉~が私どもまで繋がっているということ。
画像①は岡崎妙源寺の七高僧図。
七高僧の軸は真宗寺院において必ずといっていいくらい余間に架かる物ですが、こちらは構図が拙寺のもの③とは一味違います。まず時代の古さを感じますね。
拙寺の七高僧には尊名が記されていますがそちらにはありません。
三段目の向かって左側が道綽、右側が善導というのが後世の一般的構図ですが、古いものの例にそれが左右逆になっている例があるそうで確定できていないとのこと。
古いだ新しいだと言ってますが拙寺の七高僧③の裏書④には「一如」(1649-1700)とありますから江戸期とはいえ1600年代のもの。その図の感じからすれば①は鎌倉あたりまでさかのぼるような・・・ちなみに願主「圓受」は拙寺五代目。
②は西本願寺所蔵の親鸞筆道綽伝。冒頭で釋道綽の俗姓が衛氏ということがわかります。
⑤は牧之原市社会教育課の松下氏より。
「牧之原市御城印政策委員会」なるものチラシ紹介をいただきました。
本年11月に小和田哲男先生をお招きすることが決まったそうでそれに合わせてこちらにも力を入れていくとのこと。
史料館の長谷川氏は「将棋」(田沼関りの町おこし)の方で忙しく動いていますが松下氏も負けじと駆け回っているようです。
2023年
5月
13日
土
秦梨山城 夥しい人為工作物(石垣)
各地地震頻発に付き奥方より指示がありました。
風呂場の引き戸のガラスを「木板と樹脂板に変更せよ」でした。
最近はどちらでもその傾向があるようで交換作業を進めていると聞きます。サッシ窓はともかくとして室内和風の障子や戸板に使用されるガラス板はいよいよ不要品になるのか。
拙寺庫裏内はその手のものだらけです。
前回は台所の引き戸のガラスを樹脂製のものに変更していましたが、それだけでは不備だという主張でした。
私も同感で、風呂場にいても寝床から台所経由で玄関に向かうにしても地震で「割れたガラス」の上を通過することになります。ネコたちもそこを日々走り回っていますので。
この作業は温暖な季節オンリー、材料は午後揃えてきましたので週明け中ごろからぼちぼちやっていくつもりです。
ケヤキの朽ちた枝下ろし、昨日は鋸を使用しない方法で鐘櫻側の2本をやっつけました。
鐘楼へ上がり、竹の先にロープを着けて目標の枝に掛けて、軽トラで引っ張るというものですが枝は朽ちていますので鋸は不要。切り口というか折れ口は若干見苦しいものがありますが樹上に上がって鋸を引くよりもかなりラクな方法です。
頭上のリスクを危険度上位のものから少しずつ除去しています。
扨、秦梨山城、こちらより北に700m字神谷の秦梨城よりも断然わかり辛く、地元の方でも「知らない」という城。
私は「知らない」といわれても「二つある」の通り私には確信がありましたから一応わからないなりにこの山で時間を費やしました。
昨日記した三六堂なる建屋の脇の道を上がって山上迄。
この山もそうですが、もう一つの秦梨城前の道からぐるっと回った際もそうですが、各所に人為工作物-石垣が見受けられました。
後世に段上開削したうえの畑地境界あるいは建物跡の可能性もありますが秦梨山城側にも段丘上の曲輪を推測できる場所がいたるところに。
竹藪の中にイキナリ石垣といったシチュエーション、その時代背景とは。
南北朝時代まで遡るのかも・・・などと思いながら歩けば徒労には思いません。
画像は順序バラバラ失礼。
2023年
5月
12日
金
秦梨山城(字林中)へは別コースで散策
昨日は早朝に地震がありましたが当地は震度1。
殆どネコたちの戯れの如くの振動でしたが震源近くの木更津は震度5強とのこと。
能登珠洲市に続いて大きな揺れになったわけですが当地としても例の「南海トラフ」の恐怖を抱えている身、「次は私・・・」と不安が増幅します。
奥方は千葉県内の親類の家と実家の母親に見舞いの連絡を入れていました。
昨日午前中は本堂スロープへの塗油作業を行いました。
午後は天気良好につきに引き続き親鸞さん上部のケヤキの枝払い作業を奥方と。
チェーンソーがフル回転。
天候については午後しばらくして雷の音がして何故か東側に真っ黒な雲が覆う様子を見ました。ただし西の空は青空でしたので平チャラの躰で仕事を続けていましたが、神奈川・東京辺りでは土砂降りになっていたようですね。
ニュースにその様子が流れていました。
夕刻に榛原方面に向かいましたが、150号線の片浜手前あたりから路面に水たまりができていましたので「降らなかったのはうちらのところだけか・・・」とニヤついていました。
樹上作業中に突然の雷雨などシャレになりませんからね。
作業は予定通り進捗、このうえなくラッキーな一日でした。
あと2本程度を伐っておしまいにする予定です。
その次に本堂北側の道路際にある槙の枯枝の太いヤツを「やっつける」ことになっていましたが、数日前よりコゲラがその枝に姿を現してコツコツと。
彼の食事の場となっているようでその邪魔はしたくありませんので当分は作業を見送りとします。巣作りでしたら尚申し訳ないことですから。
扨、先日は字林中、秦梨山城の麓にある墓地周辺について記しましたが私はそちらからの登城は早々に放棄。
不確定な城址の場合はただ自身の勘に頼るしかありませんが、このコースは「やみくもにもほどがある」という雰囲気が漂っていましたので。
そこで私は墓地に車を置いて先日の画像②の左端の建物の脇から上がる道を選択しました。
この建物は三六堂とあって水を汲みに来ている方がいました。
道路際の水道の蛇口をひねって「汲みました」と言っていましが「そこじゃあないよ・・・」との声が奥から。
私の目的はそちらではありませんので、さらっと拝見して先を急いだことは言うまでもないこと。
念のためその声の主に山城のことを伺うも「知らない」とのこと。ご存知だったのはカンタンな方(字神谷)でした。
2023年
5月
11日
木
前車の覆るは後車の戒め しかし毎度同じ轍
昨日は親鸞さん銅像の真上を覆うケヤキの伐採を行いました。息子が来るというので、これはいい機会と。
先端部分が枯れている枝が主ですが、枝の先端のみを効率よく伐っていくのは無理ですから枝の根元付近から長めにという仕事になります。
下に何もなければ、ただ伐ればイイだけですが、枝とは言っても相当な重量になりますので人間含めて構造物に落下したとすればタダでは済みません。
よって吊るし切り。樹上ロープワークが要となる作業で地上の作業員と木の上の私との連携が不可欠となります。
息子が現れましたが、他に用事があると言いいながらさっさと消えてしまいましたので結局は奥方と二人作業になりました。
その件相当腹が立ちましたし、二人きりの作業(下の作業員が奥方)のリスク~そもそも女性には向かない作業で前回は墓石を壊しました~は承知していますのでイライラも増幅、私のデカイ声が境内に響き渡っていました。
こういう時に限って電話がガンガン鳴って作業が頻繁に中断しました。その中には木の上にいるにもかかわらず、過去帳を開かなくてはわからないような事案を投げかけてくるなどかなりヤル気を削がれましたね。
その件よくよく聞けば相良出身の友人が亡くなった情報を断片的に得た方が「墓は何処か」とばかりに片っ端から相良周辺の寺に電話を掛けているとのことでした。
また純然たる歴史ファン(田沼)の訪問もあってその案内に地上の奥方が対応していましたね。
私を樹上に残して奥方が梯子やロープを持つ手を離して走っても「電話が切れちゃった・・・」ばかり。
またチェーンソー使用中など、まったく呼び出し音など聞こえませんから相当な失礼をしたことでしょう。
しかしまた、電話はここは割り切って無視するのが一番であるとも思いました。
しかし、やりたいことの半分程度でしたが、一番ヤバそうな枝は除去できました。天気良好なら明日もやるぞ・・・。
所感
①息子の手伝いなど期待してもまったくアテにならない
②彼に伐採技術を伝えようとも肩透かし ヤル気なし
③よっていよいよ将来のことについて「勝手にしやがれ」
④久々すぎる本格作業に筋肉痛の嵐
⑤最近の膝痛が樹上での身動きを抑さえる不安―老化
⑥無事でなにより
⑦あの手の仕事はもう一本、二連梯子が欲しい―中古品
扨、昨日、一昨日と書籍を三冊ほど手にすることができました。
⑤⑥「歎異抄と親鸞」は元総代の書店で一昨日購入しましたが、そのあと立て続けに小和田哲男先生の書籍(2023.3.29出)
「教養としての『戦国時代』」と京都国立博物館の親鸞展の図録をトントンという具合に各方面の方々より頂戴いたしました。
「前車の覆るは後車の戒め」の文言はその小和田先生の書の冒頭から。
その件十二分に承知しているつもりの私、それでいて同じ轍を踏んで七転八倒する私があることも知っています。
ただしその件、常に念頭にしているか、すべて成就した風を装って我が物顔に振舞うかで結果が違ってくるということは確かなことでしょうね。
それでも運不運の機縁もあれば凡ミスから致命的を招くこともあります。人間というものは案外出来損ないのですからね。
歴史を知って歴史に学びそれを将来に生かし、私が生かされていることを確認すること 肝要。
2023年
5月
10日
水
秦梨城(字林中)やみくも登城 まず墓地から 卍紋
銀座で子供たちが無茶をやった件、わざわざ民放にチャンネルを合わせて概略視聴しました。
当然にセンセーショナル、そしておバカな事件でしたが視聴者は集められそうで各局続報を流していたようです。
私もついついそれにのっかってモニター前に。
リスクが同じということで最近は一時流行った一般家庭への強盗から実入りがビックな貴金属店や高級品を取り扱う店に的を絞っての強襲になっているよう。
一般人からすればそれは良き傾向ですがそういった店の経営者からすれば嫌な風潮でしょうね。
強奪された品物の合計は億のレベルに上るようですが、店内を壊しまくっていますし、それらの修復弁済は親が支払うことになることは必定の事。
そもそもそういったショーケースにある陳列品はケースを叩き壊してからやけくそ一緒くたに袋に放り込むことはありませんので、まず傷物になるでしょうしそもそもケチが付きます。
商人は一番に嫌うところです。
親たちは一旦上代(定価・・・言い値)で買い取って(値引きしてくれとは言いにくい)どちらかに引き取ってもらう形になるでしょう。
その買い取り業者には買い叩かれることになるでしょうから
1億円で購入して1000万円以下で処分することにもなりかねません。店舗の修繕費、新装までの休業に対する補償を入れると破産レベルかも。裁判費用もこれからの新しい夢のない生活への対応もあります。一つくらいは自費で購入するのかな?
何人で割り算するのか知りませんが、親たちとしては大変なことになりました。
ネットで集める闇バイトの暗躍が囁かれていますが若い連中の「劇画の見過ぎ」短絡思考は如何にも困ったものです。
お店としては思いもしない上客の出現に案外、小躍りしているかも知れませんね。
墓穴を掘っている事、気づいて欲しい・・・自身のために。
100%「確保~」されちゃうことも知ってね。
扨、昨日の字神谷の方の秦梨城。わかりやすく行きやすい城でした。ところがもう一つの秦梨山城といわれる字名林中は案内も登城口の指定も見当たらないということで難渋させられました。
山城の外観は県道を岡崎方面から来て秦梨の街区に入る乙川に架かる橋を渡ってから右を①②。
そしてなぜか周辺に見かけることが多い須佐之男神社(前回はこちら)の手前の修理工場前の道を鋭角に曲がって、行き止まりにある墓地へ。
墓地には駐車場がつきものですし。
結局はそちらからの登攀は諦めましたが墓地周辺をぶらぶら
③~⑧。
山側の古い五輪塔のある墓地の前を見ると埋もれかかった蓮台と石の経机、飾り台が。
古い墓地の形跡が見受けられて私としてもその図は収穫でした。またその墓地の近くには石積みが見られました。
それがこの墓域を特定した結界の入口なのか、城、追手道のスタートなのかそれは不詳です。
まぁ詳細実地調査が行われていない城址ということで。
私はまた墓石の銘に目が留まってしまいました。実は昨日の画像⑤、字神谷の秦梨城に辿る道を直進して、ぐるっとその須佐之男神社まで降りる道を廻った際⑨⑩の墓碑に遭遇、こちらは新しいものでしたが。
山の上部と下部で同じ「蜂須賀」さんの名という奇遇です。
蜂須賀といえば岡崎では矢作川に架かる出会いの像を思い出しますが・・・
山の上部の方は例の蜂須賀万字紋(左万字)が光っていました。
2023年
5月
09日
火
岡崎秦梨(神谷)はカンタンな方
テレビ報道を見ていて「何それ・・・」と思ったこと。
コンビニ店舗の映像でしたが昨日から①レジ前の防御板(シート)を撤去②設置されていたアルコールと体温計を撤去③店員のマスクを外した、の姿でした。
「お客さんどんどん来てね」のコメントもありましたが。
その感覚についてその方向性についても受け取り方も自由ですが、私から見たそのイメージは少々不快を感じました。
客の自由はいいのですが店側としては慎重が肝要とその警戒を維持すべきと思った次第。
奥方と「そんな店 いかねぇよ~」の異口同音。
感染が終わったわけでもなくウィルスはまだ存在し現実に感染している方がいます。
そしてそれらのおかげでインフルエンザが激減したというメリットがありました。
店員のマスクとアルコールの設置は「食べ物を扱う店」として継続すべき「新たな配慮」と思った次第。
私は人の前で話すことが多い仕事ですから当分の間はマスクの装着は続けます。
マスクなしでぺらぺらおしゃべりする様子はまだまだ受け入れは不可でしょう。人を不快にさせること必定。
気が小さいもので・・・
扨、昨日記しましたよう秦梨には城が二つ。
しかしあの看板⑥の概略図も③の説明の文言も私は疑問が残ります。
⑥の如く記述では恰も本城(詰の城)と屋敷(根古屋)の如くの関係に感じます。
掲示板文言「秦梨城山城(字林中)は小さいながら」の記述はまた大いに疑問。
私が以前こちらを彷徨ったことがありますが、結構に広いを感じたものでした。
案内板も、また指定された登攀路もなく私がやみくもに取りついたせいもありましたがかなりヘロヘロになりましたからね。
「奥の墓道」氏を案内したのはこの字神谷の方、地元の皆さんの誰もが知っているカンタンな方の城になります。
要は看板にその根古屋を思わせる記述がある方です。
ただし、私が今回で今年3回目のマダニ咬傷を被った最有力地でした。
場所は明治二十七年に秦梨に来て医療施設を開き地域医療に貢献したという荒川同楽(鼎)という人の句碑が建つ場所があります(こちら)①~④。そちらから。
右端にある石標が城址への案内碑。⑤から200mもない左側⑥⑦を左に折れてスグ。
左手に⑧の土塁、奥に掲示板(昨日)、右手に⑩が迎えてくれます。⑨が屋敷址との主張ですが鉄塔と猪捕獲用ケージが無粋。
看板の更に奥に⑪の城址碑と供養塔があります。
供養塔はこちらで戦闘が起こっていた証ですね。
疑問に思うのは位置関係。城址の西の湾曲して迫る乙川を堀に見立てて現在の県道岡崎設楽線辺りまで張り出した尾根の先端を想像できますがその先端部分は道路の開削によって消失しています。
どちらにしろこの尾根先端から南側からあたりが追手(北側は崖)と思われるところですが⑩、⑫⑬の堀切の位置が不自然なのです。
掲示板等が発する城址の様相は尾根背後を切断して先端屋敷址部分の守りとしているような主旨のようでしたが、その尾根を更に上ったところが⑭~。
⑮⑯など堀底追手を思わす道の左右の石ゴロゴロの様を見て「門の跡じゃね?・・・」と彼と盛り上がったところ。
また大きく削平された段が2つほどあり「コレ井戸跡じゃね?」などいう凹部も。
こういった歴とした山城を推測ができる地形が控えているのに尾根の先端部分のみを評価するのはちょっとね。
⑳は堀切上段の先端削平地ですが、こういった場所はしばしば物見櫓が建っていたものです。
奥もしっかり広い。
堀切はその後方に主郭があったとすれば頷けます。
以上私どもが想像を巡らした「城ブラ」でした。
ちなみに⑭の木の皮が剝がされた図を見て彼はニヤニヤ。
私は先般も記しましたようコレはただの「森の中」のこと。
驚きませんね。しかしどなた様の爪とぎ?
2023年
5月
08日
月
岡崎秦梨には城が二つある 秦梨城 地元の方は・・・
震度6強の能登半島珠洲市に豪雨というのはいかにも気の毒でなりません。
家屋の屋根瓦が崩れた直後に前線通過を迎えるというのはあまりにも酷なことです。
かつて駿河湾沖地震の際、私どもの場合は本堂の大棟瓦の崩壊という事態を被りましたが、少々の降雨はあったものの本格的な雨には至らず、私が屋根に上がって養生する時間はタップリありました。
おかげさまでその材は腐食から免れることができ、最悪の状況にまでは至りませんでした。
古い木材に大量の水分が浸透すれば一気に劣化が進むといわれますので早い対応は必至です。
おそらく地震後に店頭からブルーシート等の欠品が発生していることが想像できますが、そのあたり行政の方ではどのように対応しているのでしょうね。
個人レベルでの対応となることは大体推測できますが。
私の場合は大小含めて7~8枚のそれをキープしています。
家屋が全壊したとしてもある程度の養生対応ができれば「材」だけは守ることができます。
もっとも私の場合は本堂用の特殊な材木の再利用を考えての対策ですが。
扨、先般の奥の墓道氏来訪につきハカ・テラ・シロを一緒にブラついたのでしたがあの八面石塔のあと向かったのは秦梨城。
岡崎市の地にある山城✖2です。
山の下には第2東名のトンネルのある広大な山城とそれよりコンパクトな城と二つ並ぶ(地図)ようにありますがどちらかといえばマイナーな城ですね。
先日は歴史好きという若者と話をする機会がありました。
三河と遠江の間を普段往来しているということで「城」について振ってみると岡崎城や浜松城の名が。
私の持論、城とは天守がそびえるだけのものではなく、特に三河には無数の城があるから探索は殊に面白い・・・等々話が展開したわけですがその無数有る城の一つです。
いつもの城郭大系から。
秦梨城 岡崎市秦梨町 粟生長蔵在城
現在畑地だが城屋敷の地名が残る
秦梨城 岡崎市秦梨町 粟生永信築城
のちに酒井図書が在城した
地味ながらこの城は弘治二年(1556)の日近合戦~秦梨の合戦~という三河忩劇なる騒乱の中で実際に戦場となった城でもありその存在は知る人ぞ知る・・・の類。
地元の方たち(2名)をつかまえてインタビュー。
④居館といわれる城址については「知っている」とのことでしたが山城の方は「知らない」の一点張り。
山城と思われる山の真下でお聞きしましたが、生まれてこの方ここにいるがその件「聞いた事がない!!」とまで。
しかし④の地にあった掲示板にはしっかりと記されていました。
2023年
5月
07日
日
祇園精舎・諸行無常・沙羅双樹・盛者必衰そして農鳥
夕刻の庫裏内は28℃。
雨予報がありましたが、結局雨にはならず強烈な西日に見舞われぐんぐん気温が上昇。
ストーブも片づけられていない中「エアコンを・・・」とそれを所望しましたが、まだ掃除していないを理由に却下されてしまいました。
まったく体調管理が難しい。
まったくといえば昨日のNHKニュースには辟易でした。
民放も同じようなものでしたが、7時のニュースではそれが冒頭から始まったため、「寅さん」にチェンジ。
それは「再」の倍数限りないものがありますが、余程マシです。
そしてニュースといえば①能登の地震の続報②ウクライナ情勢③MLB関係・・・など私の知りたいことが多々ありましたが、あの「えげれす」どうのこうの話題集中には降参しました。
まぁチャンネルを変えるだけですが。
聞けば英国国内でも君主制に反対する人たちがいるようですしそもそも国民の60%が今回のお祭り騒ぎは「無関心」とのこと。
それを何でもってこの極東の田舎の国でその話題でもちきりにする(させる)のか・・・意味不明です。
先般タイホされた詐欺師のかあちゃんのセレブぶりが話題になっていましたがあの金の馬車だとか煌びやかな贅沢品の数々を目にして憧れを感じるといのでしたらまったくもって滑稽なこと。本当のセレブを目前にしてのことでしょうか・・・
私からすれば「他文化のこと放っておけ・・・」としかいいようがないニュースでした。
まぁ人それぞれですから、その「豪華絢爛 豪勢な散財」に夢を抱きたいという御仁はそれはそれで滑稽とはいいながらも結構なことでしょう。ご勝手にどうぞ。
扨、拙寺境内にはたくさんの木々が植えられていますが、伐ったり植えたり当然ながら管理者は私です。これまで多くの木々を植えてきました。
結局好き嫌いがあって特に先代が手掛けたというか「勝手に植木屋が植えていった」と父は言っていましたが、新墓地のサザンカは私の手で一掃しました。
それとは別に椿も各所3本ほどありますが、それらも親の敵の如く大きく伐って成長を阻んでいます。生かさず殺さず・・・
理由はその花を私がそれほど好きではないということもありますがチャドクガの発生があって参拝者に不安を与えることがイケません。
それでも概して寺には椿が定番であるという感覚がありますね。
まず平家物語冒頭から。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者も遂にはほろびぬ ひとへに風の前の塵に同じ
仏典から引っ張ってきた4文字熟語たちが並びますがまさに、これこそが日本の文化の根底に流れる思想。エゲレス・・・セレブ関係なし。
その「沙羅双樹」とは釈迦入滅の象徴の樹木です。
1本でも2本でも、その「沙羅」を寺に植えたいという気持ちが起こるのはお寺を主催するものとしての心情としてありうるところですが、その樹木はなにせ熱帯性で日本の気候では育てることはできません。もっとも拙寺は一向専念無量寿仏の寺ですからその発想は低レベルですが。
ということでそれに似せたなんちゃって風のシャラノキ、夏椿などの代用品を植えるというのが「それもアリ」となったのでした。
そういえば先日のネコがお出迎えしてくれた八面石塔の墓道のお寺には大きな椿がありましたね①。見た事もないほど立派なものでした。
②~はいつもの「女墓場」から送られてきたもの。
「GWはどこにもいかない」とは言っていたもののちゃっかり山梨県の三頭山(みとうさん)に登って例の「農鳥」を見た・・・と喜んでいました。
トレッキングの山道には多くの登山者が歩くので私の今感じる恐怖「マダニ」はいないようです。
滅多に人が入らず普段は獣たちしかいないような山に草をかき分け道ではない斜面を突き進む・・・結論はそれでしょうか。
月1で3回咬まれた理由は。
拙寺の笹の中という線もまだ捨てきれていませんが。
2023年
5月
06日
土
小笠山砦の馬の背尾根下見 行かないが適切か
「こどもの日」の昨日「ほうっ・・・」と思わされたのが子供たち(小学生)の爺様への要求。
手を出しながら「銭を呉れ・・・」の様を目撃。
「お年玉」の習慣はわかりますがこの日に孫たちから搾り取られる新習慣ができていたとは・・・少々驚きでした。
しかし、それは如何にも仕合わせなことと感じた次第。
その様を体感したのは法事のお斎でのこと。
その子供たち(5人 最低年齢4.5歳)がズラッと並んで端末をいじくる姿は壮観といえば壮観、異様といえばそれ。
小さい子はさすがに親のスマホではありますが、今、小中学生のその個人所有は「あたりまえ」といいます。
要は「他の子が持っているから・・・」がその最大の理由とのことですが、そうであるならば文科省あたりで一律「ダメ」のお達しを出せばいいだけと思うのは私だけでしょうか。
携帯電話にかかわる会社(ゲームソフト屋さん等も)に忖度しつつ野放しフリーにしている姿しか思えません。これは諸企業の儲け機会損失はお国のためによくない・・・ということでしょうか。
もうちっとばかり、そのあたりの事考えて欲しいものです。
大人たちもハマっているのだから許容するという意見もありますが、子供の発育段階の脳や視力などその影響は計り知れません。カネのために子供たちの将来は考慮しないでいいということ?
国の将来でもあるのに。
せめて「中学校から・・・」でもいいのかも。私はスマホについては高校から解禁でもいいのかと思っていますがね。
その子供たちから「石川能登で震度6強地震」の報を聞いたのでした・・・。
私も地震の恐怖は身をもって知っているつもり(駿河湾沖地震)。そして被害の状況も察しがつきます。
夜間も緊急地震速報がありました。
能登半島では私がうろついたのは七尾辺りまで。
特に地震というと七尾城の見事な石垣について、気になってしまいます。またたくさんのお寺や遺構がありますからね。
人命第一の中、ついついそんなことが頭に浮かびます。
人命は勿論、建造物遺構までいずれも大事ばかり。
これからその地を含む豪雨予報が出てさらなる被害の発生も考えられますがとにかくも喫緊、安全の確保が最大に望まれるところです。
扨、先日は小笠山砦の大尾根から派生する尾根(馬の背)について
記したあとやはり「奥の墓道」氏とそちらに向かいました。
「馬の背」を攻めるのは適切ではないので冬場にするという意見でまとまりましたので直接正攻法の神社展望台下の駐車場に車を停めて階段を上りました。
尚、小笠池からの登攀には笹が茂る場所がありマダニ被害の可能性があったからです。
思うに私どもがいう「馬の背」とは小笠山の神社への途中にあった掲示板の略図(こちらの⑧)の赤字「危険注意!」の箇所と見受けられますが何かシール状のもので隠されたり剥がされたりしたあとがあり如実にそれを語っているよう。
しかし、池からの登攀でなく、その尾根を確認することはできます。砦の主郭側からならばごくカンタンに・・・。
わざわざそこを確認に行ったのは彼との話の中で、深い方の崖でどのくらいの深さがあるかというのが話題になっていました。
彼は「せいぜい30」私は「いや50はあるかも」・・・がテーマ。
そこでその大尾根に接続する「馬の背」、そのさわりの部分ですがそれを確認に。
まぁ目測ですが50はあるでしょうね。
「馬の背」尾根は小笠山の尾根を主郭とすれば物見の出曲輪的削平地(笹原)とを連結する通路と考えるのがスジでしょう。
ということになれば戦国期以降、人の手が入っていない当時そのままの遺構とも考えられるわけで。
手摺もなければ崩落の危険性あり。当然に足を滑らすこともあり得ます。
その箇所の通行を許容している管理者もどうかと思いますがそちらに向かうと必ず顔を出してしまう私どもがありました。
落ちたら仕舞のその場所について拙ブログで紹介していいものかどうか思量しましたが一応参考までに。
いわゆる、それぞれ皆さんの責任とご判断によって見学を。
落ちたら間違いなく命を失うことになりましょう。
谷状の地形ですので「回収」はヘリの出動を待たなくてはならないかも。
そちらは小笠神社展望台より400m西に尾根を進み⑨⑩から10mほど高天神城方向(左方)に。
スグに二又?を感じる道にあたりますのでそれを左側、上りになる道(道にはみえない)を選択。
この辺りにて同伴する子供を放したりしては絶対にイケません。勢い余って落下するなど大いにあり得ます。
その件あくまでも古城探索の一環、人を近づき難くする本来の要害性をこういった地形で推察します。
尚、そちらを検証しようと滑落し、何かご指摘をいただいたとしても私には関知できないことは当然の事です。
ご了解のうえどうぞ。
2023年
5月
05日
金
岡崎切越八面石塔への墓道の景色
境内、親鸞さん銅像の上を覆うケヤキの朽ちた枝。
日々それが気になって仕方がありません。
息子と奥方のヘルプを待っていては埒があかないこともありますが昨日は無風好天につき「ちょっと見てくる」と梯子を掛ける旨奥方に伝えると「NG」のお達しが。
坊守は出来上がってきた新茶に関わる雑用で「つきあっちゃあいられない」とのこと。
樹木の伐採を私の遊びの延長と理解しているようであります。
それに懲りて相当の時間を経ていますがかつてその手の作業を3人で行った際、墓石を倒して欠けさせていますから、まぁハードでリスキーな仕事とは心得ているようです。
そこでその作業について「業者に依頼したらどうだ」といいますので、それでは私が見積もりを・・・と。
高所作業車は境内に入りませんので手作業になりますね。
シルバーさんでは不可能。
「空師」と呼ばれる作業員が二名、地上作業員三名という配置になるのでは。
工事人工✖平均日当2万円(場合によっては危険手当+α)で「最低でも10万円・・・」というと「救急車を呼んでその後のゴタゴタを考えれば安いものだ」とのこと。
理論的にはそうですが、数ある高木の枝払いにそれぞれその経費を掛けるというのは無理な話。
高木に上がる仕事をなすことは私の生きている証でもありますし。そしてあの仕事はトータルで頭を使いますからね。
うまく行った時の達成感も格別です。
それができなくなったら「おしめぇよぉ~」と啖呵を切る私がありました。
地上作業員(奥方)との連携が悪いと樹上でカリカリした挙句にヤバい結末を迎えることになります。
お天気で無風の平日がベストですから「また次回に」ということになりました。
扨、昨日まで2日間、ブログでは岡崎の北の山間部、切越八面石塔へ辿る道について記しています。
その沿道各所には石積みの段が見受けられ明らかにかつては人々が暮らした形跡であると思うわけですが~いつの時代から、そしていつの時代にかけてのことなのか不詳です~「墓道」と記す(昨日)のはまんざら言い過ぎではないような風情も他に感じられました。
道路脇の祠の後ろに無造作に並べられた五輪塔残欠について思うことはこちらの山間集落にかつて住まった人々の墓塔が各人家にあって時間の経過とともにこちらに住まう者、伝える者が不在となりいつしか墓石のみが残って、後世どなたかが一所にまとめたものか・・・と考えます。
たまたま近くの畑にて耕作されている方が目に入りましたのでインタビューを決行。
その方が子供のころからその石塔はこちらにあったそう。
「どちらさまの?」と伺えば昨日記した八面石塔掲示板の文言の通り「平氏落人や本間氏代々の墓だろう」との談。
⑨⑩⑪の急峻な崖に積まれた石積みに、石の祠を拵えたもの。
中には不動明王らしき石像がこちらを見据えていましたがこの森を進むに独特の威容空気をさらに醸し出していました。
やはり「どなたが積んだの?」「その目的は?」とも思いますがとにかく不思議な場所であることは違いありません。
⑫~は真言の桜井寺。
ネコのお出向かいがありました。
痩せてはいませんので食事はしっかり摂っているよう。
要は「人恋しい」感溢れていました。
2023年
5月
04日
木
とっておきの遺構 奥の墓道氏と岡崎切越八面石塔へ
昨日は早々に横浜へひきあげるという「奥の墓道」氏が朝から御前崎海岸をブラつくというので「なぶら館」にておち合いました。私どももそちらにて用事がありましたので。
そこで驚かされたのは駐車場。
ほとんど満車の図と人が溢れる様で他県ナンバーだらけでした。何しろこれは通常目にしない状況ですからね。
メロンの切り売り販売なのでしょうか長蛇の列になっていました。当地ではそれほど珍しい物でもないのですが。
彼の横浜への反転が早かったことはそういった列の一員を為すことを嫌ったことに相違ないところですが、私も彼も人混みに関しては常々忌み嫌うべき態と心得ていますので十分理解できるところ。何かに整然と並ぶなど「吐き気がする」行為と。
やはりまた朝から信じられないような高速道路の渋滞状況が報じられていました。
私にはその忍耐力はハナからなし。
彼が帰郷した際は私が金谷まで迎えに行きましたが昨日は家族が焼津駅まで届けたそうです。
以前には神奈川県近く沼津・三島・御殿場辺りの城砦を巡ってから近くの駅で別れることもありましたが、昨日辺りにそれを行ったとすれば私が酷い目にあうことは必定のこと。
また一昨日の岡崎の山野行脚で今回のお遊び、体力的にも十分満喫満了の思いがありましたので。
扨、3年半振りに帰郷した「奥墓道」氏との恒例、ハカ・テラ・シロ行脚の今回のメイン企画は、半端なものではイケないと思い、お楽しみの場所を用意していました。
それはGWでも人が皆無、それでいてこれまで見た事もないような珍品の歴史遺構というのがテーマ。
そちらへの到達の道のりも結構にハラハラドキドキリスキーというバリエーション豊か、そういったお楽しみもありました。
お調子にのって泥だらけの轍悪路にスピードをあげたり、視界に広がる自然世界に目を取られたりすれば一瞬のうちに酷く後悔することが予測できます。
救援を求めるにも相当の困難が伴う隔地ですからね。パンクしたら・・・などを想像するだけでも。
その地は昨日の岡崎切越町の須佐之男社のさらに先になりま
すが、要はその道の行き止まりまで上り詰めます。
車の停める場所も1台あるといえばある、ないといえばないという感じ。
切越八面石塔(場所はこちら)は④⑤⑥の民家というか城塞址を彷彿させるというかそちらから上がることになります。
③は行き止まりから振り返ったところですが①②はその直前に立つ看板。
その立て看板によって醸し出されていた不安(果たしてこのまま行っていいのか・・・)が解消されるわけです。
そちらの民家のドアはフルオープンでした。
空家とは思えず生活感が漂っていましたので大声で庭先の通行の許可を得ようと我々の存在をアピールしましたが返答はナシ。
次の案内に従って山を登ってスグ、目的の石塔の影を確認。
私が、「鎧武者の如し」と呟くと彼も「まったく同意」と。
私も彼もこれまで墓・石塔の類を見てきましたがこれはかなりの珍品です。
以前奈良の「塔の森」での石塔との出会いにも感じた畏怖と無上の喜びがありました。
こちらは平家の落人伝承もある地でその建立の古さもありますが、このような山腹(最後の画像)にあって「よくもまぁ・・・」(立ち続けている)の驚きもあります。
土砂の崩落も無ければ石積み自体の崩壊も数百年にわたって「なかった」ということなのでしょうか。
余程の数寄者でなくてはこちらへ参りたいという方はいないでしょう。おどろおどろしい雰囲気もたまらないところです。
まさに「墓道」を思わす道でした。
彼とは「すれ違いの車」の有無について話していましたがさすがGW、帰り際に1台の自家用車に道を譲りました。
また途中1名の農家の方、そしてネコ1匹と遭遇しました。
マダニ1匹についてはこちらで出会ったとは限りません。
尚、車両とのすれ違いは絶対不可能な場所がかなり続きますのでそのすれ違いができる、できないは運不運、タイミング次第。
これだけ特筆的な様相の石塔がイマイチ表に出ない、観光地化しないというのはそういう難所であるからでしょうね。
人を寄せ付けない難しい場所ほど楽しく行ってみたいとそそられるのでありました。
できればあの民家の方とお会いしてお話が出来たとしたら尚
楽しい時間だったのでしょうが。
末裔子孫の方だとすればまた尚更。
2023年
5月
03日
水
圧巻の切越の夫婦ヒノキ 適時高頻度高確率マダニ
3年半振りに帰郷した「奥墓道」氏への接待は昨日も引き続き開催。私も動くなら1日2日オンリーと決めていました。
GWの大混雑を避けかつ「通好み」の場所と見繕っていた場所に向かいました。
観光地化していないファミリーには適さない場所となりますが、そもそも私どもが向かう場所といえばマイナーでもかなりの「人知れず」の語が付きそうな地が多いものです。
その中でも私は選りすぐりの馴染み薄い山城と特に変り種と思える墓地をピックアップしておきました。
山城には多少の躊躇はありましたが、まさか「3回目」はないだろうという楽観がありました。
ところが帰宅して入浴中にそれに気づきました。左足の太もも裏側に砂粒、ゴマ粒状の何かが付いていることがかり、何の気なしに左で摘まんでみると指先で例のマダニらしき生命体が元気に動いていました。
前2回とは違い「さぁ咬みますよ~」という位置決めタイムだったよう。
それにしても驚かされたのは奴らは湯水に強いことがわかりました。3~5分湯船に浸かってからのことでしたから溺れていませんでした。まぁ化け物ですね。その生命力は。
彼とはマダニの恐怖について終始会話していましたのでその旨連絡すると「嘘だぁ~」と信じられない様子。彼も同じように行動していましたからね。
月一ペースでマダニに咬まれるバカはそうはいないというのはわかりますが。やはりバカは私。
2度咬まれても懲りずにトレパンと半袖ポロシャツの出で立ちでしたから。今回はサッカー用ストッキングを履いていましたが効果ナシ。
襟からの侵入も考えられますが・・・。
奥方は早速例の小瓶の蓋を開けてそれを封入。3匹目ゲットと。
その件、ネタで大ぼらを吹いているワケではありません。
お恥ずかしきことながらまったくもって現実です。
何時でもその瓶をお見せしますのでお気軽にどうぞ。
風呂から出たらいよいよ毎度身体検査が必要になりました。
3月~5月で月一で計3回咬まれた私がアホなのかそれほど自然界はマダニで溢れているのか。
結論はもうしばらく・・・
まぁ山歩きは11月~2月限定と決めなくてはならないかも。
扨、道すがら岡崎切越町の須佐之男社(場所はこちら)に立ち寄りましたが私はこの出会いにはとても感動を得ました。
何しろ樹齢400年といわれる大木が岩の上に直立、それも神社参道脇急斜面に2本、その参道を挟んで対しているのです。
太い根が地表に長く露出、枝は長く垂れて不思議な空間を醸し出していました。
こういう出会いがあるからやめられない。
樹木の生命力は凄い。自然は強烈で圧巻、舌を巻きました。
ダニも自然の一つでしたね。大木にも極小のダニにも私はヤラれっぱなしです。
しかしダニが怖くてハカ・テラ・シロが廻れるか・・・そんな感じにもなりましたが。
そろそろダニの免疫が醸成されてきた・・・というのは論拠なしか。
付近には最後の画像の如く、岩の上で根を張り「さぁ」という具合に存在をアピールするものも見受けられました。
2023年
5月
02日
火