2019年

5月

23日

私も持つ「邪悪な心」お念仏で 大蛇済度 吉崎御坊

初めて聞いたて驚いた話2点。

息子は一泊だけして昨日横浜に帰りましたが、かなりの「車好き」であることがわかりました。

私の時代とは違って求める情報が即座に入りまた、技術革新の変遷がありますが、私の知らなかった件多々あります。

彼に教わったということです。

 

最近は若者の車離れが著しいと聞きますが当家のその者に限っては違っていたようです。

今彼の頭の中を占めている件といえば、自分の所望する車の代金についてどう工面し、返済していくか・・・のようです。

過度な車好きは時間も給料もそちらに投下する傾向があるために女子に嫌われるというのがスジ。

親としてはそこのところ今の家族内一大テーマですからね。

以前勤めていた会社でポルシェ乗りたさのあまりローンを組んでカップ麺を毎日食していた人がいましたが・・・

 

その息子から聞いて驚いた件。

①オートマチック車全盛の昨今、そのことがゴーカートの如く「ミサイル」化して人々を殺傷する事件が頻発しているようですが、一部の若者の中でその件不満に感じて、「オートマ→マニュアル」へとミッションを載せ替えするといいます。

息子も私の車の趣向からそれを受け継いでいるらしく、オートマチックの市販車に改造を施しマニュアル化したものを探しているとのこと。

まったく驚きでした。

メーカーはその需要の存在は無視しているのでしょうか。

教習所でかつて「オートマ車専用」などのコースが出てきて驚いた思い出がありますが、今後マニュアル車が無くなるよう感じる現状はいかにも効率主義の際たるもの。

「ミサイル車」を次々に社会に輩出している自動車メーカーはその(ペダル踏み間違い)対策こそ「マニュアルこそ・・・」くらいの宣伝をして欲しいものです。

 

マニュアル車というアクセルとブレーキ以外のちょっぴり複雑な作業が自動車の運転技術維持のポイントであることは決まっています。

アクセルだけ踏めばすっ飛んで行くようなメカニズムは便利の反面時として「化け物」になります。

そもそもその「化け物」は「化け物かもしれない私」が操作しているのですからいかにもタチが悪い。

 

そして驚き②。

そのアクセルとブレーキの二つのペダルの件、常識と思ってそのような事を考えもしませんでしたが、その役目といえば「右足」のお役目ですね。

その右足についてですが、踵(かかと)を支点にして(床に着けて)その両ペダルを瞬時に選択判断して~左右に振って~「踏み込む」というワケですね。

しかし年配者に多いそうですが、その「踵支点」ではなく踏む際は「右足は中空」だと。

床を支点にするのではなく足を浮かしてそのたびごとにペダルを(探して)踏むことが習慣になっている人がいるといいます。

そのクセのついている人が「間違い」を起こすのだと聞きました。

常識と思っていた事、案外世間では違うということが分かったのでした。

そういえば「ペダルの踏み方」「右足の待機の仕方」などについて教わった覚えがありませんでした。

 

さて、先日のお寺の遠足では吉崎御坊跡に皆さんをお連れしました。勿論そちらへは蓮如さんが滞留した堂の遺構への訪問という一義がありますが、何と言っても高村光雲の手によって具現化された蓮如さんの像に会いに行くということが主眼です。

そこで皆さんから「コレって何 ?」と質問が投げかけられました。

「尻尾がある石像」です。

私も案内する割には勉強不足でそこのところ「わかりませ~ん」でカンベンしていただいてからサラッとお勉強。

こちらがいわゆる「大蛇済度」の方便ですね。

その伝承と言えば東国における親鸞聖人関わりの言い伝えを連想しますが、こちら蓮如さんのいた吉崎でのお話のようですね。

要は煩悩具足の凡夫、特に怒り妬み恨み(畜生道)に満ち満ちた「化け物」の如くの「私」がそれに気づかされて(信心によって)反省し逆に菩薩道を歩むようになるということです。

また一言でいえば「悪人正機」。

 

特に女性がその例としてあるのがその伝承の特色ですが、その件古今東西共通のようでギリシャ神話に「蛇女ゴーゴン」

(メドゥーサ)などがあったことを思い出します。

ただしその「尻尾」のある「私」とは男女の別などないというのは当然のことでしょう。

 

先日のものとは太陽の角度が違う蓮如さんの像。

訪れる時間・天気によって変わりますね。今回はしっかり顔が映し出されています。

⑧画像の細い登りの階段を皆さんのお尻を叩いて・・・。

無事全員で散策することができました。先日も記しましたが障害者手帳5名、70歳以上多し・・・です。

これをやるから参加者が減るのですが。

この道の左側にお東、右側にお西の別院があります。

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2019年

5月

22日

「辰巳用水」 金沢赤レンガ倉庫 噴水のオブジェ

「息があるうちに母(私の)を見舞う」と息子が3月末以来横浜からやってきました。

午後の横須賀での法事を済ませてからの出立でしたが案の定法要では墓参でズブ濡れになったそう。

まったく酷い雨でした。先週18日には新城の宇連ダムの渇水についての報を聞いたばかりです。

この大雨で三河の水事情の解消になったことでしょう。

 

地元の施設にてお世話になっている母はここのところ急激に弱くなって食事が食べられなくなりました。

この間までは好き嫌いの多い中何とか食物を摂れていたのですが、ついに「その時」を迎える時期が来たということです。

その「無常迅速」を「やはりそういうものである・・」と合点しました。

まぁもっともっと生きてガッチリ「お国に迷惑」させようとも思っていましたが、母の方は極度の貧血と栄養不足からくるだるさで「その件冗談じゃあない」というところでしょう、私も「とにかく喰え」とは思っても本人がすでにその気力も体力もなし。

なにも超高額薬を保険適用しているワケではありません。

ただ今は「生きている」のみで特に大きな「迷惑」をかけたとは言えないでしょうが今後の無意味な延命治療はヤメにしました。

 

私は「先に行ってて、向こうには親父がいるから」と意識があるうちに伝えておきましたのであとはその時を淡々と受け入れるのみ。

ちなみに現状点滴等何らの処置も検討しないということで決まっています。あとのことはすべて阿弥陀さんにおまかせです。

 

さて金沢の赤レンガ倉庫(石川県立歴史・加賀本多博物館)に行ってまずお迎えをしてくれるのが、「辰巳用水」なる加賀藩主三代「前田利常」配下にあった技師「板屋兵四郎」が手掛けた水路の導水管のオブジェです。

実際にかつてのそれを使用しているものですが、定期的に水が勢いよく出てくる(噴水)ようになっています。

⑥は殆ど止まってしまったところですが、残りの水が出ています。

 

この用水は犀川から金沢城へ引き込む防火を主にした水利(暗渠部分)ですが日本の「三大用水」(箱根用水、玉川上水)~水の文化(辰巳用水)  橋本確文堂 1997~といわれるようですね。

それなら私は「全部知ってる」と三用水完結と勝手に満足した次第です。辰巳用水は「今知った」のでしたが・・・

当初は木製だったものを腐食劣化の問題から石質に変えていったようですね。

 

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2019年

5月

21日

加賀前田八家 本多家屋敷 大拙館から歴史の小径

例の池袋の交通死傷事案の加害者が警察署に出頭する様子がテレビで放映されていました。あの「逮捕に及ばない」という方です。

足元がおぼつかないほどの歩行難儀の姿を見てあの「殺傷行為」の加害者とはいえ、その境遇に同情したくなるほどでした。

骨折部位は胸といいますので、おそらく肋骨のどちらかにヒビが入った程度だと思いますのでその歩行の難儀については今回の事故の後遺症ではないでしょう。

 

となるとあの画像を見て思うことは、車の運転などそもそも無理だろうというところ。

ご当人は経産省キャリア官僚で工業技術院なるお国の機関に「天下り」された人といいますが、その人が現在に至っても言い張る通り「アクセルが戻らない ブレーキが効かない」ということはその件いわゆる自動車のメカニズムですので彼の専門分野です。皮肉と言えば皮肉です。

あの「ミサイル」と化した車のメーカーとも当然に何かしらのの「おつきあい」はあっただろうと推測しますが、その会社の「欠陥」を示唆するような言について考えるに、当局ではその事故を惹起した車両の欠陥については「なかった」という結論を出していることからやはりそれは「自己保身」からのものでしょうね。

そもそも帽子にサングラスにマスク姿のいでたちを見て、高齢とはいえ事案と境遇について「羞恥心」があるということを思いました。

「顔は晒したくない」の一心の姿を見ましたね。

そこに反省よりもプライドの重さを感じました。

 

もっと不思議に思うのは、その方の子息の件。

いくら世間お騒がせの重大事案に発展してしまったとはいえ、通常歩行もおぼつかない父親の出頭に際し何故にしてフォローしないのか・・・。

想像ですが「オヤジのやったことだから自分の尻は自分で拭け」の会話が聞こえてきそうです。

私だとしたら・・・あれだけマスコミが集まっているのですからとにかく少しでも心証を良くしてもらおうと、父親とともに深く頭を下げたでしょうね。

コレはとにもかくにも当たり前の事なのですが、世間で言われている「上級国民」の皆さんは概してそれができないようですね。

だいたい父親の様子がアレなら私は車とその免許証はなんとしても説得して取り上げてしまいますね。

勿論私は過去にそのようにして父親に納得してもらいましたし、一時的にしろ当初私は車のキーを隠すなど家庭内はギクシャクしましたが・・・。

母もその件承知し私を支援、父の靴を隠していたことを思い出します。その姿を見て自身の行く末を感じたものですが・・・

 

さて、先日記した本多町とは加賀前田八家といわれる前田家を代表する家老職(本多家5万石、長家3.3万石、横山家3万石、前田長種系1.8万石、奥村家永福系1.7万石、村井家1.65万石、奥村分家1.2万石、前田利政・直之系1.1万石)ですが、その中でも最も大身の家が筆頭家老本多家の屋敷があった場所です。本多町の通りですね。

 

石川県立歴史・加賀本多博物館の真下にある鈴木大拙館裏からの「緑の小径」を進むと「櫻章校」なる 旧制の金沢第一中学校のあった場所に出ますが(①石碑が建っています)そちらから博物館方向に上がる「歴史の小径」と名付けられた散策路に整備された上り道の入り口に出ます。

 

注意して見れば②「緑の小径」のバックに石垣が見ます。

その先の上り散策路には感動できる石垣が見られます。

さすがにこちらでの観光客との遭遇はありませんでしたね。

 

金沢城関係の遺構数ある中、こちらも穴場的エリアといっていいかも知れません。金沢散策には絶妙のコースでした。

鈴木大拙館からの入路は館のカウンターの女性に聞きました。

まさか・・・と思うくらいの「小径」で何度も戸惑いました。

 

 

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2019年

5月

20日

今川義元生誕五百年 胴と首が以来はじめて・・・

昨日は「ブラリ田沼」の第2回目の日曜日。

こちらは1年も前から予定が入っていますので、法事の予定は入れていません。

よって午後からの静岡でのイベントに向かおうと朝からその「田沼」の皆さんの来訪とその終了を待ちました。

 

私どもがやることはほとんどナシですが、敢えて言えば本堂の電気を点けておくくらい。

かといって境内でちょろちょろしているわけにもいかずいつ現れるかわからない「田沼」の皆さんをやり過ごすこと、そして早く静岡に向かいたい気持ちでいっぱいでした。

 

というのはそのイベントとは「今川義元公生誕五百年祭 ~今川復権まつり」(ブログ)の中、今川義元公大好き宣言&今川シンポジウム 小和田哲男先生の講演「とっておきの今川義元」で13時30分が開演時間でした。

 

「田沼」が退去されたあと12時すぎに家を出てギリギリ静岡市民文化会館の大ホールに駆け込みました。

その日に開演される理由とは「永禄三年五月十九日」に合わせているからです。

それが「桶狭間」・・・今川義元の命日ということになります。

 

午前中はその回忌法要が臨済寺でとり行われていたために午後からの講演となったのでした。

その法要は三河大聖寺との合同法要。

ポイントとしてはこれまで別々に行われていた法要を初めて一緒に行ったということですが、それは初めてその時以来「胴(大聖寺)と首(臨済寺)」が繋がったという快挙でした。

ただし臨済宗と浄土宗(大聖寺)ですが、まぁ「おまつり」みたいなものですからね。

 

先生も「この大ホールが満員」を目の当たりにして感動を覚えていたようですが、私は開演ギリギリでしたので殆ど最後列に近い場所。

それよりもなによりも気温上昇のせいなのか、隣の方の存在感溢れる体臭に加えてホール希薄化した酸素の環境に催眠効果バッチリ、折角の講演を「気絶」していました。

 

私にはああいった混雑の場での窮屈な体勢の維持はそもそも無理なのです。じっとしていられない習性。

人口密度の少ない空気のうまい(それこそが正常なこと)場所が一番、あの環境に慣れることはありませんね。

 

さあ、大雨の予報があります。運転は特に注意したいですね。

 

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2019年

5月

19日

イースタン・ブディスト鈴木大拙の 妙 O wonderful!

近江市場の人混みと行列には辟易。

観光客気分で「ちょいと昼食でも」とその場に足を踏み入れたとしたら人によっては後悔の念がもたげるかも知れません。

とはいいながらもこちらでの穴場的私のお好みの店が市場の2階にありますので今回もそちらに向かいました。

観光客向けのバカ高い設定の海鮮丼が並ぶ中、そちらはまぁ許容範囲というところ。

 

前回もそうでしたが、一人の場合はカウンターに座ります。まぁ店員さんの案内ではありますが。

前回同様にお隣は外国からの御客人です。前回は右隣りがスペイン語に左がロシア語が飛び交っていました。それにしても「観光地」のうち主たる場から離れたこちらまで外人さんが溢れているというのには本当に驚きです。

そして今回は、といえばお隣さんはフランス語の4人組年配者。

 

後から来た私が食べ終わった頃(丼もの)、そのお隣さんのテーブルに出された膳は寿司でした。こんなものが出されるのにそれほど時間がかかるものかと気の毒に思いましたが、これからがショータイム。

するとその人はまず、店員に箸を指さして指で罰点マーク(他のお友達は箸を使用)。

スプーンとフォークを所望していました。

 

醤油の差し口のある瓶の蓋を外し小皿にそれを注ぐことなしに直接各握りの上からそれを適宜垂らしていました。

店も外国人向けに寿司の食べ方の講釈はもはや不要と感じているのか~万国共通~英字であってもその説明はまったくなし。

日本人なら瓶を傾けるだけで醤油はスムーズに容器から注がれることは承知していますね。当然の如くです。

 

私はじっと観察の間に入っていました。

真っ隣での出来事ですから特に首をそちらに向ける必要はありませんね。

すると届いたフォークにて並んだ握りをすくって、口の中に・・・ただしイカの場合は食いちぎることが出来なかったのか手を使って引っ張っていました。

「へ~え」と思ったのは軍艦巻きの食し方。

海苔が苦手なのか、ただの包装紙の類のものと考えているのかわかりませんがそのフォークを使ってクルクルと巻物を外し、手を使いたたんでからトレーの隅っこに。

あとに残った不思議な形状になった物体をフォークにてバランスをとりながら口に運んでいました。

 

どう寿司を食べるかなど私のお節介は無用。正解などないですからね。そもそも私がその人の隣に着座した時、彼は椅子の背もたれに架けた自身の持ち物について、不安になったのかそれを確認する仕草をとっていましたので、まぁそれは当然とは思われますが「オレは盗人じゃあないぞ」の反発心も起こりその違和感ある所作の色々について見物を決め込ませていただいたのでした。

 

さて、考えてみるに近江市場にたまたまなのかあれほど外国人らしき人達に溢れているにもかかわらず英語が聞こえてこないということはいかに日本の観光地が国際色豊かになったのかと思うところ。

ヤンキーは何処へ・・・ですがこのほど私が向かったあちら、昨日記した鈴木大拙館に行った際はまたびっくり。

コチラにはその米国人・・・英語圏の人たちが集まっていました。

 

その鈴木大拙という人については「当流の僧籍にある人なら当たり前のように知っている人」と遠足バス車中で触れましたがハッと思って息子に問い合わせてみると「バカにするな」との返答。やはり「当たり前」とのことでした。

 

その人は大谷大学の教授をされていて当流でいえば師の晩年期に「教行信証」を英訳(→本山)、そちらをアメリカに紹介した人でもありますが、特に「禅」について今のアメリカでの人気のベースを作りました。

著作は英語版多数、いわゆる「日本の仏教」と心を紹介した第一人者です。

 

しかしながら、あの人混み多しの金沢中心部にあっても(金沢城からは少々歩く本多町)、そう大きくはなく、人気の名所ともいえないあちらに「その件」いかにも連想できませんでしたが、ここにはその「英語」が飛び交っていたのです。

 

如何に彼の思想がアメリカ人に影響を与えていたかここに思い知りました。

米国から訪れたであろう若夫婦が乳母車に赤子を載せて、あるいは男女ペアが気軽にデート散策の時間を楽しむかの如く、そして年配者が大人の瞑想スペースにと訪れていました。

 

受付の方も英語対応完璧。

飲み物と展示スペースでの写真撮影の禁止について丁寧に説明していました。

 

そこで一つ。

説明書きによると大拙は「妙」の英語表現に苦慮したといいますね。

その字は当流の女性法名としてかねてから使用頻度の高い文字で、父も祖父もその字の法名使用率は9割を超えていたでしょうね。

 

「妙には戯れの一面があるが、たんなる娯楽ではなく、実に心を奪うような神秘、または魔術を感じさせるものを伴っている」

 

そして英訳の件、『シェークスピアのAs you like it(お気に召すまま)にその「妙」をみることになった』とのこと。

 

O wonderful.

Wonderful!

and most wonderful wonderful!

and yet again wonderful

 

その「妙」は私にいたってはいまだ法名として1度も使用したことがありませんでしたが、それほど「wonderful」であるならばその使用を考えない手はありません。

 

画像は展示空間を出て「水鏡の間」(Water Miller Garden)。

そちらに突き出るような形で「思索空間」(contemplative Space)があります。

 

場所は本多町(こちら)。

旧本多家下屋敷、石川県立歴史・加賀本多博物館の丘の真下という感じ。

 

 

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2019年

5月

18日

のどぐろ へしこ サラダパン 鈴木大拙

福井にて子供達が熱中症のために校庭から救急車で搬送されたというニュースを聞いて「やはりそうか・・・」と。

昨日はバス遠足福井~金沢の2日目でしたが、バスから降りる際には水分補給について念入りに確認させていただくほどのイイ天気。フェーン現象ということで28度まで気温が上昇していたようです。

 

昨日の行程は福井駅近くのホテルから吉崎御坊そして金沢市内での約3時間のフリータイムでした。

どちらも以前味わった無茶苦茶な混みあいはなくて、拍子抜けではありましたが、「金沢城周辺を歩こう」と声掛け。

といっても案外そちらは広大です。

障害者手帳をお持ちの方5名のほか70歳以上の方多数、その炎天は少々きつかったかも知れません。

 

その件で「年寄りにはフリータイムは辛い」との意見を頂きました。 

自由を手に入れることをのみ目的に生き抜いてきたご先祖様。

しかし現代人はいざ「お好きにどうぞ」といわれてもどうしていいのかわからないかのよう。

「自由世界」に放り出されてしまうとたちまち「不安」に陥ってしまうなんて・・・

私などどこへ行っても「好きにしろ」「勝手にしろ」などと呆れられ諦められてきた人生ですので「私を縛ろうとするものが何も無い」こと「自由」など言われるとむしろ歓喜して飛び出したくなる衝動にかられます。

 

とにかく、おかげさまで無事に帰還することができました。

シバリ無し無事帰還は私ども遠足のポイントです。

②は鈴木大拙「無」③は同「無事」のハガキです。

私は近江市場近くの駐車場から一部の皆さんを金沢城に案内したあと「それでは・・・」ということで退場。「鈴木大拙館」に向かいました。そこで自分自身に「お土産」として購入したのがそれらです。

 

奥方はその手のものに満足しませんので、違う種類のものの購入で頭を痛めたのはいつもと同様。

今回自宅まで運んだ奥方用の土産の一部が④~⑥画像です。

⑥「サラダパン」長浜のパン屋さんの品物ですが、賤ケ岳SAで売っています。

結構に有名な商品で、前回そちらにて「売ってたよ」と奥方に伝えた際、「何故買ってこない!!」と叱られたために今回は購入しました。

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2019年

5月

17日

特集 生誕300年 再評価される田沼意次~「江戸楽」

あの変人センセーの暴言以来「戦争」の語が飛び交っていますが、やはり私が今その語のイメージとしてはかつて言われた「交通戦争」なる語です。

 

お国が勧める「公然人殺し」のそれはもはやかつての歴史として記憶の中に入れておき、適宜それを持ち出すときは「反省」の材にするのみ。

ちなみに人というものは過ちを犯す生き物ですから、如何なる人も時に立ち止まって振り返る(反省)ことが必要であるということです。

 

その「交通戦争」なる語が飛び交う時代に育った私ですが、やはり父親が初めて新車を導入した時を思い出します。

マニュアル車が当たり前だった時代にオートマチックの変速機の車が出現しだした頃です。

その普及車両の登場に応じるが如く父はその購入に踏み切ったのでした。

以後マニュアルトランスミッションの車には「絶対に乗らない」と言っていました。というかそれは「乗れない、操作できなくなった」ということですね。

 

これはどういうことかといえば一言で車の操作が「カンタンになった」ということです。要はゴーカートの如く「D」にシフトしてアクセルを踏み込めば今巷間いわれる「ミサイル」(ブレーキと間違えてアクセルを踏み込んだまま暴走する車両)の如く「すっ飛んで」いき人を殺傷します。

 

まっとうな感覚にいる人では信じられないようなことですが、それは「人間が過ちを犯す」ということの証明でもあります。

加齢のせいもありましょうが案外と幅広くその「まっとう」が一瞬のうちに反転したという事案は各年齢に及んでいますので、年寄から免許証を取り上げてそれのみを解決策とする風潮は問題がありますね。

 

今、色々なところで交通事故による理不尽な死傷事故のニュースが飛び込んでいます。

やはりその交通戦争の終結はしていないという感じ。

 

まったく過失なく歩道を歩いていて注意してもしきれない突然飛び込んでくる「ミサイル」などに対処できるはずもありません。

何が必要か・・・やはりまず、歩道と車道をしっかり区切る事でしょうか。

少なくとも車道に車が進入できないようポールなどの車止めなどの設置です。縁石はただの排水集水目的の「縁」で高速で走る重量物を押さえる役目など担えません。

それに対応するには国や自治体に資金需要が発生することになりますが、もはや自動車会社に肩代わりさせるというのがスジかも知れません。

スーパーカンタンゴーカートを売りまくって大儲けしているのですから、歩行者を護るインフラに少しくらいおカネを融通してもらってもいいでしょうよ。それが責任ある企業。売りっぱなしは社会へ歪をもたらしています。

 

そしてマニュアル車の種類をもっと増やしていただきたいですね。

当家でいえば先般購入した軽自動車に「マニュアル「」を指定する(そもそも選択車種僅少)と納車までかなりの時間を要しましたし、納入されたそれはシフト変換が酷くギクシャクしていて違和感満載。

メーカーはオートマ全盛につき、マニュアル車が造れなくなってしまったのかとも思えました。

 

私はマニュアル車でアクセルとブレーキを間違えて暴走した例を知りません。

よっていよいよ齢を重ねて必ず「過ちを犯す」ことがわかりますので、「スーパーカンタンゴーカート」などの採用はムリですね。

あれは「戦争」というか「自爆テロ」と同じ。

 

画像は月刊誌「江戸楽」(えどがく)5月号の表紙。

田沼意次特集の第一弾ですね。

最近露出頻度の高くなった拙寺本堂の軒下の画像がちょっぴり出ていました。

 

最後の画像は拙寺前を通過する地元保育園の園外歩行の様子。

あの手摺りルールは画期的です。

しかしあそこに「ミサイル」が飛んできたとしたら・・・そらおそろしい・・・。

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2019年

5月

16日

多くの御文がこちらから 吉崎御坊 蓮如上人像

世にいう御朱印ブームはかなりの過熱の様。

どもの寺でも「おつき合い程度」で吊るしのそれを本堂に掲げていますが、ド田舎のこの寺に於いては致って静かも。

 

浅草の神社のそれはかなり凝ったものだとは聞きましたがこのほど、その「配布をやめた」というニュースがありました。

それをゲットしたいという人たちが殺到して賑わったようですがそれへの神社側の対応にクレームが投げかけられたそう。

中には「オレは客だぞ」と長い待ち時間に怒り心頭、スゴまれたり、参拝者の中で小競り合い風の状況になった例もあるよう。

 

神社側からは「二度と来てくれるな」という声もあってその混乱ぶりの躰を示しているようですが、それも已むを得ないでしょう。

世の中、場とか状況が読めいない自己本位の人がたくさんいるというか、いよいよわき上がるよう発生してきたことに驚くばかりです。

相対者を無視して自己権利のみの主張。

どうするとこうなるのか・・・「心」が劣化しているのでしょうね。

 

その御朱印集めのどうのこうのとは・・・やはり昨日記した戦争をしたがる国会議員のセンセーと同様、子供的発想なのかも知れません。

私も「いつまでもガキ・・・」と父親に罵倒され続けていましたがこれは一時的な収集満足の類のそれなのでしょう。

私も子供の頃、マーブルチョコのオマケシール集めから切手・古銭とあらゆるモノを集めては飽き、集めては飽きの連続でしたが、その「残骸」について無価値のものは「棺に入れる」と奥方が言い放っています。

まぁ、人の営みもすべてそのようなものかも知れませんが。

また、買う人も買う人ですが特別なそれに破格の値がネット上でついているというのがまた不思議なこと。

 

さて、今度皆さんをお連れする吉崎御坊といえばやはりイメージとしては寺というよりも城塞の様。

その跡地は現在公園化されていますがその見どころは北潟湖から日本海を望む景色のほかに何といっても蓮如上人の像です。この像の作者は仏師というか彫刻家というべきか高村光雲その人です。

 

下世話な話で恐縮です。

テレビ番組のお宝鑑定団などでその人の作品が出てくることは稀ですがそれがホンモノだとすると目が飛び出るような値が付きますね。

 

その福井県の最北端にある辺境ともいえる地(失礼!)に一時は真宗興隆の基礎ともなった吉崎御坊があって多くの門徒衆が集まり、盛大なる法要が催されて蓮如さんの御説法があったことを思うと、この大きな像にさらなる価値を抱くのでした。

 

こちらは丘の上。

麓には東西本願寺の堂がありますが、とにかくこちらの台地に上がらなくてはね。大した歩数ではありませんので尻を叩いてご案内することにします。歩くことが嫌いな皆さんを。

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2019年

5月

15日

祝 墓場のユネスコ世界遺産指定 大仙陵古墳図

失言暴言数々見ますが今度のあの「戦争しなくちゃ・・・」を吹聴した若人政治屋さんの発言を思うに「まるでガキ」。

小学校の道徳の先生が、小学生に対して問いかけるが如くのそれでしたが、見ていると自身の本音のぶっちゃけ話に。

 

衆議院の議員さんとのことですが、これであそこにいる連中も「殆どみないっしょでは・・・」とも思った次第。

今流行りもののように語られる事後の言い訳「飲酒のせい」を自身ご指摘されているようでしたが、飲酒とマージャンは「本心」「本音」「人間そのもの」が出るといいますよ。

 

しかしあまりにも突飛な変性の輩の登場に同業の衆からも非難バッシングがありました。

ただしそれは「言ってはならない事を言ってしまった」程度。

怒り狂って「やめちまぇ」コールを起こすべき無茶苦茶の言でした。「同じ穴の狢」なら致し方なしか。

どこぞのお偉い学校は出ておられることとは思いますが、まったくアレを見て日本の中枢ともいえるあそこにいる人間というものが「シケてて冴えない」人種であることが証明されたという感もあります。

また少なからずまともにおつきあいをしている者にとってはその気持ちを破壊する行為でした。

 

まだまだわかっちゃいないのですね。

知った顔で「戦争」という語を年配者に向って論じていましたがハッキリ言って「間抜け」。

「戦争」というものをして日本人は世界で一番に懲らしめられた国。そして一番に反省して日本国憲法を制定したのです。

多くの住民を泣かせたことの責任は離党だけで済まされることではありませんね。

 

当たり前の事を記せば戦争は相互が消耗します。

たくさん殺してたくさん殺されるということ。

それに勝利して土地を奪い返すことに向かう政治が、またたくさんの人たちの悲惨悲劇を生むことになりますね。

まぁ「自分が死ぬこと」「家族が死ぬこと」に関して発想が及ばない空洞みたいなお頭を想像します。恥ずかしい・・・

 

子供みたいな疑問を私も一つ。

そもそもロシアに戦争して勝てるおつもり? 

荒唐無稽のバカっ話、酔っぱらいの言だったとはいえ呆れました。笑ってられませんね。

あの方を当選させたその地域の人々、徒党も含めて、は是非に反省を。

お国としてもみっともないことこのうえないでしょうよ。

 

さて、ユネスコ世界遺産に「百舌鳥・古市古墳群」が選出されそうとのこと。

あの前方後円墳の集中する地域、まぁ空からの図でしかそれは実感できないものの他の世界遺産の類と引けを取らない景色ですからね。

「そもそも墓じゃねえか」というクレームをつける人がいますが、ユネスコ世界遺産などそのそもそも「おまつりの勲章」、地元の人たちが盛り上がっていればそれでヨシでしょうよ。

お墓の主もきっと楽しいでしょう。

 

たくさんの観光客が来られるとイイですね。

ただし、どうやってあの集合体を見せるのか、体験させるのか。

想像つきません。

ここが「仁徳天皇陵です」といわれてもまったくデカすぎて・・・ピンときませんね。墓場放浪もここいらの古墳を「全部廻る」などいう強者も登場するでしょうね。

スタンプラリーなど面白いかも。堺で盛り上げてくださいな。

尚仁徳陵などは上空300mでないと全景は確認できないといいます。

飛行機を飛ばす案(20分1万円)も出ているということ。

 

画像は以前息子と行った仁徳陵「大仙山古墳」の真ん前、堺市博物館。

④は大仙陵古墳の「陪塚」と解されている孫太夫古墳の記述。

「大仙山古墳と」同時代に配されたといいます。

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2019年

5月

14日

「惟任(光秀)妹御ツマ木」 キヨシ・・・はお気に入り

明智光秀の妻の名はともかくとしてその妻の出自は妻木明智ということで間違いないところでしょう。

しかし一番の疑問は「光秀の父は?」とその系統すらわかっていませんね。

その明智は明智でも土岐氏分立はという所も確定的とはいうもののその分流・・・? は確かな根拠がありませんので研究家の中で多くの推測が上がっているというのが現状ですね。

 

明智と言えば恵那の岩村城近くの遠山家流の明智城がありますし可児にも明智城がありますね。

駅名「明智駅」の名のりでも明智線と名鉄線とで2ヵ所ありますからまた紛らわしい。

 

そしてそれぞれの地で明智光秀の出身地としても主張しているようです。

しかしそのような中、妻木城の「妻木明智」もその光秀の出自について十分にありえるのではと、あの「立ち話」から思ったのでした。

 

確証はないものの世間様の通説から一歩離れたその妻木明智説を推測するのは明智の妻がその妻木出自とはいうものの実は明智光秀自身がこちらの出自であったのでは・・・とも思えますし、また妻木の分流の者同士での婚姻があったとも思量できるところです。

 

さて、歴史に関する書物、物語について、江戸期に囃された読本や演劇等創作モノからの情報はお楽しみはあっても真実の観点からすれば眉唾なものが多いので史料としては論外です。

また特に権威権力者の元で記された記述は結構に「演出」があって、鵜呑みにはできないというのが常ですね。

よってその時代の事象を記した文書を地道に当たって、真実に近いところを追っかけていくわけです。

 

たくさんの資料の中でよく言われるのが公家や坊さんの記した日記の探索の重宝です。

人の日記というものは扱う事象が些末で退屈なものが多いのですが内容は少なからず虚偽からは遠くしかも世間事象に客観的。要は知りたいポイントの的さえ射ていれば絶妙な情報になるのです。

 

そのような中、興福寺塔頭の多聞院の僧が三代に渡って日記を記して引き継いだ「多聞院日記」は戦国期中央の「第一級史料」として認識されています。

 

その中の記述で「惟任の妹」(明智光秀の妹)を記した部分があります⑥画像。

「多聞院日記」の天正九年(1581)に「惟任の妹が死んだ件」です。

 

今暁惟任被帰了・・・今暁惟任(光秀)帰られおわんぬ

無殊儀珍重々々・・・ことなきぎ珍重珍重

去七日八日ノ比歟・・・さる七日八日のころか

惟任ノ妹ノ御ツマキ死了・・・惟任ノ妹ノ御ツマキ死おわんぬ

信長一段ノキヨシ也・・・信長一段ノ気好也

向州無比類力落也・・・向州(日向守光秀)比類なく力落す也

 

光秀が多聞院に滞留していたことが冒頭わかりますがこの記述で一番の情報が光秀の妹の名が、「御ツマキ」だったということ。そして彼女が亡くなって光秀はひどく落胆したこと、また「御ツマキ」は信長の「気好」(キヨシ)・・・お気に入りだったということ・・・で信長の側室だったことも窺えます。

 

この「キヨシ」(気ヨシ)については関西系で今もよく使う「気(い)ワルイ」の反意語。まったくこの記述に違和感ありませんね。

 

その「御ツマキ」は他の文書にも出てきますのでその人物の存在と名に関しては疑いのないところですがその「ツマキ」は・・・やはり「妻木」からでしょう。

明智の妻が「妻木」で妹の「名」も「ツマキ」。

明智光秀がやはり「妻木」「ツマキ」であっても別段不思議はありません。

 

画像は妻木城より。

妻木川を中心に流れる盆地上にある妻木ですがその南の山系の城山に妻木城があります。

妻木の町の北は妻木氏の本家筋土岐氏の土岐市街方向となります。

 

城の真下に妻木川が流れていますが水源は豊富の様、今も水が枯れないとのこと。

このような「必要最小限」の案内程度(現状維持)と草むしりのボランティア、そして地元を愛する後継者の育成に励まれている様子が先日の立ち話からうかがえました。

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2019年

5月

13日

「明智が妻の咄せむ」煕子か槙か はたまた 妻木城

古い時代の過去帳を見ていると女性の名が記されていないのは当たり前の事。

御当主の名のあとに「○○妻」「○○娘」とその名は無し。

また昭和に至っても「〇〇事」と通称を・・・

人はこれを「女性蔑視の最たるもの」としてお怒りになるかも知れませんが、その感覚は少々端折りすぎの論。

 

当初は私もその傾向は少なからずあるものかと考えていましたがそれはそもそも庶民感覚であったとして伝えるべきは「家」であって代表するものは「個人」に非ず、あくまでも「家」が主体であったということ、「本名」は隠す、諱の文化もあったこととその女性が名乗りをすることの意味もなくいわゆる「どうでもイイ事」だったはずです。

男子でさえ諱が伝わっていない武将の子息はまたぞろあるほどですしね。

 

そしてまた、特に妻・娘はどちらの家でも大切にしたいというところはいうまでもなく人様にその名など知らせる(公称する)必要がまったくなかったのです。

よって「蔑視」という言葉では簡単に言い記せない感覚があったのでした。

 

私たちは時代劇というカタチで劇中飛び交う女性の名を聞いてそれが当たり前のように、現代社会のそれと同様に視聴しているワケですが、歴史の中の本当のところは「それはなかった」と言い切れるでしょうね。

 

さて、昨日の「立ち話」の中で私は「明智の妻」の美談(朝倉義景のもと連歌会と酒宴の用意のため髪を切って費用を工面)とその名「煕子」(ヒロコ)についても問いました。

 

西教寺の芭蕉の碑はその言い伝えを知った芭蕉がその

「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せむ」を門弟の奥さんの自身への歓待の感謝として詠んだといわれていますが、そもそもその美談もあまりアテにならない作り話なのかもしれません。

明智光秀の色々は勝者方の敗者方家系抹消と創作に始まって江戸以降の物語、演劇を通して固まっていったのでしょうね。

 

ただし伝承とはいいますが「明智光秀の妻」は高い確率でこちらの妻木明智の出自は知られています。

ここは間違いないところではありますが、興味といえば明智の妻の名の変遷ですね。

大抵と言うか殆どの場合、今その名は「煕子」(ひろこ)が大手を振って通っています。

 

私もその「煕子」が頭に刷り込まれていましたのでその立ち話で「煕子」とつい口走っていましたが・・・

今はさもそれが当たり前の如く明智の妻=「煕子」と断定的な記述になっていることは確かです。

まぁ「名」は「どうでもイイ」印であってタダの形式と解すれば何であってもイイのですが一応は気に留めているところではあります。

 

そうは言っても司馬遼太郎の小説をベースにした大河ドラマでは「槇」(功名が辻)「お槙」(国盗り物語)になっていましたから、やはりその「煕子」もかなりあてにならないそのあとの創作であることが推察されます。

これは西教寺あたりの旗振りでその名が固まっていったのかも知れませんね。

そちらの案内板にはしっかりとその名が記されていました。

 

さすがに「明智の妻」そのものの存在を今度の大河ドラマで端折るワケにはいきませんので今度はどちらの名を「採用」するのかも興味の一つです。

ドラマですから登場人物の名前は必要でしょう。

 

どちらにしろ地元妻木では「その名は不詳」というのが本当のところ。

 

妻木城登城はインチキですが大手道徒歩ではなく自家用車を利用。②ゴルフ場の門を入ってからさらに林道に分岐します。

 

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2019年

5月

12日

土岐市妻木 八幡神社境内にて 立ち話10分

オリンピックの観戦といえば、わざわざ現場に出向かなくともお茶の間の画面の前に座っていればOKという私ですが、少々の「コレはどうなるの?」という疑問が、「大河ドラマ」です。

お気の毒としかいいようのない今年の大河ドラマの視聴率低迷ではありますが、すでに興味は来年の「麒麟」の方ばかり。

 

その大河ドラマの時間にオリンピックのなんやら面白そうな番組が重なったりすることもありましょう。

ざっと期間中3回ほど日曜日があったような・・・

NHKもそれを承知で番組を放映するワケにもいかないでしょう。

どういった対応がされるかわかりませんが、その期間をおやすみにしてしまうというのが濃厚のような気がします。

 

そしてこれはある方とのお話しの中でハッと気が付いたことですが、その「麒麟」こと明智光秀の出自についてはまったく不明不詳です。

井伊直虎」の際は幼少期の直虎をたしか「おとわ」という名を使用したと小和田先生が仰っていたことを思い出しましたが、いったいその生まれをどう創作するのだろうという点が気になります。

 

土岐明智という出自は定説通りそこは疑わないところですが光秀に関しては分立多いどちらの明智なのか、敗者抹消の所以の通り不詳のままですからね。

ただしNHKの発表した「"美濃編"出演者発表」には明智家に生まれ・・・とだけ。

 

その方との話ではおそらく「幼少期カット」でいきなり青年期)~晩年になるのでは・・・と。早い段階で「斎藤道三に見込まれる」というシーンが出てくるのでしょうか。

ただし「ドラマ」はドラマ、創作・演出も多分に織り込まれることでしょう。

大胆に「〇〇丸」なんぞの名で妻木明智のなどという設定で幼少期を描くというスジも捨てきれません。

 

また、明智関連各所ある中、直虎の際に浜松にオープンした「直虎館」の如く「大河ドラマ」をバックにした町おこし的箱物建設はかなり焦点がぼけそうな気が・・・どちらにせよそれも我こそは・・・の「取り合い」に発展するかも知れません。

 

先般も越前一乗谷滞留期の光秀について記しましたが彼が関わった地に関して一つ一つあげていればキリがありませんからね。

 

ということでその立ち話は表記妻木の八幡神社の境内。

私どもはたまたま社務所から作務衣姿で出て来られたその人をきっと噂の黒田正直氏と見込んで声を掛けさせていただいたのでした。「出待ち」していたワケではありません。

 

失礼なことですが、その方の名も確認することなくイキナリ「明智光秀について」を私の名のりをする事なく、「すみませ~ん」の声掛けから、ひたすら投げかけたという次第です。

その間髪を入れない「立て板に水」の如くの「論」にその人であると確信したのでしたが、なによりこの方の「妻木愛」の展開には感服いたしました。

下世話な「今度の大河」での町おこしに関して伺えば「明智出自の地」はあくまでも伝承であって(確証がない)、今妻木にある歴史の遺構(妻木城ほか)を大切に後世に伝えることだけを考えたいと。

 

黒田氏は地元ではその名を知らぬ人はいない八幡宮の禰宜兼地元歴史研究家です。

私は別の方から「八幡宮に行ってみたら・・・」とアドバイスを受けていたのでした。

それにしても偶然の遭遇とはいえ隣の墓道氏はその絶妙の機会に驚いていました。

 

神社のサイトがありますのでググってみてください。

黒田氏の行動力と活動の活発な様子が確認できます。

 

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2019年

5月

11日

なんとなく立ち寄った小里川ダムの道の駅

来年のオリンピックの観戦チケット取りはスタート早々に加熱の様を見せているといいます。

人それぞれとはいうもののそのパワーには驚かされますね。

 

何せチケット争奪戦に勝ち名乗りをあげたとしてもいざそちらに向かおうにもあの予想される混雑は想像するだけで引き気味になってしまいます。

皆さん心も体もお若くて大したものです、ホントに。

私なんぞ東京に出て帰るという行程のみで「一大事」の感がありますからね。

いよいよ人混みはうんざりの年齢となり果てたというワケで。

 

まぁそういった「凄い!引き合い情報」もマスコミの煽り半分として、日本全体からすればそのチケット取り合戦に参加しようという人はごく一部なのでしょうね。

だいたい今度のトーキョーを狙ったテロの恐怖も想起できますしそれを考えるとやはり恐ろしい。

浮かれて騒ぐお祭り騒ぎの混雑の場は絶妙のターゲットになり得ますね。メッセージの発信と与えるインパクトは絶大です。

 

私のそれは対「人」というものが苦であるといことではなく、勿論、人様とのお話しは時に私の知らなかった情報を得られることもあって個としての人との接触は前向きです。

ただただ「雑踏」には無縁でありたいということです。

 

さて、先般はGW中の予定について雨予報がどう友人の「奥の墓道」氏の来訪がどうのとブログで記していましたが、結局5月2日に急遽二人で東濃方面に向かいました。

毎年GWといえば日帰りコースの山城トレッキングに向かうのが常ですが、時として私と彼のスケジュールとお天気の事情によってどこにも行けない年もありました。

 

気をもんだお天気は回復し、前日の1日に帰省していた彼を2日の早朝に迎えに行きざっと遊んで夜8時に帰宅しました。

今回は大きな山城の比高ゼロからの登攀はなく、それもある程度のところまで車が入る地がほとんどでしたが7城2寺1神社1ダム(墓地除く)を行き当たりばったりで廻ってきました。

スマホの万歩計は26000歩でしたから、これまで何度かやっている3万歩超えからすれば10000歩ほど軽度です。

私独りの場合で歩き回る際は昼食抜きなど当たり前ですが、つい相棒がいると「そろそろ飯か?」の雰囲気になりますね。

 

またあの時は怖いもの見たさもありましたが帰りに給油と夕食を兼ねて新東名岡崎SAに寄りました。

それこそその日は城・寺社以外は筆舌に尽くしがたい混雑。

とはいっても給油が絶対条件でのSA入場で、事前給油を怠ったノー天気の自分の躰を呪いました。

開き直ってそちらで食事をとったのですが給油で並び、駐車に並び、店で並び・・・日本人は忍耐力ありすぎ。

ガス欠怖さでそれは致し仕方なかったにしろそれさえ心配が無ければずっと早く家に着いたかもしれません。

 

画像は「昼食を・・・」と立ち寄った小里(おり)川ダムの道の駅。

駐車スペースは皆無。離れた道の向こうに路駐しましたがお店は大混雑で結局入店は諦めました。

 

このダムの位置は右岸が恵那、左岸が瑞浪。

ダム名の小里川は古くから下流域の氾濫が多々あったようでその対応のために設置されたとのこと(場所はこちら)。

この近くに小里氏の出自、小里城があったわけです。

 

最後2枚は当日の夕暮れ時の岡崎SA給油渋滞。

ガス代はSA価格。それにしてもべらぼうに値上がりしているよう。「すべてやむを得ない」を言い聞かせ忍耐の一日でした。

最後の画像は「頭に叩き込み」のつもりで。

その日は絶対に関西方面には向かわないと。

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2019年

5月

10日

安国寺恵瓊吉川家文書 信長の評価 自身の末期は

静岡県小山町の新町長さんが総務省に陳情に行ったといいます。

総務省は4つの市町自治体に対して「ルール違反」を理由に次回から「ふるさと納税」のシステムから外すと発表していますが、市長さんは「このまま継続させてください」の陳情に東京に赴いたそう。

その「ルール違反」とは寄付額40%のアマゾンギフトを返礼品に入れて250億円を「荒稼ぎ」していたとのこと。

 

私どももその「ふるさと~」には多少なりとも関わってきていましたが、はっきり言ってその「返礼品」の登場には唖然としましたね。

おカネを集めるに「形振り構わない」を感じました。

 

その納税がないと「学校福祉の財源を見直さなくてはならない」などと虫の良さそうなお話をされていましたが、あれらの件は他の「地場」返礼品の開発や運営システムに「少しでも」の思いで頭を悩ませていた自治体、個々の出品提案者からすれば大変迷惑な話。

「ごめんなさい 次から真面目にやります」で済むことではありませんね。

だいたいルールを破って稼いだそのおカネ、そのままポケットに入れっぱなしなのでしょう? 

相当なズルなお話ではないのでは・・・と思うのが傍観者の意見。

 

当地にいたっては現在4月中旬以降これから新茶の季節に入るというのにも関わらず新システム移行と審査厳密の体制構築の煩雑に完全にストップさせられています。

何しろ新体制申請は面倒なことばかりで私の怠慢もあって一旦は期限切れとなったところでした。

私はこの際「どうでもいい」と投げやりになっていましたが婦人部で市役所担当と交渉していただき、6月までの書面提出でOKとなったとのこと。

 

この件、「地場」にこだわってコツコツと継続していた全国の「ふるさと納税」に関わった皆さんも同様に考えているのではないでしょうか。

ああめんどくさい・・・。余計な仕事でクサクサしていますよ。

 

さて、表記「安国寺恵瓊吉川家文書」について。

臨済宗の僧、恵瓊の出自は安芸武田家で毛利元就に武田家が滅ぼされてから出家したのですが、僧として毛利家と親交を重ねて、毛利家の外交外務の顔として山陽道を畿内を行き来して各方面に顔を売るようになった人です。

 

浅井朝倉を滅ぼし、将軍義昭をも京都から追い出した余裕の信長は義昭に「京都に帰ってきてもいいよ」と帰還を促します。

本願寺顕如さんの後ろ盾で河内、堺を転々としていたのでした。

信長にとっては本願寺が弱体将軍といえども足利幕府の看板ともいえる義昭を取り込んでその幕府再興などいう旗を立てられるなどは方向としては少々マズいところ。

何とか手打ちにして以前のように手中に収めておきたいというところでしょうね。

 

ところが、「もはや信長の傀儡はいやだ」の義昭のプライドがその提案交渉を受け入れがたくしたのでしょう、義昭はその「京都にどうぞ」の提案を蹴飛ばして「安芸(毛利)へ」の意向を強めます。

それは「信長を懲らしめられるのは毛利」の発想ですね。

 

しかしながらこの件は毛利側にとっては本願寺に兵糧を入れるという「寺への寄進」というスタンスはあったものの将軍を迎えるということは幕府開幕(天下に号令)に繋がることでもあって明らかな「露骨な反信長」です。

ということでそのような大胆な意思表示はしたくなかったというのが毛利の本音。

 

よって何とか「それだけ(安芸下向)は留めて欲しい」と義昭説得工作に派遣されたのが安国寺恵瓊でした。

結果的に義昭の強い意志によって京都帰還はなりませんでしたが(③人質の出す出さないの件で折り合いがつかなかった・・・)、この恵瓊の毛利家への「報告書」のようなものがこの記述でした。

 

文中「日乗」は信長の代理人として外渉を受けていた僧で、その恵瓊が説得をした義昭に信長、秀吉と同座していた人物です。

その初めて見た、自身同様の立場の如く怪僧の存在に驚きつつ信長と秀吉のそれぞれの印象について記しています。

 

この件がいわゆる「安国寺恵瓊の先見秀たるもの」を囃すところですが、その信長・秀吉についての記述が⑥の最後。

 

「信長の代五年三年は持たるべく候、明年あたりは公家などに成らるべく候かと見及び申候、左候て後 高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとては(覇)の者にて候」とズバリ予想が大当たり。

 

信長の調子づいたところを冷静に分析しているのでしょうね。「公家などに~」とあるようそのイメージが溢れ出ていたのでしょう。そしてまた秀吉については「覇の者」と。

占い師・予言師であれば大層な客が付きそうとは思いますが、その段階でその二人には一種独特の「何か」が表に出ていたということかも知れません。

 

ただし安国寺恵瓊(→建仁寺首塚)はその秀吉に重用されたのち石田三成と昵懇となって関ケ原では西軍。

惜しいかな家康の力量と自身の六条河原斬首とさらし首については予言できなかったようです。

恵瓊は関ケ原から京都に潜伏していましたが、一時はその頃秀吉の手で京都に移設されていた本願寺(現在の西本願寺)にも隠れていたといいます。

 

かつて足利義昭を「お荷物」扱いしての下向阻止の説得工作に赴いた恵瓊でしたが、本願寺にとっては恵瓊の滞留は「お荷物」だったでしょう。御時節がら彼を匿おうという場所はどこも無かったはず。

本願寺を自ら出たところを捕縛されたと聞きます。

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2019年

5月

09日

一乗谷の真宗寺院と義景娘の消息 朝倉義景屋敷跡

テレビ画面から映し出された琵琶湖は穏やかで向こうに見える比叡の山並みはくっきりと。

あの瀬田の唐橋からも遠くない湖東湖岸を北にあがるあの道で発生した交通事故の画像はショッキング以外何物でもありませんでした。

またも幼き命が失われ、いやはや声も出ないほど。

惨すぎます。

 

ただただ私たちができることは交通の安全について今一度より注意深く自身検証しなおしていく必要があるということですね。この言葉はほとんど私自身へのものになりますが。

あのような加害当事者に絶対にならないようそのためのいわゆる保身。しかしそれは結果的に他者を守ることになります。

 

さて、先日は一乗谷に建つ本願寺派の一乗山浄覚寺についてその私が驚された点を記しましたが、その理由についての詳細は不明であるというのが本当のところ。

 

信長(先鋒柴田勝家)によってあの地はリセットされてしまったからです。

形跡としては「庭園」らしき場所が石材の存在で推測できるばかりで「人」は勿論「物」も完全に失われゼロにされてしまったことによってその人々が歩んだ歴史は消えて失せたということです。

 

浄覚寺の由緒に関しては不明とはいうものの不確かではありますが伝承として残るいわれは先日記した通り。

しかしまだまだ朝倉家の謎は尽きません。

 

信長の言いがかりで元号の「元亀」を早々にやめさせ「天正」に変えさせたのでしたが、これは信長の「我が世」の思い、高慢ちきなところですね。

先日も記しましたが「元号」を差配するまでのお調子者がその10年後に家臣明智光秀によって滅ぼされたということなど、人間世界の皮肉の際たるもので如何にも面白いところでした。

 

一乗城の要害性はなかなかのものですが、城域の広大さがネック。手勢が無ければ多勢の攻城には耐えられるはずもなく、そうなれば城を捨てて逃走するというのが得策。

 

信長は天正に改元されてからスグに行動を起こしますが、まずは近江攻め。

朝倉義景越前から万単位の兵力をもって何度も対信長戦に赴き、いかにも中途半端な戦いとしか思えない戦陣を敷いていましたがその際も近江の浅井の救援に向かい、あっけなく敗走しています。

 

近江からの一乗谷への帰還は信長による「ここぞ徹底的」という勢いに成すすべもなく潰走、一乗谷も城も捨てて付くべく家臣たちも失って尚、案内役の従兄弟の朝倉景鏡の裏切りによって自刃したのでした。

 

実はそれ以前、元亀二年、義景は旧来犬猿の仲だった加賀一向一揆そして本願寺顕如との和睦を成立させていました。

結果的に「既に遅し」の感がありますが、その際、義景の娘二人のうち妹の方と顕如さんの長男教如さんとの婚約が成立していたといい、父義景滅亡直後、それを実現させるために秘かに大坂に向かって、教如の妻として入っています。

 

その後、教如が石山本願寺を退去する際に離縁したというのが通説で、それ以後の彼女の消息はまったく不明。

もしかするとその人が一乗谷に戻り、真宗寺院を建立し尚、「朝倉」を名のって一族の菩提を弔おうとした・・・などとも考えてしまうのでした。「人の想い」というものを考えればごく普通の流れです。

というかそうあって欲しいというのが私の思い。

捕縛された義景の近親の者たちは悉く斬られていますがその奇跡的生き残り、義景の直系といってもいい血筋ですからね。

 

江戸期になって教如さんは東西本願寺分流の際のお東(大谷派)のスタートとなる人ですが、現在の浄覚寺のお西(本願寺派)との矛盾は大した意味がないことだと思います。

その当時は顕如さんの後継は教如さんというのが常識。

秀吉の天下になってからちゃちゃを入れたことが分立の発端です。

 

画像は一乗谷朝倉義景屋敷跡。背後に一乗城。

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2019年

5月

08日

烏合の衆寄せ集めと「長袖」 信長の見識 誤算

家の中や日陰そして車中に日向、温度差がかなりあります。

私は半袖シャツの上に一枚上着(トレーナー)を着て家の中で過ごしていますがそのまま晴れ間広がる外気の中に身を置けばどっと汗が・・・

 

昨日は会葬車中「海廻り」の葬送コースに道中着にて。

それは大した厚着ではありませんが、夏の日光を思いっきり感じました。朝のキラキラと海に反射する光に直射日光を浴びての心地よさは睡魔をも誘いました。

 

道中着とはと「簡衣」と「輪袈裟」のスタイルですが黒衣の下には白衣と襦袢そしてそれぞれを腰ひもで縛り上げますので少なくともいつもの半袖シャツの雰囲気とは違います。

特にその道中着の場合はどうしても裾のみだれを一応は気にしますので動きは特に鈍くなります。

 

面白い表現ですが、その動きについて一言「長袖」と言い放った例がありました。

要は「動けない、仕事ができない、とるに足らない、弱い」の表現ですね。

 

その語が本来その意を類推させるものなのかその人が初めて言い放ったのかは知りませんが、文書にその表現を使用した例は信長の周辺にあります。

信長公記」(巻13)「長袖の身ながら、一揆蜂起せしめ~

信長記」(尾瀬甫安-信長公記の改訂版)「大坂は長袖の事なれば」ですね。

 

大坂=本願寺=長袖=やわな坊さんということです。

そのうえに信長公記」の本願寺の「一揆蜂起」の表現は明らかに統率ある軍勢ではなく・・・烏合の衆、とるに足らない集まりと断定的。

 

それは「とるに足らない坊主が率いる、とるに足らない烏合の衆」ということですね。

本願寺に対する憎悪を込めての表現でもあったかも知れませんが、それにしても本願寺の組織を軽く見ていた嫌いがあります。

結果としては大いに本願寺も疲弊しましたが、織田信長は滅亡。

なによりも本願寺の「長袖」を甘く見る見識のなさ、判断能力の欠如を思います。

 

大坂から本願寺を退去させるに11年を要するというのはあまりにも時間の無駄。

「破却するぞ」の恫喝・恐喝をもっての大坂譲渡の強要は得策ではなかったですし、結果論ですがその11年の時間の損失に向かう本願寺敵視政策は無謀だったのかも知れません。

まぁ数日で信長に一蹴される大小名居並ぶ中、本願寺が「11年」も籠城、交戦したということは戦国期、いや日本史上において特筆ものです。

 

さて、先日は今井権七の登場する顕如上人像軸の私のお気に入りについて記しましたが、再掲載。

顕如さんの檄文が記されていましたのでそちらを。

 

「抑此日城ハ小国タリトいへトモ大乗相応ノ地ナルカ故ニ阿弥陀妙教流通ノ為ニ来生シ給フ五濁悪時悪世界ノ中決定シテ无上覚を即得ス豈悦ハサランヤ密ニ以レハ此ノ石山ハ往古ヨリ如何成約束有ベケンヤ去ル明応第五ノ暦信證院殿(蓮如上人)御建立以来今ニ於テ退転ナク槃昌セシムル条聖人ノ御本意ニ写スヘキ者カ爰ニ将軍当山ノ勝地ヲ所望ノ処ニ所存有之に因テ相決シ難キ由申之セハ将軍甚タ𥉖ヲ為シ一戦ノ旨趣聞ユ𡭗レハ当山ノ一大事也各々今度懇志ヲ厲ミ一筋ニ籠城タルヘク候は誠ニ有カタク頼母敷キ次第タルヘク候就中除シカラス候ヘ共法義談合候テ安心決定ノ上ニハ直油断無之可候不信ノ面々は片時モ強ク信ヲ得ラレ候は可難有候穴賢々々

 

元亀元年七月廿七日   釋顕如御判  

 

惣坊主衆中                         惣門徒中

 

南无不可思議光如来       南無阿弥陀仏

帰命盡十方无碍光如来  」

 

まず、「元亀元年七月廿七日」に着目。

顕如さんがいよいよ信長の横暴に反旗を翻さんと全国に号令をかけたとされるのがその年の九月といわれています。

それよりも1か月以上前の署名ということですね。

 

まぁこの書画は象徴的というか、ハッキリ言って細かい事はどうでもイイことなのですが、この檄文の存在があっての参照になりましょうが、やはり本願寺の腹積もりとしては当に対信長徹底抗戦の方向で固まっていたということですね。

 

檄文は基本的に蓮如さんの御文からの文言色々が散りばめられていていますが、文中「退転」の語はあの「不退転」の語と石山本願寺の明け渡し退去をかけて。

 

また「爰ニ将軍当山ノ勝地ヲ所望ノ処」とありますが、ここは少々疑問に思うところです。

その「将軍」の表現の記述ではなく解釈なのですが・・・。

普通に考えると敵は織田信長率いる軍勢ですのでその場合、

「将軍」というと織田信長を連想します。

 

ところが顕如の他の発行文書を見ると「信長」に対しては「諱」そのまま「信長」と呼び捨てが目立つのです。

たとえば

「信長上洛に就き此方迷惑せしめ候 去々年以来、難題を懸け・・・」です。

ということでここでの「将軍」は足利義昭と考えることができます。

それは足利義昭の立場の変遷あって本意ではないにしろこの元亀元年の三好三人衆ら討伐戦(野田城・福島城の戦い)に信長の指示によって将軍足利義昭は駆り出されているのです。

本願寺からすれば野田城・福島城は石山本願寺の鼻先でそれらが排除されたのちは本願寺の排除が目に見えているようなところ。要は足利将軍直々の到来だったわけで、それに呼応した門徒衆も居たようです。

というとは足利将軍を敵にするということです。

 

しかしながら「将軍甚タ𥉖ヲ為シ」の箇所を見てやはりそこまで怒りまくっているのは「信長ではないの?」で、この「将軍」とはやはり信長の事を指しているのかと悩んだ次第です。

 

翌年には義昭は信長に掌を反して信長包囲網を画策します。

いずれにせよ義昭の一貫性ない姿勢も目立ち結局槙島城(またはこちら)の敗戦によって実質、歴史からは姿を消すことになります。

 

 

「南无不可思議光如来」と「帰命盡十方无碍光如来」は御内佛の位置が逆になっています。

 

①②舞鶴殿は「長袖」どころか毛皮を纏っていますからこれからの季節、直射日光は大変でしょうね。

すでに鐘撞堂の涼しい所で「見張り番」。

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2019年

5月

07日

節理も城跡で見ると人工物 ?  石の有効性 妻木城

ここのところ夕方になると毎晩のように雷をともなった比較的激しい雨が降りますね。

落雷の恐怖もありますが、突然の雨降りには閉口させられます。

連休のお参りで花ガラが溢れかえっているところに雨水が溜まってそれを出し、また溜まっては出しの連続になっています。

水に浸かった植物は腐食が進んで衛生上もよくありません。

また、雨の後というのは植栽にアブラムシが集ってそれがまた厄介のたねですね。

特にあ奴らは梅の新芽が好きなようでそれらの駆除も日課になっています。最近は面倒なので枝葉を剪定するなどして退治していますが・・・。

 

「令和」の文字を初めて使った通夜式に参って帰宅すると、茶の間のテレビからはあの「さかなクン」の甲高い声が・・・

彼のその道の知識も凄いものがあってまた、人物としても良好な感じがするのではありますが、あのキャラクターに「ギョ々々~」なる語を何にでも付けて発しているのを聞くのはさすがに「うざい」。

よってその番組の内容を知らないでいたらそれにはチャンネルを合わさなかったでしょうね。

 

すると私の知りつくしていると言ってもいい熱海の海の中の景色が画面に映っていました。テトラの外の海の中までは知りませんでしたから興味津々で視聴しました。

 

それを石垣だとか階段であるなどないだの・・・かつての人工物の遺構を示唆するような誘導がされていました。

番組の構成上そうなるのでしょうが。

要は溶岩として海に流れ出た安山岩がクラックを入れながら固まった柱状節理を映していましたね。

あの節理でアレだけ番組を引っ張るとはおそれいりましたが、そこで思ったのがその節理が地上、それも城跡にあったらもっと人は騙されてしまうのかも・・・と。

 

私が思うその城が妻木城(場所はこちら)。

城に石垣があったとしても何らの不思議はありませんし、苗木城の如く自然石を利した城も各ありますが、あの妻木の主格手前虎口の整然と人の手で積まれたような巨石がまったくの自然が造ったものであるというのは感激に値します。

 

こちらは花崗岩の節理です。

ゆっくりと冷える過程でも溶岩に節理(人工に積まれたように見える割れ目)が出来ることは珍しいことではありませんね。

たまたまこの山に散らばる花崗岩巨石を利用して城砦を築いたということでしょう。

そこに石があればどこからか運んでくる手間が省けますので城砦建築上、これほど便利な事はありません。

立地、ロケーションさえ合えば最高の天からの贈り物です。

 

削り出した石垣は勿論、建築物のベースから、小石は基礎部補強転圧材になりますし、投石、転石用の武器にもなります。

つくづく思いますが、城攻めのため下から取付いて攻めあがるなど今想像するとひどく辛いでしょうね。

上にいる籠城方の好き勝手、時に積んである石垣を外し上から笑いながら落とされるようなことがあったのかも。

 

山城全般に言えますが竪堀などに隊列を組んで登攀などをしたら一石二鳥どころか一つの石で皆殺しにあってしまいます。

やはり横に散らばって攻めあがることが肝要だったのだろうか・・・などなど城郭主格にある石垣の様子など見てそれらを連想しますね。

 

また登城道が堀状の城砦を見かけますがあの手の場合、攻め上がりのためにその道を使用するとなれば、思いっきり石が転がり下るようにできているでしょうね。

 

城によっては左右深い土塁状にして深く登城道を作っている場合もありますが、これはその畝を登るというのは「思うつぼ」になってしまいます。

何せあのようなものの加速度付きでの一撃を喰らえば再起不能、まず昇天しますね。

 

妻木城に石の有意義というものを感じました。

 

下は楔(くさび)痕のある巨石ですが、途中で砕石を放棄されたものでしょう。

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2019年

5月

06日

石川県立歴史・加賀本多博物館 撮影可複製顕如像

5月に入って法事に葬儀等、法務の予定が入りますが、やはり元号は「気に入らないから」といってそれを使用しないというのには無理がありますね。

というのはこれまでずーっとそれを使用するのが当たり前だったからです。

 

西暦一本化については実務上本当に便利なことだとは思いますがことお寺の記録はじめ日本の歴史的事案についてはその元号がつきものですからここでやめちまうということはできません。

 

当初、政治的利用、一部お祭り好きのおっちょこちょいの恣意をも感じて不快感がありましたが、「高志の国文学館」の中西進氏の講演の記事を見てその「令和」への親近感が一気にUPしました。

私が若き頃、その方のごく近くにいて同じ空気を吸っていた事もここでわかりました。

同じ学校の他学部の教授だったということです。

 

この中西進氏が万葉集研究の第一人者でその「令和」の考案者といわれていますね。 

記事によれば「梅花の宴」の由来について、道元さんの「正法眼蔵」から「梅の花の力によって四季が巡る」という一節を例にして「自然は大きな哲学を持っており、それが日本の風土に仕組まれている」と梅花が示す意味を説明したとのこと。

 

そして何よりその「和」についての思いがすばらしい。

それが

「十七条憲法が基となっており、聖徳太子が周囲と心を合わせて作り上げた平和憲法の精神を尊重してほしい」

「うるわしい平和を重ねて行く時代であることを期待したい」   でした。

 

中西進氏の仰る通り今の「平和憲法」をちょこちょこといじくることなく真の憲法の尊重と人々の平和安寧を期したいものです。

これから私も「令和」の意義を前向きにとらえて語っていけたらと思っています。

 

また昨晩の東寺講堂「立体曼荼羅」(NHK20時日曜美術館)を視聴しながら仏たちの願う「救い」と「和」を想いました。

6月2日まで上野に「いらして」いるようですから、また当面の「行きたいところ」が増えました。

「行きたい」は「生きたい」。実感しています。

 

さて、文化財・史料等各お宝の「公開・非公開、写真撮影OK・NG」について・・・昨日の続きです。

 

先般バス遠足の下見は一乗谷から金沢に向ったのですが、私の個人的な金沢の目標は「石川県立歴史博物館」でした。

以前から「行きたい」と思っていた場所です。

 

遠足では金沢での昼食からしばらくは自由時間になります。

皆さん方にそちらの紹介程度はするもののあくまでもここは私の思い、人様それぞれのお楽しみがありますのでおまかせということになります~解散地点の近江市場からは少々歩きますし・・・~。

 

その石川県歴史博物館は加賀本多博物館と対になった建物、「石川赤レンガミュージアム」になります(場所はこちら)。

加賀本多とは「正信」系で加賀藩家老職。ミュージアムのあるそちらの丘一体が本多家の屋敷があった場所ですね。

 

当然に本多家のお宝満載の博物館で写真撮影は禁止。

受付の方に聞けば「コレは撮影可」と言われたのが入口入ってスグの「馬験」(うまじるし)。勿論複製物です。

 

そして私の本命がお隣の「石川県立歴史博物館」。

こればっかしはホンモノと思いきや展示物はやはり複製でした。しかし複製ということで撮影禁止のお札は付いていませんでしたので数枚、展示ガラス越しにパチリ。

 

本願寺顕如さんの「圧倒的」を思わせるアニメチックな図画です。

 

以前からこの図についてはコピーして本堂の隅にさりげなく掲示していましたが今回なかなか鮮明な画像が撮れましたので満足した次第。当サイトのもの含め順次差し替えています。

 

なにせ大澤寺開祖で当家今井権七の名が鈴木孫市(孫一)や彼の一統と並んで記されているもので画像から受け取る威圧感も含め私のお気に入りのもの。

やはり昨日記した反織田信長、「仏敵信長」の旗を掲げて死地を走り回り、「生きたい」を勝ち取った者たちの雄たけびが伝わってきます。

 

顕如像追記は→こちら

 

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2019年

5月

05日

祝 信長からの解放 天正十一 大澤寺半鐘静岡県史

先般文化財・史料等各お宝について「公開・非公開、写真撮影OK・NG」について文句たらたらを記したのでしたが、拙寺についてはどうか・・・と問われたら基本オール・オーライ。

基本」の但し書きは私が不在の時、法要中は不可能ということですので、アポ有りでしたら100%OKということ

隠し立てするものは一つもありません。

 

私も非公開・秘仏、撮影NGについては頻繁に出くわしますが、やはり残念でなりませんね。

大抵がそういったスタンスを取っているようですから、こちらとしてもまずダメだろうという気持ちで念のため「非公開ですよねぇ?」と聞きます。

そんな時「いいですよ~♬」などといわれる幸福感はありませんね。

拝観できる喜びもさることながら、そちらのご担当の寛大な気持ちに同様に感動してしまいます。

 

時にピシッと「観光寺に非ず」と一言添えられることもありますが、拙寺であってもそれは同様の事。

「そんなことはわかっている!!」という思いが本当のところですね。

もっとも観光でフラり、一見さん~見たこともない来訪者のリクエストに一つ一つ応えるというのはお忙しい寺であれば難しいことかも知れませんね。

 

先日、拙寺の喚鐘(半鐘)についてその存在を問う来訪者がありました。浜松からやってきた男性2人でしたが、趣味で半鐘を専門に追いかけていると。

同様の趣味をお持ちの人はそうは居ないようで、私の墓場放浪などよりもかなりの特殊性を思いました。

 

聞けば半鐘に関する見識も深そうで私の方がその人物に興味が沸いたほどです。

また私が大いに驚かされたのは「静岡県史を見ました」と。

私としては初耳でしたからね。

拙寺のあの鐘がそれに掲載されているなど聞いたこともないしまさに半信半疑でした。

まぁあとから探す楽しみが増えましたね。

 

するとやはりその言葉「非公開ですよねぇ・・・」が彼の口から発せられました。

私も話の流れからそうなることと半ば期待していましたので(時間も十分にありました)「いいですよぉ~♬」と二人を庫裏の仏間に通しました。

 

そして彼らは念入りに鐘のサイズを計測し各方向からの画像を収めていました。この世界もかなり奥が深いものがあるのだと思った次第です。

私は「何か発見があったら知らせてください」と見送りました。

 

ということで昨日はその静岡県史の拙寺の鐘の記載部分を探しに相良の史料館に。

すると天正十一年の項目の最後(日にちなし)にしっかりと記載がありました。

そちらの静岡県史編纂は平成八年版ですが、おそらくそれ以前のものから何かしら県の方での記載はあったのでしょうね(昭和60年度~平成9年度にかけて編さん作業、通史編7巻、資料編25巻、別編3巻の計35巻)。

 

父はその件何ら触れていませんでしたので祖父の時代のことだったのかも知れません。

私も時々その時代のページを捲ることがありましたが、これまで全く気付かずにいました。

 

私の最も身近で信頼性のある史料、静岡県史にこの鐘の件のみではありますが、その記載があったということは「日本城郭大系」の相良城の項目に拙寺の名が記載されていることに続いてまさに「気好し」イイ気分です。

イイ齢こいて頭の中は軽すぎますね。

 

その鐘については既にこのブログのどちらかにて記していると思いますが(探索中)、今井権七が前年の「本能寺」の朗報、信長からの包囲戦から解放され命を得たことに歓び勇んで自坊のある遠州に下りいよいよ仏門を興すにあたって、一緒に遠州に下向した五家のうちの一家「増田家」の奥方からこの鐘を寄進されたということでしょうね。

 

まさに信長の死こそ私たちの生命存続の「祝宴」でした。

仏門に居る者として人の死を祝うことに対して憚るべきところではありますが、信長の場合「人」というよりも「怪物」でしたからね。その抵抗の最前線に居た者たちの歓びは優に想像できます。