司馬遼太郎3

           司馬遼太郎

        

     「新潮45」 19925月号  

日本仏教小論~伝来から親鸞まで

 

                          

主題は「仏教とは何か」あるいは「日本仏教とは何か」ということである。短くお話します。

 

おそらく、これほど厄介な設問はありません。なぜと言えば日本仏教というそれ自体がはっきりしていないからです。

中央アジア崑崙(こんろん)山~Kun lun Shan~の北にある

 

タリム~Tarim~盆地では大きな湖そのものが、酔っぱらいのようにさまよっていました。  

 

探検家のスウェン・ヘディンによって ゛さまよえる湖゛と名付けられたロプ・ノール(Lop Nur)のことです。

今は湖そのものが消えてしまっています。

日本仏教の源流はどうやらそのあたりで生まれたらしいのですが、ロプ・ノール湖と同様、正体がはっきりしないのです。

 

正体のはっきりしないものを語るのは学者や歴史家にはふさわしくなく、おそらく詩人が~私は残念にも詩人ではありませんが~それにふさわしいだろうと思い、俄か詩人としてみなさんの前に立っています。

              

 日本仏教を語るについての私の資格はむろん僧侶でなく、信者であるということだけです。 

不熱心な信者で、死に臨んでは、伝統的な仏教儀式を拒否しようとも思っている信者です。 

プロテスタンティズムにおける無教会派の信徒と思って頂いていいと思っています。

 

 ただ、私の家系はいわゆる ゛播州門徒゛でした。

今の兵庫県でした。十七世紀以来、数百年、熱心な浄土真宗(十三世紀の親鸞を祖とする派)の信者で、蚊も殺すな、ハエも殺すな、ただし蚊やり(smudge)はかまわない、蚊が自分の意志で自殺しにくるのだから。

 

ともかくも、播州門徒の末裔であるということも、私がここに立っている資格の一つかも知れません。

                    

 日本仏教はいわゆる「大乗仏教」です。小乗仏教が丸木一本でただ一人が川を渡るとすれば大乗仏教は百人乗りの筏という意味です。 

大乗仏教は釈迦の仏教とは断絶したものです。ひょっとすると全く違ったものかも知れません。

        

紀元前数百年のむかしに死んだとされる釈迦は、その偉大さが語り継がれただけで彼の思想の内容はよくわかっていないのです。ただ現世は一切空(くう)であるとし、その苦しみから抜け出す(解脱する)方法を説いた人であることは、たしかです。 

 

言葉を残さなかったのは、彼が開いた仏教はキリスト教のような啓示(revelation)の宗教では無かったからです。

釈迦の上には、ユダヤ教の神のような、あるいはイエスの神のような絶対者がいませんでした。

だから啓示を受けることもなく、従って「聖書」は無かったのです。

 

今となれば、不便なことです。

釈迦はどんな思想家だったかわかりにくい。

釈迦にとっての最高の観念は、神ではなく空(くう)でした。

その修行法は自ら空になることによって解脱しようとしました。

ついでながらインドにおける空の観念には、多分、インド人が発見した数学上のゼロというイメージが入っていたのでしょう。あらゆるプラス数字もマイナス数字もゼロの中に入っているという意味でのゼロです。少なくとも仏教における空を数学上のゼロを哲学化したものだと思えば、わかりやすくなります。 

 

 釈迦没後数世紀のあいだ、仏教は仏像という説明者を持たない形而上学のようなものでした。

信者達に残された形而下的なものと言えば釈迦を火葬にしたあとに残った遺骨だけでした。 

 

 仏教は衰えつつ北上しました。やがて紀元一世紀から五世紀のあたりに到着します。ガンダーラのあたりです。     

                    

そこではじめて仏教が仏像を持つようになります。

仏教がはじめて目で見える景色になったのです。その分だけ釈迦の原始仏教は変質したといえるでしょう。 

ガンダーラのあたりには古代世界における彫刻の名手たちであったギリシャ人たちが住んでいまして(おそらくアレキ

サンドロス大王の兵隊の子孫だったのでしょう)、彼らが、南からやってきた言葉だけの抽象的な仏教に、仏像という具象性を与えたのです。

仏教という文明がさまよっているうちに変質したのです。 その変質はインドの外域でおこりました。大乗仏教が誕生してしまったのです。 

 

「釈迦は解脱つまりサトリの方法を教えたがとても自分たち平凡な者がサトリをひらけるものではない。それよりもサトリをひらいた人をほめたたえ、礼拝しよう」というのが大乗仏教の出発点でした。すぐれた人になるよりもいっそすぐれた人を拝もうというもので、釈迦の思想とは違った新思想が誕生したというべきでしょう。 

 

 ところが大乗仏教におけるすぐれた人というのは、なまみの人間ではなく、真理そのものでした。真理、つまり空(くう)に一種の人格を与え、菩薩とか如来とかという名をつけ、それを讃え、人々はひれ伏したのです。

 

 むろんそれでも初期大乗仏教には、原始仏教以来の理論や実践というものは残っていました。そのぶんだけひたすらに鑽仰(さんぎょう)するという大乗の思想にやや不透明な要素が残ったといえます。その不透明な部分を取り除いてひたすら鑽仰するという姿勢をとったのが十三世紀の日本の親鸞だと思います。 

そのことはあとでのべます。

  

 ところで仏教です。ガンダーラの地で紀元一世紀から五世紀にかけてさかんに造られた仏像は、東へゆきます。

人間が歩いて仏像を運んだに違いありませんが、詩的に言えば仏像が歩いて東に向かったのです。 

中国にゆき、朝鮮にゆき、ついにはじめて海を渡って~仏像にとって船に乗るのははじめてだったかも知れません~日本に来たとも言えます。

 

 仏像が日本に来たのは公式的には紀元五五二年ということになっています。幸いにも八世紀に国家によって編纂された「日本書紀」という編年体の歴史書~国家の日記帳の 

ようなものです~に記録されています。

もっとも、仏教渡来はそれより十四年前だったという説もありますが、ここでは年代のせんさくが問題ではありません。

 

 時の天皇である欽明が仏像を見て驚嘆しました。 

「仏の相貌端厳し」(ほとけのかおきらぎらし)という言葉を発したというのです。もっともそれだけなら子供ですが、多生の教典も付属していまして、これをもたらした百済(くだら)の使者が内容を説明しますと欽明は大いに感心しました。

 

 しかし、仏像を見たことでの衝撃にはくらぶべきも無かったでしょう。この仏像は青銅の釈迦像で金鍍金(きんめっき)されていました。「キラギラシ」というのはきらきらと輝く黄金の色という印象と無縁ではなかったでしょう。 なにしろ日本は今も昔も孤島です。

 

 川で時々発見される黄金の粒には無関心でした。ユーラシア大陸では、黄金が貴金属として、貨幣として用いられたり道具として工作されたりしていることを、日本では六世紀の段階でも十分には知られていなかったのです。 

日本における金属文化については、紀元前に青銅が伝来し、鉄については四世紀ごろから国産化されました。

しかし、金という生活に必要のないものについては鈍感だったのです。

 

 話が二世紀もあとの世紀のことになりますが、日本の東北地方で砂金が発見されるのは七四九年のことでした。

国家が懸命に金を探した結果のことでした。国家が金を探したのは貴金属としてではなく、奈良で造られつつある大仏に金鍍金をほどこす材料としてそれが必要だったからです。

その結果、東北の地から金が出ました。 

その後も日本ではながく金を通貨として使うことがありませんでた。                                                               

        

ただ、八世紀、九世紀のころ、中国に留学する日本人は、必ずといっていいほど砂金を持って行って物と交換したという事実があります。どうもこの時の印象ですな ゛黄金の国ジパング゛というのは。

中国人にとっての日本人の印象は、金と結びついたものになったに相違ありません。 

むろんこの伝説は、はるかのち十四世紀、マルコ・ポーロによって世界に紹介されます。

                    

 話が道草を食う(loiter)ことをおゆるし下さい。

日本において金が正式に通貨になるのはずっとあの十七世紀初頭、徳川時代になってからです。 

それまでは日本では金は加工用のメッキの材料にすぎませんでした。このオトギバナシのような事実一つをとっても、日本がヨーロッパ世界からみれば、孤立した存在だったことがご理解いただけるかと思います。

 

 話を六世紀の ゛仏教渡来゛に戻します。

「キラギラシ」という言葉についてです。

 

この日本古代の形容詞は、単に金鍍金に驚いたということだけでなく、それ以上の内容を持っていました。

欽明天皇は宗教的感動を持ったというよりも、もっと初歩的な感動を持ったはずです。それまでの日本の人物彫刻というと゛埴輪゛のような素朴なものだけでした。

 

仏像のリアリズムに驚いたにちがいないのです。

 ゛人間とそっくりの形をしているじゃないか゛と。 

つまり思想よりも目に見える゛文明゛に驚いたのです。

気取って言うと、芸術的ショックをうけたのです。十九世紀の半ばアメリカの艦隊をひきいて ゛鎖国日本゛にやって来たペリー提督に、蒸気機関車の模型を見せられたようなものです。もっとも十九世紀半ばの日本人は自動的に動く車に驚きつつも、実はオランダの物理学の書物によってその原理は知っていましたが。 

 

 さて、古代に話を戻します。その後二百年間、日本国は ゛造寺造仏゛に精を出しました。大乗仏教は釈迦の時代の原始仏教と違い、大寺という建物を造り、仏像を鋳造せねばならないので、お金がかかるのです。 

゛国家仏教゛たらざるをえませんでした。

 

その゛造寺造仏゛は七〇八年、奈良の都という新首都が建設されるころに頂点に達します。 

ただしこの首都はわずか七十七年間で捨てられました。

僧侶達が暴慢になったからだといわれています。 

一例で言いますと、大仏造営に熱心だった聖武天皇(70156)が、自分は「三宝(仏教)の奴(やっこ・・奴隷)である」と宣言したことがあります。今

日の法解釈で言えば「地上の王様の上に仏法がある」というようなものです。

 

このため大寺が横暴をきわめるようになりました。 

日本の仏教はインドからじかに入れたものでなく、中国仏教を受容したものでした。中国から宣教師がやってきたのでは無く、日本から留学生を派遣して学んだのです。

そのための経費としてさきに述べた砂金が大いに役立ちました。以下は道草です。

 

 中国から教典を船に運ぶとき、猫も船に乗せたといわれています。日本列島に山猫がいたことは六、七千年前の遺跡から骨が出たことでわかっていますが、エジプトを発祥地とする飼い猫が日本にやって来たのは、実に遅く、九世紀の終わりごろだったようです。

 

教典の紙をねずみに食べられないように、いわば猫が守りながら海を越えてきたのです。このことは、日本が文明圏から見て孤島だったということを知ってもらうために、例としてあげたのですが、もっとも猫の例は役に立たないかも知れません。

ヨーロッパに飼い猫がやってきたのもそんなに古くはなく、八世紀ぐらいだそうですから。

        

 首都が京都に遷(うつ)されたのは八世紀末でした。先に述べたように奈良の都はわずか七十七年で捨てられました。 

あたらしい都の京都では、仏教に対しては用心深い態度が 

とられました。まず奈良方式の国立の大寺を、新しい都の京都では、市内で建てるということはしませんでした。

奈良で懲りたのです。                           

        

それと、政府は二つの新しい仏教(平安仏教)がおこるのを歓迎しました。これによって奈良時代の仏教は、一挙に博物館の陳列品のように過去のものになりました。

もともと奈良仏教はよく言えば学問的で、悪く言えば断片的でした。少なくとも個人の心の救済に役立つというような大きな体系ではありませんでした。

        

 九世紀のはじめ最澄と空海は一つの船団に乗って中国へゆき、それぞれ別の体系の仏教を持って新しい首都の京都に帰ってきました。 

それより前、中国では解脱よりも救済に重点を置いた天台宗という体系ができあがっていました。最澄はそれを輸入したのです。九世紀初頭の段階の日本は中国文明に依存していました。それが全く日本化するのは輸入から四百年経った十三世紀の鎌倉時代まで待たねばなりません。 

 

 八〇五年に帰国した最澄は実に多忙でした。持ち帰った教典などの整理をするいとまもなく、それらを叡山という山の上に置いたまま、旧仏教(奈良仏教)からの論戦に応じなければなりませんでした。また彼のもたらした新仏教には密教的要素が少ないということでこれを補充するという作業もせねばなりませんでした。 「

密教」というのはサンスクリットでいうタントラのことです。

呪術性の強い宗派です。その根元は、釈迦とはまったく無縁のものであったでしょう。

なぜなら釈迦は呪術を否定し、弟子達に禁じていたからです。

密教の原型はインドの古い層に根ざしたもので例えば南インドのドラビダ族が密林で行っていたような雑多な呪文や呪術のたぐいが原型になっています。

それらを知的に総合し、その上、大乗仏教的な宇宙観や論理を加えることによって思想化され、体系化されたものでした。

 

 四世紀か五世紀頃インドにおいてほぼ精密な形態をとりました。 

密教においては、呪文やしぐさを象徴として用い、修業を積むことによってその象徴が宇宙そのものになるという考え方をとります。これに対し、仏教は釈迦以来、人間固有の欲望を捨てるという態度でつらぬかれています。

 

 ところが密教にあっては俗世での欲望を保持したまま悟りをひらくことができるというのです。密教には一歩間違えば淫祇邪教(いんしじゃきょう)になりかねないきわどさがありました。それだけに初期密教は、刃物の上を素足で渡るような危険性を持ちつつ、緊張した論理で構築されています。 

 

 インド密教は北へ行って八世紀にチベットにおいて「ラマ教」となり、また東に向かって中国に入り、一時期栄えましたがほどなく衰えました。 

中国には道教という似たような土着の呪術があり、西方から密教がやって来ると道教は密教の思想的内容を取り入れて体力を強くしたために、密教は中国人の感覚に訴える力を失いました。

                    

 空海は日本史上の何人かの天才の中に入るでしょう。彼が唐の首都の長安において密教の伝授を受けたときは、中国における密教の衰亡期にあたっていました。 

彼は天成の論理家であったために、密教の非論理性に論理の縫針を入れて整合性を高め、いわば結晶のような体系を作り上げて日本で展開しました。 

密教が出現したために゛ふつうの仏教゛つまり最澄がもたらした天台宗などは、顕教と呼ばれるようになりました。

  

 密教は宇宙の言語としての象徴的所作を用います。それに対し顕教とは、人間の言語によって表現しうる思想のことを言います。 

ときの宮廷は、密教を好みました。密教は人々にとって実利面が魅力だったのです。病気をなおし、妊婦が無事男の子を出産しますように・・・。

 

 宮廷の要請によって顕教である最澄の天台宗も、その部門を設けざるをえませんでした。今日の大学で言えば医学部をつくるようなものです。                           

                                      

最澄の死後その弟子の円仁が宮廷から命ぜられて、八三八年、あらためて密教の一切を中国で探すために中国に入ります。

その十年の旅行記が「入唐求法巡礼行記」です。

 

 この唐末の中国のさまざまを、外国人の目という高感度のレンズを通して書かれた旅行記は明治時代、三上参次博士によって京都の東寺で発見され、一九五五年、エドウィン・ライシャワー博士の研究

 ゛Ennin's Diary-The Record of a Pilgrimage to China Search of the Law 

によって世界的存在になりました。

この旅行記は七世紀に中国からインドに行って教典を移入した中国僧 玄奘や十三世紀のヴェネツィア人マルコ・ポーロらの旅行記と並ぶ人類の財産だという意味のことを、たしかライシャワー博士が言われたと私は記憶しています。

 

 円仁は特に密教が好きだという人ではありませんでした。

官名によって、いわばいやいやながら行きました。その九世紀の旅行記が二十世紀になって評価されたのですから、人間はなにが幸いになるのかわかりませんね。

            

 私の話は終わりに近づいていますが、しかしまだ申しあげようとしたことを言っておりません。 

十三世紀のマルコ・ポーロという名が出たこともあり、一挙に十三世紀の鎌倉時代に入ります。

 

 当時、叡山というのは、日本最大の大学でした。もっともすばらしかったのは、学祖である最澄が中国から持ち帰った教典や論、あるいは仏書といった膨大な書籍を叡山の山の上に置いたまま、梱包を解く時間もないままに死んだということです。 

もし最澄が、これらの資料を全部整理して、いちいち注釈を加えたとしたら、叡山の学問はそれほど発展しなかったかも知れません。

整理は結果として弟子達がやらざるをえませんでした。 弟子達は最澄が置き去りにしていった梱包を解き、書物を我流で読んだり討議したりしました。

読むための外国人教師~つまりインド人や中国人~はいませんでした。そのようにして、その後三百年、無数の人々によって読まれ続けたのです。

独学に似ています。日本仏教の特異性の一つは、そのような事情から生まれたのです。

              

 十三世紀の親鸞も、叡山という一大図書館で自らの流儀でテキストを読んだ人々の一人でした。 

私は独学が好ましい形式だとは思いませんが、親鸞の場合、独学のおかげで大乗仏教が本質的に理解できたと私は思っています。

        

 叡山は無論修業の場です。

修業は当然ながら仏に近い自分を作り上げる方法です。

 

親鸞は二十年叡山で修業しました。

ところが、少しも ゛善人゛になることなく ゛悪人゛のままでいるという自分を発見したのです。

この発見が、日本文化の一部を変えたといえます。

 

 親鸞の云う ゛善人゛とは、私の解釈では、「生まれつき生存上の欲望が少なく、ずば抜けた頭脳と体力、精神力を持った人」という意味です。さらにいうならば既成仏教の究極の目的である解脱が可能な人という意味です。釈迦の原始仏教は無論のこと、紀元前後から数世紀の間に出来上がった大乗仏教でさえ、一方で救済の思想を入れつつも、なお解脱をもって仏教の目的としていました。 

解脱できる人などこの世にいるでしょうか。

  

いるとすれば千万人に一人ぐらいではないでしょうか。

仏教は天才のみにゆるされた法なのかもしれません。

                    

 親鸞はそんな表現を用いていませんが少なくとも自分に限って言えば、天才でないどころか凡庸な人間だということを生涯言いつづけています。

当時の仏教は、凡庸な人間は地獄に堕ちるとされていました。 

親鸞の用語では、解脱が可能ではない生まれつきの人を、自分も含めて「悪人」と呼んだのです。

仏教の基準からみての「出来そこないの人」という意味です。

                                                              

 しかし人間が生物である限り、ほとんどの人間が悪人ではないでしょうか。

例えば仏教では釈迦の当時から大乗仏教にいたるまで一貫してつらぬいているのは、殺生戒ということです。

 

動物を殺したり、動物を食べたりしてはいけない、ということです。 

この戒からいえばむろん漁師や猟師は地獄に堕ちます。 一般の人々も野菜だけ食べて暮らさねば浄土へ行く資格を失います。もっともそれは不可能なことでは無さそうですな。

今でもヒンドゥ教徒の多くはベジタリアンですし、釈迦もそうでした。叡山の僧たちもそうでした。 

釈迦よりも古い時代の西方の人であるピタゴラスが菜食主義をとなえました。

ひょっとするとインドの原始仏教の遠祖は釈迦でなくピタゴラスでは無いかと思えるほどに、彼が自分の教団で教えていた修行法はそれに似ていました。

「肉食を断ち、沈黙の中で自分の魂を見つめよ、清浄を守り、知恵の探求(フィロソフィア)をせねば輪廻転生の輪から永久に抜け出せない」というのです。 

 

 菜食主義についてはソクラテスもプラトンもそうだったということですし、古いキリスト教にも一時期その傾向が見られたといいます。 

しかし普通の人にとっては容易ではありません。

またたとえ殺生戒を守って菜食主義をとっていても、道を歩いていてアリを踏み殺したりすることもあります。

                  

 少なくとも親鸞は、自分にはできそうに無いと思いました。それほどに自分は ゛悪人゛だと思ったのです。 

そういう彼が数ある大乗教典の中で阿彌陀如来に関する三種類の教典(大無量寿経、観無量寿経、阿彌陀経)を読んだ時、「ただの人間」でも救われることを知ったのです。 

                    

阿彌陀如来(サンスクリット語 Amita)は浄土(極楽)の主宰者です。 

むろん架空のいわば哲学的・宗教的存在です。

阿彌陀如来については八世紀頃には日本に伝わってきていてどうも使者を弔うためのいわば葬儀の神のように思われていたふしがあります。

 

 親鸞の思想は、彼自身による全き独創ではなく、系譜があります。親鸞にとっては師の法然の思想を継承したものです。

ただ法然の思想が多分に流動体の状態にあったのを親鸞はそれを純化し、結晶体にしたのです。

            

 教典によれば、阿彌陀如来は ゛残らず人を救い、浄土へ連れて行ってくださる゛というのです。

そのことが「阿彌陀如来の本願」だというのです。

本願とは、本質的な機能という意味です。 

                    

 すると修業はいらなくなる。 感謝だけでいい、その言葉が「南無阿彌陀佛」です。

 

親鸞によれば、その言葉を一言称えるだけでいい。

無論生きている日々、すき間無く感謝していればそれに越したことではありませんが。 

親鸞自身、そうは言ってませんが、彼の思想は「要するに人間は死ぬものだ。死ねば肉体から解放される。となるとそれが解脱ではないか」というものでしょう。 

さらには「人は死に対して感謝せよ」ということを別な表現で言ったような気がします。

                  

 以上のように言うと、皆さん気味悪く思われるでしょう。

「日本人は十三世紀の親鸞以来、死神を信仰して来たのか」と。

無論そうではありません。

        

 親鸞は壮年期を関東で過ごし、六十才をすぎて生まれ故郷の京都に帰り、九十才で没する二年前まで著述の生活をしました。

その間、死という言葉はほとんど使いませんでした。

死という言葉でなく、往生、つまり(浄土に)往きて生くという言葉を多用しました。

 

 私の勝手な解釈でいえば、親鸞のいうことは、大きな空(くう)からみれば「生も死も無い」ということでしょう。

                                                                       

 ゛生とは単にそのことに囚われているいるだけだ゛

と親鸞は見たのでしょう。

  

親鸞は空(くう)を大いなる光明と見たのです。それに包まれていることにひたすら感謝し歓喜したいと親鸞は願いました。

あるいはそうあるべく彼は努力しました。

釈迦以来の仏教はここで極端なほどに単純になりました。単純という言葉が、キリスト教でも高貴で重要な言葉として扱われています。

                  

 さて「歎異抄」という親鸞が口述した書物に唯円という弟子が「往生-お浄土に往くこと-すばらしいということについては、私は頭ではよくわかっているのですが、私の心は少しも歓ばないのです。これはどうしたことでしょう」と尋ねますと

「唯円さん、あなたもそうですか実は私もそうなのだ」  何と正直な人でしょう。

親鸞はすでに八十を過ぎていました。

 

いつ死んでも十分生きたのに、それでも尚いそいでお浄土にゆきたいという気がおこらない。と、自分の教義に反するようなことを言うのです。

        

親鸞がいかに正直な人であったか、このことでわかるような気がします。そのあと、親鸞の宗教倫理が展開されるのですが、このことは省略いたします。 

 

 親鸞は一個の思想家であって教団の教祖であることについては、自ら否定しました。 

市井の一学者と言うべき存在でした。

 

むろん信奉者はいましたが、しかし教団を作るようなことはしないと宣言し、そのことを貫きました。

また、゛私の信仰は私自身のためのもので、他者のためのものでは無い゛と言ったあたり、遠い昔の釈迦の態度と重なります。釈迦は僧が葬儀に関係することを禁じたのです。

 

 また親鸞は、あらゆる迷信や礼拝形式~カルト~を排しました。このあたり、親鸞は十三世紀の人でなく、近代の人のようにも見えます。

さらに、自分の教義についても秘儀を排し゛自分が文字で表現したこと以外に、隠されたことはいっさい無い゛としました。

  

 「歎異抄」についてわずかに触れておきます。

さきにふれたように、この本は関東の草深い田舎に住んでいた唯円という非僧非俗の人が、親鸞の言葉を筆記したものです。

唯円は仲間とともにはるかに旅をして京の親鸞をたずねました。

目的は信仰上の疑問について質問するためでした。 

実にいい文章です。

明晰な論理と、みごとな修辞に富んでいます。

 

 ついでながら、十三世紀以前の日本の文章について触れておきます。

日本は中国から見ればはるかに遅れて文明に向かって出発した国でした。従って日本語も未熟で、十三世紀までは思想的な内容のものは、中国語(漢文)で表現されるのが普通でした。

 

むろん、物語としては十一世紀という早い時期に、日本語で書かれた「源氏物語」という長編小説がありましたが、日本語で思想が述べられたものとしては、十三世紀の「歎異抄」が最初のもので、しかも傑作というべき名文です。

            

 私は二十歳になったとき、太平洋戦争に兵士として従軍しました。その直前、死について考えておこうと思い、はじめて「歎異抄」を読んだのです。最初に一読して、つまらないものだと思いました。

当たり前のことが書かれていて、愚かな人のつぶやきとしか思えなかったのです。

 

つぎに声を出して朗読しました。すると行と行の間の沈黙の言葉がひびきとして伝わってくるようで、最初のイメージが一変しました。 

同時にその時、昔の人は声を出して文章を書き読み手もまた声を出して読んでいたことにも気づいたのです。

      

 親鸞の思想が宗教といえるかどうか、多少の疑問が残ります。

ほとんど哲学であって、大衆を引きつけるというものではありません。親鸞の思想をつきつめて考えてみますと、むろん阿彌陀如来への感謝ということに尽きます。

阿彌陀如来は空(くう)の別名であって、つまりは数学上のゼロの別名です。阿彌陀如来は空(くう)というものの表札にすぎないのです。  

        

 親鸞は阿彌陀如来は天にも地にも満ち満ちていると言います。

私も阿彌陀如来、この水差しも阿彌陀如来。

つまり空(くう)ということでしょう。

            

ですから親鸞は、阿彌陀如来の御名だけを称えよ、と言います。

礼拝の対象としては彫刻としての阿彌陀如来は好ましくない、あまりにも具象的だからです。

せいぜい絵像にせよ、理想的に言えば御名を書いて拝んでおくだけでいい、と言いました。

ガンダーラ以前の原始仏教に帰ったというべきでしょう。しかしこれでは、哲学であって、宗教にはなりにくいのです。

 

 紀元一世紀から二、三世紀にかけてインドの方で発生した大乗仏教は、もっとも純粋で、もっとも本質的な形で十三世紀の親鸞において最も鋭く単純化され、再生したと私は思っています。

 

 私の話は十三世紀で終わります。 

ここで紛らわしいのは十五世紀に蓮如という人が出て親鸞の思想をもって本願寺教団という大教団にしたことです。今日なお、三万に近い寺々を持つ日本最大の既成教団でありますが、このような後世における形態を述べるのは、今日の私の話の主題ではありません。

                  

 「日本仏教小論」と言いながら禅についてなぜ語らないかというご質問があるかも知れません。

 

禅については九世紀の最澄の天台宗にすでにその要素はありました。

親鸞と同じ十三世紀に栄西が出、また道元が出ました。 禅の美意識による日本文化への影響は計り知れません。

 

特に十五世紀の日本庭園は禅が主題でした。茶道も禅の影響によるものです。しかし私は禅を語るにはよき語り手ではありません。禅は天才の道であって、私のような平凡な人間が踏み込むべき分野ではありません。 

禅には多くのアフォリズム~格言~があります。

 

たとえば「石上花ヲ栽()レバ生涯 自(オノズカ)ラ是春」という激しすぎるほどの言葉があります。

意味は 悟りを開くのは石の上に花を栽()えるように不可能に近い しかしうまく栽えれば生涯は春のように穏やかな心で過ごすことができる というものです。 

 

 禅もまた釈迦の原始仏教以来、プラチナのように光る法統を継いでいるものですが、私に限って言えば禅の持つような、超人的な精神力の分野は、どうも苦手です。

    

 仏教には部分々々において哲学や精密な論理はありますが、キリスト教におけるような教義体系というものは無く、親鸞において最初にそれが成立しました。 

 

 以上で日本仏教の一部は語ったつもりです。

十三世紀以後のことは、述べません。

      

 以下にわかに日本文学の話になります。 

日本は一八六八年以来の明治になって西洋文明を受容しました。 

明治の日本人にとって、もっともわかりにくかったのは西洋哲学あるいはキリスト教的な ゛絶対゛もしくは絶対者という概念でした。 

親鸞にとっての阿彌陀如来はキリスト教の神に似て唯一神ですが、しかしさきに述べたように阿彌陀如来が空(くう)そのものである以上、数学上のゼロが絶対とは言いにくいように、仏教の空(くう)はあくまでも相対的世界のものて゛あります。科学が相対的世界の法則であるようにです。

(くう)はキリスト教の神のように超越することはありません。

また万物を創造することもしないのです。

 

 ヨーロッパにおいて神という存在はすべてに超越して絶対であり、さらに重要なことは、神が世界を創造し、今も創造しつつあるという思想です。空は、創造はしません。変化はしますが。

 

ともかくもキリスト教の神という観念は日本にはありませんでした。むろん単に天地創造という神話は、どこの国にもあるように、日本神話にもありますが、それらは汎神論的な世界のおとぎ話なのです。

絶対者が君臨し、絶対者が創造し、絶対者が悪に対して検断するという思想は日本に無かったのです。

ヨーロッパの偉大さは、千数百年来、神学者たちが(無論,哲学者たちを含めて 「神は-絶対者は-存在する」ということを糸巻きに糸を巻き付けるようにして営んできたことです。         

この知的作業は、おそらくヨーロッパ文明の基礎を作るうえで、決して徒労ではなかったと思います。

このような作業の歴史は日本だけでなく、仏教国の国々にもありませんでした。

空は科学と同様、相対的に捉えられるものでそれが存在するかどうかを考える必要の無いものだったからです。

絶対ということです。

 

 日本の近代文学にもかかわりがあります。

絶対というものは、私ども相対世界に生きている者から見れば存在しないものです。もしそれが虚構であるとすれば、神(God)も虚構です。

 

Godが大文字であるように、いわば大文字の虚構を中心に据えて叙述の糸を巻いてゆくという~つまりその作家の神学的世界を創る~という欧米の近代文学は日本がそれを受容しようとしても容易なことではありませんでした。 

 

 日本の近代文学の中に「私小説」という特異な分野がうまれたのは、親鸞を生んで、その思想を育てた日本の風土と無縁ではないだろうと思います。

むしろ近代文学にあらわれた、小さな-少なくとも志賀直哉は小さくありませんが-親鸞たちと見た方が、理解しやすいように思えます。 文学の話はこれだけにしておきます。

 

 以前、ドナルド・キーン博士が、私に、「日本史を見ていると、学問や思想上の巨人が出ます。しかし孤立しています。

巨人が出て学問や思想が展開されたあと、そのあとの人々がそれを深く掘り下げるか、別の方向に別なものとして展開しそうなものなのに、その巨人だけで終わりますね」

と言われたことがあります。

特に近代以前にその傾向が強いということでしょう。

 

私はそれを伺って、キーン博士に敬服してしまいました。私は言われるまでそんなことを考えたことも無かったのです。

              

親鸞は親鸞で孤立しています。

一九四八年頃、ある仏教学者が「日本仏教は十三世紀以降 

停頓している」と言ったことがありますが、親鸞の後継者は親鸞からさらに別な思想を出発させることをおそれ、親鸞の教学を神聖視するあまり、冷凍庫に入れてしまいました。

 

 近代以前の日本文化にあっては、宗教や学問だけでなく、医術、芸能から武術にいたるまで師の考え方を超えることは禁忌でした。 

この不思議な風習も日本仏教に由来していると思います。 

 

 さきに空海の密教に少し触れました。空海の密教を凍結している冷凍庫は、本山である高野山であります。

密教にあっては「師承-しじょう」ということが厳格に行われます。

 

一つのボトルから他のボトルに水が移されるように、水を移すにあたっては師承の水の分量どおりに移さなければならないとされています。

それが師承です。芸能や武術、時に医術でさえ移された水のことについては「誰にもいうな、親兄弟にも言うな」という誓約がかわされます。

 

 それが師承です。 師承は密教から始まりました。

密教にあっては師匠は仏なのです。 

なぜなら密教は即身成仏ですから師匠になるほどの人は仏になっているはずなのです。

 

仏を拝むのと同じように師匠を拝みます。

これはチベットやモンゴルのラマ教でも同じです。

 

密教における師承の伝統があらゆる分野に影響した、と私は思っています。 

明治以後は師匠の風習は無くなりましたが、余熱は残りました。

特に人文科学において、師の教授の学説とまったく反対の学説をたてるということは、困難とされていました。

今も多少はその余熱が残っているかも知れません。 

以上、伝来から十三世紀までの日本仏教と、その影響について述べました。

極東の小さな国の歴史、それも宗教史について語ったところで退屈なだけだろうと思っていましたが熱心に聞いて下さってありがとうございました。  

                          

この稿は一九九二年三月五日、コロンビア大学のドナルド・キーン日本文化研究センターで講演した内容に、多少手を入れたものです。