大澤寺本堂鬼瓦

鬼瓦は当流では本山はもとよりまず大抵は獅子口、「経の巻」(巻物三本タイプ 下図)です。鬼瓦は大棟のエンドの部分の処理の飾りのことですが寺院の顔ともいうべき重要な部分です。

 

拙寺は創建当初より「五七桐紋波濤雲」だったようです。

2011年本堂改修時、「経の巻」を採用すべく検討いたしましたが

「以前同様に」 という意見が大多数、桐の紋章を施した「鬼」となりました。

 

桐紋は各世の政権担当者が使用しましたが秀吉の時代になって多くの家臣にその使用を許し(拝領紋) また、明治以降苗字必称義務令とともに広く普及しました。現在は非常にオーソドックスな紋です。

 

当山三代目住職釋祐傳の父は三河の木戸城と六名城の城主、成瀬藤蔵正義という人でした。

藤蔵正義は三河足助、成瀬家七代目当主です。

成瀬家の初代は成瀬基久といい母を足助重範の娘の滝野、父が関白の

二条良基です。

父方二条家の庶子としてまた、代々足助家は朝廷に応召(後鳥羽院-承久の乱、後醍醐天皇-元弘の乱)したため桐紋にこだわったのかもしれません。破風下の丸飾りは菊紋が並びます。

 

もっとも 当流東西分流(→顕如上人譲状)前、本願寺十一代顕如上人が、永禄二年(1559)門跡に列せられたことにより、皇室の副紋である「五七桐」の紋所の使用を勅許されており顕如上人への帰依の気持ちが深かった当山開基浄了にとって一番身近な紋であったといっていいのかもしれません。

 

桐紋そのものはお寺であっても在家であってもごく普通な紋です。

政府の会席でも最近になってその露出が多くなったようです。

 

負組の系譜

 

推測するに主流に反目するかの成り行きの中、当家代々は概して今風に言えば負組の流れです。

しかしながらおかしくもその時々に「負け」であったとしても

時がたてば往々にして大局、どうにかおさまって何とかなってしまっているいるようです。

 

それが当家の代々のご縁。

成り行きに身をまかせるもの。

言ってみれば、すべておまかせします。そんな感じでしょうか・・・

 

諦め」の景色は素晴らしい

 

一つの人生という短いスパンの中でもいわゆる「負け」の連続があったとして、あるときどこかでどうにか道が開けることが必ずあります。

そのときこそこれまで張り付いた壁、踏み抜いた床の痛みが生きていくものなのです。

痛みや苦しみを重ね、その本質を知ってこその人生であり、ゆきつくところその当たり前のように混迷した人生に「本当の仕合わせ」が あるのだと思います。

 

短い時間の中で出遭っていくご縁に勝ち負けの判定はつけがたいですね。

現代日本人のほとんどの人が自身を「不幸せ」と思っているとのこと。モノが有り余って産業振興国を自負する国民が不幸せ、モノは豊富ではなく産業は大地に根差した国家ブータンの国民の大多数が「幸福」と考えていると・・・。

 

私たち日本人は今一度足元を見直して「幸福」をやたらと吹聴する世風から離れ、一息入れながら周囲俯瞰してみるスタンスが必要ですね。

 

勝ち負け判定の感覚から離れてみては。