●浄土真宗のエスタブリッシュメント

 

江戸期の島津家の一特徴はキリシタンのほかに念仏まで停止(ちょうじ)たことです。

念仏停止はいかにも薩摩の島津家らしいことで、島津家は完全な縦社会を望んでおりヨコ社会を認めたくなかったのです。

念仏を入れると横社会ができる。キリシタンは幕府がそうせよと言うから停止したんでキリシタンよりも浄土真宗は講があって横に結ぶ、つまり大名の言うことを聞かなくなる心配があるので、キリシタン以上に浄土真宗を恐れていました。

 

 もし、内緒で念仏を信じたりすれば殺すか追っ払うかどちらかという具合に実に厳しく明治維新になるまでそれをやりました。

 

戦国期、本願寺の勢力は近畿、中国、北陸、東海といった地方に広まりました。

家康の二十才の頃に家康が信頼していた部下のほとんどがお念仏~本願寺~の方に走り、三河一向一揆が起こります。これは家康の一代の難事でした。 

家康は大政治家になる人物だけに、結局は丸めこんでしまいましたが、当初家来の大半が寺方につきました。家康の門徒方に走った人達は、主従の契りは一世か二世、彌陀如来は永劫のものだというのです。

 

 しかし家康は、脱走した方の組合の委員長みたいな鷹匠あがりの本多正信という~正信はその後一生ずっと家康の秘書長みたいでいましたが~をうまく籠絡し、そして終戦処理は「一切目をつぶる、俺を戦場で追っかけた奴もおるけれどもそれも 目をつぶる」と言って三河武士をやっとまとめました。 

 

 この大難はすでにもう諸国に伝承され、島津にもとっくに聞こえていましたから島津は「念仏は毒のようなものだ」として念仏停止というきつい禁教令を出していた

のです。 

 

薩摩の念仏宗の迫害で思い出しましたが江戸時代の武士階級には浄土真宗の門徒はまずまずいませんでした。大名に召し抱えられると他宗に鞍替えしました。

これは島津同様にどの大名も横社会をおそれ、浄土真宗をおそれたからです。

 

しかし、中津藩の福沢諭吉(18341901)の家は珍しく熱心な門徒で、諭吉も真宗の教義に極めて明解でした。

彼は「偶像崇拝はいけない、しかし絵像なら良い、これが真宗である」と言っていますし今、ハワイの真宗教団にも、仏の彫像も絵像もありません。

(南無阿彌陀佛の名号のみ)

明治になりドッと隠れ門徒が入ったものですから、今は薩摩にはたくさんの真宗の寺があり、滋賀県で五十戸ならば大学へやらせられると言いましたが、鹿児島県では門徒

千戸くらいのゆたかな寺もあります

 

 江戸時代に肥後熊本の細川領は念仏は許されていたので浄土真宗のお寺は細川領にたくさんありました。

江戸期細川領の真宗の僧侶が命がけで薩摩藩に夜行って夜中にどこか森の中に門徒が集まり、そしてお説教したりと、それはもう命がけでした。 

 

肥後との国境近くに大口という町があります。

そこの山々に来ていたわけですから大口には郷土、つまり侍階級を含めて、百姓だけでなくて郷土にもずいぶん隠れ門徒がいました。

それで明治になり熊本から大きな寺が来るといっせいにその門徒になったわけです。

そういう開拓した家の孫ぐらいには生き生きした学者が出、その大口の寺の中に十数年前の龍谷大学の学長、星野元豊(1909)さんという非常に新しい教学思想を持った真宗学者が出ました。

その星野元豊さんの寺の第一の門徒は郷土で門徒の家だ

った海音寺潮五郎さん(190177)の家です。

 

私は大口に行き星野元豊さんの寺を見、海音寺さんの屋敷を見て浄土思想の極端に弾圧されていた場所の遺跡を見る思いをしました。 

さらには歴史の流れを思いました。

 

室町の頃の京の鳥辺山で商売坊主が時宗念仏を売るようにして死者の葬式をしていたということが、やがて蓮如が出ることによって時宗まで浄土真宗になるのです。

時宗はその時滅びたに近く、かつての時宗の徒は浄土真宗の坊さんになったり、また他宗の住職までも寺ぐるみ転宗したりして、浄土真宗化していくわけです。

あれやこれやでそれから浄土真宗はお葬式をするようになったのです。

 

 親鸞は「歎異抄」で言っています。

「親鸞は父母の孝養のためとて、一遍にても念仏申したることいまださふらはず」。

お葬式に念仏をつかうといのは、親鸞の本来の思想では無かったのです。 

しかしお葬式はやはり大教団としては浄土真宗から始まる、と言わざるをえません。 

 

ところで浄土真宗は「正規の僧侶でない」と言われることが嫌だったので色んな手を用います。その前に述べねばならないことは、戦国時代織田信長の勃興期には

すでに浄土真宗は今の大阪城の前に「石山本願寺」を造っていたことです。

これを全国の中心としました。

八十才を超えてから蓮如が流浪の挙げ句石山に来て本願寺を造ったのです。

 

 やはり大阪の場所に造るというのは蓮如にはよほど城郭の感覚や土木建築の観念があったと思わざるをえません。

あるいは戦略的な地政学的な感覚のある人だと思います。

 

 蓮如の文書には、大阪という言葉も無く、「ここは摂津の国生玉郡で何も無い所だ。

在所の名は石山だ」というふうに残っています。

だから本当に石ころだらけの山だったんでしょう。

そこに堂宇を造った。これはまたたく間に流行り、全国の中心になりますが、それを設けたというのは南の端に四天王寺があって、そこに日没偈を読む人、日想観をする人、そして春分の日は西の谷に沈む太陽を拝むために集まる善男善女、それは要するに浄土教の一つの聖地だったので、それも一緒に吸収したんじゃないでしょうか。

 

 つまり非常に体系的な教学を持った蓮如が雑草のような色々な浄土思想を~さっきの時宗も含めて~吸収していったんじゃないでしょうか。

石山に本願寺を置いたのはここに四天王寺があったからだと思います。

 

 蓮如はキリシタン僧侶の報告書なんか見ますと、実際、キリシタン僧侶の手紙を借りなくても客観的にそうですが、信長と匹敵する当時のチャンピオンで、戦国期の最後のタイトルマッチが石山合戦だったような印象です。

 

 当時、顕如という人の時代でした。 

信長は本願寺に手こずり、最後に紀州に立ち退かせるわけですが、その前に本願寺は貧乏している京都の御所に金を出しまして門跡(もんぜき)の位をもらいます。

門跡というのはミカドの跡と書きますから、親王か公卿の子が僧侶になったときだけを門跡と言います。

だから本願寺は公卿になったわけです。

顕如もその後の法王も御門跡様と呼ばれるようになりました。

 

そうすると、これは公卿にして僧であるという人の位ですが、その下の坊さんも、一応は叡山とは別の体系だけれども、エスタブリッシュメントになります。

これで非僧非俗であることが終わったわけです。

へんなものでその「非正統性」は政治的に解決されたわけです。

 

→善人と悪人