二村順二 氏 「甲賀の伴氏と三河の伴氏」

新城市設楽原歴史資料館 岩瀬忠震像

 

 

一、平安から鎌倉までの三河伴氏の概略について

 

 

1  伴氏とは何か

日本には、数十万の姓氏があって、それぞれの時代、それぞれの地域で有力な集団があるとそれに関係づけて、自分の一族もその姓氏を名乗りたがります。源平藤橘は、日本人の主要な姓氏と言われています。百人一首には、清原・菅原・凡河内・在原・大伴などの姓氏があります。新撰姓氏録には、皇別・神別・諸蕃で分類しています。古代豪族の大伴氏は、物部氏と共に、大和政権を支える氏族でしたが、中臣氏から起こった藤原氏が奈良時代に勢力を持つと、他氏を排斥して独占を試み、しだいに政権から追放しています。

古代歌謡の万葉集は、大伴家持の存在なくしては、成立しません。大伴氏の遠祖は、神別として道臣命を仰ぎます。神武天皇の東征創業を支えた功績を伝えています。聖徳太子の時代に大伴咋子がいて、政敵の物部氏を滅ぼしました。その子孫は、長徳・望陀・御行・安麿・旅人・家持・与比等・国道・善男と家系をつないでいます。淳和天皇の諱が大伴であったので、大伴氏は伴氏と改め、その子孫は伴氏を名乗ります。京都の中央政権では、伴氏は目立ちませんが、むしろ地方に枝葉を伸ばして、伴氏の家系を伝えました。

伴大納言善男の系統だけが、伴氏ではありません。伴氏に近似した氏族に、久米氏や佐伯氏を考える学者もいます。仏教界の偉人の一人、弘法大師空海は讃岐佐伯氏の出身で、詳細な大伴氏の系図に書かれることもあります。鎌倉市の鶴岡八幡宮は、鎌倉武家政権の聖地ですが、善男の子の中庸の子孫が招かれて、明治維新まで神職を世襲していました。

近江国甲賀郡に勢力を持つ伴氏を甲賀伴氏と呼び、三河国幡豆郡・設楽郡・八名郡に勢力を持つ伴氏を三河伴氏と呼びます。共通する姓として、大原・平松・滝川・宮島などがあります。甲賀では、山岡・篠山・多喜氏があります。三河では、設楽・富永・塩瀬氏があります。旗本の設楽氏は、幕府に菅原氏の系図を提出し、伴氏を否定します。

甲賀と三河の間には、尾張・美濃・伊勢などがありますが、心情的には同じ伴氏の一族の意識を持ち、木瓜を共通の家紋としました。

 

2  伴善男の伝承

*寛政重修諸家譜、山岡氏

淳和、仁明、文徳、清和の四朝につかへ、累任して大納言となる。貞観八年閏三月十日男右衛門佐中庸と応天門を焼、この事によりて糾問を遂られ、九月二十二日伊豆国に配流せらる。年を経て赦免あり。三河国に至り、幡頭郡の郡司大伴常盛が家に入、其女を妻とす。

*群書類従、伴氏系図

貞観八年閏三月十日応天門焼亡。放火之故ニ九月廿二日伊豆国配流。清和御出家丹波国小尾山御籠居アリ。善男被召返上洛。其後有山門訴訟。三河国へ籠居。船ニテ彼ノ島ニ下向ス。其時八名郡住。額田郡司信任息女為妻室。其後又幡豆郡司大伴常盛ガ息女字清犬子為妻。生一子。郡司員助是也。善男上洛之後妻室所領相続知行。氏寺正法寺建立。

 

さまざまな伝説があり、伊豆に配流された後に三河に来て、幡豆郡司大伴氏と結ばれて一子員助を儲けた伝説で、三河とのつながりを説明しています。応天門の放火事件は冤罪とする説があり、それまでは官僚生活を順調に送り、最高が従三位大納言であったので、若い時も含めて伴大納言と呼ばれました。応天門は、大内裏の内側、朝堂院の正門です。偶然かどうか、大伴氏と応天門は、字音も似て、因縁を感じます。現在の平安神宮の正門は、応天門を縮小した意匠だそうです。晩年に三河で住んだかは、諸説があります。

 

3  伴助兼の伝承

*系図纂要

改助字作資字、伴太郎、設楽大夫、三河大介、号伴四郎傔仗

*寛政重修諸家譜、山岡氏

三河国に住す、永保三年鎮守府将軍義家陸奥国の国司たるの時、資兼第一の傔仗となりて其国に住す、曽て同国の住人清原真衡同族出羽国の住人秀武と矛盾し合戦にをよぶ、秀武勢ひ敵しがたく、一族家衡郎等をたのみて真衡を討たしむ、七月家衡真衡か出羽国に行の隙をうかがひ、真衡兵藤大夫経助とともに其館に籠り防戦す、家衡戦ひ負て引退く、資兼等国府に至りてこれを義家に告、義家これを感賞す、寛治四年九月義家、家衡が金沢の柵をせむ、資兼日々に先登して忠戦を励ませしかば、義家より薄金となづけし鎧一領をあたへらる

*古代氏族系譜集成

正六上、四郎傔仗、後資兼、承徳三年六月叙従御下、後三年役従源義家、抽武功、後三年記ニアリ、伴二郎傔仗助資、朝野群載に伴朝臣トアリ

〇助兼を助弘の子とするものがあるが、年代的に疑問がある。助兼が朝野群載に伴朝臣と見えることについては、何時の時点で宿祢姓から改めたのか不明であり、助兼が従五下に叙せられたことで賜姓したか、単なる僭称か判別できない。

*八名郡誌

次郎、伴四郎、設楽大夫、三河大介、傔仗

(資兼は助行の三男だといふ説と助弘の長男だという説とある)

資兼、初助兼といふ、公家御日記・蓮華王院絵詞に助の字を改めたるに任せ、此の時から資の字を賜ふと、八名設楽両郡司、又傔仗職にて追捕使を兼ぬ、後三年の役、八幡太郎源義家に従い軍功あり、獅子王尊の冑と薄金の鎧とを賜はる

 

この人が、平安時代の三河伴氏の中で最も有名な人です。清和源氏の義家に仕えたので、武官として京都の公家社会にも聞こえ、地元では設楽氏を名乗り、設楽と八名の郡司を兼ねたと伝わりますが、確実な古文書に名前を残してないのが惜しまれます。清和源氏との主従関係は強く、鎌倉・足利・徳川の幕府三代に仕えて、名を残しています。

 

4  伴資時の伝承

*寛政重修諸家譜、山岡氏

四郎、設楽を称す

文治五年頼朝将軍陸奥国に軍を発し、泰衡を討のとき、資時従軍して真先にすすみ、栗原にをいて戦を励す、資時面に創をかうぶるといへども猶すすみて敵を討、頼朝其功を賞美す

*古代氏族系譜集成

鎌倉右大将家奥州合戦時有功仍預勲賞、三州設楽・夏目ノ祖

*八名郡誌

設楽四郎、資一に助に作る、俊実二十歳の時の子といふ、三州設楽氏の祖、設楽氏系図には太郎清氏の子左馬助資時とある、八名設楽郡領

源頼朝に従ひ藤原泰衡の残党を追討、栗原の戦に面を切られ敵を討ち大功あり

鳳来寺に大般若経を献納した、其の経の奥書に「建久十己未十月三日、三州鳳来寺宝前安置之、願主設楽四郎伴助時藤原氏」と記してあったといふことであるが其後明治初年焼失したといふ

*滝川家伝記

伴設楽四郎、八名・設楽二郡領、三州設楽祖、文治五酉年鎌倉右大将家於奥州追討泰衡之時進栗原戦被斬面打敵、仍預勲賞、俊実廿歳之時生子也 建久十己未年十月大般若経、鳳来寺峯薬師宝前安置、其奥書曰

  建久十己未年十月、三州鳳来寺宝前安置之

  願主設楽四郎伴助時藤原氏 下毛足利堀中書 結縁執事厳勝房

 

前九年・後三年役において、源氏の棟梁は征夷大将軍となって、奥州の反乱を鎮圧しました。源頼朝は、奥州藤原氏を討伐して、敵対勢力の憂いをおさめました。しかし、伴助時の従軍については、東鑑に全く記述がありません。おそらく、助時の父の俊実の代と考えられますが、保元物語に設楽(志多良)の名前があります。奥三河の設楽・富永・中条・兵藤などの氏族が協力して、軍事行動を共にしていたと思います。また、鳳来寺に奉納した大般若経の奥書から、下野国足利氏と早くからのつながりを感じます。承久の乱の後に三河の守護になった足利義氏は、国内に地盤を築き、設楽氏と富永氏を家臣団に取入れ、彼らの所領を足利氏の直轄地に収め、後の奉公衆に近い役を与えました。南北朝時代になると、三河伴氏の存在は、各種の軍記物に登場し、古文書が伝わっています。京都松尾大社に、三河国設楽庄について沙汰をした源頼朝の書状が残っています。

 

5  伴資乗の伝承

*野史、山岡景隆

山岡景隆近江人也、姓伴氏出自大納言善男、善男十二世資乗、建仁中、移住近江甲賀、資乗六世景広、領毛牧郷山岡荘、始称族山岡

*野史、滝川一益

滝川一益、近江甲賀郡大原人也、姓伴氏、傔仗資兼曽孫資乗、建仁中移居甲賀、是為滝川上野山岡富永等祖

*月津村史(現在の石川県小松市) 

滝川は天忍日命から出た道臣命の後裔大伴大納言善男卿の末子、三州幡豆郡司員助の後胤設楽甚三郎資乗、初めて江州甲賀郡に住んだ。資乗七代三左衛門景守、甲賀郡滝・野田二村の地頭として滝川と改めた。景守の二男三左衛門景清、その子資恒、その子次男三郎、その長男一益、その子が左門であるといわれている。

*華族諸家伝、従三位池田章政(岡山藩主)

従五位下三河介大伴宿祢良雄七世三河大介伴資兼、八満殿鎮守府将軍ノ時、傔仗トシテ従行、後三年合戦ノ時勲功多シ、四世安芸守資乗殺害ノ事ニ依テ江州大原ニ移住ス

*日本紋章学

伴氏は道臣命に出づ。代々大伴氏と称し、武職をもって朝廷に仕えた。のち淳和天皇の諱に触れたので、氏を伴と改めた。善男の時、応天門の変によってその家門は遂に衰えた。善男の子を員助といい、初め三河に来て、幡豆郡の郡司となり、子孫は三河に土着した。資時のとき設楽郡を領して設楽氏と称した。その弟を資隆といい、富永氏と称した。資隆の弟を資乗といい、その子を貞景という。貞景の子景重は初め近江甲賀郡大原におり、大原氏を称した。景重の曽孫を景広という。同郡毛枚にいて毛枚氏と称した。

*寛政重修諸家譜、大原氏

三河大介資兼より四代安芸権守資乗が三男八郎貞景、近江国甲賀郡大原に住して大原を称すといひ、貞景が弟を大原三郎盛景とす。

*寛政重修諸家譜、山岡氏

資乗 安芸守、設楽氏を称す

闘争して人を殺害し、三河国を去て近江国に漂泊す。

*甲賀郡志、山岡景隆兄弟

景隆は毛枚(今の油日村大字)の人なり、伴大納言善男の後裔資乗承元三年四月三河国より本郡に移住し数世を経て毛枚太郎景広に至り山岡(毛枚地字)に居る、因りて之を氏とす。建武年中勢田城を築き此に居り世々相継ぎ以て景隆に至る。

 

善男以前に三河伴氏の実体があり、誇るべき家系の伝承も弱い氏族が、中央の貴種である伴氏の家伝を利用して、現実の三河伴氏を修飾して、神話時代に遡れる名家に工作したと思われます。設楽郡の設楽氏、八名郡の八名氏は、どこに根拠地を定めたのでしょうか。設楽郡で唯一の式内社は新城市大宮の石座神社です。八名郡の式内社は、豊橋市石巻町の石巻神社です。豊橋市賀茂町の賀茂神社の境内社として大伴明神があり、加藤氏が祭祀を行いました。幕末に加藤千秋が、尾張藩に属して官軍として奥州まで従軍しました。明治維新後は、尾張一宮の真清田神社の宮司となり、大伴千秋と改名しました。

道臣命から始まる旧家ということで、伴氏は神別の家ですが、景行天皇の子孫とする系図もあります。天押日命(忍日命)や高皇産霊命を祖先とする系図もあります。

諱には、景・兼・助・資・祐・包などが、伝統的な文字です。設楽氏は、貞の字を使います。滝川氏は、一・資の字を諱によく使います。

豊橋市八町通のタキカワ整形外科クリニックは、新城市竹広に陣屋を置いた旗本設楽氏の代官として長くつとめた滝川氏が経営しています。初代院長の滝川一美先生は、多忙な病院経営の時間を削って、郷土史家としても活躍しました。新城市出沢の実家に残る系図や古文書、位牌や書画などを整理して、滝川家伝記を出版しました。新城市郷土研究会や岩瀬肥後守忠震顕彰会の役員もつとめました。

 

二、三河伴氏の金石文、古文書、系図、記録について

 

伴大納言善男から数えて、千年を優に越える伴氏には、さまざまな文献があります。それらを凡その年代順に並べて、歴史を考えたいと思います。

 

1  後三年の役

*大日本史料、奥州後三年記

伴次郎傔仗助兼といふ者あり、きはなきつはものなり、つねに軍の先にたつ、将軍これをかんして、薄金といふ鎧をなんきせたりける、岸近く攻め寄せたりけるを、石弓をはつしかけたりけるに、すてに当たりなんとしたりけるを、首をふりて身をたはめたりけれは、かふとはかりをうちおとされにけり、甲おちける時、本鳥きれにけり、かふとはやかてうせにけり、薄金の甲は此ときうせたり、助兼ふかくいたみとしけり

*奥羽沿革史論

清衡家衡の両人は真衡が又出羽へ向ったといふ事を聞きましたので、前の如く真衡の館を襲ひ攻めました。此時留守をして居ったのは真衡の妻と養子の成衡夫婦であったのですが、兵は固より寡く甚だ危い、所が此時会々国司義家の郎等で兵藤大夫正経と伴次郎傔仗助兼といふ二人が(この二人は聟と舅の関係であったのですが)此の地方の検閲のために巡回して参って居ったので、真衡の妻女が急に使を馳せて 二人に来援を求めました。因て二人は早速真衡の館へ駆け付けて防御の事に当りました。

*横手沿革史、帰命山桂徳寺

今から約二百数十年前の宝暦の頃、金沢の八兵衛(又助ともいう)という者が厨川の「くずれ」という崖の付近で、山薯を掘っているうちに、偶然、兜の鉢らしいものを発掘し、中にあった金銅の仏像は桂徳寺に奉納し、鉄鉢の方は火鉢にすれば恰好であったので、灰を入れて火鉢に使っていた。たまたま、津軽藩の進藤某という武士が、煙草の火を求めて八兵衛の茶屋に寄った時、出されたこの火鉢を見て不思議に思い、事情を聞いて、これはきっと、後三年の役に伴傔仗助兼が失ったという、あの薄金の兜にちがいないと考え、茶屋の老婆から強いて之を買い求め、津軽に帰ったのである。この話を聞いた藩主が、「珍しい話だ、持って来て見せよ」というので、之を見せた処、只者ではないらしいと、江戸の明珍家に鑑定させた処、薄金の兜に間違いない事が分り、遂に藩主の所有になったという事である。

*国学院雑誌昭和41年6月、三河中条氏及び中条氏文書の研究

大夫判官源国与謹言上(猿投神社文書)

抑藤原詮秀被奉籠御宝蔵八満殿御鎧楯無之事、今度国与就関東進発申出者也、意趣者源成氏朝臣為追討致合戦時、於一天下士率数万之仲、国与第一長武勇名誉為祈念也、有所願成就致帰国者、且如前之別之鎧相添、楯無可奉寛納御宝蔵、仍願書状如件

長禄二年十二月一日 国与 花押(樫鳥糸威鎧大袖付は国重文)

猿投半行御宝前

*古代氏族の系譜(朝野群載引用)

二条院

請被因准傍例、返上年々内官二人

以正六位上伴朝臣助兼叙爵状

承保元年 内官一人

承保二年 内官一人

右返上年々未給、以件助兼、可被叙爵之状、所謂如件

承徳三年四月廿八日 別当従四位下皇太后宮権亮源朝臣経仲

 

2  仏像の銘記にある大伴氏

*造像銘記集成、滋賀善水寺木造薬師如来坐像(現在の湖南市甲西町)

大歳癸巳四月廿三日辛巳日奉造願主

  愛子大伴時忠

  永暹  僧延

  小伴僧  僧慶峯  僧

  薬基僧玄然  僧平新  僧

  (中略)

正暦四年丑六月三日

*造像銘記集成、愛知林光寺木造薬師如来坐像(現在の新城市庭野)

歳時辛卯 嘉応三年正月十五日

僧実与藤原氏 藤原行宗大窪氏 田口重道藤原氏 僧慶勝

爪工是貞縁友 雀部影時阿部氏 伴包弘小田氏 爪工貞清

同国貞紀 重安縁友 伴包正縁友 若倭包弘縁友

  (中略)

散位伴親兼 荒木田氏国 金刺延弘 同太郎殿縁友 別願頭加納利生施給与

国主聖朝 関白殿下 左右大臣文武百官

当国十二郡 人民万姓一切群生 平等利益

 

3  後鑑にある三河伴氏の記録

伴系図云 設楽五郎左衛門尉資綱 元弘三年五月七日合戦 神祇官前ニテ斎藤伊予房玄基と組打死了

伴系図云 富永四郎左衛門尉資郷 元弘三年五月七日於二条大宮進先陣、此時討多敵被打伴系図云 資連 塩瀬宮内左衛門尉資時次子 号左衛門太郎 建武二年十二月廿七日 於        

矢作討死

伴系図云 資直 建武三年園城寺合戦宇都宮家人清三郎打取 任左馬助讃岐守 同号左衛門五郎

伴系図云 高兼 富永三河守時兼子 富永孫四郎左衛門尉 康永四年八月天龍寺供養太刀帯合手者狩野宇佐美三河次郎祐尚 正平六年六月給三河国 同八月従同国本野原為同名直兼被討取畢

弟直資 号富永左馬助 正平六年八月於三河国本野原討死

直兼 号富永四郎 本野原合戦之時討取同名孫四郎左衛門高兼 仍任弾正大弼 

 

4  御的日記にある三河伴氏の記録

康永三年正月廿九日 三番 設楽六郎助兼   六射六中

康永四年正月十五日 二番 設楽又次郎    十射十中

至徳二年正月廿三日 一番 設楽越中三郎   十射十中

至徳三年正月十七日 二番 設楽越中三郎   十射九中

          三番 設楽伊賀四郎   十射九中

至徳四年正月十七日 一番 設楽越中三郎   六射四中

嘉慶二年正月十七日 一番 設楽越中三郎   十射十中

嘉慶三年正月十七日 一番 設楽新左衛門尉  十射八中

応永五年正月十七日 二番 富永五郎     六射六中

応永六年正月十七日 二番 富永五郎左衛門尉 六射六中

永享三年十二月十九日二番 富永弥六     六射六中

永享四年正月十七日 二番 富永弥六     六射六中

 

5  奉公衆着到御番帳にある三河伴氏の記録

*永享以来御番帳

二番 富永左近将監 富永筑後入道 設楽兵庫助

五番 富永駿河入道 富永兵庫助 富永弥六

*文安年中御番帳

二番 富永孫五郎 富永筑後入道 設楽兵庫助 同平左衛門尉 同次郎左衛門尉 富永左近将監

五番 富永駿河入道 富永修理亮

*長享元年着到(将軍義尚が六角氏を討伐に来て、甲賀武士が将軍の陣所を急襲した)

二番 伊勢富永五郎 三州設楽三郎

五番 富永弥六

 

6  康正二年造内裏段銭并国役引付にある三河伴氏の記録

五貫文     富永弥六殿 播州布施郷段銭

一貫文     富永弥五郎殿 遠州所々段銭

一貫九百文   富永弥五郎殿 伊勢国所々段銭

四貫七百五十文 富永弥六殿 三河国設楽郡之内富永保段銭

三貫五百文   設楽越中守殿 三河国下郷河路村段銭

十貫八百五十文 富永弥五郎殿 遠州三ヶ所

 

7  大日本史料にある三河伴氏の記録

*師守記

帯刀 設楽五郎兵衛尉 設楽六郎 富永孫四郎左衛門尉 設楽二郎

*天龍寺供養武家御出日記

帯刀 設楽五郎左衛門尉 設楽六郎

*天龍寺供養日記

帯剣 設楽五郎兵衛尉助定 富永孫二郎左衛門尉 設楽六郎助兼 設楽二郎

*天龍寺供養

帯剣 設楽五郎左衛門尉 富永孫四郎左衛門尉 設楽六郎 設楽次郎

*南北朝正閏史料、吉敷郡名田島村農梅吉蔵(山口県山口市)

貞和四年十二月二十九日

 (尊氏花押)

下 三河大介設楽大夫

可令早領知伯耆国三郡并近友名

*蠧簡集残編、土佐国沢助五郎蔵

靫負尉所望事、所挙申公家也、早可存其旨状如件

文和二年九月九日(尊氏花押)

設楽十郎殿

 

8  群書類従にある三河伴氏の記録

*御評定着座次第

延文八年一月十三日  御加用 設楽三郎

永和二年一月八日   御加用 設楽三郎

永和四年一月十一日  御加用 設楽伊賀太郎 設楽越中三郎

*花営三代記

応安八年一月十三日  御評定始 御加用 設楽

永和四年一月十一日  御評定始 荷用 設楽伊賀太郎 設楽越中三郎

康暦一年七月二十三日 帯刀 設楽越中三郎 設楽伊賀太郎

 

9  奥三河にある三河伴氏の記録

*北設楽郡東栄町、東栄町立博物館(旧本郷小学校)

額「恰化文明」

明治十九年十二月一日

三河国振草之庄旧領主 設楽三郎大伴資時三十七世孫

設楽貞晋書

 本郷村鈴木孝七寄付

 本郷小学校

*滝川家伝記より

八平神社神前額(新城市出沢)

(正面)一宮社

(裏側)道臣命後八名設楽郡司伴四郎助時十四世正孫 永禄元亀之頃 当郷領主滝川源右衛門助義より六代 三河国設楽郡滝川郷出沢邑の地士 本姓伴氏滝川源右衛門藤原助政謹奉納之 正徳二壬辰正月吉日 寛永十八年辛巳ヨリ当社産子ト成

*長野県飯田市立石の千頭山立石寺の梵鐘

三河国設楽郡岩倉大明神之鐘也 嘉吉三年臘月十三日鋳之 政所知厳正因 幹縁資広 祢宜満海重光、鳧氏兼久 諸施主等

*東郷村沿革誌より

新城市上平井の延命山永住寺の梵鐘

大日本三河国設楽郡市場村

松尾大明神鐘 

大檀那 国久 信家

大工 豊川南一色 九郎左衛門

長享二戊申年十一月七日 勧進沙門貞家

 

三、三河と甲賀以外の地方にいる三河伴氏について

 

江戸時代に甲賀武士は、忍者のルーツを持ちながらも、太平の世では忍者を表に出すことはありません。「能ある鷹は爪を隠す」の諺があるように、忍者諜報の術は秘伝とされ、公にはしません。しかしながら、戦国時代の甲賀忍者の子孫を家臣に加えた諸国では、系譜を求められると、三河伴氏とのつながりを誇らしく表現しました。ここには載せませんが、尾張徳川家には、織田信長の旧臣としての滝川氏、松平忠吉の旧臣としての富永氏が家臣団に多く入っています。彼らの系譜は、名古屋叢書で調べられます。松平忠吉は、幡豆郡の東条松平氏を継承したので、西三河の伴氏を甚太郎衆として家臣団に加えました。

 

1  千葉県松戸市平賀の長谷山本土寺

*梵鐘(国重文)

下総国勝鹿郡風早庄平賀長谷山本土寺推鐘

右高祖以来第十番師日瑞得求之奉施入

檀那設楽助太郎大伴継長半合力

願主真行坊日弘其外 結縁諸人滅罪生善

乃至法界平等云々

文明十四壬寅正月五日

*本土寺過去帳(県文化財)

六日   文亀四年六月 設楽出雲守行暹

十日   行信位 設楽助十郎 土佐ニテ

十一日  シタラ道暹 上総山口

十二日  妙長童子 設楽殿子息

十六日  妙円童子 設楽殿子息 小西 山口

十九日  二月 設楽出雲蓮行 辛亥二月

二十日  元亀二年三月 シタラ出雲守行哲

二十二日 四月 蓮長位 設楽殿御母儀

二十六日 妙蓮善位 設楽殿御父

二十七日 六月 妙金位 設楽助太郎

二十七日 天正十五年六月 蓮上位 作倉設楽助十郎老母

二十七日 文禄二年四月 蓮勝位 佐倉設楽助十郎曾祖母 八十六歳

二十八日 三月 行伝 設楽助六

二十八日 十一月 行進 設楽弾正殿

二十九日 百文 設楽殿

 

2  鉢形北条家臣分限帳

一 本国長門大津(山口県長門市)

  九十貫  旗本 金崎鬼石住  設楽金大夫(群馬県藤岡市)

一 本国相州三浦(神奈川県三浦市)

  百五十貫 旗本        設楽藤太郎

一 本国上州吾妻(群馬県吾妻郡東吾妻町)

  二百十貫 旗本 皆野住    富永勘解由(埼玉県秩父郡皆野町)

一 本国奥州桃生(宮城県気仙沼市)

  三百貫  目付 寄居住    設楽木工匠(埼玉県大里郡寄居町)

 

3  幕末維新全殉難者名鑑

*秋田藩(羽後二十万六千石、佐竹氏、外様)

設楽和一郎則和

卒 明治元年七月二十八日 羽後矢島で戦死 二十七歳 靖国

*二本松藩(岩代十万一千石、丹羽氏、外様)

設楽弥兵衛

百石 本宮組代官 明治元年七月二十九日  表塩沢村で戦死

*幕府軍

設楽範輔

陸軍隊 明治元年十一月二日 福島で戦死(戦死地蝦夷)

 

4  静岡県姓氏家系大辞典  

*設楽

駿河国庵原郡大内村(清水市)に、永禄年間に三河国から来住した設楽四郎左衛門がいた。三河設楽氏は、同国設楽郡にちなむ。四郎左衛門、慶長年間に保蟹寺を開基した。

*富永

遠江国周智郡一色村(袋井市)に、庄屋を務めた富永家がいる。宇刈七騎と呼ばれる郷士の一家で、半右衛門が久野城(袋井市)城主久野宗能に仕えた。

遠江国榛原郡初倉村(島田市)に、伴六郎大夫親兼を祖とする富永氏がある。三河国加茂郡富永村の発祥といい、代々初倉村に住んだ。

 

5  群馬県姓氏家系大辞典

*設楽(前橋市)

上泉の設楽氏の大本家は九八家、先祖は弾正少弼貞衡の次男左馬頭時清で、三河国設楽郡の地名を姓としたのが始まりという。室町期は足利家に仕えたが、上泉伊勢守信綱との縁で上泉に移住したという。

*設楽(吉井町)

長根の設楽氏の本貫は、三河国設楽郡設楽郷、後三年合戦に源義家に従い、保元合戦に源氏の家臣として活躍、南北朝期に長根村に土着したといい、応永八年没の聖愁比丘尼(宝篋印塔四基の一つ)を先祖としている。

 

6  松岡先生年譜(茨城県士族)

先生諱亮字天功称彦次郎、伴姓其先出道臣命、世為朝廷大臣著名国史者不可勝数、至貞観年中大納言善男獲罪流竄、伴氏不復振矣、善男子員助為三河幡豆郡司、因家焉其族蔓延三河遠江之間、設楽氏富永氏最著、皆因三河地名以為氏也、其居遠江豊田郡豊田里者曰豊田氏、戦国時常属今川氏、慶長中、七世祖近江君従今川某徙常陸、遂為常陸人

 

7  福島県小浜町郷土読本

資兼の長子親兼は三河に在って祖先伝来の家系を継承し、次男或は三男の助氏が当地の伴氏を継がれたのではないかとも思はれるのであります。

 

8  小浜市史藩政史料編2

*安永三年小浜藩家臣由緒書

本国近江生国若狭 寛文二年被召出 安永三年迄百十三年 

当午五十四歳 高木清大夫

私家元来伴姓ニテ御座候、元慶年中以来三州幡豆郡設楽郡八名郡之間ニ数代居住仕候所、承元三年四月近江国甲賀郡大原村江罷越居住仕候、尤同姓之内三州ニ罷有候茂御座候、嫡家伴大隅守資景等源尊氏公ニ付属仕、於筑前多々羅浜合戦之節軍功御座候而、二引両紋付候旗并備前友成太刀賜之、且延元元年江州甲賀郡ヲ拝領仕候より以後一族多相成、甲賀郡所々ニ居住仕候

 

寛政重修諸家譜で甲賀伴氏の系図を見ると、家紋木瓜や諱の通字で明らかに伴氏であるのに、平氏や源氏と書いている事例が多く見つかります。

 

五、三河設楽氏の終焉について

 

新城市の設楽原歴史資料館は、長篠城址史跡保存館と共に、奥三河の誇るべき歴史系博物館です。設楽原そのものが、かつての設楽氏の本貫地であり、石座神社・勝楽寺と共に郷土の信仰生活の地盤でした。その名を受け継ぐ設楽氏は、歴史上の人物です。

故人となりましたが、川合重雄先生や夏目利美先生と出会ったことで、奥三河の歴史に興味を持つようになりました。永禄五年に、尾張の織田信長と同盟した徳川家康は、今川氏真を主君と仰ぐ鵜殿氏を憎み、甲賀・伊賀の忍者の力を借りて、落城させました。その中枢に伴氏の一族が多いことに気づき、三河伴氏にルーツを持つことに驚きました。

設楽氏は、京都の幕府に奉仕していたので、地元の領地管理がおろそかになったと思います。奥三河の山家三方衆の隆盛による、設楽氏の没落を嘆いても、何もできません。

明治以降の設楽氏の子孫について、いくつか文献や金石文を紹介します。

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1  北設楽郡設楽町田峯の設楽貞峻先生の石碑

*田峯小学校

(正面)設楽先生之碑 稲熊徳峯謹書

(裏側)設楽先生ハ名貞峻春峰ト号シ万延元年東京ニ生ル 元設楽郡設楽ノ城主設楽弾正ノ後胤ニシテ旧高千五百石ヲ領ス 父貞晋ハ旧幕府御目付役 母ハ外国奉行タリシ堀織部正利煕ノ長女名ヲ艶ト呼ブ 先生ハ明治初年小学校ニ職ヲ奉ジ育英事業ニ終始セリ 一方書ヲ良クシ漢書ニ通ジ酒ヲ嗜ミ一生孤独ヲ以テ終ル 後年田峯小学校段戸分教場ニ赴任在職スルコト二十幾年本村教育ニ尽瘁サレシコト多大ナリシモ昭和十年十二月遂ニ永眠サル于時七十六歳 先生ニハ縁者ナク学区葬ヲ以テ葬儀ヲ営ミ教子等ト謀リ玆碑ヲ建テ永ク徳ヲ偲ビ霊ヲ弔フ 昭和十四年十一月 段嶺村長竹下角治郎  

*段戸ふるさと会(西川分教場跡)

(正面)ここ段戸西川の地で亡くなられた設楽先生は名を貞峻号を春峰と称され、万延元年12月28日江戸西久保八幡裏の旗本設楽家に生れました。先生は三河の国設楽郡に栄えた元設楽城主設楽資時第34代目の子孫でありました。父貞晋は旧高千四百石を領す幕府御目付であり、母親は外国奉行の堀織部正利煕の長女でありました。先生は幼少より書を良くされ漢学に通じ明治13年南設楽郡長篠村冨保小学校を振り出しに作手村、豊根村の各小学校長を歴任され、明治39年西川に至り以後24年間田峯尋常小学校段戸分教場の主任教諭として僻地の子供の教育に全身を捧げられました。その真摯な姿は深く村人や小等の心をとらえ現在に至っても多くの人々に語り継がれております。昭和10年12月15日74歳にして段戸の土となられた先生には家族無く三河の名族設楽家はこの地で断絶しました。ここに教えを受けし者相集い先生の碑を建て永くその遺徳を称えます。

平成9年5月10日 段戸ふるさと会

*段戸ふるさと会(西川分教場跡)

(正面)設楽貞峻先生

(右側)真徳院学叟貞峻居士

俗名貞峻 昭和十年十二月十五日亡 行年七十六歳

(裏側)昭和四十五年四月吉日 設楽貞峻顕彰会建之

 

2  新城市設楽原歴史資料館資料集第2集、岩瀬忠震

*設楽家略系図

設楽市左衛門貞丈第四子(兄に貞温・資敬・忠震あり、母は林大学頭述斎三女純)

貞晋(さだてる) 寛之丞 貞邦 字大明 弾正 兵庫 号春山 我渓 我澗

         妻堀織部正長女 昌平黌及第 書院番 進物番 系図調 徒頭 目付

         大正13年5月20日没 90才 法名聞法院貞晋日成居士

設楽弾正貞晋第二子(兄に貞曔、弟に貞皓・貞暉あり)

貞峻(さだとし) 龍丸 貞鑑 兵部 号春峰

         南北設楽郡で小学校教員を勤める 昭和10年田峯小学校西川分教場   

         没 76才 嗣子なく絶家 法名真徳院学叟貞峻居士

 

3  新城市川路の聖堂山勝楽寺の岩瀬忠震の顕彰碑

純忠 岩瀬肥後守忠震顕彰之碑 神社本庁統理徳川宗敬題額

岩瀬鴎所諱は忠震川路城主設楽貞通の後裔設楽貞丈の三子なり 旗本岩瀬忠正の養嗣子となりて幕府に仕ふ 時にペリー来航を始め欧米の列強四辺より迫り国歩艱難を極む 老中阿部正弘この難局に処し開国論者の公を抜擢して目付兼海防掛となし海外に対せんとす

安政三年七月米国総領事ハリスの下田に来るや公命を帯びて応接し条約の審議に当たる

国交の破綻を避くるため調印が焦眉の急なるを説く ついに安政五年六月大老井伊直弼意を決するや公全権となり日米修好通商条約に調印し次いで日蘭日露日英日仏の各修好通商条約にも調印す 天まさに忠震を降して日本の危機を救ふといふべし 程なくして将軍継嗣問題に触れ井伊大老に退けらる 悲しいかな懊悩のうちに蟄居の身を向島に終る 時に文久元年七月十一日享年四十四歳なり 設楽氏の世襲代官滝川氏の末裔たる畏友滝川一美君公の偉業を偲び念願の碑を建てんとするや新城市内外の有志二百四十八名岩瀬肥後守忠震顕彰会を興してこれに協力す この碑を建つる所すなはち設楽氏の菩提寺聖堂山勝楽寺なり  昭和六十一年四月吉日

    国学院大学名誉教授 滝川政次郎 撰文

日本教育書道連盟公認審査員 西田  健 書丹

    建立 岩瀬肥後守忠震顕彰会

    刻字 合資会社かじま工業

 

まとめに代えて

 

三河を代表する武士を一人だけ挙げるとすれば、大河ドラマ「どうする家康」に親しむ現代の人は、徳川家康だと答えるかも知れません。三河武士として、最古の名前があるのは設楽氏です。その祖先の伴大納言善男を誇りにする氏族が全国に展開したのを見れば、中央政権で藤原氏に敗北した古代豪族として、同情や称賛の名族と考えられます。 

 

三遠地方歴史と民俗研究会 研究発表会

 

令和5年11月18日(土)  新城市富岡ふるさと会館