富谷国民学校 学童集団疎開

 戦時下、当地相良の町と当山が関わった集団疎開の子供たち

 289日の一コマが映像として記されていました

 

以下桑野氏による資料

 

 桑野龍輝氏      (相良5年生大澤寺学寮)

            (弘前6年生浄龍寺学寮)      

                    

                           平成21年9月25日 

 

 

             萩間日記より

 

昭和19年8月20日(日)晴れ

富谷国民学校学童541名、静岡県榛原郡相良町、地頭方村、萩間村の

一町二村計六ケ寺学寮に分かれて集団疎開した。

 

以下寺院名と収容児童数

 

相良町波津  大澤寺学寮 高橋一郎学寮長  81名

相良町大江  平田寺学寮 吉川芳次学寮長  89名

萩間村西萩間 大興寺学寮 安斎房次学寮長  129名

地頭方村落居 弘法寺学寮 影山勝学寮長   72名

新庄     釣月院学寮 増田喜恵蔵学寮長 97名

新庄     林昌院学寮 鈴木精四郎学寮長 73名

 

             3年~6年生    541名

 

学童疎開は、戦時下の大きな国策の一つとして、新聞紙上にも

「学童疎開の現地報告」が毎日のように報道された。

「子は強く闘っている」疎開学童と郷愁。

親の愛を噛みしめて懸命に自ら鍛錬。この健気さを育もう。

 

学童疎開の食費 1カ月20円(うち父兄負担10円)

疎開学童は居候ではなく、村の隣組員。強く明るい総決戦布陣の第一歩だ。

 

藤相線相良駅へ到着したのは午後8時過ぎ、暗い駅頭に黒山のような人たちの出迎えを受けた。歩いて10分位で大澤寺学寮に到着。

東京駅を出発したのは正午頃だった。故郷渋谷を出発した時は遠足に出かけるくらいのうきうきした気持ちだったが、学寮生活に入って一週間位でホームシックに罹った低学年生が多かった。

 

昭和19年12月7日 午後1時35分、東海地方に東南海地震発生。

死者1223名、負傷者2971名。M7.9 震度6。地頭方村釣月院学寮6年生石井幸子さんが学校の廊下の下敷きにになって即死するという悲しい報せあり。

 

昭和20年3月9日 6年生帰京。6年生を囲んでお赤飯をいただき、帰京の無事を祈る。8時40分相良駅発 みんなで送り、列車のあとを追いかけて手を振る別れが本当に悲しかった。

 

昭和20年5月25日 東京大空襲で山の手方面が焼夷弾により大被害を受け、富谷国民学校も全焼。B29 250機による無差別爆撃。

 

昭和20年6月5日 さらば相良よ。相良を去る日がついに来た。

大澤寺学寮の解散式。幼い戦士たちが寝食をともにし、苦楽を分かち合った289日間の生活に終止符を打った。先生、寮母、作業員の方々、学寮を提供くださったお寺様、本当にありがとうございました。早朝から見送りに来て下さった多数の方々、町長はじめ町民のみなさん、相良小学校の先生、児童の皆さんに感謝。ありがとうございました。

 

再疎開地 青森県弘前市へ出発

 

 静岡県下に疎開した渋谷区学童千数百名は、敵機の侵入、御前崎上空を通過して東京方面へ向かうB29の編隊多数、益々激化、戦局は重大段階に突入し、遠州灘に駿河湾に敵前上陸の噂も聞かれるなど危険なため、青森県下へ再疎開することに決定。

長旅のため遠い青森へは丸二日かかる。弁当は各自七食分を携行。

 

昭和20年6月5日

 藤相線相良駅発  14時32分

 東海道線藤枝駅発 17時03分 再疎開学童専用列車 貨物列車の線  

 路を走る

 品川駅着     22時20分 駅頭はほの暗く警戒警報発令中。

 ホームに黒山のように父母たちがわずかな時間に窓越しの再会。

 「元気か。家は焼けたがお父さんもお母さんも頑張っているから

  心配しないで青森でも元気で頑張るんだよ」 我が子に渡したい

 なけなしの食べ物・衣類、小さな包みをポンポン車内に投げ込む。

 発車ベル。怒涛の様な「万歳」の嵐を残して列車は動き出した。

 20分の面会時間が2、3分ぐらいにしか感じない駅頭の興奮。

 専用列車は上野―福島―山県―(奥羽線経由)―弘前へと向かった。

 6月7日正午前に弘前駅に無事到着。

 駅前の斉藤旅館に数日間宿泊したあと、弘前市新寺町にあった

 貞昌寺ほか十一カ寺に分かれて再びみちのく弘前での学寮生活が

 始まった。

 

 11カ寺(静岡県下の六カ寺学寮の学童全員を編成替えして振り分けた)

  

  貞昌寺 西光寺 西福寺 天徳寺 徳増寺 正蓮寺 教應寺

  専徳寺 浄龍寺 法源寺 遍照寺

 

青森県下の集団疎開生活は、食糧事情が一段と悪くなり、静岡県下とりわけ温暖良好、海の幸、山の幸、みかん、緑茶など食べるものには恵まれているせいか、人の情けも温かく感じられたのに比べて、弘前市の思い出はなにしろ食べ物に不自由した記憶がよみがえってくる。

お寺にいた蛙がほとんどいなくなったのは、殺して皮をはぎ、焼いて食べてしまい、焼き鳥のように美味しかったことを覚えている。

終戦の近づく頃、空襲警報で頭に布団を載せて墓場に避難した時、青森市内が爆撃を受け、空が真っ赤に染まっているのが見えた。

昭和20年8月15日、終戦。みんな集合して玉音放送を聞く。

先生方や寮母さんたちが泣いているのを見たとき、はっきり聴こえず、なんだかわからなかった。

神国日本、いざというときは神風が吹き、絶対に負けないと教育されていた私たち学童には、日本が負けたことが信じられなかった。

10月22日の午後、青森県下から帰京。

母校、富谷小の校舎が無残に焼け落ちた校庭で大勢の父母に見守られて解散式が行われたが、東京渋谷に無事帰れたという実感はまだ無かった。

悲しい思い出として静岡県相良町大澤寺学寮で一緒に生活していた当寺6年生の濱田博司さんが、一旦東京に変えられた後、広島に疎開して昭和20年8月6日の原爆に遭い、亡くなった。

 

学童集団疎開地には静岡相良町に過去4、5回位、有志数人でお寺を訪ねて六カ寺の先代住職、二代住職と地元の方々とも面談し旧交を温めた経験があり、また再疎開先の青森弘前市にも地元在住の友人の案内で新寺町の十一カ寺のうち二カ寺を訪問し、集団疎開当時の思い出を語り合い、二代住職とも交流した。ほとんどのお寺は元の姿で保存されていた。

 

2009年 大澤寺会出席者名簿 平成21年8月15日

                於 新橋第一ホテル 東京B1F

 

出席者

6年(14期)

 関口尚志 佐藤(田沢)弘子 早川節子

5年(15期)

 浅野康廣 桑野龍輝 柴田省治 高木呈之(故人)

4年(16期)

 上田(岩立)二三四 原彰

3年(17期)

 上田(村上)治子 岸田(浜田)君代 柴(桑野)佐知子

 

欠席者

6年(14期)

 岡俊宏 原修 日出(町田)美代子 白井(小沼)孝子 横山千枝 和田孝子 

 藤原彩子

5年(15期)

 浅井忠雄 フォード・アパナイ 矢坂春治 稲葉(重松)悠紀子 

 鈴木(大垣)比見江 山中(早川)澄子

4年(16期)

 斉藤文秀 古市典雄 伊東(葛原)郁子

3年(17期)

 前野裕明 奥村(岡田)貞子 久米(町田)恵美子

 

故人

 恩師 吉川芳次先生 高橋一郎先生 大貫博美先生 

    大森(若林)房代先生 志賀守先生

6年 

 井上四郎 吉田憲司 百瀬(増田)その 浜田博司 中西郁也 

5年

 岩田静 長谷川茂 若林三郎 新国貢 高木呈之

4年

 大宅照夫 鈴木和夫 金杉(南)晶子 

3年

 中野利男 増田隆 岩立忠人

 

以上順不同 敬称略  お問い合わせ 修正等は大澤寺まで