2024年

3月

19日

上平寺城 各曲輪を経て本丸まで

吹きまくる風はお日さまが出ていようが体感温度を下げました。

それでも明るいうちはやるべきことがそれなりにできましたが時間が進むにしたがって気温は低下。夜間は真冬を思う冷えでした。予報では最後の冬がやってくるといいます。

あと少しの辛抱のよう。

 

昨日は彼岸の墓参の集中によって袋から溢れそうになった花ガラを処理場へ持ち込みました。先日行ったばかりなのに。

境内でうろうろしていると、墓参の方からソテツの葉が墓に被ってお参りの際「頭に当たる」とのご指摘。

「そういえば」の心当たりがありましたので、急きょその箇所の部分的対応。袋一つ分剪定しました。

 

そちらを伐っている際、昨日の彼にこの仕事をあずけよう・・と。

しかし一夜明けて彼からは連絡はなし。まぁそんなところでしょう。前回も「また連絡して・・・」と別れてから5年近く経っていました。

 

扨、城好き、山城好きと仰る方々が指向する城郭、数ある中で、この上平寺城はまず出て来ないような。認知度は低いようです。

まぁ私の住まう遠州からそう遠くない地の城ということもあって私にとって難しくもなく気楽なものですが、もしかして信長に影響を与えた(かも知れない)城と家臣団屋敷そして城下町の様を想像するとこの城には独特の有意義を感じるワケで。

姉川戦前に浅井・朝倉が対信長戦のためにそれをくい止めるための防御の城として改変しているところ、歴史的にその虚しさは感じるのですが。

 

まぁあの山系の城たちの遺構に単独で取り付ける方はそうはいないかも知れません。最近テレビ等の露出度の高くなった「お城通」の歴女の皆さんも、特に冬季となれば所々に恐怖を感じること間違いなし。そして期待されている復元城郭やガッチリとした石積みはお目にかかれません。

土塁・空堀・堀底大手のいろいろを見て楽しめる人たちのお城。

まぁ無理をしなければ問題ないですが、とにかく熊の出没だけは怖いですよ。それが山の独り歩きの難点。

特にデカイ動物の頭骨などがコロっとさりげなく転がっていれば尚更、「何コレ~」と固まってしまいました。

 

しかし再訪し、途中積雪のために諦めて到達できなかった他の遺構もこの目にしたいという気持ちがあります。雪が完全に溶けるGW頃が最適かも。そしてそれでもすれ違う人は殆どいないでしょうね。

熊も活発に動いている頃でそれはそれでケアが必要。

 

 

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2024年

3月

18日

上平寺城京極一族御廟所 伊吹神社の先

絶妙の彼岸参りのお天気。朝からお参りのみなさんがひっきりなしに境内を交錯していました。

駐車場は溢れんばかり。

お隣の墓地(他宗)にもお参りの方が路上駐車をしますので拙寺駐車場は一時的ながら交通集中の難儀。

 

午後は15時からの初倉での自宅あげ経のお約束がありましたので昼すぎはのんびりしていると、久しぶりに玄関に訪れた方がありました。ご門徒さんではない方です。

「今日は母親を連れてきました・・・」の第一声。お二人の弁は「おカネがないので食べられない」との困窮の訴えでした。

①おカネを貸して欲しい②ダメなら仕事をさせて欲しい③それもダメなら米が欲しいとのことでした。

以前コロナ前、度々訪れては仕事を希望されて、何か雑務をお願いしたことがあった方。

 

①は当然に却下。②はこれから仕事があるので無理。

よって奥方が米と蕎麦とそばつゆ、切干芋に数時間前にいただいたばかりの夏ミカンに菓子類を袋に詰め込んで渡していました。

奥方の弁はもっともなところ(当流のご門徒さんならともかく)とは思いましたが坊さんとしてその貧苦の様に何も対応しないというのはあとあとの自己嫌悪の元。

ちなみに彼は境内「草むしり程度」の件を主張していましたが、どうせ人を頼むのならもっと違う仕事があります。

穴掘りと30㎏程度の石を運ぶ仕事があるにはあると尋ねてみれば「それはムリ」とスンナリ拒絶。

カンタンにラクに稼げる仕事は無いのですがね。

病気がちの50歳男性と80歳母親でしたが・・・。

行政の助けはムリと仰っていました(持ち家があるため)。

 

政治屋のお偉いさんたちの毎度毎度のウラ金パーティやら見苦しいショータイムでのお楽しみの様が伝わってきていますが、彼らは社会の底辺にいる困窮の人々と同じ空気を吸うことはまずないのでしょうね。何もわかっちゃいないのです。

 

あの出回った報道写真のその男の顔はボカシが入って表情はわかりませんでしたが、青年部とかいうそうです。

女性のパンツにチップを挟んでいる様のその男は禿げ頭のオッサンでした。爆笑させていただきました。老いも若きも・・・

何を嗤うか? お寒く暗いこの国の未来を・・・

バイトテロ並みの暴露画像もニヤリとくるところでした。

 

扨、昨日の上平寺城庭園跡の次は京極一族御廟所になりますが 伊吹神社の先になります。

大層な墓域かと思いきや、京極高清ほか主たるものは徳源院に移されているとのこと。

 

掲示板にもありますが永正三(1506)の銘が見えることは感動です。この程度の大きさの五輪塔、500年以上前の墓碑銘が判明するなんて・・・すばらしい。

画像では「三」が「五」に見えますが・・・

まぁ大差なし、ついつい私はこういう場合、恥ずかしながら高貴な女性を連想、それも若いお姫様を勝手に想うところ、それはあの三の姫さまと同じ

 

ただしそれらと異常接近したところを激写されたとしても平チャラです。奥方にいわせればいつもの「しょうもない・・・」程度。

まぁ「異常接近」が生身の人間というのがバレたらまずシバかれますが。

 

あの画像のハゲてるオッサンの家庭崩壊が心配になります。

そのあとのことは・・・知らね・・・「How Does It Feel? 」 

 

 

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2024年

3月

17日

上平寺城京極氏館庭園跡 五輪塔たち

体を動かしていなくても日の下にいて暑くなるイイお天気。

昨日は、先般取り付けた床下照明のお工作への心配事を少し解消させました。

あのスイッチの電源は外に置いた婦人部寄進の物置の電源と共有していますが、24時間常時通電していました。

殆ど使用しない場所への通電、そこのところ大いに気がかりでいましたが、手元スイッチの位置を変更。

朝晩のお勤めの際にその電源を気軽にON-OFFできるよう手を加えました。

ということで床下照明は朝8時頃~20時頃までということで。

 

そしてまた昨日はたまたま、墓石の納骨室内を確認したいので開けて欲しいとの依頼が2件ありました。

何れもセメントで固定されていて途方に暮れている図でしたが、その件、大概は石材店に依頼される事が多いかと。

 

しかしその場でその件発注することは面倒ですし、金銭的負担も発生することですので、私は時間さえ合えばできるだけお付き合いすることにしています。

殆どお遊び気分で・・・家にいてポケっとしているだけですからね。

二つとも前回とは違って道具は豊富に揃い尚、石材の固定はセメントでしたからカンタンにオープンできました。

ちなみに、手数料的なものはありません。

 

扨、昨日の上平寺城京極家臣団屋敷を過ぎれば京極氏館と庭園跡へ。

庭園跡については滋賀県教育委員会の記述がありますのでそちらを拝借。

 

滋賀県教育委員会 京極氏遺跡群 から

「館跡の北東部には、2つの池の周りに多数の庭石を配した庭園跡があります。この庭は、背後の山や渓谷を借景に取り込んだ池泉観賞式庭園で、西側の斜面裾に滝組石や水分石などの景石が配されています。

また、中央の低い築山には、「虎石」(④⑤に見えます)と呼ばれる巨石があります。この石は、身を反らして吠える虎のような傾いた立石で、組み合った平石とともに、豪壮な景観をかもしだしています。また一説には、 この石組は蓬莱思想を示す鶴石や亀石であったともいわれ ています。

様々な宴や儀式が行われたであろうこの庭は、大永三年(1523) の館の終焉とともに長い眠りにつきました。

京極氏館跡の庭園は、類例の少ない戦国時代の武家庭園のなかで、作庭時期が判明する貴重な名園なのです。」

 

 

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2024年

3月

16日

上平寺城登城序盤 より古い太平寺城(未達)とは

暖かな陽射しの恵をいただきました。

よって花ガラの処理等、地頭方に向かうなど外仕事を少々。

そして昨日記した「相良城二ノ丸御門 太鼓矢倉の刻太鼓」の画像について、能書き文言の製作。

写真サイズの図を添付していましたが、如何にも図絵にある「タイコヤグラ」の字が見にくい。

よって、午後から島田のショッピングセンターに。

そちらには四つ切サイズにプリントアウトできる機械があります。

 

昼飯は店内の「マックでいい」と奥方が。

入店した際は繁盛の様でしたが、無事プリントが終了してしばらく、帰り際その店のカウンターにはロールスクリーンが降ろされて突如の閉店休業。

「ワケわからん」と目を見合わせて、店を出ました。

その件、全国的、いや世界的なシステムエラーということでしたが、日頃の利便の「反面」が出たようですね。

私どもにすれば、どうでもイイことでしたが。

選択肢はたくさんあります。

「システム」とか言っても人が作ったもの、アテになりませんね。生命に関わることでなければまったく許容できます。

 

扨、数時前まで記していた近江米原での寄り道の件。

いつもの事ですが、以前の画像です。

私のその寄り道の目的は上平寺城でしたが、上記画像はその家臣団屋敷址の図。

安土城の大手道脇を連想しました。

 

あの時私は、欲をかいて、うまいことそのお隣の太平寺城にワープできれば・・・という魂胆が密かに芽生えていました。

その城は同じ伊吹山麓にある京極家の城です。

 

私は家中で奥方に城歩きのリスクについて、時に死について思うこと等々吐露していますが、城には「ヤバかった」の反省がつきものです。

その全てが山城で冬か春にかけての季節というのが同じ。

そのNO.2を思うのがこの上平寺城というかそこからの太平寺城へのちよっとした迷いでした。

ちなみにNO.1は凍結、ノーガードレールの岩村城です。

 

上平寺城本丸からさらに伊吹山の標高を少しばかり上がり西方向に進もうというものでした。

5合目あたりには無かった積雪が歩行困難としたのですが、私はあの時、凍結した崖をノーロープで10mほど降りて沢までチャレンジした覚えがあります。

そこで「これ以上進んで何かあっても助けは来ない」を察しました。

よって諦め。再びその崖を這いあがったのですが、自宅に帰ってからその無謀に苦笑いしたものでした。

あの降雪では遺構の様子は見ることは難しいということもありましたが、人間の欲というものは真に計り知れない・・・あのブログでは最終目的地は上平寺城とは記していましたが、内心太平寺城もやっつけたいという気持ちがありました。

感覚的に冬の近江の山城はヤバい。

かといって夏場には行く気がさらさらしません。

各所に熊出没注意の看板が・・・

 

ここにまだ登城していない太平寺城ではありますが、しっかりと日本城郭大系に記されていますのでそちらを。

 

太平寺城 坂田郡伊吹町太平寺

 京極氏信   鎌倉時代中期 別名 霞ガ城

 標高1000m

 

太平寺城は佐々木信綱の四男氏信(京極氏の祖)が江北の愛知・犬上・坂田・伊香・浅井・高島の六郡を相続し、伊吹山(標高1337)の西側の山腹にあった伊吹山四か寺の一つ、太平寺(太平護国寺)の寺域に、その居城として築いたものである。

この城は江北屋形と称し、氏信以後、南北朝時代の京極高氏(道誉)や高秀、高詮を経て京極高清までの居城としてあったが、永正年間(1504~21)に高清が上平寺城に移り廃城となった。

現在伊吹町太平寺の集落は、大阪セメントの原石採集場に近接することから春照に集団移住してしまい、人は住んでいない。

「近江国坂田郡志」によれば、この上方600mに城跡があり、石塁などが残っているとある。

 

 

 

 

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2024年

3月

15日

相良城 太鼓矢倉刻太鼓 「タイコヤグラ」位置確定 

 

先日、雨続きの日々がようやく過ぎたその翌日の晴天に「そろそろどうでしょう?」とのある依頼の打診がありました。

それなら「午後一番に現地で」ということで話がまとまりました。

 

「墓じまい」の件です。

某家ご一統7~8件の集合墓地のうち一基を墓じまいしたのち拙寺の「一處墓」への納骨の依頼を承っていました。

これまで「いつでもいいですが暖かくなってお天気の日に仕舞いましょう」と超曖昧な返答をしていました。

 

 

前回それを承諾した時からそれを主導していた3人の姉妹(実家継承者不在・・・)のうち既に一名が逝去されたといい、「何しろ早く早く」の気持ちが表れていました。前回は私の所要と重なってお断りしていましたから私も申し訳ない思いでいましたので。

 

半年以上前に初めてそちらの墓地を拝見した際は墓石の撤去も検討されていましたので、石屋さんを同行して下見、撤去処分の見積もりを出してもらっていました。

すると金銭的事情により墓石は撤去せず、とりあえず放置。

中にある遺骨(骨壺のままでした)を回収して欲しいとのこと。

姉妹たちは各嫁入りし、本家に継承する男子が亡くなった今、その始末をつけるというものでしたが、どなたも高齢者、金銭的余裕は無かったよう。

尚、一統親類のみの墓域ですので、墓石が残ってもさして問題はないとのことでした。

 

その際の当家奥方は「墓石屋の女房」。先日は火葬場へのご遺体の搬送運転手をしていましたので早変わり。

当該墓石、どういうワケか前回カンタンに開いた納骨室の石扉がガッチリとシリコンで接着されていました。

殆どの道具類は軽トラから降ろしていましたのでまともな道具は無し。よって唖然。

接着個所はシリコンです。私は「親切な親類の方がガッチリと留めてくれたのでしょう・・・」と落胆半ば諦め。念のため軽トラのダッシュボードの中を覗きに行きました。カッターの1つでも・・・と。

先ずカッターの有無は第一義。

 

墓石の接着、最近の耐震を意図するものは別ですが納骨室の入口の石材接着にシリコンを使用することは「まずない」からです。

通常そちらはセメントでの施工か何もしないかが殆どですね。

要はシリコンでの接着はプロの仕事ではないということです。

ちなみにセメントであればソフトハンマー等で石を少々叩けばカンタンに壊れて外すことができます。

 

よってシリコン接着の場合の道具はカッター。墓じまいのお勤め後その存在を一応確認に戻りました。

その一番必要な文房具が不思議なことにダッシュボードに・・・

喜び勇んで奥方にマイナスドライバーとともに手渡しました。

まさに奇跡としか言いようがなし。

20分程度の奥方の奮闘後、納骨室は無事オープンでき私も衣を脱いで今度は墓石屋として遺骨を取り出しました。

 

結露によって骨壺内は水浸し。

「1カ月くらい経て(乾かして)納骨法要を」と遺骨たちを引き取りました。

これで施主さんたちの気持ちは落ち着いたことでしょう。

 

扨、昨日記した拙寺本堂の時太鼓の件、何気なく手元にあった

相良城の図を眺めていると、その櫓(矢倉)推定位置として長谷川氏が指摘していた「白い□ 」(昨日)の脇にしっかりと「タイコヤグラ」と明記されていました。

 

絵図は天保五年、森町の山中豊平筆相良城図です。

一昨日は史料館にその件で駆け込んだのでしたが実は手元にこの絵図があったというオチでした。

ただし、思い付きで私が騒ぎ出さなくてはこれは気が付かなかったかも。

おかげさまで意義ある発見ができました。

 

相良城二ノ丸、門を入ってすぐ、堀脇にあった「タイコヤグラ」。

「相良城二ノ丸御門 太鼓矢倉の刻太鼓」これでどうでしょう。

すると奥方から「長すぎる・・・」。

 

 

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2024年

3月

14日

拙寺時太鼓 時か刻か 矢倉か櫓か そして何処に

朝から風びゅーびゅー。

掲示板ポスター貼りの仕事は厄介でした。

 

 

扨、先日は「陣太鼓」なる酒の銘柄の復活について記しましたがその進展がありました。

要は商標権の問題でそれは使用不可ということがわかり降り出し。

時間軸からしてその相良の陣太鼓酒造が早いのだろうと思いますが現在既に他者が登録してしていたということです。

ということで他の名称で登録せざるを得なくなり、もう既に仮登録の承認まで受けているとのこと。

正式な名称をこちらで発することは拙速、もうしばらく。

清酒「〇〇〇〇」四文字です。

史跡調査会若手の方からは「そちらの方が断然イイ」との声が出ていました。

 

その「陣太鼓」といえば般若寺に存在するそれとその伝説が相良では有名ですが聞くところによれば酒造創業者の山本敬三氏が般若寺に寄贈したものといいます。

太鼓は刃物で裂かれたため、製作者と年代(明和)が記されているそうですが、その所縁についてはハッキリとはわからないよう。

 

先日の世話人会の後、拙寺本堂にぶら下がっている「時太鼓」について指摘される場面がありました。

世話人会での議題の中、ご門徒さん方に田沼時代含めて歴史的文書、図画遺物等が伝わっていたら「申し出いただきたい」旨お知らせしていたわけですが、改めてこの太鼓も田沼時代の遺物であることを「ハッと」思い起こしたのでした。

 

これまでは太鼓といえば般若寺というイメージがあり拙寺が出しゃばるのは少々憚られるという意もあって沈黙していましたが、ここは来年の拙寺来訪者にも是非目玉として紹介したいという気持ちが膨らんできたのでした。

 

そこで昨日は思い立って史料館の長谷川氏のもとに。

私の疑問と意見を伺いに。

そもそもその時太鼓の正式名称と「相良城の・・・」といってもどちらにあったのか・・・です。

 

そして名称について「時太鼓」とは堂内で紹介していますが世間では「刻太鼓」の名称も聞くところ。また、その太鼓がかつてあった場所ですが「太鼓櫓」か「太鼓矢倉」、どう記せばいいのか・・・。

正式な名称を固定するに「相良城 太鼓矢倉刻太鼓」はいかが・・・でしたが・・・

尚「櫓太鼓」という名は大概「相撲興行」のイメージ。

 

相良城の建物については長谷川氏に示していただいた相良町史の数ページ。②の「相良城取り潰しの様子」の一月二十日「大手御番所・二ノ丸御門・太鼓櫓打ち潰す」とありました。

④には「御太鼓矢倉」・・・

 

①③図を見ると「櫓」の文字。「どっちでもイイ」という感じですが私は「矢倉」で「刻」でしょうか・・・。ただし「時鐘御用」の梵鐘の「時」と統一しないとイケませんね。

 

尚、「御太鼓矢倉」の場所について・・・長谷川氏の推定位置は③中央の二ノ丸御門入ってスグ、堀側の白い□です。

上記一月二十日の順番から推定と。

 

拙寺の太鼓は出所と文献と実物があるわけでなかなか強いアピールができると確信した次第です。

尚、太鼓の中を覗いたとしても般若寺の陣太鼓と同様、「作者と年代が記してあるだけだろう・・・」とのこと。張替など無駄。

穴でも開いていたらスコープを突っ込んでしまうところですが・・・

 

 

 

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2024年

3月

13日

京極高清の上平寺城 城下繁栄と城郭との関係

一日中雨。

寒さは控えめでしたが外仕事は不可です。

また、あい変わらず頭痛が残っていましたので好都合とばかりにぐうたらした一日を過ごしました。

 

それにしても墓・寺・城をぶらつく時には不調だ何だのと弱音を吐くことはありませんから、家に籠ることによってさらに不調をもたらすが如く。

だから人は「外に出る」ことに意義を見つけなくてはならないのでしょう。

 

昨日は次の次の大河ドラマの発表がありました。

さすがに戦国時代のお話になるかと、少しワクワクしていましたがその報道を見て、声は小さくなってしまいました。

一応直接のスポットは初めてとはいうものの食指が動きません。

視聴率低下傾向にあってあまりリスクを取りたくないというところなのでしょう。

 

扨、昨日の続き。

伊吹山の南麓。

彼の地が古くからの京極家上平寺城と城下町ですね。

信長の手で蹂躙されたか、今はその城下の面影は感じられませんがその城と城下町の関係の存在こそ後世の各地その形態の発展に繋がったのか・・・

この付近の地名を昨日のブログで記したもの含めて眺めると拙ブログの「江州佐々木南北諸士帳」の坂田郡 に出てきます。この地域には京極家家臣団の城塞、屋敷が林立し町人商人たちの賑わいが感じられるのです。

 

いつもの如く城郭大系から転記、尚現在は米原市です。

 

上平寺城  坂田郡伊吹町弥高  

  京極高清    永正年間(1504~21)

  別名  1 桐ケ城  2 霧ケ城  3 刈安の尾城  4 上平城 

  標高  666 比高380

上平寺城は伊吹山の南側の山腹、弥高山の刈安尾の尾根にある。

永正年間に京極高清によって築かれたもので、近江と美濃をにらむ位置にあった。

高清の築城以前にも、明徳四(1393)に京極政経が弥高から出陣していることが伝えられているので、何らかの基地があったものと考えられる。

また、上平寺という名は、伊吹山四か寺の一つ上平寺(上平護国寺)の寺域にあることに由来している。大永三(1523)には京極氏の内紛によって焼失した。

 

上平寺城の古図によれば、刈安尾の本丸、南に少し下った台地に二の丸、谷を隔てて中三之丸・小屋敷、ここから七曲りを山麓に下って台地に京極氏の居館(御屋形)があり、南へ城下が開け、諸士屋敷・町屋敷・市屋店屋が存在したことが知られるのである。

戦国時代の山城と城下の関係をよく示している。

なお、元亀元(1570)には姉川合戦に先んじて、近濃国境の刈安にも織田軍に対する要害が浅井・朝倉軍によって構えられたが、木下藤吉郎によって誘降されたことが「信長公記」に見える。

 

 

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2024年

3月

12日

米原藤川に寄り道 杉沢のケヤキに沿道の墓石

日曜日に思わず重なってしまったこといろいろがありました。

とりあえず何とか遂げられたことは満足していますが、一夜明けて絶不調に陥っていました。

奥方は疲労が重なったといいますが、私は「何を喰わせた?」。

他者に責任を押し付けようとする醜さよ。

 

以前なら数年に一度、最近だと1年に一度くらいに頻度が上がっている原因不明の体調不良の件ですが、激しい頭痛に嘔吐と急変状態。事務仕事は残っていましたが、全く手つかず。

折角の晴れ間に溜まった花ガラを処理場に搬送することもできませんでした。奥方からあと少しばかり灯油の追加購入も言いつけられていましたがすべて放棄。

勿体ない・・・大切な時間を消費してしまいました。

 

体調不良の布団の中で思うことは、こうやって布団から出られなくなって、いよいよ動けなくなりやがて死んでいく・・・とふと思うところ。不調の際はその手のことがよぎってきます。

しかし、まぁ布団の中は暖かい。

そしてそこに居さえすれば電気代光熱費はかかりませんし昨日は食事も口に入れられませんでしたから食費もかからず。

おカネが無ければ家で寝ているのが一番だという発想も浮かびましたが、普段はそういうワケにはいきません。食べて動けていてこその健康ですから。

本当に動けなくなった時、それが大問題ですね。

あと地震崩落、天変地異によって家が一瞬のうちに無くなってしまった時も。

 

一昨日はテーマは「路上」などと「110番街交差点」なる曲名を記しましたがそういえばそのアルバム(息子の好み)には「Street Life 」というアップテンポの曲がありましたので追記。

「路上生活」の心得・・・甘っちょろい私には理解できない部分多々ありますが、いずれ私が石ころの如く放り出されるのならば、その準備は必要です。水と米とカセットコンロ等々これからいよいよ。

 

奥方から「何故にしてアメリカには底辺を思わせる内容の詩が多いのか」と聞いてきました。

あの国には「無常と現実を客観視できる詩人がいて日本の恋だ夢だ希望のメルヘン指向と違って特に前者がウケるのだ・・・」。

不条理世界の底を這い回っている私も息子もその傾向ありますね。

 

裏金ギインの殿方も少しでも寒くてひもじい思いをするのがよろしいかと。

路上の寝食あるいは転がる石ころになってこそ初めて各有難さというものがわかるのでは?。

そうしてそれぞれが自らの始末をしていただくこと、お願いしておきますね。

 

扨、昨日はかつての京都界隈のウロウロについて触れていましたがあの頃といえば帰り際に近江のどちらかに寄り道するのが楽しみとなっていました。

近江なら何処でもいいという感じでふらふらっと寄り道したものでしたが、中でも米原という地は近江「今井」の思いあって親しみ深いものがあります。帰宅の道すがらということもありますからね。

 

ただし3月といえど伊吹山周辺は普通に0℃近い気温もあり、また、突然の降雪で尻尾を巻いて逃げるようなこと幾度か、毎度何れかの地で「死にそう」になったことがありました。

近江という地は私にとって比較的その方向に針が振れやすい場所です。

 

画像は何気なく通過した道端にあった「杉沢のケヤキ」(場所はこちら)に墓域。

自然石に六字の名号が記されていますが、法名が脇に見えるところ、これは墓石。他に近江の地ではごくあり触れた景色、五輪塔たちの集合が。

 

 

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2024年

3月

11日

三方ヶ原墓園にて 失礼 ごめんなさい

一昨日よりはまだ良かったものの低温の名残りはありました。

今週末には「本当の春の穏やか」を体感できるそうですので

あと少しの辛抱です。期待しましょう。

 

先日の新聞記事。

「単身の高齢女性 4割貧困」の見出しでした。

65歳以上の一人暮らし女性の貧困率が男性より14P高く44.1%だといいます(厚労省データ 都立大教授が算出)。

特に女性は未婚・離別・死別等による独り身というのがそのリスクを高めるとのこと。

 

その貧困とは「この社会で殆どの人々が送られている生活を享受できない」ことを言うようですがそういった一般的に「普通」と思われている生活ができなくなる女性たちが2040年には540万人に上るという試算があります。

 

先日もその手の件に近い事案について記しましたが若い世代がその先輩諸氏をどうケアできるのか・・・国の支援のウェイトは重いものがあるのでしょうが、今となってお国のエライ方たちに吐きたい言葉は「How Does It Feel? 」。

これはボブディランの曲に何度も出てくるフレーズのパクリ。

「記憶にない」という方が大勢いらっしゃるよう。

それなら何とも感じることはないでしょう。これは失礼。

 

あと子供の貧困率7人に一人というのも。

いつもの「What Do You Do? 」(劇中の台詞)です。

裏金湯水放蕩の政治屋どもを放置したツケは誰が負うのです?

そして寺として何ができるか・・・課題ですね。息子と話し合わなくては。

 

昨日は浜松にて法事。午前と午後、息子のピンチヒッターとして向かいました。

午前早めの三方ヶ原墓園の空は快晴でしたが薄っぺらの法衣にはこたえました。晴れたことには感謝です。

15時前にギリギリ寺に帰着、おかげさまで世話人会に間に合うことができました。

折角の晴れの日曜の午後・・・ごめんなさい・・・

 

 

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2024年

3月

10日

烏丸下立売交差点 信長二条城武衛と御所の境界

昨日も朝から風と低温。

夕刻に、ある方から「寒い日だったね~」と声を。

私の応え・・・「頭にくるほど寒かった~」

一寸でも外に出れば指先、足先が冷たさで硬直し不快を存分に味わいました。特に本堂内は・・・

血流が歳のせいで悪化したのか、というより完全に寒気のせいだと思います。

ただ以前ならばそんなコンディションも平チャラでいられましたが今は忍耐こそ肝要と。これは心身にとって大いなるストレスになっているということですね。

この季節、いろいろ体に良くない・・・。

 

扨、これからお天気情報の中で各地のサクラ開花日を予想する場面が出てくる頃です。

あと10日もすればあちこちでそんな声が聞こえてくるかと思いますが、やはりサクラといえば日頃自身が住まう地のものではなく、何気なく通りすがりに咲くそれに感動を覚えたりしますね。

因みに私ども境内のソメイヨシノやシダレにはまったく開花の雰囲気はありませんが。

 

烏丸下立売交差点から。

この突き当りに息子の学校やらその北に息子が1年目に入った寮がありました。

画像はあの2016年の熊本地震の2週間前にそちらを通過した際の図ですから新しいものではありません。

 

「〇〇交差点」など記すと私の頭の中はイカれているのか「110番街交差点(Bobby Womack)」のイカした曲を連想します。昨日触れた「Like a Rolling Stone」と同様、テーマは

「路上」でしょうか。

道の傍らには色々な人生が交錯し、流れにまかせて、仕方なく生きるための必死というものがあることを示唆しているようです。そして石ころの如く道に転がる・・・のですね。

 

日々困窮してその日暮らしとなる者も、カネ次第の刹那の楽を望む者も、もっともっと、さらにさらにの欲望見え見えをちらつかせ演台に上る者も・・・時にガードレール脇に倒れて石ころの如く転がる・・・いや既に石ころなのかも知れません。

世界では飛んでくるミサイルの下にいて何時石礫、瓦礫になるかわからない運命を待つ子供たちがいました。

 

私の死する場所がどちらであるかなど知る由がありませんが

せめて寺で死にたいというのが大いなる望みです。

ガードレール脇の道端と病院のベッドに寝たままというのは想像し難いところ、それ以外だとしたら・・・山城で滑落・・・それを言ったらいつものように「誰が引き取りに行くんだ」と怒られます。まぁ、勝手にしやがれ・・・まかせます。

 

その交差点の先(京都駅を背にして)右側が蛤御門。

要はここいらから通の向こう側は御所ということです。

サクラの満開画像はその年の3月31日。

①④青天門です(場所はこちら)。

 

そちら烏丸下立売交差点を左折してスグ右手に長屋門。

それを見やりながら進めば次の交差点左角に立つのが信長の二条城の石碑でした。

そちらは平安女学院の区画になります。

烏丸通に戻り交差点前の左側には教会が。学院はこの教会に併設されたということですね。

そのスグ脇に菅原院天満宮でその対比が圧巻。

いろいろな信仰と歴史が交錯するのが烏丸通でした。

やはり画像にはガードレールなどを一緒におさめたくないですね。

 

 

 

 

 

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2024年

3月

09日

聚楽第 中立売通の2標識追記 肥前唐津藩邸跡

思わぬ良きお日和が訪れ気分よく境内に飛び出しました。

朝方は怪しかったですが・・・。

ニュースでは関東地方の降雪状況を伝えていましたので当地の上々天気は誇らしい。

ただし午後15時以降風が吹きまくって気温低下。

 

私は南方系の植栽たちのケアと境内植木の剪定を少々。

外にいて何かしら動いていればホットになれるくらい。

お参りの方とも手を止めて立ち話になります。

そこで最近のありがちな事案について投げかけられました。

お寺とのお付き合いが希薄となって、「その時」をどうしていいかわからないといった友人がいるとのことでした。

 

要は「おカネがない」というのがその方のいつもの主張だそうで、また現在、親族の遺骨を抱えたままになっているとのこと。

私は「おカネがない」はどなたも抱える悩みですがそれを理由にお寺として拒絶はできない旨伝えました。それはどちらのお寺でも同じ・・・と。

「お寺の総代等と膝を交えて実情を話し将来のことまで模索するというのがスジ」ということを告げました。

 

将来の事とは「自分のその時」のことを含めて、ということですが立ち話の中、健康な時はどうしてもそこのところは気にも留めず「その時はその時」風の口上で大丈夫の躰を晒して生きているもので、日頃から子を交えて家族一同その件共有すべきであると。何故にその件(自分が死ぬこと)思考停止になっているのか・・・

私が「やはり家族は大切」と言ったのはその問題を提示された方にはしっかり子供がいらっしゃったとのことで。

 

私の場合はそのような面倒くさそうな件の判断は総代さんたちに投げてしまいますが、まずその場では「子供らは何やってんだ・・・」となることは間違いなし。

実際、その子供達がその件を放棄しているようですが、遺骨になる前にどうして皆で思案できなかったか・・・その手の話をよく耳にするようになりましたね。

 

子供達に仏に手を合わせて頭を下げるその背中を見せて来なかったということでしょうか。

何でも自由に好きな事をやらせるということも悪くはないのですが。

 

昨晩はNHKのアナザーストーリー「ボブ・ディラン」を視聴。

そこで「ライク・ア・ローリング・ストーン」の歌詞を今一度検索眺めていました。

お調子にのって大丈夫の躰ですごし、その後落ちぶれた人に向って「どんな気分だい?」とはちょっと言いにくいところですが。

まぁ親鸞さんからすれば、我らは皆同じよう、そこいらに転がっている石ころのようなもの・・・

 

扨、中立売通沿いにある聚楽第の石碑は私の知りうる物で2つありました。

烏丸通に近く息子の住処に向かうために右折する交差点脇にある A「聚楽第東濠址」⑤⑥の石標と 中立売通をそのまま正親小学校辺りまで行った左側の B「聚楽第本丸西濠跡」①でした。

 

いつかそちらを通過した時のこと⑤⑥石標には別の掲示板が添えられいました。そして背後からの図です。

Bにはその並びにあと二つの石標が立っています。

その一つが平安宮大蔵省跡②。

そして唐津小笠原藩邸跡③④です。肥前唐津藩主小笠原長行(1822~91)の藩邸跡ということですが、京都の御所近くということもあり、色々な遺構が重なってあるという一面を見ることができます。

尚彼は老中として辣腕を振るっています。

もうちっとばかしうまいこと戦ってくれたら・・・などとタラレバの余分な事まで。

 

 

 

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2024年

3月

08日

聚楽第北の地名と細い通と町屋

お日さまが恋しくなる日々が続きます。

気温的にはさほどの低下はなく寒さを苦に感じることはありませんが曇天の暗さと雨混じりが続くのは私だけでなく愛すべき植物たちの成長にとっても気がかりです。

まぁあの連中は結構したたかに生きますから・・・

心配すべきは・・・私そのものなのでしょう。

 

天気不安定なこの時期、乾燥しているワケがないのですが全国的に火事が多いような。

日々各地で火災による悲劇の報が伝わっています。

私が思うにこの相良という地は火災延焼の悲劇を味わっている歴史がある割にそれへの警戒感は薄いような。

 

街区の消火器や消火栓とホースの設置が少ないですね。

ちなみに御前崎の街中を走っているとあの赤い箱(消火器)が

結構に目立ちますし時に消火栓+ホース収納の提示も見られます。

ところが拙寺周辺にその赤い箱は見かけません。消火栓の埋設箇所はあっても(たまたま私が知っている)ジョイントするスタンドとホースは近くにありません。

これで初期消火にどう対応すればいいのでしょうかね。

テーマは119が到着するまでの「その時間」なのですから。

 

扨、息子の京都時代は全部で3カ所の居所を変えていますが昨日記した黒門通の地は2回目の場所。すべての引っ越しに私が関わっています。私の学生時代とは大違い。

3回のうち私としては一番行動しやすい場所でした。

 

たった1度だけ息子の部屋に泊まったことがありましたが、それがあの熊本地震が発生したあの日でした。

彼の住処は3階の隅で、真下の八百屋さんの先に昨日の石碑が見下ろせる部屋でしたが、この地震の報を得て、次に彼の部屋を訪れた際にザイルと軍手セットを届けました。

3階ならばハーネスは不要と判断、軍手で下降できるかと。階下の手摺に足が掛かりますので。

有難くも一度も使用されることなく、ザイルは今、私の車に積んでいます。尚、彼はその八百屋さんのご主人にお世話になっていたようでした。

 

彼のその住まいの名称は「西陣」の名が付いていましたがそちらから旧聚楽第方向に武家屋敷跡からの歴史いろいろを体感できます。

歩けば新しい発見が次々と。

地名で言えば昨日の弾正町に続き飛弾殿町、そして如水町。

蒲生氏郷(飛騨守)の屋敷跡。如水町は勿論黒田如水。

④の奥の看板からこの辺りを「聚楽」と大きいくくりがあることがわかります。

③のバケツは消火バケツ。「念には念」それが京都です。

相良の地以上に火災・災禍にヤラれていますからね。

 

最後の3つの画像が、「黒門通中立売上ル飛騨殿町」なる地名 黒の威風の主張を感じる御菓子司「塩芳軒」です。

天正の印がある「聚楽」なる菓子がありますが私が行く時はいつも閉店中。

息子にはそういうものを私どもに購入して・・・などの気配りはまったくなし。

まぁ「今」を彼なりに満喫してくれればそれでヨシ・・・

 

 

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2024年

3月

07日

聚楽第石標と 弾正町石標の記憶 

来年催されるであろう各イベント対応として相良史跡研究会の活動が進行しています。

現状小澤会長が進めているかつての相良の酒「陣太鼓」の復活の件、将に実現しそう。

お土産としてサイズ、一升瓶はまぁいいとして、お気軽さを強調するため小さいタイプをバンバン販売していただきたいものです。

相良の酒屋さん3軒に声を掛けその運営も了解済み。

アルコールの販売は素人が手を出せませんから。その3店のうち拙寺ご門徒さんが2軒。

境内に楽市をたて出店していただければまた有難い。

 

 

そして以前、市が主導的に運営していた「ブラ田沼」という実地史跡案内の件、史跡調査会で一部お手伝いするということを検討しています。

まぁどのように来訪者をコントロールされるのかなど難テーマまたぞろですが、案内をするにしろコース選定のうえ、各伝承地とその解説をしていきますが、先般私は新規にその「伝○○の地」的標識を設置をしたい・・・など提案したところでした。

それがあるかないかでは説得力今一つになってしまいます。

 

「ホントかよ」との指摘が出るにしろここは一気に「えいやぁ」という具合にそれをやっていくべきとの主張を。

まぁ地権者の承諾が第一義ですが、それをどういうカタチでやるかというのも課題。

私は予算を戴いて「石標を立てる」提案をしたつもりでしたが、立て看板だけでイイとの意見がありました。それは安あがり・・・

どうあったとしてもいいのですが私のイメージとは違っていました。

まごまごしていたらあっという間に時間が過ぎてしまいます。

月一のミーティングでは収拾がつかないかと。

 

扨、私の石標のイメージはコレです。

オシャレなプレートは不要ですがせめてこれくらいの物(この半分くらいでもいい)を想定していました。

石屋さんに依頼すれば工賃込みで10万円程度かかりそうで本数にもよりますが予算オーバーでしょうね。

聞くところによれば市は1億2000万円の予算をたてているようですからその辺りの気配りをしていただきたいものです。

史跡調査会に少しばかり工面していただけないものでしょうかね。案内人はボランティアなのですから。

 

画像は息子が京都在住の際、彼の住処の目と鼻の先にあった石柱標識です。

昨晩、NHK「秀次事件」を視聴しましたが彼の地(またはこちら)千田嘉博が聚楽第石標脇に登場していました。

中立売通の左に職安、右に聚楽第の標識を見て右折し彼の住む建物に向かいましたが、その番組を見てそういえば・・・と思いこちらの画像をアップしました。

何せ幾度もこの地を訪れています。

要は聚楽第のごく近く、かつては付随する武家屋敷が林立する場所だったわけで、息子が羨ましく感じられたものでした。

この地が弾正町となります。

 

尚、この石標の背後にあるさぞかし高級そうな建物に息子が住んでいたワケではありません。

その名を記せば黒門通の「シルクメゾン弾正町」良き名前です。

「シルク」はこの地が西陣と呼ばれ染色に関わる地であることとと「弾正」は町名ですがそれは上杉景勝の屋敷址から。

彼の官途名が「弾正少弼」でした(場所はこちら)。

 

相良には高坂弾正の屋敷址の伝承があります。

そちらにも標を建てたいものです。

 

 

 

 

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2024年

3月

06日

城砦の根古屋を思う徳山寺周辺

昨日昼食時に尾張清洲でお寺が延焼中との報を知りました。

スマホのニュースでしたが、気がかりなことでした。

その手の事案は特に日頃から気に掛けているところですが、以後気分は最悪。

時間が経つにつれて「一人搬送」→「一人死亡」と変化し、「四棟延焼、出火はお寺から・・・」などの追加情報が。

色々なサイトを見回す私がありました。

 

その各レポートに対して某サイトのコメントに「御冥福をお祈りします」などとありました。

「いよいよ嫌だな~」と思いました。「私のその時」にその語が投げ掛けられたら・・・もそうです。

親身を思う丁寧な温情を思わす語になっている言葉で、それに文句はあまり言いにくいことですが、逆に真宗系ガチの者にとってはその語は嫌悪にも価するものですからね。

 

何故なら真宗(浄土系の宗旨もしかり)には亡くなって「冥途」には行かないからです。

よって「冥途の幸福」・・・「冥福」など祈られたとしたら却ってムカッ腹が立つ・・・といったところ。

冥途については以前もどちらかで記したかと思いますが「冥王星」のイメージが近い。

そんな遠くて暗くて寒そうで空気も吸えそうもない場所に「福があるかよ・・・」でした。

 

しかし弔辞、弔電を聞いているとそこここにその語彙を入れています。悪気はなくともお気軽すぎ。
その「冥途」の語の使用はあくまでも当人限定の謙遜であり、他者が亡き人に言うことではない・・・
そう思います。

まぁ、私の時にもし、そんな弔電が届いたとしたらカットするよう伝えておきます。カチンと来て起き上がりたくなるくらい。

行く場所がお浄土に決まっているのが浄土真宗ですからね。

 

扨、昨日の徳山寺

あの時は本堂でたまたま寄合があったようで、境内をうろついているとご門徒さんから「住職がいらっしゃいますからどうぞ~」と声を掛けられ靴を脱ぎました。

よって堂内にて自己紹介をさらっと。

昨日の案内書を戴いて堂内の撮影。②の柱に掛けられた画は珍しきものです。

ついつい調子にのって正信偈でも・・・と閃きましたがそれはご住職の仕事ですので控えることにしました。

以前幸田の明善寺でお勤めしたことを思いだしましたが・・・。

 

この徳本寺のある地形は城塞に付属した寺を思わす雰囲気。

西に向かって谷がありその前面に外堀の巴川。東側背後には高地を控えています。

やはり伝承ではこの山に城塞があったとのこと。

豊田市に問い合わせて確認したわけではありませんが、本堂の石垣や境内奥の建物のベースとしている石積にその雰囲気を。

何時の造作かは不詳ですが。

 

この山は時間が許せば遺構探索をしたいところでしたが・・・⑩はお寺の駐車場から⑪は東側からの図。⑫はマップより。山は現状新東名高速が貫いています。

 

因みに昨日は啓蟄。

それを過ぎると藪の中=マダニ。これからが一番ヤバイ時間で

以後自重に限ります。

というか現在どちらにも行こうという気がおこらなくなりました。

 

⑤⑥は墓域ですが、その「中根」さんに親しみを感じました。

聖徳寺の中根でしたが(箱柳城)そちらに当家三代祐傳の母、成瀬正義の妻、勒さんの出所を推測しています。

 

その寺もそうでしたが城と寺の近接と根古屋の存在を思ったところです。

そして三河の「ガチ真宗門徒」の歴史も。

 

 

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2024年

3月

05日

証如上人裏書阿弥陀さん絵像 徳山寺

昨日記した「聖人」の件、もうひとつまどろっこしいのが「上人」の称。

要はイメージですが「スーパースゴイ」のが「聖人」でスゴイが「上人」といったところでしょう。

いずれにしろその称号はご当人からすればどうでもいいことでしょうね。

それほどの人格者が「スゴイ」と評価されることについてまず望んでいないでしょうから。

そしてその称号は宗門が育んで伝えたものでしょうから、他流の人達からすればさらにどうでもいいこと。

私は親鸞さんに蓮如さんなど「さん」付けが一番言いやすい。

 

当流では各善智識のその称について親鸞さん以外の場合公式には「上人」呼びになりますが、証如上人の裏書がある阿弥陀如来絵像(天文七 1538)が伝わるお寺がありました。

私のただの個人的羨望ですが証如さんは顕如さんの父というところと戦国期真っ只中にあって門徒宗をまとめ顕如さん絶頂の基盤を作った方。

そして拙寺には顕如さんからの遺物の少々は伝わりますがそれは天正期後半のものですし、それ以前の品で「古い」という伝承についてはあくまで伝え聞くものばかり。眉唾の部類ということです。

 

要は少しでも歴史が古いものはイイということです(勝手な感情)。

天台宗など古い時代の創建のお寺からの変異(宗旨替え)を除いてこちらは「古い」を感じたところ。

まぁ私は古いもの好きということからそこに着眼したわけですがこれもどうでもいい件でもありました。

 

①かつて細川順行寺周辺をほっつき歩いた際、目で見た「細川」地名に感動して信号待ちの際、撮影したもの。

そこからしばらく巴川沿いに北上したのでしたがたまたま見かけた大谷派のお寺が徳山寺でした(場所はこちら)。

②の掲示板、再掲です。

④⑤は明和四 1767年と江戸期のものですが、三河で古い門が残ることは奇特なこと。三河地震で寺の門の崩落事案は少なくなく、近年の再建が多いものです。水屋の水盤には「丁亥」の文字が光っていました。

製作年代を記すということは後世の者たちにとって親切です。

 

 

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2024年

3月

04日

「聖牛」の聖は「スゴイ」 竜王 信玄堤公園

一昨晩23時からのETV特集「膨張と忘却」~未公開資料が明かす日本原子力政策の内幕~吉岡文書(吉岡斉氏による内部資料)を視聴したことを昨日記しましたが、よ~く考えてみるとNHKさんの放送時間、ちょっと遅すぎやしませんか?

報道機関の使命として「事実を基にした番組をつくる」ことは有難く思いますが、その時間帯って・・・。

国民の殆どは寝ている時間ですよ。

これも上層部の政治的忖度・・・?  そう思ってしまいます。

 

尚、その番組の再放送は3/6(水)深夜24時[7(木)午前0時]とまたも深夜。あたかも「あまり視聴して欲しくない」を示しているような・・・

私は保存しておくべきスクープ報道とみました。

吉岡氏の意志を継承するためにも皆さんに知っていただきたいものです。是非予約録画を・・・きっとその内容に腹が立ってきますよ・・・

 

扨、当流の著名な古典「歎異抄」は誤解を招きやすく一筋縄ではいかないような内容が山積み、解釈することも難しく、理解に慎重を要すべきであると教わってきましたが、私の最近はその4条の慈悲をテーマにした段を持ち出して人間の「限界」について話すことが多くなっています。

そしてその冒頭の「聖道門(自力)と浄土門(他力)」を対比させた、自力=聖道の「聖」の文字と親鸞聖人の「聖」との意味の違いについて説明しなくてはますますの混乱それに拍車をかけます。

どちらの段階で御開祖に「聖人」が付けられたのか私は知りませんが、そもそもその「聖」とは「衆生とともに」「一所に留まることなく」「時に流浪する」乞食坊主的意味合いがありました。

方やエライ、素晴らしい、超越した、スバラシイ的な「聖」がその聖道門の聖であってこの4条はイキナリ、スンナリ受け入れていただけないところなのです。

そして「しかれども おもふがごとく たすけとぐること

きはめてありがたし」という前段の結が導かれるのですが、ややもすればこの「ありがたし」も大いにチンプンカンプンにさせる箇所。

ここはブロク既出の通り現在使用されることが多くなった「すこぶるありがたい」的感謝の意ではなく、「まったく 無理(有ることが難しい)」の方ですね。

 

その「聖」スゴイ!! の方ですが、昨日記した信玄堤。「そちらといえば」の如くその代名詞的な物にも使われています。

それが「聖牛」という人工の簡易堰のような代物。

私は三脚を単管パイプで組んで重量物荷揚げに使用することがありますが、この「聖牛」は変則的な三角錐状に組んだ材の底部の棚に石を詰め込んだ蛇篭を置いて安定させるというもので、これを川底に設置し、他の構造物と合わせて川の流れを制御させたといいます。

 

富士川源流、釜無川の氾濫を抑制するために武田信玄が設置したといいますが、それに似た設備を各札付きの河川に設けているところを見るとその効果は絶大だったのでしょうね。

家康も安倍川で同様の工事(薩摩土手)をしていました。

 

 

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2024年

3月

03日

吹きっさらしの信玄堤思い出す 甲州風景は冬こそ・・か

地震は相変わらず・・・

千葉県東方に注目が集まっています。

どうなることやら・・・

夜間はETV特集「膨張と忘却」~未公開資料が明かす日本原子力政策の内幕~。吉岡文書(吉岡斉氏による内部資料)の公開から。

まぁ政治的インチキによって原子力政策が進められていたことがよくわかる番組でした。プラント製造会社と電力会社そして政治屋とのブラックボックス・・・。

なんでもかんでも「結論ありき」・・・腹が立ちますね。

この国は他でも同じようなカタチで物事が進んでいる様はだいたい感じ取れますが。

まぁそういった感じで知らないところで物事が進められるような国のシステムには不審以外感じられませんし、つまるところそんなことでは一向に人口の減少に歯止めがかからない・・・その件大いに察知できます。

「国民のことより自分らのこと」「カネとウソとおまんま・・・」(某政治屋談)

要はそんなインチキ社会に子供を任せられますか・・・といったところ。

 

昨日の未明からの風吹きまくりの様もまたイヤなものです。

殆ど「暴風」の如くでした。

そういう晩は火事の発生について特に気がかりです。

相良では結構に悲惨な火災事案が発生していますからね。風が吹けば、出火元でなくてももらい火で延焼しますからね。

日頃どんなに火の元に気をつかっていても他所、風が運び、煽られることにははどうにもなりません。

 

昨日「過酷」を思ったのがその風に加えて気温がやたらと低かったこと。

その日は午前ではなく午後の法要があって、その頃には安楽の時間になると高をくくっていましたが、どっこいお内陣はほとんど「べらぼう」と言っても過言ではないくらい体感温度は低いものがありました。

「3月ってこんなに寒いもの・・・? 」などとボヤいている私がありました。手足の冷たさを酷く不快に思う一日でした。

 

こういった日は家に籠っていればより寒さが増幅するものです。しかし、それがわかっていても一歩たりとも外に向こうという気は終始起こりませんでしたね。

 

こういう日は厳冬期に信玄堤の吹きっさらしを歩いたことを思いだします。

まったく酷い風で、地元の人達であっても殆ど人無し。時折犬の散歩の方が歩く姿はありましたが。

こちらは信玄堤公園なる場で一応観光バスが駐車できる駐車場がありますが、その手のものは見えません。

何故なら甲州は夏から秋が命だからですね。

各、土産物屋に道の駅はありますが、寄り道しても甲州名物の果物の類はなし。

地場産で店頭に並ぶものといえば唯一干柿くらいでしょうか。

私は硬めの干柿を所望。

あの時は奥方が同行していましたが「干柿って土産ではないだろ どこでも作っている・・・」でしたが。

 

甲州の冬の良さを記せばお天気さえ良ければ青い空とくっきりと盆地を囲む山々が浮き出ること。

ただしそうだとはいえ、好天の青はそうはありませんからね。

 

私はこちらの案内板で躑躅ヶ崎館(こちら)近くの臨済の圓光院のご住職に教えていただいた櫛形山の件、雪がハッキリわかるお隣の農鳥岳と取り違えて理解していたことがわかりました。

 

信玄堤の駐車場、奥方は助手席に籠ったままだったことは言うまでもないこと。

川辺まで下りて散策しようなどという気はさらさら起きませんでしたが。

 

 

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2024年

3月

02日

カオス 寿司店のメニューの読み間違いから

昨朝の千葉県東方の地震に、能登半島の震災が重なってきました。「スロースリップ」なる地殻の変動の件、報じられていましたがその地の最近の群発地震の発生はあまり気持ちのイイものではありませんね。

やはりどちらに住まわれていてもその恐怖から逃れることはできないのですね。

できれば「逃げたい」というのが本音なのですが。

 

扨、最近は時に酢飯を所望したくなります。健康に良いといわれていますからね。

半世紀以上前、小田原の母方の祖母すゞさんが健在の頃はちょくちょくちらし寿司を食べたものでした。

思えば、アレを作るのは相当の準備と労力が必要で、今はなかなかそれを家庭で調理するというのはできなくなっているよう。

よって「寿司が喰いたい」とあれば、「寿司屋にGO!!」というのが当たり前になってしまいました。

寿司にしろぼた餅にしろ以前はすゞさんの特製に舌鼓を打てせてもらったものですがそれはもう大昔の思い出になってしまいました。

母もその味を再現してくれていましたがそれも過去の話。

ここ数年は奥方より「家で揚げ物はしない」宣言が発令されて口にできる物のバリエーションはいよいよ減ってしまいました。

下手にそれについて各注文などつけようもなく。

「時代」なのでしょうね。

 

昨日は法縁のお話で「五濁悪時」「五濁悪世」など正信偈や阿弥陀経にある語について触れました。

それが仏教思想の基本である無常・不条理・人々に迫る理不尽の数々、その世の「背景」です。

いつものように「時の流れは恐ろしい」から始まってその四文字を示しましたが、他にお話を進めたかったこともあって、五濁についてはあとからお家に帰って「ググってね」。

まぁいい加減、私の話などそんなものです・・・。

要は「無常世界に生かされている私たち」の前振りですから私としてはそれでOKだったのですが。

 

本題はまた一つの仏教の意図する行動理念、「慈悲」でした。

そちらから歎異抄第四条について触れ(表白には歎異抄第一条添付)て実践しようとしてもどこかでどうにもならない限界と自らの愚かしさに気づくことの大事、他力の本願念仏の選択について話をすすめたいという主旨でした。

しかし何せトーク力のお寒い私の件、さぞかし支離滅裂、逆に混乱させてしまったかも知れません。

 

真宗の古典をそこかしこに導入したいという気が急いてゴチャゴチャになっているというのが私の最近の傾向でしょうか。

奥方から最近いよいよ老化の道を辿って話が長くなっている・・・とご注進いただきました。

 

③先日、息子のアパートに届け物をした帰りに、近くの廻っている寿司屋(お安い寿司屋さん)の席に。

メニューを見て固まって凝視したのでしたが、単なる私の視覚と日々の頭の中の混乱の問題でした。

メニューがテカっていてカマスをカオスと読み間違いしたのでしたがそれを横浜の「奥の墓道」氏に写メしたほど。

彼は「そんな寿司があるなら是非喰ってみたい」と。

五濁の中の混沌。まさに私のことでした。

 

①②は本山とそちらで見た掲示板。

 

 

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2024年

3月

01日

谷文晁と幡随院長兵衛に妻きん 源空寺 

昼頃までは日差しがありました。

その環境は十分と見て鉢の植え替えを二鉢ほど。

少々早いとは思うものの先般衝動買いしたマーガレットの根がパンパンに張って鉢底から根が出てきていました。

水やりすると「ありがとう」と云われたような気がして・・・

ついでに散らかっている鉢たちに繁茂しだした雑草を抜きました。

するとどちらの鉢からもユリの新芽が顔を出していました。

毎年この時節思う事ですが「ユリは裏切らない・・・」。

これらもこれから鉢の更新がありますが、開花が楽しみでもあります。

確実に季節は進んでいるという感ありますが、昨日特に実感したのは日の長さ。

17時からの法要がホールで。

18時前に帰宅した際は、外はまだ薄ら明かりがのこっていました。昼が長くなりました。

あっという間に時間が過ぎていきます。 

 

時として徒労に終わって、またポカをやらかして枯らしてしまうこともありますが、無常世界に生かされる身としては一所懸命に成長かつ成果を残さんと将に生を実感させる植物というものに希望と安らぎを抱かせます。

一昨日、息子が寺に立ち寄りましたが「お前も花や木を植えろ」などと世話をやいたところでした。

しかしもはや新しく植える場所は限定的ですね。

私が木々を植えまくっています。

まぁどちらか墓石の撤去があった場合、そちらのスペースをミニ花壇にでも、など・・・それも陽当りが良くなきゃダメか・・・

 

 

扨、昨日も記した源空寺墓地の中央の通り、最奥には阿弥陀さんが鎮座していましたが、その列にはまだ著名人の墓があります。

谷文晁と幡随院長兵衛夫妻の墓ですね。向かって左が長兵衛、本名は塚本伊太郎、妻は口入れ屋の娘きんということで。

 

 

谷文晁の名は番組「鑑定団」頻出(まずそれは偽物間違いなし・・・の品々です)、そして幡随院長兵衛は時代劇、歌舞伎に頻出の名でした。

 

しかしこの墓地のこの列、伊能・高橋親子の並び、にどなたにも聞き覚えのある名が整列しているのは驚きです。

他にも何か・・・などと欲張って探してみましたが・・・

 

 

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2024年

2月

29日

陣太鼓酒造の件 高橋景保と最奥の阿弥陀仏 源空寺

朝は「寒い!!」などといつもの如くの口癖がでましたが日が高くなるにつれて車の運転中には居眠りが出そうになるほど温かくなりました。

私はあっちこっちとバタバタと。

 

帰宅すると、史跡調査会の小澤会長から印刷物が届いていました。

現在、調査会では来年の大河ドラマ用に目玉となる商品の開発を私どもなりに考察していますが、会長の一押しはかつて相良にあった酒造の銘柄「陣太鼓」の復活です。

それは大沢の般若寺に実存する陣太鼓からの名ですが今その名を表す品といえばお菓子の最中をイメージする方が大多数なのではないでしょうか。

 

私は不調法なりともお酒についてまったく興味がない類ではありません(酒は飲まないがその場の雰囲気が好み)し、かつての相良の名物の復活は大いに期待したいところです。

会長が示した書面はその「陣太鼓」の山本敬三氏についての件がつづられたものでした。

今は「高天神」でお馴染みの土井酒造がその名の権利を持っているとのことで、その再販について検討しているようです。

物販ができないと客さんを集めても相良におカネを落してもらえませんからね。

相良の有志の方々、どのような品々を用意してくれるのか楽しみでもあります。

 

、昨日記した浅草、源空寺の墓域。

門を入ってスグ左側に新し目の墓石と顕彰碑があります。

その先の左側に高橋至時や伊能忠敬の墓が並んでいます。

 

その墓が高橋景保の墓になります。

高橋至時の長男、弟は渋川景佑で天文学者一家。

源空寺墓域のこの列には「大日本沿海輿地全図」に関わった人々がズラッと並んでいるわけですね。

 

彼の新し目の墓碑というのは当初亡くなった際に墓石建立が憚られたからと云われています。

それが彼が1828年のシーボルト事件によって収監、獄中死したあげくに「斬首」されたということでいわゆる罪人として取り扱われたということ。

 

今考えるとその事件については当時の幕府の政策があったにしろ相当なるバカバカしさを感じます。

真面目にやっている学者もちょっとした感覚の違いから犯罪者の烙印を押されてしまうのですからね。

 

その墓地の最奥には何故か金色に輝く阿弥陀如来坐像が。

この手の形態は見かけた事がありませんでしたから新鮮に感じました。

 

 

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2024年

2月

28日

源空寺 高橋至時 伊能忠敬の墓

風つよめながら気持ち良い青空。

先日は相良のお寺さんの集まる会がありましたが、先般数カ所のお寺に被害があった賽銭泥棒の件も話題の一つに。

堂内を荒らした下手人の姿を確認した若い住職が木刀を持って追いかける図をたまたま付近の防犯カメラが捉えていたそうでそれを確認した警察官からご指摘を頂戴したそうです。

「やりすぎ・・・」と。

私など深夜の夜警に真剣を持ち出した「若気の至り」(いい歳こいた・・・)がありましたが、それはそれで相当ヤバかった・・・の反省。

 

賽銭泥棒の場合、その者が立ち去ったあと、小銭程度で済むのであれば気持ちも収まりますが、もっと違う何かの被害があったのか当初の判明ができないものですからそんなときはとにかく追いかけて「捕縛」したいものです。

大した被害がなければそれにこしたことがないのですが、やはり一応何とかしたいの気持ちがあります。

かといってお相手は何か(ドライバー、刃物の類)を持っている場合も想定されます。こちらとしてもいくら何でも丸腰は怖いですからね。

せめて木刀くらいは許してもらいたい。

私は「素振りの練習」と称すれば・・・と今はバットがベストかと。

 

扨、昨日記した源空寺。

通りを隔てた墓域入口には伊能忠敬とその師高橋至時の墓があります。

伊能忠敬に関してはブログでも2度(こちら こちら)ほど記しています。

浅草東本願寺からもさほど遠くない地でこれまでいつかはお参りに行きたいと思っていたお寺ですが、浅草に行くと他にやること、やりたいことがあって毎度無念ながらパスしざるをえませんでした。あの時も大分陽が傾いていました。

本堂敷地の向かいにある墓域方向の図は逆光になっています。

 

彼らの功績については各ググっていただければ・・・

 

 

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2024年

2月

27日

源空さんとは法然さんのこと 源空寺

首都圏は20メートルの強風が吹き荒れたといいますが、当地は無風。不思議なものです。

境内でお会いする方はみなさんは異口同音に「風もなく、いい天気ですね」、ですからね。私は「有難いことです・・・」。

 

おかげで私のお気に入りの小桜は満開。スイセンもそろそろおしまいでウメもおしまい。バラに勢いを感じます。

こういったいいお天気が続けばしめたものですが、そうは問屋が卸さない。晴れると翌朝が冷えるというのがパターンですからね。

天気が崩れる予報もまたも。

 

扨、我ら真宗の経典といえば「正信偈」。

その後半部分には親鸞さんご指名の先達、七高僧についてサラッと記しています。

その中で本邦浄土系の善智識として「源信」―「源空」の名が。

一般的に「源信」さんといえば日本史の教科書に頻出する名ですのでその名を聞いて「ああ往生要集のね・・・」という感がありまた、恵心僧都の名もそうですが源氏物語の「横川の僧都」のモデルになった人としてもあまりにも有名でした。

そして源空さん。

その人も日本の浄土教系の僧侶としてはあまりにも著名ですが、その名以上に有名な名があって教科書での表記で「源空」は見た事がありません。

 

その源空の名は教科書記述は「法然さん」。

浄土宗の開祖で親鸞さんの師匠として名が通っています。他所では源空院など記していますがその名が出たら「浄土宗」とその宗旨まで推測できますね。

 

画像は先日行った東京本願寺の帰りに立ち寄ったところです。

この辺りの寺は関東大震災に東京空襲の被災があってどちらも苦難を潜ってきた歴史があります。

門前の掲示板「毎日感謝し 一年過ごす  南無阿弥陀仏」。

まさに・・・

 

ただし色々ある・・・

「愚痴の法然房」(法然さん自らの名のり)・・・ 

 

 

 

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2024年

2月

26日

洞樹院 舟形光背の阿弥陀如来の開山堂 大沼城三代

夜が明けてからお日さまは現れずまた気温は一向に上昇せず。

むしろ昼間の方が寒かったのかも。

小雨は降り続いていましたが午前の法要のお墓参りの時間は何とか「許容範囲」。ありがたき仕合わせ。

ただ世間様としてはとんだ三連休だったでしょうね。

 

私の昨日は朝晩の勤行を除いて法要3度。

動きの激しく寒いお頭混乱の一日でした。息子にそのピンチにヘルプの声をあげるもここ数日は神奈川県内での予定があるとのことで私の懇願は一蹴されてしまいました。詮無き事。すべて承ります。

 

扨、先日は大沼城本郭洞樹院(または)そして勝手に推測した西山墓域別郭について記しましたが周辺をさらにうろつけば洞樹院本堂の背後に位牌堂(開山堂)があることに気づきます。

どちらのお寺でもその手の堂に足を踏み入れるにはひと声かけるのが礼儀。

住職の許諾を得て入堂させていただきました。

すると中央に舟形光背の立ち姿の阿弥陀さんが。

左手前に大沼城主三代(初代木村安信、二代新九郎信元、三代松平親清)の古めで同型の位牌が並びます。

判読はなかなか難しいものがありますね。天井には天女が舞っています。

こちらは勿論「南無阿弥陀仏」の名号を唱える場ですね。

やはり以前、ロウバイが真っ盛りの頃でした。 

 

 

 

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2024年

2月

25日

太田Collection Gallery 真宗大谷派災害情報

一転、雨はあがって私は朝からバタバタ。

日曜にも法事が控えていますが、雨予報になっています。

東海地区は4℃~7℃とのことで雨に寒さが加わって、参拝の皆さんの気の毒を思います。

しかし能登半島の究極の不条理のうちにあって衣食住の最低レベルに命をつなぐ人々にはその手のボヤキなど失礼千万。

雨天寒空など笑いながら有難く承るだけですね。

私はここのところ本山が発している真宗大谷派 災害情報の更新の頻度が高くなっていて(最近は毎日)必ずそれに目を通すようになりました。

 

本山から若手の皆さんが被災地に出向いての活動を報せてくれているのですが、頭が下がります。

おそらくあちらの気温は相当低そう、ロウバイの満開が紹介されていましたが、当地のそれはとっくに終わっていますからね。

4℃~7℃で泣きを入れている貧相な坊主、私です。

 

扨、昨晩は2月の最終土曜日。

19時から「メディテーション」がありました。

最近はずっと正信偈拝読の会の如くになっていますが、そこで「コレご存知?」と投げかけられたのが「太田Collection Gallery」について。

 

牧之原市菅山に2月1日にオープンした美術館というかギャラリーでその名の通り太田さんのコレクション。

個人的に収集した美術品を展示スペース(新築)に並べたというもの。

テーマと展示期間を決めて並べるそうで収蔵庫には展示物の3倍あると。

月火曜が閉館で入館料500えん。

 

聞くところによると「源内焼きの皿」もあるといいます。

出回っているそれはそれほど高価な代物ではありませんから「なんちゃって源内焼き」が多いのでしょう。

というか本来イメージする「平賀源内の手」によるものではない・・・というのがまたぞろ、まったくその真偽はわかりませんね。

 

ただ相良では史蹟調査会のかつての重鎮、今は亡き中村先生が生徒の榛原高校生にその研究をさせ、自らも平賀源内の墓といわれる墓域の発掘現場からたまたま出土したといわれる陶器をここぞとばかりに某鑑定番組に持ち込んで出演したことがありました。

そこで例の専門家からボロクソ評価をされたということを思いだします(私は視聴していませんが)。

先生は大恥をかいたと意気消沈し「平賀源内の件から金輪際手を引く」といった経緯がありました。

平賀源内や源内焼きに関わるとロクな事がない・・・そんなところでしょうか。

既報の通り田沼意次との関係が次回の大河ドラマでクローズアップされるでしょうから相良では俄かに再び源内で盛り上がろうという雰囲気がありますね。

私は一歩引いたところで傍観でしょうか。

あの本は昨日メディテーションに来られた小学生にあげちゃいました。

 

 

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2024年

2月

24日

どうせ裏で糸ひく悪の権化って~徳川治済なんでしょ?

そしてまたずっと雨。それでいてまた寒い。

昨日は法務もなく一日中庫裏に籠りっきりでした。

外出する人の気が知れない・・・と呟いた通り、来客の一人もありませんしやはり境内に人影は見られませんでした。

 

毎度お好みNHKBSの西部劇。「たくましき男たち」を視聴しつつぼんやりと過ごしました。

私が生まれるよりも前、1955年の映画で先日記したロバート・ライアンそしてクラーク・ゲーブルも。

 

南北戦争後というと大抵が南軍崩れが悪役というイメージで固まっていましたがこの頃のストーリーは案外そうでもないことを知りました。もっともお話の中での悪役はスー族と今でいうネイティブアメリカン。

 

一昔前の西部劇は彼らを恐怖の権化、忌み嫌うべき野蛮人として描いていました。私の子供の頃の西部劇ごっこでは「頭の皮を剥ぐ」(元はインディアンではなく白人の所業)などの台詞があったことを思いだします。

ただしインディアン役になる子は皆無でしたね。

 

わが国でも南北朝時代以降、南朝方=負け組、陽の目は見られないという雰囲気がありました。

「南」はハズレ籤で統制の取れない悪役、インディアンは凶暴で怖い・・・のイメージはそののち作られた西部劇から得たもので双方とも今も引きずる人種差別の問題を深く抱えていたのでした。

 

そのスー族(特に「悪いインディアン」)とアメリカ政府、白人世界との関係で言うとスー族の鉄槌を受け、死したカスター将軍の名が出てきます。

当時はカスター将軍こそがヒーローの中のヒーローとして囃された軍人で彼の死以降インディアン憎しの風潮が吹きまくったのでしたが、そもそもスー族はじめネイティブ各族はカスターがかつてやってきたインディアンへの無差別虐殺、今でいうホロコーストへの根強い恨みがあったこともあります。

カスターの自らの数的不利を咀嚼せずに攻撃を仕掛けたという無謀な軍略的ミスもあったわけですが・・・

 

その無謀なインディアン駆逐作戦を進めて死んだカスターは今や逆に悪役となった風があり、以前の如くのカスター哀惜を語る西部劇はありません。

差別の先鋒と成り下がったわけですが、その彼にも何故にして無謀な攻略を強行したかを、含めてその理由をバックに糸をひく「本当の悪役」(政府上層部)がいたはず・・・という説もあるようです。

その説、私にはわかりませんが、人間とは結構に煽てにのりやすく、上への忖度も図るもの。踊らされるのが常なのですから。

 

扨、先日の史跡調査会の会合で、2025年の大河ドラマでの田沼失脚の件、やはり悪役は後ろで糸をひいている徳川治済で落ち着くのだろうとの言がありました。

最近はNHK番組「大奥」流行りですからね。庶民はそれで落ち着くかもしれませんが・・・

私はその番組をまともに視た事はありません、というか男女逆転の配役とストーリーに「ワケわからん状態」になるからですがその原作者の談をチラっと目にしました。

 

治済はほとんど史料がなかったこともあり『何の志もない ただただ恐ろしい人』にしてみました。

退屈だからと人を殺しちゃう、そこには理屈はないんです。」を読んで、やはり劇は劇、おはなしはおはなし・・・イメージによる創作ね・・・ということで了承。

しかし一度作られ流布されたイメージは拭い難い固定を生みます。とくにその番組を視聴していた方には・・・

 

聞きかじった話ですが「松平定信と田沼意次の和解を演出」といった趣旨のイベントもありうるそうですが、そうなると本当の悪役となるのはやはり・・・

 

ここで徳川治済の性質を示唆できる件、ブログで記したものを。

品誕に大公は

坂井の山崩れ

老齢年金-への御礼

といった感じですが「大奥」の作者の言う『何の志もない 

ただただ恐ろしい人』の感じは微塵もありません。

 

あれだけ後世「すばらしい政治家」と囃された小島蕉園を代官として荒んだ相良の地に抜擢、善政を行わせたこともそうですが、好き嫌い激しく、悪辣を嫌う小島蕉園が「大公」と敬っている様、その手の事はまったく無評価なのでした。

因みに蕉園が徳川治済への贈り物が例のアレ「馬鮫魚(鰆)菰塩」でした。

それをブログに記した頃は私も悪役は彼というのがその感覚でしたが・・・。

いずれにしろ徳川治済黒幕というのが既定路線なのでしょうね。

 

①画像は国税庁のポスター。

先般某寺院に税務署の方が現れ各ご指摘を受けたとのことでした。

しかし私ども末端の田舎寺にやって来られたとしても成果は得られないでしょうね。

何せ節税を心がけるとはいうものの、その税の対象となる「入り」に限界がありますからね。節税=脱税とはいいますが・・・

今節、庶民隈なくプレッシャーをかけるのもいいのですがこのポスターは国会議事堂(悪の権化?)に貼るべきと世間の人々は言い囃している様子。その方が国の為になりそうですが。

②は治済の図。 

 

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2024年

2月

23日

岡崎教区31組の真宗落語 6月15日(土)掛川にて 

またも終日雨。

朝からイラっときますがやることはやらねば・・・と自ら言い聞かせてまずは、本堂床下照明のスイッチの現場説明書きの更新から。

そして一昨日届いた真宗大谷派岡崎教区31組主催の「真宗落語」のポスターの整理を。

降雨のため限定的ですが、外用のもの3枚を製作。

その一つを門前に1枚、掲示ケース内に大型ポスターを提示しました。

 

タイトルが「真宗落語」の通り、当流関りのお話となりますが

桂小春團治師は昨年の本山主催のイベントでも公演しています。

対象は真宗ご門徒さまだけでなく、どなた様でもかまいません。

ただポスターの「持物」のお念珠についてはまぁご理解いただけるかと思いますが「赤本」との明示は人によってはハードルが高く感じる方もおられるでしょうね。

私どもは「赤本」はそれで難なく通じますが、ひょっとすると

ご門徒であっても「 ? 」になるやも知れません。

 

要は「正信偈」を冒頭拝読しますよ~の事ですが、その正信偈が掲載される経本を赤本と呼ぶことが多いですね。

その呼び名はおそらく全国共通とは思いますが、最近、拙寺で配布するそれは教区で出ている「オレンジ」あるいは「青」ですからね。

 

そして何より持物指定の件、厳密性はなくそこは「フリーで可」ですね。ついつい正信偈拝読があるのでその親切心で追記したとは思いますがややもすると「念珠と経本を持たない者は来るな」のイメージにつながりかねない箇所でした。

「お持ちの方は」とか「無くても可」と記したかったかも・・・。

そうですね、その「お持ちの方は」のシールを貼ることにしましょう。

6月15日とまだまだ先の話。近くなったらこちらでも再び案内する予定ですし、ご門徒さん店頭など掲示ご協力をお願いします。

 

扨、昨晩は数年振りに開催(おそらく4年?)された相良仏教会の新年会に出席しました。

この新年会は毎年の次期会長への引継ぎを兼ねていて新しく会長となるお寺の大御所と久々お会いしました。

その方は相良の寺々の「まず三代の付き合い・・・」があるとのことでそれを聞いて「ああ息子を連れて来て挨拶させればよかった・・・」と思った次第。

私の爺様を知っている方ですから、私の息子だとその4人目ですからね。新記録です。

 

大御所の話は面白い。

首都圏のマンション坊主の話になった際、当初は「凄いのが居たものだ~」と。

国内大抵の宗派の葬儀ができるオールラウンドプレーヤーなる坊さんの話。

絶対にそれぞれ本山の資格などあるはずもなくすべてに対応してしまうという強者です。一応衣等の「衣装」は揃えていたそうですが基本「参列者はわかっちゃいないから」の開き直り。

要は葬儀社からの依頼を受けるわけですが頭を丸めていて「それなり」の風体ならみんな信用してしまう・・・と。

「私は信用されませんね・・・」と自虐を呟くと「そう、大澤寺さんは地元だけ・・・」。

他所では誰も相手にしない・・・ということでしょうがそれでいていろいろ出没することがある私も結構図々しい。

 

今は施主さんもグーグルマップで住所地検索しますので、マンション坊主は流行らなくなりました。坊さんを引っ張ってくる葬祭屋さんへのクレームとなってしまいますから。

それで、さすがにインチキ名刺は渡せませんからね。

まぁ世の中には架空の寺院名ではなく実在する寺の名を勝手に記し、連絡先を携帯番号にするなどの新手もいるようです。

取りあえず葬儀を修めてくれればそれでイイといった施主が増えているのかも知れません。それこそ「知らぬが仏」なのかも。

 

③は雨の中撮影したいつものサクラ。

私が最も今かわいがっている木ですが、蕾はどんどん開いてしまい「この雨申し訳ないね~」の気持ち。

また今度青空と日差しの中撮りたいものです。

 

 

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2024年

2月

22日

『田沼殿と源内さん〜ときどき徳川ファミリー〜』

季節の変わり目、雨ばかりの感。

夜間は土砂降りの時間が長めにありました。

一昨日の陽気から一転、10℃余り低下したでしょう、うすら寒く先日の半袖1枚なんてとんでもないような一日。

午前中に史料館の長谷川氏が立ち寄ってくれましたので完成したての床下照明のスイッチを披露。

 

そういうばこのスイッチを「さっさと作らねば・・・」とのろまの私をつき動かしたのは静岡市の観光協会のOBを名のる方と拙寺境内で遭遇したことからでした。史料館で紹介されて来られたようでした。

既にざっと見廻ったあとからでしたが、その方は例の床下照明について気づかず、目視できていなかったと。

よってスイッチの移動工事をしたのでしたが、その方はOBながら来年の大河ドラマにあわせて同じ静岡県の歴史として紹介できるよう、各所歩いて学びを深めているとのことでした。

当地の観光協会との温度差を感じましたが・・・

 

さて、画像は『田沼殿と源内さん〜ときどき徳川ファミリー〜』というギャグマンガ新刊。

集英社より1冊回ってきました。

書店には「まだない」とのことで、取り寄せとのこと。

よって史蹟調査会の皆さんに一斉メール。

相良本通りの布施書店にて「注文しよう」と宣伝したところ。

 

この今の相良に「もってこい」の如くタイトルを漫画という理由だけで捨ておく手はありませんからね。

みんなで注文して相良の書店店頭にこの本を積み重ねようとの意気。

ただし私はマンガは数十年振り。

そしてストーリー展開と理解に難儀させられました。

まぁそんことはどうでもよろしいこと。

相良にスポットが当たり浮かび上がることは喜ばしいことです。

 

 

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2024年

2月

21日

夏の陽気 本堂床下照明配線と手元スイッチ完成 

夜間の激しい降りは収まって朝から日差しがそそぎました。

グングンと寒暖計の数字は上昇し、午前中には20℃オーバー。

昨日一日、全国的に嘘のような気温だったようです。

境内垂れ梅の前には小桜がありますが花芽は日々膨らんできて一昨日あたりから開花しだしました。

画像はまだ枝垂れ梅(ピンク色)が圧倒的に目立ちますが赤が濃く下向きに開花する小桜がいよいよとばかりに存在の主張をしだしました。

ソメイヨシノの開花予報は約1カ月後、この個体は毎年早めに開花しますが、ある程度の寒さが無いと花は早く終わってしまいそう。

 

トレーナーを脱ぎ捨てて床下照明の手元スイッチ増設工事の準備をいつもの軽トラの荷台で。昨日の続きです。

何とか頭の中で描いた図で配線の仕上げてイザ床下へ。

電気工事はD.I.Yですからいわゆるモグリ。まぁ他のいろいろもそのようなものですが。

ちなみに私の持つ真っ当な資格とは船舶と宅建そして今の手前の仕事関係。船舶も宅建も免許切れ、更新はそう難しいことではありませんが更新料をケチってそのまま。

よって期限がナイ坊さん(教師免許)の仕事は死ぬまでOK。まぁそれも毎年の更新料の如くの経費はありますが。

 

しかしこの電気というものは結構に不安がつきまとうものです。「自分が信用できない」という点もありますが・・・

いつものポカをやらかして回路短絡したとしたら・・・本堂が燃えてしまいますからね。

配線は入念に絶縁しているつもりですが、不安はつきまといますね。当分の間は注意していくつもりです。

 

前回の案内板の直下、本堂濡れ縁の下にスイッチボックスを設置しました③④。100円ショップで仕入れたものですから劣化しやすいかと思いますが。

背面に穴を空けるため軟質なプラスチックを選択。

風によって不安定になりますので地面に埋めた杭を縁側下部に固定しました。

 

スイッチボックスの蓋を開けると⑤配線したON-OFFスイッチがありONにすれば⑥床下の照明が点灯する仕組み。OFFの時はパイロットランプが点灯。

この赤いボックスはお墓参りの方が普通に歩いていたら気づきにくいものがあります。

あくまでも掲示板に注意をひかれ、あるいはその床下状況をハナから確認しに来られた方がそのボックスのスイッチを「押してみよう」と思った時、それでOKなのでした。低く屈まないとそれは確認できません。

どうでもいい方にはどうでもいいようなサービスですからね。

それだけに火でも出したら・・・恐ろしい。

 

さぁ、夜警に境内を見回りにいくとしよう。

 

 

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2024年

2月

20日

大沼城主家臣供養塔 洞樹院西側の山

天候不順で朝から自宅待機。

本堂床下照明のスイッチ位置を変更すべく一昨日購入した部材を工作。

あとは少々の追加パーツを仕入れて床下に潜るだけというところまで。

床下と言っても時折降る雨の中、敢えてその仕事をする理由は見出せません。

 

尚、床下のスイッチは現状、見学推奨位置から10m程離れて、なお

見つかりにくい場所にあるために推奨位置直近に変更する必要があると思量。

午後からそのためのパーツを改めて購入に走りました。

 

前回はその配慮は頭にありませんでしたが、このほど来年の相良来訪客「30万人目標」の大風呂敷が広げられました(大河ドラマ)のでそれに敬意を表して・・・そのうちの10%の来客があったとしても・・・ありえない数字ですが。

現状、その方々を寺へ案内されたとしても土日祭日がメインとなることでしょう。法事があれば入堂できませんし案内も不可。

また現状外トイレの整備は相当遅れていますからね。

 

たかがトイレといっても掃除もありますし備品光熱費もある程度の負担があるわけで。

次の「春の法要」世話人会でその件了承を得て、婦人部の皆さんのお手伝いなども投げかけてみます。

観光協会や市の方から、上から目線の協力するのが当たり前風の雰囲気が漂ってきたとしたら・・・「ケツを捲れ」の言も出ていますからね。

 

私としては千載一遇の相良アピール(田沼時代の演出はドラマ前半の夏頃まで)のチャンスに協力は惜しまないといったスタンスです。期待は大いにするところですが寺としてあくまでもご門徒さんの利便、要望が重視されますので。

踊り踊らされるのはイヤですし、まぁ企画書もあがっていないうちから騒いでも仕方ありませんがね。

 

扨、昨日の洞樹院西方の山、こちらには祠二つと新し目の宝篋印塔が建っていました。

大沼城主と家臣たちの供養塔とのこと。

祠の中の自然石は判読不能。

 

 

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2024年

2月

19日

洞樹院西側の山 大沼城別郭を推測 

朝起きると曇天ながら思わぬ暖かさで一安心。

その前日の夕刻から「もしかして・・・」とちょっとした体調の変化があり、念のため葛根湯を飲んで就寝したのでしたが、事なきを得ました。有り難き仕合わせ。

 

午前の法要が終わってしばらく、奥方の運転手を兼ねて浜岡方面に出向きました。

通常、日曜日に動く事はありませんが本堂のセンサーライトが壊れたため早急にそれを新規購入する必要もあって仲良くお買い物に。

 

私の目的の品々を購入後近くの大型食料品店で奥方と合流。

お菓子売り場が私のチェックポイントですが、そちらをふらつくと初老の作業ジャンパーを着た男性が品物を買い物かごではなくビニール袋に入れている様を目にしました。

するとその方と目が合ってバツの悪そうな顔をされてしまいました。

いわゆる「万引き」実行中というところ。

そのオジサンは通路を行ったり来たりし什器の陰から私はその方の視線を感じていました。

 

ああ、私を私服警備員と勘違いしている・・・などと思いましたが、奥方にいわせればその人がじろじろこっち見てるのは、お前さんを万引き犯とみてるんじゃ・・・?

逆にその人が私服警備員であるとの推測。

すると私が買い物用カーゴを押す奥方と話している様子を確認(その人の不審な行動を話していたのですが)、ただの一般買い物客と断定したか、それからまたあっちこっちで品物を手に取りだしました。

奥方も確かに「犯行を目撃」したといいます。

さっきまで左手に持っていたジュース(100円程度か)や菓子を詰めていた袋が消えてジャンパーのポケットが膨らんでいました。

 

丁度私どもと同時にレジを通っていましたが会計していたのはミネラルウォーター1本でした。

まぁ私どもに対して限りない怪しさを醸し出していた人でしたが私どもにそれを指摘したり咎める資格はなし。その権利も義務もありゃしません。

そもそも確証がありませんし、それを店の人に通報する必要もなし。何より、店にとっては一大事ではありますが、その方の精神と生活そのものの貧苦をも推測してしまいます。

 

永田町の政治屋どもほどではありませんがここでもそのおじさんに「気の毒」を感じてしまいました。

前者は中央で数千万の裏金でお咎めなし、方やド田舎のスーパーマーケットで500円程度の盗みはたらき・・・。子供でももっとうまくやりそう・・・。

唖然とするもただただ沈黙するだけでした。

そして私は前者が地獄に堕ちようが知った事ではありませんが、そのおじさんには仕合わせに生き抜いて欲しいと思うのでした。

 

扨、昨日記した洞樹院の墓石たち。

その東側の山が大沼城ということ先日記しましたが、洞樹院墓地の西側にも山が広がります。

地形を今一度顧みれば、谷部の洞樹院を中心にして東の山系に大沼城、西側の山系もやはり城郭をイメージさせられます。 

要は一城別郭のような感じ。

高天神城の深い谷部と尾根上に分けられた別郭というよりも谷部両翼に開いた山系を郭にしたようなカタチ。

山が左右に開きすぎている点は防御力はイマイチですが。

 

①②は洞樹院山門前に立つ掲示板と観音堂。

山道には各有志が築いた石仏・石塔が各所に見受けられます。

宝篋印塔残欠がこちらから出ているのか、するとやはりこの山に墓域が存在したということか。

 

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2024年

2月

18日

洞樹院の古仏 ミニ五重塔のどっしり感

異例の温かさだったことは承知していますがイキナリ昨日の気温低下には降参です。

史蹟調査会の会合が終わって、若手の二人を仙台河岸の石垣までお連れした時、「なんだこりゃぁ」の冷えを体感。

 

「寒い」と言いながら帰宅、庫裏に入って温度計に目をやると一週間ほど前の気温と同じで「どおってことはない」ような数字でした。

それを寒いと感じるのは、一瞬とあってもあの(2日ほど前)心地よい暖かさを感じたからに相違ありませんね。

 

人は厳しい環境から脱出しその微温湯に一旦浸かると元の環境には戻れないもの。過去と今の差というものを身に染みて感じたからですね。

勿論、「(かつての境遇に)戻りたくない」というのは当然の事

 

政治屋も同じ、一端オイシイ思いをし、それが常態的、甘い蜜をお仲間たちと独占していたとすればアカの他人にそれを脅かされ、修正を強要されること拒絶したくなるのはよくわかります。

代償だなんて一文も支払う気はなし。ずっと温かい湯に浸かっていたい・・・

それが手に取るようにわかるもの。

一度他国の新興の神とやらに魂を売りそのスバラシイと思われた状態に味を占めそれが未来永劫続くとの錯覚も。

一攫千金政治屋稼業とは哀れなものです。

 

扨、昨日の洞樹院、門を潜って左手の墓を見やりながら本堂にご挨拶、そして墓域に向かいました。

掲示板の件の通り古そうな石仏たちが。卵塔の数からも歴史の深さを感じ取れます。

崖の下とあって崩壊が進み、残欠といった類もありますが、人の手に触れられず苔生した感じは趣があります。

 

最後の画像には石塔は見えませんが、花立があるところを見るとかつての墓石たちの存在が推測できます。

 

あの石像五重塔はあまり目にしないタイプです。

安定感がありますね。

そのベース部分については当初製作者の意図があったのかはわかりませんが五重塔の各笠とその上部は改変が無いように思います。

塔の形を以て残存していることも奇特なことです。

 

 

 

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2024年

2月

17日

大沼城主菩提寺 洞樹院の門前 味のある鐘楼

昨日早朝にかけての土砂降り。

不安は残りましたが夜が明ければ雨はスカッとあがって絶妙のお葬儀日和。

先般私どもの手で病院からお連れし、本堂にてしばしの間おすごしいただいたお婆さんのお弔いの日でした。

本堂でのお葬儀はそれなりに私どものやることが増えますが(施主も勿論のこと)拙寺ならではの木仏本尊阿弥陀さんやそれを演出する荘厳は格別です。

葬儀屋さんではありませんので行き届かない点多々あったでしょうが・・・まぁそれを所望されるのであればハナから私にその話は来なかったでしょう。

 

火葬場から帰って~昨日は当地で言う「先葬」(火葬場に向かう前にご遺体の前で葬儀を執り行います。当地では出棺、火葬後にご遺骨の前で葬儀というのが大抵の流れです)~いつものBS放送のチャンネルでは古い、古~い西部劇が始まったところでした。

何せ1956年のものですからね。

父親が購入したばかりの白黒テレビでアメリカ製テレビドラマから西部劇、戦争映画を観だしたのが1962年あたりでそれから私にもその手の映像趣味が伝染していることは確かです。

その傾向があるので父の孫(私の息子)も同様のこと。

 

先日は「ヘイトフルエイト」は「3回観た」と豪語していました。凶暴でクレイジーな映画など、奥方などはそれこそ「憎むべき」と見向きもしませんが私も彼がタランティーノ(映画監督)が好みというのには閉口します。面白いですがね。

 

1956年のその映画のタイトルは「誇り高き男」。

父親が好きだったロバート・ライアンの出演です。

役者もその映画タイトル、流れる♫まで知っていましたがおそらくそれを洋画劇場等のテレビ放映で私が観たのがその10年後くらいでしょう。

それでも半世紀以上のブランクがあって新鮮さ100%(お話についてはまったく覚えていません)でした。

 

ハチャメチャ映像と荒唐無稽なストーリーと違って昔ながらのオーソドックスな勧善懲悪系、最後はめでたしめでたし・・・で終わるタイプですね。

タイトルの通り主役は町の法と秩序のために誠実に働く保安官。その誠実の高さを「誇り」と。

台詞にもありましたが、「カネで心を売る」だとか一瞬の迷いのようなものが一生後悔して生きなくてはならない・・・の如くありました。

今の政治屋に観ていただきたい映画です。

彼らは表向きは高尚な事を言ってウラでは「裏金と根回し」。

あたかもタイトルは「欲深き男たち」。西洋風に言えば票とカネのために心を悪魔に売ったとでも形容しましょうか。

昔の西部劇ではワルは正義の銃弾で倒れるというのが常でした。今も身の滅ぼし方いろいろですが、つまるところ古今東西そういう輩は露と消えること必定。

そうあってほしい希望もありますが。

やはり正義が勝たなくちゃ・・・めでたし・・・・で行きたいものですね。

 

扨、大沼城に向かうにはどうしてもこちら洞樹院の門前を通ることになりますがこのお寺にも当然に立ち寄りたくなる雰囲気があります。

度々拙ブログに登場しているお気に入りの名「郡界川」の起点近く。

そして門前左に立つ「大沼城主菩提寺」の石柱は勿論、右側奥に立つ茅葺の鐘楼も実に味があって吸引されてしまいます。

 

最後の画像が門前から大沼街区方向を振り返ったところ。

左方向が等順寺(またはこちら こちら)そして孫根城です。

以前私がうろついていた頃「熊が出た」とのニュースがありましたがその後、は熊情報は聞こえてきません。

 

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2024年

2月

16日

大沼城の元は勝頼に滅ぼされた木村氏 そして大給松平

昼以降やたらと気温が上がって本堂作業は半袖。

暖かいと血の巡りが良くなっているはずですがお頭の具合が良くないのは温度関係なし。

物忘れが多くて・・・

よく考えれば若い頃もそうでしたから自分に関してはこがれも年齢関係なしか。

 

ここでいつもの話に戻りますが「年寄りだから免許返納せよ」の思考は誤認かと。

うっかり、忘れ物、まちがい、思い込みは老若男女関係なし。

先般発生しましたがプロの整備士が思いっきりバックでアクセルを踏んで歩道を歩いていた母子の命を奪っていました。

脳そのものの劣化については別に病としてあることですからすべてそれと同等に扱うのはおかしな話。

 

扨、先日は下山代官屋敷について記しましたので大沼城を。

城郭大系の住所地は「東加茂郡下山村大字東大沼」とあります。現在は下山村と同様豊田市になりますが、こちら大沼城が本城だったにもかかわらず下山村の大沼は「字」となっています。豊田市の支所は下山にありました(場所はこちら)。

 

大沼城の件、城郭大系から転記。

「大沼城址は、大沼の町並みに沿った城山と呼ばれる小高い山にあり、西方にある洞樹院という寺との間に深い洞があって小川が流れており、東方は起伏した山続きとなっている。

洞を流れる山水を桶で堀に引き入れたので、この流水のあたりを『桶が入り』といい今は『豊が入』と書いている。

城は文明年間に木村東見入道安信が築いたものである。

安信は天文元年(1532)、城の西麓に入宝山神宮寺を建て、翌二年八月十四日、城中で逝去した。

ついで嫡子木村新九郎信基が城主となり、神宮寺の高地を選んで若宮八幡宮を再建した。今も洞樹院の裏にその祠があり、八月十五日を祭日として同寺前の人々が祭礼を行っている。

元亀二年(1571)四月十五日、武田信玄の兵が足助を落し、城主鈴木越後守仲綱を追い、部将の下条氏に城を守らせた。その後四年間に武田勢は『足助七城』を攻略した。

七城とは足助城・賀茂村浅谷城・阿須利城・阿摺村八桑城・大沼城・田代城・安代城をいう。

その間、天正二年(1574)に武田勝頼の兵が大沼城に殺到し、攻防の末四月十四日、火攻めにあって大沼城はついに落城した。

こうして木村氏は滅んだが、武田氏の支配は受けなかったらしく木村新九郎の養子で松平村の大給城城主松平乗正の次男飛騨守近清が天正三年、大沼城主となった。

近清は神宮寺を八沢山洞樹院と改めて菩提寺とし同十一年に病没した。

 

二代目近正ははじめ、荻生伝蔵といい近清の嫡子である。松平家に仕えて大給新田千五百石を領していたが、父近清の死に伴い大沼城主となった。

天正十二年、徳川家康が織田信雄を助けて羽柴秀吉と戦った際、家康の命によって蟹江城を攻めて功を立て、翌十三年家康の家臣石川氏が家康に背いて秀吉に従おうとして近正を誘ったが、近正は応ぜず、かえって嫡子一生を浜松の家康のもとに送り人質として忠誠を誓った。

同十八年に家康が関東に移ってから上野三ノ倉の地に五千石を領することになった。その後大沼城は廃城になったと思われる。現在、遺構としては山頂の檜の立ち並んでいるあたりに、本丸・二の丸・三の丸・堀などの跡がわずかに残っている。」

 

 

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2024年

2月

15日

私の意趣は「南無」 暖かい境内と76ナナロク 

 

昨日は「奥の墓道」氏とのアメリカの歴史談義に興じたこと少々触れました。

「アメリカの歴史」などいうと日本や他の文明と比して比べようもない「浅薄」なものを感じますが、軽んずることなかれ。

ウェスタン好きにはたまらない時代でもあります。

それを重んじる精神たるや相当のものがあって逆に今の我らがそういった歴史というものに疎くなっているのでは・・・と考えさせられる面があります。

 

昨日は「銀行強盗の日」の「1866年2月13日」について記しました。本日も数字遊び。

私の車のナンバーは指定選択したものですが遠乗り用は「76」そして法務と近場用の軽が「76-76」です。因みに息子はその手のことに興味なし。すべて白い目で見ています。

まぁお遊びの一環ですが勿論この「76」は南無阿弥陀仏、六字の名号の「南無」の語呂合わせ。

「他力」と「おまかせ」の称ですがこれを提示して走れば走行中に陥りがちな自己本位と主張の心が鎮静化するのでは・・・との思いもあってのことですが、墓道氏も奥方も「まったく意味をなさない」とさらなる自重を促します。

いっそのこと高齢者ステッカーを貼れとのご指摘も。

いずれにしろ昨日の如くの気温上昇と青空の下にいて、どちらか出かけたくなるといのが真っ当な人間の思い。

昨日クロ現はバス減便とタクシー運転手不足について。

年配者の足となる地方の公共交通機関が激減し、家にいることが多くなり、買い物にも行けなくなって不便な社会になっていることを指摘されていました。

高齢者が免許証返上に踏み切れない理由はまさにそこ。

家に居続けてテレビ画像と睨めっこ(今の私)をしていたら絶対に呆けますから。何しろ動きたい。

 

アメリカMLBはキャンプイン。あと1カ月もすれば開幕の運びとなりますね。

オオタニサンが韓国での開幕2連戦に出るかも・・・ということで韓国行野球ツアーが凄い盛り上がり。

バカバカしくなるような旅行代金で苦笑するしかありませんが、私は開幕戦に彼が韓国に行くなど真っ当に信じていません。

何といってもリハビリ中の身。

チームがお宝中のお宝という彼にリスクを負わせる(気温差によるコンディション維持)とは思いませんが・・・。どちらにしろテレビ画面から離れる機会が少なくなりそうで。それが不安。

 

扨、「76」特に②の画について見覚えがある方は多いかと思います。私の学生時代など車好きはそれを知らない人はいないくらいメジャーな印象がありました。

ハリウッド映画の中でもたびたび登場しますし今年はドジャースタジアムにスポットが当たることは目に見えていますが、あの球場にはその「76」のそれが各所に見ることができましょう。

今は経緯あってガソリンスタンドのイメージですが、その大元は1776年7月4日(独立記念日)の「76」ですね。

それを絶対に忘れてはイケない、頭に叩き込んでおくという意図があるのですね。

ちなみに③画像がアメリカNBAの「フィラデルフィア・セブンティシクサーズ」のロゴ。こちらは「墓道氏」からの講釈。

フィラデルフィアは1776年の独立宣言がされた当時の首都でした。星の数が当初の独立13州の意とのこと。蛇足ですがNFLのサンフランシスコ49ersの49は1849年のカリホルニアでのゴールドラッシュが由来といいます。

 

数字二けたのチーム名はその地の由来、歴史を表していたのでした。日本にもスポーツチームはたくさんありますが、その地の歴史というものに踏み込んだ名はあまり見ませんね。安直さキラキラの方が際立っているような。まぁ数字遊びはキリがない。

ちなみに「ドジャース」は元はかつてのブルックリン時代の街中の状況をチーム名にしたもので「LA」は転移後の冠。

 

最近のMLBの動きでは2022年にクリーブランド・ガーディアンズのチーム名変更が天晴れ感。

旧インディアンスからの変更でしたがこれは「ポリティカル・コレクトネス」という「配慮」から。

他者の不快な差別用語を吐きまくる政治屋が日本にも存在しますが、これにはスカッとさせられました。

まぁ私としてはインディアンスも耳に馴染んでいただけに悪く

ないとは思っていましたが。

 

④は昨日記した竹の工作物。青竹は気持ちがいい。

押さえているのが盆栽を地植えにした小桜。バックが咲き始めた枝垂れ梅。

⑤⑥は花を落とし始めた梅。

⑦⑧はオオシマだったか。下向きに咲いています。

 

 

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2024年

2月

14日

大沼城松平墓域 下山代官屋敷城  銀行強盗の日

 

横浜の「奥の墓道」氏にアメリカの西部開拓時代、独立記念日、南北戦争のネタそれぞれの蘊蓄を披露しつつ遊んでいましたが私が「2月13日は何の日か」などのクイズを出しました。

さすがにそれを即答できる人はそうはいないでしょう。

この日は「銀行強盗の日」ですね。

その次日など「知ったこっちゃあない」ですが。

私が「今日それをやればシャレが効いている・・・」などと。

また政治屋も強盗のようなものですから。

彼らは年がら年中ですからね。ケチな強盗事件が社会に散見されますがそういう連中をターゲットにすれば・・・如何にも面白い。不謹慎失礼・・・。

 

「銀行強盗の日」は牧師の子であるジェシー・ジェイムズが1866年2月13日に銀行強盗をした日でそれが世界で初めてだったということ。銀行強盗の始まり・・・

 

昨日2024年の2月13日は気温高めながら昼間は冷たい風が強めに。世の中は平穏の感。少なからず私の周囲は・・・。

境内水屋前の垂れ梅に接して参道側に盆栽の小桜を地植えにしたのが息子が横浜の寺に就職が決まった6年ほど前。

横浜への引っ越しに向かう途中、富士川S.A.の植木市で購入しましたが昨年の今頃は1.5mに満たないくらい。昨年中はどんどん成長して現在2m超えにまで。

それが参道側に張り出してきますのでその押さえにする竹材を山へ伐りに向かいました。

久々その藪に入りましたが、案外不法投棄は無く安心しました。

どなたか竹を伐って不要材を突っ込んでいる様子は窺えましたが・・・

 

その他境内雑用をテキトーに終わらせて夜間はのんびり撮りだめしていた映画鑑賞を。やはり西部劇でした。

すると20時近くに都内在住の檀家さんから「母親が危篤」との報せが。

相良在住の方ですが焼津の病院に搬送されて入院中とのことでした。

 

以前からその相談を受けていましたが「その時は出来る限り何とか手伝いたい」旨伝えていました。

まさか焼津にいらっしゃったとは・・・。

そしてその30分後に逝去の連絡がありました。

それが病院からは「22時頃までにお迎え」を・・・とのこと。

いつもの「さぁ、どうする・・・」(「スピード」のWhat Do You Do ?)。の状況に。結構好きですね、難題の提示。

まぁできないときは「ブン投げる」というのが私のやり方ですが。

 

その時、周囲を見回してもヘルプは奥方とネコたちしかいませんので奥方を軽トラの助手席に座らせ棺を荷台に載せて「東名高速をGo」と考えましたが奥方から大正生まれのお婆さんなら軽の助手席を倒せば乗ってもらえるとのアイディア。

何より棺に入いってしまえば後のことがカンタンではありますが桐材とはいえ棺自体の重量もありお婆さんとは言えども相当な重さになりますからね。2人ではさすがにきついものがあります。

よってご自宅の鍵を預かっていましたので布団一式を積み込んで軽乗用車で病院へ。

 

病院着到が2130でしたが、ここでの説明が少々ややこしかったことはありましたが病院側からお二人の手伝いがあり、うまいことお婆さんにはご乗車いただけました。

そのお二人は夜間の寒さの中、「我々3人」の乗った車に深々とお辞儀をして見送ってくれたのが印象的。

 

尚、案内されたナースステーションでの少々のややこしさとは私の素性を明かすことが却って現場の判断を混乱させること・・・

葬儀屋さん、搬送の業者さんではなくお寺の住職がお迎えに来たということですが(本来、それは整合性があるのかも・・・)よりによってこれまたお気楽な恰好、特に昨日は真っ赤なトレーナー着用で傍から見ればサンタクロースの如くだったかも。

黒衣を来ての訪問は論外ですが、あの状況でファッションの件を思考する余裕はありませんでしたからね。

 

問答の中で名刺を出してハッキリすることができましたが「こういう状況は初めて」と苦笑されていました。

22時30分すぎには本堂安置。焼香して読経。

35キロのお婆さんだったことが奥方との二人で対応が可能となったわけで。

 

扨、昨日の下山代官屋敷城。

ざっと曲輪らしきそこここを歩いて少々東、南側斜面の縁に大沼城松平の墓域があります。

宝篋印塔、五輪塔等の古仏たちが整列してお迎えしてくれます。

掲示板によれば大沼城三代松平近清の建立の二基のうち一基は松平親忠の供養塔、もう一基が父で二代城主の乗正の供養塔とのこと。

 

近くには「鈴木」を名のる墓域が。

この地区は鈴木姓は多いですからね。特に鈴木といえば足助の地もイメージします。

 

 

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2024年

2月

13日

下山代官屋敷とはいいながら大沼城の支城 ?

無風で気温上昇。

今週は春一番の予報が出ていますが、やはり寒いより暖かい方が過ごしやすい。というか体にとってラクですね。

来訪者なし。法事もなし。

殆ど何もしない一日でしたが、檀家さんの自動車修理会社に頼んでいた20ℓのオイル缶が3個ばかり届きましたので、容器として使用できるよう油分を除去しました。

アレはどちらでも使用後は廃品として処分に出してしまうようですが、案外使い勝手のイイものです。

 

通常の容器としては勿論、災害時に野外焚火等で暖を取るには絶妙。サイドに空気穴を空ければ即使用できます。

またやはり災害時、20ℓの水が入るということで井戸からの水を溜め込むことができます。直接火にかけて沸かすこともできます。

先般もそのために拙寺の井戸に単管パイプの三脚(その為の器具があります)を立てて急造の櫓を設置、水量を確認しましたが水深2mの水量は変わりませんでした。

そのような事があることは苦痛このうえないことですが、念のための対応力を着けつつあるところです。

 

扨、以前豊田市の下山支所田代城について記しましたがその近隣、特に下山支所の南西側裏山にあるのが下山代官屋敷(場所はこちら)。

代官屋敷というと近隣では昨日の酒呑代官屋敷また大給代官屋敷等を連想しますが、その名「代官」のイメージとは違って殆ど山城の類になります。

 

また以前郡界川について記しましたがその川が流れさらなる分岐がある大沼川がその城郭のある台地の境界となし外堀の役目をしています。

中には代官屋敷城と「城」であることを示唆する名称もあるくらいで、そのそうは高くはない台地上には土塁に切岸、空堀等の遺構を見ることができます。

 

やはり田代城同様、武田の手によって落されたよう。

 

 

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2024年

2月

12日

幸海町 酒呑陣屋址の石垣とムクノキ

「広告だらけで独自性のない低品質コンテンツを集めたサイト」の件新聞社系のニュースで見ました。

その手の広告だらけに誘導するサイトのことを「MFA(メード・フォー・アドバタイジング)サイト」なる語で呼ばれるそうでその広告の成果はアクセス数によるもの。宣伝主たる企業はそれによってサイト運営者から請求があるようでそれが殆ど無意味な広告投資になっているとのこと。

 

私は朝晩、就寝前起床後にぼんやりとスマホのニュースサイトをスクロールするような生活をしていますが、最近になってやたらとその傾向(無駄広告)が強いを感じるようになりました。

一言で言ってついつい面白そうな表題で大衆が喰いつきたくなるようなものになっています。

それでいて中身は海外のニュースコンテンツから引っ張ってきたようなネタで、新しいものではないことが多いですね。

要は表題のインパクトとは違い相当貧弱さを感じます。

ネタもバカバカしくなるような内容のうえ、すべてを読み終えるまで幾度も広告が現れます。

最近はその手の誘引ネタもそうですが発信元が出ていますので「ほう・・・」と思うような記事もその発信先を見ただけで「ああ誘引広告主ね・・・」と判断してクリックしないようになりました。時間の無駄。

私はNTTドコモのニュースサイトになりますが、まぁ大手の新聞社、週刊誌、テレビ局系の発信に限定するということでしょうか。

 

扨、以前酒呑あらため幸海町のいろいろを記しましたが(酒呑城

  そしてジュリンナ等)酒呑陣屋の件、そのままになっていました。

豊田松平I.C.を背にしてジュリンナ方向に走ると県道左手にムクノキの高木のある祐源寺という禅寺がありますがその上部が陣屋址⑪⑫(場所はこちら)。①図は集会所前を走る県道方向を振り返ったところ。

 

お寺の街道側は石垣で囲われています。

地名の「豊田市幸海町池杁」の「池杁」。

地形的にその上部に池がありますのでその取水取り入れ口のことを言っているのでしょうがこの「杁」の字について興味深い新聞記事があります。

 

陣屋は酒呑城の酒呑鈴木の流れ鈴木重氏が入ったとのこと。

 

 

 

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2024年

2月

11日

家康の矢作川渡河さらなる伝承 鹿ケ松

三連休の初日は完全フリーの一日。

朝は寒いが陽光に恵まれ、外仕事に少々集中するだけで、上着を脱ぎ棄てて半袖になろうかとも思ったくらい。午後、日が傾きだすと強風が吹きだしましたが・・・

風が吹く前に気に掛けつつ後回しにしていた数カ所の雑務を何とかやっつけました。

 

これはひょっとしてこれは・・・と心ときめきましたが、先日道路を飛び出して不慮の死を遂げたネコちゃんの飼い主さんが夕刻に訪れました。

ご門徒さんではありませんが、あの時は本堂で家族ご一同と正信偈をあげて「生々流転墓」に遺骨を納めさせていただきましたが、昨日はお参りに来られ庫裏に立ち寄ってくれました。

そこで頂戴したのが拙寺ネコ用の鰹節、そして私にその方の手作りラスク。

ピンク色の菓子袋に「Thank You」とありました。

嬉しく、また美味しくいただきました。

 

扨、本日も矢作川関りですが、あの家康の矢作川渡河の最後の難関クリアの地については先般記した通り。

舟を仕立てて渡ったというものですが、そちらより上流矢作川西岸に「鹿ケ松」(三鹿の渡し)という伝承があります(場所はこちら)。

三匹の鹿が渡っている様を見てそれに続いたというものです。

鹿は奈良公園では神の使いとして大事にされていますが、今や鹿は害獣の部類。いつぞやその肉を喰えとばかりに勧められ食しましたがどうも私には無理。

普段口では馬だ鹿だと口ずさむわたしですが、その生き物を喰らうこと(シビエ)慣れませんね。

 

その地には別に矢作川用水について顕彰碑が建てられていました。こちら北野という地、北野用水の名が。

 

 

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2024年

2月

10日

古仏たちのお出迎え 丸根城鬼門に浄土宗心学院 

昨日は人心に付け込んでホストクラブの無茶な金額のツケ(売掛金―殆ど言いがかり)によって身心ともに縛り上げる荒稼ぎの件について記しましたが、昨日破廉恥事案で逮捕された(要は痴漢)容疑者が放った言葉が「記憶にない」でした。

よく耳にする「身に覚えはない」と同等、つまるところ「知らぬ存ぜぬ」。否認ということですね。

 

その破廉恥の言はまた最近国会議員殿が連発する自己保身の用語。スバラシイお頭の中身なのか大臣様(職)への余程の執着心からなのかは知り得ませんが苦笑する他はありませんね。

ただ哀れな御仁として。

 

それにしてもおエライ様方々筆頭に何か都合の悪いことがバレた時はソレ、とばかりに国民一同ピンからキリまでその語を咎の免罪符が如く吐かれてしらばっくれる世の中・・・せめて「バレたら責任」の心は最低限持ち合わせていただきたい。

 

扨、昨日は丸根城の主郭について記しました。

一概には言えませんが、城郭の鬼門・裏鬼門を探索するというのも放浪の一つのパターンです。

特に領主系の安定期があった城には菩提寺たる寺を建て、お気に入りの僧を招くというのもその家のステータスとなります。

その丸根城の鬼門(北東)方向を見やれば浄土宗の心学院というお寺がありました。

 

丸根城を南西に見下ろす台地には野見の墓域がありましたが

むしろこの辺りに寺があればまさに磁針通りの鬼門となるところですが微妙に北方向にはズレはあります。

その手の事は結構イイ加減でアバウトに「鬼門除けです」といえばそれでOKのようなものですし、その野見の墓地には卵塔が見えましたので古くはこちらに寺があったことも考えられますが・・・

 

まぁ心学寺は浄土宗の寺で代数も重ねた古い寺。

城主の松平系を思えばその菩提寺ということも有り得ます。

山号の「庭松山」の「松」もそれを示唆しているようですね。

西向きの本堂入口門前から南方を望めば丸根城の小山が見えます②。

境内の石仏を拝見すると名号の碑が目に入りますが蓮台の上に円柱形のそれは珍しきもの。

他に多くの古仏にお目にかかることができます(場所はこちら)。

大型・小型の宝篋印塔残欠はまさしく領主系を連想します。

住職のお話などが聞けたら良かったのですが・・・。

何事もタイミング次第ですからね。

 

「心を学ぶ」心学寺。

自分の心に問いかけること多々あります。

私も御一同同様、見苦しい限り・・・。

 

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2024年

2月

09日

整備された丸根城 主郭付近真っ平 広すぎ・・・

しかしまぁ世の中には自分さえ良ければ他者のことはどうでもいいといった悪どい輩、蔓延していますね。

三面記事に顔を出す逮捕者たちの罪状を見ればそのような世の中であることはスグにわかります。

騙される奴が悪いという意見もままありますが、それは違います。まず自らの利益、幸福の成就のみを目途とし、他者のその幸せになる権利はトコトン無視し、踏み台にまでするということですから。

人というものの「弱さ」に付け込んでガッツリ金をむしり取るというホストクラブなどの件、最近その報道が多いよう。

毎度呆れ果てるばかりですが、政治家を支援し都合よく信者たちを増やしてのやりたい放題の集金システム(統一教会)と同じ。

その横暴の心、エライ人たちの模倣をしているかの様。

 

その手のマンネリ化したストーリー、私は昔流行った時代劇「必殺シリーズ」を思いだします。

その手の悪漢は「仕事人」へ依頼、抹殺されてめでたしめでたし。スカッとクライマックスを迎えたものでした。

本当にストレスが溜まる世の中。

 

特にその手の若い連中の髪の色。昨晩も逮捕された女性(男女関わらずお人よしをカモにする様)を見ました。

髪を何色に染めようが勝手ですが、生えたばかりの黒髪と染め上げた金髪のコントラスト「みっともねぇ・・・」。

やるからには日々ケアしなくちゃね。所詮黒髪の東洋人なのですから。因みに私はその黒に憧れる派。しかしやはり地毛の白が目立つようになります。

 

扨、矢作川「鵜の首」の丸根城

空堀に土塁は整備が行き届いて見事な部類。

しかし主郭と周辺のフラットさに違和感。

私ども周辺の滝境城や諏訪原城は20年近く前は畑でした。

地所の所有者は農耕のために土地を平らかにすることはやむを得ないこと。

高低差や土塁などの土盛を削平、撤去したのでしょう。

主郭が周辺曲輪と境界なしで露出しているなどの例はそうありません。

 

 

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2024年

2月

08日

湯水行水 二村氏から大正期「少年王」仲裁は本多忠勝

期間限定(5日間)で金2000えんプレゼントという広告が数日前当地区にありました。

食器の買い取りを主にうたっていました。

私も食器といえば山ほど積みあがっていましたが(まだまだある・・・)勿体ないとは思うものの殆どは処分場行きになりました。それはどちらの家でも同じこと、数代経てば無数の皿や椀たちが山になることは皆さん承知しているところですがそこは心を鬼にしないと処分という流れになりにくいものです。

先代、先々代から受け継いだ新品同様、まだまだ使えそうな品ばかりですからね。

 

それを「えいっ」とばかりに引き取りに来てくれる・・・そんな有難い話はありません。それもダメ元、必ず2000円が頂けるというのですから。価値があれば「それ以上」の夢も抱かせるものです。

しかし、しかしですよ、そんなうまい話がある筈がない !というのが私の思いです。

「またお婆さんたちがカモになるのかな・・・」でした。

 

これは「押買い」の変則バージョンですね。

一時大流行りして社会問題になりましたが金などの貴金属、貴重品、骨董品を無理やり(安価で)買い取るというもので、断れない雰囲気、時に「何かうま味のあるものを提示しなければ帰らない」状況を作ってそれを漂わせ根負けさせる戦法です。

以前は家の中まで入り込んであれこれ家探ししてぼったくり荒稼ぎが問題になりました。

 

押し売りも押し買いも以前のように個別訪問で呼び鈴を押してもまず門前払いというのが常、空振りが多いもの。

それを相手に電話をさせて来訪を請うというやり方にしたのでしょう。

心の堀を深くし城門の閂をガッチリかけているところ、通常は中には入れませんが、この方法ならばいともカンタンに入門できます。

2000円貰ってどれだけ損をさせられるのかいやはや。

皿や椀の食器類など殆ど無価値ですからね。

境内のガラクタ市で並べて賑やかにさせる程度というのが食器類。

よって食器(ガラクタ)というワードで釣り上げて本題は貴金属等の買い取りなのですよ。

東京の業者の様で、ヒットエンドラン風を感じました。

 

扨、いつも三河の情報をご教示頂いている二村氏ですが先般お送りいただいた史料の中に大正期に発刊された「少年王」なる書籍に成瀬と鳥居の、例の湯水の行水のお話があることを知りました。

しかし今の中学生を対象にした読み物のようですが驚きでもあります。私が読んでも「ふむふむ・・・」という感じですからね。今の中学生はスマホオンリーというのが私の感覚ですが・・・。

 

その「湯水の行水」ときたら今は講談。

以前にも記しましたがその二人の仲裁に入ったのが当初(20年以上前)は「本多」で最近は「酒井」に変化していることに触れましたがその大正期の読み物は・・・やはり「本多」。

どういう理由で本多→酒井に変えたのか講談師に聞いてみたいものです。

元は本多だったものをそれに変えた理由を。

 

画像は二村氏にお送りいただいた史料。

 

 

 

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2024年

2月

07日

川原崎次郎氏 小島蕉園と初代藩主本多忠晴の相良

お日さまが出てくることは承知していましたが予想より相当遅め。気温も上がらず結局自坊に籠りっきりでした。

それにしても首都圏の皆さん、またしても雪対応の脆弱性を露呈していましたね。救急出動が多かった様です。

今やこの時節の南岸低気圧の通過ときたらそれなりの降りになることは定説。

それをノーマル&ノーチェーンで走るなんて。

 

スタッドレスにチェーン装着をしていたとしてもリスクがあるのですから。

それは走っているのは自分だけではないということ。

ノーマルタイヤとチェーン無しの大丈夫の躰の輩たちが市中交錯しているのですから。

一般道渋滞ドハマリで「東名閉鎖が早すぎる」とお怒りの御仁がいらっしゃいましたが、道路公団はしっかり学習しているということ。

たった一台のスタックによりその後続からは微動だにしないことを知らないのでしょうね。因みに私は若き頃道路公団の下請けの会社でアルバイト(旧箱根新道・小田厚・西湘バイパスの管轄)をしていましたのでその辺りの件よくわかります。

通行の閉鎖をしても「オレは大丈夫だ」と捨て台詞を残して制止を振り切って箱根に登る車両、そういうのに限って「車がハマって動かない」のヘルプを出すものでした。

みんな「オレは大丈夫」の気持ちで突っ切って挙句「まさか」と呟くのでした。

 

また一つ、箱根で動けなくなって「JAFにヘルプ」というドライバーがインタビューを受けていましたが「布チェーンを着けたがダメだった」とのコメント。

それは最近市販されるようになったお気軽雪対策グッズですが、それを信じるとすれば役に立たない無意味なものということでしょうか?

まぁあの予報を見ていたらハコネなど上がろうなどという気はさらさら起りません。

 

扨、当相良の史跡調査会の重鎮にかつて川原崎次郎氏がいらっしゃいました。私は一度だけ自宅へ押しかけてお話を聞かせていただいたことがありますがその後間もなくして逝去されました。よってお付き合いは殆どなかったのと同様です。

そして先ごろ氏の小島蕉園についての記述をその方の息子さんからいただきました。

また相良の街の家康以降の発達についても少々の記述があります。

 

特に蕉園といえば「善政」の政治家というのが人口に膾炙したところですが、その件、ポイントとなるところが記されていました。

 

 

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2024年

2月

06日

首都圏雪大変 当方お気楽失礼 お大事に

当地は殆ど小雨の一日。

夜間ザっと降る時間がありましたがそのあとから大和市の義母から「雪が本降り」と。こっちの雨があっちに行くと雪・・・そんな感じなのでしょうね

先日菊川にて長野県から雪のプレゼントということで特設会場でそり遊びを楽しむ子供たちの様子がニュースでありましたが、南遠には雪は降らない・・・が定説になりつつあります。

一昔前の当地には積雪はないにしろ少しくらいなら白いものがボチボチと見かけたものでしたが。

 

昨晩のNHKクロ現。

ペットブームの裏側ともいうべきペットショップの実情について。タイトルは「さまよう繁殖引退犬 ペット業界の“異変”を追う 」「10万頭の犬が行き場を失う?手放される“繁殖引退犬”」でした。

ペットブリーダーなる語を耳にして久しいものがありますが、その命のやり取りを生業にしている人たちの悪どさにスポットが当たりました。

 

番組に取り上げられていたのは繁殖マシーンとなって子犬を「量産」した親犬が御役御免、要は「稼げなくなった時」それは餌をやるだけでマイナスであるからという理由に他なりませんが彼らの行き場のない姿。聞いているだけで吐き気をもよおします。

中には山に捨てる例もあったくらい。

まともな国は既にペットショップ禁止の国があるくらいなのに。

せめて犬にも猫にもその命に敬意を持っていただきたいものです。

単純計算ですが現状親犬に子犬を産ませる回数は6回までのお約束があります。

それが厳密に守られているかどうかは知りませんがその6回に5匹が産まれたとして・・・6回×5匹で30匹。

幾らで売るのかも分かりませんが中には25万円の値がつくものもありますからね。

ぼろ儲けの感漂いますが、生産性の無いモノは捨てるの短絡がまかり通る社会ならば私たちはそれを受け入れるべきではありませんね。

購入する者がいるから売り方(繁殖者)はお調子にのる。 

この件も世界から笑いものになりましょう。

 

画像①②③は「女墓場放浪」から都内夕刻の図。

専門学校講師ですが急きょ休講になったと。

自転車を某大学構内に置いて徒歩で帰宅中、目の前でバイクがスっ転んでいた・・・と。

④⑤は「奥の墓道」氏の横浜からの図。22時に雪はやんだと。

近くの坂道には3台ほど放棄された車があったそうです。

ノーマルタイヤにノーチェーンでこんな晩に走るなんて・・・

無謀。問題は朝でしょうね。

 

当地はまったくお気楽。息子も浜松ですしもはやこの手の天候による心配はなし。

皆さんお大事に。お二人とも出勤とのことでした。

 

 

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2024年

2月

05日

矢作川狭小「鵜の首」に丸根城

小雨の朝でしたが法要終了時にはあがってお墓参りも難なく終了することができました。

無風という条件は何より有難いことでした。

施主は「いつも法事が雨 私は雨女」と呟いていました。

私は「たまたまですよ~」。

空気の流れのローテーション。巡り合わせ・・・どうしようもないことだと。

お話は名号の「南無」について。

(ありのままを受け入れて)「まかせる」「(できないことは)頑張らない」ということ、そして「煩悩具足」の私ですがそれを身に纏っているのではなく「私こそ煩悩(そのもの)」であること、よって先生たちがお好きな言葉「人事を尽くして」の「人事」とは結構イイ加減なもの。

清沢満之の「天命に安んじて 人事を尽くす」・・・この天命こそが阿弥陀に「まかせる」でした。

立ち止まって考えれば毎度私のお話は同じようなものですね。

また、御文の添えに歎異抄四条の拝読も。

 

扨、先日記した矢作川の細く川幅の狭い「鵜の首」。

その東岸の丘が丸根城になります。

①~④が矢作川側の崖になります。今は道路が走っていますが矢作川の最狭小部といいながら堀としての機能は抜群。

こちら側(野見)南西方向からの要害性は十分ですね(場所はこちら)。

 

さほど高さはありませんが整備が行き届いた城跡は見事。

まず大きな空堀がお出迎えしてくれます。

それは北側住宅地側からも同様ですが私が知らなかった城だけに感動ものでした。

 

例によって城郭大系。本編には無し。

その他の城郭にて。

229丸根城 豊田市野見町

「丸根宗勝在城。 

現在は畑地であるが幅7m、延長100mほどの堀が残る」でしす。石標には丸根宗勝の名は記されず松平系を示唆するものでした。

 

 

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2024年

2月

04日

親鸞オンライン講座 代官小島蕉園揮毫墓碑案内板 

風も無く寒さはそう酷くもない一日。

よって掲示板建ての続きと本堂雨戸のちょっとした修繕を行いました。

拙寺累代墓碑の側面には相良代官小島蕉園の揮毫がありますのでその紹介を。

ちなみにその本文はこちらにもあります。

何せ小島蕉園は一言で善政の人ですが代官所が近かったこともあって拙寺九代の祐厳と通じるものがあったかその交流、遺っている史料は豊富です。

勝手なことをたびたび記ますが、大河ドラマに採用されたとしても不思議ではないと考えます。

次回の大河ドラマでは田沼意次が登場することは決定していますが、その田沼―松平時代といえば「文化」の大らかさと統制についてのギャップが表に出てくることと思いますがその時代といえば「狂歌」というものの登場が何らかのカタチで描かれるはず。当時の狂歌といえば真っ先に

「白河の 清きに魚も 棲みかねて 

             もとの濁りの 田沼恋しき」がありました。

 

その狂歌師(三大狂歌師)の一人、唐衣橘洲の息子が小島蕉園というところがミソ。橘洲のその番組への登場があれば小島蕉園を

引っ張ってきやすいのですが。

橘洲の名はこの掲示板には記していませんので、登場の兆候があれば差し替えることにしましょう。

 

⑤⑥画像は当流のオンライン勉強会。

「親鸞仏教 オンライン学舎」全51講義。充実しています。

 

 

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2024年

2月

03日

豊田矢作川 鵜の首橋 驚愕の構造物

「もう限界」の声が。

NHK「震災から1カ月 将来が見えない・・・」を視聴しました。

家があって水と電気と暖かい布団がある私がなんと仕合わせなことか。

それでいてつまらない泣き言ばかりの自分があるわけですから。「次は自分だから」の開き直りもありますが、内心こちらだけは来ないで(地震が)欲しいといった勝手な思いも。

まぁ人間はとりあえず自分の事が一番の大事。

 

よく神仏にタノム、お願いごとの一番は我が身の事といいますからね。因みに二番は家族の事。三番がおカネの事と続くよう。

それはそれはもっともな話ですが今被災地の皆さんも当然の如く。①②を何とかやり過ごした方にとっては特に今③のおカネについて相当の不安があるようです。

 

あれだけ壊れた家、稼業を復旧させることは勿論、その仕事も失っている中、日々の生活維持費、要はどうやって生き続けるかが不安材料になっているのは当然の事。

首相官邸の震災当初の出遅れと震災規模の判断ミスの件、ニュースにありましたがこれだけ災害頻発の日本にはどこかの国にあるように「緊急事態省」の如くの省庁を新設した方が話は早いのでは・・・などと思いますね。

 

情報管理、統制は勿論素早い対応に移るために常時被災地救済用の緊急品や仮設住宅資材、人材育成と人員の確保が必要なのでは・・・と。勿論そのトップは高効率な対応のために総理大臣の顔色を窺わない独自の判断ができる即現場に行ける方。

自衛隊とは連携は必要ですが別個の動きをしてもらいたいですね。

何かあった時コスプレ姿に着替えて神妙な顔で雁首揃えてのお偉いさんたち御一同、遠慮したいものですから。

 

扨、昨日は野見の丘から矢作川方向を見やりましたが、この近くの矢作川に以前から河川氾濫の名所と言われる場所があります。

雁首ならぬ「鵜の首」という名称で言われています。

細長くくねるよう流れる河川域のことでしばしばこのように河川狭小な地形というものは大雨による氾濫がつきものになります。

 

そちらに行くと「鵜の首橋」なる鉄橋が架かっているわけでそれがまた「鵜の首」というだけにかやたらと細い。

それでいて車の通行はOKなのでした。

そのうえ驚いたのが両面交通の生活道路というところ。

面白がって徒歩で橋を進みましたが、それはまた強烈です。

「構うことはない」という感じがモロ。

人がいようが車は突っ込んできて私は「申し訳ない」とばかりに欄干にへばりついてギリ車を通しました。対向車がいないを判断すれば真っ先にアクセルをふかします。

「ところ変われば」と感心させられましたが何しろ見た事のないような超絶の橋。

川幅も相当狭い場所ですが(場所はこちら)・・・。

 

 

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2024年

2月

02日

住宅地にある古仏の見える野見墓地 豊田

暖かでしたが風強め。

またこれから寒くなるとのこと。

昨日は本山の能登半島地震義援金をカタチだけの自己満足レベル、微々たるものではありますがゆうちょ銀行より送金しました。

手数料がかかったことに「なんだかな~」。

 

永田町のお偉いさんたちの件、連日賑やか。

裏ガネ、中抜きの3000万円を隠していた連中がどう能登のために身銭を切ったのか知りませんが、派閥全体トータルで6億円にも上るといいます。

そのうす汚れたカネを能登半島でキレイにしていただければいいのに・・・と単純に思うのですが。

 

先日は某校長先生がコンビニコーヒーをレギュラー購入後にラージにしたのがバレ、話が大きくなったのか懲戒免職になっていました。

もっとうまいこと処理できなかったのか・・・と心根の悪い私などは思ったのですがその差額は僅か70円といいますからね。

同じ人間で70円はアウト・・・、そして〇千万円はセーフというのはどういうこと?

世の中一筋縄ではいかないのか不思議の国に生かされているのか。

 

また昨日は奥さんと子供3人をあの地震で同時に亡くしてしまった方のインタビュー画像を視聴しました。

その夫のバックには家族4人の遺骨と仮位牌が。

どなたであっても悲しいことですがその法名の「釋」と「釋尼」に私どもとの近しさを感じ一層の無力感が漂いました。

 

先般は当流の倒壊本堂から住職の亡骸が・・・というニュースもありましたがどの画像を見ても言葉に窮します。ため息しか出ませんね。

日本全国「次はどちら・・・」「ひよっとして私?」を思うことしきり。

 

扨、墓場放浪の醍醐味。

何となくふらっと墓地を廻って、古仏石塔に出あうこと、嬉しいものがあります。

こちらは豊田、矢作川を見やる野見墓地。

一見新しく造成された墓地のように感じますが①蓮台に経台も見えて墓地自体の古さを感じます。ただし「大師塚」の意は不明。

名号板碑が中央にあるところ特に。MIX集合された墓地かも。

他に一石五輪塔、宝篋印塔残欠などなど、整理は行き届いていますが歴史を感じました。

卵塔も見えますからどちらかの寺との関りもありそうです。

 

今は宅地と化している丘の上というところですが、造成前にはこの辺りが墓場であったことが推測できます。近くの公園の名称が「三ツ塚」でした。

⑨は矢作川方向。この河川の作った河岸段丘、「野を見やる丘」そんな名に納得して墓地を後にしました。

古瀬間城からも遠くない場所になります。

 

 

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2024年

2月

01日

中電工事能登修復出張ご苦労さま 浅草東本願寺

雨降りの予想がありましたので花ガラ三袋含めて地頭方処理場へ。お日さまはほとんど顔を出しませんでしたが上着なしでも十分すごせる一日でした。

こうやって一日一日と本格的な春が訪れるということでしょう。

先般能登大地震とともにやってきた2024年は早一月。

1/12が過ぎ去りました。

こうやって一歩一歩その「区切り」まで歩んでいる私どもがあるわけで。

 

一昨日は浅草の東本願寺にお参りしたのですが、こちらは私が近くに寄った場合は必ず立ち寄ります。

厳密にいえば私どもの宗旨とは異にするお寺のわけですが私がこちらに拘るのはかつてこのお寺が真宗大谷派だった頃、半世紀近く前の事、こちらに併設されていた専修学院に一年通学、今の私の根拠となるものを得た場だからですね。

 

夜間の学校でしたから、昼間の学校が終わってから小田急―千代田線―銀座線と乗り継いでのお勉強タイム。もはや居眠りの連続だった感ありますが。

ロクな勉強もせずにただそこの席に居座って1年をギリギリの成績で過ごしたのでしたが、これだけのロクでもない阿呆を受け入れ、最終的に卒業という果実を与えてくれた御恩は忘れられません。

 

今となってはバカバカしい話で以前も記したことがありますが、友人の「奥の墓道」氏もその教室に同座して授業を受けたこともありました。

付き合いがイイというか興味の幅が広いのかはたまた私と同じバカなのか彼は別に私の昼間の授業(法律学)にも出ていました。

そのせいで自分の学校(横浜)の出席が疎かになり結果、一定の咎を受け煩雑な手続きに追い込まれていました。

「付き合わせる奴が悪い」「いや付き合う奴が悪い」の問答が思いだされます。

ちなみに私は彼の学校(経済学)の授業には出たことがありません。

 

①は中電の電柱支柱工事完了の図。

能登半島の電力事情は回復とのこと。

早速こちらの工事を手掛けていただきました。

ということで会館の工事担当者に連絡。

さてさてどうなることやら・・・

 

②からは浅草の「東本願寺」。

門を入って左側にその建屋、専修学院はありました。

蓮如さん像にも挨拶は欠かせませんが新しい石碑が。

「天竺の庭」とやら。

 

 

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2024年

1月

31日

浅草公会堂 「花こぶし」観劇と池波正太郎展

6時30分に出立、10時過ぎに浅草着。

16時前に再び首都高に入って19時30過ぎに相良帰還。

結構ハードなドライブでした。

しかし浅草が目標となると首都高速は毎度ベタ混み、用賀から三号線と環状線のコースは上下とも使用しないで済みますのでこれといった渋滞ハマリはありませんでした。

 

東名青葉ジャンクションから湾岸線へワープする作戦です。

生麦に出るまではトンネルばかりですがタイミングさえ良ければストレスなく車を進めることができます。

ただし分岐が多くまごまごしているとコースを間違えること必定。

特にいつもと違う方向・・・これは早朝西方向に向かって夕刻相良に帰るのとは逆・・・東京方面の場合は結構にリスキーなことがあります。×2です。

それが天気が良ければ良いほど・・・

早朝の東進は日の出、夕刻の西進は日没の眩しさ。標識も場合によっては前車も「消える」ほどに。

 

やはり朝は西、夕は東に向かうのがお気楽です。

 

浅草公会堂には初めて入館しました。チケットは叔父からのご接待です。

観劇のあとロビーでは池波正太郎展と書籍の販売コーナーが。

彼は浅草出身だったのですね。

 

それにしても浅草は一昔前と全く変わっていました。

日本人はその劣化度に外国人はその多数圧巻に驚かされました。まぁ人混みにくさくささせられて尻尾を巻いて帰ってきた田舎者夫婦でした。

特に奥方から「人気のどら焼き屋」に付き合わされましたが、店の前に辿り着くとズラッと行列。

店員さんに「あちらの最後尾にどうぞ・・・」でした。

勿論「それなら結構」の捨て台詞。

奥方には「並んでまでして喰うもんじゃない・・・」。納得していました。

 

東本願寺(昔の東京本願寺)にはご挨拶にお参りしましたが、もはやそう行きたいと思える場所ではなくなりましたね。

②は閉演後の撮影OKのご挨拶タイム。

尚、そのタイトル名は恵信尼の五輪塔脇にある花こぶしから。

 

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2024年

1月

30日

レイシャルプロファイリング 世界人権宣言 志賀墓地

はじめて「レイシャルプロファイリング」なる語を聞きました。表向きオトナの外交に「日本に来てください」なる商売上手のいろいろを見ていますが、それに対してこの件恥ずかしいことです。

「外国人」という理由だけで積極的に(当人にはその理由等を示さず身体検査、暴言を吐きながら如何にも「差別的な」)職務質問をするというもので、あたかも外国人(特に有色人種が多いよう)・・・という理由で犯罪者を想起するという発想。

まさかそれほど酷い「思い込み」がここでも常態化しているとは思いもしませんでした。

特に今回国と愛知県警が提訴されたわけですがまったくみっともない話で言葉もありません。

愛知県警のマニュアルの件も酷い錯誤。旧態依然の陳腐な発想をもってずっと維持されていたということでしょう。

島国根性丸出しなのか、それが日本だったのか・・・と唖然とさせられました。自分たち黄色人種がかつて白人の地で思わぬ差別を受けていたことを忘れたのでしょうか。

日本人は同じ日本人に対してもその違いについて一種独特の歪んだ視点から見廻わそうとしますからね。

ただ自分と違うというだけで。

 

警察官は今職務の前に「世界人権宣言」の件、お頭に入れておいた方がいいようですね。変な「伝統」?を振りかざす前に。

恥ずかしいですよ。日本人。

 

「世界人権宣言」

第一条

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

第二条

すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。

さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。

第三条

すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。

 

扨、画像は昨日の志賀神社に隣接した高台の志賀墓地から。

名号板碑と六地蔵ほか墓石たちはどちらからか移転してきたようです。古そうな墓石を探してうろつきましたが、新墓地ということでムリでした。

うろうろしていると墓参の方に会って「珍しい苗字ですね・・・」

蟹さんでした。縁者も多いようでその墓塔をみかけました。

家紋から連想すると笹の才蔵を思いますが、「可児」の件には触れませんでした。

また加藤さんが多いことも。

 

この高台からも古瀬間城の櫓が見えます。

 

 

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2024年

1月

29日

思い思えば闇の世や 浮世は夢よ 裏切り御免 志賀

昨日はBSでクロサワの「隠し砦の三悪人」が放映されていました。最近は滅多にその機会はありませんから何となくチャンネルをそのままにしていました。

モノクロ画像と台詞廻し、そして各オーバーアクションについてはともかくとして、やはりついつい見とれてしまいます。

ハリウッド映画の巨匠たちがこれに倣って各新境地を開拓していったその原点ともいうべき映画です。

特に私は黒くて汚らしくて油汗ドロドロの顔を見るとセルジオレオーネのマカロニウェスタンの色々を思い起こします。

まずクロサワから始まった・・・

今や日本映画はそのハリウッド映画のモノ真似専らの感。

アニメ以外ではもうムリなのでしょうね。

 

それにしてもそのタイトル「隠し砦の三悪人」は如何にも如何にも・・・というくらいインパクトがありまた伝説的。

現在、永田町では「なんとか派の五人衆」なる語が闊歩していますがキックバックだか隠しカネだか知りませんがまさに「五悪人」。

映画の中ではでたらめ、いろいろしでかしてそれでも「めでたしめでたし」で終わりました。

現実の彼らもお目出度い緩みっぱなしの顔を一昨日晒していました。お咎めなしの躰。それでいいのでしょうかねぇ。

同情できない「悪人」自省のない「悪人」多すぎます。

 

表題「思い思えば闇の世や 浮世は夢よ」は劇中「火をどり」の中の歌詞。「裏切り御免」は愉快で爽快な台詞。

敵役の侍大将がその言葉で寝返り、形勢逆転、囚われの身が助かったのでした。

 

扨、画像は志賀神社。

最後の画像中央右が昨日の志賀公民館。その先の小山に古瀬間城の櫓が見えます。

この神社も元は古瀬間の松平関りの社のようです。

ぐるっと尾根伝いに古瀬間城ウラの散策コースが巡っているはずです。私はチャレンジしませんでしたが。

 

 

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2024年

1月

28日

豊田志賀町区民会館 秋葉灯と畜魂碑

昨晩はグレートネイチャーの「モンゴル草原~」を視聴しました(湧き水 永久凍土 氷河によってもたらされた豊かな大草原)。

何から何まで私の頭の中を超越しているというかスケールそのものが私が普段目にしている物たち色々との段違いの様相を。

そもそもあのモンゴルの大草原が「2億5000万年前に海だったものが閉じた」の件、仰天です。そして5000万年前にインド亜大陸が大陸に衝突し各山脈(天山、アルプスそしてアルタイ・・・)と平原が形成されたという地殻変動の歴史でした。

あまりにも天文学的スケールの如くで狐につままれた気もしないわけではないですが。

 

溜息が出るのはその草原に人があまり見えない事。

人口密集、家々がひしめき合って建つ日本国内の様が普段から目に焼き付いている者としては圧巻の自然世界です。

遊牧民は3000年も前から馬を放牧しながら彼らと生活を共にしているのですが、その保有頭数も半端な数ではありませんでした。一家族で馬数百頭、その他羊や山羊も。

だからこそ彼らの主食である草を求めて「遊牧」するわけですが、その生活をこれまでずっと同じカタチで続けているという彼ら遊牧民に偉大を思いました。

それこそこれが素朴で鷹揚そして忍耐強い性質を生むのでしょうね。

ついつい大相撲の現実世界、頭の中をよぎります。

 

扨、昨日の西谷院のあるちょっとした丘を下って、同じ志賀町の区民会館の前に秋葉塔と石碑が道の脇に。

この手の平らかな石碑というものは大抵が地域偉人か出征兵士を讃えるものですが、それはこれまでの私の理解を超えるものでした。

文言が道路側にあってざっと眺めるにこれはいつもの石碑の類とは違うことがわかって正面に廻りこんで確認。

すると畜魂碑と。

裏面には国の隆盛は農業に関わっていてそれには家畜の力か必需・・・のようなことが記されています。

一家に一頭・・・それって馬でしょうか。

ということはよく街路に立つ馬頭観音の如き石塔、その動物顕彰碑の大判ですね。並々ならぬ愛情と感謝の思いが伝わってきました。

動物たちに代わって機械化された農業もまた廃れ、機械そのものに振り回される人間の様。

機械(AI)はヒトの顕彰碑を建てるのでしょうかねぇ。

 

 

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2024年

1月

27日

川島掲示板続き 西谷院卵塔たちの奥に宝篋印塔

川島清右衛門墓の掲示板の続き

まずは「御用所」の件。

私はその「史跡」の記述について検証する術を知りませんがそれから推測するに、まず城内に「御室御用所」を招へい設立し、その後相良波津の「百花」にまたその「御用所」を開設したというところ理解したのですが、その御用所とは何かといえば相良藩の経営する金貸しシステムのことですね。

貸付業務(銀行業務)により金利、今で言えば法律に抵触しそうな高金利・・・、を稼ぐというやり方ですね。

当時、キャッシュの少ない時代ですから需要はあった筈で藩の財政はそれなりに潤ったに違いありません。

 

そのキャッシュの貸し出しと金利含めたカネの回収のノウハウを得るためにその「御室御用所」をまず最初に招いたのだと思いますが・・・

ノウハウだけでなくその元金の借り入れに「御用所」の名も頂戴するという算段。

そこで「御室御用所」とは・・・。

単純に「御室~おむろ」といえば仁和寺の事。言わずと知れた絶大門跡寺院ですが、江戸期における権勢(財産)も突出していた

わけで、当時その門跡寺院たちは有り余る金子をさらに投資、その窓口(銀行支店)を各藩の求めに応じて出張開設したのかと。また「御用所」は富籤御用所(宝くじ事業)手形の発行などの事業細分化して武家社会に密かに君臨していたことでしょう。

その「御室」とは通称は仁和寺ですがその類の門跡寺院の金貸し出張所「御用所」にも「御室」を冠したのではないでしょうか。

 

幕末の武家の懐事情はかなり悪かったため、その御用所より手形や現金の貸し出しを受け自転車操業に陥って、幕府の財政の破綻を加速させたのでしょうね。

また川島らの御用所運営は相良藩財務の逼迫に一瞬間は貢献できたでしょうがその時代の流れには到底抗うことはできなかったことかと。

 

そして今一つが川島の妻二人の件。

概略は昨日記した通りですが、推測の域を出ませんがそこに睦まじい「三人」の姿が想像できます。

相良藩勘定奉行としての川島の働きと彼の死を受けて五年。

妻たちそれぞれの思い、どうあったのだろう・・・などと歴史小説のできあがり・・・どなたか、うまいこと仕上げてくださいませ。

 

扨、豊田志賀町ブラつきの続き。

古瀬間城を浄願寺境内に下りると、お寺の屋根が見えます。①図中央左。

浄土宗の西谷院ですが卵塔の数からして古い歴史があるお寺とお見受けいたします(場所はこちら)。

その卵塔たちの居並ぶ場所の奥に一基の古そうな宝篋印塔が立っています。完全形ではありませんが、一部相輪も残っていて、ただそこにいらっしゃるだけで威風を放っています。

ありがたいことです。

 

 

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2024年

1月

26日

川嶋(島)清右衛門重固家墓碑掲示板差し替え

天気は晴れながら寒くて風の強い最低の一日。

寒さには慣れもしましたが、ここ数日サボりまくっていた例の川島清右衛門墓の掲示板の修正作業を。

ご指摘を受けた「御要所」の「要→用」に文字を改めたほかそもそもその文言の元ネタは先日も記しました通り平成20年発刊の「相良史跡」からでしたが清右衛門の法名といえば大元の史料としては拙寺の過去帳ほかありませんので念のためそれをチェックしたところ転記ミスがありました。

相良史跡のものは清徳院重永となっていましたが清徳院釋重水が正解でした。

法名を間違えては申し訳なし。

その妻が清心院釋徳水とありましたのでまずそれは「水」で間違いないでしょう(過去帳そのものにも誤記はあるものです)。

夫婦で同じ文字を法名に入れることはままありますからね。

 

過去帳を眺めていて気付いたことはその妻に二人目が存在したこと。二人目の方には院号が命名さずに法名だけですから明らかに上下関係(正妻と側妻)といったところが推測できますが本当のところはわかりません。

またその二人の命日。

慶應四年1868六月十二日と六月十三日。

清右衛門が文久三年1863七月十二日その十二に何かの決意のようなものを感じます。彼の息子清次郎重基の名も過去帳にあり

ました。彼が没してからは明治期くらいまで水野家がこの墓を管理していたのでしょう。

 

④は清次郎重基の娘が水野家嫁いだ際に持参したという田沼意知の画。

⑤は参考のため清右衛門の発した貸付書の書き下しを添えました。

 

相良藩奉行 川島清右衛門重固と妻 清次郎重基 墓

川島清右衛門は須々木村の出身ともいわれるが不詳。 相良藩主田沼備前守意留に仕え、生来利発 天保七年1836 勘定役に取立てられた。 天保十一年四十二歳の時田沼玄蕃頭意尊が藩主になった際 勘定奉行に抜擢され幕末期の苦しい藩財政の保持に専念した。 年貢免定(賦課率)を決め天保七年より安政六年1859まで 二十四年のあいだ井上寛司とともに田沼家を支えた。 藩中では「御室御用所」を設け町内百花に通称「御用所」を 開設。東遠における金融機関として掛川、横須賀、相良領を 中心に貸付を行った。 文久三年1863七月十二日六十四歳。

法名清徳院釋重水。 妻は清心院釋徳水慶應四年1868六月十二日。 また釋妙清同年六月十三日。大澤寺過去帳よると妻は二人いた ことが推測できる。 清右衛門没日と同じ十二日とその翌日の死は謎である。

 

重固の子清次郎重基は分限帳に「給人席」(藩内身分)二十三石。 水戸征伐には「大炮役」として出陣。文久三に父の家督を継ぐ。 明治元年田沼意尊の小久保藩転封に従い明治三年に「小久保藩 大属」さらに「小久保藩庁掌」を任命される。 後、郷里に戻り相良警察署池新田巡査になった。 その娘が朝比奈山ケ谷の水野家に嫁いだが嫁入りの際持参した 田沼意知が描いたといわれる画が伝わっている。 明治十九年九月三十日没 法名釋離塵

 

相良藩奉行御室御所川島清右衛門重固貸付書

以剪紙致啓上候向寒 之節御座候得共弥御堅固 被成御勤役珍重奉存候 然者当領分榛原郡波津村 当暮取賄金差支候ニ付 御室御所御貸付金之内 弐拾五両拝借仕度旨 願出候間相糺候処相違無之候 之間御貸付相成候様御取計 可被下候尤拝借人差出候 証文質物等之儀相改 其 御用所江差出申候 右願人三保太郎願之通 御聞届宜御取扱被下候 勿論元利返済方之儀ハ 聊無滞様可申付候此段 可得貴意如此御座候 恐惶謹言 田沼玄蕃頭内

川島清右衛門 重固 花押

十一月十三日  御室御所

御貸付 御役人中様

 

 

 

 

 

 

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2024年

1月

25日

古瀬間城本郭の裏山 小督局の墓 ?

 

お気楽野郎の泣き言と思われるでしょうが寒すぎて何もする気にはなれません。

バカバカしい寒さ・・・早いところ暖かな季節の到来を待ちます。

とはいえここ南遠州、相良では雪の一粒も降ったわけでもなく昨日のドカ雪で高速道路上で雪ならぬ「雪隠攻め」となっている人たちがいることは同じ東海道ということもあって少々の驚きがありました。

まぁ以前から近江から関ケ原には北側に高い山脈がないためにその降雪傾向が強いということは身をもって承知していますがあの様を見ていれば移動と高速道路の利用には天気予報の確認は絶対的要件であって、ヤバいと思ったら中止にするか早めの対応が必要になります。

 

昨日は息子が島田でラーメン食べたついでということで立ち寄りましたが週末に東京で法要2件を受けたとのこと。

私もかつて厚木インターから小田原方向に向かうにインターに入ってスグ、チェーン規制に遭遇して大渋滞。微動だにしなくなって朝まで道路上にいたことがありますが、予報が怪しい時は高速道路は控えるというのが肝要。

そもそも移動はせず、家にいるのが一番です。

家の中がこれだけ寒いのに被災地の皆さんの仮宿や車上での時間は私には想像できません。

被災したら・・・真っ先にすべて諦めて・・・死ぬ。そう断言します。

熱いお湯に入るとき「生かされている」の至福を感じる今日この頃。

 

 

扨、昨日記した古瀬間城

浄願寺の奥、扉を開けて山道をのぼり切れば①の如くの看板が。

ということで古瀬間城の本郭をブラついたあとはその矢印の左方向「小督局」とやらの墓へご挨拶。

豊田方向に睨みを利かせている風からしてこちら方向は城址の裏山という感じ。

その参道には地域のみなさん方でしょう歌碑が並びます。

看板から100mも行けばその墓塔に会うことができました。

小型のかつては宝篋印塔が三基あったような出で立ち。

 

右端の大きいもの、上部に相輪が残っているのが小督局でしょう。いずれもバランスが悪く、本来のパーツの組み合わせではないかと。

最後の画像は宝篋印塔の笠、隅飾りの部分だけ。

 

その小督局について各お調べいただければ。

数ある小督のうち平安末期のそれを主張していますがそもそも

何故にしてこちらにという理由がわかりませんので、ハイそうですか・・・という具合に鵜呑みにできないところ。

パーツの組み合わせを推すところは浄願寺奥の松平の宝篋印塔と同様ですが隅飾りの姿は古式溢れて美的要素は満点。

こちらの散策も春がおすすめのよう。

ヤマザクラには早かったのでしょう、それには気づきませんでしたが。

 

 

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2024年

1月

24日

古瀬間城 お気軽散策コース 梅咲く季節がおすすめ 

 

クロ現は佐藤優氏。

多くの印象的な言葉に満ちたインタビュー番組でした。

苦しい時は頑張らずに「助けてくれ」を言おうそしてそういう社会に・・・まさにその通りです。

しかしどちらに向かってそれが言えるのでしょう、我々はプライドというものを持ち合わせていますのでなかなかそれを打ち明けられないもの。そんな場所といえば・・・寺なのか。

植木等の「カネの無い時」「オレも無いけど何とかなるさ」とありましたが今そのナイのレベルが半端ではありませんからね。

そんな格差社会にたれがした。

 

また「縦の贈与」という言葉は良き言葉。

今、父や爺様はとっくのとうにお浄土ですが、日々を暮らしていてわからないこと聞きたかったことのいろいろとブチあたったとき聞きたくても聞けません。訪(とぶら)って耳を澄ます他はありませんからね。

もっと聞いておけばよかった、教えを請えばよかった・・・の想いが。

生前の頃はそんなことを考えもしなかったことで、これを「バカは死ななきゃなおらない」と言うのでしょう。

死んだのは私の父であり「なおる」は気づき。

今更気づいても既に遅し・・・

息子には何を伝えて行くか。 

 

扨、昨日の墓碑を見送り(②の左側が墓域です)階段を上がれば獣除けの扉があります。それを開けてほんの少し進めばそこが古瀬間城。土塁等の残存遺構も垣間見れます。

台地の先端にあって豊田市内を見渡すことができる眺望がいいところですが背後の台地はそう険しくなくなだらか。さほどの要害性は感じません。

 

整備が行き届いたのが最近のことで梅を植樹したことからそれが咲くころには絶妙の山歩きが楽しめます。

⑤が厳冬期⑥が3月初旬の図ですが今年は梅の開花が早そう。拙寺のとち狂った梅4本は既に咲いてしまっています。

 

そして城郭大系の本編記述はなし。

「その他」の扱いで「松平宗忠・鈴木重政在城。大字馬場の地名が残る」とだけ。鈴木重政は足助鈴木氏。

 

 

 

 

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2024年

1月

23日

松平弥三郎宗忠墓所 浄願寺

 

ボランティアなる語を聞けば「すばらしい心がけ」として感心させられます。

自分の時間を他者の為に奉仕「尽くす」ことですが並大抵の労力ではないでしょうね。仏教でも慈悲の実践として昔から高僧たちが取り組んできたものです。

 

最近は高校・大学ででボランティア部なる活動があることを聞きますが先般そのボランティアに向う若者たちについて聞きかじったことがあります。

それは大きな意義があることですが、いとも簡単に挫折し時にトラウマとなって精神的なダメージを被るということです。

要は思うほど美しい人助けとは違うということですね。

それはそうでしょう、究極の困窮と苦痛を背負った人々に勝手な慈悲の心を向けたとしても「違う」と思われてしまうようです。

若者たちはとかく経験が薄い。

現場に出たことが無いこれがデビュー戦のような子供たちが時に罵声を浴びせられありがとうの言葉の一つもない殆ど戦場の様な場所にお気楽気分で「人の為」と向かって逃げ帰ってくるということですね。

泥だらけになって食事や風呂は被災者第一に優先、その覚悟というものが必要です。

 

扨、昨日記した浄願寺の奥に墓塔が数基見えました。

あっちこっちから素材を組み合わせたような姿に見えますが

松平弥三郎宗忠墓所の標が。

宗忠は松平信光より分かれた長沢松平勝宗の子といいます。

 

 

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2024年

1月

22日

浄願寺鐘楼山門と堂内阿弥陀仏ちらり

 

昨日日曜日には3件の法務がありましたがそのうち1件、浜松霊園での墓前法要は息子に向かってもらいました。

当初土砂降り予想で、彼には「ズブ濡れでも笑顔で行ってくれ」と依頼していましたがその頃は完全に雨があがっていました。ありがたいことです。

 

私は法要が1日複数の法務というものがいよいよ辛くなってきましたので彼が代わりに行ってくれることは頼もしい限り。

いよいよ寺の戦力として計算できるようになりました。

しかし伐採や片づけ、メンテナンスの手助けフォロー依頼の呼びかけには顔を出しません。

法務よりも私が行っている「雑務」による維持作業が本題であることも伝えて行かなければなりませんね。

そこを「他力」(一般的な)で済ませていては出費が嵩むだけですからね。

 

「辛くなった」というのは喉の具合のことです。発声の質も悪くなっているような気がします。

昨日も2度目の法縁の正信偈拝読の際、突然声が出なくなってしまいました。それには相当焦ります。

何とか復活するという妙がありましたが、御一同にもハラハラにさせることになります。

 

その症状の発生頻度が高くなったこと、そろそろ「いい加減すっこんでろ~」と声があがって来そう。

ただ風邪の症状の様な気もしないではありませんが。

それはそれで困ったことになります。

様子見て彼を呼びつけるという選択も視野に入れています。

 

扨、「他力」は誤解の多い言葉であり当流の「他力本願」という熟語にするともっと批判的イメージを抱く方がいらっしゃるのでまた困る。

困るといえどもそれこそが私ども真宗の本貫となる教えです。

以前もその件、かつての「オリンパス」社の無知の露呈、それに対して本山の抗議文まで出たことを記しましたが当流はその意の解釈について特に敏感です。

要は「他」とは阿弥陀仏以外ほかでもなく「人」に対してではないということ。

要は仏教の語が独り歩きしてしまったのでした。

 

そして「悪人正機」というのも当流の看板。

悪人だからこそ阿弥陀仏の救済の第一義、対象になるということですが、だからこそ自力作善ではお手上げであって阿弥陀に(他力に)タノム(まかせる)わけでそれにはお念仏・・・という構図が出来上がるのでした。それも大いに誤解を招きます。

 

まぁ善行を重ねることに意義を感じ生きる(自力作善)という他者の考えはそれはそれでヨシ。これは善を以って救われるという考えですね。

しかしその善というものの捉え方は人によって違うのです。

歎異抄四条の語を借りれば「すゑとおり」がナイわけで・・・

まぁそれは自分本位の「善」であるということ。

 

そして「自分を信じて」のことば。よく耳にします。

私はこれだけはどうも好きになれませんね。

 

何故ならば何度かこちらでも記していますが「私自身が一番に自分を信じられない」からですね。

まぁ煩悩のまゝ動いていろいろやらかす私があるからですが、それは一言で言えば、良いこと(善)である、これこそベストであるの様々な「思い込み」から発するもの。

「錯覚」ばかりの夢見心地で生きているが如くの私を信じようがありませんからね。

その思い込みによって、まま人を傷つけ失敗を重ねまくる私(悪人)があるのでした。まぁこれは死んでも治らないでしょうね。

 

同様の件、適宜ブログに記すのは私はバカだからなのです。

幾度も幾度も繰り返しその件、立ち止まって記し、私自身に言い聞かし自分に問うことが継続的に行われないと・・・忘れるから。

そして「阿弥陀にまかせます」の念仏を唱えることは欠かせません。

 

昨日は法話の時間の中で「自力作善」とは「ウオッシュレットのボタンを押すようなもの」と。

自分自身のお尻のために・・・

表現が下手クソで申し訳なし・・・

 

因みに「自分を信じて~」が嫌だとして何がいいかを思量すれば「普段通りに~」「ありのままに~」「自身できうる限り~」がいいな・・・。

まぁその言葉(自力の自分教)がお好きな方はご自由にどうぞ。

それを「悪い」というのも私の言いがかりかも。

 

画像は先日記した浄願寺の山門を再び。

あの門は素晴らしい。

あの椿三十郎も鐘楼に上がって居眠りができそう(映画のストーリーの中では彼がでっち上げた話の寺の山門は茅葺で二階建てではなく「そこで居眠りしていたら~」の大嘘はバレてしまいます)。

こちらは実際「二階建て」。

 

 

 

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2024年

1月

21日

川島家墓標のお隣 この文字は・・・「卑」の異体字

 

先般記したばかりの川島清右衛門重固の墓碑紹介掲示板に誤記が数点みつかったことと追記も数行あってその改作を試みています。

文言製作(といっても転記主体で文字合わせが主です)さえできればお天気の具合を見て貼りなおせばOKですから。

よってその紹介文の作り直しで一日を過ごしました。

朝から冷たい雨でしたから一歩も外に出ず。

奥方が買い物等で出入りしていましたが私はずっと留守番でした。

というのもその日の午前は法事を承っていましたが施主がインフルエンザに罹ったということで中止順延になったのでした。

今、どちらでもそのインフルとコロナなどの感染症が流行しています。

逆に私が罹患した場合はどうなるのだろう・・・「その時になってみなくてはわからない」としか言いようがないですね。

無理をしたとしても他者への影響を考えると・・・

ああ、思いつきました・・・副住職(息子の自称)を呼び寄せればイイだけでした。

尚、正式に「副住職」を名のるには本山の承認が必要になります。

私が亡くなるか引退し彼が住職として継承するにはスムーズに進むのですが。

 

扨、先日記した川島家の墓標ですがそのお隣に長い間放置されていた墓碑があります。

ずっとその川島家の墓に寄り添うようにあってこのほど川島家の墓碑をキレイに据え付けていただいた松永氏が「折角のご縁だから」とこの墓も据えなおしてくださいました。

 

一見すると「早川源三郎」の如く。

しかしよく見れば「早」ではなくその文字は下の「十」の部分が上に突き抜けて上の部分が「日」でなくて「田」。

「田に十」が組み合わされたような字。

よって過去帳を探します。その苗字はナシ。

しかし正面に没年が記されていますので話は早い。

 

「文化十三年十一月六日 釋了本 源三郎事 新町」とあって

墓碑の源三郎と相違ないところですが過去帳にはその問題の苗字が不記載。

当時の過去帳には名前のみというのはまたぞろですが墓碑には記されていて過去帳にその苗字がナイというのはちょっと首を傾げるところ。

 

そして今、やはりその新町には勿論その名から推測できる家はナシ。川島家と同様いわゆる無縁墓でした。

私は苗字があること、新町というお城の前の通りに住まったことから身分的には武士であったかとを推測します。

源三郎・・・あなたはたれ?

 

そしてその早川ならぬその字と読みは?

「早」に見紛うその字は「卑」の異体字ですね。

よってその読みは「ひかわ」源三郎さん?

その「卑」の字については神の名や卑弥呼の如く使われている例はありますが、現代は苗字として見かけることはありません。

江戸期くらいまでは普通にあったのかも知れませんが、その文字をきらって多様な字を当てて今があるのかと。

 

また川島家の墓に寄り添うようにあったのはこじつけのような気もしますが何らかの関りがあったかも・・・などと。

ただし清右衛門の没したのは文久三(1863)ですから源三郎の文化十三(1816)ですので半世紀ほどギャップがあります。

田沼家家臣(意次時代)にもざっと見当たりません。

 

しかしまた清右衛門の須々木出身の説ですが、拙寺過去帳には元文期(1736~41)に「浜主」という文字面とともに「川嶋」の文字が出てきますのでその系統ということもあり得ます。

そのころからの付き合いがヒカワ氏とあった可能性もありますしまったくの無関係というのも。

いずれにしろわからない・・・というのが本当の所。

 

 

 

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2024年

1月

20日

廣陵兼純師 久能山東照宮二里十一町 里程標塔 

 

石川県輪島市に門前町なる町名があります。

その名を示すお寺の「門」とは総持寺祖院ですね。

曹洞宗大本山の古刹で横浜鶴見のお寺の前身になります。

前回平成19年の地震被災による耐震改修を加えた復興を遂げて先般、それを記念した大法要が勤められていましたが今回の能登半島地震により再び甚大な損傷を被ったことが伝えられています。

ごく小さいながら同じように仏教施設を管理する身としては本当にそのやるせなさと意気消沈の気持ちがわかります。

大本山というくらいですから時間さえあれば何とかなるような気がしますが。

ところが各宗派とも末寺クラスともなれば「全てに於いて苦しい」というのが実情でしょうね。

 

未だ当流寺院の被災状況について詳らかな情報は入っていませんが14日現在、そのエリア能登教区(寺院数353ヵ寺)の確認済み寺院数322ヵ寺(未確認寺院数31ヵ寺というのはまた恐ろしい)のうち何かしらの被害が報告されている寺院数は262ヵ寺と。

そして本堂の大規模被害報告66ヵ寺、庫裏の大規模被害が報告されている寺院64ヵ寺でした。その両方の被害があるお寺もあるでしょうし、未確認不明のお寺がまだ多くあるというのはその

被災の甚大さが改めて図れるというもの。

 

その門前町の総持寺祖院には多くの支院があったそうですが、その支院の一つだったといわれる寺に満覚寺があります。

同じ門前町にあるお寺で現在は真宗大谷派。

不確かな情報ですがどちらかの時点で真宗に改宗したという歴史があるようです。

 

そのお寺といえば節談説教の廣陵兼純師(前住)が。

確か「全国行脚、どちらにでも行って説教する」と仰っていたのは前回地震での本堂被災の修復のための「出稼ぎ」との自虐の言葉があったこと、今考えるとさらに辛い。

そして今回の地震。

大層な被害があったことが想像できますが・・・切ないことです。

溜息しかでてきませんね。

尚、廣陵兼純師のお説教はユーチューブで視聴できます。 

 

扨、昨日も一層暖かい朝。

奥方が「なんでこんなに早い時間(9時)に予約を・・・」とぷりぷりしていましたが二人で7時に家を出ました。

静岡市内の歯科医院に奥方の検診と私の予約を入れていたことからです。

奥方の検診結果は良好と褒められていました。3年のブランクがありましたが虫歯はありませんでした。

私への評価はやんわりと「歯の裏側のブラッシングが苦手なようですね~」ですが奥方の場合は「上手にブラシができています」でここでも差をつけられてしまいました。

 

歯科診療の序でに静岡駅ビルが新装したというのでそちらをブラリ。時間が少々早かったせいでお店はまだ開店準備中でした。

南口のトイレに立ち寄ってから駅南ロータリーに出ます。

滅多なことではこの辺りを歩きませんが、今や南口の待ち合わせ場所となっている里程標塔に目が留まりましたのでそちらを。

 

案の定数人の若者たちが標塔ベースに寄りかかってスマホをいじってましたが、私はお構いなし。

「はい、ごめんなさいよぉ~」といいながらスマホのカメラを向けるとあっという間に消えて居なくなってしまいました。

結果的に私が蹴散らしてしまったよう。

 

この標塔の元あった場所は今とは違うところ。

時代の流れであっちこっち移動させられているといいます。

要は開発のために邪魔だということですね。

ということでその東照宮までの距離は正確なものではないでしょう。

まぁ何とかいい場所に据えられて安寧を得たかのように街に溶け込んでいますが、やはり怖いのは地震。

しかし大正時代に建てられた石塔が無事にここまで残っている(如何にも地震には弱そう・・・)ということ、奇特なことだと思います。

 

 

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2024年

1月

19日

相良藩勘定奉行川嶋清右衛門重固 田沼玄蕃頭意尊の時

 

暖かさのおかげで屋根の上にてアンテナ基盤の設置と調整を。

BSアンテナのベース部分が腐食し最近の超強風でアンテナの方向が維持できなくなって衛星放送が視聴困難に陥っていました。

その手の仕事は風のない穏やかな日でなくてはムリな話ですからね。またやらなければならないことばかりでやっとこ昨日完成できました。

これはテレビの前で待機する奥方とアンテナを固定する私が携帯電話を繋いで調整しました。

 

その後は課題の一つでもあった境内墓碑の掲示板を二基設置。

1つは成瀬蔵の息、成瀬鼎の墓碑の掲示板の修復です。

その紹介掲示板が腐食して倒れたのが昨年の夏のことでした。

昨年春にマダニにヤラれたこともあってこちらの笹の中に入ることを恐怖に感じこれまで放置していました。

今一つは川嶋(川島)清右衛門重固とその家族の墓の紹介掲示板を立てました。

彼は後期田沼、田沼玄蕃頭意尊が藩主になった際の勘定奉行です。

 

そのあと1件だけですが法務に出かけて帰った際、駐車場から出てきたであろう見覚えのある女性が墓地裏側に入っていく姿を見送りました。

確認するとやはり…

その方が静岡市在住の松永氏。 

川嶋(川島)清右衛門重固から三代―清次郎重基―新太郎重之の三女が水野家―松永家と女系で繋がっている子孫の方になります。

新太郎重之には女子3名の名がありましたが男子不在のため弟の重代に三女を嫁がせて家の継承を図りますが生まれた子に男子はいなかったようです。

よって現状その墓は世間一般で言う「無縁墓」のくくり。

それから明治よりこれまで放置されていたということですね。

その存在を知っているのは殆どこの寺の私だけかと思っていましたが・・・昨日の史蹟調査会発刊のものにはその所在について掲載されていました。

 

その松永氏が昨年夏ころ突如拙寺に訪れて、川島家の縁者末裔の者として墓をキレイにしたいとのご提案をいただき、その意の通りにおまかせしていました。

昨年末に息子さん同伴で来られて改修が完成していました。

私もそのご厚意に応えるべく看板を立てたのでした。

 

そこへ偶然にもその松永氏が参拝に訪れたということですね。

不思議なことがあるものです。

 

墓場と歴史がお好きな方はそうはいらっしゃらないとは思うものの拙寺の古い墓を探し出して今後紹介の看板を記して行こうかと思った次第。有縁無縁関わらず墓の掘り起こし・・・結構面白そう。

 

※ 2024年1月26日 掲示板文言訂正 追記しています。

 

 

 

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2024年

1月

18日

2025大河 平賀源内の配役? 唐衣橘洲の登場期待

 

降雪量半端ない地域の皆さんには申し訳ないことですが、昨日の当地はべらぼうな暖かさ。特に車の中は夏の如し。

なさに好天に恵まれ仕事が捗りました。まぁ色々です。

 

ウォシュレット2基交換は完了しましたが来客用女子用和便トイレ漏水の修繕用のパーツ探しに走りました。

2日かけでチャレンジしましたが、完治せず。

まぁ洋便器の方がしっかり稼働していますので、当分そのままでヨシということに。これで男子1 女子1になります。

滅多に使用しないトイレたち3→2となっても問題ないかと。

その個室は外からロックして貼紙をもってお断りすることにしました。

 

しかし今時、和式トイレというのは少々首を傾げたくなるところで将来は何とかしたいとは思いますが交換設置には何かと経費がかさみます。

また、会館新築工事後は外トイレ(以前は汲み取り式)を設けますのでトイレばかりは要らないというもの。

外トイレ増設はおカネがかかりますからね。

 

来年のNHK大河ドラマへの期待が膨らみつつある昨今ですが、千載一遇のチャンスとはいえ「どうしていいかわからない」というのが現状かも知れません。

 

番組のタイトル「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ですがその治世が田沼意次時代が絡み、その意次の配役に渡辺謙が決定したことから俄かにその件知る人ぞ知る人たちの盛り上り。

実際の視聴率の方から見るとやはり、「興味が・・・」という人も多いような気もしますが成功不成功に関しては私どもの心配の外。

 

そして「どうする牧之原」(厳密には「どうする相良」?)となっているのですがとりあえず「大河館みたいなもの」はどうよ・・・という方向になるわけです。

しかし今のところ、資金的都合の問題で既存建屋を使用してスケールダウンした「大河ドラマ展」にという感じになるようです。

それでもやるからには来訪者を見込んでの華々しい企画を想定しなくてはなりませんが、これもなかなか難題山積。

渡辺謙に常駐いただければ話は早いのですが、それはムリな話。

何とか他所から相良の「展」に来ていただきできるだけ長時間滞留してもらわなくてはなりません。

それも楽しく、またこちらに来てみたいと思っていただけるくらいの・・・

早々に纏めていくべき課題ですが、そもそもその「展」の場となるハコが史料館の2階であるということ。数年後の建替えも視野に入っている建屋ですからね。

 

そしてこちらでも問題になっているのがトイレの件。

ウォッシュレットもない便座と和式トイレといいます。

たくさんのお客さんを招くうえにはその改修と会場のリフォームそして史料館半地下の展示スペースへの空調の問題もあるよう。

ぱっと見出費ばかりで大赤字の徒労のみという感じ、大いに有り得るところですが、とにかく何とかやり遂げなくてはなりませんね。

「利益が出なければ協力できない」・・・皆さんクールですから。

ちなみに「大河ドラマ展」企画の段階では入場無料とのこと。

 

一番にやるせないのは相良がお客を吸引しそのあとは御前崎「なぶら館」へGO!というツアー企画です。

現状庁舎駐車場の車が問題ですが、テント村でもいいですから「相良土産館」なるものでも設けておカネを落してもらうというのは如何。

今から何を売るのがベストか考えなくてはね。

時間はナイですよ・・・。

 

扨、先般相良史跡調査会で盛り上がったのは平賀源内の配役は誰なのか、狂歌師の唐衣橘洲の登場はあるのか・・・でした。

彼は三大狂歌師(他に大田南畝、朱楽菅江)の一人で本名は小島源之助、相良代官に赴任する小島蕉園の父ですので、そこからも「田沼後の相良」として引っ張ってくることができるというもの。

 

尚、平賀源内について獄中死せずに(~遺体の引き取りは平秩東作といわれその人は唐衣橘洲の狂歌会に出入りしています~)

意次の差配で相良に逃避し相良で没したという説が以前からありました。

相良各所にその伝承があるにはありますね。

そのあたりの物語も興味あるところではありますが。

言い伝えレベルで全く確証はありませんが、ただその説を信じるか信じないかだけです。

それらを掘り起こして名所として披露していくというのも一案ではあります。

ちなみに私は獄中死の方に一票。

まぁ「歴史」とは事実と伝承そして期待が入り混じってあるものですからね。

 

画像は平賀源内についてかつて史蹟調査会が発刊した冊子とその内容断片。

 

 

 

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2024年

1月

17日

古瀬間城は大谷派の浄願寺 豊田市志賀町

能登半島地震以来、芸人さんが大手を振って登場するいわゆるおバカ番組にはますます縁が遠くなって、テレビといえばニュース番組を主に選択します。

寒風の中未だ悲惨な境遇の中の人々がある中、オチャラケている連中を見て少々の嫌悪を抱きまた、こんなの見ていていいのかといった疑問もわいてくるワケで。

 

時間がある時にテレビのスイッチを何となく入れて、ざっとBSまで見廻してからEテレに落ち着いてぼんやりすることがままあります。今やEテレは私の避難地になりました。

また今節の日曜の晩の恒例番組も一切興味はなし。

平安時代のホームドラマなどちょっとね。

それは友人の「奥の墓道」氏も同じです。

 

来年に期待したいとはいうものの最近の傾向からそれですら視聴率という観点で危うい感あって、いよいよNHKは正念場といったところ。

恐ろしい勢いでネット社会は進みこのようにテレビのリモコンを机の上に置いておくのは爺さん婆さんだけになっているのかと。

映画をダウンロードして視聴している息子がいますが私はそれもやる気がせず。流されている画像を単純に眺めているだけですが、まぁ一応の選択権だけは持っているつもり。

 

そのEテレ。昨晩は「瞽女唄が響く」を視聴しました。

瞽女とは盲目の女旅芸人のことで「唄」(+三味線)で生計を立てた人たちが居たのでした。日本の歴史の一端でもありましょう、その存在は結構に歴史が古い。

そして芸能と一言で言うのはあまりにも短絡、その彼女たちが幼き頃より抱えた境遇は半端なものではなかったことが窺えます。

 

番組の中にあった「さずきもん」という語はいかにも仏教的でありまた納得させられました。

生まれながらに「さずからなかった」視力、暗い世界にいるかに思える彼女たちが明るく前向きに生きる姿と今さずかっている多くのありがたさを表している言葉でした。

 

ただの苦労ではありませんね。冬季には雪深い日本海を三味線を担いで旅をしたのでしょうが「落ちたら死ぬ」と覚悟して渡る一本橋の様など、何から何までそれとは段違いに贅沢な「さずきもん」ばかりの私です。まるで仏の域に入っている様に感じさせられます。

彼女らからすれば、私などただ見えているフリをして何も理解していない盲目の坊主なのかも知れません。

 

扨、石川県志賀町の志賀、最近やたらと耳にすることが多くなりました。原発でも名がありますが。

そしてそれで私が連想するのが豊田市の志賀町。

 

以前幾度かブラついたその地の真宗大谷派の浄願寺を。

威風かつ情趣あふれる鐘楼門がお迎えしてくれるお寺です。

そしてこのお寺の裏山が古瀬間城址になります。

お墓も散見できて私の趣向、「ハカ・テラ・シロ」すべてが満喫できる地です。場所は豊田松平ICの近く

 

これからいよいよ本格的春の温かさを迎える(予定)。

三月、木々の新芽が吹くころ、おすすめの地でもあります。

 

 

 

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2024年

1月

16日

救急搬送につき「病院ガチャ」

能登半島地震による被災者の「災害関連死」についてその数が増えているとのこと。

地震による直接の災害については相手が自然だけにどうにもならないところがありますがそのあとの関連死は「人災」と断ずる人もいます。

 

学習経験は幾度か重ねてきたはずですが真面目にその対策をしてこなかったことの結果、現状の如くになっているとの言。

その通りでしょうね、初動の遅れ、正月早々という気の緩みもあったのでしょうが政府が的確に被害状況を把握できていなかったということです。

石川の知事殿は政府を庇って「地殻が5mもあがるような地震」だから仕方ないという物言いでしたが、地震の発生への対応はそもそもその大小で決めるものではありませんし人命に関わる地震というものを最初から想定しておくべきもの。

 

あの人にお聞きしたいのはその地殻変動が志賀町の原発の直下で起こった場合、そしてその時の住民退避のルートについて「どうなってるの?」です。

「地震が大きかったから仕方がナイ」とまた政府に肩を持つつもり? 五輪誘致のために大層なアルバムを配って悦に入っている方の様。

まぁ石川県民は大変です。

 

現地避難所へ集中して寝起きする避難者のみなさんの住環境は劣悪を思います。あれでは感染症対策も覚束ないでしょうね。

かといって「地元故郷を離れる」ことに抵抗があるのも尤もな事です。壊れた家であっても未練は残りますし、家族、親戚縁者と離れての生活は心細い。

「管理」という意からすれば上手に配分できればやりやすいでしょうが、そこのところを重視した避難所というものを目標に手掛けていただきたいものです。

それはインフラ復旧は勿論、住環境、特に個別プライバシーを保護できる避難所を。そういった避難所をイザという時に早急に手掛け、対応していこうという準備が必要なのですがね。

散々それを学んできたにもかかわらず・・・大きな地震だったから仕方ない・・・笑止千万。

次はもっとデカイと言われ続けている南海トラフ。

「仕方ない」は仕方ないで承知していますが、稀にも命を繋げた奇特を大切に維持し守ろうとする施策を事前に試みていただきたい。

まぁ御身のみの大切を指向する政の方々ではムリな話。

庶民は諦めが肝心。「業縁にさしまかせ」でした。

 

扨、父の緊急入院の際にも記しましたが、救急救命の依頼(119)連絡をすると早急に駆けつけてはくれますが、患者の様を現着した担当者の所見を通して受け入れ可能な病院のその可否について「OK」が出てから車が出発するわけですが、それまではどちらの病院に向かうのかまったく患者にも縁者にもわからないものです。

ちなみに父は島田H、母は掛川中東遠Hに榛原H、私が脚立から落ちた時は榛原Hでした。

 

病状病因にもよりますが、通常対応できそうな症状だと牧之原市内だと榛原病院、御前崎市内だと御前崎病院というイメージです。しかし現状緊急搬送は多種多様の病院に分かれてしまいます。

特に土日祭日にその傾向が強いものがありますが菊川、掛川、藤枝から中には浜松、静岡市内まで。

要は近場の病院に搬送されれば有難く感じるものです。

のちのちのフォロー等色々、頻繁に遠方病院まで足を運ぶのは面倒なものです。

そして、私はその病院の遠近について私どもの意思通りに決められず、受け入れるのみであることを「病院ガチャ」と呼んでいます。

 

先週、知り合いの縁者が救急搬送されたというのが掛川中東遠H。

大したことはなかったようで数日程の療養後退院できるそうですが御前崎在住です。

御前崎の岬の台地上の自宅からその病院に向かうに車の運転をしないその人ですが入院時必需品を届けるにあたりどういう行程となるかといえば・・・、バスで浜岡ターミナルへ、そちらから菊川駅行きバスに乗り換え、JRで掛川へ、そして病院までの循環バスとなります。

各待ち時間の間の寒さは「こたえる」とのことでした。

よって昨日その自宅から病院までの直行便(拙寺の自動車)を出すことにしました。

「御前崎病院だったらよかったのに・・・雲泥の差」とポツリ。

それはそれは御前崎病院ならば有難いでしょうね。

 

私は車でひょいとどちらでも行けますからその病院も許容できますが、「足がない」というのは「ガチャ」でそれを引いてしまったとはいえここ南遠地区は「その時」の対応は厳しい。

イザという時のそれとは違う場面(地震被災、道路寸断)のこともまた思います。

 

①中東遠は巨大な病院。②は先日の袋戸の中、ベニヤの天井を剥がして板を打ち付けました。通常この中は隠れていますので私のテキトーな工事。

そして先日の38.4℃の彼はコロナだったとのこと。

病院も今再び面会を制限されているそう。

 

 

 

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2024年

1月

15日

中電に依頼した電柱支柱線移動工事遅延の件

自宅を取り壊し新築工事に着手するということでお内仏の閉扉式に向かいました。

お内仏は新しい家に併せて新調するそうで、今あるお内仏にはこれが最後のお勤めになりました。

新しいお内仏は多少コンパクトになりますがカタログ画像を拝見するに真宗特有の金仏壇ということで少々安心した次第。

最近はそれがめっきり減りつつあって各形式の箱型が増えていますが、まぁ礼拝の対象があるということだけで結構なことです。

 

新築工事というとつい「大工さんはどちら?・・・」などと伺ってしまいました。

というのは拙寺の会館あとの新築工事がやたらと遅れて、一向に進捗がないからですが、いい加減ボヤキも出てくるというものです。

周囲からも「一体どうなっているんだ」の問い合わせも多数あって当方としても「まったくもってわからない」というのみ。

 

当初はコロナ禍による建築資材高騰と資材不足・・・などと理解、気持ちを落ち着かせていましたがもはやそれではなさそう。

あとからあとから周辺新築工事完成の様を見ていますので。

当初は奥方が思いつくたびに電話で催促、その度に図面を持ってきたり測量業者が来たり、地盤調査も2度違う業者が来ていますが未だ正式な見積もりすら出てこない始末。

 

11月にコンクリ屋さんを同伴で来たのが最後でしたが、いよいよ地盤の調整とベタ基礎、東側の壁も含む工事が始まるかと思っていればそのコンクリ工事すら始まる様子なし。

もっとも肝心の全体見積もり金額が出ていませんが。

 

ここへきて「しょうがない」と納得するしかなかったのは中部電力からの連絡。

隣地了解済の工事ですが中電の電柱支柱線の位置移動を依頼していました。

塀の撤去と新設のため一端セットバックが必要とコンクリ屋さんからその件あったためです。

その移動工事は1月8日に予定されていましたが、工事当日に中電の作業者は来ず。

そもそも移動工事が無くとも別の部分から着手しておけばいいだけの話ですが、先週10日に中電から連絡があって2月末になるとのことでした。

その理由は「工事業者は今すべて能登半島に出払ってしまっている」ということ。

あの能登半島の様子を見ていればそれには沈黙する他はなし。

彼の地の電力の復旧が日本全体最優先事項でした。

しかしあの無茶苦茶の状況「一体その2月末で済むのか?」

単純な疑問。

つまるところは「天命に安んじて・・・」なのですが。

 

 

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2024年

1月

14日

正信偈拝読後「生々流転墓」へ 田沼と岡崎教区通信 

午前中はネコの葬儀と納骨。

葬儀と言っても通常の儀式とは違い本堂で縁者揃っての正信偈の拝読のみですが・・・。

今回はご門徒さんではありませんでしたがいつも通り気軽に拙寺ペット墓「生々流転墓」への納骨を承りました。

2歳の彼女は元気そのもの、先日自宅前の国道に飛び出してこの悲劇となってしまったとのこと。

電話で承った際、奥さんの悲しそうな声が深く印象に残ります。

 

参列者は家族のみで5人ほどでしたが中には縁者勢揃いで十数人も集まる場合もあります。

人間の葬儀で一人二人の例がありますがペットへの思いというところは格別、家族以上のウェイトの高さを見ます。

拙寺のその流転墓の生花が絶えないというところ特筆的。

参拝が殆どないような一般の墓は結構ありますからね。

 

私はその写真を見てついつい息子が飼っているネコを思いだしました。溺愛していますのでもし彼だったら・・・を思い、またその子の境遇に気持ちが入って読経の声が上ずってしまいました。

ヒトに対しては淡々と法務をこなし「無常」への諦観を思うばかりですが、何故かその手の、「無知」「無垢」なる生き物たち~特に不慮の事故を遂げた無念~へ感情が移入します。

動物、ペットは法的には「物」というのがお決まりですが、決してそのカタチで「親心」と執着を治められるものではありませんね。

 

午後からは史跡研究会の会合へ。

前年10月以降その会に2人の若手が入会し賑やかになりつつありますが、その若手の一人が朝からこの様です、という具合に体温計の図を。

最近はやたらとコロナも増加傾向、インフルエンザも流行って、かつ風邪だか何だかわからない高熱も流行っているよう。

昨日の会参加者は全員マスク装着。

「そんな熱になったら死んじゃうよぉ」の声が出るほどの年配者の声が。

 

内容は来年の大河ドラマは概略2段構成になっていて前半が大雑把に「田沼時代」、後半が「松平時代」と両老中の治世の違いに沿って描かれるということで、相良としては「前半勝負だね~」。

3月頃に相良のイベントを集中したいという意見があり、では・・・と2025年の拙寺の「春の法要」を3月29日ということ、その場で決めたところ。

2024年の「春」も済んでいないのに・・・そこまで生き延びられるか・・・予期せぬことばかりで。

 

③④は岡崎教区通信から。

能登半島の当流系寺院の被災状況と資材搬入、そして救援金勧募について。

連絡がつけられないお寺があること、将に震え上がるほどの恐怖。

 

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2024年

1月

13日

三年振りに歯医者へ 夕刻 赤富士には見えずとも

3年ぶりに歯科医へ。

コロナ禍で検診すら行けませんでしたが今回は治療です。

前回入れた詰め物が割れたためですが14時に医院に入って出たのが16時。

相良にはそこまで滞留させる医院はおそらくないでしょう。

静岡市内の医院ですが相良からやってくる人も多く(私もご門徒さんからの紹介)相良人には「手厚い」を感じさせる医院です。

「遠くからわざわざ~」ということでしょう、ちょこっとやって「また次ね」という風にはなりません。

 

この日は2カ所の施術。

施術前に歯石取りに約1時間程度。

虫歯が見つかったため欠損箇所とその削った処の型を取るまで。

かつて虫歯の充填、被せものと言えば「金属製」でした。要は銀歯というヤツですが、ロシアからの輸入が多いということと希少金属ということで厚労省から白色の充填剤が認可(保険適用)されたそう。

しかし出回って僅かなため品薄であることを知らされました。

2月頃から新しいメーカーの参入があって品薄は解消するとのこと。私は悪い話ではないと思い他の銀色部位も白色に変えていくようお願いしました。

 

扨、突飛ですがイギリスでやらかした富士通の件、話がデカくなりそうです。

私はただ興味本位で見ているだけ「そんなこと(予期せぬ出来事)もあるもんだ・・・」程度ですが、イギリスでは国会に富士通を呼んで喚問するほどに国民すべての「敵」に成り下がっている日本の会社といった風になっているよう。

 

そもそもイギリスのソフト会社(発祥は英国政府)を富士通が買収しなければそんなことにはならなかったのでしょうがその会計ソフトがイギリスで類まれな冤罪事件を惹起したというもの。

その会計ソフトは英国の郵便局用(英国の郵便局は私的施設)のものでその不具合(というかデタラメ)によって700人以上の郵便局長や経理担当が横領罪等で訴追されたというもの。

中には収監された人、罪過を晴らすべく活動している最中に亡くなってしまった人もあるとのこと。

 

長い間、疑われ生活まで奪われた人々の横領罪について被疑者たちは、ソフトの不具合を主張したそうですが、やはりその会社のバックに政府があったということからか黙殺されつづけていたよう。

 

最近いよいよそのソフトに問題があるということが判明しつつあってイギリス政府としては責任問題を忌避したいのはやまやま。ここで親会社の富士通を引っ張り出そうという流れでしょう。どちらに責任があるかなど私にはわかりませんが、富士通の責任は普通に「ある」と思いますね。

親会社としての責任というものですが、イギリス政府とはズブズブの関係のようで、とはいえ全責任を会社に覆い被すことはムリのよう。

6-4程度(形として富士通が悪い)の負担(損害賠償)割合で落ち着かせるのかと勝手に推測。政府のプライドと富士通も保護したいの思惑ですね。まぁ裁判になったら・・・知りません。

 

それにしても長期にわたってそれほど横領罪が出現することに何らの疑いを持たず、かつ被疑者の反論を意に介すことなく逮捕しまくるその警察と司法ってどうよ・・・って感じ。

結構にお粗末なものですね。

 

富士通は国内でも色々不始末をやらかしていますから何とも言えません。問題は不具合について「知っていた」かどうかでしょうね。

また冤罪は案外少なくなく存在するということ。結構恐ろしい。

 

画像は何となくスマホで撮った新遠渡坂(おんどさか)の日没のオレンジ。

お日様とは反対側の駿河湾越しの富士です。昼間は真っ青の海と空の富士になりますが、このオレンジ色に浄土を感じます。

 

 

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2024年

1月

12日

設楽原歴史資料館を歩けば思い出交錯

能登半島の超絶荒廃の図と多数の孤立村落とその人々の数が報じられています。

思うにその地に伝わる「地震の歴史」というものについてその有無、そしてどういった伝承があるのか知りたいものです。

地震には地震学者が言うようにその発生のスパン(時間の幅)があるようでよく「そろそろヤバい」の声があがったりします。

100年200年あるいは500年1000年の如く大地震発生の予知に使用されるそのスパンですが大抵は直近の大地震から〇〇年というカタチでその「ヤバい」が伝わってきます。

 

そして活断層の調査についてこの地区については専門家から調査未達とのことを仰っていましたが要はその辺りについてロクな調査もされていなかったということではないでしょうか。

当然に調査にしろ研究にしろ優先順位というものがありますから裏を返せば後回しということ。

「人少なし」=「緊急性軽微」という考え方(表立ってそれは口にできません)で当然に首都圏や人口密集地、国内物流動脈の走る東海道へのウェイトが高くなるでしょう。

 

よって被災多大な能登半島北部の現状、半ば見殺し的放ったらかしに見えるが如くの様を見て今後の国そして経済界のスタンスをまた思います。

「あまり深入りできない」でしょうか。

何よりそこに住まう人々が太平洋プレートの端にあって周辺活断層が次に動くことを考えると、そこに居る希望が喪失しかねないということですが、若い世代となれば尚更の事かもしれません。

 

散々に地震にヤラれて(これは私どもの住まう東海地区も同じことですが)やり直そうという気が起こるのか・・・と。

人々のヤル気が失せた所に「再建」を旗印に大風呂敷を広げたとしても果たして・・・という疑問ですね。

よって「少々の支援はするが前がかりの投資はできない」という感じ。

それが国のスローな対応に出ているのかも・・・などと見てしまいました。

 

訓練ではヘリコプターからの降下や大型機材等を吊るしての搬送を見せつけられていますが、何故か「大変です」の様で彼らが山道を物資を背負いながら歩く姿が映し出されています。

被災の為の救援実利より彼らの鍛錬(訓練)の延長を思ってしまいます。

米軍に頼めば彼らは効果的に物事を進めますから痒いところに手が届くはず。その依頼すらしていないように見えます。

グズモタの施策、見ていて不愉快にされますし東日本、熊本の学習ができていないよう感じてなりません。

 

パー券だキックバックだ政治屋が私腹を肥やすまま怠慢になったリスク管理、タイホするだけでなく能登半島にまたぞろそのバカバカしい濡れ手に粟のカネを廻していただきたいものです。

拙寺の微々に拍車を掛けたような浄財1か月分からすれば遥かに多くの命を助けられるというものです。

 

画像は設楽原歴史資料館の展示物。これまで多種の素材をアップしていますが大概の品物は撮影OKです。

①を見ると私が小学校か中学だったか図工の課題「オルゴール」の蓋を思いだします。

彫刻刀で何か好きなものを描くというもの。この旗を見るとその時の教師の完無視ノーコメントの顔が思い浮かびます。

私のドベタさ溢れる彫刻で評価に価しないということもありますが、きっと教師にとっては意味不明理解不能に感じたこと大いにあるかと。

拙ブログでもその件記したことがあったかと思いますが、その表面には武田菱の家紋と「風林火山」の4文字を彫ったのでした。

 

「あまり失礼なことを御云いでないですよ・・・」と御叱りを受けますが「そんなもの・・・」(教師)というのが最近了解できるようになりました。

「どうでもいいこと」なのですね。歴史など、人によっては・・・

相良小学校の小島蕉園の碑について記しましたが先生たち、みなさまその人のこと、ご存知ですよね。

歴史を紐解くことは未来の生き方の模索でもありますから。

 

そして②は実に面白いと感じるもの。

敵か味方くんずほぐれつの混乱接近戦の中、仲間をハッキリ確認できるようにその標として体のどちらかに付けたものといいます。

まぁそれだけ接近戦で味方同士の殺し合いが発生していたことの証左でしょうね。

乱戦の折、それが脱落したらと落ちた標を付けて本陣に進入することもあり得た筈でその辺りの件想像してしまいます。

当然にスペアも持参していたでしょうし種類も多くあって日によって変えていたなどあったのかも知れません。

 

③は極楽寺址から出土した瓦。

設楽原極楽寺といえば信長が当初こちらに入った際の陣ですが私がそこを探索した時、藪に隠れた深い排水溝に危うく落ちそうになったことを思いだします。

 

設楽原には色々な思い出が交錯します。

 

 

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2024年

1月

11日

呆然錯乱 仏間の違い棚 丸尾月嶂襖戸袋戸の中

曇天ながら風もなく比較的暖かい一日でした。

先般の羽田空港の日本航空×海保機の航空機事故以来、耳にする事が多くなった「スイスチーズ」。

事故をそのチーズの穴に喩えるものです。

切られた複数のチーズをランダムに並べて、チーズに棒(リスク)を通すことはまずできません。それをリスクをシャットアウトできたと考えます。

そのたくさんの穴を塞ぐことができる安全対策が施されて物事は運営されるわけですが、たまたま何かのタイミングで「穴」が重なれば刺した棒が通り抜けて重大事案の発生となるというもの。

これは幾重にも安全対策を重ねて徹底的に「穴」を塞ごうという考え方です。

 

その「穴」には色々な種類があり、また人間なるが故のヒューマンエラーが付いて回るものです。

先般の事故の原因とも言われるものは「錯覚」「思い込み」等でした。

「予期せぬ出来事」は普通にまたぞろ遭遇、今生かされている私たちがあるのですが、要はそれらたくさん、溢れるほどある自らの「お頭のリスク」を自認し変てこな自信を捨てることがポイントでしょうね。

人の「自信」などいい加減。「人事を尽くして」の「人事」「想定外」の「想定」など結局「人」のやることであってまた個々の違いがあるのでした。

あるべき姿は「絶対に私はやらかす」を念頭にちょっとした臆病ともいえる慎重躊躇でしょうか。

しかしそれでも毎度毎度やらかしますからね。

それこそが「人間であると」私は開き直っていますが。

またそれを開きなおってはイケない仕事もあるわけで。

 

扨、画像は拙寺の予期せぬ出来事。とはいえ、緊急性はないとみてこれまで放置していた庫裏内。

発見したのは昨年10月頃でしたが、やらねばならぬ事が目白押しでこれまで知らんぷりを決め込んでいました。

 

こちらは庫裏仏間の袋戸の様。上部の壁面が崩れて袋戸天井を突き抜けて堆積しています。

この4枚の小さな引戸は丸尾月嶂のものでそれを開けた際大いに慌てさせられました。

 

30年近く前に庫裏北側を先代がどちらかの工務店の言うがままにサイディングを行った箇所ですが、その当初私は「それは表面上の化粧壁であって内部のババ隠しに他ならず」と父に忠告していたものです。

やはり外側からその状況の一端も事前に気づくことがなく内部崩壊をしていたということですが気づいたときはあまりの酷さ。詳細の確認には外のサイディングを剥がしてみなくてはわかりません。大工事になってしまいます。

 

とにかく「とりあえず」の作業のみですが、その袋戸の崩落土壁の撤去と袋戸スグ上の天井のみの板を貼り付けようとチャレンジ。

壁が崩れていても外壁のサイディングがありますから雨の吹き込みはあったとしても微小であると勝手に判定。

 

ということで昨日は奥方と二人がかりでバケツ7~8杯ほどの壁土を掻きだしました。奥方は以前土蔵の中の掃除で発症した肺疾患について思いだしたようで「また通院させるのか・・・」とやれやれ感満載。

 

暖かい日で半袖になって埃だらけになって苦闘しました。

結局この日での完成はムリでした。

夕刻には熱い風呂にざぶんと入っておしまい。

丸尾月嶂の戸の代りのものを用意して退避させておくことも考えなくてはなりません。

 

そして庫裏の耐震? 家が崩れたら・・・あの土壁を浴びまくる程度ならOKのレベル、そして梁・柱に瓦が落ちてきたら・・・

まぁ「その時」なのでしょうね。

古い家のリスク・・・わかっていてもなかなか・・・。

たった一つの「穴」なのに。

 

 

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2024年

1月

10日

謎の大振り宝篋印塔残欠 それも上部 久延寺

寒い寒いと言ってそれを動かない理由としていましたが連休明けということでいつまでも引き籠っているわけにもいかず、各雑務にとりかかりました。

軽トラを運転していると陽光を浴びるためドカジャン着用の私は「暑い」を感じるほど。

年末年始に発生したゴミ類の搬出をするにあたり、懸案だった温水便座の処分の件チャレンジしましたが、スンナリ受け取ってくれました。

 

予め処分できる品について市のサイトを確認していましたがその温水便座については掲載がなかったためです。

まぁそれを自分で交換する人はそうはいないということか。

これはかねてから設置されていた本堂側のトイレのもの。劣化故障のため今回私が交換することになったということです。

業者に依頼すれば工賃+処理費がかかりますので奥方に背中を押されたこともありますがケチな性分の私がよろこんで工事に取り掛かったわけです。

 

尚、大型家電店等で新品を購入すれば大概は引き取り無料です。

そして設置は他の場所のものと2カ所。来週以降の完成予定。指定のブツを取り寄せ中です。一応必要なパーツ類は確保しているつもりですが・・・。

 

扨、九延寺の続き。

本堂の西側に三位良政と月小夜姫の新設された宝篋印塔の間に目が留まりました。

以前は周辺にも見あたりませんでした。それとも節穴か。

 

何故こちらにあるか不詳ですが珍しい風景です。

残存する宝篋印塔は損壊が甚だしく特に隅飾りから上部の相輪部分の欠損があったり相輪そのものが失われていることが多いものです。

特に大型の宝篋印塔で塔身以下基礎部分が逆に無いという例はあまり見かけません。

一見したところ南北朝以前のものとお見受けしますが、もし完全な形で、出所詳細が判明できたら文化財クラスのものかと。

全体像を思えばそれはそれは見事なものでしょう。

宝塔や基礎部分には何か手がかりがあるやも知れず、惜しいことです。

 

しかしどこから出てきたの?    単純な疑問。

同じ峠からの出土とすると・・・近くの鎧塚を連想。

「北条時行の一族の名越太郎邦時が今川頼国に討たれた」とありました。

 

墓石の大きい部材は土木工事に転用されることもあり、使い道がない相輪部分が投げ捨てられていたことが考えられます。

いや破損がないことからどなたかの家でその部分のみ大切に保管されていたか・・・

畔や水路に渡された石橋など古墳の石室・・・と思わせるようなものは各地に見えますからね。

 

 

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2024年

1月

09日

久延寺 天明九年 松平土佐建碑

日照がある太平洋岸に住まう私がまたボヤく。

寒い一日でした。

外仕事などさらさら向かう気になりませんし、こういう日は体が機敏に動けません。

暖房代を節約するためには車中が一番と午後から藤枝・島田方面に奥方の買い物の運転手として出かけました。

太陽の方向に車を駐めてシートを倒して居眠り。勿論エンジンは停止していますが十分な暖かさとなります。

 

車の中で尚ぼんやりしていると避難所に向かわずに車内泊を続けている方が。

しかしコレ、私は昼間の温暖時間帯の少しの間のことですからまったく比較にならずお気楽なものですが、極寒の夜間のことなど想像できません。

寝返りするにのも難儀しエコノミークラス症候群の恐怖もありそう。

辛い車中泊、まだまだ続くのでしょうね。

未来の希望<bright future>が彼らに、いや日本にあるのでしょうか。

 

扨、先日は久々に小夜の中山の久延寺に寄りました。

そちらには山内一豊が関ケ原直前に家康の接待に使用した茶亭がありましたが、そちらにはまた天明九年建碑、それに因んだ石標が。

松平土佐守とあります。九代山内豊雍(とよちか)ですね。

 

 

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2024年

1月

08日

雲影 濤聲 小華堂東雨の松

一日中強風が吹きっぱなし。

降雪そして大雪予報に群発地震の被災地のことを思うと如何にもそれは些細なことですが。

静岡でも東部の画像を見ているとその風の件、殆ど感じない様子でしたから、中西部特有の恒例の自然現象なのでしょうね。

 

被災地から比べれば泣き言レベルですが私はそれを理由に庫裏の温かい場所に籠りっきりで三食の食事に熱いお湯に浸かることができています。

まったく恵まれた環境で申し訳なく思うも、それが平常なのでした。

現場からは倒壊家屋からの死亡案件が多数寄せられていました。縁者を亡くした人にマイクを向けられる様が放映、それはそれは気の毒を感じるばかり。

またその応対に窮する方へ罪な事をするものだ・・・とも。

 

それには特に平常というものはありません。異常の連鎖を強く思いますが、その異常事態のきっかけというべき地震への即座対応について思い起こすのは祖父の姿です。

昭和40年代の後半でしたが、祖父は地震を感じるとほんの僅かな揺れであっても境内に飛び出していました。

時に褌以外の他に何も着用せずに家を飛び出す姿を見送った縁者一同はやれやれ感の言葉と嘲笑を浴びせていました。

それでも我先に下駄の音を鳴らしながら庫裏を飛び出す様を地震のたびに見ることはできましたがこれは、拙寺の安政大地震後の口伝があったからでしょうね。

 

他の子孫に言ったとしても取り合わない故か、自分だけさっさと逃げ去るところは不信感が募りますが、命を守るためにやるべきことは「建物からの一刻も早い退去」の旨、心に刻んでいたのでしょうね。

それを今になってようやくそれこそが正解なのではないかと思うようになりました。

 

タイミング次第ではただ見送る以外のことはできないかとは思いますが、地震がきたらのんびりせずに(冷静にとは言われますが)できればダッシュで飛び出すことが必要かと。

何せ拙寺の庫裏は古くて相当傷んでいますので。

 

扨、拙ブログでは「松」について時に記していますが、それは墓場に近い、また相応しいというか古くから墓標として代わる植物でありそれでいて雄々しく雄大、豪傑、優美と日本文化の象徴ともいえる木です。要は「松」の見えない文化はこの国には皆無といっていいのかも知れません。

先日はN氏より戴いた柄杓について記しましたが、その際、「これもどうぞ」という具合に持たされたのがこちらの松の額。

 

おそらく以前何かに描かれていたものを改めたものかと思いますが「小華堂東雨寫」と。

この人は掛川の人、兼子東雨(文久二年小笠郡掛川町生まれ。別号に小華堂  渡辺小華の弟子)。

渡辺小華とは渡辺崋山の二男。

 

雲影 

濤聲

丙辰仲夏

 

 

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2024年

1月

07日

首洗池直近東壇上山南端丘の上 岡部竹雲斎 本田玉

 

手つかずだった境内の仮設焼き芋店の鉄骨をようやく昨日片づけました。

太平洋岸は絶妙なお天気につき外仕事は捗ります。

だからこその「やっつけちまおう(片づけ)」という気持ちになれるというものです。

それに反して日本海側の天気ときたら朝から土砂降りの様。

そしてまた0℃に近い低温。

 

倒壊した家屋に生存しているかもしれないというつましい希望のもと縁者たちはその境遇にひたすら耐えていることを思うと私のお気楽気分は「善人こそ」を旗印に掲げていればもはや犯罪行為かも知れません。

やはり私は悪人でした。念仏するだけ。

家の倒壊から逃れたとしても集団避難場では感染症が広がりつつあるとのこと。他者のせいにするのも何ですが、国にしかできないことたくさんありますが・・・遅すぎます。

テレビから発せられる安否不明者名リストとそれを読みあげるアナウンサーの声を聞きながら。

 

念のため記しますが、暫しの間、子供たちを疎開させておきたいという方がいらっしゃればお報せください。

現状その窓口を私が持っているわけではありませんし限定的とは思いますが奔走させていただきます。

「なんとかなる」その意気でどん底から這い上がっていただきたい。

 

 

扨、東弾正山南端丘の岩手左馬之助の墓碑の隣には岡部竹雲斎の墓碑が。二者仲良く並んでいます。

その「岡部」の名を聞いてそれを推測するのは当然、藤枝岡部、元は今川衆の流れ(高天神の岡部)。

身近なところでは相良城取り壊しにやってきた岸和田岡部の流れが思い浮かびます。

 

ただし例によって判然としませんし当初は鳶が巣砦に配していてその鳶が巣で討死したという説もあります。 

「長篇長篠軍記」から再び転記すれば

「左翼軍の東弾正山の中に岡部竹雲斎盛久があり。~大須賀の手に殪(たお)れた」でした。

 

また、甲斐にも「岡部」地名は散見できますのでその地出身の名のりそれも出家名?ということも考えられます。

 

②~⑥は草ぼうぼうの頃の図。

首洗い池からの上り口が⑤。⑥は池を見下ろした図。

本田玉については小林芳春氏の「設楽原の鉛玉とその周辺」をどうぞ。

 

 

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2024年

1月

06日

始終なしも念仏に少々の行動付随 本山救援金勧募

 

さあ、私に何ができるか・・・

ハッキリ言って偉そうなことをここで記していてもまったくの無力です。

歎異抄四条の末尾「今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。

しかれば念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと 云々。」

の狭小解釈に陥るという愚、南無阿弥陀仏の称名を申すのみでいるというのもやはり心持ちが良くありません。

お念仏はいろいろな思いからその都度、口から出てくるものですが、では「お前は・・・」と問われ、どう動いていけるのかと試されているような気がします。しかし何も動けない。

 

本山東本願寺としては「第一次として一月三日より救援物資とともに6名の職員を派遣している」とのこと。

情報もなかなか伝わり難いところで、詳細はまだ一部です。

本山のコメントとしては今のところ「寺院・教会・ご門徒の被害について情報収集中ですが、既に本堂・庫裡の倒壊をはじめとした寺院建物の大規模被害が報告されています」と。

テレビ画面からの画で相当な被災があったことは窺えますがここで初めて「本堂倒壊」という言葉にあたりました。

 

それほど辛く悲しい言葉はありません。

人的損害については当たり前ですが私としてはそれも大いに気がかりなところでした。

先日拙ブログでも記した七尾一本杉のろうそく屋さんの建物(文化財指定)が倒壊したという報がありましたし直下型地震の恐ろしさを改めて知らされることになりました。

文化遺産の喪失は辛すぎます。あの辺りには古い建物がたくさんあってまた伝統工芸文化の発信地でもあります。

 

相良界隈の皆さま、それぞれその思いを同じように持たれていることだと思います。

静岡県では既に消防本部の人材と救助犬が現地に赴いて活動、早速成果を出していますが、私ができることなどは限定的・・・というか無いに等しい。

そうです、微々たる金額で甚だ恐縮ですが募金寄付というカタチでその気持を受け入れていただくことにしました。

 

募金といってもこのような時、雨後の筍の如くその声は聞こえてきますが何が何だかわからないようなものもありますし、すべての声に対応するにはキリがありません。

まさに「始終なし」に陥ります。

 

そこで募金は東本願寺へ。

何より信用のおける窓口です。信心(まことのこころ)の場ですからね。

ここ年末年始から1月末までの期間にご門徒さんからいただいた本堂賽銭箱の浄財を送らせていただくこととしました。

それならば地区ご門徒さんの心も伝わっていくというものです。むしろ私の「やった感」の自己満足的なものかも知れませんが、まぁ何もしないよりマシというところ。

居ても立っても居られない、そんな方々は直接どうぞ。

 

 

★ 宗派では、このたびの「令和6年能登半島地震」に対する

    救援金を勧募いたします。

  皆様からの温かいご支援をお願い申し上げます

 

【救援金口座】郵便振替口座番号 00920-3-203053

【加入者名】真宗大谷派

     ※通信欄に「令和6年能登半島地震」とご記載ください

 

画像は境内の様子。

梅は開花間近。蝋梅は既に春の香を放っています。

 

 

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2024年

1月

05日

首洗池直近東弾正山南端丘の上 岩手左馬之助

 

飲まず食わず動けない状態で救出待ちしている人の生存率が、急減するという境界「72時間」が地震発生から過ぎたのですが、未だ行方の分からない方たちが能登地方に多くいらっしゃると。

要は地震による建物崩落に巻き込まれて、下敷きになっている・・・かも知れない人多数ということです。

 

よってその「72」という数字にこだわるわけですが、ソーリ殿がいくら「寄り添って」と御一同コスプレ風かつ晴朗な作業着風を纏って如何にも希望的なことを仰っていただいたとしても現実は殆ど見殺しに等しい有様。

まぁ次は瓦礫の下でその時間を過ごすのは私なのでしょうね。

冷たく暗く重たい瓦礫の中、その美しい言葉の数々への恨み骨髄より、ただ脱力してひっそりと息を引き取るのでしょう。

やはり多くを助けられなかった自称経済大国の現実。

 

大災害だから仕方ないと云うこと勿れ。

さんざんその件学んできたはずで「その時」どう対応するかシミュレーションして(おカネをかけて)きたはずです。

道路が寸断、陥没崖崩れの発生によって地区孤立化してしまった時・・・どうするかということ。

 

それにはヘリコプター等の機敏な小型航空機の出動が期待されるわけです。いつものド素人の発想かも知れませんが・・・

しかしそれらの活用がまったくのゼロとは言いませんが相変わらず救援の手が届かない理由にその「道路」の件とその「修復を早く」について語るのみ。

小学校のグラウンドのSOSを見てそう思ったのですが、被災者の一団が避難するその手の場所には広い着陸エリアがあるものです。

 

飛行訓練だとかで日頃出張ってあっちこっち飛び回っている姿を見ていますが、日本全国、自衛隊、国の管理するヘリコプターはたくさんあるはず。石川の知事殿も東京からお気軽にヘリを飛ばしてきたくらいなのに。

それらを小松基地に・・・集結させてドンドン活用させれば「いいのに~」などと思うところ。

極論あのオスプレーを飛ばして資材食料を搬入したとしても文句はそうは出ないでしょうが。

そういう決断ができてこその指導力なのですがね。

不名誉の数々、それを挽回するチャンスがそこにあるのに。

歯がゆい男。だめだこりゃ。

 

扨、設楽原決戦場、連吾川を挟んで両軍対峙した武田軍隊列背後の台地を弾正山と呼びます。

右手右利きの文化の色濃い我が国の傾向としてその軍列の火ぶたが切られる際の一気呵成は隊列の右の突進にかかっているとよく言われます。

右側から敵陣(敵から見たら左側)に攻めかかって敵の隊列を崩し、空いたスペースから中央に向かって抉り一気にゴールへ雪崩込むというチームプレー。

 

以前、待ち伏せについて「右翼に気を付けろ」と記しましたが正々堂々の決戦隊列では相手の左翼狙いが常道。

要は左側の隊列へ、さらに廻りこんだ左翼横腹と正面からの二面三面の侵攻。振り挙げられた「右手」の刀槍に対し守勢は右手での防御を強いられることになり劣勢となりうるという面があるということ。半身になって右手で応戦するには分が悪いですからね。

 

武田方もそんなことは百も承知、正面の徳川勢に山県に原など歴戦の雄を配していたわけですが、彼らは武勇に溺れたのでしょうか敗戦覚悟の水杯もありましたが、中心の指揮系統が殲滅させられ武田軍は弾正山台地を徳川の攻め手に背を見せて駆け上がりいわゆる総崩れの憂き目となりました。

 

この台地の東端、あの首洗池に降りる手前に二つの石塔があります。

墓標は新しく設置されたもので一つが岩手左馬之助、そしてもう一つが岡部竹雲斎の墓です。

 

「長篇長篠軍記」の表現を記せば

「東弾正山に押し寄せた徳川勢は大須賀五郎左衛門康高、菅沼藤蔵定政、三宅惣左衛門康定、菅沼小大膳定利、戸田三郎衛門忠次、高力権左衛門康長等元気旺盛」

 

岩手氏は清和源氏義光流(Wikipedia)。山梨郡岩手郷に住したため岩手を称しますが岩手縄美より武田家親類衆になります。

設楽原敗走の勝頼配下岩手左馬之助胤秀は当然に参謀クラスといいますが天正十に天目山勝頼滅亡の際やはり勝頼に従って死んだ岩手信景という人があってそれと同一人物か兄弟なのかは不詳とのこと。

一族は信玄の一字を拝領するならいがあったことが窺えますが

当時名のりは複数あって当たり前の時代ですから複雑です。

 

 

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2024年

1月

04日

午後のUターンラッシュを避けて たまたま久延寺

 

正月三日目は一体どんな災いが待ち受けているのかと不安がありましたが小倉で大火がありました。

石川―東京―小倉と毎晩激しい火災の画像を見ています。

 

そして、当方こそ「管制許可があった」の阿保らしい問答の決着があったようです。

正月二日の飛行機同士の衝突事案。

最初からド素人の私でも「確定的」と思っていたことですがそれを「勘違い」、要は昨日も記しましたが人間の欠陥(人的ミス)が原因であるということです。

 

それも定期的に業務で離着陸を行っている民間航空会社の旅客機の機長の言い分の方が如何にも真っ当であろうと思いました。

それを保安庁機の機長は「管制の許可があった」との主張がなされたわけでしたが、そもそもそういった交信記録がありますから何を言ったとしても無駄。その記録が発表されていました。

 

判断ミスによる事故と推測することができますが、民間空港業務も保安庁も管轄は国土交通省そしてそれらを統括するのがつまるところ総理大臣殿でしょうよ。

 

とりあえずといってしまえば何ですが、「増税メガネくん」とやらの第一声としては「関係者、国民にご迷惑、御心配をお掛けして大変申し訳ありません」が正当では・・・?と思ったのは私だけでしょうか。

大きな時間と労力を強いられ自身の不運を嘆かれた人たちが大層いらしたことが推測できますが(焼け死んだペットも)、彼の声は亡くなった保安庁の方たちへの任務慰労とお決まりの「御冥福」なんたらの言葉からでしたからね。

 

それはその事故による死は不慮のことで気の毒なことではありますが、空港システムを所轄する国のトップの発する言葉として違和感がありました。

「それとこれとは違う」ということです。

 

あたかもまだ原因が確定しない中「謝罪には及ばず」の指向

あるいは保身の心が見えたような。

そういえばあの手の人達は「ごめんなさい」は言いたがりませんからね。「謝ったら負け」の如くの強い芯が通っているようで。

地震対応についての演説には総理大臣たる確たる使命の旨をしきりに(胸を張って)強調していましたが。

その職務としてすべてのシステム管理の長として何らかの責を感じて欲しいものです。

しかし、聞き間違い、勘違い、御冥福・・・で済ましていたら世界からきっと嗤われます。警察は刑法案件として動いていますが。

日本全体の安全管理というものにギモンを呈する事案でした。

全ての事に・・・。

国が関わると何事もその件劣化するような気がしてなりません。

 

扨、昨日は「奥の細道」氏が三日のうちに横浜へ帰るというので奥方に寺務をおまかせして彼を在来線の駅のどちらかに送り届けることになりました。

まずは掛川道の駅でラーメンととろろご飯(小)を所望したいとのことでそちらから金谷に向かうことにしました。

その金谷に向かう段になってバイパスも旧国道もかなりの混雑。

早々に金谷を諦めて一駅掛川寄りの菊川に目的地を変えました。

 

すると菊川駅寸前になって彼が「金谷にしよう」と目的地を覆しました。よって少々のロスはありましたが再び車を国道方面に。

積もる話の続きがありますからね。

適当に山道を上がって小夜の中山の峠道に。

ということで道すがらにある山之内一豊の久延寺に寄ってみました。

彼とその寺の門を潜るのは10数年前のことですし私もかなりご無沙汰している山の寺です。

 

正月のお飾りと堂前の葵の紋の幕が光っていました。

門前の掲示板はメンテ必要かと。

尚、拙寺は門前に飾り一つつけていません。まぁいつもの事ですが。

石川の震災被災者を思えば特にね。

テレビのスポーツ番組(おバカ番組またぞろ)などさらさら、そんな気にはなりません。

 

 

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2024年

1月

03日

金沢城大手門石垣 松管理の見事

 

相変わらず東海地区は穏やか。小雨にはなりましたが・・・。

私は夜が明けてからの能登震災の状況を知るべくNHK地上波を。

次々流れるてくる被災状況を目の当たりにし愕然。

どちらのお寺なのか詳細不明ですがお寺の本堂らしき建物がくしゃんという具合に倒壊している様は将にショックを受けました。

また昨日の一本杉通りのろうそく店が倒壊したとの報、まさかとは思いますがもし事実としたらとても悲しいことです。

 

そもそも私はその「おめでとう」の語は口にしたことがありませんが新年の来訪者のご挨拶の言葉はまずそれですね。

とてもそれに違和感を覚えることしきり。

 

そして昨日の逆、16時前に奥方は買い物に出かけ、私は留守番となりました。

ぼんやりしていると帰宅した奥方が別の部屋のテレビから伝えられるあの羽田空港の件を私に。

「空港で飛行機が燃えてるよ」でした。テレビを点けてまたびっくり。

飛行機同士の衝突ですから「人的ミス」ということは確かです。

一寸先は闇・・・には二つありますね。

自然世界のどうにも抗えない力、そして人そのものが持つどうにもならないうっかりお間抜けミス。

たまたま私どもはそれらからうまく避けつつ生きながらえているのでしょうね。たまたま生きて、いや生かされている。

 

民間機に死者が出なかったことはただの運だけ。幸運中の幸運でした。

何しろあのような画像(火だるまになって着陸滑走する旅客機)など目にすることはまずありませんからね。

 

連日連夜次々にそうは見た事もないようなバカバカしくもさせられる現実に対面させられ人間世界に生きていく恐ろしさというものを感じるわけで。

年変わりなどめでたくなんかありゃしません。ねぇ一休さん。

 

扨、あまりに酷い能登半島の景色にドン引きしつつもあれだけの市街地の被害状況から七尾城本丸付近の石垣について一体どうなってしまっただろうという気持ちが~土砂崩れ山道崩壊で毎度通行止めがある地です~。

しかし毎度突飛ですが彼の地を離れて金沢城の石垣を。

昨日のテレビからの画像で金沢城の石垣崩落のニュースがありました。

人的損害が次々と報じられる中、文化財どうのを心配することに顰蹙を買うところかとは思いますが。

 

画面から確か崩落の場所はこちらあたりの感じがしました・・・。

金沢城には夥しいほどの石垣が積まれていますが大手門の石垣をアップしました。

この辺りを歩くと石垣もそうですが、松の管理に手が行き届いているところを見てその天晴れに感心させられます。

相良辺りではマツクイムシの被害が酷く、また無管理のものがあって結構に見苦しいですからね。

温暖な東海地区と寒冷な北陸とではその差が出るものなのでしょうかね。

 

やはりそれへの防疫知識そして予算配分の違いでしょう、そこのところ知りたいものです。お抱えの植木職人に兼六園とともに管理すべてをまかせているのでしょうが。

まぁ、松の管理はマツクイムシより金食い虫。

 

 

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2024年

1月

02日

幼子は網戸をぶち抜き両親は這い 七尾光徳寺掲示板

 

温かく穏やかな本年のスタートでした。

このように快適な暮れに正月はこれまで経験したことがありません。不思議なことです。

お客さんには「(こんな季節感は)もう二度と味わえないかも」と呟いたものの温暖化が続けば例年の事となるやも知れず。

「気持ちが悪い」と感じたのは無数の蠅が昨日受付のテントの屋根に張り付いて日光を浴びていたこと。

生き物の生態も狂っているのでは・・・

 

昨日の除夕鐘の締め、世話人さん皆さんへの挨拶にあたり私は「10年目の鐘撞にあたり当初はそろそろ何かあるやも・・・の不安が頭をよぎった」と切り出しそれでも「おかかげさま」にて何事も起きずに無事やり過ごすことができたことへの御礼を申させていただいたわけですが、それは漫然への警鐘、「何かあるその何か」とは私が忘れた頃に訪れるということが言いたかったのです。そうなればまさに「正月なんて目出度くない」になってしまいます。

 

昨日は来客多数のため外仕事は15時30分を過ぎてから。

再び雨予報が出ていたため昨日使用したドラム缶を2つ片づけなくてはなりませんでした。使用直後のそれは冷却時間が必要ですから毎度しばらく放置してからの仕事になります。

門の中にあったそれを大音響をたてながら倒して、中の灰を掻きだしていると耳慣れない音が近くで・・・。

手を止めて耳を澄ますと音の発生源は門。

長い間みしみしみしみしと聞こえてきます。

最初はネコ等動物の仕業かと思い「口を開けて」門の下で見上げるもまったくもってそれを確認できません。

 

「何?」という具合にその不思議に首を傾げていましたが「もしかして・・」と庫裏に踵を返すとちょうど奥方が飛び出してきたところでした。

すると奥方は「おい、本堂は大丈夫か?」と。

私はその時点で初めて地震だったことに気づいたのでした。

本堂内部もやはりその「みしみし」と電灯や瓔珞の振子状の様を見せつけていました。

 

その日はテレビというものには一切縁無くすごしていたわけですが初めてその時スイッチオンしてみればすべての放送局がその地震情報になっていました。

この辺り(相良)が震度3とは。外に居て動いていけば気づかないレベルなのでしょう。

車から降りてきた方もわからなかったと。

 

すると「奥の墓道」氏からメール。

彼の友人の帰省先(新潟)の情報が。

家の中は落下物で無茶苦茶、逃げようにも玄関が傾いて開かず、小さい子は網戸をぶち抜き親たちの手を引いて這うようにして家から出たと。

 

明るくならないと正確な状況は把握できないと思いますが、せめて命だけは何とか取り留め人的被害のなきことを願います。

他人事の如く申し訳ないことですがあとは各支援が来るのを耐え忍んで待つしかありません。

私もその時に・・・考えることは辛いことです。

 

扨、今回の地震震源地近く、かつてフラっと寄らせていただいた七尾の光徳寺。

そちらの掲示板の文言を(場所はこちら)思い出しました。

お寺は御祓川が七尾湾に流れる海近くにあって地元では有名な一本杉通りに面している古刹、本願寺派のお寺です。

地震というとどちらであってもお寺の本堂の状況が気になります。

それもこれも人の意図に反していることですから「無常」なのですが。

掲示板の人間の「水」の受け取り方・・・あの辺りの地では津波のイメージまで膨らまなかったかも。

水も大地も人間のことなど気にもかけていません。

 

①②は「奥の墓道」氏の新潟在住の友人からの地震直後の自宅内の様子。③~⑥七尾の光徳寺。

こちら付近の和ろうそく屋さんにもお世話になっています。

皆々さま、無事でありますよう。

 

 

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2024年

1月

01日

葷酒山門・・・OK~受付に赤提灯ようこそ大澤寺に

 

予報通り朝は雨。

除夕鐘は今年で10回を数えます。

 

当初の「大荒れ」予想は大外れで10時すぎからの晴予報を信じ朝からやるべきことのために雨天動きました。

よって朝の作業のせいでスニーカー内は水浸し。

結局それで1日すごしました。

 

偏にその10時以降晴れは大当たり。青空が「ウソのよう」に広がって気温も上昇しました。そのおかげで昨年同様に300を超える(310名)鐘撞がありました。

よって当初準備していた石油ストーブは玄関に待機したまま、結局その使用はありませんでした。

まず、このような大晦日はこれまで出会った事がありません。

 

扨、今年は門内受付と赤提灯を同じテント内に。

受付背後の飲み屋には本通り池田屋(酒屋)さんに入って頂いて接客接待を仕切っていただきました。また同じく本通り「やまろく」さんの店主は用意していただいた鮎にヤマメにイワナたちを塩焼きにして1本100円で振る舞っていました。魚を釣った方もやはり御門徒さんです。

 

お客には市会議員、県会議員の顔が見えて、かなりの盛り上がりを見せていました。

魚は「ちょっと安すぎる」ということで来年は150~200円にしようという意見が出ていましたが。

 

表記「葷酒山門」は真宗寺院以外の寺の門柱で見かける文言でその四文字の頭には「不許」とか「禁」、そして「入」の文字が。

しかし当流もそうですし拙寺にはその感覚はまったくありませんね。阿弥陀さんの印の如く「葷酒 OK OK」です。

皆さんがそれで喜んで盛り上がってくれればよろしいということで今回は赤提灯をぶら下げてみました。

 

私はそれには一切おつきあいせずにその会話に溶け込んでいるだけ。ただ下戸なだけですが。

 

 

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2023年

12月

31日

夜の墓場とおせち おかげさま 有難うございました

 

昨日も穏やかな一日。

朝から本堂のお飾り用の餅を引き取りに。

店は餅の予約客で賑わっていました。多くのバイトさんたちはこの日のために単発で依頼したのでしょう。

私が餅の引き取りから帰ってスグ奥方はご近所の家にお悔やみに。

私も奥方もよく知る方。

前日も至極元気にしていたというのに・・・

29日早朝に心筋梗塞で亡くなり4日が通夜とのこと。

暮れと正月、どこもかしこもはしゃいだ声が飛び交っていますがそういうお宅も身近なところに「確かにある」ということを忘れてはいけません。

 

そのあとはテントのフレームの組立作業、13時からは世話人さんたちが集まって各準備に取りかかっていました。

そして15時過ぎには作業終了。

私はやきいも用ドラム缶の煙突パイプの修正工作のためその部材の購入に走りました。

そのあとは19時から今年最後のメディテーション。

 

また19時40分頃に到着するバスに「奥の墓道」氏が乗っていますので終了後スグに本通りのバス停へ迎えに。

21時頃、彼を自宅へ送りついでにS氏の墓が鎮座する墓地に寄りました。

特にその墓地は寺の境内ではない「区の墓地」(この辺りにはその形態は結構あります)ですから立ち寄るのはお気楽です。

要は「暗くなっていく所ではない」と言われる皆さんの感覚との違い、不審者として通報される可能性が有りますので「またくるよ」と言い残して早々に失礼させていただきました。

昨晩はパトカーの赤灯が目立ちましたが、墓地をうろつく二人組を見つけたらまず職質の問答が向かってくるでしょう。

見つからなくてよかった。

夜の墓参を真っ当に信じてくれる警察官はいないでしょうからね。あの職種は人を見る「色眼鏡」の度数がごく強く感じますので、いわゆる常識・非常識の分別もそれらすべてを違和感と見るでしょうからね。

尚、その強い度数の「眼鏡」は実は「私」も普通に掛けているのですが。

 

扨、数あるポリフェノール(植物の生成する防御反応・・・毒)の中でも緑茶カテキンという身近、というかあまりにも私に近いところに存在するモノが偶然にも身体にとってこのうえもない効果を出現させていた(かも知れない)ということならば私からすればまさに「天命(他力)に安んじる」ありがたさ。

 

しかし現状、世の緑茶への関心は薄れ、その衰退は猛烈なスピードで進んで茶園は目を覆わんばかりの様になりました。

近隣でも耕作放棄地、茶の木ぼうぼうの姿を見せつけられています。

要は需要が衰え茶葉の価格が下がることで、経営の維持ができないということです。一部ペットボトル用の低価格の茶葉栽培に特化した農家を除いて。

しかし、まだ半信半疑ではありますが、緑茶ポリフェノール・・・カテキンの抗がん作用というものへの確証を得るに至った時は再び緑茶が脚光を浴びることは間違いないところと思います。

 

緑茶を飲む習慣は代々私が譲り受けたもの。

息子もその習慣を捨てていませんが、それこそ親が子孫に伝えるべきものですね。

急須に入れる茶葉の処理が面倒くさい? 笑うところです。

私の身体の中で日夜発生しているがん細胞をカテキンがせっせと殺してくれると思えば・・・

 

多くの「我こそは」のポリフェノール神話を後押しする宣伝広告に惑わされ、その真なる効能が埋没させられていた緑茶の復活劇を期待してやみません。

 

②画像は息子がお世話になっている首都圏の葬祭関係を取り仕切る方から贈呈されたおせち料理。

今回は無料とのことですが、「次回は買ってね~」とのお話でした。

 

2023年が遂に終わってしまいます。ありがとうございました。

 

 

 

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2023年

12月

30日

ポリフェノール 緑茶カテキン抗がん作用 柄杓頂戴

 

朝から思い付いた仕事のあれこれをこなしてから午後遅くにN師宅へ向かいました。

柄杓が数点あるので「取りに来て~」との連絡を受けていました。

「玄関先で」と私が断るも例によって「上がって」の声に促されて座敷に。

先生の持病について(私はN師のことを先生と呼びます)ですが12月の初旬にかけて殊に体調が芳しくなく、わかってはいるものの奥さんに向ってイライラ、癇癪を起していたことを省みていました。

私としては内心、その時期に来なくて良かった・・・と安堵していましたが。

一瞬見舞いにと黒ニンニクの持参も頭をよぎりましたがあの件がありましたのでヤメにしました。

 

その日は体調は頗る良さそうで親戚関係やら奥さんが今抱えているちょっとした問題について奥さんも交えて歓談。

その問題とは拙寺近隣にあるその奥さんの親類の家のこと。

先生は「酒の飲みすぎだろう」と言っていましたがその親類は肝臓の病で介護が必要になってしまったことに触れていました。

私も近所の別ルートからかなり重篤な症状での入院という報を耳に入れていましたが、つい先日退院されて、その予後と介護についての話し合いの会が催されそちらに奥さんも同座されたそう。

「もっと近い血縁者がいるのだが・・・」と話していました。

 

その家は相良でも名家といわれる家ですからやはりN家とは繋がりがあったということで昨日初めてそれを聞いてその意外な繋がりに少々驚かされました。

一昔前の婚姻とは「個―個」ではなく「家―家」だったということを再認識した次第です。

拙寺も数百年の間、婚姻関係は「寺―寺」でしたからね。

良きにつけ悪きにつけ今、完全にそれはぶっ壊れています。

 

扨、本日も「ヒューマニエンス」から。

黒ニンニクも一種のポリフェノールブーム(健康食品ブーム)から沸き起こってきたという一端もあったのでしょうがその他多種の「これこそカラダにいい」的なポリフェノールを旗印にこれでもかという具合に食品が名乗りを上げてきました。

関連食品はもとよりそれらを抽出したサプリメントですが要は関連企業がここぞとばかり商いにつなげようとの魂胆見え見えでそれを言いだしています。

 

何しろそのポリフェノールは自然界に8000種類以上あるとのことですからあげていればキリがないでしょうね。

要はそれは植物たちが自ら種を守るために生成する防御物質のことです。当然にそれらを健康にイイといいなが無茶喰いすればリスキーな物質といいます。

 

九州大学の立花宏文教授によればポリフェノールの特徴としては「タンパク質にくっつく」とのことで、よってそれは毒の要素がある(機能障害を起こす)ということを。

しかし人間は腸の段階でそれらの殆どが体内への吸収を拒絶されてしまい、一部分のみが体内へ入り、それらが抗肥満、抗アレルギー、抗がんなどの作用を現してくるとのこと。

毒を効果的に使用して毒を制するということですね。

 

その教授の研究が私を特に愉快にさせたことは・・・

緑茶カテキンの一種(EGCG)も吸収は微量とのことですが、それをがん細胞に振りかける実験を行ったとのこと。

がん細胞(タンパク質)の細胞膜には最初からそのカテキンの受容体(鍵穴)が備わっていてカテキン(鍵)がそれに結合するとアポトーシス(細胞の自殺)のスイッチが入ってがんは消滅したという話です。

どうやら人の身体にはカテキンを微量であっても効果的に利用できる仕組みが備わっていてその効能がわかってきたと。

特に緑茶カテキンはより強くがん細胞に結合しようとするとの結論。

至れり尽くせりのポリフェノールの様。

組み合わせ効果も絶大で教授は「緑茶とみかん」がいいと。

 

私は以前からその「緑茶カテキン」専らの信者を自称していますが確かにその副作用はあります。

こうしている間にお茶は欠かさず飲んでいますが就寝時頻繁にトイレに起きること。

 

その抗ウィルス作用も信じ切っていてもはやワクチンなど打とうなどいう気は起こりません。

むしろ3回打って体がボロボロになったような気がします。

 

19歳で亡くなったマラソンランナーの件、彼のワクチン接種歴を知りたい。

まぁ私がコロナでのたうち回ったり、がんになったりしたら大笑いしてください。

猫も杓子も。

いつかは病を得て死ぬ、それ逃れがたき無常。

 

画像は頂いた柄杓。

八幡宮の文字は「消すなり何なりして・・・」と。

さすがに銅素材のそれは拙寺水屋に置かずに飾りにします。

 

 

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2023年

12月

29日

本證寺連判状 業報にさしまかせ 土

 

31日の天気、雨が降ろうが荒れようがまぁいつもの「勝手にしやがれ」の淡々。

その大晦日の雨天予報のせいで仕事が相当量増えましたが「業報にさしまかせ」の通りその日をやり過ごす他はありませんね。

 

昨日は穏やかで温かい一日、やるべき仕事が捗りました。

特に本堂の年回表掲示板を軽トラの荷台に載せて日向に移動。今年の回忌表を剥がし、粘着テープのあとをグラインダーで除去、そして作り立ての2025年用のものを貼り終えました。

例年、大晦日の晩の寒い本堂、ストーブの前で行う仕事でしたからまさに雲泥の差ともいうべき環境の違いのありがたさ。

 

その他色々準備が進みましたが、仕事量から言えば奥方の方が大変そう。

あっちこっちと家の内・外を飛び回っていましたから。

 

扨、先日、某所の某方よりメールをいただきました。

興味深いお話でした。

岐阜県大垣市上石津町打上という地には三河一向一揆の際に三河から逃れ本証寺末寺の了覚寺を頼ってこの地に土着したグループがあったといいます。井上・村田・伊藤の名が伝わっているとのこと。

その了覚寺は大正期に経緯あって専想寺に代わったとのことですがその方の家は明治初期に火災にあって史料が灰燼に帰してしまったとのこと。

 

寺院の変更の歴史も興味深いものがありますし、三河から大垣に逃れた一派の存在と歴史もそう。

その伝承等を伝える書物などがあればと思い拙ブログに記すことにしました。

 

また、拙サイトの「三河一向一揆」本證寺門徒連判状の件ご指摘をいただきました。

誤って記した部分がありました。

連判状の109番目の署名ですが私は当初「井上」と記していましたがよく見ると「上」ではなく「圡」ですね。

よって「井圡」。

ぱっと見で「井上」と記してしまったのでした。

これは私の老化の問題。

修正させていただきました。

 

また圡と𡈽の点付きと土の違いを。意味読み全部同じです。

昨日はNHK番組「ヒューマニエンス」について記しましたが数日前のその番組では「土」にスポットがあてられていました。

その番組紹介を転記すると

生命あふれる地球の秘密が『土』。火星や金星のような岩と砂の太古の大地に、5億年をかけ生命圏を築き、植物の進化、動物やヒトの生き方も「土」が決めてきた。

その豊かさの結実が1000万種以上の微生物が“共に生きる”仕組み。生命のミクロコスモスともいえる土の「団粒構造」。

「共生」を達成しようとする微生物の遺伝子戦略。

岩石などの無機物と生命の相互作用で、地上に万物を生み出してきた。その未知なるチカラに迫る。」です。

 

地球にしかないといわれる生命の源の「土」の漢字は「社」の原字とのこと。

古代人は「土」に万物をうみ出す人智を超えた力があると認めて土をまつったそう。土に崇敬と畏怖のようなものを抱いていたのかもしれません。

「説文解字」という最古の漢字辞典に「土は地の万物を吐生するものなり」と。

「士」と紛らわしいため点を打ったこともあるでしょうが、この点は古い漢字の名残。本当は「点」があってOKの類なのでした。

 

土の偉大さは私にも理解できます。そして植物たちにも。

まぁコンクリートジャングル好きの日本人はその過ちにじきに気づかされる日が訪れるのかも知れません。

「業報にさしまかせ」は歎異抄の中で比較的長い十三章に。

②はその部分。

「善きことも悪しきことも 業報にさしまかせて

  ひとえに本願をたのみまいらすればこそ

                 他力にては候え」

 

③は打ち敷でおめかししたご本尊。

奥方が言うには正月は「三具足」と。

「めでたくもあり  めでたくもなし」でしたね。

 

 

 

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2023年

12月

29日

本證寺連判状 業報にさしまかせ 土

 

31日の天気、雨が降ろうが荒れようがまぁいつもの「勝手にしやがれ」の淡々。

その大晦日の雨天予報のせいで仕事が相当量増えましたが「業報にさしまかせ」の通りその日をやり過ごす他はありませんね。

 

昨日は穏やかで温かい一日、やるべき仕事が捗りました。

特に本堂の年回表掲示板を軽トラの荷台に載せて日向に移動。今年の回忌表を剥がし、粘着テープのあとをグラインダーで除去、そして作り立ての2025年用のものを貼り終えました。

例年、大晦日の晩の寒い本堂、ストーブの前で行う仕事でしたからまさに雲泥の差ともいうべき環境の違いのありがたさ。

 

その他色々準備が進みましたが、仕事量から言えば奥方の方が大変そう。

あっちこっちと家の内・外を飛び回っていましたから。

 

扨、先日、某所の某方よりメールをいただきました。

興味深いお話でした。

岐阜県大垣市上石津町打上という地には三河一向一揆の際に三河から逃れ本証寺末寺の了覚寺を頼ってこの地に土着したグループがあったといいます。井上・村田・伊藤の名が伝わっているとのこと。

その了覚寺は大正期に経緯あって専想寺に代わったとのことですがその方の家は明治初期に火災にあって史料が灰燼に帰してしまったとのこと。

 

寺院の変更の歴史も興味深いものがありますし、三河から大垣に逃れた一派の存在と歴史もそう。

その伝承等を伝える書物などがあればと思い拙ブログに記すことにしました。

 

また、拙サイトの「三河一向一揆」本證寺門徒連判状の件ご指摘をいただきました。

誤って記した部分がありました。

連判状の109番目の署名ですが私は当初「井上」と記していましたがよく見ると「上」ではなく「圡」ですね。

よって「井圡」。

ぱっと見で「井上」と記してしまったのでした。

これは私の老化の問題。

修正させていただきました。

 

また圡と𡈽の点付きと土の違いを。意味読み全部同じです。

昨日はNHK番組「ヒューマニエンス」について記しましたが数日前のその番組では「土」にスポットがあてられていました。

その番組紹介を転記すると

生命あふれる地球の秘密が『土』。火星や金星のような岩と砂の太古の大地に、5億年をかけ生命圏を築き、植物の進化、動物やヒトの生き方も「土」が決めてきた。

その豊かさの結実が1000万種以上の微生物が“共に生きる”仕組み。生命のミクロコスモスともいえる土の「団粒構造」。

「共生」を達成しようとする微生物の遺伝子戦略。

岩石などの無機物と生命の相互作用で、地上に万物を生み出してきた。その未知なるチカラに迫る。」です。

 

地球にしかないといわれる生命の源の「土」の漢字は「社」の原字とのこと。

古代人は「土」に万物をうみ出す人智を超えた力があると認めて土をまつったそう。土に崇敬と畏怖のようなものを抱いていたのかもしれません。

「説文解字」という最古の漢字辞典に「土は地の万物を吐生するものなり」と。

「士」と紛らわしいため点を打ったこともあるでしょうが、この点は古い漢字の名残。本当は「点」があってOKの類なのでした。

 

土の偉大さは私にも理解できます。そして植物たちにも。

まぁコンクリートジャングル好きの日本人はその過ちにじきに気づかされる日が訪れるのかも知れません。

「業報にさしまかせ」は歎異抄の中で比較的長い十三章に。

②はその部分。

「善きことも悪しきことも 業報にさしまかせて

  ひとえに本願をたのみまいらすればこそ

                 他力にては候え」

 

③は打ち敷でおめかししたご本尊。

奥方が言うには正月は「三具足」と。

「めでたくもあり  めでたくもなし」でしたね。

 

 

 

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2023年

12月

28日

瓶割山周辺で見かけた墓碑たち 猫の足

 

31日の大晦日は荒れ模様とのこと。

当初は暖かい年末を味わえるかなどと、お調子にのること大で、その予報を聞いて唖然。

まぁ、「しゃあないしゃあない」。

 

昨日は午前中は寺務仕事、午後からは境内作業にゴミ処理。

夕刻に「ネコ」(一輪車)のタイヤが「ぶっ壊れている」と奥方からクレーム。

見ればタイヤが劣化してひびが入っていました。

それでは重たさがモロにかかって動きも悪いに決まっています。よって夕刻はそのタイヤのみを購入に走りました。

 

その店には一輪車の展示はあってもタイヤのみの展示場所がわからなかったためレジまで行って問い合わせました。

オバちゃんに向かって「ネコの足」ある?・・・と一瞬言いかけましたが「足」ではなくて「タイヤ」としっかり言い換えてお伺い。それでも人によってはその意がわからないかも知れませんので意地悪な客です。

すると「あ~アレね」と言いながらそれが積まれている棚まで案内してくれました。

 

「ネコの足」で連想するのは当家の足の悪いネコ(右後ろ足の関節が曲がらずいつも前方に前倣えをしているような奇形)と、キング・クリムゾンの「21st Century Schizoid Man」の冒頭歌詞です。

後者は高校時代に仲が良かった友人(「奥の墓道」氏とS氏)と好んで聞いたLPレコードの主たる曲でした。

拙ブログでもそのグループやタイトルに触れていたことがありました(こちら こちらはエピタフ)。

以前にも記したと思いますがS氏はエホバに入信しその中でいざこざ、集中的裁断・・・イジメを受けたとのことで心を病み突然自殺してしまいました。

以前から奥さんが入信していたらしくその流れで彼もつきあったよう。本来の彼の性分からしてその手の会に率先して入っていられることなど信じられないことです。

 

彼はそのLPジャケットがお気に入り。その彼の名前とそのグループ名の「キング」を付けて〇〇キングという愛称で呼んでいたくらいです。

そんなこともあってこじつけといいながら「奥の墓道」氏は横浜での焼肉は「焼肉キング」の食べ放題(キングコース)専らの様。

店を後にするときは必ず後悔するとのこと。貧乏性極まりここぞとばかりに喰いまくるからですね。

私はもうそのノリにはもはや付いて行けませんね。

油物を集中して食べれば体調激変、トイレに駆け込まなくてはなりません。

 

扨、その「21st Century Schizoid Man」という曲は今NHKでも

私が特に好んで視聴する「ヒューマニエンス」のテーマ曲になっています。

 

以前から「この曲をよく採用してくれた」とデカシタという雰囲気を得ていましたが少々心配になる部分もないわけでもありません。

歌詞の内容(タイトルも・・・十分に)があまりにも過激。

まぁ反戦政治的メッセージ、バカ政治屋を揶揄したとも取れる歌詞なわけで、NHKの上層部、お偉いさんに気づかれたとしたら癇癪を起しやしないか心配になってしまうのです。

承知でやっているとしたらそれはそれで自由を感じますが。

そもそもそのタイトルは以前の邦題は「21世紀の精神異常者」だったワケでそれが「21世紀の統合失調症」に変更させられています

 

やはり「21世紀の精神異常者」の方がピンときますが。

 

Cat's foot, iron claw Neuro-surgeons scream for more

At paranoia's poison door

Twenty first century schizoid man

 

Blood rack, barbed wire Politicians' funeral pyre Innocents raped with napalm fire

Twenty first century schizoid man

 

Death seed, blind man's greed Poets' starving, children bleed Nothing he's got he really needs

Twenty first century schizoid man

 

あれもこれも・・・そしてガザの子供たちも思い起こします。

和訳は各各Google翻訳等のソフトにコピー貼り付けしてくだされば大まかなところは・・・

 

表記は瓶割山周辺で見かけた墓碑たち。

そしてまた来年1月14日の静岡市民文化ホールの講演会情報。

相当前に静岡秋野氏に頂いたもので、すでに定員いっぱいになっているかも知れません。

 

 

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2023年

12月

27日

瓶割山 山道を歩きながら思う 宗旨の違い

 

以前、そう10年近く前になるかと思いますが、県の仏教会主催の戦没者法要か何かの寄合で、待合室の遠くの方から「親鸞が悪いな」などいう語が耳に入ってきたことをブログでも記した覚えがあります。

私としてはあまりに無作法な言い草・・・、もっとも何気ない駄話の一つだったのでしょうが、そこには真宗の坊さんなど同席していない、居たとしてもたかだか見知らぬ寺の若造だろう程度の軽口を思いましたが。

多くの御同輩が囲んでいましたからついついお調子にのっていつもの通りのおしゃべりの続きという具合に。

 

だいたいあの集団の中で有髪の黒衣(私)は目立つもので、「知らなかった」ということではないでしょうね。

忘れられない出来事でした。

中には私の存在について承知している他流のお寺さんたちもいらしたわけでそういう方々はその語を耳にしたときさすがに絶句していましたが。

まぁ他流の住職連の心中は「そんなものか・・・」などとどんよりした複雑な気持ちになったものです。

 

かといって私がどうこうと反論したり問い詰めて睨みをきかせたりしたでもありません。ただその場では変な空気が一瞬流れたというだけです。

 

しかし思うにあの手の特殊な寄合の場で他流の御開祖の名をあからさまに「〇〇が~」などと論うなどのことがあるものか・・・と疑念にも思ったのでした。

それは偏に親鸞さんの教えがその方の今の仕事の障害、やりにくさに繋がっている、もしくは下賤な言葉に代えれば「商売の邪魔」であるかの如く主張かとも思えたのでした。

 

先日は教区の門徒寺住職たちが集まる寄合で来年の教区主催のイベントに落語家を招いて親鸞にちなんだ話をしていただく会の準備についての詰がありましたが、会参加募集にあたり門徒さん限定か、広く一般に呼びかけるかというところに論点が移った際、私はその他流の親鸞への無意味とも思えるその感情論で吐かれた言葉を素直に受け取れば、我ら御開祖「親鸞」への「畏れ」というものを感じとることができたわけで「ここは一つ」告知を含めて大いに一般に周知、宣伝すべきである旨意見させていただきました。

 

桂小春団治 公開寄席

日時 2024年6月15日(土) 開演14時(予定)

会場 掛川市生涯学習センター

入場無料

 

扨、瓶割山の登城口あった滝の件。

実はそちらにはその滝についての所縁について、キレイに仕上げられた掲示板が設置されていました。

拙ブログにはどうでもいいような内容と心得て割愛しましたが、そもそもこのブログは私が示威的思うままに記しているものですので、どうこう画像をアップするかしないかなど私の勝手自由ですからね。

 

その掲示板によればどうやらその辺りは近隣某寺院の管理が及んでいるようで、その滝の所縁として掲示板に「某人夫妻はかねてから浄土真宗の門徒であったがその妻が長患いをし夫がその病を治癒させるために各各労を重ねたものの果たして結果は悪くなるばかり。

そこへまたある人からそ水を妻にかければ病は改善するといわれそれを妻に。するとたちどころに病は消え失せて悦び夫妻は真宗を捨ててそのお寺の檀家さんになりました、めでたしめでしたし。」というようなことが記されていました。

 

ニヤリとしながら、ある意味納得しつつその城山に取りついたわけでしたが考えるとやはりこちらは「近江門徒」と言われるくらいの浄土真宗が繁盛する地。

そちらの宗旨主催寺院としては「何とかしたい」という意図などあったかも知れません。

しかし私が山道を歩きながら思うところは仏教は釈迦の「四門出遊」からという思いが沸き起こります。

生老病死の無常は人間が生まれながらにして背負っていくべき重大なる課題。

それがその水によって病が改善されるなどの件、強烈なる現世利益を感じるわけで。カルト趣向の地盤を掘り起こすが如く。

浄土真宗的感覚からは程遠いところというかそもそもの「仏教」とは乖離しているような気がして。

ただそれはそれでその「信心 まことのこころ」を向けるのは個々の自由ですが。

 

まだまだ私は勉強不足。

他流からいえば「修行が足りない」と叱られそうです。

かといってその修行・・・さらさら向かう気ナシの生臭坊主。

それが何の事かも私にはわかりませんので。

日に幾度かの口称はありますが・・・。

まぁ違いがあってこそ。結構なことです。

 

画像は瓶割山から。

ペット用の掲示板は拙寺御門徒さんのお仕事の広告。

昨日新規に設置したとのこと。

 

 

 

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2023年

12月

26日

瓶割山 長光寺城別名瓶割城 瓶割柴田から

 

昨日は庫裏で寺務仕事。

先日記した年回表の仕上げです。

100回忌200回忌300回忌を。

たまたま今回は人数が少なくあっという間に終わりました。

午後は夕刻からの法務の用意。そういう時は外仕事にはまず取り付きません。

尚、参考までに一周忌、2023年に逝去された方々の年齢を足し算しその人数で割り算した数字が86.9歳。今年は特に年長者が多かったような気がしましたので・・・。

最年少が年初で不慮の事故で亡くなった72歳の方でしたが最年長だと101歳。

奥方は「平均年齢の高さ、結構スゴイ!!  これから87歳まで生きるよう目指せば皆さん御の字かも・・・」と。

私は「白骨の御文」で蓮如さんが述べている「我や先 人や先 

今日とも知らず 明日とも知らず」や「人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば」の「我が先」「老少不定」等の件、日常口にしているだけに「私の事」については笑いながら流すだけですが。

 

扨、昨日の瓶割山の続き。

瓶割山は瓶割城という城がありますが、現状別名の長光寺城の方が名が通っているようです。

城郭大系にもその記述があります。

 

「長光寺城は『碧山日録』によれば佐々木四郎政堯が応仁二年(1468)の時に宗家である佐々木重頼に敵対し細川氏に味方してこの城に拠って戦ったことが記されている。

永禄十一年(1568)この城にいた六角軍は織田信長に抗し、敗れて落城しその後元亀元年(1570)織田信長が柴田勝家をしてこの城に拠らしめ佐々木を制した。

この時、六角義賢・義弼・義定はこの城を攻め、柴田勝家は籠城し、瓶割柴田の異名をとったことが、『本朝通鑑』に記されており、このことから瓶割城ともよぶ。天正四年(1576)の安土築城頃に廃城となったようである。

遺構としては頂上部平坦地に一の丸・二の丸の丸跡を残し、部分的に石積みを見ることができる。

また、焼き米の出土地があり、米倉跡と考えられている。」

 

高低差も大して感じず、ハイキング気分でサラッと行ける城だったかと。

柴田勝家の名が残る城でもありました(場所はこちら)。

 

 

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2023年

12月

25日

馬渕住蓮繋がり 武佐 長光寺町 長福寺町回想 

 

一昨日ほどの寒さにはなりませんでしたが、まぁ敢えて言えば昨日の寒さは「二番目」か

一昨日の極寒本堂の忍耐を強いたことから昨日は拙寺で2番目に大きいストーブを出しました。

最大の火力のあるストーブは婦人部から寄進いただいたものですが、稼働音が騒音に等しくて法要の空間としてあまり推奨できません。

 

出場させた大型ストーブはさすがに火力が大きくそれを中心に置けば何とかその時間を過ごせそうなカタチにはなります。

その他周囲には普通の石油ストーブを3~4配置しますが、その時間は「上着類はそのまま~」と脱がずでOKの件を伝えています。そうでなくてはその時間を過ごすことなどできません。

 

昨日は砂糖の高騰での我が家のドタバタを記しましたがこの灯油というものの価格上昇も閉口させられます。

また以前でしたらご門徒さんの店舗に依頼すれば簡単に配送されていましたから今はその購入に走らなければならないという労力が結構にストレスとなっています。

 

近隣よりも6円/ℓほど安く売る店を御前崎市内にあることを知りましたが現在検討しているところです。

ちょっとばかり遠いのがネックで果たしてメリットがあるかというところ。

購入に走るとなれば100ℓ以上求めることになりますのでそれだけでも600円。悩むところです。

そういうことからも暖冬は大歓迎なのですが、地球がぶっ壊れている現状、黙って耐える他はありません。

 

扨、昨日は近江八幡の馬渕の住蓮の首洗い池繋がりで長篠のそれを記したのでしたが、その住蓮の「池」のある馬渕周辺は拙寺初代今井権七が居た武佐からも近く、以前からぶらっと歩いていた場所です。

最近はまったくご無沙汰していますが、先日の滋賀県内の大雪の報を聞いて、改めてこの時期の近江行はムリだと思った次第。

何度か思わぬ降雪で慌てさせられた経験がありますので、もうこの齢ともなるとそんな無謀の中に身を置くこと憚られます。

 

まぁ初代(広済寺門徒)がこの遠江に逃れてきたのは信長の領下となり果てた武佐(近江安土)という地への諦めからですが今私どもが温暖な遠州の気候の下で生活できるのはそのおかげともいえるかも知れません。

その武佐よりほど近い場所にあるのが住蓮の「池」でしたがその周辺ではこれまで馬渕小学校脇の宝篋印塔等記していますがこの近辺には長光寺町に長福寺町とお寺の名を冠にした町名が残っています。

私は古い地域の名を残すということで良きことであると思いながら歩いたものです。

その時はその二つの町にまたがるようにしてある瓶割山のトップを目指していました。

日吉神社、不二の瀧とやらを横目にしながら森を進み近江の景色を楽しみました。

以前のブログの地図はおそらく古すぎて消えているのかと思いますので位置関係を再掲してみます。

 

この地区への再訪を望みますが、おそらくそれはもうできないかも知れません。他に行きたいところやりたいことがたくさんあります・・・

 

 

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2023年

12月

24日

設楽原の「首洗い池」 キレイ汚いは業次第?

 

今年一番の寒さ。

堂内読経の吐く息は白く、手はかじかんでまさに厳寒。

外はお天気風ナシでそれでも温かく感じましたが。

とりあえずの寒さのピークアウト、それ願います。

 

私どもの正月の食べ物といえば雑煮とかまぼこ・伊達巻そして黒豆くらい。かまぼこと伊達巻は小田原産のこだわりがありますが黒豆は産地に関係なく奥方の手作りになります。

私の母伝承、大量砂糖をブチこんで硬く煮締めるものが好み。

世間様の「柔らかくふっくら」は私からすればNGです。

 

というワケで黒豆には大量の砂糖が必要ということ。

そして奥方は最近やたらと「砂糖が高い!!」とへそを曲げています。「なんでそんなに高くなったんだ!!」とぷりぷり(本当は面倒な黒豆作りをしたくないのでは・・・)。

ところが年末になると各お店の広告に格安の金額が提示されたそれが出てくるわけです。

通常250~270円のそれが194円(税込)になって登場です。

主婦の知恵というかその購入にちょっとした満足感を得られるわけですね。

 

昨日の広告では「全500円以上の購入で一人一袋限り・・・」とのことでした。

まぁ客寄せの品であることはわかりますが、「じゃあ私も行って二袋にするか」と協力を惜しまない旨伝えるも「それこそ見苦しい・・・」と吐き捨てて一人で購入に走っていました。

それが庶民の生活です。

脱法裏金ガッツリの政治屋さんたちは毎晩、談合、密談の豪勢なお食事会が催されているよう。週刊誌に記されていました。

それを聞いているだけで満腹にさせられます。

 

私はかまぼこと伊達巻と雑煮に黒豆が正月の大ご馳走の定番。

今年はさらに「カニをつけてくれ~」と懇願していますが。

魚才さんに行って聞いたら「それはスーパーで買ってね」と言われたとか。

そういう時代か・・・やはりお刺身も付けてもらい私も少しばかりの豪勢を楽しみたいものです。

 

扨、先日は歎異抄巻末附録-流罪記録について記しましたが、その弾圧の中、死罪になった住蓮の近江馬渕の千僧供町についての拙ブログの記述(住蓮の「首洗い池」)をリンク先に上げていました。

その「首洗い」続き。

以前どちらかでその画像はupしていたと思いますが設楽原の歴史博物館、信玄塚方向に向かうに国道交差点を曲がってスグ、右側に目にするのが「首洗い池」です。

奥方もそちらへの行程の助手席に同乗していたこともありますが、その通過の際その件さっと紹介すると「御前はそういうのが殊に好きだな~」と溜息をつかれたことがありました(場所はこちら)。

別に好き嫌い関係なく歴史の一端、その結末として往々にあることとして語っただけですが、奥方はその件好きではなかったようで車から降りもしなかったことを覚えています。

首実検の前に首はキレイにして時に鉄漿化粧をするものですから、首は洗うものですし自らの刀の血のりも取り去るもの。

 

その時、もともと首に垢など溜まっていると恥ずかしいということで首を洗っておくというのが戦の前のマナーでしたね。

その件は、鳥居と成瀬のおはなしで記しました。

 

さぁ、首の垢を洗って待っている?永田町の諸センセー方は如何でしょう。

汚ないままでも別にかまいませんが。

他人様のこと(特に悪辣の宿業とか・・・)については知ったことではありません。

問題は私の業。

煩悩具足の私欲(まだ来ぬ正月のお膳ご馳走)でしょうか。

 

「門松は 冥途の旅の一里塚 

       めでたくもあり めでたくもなし」

昨日は再びこの一休さん噺をしていました。

まったくめでたいなど思えません。

 

 

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2023年

12月

23日

家康と三河の城 安城市歴史博物館 それでも初結氷

 

本堂前水盤の北側が初結氷。

大した厚さはありませんし南側のそれは変化ナシ。

この北側は北西の風が本堂伝いに吹き込むことからその差となるのかと。

午前中は年初本堂掲示用の回忌表作りで頭の中くしゃくしゃ。

頭痛薬を飲みながら50回忌まで何とか進みました。

その辺りまでは過去の回忌表を注意深くスライドさせていけばいいのですがそれ以降のものは過去帳から拾い出さなくてはなりません。ただし今回は一周忌と三回忌に追記が数名ありましたので表の修正はありました。

追記ということは新規入檀の御家で既に逝去されている方のお名前を入れたということです。

 

私は100、150、200、300、400とこれまで毎年製作していますが、奥方はそれを無意味であると嘲笑します。

そろそろヤメてもいいかとは思いますが・・・何故かというと江戸期ともなると苗字なし、名前だけというものだらけ。

ハッキリ「どちら様」と特定できないからです。

しかし、この厳然たる事実の記載を無視してもいいのか・・・という疑問が残ります。

過去に亡くなった方たちの名をこのようなカタチで遺すことができるのはお寺くらいのものですからね。

毎年、このリスト作製時、特に若くして亡くなった方たちの名を見回してその縁者の無念を想うのとしんみりさせられるものです。そして「お前も死ぬ・・・」を感じるワケで。

 

こうやって亡くなった人たちを振り返る作業をしていると殊に生より死の方が圧倒的に多いような。

春の法要での誕生祝いの数は数珠の不申請もあるでしょうから少なく感じるのは致し方ないにしろ街中を見回しても年配者ばかり。若い連中といえば「こんなところにいられるか~」とばかりに首都圏に飛び出してしまう倣いがあるようですからね。

 

昨日の日経の記事によれば「2050年までの地域別の将来推計人口(厚労省 人口問題研究所)は2020年から25年にかけて46道府県で人口が減、東京も40年からは減少に転じる。

50年には11県で20年比で3割以上減る。」とのこと。

「最も人口が減少するのが秋田・青森・岩手県で50年に4割程度、高知県も3割強の減少」と。

勿論高齢化も。「50年には25道県で65歳以上の人口割合が4割超え。他も東京を除いて3割強。秋田での高齢者の割合が49.9%に達し、人口の半分が65歳以上。

市区町村全体の95.5%で人口が減るということですが、過去帳を記す人もいなくなる。私がいなくなった頃「そして誰も居なくなった」。

これはミステリーでも何でもない。

政治屋が自分たちのため、利権独占、継承と世襲にのみ目的を抱きあるべき真っ当な政に苦心してこなかったから。

その手の無策の者どもを選んだ私どもの自業自得といえばそうなのでしょうね。やはり「勝手にしやがれ」と締める諦める。

 

扨、先日は安城市歴史博物館前の旗差を記しましたがその博物館で現在開催されている企画展の案内を二村氏より戴きました。

「家康と三河の城」です。

来年の1月14日まで・・・う~ん・・・。

 

 

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2023年

12月

22日

歎異抄巻末附録 流罪記録 無実の風聞 愚禿親鸞

 

朝の風ビュービューと寒さは外に出て新聞を取りに出るのもイヤになるほど。

とはいえ他所のバカバカしくなるような(失礼・・・)雪景色と難渋を伝えるその様子からすれば大違い。

これでも毎度お気楽をさせていただいての放言次第。

 

午後からはお寺の寄合で掛川方面に向かいましたが車でもってささっと行って帰ってこられるどお気軽な地ですからね。

大人しく家に居ればスタッドレスにチェーンそして在宅でも雪下ろしの労力などあり得ません。

欲だらけで申し訳ありません、風さえ無ければ・・・

 

しかし何かの記事で目にしましたが通常冬季で18℃から20℃の空間が健康のための推奨温度とのこと。それはなかなか難しい。

低体温症なる語は熱中症に対する語とはいいますが、なによりも低体温症の方が件数も多く、また特に自宅内で起こるといいます。我慢しないで温かくすることが冬の健康の秘訣の様。

5℃近い堂内で白い息を吐きながらのお勤めはストレスが溜まるわけです。低体温症も命に関わるといいますからね。ますます家にいて温まりたい。

 

命に関わるといえばダイハツの車、酷い有様ですね。

1989年からずっと、そして全部で174件も指摘されているところも笑うしかありませんが何より社長さんが「ダイハツ車に乗って大丈夫なのか」の質問に「安心して乗って~」くらいのニュアンスでサラリと言ってのけた事には驚きでした。

安全安心のためのチェックをインチキですり抜けた事案について今指摘されていますから不安になるのは当然の事ですしその明確な返答ではなかったということ。まぁ、まさか「怖くて乗っちゃあいられない」とは言えますまい。

 

日本のデカい会社の社長というもの、結構に「バカなの?」と首を傾げさせられるところを見てきましたが人は齢を重ねつつ偉くなるとやはりそういった結末を迎えるのか・・・と少々納得。

ダイハツの不祥事は「社風」との表現が第三者委員会の評価にありましたがそういえばENEOSホールディングスの評価も社風ということなのでしょうかね。

 

その大企業さんの社長さんは2022年にセクハラ辞任、そして次の社長さんが先日またセクハラ辞任。

凄い、凄すぎる大会社のシャチョーさんたち。

まさに社風そのものなのでしょうね。

火が付いたら止まらない・・・さすがエネルギーの会社らしい。

自身コントロールが効かないというところはスケールが断トツに違うようで。

 

ダイハツはこの新年の初売りイベントがパーでしょうね。

販売が停止させられています。

出回っている車両のリコールも当然のこと、以前の車両事故など原因探しの再掘り起こしもあるでしょうね。

ある方が言っていました、スズキがその分やたらと忙しくなって「休日返上」などというのはかなわない・・・。

 

ダイハツと言えば昔のミラの宣伝文句「サイパンじゃ~ 美人~」なる今では差別用語とも思える言葉があったことを思い出しますがそういうニュアンス漂わせるPRがまかり通る風土にこそ測り知れない高慢があったということでしょうかね。

さすがにその辺りの事案はギインさんへの献金ではどうにもならなかったのでしょう。

私ども庶民があずかり知らぬことばかり。

 

扨、昨日は歎異抄一条について記しましたが巻末の付録「流罪記録」を。1207年の「承元の法難」です。

親鸞さんが風聞によって流罪となり法然門下の弟子が死罪となった件、いわゆる親鸞さんが自らを非僧非俗「愚禿親鸞」と名乗るに至ったそのきっかけ。

後世ではそのことがあったからこその本願寺浄土真宗の成立に繋がったといういわば親鸞さんの「PTG心的外傷後成長」的インパクトです。

それではその付録「流罪記録」を。

 

「後鳥羽院の御宇 法然聖人 他力本願念仏宗を興行す

 ときに 興福寺の僧侶 敵奏のうへ 御弟子のうち

 狼籍子細あるよし 無実の風聞によりて

 罪科に処せらるる人数のこと

 

 一 法然聖人ならびに御弟子七人 流罪

 また御弟子四人 死罪におこなはるるなり

 聖人(法然)は土佐国幡多という所へ流罪 罪名藤井元彦男

 生年七十六歳なり

 親鸞は越後国 罪名藤井善信 生年三十五歳なり

 浄聞房 備後国  澄西禅光房 伯耆国

   好覚房 伊豆国 行空法本房 佐渡国 

  幸西成覚房 善恵房二人 同遠流に定まる しかるに無動寺の

  善題大僧正~慈円~ これを申しあづかると云云

 遠流の人人 以上八人なりと

 死罪に行はるる人人

 一番 西意善綽房

 二番 性願房

 三番 住蓮房

 四番 安楽房

  二位法印尊長の沙汰なり

 親鸞 僧儀を改めて俗名を賜ふ よつて僧にあらず俗にあらず

 しかるあひだ 禿の字をもつて姓となして 奏聞を経られをはん 

 ぬ。かの御申し状 いまに外記庁に納まると云云。

 流罪以後 愚禿親鸞と書かしめたまふなり 」

 

 

さらなる締めの語に蓮如さんの「閲覧注意」的な付記のある蓮如本があります。

 右この聖教は 当流大事の聖教となすなり  

 無宿善の機においては 左右なく

 

  これを許すべからざるものなり   釈蓮如

 

確かに見る人が見ればヤバいかも。

 

親鸞さんの恨み忘れまじの如くの心境がわかりますからね。

尚、二位法印尊長も後鳥羽院も承久三年1221にあの辛辣を味わ

うことになりますがね。

やはり「やったらやられる」か・・・。

 

尚上記住蓮房と安楽房についてはかつて拙ブログにて記していました(こちら こちら こちら)。

 

 

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2023年

12月

21日

「立」とは重い決断 歎異抄一条の「オモヒタツ」

 

先日、10歳の男の子と少々お話しました。

お話しと言っても他愛もないことで、彼の名とその字面等が主。

そんな時間があったのは、法要中に拝読する正信偈の大判の冊子について彼が「これが欲しい~」と親たちに懇願している様を見たからです。

聞けばその経本を手に取って一緒に声を出していたとのこと。

めずらしきこと。

そして一瞬私がどうしていいかわからなくなったのはその冊子は堂内常設(御門徒さん有志が拡大コピー)のもので相当くたびれていたからです。

 

家族の方が「今度コピーしてあげるから」と宥めるも頑として「これが欲しい」・・・と。

皆さん呆気に取られていました。その頑なさより今の大人たちが示さなくなっているそれへの熱心さにです。

子供たちが法要に参加するシーンは何度も見てきましたが、このような件に立ちあうことは初めてのことです。

よ~く考えてみれば「正信偈」を手元に置いて「拝読」したいという主張・・・なのか・・・。

それでしたら奇特な事というか、ありがたしというべきです。

 

私は冊子の山の底部分にあった比較的痛みの少ないそれと、庫裏から新しいその小型の冊子を3冊持ち出して彼に手渡しました。3冊というのはその弟たちのリクエストの分を含めてということです。

子供ですからその意志は一瞬の感覚であって「飽きたらポイ」ということは往々にしてありましょう、躊躇はありましたが、身近なところに、それが一瞬放ったらかしにあったとしてもその価値はあると考えました。

しかし私は「漢字の勉強にもなるね」などと親たちにその逃げ口上を述べていましたが。

 

そしてその10歳の彼に名前を尋ねたワケです。

すると「たつる」と。

続けざまにどういう漢字を書くかを知りたくなって私は掌を出して「ここに・・・」と指で記してもらうことにしました。

紙と鉛筆は手元にありませんからね。

するとその字は「立」。

 

命名した親の気持ちがわかったような気になりますね。

その字の私のイメージといえば、真宗門徒寺特有の立姿の阿弥陀さん。当流の如来さんは「立像」というのが本ですから。

「座して安ではなく立して活」。

 

そして今一つ思ったというかその名の本来の意味に近いものとなるのでしょうがそれが歎異抄第一条から。

 

私はこれを比較的短い文章ですので葬儀式表白に添えられるものと候補に挙げています。以前は開祖の御臨末御書や和讃でした。

また蓮如さんの御文、教行信証の名は式中にありますがこれまでその「歎異抄」という語彙の登場はありませんでしたので、最近はそれを短い文章限定で挿入しようと心がけています。

因みにこれまでは「仏」の仕事として生死にかかわらない慈悲養生と念仏について記した4条を幾度か拝読していました。

まぁ解釈がカンタンとはいえない部分、相当含んでいますが。

 

それでは歎異抄第一条を。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて

 往生をばとぐるなりと信じて 

 念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき

 すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり

 弥陀の本願には 老少 善悪のひとをえらばず

 ただ信心(まことのこころ)を要とすとしるべし

 そのゆゑは 罪悪深重 煩悩熾盛の衆生をたすけんがための

 願にまします

 しかれば本願を信ぜんには 他の善も要にあらず 

 念仏にまさるべき善なきゆゑに 悪をもおそるべからず

 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと   云々

 

この一条は「念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき」が 

ポイントになりますが、その中でも「おもう」ではなく「おもい+たつ」というところ。ただのなんとなくの「おもい」に非ず その申すことに対する重さ、気合というものを感じます。

 

私は彼の名に、命名者の「ただなんとなく生きる」ではなく気合と重い決断力こそ・・・の人生成就の件、特に「思い立った」わけで。

 

画像は歎異抄冒頭と一条。

各写本がありますが「永正本」から。

 

 

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2023年

12月

20日

2023新設六栗城碑 裏面には東照寺の名が

 

昨日は病院の診療予約がありましたがドタキャンの電話を入れました。

奥方が浜松の息子に用事があるということで「そんなもの行くな」と制止されました。

ニヤリと笑うほかはありませんね。

検診予約の当初は腹痛(以前と同様、結石の症状)と不快感、次回は血液検査と採尿をするとのことでしたが、以前もそれで「何でもなかった」ことからヤメにしました。最近はその症状はまったく消えています。

「そんだけご飯が喰えれば問題ナシ」との見立て。まぁヤバいことがあったとしても次(息子)が控えていますから何事もお気楽なものです。父親の口癖「その時はその時」でしたね。

それと同じあはははっと笑って「あとはうまいこと テキトーにやってくれ~」。

そう奥方に言うと「そういうのに限って100まで生きる・・・」。

いや、それはない、ない。

 

浜松方向に向かうというので今まで放置していたバッテリーの古いものを3点ばかり積込みました。

先般、息子のバカ車のバッテリーがあがった事を記していましたが結局、新品を仕入れて交換したことで余計な物が増えたのでした。

 

できるだけ安価なそれを探しましたので時間がかかりました。

以前は「安い」と思って注文したバッテリーはベトナム人の詐欺にあって懲りていますので店頭に並ぶ現物の新品を探していました。

ある店で9000円台のそれが目に入り(他店では最高15000円弱)購入しました。

 

そういう場合、交換装着料金と廃バッテリーの件、それぞれの店舗によって差異はあると思いますが、その店では廃バッテリーは後日持参すれば無料で引き取りするとのことでした。

そんな感じでずっと処理しきれず3個に溜まった廃バッテリー

(2個は中型 1個は雨ざらしで30年くらい放置していたツーサイクル用のバッテリー)を一気に浜松の某店舗に持ち込むことにしたのでした。

 

その店は「ダメバッテリー買い取り」をうたっていて以前中古バッテリー探しで立ち寄ったことがありましたのでその掲示について見知っていました。

よって今回ダメ元でチャレンジ。

 

どういう経緯で(まぁ当然リサイクルするのでしょう)そんなことができるものか不明ですが、その3個の買い取り金額1800円。

そんなものを相良近くで処理できる場所は知りませんし、処理料金が発生しそうな代物。地頭方の処理場だと・・・まったく未知。

それを逆におカネが貰えるなんて・・・まさにスバラシイ。

新規購入につき無料回収をうたう店は多々ありますがそれでさえ詭弁のように感じてしまいます。サービスで引き取ると言いながら売却して利益になっているなんて・・・

 

中古の発煙筒も安く売っていました。

助手席の左下足元辺りに付いている赤い筒。

アレには使用期限があって案外車検時の盲点になります。

車検の際期限が切れていると新品の定価料金を請求されてしまいますから車検が近くなったら要チェック。1000円以上の節約になるかと。

 

古い発煙筒は夏の夜に花火の如くに遊んだことを思いだしました。相当の火力で花火の域を超えています。

また古すぎるとやはり発火しないことも。やはり使用期限は確かにありますね。

 

扨、以前記したことのある夏目(またはこちら)のいろいろに菩提寺明善寺六栗城

以前明善寺坊守様に案内された旧墓地のあった屋敷址に六栗城址の石碑が建ったことを三遠研の二村順二氏(蒲郡)より伺っていましたがその画像をお送りいただきました。

いずれそちらに向かおうとは思っていましたが、夏以降まったくぶらぶら独り歩きが実現できていませんでしたのでありがたし。

 

この大きな石碑には、たくさんの皆さんの意気というものを感じます。

石碑の裏側には、岡崎市の東照寺の名が。

明善寺から嫁に出てその寺の坊守さんとなった方と明善寺本堂本尊前で「デュエット」(偈の拝読)したことが忘れられません。

東照寺の名が入ったお菓子を戴いたことも。その後幾度か明善寺に寄りましたがその方にお会いすることはかないませんでした。

二村さんにお聞きしましたが、昼間開けっ放しだった本堂内をウロついて寺物什物を見定める不届き者が出没していたそうで監視カメラを導入しているよう。

 

 

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2023年

12月

19日

進者往生極楽Posttraumatic GrowthPTG心的外傷後成長

 

トイレに先日導入した当家の新兵器、セラミックヒータが活躍しています。

これまでは庫裏の中で冬のトイレほどストレスの溜まる場所はありませんでしたがこの冬今一番に快適な場所になりました。

「出るのがイヤになる」(奥方)・・・そんな感じ。

 

昨日は今年一番の冷え込みでした。

午前730より例の薄着(簡衣輪袈裟と草履)で動き出していましたが風が無かったのはありがたし。

 

不思議なネコの件。

大沢の葬祭式場で催される通夜にやってくるネコがいます。

以前、子供たちから「おじちゃんのネコ?」と聞かれたことがありましたが、先般そのネコとしばし時間を。

入口の自動ドアのセンサーが働いてそのネコも自動的に入ってくるようで、会場の担当者がそれを制止していました。

それがヤケに人慣れしていて、声を掛けようものなら即座にひっくり返って腹を出す始末。

皆さん「野良でしょう」とはいうもののそうであるならばまずそれほど人に慣れるはずもなく、また体系はむっちりして食物に困窮している様子はなし。

一説にお隣の医院からやってくるともいいますが不明です。

とにかく人が好き。だれでもいいから餌の有無(利害関係)度外視で人と触れ合いたい、そんなネコです。

 

このネコに見倣わなくてはならないのが人間たち。

なぜならば人というものは基本「自分大好き」の自己主張、好き嫌い激しく徒党・派閥を組みたがります。

誰でも等しく仲良く溶け込もうとする姿は恰も仏の様。

そして面白いことにその翌日の葬儀式には一切顔を出さないようです。

施設側の堪忍袋の緒が切れて強圧的に追い出しをかけらないか少々心配ですが。

私はそのネコが法要中に玄関を中央突破したら・・・を考えるとワクワクしてしまいます。

まぁ世にはネコ嫌いの方も真面目な坊さんもいらっしゃるとは思いますが。

 

扨、ここのところ拙ブログでは「ステージ4」だとか「余命〇〇」等記していますが、その宣告を受けた時、大抵の人は「変わる」といいますね。

その病に関わらず心が傷つき揺らいだ時も同様。

それをPTG(Posttraumatic Growth) 「心的外傷後成長」なる語で言うようです。

個人が経験する、時に衝撃的な心の動揺、トラウマがプラスに働くということです。

 

そういったストレス体験後の5つの変化として

 

他者との関係 他を思いやり自身も他に依頼してイイとの感覚

新たな視点 制約されることが多い中、新しい方向を描く

人間としての強さ まだ立て直せるというポジティブな強さ

人生に対する感謝 当たり前に生かされてきたことの反省

精神的変容 宗教的感覚の醸成 おかげさまのこころ

 

の成長があるとのこと。

どちらもその生活を心がけている人だとそれ以上に成長できるかというと・・・さぁ。

 

①②③は以前行った安城市歴史博物館にて。

進者往生極楽と欣求浄土の旗差しが(拙ブログ)。

④はあの映画の中のエピタフの警句。

「Your youngest and strongest will fall by the sword」

お調子に乗ったら・・・ヤラれる。すべてにおいてですね。

お念仏はそれを気づかせてくれますが・・・

 

しかし人間はアホだからいつも忘れて天狗になります。

よって毎日、思いついたら称名念仏 南無阿弥陀仏。

気づきをありがとう。おかげさまで今日も生かされています。

 

 

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2023年

12月

18日

長篠合戦図屏風の信長南蛮兜 歴史資料館

 

26℃弱の夏日となったその次の日は晩方からの強風、毎度の遠州の空っ風が復活していました。

それを期待して干し芋の準備をするわけで当地の名物とはなっていますが、私的には迷惑なもの。

体感温度を相当低下させます。

 

午前の本堂はそのせいでミシミシと音を立ていました。

堂内は10℃。

参列の皆さんはその温度の変化に「ついて行けない」と。

私は朝からあまりにみすぼらしさ満点となり豪快に風が吹き込むようになった障子の穴塞ぎから。

数日前に男の子たちがブチ空けていたものです。

親たちはその様を見ていません。正面に向かっていますから。

私だけがその現場を見たわけです。

 

紙の劣化も進んでよく眺めてみれば隙間冷風の大元、破れは各所にあります。

 「この面も早いところ全面張替え」の切迫、わかっていますがなかなか・・・優先順位がありますからね。

 

扨、成瀬本長篠合戦図屏風には勿論信長の登場があります。

そこで目につくのが南蛮兜。

そのレプリカ?が長篠設楽原資料館にありました。 

④は設楽原の最初の陣、極楽寺址から出てきた瓦と。

 

 

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2023年

12月

17日

長篠設楽原 関東衆馬上之巧者 小幡上総介信貞

 

前代未聞の師走の気温。小田原あたりでは26℃の夏日と。

当地ではそこまでいきませんでしたが朝から「暑い!」と言いながら半袖シャツ1枚になったほど。

 

本堂も暖かく、法要にストーブは要らないだろう・・・とは思ったものの念のため奥方が皆さんにお伺い。

90代のお婆さんがいらしたため、その方のために念のため一つだけ点火してその前に座っていただくことになりました。

すると法要終了後その方から「暑くて気分が悪い」・・・。

 

「年配者だから寒いだろう」の固定観念もオカしなところですが、こんな冬の気温もオカしい。

 

扨、昨日記した交差点脇の甘利の碑。

その近く、一段上がった丘の途中に今一つ石碑と墓碑があります。

小幡上総介信貞とあります。

とはいいながらも信貞の墓ではないような。

信貞が小幡一族の為に墓もしくは祠を建て、専従の僧を置いたのではなかろうか(数基の卵塔から)・・・などと想像した次第。

 

小幡氏は滅亡は免れるものの不遇の選択の連続。

本領の上州国峰城は皮肉にも奥平信昌が治めることになります。

上州からはるばる奥平氏の領地にやって来て一族は武田軍とと

もに総崩れ、この地で多くの縁者を失いつつ本貫地に帰還するもそちらはその奥平氏によって追い出されるハメに。

 

 

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2023年

12月

16日

長篠設楽原 柳田橋手前甘利郷左衛門信康

 

結構強めの雨。

午前は来客を本堂に通しましたが(ストーブ常設で気軽に暖をとれるため)堂内は意外に温かく蚊二匹の襲来があったほど。年末年始も暖かいとの予報が出ていますがそうであったらありがたし。

午後は雨があがりましたが私はずっと自宅にてここ数日控えている法要の用意を。

 

とは言いながらも映画視聴タイムもありました。

「生きる LIVING」を視聴しました。

昨年のイギリス製の映画ですが1952年の黒澤明の『生きる』のリメイクになります。

 

先日拙ブログで「ステージ4」なる語を記しましたが医師から「余命半年から9カ月」を宣告された主人公。

お役所の課長職という設定は原作とだいたい同じです。

その残された「時間」の中でこれまでの自分の過ごして来た生き様を見つめなおし、何とか生きて「変化」していくというおはなしです。

カズオ・イシグロの脚色、挿入歌、主人公も歌ったスコットランド民謡「ナナカマドの木」、曲調もまた詩も悪くない。

やはり「時間」の経過とむかし懐かしさ、哀愁が漂います。

子供の頃、夕時に母親が子供たちを呼びに来て遊び足りない子供たちが駄々をこねるなどの件、死期の近づく私に阿弥陀さんが「そろそろだよ」と声をかけてくる様を連想。

それでも「まだまだ遊ぶ」(生き足りない)というバイタリティはある意味あってもいいと思ったところ。

 

私も「その時」ともなれば彼と同じ思いをするのでしょうが考えてみれば病気の有無にかかわらず既にその意気で生かされているというのが僧侶というものですからね。

ただし実際のところ「その時」どういう心境となるかはわかりませんが。

 

まず視ていただきたい方たちといえば①余命宣告を受けた人、または②何らかの病を抱えて心が揺らいでいる人、そしてすべてのお役人さんたちでしょうかね。

何分その宣告を受けての「変化」とは主人公のお役所の仕事の内容が主に描かれていましたから。

映画とは関係ありませんが「変化」は怖いものです。

仏教の言う「無常」ですね。

 

昨今思うこと・・・私の言葉遊び失敬。

「勝ち組と 余裕前途の 皆の衆 

 

            実は負け組 外れ出直し」。

アベハとやら御一同と日大のアメフト部の書生さん方を見て。

前者は自業自得。どうでもいいところですが後者でとばっちりを受けた方たちは今後うまく出直していただきたい。

余命宣告ではありませんし勝った負けたの今の現実は有無同然。出直してくだされば。

 

扨、昨日は既に何度も記している設楽原の決戦場について。

しつこいですね。本日も・・・。

これから「また行こう」という史跡研究会の皆さんがいらっしゃいますのでこちらにて今後も適当にアップしていくかとは思います。

その設楽原の墓石関係でこれまでブログに触れていなかっただろうと思う(まったく自信がありません)墓碑が昨日記した「本戦会場」馬防柵入口とも言える柳田橋近くにあります。

それが「甘利郷左衛門信康の碑」。結構目につく場所にあります。

 

場所的には「山県の碑より凡そ120歩」(設楽原戦場考)。

天王山、設楽原歴史資料館への上り口と市道が交わる交差点です。

ただしこちらの碑についての検証は甘く、甘利のどなたかは確定していなさそう。吉田砦の甘利四郎三郎(森鴎外『佐橋甚五郎』)もありましたが・・・。

 

設楽原戦場考では甘利三郎四郎晴吉とは考察していました。

「信康も晴吉も共に武田左軍の第五陣にあり、山県最後の戦闘に加わり戦死」とあります。

地元の言い伝え『長篠合戦余話』では信康は柳田地区の住民を呪う言葉を吐き、庄屋の屋敷門扉に寄りかかって、立ったまま腹を切ったと。

 

これは長篠城包囲の余裕の勝戦を思わせる戦況から思わぬ酒井の奇襲にあってから包囲戦が瓦解、なりゆきで設楽原におびき出された武田軍でしたが、山を下って目前に築かれた堀と城壁・・・連吾川と馬防柵・・・を見て「してやられた」を思ったということでしょうね。そして単純に短期間にそれだけの構造物は地元の民たちの支援がなければできなかったはず。

呪いたくもなるでしょう。勝ったと思えば負ける。それ鉄則。

 

重ねての柳田橋からの図。

奥右が馬防柵。山のトップが信長の陣。左方向が家康の陣。

⑤は昨日と同じ長篠合戦図屏風の現地標識。

⑥は橋から東側を振り返った図。右下に石標が見えます。

その先の丘を登れば歴史資料館。

丘を登らず交差点の角に甘利の石標が。

一石五輪塔残欠は後付けのものか・・・それとも当初から・・・縁者が建てたものかも知れません。

 

 

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2023年

12月

15日

長篠合戦図(成瀬家) 猪目と籠目-六芒星と植村庄衛門

私の妹の娘が第一子を連れてきました。

以前その男の子の名を聞いた際は、何となく平静に「ふ~ん」と聞き流していましたが、今回はその名づけの発想について突っ込んで聞いて仰天。

名前は「れおん」。その「おん」には寺の娘の子らしく「恩」の字を採用したといいますが「なんだってそれにしたんだ」・・・になります。

 

要は妹がその名を命名したようですが(相手のその主導権を与えない事も不思議)、私が「まさか映画(『レオン』―30年前の)じゃあないだろうな~」というと「それもある・・・」と。

奥方も息子も私もひっくり返りそうになっていると、妹の娘が小さい頃、何かの拍子で私がその映画に登場する女の子の名前の「マチルダ」と呼んだそうで、「それがあったから」と半ば私の責任の様。

まぁ嫌いな映画ではありませんしエンディングに使用されていた「Sting 」の「Shape Of My Heart」はよく聞きました。

その歌詞を眺めたものです。

 

息子が「ミランの10番がレオン」と承認。最近はその映像を早起きして観戦しているようです。

「まったく関係ないだろう!!」と私。しかしその件、当家の内輪ネタですからわかる人にはわかる。

特に「奥の墓道」氏はニヤっとするでしょうね。

 

扨、独りよがりの件はともかく、設楽原の「本戦会場」に戻ります。

連吾川を渡って右方向に馬防柵を視界に入れながら進めば、お馴染み「長篠合戦図屏風」のお出迎え。

長篠設楽原の戦いをど~んと描く図です。

各現存するそれは多種に及ぶようですが何といっても一番に目に触れることが多いのは白帝文庫所蔵の成瀬家本。

成瀬正義の弟、成瀬正一の馬防柵前の雄姿を描いた図と言っていいかも知れません。

 

勿論馬防柵手前のそれは成瀬家本②です。①は現場のもの。

その中で不思議な事。

やはり主役は徳川家康のはずなのですが、その原本には違う名が記されています。③植村庄衛門です。

その人植村正勝は家康の重臣(三河三奉行の一)で、その名は別に(下段)ありますからオカシなところ。

 

単純に絵師が間違えたか、わざとやったか。

「徳川家康」の名を記すことは憚られますし、神格化された大御所の実名を記すなど当時は出来るはずはありません。

それにしてもなぜその人なの?ということになりますね。

 

よって現代はその修正物が出回っていて「徳川家康」と記されていたりします④。その図から徳川方の陣の下方を眺めれば植村の名は出てきますね。

 

そして、紋章の件。前述Sting の「 Shape Of My Heart」の「Heart」と同じカタチ「猪目」については日本古来の紋章であってその海外でもてはやされる意味とはまったく違うことを拙ブログで記しています。

③画像アップの序でに・・・

馬上家康の近習の着物の背に記されたあの文様の件、欧米的には「六芒星(ろくぼうせい)で今、普通にイメージするのはイスラエル、ユダヤ・・・です。しかし勿論これもそのユダヤ・イスラエルとはまったく関係ありませんね。

 

紋章として星や星座などを旗印に描くことはザラにありましたが、この星形もこういった形で密かに登場していました。

和風にそれを呼べば「籠目」。

籠を編んだ際その紋様になることからですね。

 

かつて日本ではその紋章を商標に使用していた会社がありましたね。

それがその名の籠目の通り「カゴメ」。

私はおいしいジュースでお世話になっています。

④画像右側の商品にはその籠目が別に。

 

私の場合、特にその紋章はトマトのヘタのように感じますが。

1980年に入ってカゴメはその標を放棄しているよう。

ユダヤのイメージを嫌ったか・・・⑥は一昔前のカゴメの品物の図。掘り出して行けばまだ画像は残っています。

 

 

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2023年

12月

14日

小島蕉園の息子 小島全からの礼状 甘い物十分

これだけ暖かいとあの厄介な奴・・・蚊です・・・の登場。

就寝安眠を毎晩邪魔されています。

昨晩はたまたま振った「蚊ーゲット」(ラケット型の電気式退治機)の一撃で仕留めることができましたが、たまたまの偶然、就寝前に予め夏用の対策を復活させなくてはなりません。

 

というワケで昨日は好天無風。

まずは前日の降雨にあわせて当家墓地の納骨室の上部に敷いていたブルーシートを外すことから。

昨日は納骨法要がありました。

コロナやら何やらで日延べしていた法事ですが神奈川県から

5名ほど、そして息子が浜松から合流してその法要の導師を勤めました。私は最初から石屋さんの仕事オンリー。

下陣にいて焼香、息子の声に只管耳を傾けました。

一同、息子の導師の件、サプライズ。私も奥方も発声もなく興味津々。

彼の拝読を、ただ「聞く」ということは初めての事でした。

 

納骨終了後「上手いもんだ」と褒め「これで何時くたばってもOKだ」「俺らはここのどこかに入れてくれ」と彼のこれからの仕事を指示。

また、拙寺親鸞さん後方の「一所一處墓」と大谷祖廟の分骨もタノムと。

 

そりゃあそうと既に「死にしそう」です。

昨日だけで③の通りのお供物、甘いものだらけになりました。

糖尿病一直線の道ですね。

それがわかっていても卑しい身、やめられない。

 

それから皆で榛原の施設に叔母に会いに行くことになりました。

突然の思い付きでそちらに向かい始めた車中、施設に連絡。

すると予約なしにつき「中には入れられない」とのこと。

コロナとインフルで相当懲りているようでした。

というわけで我々一同は外から。

内線電話の端末を渡されガラス越しに面談完了②。

 

「ニコニコしていて呆けてない」それ一同の観想。こりゃ100まで生きる・・・(これは本人の希望と予言)

「ニコニコ」は長生きの秘訣ではありますが、「生」のバロメーターでもあります。痛かったり体調が悪かったらニコニコしていられませんからね。

 

扨、私の墓の件、次に伝えたところで大いに安心。

その安心について、昨日ブログ「祐厳唱酬小島蕉園」を記しましたが小島蕉園の葬儀について息子の小島全が相良の人々の厚情と安心、拙寺祐厳にその感謝の意として送った書面(礼状)があります。

 

前段の損傷が酷く、読み憎いためにしばらく放置したままにしていましたが差出人の小島全(修三)の名の通り、蕉園の子(養女の婿)ということがわかっていましたので、叔父に漢文の文字をおこしてもらいました。

 

而死故仁政未徧雖然死之日無人不流涕

 葬平田寺也土人植櫻花芭蕉供素好間

 竊聞又謀為建碑何情之厚也是猶子之

 於父母豈唯為平易之俗己嗟其為子為

 敵猶水能順其性則平流而有灌漑之

 利□□□驚瀦而為滔天之害皆由于

 我而非在于彼余有感目賦二絶謝其情之厚

 示後之為宰者云

精神全為報君疲欲済萬民航海危

思信未能及羊子土人於擬峴山碑

蒼生志業一時体萬事空追湘水流餘

得孤碑照千古當知民夫両心投

 

文政丙戌孟夏       

                                  小島全

 

 

小島蕉園といえば善政の人というのがそのイメージ。

 

「土人」とは当地では「葬儀を支援した地元の皆さん」の意ですが、それでよろしいかと。

蕉園の墓地は先日記した駿河湾に面した台地上ですが、当時は平田寺の寺域のくくり。

 

葬儀直後に小島全は植えられた桜と芭蕉に悦び、蕉園を讃えた碑を建てるということに感謝しています。

ポイントは最初の「仁政」と「両心」の語の対比。

仁政とは庶民に対して思いやりある政治。

それに反して「両心」は・・・二心でしょう。

要は「庶民の為といいつつ自分の為」。

表向きは美辞麗句で庶民を讃え、ウラでは自身のために蓄財をするなどの腹黒さがあるということ。

 

それって「裏金」というヤツね。

身一つでやって来て(赴任)、転任するときは大八車数台で離任。

いわゆる悪代官の類。

しかし何といっても蕉園の「キックバック」とは庶民に対してのものでしたからね。

 

ふっと思ったのですが案外小島蕉園を大河ドラマに・・・なんていうのも悪くないかも。

「また寝言を言ってやがる」と奥方は笑いますがよ~く考えてみればそんな善政仁政の政、そうはありませんからね。

そういう人がいたことでも教えてあげるべき。

特に今の両心の政治屋さんには。

 

まぁドラマ化などしたら拙寺祐厳ほか寺そのものも出演しちゃうかも。

奥方は「そううまいこといくものか!!どこまで御目出度いんだ」と呆れ果てていました。

「今の相良の人は殆どの人が知らない。それなのに全国でどれだけの人が知っているんだ」と。

一昔前は相良の人も全国の子供たちも(教科書に記載されていたといいます)知っていた偉人なのに。

当時は「政とはそういうものだったが今は違う」ということなのでしょう。

 

「文政丙戌」は文政九年1826。

小島蕉園はその年の1月に亡くなっています。

葬儀が執り行われてから「盛夏」とありますがその半年後のお礼の手紙だったということですね。

 

 

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2023年

12月

13日

祐厳唱酬の仲 小島蕉園七言 胃が痛い面壁九年

 

お付き合いさせていただいている神職のN師より「ステージ4になった」と告げられました。

癌の進行状況によってその手の言葉を聞かされますがこの方のそれは腎不全ステージのこと。

透析寸前ということになるのでしょう。

私も知識がないのでただ聞いているだけでしたが今後月一で検診に行かなくてはならないことをボヤいていました。

きっと今後たくさんの投薬があるのでしょうね。

 

私の奥方は「黒ニンニク製造のプロ」を自認していますが、そのニンニクについての効能はいろいろな病状に対処できるといいますので是非にお試しあれ・・・と推挙してみました。

すると「神主はニンニクは喰わん」「絶対にムリ」とのことでした。

お寺といえば「禁葷酒入門(山)」(真宗では聞いたことがありませんが)。やはりそれはイケなそうな食べ物とは承知していましたがそれほどの勢いで拒絶されるとは思いもしませんでした。

その父上も餃子を食べた人の匂いを嗅いただけで怒るほどだったそう。

 

私も以前はそれを口にするという機会はありませんでしたが、奥方の黒ニンニク製造趣味によって「朝の二切れ」は習慣になりました。黙っていてもそれが添えられていますからね。

何といっても「ニンニク」ではなくなってしまうような食感で敢えて形容すれば黒いグミ。

まったく別の食べ物に変身します。勿論ニンニク臭も皆無でまぁ食べ物というより薬という感覚ですね。

 

奥方はその製造のコツは「こうである」の持論があって、他人様にその出来具合の評価などを聞かれた場合、一口食したあと、かなり踏み込んだ鋭い指摘をするところを見ています。

 

その効能はいろいろあるようで各お調べいただければ。

この時期はその製造はオフシーズンに入るところで市場に出回るその素材は中国産ばかり。

青森産の特別な品種はもっとも高価で奥方は出回った頃にまとめて揃えていましたが、最近は釜の中は空いていました。

 

先日「山梨産」と銘打ったニンニクが比較的安価で店頭に並んでいたのを見た奥方がそれを数袋購入していました。

それと同じものを仕入れた方がチャレンジ。出来上がったそれを昨日持ってこられましたがなかなかの出来具合でした。

 

当地で衰退気味の茶業に代わってニンニク栽培は如何・・・などと思うところですが、茶の好む地にニンニク・・・どうだろう。

以前朝鮮人参のチャレンジについて記したことがありましたが、その件とっくに挫折して諦めていますので。

 

庶民産業の模索といえば小島蕉園ですね。

彼も庶民のために色々な提言をしていました。

その件、小島蕉園のページに記してありますが今回は拙寺住職との唱酬の件。

 

再歩前韻

呈 上人

禅房永日唱酬頻

吐盡彼膓有苦辛

向睨沈吟猶未熟

面壁九年人休言

      彝

 

「呈」の後に一字空けての「上人」は敬意の欠字。

拙寺祐厳と拙寺での七言の応酬があった様でしょうがお遊びが高尚すぎてついて行けません。囲碁や将棋の如くにこの手のお遊びに親しんでいたということです。

蕉園も相当に苦労してこの句を絞り出しているようですがそれが二行目の形容でわかります。

 

実際に彼は数年後に亡くなりますが死因は胃癌ではなかったかと言われていますのでもしかして、ほんとうに「句」が「苦」だった?

 

起、承、結で押韻。

「禅房」は禅宗の禅ではなく広義の意。静謐、三昧。

ここは真宗寺院ですからね。

「面壁九年」(めんぺきくねん)は達磨からのたとえ、忍耐強く専念、やり遂げること。

蕉園の謙遜当家九代をたてた様。

 

 

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2023年

12月

12日

女墓場カニ喰う序で 里見忠義と八賢士 倉吉大岳院

 

ここのところ日々20℃の無風好天が続きます。

よって午前中は境内作業。前週に準備した当家墓場へ。

納骨室上部を覆う石材を仮置きしていますが、設置するベース部分に凸凹があってガタガタ。

モルタルで留めるとはいえ激しい段差も見受けられ、そこに手を入れました。といっても市販の床材(ゴムベースの30㎝×30㎝)を適宜切断して突っ込んだだけですが。

あの素材は安価(300円程度)で結構使える品だと思います。

 

先日はエアコン室外機の防振材としてそれを切って台座上下に貼り付けて使用しました。

エアコン室外機の台座の普及品はそれ用のプラスチック製のものですが、中が空洞になっていてそれを私は「スピーカー」(BOX)状態と・・・。

よって庭に転がっていたレンガにその役を交代させその床材を貼り付けたのでした。

まずまずの効果があった感ありますが、それ以上を望むとすれば数枚を重ね貼りするなどすれば尚良いでしょうね。

 

昼は大晦日除夕鐘の事前ミーティング食事会。

「事故等が無いように」を最低限目指すイベントです。

何かあったとしたら私に代表、責任者として「ご説明を」になるでしょうが、そんな時は紙に書いた『「刑事告発を受けている案件でもあり、事実関係を慎重に調査・確認して適切に対応してまいりたい」と口をつぐみますよ・・・』と読み上げて、しつこく迫られれば「あんたら頭悪いね」と開き直り・・・しますと。

そして運営は婦人部と世話人また管理は坊守なので「すべて私のあずかり知らぬこと」なんて言っちゃいますよ・・・・のクソ坊主いやクズぶりの弁をニヤリと。

責任を追及されたら「職務を全うします」でOKですね。

 

普通の人はその手のことで済むワケがないところですが、何故か政治屋様世界では大いにまかり通るところ。

民間じゃあ即クビか「お腹召しませ」です。まさに魔界。

それにしても「適切」って・・・

私、頭悪いんで、もっともっと教えてくれないと・・・わかりませ~ん。

 

扨、画像はまたも「女墓場」より。

前週末に突然「カニが喰いたくなった」ということで何故か親戚一同で鳥取に向かったとのこと。

富裕層?ちょっと引きました。

そしてその序でに立ち寄った大岳院なる墓域の画像を送ってきました。

関東の名家・・・里見忠義と八賢士の墓といいますがその人たちの無念とその伝承を伝えてきました。

江戸初期の墓塔ですが、「もっといろいろな角度から・・・」とは思うのですが、それをリクエストするなんて無理な話。

またも勉強させていただきありがたし。

 

 

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