さて闡如さんの標柱は 坂井の山崩れ 小島蕉園 

晴れにつき外仕事。

門前の石柱の位置を変えるため取り敢えずこの日は基礎部分外周の堀り出し作業。

私は2パーツに分けるべきと主張しましたが作業に合力していただくその方は「くっついたままヤル」とのこと。

来週のどこかで行う移動作業の準備です。

 

昭和33年に据え付けられた石材同士の接着がそのままであるかなど私にはまったく信じられませんが外ずして着けるという作業が不要ならばそれに越したことはありません。

まかせることにしました。

 

別の知り合い(2tユニックを所有している方でその車をお借りすることも検討していましたが4tを持参してくれる本職のその方に依頼しました)にそれを伝えるとやはり「信じられない」とのこと。

まぁ最悪私はコレがポッキリ折れたとしても「まぁいいや・・・」と割り切っています。

 

この標のタイトルが「闡如上人御巡化」です。

「闡如さんが来た」ということですが、その人は以前ブログで記した通り大谷光暢1903~1993年当流第二十四代法主(門主)で昭和天皇の義弟です。

このような地方のボロ寺によくもまぁはるばると来られたものかと不思議な点ありますが、他のお寺からすれば「垂涎モノ」と思われたこともあったかと思われます。

 

これまで会館があり暗くてよく裏側の文字を見回したことがありませんでしたが、初めて「匡書」と小さく記されている箇所を見つけました。匡は私の祖父、拙寺13代目にあたります。

爺様がわざわざこの石標を新調したということは門主(以前の法主・・・御門跡さま・・・)が「来た!!」と相当気合が入ったイベントが催されたのでしょうね。

この爺さんの名を目にして、できれば無事に移動したいという気持ちに変わっていきました。山門の中、5mほどの移動です。

 

さて、この二日間、蕉園渉筆から坂井と須々木の記述を記しましたが、本日は再び坂井に戻ります。

前出2tユニックを所有しているその方は須々木の晴海台という台地の真下に住まう方ですが、背後からの土砂崩落はいつも気がかりであるとのことでした。

その舌状台地の先端が海側に突き出ている地形のその下に住宅地が海岸線に沿って広がっていくところを東側から見ていくと150号線の勝間田川を渡ったあたりから(波津以西は旧道)地頭方、御前崎までそのような風景が続きます。御前崎では上岬、下岬と呼ぶように台地の上・下がわかります。

 

よってこの地域(特に「下」)に住まう方たちがいつも愚痴っぽく言うことといえば「前から津波、後ろから山津波(土砂崩れ」ですね。

 

以前拙ブログでは坂井の土砂崩れの件記しましたが蕉園渉筆にもその坂井の山が崩れた件の記述がありました。

 

蕉園渉筆96    坂井山崩

 

癸未秋、大風雨坂井邑民夜半山崩、大石壊屋、土砂埋没、

梁木傾墜、傷脚、驚醒、匍匐潜梁障赴母寝所、破屋抱出、

去出二子、妻乳初生児、壓於屋下、不能救出、急呼隣人、

鑿土砂二丈許、而及之、児死妻屈、余以状聞于太公、

急馳傳有周急之恵、褒其先老母

 

醒・・覚 さめる 匍匐・・ほふく、はう 梁障・・梁のすき間

壓・・圧 おさえる 鑿・・うがつ ほる 二丈許・6mばかり 屈・・蘇 よみがえる 状・・書状 馳傳・・早飛脚  

周・・すくう

 

癸未(文政六 1823)秋、大風雨にて、坂井邑の民は、夜半に山崩れ、大石が屋を壊し、土砂に埋没し、梁木は傾き墜ち、脚を傷す、驚き醒め、匍匐し梁の障を潜り母の寝所に赴き、屋を破り抱え出し、去りて二子を出す、妻は初生児に乳し、屋下に壓されて、救い出す能わず、急いで隣人を呼び、土砂二丈許を鑿ち、而して之に及ぶ、児は死に妻は蘇える 余は状を以て太公に聞す 馳傳を急がせ、急之恵みを周う有り、其老母を先んずるを褒める

 

こちらでもその災害事案について蕉園は殿様である江戸の「太公」の耳に入れていたのでした。

太公は母親をまず先に救助に向かったことを褒めたとのこと。

何がしかの物品が与えられたのでしょう。

 

代官経由で領内の各事件がトップに届き何らかの対応があったという例がまた一つ。封建時代とあっても、思いやり・・・仁政は探せばあるものです。

蕉園の場合は特別なのかもね。