釋尼妙意記 成瀬藤蔵正義妻 当山3代目の母 

釋尼妙意記

 

 

片岡半右衛門母釋尼妙意と云人ハ三州岡崎本陣之娘ニ而

 

成瀬藤蔵と内縁有之當国西方村居住之藤蔵を志た以尋子参リ

 

天正之頃(天文の誤りか)夫婦ニ相成に武人之男子有之次男ハ本

 

多能登守殿中片岡氏へ養子半右衛門是也扨又夫成瀬藤蔵

 

正義ハ岡崎ニ神君様御在城之砌兄成瀬隼人奉仕自分ニ而ハ武

 

家嫌ひ西方村有徳成百姓ヘ養子ニ相成養家ハ禅宗ニ而継之

 

代々禅宗也其身本と成瀬氏ハ浄土真宗ニ而身ハ養家之禅宗を継

 

といへ共心ニハ浄土真宗ニ而志た以参りし妻ハ本ヨリ真宗之流を汲

 

ミ厚心之女藤蔵も心ニハ真宗ゆへ禅宗之家ニ而妻ニハ浄土真宗を

 

為立平尾村本楽寺を頼菩提所として法義厚く悦ひの人也然ル処

 

小笠原兵乱ニ而本楽寺相良江引越依之相良江折々参詣法義

 

相続厚心之人也其頃寛永十二戌年大沢ニ荒地有之公儀江上リ

 

地に相成時之代官遠山六左衛門支配故藤蔵ハ神君様御被下

 

成瀬隼人正殿弟故是ヨリ申入菩提所本楽寺へ寄進申度段

 

被申入候へハ早速了承有り本楽寺へ御書付被呉候右田畑

 

本楽寺佛供田ニ相成申也其後同寛永十八木佛御裏釋妙意寄進

 

願主ニて而東泰院様御深筆ニ而御免許其頃寛永十六ヨリ正保迄

 

相良本多能登守殿御知行所ニ相成成瀬藤蔵並妙意夫婦之次男

 

片岡半右門相良御知行所之御役人故過去帳ニハ片岡半右門母

 

木佛願主と印有之事也扨又御世治り太平之事故平尾村古跡

 

取立ニ弐代之西念彼地ヘ通ひ小庵を取立被申相良本楽寺ハ

 

三代祐伝ヘ相渡平尾村居住右西方村藤蔵夫婦厚心之人故

 

又々菩提所近き処取立相成弥取持厚く田畑山林七條等平尾村

 

本楽寺へ寄付右相良本楽寺者三代祐伝へ大沢御墨附等之因縁

 

を以延宝弐大沢寺と寺号改メ御願古跡取立之本楽寺者木佛

 

御裏御願妙意死後者八年目弐代藤蔵妙意存生之任願寄進

 

妙意耳して平尾本楽寺三代受念へ木佛御裏御免許其後其後

 

西林寺と寺号相改御願済依之代々成瀬藤蔵之子孫西林寺

 

乍禅宗旦那同様厚く塾志をむ古ふ事也

 

 

岡崎本陣 本多忠勝

※天正→天文の誤りか 藤蔵正義は三方ヶ原(元亀三)で討死

※後から二行目の西林寺は当初から真宗のため錯誤か

  2代目藤蔵を名のった長男の系統が妻の家の意向を汲んで

  禅宗の寺を継承したか

※どちらにしろ4人兄弟である

※「藤蔵」名を継承しているため紛らわしい

※東泰院 教如の息子の宣如 東本願寺十三代

 

 

関連ブログ 2015.01.29

 

 

釋尼妙意記

 

片岡半右衛門母釋尼妙意と云う人は、三州岡崎本陣の娘にて

 

成瀬藤蔵と内縁これあり

 

当国西方村居住の藤蔵を慕い尋ね参り天正の頃夫婦に相成り

 

弐人の男子これあり候(※天文の誤りか 天正15731591 三

 

方原は1572)

  

次男は本多能登守殿家中片岡氏へ養子、半右衛門これなり。

  

さて又夫成瀬藤蔵正義は、岡崎に神君様御在城のみぎり兄成瀬

 

隼人仕え奉り自分にては武家を嫌い西方村有徳なる百姓へ養子に

 

相成る  

         

養家は禅宗にてこれを継ぎ、代々禅宗なり

    

その身 もともと成瀬氏は浄土真宗にて 身は養家の禅宗を継ぐと

 

いえども心には浄土真宗にて、慕い参りし妻はもとより真宗の流れを

 

汲み厚心の女

 

藤蔵も心には真宗ゆえ、禅宗の家にて妻には浄土真宗を立てさせ

 

平尾村本楽寺を頼み菩提所として法義厚く悦びし人なり   

         

しかるところ小笠原兵乱にして本楽寺相良へ引越、これにより

 

相良へ折々参詣 法義相続き厚心の人なり(1574第1次高天

 

神城、1575長篠、1581第2次高天神城)

         

その頃寛永十二戌年(1635)、大沢に荒地これあり、公儀へ

 

上がり地に相成る。

 

時の代官遠山六左衛門(御蔵領代官 元和五-1619~)支配故

 

藤蔵は神君様御被下成瀬隼人正殿弟故これより申し入れ、菩提

 

所本楽寺へ寄進申し度き段申入れ候えば、早速了承あり、本楽寺

 

へ御書付下され候

      

右田畑本楽寺佛供田に相成り申なり     

         

その後同寛永十八木佛御裏釋妙意寄進願主にて、東泰院様

 

御染筆にて御免許。

         

その頃寛永十六(1639)より正保(正保元年-1644)まで、相良

 

本多能登守殿御知行所に相成り、成瀬藤蔵並びに妙意の夫婦の

 

次男片岡半右衛門相良御知行所の御役人故、過去帳には片岡

 

半右衛門母木佛施主と印これある事なり    

         

さて又御世治り大平のこと故、平尾村古跡取立てに弐代の西念

 

彼地へ通い小庵を取立て申され、相良本楽寺は三代祐伝へ相渡

 

し平尾村居住  

         

右西方村藤蔵夫婦厚心の人故、又々菩提所近き取立て相成り

 

いよいよ取持ち厚く田畑山林七條等平尾村本楽寺へ寄付

     

右相良本楽寺は三代祐伝へ大沢御堂附等の因縁を以て、

 

延宝二(1674)大沢寺と寺号改め御願        

         

古跡取立ての本楽寺は、木佛御裏御願     

 

妙意死(万治三1660)後は八年目弐代藤蔵は、妙意存生の願い

 

に任せて寄進妙意にして、平尾本楽寺三代受念へ木佛御裏御免

 

許 その後西林寺と寺号相改め御願済み

     

これに依り代々成瀬藤蔵の子孫は西林寺を、身は禅宗ながら旦那

 

同様厚く熟志を向こふる事なり。   

 

 

 

※「藤蔵」は西方成瀬当主の名のりでもあり紛らわしい 

 

※三代釋祐傳の名判明 ブログ  20211108