文芸牧之原16 相良油田見聞録    秋野 博治氏

 

 

当「文芸まきのはら第十六号」が発刊される「令和四(2022)年は相良油田発見満150年」と節目の年であるも、このことをご存知の牧之原市民はほとんどいない?と推察される。

 

牧之原市には、太平洋岸唯一の油田である「相良油田」があった。

明治期・大正期は、萩間川河口近くの両岸 近隣に菅ケ谷地区産出の原油を精製する精油所があり、旧相良町の主要産業として繁栄した。 しかも世界一高品質の石油であったが、産油量の減少や外国産原油の輸入等により昭和三十(1955) 年頃に操業停止となった。 静岡県指定有形文化財「相良油田油井坑-ゆせいこう」 や「相良油田の里公園」などで、過去の歴史 の一端を確認出来るも、相良油田の栄華は消え去るのみである。

 

六十余年前より「相良油田」に関心を抱き現地を再三・再四訪れているが、令和三(2021)年四月の再訪問を機会に学術的考察は最小限に止め「相良油田発見百五十年記念」の気持ちも込めて、市民目線で見聞録を記してみた。

 

なお、見聞時に協力いただいた方々は当時の肩書きを用いる一方、面識のない方の敬称は省略させていただいた。

 

相良油田の発見・歴史概略

江戸幕府崩壊に伴い相良勤番組三等勤番として、明治三(1870)年に海老江(えびえ)村(現牧之原市大江字海老江)の戸長富田傳五郎宅に寄留した村上正局(まさちか)が、村人の案内で明治五(1872)年2月に海老江山中を訪れ、鉱質石脳油(石油)を発見した。

 

※発見者の村上正局は、石油開発会社設立などに携わったのち明治二十一(1888) 年6月15日に60歳で逝去され、牧之原市福岡の日蓮宗浄心寺に眠っている。

 

いち早く石油発見の情報を耳にした日本の石油王兼ペテン師?と称される石坂周造が、 早速来訪して明治六(1873)年より現牧之原市菅ケ谷にて採油事業を開始した。

最盛期の明治十七(1884)年頃は、年間四千石=721キロリットル(ドラム 缶3600本)が産出され、手掘り油井・機械油井合わせて240坑・従事者600名と隆盛を極めた。

 

手掘り油井の最深は255メートルに 及んだが、反面危険も多く犠牲者も増加し22名を数えた。

大正十一(1922)年以降は、採油量千石未満と最盛時の四分の一以下となり、衰退し昭和三十(1955)年頃に操業停止となった。

 

次に「相良油田」の史跡を記述させていただくが、変遷の経緯を明確にするため極力訪問日も記した。

 

 

 

相良油田油井坑

牧之原市菅ケ谷字大知(おおち)の丘陵地に昭和二十五(1950)年開坑の深さ310メートルの機械油井坑が、唯一現存している。

 

※隣接した栗園のなかには、手掘り井戸跡の穴(窪みのみ)もある。操業を停止した昭和三十(1955)年頃は、静鉄の路線バスが運行しており麓に「井戸山」の停留所があり、油井坑近隣の油田採掘技師を務めた小山秀雄さん宅では、薪・木炭の全盛時代にひとり油田産出の天然ガスを燃料に用いており、ガス器具を初めて見た。

 

当時は、天然ガスを産出させるため一カ月に一回位の割合で、油井坑を稼動させた。また、第二次大戦後のガソリン欠乏時代は、静鉄バスも「相良油田の原油をそのまま使用して運行した」との証言を永年運転手を務めた藤沢信郎さんより得ている。

 

昭和五十五(1980)年9月15日に油井坑を訪れた際は、油井坑の直ぐ隣に出荷用の空ドラム缶数本が未だ無造作に置かれていた。

昭和五十五(1980)年11月28日に、静岡県指定有形文化財(天然記念物)に指定され、その後平成十九(2007)年に経済産業省の近代化産業遺産にも認定された

昭和五十九(1984)年3月23日に訪問時は、油井坑の一段高い場所に手掘り井戸小屋が再現されており、徐々に軸足が観光施設化された。

 

天窓および踏鞴(たたら)模型・手掘り井戸模型が設けられ、世界の原油サンプル六種類も展示されて、見学者の相良油田に対する理解度は一層と高くなった。

 

「子供が踏鞴の上をシーソーのように動くと、手掘り井戸内に空気が送られ風樋出口の吹き流しが揺れる」の単純な仕組みは、理科・歴史の学習になり親子連れに人気があった。

 

何回となく訪れているが、平成十三(2001)年8月13日は、油井坑所有者の高塚英夫さんと昭和六(1931)年生れで相良油田最後の従事者田中満太郎(みつたろう)さんに、特別に原油の採油・燃焼・バイク走行を実演いただいた。

発動機を稼動させ油井坑内に鉄管を上下させて、透明度の高い原油を汲み上げマッチを摺ると、直ぐ点火し燃え尽きるまで炎を出し続け途中の消火は出来なかった。また、バイクに原油を直接入れて油井坑近くの坂を往復させたが、登り坂も難なく走行出来た。

 

※当時高塚英夫さんは、静岡県指定無形民俗文化財「一幡(いちまん)神社の御榊(おさかき)神事」の保存会長も務めており、二つの県指定文化財の保有者と貴重な存在であった。

 

世評通りの相良油田の高品質が目の前で立証され、丁度来訪されて後年牧之原市議会議長を務めた川島啓司さんは、運良く観賞することが出来て大感激であった。

 

※中東・インドネシア産原油などの重油質の多い「どす黒さ」と好対照であり、相良油田の原油は琥珀色(こはくいろ)と透明度が高く原油に占めるガソリン・ナフサ留分三十四%・灯油三十四%・軽油二十二%と非常に純度が高い世界一の軽質油である。採油したうち約二百CCを愛知県新城(しんしろ)市の植物・鉱物学者で、庫裏に博物館を併設していた歴史に名高い長篠・設楽原戦時の武田勝頼本陣であった医王寺横山良哲住職に謹呈したところ、噂の高品質原油を手にとり驚嘆していた。

 

ただし、令和三(2021)年4月訪問時は、「手掘り井戸小屋」は建設当初のままであり、30数年経て劣化して施設は、一部使用不能・原油サンプルは汚れと惨状の感があった。

 

 

機械油井坑跡

牧之原市菅ケ谷字新田の富田松夫さん所有の畑のなかに機械油井坑跡が残されている。

油井坑の鉄管は地上1.5メートルまで姿を見せており、上から覗くと原油の存在を確認することが出来た。

 

昭和六十(1985)年3月31日に所有者の許可を得て、河合周治相良町観光協会長とともに燃焼実験を行った。

タオルを巻いた竹棒を油井坑に入れて、原油を湿らせたうえマッチで点火した。火は赤々と燃え、途中で消火を試ろみるも石油分が皆無となるまで燃え続けた。

希少価値と危険性が紙一重であることを体感した。

 

令和三(2021)年4月訪問時は、安全管理のため鉄管は施錠状態に改定されていた。また、農作業中の昭和十一(1936)年生れの田形拓己(たくみ)さんに「幼小の頃は、時ケ谷の丘陵地に油井坑が林立しており、尊父は原油採油に携わっていた。

今でも、山の中に手掘り井戸跡の穴が残っている場所もある」との貴重な歴史を教示いただいた。

田形さんの話を聞いて、歴史書などに掲載されている「最盛期の相良油田の写真は、当地の姿」と確信した。

 

 

三枚碑

牧之原市菅ケ谷字時ケ谷の道路際高台の手掘り井戸跡に、中央に石坂周造・左に村上正局・右に山岡宗之助と三つの顕彰石碑が建立されている。

 

明治三十六(1903)年に菅沼平二郎・布施清市が、相良警察署長あてに記念碑建立願を提出して建立された。

石坂周造は、自身の石油事業が不振化した明治二十五(1892)年に相良を離れ、建立直前の明治三十六(1903)年5月22日に73歳で没し、墓所は東京都谷中(やなか)の全生庵(ぜんしょうあん)。

 

村上正局は、既述のとおり相良油田発見者であり、子息幸英とともに相良石油会社に関わり、石碑は明治二十三(1890)年に石坂周造により建てられ、肖像も刻まれている。

なお、子孫は静岡市で食品会社経営に携わった。

 

山岡宗之助は、石坂周造の子息で山岡鉄舟の長女まつと結婚、米国にて石油精製を勉学後に石坂周造を助けたが、実父より先の明治二十一(1888)年8月11日に37歳で没し、墓所は山岡鉄舟・石坂周造と同じ谷中の全生庵。

 

※山岡宗之助の石碑は、当初石坂周造が一時期天香閣と称して居住していた牧之原市波津の宝泉寺( 廃寺)に明治二十三(1890)年に建立されたのち現在地に移設され、村上正局と同様に肖像も刻まれている。

 

牧之原市民の知名度は高くないも顕彰者に優るとも劣らない活躍をされた人物に、「布施新助」がいる。三名と異なり地元相良町生れである。

布施勘兵衛を代々襲名の牧之原市相良の布施家の長男として天保十三(1842)年に生れ、分家を興して明治十(1877)年に布施石油を創業し採油・精油に携わり、翌十一年に石坂周造に大金を貸与(貸倒れ?)、次の年の坑山神社創建時は他の二名とともに境内地を寄進、更に明治三十(1897)年には北遠にて油脈調査中に、久根(くね)鉱山の銅鉱脈を発見し鉱業権を取得と大車輪の活躍ののち、明治四十三(1910)年10月2日に69歳で亡くなり、牧之原市波津の浄土真宗大澤寺(だいたくじ)に永眠している。

 

※明治十一(1878)年7月18日付の石坂周造から布施新助あて当時の大金「六、七七三円」の「借用証券」が、布施家に所蔵され相良油田資料館に寄託・展示 されている。

創業早々の八号井において、地中僅か22メートルで原油が産出し日産数石と幸運に恵まれ、これが貸与金の原資かも?。

 

貸与者宅に「借用証券」が所蔵されているため、石坂周造は借用金を未返済と判定される。

 

※久根鉱山は、浜松市天竜区佐久間町西渡(にしど) にあり、明治三二(1899)年より古河鉱業が大々的に銅を採掘し、民俗行事 で知遇を得た三井武雄さん・鈴木直一さ んも従事したが、昭和四十五(1970) 年に閉山となった。

 

子息で二代目の布施清市は、石坂周造と競合関係?にあるも「三枚碑」建立時は建設用地を用意し、四代目布施新助は昭和三十(1955)年代まで相良字新生浜(しんせいばま)にて精油所を操業しており、昭和五十(1975)年頃の三枚碑近隣道路拡張時も土地を無償提供している。

 

なお、初代布施新助姉みかの婿養子となった布施茂吉も別の分家を興したが、その三代目布施茂吉(岡田茂作)は明治四(1907)年頃に、布施商店の名称で「遠州相良菅山石油鑛山(こうざん)」などの「相良名所絵ハガキ」を発行した。

 

※「遠州相良菅山石油鑛山」は、歴史書・観光パンフレットなどに掲載される最盛期の明治十七(1884)年頃の手掘り井戸小屋が林立した写真。

 

また、三枚碑の近隣に居住の高塚末吉(すえきち)さんは、相良油田の伝承に熱意を燃やしていた。

昭和五十九(1984)年3月23日に訪問した際は、採油用具・自作の手掘り井戸小屋模型・相良油田から採取した原油瓶数本・東京の新聞社撮影の古い相良油田写真などを保有しており、拝見させていただいた。

現在、牧之原市史料館入口展示の手掘り井戸小屋模型も高塚さんの労作と推測される。

 

 

 

坑山神社

牧之原市菅ケ谷字時ケ谷の山腹に鎮座し、明治十二(1879)年に勧請(かんじょう)され境内に「相良石油會社坑夫中」の刻字のある手水鉢(ちょうずばち)も安置されている。

劣悪な労働環境のため明治七(1874)年から大正七(1918)年までに亡くなった二十二名を供養する「石油坑山遭難者之碑」が、境内に建立されている。

 

本来は、神社前方の鳥居の部分が参道と考えられるも、既に参道は消滅して雑木の生茂る山林に戻っており、現在は神社側面に細い道が設けられている。

 

昭和五十九(1984)年3月23日に参拝した際は、朽ちかけた祠(ほこら)・社殿であったが、宗教施設のため自治体の支援なしかつ明確な氏子組織のない悪条件にも拘わらず地元有志の尽力により、平成十四(2002)年に新しい社殿が造営された。

 

現況は、案内板もなく寂しい姿であるも、相良油田の地盤沈下のなかの一服の清涼剤であり、「社殿造営に携わった有志の方々」および「手水鉢を寄進した坑夫の方々」の行動力に感銘を受けた。

 

 

庄八屋敷跡

牧之原市菅ケ谷字時ケ谷の坑山神社近隣の畑の一角に、平成八(1996)年10月に「わが国石油機械掘り発祥の地」の石碑が建立された。相良油田発見の翌年明治六(1873)年10月15日に日本最初の機械油井が設置され、採油に成功した場所が、当地「庄八(しょうわ)屋敷跡」である。

 

公表されている新潟県の明治二十三(1890)年よりも17年古いことを示す新史料発見により、旧相良町が当該建立地部分の土地を買収し用意した場所に石碑が建立された模様である。

油井坑など石油を連想させる形跡が皆無のなかに案内板・石碑だけがポツンとあるため、近隣の坑山神社と対比すると素人目には違和感を覚えた。

 

 

 

深谷の油田(相良油田の発見地)

相良油田の発見地は、現在「深谷(ふかや)の油田」と命名されている。

見聞録の記述に際し、牧之原市片浜・大江在住の知己や商工観光課・建設課に「深谷」の由来名を打診するも謎であったが、明治六(1873)年12月の「石油借区坪数仕訳書」に「大江村柄沢(からさわ)深谷・柄沢大芝原・菅ケ谷村大知ケ谷など」と、また明治十七(1884)年5月の相良石油會社「民行鑛山(こうざん)志料取調書」に「大江村字大芝原及深谷ノ澤合ハ」と記述あり、当時の小字名に基づき命名していることが判明した。

 

「字海老江中字柄沢小字深谷」は、片浜・大江の境界地から大江側の谷部に位置しており、片浜の大磯原経由で数回訪問した。

最初の平成十六(2004)年2月14日訪問時は、広々とした茶園の片隅にある「深谷の油田」入口の小さな看板を探し当てることが出来ず、大磯原居住の大石敏夫さん・原間正之さんに当該場所を教示いただいた。

 

一人で看板から獣道に近い不気味な山道を約十分下ると辺り一面湿地帯となっており、「火気厳禁」の案内板の左側に「手掘り油井跡」、右側に「機械油井跡」があり、手掘り油井坑から「プツプツ」と気泡が湧き出るとともに機械油井跡周囲に石油特有の臭気が漂い、村上正局が発見時と同等?の興奮を覚え た。

 

明治期には、小字「大芝原」にも油井があ った模様につき大いに関心はあるも、具体的 場所が不明かつ探検家でないため勇気がなく 周囲の湿地帯探索は断念した。

大江の矢部輝夫さんが、昭和三十(1955)年頃に海老江を経由して訪れた際は、未だ油井櫓(やぐら)が残されていた由。

 

また、平成二十一(2009)年5月10日の訪問時は、茶園耕作中の徳原広幸さんに入口を教えていただいたが、油田跡は5年前と 同一状態であるも、湿地帯に足を取られて体が30センチ程泥濘(ぬかるみ)に沈み、足から離れた靴の回収に大苦労したことも体験した。

 

複数回訪問しても判り難いうえに、令和元(2019)年8月11日の牧之原市波津小堤山(こづつみやま)公園内の「本多相良藩主供養祭」参列の帰途に訪れた際は、近年訪問者皆無?のためか周辺は雑草が生茂っており、「深谷の油田」入口看板を探すことに手間取った。

 

持参した鉈(なた)を用い雑草を切り開いて山道を下ったが、深谷油田周辺の湿地帯は水害被災地と判断され、「火気厳禁」案内板を含め油田跡は水に埋まり、相良油田発見地の雰囲気は損なわれ荒湿地と化していた。

市民の見学は危険・不適格な状況であった。ただし、湿地のなかに「機械油井坑管一本」を確認出来たことが唯一の救いであった。

 

なお、海老江出身者に尋ねた結果、富田茂生さんは「子供の頃、家族に付いて柄沢池外周部の道を歩いて大磯原の畑に出掛けた際に深谷に立ち寄った」が、60歳代の方は「石油発見地が海老江は初耳」と明暗が分かれた。

 

海老江の採油事業は、菅ケ谷に比べ早々に撤退されたため、地元でも意外と知名度が低いことを痛感した。

一方、相良油田の事業化に伴い明治期に先進地の新潟県から移住して支えた方々の子孫が、大江や波津に居住していることを最近知り、歴史の重みを再認識した。

 

 

相良油田の里公園

相良油田油井坑の眼下に平成九(1997)年に公園が造成され、市民の憩いの場所になるとともに手掘り井戸小屋や「相良油田資料館」も併設されて、ジオラマ・石坂周造が布施新助から借りた「借用証券」などの関連文書・採油用具などが展示され、遠来の来訪者の思い出作りに役立っている。

 

特に、小俣容子さんら菅山クラブなどの協力を得て隔年毎に開催する「油田の里まつり」は、人気が高い。

榑林清二代目館長の時に数回参加したが、労作の「相良油田の紙芝居」・脱穀などに用いた旧式発動機の多数実演以外に、油井坑所有者の高塚勝之さんと前述の田中満太郎さんによる原油の採油・燃焼実演およびホンダカーズ牧之原黒子店の支援によるバイク走行実演があり、老若男女の来場者には初めて見る光景であり目を丸くして観覧して、時折歓声をあげて大好評であった。

 

※原油はガソリンとオクタン価等がやや異なるため、バイクに対しエンジンへの影響が若干ある模様。ただし、コロナ禍で最近年は休止されている。

 

 

学術調査など

➀昭和三十(1955)年頃の「御前崎・ 地頭方海岸現地調査会」に参加の折、地質学の権威者であった鮫島輝彦静大教授より「海 岸の洗濯板状岩盤の地下に、高品質の原油が 埋蔵の地層が存在の可能性がある」の解説が あり、子供心にもロマンを感じ今でも脳裏に 刻み込まれている。

 

②平成元(1989)年前後に、資源エネ ルギー庁・石油公団が、メタンハイドレート 解明のため御前崎市浜岡砂丘などに櫓を建て て、石油採掘用の基礎試錐(しすい)が実施された。

 

③平成十四(2002)年には、地下微生 物による有機物の分解・合成を明らかにすべく「相良掘削計画」として、菅ケ谷字新田の 富田松夫さん畑における新たな掘削実験や発見地深谷油田の原油採油が行われた。

 

マスコミ情報を含めて、専門家調査などの 三例を記したが、相良油田の将来が期待できるような調査結果は、残念ながら未だ耳にし ていない。

 

◎終わりに 漫画「Dr.STONE」に相良油田が登場し、注目・人気化している模様であり予想外の朗報である。

 

しかし、相良油田は、太平洋岸唯一かつ世界一高品質につき歴史遺産・観光資源としての価値は高い。一方早や操業停止後六十年以上経過しており関連史跡の衰退も著しく維持が容易でなく、保存・消滅の岐路にあると考えられる。

 

以前訪問した時は、機械油井坑跡・坑山神社など随所に案内板があったが、今回訪問時は欠落が目立ち施設の老朽化も散見され、周辺散策マップ片手の来訪者は困惑していた。

 

牧之原市波津の小堤山公園内の本多忠晴初代相良藩主墓所の案内板は、数年前より改善の提言をしようやく令和元年(2019)八月の供養祭直前に「本多忠勝曽孫」と補正されたが、 来訪者に歴史の真実が認知され「改定費用よりも補正効果は遥かに大きかった」と確信し ている。

 

牧之原市においては、昨今一過性の「田沼意次侯生誕三百年記念行事」がひときわ目立 ったが、「相良油田」は通年訪問出来て未だ観光資源として魅力十分であると思料し、市役所・市議会の行政・立法双方で関連史跡の 再点検・見直し可否を早急に検討されることを期待したい。

 

特に、相良油田発見地「深谷の油田跡」は、衝撃度抜群であるも前述のとおり見学不能状態かつ民有地であり、最優先で復興の方針可 否を決めていただきたいと切望する。

現在整備中の「勝間田城址」は山の中、「深谷の油田跡」も大同小異?、また「庄八屋敷跡」の石碑建設用地を相良町で買収の事例も ある。

 

なお、二年毎開催の「油田の里まつり」は、理科・歴史の知識拡大につながり子供の情操教育にも役立つため、市役所関連行事に格上げし開催回数も増加させれば、観光客を含めた来訪者増加の起爆剤になると推測される。

 

老骨に鞭打って耳の痛いことを含め、故郷への思いを込めて記述させていただいた。

 

参考とした書籍

相良町史 通史編 下巻 平成八年五月三〇日発行

相良町史 資料編 近現代 平成七年三月三一日発行

相良油田  川原崎次郎 ふるさと百話第九巻 静岡新聞社 昭和四八年五月一日発行 相良町文化辞典 中村福司 相良町教育委員会 平成五年七月二一日発行 郷土誌菅山 資料一 菅山郷土史研究会 平成九年11月1日発行 (投稿二〇二一年六月)