●華麗な落日に浄土を想う

 

平安貴族が造った平等院の鳳凰堂のきれいな建物の中には金箔に覆われた本尊の阿彌陀如来が座っています。

この鳳凰堂の窓が開いていて西日がさすと阿彌陀如来が輝くようにできています。

 

 つまり、自分が死んだら阿彌陀浄土に行けるようにという、平安貴族の願いがこもっているわけです。 

ただしこの場合はまだ浄土教も造形芸術的であって、思想的にはあまり大したことはありませんでした。

つまりお金があって平等院を造れる人はお浄土に行けるけれども、乞食のような人とか農民とかは行けない。

あるいは鳥を捕ったり、魚を捕ったりして暮らしをしている人、殺生しているものですから、ましてこれは行けないという、まだ素朴な段階にあったわけです。

 

 けれども面白いことは阿彌陀如来を信じていると仏教以前からあるインド思想そのもの、仏教の基本だった輪廻の思想が薄らいできます。 

これはちょっと困る思いがします。

お釈迦さんから離れてゆく思いです。

 

 ついでながら輪廻は釈迦以前からあり、釈迦以後の他の土俗宗教(ヒンズー教など)もすべて輪廻が基本になっています。

浄土教はその意味でもインド的なにおいが濃くありません。 

しかし宗教というものはそういうせんさくについても巍然としていて相対的な批判をこばむところがあります。

ともかくも阿彌陀経によって西方浄土ができたのです。

西の方に浄土がありますということになりますと、私どもはお浄土に行くだけです。

 

 行ってそこで極楽で暮らすということだけで、もう一度下界で生まれ変わり牛になったり、犬になったりする輪廻はしないことになります。

それが他の仏教の教説との大きな食い違いでしたが、あまりその食い違いを意識しないままで、平安時代は送りました。

 

 以下平安時代のもう一つの浄土教的風景を言います。

大阪に上町台地という、大坂ではただひとつの地盤堅固なところがあります。

上町台地が南北にナマコ型にありその北の方に大阪城があり南の端に古くから聖徳太子が造ったという四天王寺があります。

 

 この四天王寺は六世紀末の日本の、それも海浜の大田舎にしては壮麗すぎるほどの大伽藍でした。

大阪の市域のほとんどは、大和川と淀川が運んで来た土砂が沖積してできた土地で万葉時代はまだほとんどが海でした。

今の上町台地のナマコ型が岬になっていて、ナマコ型の西は万葉時代は渚でした。

ですから、今の心斎橋筋は海の底で、今オモチャ屋のある松屋町筋というのは、上町台地に並行して走っている古くからの道で、渚の線だったことになります。

 

四天王寺はその上町台地の南端にあり、唐、新羅以前、中国や朝鮮の船が着くと目の前に「すごい建物がある、日本は思ったより文明国だ」そう言わせるためのものだったと思います。

飛鳥、奈良朝のころの日本は対外的にはずいぶん見栄っ張りでした。 

 

 ところで四天王寺は平安時代に入りますと叡山の管轄下に置かれることになります。

叡山の末になったのです。教学的にも当然天台教学になりました。

 

 ところが四天王寺の坊さんを眺めていますと室町ぐらいになると、半分ほどは浄土教でした。

叡山にも阿彌陀経がありますし阿彌陀思想がありました。叡山というのは西洋風に言うと大学ですから密教学部もあれば顕教学部もある。顕教学部の中に法華経学科もあれば阿彌陀経学科もあれば禅学科もあるというようなものでしたから、四天王寺に浄土思想が入ってくるというのは当然です。

 

 室町時代大阪のナマコ型台地はかたい岩山で、水域は無くネギが植えられた程度で水田はありませんでした。

自然、この丘上に人家はほとんど無く四天王寺が孤立して

いる感じでした。

四天王寺はそういう寂しい丘の上の伽藍でしたがただ、見晴らしはすばらしいものでした。

特に四天王寺から西を見ると、大阪湾越しに今の神戸の一ノ谷が見えたのです。

今はスモッグでだめですが水蒸気の具合とか、色々な具合でそうなるのか一ノ谷に沈む夕日が、ちょうどマニラ湾に沈む夕日のように綺麗だったのです。

 

 それで四天王寺は室町時代、゛お寺のくせに゛ 春分の日にストンと鳥居の真中に夕日が落ちるような位置に石鳥居を造りました。

今でも西門の石鳥居にストンと落ちます。 そしてお坊さんがその日没ごとに「日没偈」という節のいいお経をあげています。

 

 鎌倉期から室町期にかけて色々な国からこの土地の落日を見つつ「日想観」(じっそうかん) という瞑想の行をやろうと集まって来ました。

落日というのは華やかですけど西方に沈んでいく。

まことに華やかで明るくもあります。

古来、人間は、東は暗く、西方は明るいと思っています。

 

落日はその西方浄土に沈んでゆくのです。

それを見ながら阿彌陀浄土を想うという行があったのです。観というのは天台教学の中での行の部分で一番大事なもので、瞑想という意味ですが、四天王寺がその「日想観」の名所になったわけです。 

そうしたら、ああいうへんぴな所に、特に春分の日、人がいっぱい集まるようになりました。

室町時代にすでにそうでしたから浄土思想がいかに盛んだったかがわかります。

 

→講