立ち止まったら 寺へ来られよ

  ~無い頭を絞って一處する 御差支え無し ご注文無し~

 

がんばろう俺、がんばろう私、気張っていくのは我のこと

 

古来より寺に入るということは「無常」に触れ、諦観を味わい今ある命の始末をつけるための人生一大事であったことは

いうまでもありません。
始末をつけるとは生まれ出た命を「我がまま」に放置することでなく「大事に生きぬく」ことです。
いってみれば自身の命に責任を持つということでしょうか。

 

開祖親鸞聖人以来、当流中興の祖、蓮如上人から戦国時代にかけて一気に開花した浄土真宗はそれまでの修行者自身に向かっていた「行」の概念と仏の教えを外に向かって発し、多くの人々の中で自分という個を確立し成就させていきました。

拙僧はそのような周囲の、人・物全て(同朋)と一處~阿弥陀経~して生かさせていただくのが今であるのだという思いで日々何とか過ごさせていただいておりますが、何かしなければいられないという気持ちもあってこのページたちを記しています。

 

※勿論「がんばる」は「頑なに(意地を)張る」ことではなく、また巷で見かける「がんばろう日本」の様に漠然と経済界やら国家を代するものでもないと思います。

しかし私は他者に向かって「がんばって」と言わない別の言葉を探しています。醜悪な語とはいえませんが、重荷になりかねません。励ましの言葉のワンパターンはどうしても気になります・・・。 

まず気張って生きなきゃならないのはまず自分なのですからね。

 

「勝ち負け」」をいたづらに意識してしまい、壁に当たって心挫けた人に向かってただ機械の言葉のように『頑張ろう』 と は甚だ不親切と思う今日この頃です。

 

 

肉食妻帯とお酒

 

真宗宗祖親鸞聖人から私たちはフツーに暮らす皆さんと

「一所」の坊さんの姿を求めてきました。

いやそれしかできようも無いのだという表れと思います。

そもそも当流には戒律がありませんのでお酒もOKです。

(ただし小生は「からっきしダメ」の類)

寺の門前には結界石(戒壇石~不許葷酒入山門~くんしゅ

さんもんにいるをゆるさず) は設置されていません。

どなたでもお参りください。

 

※ 戒律が無いから戒名と呼びません、仏の名は「法名」です。

※ 戒律が無い理由は戒律を授かっても守りきれない我身ですから。

 

法名の「愚楔」は勿論自分の思いつき。

宗祖への憧れですね。

存命中はコレで行きたいと思っています。

命尽きたら次代に適当に息子におまかせしています。 

墓石には刻んでしまいましたが最近は自分でも恥ずかしいことをしたものと後悔していますので代々つけられている「祐」の字と私の名の一字「光」で「祐光」となりましょう。刻み直しですね。