信忠付河尻肥前

ドイツ、メルケルの先日の演説は鬼気迫るものがありました。

爆発的感染者数の増加に「努力は不十分だった」としその深刻化する状況を国民に伝えていました。

どうしても記憶に残るガースー君の言葉として対応について「考えていません」の能天気振りの憎らしさが頭にこびりついています。指導力の差は歴然です。

 

ドイツの現状、日々1万人~2万人の感染者の状況にはまだ至っていないにしろ、せめてトップにある者は「このままいったら何か手を打つ」と最悪ロックダウンもやっちゃうよ・・・くらいのメッセージ、アナウンスは出ないものかその差というものを嗤います。

 

「Go To とりあえず中止」のカードがようやく出て来たのですが、昨日も過去三番目の感染者を発表して東京は最上位の警戒ラインといわれています。

知事殿のパネルを持ってのメッセージもマンネリ化してインパクトなしの「やってる感」だけ。

私も馬耳東風の、いや馬といえば念仏か・・・の感じ。

 

次のカードは何が残る? 「緊急事態宣言」「ロックダウン」に「法改正」・・・はたまた傍観? 付け焼刃で対応するのでしょう。

どちらも世論に押されてのことばかり。

ガースー君は支持率が下がると何か動きますので、やはり世論から何かぶち上げないと。

 

私が今どうしても可哀そうすぎると思うのはやはり医療従事者の皆さんですね。

これから年末年始の休暇シーズーンとなりますが、お休みなど取れないでしょう。

仕事が仕事だけに疲労度はオバーペース、たとえ「もうやめた」と言ってケツを捲られたとしても仕方ないレベルです。

医者にすべてを押っ付けた咎はこれからやってくる・・・?

病床数を「増やせ増やせ」といわれても、介護・看護・医療はもはや限界近く、「誰が看ていくの」と私でもその構図はわかります。破綻が近づいていることも。

広島では「医療崩壊し始めている」の声があがりました。

 

さて、昨日は黒母衣衆筆頭、信忠に付けられた与力の河尻秀隆の設楽原での張り切り振りについて記しました。

河尻秀隆は信長の懐刀として信長の出世街道に付き従った武将でその戦績といえば信長の意向を汲んだ優等生振りです。

 

弟の信勝を騙し討ちして盤石態勢を整えた時も、あの桶狭間でも先陣を切ったといいます。

通説今川義元に斬りつけたのは服部小平太に毛利新介といわれていますがこの「河尻秀隆がやった」という説もあるようですし。

 

 

美濃猿啄城を落城させて勝山城に名称変更をしたのも彼といい近江湖東の西明寺を焼き払ったのも彼。

信長常勝の一翼を担ったわけですが、信忠成長につきその補佐に廻り、特に信忠の対武田戦の戦線に同行します。

ほとんど若造の信忠はおしるしですので、計略その他戦法は彼の手はずだったでしょう。

 

以後の岩村城でのむごたらしい惨状も彼が関わっていてその落城後は岩村の城主にあって対武田の先鋒として甲斐征伐を計る筆頭たる位置にありました。

 

設楽原戦から7年後の甲州征伐での戦働きでは武田家を殲滅、勝頼父子を討って滅亡に追い込んでいます。

武田家殲滅ということで信長からすれば最大功労者。

甲斐22万石と信濃諏訪を領する大名に登りつめ躑躅ケ崎に入ったといわれます。

 

躑躅ケ崎の近くの住宅地の隅に彼の首塚がありました (場所はこちら)。石碑は肥前守の間違い。看板の方が正解。

彼が殺された理由を想像するに、本能寺以降の甲斐争乱を甘く見ていた感がありますね。

推測するに武田方残党の「揆を一にする」恨み爆発があったのかも知れません。

事物には「流れ」というものがありますが、圧倒的な「勝」を続けていると心に隙ができることは言うまでもないこと。

それを人は慢心とか驕りと呼びます。

 

その恨み骨髄の武田残党をこつこつ拾って懐柔していったのが家康でしたね。

潰して滅ぼすだけでは人の心を治めきれません。

 

先日は体重30㎏にまで痩せて餓死したといわれる親子について報道がありましたが、毎晩会食、時に一晩に2度も会食に赴いて7万円のステーキを食するというガースーくん。

海外報道でも「棚ぼた」(ソーリ)と呼ばれて皮肉が飛び交っているとのことですが河尻秀隆の墓碑の看板の如く「餓死するなら・・・いっそ」と民は蜂起する・・・というのが以前の手法。

しかし現代ですよ・・・「餓死」など語を聞くことになったとは驚きです。

限界に陥っている人々はたくさんいるのにね・・・誰も手を貸すことができないのでしょうか。冷たい社会に成り果てました。

躑躅ケ崎 円光院 信玄塚との位置関係