マディソン郡の橋

東京ゲートブリッジなる橋ができたとのこと。東京湾の「新名所」と仕立てる様です。恐竜(鉄の化け物?・・・)をイメージしているともいいます。

さて橋つながりで先日見た映画の中の橋(ローズマンブリッジ―屋根付き橋)のお話です。勿論実在する橋で、構造物といえど、とても温かみある風体で多くの人をひきつけ、やはり映画封切のあと名所となっていると聞きます。

この映画の主人公のC.イーストウッド は言ってみれば小生の幼年時代からのスーパーヒーローです。私がハリウッド映画にはまり込むきっかけでもあった「ローハイド」は当時父親が購入したナショナルの白黒テレビから放映された大好きな番組でした。子供の頃の私のテレビへの感慨はその前に鎮座して釘付けになった「ローハイド」と「ララミー牧場」にあったことは紛れもありません。

そのローハイドのロディ・イェーツ役がC.イーストウッドです。

その後、イタリア系ウェスタンの数々、そしてアメリカに戻って「ダーティハリー」シリーズとわれらの成長に合わせる様に華々しくヒット作を連発しました。

ハリー (ハリー・キャラハン刑事は「ダーティハリー」の主人公の名であり

偶然にも今回見た「マディソン郡の橋」の主人公キンケイドの愛車、ピックアップトラックの名前でもありました・・・どうでもいいことですが車へ

人のように名前を付けることに馴染みが無かったもので~原作~)

 は、勧善懲悪の人間味溢れる超越したニヒルでスペシャルな英雄でした。

今風に言えば「超クール」です。 まさに僕らの不変の、忘れられない

ヒーローそのものでした。

私はこの「マディソン・・・」が封切された頃(1995年の9月)を勿論覚えています。映画紹介には「大人の愛」だとか「究極の不倫」「悲恋物語」とかいう言葉が踊っていました。それらの言葉の羅列は当時の小生の思考回路からはまったく興味をひく言の葉ではなく、むしろハリウッド映画というカテゴリーからその手の映画があった場合、小生の脳内から自動的に除外されておりましたのでイーストウッドが監督主演という映画であったにもかかわらず積極的に見ようという気持ちがまったくおきませんでした。

はっきり言ってこの映画は彼の多くの映画の中で一番隅に置かれていたものだったのです。あのイーストウッドに「何やってんだ」というような半ば反目した気持ちをも抱いたりしました。

しかし今冬、たまたまこの映画に出遭うことになってそれらの考えが一気に一掃されたのです。

今回の映画との遭遇と色々な思いはなんとなく回したTVのチャンネルでこの映画が流されていたことからはじまります。

どうでもいい時間つぶしのつもりだったのですが(それも始まって20分ほど

経ったあたり・・・キンケイド~イーストウッド~がフランチェスカ~ストリープ~に橋への道を尋ねるシーンから・・・)

そのイーストウッドがいつもの調子とまったく違いました。

彼の肉体的な強さはそのままでなおかつ紳士的で知的、言葉を選んでの

会話、まさに役に徹した繊細な演技力で、ついこのストーリーにのめり込んでしまったのです。

お相手はメリル・ストリープ、実は以前飼っていた雌猫に学生時代見た

「ディア・ハンター」のメリルに魅せられてその名を付けていました。

なるほどその二人の「出遭いと別れ」であると簡単には言うことはできます。しかしさきほど並べたこの映画に与えられた形容と私の受けた感じとはまったく異にしました。

そんな軽薄な形容ではイーストウッドに申し訳ない。敢えて記せば

「人間の成長と変化」「変化と不変」と坊さんらしく難かしぶって記させていただきましょう。

この映画についての私の感じたことをいつもの友人(岩村城ツアーを共にした=「奥の墓道」)に話すと「齢を重ねたせいだ」と云います。

やはりそうかもしれません。


 これが見る方の「変化」です。 主人公も役者も映画を見る方もそれぞれの「老い」という現実的な「変化」と戦っているのだと思いました。

「ホントかよ」というようなストーリーで「そんなこともあるかも知れない」と少しばかり強引な展開。二人の演技力の素晴らしさもありますがイーストウッドの監督演出力も気になりましたのでまず図書館で原作を借りてきて一読してから今一度今度は最初から映画を見ることにしたのです。

人間は死んでいくもの

一連のストーリーを一言でいえば「変化」です。すべてのことが変わっていく。なんだか「当たり前のこと」と思われるかもしれませんが、そのことになかなか気がつかないのが人間なのですね。われら皆、しっかりそのことは知っているくせに本当は惚けているというのが実情でしょうか。

 ここではアイルランド系のキンケイドとイタリア系のフランチェスカが共通の話題としたイェーツの詩が情緒的知的空間を醸し出します。

(そもそも「アメリカ合衆国」は雑多な人種が混ざって構成されていますので○○系という風に出身地を敢えて記そうと思えばできるのですね。先住民はネイティブと呼ぶようですがすべて米国人です。日本とは国の構成と感覚が違います。以前日本の「偉い方」がアメリカ大統領に向かって白人とそれ以外の人種雑多のアメリカのことを「大変」と同情するかのごとく発言をして失笑をかっていたのを思い出しました。

 

The Song of Wandering Aengus<さまようアンガスの歌>

 

私は頭が熱かったので
はしばみの林に出かけた。
そして はしばみを切り剥いで棒をつくり
いちごの実を糸につけ、
白い蛾が飛び
蛾のような星がきらめき出す頃
いちごの実を流れにおとして
銀色の小さな鱒をとらえた。

それを床に置くと
火をおこしにかかった。
しかし、さらさらと床に音がして
誰かが私の名を呼んだ。
それは 林檎の花を髪にかざして

ほのかな光を放つ少女になっていて
私の名前を呼んで駆け出し

そして夜明けの光の中に消えて行った。

私は盆地や丘の起伏を
さまよい、歩きつづけて年老いてしまったが
彼女の行方をつきとめて
その唇にキスして、その手をとりたい。
丈の高いまだらな草地を歩きまわり
時がついに果てるまで
月の銀の林檎と
太陽の金の林檎を摘みたい

              

詩人イェーツのこの詩を共通に口ずさめるほどに認知してその世界に浸るなどという出遭いは砂漠の中で1本の針を探し出すがの如くでしょう。

しかしそんな奇跡的遭遇も長い人生の中で、もしかするとあるかもしれない・・・その詩自体がこの物語を示唆しています。

原作者はこの詩を彼なりのストーリーに組み立てました。

 

世の人はどうやらどうしても「ラブストーリー」の範疇に押しこめたいようですが、私はその中の「さまよい歩いて年老いてしまった」の言葉が強く心に残ってそれらの修辞(不倫・・・)に違和感さえ覚えました。

ロマンスに憧れたり感激することには「積極的に受動する」というのが人間の本能でしょうからそれは致し方無いことにしろ、私は「人は必ず老いて死んでゆく・・・変化の中で生かされている」という「消極的な受動」が見過ごされがちになっていることに気付くべきだと思いました。

 

原作とイーストウッドの脚本とは微妙に違います。

なかには台詞まで正反対だったりするところもあります。(アイスティーに

砂糖を入れるかのフランチェスカの問いかけに対してキンケイドの

応えは原作は「ノー」であり映画の方は「シュア!」の様に)

何より映画の導入部分が「葬儀」に再会したフランチェスカの子供たち

(姉弟)の場面からでした。

冒頭に人生のエンドともいえる葬儀から入る手法はイーストウッドの「グラン・トリノ」にもつかわれていましたし「死」というものをまず前提に語ろうという感覚はアメリカ映画ではよく目にします。

イーストウッドは現実のわが身に迫る「老い」とストーリーの中の主人公たちに否応なしに迫りくる時間の流れと翻弄されるそれぞれの人生についてリンクさせています。

そこのところが彼ならではの映画であると唸らせるのでしょう。

 

死をまず前提として描くといったスタンスはいかにも仏教的と思います。

それはまず「死があって(あることを理解して)生きている」からです。

「グラン・トリノ」では最期はやはりまた葬儀で終わります。

遺産相続弁護士が来て遺言書を読む場面も「マディソン郡~」と同じでした。アメリカでは死に際して粛々と人生の「戦後処理」を進めるためのイベントなのでしょう。また私は「マディソン郡~」の終盤の映像に、濡れ鼠で髪の薄さが際立ってみすぼらしい姿をさらけ出したイーストウッドが立ち尽くすシーンがありますが、とても強烈で象徴的でした。かつてのハマリ役だったガンマンや刑事、軍隊の曹長の姿はありませんでした。老いというものを恥と思わずさらけ出す役者根性も彼の鋭い達観とも感じました。この映画もやはり「遺骨の散骨」という葬儀後の儀式、それもアメリカ人にとって少しばかりショッキングな形で終わります。

(キリスト教圏では土葬が一般的でそもそも火葬はしません)こじつけるわけではありませんがこれも仏教的です。~他の生き物たちと同様にわたしも自然に還っていく・・・

 

勿論残った子供たち姉弟は現在、それぞれの家族の悩みを抱えていましたが

フランチェスカの真摯な生き方と今まで知りえなかった愛する母親の

心の深層に触れることができそれぞれが抱えている悩みに結論を出して

新たに道を歩み始め、より前向きに生きていく指針を見つけることができたということを連想させるエンディング でした。

「変化」の示唆

イーストウッドは歴史が好きです。古いものが好きです。きっとそうです。彼そのものが近代アメリカを象徴するかのような「歴史」でしたから。

彼は他の民族であっても彼なりの尊敬の念を持って描き出します。

善もあれば悪もある。皆同じ人間であると・・・

彼は今年たしか齢82歳に。まったく彼と一緒に育てられた私も信じられないほど年を重ねました。驚きです。

 このストーリー展開で活躍するのが古くて温かな味わいのある橋と「Nikon F」という一眼レフカメラでした。前述の「グラン・トリノ」でもそのタイトル通り グラン・トリノという72年型フォード車を通して「古いもの」の素晴らしさと、それにまつわるアメリカの今を描いています。

それらを見て古いもの、昔の考え方と言われてゴミ箱に叩き込まれかねない様な事々に関してますます大事に残すべきものは多く残し大切にしていこうという物や人の生き方への愛着が呼び起されます。

また映画では「Nikon F」用のフィルムについての場面が印象的でした。

デジカメ全盛の時代に懐かしく思った方は少なくなかったと思います。

コダックはつい先日、米国連邦破産法第11章(日本の民事再生法)の適用を申請したばかりです・・・。

その大量のフィルムをキンケイドは異常な暑さから守るためフランチェスカに伺いをたてて彼女の家の冷蔵庫の中に入れました。

あの黄色のパッケージはまさしくコダックでした。(たしか原作にはこのシーンはありませんでした)ここで私は監督の意図していない一企業の栄枯盛衰という「変化」を見てしまいました・・・。

フランチェスカは毎日、同じような「変わらぬ」生活の中で子供たちの成長についてある種の不安をキンケイドに語ります。「子供はもう子供じゃあない 子供は変わっていく」と・・・世の親たちのだれもが遭遇する違和感です。特に日常の些事におわれて漫然と日々を過ごし、鬱憤を微かに抱え、しかし抑えながら生活をおくる主婦たちは、仕事にかけ廻る夫の方よりもそれを強く感じるのかもしれません。

その言葉に対して子供を持ったことのないキンケイドは

 

 「子供はいいものです。 変わっていく ? 

            それが・・・ 自然の法則です  

   変化を恐れずこう思うんです・・・。

   『 すべて変化する それが自然なのです 』

                  かえって支えになります」

 

と。ほっとさせられる言葉でした。

人間というものは元来、変化を嫌う生き物なのですね。

変化することこそが「自然」であるのだと「受け入れましょう」ということです。

また、わたしたちがよく使う「夢」についてキンケイドが語ります。

 

  「昔の夢はいい夢だった。かなわぬ夢ではあったけれど、               

                                                 夢を見られたのは幸せだった」

 

変わらぬ夢を見続けることは大いに素晴らしい、だけど夢はまず大抵は

かなわぬもの、しかしその夢が見られたことだけでも「幸せ」だったと。

ここでも「幸せ」の一つの 答えをいただいた様でもあります。

先日静岡の講演で聞きかじった

「仏教ではすべてのことが変化すると。

   しかし(矛盾するが)、変化しないものもある 

        それは 生死無常 業縁存在である」

の談が想い起こされます。

数少ない不変のものが「迷い」であり、また「変わるという概念」

であるというのはなるほどと思います。 

それはいわば人間だけが持つ「不変」の特権です。

変化するから逆に面白いのです。それが「安心して迷う」ということ

でしょう。ある意味「人は老いて(死んで)いくから面白い」と・・・

変化と不変そして「自然の法則」。

人間に生まれてきた喜びを久しぶりに感じることのできた1本でした。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    ロバート キンケイド (日曜日, 18 11月 2012 00:34)

    この映画と出会い、キンケードが死ぬまで連絡を取らなかったことに疑問を感じ、何度も映画を観て、原作を読み、人生経験を重ね、最近になってようやく少しだけ理解できたような気がします。
    クリント・イーストウッドが演出したフランチェスカのご主人の最後のセリフが、「人の仕合わせとは何か」を見事に描いているのではないでしょうか?
    真実の愛を感じずに終える人生なんて・・・・・・・

  • #2

    今井一光 (日曜日, 18 11月 2012 08:14)

    ありがとうございます。
    キンケイドはどうしても成就することができなかった、
    しかし彼の人生終盤における最大の思い出として
    そのまま静かに終焉を迎えたわけですね。

    私もあの場合に「以降何も連絡せずに」そのまま死んでいけるか自分に置き換えて考えました。
    やはりこれは思い悩む点ですね。

    「諦め」の点はどこかでつけるでしょうが未練というものが残って熟成し、ちょこちょこ手紙などを送ってしまうかもしれません。
    しかしそのことによって彼女が再び戻って行った大切な
    「家」を壊して結局は彼女自身を傷つけてしまうことになることをキンケイドは判っていたのでしょう。
    自分を捨てて相手に心を配ることも究極の「愛」なのですね。
    自分の我欲が際立つ世相にあってとても清々しく感じました。
    そこのところも作者は訴えたかったのではないでしょうか。