實如さんと証如さんの墓 本願寺(お西)管理の墓地

本願寺八代の蓮如さんは子だくさん。

他宗派の高僧たちから言わせれば「女たらしの生臭坊主」と呼ばれるかもしれません。

妻の死別が重なって(4度)5人の奥さんが来たことが最大理由ですがあの時代にあって生涯に子供が27人(男13人・女14人)は凄すぎました。

子供が多いということは奥さんだけではなく子供たちの早世という悲しい経験も多々あってその落胆を乗り越えての布教だったのでしょう。

 

蓮如さんが真宗中興として宗派を拡大し親鸞さんに次いで敬意を注がれているのはその子供たちが散らばってその教えを広めたことが大いに関わっているでしょうね。

 

日本史上、この八代蓮如さんから十一代顕如さんあたりの時代を大雑把に戦国時代というのですが、蓮如さんの時代に起こったのが世に有名な加賀の一向一揆。

宗派としてはその一揆の主導は「蓮如さんではなかった」というのが主説ではありますが、そのあたりはあくまでも歴史の中の闇の部分です。ましてや部下の暴走についてリーダーが「知らなかった」では済まされないというのが現代風感覚ですからね。

 

というのは「一揆」=為政者への武力抵抗・・・言い換えれば戦争・・・仏教的に言えば「殺生」やむなしの自我欲求達成のための実力行使であって本来的に否定されるべきものですから。

蓮如さんの場合はその意思が組織末端に通じなかった事についてうかがわれる書物があってあくまでも「配下の暴走」の線が有力ですが、その子(五男)の九代を継承した實如さんの時代は仏の教えと一揆(人殺し)のダブルスタンダードは公然当たり前の時代になりました。

 

世の下克上の戦乱時代に為政者、実力者と組んで押し寄せてくる大波小波を乗り越えて教団を維持していこうとする形振り構わぬしたたかさが必要になっていたということです。

既に蓮如さんの後半生あたりからは宗教界からの念仏への弾圧が衰えてきたのは本願寺が強大化しもはや本願寺への弾圧者は各地守護等為政者か本願寺をバックアップしてくれる勢力の反対勢力となってきます。

 

實如さんが重点ポイントとし協力したのが管領細川政元でした。政元は細川家最大権勢を誇った勝元の子で實如率いる本願寺が彼に寄り添うのはいわば「寄らば大樹」であって致し方ないところですが、政元の意向に従って各地で「一向一揆」を起こしています。

こうなると勢力争いの駒として門徒を阿弥陀如来の元に集結させて動かすということに何らの躊躇もなくなったということ。この實如さんそして彼の孫の十代証如さんそして十一代顕如さんまであたかも戦国大名と見まがえる勢力の拡大、大きな発言権を得るようになります。

 

その辺りの件は以前にも記していますが、宗教的というか宗祖親鸞さんの意思とは違えますので本山関係者はあまり触れたくない歴史なのでしょうね。

しかし時代は戦国、生き残りを賭けての日々、選択を間違えたら滅亡一直線の時代ですから。

組織が大きくなったらなったで大変です。

 

それでも實如さんは細川政元が暗殺されてから山科本願寺を追われて堅田の本福寺(本福寺跡書」)に逃れるなど決して順風満帆ではなく苦渋を飲んでいます。

以降本願寺もギリギリの綱渡り的危機はあったのでした。

後継した証如さんも実如さんの弟、証如さんの母方の祖父蓮淳の後見を受けて十代を継承しましたがその件かつてブログでも記しています。

 

山科にはその本願寺九代十代両名の墓が隣り合わせにあります。円墳形式ですね。

管理は本願寺山科別院(お西)の墓地内にありました(場所はこちら)。

 

⑦画像2つの大木が塚の目印。右が實如さん、左が証如さん。

その後十一代顕如さんの頃には信長の天下布武を邪魔するほどに本願寺は大きくなっていきました。

 

最後の画像は墓地境界道路側に掛けられた看板。

管理者の名が記されています。

その際の意図としてはその駐車禁止の看板の前に堂々と駐車する車両が滑稽に感じたところ。