農村の団結 堅田の全人衆(まろうどしゅう)

親鸞聖人以来八代蓮如さんまでの本願寺は多難困窮の時代であって開祖の法灯を維持するのみの躰が微かに残るのみ、親鸞聖人が残した宗旨を強く布教して門徒を集めていくという状況にはありませんでした。

現状、寺の立場としては比叡山延暦寺の末寺である青蓮院のそのまた末寺というただの庵に近いようなお寺だったと思います。

 

そういう状況の中、蓮如さんが出て一気に真宗は開花するのですが上記の如く本寺―末寺の関係のしがらみは金銭的(上納)のものから宗旨の違いという根本的な反目になっていきます。

 

蓮如さんの教えというものは殆ど現在の真宗の教えと同様で、ぶっちゃけて言えば「親鸞教」の踏襲ですね。

男女が平等だの一向専念無量寿仏(阿弥陀仏)だの悪人正機だの平生業成(生死かかわらず成仏―勿論修行の大小有無にかかわらず)を大声で外に発すれば当然に既成宗教界との軋轢を生じることになりましょう。

 

宗旨への執拗なプレッシャーを受けて蓮如さんは比叡山に上納を停止しますし、そうなればますます延暦寺は怒り心頭です。

蓮如さんの教えが市中から畿内北陸方面ににブレークしつつあり立場上看過できなかった比叡山は僧兵を繰り出して本願寺を威圧します。

 

寛正六年(1465)は遂に暴力的破壊行為に及び(前後2回―寛正の法難)本願寺を破却したうえ、「仏敵」と罵って蓮如さんの命を奪うべく追手を差し向けました。

 

以降4年間、近江琵琶湖の南西岸、比叡山とはそう遠くない地に居所を替えながら布教活動を続けたそうです。

時は応仁の乱、京都周辺は無政府状態、比叡の僧兵もほとんど強請たかりの衆と化して門徒を迫害し、しつこく蓮如さんを探索し続けました。

 

その逃避行で比叡山の所領でもある近江堅田(かただ)は蓮如さんの活躍の場でもありました。

近江堅田(現大津市)は中世より琵琶湖水運の要衝で自治都市として名高い「堺」や「今井町」の如くの外部支配を嫌った土豪氏族の殿原衆(とのばらしゅう)と地元漁師・海賊・農家・商家・大工・手工業者の全人衆からなる自治組織(堅田湖族)を形成しました。

 

それ以前の畿内の農村は中央から広がった輸入貨幣(中国の明)を基盤とした経済観念が普及しつつある頃で、富と蓄財による階層化が進んで「惣」や「惣村」と呼ばれる農民共同体的組織が編制されるようになりました。

そうなると支配者層に対して納税、課役の要求に対して従僕であり続けることへの疑問も自然発生的に出現して、「一揆」という表向きで露骨な「抵抗」という態度の表明を重ねていった時代に突入していきます。

 

正長元年(1428)の飢饉に対して「徳政」を要求して近江・山城から始まった「正長の土一揆」は瞬く間にその風潮を畿内農村に万延させ、無理難題の要求には「抵抗するものである」ことを全国的に植え付けていくきっかけとなりました。

  

徳政の要求は年貢等、税の減免が主たるものですが、当時の税金徴収の一種で幕府等支配階層が度々徴収しようとしたのが「段銭」(たんせん)や「棟別銭」です。

「田畑一反あたり何文」「家屋一棟あたり何文」いう形で徴収される、支配者がたまたまおカネが御入用になった時のみの臨時税だったものですがこの頃は恒常的になってそれも毎度毎度、幕府やら公家・官僚・奉行、そして大寺社が入り乱れ中間で税を上乗せたり私的な段銭を課するなどの収納体制を作ろうとしていました。

 

取る方は各種枝分かれして「よこせ!」と言って来られても取られる方は毎度変わりませんので、これではたまったものではありません。

今の日本は「消費税8%」がほとんど確定的な様ですが、他の各種納税額を併せても当時の強奪収受的納税義務とは比べものにならなかったでしょう。

ほとんどの場合、金銭での支払いができませんので期間を決めての雑役となります。農家としては働き手を取られて大打撃となりました。

 

そのような中、農村に団結が生れて「土一揆」を重ね、「やればできる」という自信がついて反抗精神が芽生えたころに「みんなおなじ―同朋」という親鸞の教えを引っ提げて近江にやってきたのが蓮如さんの御父上存如さん。

後に蓮如さんが北陸から畿内に真宗を飛躍的に広めるその下地を築きました。

 

土一揆で団結力の有効性を知った農村や全人衆はその拠り所を「南無阿弥陀仏」に、より強固な団結と協力的組織を編成し、支配階層に抵抗していったのが世にいう一向一揆でした。

 

画像は近江堅田の夕陽山本福寺(現本願寺派 場所はこちら)。

蓮如さんが比叡山の追及を逃れて匿われたのがこのお寺と言われています。当地での真宗布教の中核寺院となりました。

 

こちらのお寺も比叡山の僧兵の手で堅田の町とともに焼き尽くされています。