昨日は奥方は事務仕事。
よってヘルプ無しで静波墓園、連休前の一仕事です。休日は処理場が稼働しませんからね。
一日1回戦が限界・・・は当然、伐採しての積込みの一人仕事は結構に体力が消耗して途中ヤル気が失せました。
積載物は大きく伐ったものを積み込んだのち荷台に上がって、さらに適当な大きさに。
これは受け入れ側の伐採物の長さに制限があることと、ある程度枝端を落として小さくしておかないと空間ができてしまい効率よく積み込むことができないという理由があります。
途中荷台三方にコンパネのアオリを設けますがそれは荷台への乗り降りのストレスになります。
奥方がいれば私が荷台に乗ったまま、下から伐採物を引き揚げて作業するだけですからそれは何とラクなことか。
結局効率の悪い仕事でした。尚、処理場代金は1020円。
処理場から帰ってがらチェーンソーの手入れ、シャワーから出て面白いニュースを奥方から聞きました。
GWの海外旅行者の件、繁盛とのこといわれていますが、この円安(156円後半-36年振り)で「よくもまぁ・・・」と。
海外旅行に行けるような身分、余裕が無い者の嫌味の類ですが、ある家族四人が「ホテルの気の利いた朝食」を愉しんだあとの会計の件、「3万~4万かかった」という嗤えない話でした。
あまりに高額と思えるサービスに日本を発つ際おにぎりやカップ麺を持参するなどの例もあるとのこと。
植栽の伐採の方が余程「ストレスは軽い」とニヤニヤ。
「よくもまぁ・・・」と私もまた呆れたところ。
それでも円安世界に行くのは自由、良きご旅行を。
表記「よきひと」といえば当流では親鸞さんから見た法然さんのこと、あるいは「善知識」ですね。
そこのところ特に歎異抄2条の記述が有名です。
「~親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
~いづれの行もおよびがたき身となれば、とても地獄は一定すみ
かぞかし~
~詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。
このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんと、またすてんとも、面々の御はからひなりと 云々」
宗教二世なる語があの路上事案以来聞かれるようになりました。いろいろ「因果」というものについて示唆されているように思わされるところです。
しかしながら親が傾倒している何かに子もそれに倣うことを強制するのはたまったものではないでしょうね。
私であっても「冗談じゃあない!!」とやはりそっぽを向きたくなるでしょうね。
とその言葉を言い放つ「宗教十五世」の私がいます。
息子は当然にその十六世ですが、まったく違和感なくその親鸞さんの「よきひと」への傾倒は代々同様に繋いでいるということ。
あの変てこな宗教の信仰心とは違うところがその歎異抄2条「よきひと」の段に記されています。
特に「地獄」については脅しの語として使用するようですが、親鸞さんはそれ平チャラです。当然私どもも。
最後の部分、「信じたてまつらんと、またすてんとも、面々の御は
からひなり」はおおらかさを思います。
「よきひと」との出遭いによってその人に「信」を抱こうが拒否して捨てようが「皆さんの自由」と仰っているところですね。
「信」についても選択権を提供しているのです。
人は何事も他者に強制されることは無い(自然・・・自由)・・・それですね。
扨、画像①②は長谷寺の宗宝蔵の廊下からの図。
長谷寺はこの「与(與)喜山」とセットというのが古来からの信仰です。
初瀬(出雲)の地は菅原道真の祖先の発祥地だということで彼がこちら長谷寺を訪れたなどの伝承が残ります。
彼を祭神とする天満宮、全国数ある中、こちら與喜天満神社は最古級のものだそう。
私はこの山までは歩いていませんが長谷寺山門のごく近くに與
喜天満神社に関わる標が。画像は梅咲く頃のものです。
どうやらこの「與喜」とは神となった菅原道真が「良き地」
「良き山」と語ったことからだといいます。
尚、その初瀬「出雲」の位置関係についてはかつての拙ブログで初瀬流れの件で熊本大学堆積学の松田博貴先生にご教示いただ
いたことを記していましたが、そちらで記した地図にも記してあります。
その松田先生の出逢い、鈴木一久氏の存在もまた「良き人」「善知識」であったこと思い出されます。
「よきひと」との出逢いがあってこその人生です。
それも「面々の御はからひ」で。
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