午前・午後のダブルヘッダーそして+お寺関係のネット会談。
息子はもっと大変、神奈川県中部+西部の法要のダブルに加えて横浜で通夜というから移動距離もさながら若くなければやっていけない。よくやるよって感じ。
最近、彼は仕事がナイということ、体が鈍るからということで夜間の仕分けのアルバイトに出向いていましたが、昨日に限っては本来の仕事が大忙しの様。
前向きに依頼された法要をこなして行く姿はまぁ天晴れということで。
ちなみに映画ミッション・インポッシブルの新しいバージョン(クリミア半島の地名セバストポリの名を覚えさせていただきました)の中でCIAのエージェントが上役から「郵便の仕分場に仕事を変えてやる」のような台詞がありましたが、彼は私と同じ、どんな仕事でも平チャラでやるようです。
プライドなど何の役にも立たないことを知っています。
その手の肉体単純労働系のお仕事の件、父も祖父も絶対にやらなかったものでした。
まぁこの仕分けの仕事が彼の初めて「人に使われる」仕事。
それにしても持つべきものは友(京都時代の学友)です。
その友人の超繁忙のお寺のお手伝いに出向いているワケですが(勿論先方のお寺の名前で)何事も経験です、先方から「もう結構です・・・」の宣告を受けていないということは今のところデカいポカはやらかしいていないということで。
扨、昨日の弥勒寺、私が来年のバス遠足の立ち寄り候補地に挙げる理由は、お堂内部の仏たちに驚かされたからですが、ただの
1コイン拝観料のお寺ではないということ。
何より堂内は写真撮影OKというところが驚き。
ありがちな権威あるお寺とは違うところですね。私が遠慮がちに遠目から撮影していると、「さぁさぁもっと前に」という具合に背中を押されます。
こういう機会に画像付きで宣伝されれば、お寺の存在が広がりますからね。カタいことばかり言っていてはダメです。
それにしても何故にしてこちらに、どちらの寺でも本尊クラスの仏像が見えるところは不思議です。
①信長の蹂躙に見舞われた地であって如何にして仏像たちが無
事だったのか。
②そもそも彼らはどこから来たのか(当初からのものではない?)
ですね。
信長との戦闘ではある程度の準備期間がありましたから事前に山の中に隠したことも考えられます。また仏像が元あった場所についてあの毛原廃寺(またはこちら)からという説がありますね。
それならば毛原廃寺が何故にして取り壊されたことなども疑問には残りますが、一応の説得力はあります。
画像は本尊の薬師如来坐像。
寺の名が弥勒寺なのに・・・の今一つの不思議があります。
台座と光背は後補とのことですがこれだけの大きさ(143㎝)の仏像で製作年代が平安後期、それでいて三重県指定文化財止まりの不可解。
当然に重文扱いとされてもいいような仏像ですからね。不思議だらけ。
薬壺に菊の紋、通常はここまで近づいての撮影はできませんからね。緊張してうまく撮れなかったことは反省点。
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