旧宝飯郡  東三河は真宗寺院僅少感 藤原俊成

以前、婦人部の皆さんにコース選択をお願いしたお寺のバスツアー「三河本證寺」の帰り途は蒲郡・豊川付近が通過ポイントでした。西三河から東三河へのコースですね。

愛知県の豊川・蒲郡そして豊橋の一部は昔は宝飯(ほい)郡と呼ばれていました(東三河)。律令時代からの古い名称でこの地名を無くしてしまうことは畏れ多いことだと思いますが仕方ないのでしょうね。勿体無くイイ名称だと思いますが地元の人でも今はスンナリ読めないかも知れません。


豊川がこの郡の中心部であり、仏教寺院も古い形態が残り、鎌倉仏教が開花したあとは西三河の真宗に対して東三河は曹洞宗への改宗が主だったものになったようです。ある面一言で言えば「他力」と「自力」の宗旨感の違いが出現したわけです。

 

バスツアーの企画を依頼しておいて、「私の趣味にあわない」ことを理由に「×」を出してしまったのは何とも失礼なことをしたものだと思いますが、それは真宗坊主を載せて門徒寺を看板に掲げた観光バスが「そこ行くの?」と思わせる場所がたて続けに入っていたという理由でした。

 

たしか「呆け封じ」と「癌封じ」を前面に押し出して参拝者を集めるお寺さんだったように思います。

それらをコース上にあげられたことに対して私は複雑な思いをしました。

①私が法話というあらたまって話す場において掲げるそのテー

 マに近いことなのですがその心ははたして受け止められて頂

 けていのか

②真宗の心が未だ伝えられていない自身の無能力さ甚だし

③「お遊びのつもりで何となく」といえども真宗坊主に対して

 はその仏の救済感(現世利益的)の提示が当流の日々の他力信

 心の称名念仏を、よもや否定しかねない危うさがあることへの

 檀家さん代表の方たちの無理解のショック(もっともよく聞け

 ばツアー会社に丸投げしたための安直な発想だったようで)

などなどです。

 

つべこべ「×」の理由を述べるのは役を振っておいて甚だ申し訳ありませんでしたのでその時私は

「行っても呆けたり癌になったりすれば損しちゃうからやめましょ・・・」程度でさらっと流しておきました。

本当はだいたい真宗坊主が「ボケませんように」「癌になりませんように」と、それも「一向専念無量寿仏」、立ち姿の阿弥陀さん以外の仏の前で私自身や家族のむしろ「生の証でもある」ともいえる特定の「ある症状」に対して「御利益」をくださいとお願いすることなんてできるものですか・・・。どんな面をさげてそこの「有り難い御利益」を授かるようそちらでスタンバイしていようというのでしょう。

 

だいたい御釈迦さんであっても「生老病死」については関与せず風(無理!!)だったはず。何しろそれは人間そのもの(いや生きとし生きるもの)の性質ですからね。


今年の盂蘭盆会で招いた油谷氏も言っていましたね。

「ボケは悪い言葉ではない」と。

歳を重ねれば誰でもボケてくるのは当たり前、それをどう遅く進行させ、できれば食い止めて「痴呆症」という「病」にならぬよう生活意識を変えるかということが主たるお話の内容でした。

癌も老化すれば誰でも発症するリスクは増えますし、その両方とも、絶対に克服することはできないものです。

言い換えれば「生きていれば必然」でそれこそ真面目にそう思う(いたって切実な思いであって頭ごなしに否定なんてできませんが)ことは「エゴむき出しの願い」なのかも知れません。

ありえないことを願うことより、仏に願われている自身(本願)があることを自覚して生きてみては・・・と思うところです。

 

まぁそういうことがあって最近の当山の檀家さんへの発信傾向は「健康寿命」の増進であり、「運動と脳の関係」「緑茶の効用をもっと活用」と旗を振るようになったのです。

生老病死は「仏」が関わらない、命の事は阿弥陀さんにおまかせして、私たちはその命の増進、健康維持を心掛けようという趣向でした。


8月15日の「8月の法要」では御前崎病院の鮫島先生のお話があります。今のところ確定ではないとのことですが、都合がつけば病院のスポーツ担当を連れられ「体の動かし方をコーチしてもらうかも知れないのでスペースの確保を頼みます」・・・とのこと。

 

そして11月14日の報恩講日中では静岡SBS学院のヨガ講師「羽根田三生氏」にお越し願い、「簡単なストレッチと頭スッキリ」をご講義いただくことになっています。

なお羽根田三生(MIWO)氏は拙寺先代住職の妹で私の叔母になります。

 

画像は蒲郡竹島。藤原定家の父、藤原俊成がこの地に遷任(三河守)した際、琵琶湖の竹生島から勧進したといいます(場所はここ)。藤原道長玄孫の俊成がこんなド田舎にホントに赴任したの?とちょっと勘繰りたくなります。

時代は平氏の時代。藤原系はお呼びではないということから中央の「政」を離れて「和歌専世界」の人として名を残しているのかも知れません。地方のドサ回りでのんびりと趣味に生きることに楽しみを見つけたのでしょうか。

あの時代には珍しくご長寿(90歳)だったそうです。

最後の画像が本證寺と濠。