上ノ郷城といえば曳馬(浜松)飯尾連龍奥方お田鶴さん

昨日午後お寺に来られたご夫婦は二人とも歴史好きでいつもご一緒で歴史散策を楽しんでいるとのこと。

本堂にご案内して田沼時代の遺物について少々語らせていただきました。

別件、ブログでは以前、菅山の川田砦について記したことがありましたが、その方はそのあたり(老人保険施設の南の台地)の地名について、地元の古い伝承で「コジロ」と言れていることを教えてくださいました。

お名前が川田さんと仰るそうで、尚更その情報の真正度はup。

高天神籠城組の末裔を推測します。

 

私は予定がありましたので途中で失礼させていただきましたが、何より二人一緒の趣味、同行は頼もしいこと。

それを奥方に言うと「何を・・・」とばかりに叱られました。

「散々連れ回されて甚だ迷惑」とのことでした。

まぁ10回に一回程度のお付き合い、言い返したら怒るでしょうが

「山城」と言えば最近はまったく不同意。

「下で待ってる」の常套句はまだマシの程度。

「時に足手まとい」ではありますがね。

 

昨日は服部半蔵が夜陰に乗じて上ノ郷城に侵入して火をかけ家康方の勝利を導き、さらに鵜殿家の継承者2人を生け捕りにして駿河人質(瀬名と信康)奪還の駒を得るなどwの立役者になるなどお話の世界・・・などとは記したものの、実際にその件についてその名、渡辺半蔵(正成)を推測できるものも「あるにはある」のでした。

 

昨日記した忍者の件は「鵜殿由緒書」に加え「三河物語」ほか記されているといいますが、書き物、史料といわれるものは、各々時間のタイムラグがあって、まずはその書を記すにあたっては先達の書物をあたるワケで、当然に表現が違えども、同じような内容になること多々ありますからね。

あたかもその場に居合わせた如くに記すものですから記述の頻度が多いとしても他の検証、史料をあたって確度をあげることは必要です。今は既にたくさんの史料が出回って専門家がその作業にあり、一定の結論はでています。それが「不詳」。

 

この上ノ郷城落城が忍者(忍び・忍びの兵・甲賀衆・・・表現多様)の仕事であるという件はかなりに書物に扱われる有名なところで、伴与七郎なる甲賀者が 江州より呼び出されて鵜殿長照(鵜殿長持の息生け捕りにされたのは彼の二人の息子)を滅ぼした功労者として家康から感状を与えられているところです。

その伴氏は甲賀出自。

そして彼が従者として連れてきたという者に「服部藤助と中山久蔵」の名があります。

 

服部半蔵が岡崎に住まったこともあってその地が伊賀町・伊賀八幡などの名称が残る通りですが、甲賀者が伊賀者を連れてきたとしても不思議はないところではあります。

ただし寛政譜から見るに半蔵正成の没年が慶長元(1596)五十五歳とありますが、そうであれば生誕は天文十一(1542)。 

それでいて「三河国西郡宇土(鵜殿)城夜討の時、正成十六歳にして伊賀の忍びのもの六七十人を率いて城内に忍び入り、戦功  これを賞せられて御持槍を拝賜す」とあります。

となれば上ノ郷城を攻めた永禄五年(1562)は二十一歳でなくてはなりません。

数字の間違い混同はつきものですから許容すべきといえばそうなのですが、首を傾げるところ。

むしろ後者の年齢の方がスンナリ信じ易いですがね。

詳細不明ながら服部半蔵の功について「ないことはない」と思いながらあらためて記しました。

 

かつてのドラマでは本能寺で信長が火縄銃をぶっ放している場面を放映して顰蹙を買っていましたがその際も「ないことはない」といった言葉を聞きました。

なかったと証明できないことは演出(創作)してもそれでヨシの世界。

まぁ視ている方の落しどころとしては「所詮ないまぜ」「ドラマだから」。

 

扨、井伊直平に独茶を飲ませたという「烈女」。

お田鶴の方(椿姫)父は上ノ郷城の鵜殿長持でしたね。

井伊直平についてはかつてブログで記していますのでそちらを(こちら こちら こちらも)。

そのお田鶴の死を悼んで百余本の椿を植えたのが瀬名だったといいます。従妹同士ということになるのでしょうし鵜殿一族の苦渋に代わって自分と息子のクビが繋がったという事実。

申し訳ないという気持ちは起こるでしょう。

 

ということで家康を囲む皆々どちらも今川家とは姻戚関係。

双方駿府での顔見知りというシチュエーションはドラマ演出でもやりやすいことこのうえなしですね。

 

何せ烈女とか烈婦のレッテルで後世一部の人たちから賛美されたような女性。一族を掃討討死させられ、生まれ故郷を焼き払われた彼女としての生きざま(上ノ郷城炎上6年後の死にざま)・・・「家康憎し」は大いにわかるような気がします。

 

また家康絡みの歴史ドラマ、少々突っ込んだところではありますが彼女の悲劇と烈女の場面は結構に描きたいところではないでしょうか。

まぁ「ドラマ」ですがね。

そこが描かれれば曳馬の城と彼女が祀られた椿姫観音など一瞬たりといえど賑やかになりそう。

ストーリー演出が上ノ郷城と人質交換そしてお田鶴の憤死まで繋げて行きたいという意図が見えてきましたが、さて。

 

画像は上ノ郷城主郭の様子。

発掘調査は幾度かに分けて行われているようですがまだ続きが控えているようです。諏訪原城の如くに史跡を育てていくにはまず周辺の私有地(みかん畑)を買収していかないと・・・

 

建物の柱跡から上部の建屋の状況が判明し、その推測から模型が作られていました。

昨日の西公民館に展示されていましたがよくできています。

⑦は発掘調査で出てきた鉄砲の弾。

現状二個発見されているようです。