「忍ヒノ上手ヲ呼下シ」中から火つけ 上ノ郷城攻略

マスク外そうキャンペーンの如くの政府関係お偉いさんたちからの物言い。

政界からそういった声があがっていることからそもそものマスク嫌いの方たちは早々に外している感はあります。

要は庶民レベルでもマスク装着について強要ができなくなったということ。

かといって私からそれを外して皆さんの前に出るなどまだまだできるはずもなく。

ホールの参列者も本堂も装着率は100%です。

政治家ではなくウィルス感染症の専門家の意見を尊重したいものです。

政府の意見に沿ったことを言う専門家というのもありますからつまるところ、私どもの勝手。

とやかく誘導しないでいただきたい。

信じられないことばかりやらかす政治屋さんのお話だけは「聞く耳」はもたないというのが信条になりました。

踊らされたくありませんね。

踊るのは政治屋だけでよろしい。

 

ただし犯罪者にとってはマスク装着社会はその変装グッズとして違和感はないでしょう。

今ほど「仕事」がやりやすい時はないでしょうね。

疫癘もそうですが同時に悪辣な輩も蔓延ります・・・

まぁバシバシとあの強盗事件に関与した連中がお縄になっていますから。その辺りは安心社会に向かって欲しい。

あぶく銭ゲットの短慮のゲスな仕事は割が合わないこと、知らしめなくてはね。

 

扨、先日記した廣忠寺前の道(桑谷城)。

岡崎衆の桑谷山超えの目的地は「西ノ郡」。

鵜殿一統の本拠地上ノ郷城です。

 

城郭大系「上ノ郷城」の冒頭を記すと・・・

「(応仁の乱以降)守護勢力に代わって国人・土豪が勢力を伸長させた。三河に於いてその主たる者が田原の戸田氏であり西三河の松平氏である。そのほか北設楽の菅沼、作手の奥平、岡崎の西郷、宝飯の牧野に加えて、西ノ郡の鵜殿などが・・・」とあります。

「西ノ郡」=現在の蒲郡ですが当時はその周辺は鵜殿氏の繁栄の場でした。

 

ある方と話しましたが、現在でも蒲郡は東西に分けて線を引くとすれば東側は鵜殿系ファン、西に松平系となるそう。

特に上ノ郷城周辺(神ノ郷町 場所はこちら)では「殿様」と言

えば鵜殿さん。

家康は敵というのが当然に漂う雰囲気のよう。

 

こちらの鵜殿長持は今川義元の妹を妻としたといい、そうなれば長持の子長照は今川氏真とはいとこということになります。

家康も駿河在住時の顔見知りであったかも知れませんね。

 

そういった強い今川との姻戚関係があったとすると、義元が桶狭間で死したあとも駿河は遠方にも関わらず、また周囲が松平に帰順していく流れにあっても頑なに今川方として留まって反松平の旗を掲げ通したことはわかります。

上ノ郷城の北西に名取山に陣を構えて(そちらには家康の腰掛岩伝承の石があるといいます)松平好景・松平家忠・本多広孝・久松俊勝らに攻撃させたと(城郭大系)。

 

それでも城の守りは堅く、膠着したために家康がとった作戦が・・・

「鵜殿由緒書」に「家康公江州志賀羅木ノ多羅尾四郎兵衛ト云大名ノ元ヨリ忍ヒノ上手ヲ呼下シ 鵜殿ノ上ノ城ヲ夜中に焼落シ玉フ」とあっていわゆる「忍者」を城内に忍ばせて火をかけて落城させたといいます。

 

ということで大河ドラマでその忍者にかけて服部半蔵を登場させたりして・・・などと思った次第。

彼は江州ではなく伊賀ですからね。

その鵜殿氏の中、長持の孫にあたる者を捕縛して、駿河との人質交換の材料とするわけですが、やはりその交渉に氏真がのったということは、今川氏と鵜殿氏との縁戚関係の信憑性は高かったのかもしれません。

 

②は城郭東側半分の外堀としての機能したか北から南に流れる兼京川。橋の名が市場橋。城周辺には多くの市が立ったといいます。

⑤は浅野文庫蔵の絵図。⑥⑦は例により三河によく見られる石積み。この城は「土の城」と言われていますので後世積まれたものでしょう。

それにしてもそれらしい・・・

⑧⑨⑩は主郭にではなく土塁に建つ石標。 

「鵜殿藤太郎之ニ居ル 松平氏ノ為ニ攻メラレ一族全滅シテ遂ニ陥レラル」とあります。

 

⑪⑫みかん畑は当然私有地。畑の中にあっちこっち足を踏み込むと・・・お目玉頂戴ということになりましょう。

 

三河湾が見える蒲郡の山の手。南面しています。

北側の山を越えれば岡崎、山中城、本宿方向ですね。

 

⑬は主郭の掲示板。⑭は近隣の西部公民館から。

記述内容からして「家康にヤラれた」感が漂っています。