送り状 ? (棺書)と受取り 埋め墓受取地蔵 当尾千日 

温かく穏やかな一日でした。

これから雨になり気温もさらに温かくなるようですが、お天気の方も安定していただかないと、あの破風下の仕事へのヤル気が出ません。ず~っと放ったらかしにしています。

 

昨日は榛原地区での葬儀につき、吉田榛原地区で運営している火葬場へ。牧之原市は火葬場を二つ抱えているのです。ちなみにゴミ焼却場も二つ・・・。おカネがないのに不効率なことです。

 

こちらの火葬場は空港が見える奥まった山の中。

以前も何度か記していますが、設定が古く納棺した途端に停電してしまい、急遽そちらから出してホールに移動、葬儀後に電力復旧後に改めて納棺したことを思い出します。

 

その日も「フル稼働」の様で(ここへきてかなり忙しくなっているそう)棺を置く「台」が Too Hot !  により、「気を付けて」のアナウンスがあるほど。

 

そしてまた収骨タイムは事前にご担当がその熱々の台から収骨専用の台に移します(この時、棺の金具類を除去⋯強力マグネットの出番です)。

とにかくスペースが同一であるということからその場はまさに遺骨の微粉末と独特の臭気もモロに漂います。

そしてどこもかしこもらもとても埃っぽい・・・

構造上バックヤードはボイラー室のみになりますので、窯から出す場所も入れる場所も同じスペースなのでした。

 

そちららの火葬場の特筆すべき点は、収骨後の参拝者焼香場の形式です。

上記空間の脇奥に焼香スペースがありますがこちらの斎壇の形式は拙ブログで記してきた旧態の土俗的形式が踏襲されています。

それが鳥居を模した木枠の下に斎壇を設け、中心に阿弥陀如来が立ち、その前部に六地蔵が並ぶというものです。

 

これは先般、当尾千日墓地の石鳥居双仏阿弥陀+六地蔵のパターンの通りですね。

相良の方の火葬場にはその形式にありませんが、これらは古い時代から伝承されてきたカタチでしょう。

ただし木像地蔵菩薩の形式も詳細未調査ですが、結構に大雑把な作りを感じました(古いものではナイ)。

 

地蔵菩薩は上記「双仏」の通り、当流一向専念の阿弥陀仏と対になって登場することは少なくありません。

真宗系の坊主からすればそのダブルスタンダードにはどうしても違和感を禁じ得ないところがありますが、一般的(土俗的)民間信仰のうえでその地蔵の存在はその全国普及度から言って浄土信仰の上を行っているか、ともいえるかと思います。

 

それがその地蔵の呼び名が多々見られることからですが、そこにそれぞれの人々の思いというものを垣間見ることができます。

 

地方によっては故人の棺の中に木地蔵を入れる風習があると聞きます。七七日の間(49日)を「旅」とする概念は(再三記していますが当流には「旅」感覚は一切ありません)錫杖を持ちその行脚に同行していただき、無事に何とか導いて欲しいという気持ちがそれですね。

 

それに対して、「一所するもの」として当流では棺書を棺に入れます。

父の場合は棺の蓋の裏に葬祭場の方に貼り付けてもらっていましたが、大抵はそれを出棺の直前に言い出すものですから、「糊を持ってきて」だのと周囲をあたふたさせているシーンが記憶に残ります。

よって私はその棺書は故人の胸の上にただ載せるだけにしています。

 

それは縦長の和紙(今はA4)の中央に大きく六字の名号。

その右に没年月日と左に法名と年齢(数え)を記し、その裏面にやはり法名に加えて俗名、そしてその発行者たる寺の名と朱印を記します。

 

その棺書について、どなたかに「送り状のようなものね」と尋ねられたことがありましたが、私は肯定も否定もしませんでした。

まぁそのように考えていただいてもよろしいかとも思いますがこちらは当流ならではの事情もあるわけです。

 

それが本尊(仏像・絵像・名号)以外のものに向って法務を遂げられないというこだわりがあるのでした。

棺書が棺の中に納まっていれば、棺の中のご遺体に向かって堂々とお勤めができるという「確信」ですね。

 

私は本尊が目に見えなくとも南無阿弥陀仏の仏心が存在するという解釈をすれば「それが無くても可能であろう・・・」とも考えるところ。

その棺書については先代の「貼り付ける」とは変更はありますが、私はずっと続けています。

 

また「送り状」の発想は面白いと思いますね。

それは古い墓地、特に「埋め墓」のある墓地に地蔵は地蔵でも一回り大きい「受取り地蔵」なる地蔵が建っていることがあります。真宗以外のお寺の門前に見える六地蔵とは違います。

 

要はその地蔵の前の埋葬地に棺を「埋める」にあたり、棺をその地蔵の前に一旦安置し、そちらで読経、焼香の葬送の儀を執り行うというスタイルです。

 

画像は当尾千日墓地の受取り地蔵。

現世からあちらへのお届けという発想です。

「受取り」には儀式があって、その前には儀式用の棺台があります。

円形の鉢状の台がありますが、推測ですがこちらは後から設置されたものでしょうか。

当初のものはその前にある二つの石ですね。

その石を土台にし棺を置いて儀式を勤めたものと考えられます。

 

現在はその手の「埋め墓」はこちらに見えませんので(厳密には埋め墓の位置は確定できません。野山のどちらか、決められていない場合もあったわけですから)この「受取り式」のための主宰地蔵のお役は無くなっているようです。

現在は千日墓地の片隅、殆ど藪の中に放置されているような状態ですからね。

 

最後の画像があの十三重塔側墓地入口の覆堂の六地蔵。

あの墓地で一番に目立つもの・・・当初墓地の「詣り墓」はその塔だったことを推測します。