元弘の乱 勝ち目なし 笠置山砦の合戦 3000対75000

8月の異常天気は「夏」を消し去って突然「秋」をもたらしたようです。どうも消化不良で、まるで大切な人生の一コマを棒に振ったようにも感じます。どこかで取り返さなくては・・・

 

 2日間の京都行脚の初日の午後は笠置山でした。

笠置駅からスグの橋が大手橋ということで、あたかも戦国の城をイメージしてしまいますが、こちらは笠置山寺という古い寺に「天然の要害」が重なって元弘の乱の際に城塞化されたもの、元はいわゆる「城」ではありません。

 

 その名の伝承はこの山頂付近に鹿狩りに訪れてた天智天皇の子の大友皇子が山中の断崖絶壁の岩の上にそこでの出来事を忘れまいと「笠を置いた」ことからといいますから相当古い話。

 

鎌倉時代後期、こちら笠置山での戦いの戦力差は何と籠城軍3000対攻城軍75000で、数的優位は攻城軍の圧倒的優位。

こちらの戦いの詳細は各自お調べいただくとして、この絶対不利な状況にも関わらず手勢を引き連れて笠置山に籠城したのが三河成瀬の元となる足助重範でした。

 

 足助重範の娘の滝野と二条関白の子が三河成瀬初代となる基久でそれから八代目が正義です。その正義が三方ケ原で亡くなったあと室の禄(釋妙意)と四男の祐傳が当山に入ったというご縁からその辺りのお話は子供の頃より「よくわからない」なりに聞いておりました。

まぁそういうことがあって日坂の川坂屋に写真がありましたが成瀬大域が明治天皇から楠正成の硯を下賜されたということに繫がっています。

 

 さて、足助重範が守ったのが「一の木戸」。そのスグ上に1回500円の駐車場があります。先日も記しましたように私どもは徒歩で上りましたが・・・。

この木戸が彼が後世囃された活躍の場です。堅牢な山岳信仰の寺がベースですので大軍の正攻法はこの門を破る他は無かったようでこの門を目がけて殺到したはずです。

 

 画像は一の門跡。現在の車道のカーブ付近となりますが民家があります。直下は急坂になっていてこの細い登攀路を吐け上がるには大軍は無理。多勢に無勢といえども約一か月持ちこたえたそうです。

膠着状態の頃、少人数のグループに別ルートから火を放たれて一気に攻め落とされたとのこと。足助重範は捉えられ京都六条で斬首されたことは既述。