悲しみ苦しみ悩み痛み だけでなし 楽しみの味も

昨日は、「そろそろ父がヤバい」 (昨日ブログ)に続いて今度は「自分自身が~」という方が境内に。

亡き母の墓参りとのことで花を抱えていました。

 

2年前に「5年生存率80%」なる病を宣告され、「何とかこれで2年経った」とのことでした。

日々自身の「その時」のことを考えながら時間を過ごして来たそうですが他家に嫁いだために実家の墓に入りたいとは口に出せないようで、かつ嫁ぎ先の墓には入らないとのこと。

よって拙寺の一所墓にはいることのみの選択肢のなか、あとはその時の葬儀費用から納骨までの出費について不安色々を吐露されていました。娘に負担をかけたくないと。

 

「なるようにしかならないのでケセラセラでしょう? 阿弥陀さんにまかせる他はナシ」と私が返すと、「それはお寺(・・・私)にまかせたい」とかなり現実的。

まぁ、その件日々考えていたら頭の中を不安がぐるぐる回っているだけ。

自分の死、その時の事を考えるのは悪いことではありませんが、ネガティブ思考だけで繰り返し思い悩めば精神的によくないですし治るべき病もその機会を逸します。

よって私はいつものように「放っておけ」でした。

それが「自然」というもの。

私としては人間なんて何時亡くなるかなど絶対にわからないものですし、突然、あっという間に亡くなる方もまたぞろいる中、「5年」の提示など悪くないのでは・・・?でしたが、逆にその期間の提示されることこそが日々のもやもやの原因であるとのことでした。

 

だったらどうでしょう。

その病のみが私の終末の原因になるとは限りません。

人は多くの宿業と時々の縁、機会の組み合わせによって計り知れない「果」を得ますから。その偶然を予測するなど無意味。

とにかく「その時」まで生にこだわって生かされていく他はありませんね。

 

扨、画像は東本願寺の掲示板からですが、②の「み」の連続を見ると息子の幼少期のどもりを思い出します。

その語は今は放送禁止用語で、「吃音」がただしい呼び名になっていますが、彼は自分の名を発音する際に、名前の頭の「み」を連続して発音していました。

「みー、みー、みー、み~~・・・」というのが常で、保育園の友達から「セミ」と呼ばれていました。

それには親としてどうかとは思いますがその時私どもはただただ面白がって爆笑していました。

 

このまま成長したら、おつとめの発声等その他いろいろ、しんどいだろうな~とは思ったことはありましたが、放ったらかしにしたまま。

忘れたころ気づけばなぜかうまい具合に治っていたのでした。

なんでもかんでも「勝手にしやがれ」が合言葉。

いい方向に向かうこともあります。おかげさま。