互いに死ね死ねと呪詛しけり 修圓と空海

そろそろ梅雨といった時節ですが、妙に好天が続きます。

ありがたいことです。ということで朝から境内雑用。

花ガラやゴミの処理のためにに地頭方処理場にも向かうことができました。

おかげさまでこの日の予定していた作業はスンナリと満了することができました。

 

お天気がイイのでご門徒様のお参りもあります。

息子さんとお住まいになっている年配の女性としばし立ち話。

以前、私が紹介した耐震ベッドの件、検討しているのだが~、と打診を受けた方です。

手伝いはできるが息子さんの手前、私がしゃしゃり出るのは・・・ということと設置場所が畳であることから「どうしようか・・・」と曖昧な返事をしていたわけですね。

昨日、私からその件窺うと「喉元過ぎれば~」ではないが、この齢になって家が潰れたとして死ぬのも仕方ないか・・・と考えが変わって来たと。

 

私は実はそれこそが真宗的(「おまかせするほかはなし」)ですと。しかしできるだけ生きながらえようと一所懸命に工夫して生きていくことも大事ですが・・・

どちらにしろまた気が変わったら声かけてください、と別れました。

 

扨、室生寺について観光の寺、多くの重文・国宝の整列から日本の仏教文化の深さと畏敬を感じるのですが、宗旨的にみれば真言宗ということで。

しかし室生寺弥勒堂の弥勒菩薩は奈良興福寺関りの遺物と記した通り、別の流れがあったことを示唆しています。

興福寺の「興福寺別当次第」なる資料等に弥勒堂は室生寺の堂塔建立に関わった修圓が興福寺別当の時、創説した伝法院を室生寺に移したことに由来するといいます。

 

そもそも室生寺は、奈良時代末、山部親王(桓武天皇)の病気平癒のために室生の地にて延寿法を修したところ回復したということで興福寺の法相宗の碩学、賢璟が朝廷の命でここに寺院を建てたことが始まりと。

 

何故にして興福寺法相から空海の真言系への変遷があったのか。本格的には江戸期桂昌院の意図、彼女のお墨付きがあってから現在のカタチに増幅されたのかとは思いますが、このお寺には古くから複雑な歴史が交錯していたようです。

 

興福寺の僧賢璟の弟子の修圓という僧がその後室生寺に入ったといいます。

それなのになぜにして・・・という思いが浮かぶのは当然の事。

何かのドサクサがあったに違いありません。

 

そこの経緯については不明ですが面白い話がありますので参考までに記します。

それが今昔物語巻14第40話 弘法大師挑修圓 から。

彼らの呪詛合戦と相互のフェイク泥仕合の件。

 

概略記せば

弘法大師と修圓が嵯峨天皇に仕えていた頃。

修圓が天皇の近くにいた時、生の栗があって天皇がそれを所望。

茹でて来るよう命じます。

修圓が「人が火を以て煮ないでも私の法力で出来あがりますよ」と。

するとその法力とやらが効いてでうまく煮えて食べられるようになっていたといいます。天皇もその法力の恩恵を喜んで食べていたようですが、それを聞いた弘法大師が、自分がその法力を隠れて見ているので今一度それをやらせてみてくれ・・・と。ということで天皇は就圓にその法力での栗の調理をやらせてみるとまったくそれが通じずに栗は煮立たない。

頃合いを見て、弘法大師が登場すると、就圓いわく、ああこの者が煮立たないよう陰で加持祈祷し足を引っ張っていたのねと。

以後二人は罵り合うようようになって互いに死ね死ねと呪詛しけり」の如く。

 

高僧たちの怨恨嫉妬の泥仕合は続き、弘法大師は「空海は死んだ」のフェイクニュースを弟子たちに流すよう命じます。

それを信じた修圓は「死ね」の呪詛をやめるわけですが、その呪詛攻撃のパワーがなくなったことを機に空海は一気に呪詛を集中させて、仕舞には修圓が亡くなってしまったというもの。

 

 高僧たちの煩悩熾盛の様が記されている面白さと、呪詛合戦の子供じみた泥仕合、そしてその呪詛というヤツ、真に受ける人は多くいたのでした。

 

話変わって呪詛の極意とはその相手に「呪詛されていること」を何となく気づかせることといいます。

悪辣で醜い政治屋のみなさん、国民に呪詛されないようにね。

当然に裏金ギインさんなどは、呪詛の対象でしょうからそれぞれお体の具合には気を付けてくださいまし・・・。

今は呪詛は罪になりませんからね。

どなたでもお気軽にお呪いくだされ。

 

画像は室生寺の片隅にある修圓の廟。

私は当然の如くそちらの扉をオープンしてご挨拶。

背後から奥方のやれやれの目つきが刺さっていましたが私としては当たり前の事です。

開けてはいけない箇所には施錠がありますからね。

それが無いということは「ご自由にお参りください」ということ。拙寺の本堂と同じようなものです。

 

しかし室生寺創建にも関わる彼の墓としてはあまりにも貧弱な五輪塔。

廟の中で風雨から護られていることは確かですが、損傷も無く

キレイで新しめ。平安前期の方の墓とは思えません。

興福寺法相から真言の寺となった理由はその今昔物語に記された内容からとは断定できませんが、何かあったことは違いないところ。

 

空海の敵ではあっても室生寺の創建者。

しかし今は真言の寺。

まぁいろいろあった・・・そういうことなのでしょう。