長篠五砦潰滅の追撃戦 長篠の有海 松平伊忠 

何度か長篠城周辺をブログで記していますが長篠・設楽原周辺は歩けば関ヶ原をも凌ぐほどの戦跡が残っていてブログに記述する材料に事欠くことはありません。

特にあの地は新東名高速の開通によって以前より断然に行きやすくなりました。

特にあの辺りの地理について復習(場所はこちら)予習しておけばわかりやすさもupすると思います。

 

V字形に豊川と宇連川が交差する渓谷にその二つの川を天然の深堀とする要害(牛渕橋)が長篠城ですが、その徳川方の城をじわじわと攻め掛けたのが武田勝頼でした。とくに武田勢は城の宇連川対岸の山並みに連ねた砦群(長篠五砦)をもって城中を威圧しました。

そのあとにこれと同様の策を采配したのが家康でしたね。

武田勢が籠る高天神城をやはり力攻めではなく周囲に夥しい砦を構築して(主に高天神六砦)長期戦に持ち込みました。

 

二つの城の運命は逆の結末を辿りますが、これは後詰の違い。

但し負け戦はともに武田で勝ち戦は徳川・織田連合軍でした。

高天神城は武田方の後詰期待も兵糧尽きて城から討って出で壊滅。

勝頼軍との別動隊として長篠城包囲陣の五砦を纏めていたのは武田(河窪)信実ですが、酒井忠次による夜陰に乗じてのまさかの奇襲で五砦は総崩れ、日本史上「夜討ち」の例は数ある中それがあまりにもうまい具合に「図星」となったのがこちらでした。

武田方にも大いに油断があったことと思います。

本隊は移動し主戦場の推定地が離れていることから心の緩みを生んだのかも知れません。

 

いわゆる設楽原の本戦の前哨戦となったこの戦いで今一つ油断があった?と思わせるのが敗走して本隊と合流しようとする武田勢を追い込もうとする徳川方手勢の一人、松平伊忠です。

 

彼の息子が「家忠日記」で著名な松平家忠ですが、彼ら親子はこの長篠別動隊に参加していたのでした。

そもそも勇壮で名の通る松平伊忠ですが、砦を降って豊川方向に川沿いに武田本隊に合流しようと逃げる武田勢の背後を襲うべく猛追にかかります。

 

豊川がL字型に北上しだしたあたりに「有海」という地があります。以前も「牛渕橋」のところで「津」(みなと)地名の多さについて記しましたが、この「有海」なども豊川を海に見立てたところが窺えますね。

①②は有海の交差点ですが、その北には「大海」という地名まであります。

 

その有海作神という地に「松平伊忠戦死の地」の石碑が立っています。彼は一気呵成に追い込みの先頭に立って敗走する武田の最後部に斬りかかっていましたが、思わぬ反撃を受けて討死しています。武田軍の殿(しんがり)は小山田昌成(まさゆき)だったといいます。

 

勝ち戦に乗って敗軍を追い立てることは容易いように見えます。軍勢としての躰は失っていますからね。

しかしながら人はそういう時に足をすくわれることは昔から言われていること(敗時多因得意時)。

敵もただ背中を見せているばかりではありません。

寸前の負け戦に対しての鬱憤を晴らす起死回生を虎視眈々で狙うのは当然のことです。

やはり油断は禁物です。