2025年
9月
05日
金
昨日、日が変わる頃になってから、ひと降りあったきり以後大した降りにはなりませんでした。
10時からの法縁も、まったく雨の妨害にあうことなく御納骨を済ませることができました。有難いことです。
雨嫌いの私にとって悩ましい問題が発生しました。
今年はパスしたお寺のバス遠足の件、実は「来年は桜でも・・・」の案があり、2026年4月の平日の一泊二日を打診していました。
その回答が「外国人は京都のサクラを見に大挙する」ということでホテル代が高騰、そもそも部屋が取れないということでした。
「どの辺りが安くて空いてるの?」ににりますが、「不確実だが6月か9月」といいます。5月と10月と修学旅行で抑えられてしまっているようです。
6月と9月に人気が薄いのは梅雨と台風でしょう。
イチかバチかの博打ですね。奥方は「9月にしろ・・・」。
また11月の紅葉の季節になれば観光客は増加傾向。
のんびり行けそうなのは12月1月2月の冬季のみなのでしょうかねぇ・・・12月初旬ならどうでしょう・・・聞いてみよう。
祖廟納骨が無ければ京都の人混みを敬遠したいのはやまやまなのですが。そもそも何でもかんでも価格が上がり過ぎ。
「最低賃金1121円」のニュースが昨日ありましたが、人件費が品物やサービスの価格に反映されていくワケですね。
しょうがないか・・・
画像は息子宅のキイロシロの子。藤沢の妹の家に2匹が転居して行き時折画像が送られてきますが、そっちは毎度じゃれ合ってぐちゃぐちゃの様の図ばかり。ネコはネコでも子ネコの時間は別物の楽しみがありますね。
また夏に菊川駅前にて「奥の墓道」氏と合流したのでしたが、いつもの駅前ロータリーには車両の進入禁止に。
適当に停めて時間をつぶしましたが、久し振りに赤レンガ倉庫へ。
明治時代の遺物ですがこの辺りでは珍しきもの。
開いているのは土日祝日限定のようですが。
尚、菊川駅の工事は南北を通行可能にするためのものだそう。
特に駅利用者、北側エリアとの人の流れを上質利便にしようというものですね。
2025年
9月
04日
木
昨日は昼過ぎまで大工仕事。
材料の不足があったことと、朝の天気予報で台風になりつつある熱低の北上に伴って「何時雨が降りだすかわからない」と警告していましたので外仕事は中断。空には曇が張り出して、涼し気の風が吹き出していました。
私の大工仕事は軽トラの荷台が作業台になりますのでそこに材料・道具類を展開したところに、急に雨が降るとなれば面倒なことになります。
ところが雨は終日一粒も降りませんでした。
それでも気象庁は夜間から朝までには降り出すという予報がありましたので植栽たちへの水やりはナシにしました。
熱低はこれから台風に発達するといいます・・・急にできて急に当地へ向かってくるようですが変な台風です。
この地域の通過予想は海からではなく九州に上陸してから列島に沿って西から陸の上、私の上空を通過していきそのまま伊豆半島から海に出て弱まっていくというもの。
私の経験上(アテになりませんが)この台風は警戒不要と判断。植木鉢は境内に放置したまま、これといった対策はなしです。
問題は法要参集のみなさんが難儀するかもしれないこと。
午前中は何とか降らないで戴きたい・・・まぁいろいろ都合よく行かないというのやはり経験則ではありますが。
扨、松平郷城山城別名大田城へ。
位置的には梟ケ城麓の教恩寺と大給城東の信光寺の山越え中間地点になります。
梟ケ寺と教恩寺に向かう時にそのまんま車を停めた公園から探索に移りました。とにかく案内板の部類は一切なし。
ちなみに城郭大系では「その他の城郭~」に記述が少々。
「豊田市大内町 松平光親在城 標高234m 現在山林」です。
登城口すらわからないまま闇雲に「下城坂」~「上城坂」なる興味深い字名の残る林道の如くの道を上がりました。①の左側の道です。
林の中、見当をつけて右手の土手らしき段を上がり、ただ漠然と散策。
すると石積みやら巨石が出現し巨石の下には一応、城跡を確認できる標が。
おそらくしっかりした調査検証が為されていないのでしょうね(場所はこちら)。
山城の林の中の画像はどれもこれも同じようなもので。
2025年
9月
03日
水
一応風が吹き、外は意外と涼しさを感じましたが、本堂内、法要準備をしていた奥方は「まだ生ぬるい!!」と。そういえば温かな風でした。
堂内のお参りの方々に私は「暑いよ~」と脅しをいれていたせいか(扇風機3台稼働)終了後「それほどでも・・・」と嬉しい言葉をいただきました。まぁ温風機ですけれどね。
私は苦痛悶絶と「一刻も早く帰りたい」の気持ちを感じたくなかっただけですが。
先日、ご自宅の解体工事につき私がお内仏の閉扉式を行いましたが、昨日施主と話す機会がありました(電話にて)。
その代用のお内仏は拙寺の本堂の片隅に「どうぞ~」という具合に置かれていたもので1/10程度の大きさに変わってしまいます。勿体ないというか心残りでしょうね。
その方は最近の絶不調に陥ったことを語っていましたが、それは長年家に伝わってきたお内仏その他いろいろを処分するにあたって、色々考えることばかりが増え、帯状疱疹が現れて顔が腫れあがったとのことでした。
あの病からはストレスと免疫力の低下をイメージできますが、その方の重ねたご苦労を思うと、その病気の発症は尤もなことだと思う次第。
現状少しずつ良くなっているとのことで一応の安心を得ましたが。
そのお内仏周辺を(私が)再探索し「残せるもの使えるもの」を今一度ピックアップ確認して欲しいとのことでした。
いよいよあの黄色の建物、小堤山からもハッキリそれとわかるランドマークが消えることになります。
寂しい話しか聞こえてきませんね。まったくこの街からは・・・
その話になると奥方は例の「どこで産むの?」の疑問を。
産婦人科医院が消滅し「気軽に子供が産めない」の件です。
息子夫婦は今回、浜松聖隷にてそれをお願いしたわけですが、息子の子は出て来る際と出てきてからしばらく相当リスキーな状態だったといいます。
そこの病院には私どもも数度顔を出していますが何といってもそのスケールの大きさ、すべてにおいて充実したシステム(医療)を目前にさせられてわけで、小型の民間産婦人科では太刀打ちできさそうなものではありません。
スケールメリットなる言葉がありますが、まさにそれ。
あれでは「撤退した方がマシ」になるのかもしれませんね。
緊急性への対応力について奥方は特に評価していましたが、ヤバくなってから紹介状を書かれて慌てて転院となるのではやはり辛いし不安になりますからね。
先日は愛知県の東栄町東栄中学の校長先生と話す機会がありましたが、先生のご家族もたまたまその「浜松聖隷に・・・」お世話になったとのこと。
東栄町から新城市まで最短30分で行けるそうですがそちらにも産院はなく、やはり浜松のそれが安心だったよう。
その予兆をギリギリまで待つのではなく余裕をもって数日前から病院近くにスタンバイすることで対応するそうです。
私たちは「安心」を得るためにできることはするというスタンスなのですが、政治屋さんたちは日々保身に走り回る勢いのみを感じさせてくれています。
「一所懸命」とはその地に定住するにあたり「安心」を求めるもの。安心して子供を産んで安心して育てることができること、そこに立ち返って「政」を行って欲しいものです。
与えられるものといえば「不安」ばかり。
たとえば浜松聖隷並みの施設を近隣市町村合同で運営し、そいういった病院に国からも支援する・・・そしてそれを全国的に・・などですが、夢のまた夢なのでしょうね。
国民のカネをくすねるために懸命になっている姿は感じます。
画像は、昨日記した松平郷、梟ケ城の登城口の丘の上に建つ真宗大谷派の教恩寺。
同派のお寺がそこにあるからにはお参りせずにはいられません。
堂内合掌の後は境内作業中のご住職とクロネコにご挨拶。
ネコは人見知りがキツイようで。
⑦はお寺の境内からお向かいの丘を。
⑧はお向かいの駐車場に戻る途中お寺の丘を振り返った図。
こうやっていろいろな人たちとの出会いに恵まれるのは阿弥陀さんのおかげであるとつくづく思わされるのでした。
いずれ東栄町いろいろについて記させていただきます。
2025年
9月
02日
火
昨日は8月15日を過ぎてから2週間以上法務なしの時間があったことを記しましたが、これは皆さん「暑いので本堂はゴメン」の意思が働いてのことだったのでしょうね。
ここへきてたまたまなのでしょうが2つの現象が目立ちます。
1つは9月の3連休13.14.15の相良の祭典の日にちは除いて土日は10月いっぱいまで法要の予定が入っていること。
中には午前・午後のダブルヘッダーが2日も。
息子を呼ぶか検討中。
繰り延べしてでも「涼しくなってから」の傾向です。
2つめはlineの友達登録をしている教区からの連絡で住職・坊守さんの訃報がたてつづけに舞い込んでいる事。
寺院関係者の葬儀はまず寺の本堂ということになりますから、想像するだけでその御苦労が・・・
適宜記していますが拙寺の如く、空調設備の無い本堂はまたぞろにありますが、坊守は御内陣の清掃と準備に追われ、住職はサウナ化した環境の中、法要装束での発声。
人によっては衰弱し熱中症にも血管障害にもなりましょう。
以前から、私どもの場合はどうにかなっていますが他のお寺さんは「これでよくやっていられるものか」と不思議に思っていました。
まず「体に来る」はず。
宗務所及び教務所からの連絡事項がありました。
今年7月の法臈(ほうろう)法衣条例が改正されたというものです。
「6月1日から9月30日までのに限り、薄物を依用することができる」の規定が削除されて「各位のご判断により・・・」と緩くなっています。
猛暑対応ということでしょうがただし書きとして「薄物は専ら夏期」であって通期はダメですよ~の追記がありました。
また薄物にも程があって「中が透けるのもダメ・・・」と。
襦袢・白衣・衣・五条の「重ね着」は結構にきます。
「夏」の概念が変わりつつある今、「夏限定」の意味も曖昧で理解に苦しむところ。
扨、昨日の梟ケ城。
各巨石や石たちの数々が印象的でした(場所はこちら)。
2025年
9月
01日
月
スコーンという具合に雲一つない抜けるような青空が。
顔を撫でる微風さえ無し。お遊びタイムでしたら絶妙のお天気です。
沖縄の空をも彷彿とさせましたが、そちらの海は心地良い風が吹き渡っていますからね。
昨日は名古屋が40℃とのことでした。もう亜熱帯の気分・・・
午前は8月15日以来の法縁(一昨晩のメディテーションを除いて)
がありましたが、2週間のブランクをもたもたしていたせいで、声の仕方を忘れてしまったような。
まぁその時間は息子の家に新しい家族が現れたこともあっての雑用の時間もありましたが・・・
読経の声がかすれたり音程を外れることもありましたが、まさか年齢を言い訳にはできないでしょうね。
息子の方も長~い「父親リスト」期間入り。
如来さんもそれを察したかこれといった仕事も無く、自宅に籠りっきりで家庭内色々ケア(炊事洗濯ネコの世話)に専念しているようで。
あの小僧にそんなことができるということを知って・・・あらためて、ありがた山。
午後、植木いじりをしていると御門徒さんのお墓参りが。
日曜日とは言え、あの空気の中「よくお参りで・・・」となって立ち話少々。
医療に従事されている方ですが、最近のその世界の傾向というか苦言を。
最近、事業の転換や廃業店じまいについて多く聞くようになりましたが、身近なところでは寿司屋、魚屋、電気屋、八百屋などですね。まぁ街の小売業は衰退の一途。医療関係にもその波が迫っているとのこと。
その方のいうこれからの未来への危惧とは・・・
「産婦人科の撤退」です。
「もはやこの地区でお産ができるところを探すのは難しい」でした。
そういえば息子らは浜松の病院にこだわっていました。
息子らがこの世に「出てきた」時は小田原の小さな産婦人科医でしたから今回その浜松の大病院のスケールを見て驚かされたものです。
普段その件、そうは切実に考えたことはありませんでしたが、よ~く考えてみれば住民にとって聞き捨てならない話です。
少子化がその理由といいますが、病院維持のためのコストが跳ね上がったところに「お客が来ない」では経営というものが成り立たないようで。
その件(撤退)、致し方ないことでしょうが、国レベルでの対応の無策は酷いもの、決定的な手立てが見えてきません。そして切迫した危機感というものが伝わってきませんね。
どうするのでしょう、人口減少。
かつて政治屋さまが「産まない女が悪い」などとその件庶民の問題であるが如く責任を押し付けていましたが。
まぁおバカなその手の人間を当選させた私どもが悪かった・・・
扨、昨日の「松平城山城 そのまんま公園」の駐車場に車をそのま
んま置いて、この山を辿ったてきた道を隔てた山の頂上へ。
「梟(ふくろう)ヶ城」です。
望台台に上がると意外も眺望の良さを実感できました。
2025年
8月
31日
日
この夏、特に浜松市の船明(ふなぎら)という難読地名を耳にすることが多くなりました。字面としては難しいものではありませんが・・・特殊な読み。
場所は二俣城から少々、天竜川沿いのみずみずしい緑に囲まれた地ですが、何故かそちらの気温が駿遠トップになるとの予報が連日・・・。
まぁ全国的には「浜松天竜」で通っていますが。
そしてやはり昨日は予報通り40℃超えと。
昨日は朝からフリーでしたので土曜日でなければ二俣方面にそれを体感すべく向かうのもヨシと思ったほど。
夕刻からは「メディテーション」の時間がありましたのでどちらにしろそちらでのんびりなどでなかったでしょう。
テラス前で大工仕事をしていると、御門徒ご家族のお参りがありました。
先日、小中高生向きの夏の講習会(夏休み宿題のヒント)を開催したものの参加者はありませんでした。
それにあわせて「田沼意次」関わりのいろいろをまとめた書面を作っておきましたが、徒労には終わらなかったよう。
後日「興味がある」というご門徒さんが来られました(高校一年生とその母と祖母の御三方)。
東京に暮らしているので、その私の企画には来られなかったと残念がっていただいたわけですが、その書面の内容と持論を少々「あとは自分で調べてね」と手渡しました。
研究課題にするのは少々難解ではありますが、ここ相良の人たちでも知らないようなことばかりであり、相良に御縁がある者にとって今こそ是非、ベストなテーマですからね。
そしてそれから約一カ月。
休み明けに学校に提出するそのレポートを1冊進呈いただきました。タイトルが「べらぼうな人 田沼意次について」。
わかりやすく簡潔にまとめられていて、奥方がそれを一読したあと深~いため息。
「高校一年生とは思えない・・・」と感心していました。
私のその頃といえば・・・お粗末な時間を過ごしていたかと、圧倒させられて反省。
「田沼意次」という人物の解釈、評価が時代によって変遷しているという疑問を抱いたところから始まったといいますが、その出来栄えはやはりその「変遷」について同様の思いを持つ方にとって「なるほど」と合点させられるものです。
しばらく経ってから承諾を頂き、本堂内に置くことができればと勝手に思った次第。
扨、先日記した信光寺を後にして向かったのはそのお寺の北側の山を越えた豊田市大内町の「松平城山城 そのまんま公園」なる地(場所はこちら)。
以前、豊田市内で見かけて驚かされたメッセージ画像のいくつかを記しましたがその際の「採盗者は30000円」という看板のある公園です。
そちらに設置された案内板にも十分に興味をそそられます。
地図はかなり大雑把。てっきりこちらに古城の面影を・・・と思いきや、整備された公園でした。
冬の晴の景色です、空気は澄んでいました。
昨ブログではカンカン照りの駿府城人少なしの様を記しましたがこちらは夏冬関係なく、人はあまり見えないでしょうね。
花咲く頃が絶妙かも知れません。
2025年
8月
30日
土
昨日は静岡の歯科医へ。
春頃治療した歯に痛みがあったため「よし行こう!!」と踏ん切りをつけたわけです。私ども家族はずっとそちらでお世話になっていますが、毎度「よし行こう」的な感覚で医院へ。
それでも先方から苦言を申されたことは一度もなし。
融通が利くというか、いつもご配慮をいただきこちらの無理を受け入れてくれます。有難い歯医者さんです。
午前9時から新築会館の査察に市の担当者が来訪。
それはおそらく宗教法人の施設かそれ以外かを確認に来たと思われます。
奥方が提供した図面を一旦複写するために持ち帰り、すぐに返却に。暑い中ご苦労様でした。
その後スグに静岡に向かったわけですが「虫歯でもなく神経が突出しているわけでもない」とのこと。
よって周辺の歯石をいつもより深め(4mmと)に器具を差しこんでの除去治療。あとは「様子見」とのことでした。
今のところ10の痛みがあったとすれば7くらいに減衰したような感じ。徐々に良くなってくれれば・・・
私の歯科医院滞留の間、奥方は周辺の涼しい場所(デパート)に退避していたそう。
店から店に移動する際「くらくらする」と太陽を呪うような言葉をメールに記していました。
それならと私は医院を出たあと、駿府城散策へ。久し振り。
一人なら面倒くさいことを言われないで済みますからね。
まず目に入ったのが山岡鉄舟の教導石。
そういえば以前拙ブログにて記した際は一番の着目すべき両側面に彫り窪められた文字、石碑の右側「尋ル方」左側「教ル方」についてその画像がありませんでしたので再掲。
「互いに助け合う社会」・・・ベストで理想的。
しかし分断させようという力がどちらでも。
駿府城内へ・・・、堀を渡るのは二ノ丸橋④。
お昼時とあって散策者というか東西を突き抜ける人たちでしょう、ちらほら見かけました。
そこで初めての気づき。
石垣左側に刻印付の石垣が2つ。
これまで何度か通行していましたがまったく気が付きませんでした。
どこに目を点けて歩いているのやら・・・
「いや待てよ・・・」と、ふっと思うのは、何かの改修の際に、人の目に触れやすいこの位置に意図があって据えたのでは・・・などと。
それだけスグに判るような場所なのです⑤。
それから更にぶらぶら。
やはり例の発掘現場に歩を進めました⑥。他に人の姿は片手でにも満たないほど。
そのついでにあちらに設営されているプレハブ小屋にも顔を出し、詰めている担当者に「何か面白い物出た~? 」。
以前と変わらぬ展示物でした。
2025年
8月
29日
金
息子の住まいを急襲するとの指令が奥方よりありました。
それは境内仕作業をして「汚くなるな」ということ。
昼前に浜松に向い、デパ地下で彼ら所望の食料を仕入れて彼らの住処へ。運転手です。
本来の目的はお祝いに頂いた小さな靴たちやら紙おむつを届けるためです。
まだまだ先の事になるのでしょうが、それを足につけて歩き回る姿にハラハラさせられるまで成長できれば御の字です。
小さな赤子は息子らのエアコンがかなり効いた部屋にいるわけですが、医師から「暑いと突然死がある」と脅かされたからといいます。
「ホントかよ~」と思わず奥方と目を見合わせてしまいましたが、せめて「冷風が直接顔にかからないようにせよ」と注進。
極端に考えすぎの感。
もう一つ赤子ケアの私の知らなかったこと。それは新鮮なことでした。
それが赤子を寝かしつけるための「おくるみ巻き」です。
以前はその考えなどは無かったことで、数年前くらいに新生児の寝かせ方のベストな方法として「当然」となっているとのこと。
初めてそれを見た時は息子がふざけてやっているのかと思ったくらい。
私のどこかの記憶、中央アジア辺りの国の赤ん坊の如く、顔だけ出した布にぐるぐる巻きになったような様。
この現代の常識とは、赤子の睡眠=親たちの安心・・・が大いに期待できるといいます。
要はつい最近までいた母親のお腹の中にいるような環境の再現による安心感と「モロー反射」という赤子特有の反応を抑えるもの。
折角寝ている赤子が起きてしまう要因を防止するためといいます。
先日息子らに渡したキイロシロの産んだネコが同居していますがそれをイジルくらいが私のできること。
私が「一番のリスク」と奥方から名指しされていることもありますが、あの小さき生き物、やらかしそうで怖くて触れない・・・
扨、昨日の信光寺。
その名を見て別の「信光」をも連想しつつお参りに入ったわけですが、その「信光」とは松平三代の松平信光です。「松平」発祥の地でもありますからね。
真宗大谷派で拙寺と同じ教区ですので、私は教区発行の寺院名簿を捲りました。
すると何年も前からの号にもこのお寺の掲載はなし。
無住職寺となっていたということですが、昨年新住職が決まって入寺しているとのこと。
一旦無住寺院化してしまったという詳細経緯は不明ですが何しろ新しい歴史が始まったということは目出度い。
新しい歴史、というのはこのお寺の歴史は結構に古いものがあります。
もとは教信寺なる幸田にあった寺が応仁期1469年にこちら松平へ移ったあと1481年に松平信光の子が寺に入って父信光の菩提を弔うため信光寺に改号したといいます。
境内を散策。本堂に上がれるようになっていましたのでまずはご挨拶。たくさんの御門徒さんに支えられている古刹を感じました。
あの時、本堂が開いていたということはどなたかがいらっしゃったのでしょうね。
そしてちらっと視野に入っていた本堂前の宝篋印塔の残欠をまじまじと拝見。
住職がいらっしゃらない時期が長かったせいか、タダ者の墓石とは思えないこちらの小型仏塔(宝篋印塔)の残欠は、無意味に積み重ねられていました。
うまいこと他のパーツを探し出して元の形状に近い復元を試みていただきたいものです。
近くに自然崩壊したであろう石片が散らばっていましたが宝篋印塔の笠の数からして少なくとも4~5基程度はあったでしょうね。
旧本堂の下り棟の瓦でしょうか、家紋の立葵がその出自(本多系)を示唆しているようにも。
同じ松平郷、孫根城の手前にある等順寺と同様です。そちらは本多さんでした。
ちなみに信光寺の新住職は本田さん。
三河の雰囲気が漂ってきます。
2025年
8月
28日
木
風強めで世の中が騒ぎ立てるほどの「酷暑」を感じませんでした。午後から昨日の続きで御前崎市庁舎へ。
1階ホールの給茶機は「温」にして一杯。
テラスに出て奥方を待ちました。
給茶機の場合、この時節だけに「冷」はリスキーに思います。
日々洗浄しているかどうかなどわかりませんからね。
まぁその暑さの感じ方は人それぞれ、実際熱中症で救急搬送された方たちの数が相変わらずニュースで報じられていました。
そもそも体調不良や持病のある方にとってこの高温多湿環境は健勝というものの足を引っ張るでしょうね。
ということは、私の場合はむしろピンピンさせていただいていますので今のところは健康であると胸を張れるのかもしれませんね。どうなるかなんて、わかりはしませんが。
奥方に言わせれば「ただのバカ」なのでしょうが、私の場合オールシーズン晴れて青い空の下にいれば何事も円満柔和にいられます。
曇天や雨降りの日は頭痛の予感、アスピリンが手放せなくなりますからね。
アスピリンと言えば昨晩のNHKクロ現で“ドラッグリポジショニング”を紹介していました。
「リ」は「再」ですから薬の効能再確認ということ。
既存、今ある薬でまったく別の病への効能を探索しようというもの。
番組冒頭では解熱鎮痛薬のアスピリンで大腸がんの予防ができる・・・といった信じられないような効能を伝えていました。
実際に大腸がんに発達しうるポリープの縮小がみられたとのこと。
私は頭痛薬は常に身近なところにプールしていますが、できるだけその服用を抑えたいという気持ちが先行(体に良く無さそう・・・) 、その日の行動予定を見てから服用することにしていますが、もとより血栓の予防にもなりうるといいますが、その薬で大腸がん発症の予防になる?というのならば、躊躇することなく率先して服用しようか・・・と思った次第。
扨、大給城の少々先に行ったところに信光寺という真宗大谷派のお寺がありました。
この地はいわゆる「松平郷」のくくりになりますが、字名が「トゝロ」。
この辺りはカタカナ地名が各所に見られますね。
酒呑のジュリンナ遺跡などの名もありました。
こちらの境内にはイブキの大木がまずその存在を主張していました。
標語もそうですが、こういう青い空の下の機縁、思わずニッコリしてしまいます(場所はこちら)。
2025年
8月
27日
水
昨日は息子の役所への書類提出の件を記しましたが、私どもは叔母の件、いろいろのあと始末を。
亡夫の恩給から年金等の停止解約もそうですが、少額ではあるもののその残金について受取を申請するための書類集め。
叔母は子供がいないため、相続権の上位は私の叔父叔母たちになります。
よって私の相続権はナシに等しいのですが、奥方の差配でそれを再逆転しようというもの。
だれが叔母の介護の為に実際に動いていたか・・・ということになりますが(それは私ではなく奥方です)それを叔母がお世話になった施設に承認いただき、関係書面に署名いただくというものです。
そののち市役所で書類集め。結局は本籍のある御前崎市役所に行くことになりましたが。
ただの老人の死というもののあと始末ですが大事極まりなし。
ただしいずれの窓口での折衝は100%奥方です。
そして私は近くで待機しているのみ。
それはバカバカしい時間であるとは思いますが、実際の相続権者を私にするためのもの。
窓口で「ご本人は?」「本人でないとダメです」とそれを拒絶要件とされた場合の「待機」でした。
要は奥方に連行されて・・・ということ。
まだまだ続きそう。ああ面倒くさい・・・
夕刻には彦根から増田氏が彦根の菓子、金亀を土産に再再訪されました。この金亀(こんき)とは彦根城の別名であの吉田城ちかくの岡村酒造(またはこちら)のお酒の名にもありました。
浜松龍潭寺で行われた命日法要(8月26日)にお参りしたあとこちらに足を伸ばしたとのこと。
近くの黄檗宗宝泉寺跡を案内、そして相良史料館1階の泥舟の落款がある扁額の存在「天香閣主人(石坂周造)」を紹介してお別れしました。
大徳屋で一泊するとのこと。
画像は奥三河の道の駅したら。したらは「設楽」ですね。
外の人には読みにくいかも。
こちらの道の駅施設の裏側には豊川が流れていて足助の巴川同様夏の水遊びに賑やかになる場所。足助は名古屋圏になりますが。
「奥の墓道」氏と立ち寄った時の画像ですが、こちらの繁忙は夏が主体かと。位置的には昨日ブログの名号碑の近くです。
ここまで山中入った場所の川遊びはさぞかし快適でしょうね。
河口付近の水質とは断然違うでしょう。
また塩でべたつくこと、決して涼しくはない海岸よりも今の人たちは川、とくに清流への指向にあるのかも。
この街道257号線に並行する豊川はどちらにおいても水がキレイです。
また「道の駅したら」のウリは子供達とその筋のマニアのためにある旧豊橋鉄道 田口線 「モハ14」車両でしょうね。
ここに訪れる前にはそんな鉄道があったことなど知りませんでした。ウイキペディアにありました(→) 。
2025年
8月
26日
火
蝉の声はいよいよトーンダウン。そして色々なところで「9月」の声が聞こえてきました。
一年の経過・・・なんという速さでしょう。2025年の終盤に入るのですが、あっという間でした。
「無常迅速」とはよく言ったものです。
実はこの週明けから私は奈良方面にフラッと出かけるつもりでいました。この週は事前の予定というものがありませんでした。今、突然の法縁の依頼があったとしても「次代」が控えていますのでお気楽なものです。
しかし一昨日の松の剪定で疲労した事と、各地でクマの出没のニュースが日々入っていることもあり結局は出動せず。
何時ぞや奈良の山中に「クマが出た」の報がありましたね。
この時節は天気の急変のリスクがあることも承知していますが昨晩のニュースでは京都・奈良の豪雨、それも酷い様を伝えていました。
それを見て胸を撫でおろして溜息をついたところに、奥方が「どうして行かなかったのだ!!」。本当にツイていました。
土砂降りの散策なんて・・・
あの天候不安定の様を見て、せめてもっと涼しくなってからでも・・・を思い、今週は自重することに。
扨、先日記した息子の喫緊の課題、出生届の提出は予想通り拒絶されたと連絡が。
とり合えずしらっトボけて提出、一旦窓口は受理したもののしばらく経って拒絶の旨を伝えられたそうです。
それは当初、阿弥陀経の文言から引っ張ってきた字面でしたが、彼は私からの事前情報からプランBを用意してそちらを提出、一件落着したとのこと。
抵抗の意で一旦平仮名で提出して~の私の提案した選択肢は彼が拒絶。その文字が将来OKになる確証もなく、なったとしても変更には裁判所の認可が必要ですからね。それを子供に背負いこますことは酷であるといううこと。
私どもが希望する画数9の平易な文字「玻」が拒絶されたわけですが常用漢字・人名漢字の中には滅多に目にすることはないような難し気な漢字が並んでいます。頭にくるくらいに・・・「そんな字を使うものか・・・」
ちなみにその文字は阿弥陀経中で、いわゆる七宝のうちの「玻璃」です。仕方がないので「その次の男の子に御縁があったら・・・」と慰めたところでしたがそのプランBの字面は正信偈からの採用でした。まぁ、いいか・・・
私どもは通称「ハリー」・・・ハリーハリー(急げ急げ~)にハリー・キャラハン(「ダーティハリー」) 。 面白がっていたのにね・・・何せ呼びやすい。
昨日も「大川原化工機」の冤罪事件、司法当局の「犯罪でっち上げ」によって心身ともに苦痛を味わい亡くなった方の墓前にその関係者お歴々が謝罪に出向いていました。そこで遺族からコテンパンにやられている画がありました。
まったく別の件ではありますが、なんとなくスカッとしたところです。
「意味不明ばかり、もっとまともな仕事をしろ・・・」そんな感じ。すべてにおいて「その理由」を国民に説明しなくてはね。
画像は長篠設楽原のずっと北、豊川筋の街道沿いの山側の木々の中に潜むが如く立つ名号碑(場所はこちら)。
こういう場所で「南無阿弥陀仏」に出逢うこと、感動ものです。
また、この建碑者の念仏の立場は当流とは異にします。
同じ浄土系、念仏を拠り所とする僧ですが、まったく・・・
2025年
8月
25日
月
山門入ってスグの松の剪定の残りをようやくやっつけました。イイ加減な仕事でしたが、ずっとそのもやもやが心に残留していました。
見れば葉先、今年出た新芽部分が茶色に変していました。
どうやら降雨無し日照り続きで末端まで水分が届かなかったせいかも知れません。先端部は日照がキツそうですからね。
また鐘楼裏のクスノキはかなり痛みが進んでいます。
昨年以来、枝先の枯れが進んでかなり棒切れ化が進行。
見苦しことこのうえありませんので今後の課題となりますが、下に鐘楼の屋根がありますので慎重さを強いられます。
その仕事は風の無い安定した天候という条件が必須ですので、まごまごしているとあっという間にチャンスを逸します。昨年がそうでした。
門の外からは風が吹き込んで秋の雰囲気を漂わせていましたが来年も今年同様「極めて暑い」という夏が訪れるのでしょうか・・・。
秋の台風シーズンを迎えることになりますが、それを考えれば尚恐ろしいことです。
おそらく世界的な温暖化の危惧は確定的。
「そんなものはナイ」と豪語するアメリカの大統領殿の権威が消滅してからでは遅すぎる。
天変異常は植栽もそうですが農業生産に支障をきたすことは必至です。
たとえば事情はそれぞれ違うこともあるでしょうが現状コーヒー豆の値が跳ね上がって喫茶店の経営が崩壊寸前といいます。
また多様に物価高に反映されてきますので、私どもがいつも期待している「これまで通り」とは行かなくなるでしょうね。
それでいて我が静岡の名産、緑茶の値は下降傾向というのはいかにも皮肉です。
昨日の大河ドラマでは天災飢饉によるコメの高騰、食糧難による人心の混乱が描かれていましたが、今その画像はパレスチナ、ガザの報道でうかがい知ることができます。
まったく酷い有様で「そんなことがあっていいものか」と私どもの無力というものを改めて知らされます。
小さいころから父親にアウシュビッツの悲惨、人という者の行いについて重ねて聞かされていましたが、歴史はそれも皮肉、今彼らがその悲劇をガザの人々に降り注いでいます。
国連は「飢餓状態」の表現をしてイスラエルの暴挙をやめさせようとしていますがイスラエル首相はそれを否定、自前の身勝手論理を展開するばかり。
私のユダヤ、イスラエルという国への考え方はここへ来て変わりましたね。
しかし世界の大多数はそのような彼(ネタニアフ)の理論はまったく信じていません。
ガザの街区を瓦礫と化して更地に。占領支配したのち先住アラブ人を追い出して新たなイスラエル人入植者を入れるといういわゆるズルい領土拡大を公然と。
そして将来のリスクとなりうるパレスチナ民間人もついでに抹殺してしまおうという魂胆が見え見えです。
その異常な自身あるいは自国民の幸福のみを追求しつつ、他方の不幸のどん底を省みない「人間」というものの極めて露骨で見苦しい様を見せつけられているというのが彼の地の出来事です。
それもこれもアメリカという超大国の後ろ盾あっての悪辣なる振る舞いなのでしょう。
持てる者、持たざる者の格差は広がるばかり。
望みとしてはパレスチナを国家として承認することが一番なのでしょうが・・・
しかしアメリカ(トランプ)忖度第一を旨とする日本にはできないのかもね。
まず、非戦や平和の文字を毎度綴っている私ども日本人はあの国のガリガリにやせ細った子供達に対し「何もできない」ところと、「かわいそう、気の毒」をただ思うだけの無能を立ち止まって考えるべきですね。
そういう私もただここに記すのみなのですが。
仏になって自在に救済に向えることができればいいのですが(歎異抄四条)・・・南無阿弥陀仏。
画像①は三河本證寺(江戸期迄拙寺の親寺)の親鸞聖人85歳の時に記した聖徳奉讃の一。
「長者卑賤ノ身トナリテ 経論仏像興隆シ
比丘比丘尼トムマレテモ 有縁ノ有情ヲ救済セム」
聖徳太子といえば「和を以て貴しとす」でお馴染み。
「十七条憲法」を制定されましたが祖師親鸞さんは生涯にわたって聖徳太子を讃嘆されました。真宗寺院には100%その像が掲げられています。
仏縁のある私ども(持つ者も持たざる者すべて)そして僧・尼僧が尊敬されてもされなくても・・・「救い」があるという確信、我らは「南無阿弥陀仏」と歓んでいます。
キリスト教(特にユダヤを後押しするキリスト教福音派)にもその手の思想が充満しているのだと思いきや、他宗(イスラム)をせん滅してでも自らの利益を求めようとする「人のこころの闇」というものがあることがわかりました。
そもそも差別的な旧態以前の保守的と思っていましたが・・・
そういえばイスラムには「目には目を~」という有名な言葉がありましたね。
親きょうだい子供まで殺されて、それ(目には目)を「いつかはやり遂げてやる」の心、虎視眈々が少なからずあるでしょうから、力のみで制圧しようとする今のイスラエルのやり方に将来に本当の平和などはまず訪れることは難しいでしょうね。
「人間の心の闇」はどろどろで深淵なるもの。
②は親鸞さんの記した名号。ご本山の所蔵になります。
2025年
8月
24日
日
息子の奥方と子の両名は何とか病院から解放され、3人での生活が始まっています。
当初のドサクサからすれば思いがけない機縁を戴いたわけで私どもとしても安堵した次第。
昨日は新参者の赤ん坊のベットの上につい先日その家に入ったばかりのキイロシロの子が先輩面をして「観察」に上がってきたそうです。
「ネコには気を付けろ」と念押ししてはいますが、油断も隙もありませんね。彼らにとって「不思議な生き物」への探求心は尋常ではなく常にハラハラ、配慮が肝心です。
新型コロナが再び流行しだしているとかで、親子とも外出を控え、いよいよストレスが溜まりつつあるころですが、息子がまず動かなければならないのは役所への届け。
名前はかなり以前から決めていて「まぁコレです・・・」といった具合に各々報せていましたが、昨日になってその一文字が「名前に使用できない漢字」ということが判明。
「常用漢字」でも「人名用漢字」でもないから(戸籍法)で出生届の不受理が推測されるということ。
よりによってその文字については最高裁において却下されたという判例がありました。
息子には選択肢としてはまず知らないフリをして提出し、却下されたら戸籍上はひらがなで登録。通常の社会生活で漢字を使用しつつ、それを管轄する法務省に柔軟性が出てそれがOKになった頃、成人になる前辺りに再申請するという案もあることを提示しました。「戸籍と違う?」 どうでもイイ。
しかし一言でその裁判所の判断について「くだらない」と呆れ吐き捨てている私がいました。
それは私どもが頻繁に拝読する阿弥陀経の中に登場する文字で一般の方には馴染みは無くとも10画にも満たない字であり今云うキラキラネーム然としているものでも難読な字でもありません。
そういったルールが確かに「ある」といえばそうなのですが、どなたがどう判断してその字を「ダメ」というのでしょう。
理由が知りたい。
そもそも裁判官など変てこなプライドだか何なのか知りませんが多くの冤罪事件を看過し、国の賠償責任を発生させているくらいにいい加減な判断がまかり通っていますからね。
戸籍法・・・何とかして欲しいですね。命名について希望を聞き、さらなる自由度を広げて欲しいものです。
ただでさえ出生率が下がっているのにもかかわらずくだらない権威の如くを振るって親と子の希望というものに水を注さないでいただきたい。
扨、画像は大給城の水の手曲輪の図。
まさに他に例を見ない特徴ある斜面になります。
案外となだらかで、現状は堆積物に覆われていて段差がハッキリと浮かび上がっていませんが、それでも往時の形状は推測できるというもの。
これは「谷筋を堤防などで複数に区切って2つの曲輪として構成し、それぞれの曲輪内を井戸水と雨水によって湛水させることで、水堀と水利、両方の役割を果たす」(Wikipedia)とありますが緩やかな斜面=攻城側有利を解消できることもあって一挙両得どころか「一挙三得」の効果を期待する施設だったと思われます。
各所に積み石の遺構が見られることも散策者にとって絶妙、得るものがありました。
2025年
8月
23日
土
酷く面倒くさいことでしたが吉田町の携帯電話ショップに。
一昨日からのパッドの不具合の件で、予約をしていました。
しかし、予約をしてから・・・というのが店の基本で、直接お店に行ったとして対応不可といいます。凄すぎます。
多くのお客を捌ききれないということなのでしょうね。
不具合の件、原因はパッドには無く、充電器かコードが原因ということで。
店員さんに事情を説明してそれを渡すと「5秒」で判明させていました。それが充電不足と。
あまりにもバカげたことをやらかしたものです。
ただし腑に落ちないところがありますが・・・
充電器もコードも複数変えて入念にチェックしたはずでした。しかし結論としては、コレ。まったく情けない。
吉田往復の時間もバカバカしい。
新規購入に至らなかったことで「まぁ いいか・・・」。
奥方も出費が無かったことを歓んでいました。
携帯電話といえば、このほどカンボジアでとっ捕まって日本に移送された詐欺を生業とするの御一同29名の件、ニュースで視聴しましたがそのアジトで押収されたという携帯端末ときたら、夥しい数でした。
それらを駆使して役割分担、わかっているだけで14億円を騙し取っていたといいます。やはり「知らない携帯番号には出ない」というのは正解なのでしょうね。時間の無駄ということで。
驚かされるのはその29人を仕切っているボスが中国人というところ。
外国人に顎で指図されて同じ日本人からカネを奪う・・・
簡単に騙しやすいという価値がある日本人をターゲットとするに日本語を話せる者はやはり価値があるとのことです。
考えてみればその29人の皆さんたちも情けないといえばそれ。その内訳は男28、女1。19歳が3人。20代が15、30代が8。40代1で50代が2だとのこと。
世に言うオッサンが11人、若衆が18人。
「さるべき業縁のもよおせば いかなるふるまいもすべし」(歎異抄)というのが人間というものですから、まぁそんな脱線もあるにはあるのでしょう。人間だからね。
私はその御勝手所業の結末を傍観するほかはないのですが、一つ思うのはオッサンはともかくとして若い衆のこと。やはりその親たちの思いというものを想像してしまいます。いやはや大変でしょうね。
我が子の将来というもの、頭を抱えてしまうのでは・・・私なら「勝手にしやがれ」と投げやりになりますが。
名前が出てしまって世間体がいよいよ悪くなったとしたら家を引き払って新天地など模索しなくてはらないかも。また心が荒みますね。
盆帰省で会った「奥の墓道」氏と先日つくづく語ったのは「あまりにも早い 早すぎる」でした。
勿論それは時間の経過、つまるところ一言で「人生」の短さです。
「こんなにも早く歳を取ってジジイになるとは・・・」の感覚ですが、若い時はそんなことは微塵にも考えません。
それほど短い人生にも関わらず「大金を簡単にゲットして楽に暮らしたい」なる短絡の所望、如何にもその結末は「時間とカネの浪費」と相反するものとなるのでした。
長期にわたって責任の所在について取り調べを受け狭い空間で独り反省の時間が待っています。
ただ自業自得と締めるには切ないこと。
「楽に儲かる」なんて話はそもそも(100%)ナイのにね。
ずっとゲームにばかり没頭していたのかな?
所業のリセット(無かったことにする)などできないことをここで初めて知らされるわけで。
責任というものを負うことを知るのでした。
画像は昨日に引き続き御門徒さんからの画像になります。
蓮が見事です。仏教で華といえばコレですね。
③は大井川渡河中に西を見るの図。助手席の奥方が撮影。
日没に西方浄土を思って南無阿弥陀仏。
蓬莱橋が見えます。橋の歩道を歩けば絶妙なのですが。
「私」の太陽の位置は・・・どの辺り?
2025年
8月
22日
金
境内作業、鉢植えの整理を少々。
集中力が持続せず、すぐへこたれてエアコンの効いた室内に逃げ込むという軟弱さ。その繰り返しで一日が終わります。
夕刻に冷たい空気が流れ「雨雲が近づいています」と携帯に配信されてきますが、結局雨はなし。
よって17時すぎに水やりを。
この時期発生するハイビスカスの葉を喰う虫対策を。
殺虫剤を仕入れに量販店へ向かいましたがどれもこれもやたらと値が張るようになってまったく驚かされました。
一昨日の組会で私が皆さんにお伺いしたかった事・・・「本堂にエアコンがあるの?」でした。
当日の会場のお寺の本堂には大型エアコンが2台稼働していて絶妙な快適空間でしたので。
その件、「ナイ」というお寺もありますが、エアコン設置のお寺について夏と冬の光熱費高騰につき別段ある程度の費用負担のご依頼をしているかもついでに。
するとオールシーズン変わらないと。
拙寺では会館の法要につき余分な依頼を設定していますので「どんなものかな・・・」と思案しているところ。
まぁそもそも本堂参詣は外せませんし、拙寺本堂にエアコンを設置することはありません。
そして今一つ、価格が高くなったと思うのはローソクですね。
以前は法縁といえば和ろうそくをバンバン使用していましたがそれはもう過去のおはなし。
御本尊前のみ和ろうそくを使用していますが、他所は洋ローソクの極小使い切りサイズで対応するようになりました。
どんだけケチケチで回すようになったか・・・
しゃあない、しゃあない・・・
扨、大河ドラマはいよいよ佳境に。
特に面白く楽しく視聴させていただいています。
以前から記していますが「唐衣橘洲」(からごろもきっしゅう)
の登場が無いことは残念無念。再三記していますが・・・
江戸三代狂歌師とも数えられ、他の狂歌師の登場があるのにもかかわらずですからね。
相良に来て相良で亡くなった一橋家代官、小島蕉園の父親というだけですが私の執拗なこだわり。
その小島蕉園だけでも大河ドラマの物語になりうると踏んでいるくらいですから・・・
①は唐衣橘洲(小島源之助)
「世にたつは くるしかりけり 腰屏風
まがりなりには 折かがめども」
一部屋に複数人が住まう息苦しさのような環境を歌ったものでしょうか。まがりなり・・・間借りなり。
②~昨日の北陸行脚中の御門徒さんから送られてきた井波別院瑞泉寺の画像。
そこの土産と言えば木彫。
高価な品で気軽に手が届かなさそうですが。
先日はその周辺にある「道の駅」の営業状況が芳しくないということが報じられていました。
幹線道路から離れているという立地の件が問題であるとのことでしたが、今後その形態は岐路を迎える事は必至、淘汰がはじまるや知れず。
というわけで牧之原に先日オープンしたそれ・・・限りなく怪しいのかも。
2025年
8月
21日
木
8月下旬の友引の日は当教区組会(そかい)が催されます。
当流に日の良し悪しを選ぶ習慣はないのですが、この友引といえば当地では火葬場がお休みというのが常。
よって事前にその予定を入れておけば「突発的な法縁」はまず無いということです。
「そかい」といえば、一昔前のこと・・・祖父の代に学童疎開に来られた縁で知り合いになった桑野氏とたまたま電話でお話しする機会がありました。
91歳の桑野氏はその年齢とは想像しがたいほど会話に覇気がありそれだけでお元気だということがわかりました。
何より私と奥方の健勝を気遣いつつ「また相良に行くから・・・」でした。
こうこなくちゃイケませんね。
長寿の秘訣は「常に前向き」「常にポジティブ」です。
昨日午前は息子の奥方の車の廃車手続きにひとっ走りしたあと、掛川の組長のお寺に向いました。お城の近くです。
私にはチンプンカンプンなお話ばかりで「聞く」専門にありましたが、少なくともあまり良きお話ば無かったよう。
この時節に決定する本山経常費に各ご依頼金はアップ。
それでいて各還付金は減額か廃止、本山地震共済金の支払い上限はこれまでの50%に減額・・・といった感じ。
それは能登半島で多くの当流寺院が痛んだことからですね。
私は一言「お寺、やめなきゃイケないね・・・」。
今年になって3件ばかり廃寺になっているようです。
まぁ、来る来るいわれている南海地震が来なければいい。
それでOKOK、楽観的にいきましょう。
バカといわれようが。
画像①は昨日の本堂阿弥陀如来。
②③は現在北陸巡り中の御門徒さんからの図。上越市ですね。
ゑしんの里の親鸞さん像と北陸新幹線の図といいます。
③「謙信公祭」とやらが開催されるとのこと。
2025年
8月
20日
水
マムシ除けにネコ・・・、悪くないですね。
ネコの本能、俊敏さはヘビに大いに勝って、まず噛まれることはないと「奥の墓道」氏が。
そういえば昨日朝の「キイロシロ」は遊び相手として不満足だったが何処に隠した?、といった感じでした。
「ヘビセンサー」としてネコは重宝ということか。
昨日は朝から奥方の指図で浜松方面にてあれこれ。
当初、病院では各事案の出現から、母親は「MFICU」子供は「NICU」と離れて入院しました。
要は彼の者が「胎便吸引症候群」に陥って心拍数低下の急変に至ったからですが、関係者の様々な対応のおかげで早い回復となりました。
各検査項目もクリア、昨日の様はあの鼻から胃へのパイプと左手に刺さっていた点滴が外されていました。
なにより病室が母子一緒になっていたこと。これほどの便利はありませんしこれが本来の姿ということですね。
あとは退院を待つだけ。
あらためて感じます。
私たちは当たり前に生きて生かされているのではないということを。
あの「石窟」からの脱出以降、トントン拍子に改善されていっているわけですが、今は別に指摘されていた「水腎症」の経過観察を。今後適時エコー検査をしつつ。
これもまた楽観視しましょう。
あ奴と阿弥陀さんにまかせます。
その楽観はまず見た目で感じます。
それが無茶苦茶に元気に泣いていること。
そして息子の腕の中であ奴がゴクゴク、ミルクを飲んでいる姿を見て。
というわけで、いよいよいろいろと用意しなくてはならないものの多々、一日中運転手として動きました。
子供を育てるのにこれだけおカネがかかるのか・・・
子育てが追い付かない家庭もあるでしょうしこれでは人口の減少に歯止めがかからないわけです。
③は息子の家と病院との往来に必ず通過する犀ヶ崖資料館前。
2025年
8月
19日
火
快晴の中、大工仕事の少々と少しばかりの境内樹木剪定を。
藪の中にも入りました。
一番気がかりなのはマダニですね。
幾度もその恐怖を味わっているクセにNOケア作業。
「次(4回目)はナイぞ」と思いつつも平チャラ気分。
「その時はその時」風楽観でしたがやはり「死ななきゃ治らない」というアレなのでしょうね。
時間を惜しむわけでもないのですが、庫裏に戻って、ちゃちゃっと虫よけスプレーを噴霧しておけばその心配は和らぐのですが・・・
夕刻に近所の御門徒さんと話題になったのがマムシの件。
その方の隣家の方から「マムシをとり逃がしたので気を付けて~」との忠告があったとのこと。
小さい孫たちが遊び回っている庭付近のことですのでその存在には「まいった!!」とのことでした。
私は「きっと境内にもいるでしょう」と木々に囲まれた拙寺も大いに出現しうる環境であると。
しかしながらクマやマダニにヤラれたニュースはあってもマムシの咬傷については聞いたことがないので被害は相当稀な事案では・・・と楽観論。
沖縄ではハブ被害についてはよく聞こえてきましたが。
血清は榛原病院あたりに「用意されているだろう」の推測をもってその話を終わりました。
その方と別れて自宅に戻ると拙寺のキイロシロ(ネコ)が暗がりで「何か」とじゃれあっているところでした。
まさかと思ってそのひも状のものを凝視すればマムシでした。
あの方の隣家で見失ったという同じマムシがここに出現したとは考えられませんが、よりによって先ほどの話の主人公が境内に現れるなどかなりの奇遇です。
ネコが噛まれなかったのは不思議なことではありましたが、私はそのヘビをプラ製のミに入れてその方の家に駆け込みました。そのヘビ繋がりの奇遇について現物を見せながら、はしゃいだわけです。その方は「ありえない・・・」。
「ヘビの話をするとヘビが出て来る・・・」ヨタ話のようなことですが二人で驚き合いました。
その方は先ほどの話では「殺す!」を主張していましたが、そうあってはならぬと私は「放す」の持論を展開。
話の中で「ヘビをいじめるとヘビの仕返し(祟り)がある」といった「さもありなん」的おどろおどろしさについて語られていたこともありましたが、その信・不信はともかく彼の息の根を止めるなどの権利は私にはありません。
息子の子が数日前まで「ダメかも」の最悪のことを思い、例によってあの者用の自作の棺のサイズまで頭に描いたほど。
殺生は避けたいところです。
そこでどこに放すかということになりましたが、樋尻川はNG、向かいの藪はNG、拙寺の境内はNG、小堤山公園も尚更NGとその方の主張。
やむなく軽トラの荷台に積んで海岸まで向かったのでした。
それが150号線の向こう側、海岸の松林。
あとのことは「彼」自身にまかせます。
「下手に放して被害が出れば住職の責任になるかも」との忠告を受けましたが個人でそれを掴まえてから「殺処分しなくてはならない」などの法はありませんからね。
①9月6日は相良の花火大会とのこと。私は興味の外ですが。
その看板の近くでgood-bye ・・・。
夜の松林は特にお気を付けください・・・
まぁ自然豊富な相良、どちらにでもこのヘビは生息しているでしょうからね。
それより大河ドラマはその翌日9月7日が相良城破却の回と聞いています。
その回の次の週は三連休。
相良は祭りで盛りあがるようですが、相良史料館等への見学者も盛況になるのでは・・・受け入れ態勢の方はどうでしょう。
2025年
8月
18日
月
昨日は時折雲がかかる場面もありましたが午後にかけてスカッと晴れ渡りました。
色々なところで「暑い」の言葉が聞こえていましたが、結構に風が吹き渡って「耐えきれない」とボヤく(お盆休みで都会を闊歩する某の弁)程でもなし。慣れちゃいましたね。むしろ秋をも感じます。殆どの予定は昨日で終了しました。
まぁ、袈裟を被っての法務に、黒衣の炎天下(墓参り)で当方、盆休み気分などありませんでした。
午後は大工仕事ののちに2件のご門徒さん宅へ訪問。
一昨日不在にしていたそのフォローもありました。
そのうち1件はお内仏閉扉式。今年だけで何度それを行ったでしょう。
仏具屋さんへの依頼はお内仏撤去。墓石屋さんへの依頼も墓じまい墓石撤去。「新規」の依頼はもはや無くなり、ご商売方々の多くの溜息が聞こえています。
夜間は大河ドラマに続いてNスぺの後編「総力戦研究所 日本必敗のシミュレーション・・・」を視聴。
よせばいいのにの「よせ」が事前に提示されていたという口惜しさよ。
フェイクにコントロールされた社会というものからは権力者にとって都合よくやりたい放題、結果、無根拠不合理な盲目性を以て邁進しようとします。
走り出そうとする彼らは自らにとって都合の悪い意見は黙殺、無かったことに・・・。
末端の国民はただその決められたものに流され、死していっただけですね。すべて彼らのために奉じた無駄死にだったいうこと。
無意味な戦争に市民を巻き添えにしないよう、皆それを歴史から学び過去の過ちを未来にわたって反省し続けなくてはなりませんね。
画像は米軍が雨あられの如く日本本土に落とした焼夷弾の図。
お天気、暑いの騒ぎではありません。
あの緑色の「親」が投下後、地上700mで装填されている36個の白くて長いリボンのついた焼夷弾がばらまかれます(落下の安定を図るもの)。
それは都市部の一般市民の生活困窮を目途とした「非情」で「焼け野原」にすることが目的。
多くの市民がこれで未来を亡くしていったのでした。
イケイケドンドンの一部の権力者たちの捻じ曲がった野心と意地が国民をどん底に落としたことは周知です。
バラけた焼夷弾そのものの重量は3㎏弱、避難中に背負った赤ん坊に直撃したり頭に突き刺さるなどの事例も聞きます。
また700m上空から30㎏の弾頭が加速度をつけて闇夜のドサクサの中、落下してくることも恐怖。
豊橋空襲(石碑建立)についての記述にはその地獄の様がありました。
2025年
8月
17日
日
昨日、私は殆ど一日、奥方と浜松に。
そこで息子の奥方の家族と初めて対面、それから母子の入院する病院へ向かいました。
息子らは結婚式とやらも挙げず、昔ながらのそのイベントに伴うなんたらかんたらについてすべて割愛。
まぁ御対面のタイミングが無かったというわけで。
私どももそうですが、先方も「面倒な事は御免」が主旨なのでしょうが「まかせるよ~」風の緩い感覚。
今となってはそれで助かったというところですね。
まぁ私どもの時も「そんなもの」でしたから。
浜松滞留中、浜松天竜地区に豪雨の報せがスマホにありましたが、私どもがいた場所は雨の一粒もなし。
帰宅してからも「静岡に半端ない雨」の件を報じていましたが私が15時すぎに帰宅してからも例によって相良には降雨はなかったかと。至って静かでした。
扨、一夜明けて彼の子の様子窺いに病院まで赴いたわけですね。
昨晩は面会NGでしたが、たまたま8月15日の法要の翌日をフリーにしていました。
息子は病院と自宅を何度も往復し、疲れた顔を覗かせていましたが既にあの者の新しい情報を仕入れていました。
それが何より、あの「石窟」(昨日)から脱出できたとのこと。
要は自分で呼吸ができるようになったということ。
至極目出度いことで、取り敢えず・・・の感。
私にはよく理解ができませんが、「肺の洗浄が行われた」とのことで改善の傾向にあると。
退院についてはまだ先のこと、現状母子は離れ離れの病室です。母親は「MFICU」、子供は階の違う「NICU」。
ともに厳重に管理された病棟に入院しているわけで、とにかく母子が一緒のベット、そして退院というレベルにはまだありません。
子には胃の状況をモニターするためのチューブ、左手には点滴用?のチューブが繋がっていました。
とにかくデカイ声で泣いてくれたことには安心させられた次第。出てきたときは「一瞬間 ひと泣きして黙り・・・」だったといいますから。
まぁ「まかせる」他はありません。すべてにおいて。
15日の晩、奥方は「眠れなくなった」といいますが。
こういう場所に出入りすることは初めて。人数制限も時間制限もありました。
「MFICU」も「NICU」も「胎便吸引症候群」もその語すべて
初見。「生まれる」ことの難しいことよ。
そこを通過してこそ、これからの「生」が始まるのでした。
スンナリ行けばいいのですが、なかなかそうはいかないのですね。
そういった自身と他の「労」のおかげで「存在」している事を忘れてはいけませんね。
誰もが偶然奇遇の基に生かされているのでした。
今一つ私が知ったこと。
それが「Octopus for preemie」。
タコが赤ちゃんの呼吸をラクにする?
しかしまだ、目は見えていないよう。
とにかく楽観的にいきますよ。
2025年
8月
16日
土
今年の8月の法要は昨日8月15日。
誰もが知っているその日・・・。
あの戦争が終わってキッチリ80年が経ったわけで、拙寺の梵鐘をその回数80回を撞いていただきました(CALL-コールの鐘)。
十分な告知がされていなかった反省はまぁありますが、それを
目的に来られた方は稀。静岡の秋野氏くらいでしょうか。
よって、たまたまお参りに来られた方たち、拙寺婦人部の会合+二胡の演奏会に出席された皆さんを重点的に案内させていただきました。
法要も会合も二胡の演奏もすべて会館「無碍」にて。
本堂へのお参りはそれぞれにおまかせしました。
やはり8月の法要は空調の安定した室内に限りますね。
この件も継続していきましょう。
昨年のコンサートは演奏者も観客も「息も絶え絶え」でしたからね。
扨、11時からの鐘撞きスタートでしたが、奥方の携帯に浜松在住の息子からメールがありました。
それが「生まれたよ」との画像付き。
私の携帯へは奥方からの転送。
うすうすは「そろそろ来る・・・」の予感はありましたが予定日はもっと後でしたから。
わかりやすく、ハッキリした月日。
絶対に忘れようがない日ですね。否、阿弥陀さんから「わすれるな」「語り継げ」の命題をイキナリ彼は与えられたのでしょう。
ただしその者は現状「胎便吸引症候群」の試練を。
NICU(新生児集中治療管理室)入りしました。ここ数日予断を許さないといいますが・・・
その件もその者の生命力と阿弥陀さんにおまかせします・・・
まぁ、ここへきて「ツイてないぜ・・・」とボヤきたくはないですがね。
そして周辺縁者の落胆も。
唐突ですが「またキミは悲観的なことばかり並べる・・・」などとオッドボール軍曹(戦争コメディー「戦略大作戦」の戦車隊長)に失笑されそう。その件、先日「奥の墓道」氏との会話の中でお互いそれを思い出してニヤついていたばかり。
戦争を笑いに化かす・・・死んでいった者たちからすればたまったものではないでしょうね。
映画は映画、まずは超楽観スタンスで・・・「生きる」歓びを提供いただけるようそれを待ちましょう。
③は高天神城本丸下の大河内政局が押し込められていた石窟
の前、かつて得度式から帰ったばかりの息子と行った時の図です。
それが「オヤジ」となるなんて・・・時間の経過(人生)は如何にも早い。
石窟のかつての様はこの通り。しっかり中の様子を覗き見ることができました。
今は崩落の為、入り口は土嚢で覆われています。
2025年
8月
15日
金
午前中は法要、お盆のお参り多数に付き、水屋のゴミ袋はあっという間に満杯になって昨日も奥方はあたふたの一日。
午後は八月の法要の準備、境内清掃等、世話人様が来られていましたのでその休憩タイムにも奥方は奔走。茶菓子職人と。
テントも一つだけ張って、鐘撞の準備をしましたが、炎天下のテント内はまさに地獄。紺色の屋根が太陽の熱を集めまくりますので太陽光の遮蔽ということでは少々ギモン。
尚、八月の法要(今年は二胡のミニコンサートの開催)の開催場所は本堂でなく無碍館にて。
エアコンをギンギンに効かせて快適を追求します。
扨、先日は地名のキラキラ化の傾向について相良でも古い家のご門徒さんと話す機会がありました。
以前拙ブログでは「古い字(あざ)名は見えない歴史の示唆」な
どと記していましたが、要は単純に「歴史を消すな」ということです。
地名・字は古い時代の御先祖たちの津波や水害のポイントを伝えるメッセージであることは最近になって周知のことになっていますが、理由はどうであれ、私は安直に地名・字を変更することはどうも感心できませんね。
時に「無理がある」と思わせる地名・駅名が出現したりしますね。
そのような風潮ある中、私の好きな地名を一つ。
それが掛川市十九首。
「和歌の一首でも~」のそれではなくこちらの語源は「十九人の首」からですね。
私からすればイカした地名。この地に訪れたのは「奥の墓道」氏を迎えた数日前、花鳥園に向かう前に(結局行けませんでした)久し振りに・・・という具合に立ち寄ったのでした。
掛川・・・逆川・・・首を橋の欄干に・・・という説かすれば、まさにこの地が掛川の大元。
潔く結構な名称で誇らしげ。
もっともっと宣伝していけばいいのですがね。
ちなみに当初この地に藤原秀郷の手によって首塚が十九基建てられたといいますが8月15日(天慶三 940年)とのこと。
2025年
8月
14日
木
お天気は回復しましたが、殆ど一日パッとしない曇り空。
さすがのこの時節、法要はありませんでしたが多くのお参りがあって奥方はてんやわんや。
一昨日お聞きした話。85歳の方。
「ハクビシンはキレイだがサルは汚い・・・」
今年の小玉スイカの成りは頗る良くて大いに期待していたそうですが収穫前に「すべてハクビシンにヤラれた」と。
そのハクビシンの食べ方ときたらスイカの中身、赤い実すべて皮にかかるまでキレイに美しく食べる・・・腹が立つが感心してしまうと。
前年はサルにヤラれてやはりスイカは全滅したといいますから毎年の如くの災難です。「何のための畑か・・・」との溜息が洩れていました。
そのサルの場合はスイカをあっちこっち引き釣り回して食い散らかすそうでまったく汚くて腹が立つと。
どちらにしろやり場のない怒りに苦笑いしていました。
「山側の畑の持ち主は鹿にヤラれた」とのことですから、生き物たちとの共存は難しいですね。
人が彼ら生き物のカモにされている・・・
今はスイカには大き目の植木鉢を被せて守備しているとのこと。ネットではダメを経験済み。
来年こそ・・・と仰っていましたので、「期待していま~す」。
「生きていたらだけど・・・」の自虐もありましたが、めげずに気合を入れてチャレンジしていただければ。
扨、画像は掛川城天守閣真下の道路際⑤にある「生々流転」の語のある石標。
拙寺のペット墓の名が「生々流転」ですから、以前から通過するたびに気になっていました。
こちらは「生々流転の逆川」とありますから、まぁ「多様な、いのちを育む~」の前向きな意か。
掛川、逆川とその語源についてあまり良きイメージ説がありませんからね。どちらかといえばネガティブ、それを打ち払う言葉。
2025年
8月
13日
水
少しばかり心配していた午前の法縁は雨の一粒もなくおかげさまで墓参まで終了できました。
そして久し振りに盆休みの「奥の細道」氏が墓参を兼ねて帰省してきましたので、菊川駅で待ち合わせを。
掛川の道の駅で昼食後、周辺ブラつくにあたり「物見遊山はどちら方面へ・・・」と振ってみると意外にも「掛川花鳥園」とのことでした。
私は大いに躊躇させられましたが彼は初見参ということで「是非に」でした。
その件聞けば奥方がひっくり返って爆笑するネタだとも思い私は了承した次第。
子供らが幼少の頃に連れて行かれた地ですが私はもはや二度と行くことは無いと思っていた場所。
現場に着到すると、駐車場は満車で規制警備員が出ているくらいの大混雑でした。それはそれは・・・世間は大型連休中ということで。
それを見て尻尾を撒いて逃げ帰ってきたわけですが、案の定そのチャレンジの件を奥方に伝えただけで「オッサンが二人で花鳥園とは・・・あり得ない」との指摘でした。
私どもは花鳥雨月の物見に向ったわけで、衆人雑踏を味わいたいわけではありません。「また空いている時にでも・・・」とそちらを後にして先日私が味わった驚きそして人がまったくいないであろう場所に向かいました。
今人のいない場所といえば「墓」ですね。
暑すぎて墓参さえも行かずに代行業者に依頼するくらいだそうです。
そこが彼とも何度か行っている八相寺跡の三の姫墓塔①。
墓前まで再び赴いて、しばし・・・。
私が「道具を揃えて、ひとつやっつけちまうか・・・」と提案すると彼は、その墓たちの手前まで草刈作業が済んでいることから今後こちらまで作業が進むのでは・・・まさか墓たちの草ぼうぼうに手をいれないなんて・・・という推測を提示。
ということで秋口に今一度私がお参りにうかがい、もしそのままの状況であれば正月休みの帰省時に道具を積み込んだ軽トラで「迎えに来い」とのことでした。
彼も三の姫ご一統の現状にショックを受けたようでした。
そのあとはお約束の高天神城②~。
ここでも驚かされたのは私の体力減衰の件。
搦手からの階段が思いのほかキつく感じたのでした。
10年以上前に母と永田さんを連れてこちらを登りましたが、あの時の二人の歳は80超え。両名とも音をあるなどのことはありませんでしたので如何に今の私がたるみ切っているかということですね。お恥ずかしい限りです。
その後は友人のSクンの墓参りとご自宅挨拶。そして境内でキャッチボール少々。
肩が・・・関節が・・・と、あーでもない、こーでもないと吐き散らしながら。そして「どっちが先に・・・」とそれぞれの「そのとき」について。仕舞には「面倒くせえ・・・」になります。
自分が死する事、考えるのもいろいろ面倒。
2025年
8月
12日
火
まるで梅雨時の如くの天気です。
当地相良は前夜、主に静岡東部に警報級の豪雨を降らせた雨雲の通過はなく、朝7時頃になってポツポツときた程度。
よって終日ドカ雨はナシ。
曇天は致し方ないものの「曇り時々ポツポツ」程度でお許しいただいたようです。西国は酷いものでした。
まぁ心中、私の持論「国道1号線理論」の裏付け・・・などと勝手に
頷いている次第。
西日本から日本列島を東進する低気圧等、静岡県内に雨を降らす南海上からの雲は県内国道一号線沿いに進み、南遠州の雨は僅少・・・というもの。
南から低気圧に向って湿潤な空気が国道1号線北側に連なる山に当たり雨雲へエネルギーを供給するというものです。
父と祖父が言っていましたが戦時中B29は「相良の空を通過するだけ・・護衛のグラマンが帰還の途中に機銃掃射していったくらい・・・」と。
良き縁も「通過していくだけ」のようだとのボヤキの声も多々ある地ですが、災害災難が相良を飛び越えていき、何となく無事でいられるのはありがたいことなのかも知れません。
おかげさまで、故人初盆に曾孫7人(最年少2か月の赤子)が集結した法縁終了後の墓参は傘も不要、スンナリと勤修できました。
何ごとも「家族だけで・・・」流行りとなっている今、夏休み&お盆休みのタイミングは絶妙だったのでしょうね。
賑やかな本堂内には、やはりテンションがあがります。
子供達に太鼓を叩いてもらい法縁のストレス?を晴らしてもらいました。
扨、大給城、昨日の続き。
城郭大系に「三河に類例のない石塁」とありました。
同形の大きさも同じ石を積む「重ね積み」ともいうそうですが、この石を見て私は登屋ヶ根城北のフロノ下猪垣に順因寺や山中城舞木口登城口、長沢岩略寺の谷筋で見た石塊を思い出しました。
三河でも西端にあたるこちら大給城に三河東端にある材を集めたか・・・などとの発想ですがより近き場所にこの手の採石場があったのか・・・いろいろ。
野面積み工法より特殊技能は不要、平たい石をただ積むだけの如くの石垣です。
いわゆる今風「コスパ、タイパ」だったのかも。
「時間制限」アリの喫緊課題について考えると三河東端山中城は東海道(今川)からの侵攻への防御というテーマがありましたが、こちら大給城の役回りとしては小牧長久手戦以降の対秀吉の肝要。
秀吉軍の三河侵攻をくいとめるためこの城の立地は重大です。
突貫工事が行われ戦国前期の土の城を石積みによって防御態勢を強固に整えたいという意図があったのでしょうね。
縄張り各所に天然の自然巨石を利しているところも面白い。
本丸の突端の大きな石上からは尾張方面が一望。
秀吉が来るのはこちらからですからね。
ここで進軍を眼下に確認できたら狼煙台にて、情報を拡散。
援軍、籠城を促すという算段でしょう。
2025年
8月
11日
月
朝からドカ雨と小雨が交互に。
四十九日の納骨の法要がありましたが、その雨のおかげで納骨の儀は順延することになりました。
雨中これまでにない涼しげな風、猛暑カンカン照りの方が断然マシのような。
この停滞する前線、全国的に家や車の浸水、川の氾濫、崖崩れの恐怖が付きまといます。
夜間は静岡県内各地、特に東部での豪雨警戒情報が出ていました。
しかし当地相良は静かなもの。
地形による特殊要因なのでしょうね。
たまたまなのでしょうが枕を高くして・・・おやすみなさい。
扨、大給城について先日来先日記しました松平乗元の墓について記しましたが、「三河国二葉松」にその乗元が長坂新左衛門の元に拠って大給を名のったことを城郭大系では指摘しています。
まぁ各説入り混じりますが通説では松平乗元の城、以来大給松平氏(十八松平の一)として各転封を重ねるも明治を迎えています。
以下、城郭大系より。
「城址は西三河の北半を眼下に望む、標高207mの山頂にあり<主郭・二の曲輪が残り、さらに三河においては類例の少ない石塁が所見される」
①画像案内板のみ松平氏館跡。他は大給城にて。
2025年
8月
10日
日
いよいよ風は心地よく吹いていました。
前線が迫っているとのこと。「風を背にして左前方低気圧」。
雲は多めでしたが思い出したように太陽が顔を出し「まだ夏ぞ」を主張していました。
先日来の「日照り」の如くの雨なし高温は取り敢えずストップした感ありますね。
どちらかの稲作農家の方が晴れ続き水不足を心配され「ここいらで台風の一つもきてもらいたいものだ・・・」と軽口を叩いていましたが、ここ数日の豪雨で九州地方では人命にかかわる被災の様を視聴しましたし日本海側の雨でも田んぼが水に浸かって収穫の懸念材料がまた一つ増えたと。
天候の事はわかりませんね。
「丁度いい」など人の思い、思考からはしばしば超越していくもの。大雨大水に人は昔から、なす術が無し。昔から人はそれに泣かされています。
これからやって来るであろう前線もそうですが海水温上昇による台風パワーアップの件、どうなることやら。
大層な災いにならないこと、ただただ念じて見守るのみです。
まぁ人の嘆き節のいろいろ、秋の収穫期の米不足、野菜不足の伏線のような気がしないでもなし。
扨、昨日もフリーの一日。私は奥方とフラッと掛川高瀬の八相寺へ。
御無沙汰している三の姫さま(足利持氏の娘)ご一統のお墓参りです。
私の一方的な思いですが。
その件、拙ブログでは2012以来4回ほど(2019 2021)そのお参りについて記していました。
それ以外、その道を通過する度にお伺いすることも。
八相寺本堂と庫裏が取り壊されて更地と化している様を目にしてショックを受けるなどしていましたが今回の衝撃はそれ以上のものがありました。
旧境内地に入って山を見上げてみればあの三の姫様ほか墓石た
ちを窺うことはできません。かなり驚きました。
「もしかして(墓石たちはどちらに・・・問答無用の墓じまい) 」の不安に襲われて奥方を助手席に残して墓石たちがあるべき場所に駆け上がりました。
私はビーサンと脛が出るパンツ姿でしたが数日前に草刈りがされていたようで何とかその場所まで辿り着くことができました。
すると草ぼうぼうの中に墓石たちを確認することができて胸を撫でおろしたのでした。
以前なら赤い幟旗がその目印にありましたが、今はそれも無く「彼女」の墓を表す標も意味をなさないほどに。
目を凝らせば下からその白い石標は確認できますが・・・②③
草刈奉仕の皆さんもこちらまで手が届かなかったのでしょうかね。あの時分には献花する人もあったのに・・・これを無惨と呼ばずに何と形容できましょうか。
このようにして歴史は草葉に埋もれていくのですね。
地元の皆さんたちが継承した追慕の思いもここまでか・・・
墓石はその人が生きた証ですからね。
あとは風化を待つだけかと・・・
私は人のこころというものの限界を詫び合掌してその場を離れました。
掛川市の教育委員会さま「こんなんでいいの?」。
単純素直な疑問。
2025年
8月
09日
土
爽やかを思う風が一日吹いていました。秋の気配か。
昨日は朝から外仕事。
③は休憩に庫裏に入ったところの図ですが拙寺にやってきて約1か月がたったでしょう、その子ネコの成長に感動してパシリ。
探検もここまでできるようになりました。
温度計は一昨日の数値④よりもかなり下。快適でした。
外仕事の主は築地塀犬走の木枠の修繕です。
一昨日夕刻に2か所が同時崩壊した様を発見、早々に対応しないと極めて見苦しい場所です。
材木を切って塗装、金具を装着しモルタルで固め午後3時には殆ど完成できました。
経年劣化については致し方ありません。
ただしこちらに座るか足をかけるかをしない限り「こうはなるまい」と思わせる脱落ですしそれも2か所同時。
毎度毎度のことですが座り場では無いのですがね。なんともいやはや・・・
私の「宿題」につき「余計な仕事を増やしやがって・・・」とは心に残るもののこれも如来さんのお達し・・・と思って淡々。
扨、法要の締めと言えば御文。それに続いて、歎異抄の短めな章を添えに拝読させていただくようになりましたが、それは圧倒的に一条か四条です。
丁度良い長さですからね。
そして少々長めとなりますが、後序からも抜粋し拝読する事が
ありました。
その後序から。
「まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。
聖人の仰せには 善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。
そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします とこそ仰せは候ひしか。」
太字の部分はこれまで適宜抜粋され、紹介されていることが多々ある有名な件。
2025年
8月
08日
金
朝一の庫裏の気温は31℃。
奥方が榛原病院の検診に向っている間はテラスで小作業。
その後車検に出していた車が「完了」とのことでその回収と清算に。
物価高騰とのことですが、今回は重量税がアップ。
かなり車検代金トータルがお高くなっていました。
トランプが難くせをつけている「車に関しての色々」の1つでしょうね。
私もおかしな制度だと思っています。
車を大事に長く乗ろうとしても新車からある程度年数が経過すると、かなりの重量税アップのパンチを喰らうことになります。
車を大切に乗り続けようとしても、維持していこうという気持ちを削ぐような法ですね。車両の重量が大きくなれば課税額も増えることになります。
新車―新車と国内自動車メーカーの売り上げのために設定された税制でしょう。私は長く使用した方が経済的と思うのですがね。
「経年で故障が増えるので更新が安全」という言い分があるでしょうが、自分の所有する道具の管理は自己責任だと思うのですがね。余計なお世話なのですよ。車検制度も。
まぁ重たいアメ車を敬遠するのもそこのところ。
「国のシステムがアメ車を買えないようにしている」と断じられる・・・まんざらフェイクではないでしょう。
扨、「自己責任」という語を記しましたがその4文字は「私の責任において・・・」であり他人様をとかく論う言葉でないと思います。
その冷たく突き放す如きの語は社会的弱者を評価、時に揶揄するが如くに吐かれる際に耳にすることが多いよう。
特に個の不遇な状況なのか、一つの趣向なのか判断はできませんが社会がそのような断じ方をするのは末期的症状(自分さえ良ければ・・・)であるかと。
昨日午後はオフということもあり、静岡市内へ向かいました。
デパートの催事で「道頓堀今井」が出店していることと、一昨日41.4℃という最高値を出したこともあり、「どんなもんか・・・」の興味も。
天気は曇りで風もあってその気温を味わうことはできませんでしたが、駅から葵タワーに向かう地下道の異様に気づきました。
夥しいほどの段ボールが挟まった手摺り。
多くの方が場所をキープするためなのものでしょうが、私が学生時代に目にした都内某所を彷彿。冬場は段ボールの家が。
夜間には一つのムラが出来上がるのでしょうが所々に生活必需品やら食品の食べ残しが。
既に段ボールに横になっている方もいました。
その場所は通行人が行き交う通路ですが、息苦しいほどの暑さ。
東京ではこういう状況を一掃したようですがやはりこれは「社会」の問題でしょうね。
江戸時代はこういう方たちが流浪しないために為政者が対策を
講じたものです。
尚「一つの趣向なのか判断できない」と記したのは中にはその生き方に興味を以て身を投じる人もいるということです。
私の叔父、父のスグ下の弟ですがブラジルにて結婚する前に、ニューヨークの地下鉄でまずそれをやったといいます。
「衆人の眼前で自身のすべてを恥とせず曝け出す」そこからスタートしてブラジルのサンパウロ別院に入りました。
それ以外の事情があるそうせざるを得ない方々には社会が手を差し出すことが必要です。
あそこは雨風の心配はありませんが、あの環境、冬季はまたキツいでしょうね。
そもそもその生活って・・・どうなんだろう。
帰る家のある私には想像ができません。
安楽にも「道頓堀今井」で仕入れた親子丼と蕎麦(相変わらずネギなし)を食することができる仕合わせよ。
風呂の入浴も約束されています。車に扇風機にエアコンも。
画像は昨日の続き。柳生一族墓域。
残っていた画像を適当に・・・
2025年
8月
07日
木
昨日から数日間、これまで連続してあった拙寺の法務の予定はありません。
この数日のブランクに息継ぎをとどちらか遠隔地のハカテラシロ(墓寺城)巡りについて企図していましたが、天候不順予報につきそれは取りやめました。
法務連続の中、ずっと好天続きだったわけで、此処へ来ての低気圧の通過には「なんだかなぁ~」の溜息。
コレはいつもの、阿弥陀さんの「行くな!!」のサインとして了承した次第。
朝の西寄りの風の涼しさに微妙な季節の変化というものを感じました。
日々昼間の長さは短くなり、着実に夏の終わりが到来する前兆。子供の頃に思った焦燥感とは違いますがどうにもならない諦めのようなものも。
夏が終わりに向っている・・・とは言っても昨日は静岡市は「キャリアハイ」41.4℃を叩きだしたとのニュースが。
誤解されては困ります。
その件静岡市内のお話で、ビッシリとコンクリートに覆われた人口密集地の事ですから、「静岡県」すべてがそうなっているワケではありませんよ。
夕刻の庫裏トイレ(西向き閉鎖空間)の温度計は33℃でしたが、外気も最高でもそのようなものでしょうね。
海が近くて緑がたくさんありますので静岡市内の如くの珍しき数字にはならないでしょう。
拙寺の「平和の鐘」×7回を聞き広島での式典を視聴してから浜松に向いました。
息子の転居準備その他いろいろです。
尚、鐘撞き人は毎年御門徒さんのお役ということで。
いつもなら浜松の気温の方が突出しているわけですが昨日は38℃程度。
浜松でも下水道の点検工事が各所で行われていました。
交差点中央で行われるその点検作業の地上の様子を信号待ちの間、目にしましたが、コンプレッサーに送風機、大口径のチューブから空気を強制的に送っていました。
そこまでやっての公共事業受注というもの。
事故を起こしたら「次はない」の心得を垣間見たような。
夜間はNスぺ「広島グラウンドゼロ」を視聴。
熱傷地獄・・超音速の衝撃波(爆風)・・火災旋風・・火災積乱雲(黒い雨―喉の渇きで「ごくごく飲んだ」) ・・・放射線被ばく・・・証言の一つ一つ言葉がありません。
画像は昨日に続いて柳生一族墓域。
④⑤は10代柳生俊章 11代俊能の墓。
⑤図の右が柳生俊章(としあきら)、左が柳生俊能(としよし)。
柳生俊能の正室が田沼意正の娘。
その縁で田沼意正の次男が養嗣子として入ったのが俊能になります。
田沼意正は田沼意次の四男ですから俊能は意次の孫。
「柳生」は相良田沼にごく近いのでした。
2025年
8月
06日
水
昨日の法縁は午後3時からの開式でした。
3時前にご自宅に着到しましたが、今来た道の方をみやると押し車を杖の代わりにして歩を進める年配の御門徒さんが。独り暮らしをされています。
約束の時間まで少々ありましたので、その方の元に向ってご挨拶。
以前より耳が遠くなったように思う他はお元気の様子、私の様を見てスグに応じてくれました。
私が「買い物でも?」と伺うと、(これから西日の直射になるので)「家には居られない」そうで「夕涼みに行く」とのこと。
自宅にエアコンは設置されているそうですができるだけ使わないように・・・「お恥ずかしいこと」と前置きして「老い先短いけれど節約したい」と仰っていました。
その方と肩を並べればどう見ても私の方が余計に生きながらえそうな年齢差ですが、その言葉に私の根性レスを思い知らされました。
自宅内に居る時は年がら年中その電化製品に頼りっぱなしですからね。
吝嗇云々より、自分の足を使って毎日欠かさず「歩く」という気概は天晴れなことです。
そもそも「買い物?」の投げかけはおかしかった・・・なぜならばその周辺に店の類は一切ありませんからね。
そして、その時間帯の空気は決して夕涼みレベルではなく最近には無かった風はあったものの「熱風」の如くでした。
いやはや私はその方のルーティーンにケチをつけることはできず「車に気を付けてね」と一声かけてその場を離れました。
齢を重ねると程度の差はあるにしろこのくらいの環境変化など許容できてしまうのでしょうかね。
重荷を背負うが如くの経験を積み重ねてきたこの方の忍耐力もあるのでしょう。
画像は昨日の続き。
芳徳寺柳生一族の墓域の石塔たち。
2025年
8月
05日
火
熱中症は殆どの場合、その発生場所が室内であることは周知のこと。炎天下でのそれはあまりないということ。
昨日午前のいつもの過酷条件下のお勤めの最中、流行りの簡易式クーラーで冷却できれば・・・などと。
まぁ、日頃「熱中症なんか・・・」などと軽口を叩いている私のいかにも甘っちょろい提案など即却下になるでしょう。それを言うのはヤメにしておきました。
夏物とは言え3枚(襦袢 白衣 衣)+袈裟の重ね着+両袖に通すアームカバーの躰はビーチのデッキチェアの炎天とはまったく違うホットさ。
以前から不思議と思う事ですが、坊さんが熱中症になったとあまり聞きませんね。それぞれの鍛錬があったのでしょう。
しかしなるほど、そういえば本堂にエアコン対応がナイというのは拙寺の如くのポロだけか・・・
しかし、そういった経験、特に「昔取った杵柄」的経験則は重ねた年齢もあり結構に厳しい結果を招くことがあります。
年齢と経験の豊富はリスクに対して時になぁなぁになることが多いのです。
私の境内作業でなど先日の山門の棟瓦に上がった際など確保用ロープは張ったもののハーネスの装着や瓦作業用のシューズは「面倒につきヨシにしよう」でついつい作業を進めていましたから。
まぁ私と奥方の作業でさえ一応は落下防止用にロープは用意していましたが、あの埼玉の下水管落下の事故で最初に落下した作業員が補助ロープなしだったというところ、あまりにもお粗末。硫化水素対策の件もありますが私どもの仕事以下でした。
脚立から落ちて救急車で運ばれたことのある私が言うのもオカシな話。
また今一つ考えさせられたのが年齢のこと。
ダイビング、素潜りについて自分なりに経験を積んできて、機会さえあれば地頭方辺りでもシュノーケリング遊び・・・くらいのことは念頭にあります。
しかしあまりにも久々すぎて、溺れる際の大抵の色々-主にちょっとした事で発生するパニック-について対応できずやはり溺死することもあるのでは・・・と思うのです。
それを確信したのは先日福井で発生した海女さんの溺死事故。
七十代八十代のお二人の件です。
海女さんといえば海を知り尽くした素潜りのプロ中のプロ。
方々の仕事ぶりは尊敬に値するものです。
私はその悲報を耳にして、やはり年齢もあるのだろう・・・と感じた次第。
画像は柳生芳徳寺の裏、柳生一族墓域。
一石に彫られた六地蔵がお迎えしてくれます。
2025年
8月
04日
月
日々堂内の温度は上昇中。
暖気が夜間下がらずに築熱しているかのよう。
朝から風など少しも吹かず、堂内熱気に包まれていました。
体感については「本年度最高」を思い御内陣の不快指数はブッチギリ。大量の瓦が熱を吸収しまくり、下部空間に放射、外気温も下がらず堂内は終日温暖キープというか少~しづつ上向きのような。
数日後にあるご門徒さんの法事の件、エアコンの効いた家で行い「本堂はパスしたい」とのことでした。
それはそれで仕方ないことでしょう。涼しいところで正座の苦痛、まぁどちらでも・・・
夕刻の庫裏の気温は31℃にまで。その朝も30℃でした。
天井近くの気温計ですから床とは2℃程度は違うのでしょうが西日の直射は強烈です。遮蔽はしていますが無駄・・・
エアコン+扇風機のWで生息していますがそれ以上の対策はナシです。
奥方は「台所で火を使う気にはなれない」と夕食支度拒否。
よって「カレーを喰いに行こう」になりました。
「暑い時はカレー」・・・誰が言ったか知りませんが、やはり私の頭にそれが閃きました。
扨、昨日は「エホ×が来りて」笛を吹く・・・ではありませんが、あの御仁の目的とは・・・その意図は・・・企図するものを考えてしまいました。
私は一言で「修業の一環」の如く記していましたが・・・。
この猛暑カンカン照りの真昼間に、不知の人家の呼び鈴を押すこと。
それを以って家人は問答無用に玄関まで呼び出されて「エホ×です」などと、勧誘なのか何なのか正体不明・意味不明が突如と現れたりすれば大抵の人ならば「ぎゃふん」となって「さぁ、帰った、帰った~」の門前払いの結末となることは想像に難くありません。
時に冷徹な言葉、罵声を浴びることも多々あるでしょうから、私は「それに耐えてこそ」の人間成就を・・・と思い「修行」(だろ?)と勝手に思ったわけですが、もしそれだけでなく「真に勧誘のために来られた」と考えるとますます不思議を想います。
寺に来られる・・・信仰の勧誘・・・いやあり得ないだろうとは思うものの、もしかして「一縷の望み」のような・・・とも。
たとえば一人連れてくると幾ら・・・のインセンティブの如き報酬が設定されているのかなど・・・色々と考えてしまいます。
ボーナスポイントなどあればニンジンを吊るされた馬の如くに熱波をものともしない活力になるでしょう。
それが人というもの。まぁ知らんけど・・・
もっと深読みすると、お寺の主たる代表の住職を抑えればご門徒さんすべてがその彼らが信奉する何たらにいわゆる宗旨替えできるとでも思っているのでしょうかね。
私ども宗旨にカリスマは不在です。そしてハナから不要・不承認のスタンス。
絶対的指導者なんて「糞喰らえ」といった宗旨ですからね。
浄土真宗についてついその開祖親鸞さんが宗旨のトップであり「絶対」であろう・・・などとお考えになる方もいらっしゃるかも。
そもそもお偉い方を担いでピラミッドの頂点に据えて、その代弁者を主張する者の意向をもって君臨(カリスマ)を容認しようなどという宗旨ではありませんから。
人間親鸞さんの阿弥陀仏への案内、その阿弥陀の物語への導入きっかけの提示について報恩感謝して合掌するだけのことです。
表記は歎異抄2条最後の件です。
「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと 云々」
また「親鸞は弟子一人ももたず候~」もありましたね(やはり歎異抄)。
真宗は聞法にウェイトを置きますがその意図は「気づき」です。それをいただく機縁というもの色々あっていい・・・。気づきさえあれば・・・自身間抜けであったことに気づかされることも大いなる収穫です。
たとえ本願念仏を捨てて他の○○教の難たらを聞き、そのご判断については「皆様方のお考えの通り・・・実践するのは貴方!!」ということで、いわば個の意思をも尊重しています。
よって私一人の宗旨替えがあったとしてもそれは個人の問題。
御門徒さんは御門徒さんそれぞれの通り。
当然に真宗の一向専念無量寿仏のこころは私の独断かつ強制的に変えることなどはできませんね。
まぁそうなったとしてもただ「気がフレた」程度で流されるだけでしょう。
よって・・・何のために・・・その意図は・・・と考えるワケです。
またお盆の時節が近づいています。
もう25年以上経ちますね。
その「エホ×」に入信し自死に追い込まれたMS氏の自宅と墓前に「奥の墓道」氏とお参りに行くことになっています。
個を死に追いやるほどの「戒」と彼ら独特の「共」とは一体・・・
私は「暑い時はカレーうどん」それを信じています。
美味しければそれでヨシ。奥方の炊事放棄のおかげ。
尚、「揚げ物が食べたい」などと言えば・・・ブン殴られます。
2025年
8月
03日
日
夕刻に埼玉で起きた事故のニュースが流れていました。
下水管調査の方たちが相次いで転落、救助後全員死亡したとのことでした。
以前、八潮市で発生した道路陥没事案から国が自治体に要請した下水道管の緊急点検とのことですが、発注者も受注者もプロ意識というもの、少々欠落しているかと・・・亡くなった方たちには気の毒なことですがその「組織的な運用」というものに疑問を感じます。
まずその原因は硫化水素と思いつくところですが、その件八潮市の救助難航の際、救急レベルほか専門家から指摘されていました。
何故にして作業員たちにその警告を出していなかったのか・・・
下水管には硫化水素が充満し、酸素がナイということはまず周知の事実であり、念押しがなかったのでしょうかね。
下水管には死の恐怖が付きまとうことを・・・
硫化水素センサーは格安のもので数千円から、普及品で5~6万円で販売されています。
まずその装備は不可欠であると考えるのですがね・・・
下水管に入る人ならば。
もしその装備があっての事故だったとしたら・・・ごめんなさい。
「ごめんなさい」はもう一つ。
午前中に2件ご自宅でのお勤めがありました。
1か所は島田市、2件目は相良です。
島田から帰ってから次の課題に向かうために一息ついて、ぼけ~っとしていると、玄関の呼び鈴が。
意識を急速に戻し、背筋を伸ばして「ハイ」と玄関に出れば、見ず知らずのおばさんが立っていました。
その方は先ず名乗りをあげたわけですがその口上こそ「エホ×のY×××ですが・・・」でした。彼らの修行、課題の1つですね。
門前払いされることに意義があるというヤツ。
このシチュエーション、環境下で何だって・・・と酷く混乱させましたが、感情が先走ってしまい「その手の話なら結構(毛だらけ)・・・」と吐くと「そんじゃあ」という具合にドアをぴしり。
相手の術中にハマったわけですが・・・
「阿弥陀さん ごめんなさい」なのですね。
真宗の坊主というものは如何なる碍り、耳に痛いことであろうとも、人を分かつことなく「聞く」ことが一大事として実践しなければならいのですから。
以前本山系のスタンスを聞いたことがありますが(ブログ既出)「コーヒーでも出して話を聞いて・・・」ですからね。
で、私は以前それを実践したのでしたが、物凄い後悔をさせられたわけで。
「不毛の時間」以外何物でもないのです。まったく・・・
得るものと言えば「いろいろな人がいるのだ・・・」くらいのものでしょうか。
先方は持論のみを展開、終始私に説教、今風にいえば「マウントをとる」スタンスで平行線、交わるところは1点もないのでした。
そのこころとはまさに「二辺平行せる三角形」(夏目漱石)。
コントロール不能のリスクを抱えているのが人間ですからね。
阿弥陀さんごめんなさい。そういう言い訳をざてください。
午後は当面の課題だった山門屋根に堆積した落葉とそれらが土化した物体の除去作業。見苦しい事このうえない様でしたから・・・
奥方が下、私が瓦の上に取付きました。ロープワーク有りです。
瓦は太陽の熱を吸収し鉄板焼き状態。
まぁ私なりのやり方でうまい事その作業を終了することができました。おかげさま。
画像は奈良市の外れ国道369号の一コマ。
柳生から針に向かう、自宅へ辿る帰り途。
私は何度もこの道を通過していますが、どうしてものんびりと車を停めてほっつき歩きができていない場所。
奈良市内でもマイナーといったら失礼ですが「都祁馬場町」なる名などは初見の方が多いのでは・・・馬場には城址がありますが・・・
布目ダムは奈良市水道の貯水池。
大保八坂神社の看板前は何度も通過していますがそこから神社に向ったことは一度もありません。ごめんなさいサンロクキュー 369。
2025年
8月
02日
土
16時過ぎに境内植栽に水やりをしてから吉田方面の法縁へ向かいました。
午前中に予定していた子供向け講習会の参加者はゼロ。
どちらかで反省していた通り、内容は少々難しかったのかも知れません。奥方が言うには、各難解なテーマもそうですが親が一緒に来られるような日程ではなかったとのご指摘。まぁ、いいか。
ということで久々ゆっくりマイペースの時間をいただき布団干しに取り掛かりました。この好天を逃がすわけにはいきません。
軽トラの荷台にはマットレス、敷布団と上掛けは軽トラ運転席に。
台風北上のせいで午後から曇りの予報、もしかして雷雨に・・・を想定してマットレスも軽自動車の中に放り込みました。
15時頃には雲が覆ってきましたので布団をすべて取り込んでから水やりを。
ホールを後にして19時前に150号線の片浜辺りに入ると路面が濡れていることがわかりました。ワイパーを動かすほどではありませんでしたが、久し振りのお湿りで結構な事です。
内心「水やりは早まったか・・・」とは思いましたが・・・
拙寺周囲の路面からは湯気が出ていましたので少しばかりの降雨ではありましたが、動植物たちは大喜びだったでしょうね。
台風は当地をかすめてどちらかに行ってしまいました。
アレが直接来られるのは困りますからこれもまずまず。
画像は昨日にもちらっと姿が見えたいた十輪院の十三重塔。
層の数が足りないのと相輪の欠損が顕かですが一重軸部四面の四仏はキレイに現れていました。
2025年
8月
01日
金
一昨日、久し振りに「何か仕事を・・・」の人が来ました。
しかし何故にして定職に就かないのか不思議でなりません。
聞けば胃に穴が開いて1か月以上入院していたとのことでした。
先般「米をください」と来られた女性の息子ですね。
やはり一昨日は「喰うものが無い」と食べ物を所望されましたので、奥方がお盆でいただいた素麺やら息子が新潟の帰り長野で買った蕎麦、缶詰を袋に入れて手渡していました。
仕事は以前から時給1000円で6時間+昼食付というのが彼の条件です。
「熱さで死んじまうぞ―」と私が言うと「どうしてもやるのでタノム」。余程のことなのでしょうね。
一昨日は私の法務が終わって一段落していたところで、何も頭が回らずに「じゃあ明日に・・・」と口にしてしまったために話が進みました。よって昨日朝8時前に再来。
実はその私の軽口について、奥方にその愚かさについて注進されていました。
そもそも私が昨日も法務があって彼の作業状況に目が届かないこともありますが「一体何をやってもらうのか」がテーマに。
私は「梯子を使って坪ノ内のソテツの伐採でも・・・」というと「見ていないところで炎天下、梯子から落ちでどうにかなったら・・・」とかなりのネガティブ想定を。
それはさすがに避けたいところですので土塁の墓地側の笹を刈ってもらうことにしました。
そうとなれば、彼の為に道具を用意しなければなりませんので
7時頃からその用意のために物置をゴソゴソ。
「ああ、法事前ニ・・・よせばよかった」と安請け合いを後悔したのでした。
奥方は昼前に弁当を購入に走り、途中別件(6000円のうち昼に1000円の前借り)で呼び出されるなど手間が増え寛ぐ暇がありません。
まぁ真宗的本願念仏主とする生活の中で「慈悲の実践」は不可欠であって、たとえ「難有り」の諸所テーマは阿弥陀さんからメッセージと解すといったスタンスですからね。
すると「難有り」が「有難い」に変わるのだという計算式です。
彼が帰ったあと墓地を覗いてみると笹は案外とキレイになっていました。
私の宿題の1つでもあったわけですがあそこは蚊の襲来とマダニの恐怖がつきものの場所。どうこうボヤいても「有難い」ことなのでした。御門徒さんきっと喜ぶはずです。
扨、現状近江から奈良にシフトぎみになっている私ですが、昨日は唐突に奈良の野山の図を持ち出しました。
本日は奈良中心部それも住宅街にある石仏石塔いろいろが楽しめる十輪院の図。
決して広いとはいえない境内には所狭しと・・・
④安山岩製の六字名号碑。H142㎝ w60㎝
東新屋念仏講衆
南 無 阿 弥 陀 仏
天正五年丁丑八月十五日
2025年
7月
31日
木
津波騒ぎ一色の一日でした。
私は朝から御前崎のホールで出棺勤行。
棺が正面玄関から出たタイミングでサイレンが鳴り出しましたがスピーカーからの声は何を言っているかよく聞き取れませんでした。
するとホールの担当者から「津波らしいですね~」と。
ご自宅と港を経由して荼毘所に向かうことになっていましたので私はその「津波」の語に一瞬間固まりました。
既に車が出るところでしたので、担当者に「情報が無いので、もしヤバそうだったらドライバーに連絡してね・・・」と伝えて車の後に付きました。
勿論、私の後ろには参列者の乗るマイクロバスが続くいわゆる葬列ですね。
こういったシチュエーションは想定外。
車に同乗する施主の判断になりますが、情報が伝わっているのかやきもきしていました。しかし結局は上岬から御前崎港へ。
車のテレビからは到達時間が1130とのことで一安心しましたが時折スピーカーから何か聞こえてきますしテレビからは「海岸に近づくな」を連呼していました。
荼毘所に到着した頃には注意報から警報に変わり、津波の高さの予想も1mから3mに。そしてさきほど横切った下岬の道は通行止めの報せが入っていました。
普段とは違う外からの情報が隔絶した空間にいたことからこの
津波騒ぎについての詳細は、殆ど知り得ません。
帰寺後のテレビ視聴によってようやく全体像を知ったというところでした。
ノー天気に御前崎への行き帰りともに150号線の海沿いを走っていましたが、どこか高台に逃げるなどの件、思いもしませんでした。「知らぬが仏、流れにまかせる」などと不謹慎な事を口にしてエアコンを効かせた部屋で爆睡していました。
しかしあのテレビ、各局おなじような緊迫感、「その時」の実際は恐ろしい事ですが大騒ぎしすぎ?の感もありました。
慌てて高台に向い崖から車ごと転落したという気の毒な事案もありましたね。
しかしこのようなことが連続してオオカミ少年の如くの態に陥るのでしょう。
扨、民放系CMで目にしたJR東海の「いざいざ奈良」の一コマ。
奥方に「ここ憶えているかい?」と聞くと「知らね・・・」。
まったくぎゃふんとさせられます。
どこがどこだか判別不能といいますからどちらに行ってもやるせなし。
仕舞いには「ほかの誰かと行ったのだろ・・・」ですからね。
私がこちらに奥方と来た時一言「箒を持ってくればよかった・・・」とぼそり。
藪の中の酒船石ですがしっかりと石の上の落葉を掃除してからパチリ・・・といきたかったというのが現場での心残り。
その近隣の石舞台古墳には観光バスやら人々で溢れている様。
「やだやだ~」とドン引きしながら通り過ぎましたがこちらは誰ともすれ違うことはありませんでした。
ブロアがあれば一発でクリアできそうですが、「だからどうよ・・・」と奥方。
不思議な石造物でしたが。もっと不思議なことを。
2025年
7月
30日
水
先日の叔母を荼毘に付すため葬場に赴いたのでしたが、あの時はその順番に前後がありませんでした。
てっきり職員は眼が廻る程に忙しいだろうと思っていましたが、一人稼働で回していました。
それを勝手に世間様はお盆時節は葬儀を遠慮するものなのか・・・と思い込んでいましたが何のことはない、あの数日前から極端に火葬場の稼働は減って「4日連続ゼロ」ということがあったと。
勿論「未だかつて無い」(担当者)といいます。
南遠州の住人が少なくなったということでしょうか・・・。
しかし、昨日はフル稼働の3名勤務でした。
施主は「1番しか取れなかった」としきりに謝っていました。
時期が時期だけに日延べしたくなかったといいますが仕方がない事です。たまたま集中したということか。
何故にして施主が「謝罪しなければなるまい」という気を起こすかと言えば、式場に朝7時に集合というスケジュールになるからですね。
厳冬期のそれは少々痺れますがこの時期ならば、どおってことなし。ただし通常よりスタートが早いということはより一層の緊張感に繋がります。
少々の余裕感、たるみ(寝坊も)が命取りになります。
そう考えるといよいよ無駄な早起きに繋がってしまいます。
昨日は朝4時前に目が覚め、動き出しましたが、前夜就寝が12時過ぎとあって睡眠時間は不十分。
炎天環境の睡眠不足は何事もリスキー、「自己との闘い」となることは承知していますが、それは沖縄時代の無茶を思い出しますね。
前夜朝方まで遊びまくって(コザのディスコに徹夜マージャン)、睡眠ナシ・・・そのまま出社して、炎天の海上で一日すごすなどざらのことでした。
その積み重ねから今、陽の下にいると反射的に睡魔に襲われるのかも知れません・・・若さ故だったのでしょうが、今考えるとよくもまぁ、生きて戻ってきたものだと。
葬場では偶然にも平田寺住職と御対「2番」だったようです。
やはり一昨日のNHK「ニュースーン」の「サービスカット(視聴した奥方の評)―平田寺と拙寺の2寺一緒に並ぶ画像」については通夜法務の為に視聴できなかったようです。
画像は柳生芳徳寺御堂内の続き。こちらは春の図です。
2025年
7月
29日
火
夕刻の法縁を控えていた為、ずっと自宅待機。
外に出てへろへろになる気にはなりませんでした。
18時から吉田町に向かうことになっていましたので、その番組-ニュースーン(放映は16時50分前あたり)は視聴することができませんでしたが、宮沢氷魚さんが出演し、先週末の大河ドラマの最終の出演場面について語るコーナーが。本編は衝撃的なシーンでしたからね。
叔父から「見たよ~」とメールが入っていましたが番組最後に宮沢さんが相良へ「事前勉強」のために訪問された際の一コマ平田寺と大澤寺の堂内の様が紹介されたようです。
事前に史料館経由でそのカットを入れる旨連絡はありました。
午前は今年の子供向けの夏休み宿題支援の会の講習の流れを思案検討。
そのお話のお題がよせばいいのに「田沼時代の米」なのです。
ある御門徒さんがそのタイトルを回文で見てその表題を真に受けてズバリ「その米を見せて・・・」と問い詰められたことがありましたが、そのタイトルにも問題がありましたね。
私の後悔の最大理由はその件「難解すぎる」ということ。なかなか腑に落ちるところまで誘引することは不可能なテーマでした。
子供らに(おそらく僅少の参加者はいつものこと)その難解なこまごまを説明納得させることができるか・・・ちょっとやそっとのお話ではまずムリでしょう。
それは
①封建幕藩体制そのものの理解
②士農工商と武士のプライドー儒教的精神の理解
③武家社会はそもそもの経済観念が欠落(武家と商業)している
④米が需要と供給で価格が変動することへの無理解な支配
⑤自然環境の変化とインフレとデフレ
⑥俸禄(武士の給料)は米 幕府財政の基本も米
⑦大坂の米相場と今でいう先物や信用取引に近い取引の存在
⑧米の商いに介在する様々な業いと権利関係
⑨大坂流通の銀、江戸流通の金の二重構造と両替商の存在
⑩時代によって変異する米と通貨の交換レート
⑪米の量・容積の単位、石・斗・升・合について
⑫通貨単位いろいろと換算
⑬江戸期税制と年貢
などなど
そんなこんなでテキトーに話すしかない・・・と開き直っているところです。
上記の項目はそれぞれ1時間であっても大人でさえ理解しがたいですからね。
それをこのクソ暑い本堂でおさめることなど、無理無理無理~。
全体ざっと30分でお仕舞にしようかと。
「あとはみんなうまいこと調べてね~」。
画像はせめて南鐐二朱銀の現物でもみてもらおう・・・と引っ張り出したところ。
こちらに関しては当相良史蹟調査会の皆さんはどなたもお持ちになっている品。
珍しいものてせはありません。
尚、資料館2階のドラマ展に展示されている二朱銀はドラマの中で使用されたものになります。
他の画像は拙寺の同じ引き出しから登場させたものですが惜しいかな小判は出てきません。寛永通宝ばかりです。
③④豆板銀(小玉銀)こちらを天秤で計量して両替。不効率極まりありませんし、いちいち両替手数料が発生するのでしょう。
スムーズなモノの動きに水を差してしまいます。
また南鐐二朱銀の流通チャレンジはキレ者田沼意次の頭脳明晰を物語っていますが全国的に通貨両替の煩雑をクリアしようと図ったもの。
しかし、それはそれで当初は大坂商人から不評の声があがったわけです。
両替商(銀行業)の介在は殆ど用ナシですからね。
※7月27日に「散歩の達人 さんたつ」が更新公開されました。
「田沼意次ゆかりの地・静岡県牧之原市相良で、幕府の財政を好転させた名君の足跡をたどる。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の六】です」
2025年
7月
28日
月
青い空にまっ白な雲が流れる様は壮観で爽快。それを眺めるのはいわゆる至福。
あたかもかつて私がいた沖縄を彷彿とさせる安定した晴れ連続の日々が嘘のように続いています。
スコールチックな突然の雨は勿論、夕立すら当地にはありませんね。植物の水やりが面倒ではありますが。
この時期になると「この好天がずっと続いたらイイ」などといつも感じていましたが経験上それは儚い期待に終わる事はわかっています。
無上の季節は7月いっぱいでお仕舞、8月に入ると台風シーズンに突入しあっという間に秋風に隙間風。
半年以上続く寒々しい空を耐えなくてはなりません。
皮肉なことですがこの季節を心から味わうに年々そのハードルが高くなってきたよう。いろいろね。
歳を感じることとそもそもそれを楽しむ時間というものがまったくないのです。
来年は・・・今年こそ・・・と毎年「夏の遊興」の件、諦めて心に繰り延べとしてきましたがおそらくその件私が死ぬまでもうムリかと感じるようになりました。
仕方ないですね。ジジーは・・・もっともっと歳を重ねれば動けなくなる。
まぁ如来さんの差配通りにあるがままに動くだけですが。死ぬまで・・・
世間様の夏嫌い増長の候、嫌味を綴ったわけですが、昨日も私は法衣を着てのお内陣での読経、それは「サウナ感」。
おそらく今年一番のハードワークだったのではないでしょうか。まぁそれも嫌いではありませんが。
しかし皆さんには全国で晴れの地のうち「ここ相良が一番涼しい」と吹聴。
ニュースでは「38~39℃」の地について騒いでいましたがやはり当地の気温は32℃くらいだったのでは・・・
相良は変な場所?
画像は先日の芳徳寺の続き。
本堂は資料展示室を兼ねています。
2025年
7月
27日
日
奥方に「猛暑なんて平チャラ」などの軽口を叩きながら堂内でドタバタ。開始予定時刻の前に「参列者が揃った」ということで、それなら・・・とばかりに急いで準備にかかったわけでしたが、そういう時といえばまず間違いが多発するものです。
昨日の法要は体調不良(少々寝不足ぎみ)だったせいか、著しい誤りが頻発しました。
大いに反省して修正、再発について検討させていただきました。
しかし単純ミスについては如何せんどうにもなりません。
それこそそれが私そのものですからね。開き直るではありませんが、それはどこか抜けているからでしょう。
本堂内陣の「蒸し風呂度」は100点満点いやそれ以上でした。
対価を支払ってサウナ風呂を所望する方がいるのですから「タダで健康になれるのだ」と自ら言い聞かせてその場をやり過ごしました。
そのあとの墓参が私が初めて伺う菊川の井之上墓地ということで、運転中睡魔に襲われました。
バイパスで先を走る施主の車に追突しはしないかと不安に。
横浜の「奥の細道」氏は以前から眠れない、寝てもスグ起きるとボヤいていましたが、私はその真逆、ちょいとばかり気を詰めて集中する時間があると、そのあとときたら瞼が重くなります。
どこでも寝られるという特技かもしれませんが・・・コレもビョーキでしょうね。
息子もその「眠り病」を引き継いでいて「運転しながら寝る」などの感想を親子で論じるほどです。
あまりにもバカげた話ですが、その対応法は事前にタップリ寝ておくか、眠気に襲われたとしたら早めに車を停めて数分でも寝ることですね。
扨、先日テレビ小僧は、NHKクロ現プラスの「“私はやっていません”相次ぐ『再審無罪』の衝撃」を視聴しました。
最近になってあの手の事案(長期収監のうえ再審無罪判決)が数多出てきているわけでそれ自体に衝撃を受けますが、よくもまぁ事件の犯人当事者としてでっち上げてそれで「OK!OK!」にしちまうという無茶苦茶さ加減。
検察って何よ・・・というのが第一印象でした。
捜査機関の恣意的な方向性というか犯行に至る状況を操作しながら不都合な証拠を隠すといったところですが、一人の人生をすべてナシにしてしまうことですからね。
国民は沈黙しすぎですね。
いつ私自身が犯罪者として死刑や無期懲役刑に奉られるか、わかったものではありません。
怒りを通り過ぎて呆れるばかり。
日本の刑事制度は基本「自らは常に正義であって誤りは絶対にナイ(認めない)」というスタンスなのですね。
それでは冤罪というものが無くなりませんし、その救済というもが程遠いことになってしまいます。
番組では解説の指宿信(刑事訴訟法)さんが「刑事制度というものは過ちがつきもの」と仰っていましたが人間そのものすべてが「過ちがつきもの」というのが仏教者といっていいか私としての立場ですね。
その過ちについて認めないで突っ走ろうとする検察内部の雰囲気とそれを改めずに容認している国民がイケません。
75年以上も再審法について手を加えられず放置しているという現状はあまりにも間抜けすぎ。
国の権力者を守ろうとする憲法改正論よりも国民を守るための再審法改正の議論の方が重要。
番組の最後にノースカロライナ州の元最高裁長官の言葉を紹介していました。
●「わたしたち」が過ちを犯したのです
●速やかにただすことが「わたしたち」の責務なのです
とくにお役人やお偉い方々は「私が悪かった」と言えないようです。
要はあやまちについては反省して直ちに修正すること。
それは何事においても必要なことですね。
画像は昨日の比木のひまわり畑。浜岡での枕経の帰り途にちょいと停車して。
毎年この時期こちらについ立ち寄ります。
今年は少し小振りで少な目のよう。
ひまわりは自由と正義、公正と平等の象徴です。
日本の弁護士の記章でした。
2025年
7月
26日
土
午前から私が大工仕事、奥方が銀行、役場系往来と事務仕事。
今回の大工仕事は会館の40脚以上ある椅子の移動キャスター台の追加製作です。
椅子の納品前に5組(一組5脚重ね)を製作して「OKOK」にしていましたが、やはりあと2組10脚の移動を安易にするためそれに着手。
また、会館須弥壇横に置く御文用の台の製作、そしてぼちぼち頭の中で描いている大き目キャスターを使用しての棺用ストレッチャーの製作着手の算段。
まぁ、どちらも緊急性はありませんのでのんびりテキトーに。
墓地と外周の雑草たちの対策はこの好天つづきこそ効果絶大と思う除草剤の散布。
数日中に効果が現れるでしょう。
問題は何時静波墓苑に向かうか・・・ですがこれからの日々「動け!!」との指令が強烈に入っていますので当分の間はムリです。
この時節ともなると奥方と「一番好きな季節」について勝手な事を言い合うのが毎年のならいとなっています。
それはこの時期「6月末~7月下旬」こそ私の心身ともにキレてくるのだと思い込んでいるからですが、それは何のことは無い昨日が私の誕生日だったからです。
この歳ともなるとそれを「目出度い」などという気持ちはまったくありませんし歳を重ねるということは一休さんの言うように「ストレッチャーの上の人」になる時間がまた一つ早まったということですからね。
昨日の大田南畝の辞世といわれる歌の通り。
「今までは 人のことだと思ふたに
俺が死ぬとは こいつはたまらん」
扨、ご本山東本願寺情報、四点ほど。
①琵琶湖疎水関連施設24か所の一つとして
②7月31日から「下京・京都駅前サマーフェスタ2025」が
開催。東本願寺、西本願寺、興正寺(サンテラ)と合同で。
「下京サンテラ朝参り」「下京サンテラシネマ」など。
③恒例となった御影堂門桜上の公開。
④京の夏の旅」東本願寺渉成園の燕申堂初公開。9/30まで。
夏の京都観光はさぞかし暑そう・・・ただし私は④燕申堂はこれま
でお目にかかったことはありません。
幾度も渉成園を歩いていますが・・・燕の釘隠し・・・興味をそそります。
画像は京都市観光協会から渉成園の燕申堂の図。
2025年
7月
25日
金
相変わらず東北に北海道が暑いようですね。
39℃になった場所があったと聞きます。
全国的にその傾向にあることはわかりますが、北海道の39℃という数字には圧巻です。
当相良は昨日もドP感の青空でしたが、33℃になったかどうか・・・そしてエアコン設置が当然という感覚にない北海道のてんやわんやが報じられていましたが、39℃のエアコンなしの環境を考えると、さぞかしそれは「地獄」なのでしょうね。
そんな夏が毎年続くとすれば・・・エアコン屋さんボロ儲けか・・・
扨、大河ドラマは選挙のせいで1週お休み。
田沼家崩壊の直接原因の最たる事件が勃発してしまうわけですが、そちらへの導入部分その一因としてあったのが米高騰による市中不安定。
庶民、社会の不安材料は天変地異の数多の中でも「食の不安」へより傾くということは古今東西お決まりのこと。
最近は現代の米価格高騰の件、「令和の米騒動」と形容されるなどその対策に政府が農水大臣のクビを据えかえるなどいろいろ、右往左往の様を見せていましたが、結局その諸対策は国民に評価されなかったということでしょう。
選挙結果が物語っています。
その食の不安について一種のカラクリのようなものを庶民は感じているわけですが、前々回のドラマの中であたかも現代のその状況の件、示唆しているが如くの台詞がありました。
ドラマの一場面が選挙の投票行動に繋がったなどと言うつもりはありませんが、その台詞に「そうだ! そうだ!」と合点迎合した方は少なくなかったのでは・・・。
それが蔦重と太田南畝の会話です。
太田南畝 「ほんとは米なんて余りまくってんだろうな」
蔦重 「とすると この値上がりってのは・・・」
太田南畝 「米を持ってる連中が売り惜しみして値を吊り上げ
てってとこなんじゃないか・・・」
それが正論だとすれば、無茶苦茶「ボロ儲けしているヤツがいる」ということ。
そしてその連中が政府とウラでつるんで価格を操作している・・・などとその恨みつらみの方向に針が動いてしまうワケで。
先日は、お寺に「お米を分けて・・・」と訪れた御門徒さんがいらして、その時は一旦はお断りしたものの後日それを仰るからには余程のことと思い、ゲットした米のうちの少しばかりを届けにあがったことを記しましたが、他にも御門徒さんでない方でその「米を・・・」を理由にそれを所望されて寺に来られた方がありました。
以前その息子さんに境内の雑作業を依頼したことがあった縁ではありますが奥方はその際ボソッと「その家のお寺さんに行ったのかえ~?」。
私は「いろいろあるんだろ・・・」
米は昔の如く年貢として頂いているワケではありません。
私の子供の頃にはそのぽつぽつありましたがね。
奥方はお米はないが冷凍庫に保存してある餅ならばと提示、それを持ち帰ったとのこと。
令和の米騒動、なかなかその切実というものを思わされた件です。
そういった庶民があることを赤坂に生息する永田町のじいさんたちはご存知ないでしょうね。
その件に加えて、「政治とカネ」について未解決、庶民未消化の躰ではね。
画像は広報まきのはらの7月号から。
NHKローカルでその放映がありましたが、冒頭少々はしゃぎ過ぎ?を思わす人がありました。
あとからその方が市議会議員さんだったことを知りました。
トークショー参加が高倍率抽選ということもあり、そのようなカタチでの露出は、軽率の謗りを免れないでしょうね。
何と言ってもテレビで放送されてしまいましたから・・・
「定員500人の箱で何人の招待客を設定しているのやら・・・」とその運営についての疑問の声があがっていました。
正当な当たり籤を引いたとしても、秘かなる議員の特権というものの存在を推測してしまうのが庶民感覚です。
だれもが「狡い」と思うところなのですがね。
「瓜田に履を納れず 李下に冠を正さず」。
2025年
7月
24日
木
私は寝坊して朝の活動は8時から。慌てて本堂入口の閂を外しました。夜更かしがたたりました。
境内から奥方と静岡から草刈に来られて「一仕事終わって休憩中」だという秋野氏の話声が。
私の場合、草刈などは静波の墓地ですら放ったらかしの様でヤル気なし。
秋野氏は宅地近隣への配慮とのことでしょうが、まったく頭が下がります。
猛暑故の活動開始、静岡は5時出立だったそうですが、私なら帰路居眠りがでるでしょうね。責任感そしてその体力は凄し。
当地の天気は相変わらず晴天続きで私的には何をするにしろ満足ですが、涼しい筈である北の台地で38℃の猛暑の報せ、この世界、天変地異の様なのでしょうね。因みに相良は31~32℃か。
不思議なこと、人智を超えたいろいろ、自然現象含めて頻発しているような。
扨、昨日は夏目漱石「こころ」の一節を転記しましたが、そちらはお寺の掲示板にも貼り付けています。
基本私はご開祖の阿弥陀の教えというものは「私のこころ」を問うものであると承知しています( →「御ありがたさ 御うれ
しさを申す 御礼のこころなり」 )。また心とは・・・
結果的に他流(聖道門)でいう戒律徹底と修行、回峰、座禅などの「体力系」と対比位置となりましょうがそもそも当流の「私のこころ」に関して検討するという立場ですので他流でいう修行によって「仏(ぶつ)」に近づこうとすることに論うというスタンスにはありません。
称名念仏のみによって阿弥陀世界に触れて行こう(仏に近づく)とする私ども浄土門はあくまでも「私」そしてその「こころ」がテーマになっているのかと思うのです。
大河ドラマには田沼意次を追いやる先鋒というイメージが強い田安賢丸―松平定信を演じる役者が寺田心さんですが、その名の「心」についての命名について、大胆でありかつ人間の深みを意する言葉として特に印象深く感じます。
「私の心は難しい!!」ということがありますが・・・。
また苗字の「寺田」もしかり。
それは「お寺の領田」を意味しますからね。
本名でしたらそのルーツを知りたくなってしまいました。
①②難解で長めの歎異抄十三条からの一部をMIXして掲示板に。
③は浜松の繁華街、浜松城と浜松駅の中間地点辺りに出現した威風堂々。今年7月初旬に従姉妹が撮影した図です。
車の往来は勿論、人が行き来する場所ですからね。
これも首を傾げたくなるような現象、天変地異の一つ?。
2025年
7月
23日
水
11時から涼しいところでTV野球観戦をと算段、それまでは会館の廃段ボール箱の整理やら次の工作の段取りを。
段ボールは先般纏めて納品された椅子やテーブルの梱包材です。まだ梱包を解いていない品もありました。
奥方が食料品の買い出しに行くというのでテレビ視聴は昼過ぎにやめ私の近々の工作に使う材木など部材の下見を兼ねて運転手として名乗りを。
浜岡のカインズには生鮮食料品とそのDIY部材たちが殆ど同じエリアに並んでいますので好都合です。
そちらで昨日地団駄を踏んで悔しがったことを。
車の中で待つつもりでしたが、車を部材売り場前から食品売り場近くの駐車場へ移動したためそちらから奥方の姿を追いました。
生鮮野菜の売り場でたまたまトウモロコシが目に付いたためその1本を手に取って奥方の買い物かごへ。
すると「今すぐ元の場所に返してこい」と。
「ロクな品は無いぞ・・・」というのがその理由。
普段はそれといえば150号線脇、片浜大磯の店でとれたてを購入していますが、一見したところその品は悪い物に見えなかったためその忠告を聞かず頑なにその購入を主張しました。
自宅に帰ってから奥方がそれの皮を剥いて溜息をつきながら「それみたことか・・・」。私も台所に駆けつけてそれを目撃一瞬間、凍り付きました。
虫食いと腐敗で茶色に変色して見るも無惨な躰でした。
豚も喰わないような・・・
「レシートとコレを持って今から返品クレームに行くけ?」と問われて、しょんぼり。私が悪かった・・・
1本200円程度のそれ、その徒労と比較すれば「泣き寝入り」の作戦が有効・・・ということで自らそれを納得させて諦めました。
捨て台詞として「二度とあの店で買わないから!!」でした。
いつもの支離滅裂思考の私はその件、トウモロコシの皮とその隠れた本質の様(「一見したところその品は悪い物に見えなかった」)から夏目漱石の「こころ」の一節を思い出しました。
トウモロコシも人のこころもおなじようなもの・・・外見と中は違い時として、機会によって大いに変質する・・・
主人公が先生に指摘された言葉を転記します。
「君は今 君の親戚なぞの中に
これといって悪い人間はいないようだといいましたね」
「しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか
そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ
平生はみんな善人なんです
少なくともみんな普通の人間なんです
それがいざという間際に 急に悪人に変るんだから
恐ろしいのです」
画像は昨日「こんなのできました」と教育委員会の方が届けてくれたQRコード。
本堂に置くものと掲示板ガラスに貼るもの大小二つでしたが、もう少し大きくても良かったかも。
①掲示板のガラス面に。
2025年
7月
22日
火
3連休最終日。昨日は法務もなくのんびりマイペースの一日でした。
炎天下ということもあって午前中はお墓参りの姿は殆どナシ。
ただし私の「宿題」の数点の進捗はアリ。
その宿題の一でもある草刈作業についてはそれを手掛ける気持ちには今のところはなれませんね。
テレビでは各局選挙結果のあれこれを報じていましたが、なんたって三連休の中日という、かなりの無茶振り日程にしたのでしょうかね。
国民に対する嫌がらせのような日と思いました。
「投票に来るな!!」の思惑が働いているようにも。
それが好都合との判断があったのでしょうね。
それには一瞬、投票率ダダ下がり・・・を思うのでしたが実際は、期日前に投票済み数多とあって蓋を開ければその作戦は大失敗だったよう。
その件どなたが得してどなたがハバ籤を引いたのかなど、お日さまの下で些末な仕事に集中している私には無関係ですがね。
夜間はNHK映像の世紀を。
遺された映像をNHKが発掘し、8K高精細カラー化映像の第1回目。凄い技術で圧巻そのもの。
今回の内容はヒトラー台頭の欧州、第二次世界大戦の始まり・・・
計算された「偉大な指導者」ヒトラーが何故にして国民の承認を受け独裁者の成立があったのか。
「詐術のパターン」が存在するのでしょうかね。
今思うことはその刹那の「成功」を再現しようと目論む輩を出すことは許されないというところ。
差別と略奪を以てそれを自らの利益と安泰にすること。
一旦それを享受常態化してしまうと人は・・・理性を見失う。
扨、柳生城。
その城のある台地は広大で一説にこの芳徳寺の寺域も柳生城の一画だったともいいます。
このお寺に向かうには車は下の駐車場に入れることになりますが、それは観光客用ですね。
一刀石手前の柳生霊園のお墓参りには細い道を車で登ることができますが・・・。
その道一つでお寺含めてお参りができます。
2025年
7月
21日
月
朝のドP感の空の割には本堂内の居心地は「それほどでも・・・」といったところでしたが、それはあくまでも私の所感。
それを法縁に参られた皆さんの前で口にしたら嫌味になります。よって皆さんの声には素直に「暑いですね~」。
「雨にたたられるよりマシ」ではありますが、その意見も封印しました。
法事が終わったお昼過ぎに叔父からの香典を持参して従姉妹の二人が来訪。本堂余間に鎮座する叔母の遺骨へのお参りです。
二人はそれぞれ違う領事館に勤めていますが申し合わせてこの暑い盛りに遠方よりレンタカーを借りて・・・
律儀な姉妹です。
昼食タイムに「選挙に行きました?」と振られましたのでその言を遮るように「あんたらはどうよ?」と聞けば「私たちに選挙権はありませ~ん」でした。
叔父はお寺の子ですが彼の地に赴いて現地で結婚、彼女らはそちらで産まれたことから日本国籍がないわけですね。
勿論現地での叔父の仕事は当流寺院の経営ですから従姉妹は当然に「お寺の子」です。
またその選挙の話から「こんなことがあった」と・・・
二人で街を歩いていると二人組の男からチラシを渡され、いきなり「貴女の信じる宗教は?」と聞かれたそう。
私に限って言えばそんなシチュエーション未だかつて無し。
人のいい彼女らは真面目に応答したそうです。
勿論「浄土真宗です」と回答。
するとその男の一人は「その宗派では地獄に堕ちますよ!!」と切り出したとのこと。
そこで「面倒くさい」を感じて逃げたといいますが私は逆に「お前もな!!と言ってヤレ・・・」。
私は淡々と彼女らに御開祖の「地獄は一定~」を持ち出して語り出したわけですが「そもそも怖かった~」で逆説教はしなかったそう。
その手渡された紙切れの出所について聞けば、「×▲学会」の例のフレーズが。私は「なるほどね・・・」。
選挙前ということで活発な勧誘があったのでしょう。
そして「女だから」(容易いカモ・・・)とナメられた?
都会は面倒くさい場所・・・まぁそんな輩、私なら「超無視」ですが。
ついでに彼女らが日本に居て一番息苦しいと感じるところを聞いてみました。
それが住居の件だそうです。
国籍が非国民ということだけでイキナリ拒絶されることが多く一度一所に定住したからには何か不便に感じたからといって気軽に部屋を替えることができないといいます。外人拒否の大家さんばかり。
そして集合住宅のトラブルの一はまず「ゴミ出しルール」というのが定番ですが、ある時その問題で近隣からクレームが管理会社に届き、担当者が来たそう。たまたまその姉に玄関前で遭遇、ゴミ出しの件質された際「このアパートには外国人が1人いますからね・・・」だったそう。
「それは私の事です」となって平謝りになったと。
従姉妹は「外国人」なれど顔はちゃきちゃきの日本人で日本語はペラペラですからね。
誰もが差別の心を持っていることがよくわかるエピソードでした。
海外の日本向けの詐欺集団など日本人ばかり、ゴミ捨ての無茶苦茶など拙寺水屋のゴミ捨て場をみても・・・そちらは100%日本人ですし拙寺駐車場には拙寺とは関係のない車が毎日の如く。
その手のルール違反者に外国人系の姿は皆無ですよ。
インチキをやるクセに不都合があると外国人のせい・・・
外国人=厄介な犯罪者とのイメージはまさにフェイクとしか。
それを信じる日本人・・・かなりお寒い短絡思考としか思えませんね。
あの詐欺フレーズ「地獄に堕ちます」の常套句を使う宗教勧誘者も日本人というのがお決まりです。
画像は昨年末に施設から連れ出した叔母と5人で行った鰻店。
叔母の絶対要望の店でしたがそちらで4人でお斎とあいなりました。店は相当の混雑、見たこともないような状況でした。
まぁこのようなことでもなければその選択はありませんでしたが。
②画像は従姉妹の仕事の一つ。外務省から領事の車を手配。
「車検はナイ」といいますが・・・その他、住まいの手配もするそうです。
70歳の定年は確定しているといいますから、日本より先進的なような。
2025年
7月
20日
日
朝から将に本格的「夏」の到来を思わす空気。
この夏、かねてからその件、心に留めおいていた奈良の山歩きの決行についてこの夏の選択に躊躇しつつあります。
猛暑に関しては何とか対応できる自信ははありますが、暑さの中で集中力が落ちたところでの森、特にマダニへの対策、免疫力の低下からの発症のおそれがあります。
そしてまたクマ出没の情報です。
東北・北海道の各地でそのニュースが日々伝えられていましたが、このほど奈良県でもクマの危害を受けた人がいました。
北海道福島町の住宅街で駆除されたクマは二人の人命を奪っているとのことですが、体調は2m体重が200㎏超えといいます。
そのような巨大生物と山中で出くわしたとしたら・・・どうにも対応は不可能です。
体の大きさの割に俊敏のようですし、よく言われている「対面したら背中を見せず睨みつけながら徐々に後退・・・」など「できるものか!!」ですね。
その対応を以てあ奴らがスンナリ諦めてくれるかの疑心暗鬼。
何しろ万が一にもそのような恐怖は味わいたくありませんので夏の山歩き・・・やめるのが得策か。
しかし温暖化によって「冬でも冬眠しません!!」とクマさんは仰っているそうで。
昨日は非戦論者「高木顕明」の言葉を記しましたが今一つ仏教的、示唆に富んだ聖徳太子のことばを「十七条憲法」から。
やはり「憲法」は今と同様、庶民を抑えるものではなく、役人(政治家)どものその在り方について問うものですが「その十」は私どもにとっても重大な心のあるべき姿。
当流ご開祖が傾倒した聖徳太子の十七条憲法。
その十にはご開祖が好んで使った「凡夫」の語が見えます。
Wikipediaから「その10」を転記します。
「心の中で恨みに思うな。目に角を立てて怒るな。他人が自分にさからったからとて激怒せぬようにせよ。
人にはそれぞれ思うところがあり、その心は自分のことを正しいと考える執着がある。
他人が正しいと考えることを自分はまちがっていると考え、自分が正しいと考えることを他人はまちがっていると考える。
しかし自分がかならずしも聖者なのではなく、また他人がかならずしも愚者なのでもない。
両方ともに凡夫にすぎないのである。
正しいとか、まちがっているとかいう道理を、どうして定められようか。おたがいに賢者であったり愚者であったりすることは、ちょうどみみがね〈鐶〉のどこが初めでどこが終わりだか、端のないようなものである。
それゆえに、他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ自分に過失がなかったかどうかを反省せよ。また自分の考えが道理にあっていると思っても、多くの人びとの意見を尊重して同じように行動せよ。」
「なんとかファースト」とかの語が流行りものの様。
それを言いだす輩が国政に参加すれば・・・差別と瞋恚憎悪が蔓延、そして戦争(殺し-殺され 人殺しの連鎖)に繋がるのでしょうね。
画像は息子が5月の越後行脚の際にお参りした国府別院。
居多ケ浜御上陸の図は拙寺本堂にも同じものがあります。
拙寺のものは本通り小山千代さんが六角堂参籠図と対で寄進されたもの。報恩感謝。
2025年
7月
19日
土
朝方のポツポツは許容範囲、御門徒家による会館使用葬儀の記念すべき第一回目は滞りなく終了しました。
午後からは晴れ。関東地方が梅雨明けしたとのことでした。
施設入所が長かったということでしょう、ご家族の気持ちは「とにかく自宅で・・・」ということから通夜式はご自宅仏間でした。
そちらから拙寺無碍館への搬送は拙寺世話人が貸し出した軽ワゴン車。施設から自宅への搬送も会館から葬場への移動も同様でした。
前夜の通夜後の納棺についても私がアドバイス。私はそれへの対応のためのグッズを数点持参しました。
手づくり葬儀終了後、奥方が施主にちょっとした感想を伺ったところ「やりたいように好きに出来たがやることと、わからないことが多すぎて・・・」でした。当然でしょう。
それを全部プロの葬祭屋さんのサービスにおまかせし左団扇で過ごせるのが一般的なカタチ。
今回は親戚のみで皆で協力して動く「本当の家族葬」とでもいうべきものでした。
それでも男手が多く何事もスンナリと進みました。
まぁ、人の手が足りなければ拙寺御門徒有志を呼び寄せるだけですが・・・
私の昨日の天晴れと思うところは故人から100歳「年下」となる曾孫から花を手向けられていたところ。
将に奇特な瞬間でした。「凄い!!、凄すぎる・・・」
発見した新しいテーマは・・・お文箱と骨瓶を置く台を検討しなくては。
昨日は本堂から焼香台を持ちこんで対応しました。
扨、今年の8月15日は戦後80年ということでコールの鐘を撞くという新企画を催すことを記しましたが、鐘撞だけではあまりにもお茶らけイベントで終わってしまいますので、私として、真宗寺院としてのメッセージをさらっと掲示板に。
強い思いで戦争というものに体を張って時世に抗い、その意が「不適切」とばかりに拘束されて、政府に従順忖度した宗派からも「擯斥(ひんせき)」なる僧籍削除の処断を受けて獄中死した高木顕明師の言葉を。
掲示板の「 兵戈無用 」(仏説無量寿経)ポスターの隣に。
まあ、一つの「やった感」ですが。
今はその無茶な処断の件を反省した本山は後世、僧籍復帰という名誉の回復を処しています。
しかし僧侶として「人殺しはダメ」の仏の真意というものを口にできない時代、好きな事を言えない時代、でっちあげの不実で人の自由を社会なんて・・・
そういう時代に戻らせてはイケませんよ。
好戦的な政治屋というものはその発する言葉から類推できますね。孫子の代の「良き将来」を期待するために今回の選択からそれこそ除外消去しなくてはならないのでは・・・。
2025年
7月
18日
金
天気予報はハズレ、当地は雨の一粒もありませんでした。
むしろ太陽の出ていた時間の方が長かったかと。
朝は今年初、クマゼミシャワーかありました。
まだまだいつもの盛夏の激しさにはありませんが。
昨日夕刻6時から法務の予定があり。
そういう時は大人しく過ごすというのが定番ですが、とりあえず投票にでも・・・とのんびり構えていると花屋さんが葬儀用の花を会館に。
その件は承知していましたが私のイメージは「スタンド付き」でした。ところが実物は花瓶形式の生花。
それを「どちらに置けば・・・」と問われて呆然。
献花台という想定がなかったわけで、本堂から縁台を持ち込んで2個重ねにしてみたり試行錯誤色々。
布で包むにしろどれもこれも幅広すぎてしっくりきませんでした。
奥方は「とりあえず作っちゃう?」と振ってきましたので、夕刻まで時間もあることですしその件、合点。
ちゃちゃっと投票を済ませトンチンカンと15時前に2台の献花台を完成させました。
しかしまたその選挙ときたら・・・今回はナチスを彷彿とさせるような、また奇をてらったフェイクっぽい文言で衆愚の注目を集める輩が跋扈している感。
そしてネットだユーチューブだと以前と違う選挙活動が流行っているようですが、私はその手の物は一切見たことがありません。そんなものを視聴している人たちがたくさんいるというのは仰天なことでした。
まぁ、トランプが流行らせそして、その猿真似の如くのイメージ戦略に辟易。
我欲の主張を前面に押し出しまくるそれ・・・、選抜会の立候補ですから仕方ないかも知れませんが、私は聞く耳持ちませんし興味はなし。国会議員になってひと稼ぎ目論む奇抜の権化としか・・・。
ハイ、どうでもいいことですね。いつもの「勝手にしやがれ」です。
日々私の身辺いろいろのことでいっぱいいっぱいなのですよ。
途中、材料が足りなくなってひとっ走り。
そこの店で久し振りに会った方がありました。
以前拙寺の寺楽市に出店してくれたことがある人。
「元気そうじゃん・・・!!」と声をかけると、「元気じゃあねぇよ! 今病院から帰ってきたところだ」と。
聞けば、肺がんを宣告されて放射線治療の2回目がその日、「あと6回ある」の溜息。
そして「コレで治るとは到底思えない」と。
ただし年齢からして「進行は遅いので・・・」となかなか楽観的ではありました。
私も先日、その病の疑いからCTを撮影したばかり。
ただ私はセーフでしたが・・・
その方は喫煙は20年前にやめているそうですが医師の診断では経年とかつての喫煙習慣のせいと断定されてしまったと。
あまりの普通にしてさりげないボヤキでしたが・・・内心は半端ない焦燥感、辛さがあるのでしょうね。
私も明るく開き直れるか・・・まぁ「南無阿弥陀仏だから」ですね。
画像は会館の尊前に奥方がセッティングした生花。
急ぎ炎天下汗だくになって作った献花台×2の上に置きました。
手前の台はやはり自作の蓮台、棺の無い時は一人用の受付台。
無碍会館のお弔いでの使用、先日の縁者(叔母)を除いて、御門徒さんの第一号になります。
2025年
7月
17日
木
9時からの海の家での法要は観光協会主催の海難供養。
相良仏教会寺院住職の面々が集合しましたが欠席者も。
それは盂蘭盆かつ友引の翌日というタイミングだからでしょうね。
しかし海は酷く荒れていましたが雨があがって私としてはまさにベストなタイミングでした。
一時は足元ずぶ濡れの覚悟はしていましたので。それはかつての記憶にあります。
海の法要の終了後私はすぐ片浜の山の上へ上りました。
前夜、日が変わった頃、御門徒さんよりそちらにある施設で106歳のお婆さんが逝去されたという連絡がありました。
お寺の「手づくり葬儀」(私の勝手に命名)の依頼です。
そのシステムはスタートアップしたてで、依頼内容も各シチュエーションも違いますので動きもまだまだスムーズにとはいきません。
連絡していた協力世話人さんと合流し施主さんたちの到来を待ちました。お迎えの件ですね。
私は施設正面玄関の受付に待機場所を伺いに「えい、やぁ」の覚悟を以て赴きました。
それは私の坊さんとしてのスタイルが場の雰囲気を害するのではないかという遠慮だったわけです。
数日前の叔母のお迎えの際は私服でしたが、その部屋に行くにあたり、多くの入所者とお会いしました。
案の定、第一声「お坊さんがお迎えに来てくれたことなど未だかつて無かった・・・」と驚いていましたが、そのあとスグに有難いことだと感動の声をあげてくれました。
たまたま、法縁の直後であり、それが無かったら私服で行くところでしたが。
当初は怪訝な顔を向けられるだろうが・・・と半ば開き直りの気持ちでの法衣姿でしたが、そこまで感心していただけるのならばもっと自信を持って、こういったお迎えの場に坊さん然とした姿での登場を増やすべきである・・・と思ったのでした。
まぁ、お寺への直接依頼があってこその各手配でしたが。
今回は通夜はご自宅、弔いは拙寺会館で行うことになりました。
御門徒さん同士、協力して事に当たり「家族主体で送る」。
移動搬送も世話人さんが貸し出した車を施主家に貸し出し、またストレッチャーが無くも男子複数のため移動は安易です。
叔母さんの体重は38㎏でしたが100歳を超えるとなると30㎏程度でしょう。
棺の重さを加えても男性二人で何とかなってしまいます。
問題はそれ以外の「重力」への対応です。
2025年
7月
16日
水
案外と相良も雨が降りました。
静岡市内では「大風(竜巻?)の発生で車が転んだ!」のニュースがありましたがこちらはそれを感じさせない穏やかな雨でした。
ただし寺標近くの排水桝の詰まりが気なるところです。
まぁこちらは蓋を外しての清掃ができますのでカンタン。
雨が上がったら解消させることにします。
扨、嫁に出た叔母の面倒を私が看ることになったのは成り行きではありますが、私が当初こちらに入った頃からその雰囲気は叔母の口から出ていました。
年上の引きあげげ軍人の後妻として嫁入りし先妻の子がありますが、私はその人とは面識なし。夫の実家とも絶縁しての一人暮らしでした。
叔母の件いろいろ、相続権者の主張というものがあったとすれば面倒くさいことになるとは思ったものの、「その時はタノム」でしたし父からも「やってやれ」でした。
叔母は夫の逝去による年金で暮らしていましたが、叔母の家が借家であったことからその家の取り壊しについて地主と返還交渉となったことは昨日のことのように覚えています。
更地にして返すことは契約内のことですから仕方なし。
地主には「父の妹ということもあって交渉しているがそもそも叔母は叔母。相続とは無関係であるので私に支払い義務はなし。何時でも交渉を退きますよ~。
ただし叔母の親戚縁者は国内外に多数いて地主さんはその解消にきっと苦労するでしょうね~」と半脅しで話を進め、解体費用の半額を出してもらうことで手を打ちました。地主は都内在住で当地とは関係ない人でしたし・・・
最初から工事費全額の支払いは覚悟していましたが、どちらにしろその半額の支払いの出何処も叔母の財布でしたからね。
叔母のいろいろに携わったことで有益だったものは叔母の夫が拙寺から持ちだした古銭や刀剣を回収できたこと。
叔父は大陸から引き揚げてから仕事が無く、骨董屋稼業を。
いわゆる「窃盗・強盗・骨董」の類の仕事だった感。
頻繁に寺に来て小銭と引き換えに品物を持って行った姿は私も覚えています。
「子供はあっちにいっていろ~」とも。その記憶は鮮明です。
拙寺から預かるといって自らのお宝としていた備前長船など叔父の死後一旦はその実家の妹が持ち出して所在不明になっていました。
当時の叔母の頭はハッキリしていてかなり義妹を脅したのちそれを返却させていました。拵えは叔母が売却してしまいましたが刀が残っただけでも有難い。まぁ私が出入りしたことによっての成果の一番はこの刀が回収できたこと。
叔父は皇宮警察あがりの軍人で、そのような勉強をしたはずがないのにイキナリ軍医として大陸に。それには当時の軍というものの無茶苦茶・出鱈目を思います。
私はそのいろいろ、父・祖父からの口伝から叔父のイメージは勝新太郎の「兵隊やくざ」でしたね。そんなのに惚れてくっついた叔母にも呆れましたが。
その妻である叔母のいつもの言葉が「私は夫の(実家の)墓には入らない」「骨は実家(拙寺)に」でした。
ということは「他のいろいろタノム」ということ。
よってこれまでの叔母とのおつきあいを継続してきたわけです。
事が起これば機械的に連絡があって逐次呼び出されました。「(暴走気味の老人を)何とかしろ」的なものですね。菊川警察署からも2度ほど・・・
その「夫の実家の墓に入らない」「死んでまで夫と一緒は御免」なる世の妻たちの宣誓、遺言の件よく耳にするようになりました。そのために新たに墓碑・埋葬場所を設ける方もいらっしゃいます。
叔母も「冗談じゃあない」とよく口にしていましたが昔の考え方とは大分違ってきましたね。
それでいて叔母の最期の姓は夫と同じ。
その件どうでも良かったのでしょうが「死後離婚」という、やはり今、流行りだした縁切りの手段もあるのです。
夫婦別姓の件もありますが死んだらまた「墓をどうする」などの面倒くさいことに子供達は悩まされることになるのでしょうね。
ちなみに叔母は子供不在でしたので、こうなるほかはありませんでしたが私を息子として、奥方を娘として私の息子を孫として思っていたのかも知れません。
昨日は皆で叔母が死ぬ間際まで話題にしていた鰻をお昼に頂きました。
縁者の死後の後始末、今回もやるべきこと多々ありますがそれらが終わればいよいよ私の始末。
その前に奥方は「母がいる」と。
扨、画像は先日記した柳生古城の続きになります。
2025年
7月
15日
火
台風発生のニュースがありましたので荒れ気味の天候を予想しましたが、朝から青い空が広がっていました。ラッキー・・・・
コンディションバッチリの叔母の弔いの日でした。
一昨日の通夜と同様息子が導師、参列は私と奥方のみ。
コレが真の「家族葬」か。叔母には家族がありませんがね。
ただ成り行きでずっと私どもが関わっていました。
以前春先に、叔母が救急搬送された際、「もはやこれまで」とコンパネで棺を作ったことを記しましたが今回その出番がやってきたのでした。
仏間にその巨体がど~んとばかりに座していて、その景色が日常の如く化していましたが、その出立によって以前の如くの空間が戻りました。
棺を作るのはイイのですが保管場所にはまったく難儀したということで。
そのMy手作り棺の使い勝手。
叔母の体重が38㎏と激減したため私と息子の2名で難なく対応できたこともありますが、材質耐力はまずまずでした。
火葬場ご担当にその燃焼について問えば、「なかなか燃え切らなかった」と。
それはコンパネではありますが「木だから」ですね。
高価な棺はどこにおカネをかけているかといえば、外側を覆うもの、生地状で装飾があり煌びやかなものほどお値段が張るわけですが、それらはまずハリボテ。
内部は空洞、要所支柱には木材を使用しますが内外部とも硬質の段ボール、紙状のもので覆うので「あっという間に燃える」そう。
そして棺の容量ですが、あの私の造ったサイズだと炉に納めるギリギリ。特に高さについて2/3~3/4程度で十分であることがわかりました。
そういえば通常の棺の下部には布団などが納まって(セット)上げ底風でしたからね。
もっともっと「へ~え」と思わされたこと。
私が火葬場ご担当に「今日は忙しいの?」と聞くと「今回と午後の最終の2件だけ」といいます。
奇妙なことと感じ「それは如何に?」と問い返せば「お盆だからですよ・・・」と。
まさに「へ~え」。
一昨日は私も息子も初盆法要があったわけで、彼とは「盂蘭盆会のあれこれの説明はまぁいいが、真宗的盂蘭盆の迎え方として
南無阿弥陀仏の心について示すべき・・・と論じていましたが世の中の感覚の相違について改めてここで知らされたのでした。
門徒坊主の考えに及ばないところ、これも門徒もの知らずか。
しかしこの暑い盛り、日延べする意味があるのか疑問です。
まさか葬祭屋さんの念押しがあったり・・・など穿った考えも浮かんできます。
この時期の日延べは一日辺りの冷暗所の使用料あるいは保冷にそれなりの金額が加算されることは必定。
東京辺りでは実際に利用者が多いことからの順番待ちが1週間以上になるようですから「お盆だから」は通用しないでしょうが。
この地区のその日延べに関して大抵、「お寺さんの都合」というのが先ず第一ですので「お盆だから」と重なれば、相当のインターバルを覚悟しなくてはなりません。
私は秋の「祭典時期だから」の葬祭日延べについては承知していましたがここにもその禁忌があったとは・・・
拙寺に「お盆だから」はありませんのでその思考には新鮮かつ驚愕を思いました。
ちなみに7/15は友引。その友引禁忌についても私は理解しがたいところがありますが、明くる16日の相良海水浴場の海開き、海難供養のイベントへの参加寺院のキャンセルが複数ありました。葬儀の集中日になってその日の火葬場はきっと「火の車」になるでしょうね。
ちなみに昨日は職員1人対応でした。他のお二人は2連休ですね。
世の中、というか私の周辺には、雑念、「雑行雑種自力の心」に如何に取りつかれているか・・・。
よって「無碍」(会館名)の主張をしているわけですが。
扨、一昨日の昼に来られた取材撮影は「さんたつ」から①。
エリアは首都圏限定のようですが蔦重かかわりで相良まで。
「散歩の達人」のことですね。
アップされるのは「選挙の週の次」と仰っていましたが・・・
意知の死にあわせるという算段か。
②は昨日午前の相良の空。14時頃から西から雲が出てきて雨に変わりました。しかし雨は大したことなし。
③は炉前の叔母さんの棺。インチキ葬儀社(私ども家族)は時間が無くて叔母の写真を作るのを忘れました。ただし以前は写真などありませんからそれに拘る必要なし。
④は妹の家に行ったシロキイロの娘たち2匹のうちの一匹、妹の娘の子たちに囲まれてビビっている様。ネコは子供が大嫌い。
⑤⑥は息子の家に行ったシロキイロの息子と先住ネコ。
ちびキイロはマンツーマンマークで「絶対に離れない 時に足に喰いついてまで・・・」と。
2025年
7月
14日
月
海の方から何やらかの騒ぎの様(イベント?)が朝から夕刻過ぎまで休みなく聞こえていました。
まぁ雑音の類・・・もう少し近い場所なら・・・騒音ですね。
私どもの昨日は今年の盂蘭盆シーズンのピークか?とも思えるくらいよく動いた一日でした。
午前の法要前に前日の盂蘭盆会寺楽市で売却済みの家具類の搬出があり世話人さんらが集まっていましたが、私はただ軽トラを用意するくらい。
法要前に汗だくになれませんし今後の対応を模索しなくてはならない相談の電話も入っていました。
午前の法要のあとに午後の法要がありましたが、その午後にもう一件息子が導師となる初盆法要が会館で勤まりました。
日時指定とのことでしたが本堂が使用できずやむなく会館でお願いしたわけですが先方はむしろ「涼しくて良かった・・・」です。
それに対して今節本堂に上がる皆さん方、扇風機に吹かれつつもぐったり感満載。
奥方は「本堂に上がるのも命がけになるのでは・・・」と。
会館とは雲泥の差の環境です。
会館ホールのエアコン2機は物凄いほど効きが良く1つだけの稼働でも外の酷暑は感じませんからね。
法要と法要の間、昼すぎには本堂の取材撮影がありましたがその日の最大なるテーマは叔母の移動と通夜式の勤修でした。
本来ならば叔母には会館の棺に納めて待機してもらところですが、タイミングとして法事が重なってしまいました。よって一昨日は庫裏奥の仏間に。
そちらのエアコン冷気の下で一晩休んでもらっていました。
念の為、少々の保冷剤を脇の下、胸の上に。
昨日の段階ではそれでまったく問題なしでした。
扨、私の場合(個人レベルで御文の選択は違っていいと心得ています)、初盆法要の御文は五帖-十六(白骨)ではなく五帖―九<安心の一義>と決めています。
「心の安寧」こそ念仏・・・というところですね。
昨日は叔母の臨終前の私の叔母へ投げ掛けた言葉「南無阿弥陀仏だね」の真意をこの御文で解説してくれているよう。
「安心」(あんじん 安きこころ)それが日々の私たちのすべて。それが「南無阿弥陀仏のこころ」ということで。
五帖―九 <安心の一義>
「当流の安心の一義といふは ただ南無阿弥陀仏の六字の
こころなり
たとへば南無と帰命すれば
やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに
『南無』の二字は帰命のこころなり
『帰命』といふは 衆生のもろもろの雑行をすてて
阿弥陀仏 後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし
このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして たすけましますこころなり
これによりて 南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに
南無阿弥陀仏の六字のすがたは すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり
されば他力の信心をうるといふも これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり
このゆゑに一切の聖教といふも ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり
あなかしこ あなかしこ」
画像は庫裏から会館へ移動する頃の境内の様子。
軽トラの屋根に佇むキイロシロ。
ハイビスカス①もマンゴー②も絶好調。
2025年
7月
13日
日
昨日の盂蘭盆会7月の法要の「おはなし」のテーマは昨年に続き「認知症」。猛暑にはなかったその日の堂内は扇風機三台でまったくOKでした。
「認知症になっちゃった」がサブタイトルでしたが春先に認知症を宣告されて免許証を「剥奪」されたKさんが自身の一旦の失意と家族のおかげさまについて。
そして、その進行を遅らせるためのチャレンジ精神を話されていました。
どうやってその重症への進行を遅らせるか・・・Kさんそのものを見ていれば判ります。
表に出て自身のネガティブ状況を恥ともせずにあからさまに公言、要はすべて前向き、家に籠っていないで人とのコミュニケーションを維持し続けること。
楽しく面白く生きるということですね。
それには家族の協力が不可欠ですので、日頃から家族というものへのウェイトを高くしておかないと・・・。
そもそもの発端といえば奥さんから検診を勧められたからだそうです。頻繁に「今日は何曜日?」を聞くようになったから・・・とのことでした。
当人はまったく問題というものを感じていなかったようですが。
独りで居てはわからないこと、指摘を受けて初めて気づかされること・・・耳を傾ける・・・大切なスタンスです。
寺楽市は大層な物品を並べましたが中でも懸案の品々は終わってみれば1台のテーブルを残して殆ど捌けました。
残ったテーブルは5人がかりで運ぶような「バカ」がつきそうな大物で、購入すれば10万20万の声を遥かに超えてしまうようなもの。
いろいろな方々に声掛けしていましたが皆さん一言「置く場所がナイ」。そりゃあそうだ・・・
ちなみに「3人がかり」の比較的重量の軽いテーブルの方は椅子とセットで1万円で購入された方がいました。
やはり「バカ」が付きそうに重たい棚は1000円。
値段の設定も超イイ加減。
水琴窟と木彫りの狸は講演のKさん家族がお持ち帰りになりました。
ちなみに水琴窟は中古品ながら元は4~5万円はする品、狸は彫刻家の前島秀章作。500円で売却決定したのち狸の裏側に作者名が。
まさに「掘り出し物」と喜んでいました。
像の陶器の置物は500円とのことでしたが、こちらは私が欲しかったもので「もし残ったら・・・」と心得ていましたが朝一番で手が挙がってしまいました。まぁ私の出る幕はありませんね。
開式は10時でしたが、丁度そのころ庫裏にその日2度目の電話が。
叔母がお世話になっている施設からで「息を引き取った」との訃報でした。
Kさんのお話の最中にその報を耳にして仰天。
「早い!早すぎる!!」の感。
それが先日叔母と面会したばかりでしたから。
叔母の終末ケア、看取りについての意見交換会について記したばかり。
昨日ブログの相良海岸の青い海の図はその面談の帰りに寄り道した時。
あの際、「スグにというわけではありませんが~」と、色々な担当者から幾度もそれを前置きされて話を進められていました。よって、半年から1年は「楽勝だろう」などと奥方と調子にのっていたわけです。外出もOKとのことでしたし・・・特養に住処を変えるという選択肢もあったくらい。
叔母との面談の際も私と奥方の名を応えてくれていました。
私の手を握って「家に帰りたい」と言っていましたが、私は叔母さんに淡々と語りました・・・
「叔母さんは門徒の寺の子 南無阿弥陀仏だよ。親父(叔母の兄)もお袋も先に往って待っている。叔母さんも俺らより先に往って待ってて・・・」と叔母に向かって、手をあわせて称名。
すると叔母は沈黙して私を見つめていました。
最後に「またくるよ」というと「ありがとう」という返事はありましたが。
その晩から一切食物を口にしないようになって(翌日その旨施設より連絡あり)昨日朝も、血圧が低下傾向にあるとの連絡が。
その2時間後の出来事だったわけです。
私はこれこそが理想的な臨終の姿であると思いました。
叔母の「即決」だったのでしょう、引金を引いたのは私か。
しかしそんなことがコントロールできるの?
現状、臨終の床に坊さんを呼んで念仏させるといった試みは無いに等しいですからね。まさに古い形式を踏襲したような。
たまたま双方とも「お寺の子」だっただけですが。
また92年生き抜き今、体力が衰弱し最期を迎えようとする者に何を「ガンバレ」などと言えるものでしょう。
いいのです。
南無阿弥陀仏が・・・その言葉にハッと気づいたのでしょうね。
画像は叔母を連れ戻って本堂阿弥陀さんに報告の図。
そして寺楽市展示物の一部。
プライスはすべて「なんちゃって」。
実際の象の陶器の販売価格は500円でした。
2025年
7月
12日
土
天気予報の通り、当地でも少しばかり雨が降りました。
関東のドカ雨とは違ってまぁほんのお湿り程度。
朝方には路面は乾いていました。
翌朝の東京の気温は前の日から10℃近く下がったようですが境内はそれほどの涼しさは感じませんでした。
朝方は会館工事用の電源が撤去されてから放置していた敷石の敷きなおし作業。土嚢袋が劣化して破れ、無意味な作業もありましたがうまいこと完了。
朝一は魚才さんから「あんぱんが食べたい」との電話がありました。私は「お安い御用」とばかりに昼前に2個購入して届けました。
魚才さんの家とパン屋とは目と鼻の先の距離ですが、車椅子で向かうことは全ての事が難儀であることは承知するところです。
ついでに「お願いがあると」のことで部屋まで。
テーマは二つ。
①ゴミ取り用の粘着ロールを「ひと巻捲る」
②トイレのサッシ窓の網戸を「閉める」・・・でした。
それほど私どもが難なく普通になしている生活の一一、それが難しいテーマとなること、そういう人が居ること・・・魚才さんがいなければわからなかったことばかりです。まさに弥陀の光明。
どなたも健常の時はそういうことが判りにくい。
その時になって初めて気づくものですね。
午後からは盂蘭盆会法要に急きょ寺楽市を開催することになったことから、総代さんらを引き連れて再度魚才さんへ。
8月末頃に魚才さん宅の解体工事が始まるようで今度は2階から楽市用に提供いただいた重量のある高価そうなテーブルを必死の形相と溢れ出る汗をぬぐいながら皆でおろしました。
天気予報では夜間の雨は無さそうですが、それらを境内に放置したまま解散・・・ぐったりで何もする気になれませんでした。
皆さんもお寺の役員としてこのようなリスキーな肉体労働をさせられることをどなたが想像できたでしょう。
足が痛い、腰が痛い・・・の不調を抱えた年頃のみなさんです。
お寺の、私のお遊びにお付き合いしていただいて申し訳なく有難く・・・
扨、柳生城について記しましたがそれ以前の古城の方へ。
城郭大系から。
柳生古城(ふるしろ)
「柳生古城は柳生城の北方600mの山上にある。
北の笠置に抜ける南北路と狭川・阪原・柳生・邑地を結ぶ東西路の交差点を眼下に見おろす要衝の地を占める。
柳生城が柳生郷を支配するための居城であるのに対して、こちらはもっと広域の戦略の一環を担う番城の性格を示している。
天文十三年(1544)に筒井勢の討伐を受けた時の記事で、本城よりさきに落とされた外城として見えるのがこの城かもしれない。」
一昨日、青空に喜んで奥方と相良海岸に寄り道した図。
ついついうっかり駐車場の端の砂場に入り込んでしまってスタック。軽自動車の二駆であることを忘れていました。
運転を奥方に、私は後方でここでもヘロヘロになって車を押して脱出することができました。
まぁ余計で無意味な疲れを蓄積させています。
まぁ自宅まで歩く手間はありますが、牽引ロープと四駆で対応するという楽観、どおってことないトラブルではありましたが。
2025年
7月
11日
金
気にしていた青空が広がりました。
梅雨明け宣言以来「晴れ」の予想があっても何故かスッキリしない空でしたからね。
遠くの方からニーニー蝉の声があって愈々本格的な「夏」を感じることができましたが、夜間は雨予報がありました。
ただ当地の天気予報は気象庁といえども難しいようで、最近は外しまくっています。よって夕刻にはしっかり植木に水やりを。
ただし関東のドカ雨は大当たりでしたね。
午前中は仕上げなくてはならない木工作にかかりっきり。昼頃には何とか完成しました。
実は先日の私のCT検査のドタバタと同タイミングで奥方も再検査の指示を戴いていました。そちらは肝臓のCT検査ですが、昨日はその結果が出る日。
ちなみに奥方の画像撮影と検査結果のタイムラグがあるのは町の医院経由だからです。
私が大工仕事をしている時に、奥方が帰宅して第一声、再び「ラッキールチアーノ」。
今回、私ども同時に再検査とあいなったわけですがどちらも一番ヤバそうな病についてはともにセーフということで。
まぁ、こういう時こそ己の事、安堵の声として「運がいいことに~」となるワケです。
それは他人様の超絶不幸を論いそれを免れた事の諸所の事情に使用する表現ではないことは私の如くの凡人としてもあきらかだと思いますが。
おエライ方の考えていることは違いますね。
午後からは叔母の施設で面談。
いよいよ終末医療への移行です。
その「しょうがないねぇ~」について私の意見を求められ、施設側とその方向の共有を図った会でしたがその私の回答は「自然に・・・」でした。
食が細くなり体重も激減した叔母はかなり衰弱していました。
まぁ柳生の名所ということで・・・
全国的にその手の奇岩は見ることができますがやはりあれこれの伝承が添えられていること多いです。
柳生・・・剣豪ということですね、あたかも刀で一刀両断にしたかのような石塊が。
私は自然(つまるところ「自然法爾」)、「おまかせ」という思考に物事を落ち着かせますが、まぁこちらは不思議、切れ味鋭い刃物を連想してしまいます。
2025年
7月
10日
木
週半ばの法事には奥方はちょっとした苦虫。
大抵の法要がある土日の間ということで夏場の生花の件が問題だとのこと。要はその依頼を受けた「私が悪い」ということ。
法要が土日にまとまれば尊前の花が生き生きしたまま勤修できるというわけですが、夏場は一日一日と枯れ、萎れていきます。
前日に新鮮なものを追加する手間が増えるということのよう。
坊守というもの、その名の如くご苦労があるものです。
私はその意に介せず・・・
そしてまた昨日もあのクソ電話がありました。
その前日も二回。
あきらかにオカシイと思う見た事もないような番号でそれが「979-05287-7※※3」。
一応応答してみれば自動音声。「こちらはNTTです この回線は2時間後に遮断されます・・・詳しくは1(ボタン)を押して・・・」というもの。
一言「バカヤロウ」と呟いてブチ切ってやりましたが世の中の善良なる皆さんは真に受けてしまうのではないでしょうか。
私はその1ボタンを押すことなくおしまいにしていますので、その後のことは分かりませんが、まず間違いなく詐欺電話の類でしょう。
やはりその「2時間」を待ちましたが回線は繋がったままでした。手を変え品を変えの間抜けな詐欺話、付き合っちゃあいられませんね。
今自動音声で一方的に何か話して来たら・・・即切りを。
聞いているだけ時間の無駄。
扨、昨日は「奈良へGO!!」の如く私的に、勝手に盛り上がったわけですが今一度柳生に戻らせてください。
こちら柳生における春日大社からの街道筋にあった正長一揆(1428)の件、疱瘡地蔵の岩に記されている碑文について記しましたが、あの記述は当地の歴史を知るうえで結構に史的に有名なものです。
「徳政」の史実についても興味深いものがありますし記された
「正長元年ヨリサキ者(ハ)
カンへ四カンカウニ
ヲ井メアルヘカラス」
の(春日社領)神戸四箇郷(大柳生庄・小柳生庄・阪原庄・邑地庄)との
記述からしてそれらはかつて相互に団結して生き抜いて来たことが推測できます。
時に春日社に対しても抗ってきたようです。
柳生の陣屋から見て打滝川の川向うの丘には芳徳寺がありますがその周囲の丘伝いが柳生城(場所はこちら)になります。
以前拙ブログで記した柳生墓地(埋め墓・詣り墓・受取り地蔵)がその南側にあたります。
その四箇郷を纏めていたのは山中衆と呼ばれる土豪。
対立する筒井氏の成身院と古市氏との混戦期を纏まってその共同行動を続けていたようです。
その中で古市氏の勢力下の史料(城郭大系より)に在地土豪の名として西北部に狭川・蔶川そして柳生に土着する小柳生氏の名が出てくると。
こちらは小楊生郷という呼称もあり柳生家の伝承によれば出自は菅原氏で長暦元(1037)に関白藤原頼通が神戸四箇郷を春日社に寄進した際に永家なる人が小楊生郷の荘官となってその子孫
が柳生氏を称したといいます。
柳生氏を名のったのは(当初は小柳生氏)宗厳の父の家厳の頃で
宗厳・宗矩の父子の時代は当初松永久秀側に付いていましたが久秀が筒井順慶に辰市城で敗れて以来、秀吉の天下の間は没落停滞しますが、徳川家康の選択によって家運は一気に上昇したといったところ。
大和国人衆はその殆どが筒井氏に順応して没落するか豊臣大坂側について滅亡したという中、この柳生氏のみが大名として、幕府剣豪指南・諜報活動特化した「家」として名を残しました。
時代劇好きで柳生の名を知らない人はいないくらいです。
城郭の縄張りをこちらの丘全体とすれば芳徳寺や現在の霊園を
含めてかなり広大なものとなりますが、この柳生城として今残るそれらしさといえば、画像の残存する空堀や切岸らしき崖程度のみでしょうか。
この時は冬でしたが、草ぼうぼうの藪の中。
他所は開削によってその面影は無くなっているかと。
2025年
7月
09日
水
午前の少々の時間は大工仕事。
相変わらず真夏の直射日光と真っ青な空は見えませんでしたが湿度と温度が高く、汗をあまりかかない私でも、昼前にはシャツを脱ぎ捨てて着替えるくらいでした。
お昼は奥方が金谷の景色のイイ気の利いたお店でランチを食べさせてくれるというのでその運転手。
前日の上出来の結果をいただいたことへのちょっとしたご褒美ですね。
本格的な病とのおつきあい生活が始まるともなれば、双方生活が一変してしまいますので、まぁお祝いのランチです。
先日来、免許証の次の書き換えが「5年後」ということでその
「5年の生存」が私の当面のテーマになっていました。
例の「そこまで生きながらえるつもりか・・・図々しい・・・」ですね。
その結果次第ではスグにでも本格的な息子への各移行作業に着手しなくてはならないほどでした(まずは本山での息子の住職研修の段どり・・・)
ということで人間の命のことなどはまったくわからないことではありますが、その診断結果により、まずはその免許更新の「5年後」については何とか目途がたった余裕というようなものが生れたのでした。
この件、今私が想うお偉い方々の終焉というものが見届けられるかも・・・という期待の発現ありますね。
それが習近平72歳、プーチン73歳、トランプ79歳の「その時」とその後の中国、ロシア、米国の様を見届けられるかという期待。
ひょっとして健康不安説など見え隠れする皆さん、私の「5年生存」以上に怪しいのかも知れません。
どこからか鉄砲玉(弾)が飛んでくるかも知れず。
御一同、独裁意識が強い方々で、そういう「人」というものはまず齢を重ねていけば他者というものを一切信用できなくなるもので、しばしば「臣下」「配下」の者たちを失脚させて首の入れ替えをするものです。それ歴史でもあります。
そんな時の首領さまというものはまず「横領」「着服」といった曖昧かつ周囲が納得する理由をあげて処断します(内実はおそらくそれとは違うものでしょうね)。
要はそれが出現したとすれば如何にも終末的であるということです。
中国とロシアの御仁にはその傾向が現れだしました。
米国の方も財力をもって支援していた「家臣」がこのほど反目の狼煙をあげています。面白い。実に・・・
5年以内にそれら組織の瓦解と終末をこの目で見てみたい。
そんな楽しみが増えたのでした。
欲を言えばあの若き北の白馬の御仁の方も・・・如何にも私以上に不健康そうです・・・。
私は煩悩の塊、欲深く自らのひとまずの延命「与生」にお墨付きを頂いた今、その件期待として頭に思い浮かべています。
人には寿命そして運・不運があります。それは当たり前のこと。
他者の死を望んでいるワケではありませんが、ただ色々と見届けたい。
そしてより人生を面白くするには私がただ健康にして与えられた命を生きながらえるだけです・・・ただしそれも確証はないところがミソ。
まぁ5年は楽しみたいものですね。
とにかく嬉しいこの7月。私の誕生月でもあるだけに、この度
思いがけない「普通」というお達しをいただいてお気楽気分。
ただし誕生日を祝うなどの気持にはあらず。
正月に一つ齢を重ねるカウント方法が好みですしそれも一休さんは「目出度くない」ことを示唆していました。また別に「ちうくらい・・・」の表現もありましたね。
画像は先日のM氏所有書籍の他一つ。
耕書堂の「龍田詣」。
私の好きな奈良のカンタンな名所案内ですね。
それを江戸で手にした人は「行ってみたい」の願望が。
元気でないと奈良にも行けませんよ。
2025年
7月
08日
火
昨日は晴れ予報ではあったものの一日中お日さまは顔を出さなかったような。
それでいて気温・湿度は半端なし。34℃程度だったと思いますが直射日光が注いだらどうなるのでしょう。
ただし私は8時から11時過ぎまで涼しい場所にて。
そこへ入る前に初めてクマゼミの声を聞きました。
夏の蝉といえばまずはニーニーゼミ→アブラゼミそしてクマゼミという順序だと思っていましたが「あの世界」もかなり今の気候には困惑しているようです。
その私が涼んでいた場所とは榛原病院の1階の奥まった場所。
先般の人間ドックの再診に訪れました。
再診ですから予約なしの突撃訪問。
人間ドックの付録、医師による所感で「汚い」と断じられた肺のCT検査が目的です。
また面談の際、2021年に脚立から落ちて救急搬送された際のCTとの比較をされていたのでしたが(その際は殆ど全身に近い撮影)、経過観察の意もありそのCTでの検査を勧められたのでした。
ということで「お頭の具合も診てもらえばGood」と思いその旨総合内科の窓口で告げると、「それならば・・・」とトントン拍子で事が進んで行きました。
当初当方奥方は「月曜日に行くなんて・・・」とその相当なる混雑について指摘していましたが。
診察時間が思いのほか「早い」と感じたのはなぜかその日は脳外科の先生がいたこと。別の日に改めて来院するつもりでもあったのでしたが。
それも私の名が呼ばれるまで気付きませんでしたが総合内科のまさにお隣が脳外科でした。
それぞれの医師の「問診―CT―結果発表」という流れですが、そのわくわくの検診結果、懸案だった脳の血管の不具合、肺の悪性新生物質の有無についてオールセーフでした。「全く心配ない」のお墨付き。
そして昨日の医療ハシゴ(内科と脳外)の代金が意外にも低額で5100円也。CTは「一連につき」ということで脳外の撮影についての支払いはなかったようで・・・
拾った野良猫を獣医にひょいと持ち込んで目薬と風邪薬を貰って来ただけで7000円。
それで私自身の安心が得られれば安いもの。人間ドックの再診ということでしょうが、その検診を行ったことの付加価値、サービスのようなものか。
直前まで肺の件、奥方からそのステージは如何にと、どうこうといわれ、「その時は美味い物(鰻)でも喰ってくれ」とのお達しでした。今回の結果につき「鰻はなくなった・・・」。
それにしても当初人間ドックで指摘されていた「肺がきたねぇなぁ~」は何だったのでしょう?
内科医に事前に「肺のCT」の目的を問い合わせていました。
医師は「肺がんの存在」とハッキリ言っていましたので私はいよいよ「年貢の納め時」の気持ちが広がっていたのでした。
まぁ結果良ければすべてヨシ。念には念をということで。
他のデータ、血液も肝臓もあまり良いとは言い切れない数値でご指摘を受けています。
食生活と運動不足もケアしていかないと・・・
窓口で指摘を受けました。「内科も外科も今日でおしまい お大事に。しかし眼科の指摘はどうするの?」でした。
眼科の「測定不能」とは一体何?
視力も落ちているようですし次は眼科に向うことにしようか?
先日も免許証の更新の際に記しましたが、5年後の更新についてを心配することが如何に無謀であって無知を思います。
毎年劣化が進んでいるという現実です。
とにかく脳と肺に限って「ラッキー ルチアーノ」奥方の台詞。
2025年
7月
07日
月
一応は良きお天気とは言えるのでしょうが相変わらず薄曇りの時間が多く、イマイチ「夏」というイメージが沸きませんね。
蒸し暑さはそれなりですが。
何より蝉の声が聞こえないということからでしょうが、彼らのお目覚め時間は気温やら梅雨期の長短に関わらないということでしょうね。
境内は蚊の襲来はあってもその夏の風物はまだ。
24H営業のドラッグショップに営巣する燕たちは日没後も張り切って飛び回っていました。
店の照明に誘引される虫共は捕獲し放題。燕の親たちも24H飛翔というわけにはいかないでしょうが、みんないつも満腹で子の成長も早いでしょうね。
ここにも一所懸命の「一所」を思いました。最高なる住処か。
昨日午前は御納骨がありましたので、この早い梅雨明けの件、好都合でした。
堂内では今年初めて大型扇風機のスイッチをオン。3台稼働で堂内の高温多湿を皆さんに我慢いただきました。
納骨に関しては石工を依頼せずご家族若手衆の手にて。
納骨形式については各仕様の違いがあって一概とはいえませんが、その作業に関して事前に「出来ますよ」とお墨付きを。
よって私も法要前にそれ用の準備をしていました。
そして3人の若い衆に納骨室前の石を取り外していただいている間、他の参列者にはエアコンの効いた会館で待機していただきました。
納骨、読経焼香後は再びその3人衆の手で復旧作業を。
接着用のモルタルは拙寺の在庫品。
手筈、方法についても後ろから私の適当な言でしたが、奥方にもあれこれと動いてもらいながら無事に仕上げることができました。
これまでそういう場合、「接合工事は後日」というのが常でしたが今回の「皆さんは会館でしばらくお待ちを・・・」の待機ができることは大きな違い。
まぁご家族縁者の中で故人の為に一汗かこうという気概があればのことですが。
事前にその件ご相談をいただければ対応していきたいと思います。
お天気さえ安定していれば何とかなりましょう。
扨、彦根のM氏再来訪の件、記しましたがあの時また強く驚かされたのが表記書物をM氏がバックの中からおもむろに引っ張り出したこと。
聞けば今の大河ドラマの放映決定以前に求めたものだと。
本当に頭がさがります。
私の苦手、江戸庶民文化が大きく開花した時代の書。大河ドラマでもその名が・・・
今の大河ドラマにはその脚本その他これまでと違う面白さ斬新さを感じていますが、それを真っ先に感じ取りこういった書籍をゲットしていたなんて・・・
詳細内容は国書データベース商賣往来をどうぞ。
2025年
7月
06日
日
朝からフリーにつき遂に懸案の松の剪定にとりかかりました。
梅雨明けしたとはいえスカッとした晴れ間が広がるわけでもなく西からの風が強め。
蚊取り線香を用意していましたがその風では蚊もうまい具合に取付く事はできず何より快適に作業が進みました。
ただその仕事は単調で集中力が持続しません。
途中別途塗装作業に気を散らしながら思い出したように松に取付いていました。ただ余計な葉を手で摘んでいくだけの仕事。
そのノンビリでは全部の松をやっつけるのに10日はかかるでしょうね。
しかし植木屋さんにそれを依頼したとすれば・・・二人工以上の作業になるでしょうから・・・節約、節約。
拙寺境内の植栽について私の代になって一度もプロに依頼したことがありません。
だから汚い・・・といわれればそれまで。
扨、画像の図画は先日の図画に続いて軸装候補にしていたNo.2。
作者とタイトルは表記ですが、イマイチ真贋含めて結論が出ず
現状もやもやしながら叔父の評価を待っています。
他にも「まくり」(未表装の作)が控えていますし無用な資金を投入したくないというのが本音です。
価値が上がらないものを軸装することなど考えられません。
もやもやの理由が作品の大きさ。小品すぎるということですね。
今は無き土蔵の2階の木箱から出てきたもので、やはり息子が引きづり出しました。いわれもありませんし私にも寺にもその作者に心当たりがありません。
少なくとも戦後以降開けたことのない箱です。
よってまさかの「カラーコピー」というのは無いでしょうが。
2025年
7月
05日
土
境内でお会いした御門徒さんから「それを言うのは躊躇するが、やはり『暑い !!』」。
午前中に東海地区の梅雨明けが報じられていました。
毎度その宣言とやら、私としてはあまり信じていませんがね。
悪石島の群発地震もしかり、自然界の動・不動色々、どう頭をひねってみたとしても所詮「当たりはずれ」の域・・・。
まぁアレだけの回数の地震の中で過ごす現地の皆さんの想像を絶する苦痛の存在は気の毒に思いますが、その異様がさらに大きな崩壊に至る大地震に繋がる・・・などの発想には至りませんね。
面白おかしく囃しているだけでしょう。
じきに終息・・・それに私は賭けたいですね。
当たりはずれといえば、病気の罹患ですが、特に私は癌について
最近は思う事があります。
先日はある御門徒さんとその癌についての意見を交えました。
癌罹患率「二人に一人」の確率についてです。
最近は正確に近い統計的な数値からそのような表現が闊歩するようになっていますが、その方が仰るには「それは言いすぎ!!」と。
その方の住まう地区の癌罹患者数からの所感といいますが、むしろその方は「遺伝を疑っている」とのこと。
それだけの事例をこれまで見て来られたその証、体感ですから、その件信憑性が高いかも。
私の何となく聞いていたその統計らしき「二人に一人」の大当たりの件、かなり大雑把なイメージだったのかも。
その病に至る人が「多い」ということ、違いないのでしょうが。
扨、先日記した大給城登城口。
すでにあの段階で私はマダニは私の体の一部。
そんなこととも知らずのお楽しみ。
少しばかり登ったところで分岐点があり、松平乗元の墓へ。
墓石だけでなく、各石造物色々。
城址に墓・・・一挙両得。
2025年
7月
04日
金
午前と夕刻に法縁がありました。
お日さまが顔を出している時間もありましたが、その間に張り切ってへろへろになるわけにいかず外仕事は無しに。
よって庫裏の涼しい場所でぼけぼけ~っと怠けて過ごしました。
施設の叔母の今後の対応について協議するその面談予定は来週に決まりましたが、私と奥方それぞれの精密検査(ともにCTによる診断)の予定をかいくぐってのこと、なにより他にも初盆の法縁の予定があります。
よって例年以上に山積する外仕事への対応が捗っていません。まぁ都合のイイ言い訳のようなものですが、医者通いというものはなかなか気が重く面倒なものです。
医師から各ご指摘を受けた何らかの私あるいは奥方の不具合についてその理を判明させなくてはなりません。
場合によっては次のステップに進まざるを得なくなるわけですが、お互い「その時はよろしく・・・」。
そういうこともあって先般の免許証更新の~次(の更新)が
令和12という~時間に違和感があったわけで。
その衰えというか体力の衰微については仏教の基本中の基本、「無常」を常に思わされるのでした。
扨、昨日は浅草の「東本願寺」の堂内画像をさらっと記しました。また拙ブログではこの「東本願寺」の件、幾度か記していました。
特に「奥の墓道」氏が自身の学校に行かずして私のアパートに泊まった翌日私の昼間の学校(法律関係の授業)に付き合い夜間こちらで真宗学の講義を受けたこと鮮明に思いだされます。
奥方にその件を話すと「絶対にそんな酔狂は居ない!!」とは言いますが、何ごとにも興味のアンテナを張ろうとする彼、理由はその件だけではなかったはずですが複数年、留年していましたね。
しかし彼は伊東市の市長さんとはちがってしっかり卒業証書は持っているようです。特に確認したことはありませんが・・・。
ちなみに今はなき彼の御両親がなかなか終わらない学費の仕送りにつき訝しがっていたという話を聞いていましたが彼はすべてを私のせいにしていたようでした。
まぁすべてのことに私の原因を否定することはできないでしょうが。なんらかの責はありますね。
そのお寺の名称が変更になったのは私がここにかつて併設されていた夜学、専修学院を卒業したあとのこと(お東騒動)ですが、江戸期の頃の名称は通称「浅草御坊」です。
その御坊の遷仏法要の図の軸が土蔵から息子らの手によって出されたのが6~7年前の事。
この軸が次回修復予定の素材になりますが私の如くかなりのボロが出ています。刷り具合もあまりイイ出来ではないような。
ただしここでしっかり修繕しておかないとただ朽ちていくだけでしょうし、できればご門徒さんにも見てもらいたい品ですからね。
おそらく市中にてのかわら版の類というよりも、当流限定寺院用の告知に使用されたものかと思われますが、その存在の理由は定かではありません。
軸装されていたことから、当初は「見せて遺す(保存)」意図があったことがうかがえます。
ただしわからないところが年号の「文化八」です。
筆者の喜多川歌麿の死没の通説はそれより数年前であるといいますからね。
どちらにしろこの手のお寺の地味な絵図には「失意と晩年」ということを感じてしまいます。
しかしその通りに受ければ文化八年までは最低でも存命していたということ?
2025年
7月
03日
木
朝から寺務仕事。
外は曇天で心中気持ちもイマイチ盛り上がらず、夕刻に息子が赴く通夜式の準備等もあって庫裏に籠りっきりでした。
前日の枕経にはピンチヒッターとして私がお邪魔していましたので概略情報を到着した息子に伝達。
御前崎を終の棲家と決めたご夫婦~子供達から離れて三河から来られたといいます~の奥さんが故人でした。
自宅が御前崎でありながら吉田町の葬儀場の選択は東名吉田インターから最寄りであるということからでしょうね。
南遠州の海と空を気に入られての転居だったのかも知れません。
老後は夫婦で「好きに生きるのだ」ということからの決断だったのでしょうが、それが全うできることは如何にも素晴らしいことです。
但し次のステップ、男の独り余生のことを考えてしまいます。
お寂しいことです。子らの住まいとも遠隔地ですからね。
扨、昨日は蔦重マップを転記させていただきましたが、それらピックアップされた名所のうち私が訪れたことのある唯一の場所が佐野善左衛門政言の墓がある徳本寺です。
大元は三河にあった真宗寺院。
私は相良の皆さんがよく行かれているという東京の田沼意次の墓には未だお参りした事がありませんので、当方奥方はその件について以前から「とんでもないくわせ者坊主だ」と嗤っています。
それはタイミングです。
私が佐野善左衛門の墓をお参りしたのは、たまたま当時の東京浅草本願寺の門前、お向かいのお寺で御本尊が阿弥陀さんというお気軽さからです。
また「意次の墓」には皆さんだれもが顔を出していて「今さら」の感もあり、方向的にもいつも逆となって少しばかり遠めを感じるのです。
それに対しこちらは私にとって地の利のいい場所でした(夜間の学校―専修学院―の真ん前)。
墓は「世直し大明神」と囃されただけに墓石はカタチを保っていないようで。
きっと縁起担ぎの輩に削られたのでしょう。
また意知贔屓もいたはずで、その反発からの物理的暴力も加えられたのかも知れません。
私があの時感じた事は「佐野クンは真宗門徒だったんだぁ」。
あの短慮が無かったとしたら・・・
緩やかな歴史変遷、近代への移行があったということ、どちらの歴史家が指摘するところですね。
先日放送された「英雄たちの選択 田沼意次の大ピンチ!」では番組進行の磯田氏が「明治維新、薩長の出る幕などはなかったかも・・・」には大いに頷けます。
「たられば」を思うのは詮無きことですがね。
となると今がもっともっとイイ時代になっていたかも・・・そして戦争なんて無かったかも・・・等々思います。
最後の画像がお向かいの「東本願寺」のお内陣。
その名称がそれというのも紛らわしいことですが。
2025年
7月
02日
水
昨日午前は牧之原警察署から。
免許証の更新手続きでした。
「優良」なるおしるしを頂戴しましたので、30分のビデオ視聴で開放されるか・・・と思いきや更新手続きの人たち多数につき事務方は大繁忙の様。
「優良」とは5年間の無事故無違反の果実でいわゆるゴールド免許のこと、次の更新が5年後の令和12年ということになります。
この件、当家の者共は「不可思議」なことだと。息子などは奇跡ともいいます。私の注意散漫のやらかし野郎がよくもまぁ・・・といったところ。
まぁ「たまたま」の5年間だったのでしょう。
思えばあの新設された青山通りの左折禁止の取り締まり(助手席奥方のGo Go Go!!の掛け声)が最後ということで、もうあれから5年も経ったのか・・・感慨深いものがあります。
東京は鬼門でしたね。やらかしをして指摘され溜息をつくこと多々。やはり田舎はいい。
その受付たるやまさに人生の縮図というか、その日はやたらと年配者多し。
そちらで気づいたことは・・・何のこっちゃあない殆どの方たちがそのコールド免許の更新。まぁ皆さんもたまたま5年間を過ごしていたのかも知れませんね。
というのは、孫のような担当の女子が「やたらとデカい声」で一つ一つ丁寧に手順を解説。耳が遠いということなのでしょうが、そんなものか・・・ですね。
ただし視力検査は厳しいようでした。
左目・右目・両目の各3点づつ視力を問うものですが、「わからない」を連発していた年配者に対して、「免許が切れる7/5までに眼鏡を作り直さないと・・・」でした。
「7月5日が誕生日か~」と思いつつ、よくもまぁそんなギリギリまで引っ張り、直前になって「却下」されるものだとその図太さに強く感心したのでした。
今から眼鏡屋に行くと言い残して退出していきましたが、その一部始終を目撃し、①私もその後を追う②この広い世間、その手の方々がフツーに私とともに公道を往来している・・・
とても恐ろしく、また自分の近いうちの有り様を思うのでした。
自宅に帰って奥方に「次は令和12年だ」というと、それまで命が続いていると思っているのか・・・まさにその通り。
扨、その鬼門の東京。
叔父が廻った蔦重ドラマ関係の地について、いづれはのんびり歩いてみたいものです。
私のお世話になった夜学、東京専修学院(浅草本願寺)にほど近い場所で食べ歩きにはもってこいの場所。
昼間の学校に行き夜間こちらに地下鉄を乗り継いで通ったこと、当時は苦痛以外の何物でもありませんでしたが、今となっては良き思い出です。
2025年
7月
01日
火
昨日の法務は藤枝にて。
帰寺が16時前でしたが夕刻1630からの総代会にはギリセーフ。
内容は来年のお寺のバス遠足、そして如何にすればお寺の衰微を止めることができるか・・・とは大袈裟ですが、「敷居が高い」イメージの寺というものを気軽にお参りができて、少しは学びにも精神的にも功徳がありかつ楽しい場所にできれば・・・というような欲深い探求を。
会館を居酒屋にして・・・などと冗談のような話も出てきました。私としてもまんざらそれも悪くない・・・選択肢として考察すべき・・・と。
しかし「若いねぇちゃんどうする・・・」などという話になるときっと面倒くさいこと(道義的トラブル)が起こりえますからね。それは世間様の常。
煩悩世界の複雑な人間模様を演出する場になるやも知れず。なにより税金対策も面倒くさそう。
真面目な御門徒さんからはお叱りを受けることでしょうが、どうせ煩悩世界で浮き沈みしているわれらですから、固定観念を打ち捨てて思いっきり楽しんじまう・・・という開き直りもあるにはある。
それに「不思議」を思われる総代さんの声も。
お寺の変質として飲み屋を兼ねる寺の話・・・坊主バー・・・はよく聞くようになったが大抵は坊さんが酒好きというのがスジ。
ところが下戸の坊さん(私)の寺がそれを主催するというのも「変な寺」だと。
阿弥陀さんの別名に「不可思議光如来」とあるように、ワンダーランドを売りにするのもまぁ悪くない。
それを布教・教科として・・・
扨、先日は以前彦根からいらした「田沼意知ファン」のM氏が
再訪されました。
そろそろ「べらぼう」では田沼意知が「遭難退場」するとあってどうしても相良に来たかったとのこと。
8月頃にも来たぃとも仰っていました。
「外の人」でそこまで相良に思い入れがある方がいらしたとは・・・感動ものです。
むしろ私は根っからの近江好きですのでそちらの方が余程楽しそう・・・と振りましたがM氏の方は「相良!!」とその想いを語っていました。
今、彦根の地元では、番組でも取り上げられ、意知とも繋がってしまった松前藩の件、その近江商人の関係についてより突っ込んで紹介するようになったとのこと(拙ブログ又十屋敷)。
画像は吉原今昔図。叔父が先日吉原界隈を歩いたそうですが
その際「九郎助稲荷」でこちらをゲットしたといいます。
適当に分割トリミングしましたので見難いこと、失礼。
ご参考までに。
2025年
6月
30日
月
法務は夕刻からでしたので昼間は境内雑用。
先日は本堂障子の開閉の難についてその対応、やっつけ仕事について記しましたが、その障子は左右の柱の歪みから、閉めたと思っても隙間ができるといった始末。
この時節ならまだしも冬場になれば隙間風が吹き込みます。
よってその対策として柱に細めの材を貼り付けました。
その手の雑務は山ほどありますが「古いモノだから仕方なし」で諦めています。本堂は切り貼りで対応。
軽トラ荷台は作業台になっています。
そちらにて工作に向かっていると先日、お米を所望されたご門徒さんが孫娘を連れてやってきました。
娘さんの手には小松菜がぎっしり詰まった袋が。
実はそのお米所望の件、一旦はお断りしていたのですが、その数日後にたまたま10㎏の米を息子のルートでゲットできましたので少々のそれをご自宅に届けていました。お米はありすぎても痛みがきますからね。
そのお返しということでそれをお持ちいただいたのでした。
よって夕飯は小松菜の炒め物と昨晩のカレーの残りで。
朝もカレーでしたから私も「ん?」。
奥方は「コレが最後(だから我慢すべし)!!」と。
カレーに青い葉っぱの添えはいかにも体に良さそう。
日曜日とあってお参りの方たちも多し。
別の方から問い合わせがありました。
それが「水屋の奥の銀杏の子たち」の件で、それを持ち戻りたいというものでした。
これは去年落ちた銀杏たちから発芽したものですが要は私どもが掃除をせずに放ったらかしにしていた証拠ですね。
そしてその問いには「どうぞご自由に~」というのは当然のことでした。私がどうすることもできない命たちでした。
しかし銀杏は大木系で庭などに余程の大きなスペースがなければあとあと困ることになることは必定。
よって「どうするの?」と聞き返したくなったところその方から「盆栽にチャレンジする」とのこと。
「なるほど」でした。かなりの時間はかかるでしょうがね。
私も樹木は大好きですですが、ああなるともはや手に負えません。
強烈にデカくなる彼らをコントロールできる方、ご自由に掘り起こして身近な場所に植樹、新たな友として一緒に生活を共にしてみてはいかが?
この銀杏の出自は父が入手した「伝 親鸞さんお手植えの銀杏の子の子?・・・」です。
AI、コンピューターの世界にどハマリの生活から離れ、日々成長して変化を見せつけてくれる小動物や植物を育ててみること、大いに推奨します。
そして門前には先日記した「コール(響流)の鐘」についてPR、
掲示板に貼り付けました。
80回の鐘に賛同を得られるかどうかちょっぴり不安ですが、要は思いついたこと「とりあえずGO!!」というところ。
まぁ「やった感」だけでもいいか?
①は昨日の続き、キイロシロの子が赤の他人と10日ほどで馴染む様。
2025年
6月
29日
日
行僧原の墓地は茶畑の最奥。
そちらには数基の御門徒家の墓碑が建ちます。
法要終了後の墓参にこれまで幾度も向かっていますが昨日は久々好天の畦道行脚。
毎度雨天に付きまとわれ茶畑畔は悪路と化していることが多かったのですが有難きことこのうえなし。
拙寺本堂の法会は一旦解散、行僧原へ墓参GO!となるわけで・・・それではお先に・・・の躰で寺を出立、行僧原公民館に車を駐めてとことこと歩いて墓地にて待機。
ところが施主ほか参列者がなかなか姿を現さない・・・不安になりますね。「ホントにここのお墓で良かったのか・・・」です。
よりによって携帯電話も放り投げて「すっ飛んで」出てきてしまいましたので墓の前で焦りまくっていました。
やきもきしているうちにそろそろと・・・遠くにその姿を確認して安堵させられましたが。
そういえば参列者は高齢者が多く、この暑さにはへろへろになって動きは鈍くなるのは当然・・・その畦道を歩いての墓参、辛そうにされている方も散見。
皆さんは私の大好きな「晴天」を恨めしの形相をもって罵っていました。
私が畦道をウキウキで歩けば同じ道程を地獄に思う人たちが歩を進めている・・・。わたしもいずれその後を歩く?
扨、息子の昨日は千葉県での法縁に招かれていました。
その前日は大和市の義母の家に中継宿泊。
そこで気づいたのが壁の中から聞こえてくる水道管からの漏水音。かなり激しい音でしたが、耳の悪い義母は「まったく気づかなかった」といいます。
息子から「水道工事業者どうする?」の連絡がありましたがネット検索だけは「ヤメテおけ」。
どちらの困りごともネット検索上位ほど怪しいものはありませんからね。
よって一晩そのままにして夜があけてから近所の皆さんから情報収集し近隣の水道屋さんを紹介してもらったそう。
それでも壁を壊して止水、外部から別配管する段取り。
そういう場合のオーソドックスな工法ですが、見積もりは18万円とのこと。
当初、私どもが出向こうかとも考えましたがその辺りで手が打てれば「しゃあない、しゃあない・・・」です。
画像は息子の家に先日入った雄の子ネコと10カ月ほど前にやってきた1歳雄猫の図。もう1匹雌猫の親分がいますが。
なんと鷹揚さ溢れる兄貴でしょう・・・
「仲良しができる」こと。彼らに見習うべきですね、喧嘩ばかりしている阿呆な人間たち。「自分は正義」の旗印はくさくさです。
③は横浜の「奥の墓道」氏からの図。「勿論一袋所望」したそう。
それについて私も食してみたいところですがそのような様はこの辺りではどちらにも見かけることはありません。
なにより東海地区は全国的に米の価格は酷く高いのでした。
東北地区とでは900円も差があるとのこと。
おかしな話です。
2025年
6月
28日
土
西日本の梅雨明けが発表されていました。
当地はどうなるのか知りませんが、空は「梅雨」などという感覚はまったくなし。
ドカーンと強い日差しが降り注いでいます。
というわけで朝から境内作業いろいろと。
晴れていれば作業が捗る事このうえなし。
昼過ぎに静岡の秋野氏が撮りだめした画像をDVDに収めたものをお持ちいただきました。
その際、所有されている相良の敷地の草刈の件を伺いましたがその日はその予定になかったようで。
「草刈」に関して「もはや放置に限る」と余計な私の所感を伝えていましたがこの炎天下でのハッスル作業のご主張はそれを聞いているだけで恐ろしく感じます。
私の炎天高温耐性の体質の異常さはいつまで続くのかわかりませんが、現状、以前の如くの感覚がキープされているようです。
水分の補給に関してはかなり気を遣うようになりましたが。
ところが他人様のコンディションは知る由もなく、とにかく心配になります。
草木ぼうぼうの対応を気にされていますが、この状況下で着手するべきではなく「むしろ放置で・・・」と、「やらないこと」を推奨します。
隣近所に嫌味を言われたとしても放置する度胸が必要ですよ。
ムリは禁物。
秋野氏の敷地は森に隣接していますのでマダニに噛まれるリスクもあります。
近くの小堤山の芝に犬を放すとダニだらけになるといいますし、もしあ奴らがウィルスを持っていたら殆どアウトですからね。
致死率も高くそれに至る重篤な症状というのもカンベン願いたいものです。
私は以前続けざまに3回もそのマダニ(またはこちら)に噛まれて(いずれもセーフ)からそれへの警戒をするようになったわけですが―といっても春から夏は山城を攻めないというか今年はまったくその手の暢気な時間がとることができないわけでー自宅周辺の草刈等は相変わらず半袖軽装というお茶らけ具合。
いつかは酷い目にあうでしょうね。
扨、今年は各地でそのマダニのウィルスによって亡くなったというニュースが入ってきています。先日は静岡県で2名、愛知県で2名でしたがその愛知では豊田市内とありました。
私の記憶では3度マダニにヤラれたうちの2度までがその豊田市の山城でのことでした。
それも「絶対ここだろう」と確信しているのが大給城です(場所はこちら)。
三河のここいらは徳川発祥の地ということもあって見どころというか山城もたくさんありますが、以前拙ブログにて記したところでは直近に松生島がありました。
以前はそちらから東方に山道を進んでいくわけですが、今は豊田松平インターから直結する松平バイパス(国道301)がありますからあっという間です。先はいろいろ長いですが・・・
しかしながらこちら大給城への入路がなかなかわかりづらい。
というかまごまごしていたら危ない場所になります。
それがバイパスの松平トンネルを抜けてスグ「右側」に登り口があるからです。
後方からはせっつかれて対向車はカンカン、気づかずパスしてしまう人は多いでしょうね。
駐車場、と言っても数台しか駐められない狭小さ。この道路わきの看板から上って300mほどの地にあります。
登城口は駐車場からさらに100mほど進んだところにありますが私がマダニに噛まれたと思うのが④図の左の道に逸れた際でしょうね。滝という言葉に誘われました。
ちょっとした気の迷いがリスクに繋がるものです。
2025年
6月
27日
金
二日続けて不思議なこと(昨日の天気)はさすがに起こりませんでした。私の都合で天気が動くものではありません。
しかし朝方は日が出て一昨日のテーブル塗装の仕上げを。
昼過ぎに再び会館に収めましたので夕刻の土砂降りに見舞われることはありませんでした。
淡々と課題をこなしている日々ですが、昨日は私も奥方もそのことで頭の中が一杯になっていました。
沖縄時代からの友人で夫婦ともども交流がありました兵庫在住の友人。その奥さんが亡くなったことを一昨日伺いました。
30数年以上前のこと私が他人様の結婚式に、それも教会で催されたそれに初めて出席し、讃美歌まで歌ったという機縁がありました。
奥さんは当方奥方とも趣味が一緒で先般も、再会を約束していました。スポーツインストラクター(と呼んでいいのか・・・)その友人は拙寺のかつての盂蘭盆会法要で講習会の講師として招いたこともありました。
「みんな元気」というのはまったく思い込み以外の何物でもありませんね。
その奥さんは乳がんのステージ3が発見されてからしばらく
各治療の闘病期間を経て後に再発、遂に力尽きたとのこと。
ショックというか奥方はがっかり。
彼からの連絡を受けた私が、その件を伝えると「え―・・・」と絶句していました。
私もその病気・・・がんについては気休めながら人間ドッグの検診を続けるなど警戒を続けていますが、どうも女性は女性特有の病・・・乳がん・子宮がん・卵巣がんの件、余計に耳にすることが多く感じます。
蓮如さんの御文に「抑、男子(なんし)も女人も」というタイトル(五帖-四 五帖の御文ですからどちらのお内仏にも備えあり)
通りその病は性別に関わらずどなたでも起こりうる病ではありますがその御文に出てくる詞から「末代悪世だねぇ・・・」と溜息が出てしまいます。なまんだぶ 南無阿弥陀仏・・・
仏教的に言い放てばがんに罹患するのは当たり前のこと。
生老病死に関わらずこの「時代」・・・私どもの都合だけで「悪世」と断じてしまいましたがホントは人間社会そのものが「抑、悪世」なのかも。
AI、ハイテク、武器、戦争、人殺しの為の金儲け・・・石油、資源やその開発に湯水のように資金を注ぎ込み、人の心身安楽への全世界的方向性が見いだせないでいるのがこの社会。
単純に、せめて人々をがんという病から解放されるような研究と成果を「早く早く・・・」というのが本音です。発展の目的が違うだろ・・・
画像は昨日たまたま後堂付近で目撃した図。
先日の法要で本尊前の灯明(和ろうそく30号)です。
ろうそくの芯切後の芯を入れる容器に火を消してからそのろうそくを入れました。
昨日はたまたまお参りがあってその朱ろうそくに火を点けようと手にとって唖然呆然、愕然、立ったまま口を開けていました。
てっきり消火したと思い込んでその容器に芯を下にしてろうそくを入れておきましたが芯に火が残っていてろうそくの形状を残すことなく焼き落としていたとのでした。
よくもまぁ・・・(他所に火が回らなかった)と安堵して合掌しました。
「思い込み」とはしばしば致命的な事案を惹起させます。
対策としては水を入れたバケツを常備し、「消した」との思い込みをクリアするために芯部分を完全消火することにしました。
和ろうそく・・・恐るべし。
以前も完全燃焼したと思っていた燭台の和ろうそくのあとに木蝋という装飾蝋型を差し、それを大いに焦がしたことがありました。
2025年
6月
26日
木
不思議な事もあるものです。
全国的に大雨のニュースだらけの中、当地遠州相良は青空に太陽ドP感といった景色が。
当初は一時的な晴れ間かと思っていましたが私の頭上は朝から晴れ渡り、以降1日中、雨のポツリもありませんでした。
おかげさまで新会館「無碍」用の受付テープル兼焼香台を製作、塗装までできました。
夜間は一応(雨降りの)信用がなりませんので、会館内に突っ込んでおきました。少々の仕上げ塗装が残っています。
扨、先日の世話人会は今年の盂蘭盆会法要について。
例年通り全三回の法縁。当地の盂蘭盆が7月と8月の地域に分かれるからですね。
①7月12日土曜日 午前10時
小山昭氏 「認知症を宣告されて」
②7月12日土曜日 午後 7時
③8月15日金曜日 午前11時 「コール(響流)の鐘」
戦後80年 80回の鐘を衝きます
昼12時 法縁開式 続いて二胡演奏会
※8月1日金曜日 午前10時 夏休み研究ヒントに
「田沼さん時代のお米」 小中高生
「コール(響流)の鐘」についてはこの度の世話人会で「どうせなら その名称を決めたら ?・・・」という意見があり「それなら・・・」ということでこの名称に。来年以降どうするか決めていませんがね。
「何のこっちゃあ」と思われる方もいらっしゃるとは思いますが真宗系の経典に少々詳しい人ならば「鐘といったらそれ」という具合に思い浮かぶ名称、ごく普通の発想です。
まぁ、私はカタカナにしてわざわざカッコの中にその語を入れたという次第。
要は阿弥陀仏のはたらき・・・です。
画像は拙寺の梵鐘、昭和33年にご門徒一同の手で再建されたもの。金属回収令で供出させられてしまい何もない鐘楼を気の毒だとの「声」「呼びかけ」があって13代(私の祖父)の時代でした。
願主の浄了とは拙寺初代、今井権七(郎)のこと。
「響流十方」とあります②。
2025年
6月
25日
水
勢力が落ちて熱帯低気圧に変わるという台風2号が「私」(静岡)に向っているよう。
大したことにないのでしょうが面倒なことだけは御免です。
昨日の比較的強めの雨は明け方でおしまい。
小降りになったところで私は榛原病院の人間ドックに向かいました。
検討した結果、懸案の「脳ドック」はヤメにしました。
脳内の血管の状況は怖いながらも知りたいところですが、何せ
慢心、「オレはまだ大丈夫」があってまたおカネも増額。
その問題ではないことは分かっていますが。
もっとも胃カメラと脳ドックは一緒にできないので別のオプションになるよう。
まだ血液検査等の数値の評価が出ていませんが、検査終了してからの医師との面談は例年とかなり違っていました。
過去のデータとの比較を入念にし、どういった変化があって、その原因についてのご指摘です。
それが体重・視力・心臓・肺についてのネガティブなものばかり。
体重は昨年より2㎏減、視力1.2→0.8、心臓の力強さ▼、肺は「汚い」との評価。
体重減はいいことと思っていれば「元に戻せ」との談。これは意外でした。
そして男性の「骨粗しょう症」のリスクについて淡々と解説されたわけで。
体重が増えることを激しく嫌う世になって、女性がその骨の脆さによって骨折に至るケースをいわれていますが、最近の医学界では男性もその傾向にあるというのが通説とのこと。
筋肉を落とすと骨にかかる重力が減って骨が弱くなるというのです。
視力の件は「眼科にて」を推奨されましたが以前もその指摘があって眼科に赴くも「何でもなし」でした。
私も少しは自覚していましたが。
まぁ昨年の視力検査を思い出しましたがあてずっぽうで言った
4択が当たりつづけたこと、それもありましたね。
問題の心臓の「勢い」については端的に言って水分摂取不足だとのこと。心電図を以前のものと比較していましたが、明らかに上げ下げの振幅が少なくなって「平坦」な部分がありました。
水分不足→血液ドロドロ→腎臓に負荷(過去に尿道結石)→心臓に負荷という図式だそうですが、それは大いに心当たりがありました。
以前も拙ブログで記していますが高校時代のサッカー部で「水は飲むな」の世界で慣らされる事しばし、以降ずっと水分少な目でも平チャラの習慣が身についてしまいました。
あのヒステリックなかん高いT先輩の怒鳴り声が思い出されますね。水を断じる=根性論・・・まったくアホな知識をひけらかされたもので。
そして肺。これは一応念のためということで「CT撮りなさい」とのことで再診ということに。
肺の底部にモヤモヤがかかっている画像を見て「タバコのせいでしょね」との判断に「私はタバコは吸わない」が「朝方咳がでる」ということを告げると「次の検査」を推奨されたわけで。
「仕事は埃っぽい場所に?」と質問されましたが、その手のものは程度というものがありますからね。
土蔵の解体清掃以来の咳ですが、屋根裏、床下の作業にネコたちの存在です。
不定期に火葬場や納骨に立ち会っている事は話しませんでしたが。
となると私の肺には故人みなさまが粉末となって生きている? そうだとしたら心強いことこのうえなし。
非喫煙者の肺がんの件、最近になってよく耳にするようになりましたが、医師はそれほどの重篤については触れていませんでした。さぁ次のCTどうなるか?
そして脳が水分を所望していなくともガブガブお茶を飲むことを心がけます。しかしスグにそれ、忘れてしまう。
①②は昨日の息子宅のキャットタワー。
キイロシロの子は段々と上に上がれるようになって遂に三段目まで。トップを狙っていること見え見え。何せ耳がデカい。
彼が来たばかりの頃-といっても数日前ですが-タワーの下でうろうろしつつ寝ていただけでしたからね。
尚、ネコたちとの同居生活はヒトの肺に対して影響があるのでしょうか・・・不都合な件は聞いたことがありませんが。
扨、金沢東山の山麓の寺院、浄土宗の玄門寺。
本尊は阿弥陀さんに決まっています。門前でご挨拶して失礼させていただきましたので本日もサラっと画像だけ。
2025年
6月
24日
火
世話人会が終わってひと段落。
それに関わる寺務仕事はまだ残りますが、気持ちは外仕事。
あちこち草ぼうぼうの様は毎度のことながら焦りが出てきます。しかし夏草への対応の試みはあのうるさい連中の襲来に心が挫けますね。
一瞬間思い出した作業があり何らの対策もせずに水屋の裏に10分ほど滞留しました。
すると異常な数の蚊がまとわりつかれてしまいました。
露出している腕には次から次にミサイルの如く飛来。多少の抵抗はできますがあの数にはどうにもかないません。
特に気づきにくいのが首の上。また、耳近くの飛翔体のあの羽音は耐え難い不快がありますね。
早々に避難撤収し顔中、腕にキンカンを塗りまくりました。
扨、先日の金沢東山の蓮昌寺。
裏の墓域を彷徨いましたが、美的な造形物と遭遇。
オリジナリティ豊かな石造三重の宝塔です。相輪の状態についてハッキリしませんがこの環境の中でしっかりと直立していました。軸部に彫られた文様も珍しい。
全体的にこの山麓寺院は江戸以降というのが頭にありましたがこの多宝塔についてその製作年代を知りたいものです。
周囲にも石塔やその残欠が散らばっていました。あの時は蚊の生息前の頃、夏場の墓場放浪は余程の準備が基本ですね。
どれだけ準備防御態勢を整えたとしても蚊どもの襲来は無限。その数の多さに対抗できません。
2025年
6月
23日
月
会館「無碍」にて初の世話人会の開催。
3人掛けテーブルを8つ用意しましたが、あと二つ分テーブルのスペースを残していました。
正面の脇にまだスペースがありますし、テーブルを片付けて椅子のみとすれば40人はラクに入ることができますね。
そしてこれも初めてだったのが皆さんとの正信偈の時間。
当初、スピーカーにアンプとマイクは・・・など検討課題にしていましたが、部屋全体に密閉性があるからか、須弥壇のある空間からの反響なのかノーマイクでまったく問題なしでした。
外は相変わらずの暑さでしたが会館はエアコン2台稼働。
また初めて点けた和ろうそく(30号)の燃焼がエアコンの風にあおられて不安定、この対策としてはろうそくを小さい物に変えて風の当たりにくい奥側に燭台を置くか・・・。
そしてお参りの焼香用線香と賽銭箱を用意していなかったことは失敗。次回の課題ですね。
私の本音としてはやはり「本堂主体」というところ、あくまでも会館はサブですから準備は軽めでいいのかも。
昨年の盂蘭盆会のミニコンサートの演奏者が汗だくだったことから今年の法要の本堂での開催、そしてコンサートは会館へ・・・を検討中。エアコンで冷やした会館で演奏していただければ聞かれる方もラクでしょう。
まぁ場所を変えるとそのまま帰宅される方が出てしまうという姿、予想するところ。
世話人会では、この無碍館の使用について今流行りの家族葬を念頭に、施主家主体の手づくり葬儀の活用について使用料を設定、告知させていただきました。勿論他の利用も提案させていただきました。
それぞれの事情によって各家での選択は自由、それはおまかせするところです。
また無碍館はハコの大きさに限界がありますので多くて40~50人程度の参列に限られます。
しかし現状、そう大きなホール、多くの参拝者のお弔いの儀礼は減る傾向です。
参拝の時間に幅を持たせ、厳密な焼香時間の設定をしなければ多少参列が多くなったとも問題なく対応できるかと思われます。
昨日の世話人会にて総代1名の方は静岡市で親戚のお弔いがあるとのことで欠席されていました。
浜松の息子に「たまには世話人会へ・・・」と打診するも静岡で葬儀依頼が入ったとのことで断られました。
息子は神奈川のお寺の友人の依頼で要はピンチヒッター。先方のお寺の名を名のって出仕するパターンです。
総代の静岡での葬儀に息子の静岡の葬儀というタイミングには「まさかね・・・」とは頭にありました。
すると息子が式場に出頭してみると・・・そこで総代と御対面となったそう。
縁者ご一同の前で総代から「大澤寺の副住職です」と紹介されたそうですが、ホール側としては「神奈川県の○○寺」との事前情報だったはず。
きっと混乱したことでしょう。
世の中案外狭いというか、いろいろある。
②③は息子宅のキャットタワー。
キイロシロの産んだ子ネコのうちの一。息子の家に引き取られました。
先住の先輩たちに徐々に接近し、自己の主張を全面に出しているとのこと。
ネコの社会勉強なのでしょうが、超積極的で面白い。
体格さに格段の違いがありますがぶん殴られて蹴りまくられて踏みつけられて・・・それでもめげずに果敢に絡んでいく姿は、天晴れです。
物凄いパワーで先輩ネコたちはへろへろになって高い所に避難したそう。
2025年
6月
22日
日
早朝は世話人会の配布資料のファイリング。といっても紙のクリップ留めですが。
これまで各地区世話人さんから「回文」形式で書面を回していただくようお願いしていましたが今回はお試しということで、御門徒さんそれぞれへの書面を作りました。
それを配布する世話人さんの負担が増えることは必定ですが、今後これといった指摘、問題がなければその方式に変更しようか検討。回文と違って手元に残ることは悪くないはず。
ただし資料が複数枚あると仕事量としてなかなか・・・
紙との格闘が終わったあとようやく外に出るとそこは真夏の太陽が降り注いでいました。「明るい朝」は気持ちがイイ・・・そういった光景には蝉の大合唱がつきものですが、蝉たちの登場にはまだ少々の時間が必要でしょう。
さすがの「夏」の主役もこの早い盛夏の到来には意表をつかれたか。
法要は午後からでしたので前日やりのこした障子貼に着手。
奥方と二人がかりです。大き目カットのものは一人より二人がラクですね。
法要は最近にない多くの縁者が集まりましたね。
聞けば〇〇家の一斉グループlineで法事参集を尋ねたら殆どの方が出席に応じてくれたとのこと。
それを聞いて「一斉ってイイ!」と。
紙と郵送の切手代が省略できかつ回答を得るのが早い!!
特に私の場合は檀家さん一斉lineなどがあれば最高。
「回文」や書面の配布を省くことができるというもの。
まぁ無理な話でしょうね。
扨、金沢卯辰山山麓寺院の一つ蓮昌寺。
このお寺の門はその形状から特筆すべきものとの掲示がありました。
2025年
6月
21日
土
引き続き与えられた課題に着手。
本堂障子引き戸の開閉ストレスの解消です。
障子の開け閉めに関して、レールと滑車に問題がないのに開閉とも障子が途中で詰まって動かなくなる現象。
イラっとさせられます。
そこでグラインダーを持ち出し障子の天の部分を削りだしましたが・・・どうにも改善しません。
以前どの時期かわかりませんがその部分に高さを出すための板が張り付いていましたので試しにそれを外してみるとうまい具合に障子は走り出しました。
経年によって天井が下がってきているということか・・・
というわけで2か所の障子のその「付けたし」材を外しました。
庫裏側の障子の着脱を幾度もチャレンジしていると劣化の激しいこの箇所の障子は酷く破けまくり。
よってその障子を表に出して一気に洗浄、障子紙の手配に動きました。
障子といえば朝一、私を追って来た「キイロシロ」は正面中央突破、堂内を回遊しました。
この日はその修繕①から始まったというワケで。
お昼に庫裏にいると外に出た奥方から「いったい何処をなおしたっていうんだ・・・」と。外に出て見れば②のザマが。
ネコの仕業ですから許容、正面だけに早速に仕事にかからせていただきました。
障子を外しての作業中、再び本堂に入った彼女を追ってウスキイロシロが歩いていたのにはため息が出ましたが、彼らは気が済めば出ていきます。
一度は収まった障子破り、彼らとのイタチごっこが再開したのでした。
天気がいいので障子は開けっ放しにしようか・・・
扨、先日記した金沢西養寺の続き。③~⑧画像。
ここの見どころは本堂に加えて鐘楼の美しさ。
拙寺のそれとは「雲泥・・・」といったら気の毒か。
2025年
6月
20日
金
積もる課題解消のため4時すぎに起床、1日かけて複数のそれを片付けることができました。
優先順位の高かったものばかりで、まずまずの進捗は上々。
好天続きと明るい時間が長いことが何よりありがたい。
おかげさまでその尻腰を押してもらいました。
春の法要で御門徒さんにお披露目した会館1階部分でしたが、昨日ようやく正面玄関に額を掛けました。
御門徒さんの書家のご寄贈ですが、文言と書体は私が指定させていただいたものです。
額はとうに手元に届いていましたが設置のための段どりに色々と頭を悩ませました。
入口上部に重量がある額を後付けすることは大工さんに伝えていました。比較的広い面の内部に受けとなる木材を入れてもらうことの依頼です。
ところが先日、外装の鋼板にドリルで穴開けをした際、工事は一旦ストップしていました。
私が大工さんに依頼した「支点となる材を入れる」のイメージが少々違っていたよう(これは口だけで依頼して内容を確認しなかった私のミス)。
今回穴あけをした際、鋼板の向こうが中空だったことが判明したのでした。
一体全体向こう側はどうなっているのだろう・・・という疑問が発生、拙ブログのどちらかで「重大事案発生」くらいのトラブルについて一言だけ記していましたが、そのことです。
大工さんに問い合わせすると間違いなく補強材は中に入れたが鋼板との間に25mm程度の空間があるとのことでした。
私は直にその材があるものと勝手にイメージしていましたのでネジ式のフックとワイヤーのみを用意していました。
よってその選択では設置ができないことがわかりました。
この重量物を中空間のある壁、鋼板といえどもペラっとした壁にあの重量物を装着することの思案をこれまでしていたのでした。
まぁ思案の挙句のオリジナル器具を作成するのに時間を要したのでしたが、重量の殆どをドア上部の縁の数センチの段に置いて逃がし、空けた各2箇所の穴には一体の座金で壁面を安定させ、50mm程度のビスで固定、そしてワイヤーの支点としました。
装着時には奥方に脚立に上がって額を押さえてもらいましたが、
余計な事を口ずさんでいました。
「どうせインチキ工事・・・」。「そば屋の看板・・・」
実は私も不安ではあります。
装着後何度も見に行ったほどでした。
これからも荒天の日にはびくびくさせられそう。
暖簾などかけて「営業中」の札でも掛かれば・・・何のこっちゃあ?
喫茶「無碍」くらいは暇の日、天気のイイ日限定で「開店」しようか・・・
これで「無碍一道バッグ」と一貫した宗旨のメッセージを主張できるというわけで。
早速装着中にお参りの方から声が掛かりました。
「それって何て読むの?」
そこから会話が進むというわけで。
2025年
6月
19日
木
境内敷地内の課題は積もるばかり。
かといってそれらの圧に振り回されるのは真っぴら御免。
基本「のほほ~ん」とやらせていただくことにしています。
しかし何故にこれほど時間の経つのが早いものか・・・
やたらと時計の針が「ハリーハリー」という具合に進んで行きます。
先日まで本堂の極寒をとことん味わってそのボヤキを吐いていたところでしたが、ここ数日はエアコンに扇風機フル稼働、それらの使用無くしては庫裏の午後の滞留はもはやムリですね。
我慢などしません。昨日は今年のお初、かき氷を食しました。
私は「イチゴミルク」。
最近のかき氷流行りで色々なそれの紹介がありますが、他はすべて邪道。
沖縄時代のオフの日、近場のホテルのプールサイドのデッキチェア上に一日中、それを何度もかき込みました。
そんな日常、もはや過去のさらに過去の昔話。
奥方は「飛行機には乗りたくない・・・」と言いますのでそんな時間は味わえないのかも。
扨、金沢東山、卯辰山山麓寺院群は夥しいほどのお寺が集まっていますがすべてのお寺をお参りしたワケではありません。
また、お寺とお寺が隣接していて裏山の墓域がいったいどちらのお寺の管理だろう・・・など混乱するくらい。焦点も呆け気味になります。
お寺の名称も同じような名がありますし、今となっては一体どこだったのか、何だったのだろう・・・といったあまり意味のない散策だったことが。
こちらのお寺たちは前田時代にこの山に集約されたもので、寺自体の創建は古くあったとしても実際にこちらに来たのは前田以降のことですから遺構としては圧倒的に江戸期のものたちになります。
というわけで脈略もなく「そこにお寺があるから」程度の軽さで伺ったのが西養寺(場所はこちら)。ごめんなさい。
こちらのお寺では本堂建築の妙を紹介していました。
2025年
6月
18日
水
朝からニュースでは「猛暑になる」ことを伝えていましたが朝一は墓じまいのためのあげ経、そして某港の埠頭に向かいました。尚墓じまいのご遺骨は拙寺一處墓へ。
粋狂舟遊び、お水遊びの類でしたら何ともよろしいことですが法務の為の乗船でした。
海洋散骨に携わっている知り合いからその日の同行を依頼されていたのでした。
気温がグングン上がって尚海に出られるなどの機会はそうはないことで有難い事ですが、法衣の着用とリラックスできない法務ということ、それに何より、あの気温はさすがにキツイ。
また、船は10m近い風、船は相当に揺れました。
船長は「本日のキャンセル」も頭を過ったそうですが日程が詰まっていたため強行したとのこと。
まぁこの手の自然相手の仕事での判断ミスはそういった時に起こるものですからね。
そして私、沖縄辺りでの大きなデッキのある船(漁船)と違って裸になってひっくり返って居眠りなどできるワケにいきません。
また法衣でよたよた、挙句転ぶなどするのはあまりにも無様、持ち物も多様、色々配慮が必要な空間でした。
帰宅してから睡魔に襲われしばらく寝床に転がって日中の爆睡を。これは久々に大海原に出て頭の中が揺すられ、いわゆる船酔いになったかも・・・と言うと奥方が「それこそ熱中症だろ」と。
なるほど、炎天下で法衣を着て、非リラックスの環境で、大いに揺さぶられる・・・まぁ普通の生活では味わうことができない、シチュエーション。
もう若くない・・・のかも。次の機会は息子に頼もうか・・・
この梅雨ってこれからどうなるの?という疑問。
一時的な梅雨の晴れ間であってこれが終わると長雨に突入するのか・・・そしてもう一つの疑問は・・・6月中旬がこの気温だと盛夏は一体どうなるの? です。
昨年は一度だけ浜松で40℃を見ましたが今年はその「40」の語がやたらと連発されるのかな?
何があっても驚きませんが。
冥途の土産ってヤツ。まぁ何でも楽しむことにしましょう。
④は港に到着後、まさに手の届くような場所にイカが。
一同「うまそう~」。「タイもいる~~」
人間なんて行き当たりばったりの煩悩のママ生きているのです。
2025年
6月
17日
火
浜岡のホールを行ったり来たり。日中は殆ど外に出ていました。安定したお天気で申し分なしの感、有り難いことです。
暑いだ猛暑だとニュースでは騒いでいましたがそう大したことなかったような。
メディアはいろいろ煽ってくれますね・・・
昨日、私が「いつもそうだったっけ?」と気づいた事。
ホール出立直前には大抵、ミュージックオンの演出があります。
相良の某ホールでの当流の恩徳讃には耳に馴染んだところではありますが、やはり昨日朝、BGMの数曲が流れていました。
私はその曲に思わず苦笑いして溜息・・・といっても心の中でですが。
その曲名のトップバッターが「アベマリア」そして最後の曲がバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」でした。
仏教の法縁に「それ選ぶ?」と首を傾げその疑問が沸きましたがあまりにもノー天気ながら「それらしい曲」であることは違いありませんね。
私はその流れに身を任せるだけですが、他のお寺さんたち、疑問に思わないのでしょうかね。
こういう場、日本的、仏教的儀礼に相応しい曲が見当たらないということでしょうかね。まぁ、どうでもいいことなのでしょうが、施主に選ばせるなど一手。
私は施主の趣向というものもわかって面白いと思うのですがね。
「それ」用に作りこまれたセットを安直に流すばかりでは・・・
扨、昨日記した卯辰山山麓寺院群の一つ来経寺を(場所はこちら)。ちょこっと覗いただけですが。
場所が傾斜地だけにあの能登半島沖地震では塀が崩壊するなど被害があったとのこと。
2025年
6月
16日
月
曇天の空から一転、意表を突く晴れ間と湿潤満点の気温上昇を招きました。梅雨の晴れ間というヤツでしょうが、気持ちとしては「そのまま梅雨明けしちまえ~」。
インドと違って「水不足」なんてどこ吹く風・・・油断ならぬ水断か・・・
法事の施主の奥さんは「やはり故人は晴れ女」と前日の不安(雨が酷かったら墓参は中止)の一掃を喜んでいました。
施主は以前電動鋸で手に怪我をされて包帯ぐるぐるだったことを思いだし、その後の治癒と後遺症について伺ってみました。
私もDIYに電動鋸の使用は頻繁、ハンディタイプにスライド丸鋸に卓上鋸まで・・・特にその卓上鋸の使用の際のちょっとした恐怖は増幅、毎度何か「やらかすのでは・・・」という不安があるもの。
私の知るプロ職人(建具屋・大工)のその手の事故について都合3名承知していますがいつもその方々の痛々しい包帯の様を思い出します。
ということでその時の状況について施主に伺ってみました。
すると第一声「(慣れによって)甘く見ていた(うっかり)」と。
要はいつも私も陥っている気の緩みですね。注意力が散漫というか「大丈夫だろう」の慢心。
何をするにしろ自分の心・・・大丈夫・・・ほどいい加減なものはなし。
ひょっとして小さい品物の工作で刃に引っ張られたのでは?というと「まさに」と。
注意していても「やらかす」場面ですね。
夕刻の法縁のあと、帰宅。夏至が近いせいでまだ日が差していましたので小堤山にちらっと散策。
するとミニゴールを持ち出してサッカーに興じている若者たちが。そんな時以前なら「混ぜて~」と飛び込んだものですが、「まず恥をかくだけ」だろうなどとその無様を想像していると飛び交う声が日本語に非ず。
そしてその上の遊具のある場所、駐車場周辺にも何人かの人が屯していましたがその全員が日本語の会話に非ず。
日没前とはいえあの暑さの中、出歩く人は郷土の人は皆無の様。あの場には50人近くの人がいましたが、そのうち私が唯一日本語を喋る人間だったのかも。
相良も凄いことになっていた・・・
扨、以前金沢の東山、卯辰山(または)という地をうろつきましたがこちらには前田時代に集約されたという夥しい数の寺々が・・・
全部廻るなど無謀なことですので、たまたま門を潜った永久寺を(場所はこちら)。
この山麓には53カ寺が連なるといいます。
2025年
6月
15日
日
一面灰色の空は今にも「降らせるぞ」の感がありました。
昨日は降らなきゃ御の字の気持ちで法要開式。
しかし「大丈夫だろう・・・」のお調子者の意に反して墓参前にポツポツ。
その日は故人が大切にしていた仏具を見て欲しいとのことでそれらをお持ちいただいていました。
私の見立てで良きものなら保存、それ以外なら処分(お焚き上げ)して欲しいということでしたが、「これはいらないね」と即断してこちらで引き取った物(どちらか出された薬師如来のお札)以外の仏具・経典・打ち敷等は「私には判断しかねる」ということで今一度家族で再考、お持ち帰りいただきました。
明治初期の真宗の経典と手の込んだ刺繍のある打ち敷、敷物たちはデザイン的にも面白いもので額装でもすればインパクトある飾り物に変身するでしょうし、「遺物は捨てたらそれでお仕舞」です。その判断はいつでもできますからね。
また先達の気持ちが大いに伝わってくるものばかりでした。
最後に故人のお孫さんが「私が管理する」と言ってくれました。
検討して「やはり・・・」と思ったら「今一度お持ちください・・」ということで。
雨は小降りで許容範囲、難なく法縁は終了できました。
扨、昨日画像に加賀金沢にあって別の国名が二つほど出てきました(尾張と近江)。
その今も残る遠隔地の地名は要は「その地から当地に来た」人があったことを物語っています。各地にもそのような経緯で付けられた名が散見できますね。
小田原の唐人町などもそうでした。
何よりも金沢市街を歩くにあたって、私が以前から顔を出してみたいと考えていた真宗大谷派の寺院がありました。
その名が武佐山廣済寺(場所はこちら)です。
是非にお話をとばかりにアポなし突撃訪問はハズレ。
住職は不在でした。お嬢さんらしき方に応対いただきましたが、さらっとご挨拶をして退散。
その時は「また来れればいいや」ではありましたがそれ以来この地に足を踏み入れていません。もう少し粘れば良かったのかも。
昨日も私の不在時に榛原のK氏が来られたといいますが、やはり翌日からの金沢旅行について話していたとのこと。
今、私が金沢に向かうとしたら近江市場での満腹は外せませんがこのお寺に立ち寄ることは第一義ですね。
拙寺初代今井権七(郎)は「廣済寺門徒」というのが若い頃から耳にしていたフレーズ。
勿論その「廣済寺門徒」の廣済寺とはこちらの廣済寺ではありません。
近江廣済寺の門徒だったということです。
拙寺初代今井権七は三河本楽寺の叔父と合流し遠州に来たのでしたが今井権七が家康方に叔父が武田方に分かれて生き残りを賭けました。
叔父の建立した廣楽寺は当初の東福田の地から掛川に武田とともに移ったのでしたがその掛川廣楽寺の名称が廣済寺と本楽寺の「廣と楽」を取ったのだ・・・と聞かされていました。
そのように近江廣済寺との関わりについては、拙寺にとって基本中の基本。
その近江と金沢の廣済寺ですが、金沢の廣済寺の山号が「武佐山」というくらいでその関係性を示唆しています。
金沢近江町について石川滋賀県人会のサイトが詳しいのでそちらのリンク先を勝手に。「近江町成立の由来」です。
※→今戸の廣樂寺
私はそこに真宗門徒の「揆を一にする気概」というものを感じました。
相良の本通り周辺も古くからその主張をしたとすれば「近江町」などの字名ができていたかも知れません。
近江の地を祖とする皆さんが多いですからね。
近江から北陸に流れた人々そして拙寺初代とその関わりの深い諸家は遠江に流れた・・・その違い。
2025年
6月
14日
土
たまたま天気良好。
藤沢の妹家族が妹の息子の運転で 訪れました。
一週間ほど前からこの日を子ネコ引き渡し日と決めていましたので晴れは有難い。
昼ごはんに吉田の「さわやか」で待ち合わせをしましたが食事を済ませたあと、妹を拙寺に降ろしてすぐその夫と息子は「宝明楼にラーメンを」と言いながら再び出ていきました。
「よくもまぁ」と見送りましたが妹は妹で夜は「かつみ食堂」の案があったようでした。それには私は「それはムリ」と。
既に閉店してしまいましたからね。
久し振りの相良で彼らなりの当地の懐かしい味を一気に味わいたかったのでしょう。
妹の夫は勿論私より少し年齢は下になりますが、心臓弁膜症を患ったうえ白内障のせいで視界狭小、よって大きな車は手放したそう。街内は小型車で昼間限定で走っているようですが。
よって今回の長距離運転は息子。彼の車の後部座席にネコたちと同座して帰って行きました。
一家族全員が一緒に歓ぶことのできるその癒しアイテム、そうはありませんね。ネコたちが心身維持のための基軸となる。
無事到着後の画像を見て私どもも一安心。
母親ネコのキイロシロは寂しそうでした。
夜は本日も彼女を確保成功。庫裏の最奥にあるケージに入ってもらいました。餌で誘引したのですが毎度「その手は桑名の~」になるかも。
心臓といえば榛原のK氏は縁者の系統「心臓を病む人多し」とのことで本人も以前、「ギリギリのところで助かった」と話していました。怖いですね。
そのK氏の親戚筋となる須々木のN氏より昨日連絡がありました。
「骨をぶち割って心臓の弁を~」「そして退院できたよ~」と何とも明るい声が躍っていました。
詳しく知りませんが「血液が逆流」するとのことでやはり弁の不調の病。
予定より手術が早くなったようで(当初は秋ごろと伺っていました)、そのすばらしい連絡には驚かされました。
先日榛原のK氏は拙寺奥方に「N氏の手術は成功した」と一言告げていたそうですが、私にその件伝えることを失念していたとのことで。
N氏は麻酔中に「悪い夢」を見たそうで、その内容を話されていましたが目が覚めた時に、医師に向って何か喚いていたそう。
目が覚めなかったとしたら「そのまま死」ということを連想する場面ですが、悪夢を見るというのはやはり納得できるシチュエーションでしょう。
今は「骨を砕いたせい」で「肩が痛くて仕事はまだムリ」と。
「まだまだやることありますよ」の如くの言葉たちが踊っていたこと、大いに目出度い事です。
そしてまた一昨日榛原のK氏と会った際、その件には触れていませんでしたがウキウキした声で金沢旅行のお楽しみについて語っていました。
一つの重荷が晴れて下ろすことができたということだったのですね。
金沢は歴史遺構だけではなく食とまち並み散策の楽しみがありますね。
人混みは苦痛ですが・・・
画像は金沢城からも遠くない近江市場付近から情緒を体感できる街並み。金沢の中心部になりますね。
画像の半分は以前御門徒さんから提供されたものです。
2025年
6月
13日
金
午前中の一瞬間のポツポツには予報と違って「こんなはずでは・・・」とイラつかされましたが(塗装作業中)何とかそのポツポツ程度で済んで一日中安定した天気が提供されました。
午前中来訪された組長さんは「どこかで傘を忘れて来た~」というくらい。
午後からは来客がありましたので境内仕事の進捗は限定的でしたが、この日は2、3の当面のテーマの解消があり充実した一日となりました。
私には多くの抱えているテーマがありますが、それら解消はまずは行き当たりばったり。
「保留」なる都合のイイ語で誤魔化します。
しかし昨日ブログでは国の抱えるテーマである米問題は保留にしておくことはできないでしょう。
火に油を注ぐカタチになったのがあの大臣さんの発言だったのですが、国レベルでも難題テーマをそれ以外に多くを抱えているものです。
国政ともなればしっかりと将来の展望とそれに沿った計画を策定しながら問題の対処に向かうことは必定の事。
先般視聴したNHKの番組でインドの内陸都市「ベンガルール」
(バンガロール)の深刻な水不足について報じていました。
インドの方と仕事をしたことがありますが、私のその国のイメージは「独特である」と感じていました。
お国がらでしょうが・・・。
概して自己主張が強く、自信過剰で人懐っこいところを思いますが、頭が良くてハイテク機器に強いところには驚かされました。
また自己の欲求への抑制ができにくいことも感じました。
なにかしら「人」というものにはそれぞれ個性の違いがありますが日本人的な発想ではついて行けないところ散見。
外国の方は日本人と違って何事も「ストレート」ですからインドに限った事ではないのでしょうが。
そのIT産業の急激な発展で人口が急増、経済的にも潤う巨大都市と化したその都市の弱点は「水」だとのこと。
梅雨入りして「雨」にうんざりさせられている私にとって水不足とか渇水などいう語は縁が薄いものがあり、水道の蛇口をひねればジャブジャブになれるという雨嫌いの者の優越感を見出す事ができたというわけで。
水道インフラは植民地時代の旧式遺物であってこのハイテク産業の集積都市の未来は危ういよう。
それどころか工業用水の確保以上に飲料水、生活用水の確保すらままならないということですからね。
庶民の水が配給制になっているとも。
また農業関連の耕作地への配水は殆ど行われなくなったともいいます。
イケイケドンドンでハイテク産業を誘致して湖沼山林を切り開き不動産開発を行ってきたツケが出現してきたということですね。井戸を掘っても水に行き当たるには深度を新たにするしか無くなっているという現実。
ハッキリ言わせていただければ施策の「優先順位」が間違っていたということでしょうか。
まずは「人の生活」こそですね。農業生産は勿論です。
それらを蔑ろにしてお金持ちになれる道をひたすら邁進した「IT都市」の敬称。今後見物となりますね。
その都市の水はいずれ枯渇するという説も。
日本の企業もそちらに進出していますが、品物を作るにあたって使用する水の購入費用が突出していくことも考えられますし、水が無ければ何もできないのでは。
水で潤う日本、あらためてその有難さを思います。
昨日はキイロシロ(境内ののらネコ)を市の補助を得て病院に連行する日でもありました。
さりげなく踏ん掴まえて嫌がる彼女を・・・私のことをそれなりに信じてくれていただけあって少々申し訳ないという気持ちが起こりますが、彼女にとってその施術は各病気を遠ざけることもあって悪いことではないはず。
すべてのことが「私の都合だけではない」と心に決めて。気を許していた彼女を拘束。
ネコエイズと蚤の薬をオプションで。
エイズは陰性ということで一安心です。
そして子ネコの感染についてもフリーということで。
それは新しい飼い主への責任です。
最後の画像はユリ満開ピークアウトの図。
ピークを過ぎた植物のキイロたちですが、あまりキレイとはいえませんね。
徒長した茎が頭の重さに負けて倒れるというのがイケませんね。
2025年
6月
12日
木
朝から雨。
奥方は「梅雨だから、しゃあない、しゃあない・・・」。
お参りの皆さんは「きっと来ないだろう」と踏んで本堂の閂を外したのが8時すぎ。
というのもネコが障子を破って堂内に入ることが復活。
ここのところ2度も正面突破を慣行され、挙句障子貼りをさせられることに。
しかし、戸を開けないわけにもいきませんのでまぁ、いつもの「その時はその時・・・」なのですが。
これはできるだけ障子を露出させる時間を少なくしたいというところ。しかしネコにはかないません。
これも「しゃあない、しゃあない」ですが。
前回の屋根修復後も数度に渡って庫裏の屋根を押し破られています。
昼も過ぎて少しすると雨がやみましたので奥方の買い物に付き合いました。
その後、陽光も差すほどに天気は回復しましたので境内作業をしばし。
そしてまた新たな問題の発生もあって・・・唖然立ち尽くし・・・頭が痛い。
扨、日本の国民一同、今頭が痛いというのは「米」でしょうね。
先般はある旧寺院出身の方から「米を分けて欲しい」という連絡が。
というのは昔の(それも大昔の)「寺の蔵には米が唸っている」といったイメージがあったのでしょう。
父が子供の頃の話、やはり蔵には米俵が山積みになっていたと。悪さをしてお仕置きに蔵に閉じ込められた際、その俵の米を「ぶちまけてやった」とその反抗の件を。
本山でも現在、冥加金の代わりに米を納められる場合がありますが一昔前は「年貢」という言葉もあってお米=おカネの感ありましたからね。
ただしその方の言う「米」は生産者から直接届いた米のこと。今でいう、問屋、卸、JAなどの中間業者の存在を無視した「お米」のこと。
要は「余っているお米があるなら少し分けて欲しい」というものでした。
切実なところを察知しましたが、時代が違うことと、現状「寺にもコメはない」ことを伝えました。
そんな折り、辛坊治郎氏が今の我が国の米騒動についての所感を語っていました。その方はハワイ在住とのことでそちらでのショップの米価格を紹介していました。
「日本産100%の米が5キロで2900円(1$145換算)」。
日本産米「こしひかり」5kgが19.99ドルで販売されており
「アメリカの人件費が日本の倍以上であることを考えると日本では、流通段階のどこかで誰かが大儲けしてるとしか思えない」と。
そんなことはうすうす承知しているところですがこの国内コメドタバタ劇は殆どは恥(shame)かもね。
「(何処かで)誰かが大儲け」なんぞと聞くと私はディーン・マ
ーチン の「Everybody loves somebody sometime~」なんて粋な曲を思いだしますが、その誰かって一体・・・
そういえば先般政治家さんが「米なんか買ったことない 売るほどある」と豪語されてクビを切られていましたが、案外それはただのバカっ話ではないような気もしないでもない。
ロスで始まったデモでもそのshame連呼の図を拝見しましたが、まぁ人間のやること全般恥ずかしいことばかりなのですね。
自分自身の恥を知らない私も結構にそんなものなのでしょうが、その私が思う相良の恥は(毎度毎度記していますが)海岸土塁上の松たちの無残な姿。
これを恥と思うか思わないか、やるべきことの優先順位下位のことで「しゃあないしゃあない」で済ますか、それを放置したままにして何も手を出さないでいるのか・・・私はその躊躇、放ったらかしの躰は「恥」と思いますがね。
一休さんが詠んだという「心」についての思い「松風の音」(「心とはいかなるものを言ふならん、墨絵に書きし松風の音」)も「末の松山」の松のイメージも無し。
当家は「御林守 御用」という件があるだけに殊にこの松の件は気になってしまいます。
④画像は富士宮市の富士山世界遺産センターで開かれている企画展のポスター。
期間中に立ち寄れればと頭に入れていましたがその機会は訪れませんでした。
2025年
6月
11日
水
朝から小雨が降り続く中、昼前に金谷からの見学者を連れて長谷川氏が。
その際、ついでということで昨日ブログで記した「一橋様~一位様」の件私の検討した内容を示しました。
といってもあの文書の中身は時間軸だけで考えると矛盾するところがありますのですべての想いが推測どまり。
確証を得るには至りません。長谷川氏も同等です。
ただしあの時代の江戸城界隈を見て「一位様」というのは限定的。普通に考えれば治済しかいません。
私は断定に近く「治済」と。
そして治済は晩年近く代官小島蕉園の時代に至って尚蕉園渉筆に登場するくらい相良治世に顔を出している雰囲気(品誕に大公は~・坂井の山崩れ)。
領内のことでもありますから、その記述(蕉園渉筆)に登場してくることは判りますが、相良ではあまり表にでてこない殿様一橋治済、拙寺の書面の件だけでなく意外なところで顔を出してきます。隠居してもバリバリ感が。
扨、画像は柳生打滝川を歩いた際の様。良き意味でこの自然の中
の田舎さ加減は私の心を和ませます。
2025年
6月
10日
火
昨日午前から昼過ぎまでは曇天ながら雨は無し。
施主はありがたいことだと。
平日ながら法事がありました。
法要後施主の過去に味わった苦痛いろいろ。
特に衝撃的だったのは貧乏で医師への支払いに品物で支払ったことがあったとのこと。お見舞いで戴いたお菓子を菓子屋に返品していくらかの現金を手にしようとも考えたこともあったと。
そして「風呂には入れた」・・・その理由は昔のメーター(そう仰っていました)というか当時のそちらの家の水道はぽたぽたレベルで蛇口を少~しだけひねればメーターが回らず課金されることがなかったといいます。溜めてから使用するという作戦と。
まぁ水道泥棒ということでしょうが一昔前は何後もアバウトでしたからね。そこまで困窮した経験を耳にすることは新鮮でした。
私も時給560円で奥方(510円 △50円は船舶免許)と沖縄暮らしをていたことを思い出します。家賃と食費、車の維持費でいっぱいいっぱいという時期がありましたが、あの時でも何とか適当に生活していました。
それはただ健康体であったからですね。
健康でさえあれば何とかなるのでした。何事もそうですね。
病気をしたり不慮の事故があればそんな余裕は一気に崩れ去ることになります。
先日は史料館の長谷川氏に拙寺の「一橋様」宛礼状の控えの存在について記憶にあるか振ってみました。
私もうろ憶えでその存在のみについてでしたが、彼はしっかりその存在について把握していて「年号があったと思うが一橋でも治済の次代でしょう」と。
というわけで仏間に転がっているその額を引っ張り出して久し振りに眺めてみました。
何せ私はこれまでこの書面の相手が一橋治済本人であると思いこんでいましたからその指摘には少々驚かされました。
まぁその年号の存在についても記憶が飛んでいましたからかなりイイ加減なものですが。
以前ブログではこちらにその件記していました。
その文末に文化二年十月、1805年とありました。
その礼状中にその御礼の件「享和元ゟ文化二」とありますのでそれが享和元年(1801)から始まったことになります。
ということで享和元1801年の一橋様はたれか・・・を検討。
以下Wikipediaより転記。
「寛政3年(1791年)3月5日、権中納言となる。
寛政11年(1799年)1月27日、従二位権大納言に叙任される。
同年、一橋家の家督を六男斉敦へ譲って隠居し、幕府から5万石の賄料と5千両の年金を別に受ける。文政元年(1818年)6月5日、剃髪して穆翁と号す。同年12月11日、裘袋(きゅうたい)着用を勅許される。文政3年(1820年)4月21日、従一位に叙せられる。文政8年(1825年)3月7日、准大臣にのぼる。
文政10年(1827年)2月20日、77歳で死去」
寛政11年(1799年)に「家督を六男斉敦へ譲って隠居」とありま
す。よって単純に見て書面の「享和元年(1801)」には「一橋様」との呼称は正式にはないだろうとのご指摘ですね。
一橋家三代目家督を継承した斉敦の生まれが安永9年(1780)で
没年は文化13年(1816)ですから書面の享和元年(1801)は
家督継承2年後の21歳。
その年でド田舎相良の老齢隠居の坊さんに配慮差配があったかどうか・・・その辺りの件はどうなのだろう・・・と思うところ。
家督を譲ったといっても治済は大御所の如くの権威を思うままに振った人でしたからね。
なにより書面冒頭に
「一橋様御支配之節 一位様格別之御仁恵之」
とあります。
その官位「一位」を実際に叙せられたのが文政3年(1820年)で
すから、首を傾げるところでもありますが。
まぁ、あたかも従一位は当然の如くの「支配」という風潮があってのこと、そう記したかとも思えますが。
ということでこの文面「一橋様」につづいて「一位様」の記述こそ一橋治済で間違いないかと。
ちなみに一橋斉敦は従三位どまり。
扨、画像は昨日記した柳生家老屋敷の庭。
家老職ともなれば自宅内部にこういった庭園を造り、心の余裕を楽しむことができたのでしょうね。
それがステータスと。お金持ちは庭・・・
拙寺の庭・・・坪ノ内・・・草ぼうぼうとぺんぺん草。まったくもって貧乏くさい寺です。
2025年
6月
09日
月
法要開式が11時でしたので朝から一仕事とばかりに張り切って塗装の仕上げを・・・と準備にかかれば雨がポツポツと。
それでいて日が差す時間があったりと変てこな天気でした。
曇天でさえいてくれればそれでも有難いと動きだせばまたポツポツと。
これからしばらく雨続きの予想、梅雨入りということでしょうが私の宿題がなかなか捗りません。
勝手にしやがれ・・・のんびりでやらせていただきま~す。
法要の参列者に「新潟から・・・」という方がいらっしゃいましたが、一昨日の近江高島といい、年配の方々の行動力、単独での長距離移動には敬意を表します。
「新幹線でスグ」とは言いますが、わたしの頭の中では想像を絶する苦痛をイメージしてしまいます。
しかし方々は平チャラの様ですからね。
自家用車での移動に慣れ親しんだ私は列車もその乗り換えもバス移動ももはやムリ。
奥方が指摘するにはそれは「切符の買い方やバスの乗り方がわからないからだろう・・・」と。
それも一理ありますが一人でのんびりのドライブがスペシャルです。
そういえば一昨日の午後は「田沼親子お国入り」と題して渡辺謙氏と宮沢氷魚氏のトークショーが「い~ら」でありましたね。⑨は相良波津の交差点付近。
既報の通り私どもは応募も落選しました。33倍の当選確率という超人気。私の知っている方で当選された方はたった一人だけでした。
どちらにしろ法要のお斎がありましたからそちらに向かうことはムリでしたが。
また詳細はNHK静岡放送で放送されるようです。
先般お世話になった美術館ナビで画像入りで伝えられていました。
扨、画像は打滝川の削った西側の段丘、柳生藩家老屋敷が。
2025年
6月
08日
日
殆ど曇りに近い晴れ。
私は朝から法務の用意と一昨日の塗装作業の乾き具合を見てからの片付け作業を。
堂内は蒸し暑さを感じ墓参は蚊の襲来に閉口させられました。
法要ののちはお斎にご招待されてしばし歓談。
終了間近になった頃、奥様の実家について問うと「ここに居並ぶのが姉さんたち・・・」と紹介されました。
伺えば長女の方は滋賀から来ましたと。
遠江から近江に嫁入りしたのですね。私の思い込み、てっきり車での往来かと思いきや京都に出ての新幹線利用との事。
その地は私も詳しくなくはありませんので「滋賀のどちらから?」とさらにしつこく。
すると「どうせわからないだろう」という気持ちがあったかどうか知りませんが「高島から・・・琵琶湖のウラの方ですよ~」
でした。
高島といえば私が一時期ハマっていた近江の地、よって「あの メタセコイア並木の・・・」と反応。それよりも各城址(大溝城、清水山城、田中城ほか)に顔を出していますからね。
もっと早くその件を知っていれば盛り上がったはずでした。
興味深かったのは30年ほど前に高島での葬儀に初めて行った時の話。
それが棺桶タイプの棺での土葬葬送の衝撃です。
不謹慎ですがそのような生の声を聞くことは初めてですので興味深くそして楽しくお聞きしました。
私はその件承知していましたが、桶にご遺体を納める際、屈曲させるため硬直した遺体を「ボキボキと」音をたてて「畳む」ようにして(無理やり)押し込んだことの唖然。
30年前の高島辺りで土葬が継承されていたことを知ったのは収穫でした。
そこでまた、次のバスツアーの候補地の件閃きがありました。
私が鯖街道について話を振ると「その道から京都に出る」ことがある・・・
そういえばと、その会話の中で私が想いついたのが「大原」。
2日目東大谷に納骨後大原フリータイムを入れて大津から帰還するというもの。
ただし歩きも多し、余程の寺好きでないとあまり喜ばないかも。
また天候次第では地獄を味わうくらい・・・何もない野原のイメージ・・・
扨、その手の里山でもある柳生の里。
昨日の柳生八坂神社の先にやはり柳生家所縁の丘があります。
それが摩利支天山。
摩利支天石碑は復元品でしたが。
2025年
6月
07日
土
昨日も天気に恵まれました。
私は一日中大工仕事&各塗装作業。
塗装作業は経年によるメンテですが大工仕事はこの寺に住まえば死ぬまで続く私のミッションといった感じ。
庫裏はオンボロで毎晩やたらと哺乳類・・・ネコです・・・が闊歩します。時に複数で歩いています。
父親が相良に来たばかりにネコが屋根裏で子供を産みましたが壁と壁の間に子ネコが落下、それらを救出するために壁を壊したという経緯もありました。
ということで今日こそ・・・庫裏の本堂側、ひさしと屋根の間に出来た空間を何とかしてやろうと脚立で私も屋根とひさしの間に。
材木を幾度も切って調整しながらなんとかその開口部を塞ぎ切りました。
そこからは絶対に出入りは不可能と満足したのも束の間、夕刻にシャワーを浴びてのんびりしているとどーんと大きな音がしたのち屋根裏を歩く生命体。
彼らの能力は完全に私の上を行っています。
屋根の張り出し部分をよく見るとひさしの付根に10㎝弱の隙間が満遍なく空いていました。
徒労に終わった感が満ちて、疲労は倍々増。
彼らが天井裏でドタバタすれば私は咳、奥方はくしゃみの連続。古い家は不健康そのものです。
古いモノは大好きなのですが・・・
以前の土蔵の整理で肺を夫婦で痛めてしまいましたが、あれ以来、埃には滅法弱くなりました。完治はしないようです。
古いもの巡りに出かけることができない現状ですが、どうやら以前と違って「えい、やあ!!」の勢いがやや消沈してしまったよう。
それを人は「齢」と言いますね。
そろそろそれを認めなくてはならないかも・・・昨日も久しぶりに脚立からバランスを崩して落ちました。
落ちた場所が本堂の廊下で何もない場所。
ラッキーこのうえなしですが。
しかし脚立というものを舐めている傾向がありますね。
少々反省しました。
扨、柳生街道を歩けば古いモノとの出会いは豊富(柳生陣屋等)。
そしてこんな場所に八坂神社?と立ち止まったのが上記画像。
柳生家所縁の神社といいます。
2025年
6月
06日
金
梅雨入り前の晴れは貴重です。昨日も晴れ。
この恩恵を享受せずして境内でもやもやしていることはあまりにも不健全・・・とばかりに息子のいる浜松での雑用を思い出し無理やり出立。
彼は夕刻には法務に向いますが、さっと行ってさっと帰ってこよう・・・ということで東名に飛び乗りました。
三方ヶ原スマートで降りて正義の墓参(宗源院)はパスしつつ佐鳴湖方面に向かいました。
そこで奥方指定の店に入りました。
私はいつものように途中で外に出て屋根が有る日陰の店の出入り口前に車を移動しました。
車の中の気温が上がりますから窓を開けリアのハッチを開けるなどして奥方を待ちました。
しばらくたって奥方がリアに所望した品を載せてから、「コレこんなのでいいの?」と。
廻りこんでみると左側後輪を指指していました。
それは明らかに空気圧が低下している様。
目を疑ったのは、先般息子が新潟に行くにあたり空気圧を点検しそれぞれに空気を充填していましたので。
そして更に目を凝らしてみると①の如く、1本の金属物質がその存在を主張していました。
因縁の「因」がここで判明したわけですが、今残る空気圧で何とか対応のできる店を探そうと駅方向に走り出しました。
その因果の「果」を与えた因縁の「縁」について車中で推測問答が始まりました。
私は息子の「新潟行脚」を主張しましたが、それはそれ以来この車を使用していなかったからです。
助手席で暇にしている奥方が息子にもメールしたその応答が「今日踏んだのだろう」(よって責任はない)でした。
私はそもそも距離が違うので確率的に新潟行脚だろう・・・と反論していたわけですがもはやどうでもいいことです。
とにかく早いところどこかで対処してもらわないと最悪の事態になることは必至です。
空気が抜ききって走り続ければタイヤは再生不能になりますからね。一刻も早く早くという気持ちでした。
隣の奥方に最寄りの「タイヤステーション」を検索してもらって、飛び込んだのが某チェーンのカーショップでした。
これでひと安心とその金属の様を見てもらうとそちらの店のルールでこの手の修繕はしないことになっているとのこと。
唖然呆然でした。
やはりあとあと発生しうる不都合について責任がとれないということか理由だそう。
むしろ良心的な店と思い退店しようとすると、「対応できなくてごめんなさい、せめて空気の充填だけでも」と取り敢えずの間 走行できるよう補充してくれました。
正規の空気圧とまでは行かなかったでしょうが簡易充填機で3回も。
走行中奥方が隣で「ガススタンドにでも飛び込め」とコーチングしてくれますが、設備が完璧なタイヤ屋で不可となった事実からできそうなタイヤ屋を探そうとさらに検索依頼。
次の候補を見つけ電話連絡すると3時間待ちで対応可とのことでした。
よってさらに別のタイヤステーションに目的地として照準を合わせました。
するとその途中、前方に別のタイヤステーションを発見。
とにかく「突っ込め」とばかりにハンドルを切りドックのお兄さんに「タノム~」。
「開けて見なくちゃわからない」との見立てには「そりゃそうだ」と全面的にまかせることに。
タイヤをホイールから外し内部の状況を確認してからの作業になります。
時間は1時間少々、金額は5500円で今回の「罠」-トラップ-は脱出できました。
今回もタイミング・・・Good。すばらしい。
もしやこの車で深夜奈良方面に向かっていたとしたら・・・想像するだけでも恐ろしい。
前回の奈良での右往左往が頭を過ります。
バッテリーの次はタイヤでした。車のメンテでも基本中の基本。何ごとも高を括ったらヤラれます。
また後部トランクに「スペアタイヤがあるじゃねぇか・・・」の発想は新たに「甘い」ことがわかりました。
私の車のアルミホイールは純正ではありません。よって、薄型のレンチでなければソケットが入らないことがその際わかりました。
早いところ薄型の十字レンチを所望し車内に携帯しなくては・・・
昨日は「何処にも行かないのが一番」くらいのことを記したばかりでしたが、本当にノーケアのノー天気、危ない危ない。
私から目が届きにくい助手席側後輪ということもありました。恐ろしや。持つべきものは機転の利く奥方様と謙虚な姿勢での点検目視。
前輪だと気づくのは案外早いかも知れませんが、最悪はハンドルを取られますからね。
そこで良かったOK OKと無理やり承引。
そのために何もできずに浜松から帰還しましたが・・・。
たれがどこでどう、その果を拾ったかはどうでもいいこと。
私の宿業もありますが因縁果・・・リスクはどちらにても隠れていますね。
本当の不条理を味わうのはまた別の機会に。
2025年
6月
05日
木
昨日は梅雨入り直前の晴れ間。
私は法務で殆ど日中はホールに滞留していましたのでやるべき外仕事はそのまま放ったらかし。
今年の梅雨はどのような豪雨に見舞われて各地でどれだけの溜息がつかれるのか、私ども人間の想像を超えた不都合いろいろについてのこと、まったく想像がつきません。
特に最近の自然の暴れ具合ときたら一線を超えてしまった感。
さぁ、どうやって生き残ろうか・・・
基本ヤバいと思ったら・・・自然に敬意を表し自宅待機ですね。
良きも悪しきもすべてがタイミング次第。
この時期は「動かざること山の如し・・・」でしょう。
扨、昨日ブログでは古い画像、柳生陣屋を記しましたがその陣屋の土台とも言うべき岩に石仏が彫られています。
昨日も疱瘡地蔵への道①を記しましたが、将にそちら。
少々手前方になりますが苔むした岩をよく見ると地蔵らしき石仏が彫り出されていることがわかります(場所はこちら)。
最後の画像が昨日の境内の栗の木と落下した栗の花の図。
梅雨入り間近。
2025年
6月
04日
水
時折遭遇する「罠」。
「罠」なる言い回しは如何にも過剰ですが、私がそれを一番最初に体験した際はまさに「酷い目にあった」感がありましたから、それと同様のことをつい想像して「これは罠」と断じてしまいます。
一般ではそのようなトラップを思うようなアイテムやシチュエーションはまず遭う機会はありませんね。
それを仕掛けるのは葬祭ホール担当さん、引っかかるのは私・・・といったところです。
担当さんは坊さんを引っかけてやろう・・・などの悪意はないとは思いますが・・・。
開式前に香炉の中に炭を入れておくことは準備として当然の流れですが、火舎香炉の蓋は閉めないというのが鉄則です。
いや、閉めたらアカン !!。
昨晩の会にて「さぁ、導師の焼香・・・」という場面で蓋が閉まった香炉に気づきました。
一般焼香客用の線香用の大きな焼香鉢がそのまま中央に鎮座しその火舎香炉が蓋をしたまま隅っこに隠れていたのでした。
「ハイこれ、罠ね・・・」と察知して蓋のつまみを持たず、そっと火の回り具合を確かめるとまさに炎熱の感触、左後方に待機する担当の方に首を15度ほど傾け(どうなってんの?の意思表示)て、おもむろに左の袖からハンカチを。香炉の蓋をハンカチを掛けて外し無事に焼香を遂行しました。
その私の様を見ていた担当さんは式終了後その失策に気づいて謝りに来られました。
「金輪際二度とこのようなミスはやらかしません」と。
終了後試しにその蓋をつまんでみたそうですが「(酷い熱さで)たまったものではありませんした・・・」とその感想を述べていたことは苦笑。
まぁ私はそのトラップの件「いつものこと」の範疇で、袖に入れたハンカチで対処できました。もしやハンカチを忘れたら・・・かなり困りますがね。
あの雰囲気の中で「あっちっち~」とばかりに蓋を投げ捨てたりすれば・・・寅さんなみの笑いの場になってしまいます。
「蓋はしないでOK・・・」でおしまい。
扨、先日は奈良と柳生の往来にある地蔵について記しましたがかつて私が柳生をふらついた時の画像を。
以前「疱瘡地蔵」に向かう道の手前にあったのが柳生陣屋跡。
こちらまで足を伸ばそうという観光客は不在のようで、此処をうろつくにあたり、余所者らしき人とはどなたともすれ違うことがありませんでした。
奈良中心地から足を伸ばしても近くて般若寺、頑張って円成寺止りなのでしょうかね。
時代劇で頻出のその名なのですが(場所はこちら)。
2025年
6月
03日
火
大袈裟な言い回しかもしれませんが、気絶するほど時間の経過が早い。まるで今さっきまで気絶していたかの如くの浦島太郎状態。
このザマでは私の「その時」もあっという間でしょうね。
その短い時間に各病に、つき合わされてさらなる辛苦の終末となることでしょうが、その私が承知している「苦」のうちでもっとも頭に残存しているのが痴呆症のこと。
昨年の盂蘭盆会のご挨拶の書面ではその「病」について私なりに記していましたか今年七月の盂蘭盆会法要でお迎えする方のお話のテーマもそれになります。
その方は医師に「認知症」を宣告され、自動車免許証を返納されていますが、「これ以上の症状進行の前に」と皆さんに聞いてもらいたい事があるとのこと。
それなら是非にということでお願いをした次第です。
「既に認知症」と奥方から日々罵られるほどに覚束なき私ですが、その予備軍であることは必定、耳を澄ませてお聞きしたいものです。
扨、奥方は早朝起床して殆ど一日中子ネコの世話。
昨日は未熟ネコ、一向に体重が増えない「チビチビ」とついでに残りの3匹を獣医の元に。
その未熟児は飲み込みに障害があるかも知れないとのことで、今は地道にミルクを強制的に飲ませ続けることが肝心と。
「如何にも異常」(獣医)で自然世界ではとうに淘汰されてしまうレベルなのでしょうが、奥方は「生かしたい」気持ち一本で気張っています。ダメ元です。
背負いこんだ事案ですから、やれるところまで・・・
画像は昨日の拙寺のユリの見事と栗の花。
栗の花が落ちる候・・・梅雨入りです。
そして招き入れたキイロシロにとり付く子ネコたち。
チビチビは蹴とばされてお乳も飲めません。母親も放棄しているが如く。
他の三匹は離乳食OKですから一番に飲んでもらいたいのですが。
2025年
6月
02日
月
母親ネコの執念はおそるべし。一晩中喚き通していました。
奥方の「勝手にしろ!!」との号令がありましたので朝一、玄関と次の間を隔てる戸を開放しました。
するとキイロシロはすぐさま子ネコたちがいるケージの中に入って、ごろんと寝転んで(170gのネコを残して)お腹に招き入れていました。
他の個体の半分以下のそれ(「ちびちび」)へは奥方が直接、ミルクを口に強制注入しています。
ところが子ネコらは母ネコのお乳をさらっと口にしたものの奥方の出していた離乳食のお皿にまっしぐら。
各自の皿に分けられたそれを平らげるともはや母親には興味なしの様。
三匹は組んだり跳ね回ったり存分に遊びに夢中でした。
これは乳離れというヤツでしょうね。世に言う単独でフラつく迷いネコとなるそのスタート時期、独立の時です。
まずその時節はカラスの餌食になるパターンです。
この室内への彼女ご案内の件、朝昼夕の三回行いましたが時を追ってその傾向は強くなり夕刻の子供たちときたら殆ど母親には目もくれない状態。
あっという間の「成長」というものを目の当たりにさせられました。
昨日の日中のテラスの温度は40℃超え。
そちらに残るのはマンゴーのみですが、このような天気の安定が続けば子ネコの低温対策は不要になりそうです。
扨、私は幾度か奈良円成寺付近をうろついていますが、その前の道が奈良中心部と柳生を結ぶ道。
柳生やらその先の岩船寺辺りから奈良市街に向かうには必ず使用します。そこを使って行き着いた場所をあげたらキリがないくらいです。
その道(柳生街道)を奈良方向に向かって走る際、左下にJA奈良東部支店の建屋が見えるその右側、山が迫る場所に錫杖を持つ地蔵と石標が建っています(場所はこちら)。
何れも文字は判読不能ですが、「元亀の地蔵石仏」とのこと。
奈良と柳生を結ぶ街道は古くから開けていた道で往来も多様、人々の安全を祈って建てられたものでしょう。
2025年
6月
01日
日
新しい生命体と接すると新たに知る事が多々あります。
昨日記した新人さんたちとその母親キイロシロの件です。
本来ならば母ネコともに確保したいところなのですがキイロシロは野良猫生活が長いせい、「人」への信頼感はまだまだ。
私には抱かれますが家の中への警戒心は尋常でなし。
一晩中境内で異様な声をあげていましたが、さすがに私の行った行為(子ネコたちの確保)が正しかったかのか疑問が湧きます。よって玄関脇の部屋に設置したケージまでご案内しました。
すると一日ぶりの再会に親子ともども感激、双方トーンアップした呼び合いとなりました。
その場を見た、奥方から制止させられましたが。
子ネコとキイロシロがケージのネットを引き裂かんばかりに爪をたてる様を見て私の行為は一体「悪」だったのか・・・とも。
キイロシロの母性本能には驚かされましたが、母親がいつ狂気と変貌し「子ネコを食い殺すかも・・・」と奥方が私を脅かしますので、気の毒とは思いつつ、彼女には退出してもらいました。
お乳の張り具合の感触から授乳させたいという気持ちは手に取るようにわかりましたが。
人の母であっても平チャラで赤ちゃんBOXに入れて別れを告げることなどよく耳にすること。
あの小さき者たちがそれほどまでの「親子」の濃厚な関係を求めつづけることなどは意外なことでした。
私はそれ、もっともっと淡白なものかと誤解していましたね。
そして彼女は一日中玄関脇に滞留しています。
ネコに「諸所の事情」など無いのですね。ただひたすら自分が産んだ子は自立できるまで育てる・・・という責任を感じました。
母ネコの本能なのですが、天晴れです。
人は「私の都合」によって「何でもできる」ということでしょうが(思い込み)、それこそ勝手な自己崇拝、高慢ちきな「私」というものを思います。
ネコたちの様を見て、1mmほど仏に近づかせていただいた気分。
有難し、六字。南無阿弥陀仏。
扨、以前又兵衛桜(またはこちら)を目的に宇陀市内を走りました。桜の丘の喧噪とは別、静かな野原の公園に行き当たりました。遠くから白馬の騎士が目に留まりました。
そちらが阿騎野の人麻呂公園(場所はこちら)です。
この白馬の像こそが柿本人麻呂。
この阿騎野という地が古代の狩場で軽皇子(文武天皇)にお供した柿本人麻呂が詠んだ歌について記されていました。
野原で野営しての明け方というシチュエーションということで。
2025年
5月
31日
土
朝一、本堂から外に出ると、「キイロシロ」が。
彼女は拙寺境内にうろつくネコたちのうちの一つ、私が呼ぶその名です。
他にウスキイロシロ、クロシーロなどなど、見た目の色でもって・・・。
キイロシロはいずれ妊婦になることが分かっていましたので2月頃に一旦確保したことがありました。
病院に連行して避妊手術を施すつもりで一晩玄関にて過ごしてもらいましたがケージの中で一晩中発狂状態。
土曜日で法事があったこともあり「もはやムリ」とばかりに開放したという経緯がありました。
4月中旬頃までにお腹が膨らみだしてパンパンに。
そしてしばらくして突然スリムな姿で姿を現しました。
「これは産んだ!!」と確信し彼女を秘かに尾行、ストーカー。
すると隣の旧お醤油さんの敷地にある小屋に入っていく姿を視認しました。
それからそのお宅に事情を説明し探索を試みましたが私どもがその物置の中の雑然、見当もつけることができず、ましてや入り込む状況にありませんでした。
よっていずれ「彼女が心を許す場所に移動する(もしかすると本堂下あたりに・・・) 」と諦めて、心を収めていました。
狭小の場所で成長すると出て来られなくおそれがありますし、母ネコはいずれは育児を放棄するもの。
なにより不幸なネコたちを減らそうと早めの回収が不可欠でしたが・・・。
ところが、昨日私が本堂を出た時、彼女の声に反応するが如く近くで小さき声が聞こえてきたのです。
旧玄関に置いた段ボールの中からでした。
一昨晩の雨中、キイロシロは隣家物置小屋から長躯4往復、子猫を咥えて移動したということですね。
この者たちは、キイロシロには申し訳ないとは思いつつ4匹全員確保して自宅内に。奥方の特設ケージへご招待した次第。
というわけで奥方は離乳食とミルクを購入に走り朝から殆ど一日中、4匹の世話係に。
すべて色柄ともキイロシロ、父親はきっとウスキイロシロだったのでしょう。
確保したのちそのウスキイロシロとキイロシロ、おそらく夫婦、玄関の外で二人で子達に声をかけていました。
母親の子を愛する気持ちは良く知るところですが、父親までもやってくるなんて・・・
4匹のうち1匹④は他のネコの半分の体重、170g。
奥方は「全員生かす」と意気込んでそれをまず重点的にケア。
まだ、固形物を食べたことがナイ連中、難しいミッションです。
2025年
5月
30日
金
昨日は再び二連梯子を立てて2階のひさし下の配線工事。
電気工事に来られた御門徒さんのカーゴ車を借りればリスクは無いのですが二連梯子のトップに昇っての作業は結構にリスキー。
昨日は奥方のヘルプは有りませんでしたので真面目に安全対策をしました。
梯子を固定していざという時の為にザイルまで持ち出し私自身装着したハーネスと結ぶ念入りさ。
ザイルの末端は家屋の柱に巻きつけて支点としました。
奥方は先般の雨樋清掃の手伝いの際に肩を壊したということで当家の負傷者リスト入り。
それでこういった作業は「御前が居なくなったら誰がやるのだ・・・」と放言。
要は「リスクを次代に継承するな」ということですね。
母親の気持ちとしてはいかにも・・・というところです。
ただし私は「あいつならヤルんじゃない?」でした。
しかし彼の今は相当の運動不足の躰。体重増えすぎの感。
一昨日NHKの「歴史探偵」という番組内で真田昌幸の甲冑が紹介されていました。
真田といえば六文銭ですが真田昌幸らの甲冑正面には梯子紋。
縁起のイイ紋章ですが、いわずと知れたその道具とは登ること。
常なる上昇志向をイメージしているのですが、その道具を使用する際はまず、落ちること、梯子を外されることなどのネガティブ材料はそうは思案せずに使います。
落ちる事に関しては一応は頭に入れて対応。しかしそればかりを気にしていたら何も出来やしません。
境内「裏切らない」と私のお気に入り、ユリたちが咲き出しました。曇天の空間を明るくしてくれます。
2025年
5月
29日
木
朝方は半袖ではいられないくらい寒く感じましたが日が昇るにつれて良き陽気になりました。久し振りの晴れ間でした。
私は宿題の一つ、2階の雨どいに立つ笹を除去するために二連梯子を用意。
「何のことないだろう・・・」のお気軽の気持ちでまずチャレンジ。素手で引き抜こうと腕一本で気張りましたがまったく歯がたたず。
手指を突み確認するとビッシリと土が堆積し尚、笹の根が絡まっていました。
前回真下にある排水溝の詰まりを解消させましたがまさにそれと同じまたも植物の生命力に圧倒されました。木々が周囲に多いという事もありますが・・・
そして本堂の雨どいの場合はユリでしたが、こちらは笹。
根の張り具合はより強靭でした。
先般排水溝清掃で入手したホースの先端に装着するストレートのガンとホースを引っ張り出して雨樋へ。蛇口の開閉は奥方に頼みました。悪戦苦闘しましたが作業は何とかクリアできました。
それにしても屋根の上に時間をかけて土が堆積していくメカニズム・・・やはり自然の力には驚かされるばかり。
夕刻に「田沼親子お国入り!スペシャルトークショーin牧之原」の落選のメールが届きました。
すごい人気のようで私の知りうるところ当選者は不在です。
扨、昨日の実相寺、素晴らしき十三重塔の威容を拝見したあとは境内の石塔たちにご挨拶。
室町~江戸期の墓石たちと御対面。
お寺は浄土宗、六字名号を口ずさんで・・・まぁどちらに行ってもそれ以外ありませんが・・・