土中から姿現す石仏と六地蔵摩崖仏 柳生街道

昨日の快晴、車中ドライブなどでしたら居眠りの出そうな絶妙のお天気。

私はお借りしていた高橋泥舟の扁額を史料館に返却したあとは堂内にて法事の準備を。

日陰や室内は「寒い」を感じました。

 

ということで年配の方の出席がわかっていましたので春の法要の際に撤去していたストーブを再び引っぱり出して着火。

それがあるかないかでは雲泥の差となったでしょう。

 

午後からは掛川から表具師の宇野さんに来ていただいて当家と布施家の軸を数点ずつ修理依頼しました。

他に蓮如上人の御絵伝なども修理に出したいところですが、奥方から「今回はこれまで」の忠告の声が背後から聞こえてきました。

祖父や父が放って虫食い等朽ちるにまかしていた軸を私が必死になって修理している姿を見てむなしさを感じているようです。私のあとの者たちがそのような管理しかできなかったとしたら無意味ですからね。

ただし「ものはすべて失われる」のは必定ですが、それを遅らせることはできます。

 

布施家からは所蔵の幕末~明治期の日本画の真贋について含め表具更新を悩んでいるようでしたので、史料館の長谷川氏に連絡。たまたま外に出ていたそうで用事が済んだ帰りに寄っていただきました。

たまたま近くに置いていた当家の阿弥陀さんの掛け軸を長谷川氏に二点紹介しましたがその一点について「おそらく牧之原市で最も古い仏画かも・・・」との評価。

「仏画」のニュアンスは驚きましたが私ども真宗寺院からすればご本尊、お内仏の変遷の一形態ですからね。

 

他流の寺院などではこのようなカタチでご本尊を中心に掛けることは少なかったのかも知れません。

早い時期から「仏像」という立体的象徴の姿をもって本尊とした歴史があったのでしょう。

 

以前も記していますが当流の寺院発祥のスタイルといえば各門徒衆の代表者、有志による簡易道場の提供から始まったもので「簡単お気軽の聞法道場」というのがその始まりの姿。

これは「仏像より絵像・・・絵像より名号(南無阿弥陀仏)」という蓮如さんの言葉があって、こちらは「なんでもいいけどカンタンでいいよ、どちらも真を成すものは南無阿弥陀仏の六字なのだから」のメッセージですね。

ちなみにその文言の前には「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり」とありました。真逆です。

よって「仏画」としてのそれが案外、希少となったのかも知れません。

 

私はその「仏画」-元のご本尊らしきお軸の年代を鎌倉あるいは平安まで遡っても不思議ではないと思っていますがそのように「1000年」の声を聞くほどの時間、実際にあのように維持できているわけで、「やるべきこと」をしていけば「失われること」はできるだけ後回しにできるいうことです(数年前に修復済)。

 

さて、先日は「わらい仏」の近くの眠り仏について記しましたが、その手の土に埋まって顔を出している石仏を今一つ。

 

どのような経緯でそうなっているのかは分かりませんが世間衆生の中に再び顔を出されて「よかったね」とつい囁いてしまいたくなるような図。

場所は柳生街道古道脇。

人がすれ違うのがやっとくらい「袖振り合うも多生の縁」を感じるような場所(このあたり)。

今はどなたともすれ違うことはありませんが・・・。

 

柳生街道の各所今でも残る石畳、特に春日山原生林を抜ける道に敷かれた石畳の整備は江戸期のもののよう。

奈良中心部から柳生、あの阿対の摩崖仏経由、笠置までの街道がそれですね。

この辺りの摩崖仏は珍しいとはいえませんがどちらの石仏であっても初対面はやはり感動します。

当尾の眠り仏よりも「寝ている感」があります。阿弥陀さんかも知れません。

 

近くに六地蔵の摩崖仏もありました。

こちらは普通に歩いていてスグわかりますが「寝ている」その仏さんは崖側を注意していないと見落としてしまいます。

案内板はありませんが湯呑代用花立ての存在がポイントとなります。