生老病死の無常は生きているうちに感じ取るもの。
さらにその人の生きたという事実について周囲から少しずつ忘れられていくのですが死後に「人に忘れられる」ということにも無常を感じるものです。
故人は「既に安養の浄土、安楽の果報を・・・」などと言われても建碑された墓に献花もなく参拝もなく終いには草ぼうぼうになることはさらにそれを見る人に「無常」を印象付けます。
先日も「髑髏目中草」について記しましたがまさにその無常観を漂わせるものでした。
特に真宗系の発想には無いながらよく聞く言葉に「草葉の影」なる語もありました。
ちなみに「故人は墓の下にはいない」・・・→「浄土に」というのが宗旨ですからその語の使用は致しません。
しかし当流の白骨の御文には「もとのしづくすゑの露よりもしげし」の件などまさにその「草」を連想させます。
その「草葉」や「花」に関して私がこれが今風でいいな・・・と思うのが大林宣彦氏の詩にあります。
彼が監督した「ふたり」という映画の主題歌「草の想い」。
不思議なことに監督と久石譲の男二人で歌っていますね。
私は日本映画は殆ど見ることはありませんが何を隠そう映画監督としてだけでなく人間的にも大林宣彦の隠れファンです。
特に学生時代は私の周囲の人たちの間では彼の事を神の如く讃えていたことからその名を知ったのですが。
その歌詞の一番いいところ。
私が「仏教的無常観出ている・・・」と感動する詩の部分が
「時は移ろい行きて ものはみな失われ
朧に浮かぶ影は 人の想い ( ② ~草の想い )」
です。
何よりもまた
「独り砂に眠れば ふたり露に夢見て
よろこびとかなしみの 花の宴」
こちらは親鸞聖人の「御臨末の御書」(伝承)を連想しました。
「我歳きはまりて 安養浄土に還帰すといふとも
和歌の浦曲のかたを浪なみの 寄せかけ寄せかけ
帰らんに同じ 一人居ゐて喜こばゝ、二人と思ふべし、
二人居ゐて喜こばゝ、三人(みたり)と思ふべし、
その一人(いちにん)は親鸞なり
我われなくも 法は尽つきまじ 和歌の浦
あをくさ人ひとの あらんかぎりは
弘長二歳十一月 愚禿親鸞 満九十歳」
映画のタイトルの通り(故人を入れて)「ふたり」なのです。
先日までの朝ドラ「まんぷく」にもありましたが亡き人が「ちょくちょく」浄土からやってきては「見ていてくれる」「いつも一緒に歩んでいる・・・」というのが浄土真宗でした。
さて、息子から「その摩崖仏ならこの前行ったよ」と。
昨日は二つの古刹には観光バスで人がやってくるにもかかわらずあの「わらい仏」までは足を伸ばさない・・・ような事を記しましたが何の事はない、あ奴らはそこまで行って、しっかりお参りしていたのでした。
偶然とはいえ、京都奈良あたりの中心地ではなく世間様からみてそう「人気の場所」とはいえない野原に親子で時間を変えて別々に行っていたということは驚きでした。
そのわらい仏のスグお隣に、ただし「ぱっと見」目立たないのですが「眠り仏」なる名称を付けられた地蔵が土から顔を出しています。
その手の事を考えればまだまだ土の中に埋もれた石仏が世の中には隠れて、あるいは忘れられているのかもしれないと思うのでした。
こちらの石仏であってもしっかりした管理がされなければ草だらけになって埋もれてしまいます。
しかし「草の想い」も同時に感じます。
画像①わらい仏のスグ手前に。
コメントをお書きください