掛川と今戸の広楽寺 おとわや  尾上菊五郎三代目

拙寺開祖釋浄了、今井権七は相良にその叔父祐寿は掛川に赴いて廣楽寺を建てたというのが今に繋がっています。

復習すれば拙寺の名称は相良の大沢に来た時の名が「本楽院大澤寺」。これは家康によって新町に寺地が移った際までその名が続きます。

 

その後田沼時代に現在の波津の地に移ってきてその名のりを「釘浦山」(ていほざん)と山号を改めたのでした。

私は「本楽院」の方が好みですが・・・

ちなみに「釘浦(くぎがうら)」とは大井川から波津あたりの駿河湾の名称です。

 

それ以前の歴史を遡れば大坂の石山本願寺が和歌山に退去し、本能寺の変によってその籠城戦がお開きになりますが、今井権七はその前に郷里安土から信長の安土を嫌って遠州菊川段平尾に天台系寺院だった三州赤松(三河安城)の本楽寺に居た叔父の祐寿を誘って一宇を建てていました。

祐寿は遠州の榛原に自らの真宗寺院、「広楽寺」を建てていましたが武田小山城の出城化し、武田の後退とともに掛川まで随行したまま掛川に寺を開いたというのがその歴史です。

 

その「広楽寺」の名称がシャレています。

それは当初今井権七の属していた近江武佐の「広済寺」の「広」と祐寿の居た「本楽寺」の「楽」の二字を取って「広楽寺」と。

 

ということで大澤寺が新町まで名のっていた「本楽院」という号は祐寿の居た寺の名をそのまま山号としていたのでした。

 

まぁ当時の名のりなど適当なものだと思いますので、コロコロ変えたとしてもどうってことは無さそうですが、現代ではそれはかなり面倒くさいことでもはや変更などは考えられません。

やはり地名の「大沢」はそもそも家康に拝領した地であって動かないところだったとは思いますが、山号どころか寺号の「本楽寺」なる名称の方が私の好みではありますね。

そもそも真宗らしい名です。

 

さて、掛川の広楽寺から1620年に江戸浅草今戸に分家した者が同名の寺を創建していました。

表記「おとわや」は「音羽屋」で歌舞伎役者尾上菊五郎の屋号です。その初代の旦那寺が江戸の広楽寺でした。

 

嘉永二年(1849)のこと、たまたま掛川に逗留していた三代目の尾上菊五郎が急死し、その家族が葬儀の依頼に参ったのが掛川の「広楽寺」。

当初江戸の菩提寺と名称が同じであることからその依頼に訪れたそうですが、両寺の縁を聞いて感じ入りそのまま掛川「広楽寺」に墓地を建てたといいます。

 

①~④が掛川⑤~⓼が江戸今戸。場所はここです。

③には「三代目尾上菊五郎梅壽之墓此奥ニ阿り」と。④が墓。

⓼が尾上菊五郎初代以下の墓。水桶に「音羽」の文字が見えます。

こちらのお寺の宗旨は「東本願寺派」元は「大谷派」でしたが例のお東騒動で浅草本願寺(東本願寺派本山)と合流しているようです。

余談ですがその騒ぎの前まで浅草本願寺内にあった専修学校(夜学)に私は学生時代通学しました。

昼間学校(世田谷)、夜学校(浅草)という状況に親や周囲にピーピー文句を言っていた事を思い出しますが今考えるとまったくもって懐かしくていい経験でした。

奥の墓道氏が私に付き合ってこの授業に何度か出ていたことも今考えると不思議でなりません。彼は自分の学校の授業には出ないで、私の方の昼と夜に付き合っていた頃がありました。

 

何事も終わってみれば「大したことない」。コレ本当の話。