柳生一番悲願の仏 疱瘡地蔵と徳政碑 負い目なし

予定としてはお天気次第では「二連休だ」という息子のいる横浜へ向かおうか・・・という感じでいましたが昨日は天気予報通り、朝からまとまった雨。

 

首都圏は降雪情報もあり、こういう日は家で温かくしていようと閉じこもっていました。

そして箱根の降雪風景をテレビで見て、「冗談じゃあない」などと奥方と顔を見合わせていました。

 

息子には雪の路面の怖さについて「気をつけろ」などと親心メール。彼は関東の雪についてはまだ未体験ですし私が彼と同じような年でやらかした雪にまつわる失敗の数々を思い出していました。

 

その後、東海道(東名高速)を上るにあたって私の最近一番のストレスになっている伊勢原・厚木・海老名付近のジャンクションにて多重事故のニュース。

海老名ジャンクションの下りでトラックの逆走事故だといいます。

 

思うことはやはりこのような荒天の日は温かくして「黙って家に」いることは正解であると確信しましたが、あと一つは物流のプロドライバーであっても「入路を間違えて?逆走する」ことがあるということ。「うっかりミス」なのでしょうが恐ろしい。

 

老若男女誰でも「自己正当」の錯覚があります。

これからもその他者の間違いに巻き込まれぬよう「できるだけ走行車線」(追い越し車線は追い越しの時のみ)を意識して走ること、自身も新高速道路が各所取り付いて出入路複雑化の中、最悪の結果を招くその錯覚「うっかりの逆走」に陥る可能性があって「自分こそ信用できない」を頭に叩き込んでおかなくてはならないと思うのでした。

高速道分岐手前でこれからもモタモタすることは必定です。

 

さて、昨日の眠り仏と六地蔵の細道の先には柳生では一番に名のある石仏があります。

それが「疱瘡地蔵と正長元年柳生徳政碑+α」のセットで国の史跡指定にもなっているほどの歴史的逸品。「病と銭」の件です。

以前「銭の病」について記したことがありましたが「病と銭」その二つの悩みはいつの時代も人の煩悩の本質なのでしょうね。

 

まず疱瘡とは天然痘のこと。

古くから「これを病んだ」であろうその死因を推測できる記述が散見されていている伝染病で世界的にも一族全滅に至るほどの致死率猛威を振るった歴史があります。

 

奈良・京都という国際都市に隣接し大陸文化交流による影の部分、未知なる伝染病との遭遇の痕跡がここにありました。

新しい国・文化・人との交流、関わりには新しい害毒、特に「病気」を受け入れるというマイナス要因がどうしても付きまといました。

以前もブログにて明治期(開国・文明開化の負の部分)にコレラが相良にまで発生したことを記しました・・・。

 

こちらは元応元年己未(つちのとひつじ)十一月日(1319年)にその病からの守護を祈願しての作造だったといいます。

それ以前からその病の流行があり時に多くの悲劇を見てきた者たちの悲願と祈念が想像できますね。

 

面白い事にその石仏の下にそれとはまったく関係の無いやはり当地の人々の想いというか勝ち取った成果を伝える記述があります。病とは別物ではありますが「悲願」が成就したということですね。

 

それがかつてこの地に「徳政」があったという事実。

「徳政」といえば今風に言えば「借金チャラ令」。

今の「自己破産」よりも一枚上手で、一村、地域全体の借金をゼロにしてしまうというものでそれを勝ち取るほどの交渉力と力の存在を推測することができますね。

 

時代的には石仏建立から109年後、正長元年(1428)の事です。

教科書的には「正長の土一揆」の近江坂本辺りの馬借からの徳政一揆を発端に畿内に広がっていった混乱状態を連想しますがこちらは興福寺が徳政令を出している資料と合致しているそうでその年貢、それまでの滞納分や金員等「借金」を「ナシ」にすることを勝ち得た喜びと感謝を後世に記すべくその守護者である石仏の下に記したのでしょう。

 

「正長元年ヨリサキ者

 カンへ四カンカウニ

 ヲ井メアルヘカラス」

 

との記述だそうですが④、かろうじて「正長」がわかる程度。

かなり摩滅して判読不能です。

そのために保護のため覆堂を追加したというわけですね。

 

「正長元年以前の神戸(かんべ)四箇郷(大柳生庄・小柳生庄・阪原庄・邑地庄)の負い目は無くなった」

との表明。

ヲ井メ「負い目」の表現が新鮮です。

 

借金・負債の類は「負い目」・・・。「頭が上がらない」「申し訳ない」の雰囲気漂う語です。

 

当時の荘園等年貢の収奪率は少なくないわけがあるはずもなく、その分管理徴収者としては世情(飢饉・流行り病の流行・戦乱による収穫困難)を見ながらの経営となって時に徳政を発するくらいの寛大を見せる必要もあったのでしょうね。

民衆が爆発する前にバルブを緩めるが如くその圧力を抜いてやる必要があったのでした。将来に渡る安定、我が身の保身のための妥協ですね。

 

各地の祭礼、いわゆる「祭り」などの無礼講が本来のそのエア抜きの役割としてありましたがそれだけでは制御不全になっていたということでしょう。

穿って考えれば現代は徳政が無い代わりにそのバルブをオリンピックという壮大な「祭り」を仕立ててエア抜きさせているかと。他にもその手のイベント多々ありますね。

 

私はそれら同一の大きな石塊の道路側に掘られた阿弥陀さんらしき石仏、凝視して微かにわかる五輪塔肉彫りにも嬉しい出会いを感じました。

 

最後の画像は昨日の境内の一コマ。

シクラメンの奥にサツキが咲く様子。

不思議な季節気候を表しています。

その間にある小さい鉢が去年挿したハイビスカス。

寒すぎて元気なし。