小島蕉園の節「御林守 御用」なる語もまた初見

予報からいえば気温の低下を伴う曇天でヘタをすれば降雨もありえるといわれた昨日でしたが、結構温かかったです。

午前は東京からのご一同様による墓所改葬の法要を控えていました。

事前に石屋さんに依頼してご遺骨を掘り出していただいてこの数日の好天で境内で天日干しをしていました。

瓶の底に溜まった土にまみれていた遺骨もそのまま干してカラカラにしていましたが、昨晩のうちに私の気が変わって朝から水屋の奥の井戸の近くでその遺骨の土を洗い流す作業をしていました。泥まみれより気分がいいと勝手に解釈。

すると背後に人影が。

 

2か月に1度くらいの頻度で見える今時珍しい乞食道を歩む方でした。この方の道「こつじき」とは「聖人」や「寺を持たない遊行の僧」のことではなく、一般の方です。古い言葉で「物乞い」ともいいますね。

私が知る限り、ハッキリ言って昔はどちらでも大勢いたように感じます。

一昔前には本堂の下に「暮らしてる?」と思わせる人が「這って出てきた」とも聞いた事があるくらいです。

が、いまやそれは死語に近い言葉と思われるでしょうね。

 

しかし「寺」に於いてそれらの「道」を歩む人は「絶滅した」というほど珍しいことではありません。

今時仕事に対して好き嫌いをいわず我慢さえすればどうにでもなることで、「何故その道を?」と真っ先に疑問に思う所ですがそれは人それぞれ。野暮な質問はナシにしています。

ちなみに全然関係がありませんが「乞食道」という地名は実際にあります(愛知県)。

 

その際は仕事中で手が離せなかったこととその方の質問にちょっとばかしカチンときて「今日は奥方はいない」と言い放ってしまいました。その言葉を吐けば彼は必ず帰っていきますので。まぁそんな時は数日中に再訪しますが・・・。

 

私に投げかけてきたその言葉は「あなたはお寺の人?」でした。

そりゃあ朝の早いうちから水屋の裏の藪の中で「骨を洗っている」など不気味以外何物でも無いでしょうしその辺りの語は各来訪者と同様で慣れてはいますが、あの人はもう幾度も拙寺に訪れて(10年近いつきあい)私とも何度も会話をしているにもかかわらずですからね。

つい「おちょくってんじゃねぇの?」と腹の中で。

とにかく朝っぱらから必死になって泥を流している最中に横槍を入れてきたこと自体が面倒くさいことで「今日は帰っ帰った」風の成り行きながら無碍なこととなってしまいました。

 

私は以前奥方に「如来さんが姿を変えてやってきている」と言ったことがありますが奥方がいうにはあの人は着ているものは私のトレーナー・トレパンあるいはツナギ姿より余程「イイもの」を着ているとの見立て。本当に不思議な人です。

如来さんでなくて正真の盗人の可能性もありますが・・・

 

彼に限らず色々な人が境内に入ってくることがあります。

まぁこれからのことも考えて、境内を見渡せるよう防犯カメラの設置と記録という方向は今後の課題になりますね。

 

さて、昨日記した「相良町誌」。

毎度手前みそで申し訳ありません。

昨日は「史料館にもコレと同じものあるの?」という具合に長谷川氏のところへ。

するとそれが「唯一残る原本」とのこと。

聞けば以前史料館で存知している拙寺残存史料のリストを私に提示された時、そんな本は「知らねぇなぁ」と言ったことを思い出しました。

私はそれからずっとその件は放置していたのでした。

理由は大した書物ではないだろうという思い込みからですね。

 

その書籍を見た谷川氏は「やっぱりありましたね」でした。

それにしても長谷川氏は相良の事を全般的によくご存知で感服するばかり。

そのコピーに関しては史料館にあるそうですが彼もまだまともに目を通したことがないということでした。

 

この原本をベースにして山本吾郎氏が「相良誌稿」等を編纂したといいますので「相良町誌」をまとめた金谷の研究科「河村多賀造氏」(昨日画像②)の偉業にはおそれいります。

 

昨日は私どもの寺の先代の梵鐘につき「時鐘 御用」を仰せつかった旨を記しましたが、それとは別に小島蕉園時代に「御林守 御用」なるお役にも任ぜられていたことが判明。

何それ?といわれるでしょうから「世界大百科事典」の「御林」から。

「江戸時代、幕府や諸藩が管理・支配した山林。

その設定目的の多くは、土木・建築用材などの林産資源の保続にあったが、森林のもつ水源涵養(かんよう)、土砂扞止(かんし)、防風、飛砂防止機能に着目して、御林とした場合もある。

以上の目的に沿って、領主は地元住民に対し、御林内の立ち木のうち、特定の樹種(スギ、ヒノキなど)を限って伐採を禁じたり(明山-あきやま)、立入りを禁止し(留山-とめやま)、また御林を管理・保護する役人(御林守-おはやしもり 山見、山回りなど)を置いて、違背者の取締りに努めた。

幕府領では御林のほか、御山、公儀林とも称し、諸藩においては御林、御山のほか、御留山(熊本)、御本山(おもとやま)(弘前-ひろさき)、御直山(おじきやま)秋田、御建(立)山(おたてやま)(広島・松江)、御建(立)林(鳥取・高田)などと称し一定しないが、明治以降、政府はこれら旧領主直轄林のすべてを官林(現在の国有林)に編入した。[飯岡正毅]」

ということ。

 

官と民の間で拙寺ご先祖様はうまいこと立ち回っていたということがわかります。

ちなみに拙寺が管理する「御林」といってもピンときませんね。

以前記したブログでの画像を引っ張り出しましたが①まずは画像にある(赤矢印が拙寺)黄色のライン、いわゆる根上松の延長線でかつてあった防潮防風防砂の堤の上の林のことを推測。

または②拙寺背後(西側)に広がる今の小堤山から以前まで呼ばれていた「半僧坊」の山、私の勝手に推測する鉢形山(これは相良城を山城にする案のその候補地の名)ですね。

 

どちらも捨てては置けない林と森であることは違いありませんし民地とはいえませんからね。ただしこの「御林」、特定にいたっておりません。

 

本日の画像は使いまわしでなお②と③は同じもの。

 

「天明之度田沼様御領御城御普請ニ付城近辺ニ寺有之候而は非常御不都合の由にて拙寺義波津村ニ新町代地被仰付御城御普請之木材御寄附被成下候右之木材にて拙寺本堂再建仕候其後寛政度一橋様御領ニ相成御代官山中為之助様之節時鐘御用蒙り一人扶持御下ケニ相成御切紙頂戴仕申候其後文政之度御代官小島源一郎様之節右由緒ニ付御林守之御用蒙り候処無程御領御引取ニ相成夫ゟ近頃田沼様ゟ時鐘御用蒙り右ニ付御領分一円拙寺本堂修復之為勧化之儀相願候処早速御聞済ニ相成惣代一同江御達ニ相成殿様より勧化御帳始被成候儀相定り候処無間御転地之御沙汰相成り候其後捨置に相成申候」