先代梵鐘「時鐘 御用」の文字を相良町誌にて発見

昨日はまさに快適。他所の気温はそこまでは上がっていなかったかと思いますがここ相良は22℃。昼過ぎには半袖になれたほどでした。

たまたま北海道在住の方からの便りがあって今週末には氷点下13℃の予報があるとのこと。

私にとってマイナス世界など異次元としか思えません。以前北海道から当地に来た方が「遠州の空っ風の方が寒い」とも仰っていましたがこれはその時の各「体感」ですからね。

少なくとも私には氷点下と耳にするだけで無理な世界。

これから当地の本格的厳冬期に入るようです。

 

さて、拙寺の梵鐘について戦時下、金属類回収令によって徴用されたあと昭和30年に再鋳造されたことは分っていましたがそれ以前の情報はまったくなし、私の爺さん(13代目)が泣きながら追いすがったというその梵鐘のこと。

叔母は「イイ音がしたねぇ~」とはいうものの詳細についてまったく知る由がありませんので、身近な人で知っていたのは祖父でありせいぜい父だったのでしょうが、生前に一切そんな話にはなりませんでしたので、今更ながら残念な事をしたと思っています。

あれだけ長い間一緒に生活していながら、肝心な事は伝わらず、今になって知りたい事というものは各残るものです。

 

まぁこのようにブログに残しておけば次代の愚息もいつでも確認することができますのでこのような殴り書きの連続も悪くはないかも知れません。

 

このほど大正の初期に記された「相良町誌」を何の気なしにペラペラっと捲っていると拙寺の項目が。

案外長く記されていましたが(画像③~⑦)、出どころは拙寺周辺からでしょうからそう新たに知ったことはなし。

ところが「再記」⑥の部分にそのかつてあった梵鐘についての記述がありました。

それもお初、この件は初めて知ったことで驚いて叔父にまで知らせてしまいました。叔父もその「相良町誌」には興味があるとのこと。叔父も拙寺に生まれて、ずっとこの本は身近なところにあったワケですがまさに今初めて知ったようです。

 

この「相良町誌」についてはただ大正期に記されているということだけで(制作時代が新しい)邪見に本棚の隅っこに放置されていたものですが、コレは目を通すと結構面白い。

昨日の「釘ケ浦」の発祥についてもこちらからでした。

要は何か各種文書を書写したもので元ネタがあったワケですが、場合によってはその原本が消失している場合もあるでしょうし考えてみればかなり貴重な代物かも。

 

その件が拙寺先代の梵鐘について「時鐘 御用」と。

これは藩(公的)認定、城下当地区に「時間を知らせる(「時鐘」)お仕事(「御用」)を任じられたこと」が記されていました。

時を告げることの意義が寺に任されていたということそして、昭和になって溶かされてしまったその鐘についての記述を初めて目にして感動した次第です。

 

尚、用紙に「小山製」と印刷されています。

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コメント: 6
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 30 11月 2017 08:55)

    おやおや。これは当店で罫紙を印刷して冊子にして販売していたのでしょうね。
    以前「大福帳」もありました。どこかにしまってあるでしょう。
    印刷が暇なときはお客さんが買いそうな物を印刷して販売したのです。
    お茶が盛んなときは「生葉台帳」や「切り取り」とかいう伝票がありました。
    いい考えでしたね。

  • #2

    今井 一光 (木曜日, 30 11月 2017 09:08)

    ありがとうございます。
    数少ないこの町の歴史の中そこかしこに「小山」の名は登場してきます。
    相良の寺の御朱印紹介の冊子の表紙にあった古い相良を写した
    絵葉書のカットもそうでした。
    まだまだ探せば出てきそうです。

  • #3

    野村幸一 (金曜日, 01 12月 2017 14:42)

    先日、史料館へおじゃました際にこの資料を見せてもらいました。野村庄右衛門の名前も一ヶ所ありました。しかし、読みづらく限られた時間の中では難しいかったです。

    その時に、史料館の名波さんから史跡調査会の河原崎陸雄さんを紹介していただきました。連絡をとりまして、野村について更に掘り下げることができるかお願いしております。なんでも、相当な量の古文書や本を所蔵されているそうですね。10月上旬に連絡とらさせていただきましたが、どういう連絡が来るのか楽しみです。

  • #4

    今井 一光 (金曜日, 01 12月 2017 21:04)

    ありがとうございます。
    なかなか難しいとは思いますが紐解いていただければと。
    新しい何かがおわかりになりましたらお教え願いたいところです。

  • #5

    野村幸一 (金曜日, 01 12月 2017 22:56)

    掘り下げるといっても、江戸期から明治大正にかけての生業だとかそういう所を知りたいとお願いしました。呉服屋時代の写真などどこかに埋もれていれば…と

    難しいとは思います。

    高天神城戦で陣屋となった本楽寺のピンポイントでココ!というところは判明していますか?

  • #6

    今井一光 (金曜日, 01 12月 2017 23:50)

    地元段平尾の方(苗字は高天神崩れ武田方)に推定地として指摘された場所はあります。
    以前ブログにて記したことがあったと思います。