祖父も泣いた愚策  金属類回収令

御殿場線が線路を剥がされて単線化された金属類回収令は昭和16(1941)からの発令でしたがそれより前、昭和13年からお国は鉄鋼の配給規則をとっていました。

日米開戦という本格的戦争状態に突入するのが1941年の12月、ということでハナから物資の薄い状況は判っていたわけです。

それでも戦争をやりたかった軍部はやはり余程のアホとしかいいようがありませんね。武器が無くなることは判っていたのです。いくら神風とやらが吹こうとも真顔でもって竹やりで戦おうことなどいうことは正気の沙汰ではありませんね。

 

 とにかくこの法令ほど情けない法律は無いと仏教界では永年の語り草になっていました。

仏教界に限らず道路のマンホール、一般家庭の食卓、鍋釜から仏壇の仏具まで片っ端から没収していったものですから、今なおその後の苦労話を耳にすることがあります。

 

 まともな人たちは思っていたことでしょう。

「仏具を溶かして作った弾など罰当たり千万、戦争など勝てるものか」と。

勿論、当時そんなことを口にすれば「非国民」と罵られて、警察にしょっ引かれますのでどの家も生活の不便と仏への不敬を承知で嫌々ながら供出したものです。

 

 私は祖父から梵鐘供出の話を聞きました。

持って行かれた際と終戦後、梵鐘を探しに行った時の2度涙を流したそうです。

終戦後まだ溶解されていないかも知れないという噂に、喜んで集積場に向かったそうです。

 

 先日不発弾処理で騒然とした浜松JR敷地にそれらの集積地がありましたので、そちらか溶鉱炉のある三重県でしょうか。

その工場には各地から掻き集められた夥しい数の梵鐘がズラリと並んでいたそうです。勝手に持ち去っていて「あとは取りに来て持って帰って」という無茶なシステムだったそうですが結局当山の梵鐘は既に溶鉱炉の中に入れられていました。僅かな期待をもって向かった工場には山ほどの鐘の数、「これならある」と思って必死に探すも結局は徒労に終わり「残念でした」の声。悔しくて膝が震えたそうです。

戦地で亡くなった檀信徒家族の遺骨の無いまま、遺影だけの葬儀。形見の品を埋葬する墓前法要という日常に坊さんとしてもギリギリまで追い詰められていたことでしょう。

 

その後はたくさんの御門徒さんに支えられて現在の梵鐘が製作されました。画像は資料「供出梵鐘」に当山の戦後に鋳造された梵鐘。そして今日は猫の日2.22。