2025年
7月
30日
水
柳生芳徳寺御堂 高温につき居眠り警戒
先日の叔母を荼毘に付すため葬場に赴いたのでしたが、あの時はその順番に前後がありませんでした。
てっきり職員は眼が廻る程に忙しいだろうと思っていましたが、一人稼働で回していました。
それを勝手に世間様はお盆時節は葬儀を遠慮するものなのか・・・と思い込んでいましたが何のことはない、あの数日前から極端に火葬場の稼働は減って「4日連続ゼロ」ということがあったと。
勿論「未だかつて無い」(担当者)といいます。
南遠州の住人が少なくなったということでしょうか・・・。
しかし、昨日はフル稼働の3名勤務でした。
施主は「1番しか取れなかった」としきりに謝っていました。
時期が時期だけに日延べしたくなかったといいますが仕方がない事です。たまたま集中したということか。
何故にして施主が「謝罪しなければなるまい」という気を起こすかと言えば、式場に朝7時に集合というスケジュールになるからですね。
厳冬期のそれは少々痺れますがこの時期ならば、どおってことなし。ただし通常よりスタートが早いということはより一層の緊張感に繋がります。
少々の余裕感、たるみ(寝坊も)が命取りになります。
そう考えるといよいよ無駄な早起きに繋がってしまいます。
昨日は朝4時前に目が覚め、動き出しましたが、前夜就寝が12時過ぎとあって睡眠時間は不十分。
炎天環境の睡眠不足は何事もリスキー、「自己との闘い」となることは承知していますが、それは沖縄時代の無茶を思い出しますね。
前夜朝方まで遊びまくって(コザのディスコに徹夜マージャン)、睡眠ナシ・・・そのまま出社して、炎天の海上で一日すごすなどざらのことでした。
その積み重ねから今、陽の下にいると反射的に睡魔に襲われるのかも知れません・・・若さ故だったのでしょうが、今考えるとよくもまぁ、生きて戻ってきたものだと。
葬場では偶然にも平田寺住職と御対「2番」だったようです。
やはり一昨日のNHK「ニュースーン」の「サービスカット(視聴した奥方の評)―平田寺と拙寺の2寺一緒に並ぶ画像」については通夜法務の為に視聴できなかったようです。
画像は柳生芳徳寺御堂内の続き。こちらは春の図です。
2025年
7月
29日
火
散歩の達人 南鐐二朱銀 以南鐐八片換小判一兩
夕刻の法縁を控えていた為、ずっと自宅待機。
外に出てへろへろになる気にはなりませんでした。
18時から吉田町に向かうことになっていましたので、その番組-ニュースーン(放映は16時50分前あたり)は視聴することができませんでしたが、宮沢氷魚さんが出演し、先週末の大河ドラマの最終の出演場面について語るコーナーが。本編は衝撃的なシーンでしたからね。
叔父から「見たよ~」とメールが入っていましたが番組最後に宮沢さんが相良へ「事前勉強」のために訪問された際の一コマ平田寺と大澤寺の堂内の様が紹介されたようです。
事前に史料館経由でそのカットを入れる旨連絡はありました。
午前は今年の子供向けの夏休み宿題支援の会の講習の流れを思案検討。
そのお話のお題がよせばいいのに「田沼時代の米」なのです。
ある御門徒さんがそのタイトルを回文で見てその表題を真に受けてズバリ「その米を見せて・・・」と問い詰められたことがありましたが、そのタイトルにも問題がありましたね。
私の後悔の最大理由はその件「難解すぎる」ということ。なかなか腑に落ちるところまで誘引することは不可能なテーマでした。
子供らに(おそらく僅少の参加者はいつものこと)その難解なこまごまを説明納得させることができるか・・・ちょっとやそっとのお話ではまずムリでしょう。
それは
①封建幕藩体制そのものの理解
②士農工商と武士のプライドー儒教的精神の理解
③武家社会はそもそもの経済観念が欠落(武家と商業)している
④米が需要と供給で価格が変動することへの無理解な支配
⑤自然環境の変化とインフレとデフレ
⑥俸禄(武士の給料)は米 幕府財政の基本も米
⑦大坂の米相場と今でいう先物や信用取引に近い取引の存在
⑧米の商いに介在する様々な業いと権利関係
⑨大坂流通の銀、江戸流通の金の二重構造と両替商の存在
⑩時代によって変異する米と通貨の交換レート
⑪米の量・容積の単位、石・斗・升・合について
⑫通貨単位いろいろと換算
⑬江戸期税制と年貢
などなど
そんなこんなでテキトーに話すしかない・・・と開き直っているところです。
上記の項目はそれぞれ1時間であっても大人でさえ理解しがたいですからね。
それをこのクソ暑い本堂でおさめることなど、無理無理無理~。
全体ざっと30分でお仕舞にしようかと。
「あとはみんなうまいこと調べてね~」。
画像はせめて南鐐二朱銀の現物でもみてもらおう・・・と引っ張り出したところ。
こちらに関しては当相良史蹟調査会の皆さんはどなたもお持ちになっている品。
珍しいものてせはありません。
尚、資料館2階のドラマ展に展示されている二朱銀はドラマの中で使用されたものになります。
他の画像は拙寺の同じ引き出しから登場させたものですが惜しいかな小判は出てきません。寛永通宝ばかりです。
③④豆板銀(小玉銀)こちらを天秤で計量して両替。不効率極まりありませんし、いちいち両替手数料が発生するのでしょう。
スムーズなモノの動きに水を差してしまいます。
また南鐐二朱銀の流通チャレンジはキレ者田沼意次の頭脳明晰を物語っていますが全国的に通貨両替の煩雑をクリアしようと図ったもの。
しかし、それはそれで当初は大坂商人から不評の声があがったわけです。
両替商(銀行業)の介在は殆ど用ナシですからね。
※7月27日に「散歩の達人 さんたつ」が更新公開されました。
「田沼意次ゆかりの地・静岡県牧之原市相良で、幕府の財政を好転させた名君の足跡をたどる。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の六】です」
2025年
7月
28日
月
芳徳寺堂内は資料館 性格の悪い憎まれジジー 私
青い空にまっ白な雲が流れる様は壮観で爽快。それを眺めるのはいわゆる至福。
あたかもかつて私がいた沖縄を彷彿とさせる安定した晴れ連続の日々が嘘のように続いています。
スコールチックな突然の雨は勿論、夕立すら当地にはありませんね。植物の水やりが面倒ではありますが。
この時期になると「この好天がずっと続いたらイイ」などといつも感じていましたが経験上それは儚い期待に終わる事はわかっています。
無上の季節は7月いっぱいでお仕舞、8月に入ると台風シーズンに突入しあっという間に秋風に隙間風。
半年以上続く寒々しい空を耐えなくてはなりません。
皮肉なことですがこの季節を心から味わうに年々そのハードルが高くなってきたよう。いろいろね。
歳を感じることとそもそもそれを楽しむ時間というものがまったくないのです。
来年は・・・今年こそ・・・と毎年「夏の遊興」の件、諦めて心に繰り延べとしてきましたがおそらくその件私が死ぬまでもうムリかと感じるようになりました。
仕方ないですね。ジジーは・・・もっともっと歳を重ねれば動けなくなる。
まぁ如来さんの差配通りにあるがままに動くだけですが。死ぬまで・・・
世間様の夏嫌い増長の候、嫌味を綴ったわけですが、昨日も私は法衣を着てのお内陣での読経、それは「サウナ感」。
おそらく今年一番のハードワークだったのではないでしょうか。まぁそれも嫌いではありませんが。
しかし皆さんには全国で晴れの地のうち「ここ相良が一番涼しい」と吹聴。
ニュースでは「38~39℃」の地について騒いでいましたがやはり当地の気温は32℃くらいだったのでは・・・
相良は変な場所?
画像は先日の芳徳寺の続き。
本堂は資料展示室を兼ねています。
2025年
7月
27日
日
自由と正義、公正と平等 あっちこっち動いた一日
奥方に「猛暑なんて平チャラ」などの軽口を叩きながら堂内でドタバタ。開始予定時刻の前に「参列者が揃った」ということで、それなら・・・とばかりに急いで準備にかかったわけでしたが、そういう時といえばまず間違いが多発するものです。
昨日の法要は体調不良(少々寝不足ぎみ)だったせいか、著しい誤りが頻発しました。
大いに反省して修正、再発について検討させていただきました。
しかし単純ミスについては如何せんどうにもなりません。
それこそそれが私そのものですからね。開き直るではありませんが、それはどこか抜けているからでしょう。
本堂内陣の「蒸し風呂度」は100点満点いやそれ以上でした。
対価を支払ってサウナ風呂を所望する方がいるのですから「タダで健康になれるのだ」と自ら言い聞かせてその場をやり過ごしました。
そのあとの墓参が私が初めて伺う菊川の井之上墓地ということで、運転中睡魔に襲われました。
バイパスで先を走る施主の車に追突しはしないかと不安に。
横浜の「奥の細道」氏は以前から眠れない、寝てもスグ起きるとボヤいていましたが、私はその真逆、ちょいとばかり気を詰めて集中する時間があると、そのあとときたら瞼が重くなります。
どこでも寝られるという特技かもしれませんが・・・コレもビョーキでしょうね。
息子もその「眠り病」を引き継いでいて「運転しながら寝る」などの感想を親子で論じるほどです。
あまりにもバカげた話ですが、その対応法は事前にタップリ寝ておくか、眠気に襲われたとしたら早めに車を停めて数分でも寝ることですね。
扨、先日テレビ小僧は、NHKクロ現プラスの「“私はやっていません”相次ぐ『再審無罪』の衝撃」を視聴しました。
最近になってあの手の事案(長期収監のうえ再審無罪判決)が数多出てきているわけでそれ自体に衝撃を受けますが、よくもまぁ事件の犯人当事者としてでっち上げてそれで「OK!OK!」にしちまうという無茶苦茶さ加減。
検察って何よ・・・というのが第一印象でした。
捜査機関の恣意的な方向性というか犯行に至る状況を操作しながら不都合な証拠を隠すといったところですが、一人の人生をすべてナシにしてしまうことですからね。
国民は沈黙しすぎですね。
いつ私自身が犯罪者として死刑や無期懲役刑に奉られるか、わかったものではありません。
怒りを通り過ぎて呆れるばかり。
日本の刑事制度は基本「自らは常に正義であって誤りは絶対にナイ(認めない)」というスタンスなのですね。
それでは冤罪というものが無くなりませんし、その救済というもが程遠いことになってしまいます。
番組では解説の指宿信(刑事訴訟法)さんが「刑事制度というものは過ちがつきもの」と仰っていましたが人間そのものすべてが「過ちがつきもの」というのが仏教者といっていいか私としての立場ですね。
その過ちについて認めないで突っ走ろうとする検察内部の雰囲気とそれを改めずに容認している国民がイケません。
75年以上も再審法について手を加えられず放置しているという現状はあまりにも間抜けすぎ。
国の権力者を守ろうとする憲法改正論よりも国民を守るための再審法改正の議論の方が重要。
番組の最後にノースカロライナ州の元最高裁長官の言葉を紹介していました。
●「わたしたち」が過ちを犯したのです
●速やかにただすことが「わたしたち」の責務なのです
とくにお役人やお偉い方々は「私が悪かった」と言えないようです。
要はあやまちについては反省して直ちに修正すること。
それは何事においても必要なことですね。
画像は昨日の比木のひまわり畑。浜岡での枕経の帰り途にちょいと停車して。
毎年この時期こちらについ立ち寄ります。
今年は少し小振りで少な目のよう。
ひまわりは自由と正義、公正と平等の象徴です。
日本の弁護士の記章でした。
2025年
7月
26日
土
本願寺水源池重文指定 夏のサンテラと燕の釘隠し
午前から私が大工仕事、奥方が銀行、役場系往来と事務仕事。
今回の大工仕事は会館の40脚以上ある椅子の移動キャスター台の追加製作です。
椅子の納品前に5組(一組5脚重ね)を製作して「OKOK」にしていましたが、やはりあと2組10脚の移動を安易にするためそれに着手。
また、会館須弥壇横に置く御文用の台の製作、そしてぼちぼち頭の中で描いている大き目キャスターを使用しての棺用ストレッチャーの製作着手の算段。
まぁ、どちらも緊急性はありませんのでのんびりテキトーに。
墓地と外周の雑草たちの対策はこの好天つづきこそ効果絶大と思う除草剤の散布。
数日中に効果が現れるでしょう。
問題は何時静波墓苑に向かうか・・・ですがこれからの日々「動け!!」との指令が強烈に入っていますので当分の間はムリです。
この時節ともなると奥方と「一番好きな季節」について勝手な事を言い合うのが毎年のならいとなっています。
それはこの時期「6月末~7月下旬」こそ私の心身ともにキレてくるのだと思い込んでいるからですが、それは何のことは無い昨日が私の誕生日だったからです。
この歳ともなるとそれを「目出度い」などという気持ちはまったくありませんし歳を重ねるということは一休さんの言うように「ストレッチャーの上の人」になる時間がまた一つ早まったということですからね。
昨日の大田南畝の辞世といわれる歌の通り。
「今までは 人のことだと思ふたに
俺が死ぬとは こいつはたまらん」
扨、ご本山東本願寺情報、四点ほど。
①琵琶湖疎水関連施設24か所の一つとして
②7月31日から「下京・京都駅前サマーフェスタ2025」が
開催。東本願寺、西本願寺、興正寺(サンテラ)と合同で。
「下京サンテラ朝参り」「下京サンテラシネマ」など。
③恒例となった御影堂門桜上の公開。
④京の夏の旅」東本願寺渉成園の燕申堂初公開。9/30まで。
夏の京都観光はさぞかし暑そう・・・ただし私は④燕申堂はこれま
でお目にかかったことはありません。
幾度も渉成園を歩いていますが・・・燕の釘隠し・・・興味をそそります。
画像は京都市観光協会から渉成園の燕申堂の図。
2025年
7月
25日
金
ドラマ「蔦重」 今にリンク 瓜田に履 李下に冠
相変わらず東北に北海道が暑いようですね。
39℃になった場所があったと聞きます。
全国的にその傾向にあることはわかりますが、北海道の39℃という数字には圧巻です。
当相良は昨日もドP感の青空でしたが、33℃になったかどうか・・・そしてエアコン設置が当然という感覚にない北海道のてんやわんやが報じられていましたが、39℃のエアコンなしの環境を考えると、さぞかしそれは「地獄」なのでしょうね。
そんな夏が毎年続くとすれば・・・エアコン屋さんボロ儲けか・・・
扨、大河ドラマは選挙のせいで1週お休み。
田沼家崩壊の直接原因の最たる事件が勃発してしまうわけですが、そちらへの導入部分その一因としてあったのが米高騰による市中不安定。
庶民、社会の不安材料は天変地異の数多の中でも「食の不安」へより傾くということは古今東西お決まりのこと。
最近は現代の米価格高騰の件、「令和の米騒動」と形容されるなどその対策に政府が農水大臣のクビを据えかえるなどいろいろ、右往左往の様を見せていましたが、結局その諸対策は国民に評価されなかったということでしょう。
選挙結果が物語っています。
その食の不安について一種のカラクリのようなものを庶民は感じているわけですが、前々回のドラマの中であたかも現代のその状況の件、示唆しているが如くの台詞がありました。
ドラマの一場面が選挙の投票行動に繋がったなどと言うつもりはありませんが、その台詞に「そうだ! そうだ!」と合点迎合した方は少なくなかったのでは・・・。
それが蔦重と太田南畝の会話です。
太田南畝 「ほんとは米なんて余りまくってんだろうな」
蔦重 「とすると この値上がりってのは・・・」
太田南畝 「米を持ってる連中が売り惜しみして値を吊り上げ
てってとこなんじゃないか・・・」
それが正論だとすれば、無茶苦茶「ボロ儲けしているヤツがいる」ということ。
そしてその連中が政府とウラでつるんで価格を操作している・・・などとその恨みつらみの方向に針が動いてしまうワケで。
先日は、お寺に「お米を分けて・・・」と訪れた御門徒さんがいらして、その時は一旦はお断りしたものの後日それを仰るからには余程のことと思い、ゲットした米のうちの少しばかりを届けにあがったことを記しましたが、他にも御門徒さんでない方でその「米を・・・」を理由にそれを所望されて寺に来られた方がありました。
以前その息子さんに境内の雑作業を依頼したことがあった縁ではありますが奥方はその際ボソッと「その家のお寺さんに行ったのかえ~?」。
私は「いろいろあるんだろ・・・」
米は昔の如く年貢として頂いているワケではありません。
私の子供の頃にはそのぽつぽつありましたがね。
奥方はお米はないが冷凍庫に保存してある餅ならばと提示、それを持ち帰ったとのこと。
令和の米騒動、なかなかその切実というものを思わされた件です。
そういった庶民があることを赤坂に生息する永田町のじいさんたちはご存知ないでしょうね。
その件に加えて、「政治とカネ」について未解決、庶民未消化の躰ではね。
画像は広報まきのはらの7月号から。
NHKローカルでその放映がありましたが、冒頭少々はしゃぎ過ぎ?を思わす人がありました。
あとからその方が市議会議員さんだったことを知りました。
トークショー参加が高倍率抽選ということもあり、そのようなカタチでの露出は、軽率の謗りを免れないでしょうね。
何と言ってもテレビで放送されてしまいましたから・・・
「定員500人の箱で何人の招待客を設定しているのやら・・・」とその運営についての疑問の声があがっていました。
正当な当たり籤を引いたとしても、秘かなる議員の特権というものの存在を推測してしまうのが庶民感覚です。
だれもが「狡い」と思うところなのですがね。
「瓜田に履を納れず 李下に冠を正さず」。
2025年
7月
24日
木
わが心の善くて 殺さぬにあらじ 心とは
私は寝坊して朝の活動は8時から。慌てて本堂入口の閂を外しました。夜更かしがたたりました。
境内から奥方と静岡から草刈に来られて「一仕事終わって休憩中」だという秋野氏の話声が。
私の場合、草刈などは静波の墓地ですら放ったらかしの様でヤル気なし。
秋野氏は宅地近隣への配慮とのことでしょうが、まったく頭が下がります。
猛暑故の活動開始、静岡は5時出立だったそうですが、私なら帰路居眠りがでるでしょうね。責任感そしてその体力は凄し。
当地の天気は相変わらず晴天続きで私的には何をするにしろ満足ですが、涼しい筈である北の台地で38℃の猛暑の報せ、この世界、天変地異の様なのでしょうね。因みに相良は31~32℃か。
不思議なこと、人智を超えたいろいろ、自然現象含めて頻発しているような。
扨、昨日は夏目漱石「こころ」の一節を転記しましたが、そちらはお寺の掲示板にも貼り付けています。
基本私はご開祖の阿弥陀の教えというものは「私のこころ」を問うものであると承知しています( →「御ありがたさ 御うれ
しさを申す 御礼のこころなり」 )。また心とは・・・
結果的に他流(聖道門)でいう戒律徹底と修行、回峰、座禅などの「体力系」と対比位置となりましょうがそもそも当流の「私のこころ」に関して検討するという立場ですので他流でいう修行によって「仏(ぶつ)」に近づこうとすることに論うというスタンスにはありません。
称名念仏のみによって阿弥陀世界に触れて行こう(仏に近づく)とする私ども浄土門はあくまでも「私」そしてその「こころ」がテーマになっているのかと思うのです。
大河ドラマには田沼意次を追いやる先鋒というイメージが強い田安賢丸―松平定信を演じる役者が寺田心さんですが、その名の「心」についての命名について、大胆でありかつ人間の深みを意する言葉として特に印象深く感じます。
「私の心は難しい!!」ということがありますが・・・。
また苗字の「寺田」もしかり。
それは「お寺の領田」を意味しますからね。
本名でしたらそのルーツを知りたくなってしまいました。
①②難解で長めの歎異抄十三条からの一部をMIXして掲示板に。
③は浜松の繁華街、浜松城と浜松駅の中間地点辺りに出現した威風堂々。今年7月初旬に従姉妹が撮影した図です。
車の往来は勿論、人が行き来する場所ですからね。
これも首を傾げたくなるような現象、天変地異の一つ?。
2025年
7月
23日
水
トウモロコシと夏目漱石「こころ」 しずおか遺産
11時から涼しいところでTV野球観戦をと算段、それまでは会館の廃段ボール箱の整理やら次の工作の段取りを。
段ボールは先般纏めて納品された椅子やテーブルの梱包材です。まだ梱包を解いていない品もありました。
奥方が食料品の買い出しに行くというのでテレビ視聴は昼過ぎにやめ私の近々の工作に使う材木など部材の下見を兼ねて運転手として名乗りを。
浜岡のカインズには生鮮食料品とそのDIY部材たちが殆ど同じエリアに並んでいますので好都合です。
そちらで昨日地団駄を踏んで悔しがったことを。
車の中で待つつもりでしたが、車を部材売り場前から食品売り場近くの駐車場へ移動したためそちらから奥方の姿を追いました。
生鮮野菜の売り場でたまたまトウモロコシが目に付いたためその1本を手に取って奥方の買い物かごへ。
すると「今すぐ元の場所に返してこい」と。
「ロクな品は無いぞ・・・」というのがその理由。
普段はそれといえば150号線脇、片浜大磯の店でとれたてを購入していますが、一見したところその品は悪い物に見えなかったためその忠告を聞かず頑なにその購入を主張しました。
自宅に帰ってから奥方がそれの皮を剥いて溜息をつきながら「それみたことか・・・」。私も台所に駆けつけてそれを目撃一瞬間、凍り付きました。
虫食いと腐敗で茶色に変色して見るも無惨な躰でした。
豚も喰わないような・・・
「レシートとコレを持って今から返品クレームに行くけ?」と問われて、しょんぼり。私が悪かった・・・
1本200円程度のそれ、その徒労と比較すれば「泣き寝入り」の作戦が有効・・・ということで自らそれを納得させて諦めました。
捨て台詞として「二度とあの店で買わないから!!」でした。
いつもの支離滅裂思考の私はその件、トウモロコシの皮とその隠れた本質の様(「一見したところその品は悪い物に見えなかった」)から夏目漱石の「こころ」の一節を思い出しました。
トウモロコシも人のこころもおなじようなもの・・・外見と中は違い時として、機会によって大いに変質する・・・
主人公が先生に指摘された言葉を転記します。
「君は今 君の親戚なぞの中に
これといって悪い人間はいないようだといいましたね」
「しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか
そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ
平生はみんな善人なんです
少なくともみんな普通の人間なんです
それがいざという間際に 急に悪人に変るんだから
恐ろしいのです」
画像は昨日「こんなのできました」と教育委員会の方が届けてくれたQRコード。
本堂に置くものと掲示板ガラスに貼るもの大小二つでしたが、もう少し大きくても良かったかも。
①掲示板のガラス面に。
2025年
7月
22日
火
柳生城縄張り延長 芳徳寺 マイペース連休最終日
3連休最終日。昨日は法務もなくのんびりマイペースの一日でした。
炎天下ということもあって午前中はお墓参りの姿は殆どナシ。
ただし私の「宿題」の数点の進捗はアリ。
その宿題の一でもある草刈作業についてはそれを手掛ける気持ちには今のところはなれませんね。
テレビでは各局選挙結果のあれこれを報じていましたが、なんたって三連休の中日という、かなりの無茶振り日程にしたのでしょうかね。
国民に対する嫌がらせのような日と思いました。
「投票に来るな!!」の思惑が働いているようにも。
それが好都合との判断があったのでしょうね。
それには一瞬、投票率ダダ下がり・・・を思うのでしたが実際は、期日前に投票済み数多とあって蓋を開ければその作戦は大失敗だったよう。
その件どなたが得してどなたがハバ籤を引いたのかなど、お日さまの下で些末な仕事に集中している私には無関係ですがね。
夜間はNHK映像の世紀を。
遺された映像をNHKが発掘し、8K高精細カラー化映像の第1回目。凄い技術で圧巻そのもの。
今回の内容はヒトラー台頭の欧州、第二次世界大戦の始まり・・・
計算された「偉大な指導者」ヒトラーが何故にして国民の承認を受け独裁者の成立があったのか。
「詐術のパターン」が存在するのでしょうかね。
今思うことはその刹那の「成功」を再現しようと目論む輩を出すことは許されないというところ。
差別と略奪を以てそれを自らの利益と安泰にすること。
一旦それを享受常態化してしまうと人は・・・理性を見失う。
扨、柳生城。
その城のある台地は広大で一説にこの芳徳寺の寺域も柳生城の一画だったともいいます。
このお寺に向かうには車は下の駐車場に入れることになりますが、それは観光客用ですね。
一刀石手前の柳生霊園のお墓参りには細い道を車で登ることができますが・・・。
その道一つでお寺含めてお参りができます。
2025年
7月
21日
月
私の従姉妹は外国人 住むにイイが差別は感じる・・・
朝のドP感の空の割には本堂内の居心地は「それほどでも・・・」といったところでしたが、それはあくまでも私の所感。
それを法縁に参られた皆さんの前で口にしたら嫌味になります。よって皆さんの声には素直に「暑いですね~」。
「雨にたたられるよりマシ」ではありますが、その意見も封印しました。
法事が終わったお昼過ぎに叔父からの香典を持参して従姉妹の二人が来訪。本堂余間に鎮座する叔母の遺骨へのお参りです。
二人はそれぞれ違う領事館に勤めていますが申し合わせてこの暑い盛りに遠方よりレンタカーを借りて・・・
律儀な姉妹です。
昼食タイムに「選挙に行きました?」と振られましたのでその言を遮るように「あんたらはどうよ?」と聞けば「私たちに選挙権はありませ~ん」でした。
叔父はお寺の子ですが彼の地に赴いて現地で結婚、彼女らはそちらで産まれたことから日本国籍がないわけですね。
勿論現地での叔父の仕事は当流寺院の経営ですから従姉妹は当然に「お寺の子」です。
またその選挙の話から「こんなことがあった」と・・・
二人で街を歩いていると二人組の男からチラシを渡され、いきなり「貴女の信じる宗教は?」と聞かれたそう。
私に限って言えばそんなシチュエーション未だかつて無し。
人のいい彼女らは真面目に応答したそうです。
勿論「浄土真宗です」と回答。
するとその男の一人は「その宗派では地獄に堕ちますよ!!」と切り出したとのこと。
そこで「面倒くさい」を感じて逃げたといいますが私は逆に「お前もな!!と言ってヤレ・・・」。
私は淡々と彼女らに御開祖の「地獄は一定~」を持ち出して語り出したわけですが「そもそも怖かった~」で逆説教はしなかったそう。
その手渡された紙切れの出所について聞けば、「×▲学会」の例のフレーズが。私は「なるほどね・・・」。
選挙前ということで活発な勧誘があったのでしょう。
そして「女だから」(容易いカモ・・・)とナメられた?
都会は面倒くさい場所・・・まぁそんな輩、私なら「超無視」ですが。
ついでに彼女らが日本に居て一番息苦しいと感じるところを聞いてみました。
それが住居の件だそうです。
国籍が非国民ということだけでイキナリ拒絶されることが多く一度一所に定住したからには何か不便に感じたからといって気軽に部屋を替えることができないといいます。外人拒否の大家さんばかり。
そして集合住宅のトラブルの一はまず「ゴミ出しルール」というのが定番ですが、ある時その問題で近隣からクレームが管理会社に届き、担当者が来たそう。たまたまその姉に玄関前で遭遇、ゴミ出しの件質された際「このアパートには外国人が1人いますからね・・・」だったそう。
「それは私の事です」となって平謝りになったと。
従姉妹は「外国人」なれど顔はちゃきちゃきの日本人で日本語はペラペラですからね。
誰もが差別の心を持っていることがよくわかるエピソードでした。
海外の日本向けの詐欺集団など日本人ばかり、ゴミ捨ての無茶苦茶など拙寺水屋のゴミ捨て場をみても・・・そちらは100%日本人ですし拙寺駐車場には拙寺とは関係のない車が毎日の如く。
その手のルール違反者に外国人系の姿は皆無ですよ。
インチキをやるクセに不都合があると外国人のせい・・・
外国人=厄介な犯罪者とのイメージはまさにフェイクとしか。
それを信じる日本人・・・かなりお寒い短絡思考としか思えませんね。
あの詐欺フレーズ「地獄に堕ちます」の常套句を使う宗教勧誘者も日本人というのがお決まりです。
画像は昨年末に施設から連れ出した叔母と5人で行った鰻店。
叔母の絶対要望の店でしたがそちらで4人でお斎とあいなりました。店は相当の混雑、見たこともないような状況でした。
まぁこのようなことでもなければその選択はありませんでしたが。
②画像は従姉妹の仕事の一つ。外務省から領事の車を手配。
「車検はナイ」といいますが・・・その他、住まいの手配もするそうです。
70歳の定年は確定しているといいますから、日本より先進的なような。
2025年
7月
20日
日
聖徳太子「憲法十七条」十 国府別院居多ケ浜御上陸図
朝から将に本格的「夏」の到来を思わす空気。
この夏、かねてからその件、心に留めおいていた奈良の山歩きの決行についてこの夏の選択に躊躇しつつあります。
猛暑に関しては何とか対応できる自信ははありますが、暑さの中で集中力が落ちたところでの森、特にマダニへの対策、免疫力の低下からの発症のおそれがあります。
そしてまたクマ出没の情報です。
東北・北海道の各地でそのニュースが日々伝えられていましたが、このほど奈良県でもクマの危害を受けた人がいました。
北海道福島町の住宅街で駆除されたクマは二人の人命を奪っているとのことですが、体調は2m体重が200㎏超えといいます。
そのような巨大生物と山中で出くわしたとしたら・・・どうにも対応は不可能です。
体の大きさの割に俊敏のようですし、よく言われている「対面したら背中を見せず睨みつけながら徐々に後退・・・」など「できるものか!!」ですね。
その対応を以てあ奴らがスンナリ諦めてくれるかの疑心暗鬼。
何しろ万が一にもそのような恐怖は味わいたくありませんので夏の山歩き・・・やめるのが得策か。
しかし温暖化によって「冬でも冬眠しません!!」とクマさんは仰っているそうで。
昨日は非戦論者「高木顕明」の言葉を記しましたが今一つ仏教的、示唆に富んだ聖徳太子のことばを「十七条憲法」から。
やはり「憲法」は今と同様、庶民を抑えるものではなく、役人(政治家)どものその在り方について問うものですが「その十」は私どもにとっても重大な心のあるべき姿。
当流ご開祖が傾倒した聖徳太子の十七条憲法。
その十にはご開祖が好んで使った「凡夫」の語が見えます。
Wikipediaから「その10」を転記します。
「心の中で恨みに思うな。目に角を立てて怒るな。他人が自分にさからったからとて激怒せぬようにせよ。
人にはそれぞれ思うところがあり、その心は自分のことを正しいと考える執着がある。
他人が正しいと考えることを自分はまちがっていると考え、自分が正しいと考えることを他人はまちがっていると考える。
しかし自分がかならずしも聖者なのではなく、また他人がかならずしも愚者なのでもない。
両方ともに凡夫にすぎないのである。
正しいとか、まちがっているとかいう道理を、どうして定められようか。おたがいに賢者であったり愚者であったりすることは、ちょうどみみがね〈鐶〉のどこが初めでどこが終わりだか、端のないようなものである。
それゆえに、他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ自分に過失がなかったかどうかを反省せよ。また自分の考えが道理にあっていると思っても、多くの人びとの意見を尊重して同じように行動せよ。」
「なんとかファースト」とかの語が流行りものの様。
それを言いだす輩が国政に参加すれば・・・差別と瞋恚憎悪が蔓延、そして戦争(殺し-殺され 人殺しの連鎖)に繋がるのでしょうね。
画像は息子が5月の越後行脚の際にお参りした国府別院。
居多ケ浜御上陸の図は拙寺本堂にも同じものがあります。
拙寺のものは本通り小山千代さんが六角堂参籠図と対で寄進されたもの。報恩感謝。
2025年
7月
19日
土
会館用献花台とテーマ 高木顕明の言葉を借りて
朝方のポツポツは許容範囲、御門徒家による会館使用葬儀の記念すべき第一回目は滞りなく終了しました。
午後からは晴れ。関東地方が梅雨明けしたとのことでした。
施設入所が長かったということでしょう、ご家族の気持ちは「とにかく自宅で・・・」ということから通夜式はご自宅仏間でした。
そちらから拙寺無碍館への搬送は拙寺世話人が貸し出した軽ワゴン車。施設から自宅への搬送も会館から葬場への移動も同様でした。
前夜の通夜後の納棺についても私がアドバイス。私はそれへの対応のためのグッズを数点持参しました。
手づくり葬儀終了後、奥方が施主にちょっとした感想を伺ったところ「やりたいように好きに出来たがやることと、わからないことが多すぎて・・・」でした。当然でしょう。
それを全部プロの葬祭屋さんのサービスにおまかせし左団扇で過ごせるのが一般的なカタチ。
今回は親戚のみで皆で協力して動く「本当の家族葬」とでもいうべきものでした。
それでも男手が多く何事もスンナリと進みました。
まぁ、人の手が足りなければ拙寺御門徒有志を呼び寄せるだけですが・・・
私の昨日の天晴れと思うところは故人から100歳「年下」となる曾孫から花を手向けられていたところ。
将に奇特な瞬間でした。「凄い!!、凄すぎる・・・」
発見した新しいテーマは・・・お文箱と骨瓶を置く台を検討しなくては。
昨日は本堂から焼香台を持ちこんで対応しました。
扨、今年の8月15日は戦後80年ということでコールの鐘を撞くという新企画を催すことを記しましたが、鐘撞だけではあまりにもお茶らけイベントで終わってしまいますので、私として、真宗寺院としてのメッセージをさらっと掲示板に。
強い思いで戦争というものに体を張って時世に抗い、その意が「不適切」とばかりに拘束されて、政府に従順忖度した宗派からも「擯斥(ひんせき)」なる僧籍削除の処断を受けて獄中死した高木顕明師の言葉を。
掲示板の「 兵戈無用 」(仏説無量寿経)ポスターの隣に。
まあ、一つの「やった感」ですが。
今はその無茶な処断の件を反省した本山は後世、僧籍復帰という名誉の回復を処しています。
しかし僧侶として「人殺しはダメ」の仏の真意というものを口にできない時代、好きな事を言えない時代、でっちあげの不実で人の自由を社会なんて・・・
そういう時代に戻らせてはイケませんよ。
好戦的な政治屋というものはその発する言葉から類推できますね。孫子の代の「良き将来」を期待するために今回の選択からそれこそ除外消去しなくてはならないのでは・・・。
2025年
7月
18日
金
急ぎDIY会館用献花台の製作 ナチス党の如し
天気予報はハズレ、当地は雨の一粒もありませんでした。
むしろ太陽の出ていた時間の方が長かったかと。
朝は今年初、クマゼミシャワーかありました。
まだまだいつもの盛夏の激しさにはありませんが。
昨日夕刻6時から法務の予定があり。
そういう時は大人しく過ごすというのが定番ですが、とりあえず投票にでも・・・とのんびり構えていると花屋さんが葬儀用の花を会館に。
その件は承知していましたが私のイメージは「スタンド付き」でした。ところが実物は花瓶形式の生花。
それを「どちらに置けば・・・」と問われて呆然。
献花台という想定がなかったわけで、本堂から縁台を持ち込んで2個重ねにしてみたり試行錯誤色々。
布で包むにしろどれもこれも幅広すぎてしっくりきませんでした。
奥方は「とりあえず作っちゃう?」と振ってきましたので、夕刻まで時間もあることですしその件、合点。
ちゃちゃっと投票を済ませトンチンカンと15時前に2台の献花台を完成させました。
しかしまたその選挙ときたら・・・今回はナチスを彷彿とさせるような、また奇をてらったフェイクっぽい文言で衆愚の注目を集める輩が跋扈している感。
そしてネットだユーチューブだと以前と違う選挙活動が流行っているようですが、私はその手の物は一切見たことがありません。そんなものを視聴している人たちがたくさんいるというのは仰天なことでした。
まぁ、トランプが流行らせそして、その猿真似の如くのイメージ戦略に辟易。
我欲の主張を前面に押し出しまくるそれ・・・、選抜会の立候補ですから仕方ないかも知れませんが、私は聞く耳持ちませんし興味はなし。国会議員になってひと稼ぎ目論む奇抜の権化としか・・・。
ハイ、どうでもいいことですね。いつもの「勝手にしやがれ」です。
日々私の身辺いろいろのことでいっぱいいっぱいなのですよ。
途中、材料が足りなくなってひとっ走り。
そこの店で久し振りに会った方がありました。
以前拙寺の寺楽市に出店してくれたことがある人。
「元気そうじゃん・・・!!」と声をかけると、「元気じゃあねぇよ! 今病院から帰ってきたところだ」と。
聞けば、肺がんを宣告されて放射線治療の2回目がその日、「あと6回ある」の溜息。
そして「コレで治るとは到底思えない」と。
ただし年齢からして「進行は遅いので・・・」となかなか楽観的ではありました。
私も先日、その病の疑いからCTを撮影したばかり。
ただ私はセーフでしたが・・・
その方は喫煙は20年前にやめているそうですが医師の診断では経年とかつての喫煙習慣のせいと断定されてしまったと。
あまりの普通にしてさりげないボヤキでしたが・・・内心は半端ない焦燥感、辛さがあるのでしょうね。
私も明るく開き直れるか・・・まぁ「南無阿弥陀仏だから」ですね。
画像は会館の尊前に奥方がセッティングした生花。
急ぎ炎天下汗だくになって作った献花台×2の上に置きました。
手前の台はやはり自作の蓮台、棺の無い時は一人用の受付台。
無碍会館のお弔いでの使用、先日の縁者(叔母)を除いて、御門徒さんの第一号になります。
2025年
7月
17日
木
相良海水浴場海の家 海難供養会場から特養施設へ
9時からの海の家での法要は観光協会主催の海難供養。
相良仏教会寺院住職の面々が集合しましたが欠席者も。
それは盂蘭盆かつ友引の翌日というタイミングだからでしょうね。
しかし海は酷く荒れていましたが雨があがって私としてはまさにベストなタイミングでした。
一時は足元ずぶ濡れの覚悟はしていましたので。それはかつての記憶にあります。
海の法要の終了後私はすぐ片浜の山の上へ上りました。
前夜、日が変わった頃、御門徒さんよりそちらにある施設で106歳のお婆さんが逝去されたという連絡がありました。
お寺の「手づくり葬儀」(私の勝手に命名)の依頼です。
そのシステムはスタートアップしたてで、依頼内容も各シチュエーションも違いますので動きもまだまだスムーズにとはいきません。
連絡していた協力世話人さんと合流し施主さんたちの到来を待ちました。お迎えの件ですね。
私は施設正面玄関の受付に待機場所を伺いに「えい、やぁ」の覚悟を以て赴きました。
それは私の坊さんとしてのスタイルが場の雰囲気を害するのではないかという遠慮だったわけです。
数日前の叔母のお迎えの際は私服でしたが、その部屋に行くにあたり、多くの入所者とお会いしました。
案の定、第一声「お坊さんがお迎えに来てくれたことなど未だかつて無かった・・・」と驚いていましたが、そのあとスグに有難いことだと感動の声をあげてくれました。
たまたま、法縁の直後であり、それが無かったら私服で行くところでしたが。
当初は怪訝な顔を向けられるだろうが・・・と半ば開き直りの気持ちでの法衣姿でしたが、そこまで感心していただけるのならばもっと自信を持って、こういったお迎えの場に坊さん然とした姿での登場を増やすべきである・・・と思ったのでした。
まぁ、お寺への直接依頼があってこその各手配でしたが。
今回は通夜はご自宅、弔いは拙寺会館で行うことになりました。
御門徒さん同士、協力して事に当たり「家族主体で送る」。
移動搬送も世話人さんが貸し出した車を施主家に貸し出し、またストレッチャーが無くも男子複数のため移動は安易です。
叔母さんの体重は38㎏でしたが100歳を超えるとなると30㎏程度でしょう。
棺の重さを加えても男性二人で何とかなってしまいます。
問題はそれ以外の「重力」への対応です。
2025年
7月
16日
水
柳生古城 劔塚 旦那の実家 死後離婚に至らずも
案外と相良も雨が降りました。
静岡市内では「大風(竜巻?)の発生で車が転んだ!」のニュースがありましたがこちらはそれを感じさせない穏やかな雨でした。
ただし寺標近くの排水桝の詰まりが気なるところです。
まぁこちらは蓋を外しての清掃ができますのでカンタン。
雨が上がったら解消させることにします。
扨、嫁に出た叔母の面倒を私が看ることになったのは成り行きではありますが、私が当初こちらに入った頃からその雰囲気は叔母の口から出ていました。
年上の引きあげげ軍人の後妻として嫁入りし先妻の子がありますが、私はその人とは面識なし。夫の実家とも絶縁しての一人暮らしでした。
叔母の件いろいろ、相続権者の主張というものがあったとすれば面倒くさいことになるとは思ったものの、「その時はタノム」でしたし父からも「やってやれ」でした。
叔母は夫の逝去による年金で暮らしていましたが、叔母の家が借家であったことからその家の取り壊しについて地主と返還交渉となったことは昨日のことのように覚えています。
更地にして返すことは契約内のことですから仕方なし。
地主には「父の妹ということもあって交渉しているがそもそも叔母は叔母。相続とは無関係であるので私に支払い義務はなし。何時でも交渉を退きますよ~。
ただし叔母の親戚縁者は国内外に多数いて地主さんはその解消にきっと苦労するでしょうね~」と半脅しで話を進め、解体費用の半額を出してもらうことで手を打ちました。地主は都内在住で当地とは関係ない人でしたし・・・
最初から工事費全額の支払いは覚悟していましたが、どちらにしろその半額の支払いの出何処も叔母の財布でしたからね。
叔母のいろいろに携わったことで有益だったものは叔母の夫が拙寺から持ちだした古銭や刀剣を回収できたこと。
叔父は大陸から引き揚げてから仕事が無く、骨董屋稼業を。
いわゆる「窃盗・強盗・骨董」の類の仕事だった感。
頻繁に寺に来て小銭と引き換えに品物を持って行った姿は私も覚えています。
「子供はあっちにいっていろ~」とも。その記憶は鮮明です。
拙寺から預かるといって自らのお宝としていた備前長船など叔父の死後一旦はその実家の妹が持ち出して所在不明になっていました。
当時の叔母の頭はハッキリしていてかなり義妹を脅したのちそれを返却させていました。拵えは叔母が売却してしまいましたが刀が残っただけでも有難い。まぁ私が出入りしたことによっての成果の一番はこの刀が回収できたこと。
叔父は皇宮警察あがりの軍人で、そのような勉強をしたはずがないのにイキナリ軍医として大陸に。それには当時の軍というものの無茶苦茶・出鱈目を思います。
私はそのいろいろ、父・祖父からの口伝から叔父のイメージは勝新太郎の「兵隊やくざ」でしたね。そんなのに惚れてくっついた叔母にも呆れましたが。
その妻である叔母のいつもの言葉が「私は夫の(実家の)墓には入らない」「骨は実家(拙寺)に」でした。
ということは「他のいろいろタノム」ということ。
よってこれまでの叔母とのおつきあいを継続してきたわけです。
事が起これば機械的に連絡があって逐次呼び出されました。「(暴走気味の老人を)何とかしろ」的なものですね。菊川警察署からも2度ほど・・・
その「夫の実家の墓に入らない」「死んでまで夫と一緒は御免」なる世の妻たちの宣誓、遺言の件よく耳にするようになりました。そのために新たに墓碑・埋葬場所を設ける方もいらっしゃいます。
叔母も「冗談じゃあない」とよく口にしていましたが昔の考え方とは大分違ってきましたね。
それでいて叔母の最期の姓は夫と同じ。
その件どうでも良かったのでしょうが「死後離婚」という、やはり今、流行りだした縁切りの手段もあるのです。
夫婦別姓の件もありますが死んだらまた「墓をどうする」などの面倒くさいことに子供達は悩まされることになるのでしょうね。
ちなみに叔母は子供不在でしたので、こうなるほかはありませんでしたが私を息子として、奥方を娘として私の息子を孫として思っていたのかも知れません。
昨日は皆で叔母が死ぬ間際まで話題にしていた鰻をお昼に頂きました。
縁者の死後の後始末、今回もやるべきこと多々ありますがそれらが終わればいよいよ私の始末。
その前に奥方は「母がいる」と。
扨、画像は先日記した柳生古城の続きになります。
2025年
7月
15日
火
撮影は「さんたつ」(散歩の達人) コンパネ棺使用
台風発生のニュースがありましたので荒れ気味の天候を予想しましたが、朝から青い空が広がっていました。ラッキー・・・・
コンディションバッチリの叔母の弔いの日でした。
一昨日の通夜と同様息子が導師、参列は私と奥方のみ。
コレが真の「家族葬」か。叔母には家族がありませんがね。
ただ成り行きでずっと私どもが関わっていました。
以前春先に、叔母が救急搬送された際、「もはやこれまで」とコンパネで棺を作ったことを記しましたが今回その出番がやってきたのでした。
仏間にその巨体がど~んとばかりに座していて、その景色が日常の如く化していましたが、その出立によって以前の如くの空間が戻りました。
棺を作るのはイイのですが保管場所にはまったく難儀したということで。
そのMy手作り棺の使い勝手。
叔母の体重が38㎏と激減したため私と息子の2名で難なく対応できたこともありますが、材質耐力はまずまずでした。
火葬場ご担当にその燃焼について問えば、「なかなか燃え切らなかった」と。
それはコンパネではありますが「木だから」ですね。
高価な棺はどこにおカネをかけているかといえば、外側を覆うもの、生地状で装飾があり煌びやかなものほどお値段が張るわけですが、それらはまずハリボテ。
内部は空洞、要所支柱には木材を使用しますが内外部とも硬質の段ボール、紙状のもので覆うので「あっという間に燃える」そう。
そして棺の容量ですが、あの私の造ったサイズだと炉に納めるギリギリ。特に高さについて2/3~3/4程度で十分であることがわかりました。
そういえば通常の棺の下部には布団などが納まって(セット)上げ底風でしたからね。
もっともっと「へ~え」と思わされたこと。
私が火葬場ご担当に「今日は忙しいの?」と聞くと「今回と午後の最終の2件だけ」といいます。
奇妙なことと感じ「それは如何に?」と問い返せば「お盆だからですよ・・・」と。
まさに「へ~え」。
一昨日は私も息子も初盆法要があったわけで、彼とは「盂蘭盆会のあれこれの説明はまぁいいが、真宗的盂蘭盆の迎え方として
南無阿弥陀仏の心について示すべき・・・と論じていましたが世の中の感覚の相違について改めてここで知らされたのでした。
門徒坊主の考えに及ばないところ、これも門徒もの知らずか。
しかしこの暑い盛り、日延べする意味があるのか疑問です。
まさか葬祭屋さんの念押しがあったり・・・など穿った考えも浮かんできます。
この時期の日延べは一日辺りの冷暗所の使用料あるいは保冷にそれなりの金額が加算されることは必定。
東京辺りでは実際に利用者が多いことからの順番待ちが1週間以上になるようですから「お盆だから」は通用しないでしょうが。
この地区のその日延べに関して大抵、「お寺さんの都合」というのが先ず第一ですので「お盆だから」と重なれば、相当のインターバルを覚悟しなくてはなりません。
私は秋の「祭典時期だから」の葬祭日延べについては承知していましたがここにもその禁忌があったとは・・・
拙寺に「お盆だから」はありませんのでその思考には新鮮かつ驚愕を思いました。
ちなみに7/15は友引。その友引禁忌についても私は理解しがたいところがありますが、明くる16日の相良海水浴場の海開き、海難供養のイベントへの参加寺院のキャンセルが複数ありました。葬儀の集中日になってその日の火葬場はきっと「火の車」になるでしょうね。
ちなみに昨日は職員1人対応でした。他のお二人は2連休ですね。
世の中、というか私の周辺には、雑念、「雑行雑種自力の心」に如何に取りつかれているか・・・。
よって「無碍」(会館名)の主張をしているわけですが。
扨、一昨日の昼に来られた取材撮影は「さんたつ」から①。
エリアは首都圏限定のようですが蔦重かかわりで相良まで。
「散歩の達人」のことですね。
アップされるのは「選挙の週の次」と仰っていましたが・・・
意知の死にあわせるという算段か。
②は昨日午前の相良の空。14時頃から西から雲が出てきて雨に変わりました。しかし雨は大したことなし。
③は炉前の叔母さんの棺。インチキ葬儀社(私ども家族)は時間が無くて叔母の写真を作るのを忘れました。ただし以前は写真などありませんからそれに拘る必要なし。
④は妹の家に行ったシロキイロの娘たち2匹のうちの一匹、妹の娘の子たちに囲まれてビビっている様。ネコは子供が大嫌い。
⑤⑥は息子の家に行ったシロキイロの息子と先住ネコ。
ちびキイロはマンツーマンマークで「絶対に離れない 時に足に喰いついてまで・・・」と。
2025年
7月
14日
月
初盆ピーク+α の日曜日
海の方から何やらかの騒ぎの様(イベント?)が朝から夕刻過ぎまで休みなく聞こえていました。
まぁ雑音の類・・・もう少し近い場所なら・・・騒音ですね。
私どもの昨日は今年の盂蘭盆シーズンのピークか?とも思えるくらいよく動いた一日でした。
午前の法要前に前日の盂蘭盆会寺楽市で売却済みの家具類の搬出があり世話人さんらが集まっていましたが、私はただ軽トラを用意するくらい。
法要前に汗だくになれませんし今後の対応を模索しなくてはならない相談の電話も入っていました。
午前の法要のあとに午後の法要がありましたが、その午後にもう一件息子が導師となる初盆法要が会館で勤まりました。
日時指定とのことでしたが本堂が使用できずやむなく会館でお願いしたわけですが先方はむしろ「涼しくて良かった・・・」です。
それに対して今節本堂に上がる皆さん方、扇風機に吹かれつつもぐったり感満載。
奥方は「本堂に上がるのも命がけになるのでは・・・」と。
会館とは雲泥の差の環境です。
会館ホールのエアコン2機は物凄いほど効きが良く1つだけの稼働でも外の酷暑は感じませんからね。
法要と法要の間、昼すぎには本堂の取材撮影がありましたがその日の最大なるテーマは叔母の移動と通夜式の勤修でした。
本来ならば叔母には会館の棺に納めて待機してもらところですが、タイミングとして法事が重なってしまいました。よって一昨日は庫裏奥の仏間に。
そちらのエアコン冷気の下で一晩休んでもらっていました。
念の為、少々の保冷剤を脇の下、胸の上に。
昨日の段階ではそれでまったく問題なしでした。
扨、私の場合(個人レベルで御文の選択は違っていいと心得ています)、初盆法要の御文は五帖-十六(白骨)ではなく五帖―九<安心の一義>と決めています。
「心の安寧」こそ念仏・・・というところですね。
昨日は叔母の臨終前の私の叔母へ投げ掛けた言葉「南無阿弥陀仏だね」の真意をこの御文で解説してくれているよう。
「安心」(あんじん 安きこころ)それが日々の私たちのすべて。それが「南無阿弥陀仏のこころ」ということで。
五帖―九 <安心の一義>
「当流の安心の一義といふは ただ南無阿弥陀仏の六字の
こころなり
たとへば南無と帰命すれば
やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに
『南無』の二字は帰命のこころなり
『帰命』といふは 衆生のもろもろの雑行をすてて
阿弥陀仏 後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし
このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして たすけましますこころなり
これによりて 南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに
南無阿弥陀仏の六字のすがたは すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり
されば他力の信心をうるといふも これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり
このゆゑに一切の聖教といふも ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり
あなかしこ あなかしこ」
画像は庫裏から会館へ移動する頃の境内の様子。
軽トラの屋根に佇むキイロシロ。
ハイビスカス①もマンゴー②も絶好調。
2025年
7月
13日
日
まぁ いろいろある 盂蘭盆会法要 叔母逝去の件
昨日の盂蘭盆会7月の法要の「おはなし」のテーマは昨年に続き「認知症」。猛暑にはなかったその日の堂内は扇風機三台でまったくOKでした。
「認知症になっちゃった」がサブタイトルでしたが春先に認知症を宣告されて免許証を「剥奪」されたKさんが自身の一旦の失意と家族のおかげさまについて。
そして、その進行を遅らせるためのチャレンジ精神を話されていました。
どうやってその重症への進行を遅らせるか・・・Kさんそのものを見ていれば判ります。
表に出て自身のネガティブ状況を恥ともせずにあからさまに公言、要はすべて前向き、家に籠っていないで人とのコミュニケーションを維持し続けること。
楽しく面白く生きるということですね。
それには家族の協力が不可欠ですので、日頃から家族というものへのウェイトを高くしておかないと・・・。
そもそもの発端といえば奥さんから検診を勧められたからだそうです。頻繁に「今日は何曜日?」を聞くようになったから・・・とのことでした。
当人はまったく問題というものを感じていなかったようですが。
独りで居てはわからないこと、指摘を受けて初めて気づかされること・・・耳を傾ける・・・大切なスタンスです。
寺楽市は大層な物品を並べましたが中でも懸案の品々は終わってみれば1台のテーブルを残して殆ど捌けました。
残ったテーブルは5人がかりで運ぶような「バカ」がつきそうな大物で、購入すれば10万20万の声を遥かに超えてしまうようなもの。
いろいろな方々に声掛けしていましたが皆さん一言「置く場所がナイ」。そりゃあそうだ・・・
ちなみに「3人がかり」の比較的重量の軽いテーブルの方は椅子とセットで1万円で購入された方がいました。
やはり「バカ」が付きそうに重たい棚は1000円。
値段の設定も超イイ加減。
水琴窟と木彫りの狸は講演のKさん家族がお持ち帰りになりました。
ちなみに水琴窟は中古品ながら元は4~5万円はする品、狸は彫刻家の前島秀章作。500円で売却決定したのち狸の裏側に作者名が。
まさに「掘り出し物」と喜んでいました。
像の陶器の置物は500円とのことでしたが、こちらは私が欲しかったもので「もし残ったら・・・」と心得ていましたが朝一番で手が挙がってしまいました。まぁ私の出る幕はありませんね。
開式は10時でしたが、丁度そのころ庫裏にその日2度目の電話が。
叔母がお世話になっている施設からで「息を引き取った」との訃報でした。
Kさんのお話の最中にその報を耳にして仰天。
「早い!早すぎる!!」の感。
それが先日叔母と面会したばかりでしたから。
叔母の終末ケア、看取りについての意見交換会について記したばかり。
昨日ブログの相良海岸の青い海の図はその面談の帰りに寄り道した時。
あの際、「スグにというわけではありませんが~」と、色々な担当者から幾度もそれを前置きされて話を進められていました。よって、半年から1年は「楽勝だろう」などと奥方と調子にのっていたわけです。外出もOKとのことでしたし・・・特養に住処を変えるという選択肢もあったくらい。
叔母との面談の際も私と奥方の名を応えてくれていました。
私の手を握って「家に帰りたい」と言っていましたが、私は叔母さんに淡々と語りました・・・
「叔母さんは門徒の寺の子 南無阿弥陀仏だよ。親父(叔母の兄)もお袋も先に往って待っている。叔母さんも俺らより先に往って待ってて・・・」と叔母に向かって、手をあわせて称名。
すると叔母は沈黙して私を見つめていました。
最後に「またくるよ」というと「ありがとう」という返事はありましたが。
その晩から一切食物を口にしないようになって(翌日その旨施設より連絡あり)昨日朝も、血圧が低下傾向にあるとの連絡が。
その2時間後の出来事だったわけです。
私はこれこそが理想的な臨終の姿であると思いました。
叔母の「即決」だったのでしょう、引金を引いたのは私か。
しかしそんなことがコントロールできるの?
現状、臨終の床に坊さんを呼んで念仏させるといった試みは無いに等しいですからね。まさに古い形式を踏襲したような。
たまたま双方とも「お寺の子」だっただけですが。
また92年生き抜き今、体力が衰弱し最期を迎えようとする者に何を「ガンバレ」などと言えるものでしょう。
いいのです。
南無阿弥陀仏が・・・その言葉にハッと気づいたのでしょうね。
画像は叔母を連れ戻って本堂阿弥陀さんに報告の図。
そして寺楽市展示物の一部。
プライスはすべて「なんちゃって」。
実際の象の陶器の販売価格は500円でした。
2025年
7月
12日
土
東柳生バス停 古城山 余計な思い付きとトラブル
天気予報の通り、当地でも少しばかり雨が降りました。
関東のドカ雨とは違ってまぁほんのお湿り程度。
朝方には路面は乾いていました。
翌朝の東京の気温は前の日から10℃近く下がったようですが境内はそれほどの涼しさは感じませんでした。
朝方は会館工事用の電源が撤去されてから放置していた敷石の敷きなおし作業。土嚢袋が劣化して破れ、無意味な作業もありましたがうまいこと完了。
朝一は魚才さんから「あんぱんが食べたい」との電話がありました。私は「お安い御用」とばかりに昼前に2個購入して届けました。
魚才さんの家とパン屋とは目と鼻の先の距離ですが、車椅子で向かうことは全ての事が難儀であることは承知するところです。
ついでに「お願いがあると」のことで部屋まで。
テーマは二つ。
①ゴミ取り用の粘着ロールを「ひと巻捲る」
②トイレのサッシ窓の網戸を「閉める」・・・でした。
それほど私どもが難なく普通になしている生活の一一、それが難しいテーマとなること、そういう人が居ること・・・魚才さんがいなければわからなかったことばかりです。まさに弥陀の光明。
どなたも健常の時はそういうことが判りにくい。
その時になって初めて気づくものですね。
午後からは盂蘭盆会法要に急きょ寺楽市を開催することになったことから、総代さんらを引き連れて再度魚才さんへ。
8月末頃に魚才さん宅の解体工事が始まるようで今度は2階から楽市用に提供いただいた重量のある高価そうなテーブルを必死の形相と溢れ出る汗をぬぐいながら皆でおろしました。
天気予報では夜間の雨は無さそうですが、それらを境内に放置したまま解散・・・ぐったりで何もする気になれませんでした。
皆さんもお寺の役員としてこのようなリスキーな肉体労働をさせられることをどなたが想像できたでしょう。
足が痛い、腰が痛い・・・の不調を抱えた年頃のみなさんです。
お寺の、私のお遊びにお付き合いしていただいて申し訳なく有難く・・・
扨、柳生城について記しましたがそれ以前の古城の方へ。
城郭大系から。
柳生古城(ふるしろ)
「柳生古城は柳生城の北方600mの山上にある。
北の笠置に抜ける南北路と狭川・阪原・柳生・邑地を結ぶ東西路の交差点を眼下に見おろす要衝の地を占める。
柳生城が柳生郷を支配するための居城であるのに対して、こちらはもっと広域の戦略の一環を担う番城の性格を示している。
天文十三年(1544)に筒井勢の討伐を受けた時の記事で、本城よりさきに落とされた外城として見えるのがこの城かもしれない。」
一昨日、青空に喜んで奥方と相良海岸に寄り道した図。
ついついうっかり駐車場の端の砂場に入り込んでしまってスタック。軽自動車の二駆であることを忘れていました。
運転を奥方に、私は後方でここでもヘロヘロになって車を押して脱出することができました。
まぁ余計で無意味な疲れを蓄積させています。
まぁ自宅まで歩く手間はありますが、牽引ロープと四駆で対応するという楽観、どおってことないトラブルではありましたが。
2025年
7月
11日
金
柳生 天石立神社と一刀石 自然石としては一見の価値
気にしていた青空が広がりました。
梅雨明け宣言以来「晴れ」の予想があっても何故かスッキリしない空でしたからね。
遠くの方からニーニー蝉の声があって愈々本格的な「夏」を感じることができましたが、夜間は雨予報がありました。
ただ当地の天気予報は気象庁といえども難しいようで、最近は外しまくっています。よって夕刻にはしっかり植木に水やりを。
ただし関東のドカ雨は大当たりでしたね。
午前中は仕上げなくてはならない木工作にかかりっきり。昼頃には何とか完成しました。
実は先日の私のCT検査のドタバタと同タイミングで奥方も再検査の指示を戴いていました。そちらは肝臓のCT検査ですが、昨日はその結果が出る日。
ちなみに奥方の画像撮影と検査結果のタイムラグがあるのは町の医院経由だからです。
私が大工仕事をしている時に、奥方が帰宅して第一声、再び「ラッキールチアーノ」。
今回、私ども同時に再検査とあいなったわけですがどちらも一番ヤバそうな病についてはともにセーフということで。
まぁ、こういう時こそ己の事、安堵の声として「運がいいことに~」となるワケです。
それは他人様の超絶不幸を論いそれを免れた事の諸所の事情に使用する表現ではないことは私の如くの凡人としてもあきらかだと思いますが。
おエライ方の考えていることは違いますね。
午後からは叔母の施設で面談。
いよいよ終末医療への移行です。
その「しょうがないねぇ~」について私の意見を求められ、施設側とその方向の共有を図った会でしたがその私の回答は「自然に・・・」でした。
食が細くなり体重も激減した叔母はかなり衰弱していました。
まぁ柳生の名所ということで・・・
全国的にその手の奇岩は見ることができますがやはりあれこれの伝承が添えられていること多いです。
柳生・・・剣豪ということですね、あたかも刀で一刀両断にしたかのような石塊が。
私は自然(つまるところ「自然法爾」)、「おまかせ」という思考に物事を落ち着かせますが、まぁこちらは不思議、切れ味鋭い刃物を連想してしまいます。
2025年
7月
10日
木
間抜けな詐欺電話め 時間の無駄 柳生城
週半ばの法事には奥方はちょっとした苦虫。
大抵の法要がある土日の間ということで夏場の生花の件が問題だとのこと。要はその依頼を受けた「私が悪い」ということ。
法要が土日にまとまれば尊前の花が生き生きしたまま勤修できるというわけですが、夏場は一日一日と枯れ、萎れていきます。
前日に新鮮なものを追加する手間が増えるということのよう。
坊守というもの、その名の如くご苦労があるものです。
私はその意に介せず・・・
そしてまた昨日もあのクソ電話がありました。
その前日も二回。
あきらかにオカシイと思う見た事もないような番号でそれが「979-05287-7※※3」。
一応応答してみれば自動音声。「こちらはNTTです この回線は2時間後に遮断されます・・・詳しくは1(ボタン)を押して・・・」というもの。
一言「バカヤロウ」と呟いてブチ切ってやりましたが世の中の善良なる皆さんは真に受けてしまうのではないでしょうか。
私はその1ボタンを押すことなくおしまいにしていますので、その後のことは分かりませんが、まず間違いなく詐欺電話の類でしょう。
やはりその「2時間」を待ちましたが回線は繋がったままでした。手を変え品を変えの間抜けな詐欺話、付き合っちゃあいられませんね。
今自動音声で一方的に何か話して来たら・・・即切りを。
聞いているだけ時間の無駄。
扨、昨日は「奈良へGO!!」の如く私的に、勝手に盛り上がったわけですが今一度柳生に戻らせてください。
こちら柳生における春日大社からの街道筋にあった正長一揆(1428)の件、疱瘡地蔵の岩に記されている碑文について記しましたが、あの記述は当地の歴史を知るうえで結構に史的に有名なものです。
「徳政」の史実についても興味深いものがありますし記された
「正長元年ヨリサキ者(ハ)
カンへ四カンカウニ
ヲ井メアルヘカラス」
の(春日社領)神戸四箇郷(大柳生庄・小柳生庄・阪原庄・邑地庄)との
記述からしてそれらはかつて相互に団結して生き抜いて来たことが推測できます。
時に春日社に対しても抗ってきたようです。
柳生の陣屋から見て打滝川の川向うの丘には芳徳寺がありますがその周囲の丘伝いが柳生城(場所はこちら)になります。
以前拙ブログで記した柳生墓地(埋め墓・詣り墓・受取り地蔵)がその南側にあたります。
その四箇郷を纏めていたのは山中衆と呼ばれる土豪。
対立する筒井氏の成身院と古市氏との混戦期を纏まってその共同行動を続けていたようです。
その中で古市氏の勢力下の史料(城郭大系より)に在地土豪の名として西北部に狭川・蔶川そして柳生に土着する小柳生氏の名が出てくると。
こちらは小楊生郷という呼称もあり柳生家の伝承によれば出自は菅原氏で長暦元(1037)に関白藤原頼通が神戸四箇郷を春日社に寄進した際に永家なる人が小楊生郷の荘官となってその子孫
が柳生氏を称したといいます。
柳生氏を名のったのは(当初は小柳生氏)宗厳の父の家厳の頃で
宗厳・宗矩の父子の時代は当初松永久秀側に付いていましたが久秀が筒井順慶に辰市城で敗れて以来、秀吉の天下の間は没落停滞しますが、徳川家康の選択によって家運は一気に上昇したといったところ。
大和国人衆はその殆どが筒井氏に順応して没落するか豊臣大坂側について滅亡したという中、この柳生氏のみが大名として、幕府剣豪指南・諜報活動特化した「家」として名を残しました。
時代劇好きで柳生の名を知らない人はいないくらいです。
城郭の縄張りをこちらの丘全体とすれば芳徳寺や現在の霊園を
含めてかなり広大なものとなりますが、この柳生城として今残るそれらしさといえば、画像の残存する空堀や切岸らしき崖程度のみでしょうか。
この時は冬でしたが、草ぼうぼうの藪の中。
他所は開削によってその面影は無くなっているかと。
2025年
7月
09日
水
遊びにgo 奈良名所 龍田詣 耕書堂 ハッピー月間七月
午前の少々の時間は大工仕事。
相変わらず真夏の直射日光と真っ青な空は見えませんでしたが湿度と温度が高く、汗をあまりかかない私でも、昼前にはシャツを脱ぎ捨てて着替えるくらいでした。
お昼は奥方が金谷の景色のイイ気の利いたお店でランチを食べさせてくれるというのでその運転手。
前日の上出来の結果をいただいたことへのちょっとしたご褒美ですね。
本格的な病とのおつきあい生活が始まるともなれば、双方生活が一変してしまいますので、まぁお祝いのランチです。
先日来、免許証の次の書き換えが「5年後」ということでその
「5年の生存」が私の当面のテーマになっていました。
例の「そこまで生きながらえるつもりか・・・図々しい・・・」ですね。
その結果次第ではスグにでも本格的な息子への各移行作業に着手しなくてはならないほどでした(まずは本山での息子の住職研修の段どり・・・)
ということで人間の命のことなどはまったくわからないことではありますが、その診断結果により、まずはその免許更新の「5年後」については何とか目途がたった余裕というようなものが生れたのでした。
この件、今私が想うお偉い方々の終焉というものが見届けられるかも・・・という期待の発現ありますね。
それが習近平72歳、プーチン73歳、トランプ79歳の「その時」とその後の中国、ロシア、米国の様を見届けられるかという期待。
ひょっとして健康不安説など見え隠れする皆さん、私の「5年生存」以上に怪しいのかも知れません。
どこからか鉄砲玉(弾)が飛んでくるかも知れず。
御一同、独裁意識が強い方々で、そういう「人」というものはまず齢を重ねていけば他者というものを一切信用できなくなるもので、しばしば「臣下」「配下」の者たちを失脚させて首の入れ替えをするものです。それ歴史でもあります。
そんな時の首領さまというものはまず「横領」「着服」といった曖昧かつ周囲が納得する理由をあげて処断します(内実はおそらくそれとは違うものでしょうね)。
要はそれが出現したとすれば如何にも終末的であるということです。
中国とロシアの御仁にはその傾向が現れだしました。
米国の方も財力をもって支援していた「家臣」がこのほど反目の狼煙をあげています。面白い。実に・・・
5年以内にそれら組織の瓦解と終末をこの目で見てみたい。
そんな楽しみが増えたのでした。
欲を言えばあの若き北の白馬の御仁の方も・・・如何にも私以上に不健康そうです・・・。
私は煩悩の塊、欲深く自らのひとまずの延命「与生」にお墨付きを頂いた今、その件期待として頭に思い浮かべています。
人には寿命そして運・不運があります。それは当たり前のこと。
他者の死を望んでいるワケではありませんが、ただ色々と見届けたい。
そしてより人生を面白くするには私がただ健康にして与えられた命を生きながらえるだけです・・・ただしそれも確証はないところがミソ。
まぁ5年は楽しみたいものですね。
とにかく嬉しいこの7月。私の誕生月でもあるだけに、この度
思いがけない「普通」というお達しをいただいてお気楽気分。
ただし誕生日を祝うなどの気持にはあらず。
正月に一つ齢を重ねるカウント方法が好みですしそれも一休さんは「目出度くない」ことを示唆していました。また別に「ちうくらい・・・」の表現もありましたね。
画像は先日のM氏所有書籍の他一つ。
耕書堂の「龍田詣」。
私の好きな奈良のカンタンな名所案内ですね。
それを江戸で手にした人は「行ってみたい」の願望が。
元気でないと奈良にも行けませんよ。
2025年
7月
08日
火
7年7月7日 ラッキー ルチアーノ 脳と肺
昨日は晴れ予報ではあったものの一日中お日さまは顔を出さなかったような。
それでいて気温・湿度は半端なし。34℃程度だったと思いますが直射日光が注いだらどうなるのでしょう。
ただし私は8時から11時過ぎまで涼しい場所にて。
そこへ入る前に初めてクマゼミの声を聞きました。
夏の蝉といえばまずはニーニーゼミ→アブラゼミそしてクマゼミという順序だと思っていましたが「あの世界」もかなり今の気候には困惑しているようです。
その私が涼んでいた場所とは榛原病院の1階の奥まった場所。
先般の人間ドックの再診に訪れました。
再診ですから予約なしの突撃訪問。
人間ドックの付録、医師による所感で「汚い」と断じられた肺のCT検査が目的です。
また面談の際、2021年に脚立から落ちて救急搬送された際のCTとの比較をされていたのでしたが(その際は殆ど全身に近い撮影)、経過観察の意もありそのCTでの検査を勧められたのでした。
ということで「お頭の具合も診てもらえばGood」と思いその旨総合内科の窓口で告げると、「それならば・・・」とトントン拍子で事が進んで行きました。
当初当方奥方は「月曜日に行くなんて・・・」とその相当なる混雑について指摘していましたが。
診察時間が思いのほか「早い」と感じたのはなぜかその日は脳外科の先生がいたこと。別の日に改めて来院するつもりでもあったのでしたが。
それも私の名が呼ばれるまで気付きませんでしたが総合内科のまさにお隣が脳外科でした。
それぞれの医師の「問診―CT―結果発表」という流れですが、そのわくわくの検診結果、懸案だった脳の血管の不具合、肺の悪性新生物質の有無についてオールセーフでした。「全く心配ない」のお墨付き。
そして昨日の医療ハシゴ(内科と脳外)の代金が意外にも低額で5100円也。CTは「一連につき」ということで脳外の撮影についての支払いはなかったようで・・・
拾った野良猫を獣医にひょいと持ち込んで目薬と風邪薬を貰って来ただけで7000円。
それで私自身の安心が得られれば安いもの。人間ドックの再診ということでしょうが、その検診を行ったことの付加価値、サービスのようなものか。
直前まで肺の件、奥方からそのステージは如何にと、どうこうといわれ、「その時は美味い物(鰻)でも喰ってくれ」とのお達しでした。今回の結果につき「鰻はなくなった・・・」。
それにしても当初人間ドックで指摘されていた「肺がきたねぇなぁ~」は何だったのでしょう?
内科医に事前に「肺のCT」の目的を問い合わせていました。
医師は「肺がんの存在」とハッキリ言っていましたので私はいよいよ「年貢の納め時」の気持ちが広がっていたのでした。
まぁ結果良ければすべてヨシ。念には念をということで。
他のデータ、血液も肝臓もあまり良いとは言い切れない数値でご指摘を受けています。
食生活と運動不足もケアしていかないと・・・
窓口で指摘を受けました。「内科も外科も今日でおしまい お大事に。しかし眼科の指摘はどうするの?」でした。
眼科の「測定不能」とは一体何?
視力も落ちているようですし次は眼科に向うことにしようか?
先日も免許証の更新の際に記しましたが、5年後の更新についてを心配することが如何に無謀であって無知を思います。
毎年劣化が進んでいるという現実です。
とにかく脳と肺に限って「ラッキー ルチアーノ」奥方の台詞。
2025年
7月
07日
月
御江都常盤橋御門~本町筋北へ八町目通油町 耕書堂 商賣往来
一応は良きお天気とは言えるのでしょうが相変わらず薄曇りの時間が多く、イマイチ「夏」というイメージが沸きませんね。
蒸し暑さはそれなりですが。
何より蝉の声が聞こえないということからでしょうが、彼らのお目覚め時間は気温やら梅雨期の長短に関わらないということでしょうね。
境内は蚊の襲来はあってもその夏の風物はまだ。
24H営業のドラッグショップに営巣する燕たちは日没後も張り切って飛び回っていました。
店の照明に誘引される虫共は捕獲し放題。燕の親たちも24H飛翔というわけにはいかないでしょうが、みんないつも満腹で子の成長も早いでしょうね。
ここにも一所懸命の「一所」を思いました。最高なる住処か。
昨日午前は御納骨がありましたので、この早い梅雨明けの件、好都合でした。
堂内では今年初めて大型扇風機のスイッチをオン。3台稼働で堂内の高温多湿を皆さんに我慢いただきました。
納骨に関しては石工を依頼せずご家族若手衆の手にて。
納骨形式については各仕様の違いがあって一概とはいえませんが、その作業に関して事前に「出来ますよ」とお墨付きを。
よって私も法要前にそれ用の準備をしていました。
そして3人の若い衆に納骨室前の石を取り外していただいている間、他の参列者にはエアコンの効いた会館で待機していただきました。
納骨、読経焼香後は再びその3人衆の手で復旧作業を。
接着用のモルタルは拙寺の在庫品。
手筈、方法についても後ろから私の適当な言でしたが、奥方にもあれこれと動いてもらいながら無事に仕上げることができました。
これまでそういう場合、「接合工事は後日」というのが常でしたが今回の「皆さんは会館でしばらくお待ちを・・・」の待機ができることは大きな違い。
まぁご家族縁者の中で故人の為に一汗かこうという気概があればのことですが。
事前にその件ご相談をいただければ対応していきたいと思います。
お天気さえ安定していれば何とかなりましょう。
扨、彦根のM氏再来訪の件、記しましたがあの時また強く驚かされたのが表記書物をM氏がバックの中からおもむろに引っ張り出したこと。
聞けば今の大河ドラマの放映決定以前に求めたものだと。
本当に頭がさがります。
私の苦手、江戸庶民文化が大きく開花した時代の書。大河ドラマでもその名が・・・
今の大河ドラマにはその脚本その他これまでと違う面白さ斬新さを感じていますが、それを真っ先に感じ取りこういった書籍をゲットしていたなんて・・・
詳細内容は国書データベース商賣往来をどうぞ。
2025年
7月
06日
日
驟風急雨 岡田蘇水 さぁどうする・・・
朝からフリーにつき遂に懸案の松の剪定にとりかかりました。
梅雨明けしたとはいえスカッとした晴れ間が広がるわけでもなく西からの風が強め。
蚊取り線香を用意していましたがその風では蚊もうまい具合に取付く事はできず何より快適に作業が進みました。
ただその仕事は単調で集中力が持続しません。
途中別途塗装作業に気を散らしながら思い出したように松に取付いていました。ただ余計な葉を手で摘んでいくだけの仕事。
そのノンビリでは全部の松をやっつけるのに10日はかかるでしょうね。
しかし植木屋さんにそれを依頼したとすれば・・・二人工以上の作業になるでしょうから・・・節約、節約。
拙寺境内の植栽について私の代になって一度もプロに依頼したことがありません。
だから汚い・・・といわれればそれまで。
扨、画像の図画は先日の図画に続いて軸装候補にしていたNo.2。
作者とタイトルは表記ですが、イマイチ真贋含めて結論が出ず
現状もやもやしながら叔父の評価を待っています。
他にも「まくり」(未表装の作)が控えていますし無用な資金を投入したくないというのが本音です。
価値が上がらないものを軸装することなど考えられません。
もやもやの理由が作品の大きさ。小品すぎるということですね。
今は無き土蔵の2階の木箱から出てきたもので、やはり息子が引きづり出しました。いわれもありませんし私にも寺にもその作者に心当たりがありません。
少なくとも戦後以降開けたことのない箱です。
よってまさかの「カラーコピー」というのは無いでしょうが。
2025年
7月
05日
土
大給松平 松平乗元墓 癌は遺伝する?
境内でお会いした御門徒さんから「それを言うのは躊躇するが、やはり『暑い !!』」。
午前中に東海地区の梅雨明けが報じられていました。
毎度その宣言とやら、私としてはあまり信じていませんがね。
悪石島の群発地震もしかり、自然界の動・不動色々、どう頭をひねってみたとしても所詮「当たりはずれ」の域・・・。
まぁアレだけの回数の地震の中で過ごす現地の皆さんの想像を絶する苦痛の存在は気の毒に思いますが、その異様がさらに大きな崩壊に至る大地震に繋がる・・・などの発想には至りませんね。
面白おかしく囃しているだけでしょう。
じきに終息・・・それに私は賭けたいですね。
当たりはずれといえば、病気の罹患ですが、特に私は癌について
最近は思う事があります。
先日はある御門徒さんとその癌についての意見を交えました。
癌罹患率「二人に一人」の確率についてです。
最近は正確に近い統計的な数値からそのような表現が闊歩するようになっていますが、その方が仰るには「それは言いすぎ!!」と。
その方の住まう地区の癌罹患者数からの所感といいますが、むしろその方は「遺伝を疑っている」とのこと。
それだけの事例をこれまで見て来られたその証、体感ですから、その件信憑性が高いかも。
私の何となく聞いていたその統計らしき「二人に一人」の大当たりの件、かなり大雑把なイメージだったのかも。
その病に至る人が「多い」ということ、違いないのでしょうが。
扨、先日記した大給城登城口。
すでにあの段階で私はマダニは私の体の一部。
そんなこととも知らずのお楽しみ。
少しばかり登ったところで分岐点があり、松平乗元の墓へ。
墓石だけでなく、各石造物色々。
城址に墓・・・一挙両得。
2025年
7月
04日
金
次回の軸修繕候補 浅草御坊御遷仏法要図
午前と夕刻に法縁がありました。
お日さまが顔を出している時間もありましたが、その間に張り切ってへろへろになるわけにいかず外仕事は無しに。
よって庫裏の涼しい場所でぼけぼけ~っと怠けて過ごしました。
施設の叔母の今後の対応について協議するその面談予定は来週に決まりましたが、私と奥方それぞれの精密検査(ともにCTによる診断)の予定をかいくぐってのこと、なにより他にも初盆の法縁の予定があります。
よって例年以上に山積する外仕事への対応が捗っていません。まぁ都合のイイ言い訳のようなものですが、医者通いというものはなかなか気が重く面倒なものです。
医師から各ご指摘を受けた何らかの私あるいは奥方の不具合についてその理を判明させなくてはなりません。
場合によっては次のステップに進まざるを得なくなるわけですが、お互い「その時はよろしく・・・」。
そういうこともあって先般の免許証更新の~次(の更新)が
令和12という~時間に違和感があったわけで。
その衰えというか体力の衰微については仏教の基本中の基本、「無常」を常に思わされるのでした。
扨、昨日は浅草の「東本願寺」の堂内画像をさらっと記しました。また拙ブログではこの「東本願寺」の件、幾度か記していました。
特に「奥の墓道」氏が自身の学校に行かずして私のアパートに泊まった翌日私の昼間の学校(法律関係の授業)に付き合い夜間こちらで真宗学の講義を受けたこと鮮明に思いだされます。
奥方にその件を話すと「絶対にそんな酔狂は居ない!!」とは言いますが、何ごとにも興味のアンテナを張ろうとする彼、理由はその件だけではなかったはずですが複数年、留年していましたね。
しかし彼は伊東市の市長さんとはちがってしっかり卒業証書は持っているようです。特に確認したことはありませんが・・・。
ちなみに今はなき彼の御両親がなかなか終わらない学費の仕送りにつき訝しがっていたという話を聞いていましたが彼はすべてを私のせいにしていたようでした。
まぁすべてのことに私の原因を否定することはできないでしょうが。なんらかの責はありますね。
そのお寺の名称が変更になったのは私がここにかつて併設されていた夜学、専修学院を卒業したあとのこと(お東騒動)ですが、江戸期の頃の名称は通称「浅草御坊」です。
その御坊の遷仏法要の図の軸が土蔵から息子らの手によって出されたのが6~7年前の事。
この軸が次回修復予定の素材になりますが私の如くかなりのボロが出ています。刷り具合もあまりイイ出来ではないような。
ただしここでしっかり修繕しておかないとただ朽ちていくだけでしょうし、できればご門徒さんにも見てもらいたい品ですからね。
おそらく市中にてのかわら版の類というよりも、当流限定寺院用の告知に使用されたものかと思われますが、その存在の理由は定かではありません。
軸装されていたことから、当初は「見せて遺す(保存)」意図があったことがうかがえます。
ただしわからないところが年号の「文化八」です。
筆者の喜多川歌麿の死没の通説はそれより数年前であるといいますからね。
どちらにしろこの手のお寺の地味な絵図には「失意と晩年」ということを感じてしまいます。
しかしその通りに受ければ文化八年までは最低でも存命していたということ?
2025年
7月
03日
木
浅草本願寺前徳本寺 佐野善左衛門 歴史を変えた抜刀
朝から寺務仕事。
外は曇天で心中気持ちもイマイチ盛り上がらず、夕刻に息子が赴く通夜式の準備等もあって庫裏に籠りっきりでした。
前日の枕経にはピンチヒッターとして私がお邪魔していましたので概略情報を到着した息子に伝達。
御前崎を終の棲家と決めたご夫婦~子供達から離れて三河から来られたといいます~の奥さんが故人でした。
自宅が御前崎でありながら吉田町の葬儀場の選択は東名吉田インターから最寄りであるということからでしょうね。
南遠州の海と空を気に入られての転居だったのかも知れません。
老後は夫婦で「好きに生きるのだ」ということからの決断だったのでしょうが、それが全うできることは如何にも素晴らしいことです。
但し次のステップ、男の独り余生のことを考えてしまいます。
お寂しいことです。子らの住まいとも遠隔地ですからね。
扨、昨日は蔦重マップを転記させていただきましたが、それらピックアップされた名所のうち私が訪れたことのある唯一の場所が佐野善左衛門政言の墓がある徳本寺です。
大元は三河にあった真宗寺院。
私は相良の皆さんがよく行かれているという東京の田沼意次の墓には未だお参りした事がありませんので、当方奥方はその件について以前から「とんでもないくわせ者坊主だ」と嗤っています。
それはタイミングです。
私が佐野善左衛門の墓をお参りしたのは、たまたま当時の東京浅草本願寺の門前、お向かいのお寺で御本尊が阿弥陀さんというお気軽さからです。
また「意次の墓」には皆さんだれもが顔を出していて「今さら」の感もあり、方向的にもいつも逆となって少しばかり遠めを感じるのです。
それに対しこちらは私にとって地の利のいい場所でした(夜間の学校―専修学院―の真ん前)。
墓は「世直し大明神」と囃されただけに墓石はカタチを保っていないようで。
きっと縁起担ぎの輩に削られたのでしょう。
また意知贔屓もいたはずで、その反発からの物理的暴力も加えられたのかも知れません。
私があの時感じた事は「佐野クンは真宗門徒だったんだぁ」。
あの短慮が無かったとしたら・・・
緩やかな歴史変遷、近代への移行があったということ、どちらの歴史家が指摘するところですね。
先日放送された「英雄たちの選択 田沼意次の大ピンチ!」では番組進行の磯田氏が「明治維新、薩長の出る幕などはなかったかも・・・」には大いに頷けます。
「たられば」を思うのは詮無きことですがね。
となると今がもっともっとイイ時代になっていたかも・・・そして戦争なんて無かったかも・・・等々思います。
最後の画像がお向かいの「東本願寺」のお内陣。
その名称がそれというのも紛らわしいことですが。
2025年
7月
02日
水
いつかぶらつきたい 蔦重周辺図 次は令和12と・・・
昨日午前は牧之原警察署から。
免許証の更新手続きでした。
「優良」なるおしるしを頂戴しましたので、30分のビデオ視聴で開放されるか・・・と思いきや更新手続きの人たち多数につき事務方は大繁忙の様。
「優良」とは5年間の無事故無違反の果実でいわゆるゴールド免許のこと、次の更新が5年後の令和12年ということになります。
この件、当家の者共は「不可思議」なことだと。息子などは奇跡ともいいます。私の注意散漫のやらかし野郎がよくもまぁ・・・といったところ。
まぁ「たまたま」の5年間だったのでしょう。
思えばあの新設された青山通りの左折禁止の取り締まり(助手席奥方のGo Go Go!!の掛け声)が最後ということで、もうあれから5年も経ったのか・・・感慨深いものがあります。
東京は鬼門でしたね。やらかしをして指摘され溜息をつくこと多々。やはり田舎はいい。
その受付たるやまさに人生の縮図というか、その日はやたらと年配者多し。
そちらで気づいたことは・・・何のこっちゃあない殆どの方たちがそのコールド免許の更新。まぁ皆さんもたまたま5年間を過ごしていたのかも知れませんね。
というのは、孫のような担当の女子が「やたらとデカい声」で一つ一つ丁寧に手順を解説。耳が遠いということなのでしょうが、そんなものか・・・ですね。
ただし視力検査は厳しいようでした。
左目・右目・両目の各3点づつ視力を問うものですが、「わからない」を連発していた年配者に対して、「免許が切れる7/5までに眼鏡を作り直さないと・・・」でした。
「7月5日が誕生日か~」と思いつつ、よくもまぁそんなギリギリまで引っ張り、直前になって「却下」されるものだとその図太さに強く感心したのでした。
今から眼鏡屋に行くと言い残して退出していきましたが、その一部始終を目撃し、①私もその後を追う②この広い世間、その手の方々がフツーに私とともに公道を往来している・・・
とても恐ろしく、また自分の近いうちの有り様を思うのでした。
自宅に帰って奥方に「次は令和12年だ」というと、それまで命が続いていると思っているのか・・・まさにその通り。
扨、その鬼門の東京。
叔父が廻った蔦重ドラマ関係の地について、いづれはのんびり歩いてみたいものです。
私のお世話になった夜学、東京専修学院(浅草本願寺)にほど近い場所で食べ歩きにはもってこいの場所。
昼間の学校に行き夜間こちらに地下鉄を乗り継いで通ったこと、当時は苦痛以外の何物でもありませんでしたが、今となっては良き思い出です。
2025年
7月
01日
火
吉原への道 会館を居酒屋にする案 企画倒れか
昨日の法務は藤枝にて。
帰寺が16時前でしたが夕刻1630からの総代会にはギリセーフ。
内容は来年のお寺のバス遠足、そして如何にすればお寺の衰微を止めることができるか・・・とは大袈裟ですが、「敷居が高い」イメージの寺というものを気軽にお参りができて、少しは学びにも精神的にも功徳がありかつ楽しい場所にできれば・・・というような欲深い探求を。
会館を居酒屋にして・・・などと冗談のような話も出てきました。私としてもまんざらそれも悪くない・・・選択肢として考察すべき・・・と。
しかし「若いねぇちゃんどうする・・・」などという話になるときっと面倒くさいこと(道義的トラブル)が起こりえますからね。それは世間様の常。
煩悩世界の複雑な人間模様を演出する場になるやも知れず。なにより税金対策も面倒くさそう。
真面目な御門徒さんからはお叱りを受けることでしょうが、どうせ煩悩世界で浮き沈みしているわれらですから、固定観念を打ち捨てて思いっきり楽しんじまう・・・という開き直りもあるにはある。
それに「不思議」を思われる総代さんの声も。
お寺の変質として飲み屋を兼ねる寺の話・・・坊主バー・・・はよく聞くようになったが大抵は坊さんが酒好きというのがスジ。
ところが下戸の坊さん(私)の寺がそれを主催するというのも「変な寺」だと。
阿弥陀さんの別名に「不可思議光如来」とあるように、ワンダーランドを売りにするのもまぁ悪くない。
それを布教・教科として・・・
扨、先日は以前彦根からいらした「田沼意知ファン」のM氏が
再訪されました。
そろそろ「べらぼう」では田沼意知が「遭難退場」するとあってどうしても相良に来たかったとのこと。
8月頃にも来たぃとも仰っていました。
「外の人」でそこまで相良に思い入れがある方がいらしたとは・・・感動ものです。
むしろ私は根っからの近江好きですのでそちらの方が余程楽しそう・・・と振りましたがM氏の方は「相良!!」とその想いを語っていました。
今、彦根の地元では、番組でも取り上げられ、意知とも繋がってしまった松前藩の件、その近江商人の関係についてより突っ込んで紹介するようになったとのこと(拙ブログ又十屋敷)。
画像は吉原今昔図。叔父が先日吉原界隈を歩いたそうですが
その際「九郎助稲荷」でこちらをゲットしたといいます。
適当に分割トリミングしましたので見難いこと、失礼。
ご参考までに。
2025年
6月
30日
月
「コール(響流)の鐘」を掲示 銀杏の子たち
法務は夕刻からでしたので昼間は境内雑用。
先日は本堂障子の開閉の難についてその対応、やっつけ仕事について記しましたが、その障子は左右の柱の歪みから、閉めたと思っても隙間ができるといった始末。
この時節ならまだしも冬場になれば隙間風が吹き込みます。
よってその対策として柱に細めの材を貼り付けました。
その手の雑務は山ほどありますが「古いモノだから仕方なし」で諦めています。本堂は切り貼りで対応。
軽トラ荷台は作業台になっています。
そちらにて工作に向かっていると先日、お米を所望されたご門徒さんが孫娘を連れてやってきました。
娘さんの手には小松菜がぎっしり詰まった袋が。
実はそのお米所望の件、一旦はお断りしていたのですが、その数日後にたまたま10㎏の米を息子のルートでゲットできましたので少々のそれをご自宅に届けていました。お米はありすぎても痛みがきますからね。
そのお返しということでそれをお持ちいただいたのでした。
よって夕飯は小松菜の炒め物と昨晩のカレーの残りで。
朝もカレーでしたから私も「ん?」。
奥方は「コレが最後(だから我慢すべし)!!」と。
カレーに青い葉っぱの添えはいかにも体に良さそう。
日曜日とあってお参りの方たちも多し。
別の方から問い合わせがありました。
それが「水屋の奥の銀杏の子たち」の件で、それを持ち戻りたいというものでした。
これは去年落ちた銀杏たちから発芽したものですが要は私どもが掃除をせずに放ったらかしにしていた証拠ですね。
そしてその問いには「どうぞご自由に~」というのは当然のことでした。私がどうすることもできない命たちでした。
しかし銀杏は大木系で庭などに余程の大きなスペースがなければあとあと困ることになることは必定。
よって「どうするの?」と聞き返したくなったところその方から「盆栽にチャレンジする」とのこと。
「なるほど」でした。かなりの時間はかかるでしょうがね。
私も樹木は大好きですですが、ああなるともはや手に負えません。
強烈にデカくなる彼らをコントロールできる方、ご自由に掘り起こして身近な場所に植樹、新たな友として一緒に生活を共にしてみてはいかが?
この銀杏の出自は父が入手した「伝 親鸞さんお手植えの銀杏の子の子?・・・」です。
AI、コンピューターの世界にどハマリの生活から離れ、日々成長して変化を見せつけてくれる小動物や植物を育ててみること、大いに推奨します。
そして門前には先日記した「コール(響流)の鐘」についてPR、
掲示板に貼り付けました。
80回の鐘に賛同を得られるかどうかちょっぴり不安ですが、要は思いついたこと「とりあえずGO!!」というところ。
まぁ「やった感」だけでもいいか?
①は昨日の続き、キイロシロの子が赤の他人と10日ほどで馴染む様。
2025年
6月
29日
日
炎天茶畑 義母宅漏水 ネコの鷹揚柔軟性 古古古米
行僧原の墓地は茶畑の最奥。
そちらには数基の御門徒家の墓碑が建ちます。
法要終了後の墓参にこれまで幾度も向かっていますが昨日は久々好天の畦道行脚。
毎度雨天に付きまとわれ茶畑畔は悪路と化していることが多かったのですが有難きことこのうえなし。
拙寺本堂の法会は一旦解散、行僧原へ墓参GO!となるわけで・・・それではお先に・・・の躰で寺を出立、行僧原公民館に車を駐めてとことこと歩いて墓地にて待機。
ところが施主ほか参列者がなかなか姿を現さない・・・不安になりますね。「ホントにここのお墓で良かったのか・・・」です。
よりによって携帯電話も放り投げて「すっ飛んで」出てきてしまいましたので墓の前で焦りまくっていました。
やきもきしているうちにそろそろと・・・遠くにその姿を確認して安堵させられましたが。
そういえば参列者は高齢者が多く、この暑さにはへろへろになって動きは鈍くなるのは当然・・・その畦道を歩いての墓参、辛そうにされている方も散見。
皆さんは私の大好きな「晴天」を恨めしの形相をもって罵っていました。
私が畦道をウキウキで歩けば同じ道程を地獄に思う人たちが歩を進めている・・・。わたしもいずれその後を歩く?
扨、息子の昨日は千葉県での法縁に招かれていました。
その前日は大和市の義母の家に中継宿泊。
そこで気づいたのが壁の中から聞こえてくる水道管からの漏水音。かなり激しい音でしたが、耳の悪い義母は「まったく気づかなかった」といいます。
息子から「水道工事業者どうする?」の連絡がありましたがネット検索だけは「ヤメテおけ」。
どちらの困りごともネット検索上位ほど怪しいものはありませんからね。
よって一晩そのままにして夜があけてから近所の皆さんから情報収集し近隣の水道屋さんを紹介してもらったそう。
それでも壁を壊して止水、外部から別配管する段取り。
そういう場合のオーソドックスな工法ですが、見積もりは18万円とのこと。
当初、私どもが出向こうかとも考えましたがその辺りで手が打てれば「しゃあない、しゃあない・・・」です。
画像は息子の家に先日入った雄の子ネコと10カ月ほど前にやってきた1歳雄猫の図。もう1匹雌猫の親分がいますが。
なんと鷹揚さ溢れる兄貴でしょう・・・
「仲良しができる」こと。彼らに見習うべきですね、喧嘩ばかりしている阿呆な人間たち。「自分は正義」の旗印はくさくさです。
③は横浜の「奥の墓道」氏からの図。「勿論一袋所望」したそう。
それについて私も食してみたいところですがそのような様はこの辺りではどちらにも見かけることはありません。
なにより東海地区は全国的に米の価格は酷く高いのでした。
東北地区とでは900円も差があるとのこと。
おかしな話です。
2025年
6月
28日
土
「大給」と記し「おぎゅう」 私はここでヤラれました
西日本の梅雨明けが発表されていました。
当地はどうなるのか知りませんが、空は「梅雨」などという感覚はまったくなし。
ドカーンと強い日差しが降り注いでいます。
というわけで朝から境内作業いろいろと。
晴れていれば作業が捗る事このうえなし。
昼過ぎに静岡の秋野氏が撮りだめした画像をDVDに収めたものをお持ちいただきました。
その際、所有されている相良の敷地の草刈の件を伺いましたがその日はその予定になかったようで。
「草刈」に関して「もはや放置に限る」と余計な私の所感を伝えていましたがこの炎天下でのハッスル作業のご主張はそれを聞いているだけで恐ろしく感じます。
私の炎天高温耐性の体質の異常さはいつまで続くのかわかりませんが、現状、以前の如くの感覚がキープされているようです。
水分の補給に関してはかなり気を遣うようになりましたが。
ところが他人様のコンディションは知る由もなく、とにかく心配になります。
草木ぼうぼうの対応を気にされていますが、この状況下で着手するべきではなく「むしろ放置で・・・」と、「やらないこと」を推奨します。
隣近所に嫌味を言われたとしても放置する度胸が必要ですよ。
ムリは禁物。
秋野氏の敷地は森に隣接していますのでマダニに噛まれるリスクもあります。
近くの小堤山の芝に犬を放すとダニだらけになるといいますし、もしあ奴らがウィルスを持っていたら殆どアウトですからね。
致死率も高くそれに至る重篤な症状というのもカンベン願いたいものです。
私は以前続けざまに3回もそのマダニ(またはこちら)に噛まれて(いずれもセーフ)からそれへの警戒をするようになったわけですが―といっても春から夏は山城を攻めないというか今年はまったくその手の暢気な時間がとることができないわけでー自宅周辺の草刈等は相変わらず半袖軽装というお茶らけ具合。
いつかは酷い目にあうでしょうね。
扨、今年は各地でそのマダニのウィルスによって亡くなったというニュースが入ってきています。先日は静岡県で2名、愛知県で2名でしたがその愛知では豊田市内とありました。
私の記憶では3度マダニにヤラれたうちの2度までがその豊田市の山城でのことでした。
それも「絶対ここだろう」と確信しているのが大給城です(場所はこちら)。
三河のここいらは徳川発祥の地ということもあって見どころというか山城もたくさんありますが、以前拙ブログにて記したところでは直近に松生島がありました。
以前はそちらから東方に山道を進んでいくわけですが、今は豊田松平インターから直結する松平バイパス(国道301)がありますからあっという間です。先はいろいろ長いですが・・・
しかしながらこちら大給城への入路がなかなかわかりづらい。
というかまごまごしていたら危ない場所になります。
それがバイパスの松平トンネルを抜けてスグ「右側」に登り口があるからです。
後方からはせっつかれて対向車はカンカン、気づかずパスしてしまう人は多いでしょうね。
駐車場、と言っても数台しか駐められない狭小さ。この道路わきの看板から上って300mほどの地にあります。
登城口は駐車場からさらに100mほど進んだところにありますが私がマダニに噛まれたと思うのが④図の左の道に逸れた際でしょうね。滝という言葉に誘われました。
ちょっとした気の迷いがリスクに繋がるものです。
2025年
6月
27日
金
唖然呆然愕然 人間の色々原点は「思いこみ」にある
二日続けて不思議なこと(昨日の天気)はさすがに起こりませんでした。私の都合で天気が動くものではありません。
しかし朝方は日が出て一昨日のテーブル塗装の仕上げを。
昼過ぎに再び会館に収めましたので夕刻の土砂降りに見舞われることはありませんでした。
淡々と課題をこなしている日々ですが、昨日は私も奥方もそのことで頭の中が一杯になっていました。
沖縄時代からの友人で夫婦ともども交流がありました兵庫在住の友人。その奥さんが亡くなったことを一昨日伺いました。
30数年以上前のこと私が他人様の結婚式に、それも教会で催されたそれに初めて出席し、讃美歌まで歌ったという機縁がありました。
奥さんは当方奥方とも趣味が一緒で先般も、再会を約束していました。スポーツインストラクター(と呼んでいいのか・・・)その友人は拙寺のかつての盂蘭盆会法要で講習会の講師として招いたこともありました。
「みんな元気」というのはまったく思い込み以外の何物でもありませんね。
その奥さんは乳がんのステージ3が発見されてからしばらく
各治療の闘病期間を経て後に再発、遂に力尽きたとのこと。
ショックというか奥方はがっかり。
彼からの連絡を受けた私が、その件を伝えると「え―・・・」と絶句していました。
私もその病気・・・がんについては気休めながら人間ドッグの検診を続けるなど警戒を続けていますが、どうも女性は女性特有の病・・・乳がん・子宮がん・卵巣がんの件、余計に耳にすることが多く感じます。
蓮如さんの御文に「抑、男子(なんし)も女人も」というタイトル(五帖-四 五帖の御文ですからどちらのお内仏にも備えあり)
通りその病は性別に関わらずどなたでも起こりうる病ではありますがその御文に出てくる詞から「末代悪世だねぇ・・・」と溜息が出てしまいます。なまんだぶ 南無阿弥陀仏・・・
仏教的に言い放てばがんに罹患するのは当たり前のこと。
生老病死に関わらずこの「時代」・・・私どもの都合だけで「悪世」と断じてしまいましたがホントは人間社会そのものが「抑、悪世」なのかも。
AI、ハイテク、武器、戦争、人殺しの為の金儲け・・・石油、資源やその開発に湯水のように資金を注ぎ込み、人の心身安楽への全世界的方向性が見いだせないでいるのがこの社会。
単純に、せめて人々をがんという病から解放されるような研究と成果を「早く早く・・・」というのが本音です。発展の目的が違うだろ・・・
画像は昨日たまたま後堂付近で目撃した図。
先日の法要で本尊前の灯明(和ろうそく30号)です。
ろうそくの芯切後の芯を入れる容器に火を消してからそのろうそくを入れました。
昨日はたまたまお参りがあってその朱ろうそくに火を点けようと手にとって唖然呆然、愕然、立ったまま口を開けていました。
てっきり消火したと思い込んでその容器に芯を下にしてろうそくを入れておきましたが芯に火が残っていてろうそくの形状を残すことなく焼き落としていたとのでした。
よくもまぁ・・・(他所に火が回らなかった)と安堵して合掌しました。
「思い込み」とはしばしば致命的な事案を惹起させます。
対策としては水を入れたバケツを常備し、「消した」との思い込みをクリアするために芯部分を完全消火することにしました。
和ろうそく・・・恐るべし。
以前も完全燃焼したと思っていた燭台の和ろうそくのあとに木蝋という装飾蝋型を差し、それを大いに焦がしたことがありました。
2025年
6月
26日
木
「コール(響流)の鐘」に決定 8月15日 80回
不思議な事もあるものです。
全国的に大雨のニュースだらけの中、当地遠州相良は青空に太陽ドP感といった景色が。
当初は一時的な晴れ間かと思っていましたが私の頭上は朝から晴れ渡り、以降1日中、雨のポツリもありませんでした。
おかげさまで新会館「無碍」用の受付テープル兼焼香台を製作、塗装までできました。
夜間は一応(雨降りの)信用がなりませんので、会館内に突っ込んでおきました。少々の仕上げ塗装が残っています。
扨、先日の世話人会は今年の盂蘭盆会法要について。
例年通り全三回の法縁。当地の盂蘭盆が7月と8月の地域に分かれるからですね。
①7月12日土曜日 午前10時
小山昭氏 「認知症を宣告されて」
②7月12日土曜日 午後 7時
③8月15日金曜日 午前11時 「コール(響流)の鐘」
戦後80年 80回の鐘を衝きます
昼12時 法縁開式 続いて二胡演奏会
※8月1日金曜日 午前10時 夏休み研究ヒントに
「田沼さん時代のお米」 小中高生
「コール(響流)の鐘」についてはこの度の世話人会で「どうせなら その名称を決めたら ?・・・」という意見があり「それなら・・・」ということでこの名称に。来年以降どうするか決めていませんがね。
「何のこっちゃあ」と思われる方もいらっしゃるとは思いますが真宗系の経典に少々詳しい人ならば「鐘といったらそれ」という具合に思い浮かぶ名称、ごく普通の発想です。
まぁ、私はカタカナにしてわざわざカッコの中にその語を入れたという次第。
要は阿弥陀仏のはたらき・・・です。
画像は拙寺の梵鐘、昭和33年にご門徒一同の手で再建されたもの。金属回収令で供出させられてしまい何もない鐘楼を気の毒だとの「声」「呼びかけ」があって13代(私の祖父)の時代でした。
願主の浄了とは拙寺初代、今井権七(郎)のこと。
「響流十方」とあります②。
2025年
6月
25日
水
玄門寺 「人間ドック」検診コメント例年との違い
勢力が落ちて熱帯低気圧に変わるという台風2号が「私」(静岡)に向っているよう。
大したことにないのでしょうが面倒なことだけは御免です。
昨日の比較的強めの雨は明け方でおしまい。
小降りになったところで私は榛原病院の人間ドックに向かいました。
検討した結果、懸案の「脳ドック」はヤメにしました。
脳内の血管の状況は怖いながらも知りたいところですが、何せ
慢心、「オレはまだ大丈夫」があってまたおカネも増額。
その問題ではないことは分かっていますが。
もっとも胃カメラと脳ドックは一緒にできないので別のオプションになるよう。
まだ血液検査等の数値の評価が出ていませんが、検査終了してからの医師との面談は例年とかなり違っていました。
過去のデータとの比較を入念にし、どういった変化があって、その原因についてのご指摘です。
それが体重・視力・心臓・肺についてのネガティブなものばかり。
体重は昨年より2㎏減、視力1.2→0.8、心臓の力強さ▼、肺は「汚い」との評価。
体重減はいいことと思っていれば「元に戻せ」との談。これは意外でした。
そして男性の「骨粗しょう症」のリスクについて淡々と解説されたわけで。
体重が増えることを激しく嫌う世になって、女性がその骨の脆さによって骨折に至るケースをいわれていますが、最近の医学界では男性もその傾向にあるというのが通説とのこと。
筋肉を落とすと骨にかかる重力が減って骨が弱くなるというのです。
視力の件は「眼科にて」を推奨されましたが以前もその指摘があって眼科に赴くも「何でもなし」でした。
私も少しは自覚していましたが。
まぁ昨年の視力検査を思い出しましたがあてずっぽうで言った
4択が当たりつづけたこと、それもありましたね。
問題の心臓の「勢い」については端的に言って水分摂取不足だとのこと。心電図を以前のものと比較していましたが、明らかに上げ下げの振幅が少なくなって「平坦」な部分がありました。
水分不足→血液ドロドロ→腎臓に負荷(過去に尿道結石)→心臓に負荷という図式だそうですが、それは大いに心当たりがありました。
以前も拙ブログで記していますが高校時代のサッカー部で「水は飲むな」の世界で慣らされる事しばし、以降ずっと水分少な目でも平チャラの習慣が身についてしまいました。
あのヒステリックなかん高いT先輩の怒鳴り声が思い出されますね。水を断じる=根性論・・・まったくアホな知識をひけらかされたもので。
そして肺。これは一応念のためということで「CT撮りなさい」とのことで再診ということに。
肺の底部にモヤモヤがかかっている画像を見て「タバコのせいでしょね」との判断に「私はタバコは吸わない」が「朝方咳がでる」ということを告げると「次の検査」を推奨されたわけで。
「仕事は埃っぽい場所に?」と質問されましたが、その手のものは程度というものがありますからね。
土蔵の解体清掃以来の咳ですが、屋根裏、床下の作業にネコたちの存在です。
不定期に火葬場や納骨に立ち会っている事は話しませんでしたが。
となると私の肺には故人みなさまが粉末となって生きている? そうだとしたら心強いことこのうえなし。
非喫煙者の肺がんの件、最近になってよく耳にするようになりましたが、医師はそれほどの重篤については触れていませんでした。さぁ次のCTどうなるか?
そして脳が水分を所望していなくともガブガブお茶を飲むことを心がけます。しかしスグにそれ、忘れてしまう。
①②は昨日の息子宅のキャットタワー。
キイロシロの子は段々と上に上がれるようになって遂に三段目まで。トップを狙っていること見え見え。何せ耳がデカい。
彼が来たばかりの頃-といっても数日前ですが-タワーの下でうろうろしつつ寝ていただけでしたからね。
尚、ネコたちとの同居生活はヒトの肺に対して影響があるのでしょうか・・・不都合な件は聞いたことがありませんが。
扨、金沢東山の山麓の寺院、浄土宗の玄門寺。
本尊は阿弥陀さんに決まっています。門前でご挨拶して失礼させていただきましたので本日もサラっと画像だけ。
2025年
6月
24日
火
蓮昌寺墓域 いかした三重塔と遭遇
世話人会が終わってひと段落。
それに関わる寺務仕事はまだ残りますが、気持ちは外仕事。
あちこち草ぼうぼうの様は毎度のことながら焦りが出てきます。しかし夏草への対応の試みはあのうるさい連中の襲来に心が挫けますね。
一瞬間思い出した作業があり何らの対策もせずに水屋の裏に10分ほど滞留しました。
すると異常な数の蚊がまとわりつかれてしまいました。
露出している腕には次から次にミサイルの如く飛来。多少の抵抗はできますがあの数にはどうにもかないません。
特に気づきにくいのが首の上。また、耳近くの飛翔体のあの羽音は耐え難い不快がありますね。
早々に避難撤収し顔中、腕にキンカンを塗りまくりました。
扨、先日の金沢東山の蓮昌寺。
裏の墓域を彷徨いましたが、美的な造形物と遭遇。
オリジナリティ豊かな石造三重の宝塔です。相輪の状態についてハッキリしませんがこの環境の中でしっかりと直立していました。軸部に彫られた文様も珍しい。
全体的にこの山麓寺院は江戸以降というのが頭にありましたがこの多宝塔についてその製作年代を知りたいものです。
周囲にも石塔やその残欠が散らばっていました。あの時は蚊の生息前の頃、夏場の墓場放浪は余程の準備が基本ですね。
どれだけ準備防御態勢を整えたとしても蚊どもの襲来は無限。その数の多さに対抗できません。
2025年
6月
23日
月
会館「無碍」お初の世話人会 息子は浜松から静岡へ
会館「無碍」にて初の世話人会の開催。
3人掛けテーブルを8つ用意しましたが、あと二つ分テーブルのスペースを残していました。
正面の脇にまだスペースがありますし、テーブルを片付けて椅子のみとすれば40人はラクに入ることができますね。
そしてこれも初めてだったのが皆さんとの正信偈の時間。
当初、スピーカーにアンプとマイクは・・・など検討課題にしていましたが、部屋全体に密閉性があるからか、須弥壇のある空間からの反響なのかノーマイクでまったく問題なしでした。
外は相変わらずの暑さでしたが会館はエアコン2台稼働。
また初めて点けた和ろうそく(30号)の燃焼がエアコンの風にあおられて不安定、この対策としてはろうそくを小さい物に変えて風の当たりにくい奥側に燭台を置くか・・・。
そしてお参りの焼香用線香と賽銭箱を用意していなかったことは失敗。次回の課題ですね。
私の本音としてはやはり「本堂主体」というところ、あくまでも会館はサブですから準備は軽めでいいのかも。
昨年の盂蘭盆会のミニコンサートの演奏者が汗だくだったことから今年の法要の本堂での開催、そしてコンサートは会館へ・・・を検討中。エアコンで冷やした会館で演奏していただければ聞かれる方もラクでしょう。
まぁ場所を変えるとそのまま帰宅される方が出てしまうという姿、予想するところ。
世話人会では、この無碍館の使用について今流行りの家族葬を念頭に、施主家主体の手づくり葬儀の活用について使用料を設定、告知させていただきました。勿論他の利用も提案させていただきました。
それぞれの事情によって各家での選択は自由、それはおまかせするところです。
また無碍館はハコの大きさに限界がありますので多くて40~50人程度の参列に限られます。
しかし現状、そう大きなホール、多くの参拝者のお弔いの儀礼は減る傾向です。
参拝の時間に幅を持たせ、厳密な焼香時間の設定をしなければ多少参列が多くなったとも問題なく対応できるかと思われます。
昨日の世話人会にて総代1名の方は静岡市で親戚のお弔いがあるとのことで欠席されていました。
浜松の息子に「たまには世話人会へ・・・」と打診するも静岡で葬儀依頼が入ったとのことで断られました。
息子は神奈川のお寺の友人の依頼で要はピンチヒッター。先方のお寺の名を名のって出仕するパターンです。
総代の静岡での葬儀に息子の静岡の葬儀というタイミングには「まさかね・・・」とは頭にありました。
すると息子が式場に出頭してみると・・・そこで総代と御対面となったそう。
縁者ご一同の前で総代から「大澤寺の副住職です」と紹介されたそうですが、ホール側としては「神奈川県の○○寺」との事前情報だったはず。
きっと混乱したことでしょう。
世の中案外狭いというか、いろいろある。
②③は息子宅のキャットタワー。
キイロシロの産んだ子ネコのうちの一。息子の家に引き取られました。
先住の先輩たちに徐々に接近し、自己の主張を全面に出しているとのこと。
ネコの社会勉強なのでしょうが、超積極的で面白い。
体格さに格段の違いがありますがぶん殴られて蹴りまくられて踏みつけられて・・・それでもめげずに果敢に絡んでいく姿は、天晴れです。
物凄いパワーで先輩ネコたちはへろへろになって高い所に避難したそう。
2025年
6月
22日
日
金沢卯辰山 蓮昌寺 ご門徒一斉lineができたら・・・
早朝は世話人会の配布資料のファイリング。といっても紙のクリップ留めですが。
これまで各地区世話人さんから「回文」形式で書面を回していただくようお願いしていましたが今回はお試しということで、御門徒さんそれぞれへの書面を作りました。
それを配布する世話人さんの負担が増えることは必定ですが、今後これといった指摘、問題がなければその方式に変更しようか検討。回文と違って手元に残ることは悪くないはず。
ただし資料が複数枚あると仕事量としてなかなか・・・
紙との格闘が終わったあとようやく外に出るとそこは真夏の太陽が降り注いでいました。「明るい朝」は気持ちがイイ・・・そういった光景には蝉の大合唱がつきものですが、蝉たちの登場にはまだ少々の時間が必要でしょう。
さすがの「夏」の主役もこの早い盛夏の到来には意表をつかれたか。
法要は午後からでしたので前日やりのこした障子貼に着手。
奥方と二人がかりです。大き目カットのものは一人より二人がラクですね。
法要は最近にない多くの縁者が集まりましたね。
聞けば〇〇家の一斉グループlineで法事参集を尋ねたら殆どの方が出席に応じてくれたとのこと。
それを聞いて「一斉ってイイ!」と。
紙と郵送の切手代が省略できかつ回答を得るのが早い!!
特に私の場合は檀家さん一斉lineなどがあれば最高。
「回文」や書面の配布を省くことができるというもの。
まぁ無理な話でしょうね。
扨、金沢卯辰山山麓寺院の一つ蓮昌寺。
このお寺の門はその形状から特筆すべきものとの掲示がありました。
2025年
6月
21日
土
西養寺鐘楼の美的 障子と格闘の一日 まだ続く
引き続き与えられた課題に着手。
本堂障子引き戸の開閉ストレスの解消です。
障子の開け閉めに関して、レールと滑車に問題がないのに開閉とも障子が途中で詰まって動かなくなる現象。
イラっとさせられます。
そこでグラインダーを持ち出し障子の天の部分を削りだしましたが・・・どうにも改善しません。
以前どの時期かわかりませんがその部分に高さを出すための板が張り付いていましたので試しにそれを外してみるとうまい具合に障子は走り出しました。
経年によって天井が下がってきているということか・・・
というわけで2か所の障子のその「付けたし」材を外しました。
庫裏側の障子の着脱を幾度もチャレンジしていると劣化の激しいこの箇所の障子は酷く破けまくり。
よってその障子を表に出して一気に洗浄、障子紙の手配に動きました。
障子といえば朝一、私を追って来た「キイロシロ」は正面中央突破、堂内を回遊しました。
この日はその修繕①から始まったというワケで。
お昼に庫裏にいると外に出た奥方から「いったい何処をなおしたっていうんだ・・・」と。外に出て見れば②のザマが。
ネコの仕業ですから許容、正面だけに早速に仕事にかからせていただきました。
障子を外しての作業中、再び本堂に入った彼女を追ってウスキイロシロが歩いていたのにはため息が出ましたが、彼らは気が済めば出ていきます。
一度は収まった障子破り、彼らとのイタチごっこが再開したのでした。
天気がいいので障子は開けっ放しにしようか・・・
扨、先日記した金沢西養寺の続き。③~⑧画像。
ここの見どころは本堂に加えて鐘楼の美しさ。
拙寺のそれとは「雲泥・・・」といったら気の毒か。
2025年
6月
20日
金
新店舗の看板 ? 会館扁額「無碍」を正面に装着
積もる課題解消のため4時すぎに起床、1日かけて複数のそれを片付けることができました。
優先順位の高かったものばかりで、まずまずの進捗は上々。
好天続きと明るい時間が長いことが何よりありがたい。
おかげさまでその尻腰を押してもらいました。
春の法要で御門徒さんにお披露目した会館1階部分でしたが、昨日ようやく正面玄関に額を掛けました。
御門徒さんの書家のご寄贈ですが、文言と書体は私が指定させていただいたものです。
額はとうに手元に届いていましたが設置のための段どりに色々と頭を悩ませました。
入口上部に重量がある額を後付けすることは大工さんに伝えていました。比較的広い面の内部に受けとなる木材を入れてもらうことの依頼です。
ところが先日、外装の鋼板にドリルで穴開けをした際、工事は一旦ストップしていました。
私が大工さんに依頼した「支点となる材を入れる」のイメージが少々違っていたよう(これは口だけで依頼して内容を確認しなかった私のミス)。
今回穴あけをした際、鋼板の向こうが中空だったことが判明したのでした。
一体全体向こう側はどうなっているのだろう・・・という疑問が発生、拙ブログのどちらかで「重大事案発生」くらいのトラブルについて一言だけ記していましたが、そのことです。
大工さんに問い合わせすると間違いなく補強材は中に入れたが鋼板との間に25mm程度の空間があるとのことでした。
私は直にその材があるものと勝手にイメージしていましたのでネジ式のフックとワイヤーのみを用意していました。
よってその選択では設置ができないことがわかりました。
この重量物を中空間のある壁、鋼板といえどもペラっとした壁にあの重量物を装着することの思案をこれまでしていたのでした。
まぁ思案の挙句のオリジナル器具を作成するのに時間を要したのでしたが、重量の殆どをドア上部の縁の数センチの段に置いて逃がし、空けた各2箇所の穴には一体の座金で壁面を安定させ、50mm程度のビスで固定、そしてワイヤーの支点としました。
装着時には奥方に脚立に上がって額を押さえてもらいましたが、
余計な事を口ずさんでいました。
「どうせインチキ工事・・・」。「そば屋の看板・・・」
実は私も不安ではあります。
装着後何度も見に行ったほどでした。
これからも荒天の日にはびくびくさせられそう。
暖簾などかけて「営業中」の札でも掛かれば・・・何のこっちゃあ?
喫茶「無碍」くらいは暇の日、天気のイイ日限定で「開店」しようか・・・
これで「無碍一道バッグ」と一貫した宗旨のメッセージを主張できるというわけで。
早速装着中にお参りの方から声が掛かりました。
「それって何て読むの?」
そこから会話が進むというわけで。
2025年
6月
19日
木
卯辰山山麓寺院群 金沢東山西養寺
境内敷地内の課題は積もるばかり。
かといってそれらの圧に振り回されるのは真っぴら御免。
基本「のほほ~ん」とやらせていただくことにしています。
しかし何故にこれほど時間の経つのが早いものか・・・
やたらと時計の針が「ハリーハリー」という具合に進んで行きます。
先日まで本堂の極寒をとことん味わってそのボヤキを吐いていたところでしたが、ここ数日はエアコンに扇風機フル稼働、それらの使用無くしては庫裏の午後の滞留はもはやムリですね。
我慢などしません。昨日は今年のお初、かき氷を食しました。
私は「イチゴミルク」。
最近のかき氷流行りで色々なそれの紹介がありますが、他はすべて邪道。
沖縄時代のオフの日、近場のホテルのプールサイドのデッキチェア上に一日中、それを何度もかき込みました。
そんな日常、もはや過去のさらに過去の昔話。
奥方は「飛行機には乗りたくない・・・」と言いますのでそんな時間は味わえないのかも。
扨、金沢東山、卯辰山山麓寺院群は夥しいほどのお寺が集まっていますがすべてのお寺をお参りしたワケではありません。
また、お寺とお寺が隣接していて裏山の墓域がいったいどちらのお寺の管理だろう・・・など混乱するくらい。焦点も呆け気味になります。
お寺の名称も同じような名がありますし、今となっては一体どこだったのか、何だったのだろう・・・といったあまり意味のない散策だったことが。
こちらのお寺たちは前田時代にこの山に集約されたもので、寺自体の創建は古くあったとしても実際にこちらに来たのは前田以降のことですから遺構としては圧倒的に江戸期のものたちになります。
というわけで脈略もなく「そこにお寺があるから」程度の軽さで伺ったのが西養寺(場所はこちら)。ごめんなさい。
こちらのお寺では本堂建築の妙を紹介していました。
2025年
6月
18日
水
天気晴朗なれど 海は意外に風強し
朝からニュースでは「猛暑になる」ことを伝えていましたが朝一は墓じまいのためのあげ経、そして某港の埠頭に向かいました。尚墓じまいのご遺骨は拙寺一處墓へ。
粋狂舟遊び、お水遊びの類でしたら何ともよろしいことですが法務の為の乗船でした。
海洋散骨に携わっている知り合いからその日の同行を依頼されていたのでした。
気温がグングン上がって尚海に出られるなどの機会はそうはないことで有難い事ですが、法衣の着用とリラックスできない法務ということ、それに何より、あの気温はさすがにキツイ。
また、船は10m近い風、船は相当に揺れました。
船長は「本日のキャンセル」も頭を過ったそうですが日程が詰まっていたため強行したとのこと。
まぁこの手の自然相手の仕事での判断ミスはそういった時に起こるものですからね。
そして私、沖縄辺りでの大きなデッキのある船(漁船)と違って裸になってひっくり返って居眠りなどできるワケにいきません。
また法衣でよたよた、挙句転ぶなどするのはあまりにも無様、持ち物も多様、色々配慮が必要な空間でした。
帰宅してから睡魔に襲われしばらく寝床に転がって日中の爆睡を。これは久々に大海原に出て頭の中が揺すられ、いわゆる船酔いになったかも・・・と言うと奥方が「それこそ熱中症だろ」と。
なるほど、炎天下で法衣を着て、非リラックスの環境で、大いに揺さぶられる・・・まぁ普通の生活では味わうことができない、シチュエーション。
もう若くない・・・のかも。次の機会は息子に頼もうか・・・
この梅雨ってこれからどうなるの?という疑問。
一時的な梅雨の晴れ間であってこれが終わると長雨に突入するのか・・・そしてもう一つの疑問は・・・6月中旬がこの気温だと盛夏は一体どうなるの? です。
昨年は一度だけ浜松で40℃を見ましたが今年はその「40」の語がやたらと連発されるのかな?
何があっても驚きませんが。
冥途の土産ってヤツ。まぁ何でも楽しむことにしましょう。
④は港に到着後、まさに手の届くような場所にイカが。
一同「うまそう~」。「タイもいる~~」
人間なんて行き当たりばったりの煩悩のママ生きているのです。
2025年
6月
17日
火
金沢旧おがわちょう 来経寺 バッハに苦笑い
浜岡のホールを行ったり来たり。日中は殆ど外に出ていました。安定したお天気で申し分なしの感、有り難いことです。
暑いだ猛暑だとニュースでは騒いでいましたがそう大したことなかったような。
メディアはいろいろ煽ってくれますね・・・
昨日、私が「いつもそうだったっけ?」と気づいた事。
ホール出立直前には大抵、ミュージックオンの演出があります。
相良の某ホールでの当流の恩徳讃には耳に馴染んだところではありますが、やはり昨日朝、BGMの数曲が流れていました。
私はその曲に思わず苦笑いして溜息・・・といっても心の中でですが。
その曲名のトップバッターが「アベマリア」そして最後の曲がバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」でした。
仏教の法縁に「それ選ぶ?」と首を傾げその疑問が沸きましたがあまりにもノー天気ながら「それらしい曲」であることは違いありませんね。
私はその流れに身を任せるだけですが、他のお寺さんたち、疑問に思わないのでしょうかね。
こういう場、日本的、仏教的儀礼に相応しい曲が見当たらないということでしょうかね。まぁ、どうでもいいことなのでしょうが、施主に選ばせるなど一手。
私は施主の趣向というものもわかって面白いと思うのですがね。
「それ」用に作りこまれたセットを安直に流すばかりでは・・・
扨、昨日記した卯辰山山麓寺院群の一つ来経寺を(場所はこちら)。ちょこっと覗いただけですが。
場所が傾斜地だけにあの能登半島沖地震では塀が崩壊するなど被害があったとのこと。
2025年
6月
16日
月
永久寺金澤寺 卯辰山山麓寺院群 1/53
曇天の空から一転、意表を突く晴れ間と湿潤満点の気温上昇を招きました。梅雨の晴れ間というヤツでしょうが、気持ちとしては「そのまま梅雨明けしちまえ~」。
インドと違って「水不足」なんてどこ吹く風・・・油断ならぬ水断か・・・
法事の施主の奥さんは「やはり故人は晴れ女」と前日の不安(雨が酷かったら墓参は中止)の一掃を喜んでいました。
施主は以前電動鋸で手に怪我をされて包帯ぐるぐるだったことを思いだし、その後の治癒と後遺症について伺ってみました。
私もDIYに電動鋸の使用は頻繁、ハンディタイプにスライド丸鋸に卓上鋸まで・・・特にその卓上鋸の使用の際のちょっとした恐怖は増幅、毎度何か「やらかすのでは・・・」という不安があるもの。
私の知るプロ職人(建具屋・大工)のその手の事故について都合3名承知していますがいつもその方々の痛々しい包帯の様を思い出します。
ということでその時の状況について施主に伺ってみました。
すると第一声「(慣れによって)甘く見ていた(うっかり)」と。
要はいつも私も陥っている気の緩みですね。注意力が散漫というか「大丈夫だろう」の慢心。
何をするにしろ自分の心・・・大丈夫・・・ほどいい加減なものはなし。
ひょっとして小さい品物の工作で刃に引っ張られたのでは?というと「まさに」と。
注意していても「やらかす」場面ですね。
夕刻の法縁のあと、帰宅。夏至が近いせいでまだ日が差していましたので小堤山にちらっと散策。
するとミニゴールを持ち出してサッカーに興じている若者たちが。そんな時以前なら「混ぜて~」と飛び込んだものですが、「まず恥をかくだけ」だろうなどとその無様を想像していると飛び交う声が日本語に非ず。
そしてその上の遊具のある場所、駐車場周辺にも何人かの人が屯していましたがその全員が日本語の会話に非ず。
日没前とはいえあの暑さの中、出歩く人は郷土の人は皆無の様。あの場には50人近くの人がいましたが、そのうち私が唯一日本語を喋る人間だったのかも。
相良も凄いことになっていた・・・
扨、以前金沢の東山、卯辰山(または)という地をうろつきましたがこちらには前田時代に集約されたという夥しい数の寺々が・・・
全部廻るなど無謀なことですので、たまたま門を潜った永久寺を(場所はこちら)。
この山麓には53カ寺が連なるといいます。
2025年
6月
15日
日
揆を一に廣済寺 大坂本願寺そして遠江か加賀かの機縁
一面灰色の空は今にも「降らせるぞ」の感がありました。
昨日は降らなきゃ御の字の気持ちで法要開式。
しかし「大丈夫だろう・・・」のお調子者の意に反して墓参前にポツポツ。
その日は故人が大切にしていた仏具を見て欲しいとのことでそれらをお持ちいただいていました。
私の見立てで良きものなら保存、それ以外なら処分(お焚き上げ)して欲しいということでしたが、「これはいらないね」と即断してこちらで引き取った物(どちらか出された薬師如来のお札)以外の仏具・経典・打ち敷等は「私には判断しかねる」ということで今一度家族で再考、お持ち帰りいただきました。
明治初期の真宗の経典と手の込んだ刺繍のある打ち敷、敷物たちはデザイン的にも面白いもので額装でもすればインパクトある飾り物に変身するでしょうし、「遺物は捨てたらそれでお仕舞」です。その判断はいつでもできますからね。
また先達の気持ちが大いに伝わってくるものばかりでした。
最後に故人のお孫さんが「私が管理する」と言ってくれました。
検討して「やはり・・・」と思ったら「今一度お持ちください・・」ということで。
雨は小降りで許容範囲、難なく法縁は終了できました。
扨、昨日画像に加賀金沢にあって別の国名が二つほど出てきました(尾張と近江)。
その今も残る遠隔地の地名は要は「その地から当地に来た」人があったことを物語っています。各地にもそのような経緯で付けられた名が散見できますね。
小田原の唐人町などもそうでした。
何よりも金沢市街を歩くにあたって、私が以前から顔を出してみたいと考えていた真宗大谷派の寺院がありました。
その名が武佐山廣済寺(場所はこちら)です。
是非にお話をとばかりにアポなし突撃訪問はハズレ。
住職は不在でした。お嬢さんらしき方に応対いただきましたが、さらっとご挨拶をして退散。
その時は「また来れればいいや」ではありましたがそれ以来この地に足を踏み入れていません。もう少し粘れば良かったのかも。
昨日も私の不在時に榛原のK氏が来られたといいますが、やはり翌日からの金沢旅行について話していたとのこと。
今、私が金沢に向かうとしたら近江市場での満腹は外せませんがこのお寺に立ち寄ることは第一義ですね。
拙寺初代今井権七(郎)は「廣済寺門徒」というのが若い頃から耳にしていたフレーズ。
勿論その「廣済寺門徒」の廣済寺とはこちらの廣済寺ではありません。
近江廣済寺の門徒だったということです。
拙寺初代今井権七は三河本楽寺の叔父と合流し遠州に来たのでしたが今井権七が家康方に叔父が武田方に分かれて生き残りを賭けました。
叔父の建立した廣楽寺は当初の東福田の地から掛川に武田とともに移ったのでしたがその掛川廣楽寺の名称が廣済寺と本楽寺の「廣と楽」を取ったのだ・・・と聞かされていました。
そのように近江廣済寺との関わりについては、拙寺にとって基本中の基本。
その近江と金沢の廣済寺ですが、金沢の廣済寺の山号が「武佐山」というくらいでその関係性を示唆しています。
金沢近江町について石川滋賀県人会のサイトが詳しいのでそちらのリンク先を勝手に。「近江町成立の由来」です。
※→今戸の廣樂寺
私はそこに真宗門徒の「揆を一にする気概」というものを感じました。
相良の本通り周辺も古くからその主張をしたとすれば「近江町」などの字名ができていたかも知れません。
近江の地を祖とする皆さんが多いですからね。
近江から北陸に流れた人々そして拙寺初代とその関わりの深い諸家は遠江に流れた・・・その違い。
2025年
6月
14日
土
金沢経済の中心 食と観光 病状快癒の目出度さ
たまたま天気良好。
藤沢の妹家族が妹の息子の運転で 訪れました。
一週間ほど前からこの日を子ネコ引き渡し日と決めていましたので晴れは有難い。
昼ごはんに吉田の「さわやか」で待ち合わせをしましたが食事を済ませたあと、妹を拙寺に降ろしてすぐその夫と息子は「宝明楼にラーメンを」と言いながら再び出ていきました。
「よくもまぁ」と見送りましたが妹は妹で夜は「かつみ食堂」の案があったようでした。それには私は「それはムリ」と。
既に閉店してしまいましたからね。
久し振りの相良で彼らなりの当地の懐かしい味を一気に味わいたかったのでしょう。
妹の夫は勿論私より少し年齢は下になりますが、心臓弁膜症を患ったうえ白内障のせいで視界狭小、よって大きな車は手放したそう。街内は小型車で昼間限定で走っているようですが。
よって今回の長距離運転は息子。彼の車の後部座席にネコたちと同座して帰って行きました。
一家族全員が一緒に歓ぶことのできるその癒しアイテム、そうはありませんね。ネコたちが心身維持のための基軸となる。
無事到着後の画像を見て私どもも一安心。
母親ネコのキイロシロは寂しそうでした。
夜は本日も彼女を確保成功。庫裏の最奥にあるケージに入ってもらいました。餌で誘引したのですが毎度「その手は桑名の~」になるかも。
心臓といえば榛原のK氏は縁者の系統「心臓を病む人多し」とのことで本人も以前、「ギリギリのところで助かった」と話していました。怖いですね。
そのK氏の親戚筋となる須々木のN氏より昨日連絡がありました。
「骨をぶち割って心臓の弁を~」「そして退院できたよ~」と何とも明るい声が躍っていました。
詳しく知りませんが「血液が逆流」するとのことでやはり弁の不調の病。
予定より手術が早くなったようで(当初は秋ごろと伺っていました)、そのすばらしい連絡には驚かされました。
先日榛原のK氏は拙寺奥方に「N氏の手術は成功した」と一言告げていたそうですが、私にその件伝えることを失念していたとのことで。
N氏は麻酔中に「悪い夢」を見たそうで、その内容を話されていましたが目が覚めた時に、医師に向って何か喚いていたそう。
目が覚めなかったとしたら「そのまま死」ということを連想する場面ですが、悪夢を見るというのはやはり納得できるシチュエーションでしょう。
今は「骨を砕いたせい」で「肩が痛くて仕事はまだムリ」と。
「まだまだやることありますよ」の如くの言葉たちが踊っていたこと、大いに目出度い事です。
そしてまた一昨日榛原のK氏と会った際、その件には触れていませんでしたがウキウキした声で金沢旅行のお楽しみについて語っていました。
一つの重荷が晴れて下ろすことができたということだったのですね。
金沢は歴史遺構だけではなく食とまち並み散策の楽しみがありますね。
人混みは苦痛ですが・・・
画像は金沢城からも遠くない近江市場付近から情緒を体感できる街並み。金沢の中心部になりますね。
画像の半分は以前御門徒さんから提供されたものです。
2025年
6月
13日
金
キイロへの対応 キイロとインドのリスク
午前中の一瞬間のポツポツには予報と違って「こんなはずでは・・・」とイラつかされましたが(塗装作業中)何とかそのポツポツ程度で済んで一日中安定した天気が提供されました。
午前中来訪された組長さんは「どこかで傘を忘れて来た~」というくらい。
午後からは来客がありましたので境内仕事の進捗は限定的でしたが、この日は2、3の当面のテーマの解消があり充実した一日となりました。
私には多くの抱えているテーマがありますが、それら解消はまずは行き当たりばったり。
「保留」なる都合のイイ語で誤魔化します。
しかし昨日ブログでは国の抱えるテーマである米問題は保留にしておくことはできないでしょう。
火に油を注ぐカタチになったのがあの大臣さんの発言だったのですが、国レベルでも難題テーマをそれ以外に多くを抱えているものです。
国政ともなればしっかりと将来の展望とそれに沿った計画を策定しながら問題の対処に向かうことは必定の事。
先般視聴したNHKの番組でインドの内陸都市「ベンガルール」
(バンガロール)の深刻な水不足について報じていました。
インドの方と仕事をしたことがありますが、私のその国のイメージは「独特である」と感じていました。
お国がらでしょうが・・・。
概して自己主張が強く、自信過剰で人懐っこいところを思いますが、頭が良くてハイテク機器に強いところには驚かされました。
また自己の欲求への抑制ができにくいことも感じました。
なにかしら「人」というものにはそれぞれ個性の違いがありますが日本人的な発想ではついて行けないところ散見。
外国の方は日本人と違って何事も「ストレート」ですからインドに限った事ではないのでしょうが。
そのIT産業の急激な発展で人口が急増、経済的にも潤う巨大都市と化したその都市の弱点は「水」だとのこと。
梅雨入りして「雨」にうんざりさせられている私にとって水不足とか渇水などいう語は縁が薄いものがあり、水道の蛇口をひねればジャブジャブになれるという雨嫌いの者の優越感を見出す事ができたというわけで。
水道インフラは植民地時代の旧式遺物であってこのハイテク産業の集積都市の未来は危ういよう。
それどころか工業用水の確保以上に飲料水、生活用水の確保すらままならないということですからね。
庶民の水が配給制になっているとも。
また農業関連の耕作地への配水は殆ど行われなくなったともいいます。
イケイケドンドンでハイテク産業を誘致して湖沼山林を切り開き不動産開発を行ってきたツケが出現してきたということですね。井戸を掘っても水に行き当たるには深度を新たにするしか無くなっているという現実。
ハッキリ言わせていただければ施策の「優先順位」が間違っていたということでしょうか。
まずは「人の生活」こそですね。農業生産は勿論です。
それらを蔑ろにしてお金持ちになれる道をひたすら邁進した「IT都市」の敬称。今後見物となりますね。
その都市の水はいずれ枯渇するという説も。
日本の企業もそちらに進出していますが、品物を作るにあたって使用する水の購入費用が突出していくことも考えられますし、水が無ければ何もできないのでは。
水で潤う日本、あらためてその有難さを思います。
昨日はキイロシロ(境内ののらネコ)を市の補助を得て病院に連行する日でもありました。
さりげなく踏ん掴まえて嫌がる彼女を・・・私のことをそれなりに信じてくれていただけあって少々申し訳ないという気持ちが起こりますが、彼女にとってその施術は各病気を遠ざけることもあって悪いことではないはず。
すべてのことが「私の都合だけではない」と心に決めて。気を許していた彼女を拘束。
ネコエイズと蚤の薬をオプションで。
エイズは陰性ということで一安心です。
そして子ネコの感染についてもフリーということで。
それは新しい飼い主への責任です。
最後の画像はユリ満開ピークアウトの図。
ピークを過ぎた植物のキイロたちですが、あまりキレイとはいえませんね。
徒長した茎が頭の重さに負けて倒れるというのがイケませんね。
2025年
6月
12日
木
誰かが何処かで 恥 末の松山も松風の音もナシ
朝から雨。
奥方は「梅雨だから、しゃあない、しゃあない・・・」。
お参りの皆さんは「きっと来ないだろう」と踏んで本堂の閂を外したのが8時すぎ。
というのもネコが障子を破って堂内に入ることが復活。
ここのところ2度も正面突破を慣行され、挙句障子貼りをさせられることに。
しかし、戸を開けないわけにもいきませんのでまぁ、いつもの「その時はその時・・・」なのですが。
これはできるだけ障子を露出させる時間を少なくしたいというところ。しかしネコにはかないません。
これも「しゃあない、しゃあない」ですが。
前回の屋根修復後も数度に渡って庫裏の屋根を押し破られています。
昼も過ぎて少しすると雨がやみましたので奥方の買い物に付き合いました。
その後、陽光も差すほどに天気は回復しましたので境内作業をしばし。
そしてまた新たな問題の発生もあって・・・唖然立ち尽くし・・・頭が痛い。
扨、日本の国民一同、今頭が痛いというのは「米」でしょうね。
先般はある旧寺院出身の方から「米を分けて欲しい」という連絡が。
というのは昔の(それも大昔の)「寺の蔵には米が唸っている」といったイメージがあったのでしょう。
父が子供の頃の話、やはり蔵には米俵が山積みになっていたと。悪さをしてお仕置きに蔵に閉じ込められた際、その俵の米を「ぶちまけてやった」とその反抗の件を。
本山でも現在、冥加金の代わりに米を納められる場合がありますが一昔前は「年貢」という言葉もあってお米=おカネの感ありましたからね。
ただしその方の言う「米」は生産者から直接届いた米のこと。今でいう、問屋、卸、JAなどの中間業者の存在を無視した「お米」のこと。
要は「余っているお米があるなら少し分けて欲しい」というものでした。
切実なところを察知しましたが、時代が違うことと、現状「寺にもコメはない」ことを伝えました。
そんな折り、辛坊治郎氏が今の我が国の米騒動についての所感を語っていました。その方はハワイ在住とのことでそちらでのショップの米価格を紹介していました。
「日本産100%の米が5キロで2900円(1$145換算)」。
日本産米「こしひかり」5kgが19.99ドルで販売されており
「アメリカの人件費が日本の倍以上であることを考えると日本では、流通段階のどこかで誰かが大儲けしてるとしか思えない」と。
そんなことはうすうす承知しているところですがこの国内コメドタバタ劇は殆どは恥(shame)かもね。
「(何処かで)誰かが大儲け」なんぞと聞くと私はディーン・マ
ーチン の「Everybody loves somebody sometime~」なんて粋な曲を思いだしますが、その誰かって一体・・・
そういえば先般政治家さんが「米なんか買ったことない 売るほどある」と豪語されてクビを切られていましたが、案外それはただのバカっ話ではないような気もしないでもない。
ロスで始まったデモでもそのshame連呼の図を拝見しましたが、まぁ人間のやること全般恥ずかしいことばかりなのですね。
自分自身の恥を知らない私も結構にそんなものなのでしょうが、その私が思う相良の恥は(毎度毎度記していますが)海岸土塁上の松たちの無残な姿。
これを恥と思うか思わないか、やるべきことの優先順位下位のことで「しゃあないしゃあない」で済ますか、それを放置したままにして何も手を出さないでいるのか・・・私はその躊躇、放ったらかしの躰は「恥」と思いますがね。
一休さんが詠んだという「心」についての思い「松風の音」(「心とはいかなるものを言ふならん、墨絵に書きし松風の音」)も「末の松山」の松のイメージも無し。
当家は「御林守 御用」という件があるだけに殊にこの松の件は気になってしまいます。
④画像は富士宮市の富士山世界遺産センターで開かれている企画展のポスター。
期間中に立ち寄れればと頭に入れていましたがその機会は訪れませんでした。
2025年
6月
11日
水
柳生正木坂から打滝川沿いを歩く 蕉園渉筆の大公
朝から小雨が降り続く中、昼前に金谷からの見学者を連れて長谷川氏が。
その際、ついでということで昨日ブログで記した「一橋様~一位様」の件私の検討した内容を示しました。
といってもあの文書の中身は時間軸だけで考えると矛盾するところがありますのですべての想いが推測どまり。
確証を得るには至りません。長谷川氏も同等です。
ただしあの時代の江戸城界隈を見て「一位様」というのは限定的。普通に考えれば治済しかいません。
私は断定に近く「治済」と。
そして治済は晩年近く代官小島蕉園の時代に至って尚蕉園渉筆に登場するくらい相良治世に顔を出している雰囲気(品誕に大公は~・坂井の山崩れ)。
領内のことでもありますから、その記述(蕉園渉筆)に登場してくることは判りますが、相良ではあまり表にでてこない殿様一橋治済、拙寺の書面の件だけでなく意外なところで顔を出してきます。隠居してもバリバリ感が。
扨、画像は柳生打滝川を歩いた際の様。良き意味でこの自然の中
の田舎さ加減は私の心を和ませます。
2025年
6月
10日
火
柳生藩家老屋敷 検証一橋様への礼状の一橋とは
昨日午前から昼過ぎまでは曇天ながら雨は無し。
施主はありがたいことだと。
平日ながら法事がありました。
法要後施主の過去に味わった苦痛いろいろ。
特に衝撃的だったのは貧乏で医師への支払いに品物で支払ったことがあったとのこと。お見舞いで戴いたお菓子を菓子屋に返品していくらかの現金を手にしようとも考えたこともあったと。
そして「風呂には入れた」・・・その理由は昔のメーター(そう仰っていました)というか当時のそちらの家の水道はぽたぽたレベルで蛇口を少~しだけひねればメーターが回らず課金されることがなかったといいます。溜めてから使用するという作戦と。
まぁ水道泥棒ということでしょうが一昔前は何後もアバウトでしたからね。そこまで困窮した経験を耳にすることは新鮮でした。
私も時給560円で奥方(510円 △50円は船舶免許)と沖縄暮らしをていたことを思い出します。家賃と食費、車の維持費でいっぱいいっぱいという時期がありましたが、あの時でも何とか適当に生活していました。
それはただ健康体であったからですね。
健康でさえあれば何とかなるのでした。何事もそうですね。
病気をしたり不慮の事故があればそんな余裕は一気に崩れ去ることになります。
先日は史料館の長谷川氏に拙寺の「一橋様」宛礼状の控えの存在について記憶にあるか振ってみました。
私もうろ憶えでその存在のみについてでしたが、彼はしっかりその存在について把握していて「年号があったと思うが一橋でも治済の次代でしょう」と。
というわけで仏間に転がっているその額を引っ張り出して久し振りに眺めてみました。
何せ私はこれまでこの書面の相手が一橋治済本人であると思いこんでいましたからその指摘には少々驚かされました。
まぁその年号の存在についても記憶が飛んでいましたからかなりイイ加減なものですが。
以前ブログではこちらにその件記していました。
その文末に文化二年十月、1805年とありました。
その礼状中にその御礼の件「享和元ゟ文化二」とありますのでそれが享和元年(1801)から始まったことになります。
ということで享和元1801年の一橋様はたれか・・・を検討。
以下Wikipediaより転記。
「寛政3年(1791年)3月5日、権中納言となる。
寛政11年(1799年)1月27日、従二位権大納言に叙任される。
同年、一橋家の家督を六男斉敦へ譲って隠居し、幕府から5万石の賄料と5千両の年金を別に受ける。文政元年(1818年)6月5日、剃髪して穆翁と号す。同年12月11日、裘袋(きゅうたい)着用を勅許される。文政3年(1820年)4月21日、従一位に叙せられる。文政8年(1825年)3月7日、准大臣にのぼる。
文政10年(1827年)2月20日、77歳で死去」
寛政11年(1799年)に「家督を六男斉敦へ譲って隠居」とありま
す。よって単純に見て書面の「享和元年(1801)」には「一橋様」との呼称は正式にはないだろうとのご指摘ですね。
一橋家三代目家督を継承した斉敦の生まれが安永9年(1780)で
没年は文化13年(1816)ですから書面の享和元年(1801)は
家督継承2年後の21歳。
その年でド田舎相良の老齢隠居の坊さんに配慮差配があったかどうか・・・その辺りの件はどうなのだろう・・・と思うところ。
家督を譲ったといっても治済は大御所の如くの権威を思うままに振った人でしたからね。
なにより書面冒頭に
「一橋様御支配之節 一位様格別之御仁恵之」
とあります。
その官位「一位」を実際に叙せられたのが文政3年(1820年)で
すから、首を傾げるところでもありますが。
まぁ、あたかも従一位は当然の如くの「支配」という風潮があってのこと、そう記したかとも思えますが。
ということでこの文面「一橋様」につづいて「一位様」の記述こそ一橋治済で間違いないかと。
ちなみに一橋斉敦は従三位どまり。
扨、画像は昨日記した柳生家老屋敷の庭。
家老職ともなれば自宅内部にこういった庭園を造り、心の余裕を楽しむことができたのでしょうね。
それがステータスと。お金持ちは庭・・・
拙寺の庭・・・坪ノ内・・・草ぼうぼうとぺんぺん草。まったくもって貧乏くさい寺です。
2025年
6月
09日
月
柳生藩家老屋敷 トークショーは33倍
法要開式が11時でしたので朝から一仕事とばかりに張り切って塗装の仕上げを・・・と準備にかかれば雨がポツポツと。
それでいて日が差す時間があったりと変てこな天気でした。
曇天でさえいてくれればそれでも有難いと動きだせばまたポツポツと。
これからしばらく雨続きの予想、梅雨入りということでしょうが私の宿題がなかなか捗りません。
勝手にしやがれ・・・のんびりでやらせていただきま~す。
法要の参列者に「新潟から・・・」という方がいらっしゃいましたが、一昨日の近江高島といい、年配の方々の行動力、単独での長距離移動には敬意を表します。
「新幹線でスグ」とは言いますが、わたしの頭の中では想像を絶する苦痛をイメージしてしまいます。
しかし方々は平チャラの様ですからね。
自家用車での移動に慣れ親しんだ私は列車もその乗り換えもバス移動ももはやムリ。
奥方が指摘するにはそれは「切符の買い方やバスの乗り方がわからないからだろう・・・」と。
それも一理ありますが一人でのんびりのドライブがスペシャルです。
そういえば一昨日の午後は「田沼親子お国入り」と題して渡辺謙氏と宮沢氷魚氏のトークショーが「い~ら」でありましたね。⑨は相良波津の交差点付近。
既報の通り私どもは応募も落選しました。33倍の当選確率という超人気。私の知っている方で当選された方はたった一人だけでした。
どちらにしろ法要のお斎がありましたからそちらに向かうことはムリでしたが。
また詳細はNHK静岡放送で放送されるようです。
先般お世話になった美術館ナビで画像入りで伝えられていました。
扨、画像は打滝川の削った西側の段丘、柳生藩家老屋敷が。
2025年
6月
08日
日
柳生街道 摩利支天山 土葬葬送の生の目撃談
殆ど曇りに近い晴れ。
私は朝から法務の用意と一昨日の塗装作業の乾き具合を見てからの片付け作業を。
堂内は蒸し暑さを感じ墓参は蚊の襲来に閉口させられました。
法要ののちはお斎にご招待されてしばし歓談。
終了間近になった頃、奥様の実家について問うと「ここに居並ぶのが姉さんたち・・・」と紹介されました。
伺えば長女の方は滋賀から来ましたと。
遠江から近江に嫁入りしたのですね。私の思い込み、てっきり車での往来かと思いきや京都に出ての新幹線利用との事。
その地は私も詳しくなくはありませんので「滋賀のどちらから?」とさらにしつこく。
すると「どうせわからないだろう」という気持ちがあったかどうか知りませんが「高島から・・・琵琶湖のウラの方ですよ~」
でした。
高島といえば私が一時期ハマっていた近江の地、よって「あの メタセコイア並木の・・・」と反応。それよりも各城址(大溝城、清水山城、田中城ほか)に顔を出していますからね。
もっと早くその件を知っていれば盛り上がったはずでした。
興味深かったのは30年ほど前に高島での葬儀に初めて行った時の話。
それが棺桶タイプの棺での土葬葬送の衝撃です。
不謹慎ですがそのような生の声を聞くことは初めてですので興味深くそして楽しくお聞きしました。
私はその件承知していましたが、桶にご遺体を納める際、屈曲させるため硬直した遺体を「ボキボキと」音をたてて「畳む」ようにして(無理やり)押し込んだことの唖然。
30年前の高島辺りで土葬が継承されていたことを知ったのは収穫でした。
そこでまた、次のバスツアーの候補地の件閃きがありました。
私が鯖街道について話を振ると「その道から京都に出る」ことがある・・・
そういえばと、その会話の中で私が想いついたのが「大原」。
2日目東大谷に納骨後大原フリータイムを入れて大津から帰還するというもの。
ただし歩きも多し、余程の寺好きでないとあまり喜ばないかも。
また天候次第では地獄を味わうくらい・・・何もない野原のイメージ・・・
扨、その手の里山でもある柳生の里。
昨日の柳生八坂神社の先にやはり柳生家所縁の丘があります。
それが摩利支天山。
摩利支天石碑は復元品でしたが。
2025年
6月
07日
土
柳生街道の柳生八坂神社 疲労度満点の一日
昨日も天気に恵まれました。
私は一日中大工仕事&各塗装作業。
塗装作業は経年によるメンテですが大工仕事はこの寺に住まえば死ぬまで続く私のミッションといった感じ。
庫裏はオンボロで毎晩やたらと哺乳類・・・ネコです・・・が闊歩します。時に複数で歩いています。
父親が相良に来たばかりにネコが屋根裏で子供を産みましたが壁と壁の間に子ネコが落下、それらを救出するために壁を壊したという経緯もありました。
ということで今日こそ・・・庫裏の本堂側、ひさしと屋根の間に出来た空間を何とかしてやろうと脚立で私も屋根とひさしの間に。
材木を幾度も切って調整しながらなんとかその開口部を塞ぎ切りました。
そこからは絶対に出入りは不可能と満足したのも束の間、夕刻にシャワーを浴びてのんびりしているとどーんと大きな音がしたのち屋根裏を歩く生命体。
彼らの能力は完全に私の上を行っています。
屋根の張り出し部分をよく見るとひさしの付根に10㎝弱の隙間が満遍なく空いていました。
徒労に終わった感が満ちて、疲労は倍々増。
彼らが天井裏でドタバタすれば私は咳、奥方はくしゃみの連続。古い家は不健康そのものです。
古いモノは大好きなのですが・・・
以前の土蔵の整理で肺を夫婦で痛めてしまいましたが、あれ以来、埃には滅法弱くなりました。完治はしないようです。
古いもの巡りに出かけることができない現状ですが、どうやら以前と違って「えい、やあ!!」の勢いがやや消沈してしまったよう。
それを人は「齢」と言いますね。
そろそろそれを認めなくてはならないかも・・・昨日も久しぶりに脚立からバランスを崩して落ちました。
落ちた場所が本堂の廊下で何もない場所。
ラッキーこのうえなしですが。
しかし脚立というものを舐めている傾向がありますね。
少々反省しました。
扨、柳生街道を歩けば古いモノとの出会いは豊富(柳生陣屋等)。
そしてこんな場所に八坂神社?と立ち止まったのが上記画像。
柳生家所縁の神社といいます。
2025年
6月
06日
金
昨日の罠-トラップ- 因縁果 タイミングGood
梅雨入り前の晴れは貴重です。昨日も晴れ。
この恩恵を享受せずして境内でもやもやしていることはあまりにも不健全・・・とばかりに息子のいる浜松での雑用を思い出し無理やり出立。
彼は夕刻には法務に向いますが、さっと行ってさっと帰ってこよう・・・ということで東名に飛び乗りました。
三方ヶ原スマートで降りて正義の墓参(宗源院)はパスしつつ佐鳴湖方面に向かいました。
そこで奥方指定の店に入りました。
私はいつものように途中で外に出て屋根が有る日陰の店の出入り口前に車を移動しました。
車の中の気温が上がりますから窓を開けリアのハッチを開けるなどして奥方を待ちました。
しばらくたって奥方がリアに所望した品を載せてから、「コレこんなのでいいの?」と。
廻りこんでみると左側後輪を指指していました。
それは明らかに空気圧が低下している様。
目を疑ったのは、先般息子が新潟に行くにあたり空気圧を点検しそれぞれに空気を充填していましたので。
そして更に目を凝らしてみると①の如く、1本の金属物質がその存在を主張していました。
因縁の「因」がここで判明したわけですが、今残る空気圧で何とか対応のできる店を探そうと駅方向に走り出しました。
その因果の「果」を与えた因縁の「縁」について車中で推測問答が始まりました。
私は息子の「新潟行脚」を主張しましたが、それはそれ以来この車を使用していなかったからです。
助手席で暇にしている奥方が息子にもメールしたその応答が「今日踏んだのだろう」(よって責任はない)でした。
私はそもそも距離が違うので確率的に新潟行脚だろう・・・と反論していたわけですがもはやどうでもいいことです。
とにかく早いところどこかで対処してもらわないと最悪の事態になることは必至です。
空気が抜ききって走り続ければタイヤは再生不能になりますからね。一刻も早く早くという気持ちでした。
隣の奥方に最寄りの「タイヤステーション」を検索してもらって、飛び込んだのが某チェーンのカーショップでした。
これでひと安心とその金属の様を見てもらうとそちらの店のルールでこの手の修繕はしないことになっているとのこと。
唖然呆然でした。
やはりあとあと発生しうる不都合について責任がとれないということか理由だそう。
むしろ良心的な店と思い退店しようとすると、「対応できなくてごめんなさい、せめて空気の充填だけでも」と取り敢えずの間 走行できるよう補充してくれました。
正規の空気圧とまでは行かなかったでしょうが簡易充填機で3回も。
走行中奥方が隣で「ガススタンドにでも飛び込め」とコーチングしてくれますが、設備が完璧なタイヤ屋で不可となった事実からできそうなタイヤ屋を探そうとさらに検索依頼。
次の候補を見つけ電話連絡すると3時間待ちで対応可とのことでした。
よってさらに別のタイヤステーションに目的地として照準を合わせました。
するとその途中、前方に別のタイヤステーションを発見。
とにかく「突っ込め」とばかりにハンドルを切りドックのお兄さんに「タノム~」。
「開けて見なくちゃわからない」との見立てには「そりゃそうだ」と全面的にまかせることに。
タイヤをホイールから外し内部の状況を確認してからの作業になります。
時間は1時間少々、金額は5500円で今回の「罠」-トラップ-は脱出できました。
今回もタイミング・・・Good。すばらしい。
もしやこの車で深夜奈良方面に向かっていたとしたら・・・想像するだけでも恐ろしい。
前回の奈良での右往左往が頭を過ります。
バッテリーの次はタイヤでした。車のメンテでも基本中の基本。何ごとも高を括ったらヤラれます。
また後部トランクに「スペアタイヤがあるじゃねぇか・・・」の発想は新たに「甘い」ことがわかりました。
私の車のアルミホイールは純正ではありません。よって、薄型のレンチでなければソケットが入らないことがその際わかりました。
早いところ薄型の十字レンチを所望し車内に携帯しなくては・・・
昨日は「何処にも行かないのが一番」くらいのことを記したばかりでしたが、本当にノーケアのノー天気、危ない危ない。
私から目が届きにくい助手席側後輪ということもありました。恐ろしや。持つべきものは機転の利く奥方様と謙虚な姿勢での点検目視。
前輪だと気づくのは案外早いかも知れませんが、最悪はハンドルを取られますからね。
そこで良かったOK OKと無理やり承引。
そのために何もできずに浜松から帰還しましたが・・・。
たれがどこでどう、その果を拾ったかはどうでもいいこと。
私の宿業もありますが因縁果・・・リスクはどちらにても隠れていますね。
本当の不条理を味わうのはまた別の機会に。
2025年
6月
05日
木
柳生陣屋跡下の岩に彫られた地蔵らしき石仏
昨日は梅雨入り直前の晴れ間。
私は法務で殆ど日中はホールに滞留していましたのでやるべき外仕事はそのまま放ったらかし。
今年の梅雨はどのような豪雨に見舞われて各地でどれだけの溜息がつかれるのか、私ども人間の想像を超えた不都合いろいろについてのこと、まったく想像がつきません。
特に最近の自然の暴れ具合ときたら一線を超えてしまった感。
さぁ、どうやって生き残ろうか・・・
基本ヤバいと思ったら・・・自然に敬意を表し自宅待機ですね。
良きも悪しきもすべてがタイミング次第。
この時期は「動かざること山の如し・・・」でしょう。
扨、昨日ブログでは古い画像、柳生陣屋を記しましたがその陣屋の土台とも言うべき岩に石仏が彫られています。
昨日も疱瘡地蔵への道①を記しましたが、将にそちら。
少々手前方になりますが苔むした岩をよく見ると地蔵らしき石仏が彫り出されていることがわかります(場所はこちら)。
最後の画像が昨日の境内の栗の木と落下した栗の花の図。
梅雨入り間近。
2025年
6月
04日
水
柳生陣屋跡―柳生城―屋敷跡
時折遭遇する「罠」。
「罠」なる言い回しは如何にも過剰ですが、私がそれを一番最初に体験した際はまさに「酷い目にあった」感がありましたから、それと同様のことをつい想像して「これは罠」と断じてしまいます。
一般ではそのようなトラップを思うようなアイテムやシチュエーションはまず遭う機会はありませんね。
それを仕掛けるのは葬祭ホール担当さん、引っかかるのは私・・・といったところです。
担当さんは坊さんを引っかけてやろう・・・などの悪意はないとは思いますが・・・。
開式前に香炉の中に炭を入れておくことは準備として当然の流れですが、火舎香炉の蓋は閉めないというのが鉄則です。
いや、閉めたらアカン !!。
昨晩の会にて「さぁ、導師の焼香・・・」という場面で蓋が閉まった香炉に気づきました。
一般焼香客用の線香用の大きな焼香鉢がそのまま中央に鎮座しその火舎香炉が蓋をしたまま隅っこに隠れていたのでした。
「ハイこれ、罠ね・・・」と察知して蓋のつまみを持たず、そっと火の回り具合を確かめるとまさに炎熱の感触、左後方に待機する担当の方に首を15度ほど傾け(どうなってんの?の意思表示)て、おもむろに左の袖からハンカチを。香炉の蓋をハンカチを掛けて外し無事に焼香を遂行しました。
その私の様を見ていた担当さんは式終了後その失策に気づいて謝りに来られました。
「金輪際二度とこのようなミスはやらかしません」と。
終了後試しにその蓋をつまんでみたそうですが「(酷い熱さで)たまったものではありませんした・・・」とその感想を述べていたことは苦笑。
まぁ私はそのトラップの件「いつものこと」の範疇で、袖に入れたハンカチで対処できました。もしやハンカチを忘れたら・・・かなり困りますがね。
あの雰囲気の中で「あっちっち~」とばかりに蓋を投げ捨てたりすれば・・・寅さんなみの笑いの場になってしまいます。
「蓋はしないでOK・・・」でおしまい。
扨、先日は奈良と柳生の往来にある地蔵について記しましたがかつて私が柳生をふらついた時の画像を。
以前「疱瘡地蔵」に向かう道の手前にあったのが柳生陣屋跡。
こちらまで足を伸ばそうという観光客は不在のようで、此処をうろつくにあたり、余所者らしき人とはどなたともすれ違うことがありませんでした。
奈良中心地から足を伸ばしても近くて般若寺、頑張って円成寺止りなのでしょうかね。
時代劇で頻出のその名なのですが(場所はこちら)。
2025年
6月
03日
火
ユリと栗の花とネコたち
大袈裟な言い回しかもしれませんが、気絶するほど時間の経過が早い。まるで今さっきまで気絶していたかの如くの浦島太郎状態。
このザマでは私の「その時」もあっという間でしょうね。
その短い時間に各病に、つき合わされてさらなる辛苦の終末となることでしょうが、その私が承知している「苦」のうちでもっとも頭に残存しているのが痴呆症のこと。
昨年の盂蘭盆会のご挨拶の書面ではその「病」について私なりに記していましたか今年七月の盂蘭盆会法要でお迎えする方のお話のテーマもそれになります。
その方は医師に「認知症」を宣告され、自動車免許証を返納されていますが、「これ以上の症状進行の前に」と皆さんに聞いてもらいたい事があるとのこと。
それなら是非にということでお願いをした次第です。
「既に認知症」と奥方から日々罵られるほどに覚束なき私ですが、その予備軍であることは必定、耳を澄ませてお聞きしたいものです。
扨、奥方は早朝起床して殆ど一日中子ネコの世話。
昨日は未熟ネコ、一向に体重が増えない「チビチビ」とついでに残りの3匹を獣医の元に。
その未熟児は飲み込みに障害があるかも知れないとのことで、今は地道にミルクを強制的に飲ませ続けることが肝心と。
「如何にも異常」(獣医)で自然世界ではとうに淘汰されてしまうレベルなのでしょうが、奥方は「生かしたい」気持ち一本で気張っています。ダメ元です。
背負いこんだ事案ですから、やれるところまで・・・
画像は昨日の拙寺のユリの見事と栗の花。
栗の花が落ちる候・・・梅雨入りです。
そして招き入れたキイロシロにとり付く子ネコたち。
チビチビは蹴とばされてお乳も飲めません。母親も放棄しているが如く。
他の三匹は離乳食OKですから一番に飲んでもらいたいのですが。
2025年
6月
02日
月
柳生街道の元亀の地蔵石仏
母親ネコの執念はおそるべし。一晩中喚き通していました。
奥方の「勝手にしろ!!」との号令がありましたので朝一、玄関と次の間を隔てる戸を開放しました。
するとキイロシロはすぐさま子ネコたちがいるケージの中に入って、ごろんと寝転んで(170gのネコを残して)お腹に招き入れていました。
他の個体の半分以下のそれ(「ちびちび」)へは奥方が直接、ミルクを口に強制注入しています。
ところが子ネコらは母ネコのお乳をさらっと口にしたものの奥方の出していた離乳食のお皿にまっしぐら。
各自の皿に分けられたそれを平らげるともはや母親には興味なしの様。
三匹は組んだり跳ね回ったり存分に遊びに夢中でした。
これは乳離れというヤツでしょうね。世に言う単独でフラつく迷いネコとなるそのスタート時期、独立の時です。
まずその時節はカラスの餌食になるパターンです。
この室内への彼女ご案内の件、朝昼夕の三回行いましたが時を追ってその傾向は強くなり夕刻の子供たちときたら殆ど母親には目もくれない状態。
あっという間の「成長」というものを目の当たりにさせられました。
昨日の日中のテラスの温度は40℃超え。
そちらに残るのはマンゴーのみですが、このような天気の安定が続けば子ネコの低温対策は不要になりそうです。
扨、私は幾度か奈良円成寺付近をうろついていますが、その前の道が奈良中心部と柳生を結ぶ道。
柳生やらその先の岩船寺辺りから奈良市街に向かうには必ず使用します。そこを使って行き着いた場所をあげたらキリがないくらいです。
その道(柳生街道)を奈良方向に向かって走る際、左下にJA奈良東部支店の建屋が見えるその右側、山が迫る場所に錫杖を持つ地蔵と石標が建っています(場所はこちら)。
何れも文字は判読不能ですが、「元亀の地蔵石仏」とのこと。
奈良と柳生を結ぶ街道は古くから開けていた道で往来も多様、人々の安全を祈って建てられたものでしょう。
2025年
6月
01日
日
古代の狩場 阿騎野 柿本人麻呂の白馬の像
新しい生命体と接すると新たに知る事が多々あります。
昨日記した新人さんたちとその母親キイロシロの件です。
本来ならば母ネコともに確保したいところなのですがキイロシロは野良猫生活が長いせい、「人」への信頼感はまだまだ。
私には抱かれますが家の中への警戒心は尋常でなし。
一晩中境内で異様な声をあげていましたが、さすがに私の行った行為(子ネコたちの確保)が正しかったかのか疑問が湧きます。よって玄関脇の部屋に設置したケージまでご案内しました。
すると一日ぶりの再会に親子ともども感激、双方トーンアップした呼び合いとなりました。
その場を見た、奥方から制止させられましたが。
子ネコとキイロシロがケージのネットを引き裂かんばかりに爪をたてる様を見て私の行為は一体「悪」だったのか・・・とも。
キイロシロの母性本能には驚かされましたが、母親がいつ狂気と変貌し「子ネコを食い殺すかも・・・」と奥方が私を脅かしますので、気の毒とは思いつつ、彼女には退出してもらいました。
お乳の張り具合の感触から授乳させたいという気持ちは手に取るようにわかりましたが。
人の母であっても平チャラで赤ちゃんBOXに入れて別れを告げることなどよく耳にすること。
あの小さき者たちがそれほどまでの「親子」の濃厚な関係を求めつづけることなどは意外なことでした。
私はそれ、もっともっと淡白なものかと誤解していましたね。
そして彼女は一日中玄関脇に滞留しています。
ネコに「諸所の事情」など無いのですね。ただひたすら自分が産んだ子は自立できるまで育てる・・・という責任を感じました。
母ネコの本能なのですが、天晴れです。
人は「私の都合」によって「何でもできる」ということでしょうが(思い込み)、それこそ勝手な自己崇拝、高慢ちきな「私」というものを思います。
ネコたちの様を見て、1mmほど仏に近づかせていただいた気分。
有難し、六字。南無阿弥陀仏。
扨、以前又兵衛桜(またはこちら)を目的に宇陀市内を走りました。桜の丘の喧噪とは別、静かな野原の公園に行き当たりました。遠くから白馬の騎士が目に留まりました。
そちらが阿騎野の人麻呂公園(場所はこちら)です。
この白馬の像こそが柿本人麻呂。
この阿騎野という地が古代の狩場で軽皇子(文武天皇)にお供した柿本人麻呂が詠んだ歌について記されていました。
野原で野営しての明け方というシチュエーションということで。
2025年
5月
31日
土
奥方のミッション ネコがネコ(4匹)連れて来た
朝一、本堂から外に出ると、「キイロシロ」が。
彼女は拙寺境内にうろつくネコたちのうちの一つ、私が呼ぶその名です。
他にウスキイロシロ、クロシーロなどなど、見た目の色でもって・・・。
キイロシロはいずれ妊婦になることが分かっていましたので2月頃に一旦確保したことがありました。
病院に連行して避妊手術を施すつもりで一晩玄関にて過ごしてもらいましたがケージの中で一晩中発狂状態。
土曜日で法事があったこともあり「もはやムリ」とばかりに開放したという経緯がありました。
4月中旬頃までにお腹が膨らみだしてパンパンに。
そしてしばらくして突然スリムな姿で姿を現しました。
「これは産んだ!!」と確信し彼女を秘かに尾行、ストーカー。
すると隣の旧お醤油さんの敷地にある小屋に入っていく姿を視認しました。
それからそのお宅に事情を説明し探索を試みましたが私どもがその物置の中の雑然、見当もつけることができず、ましてや入り込む状況にありませんでした。
よっていずれ「彼女が心を許す場所に移動する(もしかすると本堂下あたりに・・・) 」と諦めて、心を収めていました。
狭小の場所で成長すると出て来られなくおそれがありますし、母ネコはいずれは育児を放棄するもの。
なにより不幸なネコたちを減らそうと早めの回収が不可欠でしたが・・・。
ところが、昨日私が本堂を出た時、彼女の声に反応するが如く近くで小さき声が聞こえてきたのです。
旧玄関に置いた段ボールの中からでした。
一昨晩の雨中、キイロシロは隣家物置小屋から長躯4往復、子猫を咥えて移動したということですね。
この者たちは、キイロシロには申し訳ないとは思いつつ4匹全員確保して自宅内に。奥方の特設ケージへご招待した次第。
というわけで奥方は離乳食とミルクを購入に走り朝から殆ど一日中、4匹の世話係に。
すべて色柄ともキイロシロ、父親はきっとウスキイロシロだったのでしょう。
確保したのちそのウスキイロシロとキイロシロ、おそらく夫婦、玄関の外で二人で子達に声をかけていました。
母親の子を愛する気持ちは良く知るところですが、父親までもやってくるなんて・・・
4匹のうち1匹④は他のネコの半分の体重、170g。
奥方は「全員生かす」と意気込んでそれをまず重点的にケア。
まだ、固形物を食べたことがナイ連中、難しいミッションです。
2025年
5月
30日
金
真田昌幸甲冑正面に梯子紋 常なる家の上昇志向
昨日は再び二連梯子を立てて2階のひさし下の配線工事。
電気工事に来られた御門徒さんのカーゴ車を借りればリスクは無いのですが二連梯子のトップに昇っての作業は結構にリスキー。
昨日は奥方のヘルプは有りませんでしたので真面目に安全対策をしました。
梯子を固定していざという時の為にザイルまで持ち出し私自身装着したハーネスと結ぶ念入りさ。
ザイルの末端は家屋の柱に巻きつけて支点としました。
奥方は先般の雨樋清掃の手伝いの際に肩を壊したということで当家の負傷者リスト入り。
それでこういった作業は「御前が居なくなったら誰がやるのだ・・・」と放言。
要は「リスクを次代に継承するな」ということですね。
母親の気持ちとしてはいかにも・・・というところです。
ただし私は「あいつならヤルんじゃない?」でした。
しかし彼の今は相当の運動不足の躰。体重増えすぎの感。
一昨日NHKの「歴史探偵」という番組内で真田昌幸の甲冑が紹介されていました。
真田といえば六文銭ですが真田昌幸らの甲冑正面には梯子紋。
縁起のイイ紋章ですが、いわずと知れたその道具とは登ること。
常なる上昇志向をイメージしているのですが、その道具を使用する際はまず、落ちること、梯子を外されることなどのネガティブ材料はそうは思案せずに使います。
落ちる事に関しては一応は頭に入れて対応。しかしそればかりを気にしていたら何も出来やしません。
境内「裏切らない」と私のお気に入り、ユリたちが咲き出しました。曇天の空間を明るくしてくれます。
2025年
5月
29日
木
浄土宗実相寺墓域の景色
朝方は半袖ではいられないくらい寒く感じましたが日が昇るにつれて良き陽気になりました。久し振りの晴れ間でした。
私は宿題の一つ、2階の雨どいに立つ笹を除去するために二連梯子を用意。
「何のことないだろう・・・」のお気軽の気持ちでまずチャレンジ。素手で引き抜こうと腕一本で気張りましたがまったく歯がたたず。
手指を突み確認するとビッシリと土が堆積し尚、笹の根が絡まっていました。
前回真下にある排水溝の詰まりを解消させましたがまさにそれと同じまたも植物の生命力に圧倒されました。木々が周囲に多いという事もありますが・・・
そして本堂の雨どいの場合はユリでしたが、こちらは笹。
根の張り具合はより強靭でした。
先般排水溝清掃で入手したホースの先端に装着するストレートのガンとホースを引っ張り出して雨樋へ。蛇口の開閉は奥方に頼みました。悪戦苦闘しましたが作業は何とかクリアできました。
それにしても屋根の上に時間をかけて土が堆積していくメカニズム・・・やはり自然の力には驚かされるばかり。
夕刻に「田沼親子お国入り!スペシャルトークショーin牧之原」の落選のメールが届きました。
すごい人気のようで私の知りうるところ当選者は不在です。
扨、昨日の実相寺、素晴らしき十三重塔の威容を拝見したあとは境内の石塔たちにご挨拶。
室町~江戸期の墓石たちと御対面。
お寺は浄土宗、六字名号を口ずさんで・・・まぁどちらに行ってもそれ以外ありませんが・・・
2025年
5月
28日
水
矢田町通 浄土宗実相寺 十三重塔 奈良県史から
昨日の庫裏の気温は22℃。
当地は他の東海地区の中、最も寒かったようで外気は20℃を割っていたかも知れません。
一日中小雨交じりの曇天、私は近隣ですが法務で動いていました。
先日、葬儀担当者から聞いた話。
その葬儀社は各所数件のホールを運営していますが、幾度も夜盗の忍び込みに遭遇しているとのこと。
「誰も居ない」と踏んでの侵入、金品を探索しようというものでしょうが、葬祭場におカネを置いたままにすることなどありませんからね。短慮で不思議な冒険者です。
時にそちらにいらっしゃるのはご遺体の安置があるくらい。
よってその残念なチャレンジャーのすることは・・・僧侶控室にて厨房などから探し出した菓子類を喰い散らかして帰る・・・といったところ。
いずれにしろガラスを割っての侵入者ですので厄介なことになりますね。今はどちらもセンサーやカメラで防御態勢を整えているようですが、先般は外部電源を落としてからの侵入だったそう。
カメラの設置場所と電源について再検討しなくてはならないようですね。外壁に付くブレーカーへの防御も不可欠。
扨、大和郡山の矢田町通なる町名があります。
丘の上に矢田町という矢田寺からとった地があって紛らわしいところですが、昨日の新紺屋町の近くでいわゆる城の外堀界隈、やはり浄土宗の実相寺(場所はこちら)をお参り。
そちら境内には凛々しく聳え立つ十三重塔が迎えてくれます。
鎌倉時代後期の造立とのことで市の指定文化財に指定されています。
奈良県史から転記します。
「花崗岩製、高さ4m 塔身の四方仏は釈迦・阿弥陀・弥勒・薬師
~屋根の軒下に一重の垂木型を作る。軒厚く両端への反りの確かさと下屋根石から上層屋根への逓減率もみごと」
2025年
5月
27日
火
大和郡山は来年の大河で脚光? 新紺屋町付近ブラつく
昨日午前は大工仕事のち梅の収穫。
今年の出来はまずまずで7.5㎏も獲れました。
先日も4㎏程度の梅を戴いて「もて余し気味」ながらなんとか引き取り手を探しました。
今度の梅は当家の責任、奥方が溜息をついていましたが梅干しにでもするのでしょうかねぇ。それとも誰かに押し付けるか・・・
今時、梅をどうこうしてやろうという人は少なくなったような。面倒くさいことは確かですからね。
夕刻からは葬儀社ホールで法務。
以前来たときにはあった立派な和風の門がキレイさっぱり無くなっていたので「どうしたの?」と投げかけると春の強風で「ぶっ飛んだ」と。
朝から風に吹かれて門がギシギシ音を鳴らしていて「こりゃヤバい」感が漂っていたそうですが昼頃遂に「崩壊」。
当日朝方に出棺の儀があったといい、参列者は火葬場に待機していた頃の事件だったと。
一つ間違えば惨事になったとその時の「ベストタイミング・・・」に一同胸を撫でおろしたそう。
その事案を聞いて、私は日頃拙寺の山門の劣化度が気になっていますので「まさか・・・」の坂。何かのメッセージでしょうか。
扨、来年の大河ドラマではきっと大和郡山にスポットが当たるかも・・・とはあの時はまったく考えもせず街区をブラついたのでしたが、目的なく彷徨った新紺屋町界隈を(場所はこちら)。
城の外堀に接する地で「紺屋町」なる町名から水がつきもの、染物屋の痕跡があるかと思いきや「寺町」になっていました。
ブラつくにはちょうどいいとばかりにきょろきょろ・・・
「コーヒー300円」には心を惹かれましたが・・・
下の画像が昨日収穫された梅。
2025年
5月
26日
月
甲府から来た柳沢家菩提寺 黄檗宗永慶寺 大和郡山
昨日は朝七時に静岡中東部地区での法縁に向かいました。
出立時は「雨があがってラッキー・・・」などと奥方に呟いたのでしたが東名高速は最初から最後までワイパー不可欠の状態でした。
まぁ、日曜日という事もあって走行車両は少な目につき、うまいこと遅延もなく到着できました。
帰路は完全に路面は渇いて相良到着時にはお日様が顔を。
予報では完全な晴れはなさそうですがしばらくは降雨マークがありません。
法縁は息子のピンチヒッターでした。
彼は浜松での法縁の先約がありました。
こんなこともあるのかと驚かされたのはよりによってこの日にもう一件依頼があったとのこと。
勿論それはお断りさせていただいたそうですが。
毎度暇にしている息子に1日に3件も重なるなんて・・・
帰宅すると以前の拙ブログにコメントがありました。
相良陣太鼓酒造の山本敬三が義祖父という方でその方の大学の卒論に記していた件について紹介くださいました。
『陣太鼓』の調査、その後!というタイトルでした。
私も「陣太鼓」の出自についてハッキリしないところがありましたのて興味深い内容でした。
扨、昨日記した奈良大和郡山の黄檗宗永慶寺。
こちらは柳沢家の菩提寺ですね。
それで「なるほど」と思った方もいらしたかと思いますがこの寺は元は甲府にあった柳沢家の寺ですね(画像⑧⑨ こちらも)。また柳沢吉保夫妻の墓は恵林寺にありました。
柳沢家が甲府→大和郡山と移封となったからですね。
詳細は看板をどうぞ。
2025年
5月
25日
日
鬼と猪目とイソヒヨドリ 黄檗宗永慶寺 大和郡山
数日前の暑さの空気は消え去り一言で「涼しい!!」。
半袖で就寝していたら危うく「ヤラれる」ところでした。
ただ外は心地よい風が吹いていましたがホール内での読経は結構に汗が・・・。
読経中脳内よぎったのは「ひょっとして齢か・・・」でした。
汗はかきにくい体質で昔から運動部の先輩から「お前はたるんでいる―汗が見えない」といつもケロッと時にニヤけている私は罵声を浴びせられていましたから。
まぁその不合理きわまりない指摘により余計に鍛錬させていいただいたわけで今の健勝が維持できていると思えば「まぁ、いいか」レベルで落ち着けますが。
ホール内はやたらと暑かったのかそれとも齢なのか・・・後者でしたらいよいよの体調劣化のような気がして嫌な感じがします。
そして発声が思うようにできなくなったような気も。
最近は声かすれが顕著になっている感。
一過性だといいのですが・・・
奥方にそれを言うと「歌手が身を引く理由がそれ・・・そろそろかもな・・・」と引退勧告をされました。
「じゃあ毎日奈良か?」と言うと「バカ野郎!!」とそれは一蹴。ちなみにその「奈良」とは奈良に限らずどちらでもほっつき歩くことを当家ではそう言っています。
まぁ次回はそのものズバリ奈良に向かうでしょうが。
そのホールの控室にてベテランの司会者から「真宗では住職の奥さんのことを何と?・・・」と質問されました。
「曹洞宗では○○ 臨済宗では〇〇・・・」と各宗派の呼名を示してくれましたが私は聞いた傍から忘却しここに示すことはできません。
「奥方」の称は拙ブログのみで使用しています。
「だいたい判ればイイ」程度でその語を使用していますが、通常は私がその語を使用することは如何にもオカシイことです。
しかしその件「どうでもイイ」ことです。
その司会者は仕事がらどうしても相手に「失礼なきよう」にと正式な呼称を頭に入れておきたかったようです。
私としてはやはりどうでもイイことであって「失礼でも何でもなし、何でもOK」というスタンスですが、まともにそれを問い合わされましたのでその件「ああそれね」と「マジに」応えました。
それは「ぼうもり」・・・と返すと不思議な顔でその字面を聞き返されました。
「坊守・・・坊主をお守(もり)する人だよ・・・」と言うとニッコリとして「なるほど・・・」と納得していました。
他流のそれは難しすぎて・・・
昨日のブログではコメントを戴きました。
そして拙寺が紹介されている相良城関係のユーチューブ番組を紹介いただきました。
その労力は大したものですが番組提供者は最近相良に訪れたことが判りました。
またコメントを戴いた「お祭りさん」が以前から着目して適宜そちらの話題を提供されていた「小島陣屋跡」について小和田哲男先生の小和田チャンネルでアップされています。
それが大河ドラマで登場した恋川春町の解説バージョンです。
松平定信に腹を切らされたとも言われる春町ですが、その演出によっては昨日記した如くの相良―白河の和議の風潮に水が差されるかもしれませんね。
まぁ松平定信の改革とやら、江戸文化には強烈なるネガティブとして作用していましたから松平への嫌悪はその一つに限ったことではありません。
画像はその奈良。
大和郡山の黄檗宗永慶寺での一コマ。
印象的だったのは鬼瓦の上に留まって囀るイソヒヨドリ。
大和郡山は内陸です。相良ならまだしも・・・ですよね。
彼らは拙寺周辺にも定住するようになってしばらく朝から晩まで美声を聞かせてくれていますが・・・
そしてその「鬼」にも例の猪目が・・・しっかりとその存在を主張していました。
どちらに向かうにしろ青い空がイイ。
2025年
5月
24日
土
斬新すぎる建造物 こんな神社見たことない 尾山神社
よる7時からのNHKニュースのあとの「マスターする江戸時代」の静岡放送版を視聴。
「田沼意次の経済政策が革新的」と高い評価(でも運がわるかった・・・)がされていました。
数年前からの意次評価の「掌返し」には相良人として誇らしいし、してやったり。驚きもありますが有り難いことです。
これまで田沼意次バッシングの片棒を担いだ歴史関係で物申す方々、面目潰れの様でしょう。
見識が浅かったということで。
大河ドラマでの盛り上がりから(相良だけかも知りませんが)このほど白河市との友好をと相互の交流が始まりました。
数日前も拙寺に白河市の若い人たちが何名か見学に案内されていたようです(私は外出中でした)。
というのはここへ来て相良藩―田沼意次と白河藩―松平定信の間で仲直りをしようという企画が。
やはり我ら相良生まれの感覚では田沼意次を失脚させて相良城を破却したのは松平定信でありこれまでは敵といってもいいくらいでした。
ところが最近の歴史解釈では田沼意次の政策「掌返し」と同様松平の後ろで糸を引いていた黒幕として徳川(一橋)治済にスポットが当たっています。よって相良人の恨みつらみは松平より治済に向きつつあるからですね。
番組でも治済のヤバさ、おどろおどろしさ満点の示唆的演出があります。
そして番組では「太田南畝」(三大狂歌師の一人 他は「朱楽菅江」と「唐衣橘洲」)が登場しましたが、その名だけであったとしても「唐衣橘洲」の登場があれば相良人として尚、嬉しい限りです。
その件、拙ブログでも記していますが唐衣橘洲=小島源之助
田沼家退去後の相良に一橋治済から派遣された七人目の代官の
小島蕉園の父ですからね。
また今週放送予定の大河ドラマでは島津重豪の登場があるといいます。
島津重豪の娘が篤姫(最初の)で徳川家斉の正妻、広大院(→大奥に上がった波さんの大ボス)です。
勝手ながら個人的にも大いに楽しみなストーリー、わくわくしてきます。
たとえ思い通りの展開にならなくとも・・・あくまでも娯楽として。
扨、昨日に続き金沢尾山神社。
「神門」というそうです。
明治にオランダ人が設計。
レンガと木材の和洋折衷建造物とはいいますが・・・。
2025年
5月
23日
金
大河のヒロイン まつ 尾山神社に像が建つ
今年の庫裏の最高気温はまたしても更新。
夕刻には29℃になっていました。
夕食の支度にかかろうとする奥方が「もはや我慢がならない」とすかさずエアコンをオンしていました。今年初です。
私の昨日は朝から寺務仕事。
ここ数日は境内でのあれこれ残った「宿題」へ時間を割くことができません。
降雨予想もあってまごまごしていたら梅雨入りです。
一昨日、静波墓園を覗いてきましたが草ぼうぼうの躰。
早いところ草刈りに向かわないと・・・
今後の課題ですが静波墓園の空きスペースに家族用に区切った永代墓でも造ろうかな・・・などと。
要は今流行りの「墓じまい」の受け入れ先です。
しかしながらこの件は地元の他のお寺さんから顰蹙を買うことになりそう。
「宗派自由」など門戸を広げれば立地的な利便もあって需要はかなり見込めそうですが。
何より雑草の生える余地が無くなりますからね。
その手のことを手掛ける業者から勧誘―「建造費無料」「宣伝広告代行」等―がありますが、そういう甘い話はかえって面倒なことになりそう。自分で手掛けられればそれが一番です。
扨、昨日の尾山神社の馬上の母衣武者、前田利家の像を記しましたがこちらの神社の主役は勿論その妻の「まつ」ですね。
というか金沢の人々の思いはもはやこの夫婦で固まっているかのよう。
「まつ」の像建立のきっかけは大河ドラマ放映を記念して。
NHKの大河ドラマの影響力の大きさを思います。
最後の画像が昨日記した神苑へ水を引くための導水管。
多くの石材の接合によることがわかりますが、漏水などあたり前、大して気にすることはなかったのでしょうね。
水の流れとそれを思うが如くに導こうとする管道設置の難しさ古き時代のその工事は想像を超えているでしょう。
2025年
5月
22日
木
尾山神社の金谷神社 境内諸々
春先の長期予報にて「今年の夏は去年ほどの酷暑にはならないでしょう」と。
あの暑さは一過性だった・・・と思っていましたがここへきて今年の夏の暑さは去年と同等と。
予報が当初とは変更されたわけですが、その件まったく触れられることなく、「暑くなりますよ~」のみ。
「暑くならない→暑くなる」の相反するものですからそれについてノーコメントというとろ・・・まぁ、いいか・・・
数日前から扇風機が欲しくなるという庫裏の室温は27℃から28℃と上昇。
風呂上りのタイミング、耐え切れずに電気ストーブを扇風機に交換してスイッチオン。
「たまったもんじゃあない・・・」と一息つきました。
と言いながらも私は就寝時にトレーナー着ています。
6月にかけて夜間の気温低下はあるはずで一瞬の気の緩みによって2週間程度続く体調不良はこれまた耐え切れないものがありますからね。
まぁ私は寒波には萎れますが暑さには耐性がありますので。
扨、昨日の尾山神社。
現在は「尾山」という名称がありますが、昨日も記した通り金谷出丸の跡でもあり金谷神社(二代藩主前田利長から十七代までの当主と正室が祀られています。
「神苑」なる池。
舞楽の楽器を模した廻遊式庭園は旧金谷御殿の遺物。
その水は、兼六園から暗渠を通して導き入れていたとのこと。
そして若き信長の時代に頭角を現し赤母衣衆として名を成した利家の銅像が。
神社の成立は明治に入ってからですがやはりそこは押さえたいところですね。
2025年
5月
21日
水
尾山御坊の尾山は金沢城旧名 尾山神社 金沢城公園
先日の新名神高速の逆走事案の「犯人」が確保されたよう。
次々と伝えられる画像から「過失」(当初は何らかの錯誤があったにしろ)ではなく故意逃走の姿だったところがうかがえました。
とうに気づいているはずなのに停車することなく、逃げ切れるワケが無いのに逃げまくるところはやはり日本の交通事情についてあまり理解されていない人(外国人)でした。
車が小学生の列に突っ込む事故が多発していますが、先日は飲酒してその列に突っ込んで逃走という件でしたが、その人も掴まえてみれば異国からの人。
昨日も日本国内諸事情に無理解なる外国人たちが大挙してきたら・・・果たしてこの国の風土文化伝統に馴染んでいくものか・・・との不安について記しましたが、とにもかくにも最低限、彼らが決まって取得を急ぐ国際免許、自動車免許の取得条件、いわゆる諸規範について確りと頭に叩き込んでいただくようご指導の方頼みたいものです。
日本人には厳しく外国人には何故かカンタンに取得更新できるシステムとは一体・・・
扨、金沢城公園の尾山神社。
現在は本願寺時代の尾山御坊や金沢城の旧名を冠にした神社がありますが、そもそもは出丸の跡(金谷出丸)で鼠多門橋にて行き交いしていたとのこと。
画像の門は二ノ丸門を移築したもの。
2025年
5月
20日
火
大手門口と新丸の石垣 金沢城公園
先般、当地の不動産売買について、その成立の難しさについて記しましたが、そののちに伺った別の不動産(上物付き)の件、「300万円で決まった」という例があったと。
坪数や築年については不詳ですが、中古とはいえ土地付き一戸建てが大衆車購入なみ、というか高級車となればそのような金額では買えないよう安価です。
相良に住まう人たちは異口同音に「タダでもいらない」という負動産ですから300万円でも値段がつけば御の字でしょう。
上物の解体費がそれ近くかかりますし、固定資産税の支払いから今後免れることができるというのはまさに「肩の荷を下ろす」ことになりますね。
ちなみに購入者はブラジルの方といいます。
在日中国人が増え続けていることを昨晩のニュースで報じていましたが、その数、今や和歌山県の人口と同じ(91万人)と。
ビジネスを目的に入国すれば家族を連れてくることができるという特例が我が国にあって、今や日本でジャパニーズドリームを実現しようとする「活力」か押し迫っている感。
川口のクルド人コミュニティの件、受け入れ側として困惑させられている場面を耳目にしますが、後退する日本、沈滞する日本人にとって良き刺激になればいいのですが、彼らとの共生共存についてそれぞれが培ってきた文化と国民性の違いがどう出るか・・・
扨、画像は金沢城大手門口と新丸。
新丸は二代の利長により慶長四年(1599)頃に増設された曲輪と。
石垣積みに金と労力を尽くす時代、すべてに威圧感があります。
2025年
5月
19日
月
玉泉院丸南西石垣 次々と改修復元される金沢城公園
庫裏の気温が24℃だと、うすら寒く感じ27℃を超えると扇風機が欲しくなるといったところ。
その「うすら寒さ」と「暑い」が一日で味わうこととなった昨日、お昼前に庫裏玄関に訪れた御門徒さんの顔からは汗が噴き出ていました。
「寒いと暑い」が同居するこの時期は体調のコントロールが難しく、とかく風邪に罹患する人が出るものです。
横浜の「奥の墓道」氏は先週末から風邪の症状が出て38℃超えの熱に見舞われているとのこと。
しかし週末に歯科医で大口を開けさせられていたことがその感染ルートであると断定していましたが・・・
いずれにしろ私も歯科医院に通っていますのでそれには少々の恐怖を思います。
年初に息子が歯科医院から帰宅した晩より高熱となってそれが当家奥方に感染、絶不調が長引いていました。
今一つ昨日奥方に「恐ろしい」と絶句したのが、新名神高速道路で起こった逆走事故。
丁度私が御門徒さんと玄関で話をしている頃のことといいます。
実は私は「そろそろ奈良に・・・」と一泊か二泊の行程の出立タイミングを計っていたところでした。何せ久し振りの遠乗りで、まさに虎視眈々でした。
日曜午前に出発して月曜か火曜に帰宅しようという感じでしたがたまたま歯科医の予約を入れさせるを得なかったため今回はパスした経緯が。
よってその新名神の事故と通行止めの災難は免れたということの安堵が。
どこかで記したことがあったかとは思いますが事故のあった亀山ジャンクション周辺は私も何度か誤って高速道路を降りてしまったり別コースを辿ってしまったことがありました。
とてもわかりにくく逆走車があったとしても不思議はないというる場所。
ニュースで放映された追い越し車線を逆走し迫りくる車を避ける様を見せつけられて「たまったものじゃぁない」の一言。
実際にその車を避けきれずに事故となり負傷された方たちがいました・・・
それにしても逆走車は無事に逃げ切り、避けそこなった車たちが事故を起こしてしまうなんて・・・まったく理不尽、理解不能。
画像には車種とナンバープレートが映っているようですから御用となるのは時間の問題でしょうが。
ポイントは全過失で最初から最後まで己の逆走について気づいていなかったかそれともどこかで気づいたか(故意)ということ。
帰宅してから奥さんに、「今日はやたらと無理な追い越し野郎と遭遇 危うく衝突するところだった」なんて。そこまでだったらお目出度いかも。
人とは自分が為すことは「すべて正しい」と思いこむところがありますからね。
私はいつその逆走をやらかすのか・・・重大事案。
ハンドルを持ったら「ハイ私がやらかします!!」と常に頭に入れていこうかと。
それにしても多数の人たちの日曜午後の時間を奪ったわけで
それを被った人たちは「どうしてくれるんだ」と叫びたくなるでしょうね。
その日、奈良に向わないで良かった・・・歯医者さんの予約で命拾いしました。
扨、昨日の玉泉丸入口の手前に聳えるのが玉泉院丸南西石垣。
そのお向かいにあるのが鼠多門と鼠多門橋。
私のこの画像は2019年のものでそれら存在は画像にありません。2020年に復元完成があったようですね。
金沢城公園は何かしらの工事が常にあって次々と金沢城の遺構復元が為されています。
2025年
5月
18日
日
玉泉院 前田利長正室の名 その屋敷が玉泉院丸
昨日の法要は御納骨の予定がありましたが、朝から(夕まで)の降雨により墓参は中止、法要後は本堂で雑談タイム。
納骨のみ翌日再参集することで了解しました。
懸案の排水溝の出来栄えにつき早朝のゴミ出しのついでに確認しましたが、思い通りしっかりと排水の「仕事」をしてくれていました。これまでの大迷惑だった「プール状態」はこれで無事解消です。「思い出したら」メンテしていきましょう。
排水詰まり解消の工事費として10数万円を奥方に計上依頼していましたが、材料費1万円程度で完成。
数回にわたる水道管破損の修繕費もそれに入っていますから
まぁ上々というところ。
もっとも時間と人工と筋肉痛については無視していますが・・・
発注した外構工事の仕事は一旦キャンセルすることにになりましたが、会館と墓地との境界と周辺コンクリ工事を頼みました。
二段程度の化粧ブロックを積んでもらいます。
普通のブロックとは3倍ほど値段が違うそうですが・・・
尚、隣地境界側のブロックは一般的なものをお願いしました。
扨、金沢城。
玉泉院丸は前田利長の妻(玉泉院)の屋敷跡。
豪奢な庭園と石垣が復元されています。
石垣は大層異色の感。
2025年
5月
17日
土
水道管 排水U字溝 グレーチング 毎度やらかす私
息子から土日の静岡市内での法務(通夜・葬儀)にピンチヒッターとして出仕できないかとの打診が。
息子の友人から息子の代務を依頼してきたのですがやむなく
私に振ってきたのでした。彼には浜松での法務の予定があるそうです。友人への義理を果たすためですね。
私は土曜午前は拙寺本堂で法務がありますが、通夜ならば間に合いますし日曜はフリーでしたので取り敢えず了承しました。
取り敢えずというのは先方(そもそも法務の依頼を最初に受けた息子の友人の寺そして施主)が「それでOKなのか・・・」ということですね。
私もどういう立場にて(拙寺住職を名のって名刺など渡すのか、先方の寺の僧侶としての出仕か、またハナから代務寺院として伝えるのか・・・)式を進めるのかハッキリさせる必要がありました。
するとその後、息子から先方の寺が「住職(オヤジ)に来ていただくのは申し訳ない」ということで今回の話はなかったことにして欲しいとの連絡を受けたとのこと。
息子は(私を派遣させて)「何をやらかしてくれるかわからないので、これで良かったのだ」と。
私は「イカれたやらかし屋」であることは否定しませんが、それを指摘して他の目を気にするようになったというところ・・・彼は有難くも大いなる成長があった・・・のかも知れませんね。
まぁそれは隔世遺伝かも。父はいつもそれを心配していました。
扨、昨日は午前午後にかけて(お昼抜きで)上水道パイプと排水溝の修繕を仕上げました。
少々詳しく記します。
上水道のパイプ接合は業界で云われる「地獄配管」です。
ストレートの配管で上下流の間隔が短くまた狭小な場所の接合のことですが、地獄の如く難儀することからそう呼ばれます。
現状水道管は塩ビパイプが主流になっていますが切断後のその接合には同素材のソケットというパーツを使用します。
しかしガッチリ固まった上下流のパイプにそのソケットでの接合は基本的に不可能です。
片方に接続したとしてもその片側には26㎜程度の接続部分がありますので・・・
私が学生時代に水道屋でバイト(日当4000円)をしていた頃は塩ビパイプをバーナーであぶって、たわませてから差し込んでいましたが、それは最終手段。
まずは①の如くエルボとソケットで振ってから接合する作戦をとりましたが、コレは上部からの差し込みが(上下流同時挿入)
その上部に走る排水パイプのためにできません。
よって横からの作業になりましたがそれでは力が入りきらず完全な挿入(双方26㎜程度)とはなりにくいのです。
①の場合は上下流とサイド側を多めに掘っての作業。何とか配管できたところです。
それと同様の方法で会館側の排水溝内で作業を始めましたが、こちらはより狭い空間ですから接合不十分となって漏水がぽたぽた。それによって数日間作業を中止していました。
パイプを熱で曲げることは猶予して私は初めての使用体験を・・・ということでネット上からユニオン(鋼製)なるお高いパーツ(送料込みで3000円弱)を取り寄せたわけで。
一般に市販されている安価な塩ビ製ユニオンは埋設不可とありました。
その鋼製ユニオンは大径ボルトネジ式、そして少々双方パイプに角度がついていたためなかなか接合できずに難儀しましたが、奥方の手伝いもあって無事接合完了②③。
排水パイプはこちらは掃除がしやすいU字溝に変更しました。
ホームセンターで購入したグレーチングをカット、設置しておしまい。勿論U字溝も溝にあわせて切断しました。
少々段差がありますが、出っ張っているよりはマシです。
それはいずれ適当に解消努力しましょう。
とにかく大雨予報がありますので事前に、ということで。
「プール」発生の有無、その確認が楽しみです。
しかしまぁグレーチングの高価な事。
大抵が90㎝長ですが(幅は2番目に小さいものを使用しました)4000円オーバーです。
街路や公園の溝の蓋部分に多く配されていますが、それを夜な夜な、かっぱらいの輩が頻繁に出没しているというのも頷けます。
2025年
5月
16日
金
辰巳櫓から兼六園方向の景色 お節介か民事不介入か
先般、御門徒さんで自宅兼店舗の建設会社の瑕疵によって現状「崩壊のリスク」をも味わっているというI氏より「お寺近くで平屋の物件」を探しているとの件・・・を記しましたが、それには内心「あの家があるにはあるな・・・」と奥方と話したことがありました。
その所有者S氏も拙寺御門徒さんということ(今は県内でも都市部在住で空き家に)、また2階建てで上階が無駄になることからその件は私の心の内にしまっていました。
ところがどちらかでその不動産の情報を耳にされたようでI氏は私に所有者の連絡先について問い合わせてきました。
当然に先方承諾を得てからお伝えしたわけですが、その話の内容は「負動産賃貸について」とだけ触れておきました。
すると直接交渉の際I氏はS氏から「賃貸ではなく売却したい」旨を伝えられ、以下不動産屋にまかせてあるので交渉はそちらへ・・・ということになったそうです。
すると昨日、I氏より「申し訳ないがお断りした」と連絡がありました。
詳細はわかりませんが、私は「不動産屋にまかせてある」という談からこの話は無理かも・・・と踏んでいました。
何故ならば金銭的な折り合いがつかないということですね。
相良の不動産屋ならばまだしも遠隔都市部のそれでは感覚的にこの辺りの土地取引の現状が伝わってこないということです。そもそも不動産屋に依頼した段階で限りなく成約はできないだろうと思ったのでした。
彼らは当然に高額取引を目論みます。仲介手数料を商いにしていますから当然でしょう。
彼らに任せれば不特定多数の人たちにそれを提示することができその告知ネットワークに関してはある程度の効果はあるのでしょうが「負動産」と呼ばれるようになった当地の土地建物の処分はとても難しいことです。
売主のそれに順応した感覚も必要ですが不動産=財産という時代を過ごした人にはなかなかその理解が難しいものです。
相良の街区を歩けばそこいらじゅうに「処分したい」主張の看板を見ることができましょう。
どちらかで手を打てないと永遠に固定資産税の徴収が続きますからみなさん必死なのです。
よって今「タダでもいらない」というのが相良人共通の台詞となってしまいました。買い手を探すのは至難の業。
私は、その断念の報に、「気にすることはないです」とそれ以上の関与、意見や自分ならこうする・・・的な方策の少々も告げることはなく電話を切りました。
まぁどちらも拙寺ご門徒さんということもありますが金額が張りそうな取引が推測できますので、何らの禍根も残したくないというところが本音。
出しゃばったことをして、どちらか傷つくようなことがあれば一大事ですからね。
最近は警察の「民事不介入」について新たに耳にしました。
その度合いにもよりますが、それはあたりまえと言ったらあたりまえのことかも。
特に最近のストーカー事案など「実際のところはどうなっているか」など当人同士のことなどは深く掴みにくいですからね。
「惚れた腫れたは当座のうち」とも言いますしどちらかの訴えがあったとしても、まぁ「勝手にしてくれ」と思うところは理解できますね。
まぁ最近は人心短絡、やたらと刃傷事件が続発していますが・・・
わからないのは人の心。
扨、画像は金沢城辰巳櫓から見た兼六園や石川県立歴史博物館
直下にはいもり堀が。
2025年
5月
15日
木
仙台河岸湊橋護岸散策 かつてナンキンハゼの数本が
午前は法務、読経中に今年初、「暑い」を感じました。
こういった気温が続くのならば扇風機を出さなくてはならないでしょうね。
先日ストーブと温熱マットを片付けたばかりのような。
梅雨寒というのもありますが・・・
夕刻に奥方を誘って散策に出向きました。
先般大河ドラマにて史料館の文書が紹介されていましたがその中で「蝋 ハゼ」と赤字で強調された箇所、劇中平賀源内の台詞で「この辺りにハゼを植えて・・・」と相良川左岸を指している図がありました。
それを視聴して「そういえば・・・」とかつて私の記憶に残っている川の右岸を歩くことにしました。
こちら川の右岸は一昔前は段差も浅く、川岸には木々が茂っていてかつ大雨の際には水が溢れてしまうような場所になります。
本通り側からの細長い敷地の裏側にはこの川の流れが迫っていたといい、整備がされていない頃には子供の水難事故などがあったことを聞いています。
数年前の台風による大雨で、「死ぬ思いをした」という方が出てから抜本的な改修工事がなされました。
その工事以前にはこの護岸には桜とハゼ(ナンキンハゼ)が列を為していたわけで(記憶違いでしたらごめんなさい)、私はそのハゼの姿を久し振りに目にしようと向かったわけです。
ところがその改修工事によって殆どが伐採されてしまっていました。
「防災」の語は天下御免、その言葉には勝てません。
伐採に対して反対意見もあったようですが、それには承諾する他の選択はないというのは世のならい。
致し方ないことでしょう。
やはりり一つも残っていなかった・・・と残念無念と今来た仙台河岸辺りに左岸伝いに戻ると、奇跡的というか1本だけナンキンハゼ(少々自信なし)が護岸に⑪⑫。バックに湊橋が見えます。
今節中学校のプールを撤去して駐車場にした場所の真ん前でした。
秋以降、(ハゼの)実が付けばナンキンハゼで間違いないところですが・・・その前に花が咲きますからね。楽しみです。
ただし古文書にあるハゼとは異種でしょうね。
こじ付けになるかもしれませんがこの実からも蝋は取れるようですから、もしかして・・・とは思うところ。
種子は殆どが川の流れに落ちるか鳥たちによって運ばれ種の継承があるものですが、かつての護岸のナンキンハゼの木々はいかにも人為的、どなたが植えたのでしょう・・・
2025年
5月
14日
水
静岡市の対応への不満を聞く 金沢城丑寅櫓
宿題山積の中ようやく歯科医の門を潜ることができました。
一昨日昨日と二日連続通院。
来週のどちらかで今一度治療を行って終了という段取りです。
歯科医と雑談、牧之原市の田沼親子トークショーの件でした。NHKとの良好な関わりと市の担当の「ヤル気」が見えてそれは羨ましく思うそう。
医師は静岡市民ですが、大河「どうする~」の件でも浜松に遠慮したのか大河ドラマを活用してやろう的、前向きな方向性が見えてこなかったことは残念であると。
そして渡辺謙氏の話で大いに盛り上がりました。
かつて医師は、スタントマン(学生時代のアルバイト?)をしていた時期があって、「天と地と」では降板前の渡辺謙氏と「同じ場所」にいたことがあったとのこと。
病気(急性白血病)の発病による降板はやむを得なかったもののそれは残念で仕方なかったとその想いを話していました。
渡辺謙氏の想像を絶する疾病、再発等を克服していく姿も天晴れなことです。
扨、金沢城の東ノ丸の隅櫓。
本丸から見て北東(丑寅)方向にあるので通称「丑寅櫓」。
鬼門ということも示唆しているのでしょうが、パット見、広大な金沢城縄張りから見て決して「北東」という感は受けません。
こちらの図の通り、単純に本丸から見て・・・ですね。
野面積みの石垣は金沢城で一番古いとのこと。
2025年
5月
13日
火
小和田先生の相良城解説 金沢城「薪の丸」周辺の石垣
この時節まで相良城の破却シーンが伸びるとは思ってもいませんでした。
大河ドラマの進行の件です。
昨年のクランクイン前の予想では三月ころと、番組始まって早々に田沼意次の退場シーンという予想もあったくらいですから。
それが「GW前後」と言われるようになって今は8月頃とまでとその予想時期はあとあとにとズレこんでいます。
先般の春の法要では私もご一同に「GW頃のピークに」あわせて~のようなことを吹聴していたくらいですから。
勝手な思いつきですがハリウッドスター渡辺謙氏の登場をできるだけ引き伸ばそうとNHKが相良の為に気を使ってくれているのかと。
「佐野の過去帳」(相良海老にも)の件、伏線が済んでいますので次は意知の死、家治の死、意次の失脚、相良城の破却、意次の死とあっという間に流れていくかと思いきや思わぬじっくり感。なかなか楽しませていただいています。
実際それらの事案は殆ど数年のインターバル。時代感でいえば同時期といってもいいくらいですからね。
田沼意次善政の相良について大いに宣伝(こちらも)していただいた前々回の放映でしたが、その相良城の破却がその渡辺謙氏の好演が視聴者への「掴み」となって相良城、相良の町に注目が集まるのか・・・というところですが、たとえそれが「夢のまた夢」となったとしても是非に自らの頬をツネって目を覚ましてみたいものだとわくわくしているところです。
懸案だった「田沼親子」の来訪も決定し仕掛けはバッチリ、昨夕も史料館の長谷川氏からそのチラシを大量に届けていただいています。
トークショー参加の抽選、競争率はべらぼうに膨らむのでは・・・
先日、小和田哲男先生の番組(「小和田チャンネル」)が更新されていました。それが相良城についての解説。
短い時間でとてもわかりやすく説明されていますので、復習の為、ご存知の方も詳しくご存じない方も視聴されることをお勧めいたします(→サイト)。
扨、再び金沢城の石垣。
何しろこのお城には夥しいほどの石が各年に渡って積まれています。まさに石積のオンパレード。
画像は薪の丸付近の石垣ですが、私も頭が混乱してどこがどこだか分らなくなるほど。
石垣や石積を撮影しても同じにしか見えませんからね。
ただし、好き者にはそれがわかる。
自身石積みの真似事をしたことのある身、その膨大緻密な積み方を見て先人たちの特筆すべき偉大さがわかるというものです。
2025年
5月
12日
月
本山浄興寺 当初御開祖時代のご本尊? 太子像
法務がありませんでしたので境内作業に専念するつもり・・・ではありましたが太平洋を列島に沿って北上する低気圧のせいで風が吹きまくっていました。
朝方のそれはかなり冷たくて、ヤル気というものが喪失。
ドブさらい用のジョレンの修理程度を行ったくらい。
経年によって持ち手部分から先端の金物が脱落すること・・・ありがちのことです。
作業中に幾度かそのイライラを味わっていたため金物と持ち手の軸をドリルで貫通してボルトで締めておしまい。
それは山門屋根に積もった立木の葉の除去に活用しようと考えています。ジョレンの先にガムテープでも巻いて瓦上をスイープしようというものです。
風が吹いたら梯子に上がる気にはさらさらなりませんから昨日はヤメにしました。
扨、先般息子が行った上越市での画像の中で「本山浄興寺」がありました。
こちらもまた私が足を踏み入れたことのないお寺です。
もっとも新潟県という地は私はまったくですが・・・
山号は歓喜踊躍山というくらいで将に御開祖の思想が前面に顕れています。
今度の彼の上越行脚の土産(画像いろいろ)を見て近いうちに是非にという思いが増幅したのでした。
しかし、思わぬ友人の結婚式で呼ばれた上越という地の名所にふらっと何となく立ち寄れるとは・・・すばらしいご縁、なんと幸運な男なのでしょう。
このお寺は真宗浄興寺派本山ですが、以前と言えば大谷派の別格寺院。
親鸞聖人の創建と古く各移転の経緯はありますが、上杉謙信によるバックアップがあっての春日山へと。
寺の歴史の古さも格別で親鸞聖人の本廟に古仏の聖徳太子像が彼のめにとまったようですが、まだまだそちらには特筆すべき事物が控えています。
奈良・京滋もいいですが上越にも奥方を助手席にして出向こうか・・・
関西系ならお断りされてしまうことは必定。
目先が変われば付き合ってくれるかも知れません。
2025年
5月
11日
日
排水パイプについてのあれこれ World wideな境内
新設会館のトイレについての開閉(開錠7時すぎ 施錠17時過ぎ)は私の日課になりますが昨日トイレの施錠をして本堂のお参り後、閂をかけて境内でしばらく、一見して異邦人の3名の女子が境内鐘楼の前に。墓参ではない事は一目瞭然でした。
いつもの調子で「本堂へどうぞ~」とばかりに声掛けし閂を外して堂内にご案内しました。
会話が殆ど通じないのは私の英語力が覚束ないこともありますが彼女たちの会話はフランス語でした。
おそらく堂内にそのお国の言葉が飛び交ったのは初めてのことだったのでは。
寺の堂に入った経験は案の定初めてのことだといいます。
よって日本の仏教は多様に枝分かれし私の寺は「Johdo-Shinshu」ということと阿弥陀如来と南無阿弥陀仏についてざっと・・・。
「Johdo ≒ Heaven」・・・南無阿弥陀仏は「Arigato-Buddha」「I’m sorry-Buddha」などとテキトーな事を言いながら当流の焼香作法を軽く伝授。
聞けばたまたま拙寺に立ち寄ったとのことで、これまでの大河ドラマ関係の物見遊山の方たちとはまったく違う趣向。相良に友人があったのかも知れませんが。
日本語が比較的通じる女子は北海道から、あと二人は福井大学の留学生とのことで11日に開催されるエコパのコンサートのために静岡で合流、吉田のホテルに逗留しているとのことでした。
レンタカーを借りて諏訪原城を散策してから拙寺に辿ったと。
奇特なご縁と「意次せんべい」を1袋提供しました。小袋が3つ入っていますから。
瓦せんべいの「瓦」の説明につき私が悶絶していると「roof !!」とフォローをいただきました。
帰り際に「コレは是非体験を」と鐘楼のステップに上がっていただき一人ずつ鐘撞のお試し打ちを勧めました。
やはり初めてということで撞き棒を直接手に持ちだしましたので撞き方をレクチャー。殆どジェスチャーですが・・・。
「時鐘」についても片言で何とか説明。
「今もやっているのか」と質問されましたが「現代はスマホで(時間がわかる)・・・」のようなことを言うと笑っていました。
庫裏に帰ると奥方から「施錠の為に外へ出て一体何をやっているんだ」と。私は「フランスの若い女の子たちが境内にいて~」と言うと「テキトーなことを言うな!!」と。
一瞬信じてもらえないようなこと、私も驚いたくらいですから。
まぁ自分なりの国際貢献、相良人のイメージアップに繋がったかと自己満足した次第。
因みに彼女たちのうち「私は神を信じていない」という人も
いましたが、それは意外でした。
これは「皆さんはProtestant?」の私の問いに対してです。
私はその件、人それぞれ「free」であると了承。
「また来てね~」と見送りました。週明けにはそれぞれの勉学の地に戻るそう。
北海道と福井から当地へ来たフランスからの客人。
まさにworld wide。
扨、山門スグにある排水溝と上水道の件のあたふたについて記していましたが今は作業中断中です。
排水パイプの工事は終了していますのでそれについて少々。
そのパイプの敷設は10年以上前に某コンクリ業者に依頼したものでした。
依頼についてとやかくいわず「ここにパイプを埋設し排水効率をあげてくれ」ということのみ。
そして現状パイプ内に木の根と泥が進入し堆積、排水が滞って、地表がプール状態になってしまいました。
その解消のため今節隅っこの50㎝程度をハツってそちらのパイプを除去したのでしたが、GW直前に「コレ以上は無理」とばかりに奥方に白旗をあげて新たな工事業者に仕事を投げたことまで記していました。
そして工事着手が休みの為進まなかったことと、私の有り余った時間もあって私なりにその解法を求めたということも。
テーマとしてはその開いた50㎝程度の空間からどうやって泥と根を押し出すかということですね。
長尺物は建屋に当たってしまい排水溝に奥深く突っ込むことはできません。
そこで私が選択したのは竹でした。
竹の利点はしなりです。パイプすべてにそれを突っ込むことはできませんでしたが幾度かその竹の出し入れを繰り返し、抵抗が少なくなったところで、先端の2~3mのパイプを掘り出して切断しました。またパイプを切ってもジョイントが市販されていますのでラクに復元できます。
開通を確実のものとするために取り寄せたのが①のホース先端の器具です。
真っすぐから90°近くまで噴射角度が調整できる優れもの。
通常のスプレーガンとは違い形状がストレートになっていますのでパイプにはスンナリ入れられます。
それを装着したホースを押し込んでから適当な位置で水圧を上げるという作戦です。
すると面白いようにパイプ内の泥と根が押し出されました。
泥と根という難題があったもののそもそもかつての配管工事がイイ加減なものだったことが判りました。
私がその手の工事で一番に気にするようになった「逆テーパー」の配管でした。いわゆる勾配が逆ということ。
よって水の流れは中間部分で溜まって土が堆積し根が生える要因になったのでした。
その手抜きとはパイプのエンド部分を排水溝の縁の石の上に載せていたこと。
私はその石の数センチを切削して土を掘り下げて埋設しなおしました。
まぁあの器具があれば排水パイプの詰まりはそう心配することはないでしょうね。適宜ケアする必要はありますが。
2025年
5月
10日
土
田沼親子お国入り 息子のお参りは国府別院
午前中は排水パイプの埋め戻しと会館側の枡の底にモルタルを詰めての嵩上作業。
この浸透桝から植物の根が這い上がってパイプを詰まらせました。
雨水の排出さえ確実ならばそのような桝は不要です。
その後は部材選定待ちのため作業の進捗はなし。
よって水道管はしばらくは漏水ポタポタのまま。
夕刻前には雨が降り出しましたが予報では土砂降りになるとのこと。
当分放ったらかしです。
昨日は一部相良町民がやきもきしていた「殿」のお国入り(お二方とも再訪ですが・・・)の実現の報。NHK静岡より発表がありました。先般の劇中のお国入りに続いて田沼親子のトークショー。
私のその日は時間は未定ながら法要の予定が入っていますので参加に関して不確定。
そしておそらく抽選は20~30倍、いやそれ以上になると思いますので既に諦めムードが漂います。
そもそも私が仮登録をし本登録に移ろうとしても返信のメールさえも来ません。どうせムリ・・・なのでしょうからどうでもいいといえばいい。
息子が浜松から応募したらスンナリだったようですから私のPCの不良か・・・。
メールアドレスが拒絶されるのか拒絶するのか・・・考えるのも面倒くさい。
扨、息子の新潟行脚の続き。
画像の如くキラキラ須弥壇の様。
一目見て本願寺派の荘厳と判断できますね。
国府別院といいます。
史跡石標に寺と城めぐり。呼ばれた婚礼の合間にこなしてくるところ、ニヤリとさせられました。
2025年
5月
09日
金
なにごとも思うようにならない いかない できない
朝からU字溝を切断し、それを掘削した溝に合わせ入れようとすると、排水パイプの末端が引っかかって入りませんでした。
それならばグラインダーでと切削にかかったところ再び水が噴き出してしまいました。
真下に水道管が埋設されていることをてっきり失念、アホでした。コレで今節三回目の水道管破断。えへへ・・・としか。
奥方に「御前はバカか?」と罵られる始末。
やらかしたからにはしょうがない・・・と反省する暇もナシ。
元栓を閉めて毎度毎度の悪戦苦闘の時間をすごしました。
日没前に完成したかと思いきや、開栓すると接合部より水滴ぽたぽた。トホホ・・・の苦笑い。
また頭の中をリセットして取り組むことにします。
「ここのところ ツイてない・・・」とボヤきの語を吐いておしまい。
しかし「ツイているツイていない」の語を囁いていられるということ自体はマシのうちです。無難に生きていられることからその手のボヤキが吐けるのです。
御門徒さんI氏のこと・・・。
先日は桜の満開の候に墓参にお連れしたことを記しました。
その方の境遇は運・不運の一言で語ることができないほどの心痛を思いますがご当人はいつも平常の様。
逐一その不運を列挙することはできませんが重ねたそれら一つ一つどの事案を取っても人の一生の中で強烈なダメージを受けると思われるものばかり。
それでいて物凄く明るいのです。
先日も「頼みがある」と電話がありました。
その「頼み」というものは親族(親・妻子はいません)からは「迷惑がかかるから」を理由に「NG」と強く言われているようです。
その件について私は承知していますのでその方には「私には気軽に電話ください」などとできる限りの対応をしたい旨伝えていますが。
要は親族はデイサービスではなく施設への入所を勧めているのですが当人は完全入所についてはまったく視野にいれていないというところ。
双方の言い分はよくわかりますが、ご当人のやりたいようにすればイイだけです。
それに関して「タノム」と呼ばれれば私はできる限りお付き合いしようと心がけています。
阿弥陀さんに常々「後生タノム」と依頼している我が身、頼み頼まれはお互い様。
そのIさんの今度の「頼む」は「テレビが映らなくなっちゃった」。アンテナの調整かテレビそのものに問題があるかですが、今後の事があるため檀家さんの電気工事店を紹介して欲しいとのことでした。
その際、自室の雨漏りの様を見て欲しいと部屋に案内されましたが⑥、雨漏りで天井が落ちかかっていました。
「雨の後は掃除で大変」。
三階建ての1階で車椅子生活をされていますが雨が降れば毎度、酷いことになって「この家にはもう住めない」との判断。
他の床のそこここには水たまりが見えていました。
⑦は通路脇の壁です。確認のために内壁を外したそうですが、ベースの木材は腐食していました。無惨です。
「欠陥建築では相良では有名」という業者にあたってしまったとのことで、「今や崩壊の心配すらある」そう。
一刻も早く出たいとのことで現状「お寺の近く(お参りがしやすい)の小さな平屋一戸建てを探している」そうです。
尚、建物を壊して更地にするには1000万円余の出費があるとのことですが、いずれにしろ安らぎの住処が欲しいというのは切なる願い。
ヘルプなしで車椅子で街に出ることなど非常に難しいことを改めて知ることになったのが①②図。
①歩道には車道の排水を良好にするための傾斜があり尚劣化した溝板が敷設してあるため車椅子の走行はムリ。
走行する車に気を使いながら車道を行くしかありません。
相良本通りも歩道から反対側に渡ることなど段差によってそれも不可能でした。
②は拙寺近くの暗渠のグレーチングの図。これも車椅子の前輪がハマって不動になってしまいます。
障がいのある方にとってこの社会が如何に住みにくいか・・・それだけでもよく判ります。
拙寺の新会館もその点を配慮したつもりでしたが、当初の予定通りにはいきませんでした。排水の関係から地盤の嵩上がされたために通路とは大きな段差ができてしまいました③④。
⑤ステップの部分が段に引っかかり上がり切れません。
車椅子での使用ができるトイレをと設計したものの車椅子一人では入れないことがわかりました。
何ごとも思うようになりませんね。会館の名が「無碍」だけに惜しいことです。
「不自由」を思われる方があれば出来うる限りお手伝いできるよう心掛けたいものです。
私はお頭の方は難アリ(不自由)ですが。
また先日購入できなかったアンパンを仕入れて届けました。
2025年
5月
08日
木
上陸の地「居多ヶ浜」と春日山城はごく近い
一昨晩の雨上がり、新潟の友人の結婚式から息子が帰宅しました。新潟の土産ではなく途中の長野の品(そば)ばかりでしたがまぁ無難なところですね。
賞味期限も3カ月ほどあって、それなら適当なところで食せます。
かつての同僚、知った顔が全部で8人ほど集結したと。二次会にてそれぞれの近況を報告しあったといいます。
それはそれは全てがお寺の子となれば、話題はそれぞれ境遇の共通性もあって話が盛り上がることでしょう。
彼の人脈の広さに驚かされましたが、私には真似のできないところ。天晴れです。
「同じ釜の飯」とはいいますが、まさにその通り、その頃の年代(20代前後)限定の傾向なのでしょうが意外と長続きするもので。
因みに私の学生時代の友人などここ数十年、再会したことはありません。
そういった友人たちのネットワークから適宜各ピンチヒッターとして法要等に招へいされるのでしょうね。
まさに「持つべきものは・・・」。
私は「折角の新潟行脚を活用しないでどうする」の嫌味をもって送り出していました。
すると息子の友人の修士課程まで行ったという相方(岩手遠野市から)の影響だと思いますが私の想像を超えた時間の過ごし方をしている様が。
結婚式場は新潟といっても上越市。
それを聞いた私はプレッシャーを掛ける意で「訪れた地の画像を寄越しやがれ~」とメールすると4日の晩にその日のここぞといった画像を送ってきました。
5日の式にあわせて前乗りしていた彼らが一番に向かった場所は
なんと「居多ヶ浜」。真宗人として知らぬものはないビーチの名が飛び込んできました。
勿論私も未達の地です。
その画像を見て奥方とこの成長の様を大いに喜びました。
式の翌日は天候不順となりましたがそれでも向かったのが春日山城だったと。「居多ヶ浜」とはごく近い場所ですね。
そちらに登城した後に帰宅したといいます。
途中雨に降られ売店で傘を購入し尚も登城したとのこと。
「よって画像は無いので悪しからず」でした。
やはり私の未登城の春日山城に訪れて私の地団太の様を引き出すところなど、まったくヤラれましたね。
画像はご開祖が上陸した「居多ヶ浜」。4日5日は珍しく全国的に晴れ渡っていました。
⑧は春日山城駐車場近くの春日山神社。
⑨⑩は雨の春日山城「二ノ丸か三の丸・・・」私なら雨となれば退却ですが・・・いづれは好天の日本海に逢いに行きたいものです。
2025年
5月
07日
水
大河ドラマお国入り編 番組のさらなるポイント
昨日はご門徒さんからのお話の中で「ケーブルテレビを見ましたよ・・・」と。
その番組(トコチャン)の取材対応の件は先日記していましたがそれを視聴した方から番組カットの数枚を見せていただいただけでした。
その方は全編視聴したとのこと。
牧之原市外の方ですからその視聴ができたわけで、ここでもこちら旧相良の「なんだかなぁ~」を思わされたのでした。
録画し、あとからご主人にも紹介したそうですが私の様を「たのしそうでしたねぇ~」と。
「できたらDVDにでも・・・」とおねだりしてしまいました。
扨、昨日記した先週の大河ドラマ、意次お国入り場面のいろいろ相良連呼の部分は圧巻でしたが、「ほほう・・・」とばかりにその登場を喜んだのは「田沼街道」の名称でした。
昨日ブログでそのカットを入れていますが、源内の指示した相良城周辺の地図の「相良川」の名称とともに源内の台詞がありました。
番組最後の紀行でも「牧之原市」名称も適宜掲示されていましたが田沼街道起点道標とバックの湊橋が紹介は源内の地図とリンクしていて楽しめました。
あの演出は源内が相良の地形を熟知していて相良川に橋を架けることなどを意次に注進しているところですね。
それは源内が相良に来ていたことをも示唆する場面でした。
実際にその手のことを表す画が今一度放映されるとなれば、相良人は大いに喜ぶことになるでしょうね。
すべてNHK様の手の内です。
別件ですが、その「相良川」。
今の「萩間川」名への変遷の意味が分かりませんね。
「牧之原」という突飛な名称もそうですが私は「相良」が一番イイ・・・それぞれそれに戻すことをお勧めします。
最後の画像がケーブルテレビの取材で訪れたお三方のカット。
2025年
5月
06日
火
史料館スゴいことに 大河ドラマ威力絶大「相良」連呼
昨日も排水管と水道管まわりの作業継続。
山門の下で穴掘り・ハツリ作業をしていれば色々な方たちがそれを横目に通過していきました。
こちらも下を向きながら時折工具を使用しての作業に集中。
挨拶をしたりしなかったり、知る人か不知かいろいろでした。
知らない人が見れば土木作業員にしか見えない出で立ちでしょう、石の切削作業をしているとつい先ほど会釈をしていった若者を引き連れて奥方が。
「コレが住職 わかりっこないよねぇ」とその青年に言いながら立ち去りました。
彼は庫裏に真っ先に向かって私の存在を問い合わせたそうでしたがそれが彼が研究している「防災」についてでした。
各寺院を巡り過去の地震等の被災について記録をあたっているとのことでした。
それならば拙寺に遺る「地震記」をと思いましたが石と泥にまみれた私が庫裏の中をうろついてその文書のありかを探索することはできません。
よって拙寺のサイトにその「地震記」を掲載していますのでそちらを口頭でご案内した次第。御前崎出身の大学生とのことでした。
その方以外にも見たこともない方たちがちらほら。
5/3の大河ドラマ、田沼意次お国入りの回。
「相良」の語が連発されてその影響があったようです。
中には本堂をバックに記念撮影をする家族連れもいたほど。
時間があれば皆さんの中にしゃしゃり出て本堂内各自慢話の一つや二つもするところですが、泥と粉塵だらけの土木作業は一気の仕事、手を休める暇がないほどでした。
シャワーを浴びてから夕刻まで奥方に作業を付き合わせたため役場前のそば屋「寿」へ。
「田沼そば」がウリの店です。
店主が「昨日の大河のおかげでへろへろ」になったと。
史料館の来場者が昼食・夕食にと入店が増えたとのことです。
そば屋の帰りに史料館壁面に映し出すプロジェクションマッピング(1回15分)を視聴(下図)。静岡県の製作したものと牧之原オリジナルが続けて流れますが前者のものはナレーションも渋くなかなか出来は良かった。
そして、何と暗がりから現れたのが史料館学芸員の長谷川氏。
「またいた~」と奥方が驚いて呟いていました。
プロジェクションマッピングの担当者は新人さんの仕事だそうですがその新人さんのバックアップのその日の担当が長谷川氏だったよう。
長谷川氏が「史料館がスゴいことになりました~」と。
休日に史料館担当で出勤し夜間も残業か・・・などと苦笑いしながらその意を問えば・・・「今日だけで来場者が1000人を超えました~」です。
また史料館1階有料(210円)エリアはそのうち300人の入場があったということでいづれもキャリアハイ。
あらためて大河ドラマの威力絶大を思いました。
彼は「もうこの数字を超えることはないだろう・・・」といいます。
GW日曜放映日の次の月曜が祭日というタイミングの良さもありますが意知の死、意次の失脚そして相良城廃却・意次失意の死といった回もありますのでまだまだわかりませんね・・・
ありがとうNHK。
これからますます視聴者の田沼意次への感情移入が増幅することは間違いなし。
それもハリウッドスター渡辺謙氏というベストな配役の賜物ですね。
画像は「相良」連発(台詞で7回)の様。
その部分をキャプチャーしました。
「田沼街道」の紹介もNHKはポイントを心得ています。
これは相良だけでなく藤枝までの関係地域の見知った語ですので、より多くの人たちの興味がそそられるわけです。
2025年
5月
05日
月
ツイてないぜと苦笑い まさか水道管が
早朝息子がかつての学生寮同室の友人とともに本堂でお参り。私の車に乗り換えて新潟へ。
友人は岩手のお寺の長男との事ですが、現在は介護職員だといいます。
どちらのお寺も同様で、私の知る限りにおいて副住職というか次代お寺の後継者が介護職員という例は少なくないような。
お寺に住職以外、人はそう必要ないということで外部に職を求めるというのが現実的ですが介護職は手ごろであり、またいつでもやめてお寺に入れるということからその選択肢となるのかも知れません。
私が驚いたのが、彼の友人の風体。
一見して一般的に思うお坊さんの姿でした。
当人の考え方次第ではありますが、真宗の坊さんに頭髪についての規約はありません。
よって私も息子も髪は長め、一昔前までは私など潮焼けした茶髪だったくらいで、先般も史料館の帰りにアロハとGパンのチャラい風体で歩いていると御門徒さんから「間違いだろう・・・いやそうだ」の風をもって声を掛けられました。
要はイイ歳こいたチンピラ風の如くに感じられたのでしょうがむしろ真宗の坊さんはまず「坊さん」とは思われないというのが一般的かと。よって彼の剃髪された「坊さん然」の様に圧倒されたのでした。
息子は「髪が薄くなったら・・・」それでゴマ化すと言っていますので「もしかしたら彼も・・・」と思いついたところです。
それとも「形」にこだわっているのでしょうか、今は別の仕事の筈なのに・・・
まぁ人それぞれ。好きに生きよう。
いや生かされている。
扨、排水溝と水道の工事はなかなか思うように進みません。
昨日記した予期せぬトラブルとは排水パイプの下に水道管が埋設されていて、排水パイプを切断する際に水道管も誤って傷つけてしまったのでした。
要はこの漏水の対応という新たな作業が追加されたということ。「動中工夫~」の次に「勝静中百千億倍」とありますが
そこまでとは言いませんがこのやらかした始末に10倍くらいの労力が。
埋設水道管の破断はまずは「誤って」で私も何度もやらかしていますがまさかこちらの下に通っているなど思いもしていない事でした。
イイ巡りあわせに遭遇した際の奥方の口癖に「ラッキールチアーノ」なる語があります。私はその時はしょぼーん。
「今日はツイてないぜ・・・」でした。
しかしよりによってあそこに水道管とは・・・①②には会館に向って走る水道管の存在を示唆しているバルブが見えます。
軽率は自認しますが、まさか「そこ」とは・・・
一昨日は応急処置、昨日は部材購入して準備万端、塩ビパイプを接合しましたが何故かぽつんぽつんと漏水が。差し込みが甘かったようです。
まぁ、のんびりぼちぼちやらせていただきます。
問題は作業時に水道バルブを閉めますので墓参に困ります。
2025年
5月
04日
日
道頓堀相会橋 故藤田章二氏を思い出す 縁切り橋
案外と寒さを感じます。
一昨日の雨天には石油ストーブを持ち出していたお宅もありました。風も比較的冷たいこともありますね。
昨日の私は早朝以外は半袖で過ごしましたが日没近くは殊に肌寒さを感じました。
昨日も殆ど一日中境内で右往左往していたのですが、それは先日諦めた山門下の排水パイプ工事を再開したからです。
一旦は業者に依頼したものの、GW明けになるようで、時間を持て余している私がぼけぼけっとそれを待っているというのはイケませんね。
宗旨は違いますか毎度「『動中工夫』でありたい」とそれをモットーにしていますので。
作戦としてはコンクリ―トの敷設された排水パイプは何とか竹竿を使用して中に詰まった泥と根を押し出すことができましたので、その先の土中に埋設されたパイプを掘り起こしてぷった切りパイプをクリーニングしようというもの。
すると思わぬトラブルに見舞われて昼以降はその対応でドタバタしていた次第。生きていると何かしらやらかす・・・それも私。
画像はやはり「生きている」と思い出すたくさんの見送った人たちとの想い出の一つ。
先日大阪道頓堀のうどん店今井のお土産のそばをすすりながら道頓堀川沿いを歩いた藤田章二氏とのドタバタを思い出しました。
その方は障がいを抱えながらも拙寺のバス遠足には毎年必ず参加されました。
バス遠足での主役ともいっていい方でしたが、2021年の暮れに突然逝去されました。
奥方はその人の顔をこちらに紹介することは・・・と怪訝な顔をしていましたが親族も不在で墓石ごと永代墓としていますので、藤田氏に「肖像権」が帰属しているとすればそれは私なのかも知れません。
何よりも普段あまりに笑顔を見せなかった藤田氏のベストショットともいえる画像がありましたので・・・
画像はかつてやはり道頓堀の法善寺前の夫婦善哉を藤田氏と二人で食したあとの散歩の図。
ちょうど10年前の図ですが、自由行動の時間はどうしても私が引率することになりました。時に車椅子の乗ってもらいながら。
とはいえ、私の趣向(道頓の墓など)中心に動き回ることは了解していただきました。
トイレが近いというポイントさえ掴んでおけばドタバタなれど案外楽しいことばかり。
画像の相合橋(あいあうばし)という名は意味ありげな名称です。一瞬「粋な出会い」を連想しますが実は逆。
大阪市の解説を転記します。
「この橋が初めて架けられたのは1680年代で、当初は中橋あるいは新中橋とよばれていた。宝永4年(1707)に初演された近松門左衛門の『心中重井筒(しんじゅうかさねいづつ)』の一節にも中橋として登場している。
「月ははや 渡り初して 中橋や 六軒町の小夜がうし~」
相合橋と名付けられた時期は不明である。
橋の南側は芝居櫓が立ち並ぶ芝居町で、北側は川筋の宗右衛門町のお茶屋街、橋筋には俗に六軒町と呼ばれた遊郭があった。
このように橋の周辺は大変華やかな雰囲気があり「相合橋」という艶のある名前がつけられたのであろう。しかしこの橋は
渡ると男女の縁が切れる“縁切り橋”ともいわれ、遊里の人々は橋を渡るのを嫌った。
また婚礼の行列もこの橋は渡らなかったらしい。相合橋が鉄橋になったのは昭和37年のことで、昭和58年には橋の幅を両側へ大きく拡げ、橋の上に憩いの広場が設けられた。また、平成23年には橋面の改装工事を実施している。」
最後の二つが「道頓堀今井」のそばセット。
ネギが手に入らないそうで・・・ちなみにその実店舗には行っていません。
奥方が連れていけと・・・喰って喰って喰いまくるのでしょうか。
縁切り橋、私はその手の迷信は笑いとばしながらこれまで生きてきました。
2025年
5月
03日
土
ドラマ展お土産コーナー 見たこともないお菓子が
浜松へ向かう予定がありました。
予報では強めの雨ということで私はそちらへの運転を嫌い、一旦は断りましたが奥方から、雨が酷いのは牧之原(浜松はそれほどでもない)であって「夕方にはやむ」との言に諭されて雨中浜松へ。
奥方が息子のために用意した品を届けるためでした。
彼は翌日には岩手から来る学校時代の同僚と合流し、新潟のやはり同僚だった友人の結婚式に出向くといいますので(その二人ともお寺の子息)、タイミングとしてはこの日しかありませんでした。
新潟には3~4日滞在するそうで、それはそれは羨ましい限りです。そちらには御開祖の旧跡などがあちらこちらに、城郭たちも見落としがたい。
渋滞の地獄というものを知らないということは恐ろしい。
帰路りは関越道より北陸道の選択がイイのでは・・・
帰りに岩手の友人を東京に降ろすことになっていればそれは無理でしょうが。
彼は私の車を使うので「整備しておけ」と。
バッテリーを外したままになっていますし、空気圧もチェックしなくては・・・できることはそれくらい。
最近流行りのタイヤ脱落事故もありますのでボルトのチェックくらいはしておきましょうか。
扨、先日伺った史料館2階の大河ドラマ展のつづき。
地元お土産コーナーに新顔があったと長谷川氏から。
紹介されてしまったからには、と購入しました。
この品物で(出品は)「おそらくコレが最後」⑤⑥とのことでしたが、地元の品物としてその提案は少なかったような気がしますね。
アレだけ時間があったのに・・・
そしてこんなものはそもそもお遊び。
売れようが売れまいがどうでもイイ、いわゆる「お祭り」なのですからね。
ちなみに売店の売れ筋ベスト5がそれぞれ並んでいましたが、史跡調査会の後ろ盾のある品が2つ。調査会は酒屋でも菓子屋でもありません、ただノリと勢いだけで企画したもの。
売れているといっても任せっきりで、利益など微々たるものです。
要は「祭り」に参加するか、しないかですね。
「おつきあい」といっては大した買い物はできませんが、「大河ドラマ」と銘打った「金平糖」もついでに購入。
この名入れにはNHKエンタープライズの承認が必要になります。各権利の問題があってなかなかお高い商品価格となってしまいますがこのあまりにキレイな色に魅せられてやはりノリで購入。
奥方から「子供か・・・」。
賞味期限が2026年2月ですから当分の間、飾っておきます。
①は夕刻の図でしょう、本通り池田屋酒店店主から。
お店の上に虹がかかっています。すばらしい景色、吉兆のしるしか。
ちなみにこちらにも「吟醸田沼意次」があります。
②は史料館が大河ドラマ展用に新調したスライダー。足が不自由な方に対応するためです。
トイレの改修にも資金投入していますからもっともっと盛り上げていただきたいものです。
③のパンフ転売お断りの文言には唖然。
④はドラマ展お帰りの際の来場者アンケート。任意自主的なものですが・・・
県外では愛知県が多いようで。
2025年
5月
02日
金
台東区のドラマ館・相良のドラマ展以外の各要所
物置小屋整理に植木いじり、そして排水溝清掃等に一日を費やしました。特に午後からの排水溝関連の作業は奥方も合力、強い雨の予報があるため、「一気にやっつけよう」と気合を入れて進めました。
結局は途中で放り投げる様でしたが・・・
今、注意深く周囲を見ていないと困るのが、スズメバチ。
女王様が各所で営巣場所の適合地を探しています。
昨日は物置に入って調査するもの(少々の滞留をして出ていきました)、物干し場には既にベース部分を構築済みのものを発見、「そこは勘弁」とばかり、慎重に除去させていただきました。
2階の軒先や本堂脇の軒であれば許容できますが、さすがに人の出入り頻繁の場所はムリですね。
それには早めの発見と対応が必要です。
そういえば昨日の新聞に静岡県内でマダニにヤラれた人が出たといいます。生き物たちが活発になる季節です。
私は今年は山歩きをしている時間がありませんでしたからそれに咬まれる機会はありませんでしたが・・・
この五月の候、一番にケアしなくてはならないのが初旬のシロアリの飛翔でしょうか。
毎年その頃には本堂小屋裏から後堂周辺に噴煙殺虫剤を散布し、床下にはアルカリ剤(生石灰顆粒)を撒いています・・・
経年もあって各所木材はボロボロですが、やらないよりやった方がマシ・・・といった感じ。
気休めであってもおカネもかかりますし労力もあります。
何が正解か・・・わからない。
扨、相良城本丸跡に建つ相良史料館。
そちらの2階には大河ドラマ展が開催されていますが、昨日ブログではリニューアルの件を記しました。
そちらには台東区のドラマ館や相良のドラマ展以外のドラマ関連の見どころについてパネルが上がっていました。
どちらも「われこそは・・・」とばかりにお国自慢を誇っているかのよう。
私ども相良も「ここぞとばかり・・・」ではありますが。
次の一手は殿(渡辺謙氏)の相良再訪ですね。
その件が現実となった場合「い~ら」でのトークショーになるかと思いますがそちらは収容人員の限界甚だし。
入場抽選での落選が頭をよぎります。
2025年
5月
01日
木
史料館大河ドラマ展 少々リニューアル
朝食を抜きにして境内作業の少々、10時に出立、昨日で営業を終う食堂へ徒にて。
1030開店ですが奥方と一番乗りを狙いました。
私どもにとって行列の一員になる事は忌み嫌うこと。
それは日ごろあり得ないことではありますが、GW中とはいえ平日でしかも法務はナシ、タイミングは絶妙でした。
スグに入店待ちのお客が集結、開店の10分前には暖簾が掲げられました。
これが最後と皆さん単品一皿を余分に注文する姿が・・・
私どもも同様です。
昼頃に別件で奥方がお店の前を通過した際、入店待ちが外に10人は並んでいたと。
本来なら営業許可の更新時期の今年の11月まで頑張る予定だったそうですがやはり「体力的限界」を感じたよう。
数年前に更新した機材、設備投資の回収についてなど、余計なことが気になる私がいました。
店では市の大河ドラマ担当とたまたまお会いしました。
今週放映の田沼意次の相良、お国入りの1カットについて雑談。
噂にあった「こっそり平賀源内再登場」の演出についてはナイだろうとのことでした。さぁどうなるか・・・「民から愛された良き殿」。
扨、そのような話になったことから午後からは史料館2階の大河ドラマ展に。
つい最近リニューアルされていたことを知りましたのでその目玉をこの目で確認に。
それが画像①「殿様の間」ですね。
待機している係の人が「是非に」とそちらに上がっての記念写真を勧められましたがそれは辞退させていただきました。
NHKの劇用小道具スタッフによるものと聞きますが、壁の金色七曜紋の整列が粋。
そしてもう一件、気になる田沼意次~渡辺謙氏のメッセージ。
「史料館にお越しの皆さんへ」で始まります。
これらは撮影NGです。
尚、こちらへの来訪者はこのGW期間中で「2万人」を超えるとのことです。
2025年
4月
30日
水
金沢城本丸は尾山城本願寺御堂跡
冷たい風が一日中吹きまくっていました。
外が晴れているだけ有難かったのですが、堂内お参りの方の口々から「寒いねぇ~」。
法要の終了後は久しぶりにお斎に。
先般閉店した根上がり松近くのお寿司と釜めしのお店の主人御一同と会食です。ちなみにそれは相良人が「寿司屋難民」と言われるようになった事案でした。
会では私の知らない「昔話」に花が咲きました。
駿遠線、小堤山トンネルの近くの線路上で乳母車のまま放置されたという方の話を私は口を開けながら・・・。
当時は子供たちに赤子の面倒を見させるなど当たり前のこと。
また線路、今でいう軌道敷内に子供が立ち入って遊ぶことも普通だったと。
赤子の世話を頼まれた子供たちがそれぞれの遊びに夢中になって何処にその乳母車を置いて来たのかを忘れたということですが、その状況を想えば「九死に一生」のイメージとなりますが、まったくそんな感じはなかったと。
何故なら当時の駿遠線の車両はゆっくり走ってスグ止まるから・・・といいます。
「新相良駅」の近くということもあり、スピードは出ないそうで、さういう時は「運転手が助けてくれる」・・・と。
ただし、子供の遊び場になってしまったことから事故もあったとのこと。
豚と衝突して脱線したとか学校に遅刻しそうなって駅に電話をすれば電車は発車を遅らせてくれたなどなど、のんびり、ゆったりの時代を懐かしく語っていました。
その「昔話」の中、一番に驚かされたのは、現在の国道150号線ができる前の事「そこいら辺りまでが波打ち際だった」と。
そして海岸は今のように石コロまみれではなく「キレイな砂浜」だったと嘆いていました。
そんな短い時間の中で一体何が起こったの? 御前崎周辺の港湾整備ではないのでしょうかね・・・
施主には昨日記したとんかつ店の閉店の件についてふれたところ、昔はよくお昼ごろに役場で会ったと仰っていました。
要は役場からのランチ注文の配達時の遭遇ですね。ということは役場の皆さんの昼食の選択肢がいよいよ消滅してしまったということで、私どもも本当に困り果てまして・・・身近な食の楽しみがどんどん無くなっていく・・・
扨、久々金沢城(尾山城)に。
旧陸軍から金沢大学、県営体育館の敷地となった時期がありその移転からが本格的な復元整備の始まりです。
地表付近の相当な開発があったわけですが、一応は国有地として管理されていたため、ありがちな民間による乱開発の手からは逃れられています。
現在のような豪勢威風堂々の城郭建築を復元していますが、私の好みとしては本丸跡周辺です。そして何よりその周辺の調査はあまり進んでいないとのこと。
城郭大系の冒頭の部分を記させていただくと・・・
「金沢城は少なくとも三つの画期をもっている。
まず、加賀一向一揆の本拠としての金沢御坊(金沢坊舎・金沢御堂)の百年間(天文十五~)があり、ついで金沢御坊崩壊後の佐久間盛政による占領期がある。この期間はわずか四年たらずであった。
さらに前田利家入府以降の本格的な近世城郭の築城期である」
その天文十五年の件、「天文日記」に「同年十月二十九日加州
金沢坊舎へ本尊木仏・開山(親鸞)御影-太幅也-御伝(親鸞絵伝)・泥仏・・・仏具」要は「寺」だったということ。
金沢大学があった頃は植物園になっていたので大きな建築物はなかったよう。よってちょっとした森。
木がお迎えしてくれます。
寺→城と異色のスタイルの金沢城。本丸跡は人影もなくベストなエリアです。
2025年
4月
29日
火
雲影 濤聲 丙辰仲夏 小華堂東雨寫 渡辺小華弟子
朝から曇天、さらっと日差しがある場面もありましたが、午後からは本格的な雨。
お昼前に今月いっぱいで終了する檀家さんのお店に昼食を所望。しかし、外の暖簾の下にはお客の入店待ちの姿が。
それを見せつけられてすごすごと退散しました。
パターンからいえばそこまで人が並んでしまうと「店内大変」。
店主と奥さんの仕事の限界を超えてしまいますので致し方が
ないことです。
30日の最終日には朝食抜きで「開店前から並ぶ」・・・それしかないのかも。奥方は「10時から」と言いますがまさか・・・
一週間前に行った際はお客たちは「また来る」「これから毎日来る」・・・と口々に。
2度とその味わいができないと思えば、そんな気合を入れての対応もあってもいいでしょうね。
かつ丼にしようか唐揚げ定食・ヒレカツ定食にしようか・・・
昨日の東海地区のニュース。
土岐市に住まわれる115歳のお婆さんが亡くなったとのこと。
日本人最高齢といいます。
ちょっとばかり手の届きそうもない数字で驚かされましたね。
そこまでは望みませんが、それは大きな病にかからなかったという証。たくさんの難題もクリアされてきたということ。
できれば私もその健勝にあやかりたいと思ったのでした。
そしてまた日本最高齢として名乗りをあげた方が愛知県幸田に住まわれる114歳の女性。
地域的に「東海地区」ということでその温暖気候の共通は偶然ではないような・・・
ということは同じ東海地区に住まわれる者(どちらかと言えば女性)としてそのチャンスはあるのかも知れません。
まぁ命のことは「おまかせ」ですが・・・
扨、画像はかなり以前に中村先生から頂いたもの。
「 雲影
濤聲
丙辰仲夏
小華堂東雨寫 」
先日も渡辺崋山系のお軸を拝見させていただきましたが、この作者も崋山の二男、渡辺小華の弟子の小華堂(兼子東雨)の作。
雲影濤聲(雲の影 波の音)。
丙辰ですから大正五年。
尚、先生から頂いた品は多数、もしかして紹介済みかもしれません。悪しからず。
2025年
4月
28日
月
変わる近世史 田沼時代 藤田覚先生
お天気良好なれど本堂は少々寒いを思う法要でした。
まぁあと少し経てば暑さでヘロヘロになるような人も出てくるでしょうね。
昨年ほどではないといいますが・・・果たして。
私は暑さに関してはまったく平チャラですが、それを語れば嫌味になりますので、その手の悲鳴を耳にした際はあたかも辛い顔をしながらそれに合わせるようにしていますが。
法要はGW入りとあって故人のお孫さんが参列していました。
法要終了後に相良小学校に中学校がかつての相良城の址になる・・・などの話になったあと如何にも最年少と見える彼女に「学校はどちら?」と聞けば「聖隷クリストファー」とのこと。
耳にしたことはありますが、私には未知なる学校名でそこで会話は終了。
浜松から来られたことだけはわかりましたが。
昨晩のテレビ小僧の主たるものは先週見落とした日曜美術館の「相国寺~」にNスぺ「人体Ⅲ」でした。
どちらも面白く拝見。
東京芸大美術館で催されている「相国寺展」は捨てがたい。
奈良も京都の国宝展は勿論の事。チャンスがあるかな~
「べらぼう」は18時からのBSでさらっとながら視聴。
今回はストーリーの進行ではなく、これまでのおさらい番組でこれまでの大河ドラマでは異色。
私の周囲、相良在住の方でも「視ていない」と断言されること多々。そういう方々を今一度取り入れるチャンス番組をここで入れたということでしょう。
現状いろいろな情報が入ってきますが、先般NHKプロデューサーが仰っていた「田沼意次が相良に訪れる」というシーンが挿入されるようです。
意知と一緒に先般ナレ死した平賀源内も一緒といいますが。
それも果たして。前回はその伏線が貼られていたような・・・
その「平賀源内が相良に」のシーンが演出されるとすれば昔からいわれる相良の伝説が表に出るということで私にとっては驚きでもあります。
とはいえ、私はまったくその件、信じていませんがね。
表記画像は藤田覚先生(こちら こちら こちら こちら)の書籍。
今年4月1日に第三刷が発行されました。
この書籍は田沼意次の名誉を回復させたその研究、第一人者の書籍になります。
2025年
4月
27日
日
道場勝間田氏 時宗清浄寺の藤棚 藤沢の「藤」か
昨日最終土曜の19時はメディテーションの日。
あまりに色々なことがあったため失念してしまいました。
所要で出ていましたがたまたま18時56分に境内着到。
薄ら灯かりの中、佇む皆さんを見て慌てて黒衣を羽織って本堂に。既に本堂には閂が掛けてありましたが・・・。
まぁ一応は体裁が整って事なきを得た次第。
当然に奥方はこの間抜けぶりの躰を失笑したというわけで。
有り難くも息子が導師となった午前の法要は施主ほか浜松からの御一同方々。
こういったご縁は稀有なこと故、法要後に私もご挨拶に「乱入」させていただいた次第。
午後からは私が導師としての法要(十七回忌)がありましたが、「午前は息子が・・・」と紹介するとその成長の姿に驚かれていました。
以前は法要の脇僧として私の隣で参加させていただいたことを懐かしく語っていました。
つくづく時間が経つことの早さを思うばかりです。
そのあとは史跡調査会の定例会。そこで時間を喰いすぎたことにより以降の事々が狂ってしまったのでした。
まぁ悪いのは私のお頭の具合の方ですからね。
どうしょうもなし。
最近は物忘れがことに酷い。
特に日々携帯電話探しの件、勃発しています。
何処に置いたのか不明となって挙句自分の携帯に電話を掛けて呼び出し音に耳を澄ます・・・毎日の如し・・・。
扨、テレビ(地方版ニュース)でお馴染み、静波の「藤」ですが、そ
ちらではなく先日ふらっと立ち寄ったのが道場の清浄寺。
そこにも藤棚があって華やかな紫色を披露してくれていました。観光客ゼロでお気楽です。
また大分掲示板も痛んでいました。
こちらの藤の名は相州藤沢の「藤」からの拘りを思います。
ついでと言っては申し訳ないことですが、最上段の覆堂、伝勝間田家の墓域にお参りしてきました。
2025年
4月
26日
土
門前の配電盤が撤去される スッキリ
昨日は懸案の配電盤撤去移設工事の日。
停電が伴いますので法要予定がない日となりました。
今回の会館新築工事で何回か電気がストップしましたが、停電後の光回線とワイハイルーターの復旧には結構にイライラさせられました。
昨日はこれまでの経験からスンナリと回復することができましたが、一番最初の復旧にはNTTとプロバイダー双方に連絡し通信状況の確認までしたほど。
そこではリセットー回復の手順を学習しましたが、今やその手順で進めれば何とかなるようになりました。
しかし一旦電気が切れただけで不通になってしまうところ、いかにも不便です。不思議です。
また庫裏の中継器を一つ会館2階に移設しそちらにも電波が届くようになりました。
会館にはNTTの回線工事はナシ。
今や携帯電話を各自所有していますからね。
ただし長居をする場合はボイスワープの設定をしてから・・・
昨日は1階のホールの須弥壇のお灯明の配線を新しいものと交換しました。
本堂から移設したお灯明でその配線は半世紀は経っている古びた電線とソケットでした。
折角の会館ですので新しい品に交換したわけですが、その著しい劣化の様から、本堂の他の配線についての交換も課題となりますね。
漏電は火災原因の最たるものですが、お灯明の点灯時は大抵、私ほか誰かしら本堂に関わっていますのでそれほどの不安はありません。
門前の分電盤の移設工事はオプションということになったわけですが、いずれにしろこれまで通りに配電ができませんので致し方ないところです。
先日発注した割には早い工事でした。
電柱の支柱移設工事は6月といいますから・・・
今後も細かな付属工事が続きます。
2025年
4月
25日
金
水たまりの対応着手も・・・やめた~
お日さまの顔を拝める時間はそうありませんでしたが、風もなく安定した天気。
最近は平日の法要の依頼がありますが、昨日午前も。
最近は参列者をごく近親者に絞る傾向がありますので土日祭日に気を使う必要もないということと、リタイアした方だけで催されることが多くなった感。
そもそも今や仕事の休みの日が土日祭日とは限りませんからね。
午後からは昨日ブログの山門下の「水たまり」の解消にチャレンジ開始。
まずは車両の通行に支障がない隅の50㎝ばかりを試掘してみました。カッターとハツリは私、ガラ集めは奥方です。
この辺り①で木の根の伸びは収まっていると予想していましたが、埋設の排水パイプを開けてみてビックリ。
大量の土と根がビッシリと詰まっていてその先もビッシリで押しても引いてもびくとも動きません。
塩ビパイプの部分的交換程度でケリをつける予定でしたが・・・。
先般の雨どいの土と植物の件もありましたが、まったく人智を超えているとしか表現のしようがありません。
すると奥方から「諦めなさい」との声が。
この状況を目の当たりにして、塩ビパイプでの排水はムリということが判りましたので「U字溝の埋設とグレーチングの設置」についてその経費のお伺いをたてていたわけですが、それについて「DIYではなくプロにまかせろ」ということです。
私は奥方を助手に少しずつ「ぼちぼち のんびり」その作業を進めていくつもりでしたが、何せ時間がかかる仕事は場所的に具合が悪いとのご意見。
よって「さっさとケリをつけてしまえ・・・」と早速に工事依頼の連絡を業者にしていました。
まぁ「カネで解決しろ」ということですが私もここばかりに時間を割いていられませんので仕方がないことです。
しかしこういった工事で一番困るのがガラなどの廃棄物の処理ですね。今やこういったものは指定業者以外の受け入れは困難で一般家庭からの廃棄物としての搬入はムリなのです。
ということで私はコンクリートガラは地道にハンマーで叩いて細かくし境内に埋めていくつもりでしたがそれだけ大量に出てくれば手に負えませんね。
捨てる場所がナイということです。
奥方の許諾がありましたのでラクをさせていただくことにしましょう。
私の抱える宿題はこれで一つ解消。
梅雨前には終わってくれるかな?
2025年
4月
24日
木
そろそろ水たまりの対応に
強い雨の中、東京からのお参りがありました。
法要後の墓参は最近には珍しく傘の登場がありました。
最近の降雨時のイライラ感の増幅は山門下の水たまりです。
水曜はゴミ出しの日ですがこの水たまりの通過は困りました。
この解消について私の宿題の一つとして数えていますが、通路上だけになかなか着手できずにいます。
ただし梅雨入り前には工事完成させたい現場です。
これは会館の地盤を周囲より多少上げて建築したため、そしてコンクリートで囲ったためにこの門の下に雨水が溜まるようになりました。門の直下は多少高くなっていますので・・・
この部分には排水溝をかなり以前に作っていますが、その排水溝の中に木の根が侵入し繁茂し排水溝の役目をしていないというのが現状です。
数日中にその排水パイプを掘り出して何かしらの対応をする予定です。開けてみなくてはわからない・・・といったところ。
①の看板を設置しました。
メディアで紹介されるようになり、来客者が床下に顔を突っ込んでいる場面に出くわすことがあります。
その痕跡が見やすく判別しやすい場所に照明器具を設置していますのでそちらに誘導しようというものです。
相良城の旗差し物を切りそろえて作った結界柵について、時太鼓同様その説明を掲示しようとも思いましたが、そこは保留。
2025年
4月
23日
水
刀砥ぎ一寸7000円の良心的 静岡県の地名
久し振りに友人の「女墓場」氏から便りが。
沖縄に友人連れで行ってきたようでゆうパックにはその土産の品々が。
今彼女は歯科専門学校の講師に収まっていますので「GW前に、よくもまぁ・・・」と感じる次第。今頃の沖縄は天候不順である事もありますしその奔放な時間の使い方への羨望もありました。
まぁ梅雨明け時期のドP感のスカ晴れである必要はないかも知れませんね。ただし晴れていることは何をするにも有り難いものです。
まぁその手の土産品は「いまさら・・・」的であって(失礼!)珍しさは一切ありませんが、一緒に放り込まれていた歯科系必須のグッズは重宝に使えそうです。
「いまさら・・・」はもう一つ。海洋博公園のパンフが同梱されていました。
連れの存在がそれを主張したのでしょうが、初めての沖縄観光の人ならば最適ともいえる場所です。
しかしあまりにも観光客で混雑しそう。
そういえば違う友人がここのイルカショーのスタッフをしていたことを思い出しました。
息子を連れて行ったのは十数年前、次にこちらを訪れる事があるものなのか・・・
あの運天港や今帰仁城からもそう遠くない場所ですので、私なら「奥の墓道」氏辺りと来たとすればそちらを案内するでしょうね。勿論チビチリガマも。
扨、先日神主で刀の砥師のN先生宅に赴きました。
一見して体格が細くなっていましたが「10㎏痩せた」とのことでした。
心臓の手術が決まっていたそうで「良き刀」2本の砥ぎ依頼(おそらく鎌倉期の刀か・・・)が入って、「これは!!」と思い病院に手術の延期を申し入れたといいます。
手術が終わったらもう砥ぎはできないだろうとのことで覚悟のうえの延期だったようです。
心臓の事だけに・・・怖いような。
刀砥ぎの話。
お宅に上がり込んですぐ、午前中の砥ぎは「失敗した」と。
その意味が判らない私は「何を・・・」と聞き返していました。
それはその砥ぎの事前に「描いていたイメージと違った」といいます。
プロの繊細技法について私のお頭では及ばないところあることは理解していますが、その意識とは・・・やはり判りません。
「失敗」のあとは・・・と更に問うと「その刀の事は忘れ去る」といいます。
忘れた頃に対面し、再びイメージを構え一から作業に取り組むのだそう。
料金は一寸7000円。この世界では良心的な砥ぎ代金です。
若い砥師が先生の家に遊びに来たそうですがその方は一寸単位18000円といいます。
先生はこれまでその砥ぎ賃で受けていれば「もっといい生活ができたかも・・・」と特に今の年金支給の低さを嘆いていました。
神主の仕事は今やまったくないようですし、そもそも先生は自虐的に「神主は・・・喰わんぬし」と日ごろから口にしていました。
これからの手術費用やら他に抱える病の対応で大層な出費があることが想像できました。
帰り際、コレを持って行って・・・と渡されたのが「郷土歴史大辞典 静岡県の地名」です。
重厚な書籍で先生のお兄さんがお宮の境内地に建てた図書館の蔵書だったそう。
書籍の殆どはお兄さんの奥さんが古本屋を招いて売却したそうですが、その前に確保していたようです。
そして渡辺崋山系の画家の図会を拝見。「この掛軸はオレが死んだらあげるから・・・」と言いながら近くの奥さんにもそう告げていました。
その件もそうでしたがさらに続けての「オレの葬儀を頼もうかな・・・」には絶句。
「ご冗談を・・・」のレベルで私は沈黙するのみでした。かなり弱気になっていました。
しかし「オレは神も仏もないのだ」と。
その意味は一体・・・信心と加護者としてのその存在のことか「神仏習合」的発想か・・・おそらく後者でしょうか。
その真意は不明です。
何よりも手術の成功を願うばかりです。
まずその前に「砥ぎ」のイメージ通りの完成ですね。
2025年
4月
22日
火
「裏切らない」圧巻のユリ生命力 店舗閉店の報せ
良きお天気のもと法要の勤修。
しかし外気は暖かでも堂内は相変わらず数度低い環境、とはいえまぁ許容範囲。
私の本堂屋根作業終わってから穏やかで無風の日々が続きます。
何せあの数日間は風速10mと言ってもいいような強風下でしたから。天気の事にボヤキを入れても仕方がないのですが、今その件を振り返って触れることができるだけ有難い。
まぁその仕事は余計な私の作業でしたが。
あの落下寸前の鬼瓦の様をご指摘くださった檀家さん宅にすべての工事完了の報告と御礼に向かいました。
もしその発見が遅れたとしたら、何とも言えぬ酷い惨状を目の当たりにしたことでしょう。
つくづく思います、「阿弥陀さんに守られていた」と。
ただし「次はナイ」かも知れませんので何事も心してあたらなくては。
午後からは土いじりの続き。
昨晩はNHKBSの英雄たちの選択、「本草学者 平賀源内~」でした。
一昨晩の大河ドラマでも異色の説を披露していましたね。
昨日ブログでは私が「絶対に裏切らない」(毎年開花してくれる)と日頃からそう信じて花が落ちたあとも大切に管理している境内のユリたちについて記しましたが、彼らの生命力と子孫繁栄の力には圧倒されます。
球根が分化して翌年には次々とそれらから発芽するのですが、それとは別に開花後に成長する種房から無数の種が発散されます。
それらからまた発芽成長し、また花を咲かせますので地面さえあれば無限とも言っていいような生命力があります。
次から次に命のバトンタッチが・・・植物はスゴイ!!のです。
そのユリに、より圧倒させられたのは先般の本堂屋根の雨どいの図。おそらく昨夏に咲いたであろうユリの枯れあとが目に入りました。
少しばかりの枯葉が土と化しそちらに種の一つが飛んできて発芽、根が張るにつれさらに枯葉が堆積、今や完全に土となって雨どいを塞いでいました。
さすがにその景色はマズイと思い除去させていただきましたが案の定その元には球根が成長し、「次から次に」の予備軍となっていました。
黙ってそれを見届けていたら屋根中ユリたちに覆われることになったかも知れません。
これからも注意して見ておかないと・・・
①はユリの鉢の一部。周辺地面からも・・・
②は雨どいの堆積物除去前。③除去後。
④は拙寺檀家さんのお店の掲示板。
ここ数年、増えてしまいました。時の流れ、無常世界に生かされる身であることはわかっていてもその現実を突き付けられるのはいかにも寂しい。