2011年平成大修復 波さん 大坂籠城
おかげさまで大きな工事を成し遂げることができました。
課題、保留部分は残るものの当初予定の改修が無事終了できましたのは皆様方すべてのご門徒様のおかげでございます。心より感謝申し上げます。工事の進捗の画像をupしました。
御懇志返礼としてお納めいただきました品の紹介
波さんのごじぶつさま
大澤寺十一代住職釋祐曜の姉に波(なみ)という方がおりました。
波さんは江戸城に上り十一代将軍徳川家斉の正室広大院(島津重豪娘)に出仕しました。
その後、伊達家屋敷と奉公先を替えて宿下りの際それぞれの主より金員や品物を頂戴し当山に持ち帰りました(この「奉公先を変えた」件2020年現在波さんは江戸城大奥から出てはいないとの結論に至っています 広大院の着物のほか薩摩藩ざぼんと麻布善福寺銀杏から作った聖徳太子像も広大院の配慮と考えます)。
波さんは明治二十二年八月、六十九歳で相良で亡くなりましたが、波さんの持ち帰った財物は明治維新後の寺院の財政危機(動乱と廃仏毀釈の時代)に大澤寺を支えました。
また禁門の変で長州軍に焼かれた東本願寺の再建懇志として一部使われたと聞きます。奉公先の伊達家では波さんお役ご免の際、麻布善福寺(伊達藩邸近隣)の親鸞聖人御縁の大銀杏の「乳」(樹齢を重ねた銀杏の幹枝から出る気根)から聖徳太子の立像を造らせて波さんに授けました。
その聖徳太子像の納まる厨子の奥に隠れていたのが「波さんのごじぶつさま」です。経緯は色々と推察できますが波さんが手元に置いて、方便化身、阿弥陀仏称名の対象とされたと思います。
また当初よりこの仏を阿彌陀さまと呼んでおりましたが印(手の形)の様子が少しかわっています。右手の形は阿弥陀如来ですが左手に薬壷をのせているようにもみえます。
一向専念無量寿仏(西方浄土世界)に帰依する真宗門徒が現世利益の象徴である薬師如来(東方瑠璃光世界)を護持することはありませんが、家康公の神格である「東照大権現」の本仏が薬師如来であること、また遠州より遠く離れた江戸の地でのご奉公にあって、病災無くお役目を遂げてもらいたいという家族縁者の願いが込められていたことも当然に考えられます。(当家では阿弥陀さまとして伝えています)
※画像左側、真鍮製で黒く変色しております仏様が
「波さんのごじぶつ さま」です。
現物をコピーして鉄で鋳造しました(画像右)。
一回り小さくなっています。
「五輪塔と大の字」に「長善寺黄旗組艦隊旗」
以下2011年落慶法要にお配りした書面より。
宗祖親鸞聖人七五〇回忌、本堂改修落慶、盂蘭盆というこのうえない感謝の機会を与えられたことに、重ねて御礼申し上げます。
ここに二つの関連する事象に使用された旗印をアレンジしオリジナルの手ぬぐいを製作いたしました。拙僧の独善的な選択で恐縮です。
ベタ染めで実用には若干不向ではございますがご笑納ください。
「五輪塔と大の字」に「長善寺黄旗組艦隊旗」はそれぞれ同時期に掲げられた本願寺御門徒の旗印です。
本願寺最大の危機、織田信長による石山本願寺攻略による一向宗殲滅作戦(元亀元年一五七〇年から天正八年一五八〇年)に対する折、それぞれ別々に掲げられました。
「五輪塔と大の字」(東京麻布 善福寺)
一向一揆の旗とも呼ばれ石山本願寺に籠城する本願寺十一世、顕如上人が麻布山善福寺の援軍にあたえた旗印です。
~「波さんのごじぶつさん」はその善福寺銀杏材聖徳太子像に隠れていた仏様でした~真宗では塔婆や梵字、風水の考えが無いため「五輪塔」は近世御門徒の墳墓に使用されませんが、地方では今も散見され、三河の妙願寺所蔵「親鸞絵伝」中の聖人のお墓は五輪塔の形になっています。(上から南・無・阿弥・ 陀・仏と刻まれます)
五輪塔は下から地・水・火・風・空の五つの世界(輪)を表します。
あたかも四大自然エネルギーと「空」、環境・大気をイメージしてい
るようです。
「大の字」は家紋や旗指に多く使われていますがこの旗の「大」は 大谷家の「大」と思われます。大澤寺の「大」とも重なります。
「長善寺黄旗組艦隊旗」 (広島竹原市 長善寺)
教団が信者の死を賭して戦闘に誘おうとするプロパガンダではあり ません。末端の一集団がその力を自ら奮い立たせ鼓舞し相手の戦闘
心を萎縮させようという目的で掲げられたものでした。
「安芸門徒の旗」として、教科書に掲載されたこともあるそうです。
現物は黄旗ですが文言のみを拝借しました。
天正四年、石山本願寺の戦いにおいて、長善寺三世住職、
圓西の要請に応じて愛媛県今治市大三島町口総の門徒、藤原忠左衛門が「黄旗組」を組織、出陣し、毛利軍と共に
「進者往生極楽 退者無間地獄」
~すすむは おうじょうごくらく しりぞくは むけんじごく~
の旗を舟の舳先に掲げ、木津川口の戦いで織田軍を破って本願寺に兵
糧の搬入を成功させたといわれます。
藤原忠左衛門は天正五年一月二十一日に尼崎砦で、同行した十八名と
共に戦死しました。
長善寺には他に六字名号の前立ての冑と具足、尼崎砦で戦死した十九名の法名簿が伝わるといいます。 合掌