この間、その代表さんが亡くなったといわれる「何とか事務所」や「吉本興業」などの組織とお抱え芸能人被雇用者の間でのゴタゴタが漠然ながら聞こえてきます。
テレビの芸人世界の事はまったく詳しくありませんが、クビ宣告に対して神妙の会見の様。
要は自業自得といえばそれでお仕舞い、ゴチャゴチャ言っても始まりません。
ただしあの人たちはのお仕事はやはりその「事務所」あっての一人格。その名でしょう。
その事務所から離れたり、出奔したらその「ネーム」の使用はできませんね。
そして面白いのが日本の社会に「まだ残ってるの?」と思わせるのが「構」(かまい)のDNAですね。
「組織・集団からの排除」という刑罰の一つですが特に江戸期の追放刑として明文化されています。
お寺でいえば坊さんの「一派構・一宗構」などもありました。
時代劇でお奉行さんが「所払を命ずる」などと聞きますがその「払」(はらい)が「構」ですね。
また以前ブログにて「奉公構」について記しました。ちょっとばかし陰湿な習慣といえますね。
まぁお抱えしていた方もクビになった方も双方気持ちはわかりますが・・・。いくらでもスペアはいることですしね。次から次へと出ては消え、出ては消え・・・
公としての刑がこれらのように暗黙の私刑として伝承しているところも日本人のDNAを感じます。
他家に解雇、干された者を雇用することは家同士(今は事務所同士)の義理に反することになって、これからの仕事に障りがあるということですね。
まぁ、どちらさまもうまいこと立ち回ってくださいな。
さて、天保から弘化への改元の理由もやはり災異改元といわれています。
江戸城西の丸と本丸の二度の火災があったからですね。
ということは拙寺の波さん(おなみ)も江戸城でその大火事を目前にしていたということです。
そちらブログには「徳川家斉の正室広大院(島津重豪娘)」の下、いわゆる「大奥」の女中として奉公していたことを記しました。
世にいう「篤姫」といえば大河ドラマの中でも相当のヒット作だった「天璋院」(家定の正室)の方ですがこの「広大院」も「篤姫」を名のっていました。
それも天璋院の「篤姫」はこの広大院から取ったといいますから、元の「篤姫」。
よって先日叔父との会話の中その「篤姫」という語が出て混同があり「 ? ? 」になったばかりでしたね。
その広大院篤姫の「広大院」は天保十二年(1841)に夫の家斉の死に伴っての名のりとなります。
その三年後の天保十五年(五月十日)に本丸御殿での調理不始末による火災によって全焼しますが、この火事で広大院は奥女中におぶわれて吹上御殿に避難したといいます。
なみさん24歳の時のことで、その避難に付き添っていたことが推測できます。
この火事は奥女中が「数百人が死亡」したといいますから、波さんの生存は奇特なことだったのでしょう。
その年、火災の6か月後(11月10日)に広大院は七十一歳で亡くなりますが、その年末の、日の少ない時期に改元されて「弘化」(一年)となりました。
そしておそらく広大院の葬送がひと段落したようなタイミング弘化三年(1846)の五月に波さんぱ相良に戻ってきています。
若き頃より広大院の下で女中奉公をし、広大院の死もそうですが、その火災の原因についてのあれこれも不満があったのでしょうかね。
12代将軍の上臈「姉小路」が広大院付の上臈に罪(出火)を擦り付けたといいます。
「女の世界」の不思議は理解不能です(ここでは日本の江戸期独特の大奥世界)。人に罪をなすって「自分じゃない」との無責任の主張は人間世界ではつき物ですが。
広大院像は美形だったといわれる「ホンモノの篤姫」を忠実に表現しているようです。
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