文書の字は間違いなく「辛丑」(かのとうし)。
それでいて年号は嘉永六年(1853)です。
波さんが伊達藩から頂いた聖徳太子像の添え書きの文言です。仙台坂の伊達下屋敷近くの麻布山善福寺に立つ親鸞さん縁の銀杏を材にしたという事が記されています。
成瀬隼人正寄進の太子堂と像について天保三年(1832)に損壊したことはブログにて記していますがそのような境内地詳細まで把握しての粋なはからいだったのでしょうか。
その干支の件、以前(ブログ)から叔父と「単純な間違い」だろうということで勝手に双方で納得していましたが、どうしてもそのモヤモヤが残っていて度あるごとにその話になります。
まぁどう見方を変えても「辛丑」にしか見えませんね。
しかしその嘉永六年は「癸丑」(みずのとうし)。
現代に生きる私たちがこの馴染みの薄い「干支の組み合わせ」がゴチャ混ぜになって間違えることは致し方ないとは思えますが、当時の人がそこのところ間違えるかどうかについてです。
嘉永六年(1853)は癸丑(みずのとうし)ですが、近くに天保十二年(1841)に辛丑(かのとうし)がありますので、元号の方を間違えた可能性も思量しましたがいくら何でも元号の記述違いは現代では絶対にありえませんね。
またその天保十二年は波さんの年は二十一歳で当時は大奥勤め中ですね。ということでいつもの単純ミスの件、嘉永六年の「癸丑」(みずのとうし)を辛丑(かのとうし)に間違えたことで話を収めます。
嘉永六年(1853)にこの太子像を頂いたということは間違いないとして、弘化三年(1846)の五月に相良に帰った(昨日ブログ)波さんが再び江戸に戻り伊達藩邸に入っての御奉公は今のところの主たる流れと解釈しています。
しかし太子像製作には乾燥と彫りと塗装を合わせれば最低でも二年程度はかかるのかも知れません。
また他にもその類例があったかどうか。
伊達藩の「粋なはからい」がどういうタイミングで決定し、どの段階でこちらを渡したかわかりませんが普通に考えれば、退職時のサプライズプレゼントが思い浮かびます。
そうなるとなみさんの年齢三十三歳が正式引退ということになりますね。
以前の太子画像は適当に撮影しましたが今回は色々な角度から撮影してみました。
ひっくり返して足の裏からも。
未塗装部分を「拝見」しましたが材の質は銀杏で間違いないところ。この辺りの材を削ってDNA鑑定などできないものでしょうかねぇ。勿論麻布善福寺の天然記念物と同一かどうかです。
まだあの書付が信じ切れない私があります。
すべてがあの 「辛丑」(かのとうし)ですね。
先日、息子に「鑑定団でテレビデビュー」について頼んでおきましたが嫌でもなさそう。そこならお気軽な感じがします。
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