指名手配 大奥女中「おみてさん」 女中帳なる書面

 

  ★訂正 20200201 ブログ→「おみて」でなくて「おみよ」

 

昨日の労作「寛政譜索引」のがつお氏より続けざまに御指摘を頂戴しました。

私の祖父(13代)から見ての「祖父(11代目)の姉さん」の「波さん」の「旦那」(この語はブログにて記しましたように男女の区別なく「上司」ここでは女中おつぼね)の「おみてさま」についてです。祖父との関連でいえば波さんは明治二十二年1889に拙寺で六十九歳で亡くなっていますから1898年生まれの祖父九歳からすれば余裕で記憶にあったはずですね。

 

つい先日はその波さんの旦那「おみてさま」について「詳細不明で大奥名簿などあれば・・・」などとブログにて記したばかりでしたが、「それならコレ」と言う具合にご紹介いただいたものが「女中帳」なるもの。

 

そしてそれが「国立公文書館デジタルアーカイブ」にて閲覧できるというものでした。

すると「みて」の名とその経歴があるではありませんか。

「女中帳」なる資料、その存在すら知りませんでしたのでがつお氏のその学者並みの知識の深さにあらためて驚かされました。

 

まったく脱帽とはこのことですがただし時代的に見て多少の疑問が生じてしまいます。

その資料は享保17(1732)~文化7(1810)の記録で波さん時代とは少々早い感があります。

しかしながらその記述を見て面白く楽しませていただきました。

 

②画像右側がみてさんの記述ですがまず冒頭の「同九巳閏七月」とは直前のページ「寛政八辰十二月」ですから「同」とは寛政。その九年(1797)の七月ということでOK。

驚いたのはそのあと。

御奉公三拾六年 御祐筆 みて」からなんとその「おみてさん」は大奥でのご奉公がそのときで36年目であることと、「祐筆」(右筆)とその職責を表す語が。

誰の祐筆?といえばこのブログの流れからして広大院と推測したいところですが広大院も少々若すぎる・・・。

 

ただしその「36年」は大奥勤めの定年が私の考えていたところよりはるかに長かったことがわかってさらに驚き。

他のページを見ても30年以上の御奉公はザラでした。

この「女中帳」掲載の方々は女中は女中でも特別な人たちなのでしょうね。

 

以前某航空会社のスチュワーデス(今の呼び方は違いますが)の定年が30歳などと聞きかじった事がありましたが、やはり時代からすれば江戸時代の大奥、20代後半にもなればその手の社会では「引退」が囁かれる頃と考えていましたので・・・。

 

 

ここで先日は田沼家と波さんとそして広大院の時系列をさらっと記しましたがおみてさんを追加してみます。

 

       相良      波さん           広大院

 

 

宝暦十一(1761) おみて御奉公開始

安永二(1773)                                                島津重豪娘鹿児島城生

安永五(1776)                後の徳川家斉と婚約 

                 ― 江戸城一橋邸へ 3歳

天明四(1784) 意知暗殺                11歳

天明六(1786) 意次失脚                13歳

天明七(1787)            近衛寔子と改める14歳

天明八(1788) 意次逝去 相良城破却                                  15歳

      相良 代官時代

寛政元(1789)              家斉と婚儀 16歳

寛政九(1797) おみて御奉公36年目

文政六(1823) 意正相良藩   3歳            50歳

天保八(1837)          17歳       家斉とともに西の丸へ

                   「大御台様」64歳

天保十二(1841)                               21歳 家斉死去「広大院」68歳

天保十三(1842)          22歳       従一位「一位さま」

天保十五(1844)                               24歳  江戸城火災

                    半年後広大院逝去

弘化三(1846)      相良帰郷 26歳  

              不明

嘉永六(1853)   伊達屋敷より聖徳太子像  33歳

明治二十二(1889)      逝去 69歳

 

そのおみてさんの記述をさらに記すと

右病気付願之通御暇被下数年相勤~」で、一旦は御暇(おいとま)を願ったものの数年間「あいつとめ」したことがわかります。

「数年」とは非常に曖昧ですがやはり波さんとの接点は難しいでしょうね。

他にも「おみて」さんが居たとみるのがいいのか・・・

 

また

「数年相勤候付来御合力金御扶持方一生之間被下之  

                  但来御切米は上ル

 

御合力金と御扶持方、一生之間は圧巻ですね。

「一生」というとどのくらいまで生きた人なのだろうと考えますがおみてさんが36年の御奉公とするとキリよく14歳でお城に上がっていると仮定してその時は50歳。そしてそれに「+α」ということ。「+α」は果たして・・・

 

天保八(1837)の波さん17歳の時だと90歳になります。

逆に波さんが14歳だと87歳。

90歳までお城に生涯現役で居たと考えるとそれはまさに凄いこと。

 

生涯現役でお給金一生保証、おそらく生涯独身でお城で亡くなった・・・今そんな職、絶対に認める会社はナシ。

現代では考えられませんからね。

ただし「有り得ない」と決めつけてはイケない世界かも知れません。

 

「上ル」は文字通り、目上の方等に「あげる」ですね。たてまつる。

 

また何より「女中帳」の存在を知らせいただき感謝いたします。

 

一応、例の打敷の裏書を添えます。

 

当山十世娘おなみ江戸西之御丸御殿弐の側おみて様乃御部屋を篤実ニ勤て御たもんゟ出世して御つほね迄ニ相成申候処此縫入打敷に如来様へ寄進いたし候これハ旦那の着せられ候品也その出ハ一位様の御めしに御座候それより段々戴ておなみゟ寄進いたし置候也去年此品御殿ゟ三原屋へ向おくりおき当年八年目に登り四月十八日ニちやく五月十八十九日之両日ほと小母とともに仕立申候珍敷品ゆへ什物ニして後々に至り候迄も大切ニ取扱へき事幷ニ内仏御堂の中尊様兼用の小打敷一つ、さはりの敷ふとん一つ大りんの敷ふとん一つ内仏のわんの敷ふとん一つこふ五つの品御報謝のために寄進いたし申候也 

     

弘化三丙午五月  釘浦山大澤寺常什物                                    

                   十世娘於波寄進                   

                     十世祐賢代

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    がつお (日曜日, 28 7月 2019 09:22)

    またもやご紹介痛み入ります。
    昨日コメントを書いてから「弘化の頃には100才じゃねえか?」と気がついたんですがさすがに3連投はよろしくないかとおもい控えました。
    もちろん、ご住職もお気づきになるだろうと。
    でも、探せばどこかに幕末頃の史料もありそうな気はしますね。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 28 7月 2019 21:58)

    ありがとうございます。
    今のところ波さんは90歳のみてさんを城内で看取ったと勝手に考えています。
    女中帳をご紹介いただきありがとうございました。