「みて」じゃなくて「みよ」 藤田先生のご指摘

その方面の第一人者の検証を得よう・・・ということで、話が終わった当家「波さん」の江戸城大奥土産から作った打ち敷の件。

元は広大院の着物です。

牧之原市の調査費として本年度の予算計上となるとのことで、場合によっては「重ねての調査」などの指摘があるかもしれないと仰っていたのが牧之原市史料館学芸員の長谷川氏。

 

「お楽しみはゆっくり」ということなのですが、私としては4月頭の「春の法要」の際に昨年一部史料を公開したのと同様に避難タワー件物置の1階でそれを皆さんにお披露目しようかと考えていました。

見物の方法は掛け軸のような「吊るし」ではなく、大きなテーブルを2枚づづ2セット用意して平置きにするつもりでした。

 

勿論、その際境内寺楽市で販売されている雑多な飲食物と子供のおさわり災難から逃れるために透明ビニールクロスを敷くという算段です。

 

経費的に見て安上がりに紹介できますので自分的にはその頃合いは「悪くないんじゃあ・・・」程度にしか考えていませんでしたが、長谷川氏より「一応、正式な専門家の見解を聞いてからでも・・・」との意見を頂きそれに合点した次第です。

 

ということで新年度以降のお楽しみということで了承はしていましたが、ここにきて長谷川氏より2月末に専門家をお招きして評価をいただけることになったとの連絡をいただきました。

 

その手の衣服史の件、まったくの論外無知の私ですが個人的には面白い品物であると踏んでいます。

それは①「衣類は残り難い」。

虫に喰われ湿気てカビが生えるなど劣化については他の木質・金物・石質の遺物と比較して顕著です。

そして、この着物は波さんが尊前打ち敷に改めたものですが

②「裏側にその出所・経緯が記されている」ことが史料的価値を高めているかと。

そもそも着物が残っていたとしても名前を書くようなことはまずありませんので「誰のものだったのか」などの証拠はなく、伝承・推測どまりということになりますからね。

③そして広大院関わりの遺物は他に例は少なそう。

 

波さんの持参したその「広大院の着物」から作った「打ち敷」は実は昨年の12月8日、藤田覚先生の講演会が相良史料館にて開催されましたがその帰りに拙寺にお招きしてサラッと見ていただいています。

 

先生からは「その世界の専門ではない」という前置きがありましたが、驚くべきご指摘がありました。

まさに目からうろこというか驚愕の指摘でした。

それが生地裏面に記された記述。

なみさんの父、拙寺十代祐賢が記したものです。

 

ブログでは何度かそれについて記していますが一応おさらいしますと・・・

 

当山十世娘おなみ江戸西之御丸御殿弐の側おみて様乃御部屋を篤実ニ勤て御たもんゟ出世して御つほね迄ニ相成申候処此縫入打敷に如来様へ寄進いたし候これハ旦那の着せられ候品也その出ハ一位様の御めしに御座候それより段々戴ておなみゟ寄進いたし置候也去年此品御殿ゟ三原屋へ向おくりおき当年八年目に登り四月十八日ニちやく五月十八十九日之両日ほと小母とともに仕立申候珍敷品ゆへ什物ニして後々に至り候迄も大切ニ取扱へき事幷ニ内仏御堂の中尊様兼用の小打敷一つ、さはりの敷ふとん一つ大りんの敷ふとん一つ内仏のわんの敷ふとん一つこふ五つの品御報謝のために寄進いたし申候也 

 

     

 

弘化三丙午五月  釘浦山大澤寺常什物

 

             十世娘於波寄進       

 

                     十世祐賢代

 

ブログでのその解説はこちらです。

 

その藤田先生のご指摘は

江戸西之御丸御殿弐の側おみて様乃御部屋

の部分。

『「おみて」じゃなくて「おみよ」でしょ・・・』でした。

コレは永田町のエライ人が吹聴している国語的難解、「書き換えだけど改ざんじゃない」とか「募ってはいるが募集はしていない」の詐欺的主張の類ではありませんね。

 

要はこれまで「みて」さんと思っていた当家なみさんのボスの名は「みよ」だったということ。

 

先生は文脈からして「おみよ」になるだろうし、その問題となる「て・・・天」の崩し字は「よ・・・与」に似ていて間違いやすく、当人でないその父が記したと文とあって、書き写した段階で本来記すべき「よ」を「て」としてしまったのだろうとのことでした。

ということでこれまでのブログ記載の部分「おみて」を訂正します。

 

「江戸西之御丸御殿弐の側おみよ様乃御部屋」

 

とあらためます。

 

今一度復習しますと広大院がおみよに、おみよがなみにという流れですね。

驚きなのはそのおみよさん、江戸大奥世界ではかなりの有名人ですからね。まさかと思いました。

 

その件、叔父に伝えたところ「なるほど」と言いながら古文書にざっと記されている「て」と「よ」を画像ピックアップして送ってきました。

無茶苦茶紛らわしいことがわかります。

 

①は打ち敷裏面の文字。②矢印が「よ」の部分。

③は拙寺庫裏にて。史跡研究会の皆さんも集まりました。

画像は秋野氏ビデオからキャプチャー。

④は昨年の講演会の様子。

先生の来訪によりまた面白くなってきました。

おかげさまです。