貰った着物から作った打敷の裏書再 波さん

 

      ★訂正 20200201 ブログ→「おみて」でなくて「おみよ」

 

昨日の続き。

拙寺十代祐賢の娘、十一代の姉「波さん」が弘化三年(1846)に拙寺本堂の阿弥陀さんへの御恩報謝のためとして尊前を飾る打敷を寄進しましたがその元となったのが大奥勤めでのお土産というかご褒美、プレゼントされた着物です。

その打敷の裏生地に記されたものがそれまで口伝えの「広大院の着物で作った打敷」でその存在がハッキリしました。

その打敷については既に廃棄され、もはや無いというあきらめがあって、自身気に留めることはありませんでしたが。

 

ところが前年の蔵の中の整理ではなく、庫裏の片付けで取りあえず車庫に放り込んでいた桐箪笥を数年前から少しづつ中身について処分と保留のシロクロをつけようと(殆ど処分)仕事場を駐車場に移して作業をしていましたがその中で発見しました。

まぁ100年は経ているような衣類がごっそり出てきて、先日も少々の生地をたまたまいらした方に引き取っていただきましたが、衣類に関しては下着以外はすべて処理場のリサイクルボックスへ。

 

その打敷もそのたくさんの着物の中から出てきたものでした。

軽トラの荷台に無造作に突っ込んでいましたが、奥方がその「ちょっと違う感じ」から作業の手を止めて私に声を掛けてきました。「何か書いてあるよ」。

 

地面に広げてみると記されていたのが昨日も記した以下の文言。驚きました。無いと思っていたものが出てきたのですからね。一番驚かされたのが、桐の箪笥の保存力です。

 

当山十世娘おなみ江戸西之御丸御殿弐の側おみて(のちに「おみよ」が正)様乃御部屋を篤実ニ勤て御たもんゟ出世して御つほね迄ニ相成申候処此縫入打敷に如来様へ寄進いたし候これハ旦那の着せられ候品也その出ハ一位様の御めしに御座候それより段々戴ておなみゟ寄進いたし置候也去年此品御殿ゟ三原屋へ向おくりおき当年八年目に登り四月十八日ニちやく五月十八十九日之両日ほと小母とともに仕立申候珍敷品ゆへ什物ニして後々に至り候迄も大切ニ取扱へき事幷ニ内仏御堂の中尊様兼用の小打敷一つ、さはりの敷ふとん一つ大りんの敷ふとん一つ内仏のわんの敷ふとん一つこふ五つの品御報謝のために寄進いたし申候也     

 

弘化三丙午五月 釘浦山大澤寺常什物

 

              十世娘於波寄進

 

 

 江戸西之御丸御殿弐の側おみて(おみよ)様乃御部屋」

この一文で波さんがどこに居たかがわかります。

以前大奥2000人とどちらかで記していますが、それは少々どんぶり勘定として、まずは1000人程度の女中の存在は確かでしょうね。私設で雇った付け人の数を入れればやはり2000~3000などと言う数字もまんざら適当な数字ではないかも知れません。

また波さんのいた「家斉」は正室のほか側室がざっと20数人、「お手付」も多数。

それら産まれた子供達含め面倒を見る女中の数が半端ではなかったことは想像できます。

 

江戸城数ある御殿(「大奥」は本丸 二の丸 西の丸)のうち西之御丸御殿とあります。現在の皇室住居エリアですね。

その西の丸といえば大御所大御台夫妻が入る場所ですので広大院64歳が家斉とともに西の丸に入った天保八(1837)は波さん十七歳。丁度その記述に合致します。

 

弐の側おみて(おみよ)様乃御部屋の「弐の側」(にのそば)とは建屋の名。

一から四まであったそうですがその「弐」。「おみて様」がおそらく部長クラスで建屋と波さんの直接管理者、いわゆる「おつぼね」でしょうか。「おみて様」については現状特定できていません。

大奥名簿などあれば別ですが今後の課題です。

※のちに「おみて」ではなく「おみよ」が正と判明。

 

御たもんゟ出世に大奥の完全な上下主従関係の様相がわかります。「おたもんよりしゅっせ」の「たもん」とは「小僧」と同等で要は見習の下っ端。波さんはそちらからステップアップし、御つほね迄ニ相成ったと。

この縫入打敷如来様へ寄進しますが旦那の着せられ候品ということ。この旦那とは「おみよ様」と考えます。

「旦那」も「親方」ですが両方とも男性とは限りませんね。

 

その品のその出ハ一位様の御めしに御座候それより段々戴て~でここで「一位様」が出てきます。下の者が目上の者を名前でなく官位で呼ぶのは当然ですがこの一位とは広大院のことで間違いなし。江戸城内で「従一位」になった人はこの時代に広大院以外いませんので。

 

御殿ゟ三原屋への「三原屋」は不明。

銀座にその地名があって今もその名を屋号として名のる店がありますがよくわかりません。これについても今後の課題です。

 

広大院の遺物はそうは残っていないかもしれませんね。

天璋院のものはたくさん残っているようですが。

あるとすれば江戸周辺となりますが、その地は関東大震災に東京大空襲と幾度か災禍に見舞われています。

 

増上寺の広大院宝塔(今は増上寺にありません)から出た遺物は遺骨以外のものは出てこなかったようです。      

 

 

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コメント: 3
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 25 7月 2019 08:55)

    すごいね。捨てるときには一応考えて捨ててください。
    よかった、よかった。

  • #2

    がつお (木曜日, 25 7月 2019 11:58)

    あるところにはあるんですね。うらやましい。
    我が家の一番古い物は以前お話しした浄土三部経くらい。
    本当にすごいです。

    ところでつまらん話ですが国立国会図書館の寛政譜の索引を作ってみました。
    何かのおりにはご利用下さい。
    http://kafuka.onmitsu.jp/kanseifu.html

    つくづく自分が暇人だと思ってます。

  • #3

    今井一光 (金曜日, 26 7月 2019 09:34)

    小山さん がつおさん、ありがとうございます。

    これまで山ほど処分してきましたが、価値ある物、無価値のもの、何も知らぬままで
    ご先祖が「惜しいことを・・・」と残念な躰をさらしていることと思います。

    今回の件、裏書の通り大切に守っていこうと思います。


    そして寛政譜の索引の件、こちらはそれこそ強烈なインパクトありますね。
    歴史に少々でも興味のある方ならこの寛政譜、国会図書館経由はどうしても
    通らなくてはなりません。
    面倒な検索がない分これほど有難いモノは無いのでは・・・
    できれば拙ブログからもリンクさせていただきたいものですが・・・