十一代顕如さん十二代教如さん

 

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1 顕如上人譲状 本願寺分流

顕如上人譲状
顕如上人譲状

 

譲渡状

 

大谷本願寺御影堂御留守職之

 

事、可為阿茶者也、先年雖

 

書之、猶為後代書置之候

 

此旨於違背輩在之者、堅可加

 

成敗也、仍譲状如件

 

天正十五 亥   丁 暦極月六日 光佐(花押)

 

阿茶御かたへ

 

大谷本願寺御影堂御留守職のこと、

阿茶たるべきなり。          
先年これを書くといえども、

なお後代のためにこれを書きおきそうろう。          
この旨、違背のやからこれあるにおいては、堅く

成敗を加うべきものなり。          
よって譲状くだんのごとし。

 

※留守職 本願寺の継職、大谷廟堂(親鸞聖人の墓所)を寺院化

  (本願寺)した三代覚如上人(開祖親鸞聖人に開宗の意志は無し)から

    譲状によって後継者を指名する慣例となった 

※阿茶  阿茶丸(あさまろ)顕如の三男で教如からみて19歳下の弟准如

  次男顕尊は阿茶丸の後見人として自分の娘を正室として迎えさせる  

    など准如の支持にまわる

※光佐   本願寺第十一世顕如の諱名

※顕如上人―長男 教如 →東本願寺

     ―次男 顕尊 →興正寺

     ―三男 准如 →西本願寺

    
 

 

   

文禄二年(1593年)閏912日、豊臣秀吉は穏健派と准如の母が強く進めた結果、教如を大坂に呼び、下記の十一か条を示しました。

 1. 大坂ニ居スワラレ候事。
 2. 信長様御一類ニハ大敵ニテ候事。
 3. 太閤様の御代ニテ、雑賀ヨリ貝塚ヘ召シ寄セラ 

  レ、貝塚ヨリ天満ヘ召シ出サレ、天満ヨリ七条ヘ 

  遣シアゲラレ候事、御恩ト思シ召サレ候事。
 4. 当門跡不行儀のこと、先門跡時ヨリ連レント申上 

  候事。
 5. 代譲状コレアル事、先代ヨリ譲状モコレアル由ノ

  事。
 6. 先門跡セッカンノ者メシ出サレ候事。
 7. メシ出サレ候人ヨリモ、罷リイデ候者ドモ、不届

  キニ思シ候事。
 8. 当門主妻女ノ事。
 9. ソコ心ヨリ、トドカザル心中ヲ引キ直シ、先門跡

  ノゴトク殊勝ニ タシマミ申スベキ事。
10. 右ノゴトクタシナミ候ハバ、十年家ヲモチ、十年

  メニ理門ヘアイ渡サルベキ事、是ハカタ手ウチノ

  仰付ラレ様ニテ候得共、新門跡コノウチ御目ヲカ

  ケラレ候間、カクノゴドク由ニ候。
11. 心ノタシナミモナルマジキト存ゼラレ候ハバ、三

  千国無役ニ下サルベク候アイダ、御茶ノ湯トモダ

  チナサレテ候テ、右メシイダシ候イタヅラモノ共

  メシツレ。御奉公候ヘトノ儀に候。

 

教如上人はあまりにも無茶な勧告を受けたため当然にゴネたわけですがそのために十年の猶予という利益は反故にされ同年閏916日、教如は退隠させられてしまいました。よって准如が本願寺法主を継承し、第十二世となる事が決定しました。

この11カ状の勧告の主眼となるもの、その根拠がこの5項「先代ヨリ譲状コレアル」です。

今となっては

どうでもいい話ではありますが、史料として・・・・

当初この譲状に関して勿論教如側(東本願寺)はニセモノであることを訴え(今でいう『有印私文書偽造』!?)准如側(西本願寺)はホンモノを主張したといいます。

 

しかしよく考えてみれば、顕如が亡くなってから突如出てきた譲状そのものもそうですがその内容はとても異様です。

「違背の輩、堅く成敗」~それに背く奴がいたら成敗するぞ~というのはあまりに唐突でおかしいですね。

相続の件を末の三男に決定したことに関し反することがあれば「成敗する」という表現はあたかも現状を意識しすぎたものであってまた、違和感がありすぎます。

その後秀吉をバックアップとして本願寺を継承した准如も秀吉没後家康をバックにした教如復活の際、苦渋を飲まされます。

一旦は教如完全復活という状況の雰囲気にありましたからまだイイ方に収まりました。

 

例の本多正信(墓所は西本願寺~大河ドラマ「江」草刈正雄)大坂夏の陣のきっかけとなった「方広寺の入れ知恵」と同様に家康に進言したといいます。

「二分割にすればうまく収まりましょう、力も二分され好都合」という感じでしょうか。これが明治以降の本願寺分流いきさつの考え方です。

現在ではその説については近年の都合のいい話として主流ではありませんが。

 

2 教如さん周辺系図