教如さんに関わる遺物遺構、数ある中、自称「教如ファン」の私めとして今年はどうしても足を運んでおきたい場所がありました。
ここを訪れずして上人を語ることは憚れるものだと勝手に思い込んで今年の夏、一念発起、高校生の愚息の夏休みを利用して、同行させました。
見当をつけた場所にナビを設定し、あとは現地でどなたかに聞けば・・・と安直に考えて相良を出発しました。
目的地は美濃と近江の国境付近の通称「教如岩」(岐阜県揖斐郡揖斐川町春日美束のこの辺り)。
別名「鉈ケ岩屋」とも呼ばれます。1600年「関ヶ原前夜」から東軍勝利まで教如上人が「もはやこれまで」の心境に幾度も迫られたといわれる近江に抜けるルート上にあります。
ナビの言うとおり、東名高速「岐阜羽島」を降りれば長良川を渡り墨俣城近くを通って揖斐川町方面へ。
このルートこそあの時、実際に教如さんが三成の追手からの逃避行をスタートした地点でしょう。
教如上人が家康面談の為東上しその帰路を狙われたものです。
教如岩は「国見峠」にありますがあの伊吹山の北側に位置しています。
近江に抜けることも状況次第では常道のところですが佐和山城の手の者が包囲網を広げていることも考えられて教如さんは動かずに支援者に匿われてこの岩屋に隠れました。
(十一代顕如さん十二代教如さんの「石田三成ボロクソ論」参照)
途中各所に立つ案内板を目印に車で上がり、ぼちぼちここいら辺りで人に尋ねようと思うも気温36℃の中の田舎道、誰も通行人などとすれ違うことはありません。
よっていつものように人家へ直接情報収集。
親切に教えて下さるも、その内容は厳しいものがありました。
予定では目的終了後、そのまま琵琶湖方面に出るつもりであがってきましたが現実は「去年の台風で道は無くなったよ」でした。
滋賀県側への通り抜けは諦められても当日の大本命の「教如岩」には未練が残ります。かといって今更滋賀県側まで出て逆コースで登るなどということも選択肢にありませんでしたので、途中で車を乗り捨てて「行けるところまで行ってみよう」ということになりました。
こういう時は同行者が息子ということもあってすべて私の独断で決まって、やりやすいものです。
予想通り土石流の発生があったのか道は崩落して気持ちよいほどに口を開けた崖に通行止めの看板が。
林道からの分岐点から登る山道は過酷な急坂路で心臓が久しぶりにバクバク。呼吸が乱れて足がガクガクになったとき後ろを振り返って見れば追手が迫っているなんてことを考えると、もう討ち取られても「かまわない」と思ってしまうくらいです。
少しでもそういった上人の御苦労を息子と共有したかったのではありますが。
おそらく彼は「ド疲れた」くらいのことしか感じていないと思いますが、「いつかまたここへもう一度来てみたい」とか、私との思い出として「そんな苦労もあったな」等々思い出してくれればと親としての気持ちも含みます。
スキー場を見下ろす公衆トイレの先から通行止めの様相、無理せずこちらの前にある空き地に車を置いて徒歩にて登攀。
林道から細い道に入ってキツイ坂を上がりますが、丁度その林道のわきには湧水が・・・まるで氷水のように冷たい水が流れ出していてあまりの心地よさにそちらで靴を脱いでじゃぶじゃぶ。
お東の御門徒さまたち、いつかチャレンジしてみてください。私ももう一度行ってみたい場所です。
ただし冬場は止めておいた方がいいですね。
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小山昭治 (月曜日, 21 10月 2013 08:36)
ご苦労様でした。
これは息子さんに言う言葉。
親との付き合いができることを感心します。
いい息子ですね。
今井一光 (火曜日, 22 10月 2013 06:53)
ありがとうございます。
まず大前提として我が身のことを無視して言いますと
いい加減でちゃらんぽらん、見ていていらいら、ストレスのかたまりにもなっています。
もう少し人並に本などを読んで、なんとか(要領よく、ズルく)生きられないかと思います。
まだまだ本能だけで生きているように思います。