信長は永禄十一年(1568)に松永弾正に抹殺された幕府13代将軍義輝の弟の義昭を神輿に奉じるが如く「15代将軍に据えます」という大義で上洛して短期間で畿内をほぼ制圧してしまいました。
信長は掲げた将軍家の名をもって堺など自治都市はじめ畿内の本願寺系末寺にも圧倒的武力を盾に、信長のオリジナルの課税の「矢銭」を要求していきます。
石山本願寺の顕如上人には「京都御所費用」の名目で矢銭5000貫を請求しました。この手の「天皇のため」的な大義は明治以降、人を制約するための旗印としてたびたび歴史に登場します。
ちなみに堺には20000貫と言われています。
堺にも当時、真宗系門徒が多く存在していますので、当流の信長からの難癖にはくさくささせられていたことでしょうね。
堺門徒といえば榛原の明照寺さん御門徒一流ですね、堺から流れた御門徒が多いというお話をうかがっことがあります。
安土を地盤にしていた当山大澤寺の御先祖の御門徒さんにしろお隣の明照寺さんにしろ当時の畿内の状況は信長のやりたい放題で真宗門徒には益々住み辛くなるばかり、一所懸命の土地を捨て新天地を求めて遠州まで辿りついたことには十分に理解できます。
「超イイ加減」な換算法を記しますと銭1文=100円×1000枚(これは銭100枚づつ紐を通したもの10束)で1貫=10万円。
「貫」のカウントはコメの値段で左右しますので時代、場所により相当の差がありました。
幅広い価格帯の説がありますが、だいたいそれらの説の真中あたりをとって「銭1文100円」という式を勝手に作りました。
よって大坂石山本願寺が5000×10万円=5億円、堺がその4倍の20億円の支払いを推定、信長は満領しています。
幕府将軍を盾にして「支払わなければ攻め滅ぼす」ですから強盗よりタチが悪いですね。少なくとも収奪される側としてはそう思ったでしょう。
船賃18文(1800円)を借り入れた蓮如さんの時代からすれば顕如さんの本願寺絶頂期は想像だにできない発展振りです。
ちなみにガスパル・ヴィレラというイエズス会のポルトガル人宣教師は、キリシタン大名の高山右近に洗礼を授けたことで有名ですが、書簡「耶蘇会士日本通信」にて堺のことを
「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニスの如く執政官によりて治めらる」(大河ドラマ 「黄金の日々」の出だしに使用されていました)と自治都市堺の繁栄をうかがわせ、また本願寺と顕如さんのことを
「諸人の彼に与うる金銭甚だ多く、日本の富の大部分はこの坊主の所有なり 毎年甚だ盛なる法会を行い、参集する者甚だ多く・・・」と記しています。
「本当かよ!」とその過剰な表現に首を傾げますが戦国期畿内本願寺の強烈なパワーを彼なりに感じ取って本国に報告しています。
蓮如さんが借用書と名号を遺してまで琵琶湖を渡る船賃「拾八銅」の工面に人を走らせた時代、堅田大責(かたたおおぜめ)から100年後の本願寺です。
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