石山本願寺

本願寺顕如さんが信長と徹底抗戦、苦節十一年に及んだ石山合戦の本城、石山本願寺跡(推定地)

関西圏には京都本山参拝や近江地方行脚には幾度となく足を運んでおりましたがこれまでここへ足を延ばす機会に恵まれませんでした。

 

 といいながらもユニバーサルスタジオ(USJ)のオープニングに一家でご招待にあずかったり、南港埠頭発の格安沖縄便フェリーに乗船するために相良から車にて向かったことはありました。

その都度ここ「石山本願寺」参上については後ろ髪を引かれる様、心の隅に残るものでした。

 

 当山大澤寺開祖今井権七はじめ五家の祖は石山合戦を長期間戦って顕如さんの長男、教如さんのもと和歌山まで落ちてさらに滅亡覚悟で信長軍と戦いました。

そういう意味でも一度は行ってみたい場所でした。

そこで今回のバスツアーの2日目は完全フリータイムを設定してついに念願成就させました。

 

 信長側から捉えた本願寺は彼の天下統一を遅らせた元凶中の元凶だったことでしょう。

本願寺の徹底抗戦も当然です。

蓮如さんが明応五年(1496) 、摂津大坂に小さな御堂、大坂坊舎を建てたのがその始まりで、天文元年(1532)八月第十代証如上人が山科より本願寺をこの地に移して大坂(石山)本願寺と称しました。

おそらく「大坂」の地名を大きく名だたるものにした大元はこの本願寺からだと思います。

その後寺内町として発展拡大、大いに寺と共に繁盛し今の商業都市大阪の原型を作ったと云われています。

信長は港湾都市で南蛮貿易や流通の拠点としての大坂に着目し、その利権を自らが得るがために本願寺に退去を命じるという無茶振りをしたことが石山合戦の発端です。

よって本願寺は武田・朝倉らと結んで信長包囲網の一翼を担いました。

 場所は大阪城内六番櫓の北側辺りでしょうか。

 

 大阪の顔でもある大阪城が「秀吉の城」というイメージは皆が思うところでしょう。

決して間違っているとは言えませんが厳密に言えば現在の鉄筋コンクリートエレベーター付きの「資料館」は昭和初期に「秀吉風」天守を模して造られたものです。

それ以前は徳川時代に建てられたものですね。

 

 徳川家の威信をかけて壮大な縄張りで造られた大坂城は夏の陣(1615)で消滅した秀吉の大坂城のイメージを一掃するため膨大な土砂で盛土した「徳川の城」が寛永六年(1629)に完成、城主は幕府将軍でした。大坂城代として譜代の大名が選ばれました。

 

 最期の将軍徳川慶喜が船で脱出した後やはりそのどさくさでの炎上消失は新政府軍の仕業でしょう。

その後は陸軍の基地として転用されたため戦中の空襲時はピンポイントで空爆されてしまい移築再建などで整備復活した建築物や幕末の火災で生き残った櫓等も消失してしまいました。

奇跡的に昭和6年の天守だけは残ったそうです。

 

 その天守閣はいわば徳川の土地改良の上に築かれた石垣の上に秀吉風の城を建てたものでした。

しかしそもそもこの城は石山本願寺伽藍のあった場所に建っていたわけですね。

 

六番櫓の北側は井戸が多く掘られた地であったそうです。

石標のすぐ後ろにも井戸が・・・。

 

 この井戸を見てしばし思いましたが、私の姓は「今井」。

当時としては水こそ命にかかわる重大アイテムですね。

よってまず人は生活の場に井戸を掘ります。しかし井戸は場合によって枯渇します。

ですから急変に備えての水脈を確保するために新しく井戸を掘ることが至上命題であったわけです。

その水の質によって「金」とか「銀」などというランキングを付ける習わしもあったようです。

きっと私の姓「今井」は「新しく()掘りたての水がこんこんと湧きつつある井戸」に深く縁のあるものだとしみじみと感じ入った次第です。

 

※六番櫓について 画像①矢印

二の丸南側の石垣の上に東から西へ向かって一番から六番まで同じ形の二層二階の隅櫓が建っていました。

堀に向かった南面と西面に石落とし、窓26、狭間多数。創建は寛永五(1628)。破風を飾る西側の懸魚(げぎょ)の裏面に「寛永五暦辰拾月吉日」とあります。

重要文化財に指定。