井田野の戦い 西光寺は千人塚の念仏堂が発祥

静岡市内では色々あった(竜巻?)ようですが、当相良はただ「風強めの曇天」といった一日。

台風7号が紀伊半島に上陸したということ、比較的小型だったこと、たまたま雨域が当地を通らなかった・・・の奇特でしょう。

被災どころか法要までうまい具合に運びました。

 

朝はその法事の予定がありましたので本堂正面の矢来戸の閂を取り外す作業から。

久しぶりの作業で戸の各丁番の動きが悪いことに気づいて注油作業も。

 

それにしても法要はおかげさま、恵まれすぎとも思うところ。

前日に、施主への私からの意向伺いのTELでは「一同、ずぶ濡れ覚悟」の挙行意思、前進あるのみ、でしたからね。

 

そののち、お昼の時報と同時にご門徒様が鐘を七つ。

78回目の「8月15日」でした。

戦後生まれが主導するこの国、あの戦争のこと、しっかりと伝えて行かなくてはなりません。

 

歴史を俯瞰すればポイントは政治家でしょうね。

最終的に戦争を「やる・やらない」を決めるのはそこですから。

結局のところその仕事を選ぶ輩はしばしば民のことなど眼中にないという傾向にスタンスを変えるものなのです。

「戦争遂行内閣」・・・まぁあの時は民主政治の範疇にはありませんでしたが。人間というもの、何をしでかすかわからない・・・不安の第一はそれ。

自分の事を棚の上にあげようとは思いませんが。

 

梵鐘といえば昨晩のBS3「新日本風土記」を視聴した中に。

拙寺の鐘は供出によって一旦は鐘楼から消え失せていましたが門徒御一同の力で昭和30年(こちら)に復活しています。

ところが未だその「復活」とは違うカタチの寺・社を番組でとりあげていました。

戦争遺構として遺して行こうという意思があるのでしょうが、鐘楼に石がぶら下がっていたり、コンクリート製の鐘、あるいは山から掘り出されてきた松根油製造用の釜をブラ下げていたり・・・

釜の音、案外いい響きでしたが・・・。

どちらも寂しくまた、恥ずかしい歴史を感じます。寺から鐘を搔き集めて武器を作ろうなんて・・・

ちなみに松根油の製造は戦時中の燃料事情解消のためですが、実用化せず。

 

扨、昨日は井田野千人塚について記しましたが、その塚の管理者は浄土宗の常念院西光寺(山号は長親山)。

その周辺を井田野古戦場と呼びます。

西光寺は矢作川の前に広がる平地にある丘の上⑦⑧という感じになります。

この矢作川との間の平地を中心に戦が100年の間に5回もあったといいます。まぁ現在のたくさんの家々の下は壮絶な戦闘が繰り広げられた地ということですね。

 

西光寺の地番は岡崎市鴨田町(場所はこちら)、大樹寺と同じで、双方近接しています。

千人塚は松平4代の親忠が当初2度にわたる井田野の戦いの戦死

者を葬ったことから始まりますが伝承として

「千人塚が振動し、近辺には悪病が流行するようになった。

この亡霊を弔うために親忠は塚のほとりに念仏堂を建てた」と。

その念仏堂が常念院西光寺の前身。山号の長親山の通り、この寺の創建はその息子の長親ということになりましょう。

そして当初千人塚の亡霊を鎮めるために招いた僧侶を大樹寺初代として創建させたというわけで。千人塚が事の始まりですね。

 

①は西光寺本堂を背にしての図。

その先、住宅街の路地を進んでスグ、家々に囲まれて千人塚が。