本能寺 本願寺が生き残れたのは偶然に非ず 状況推測

天正十年六月二日の本能寺の件、かねてから時々思い出したように拙ブログにて。

世に光秀の「なぜ、どうして・・・」のあれこれが面白おかしく論じられていますが、最近になってから文書の発見による新説が飛び出すなど新旧織り交ぜなお迷宮迷走の様。

 

ふっと考えれば私たちも普段行動を起こす際、大した理由など考えない「えい、やぁ」の衝動は結構あるものですし・・・。

また人の心はわからない・・・というのはいつものこと。

人がもし一つの考えに至ってその結論を出して行動を起こすまでにある程度の時間(躊躇と醸成)を要したとして、その「衝動」は他者から見ればいかにも突発的な理不尽を思ったとしても本人としてはそれなりの思案と迷いがあったに決まっています。

 

従来言われてきた安土家康饗応の失態や信長からのパワハラの数々をその理由にしていたら、光秀のあの決断はあまりにも短絡的を思わざるを得ません。

結果はそれでも大いに各方面の見誤りを多々発生させていましたが・・・

 

しかし、光秀の性格の「思いやり」の心―これは今回大河ドラマで強調して描かれるはずだと思います―から考えると当初信長麾下で対浅井・朝倉掃討の戦働きの中、進出展開した湖西志賀の人々との接触からその信長を最終的に「摘み取らなければならない」という結論に至ったのではないかと思えてなりません。

 

先日も「揆を一にする」で記した通り、当流ではあまり明智光秀の快挙を慶事とすることはあまり前面に出したりしませんが、さらっとだけ東本願寺のサイトに記されていますのでそれを紹介

させていただきます。

 

この文中にある『大谷本願寺由緒通鑑 第三巻』『金鍮記 巻上』とありますが、その内容と同様のことは「石山退去録」にもありました。

それが「本能寺の変の前月、四国攻めのため堺周辺に集結していた織田の軍勢は、実は当時紀州にあった鷺森本願寺を目標にしていた。六月三日、織田軍の来襲によって本願寺は滅亡するかに見えたが、突然織田軍が引き上げたため危機を脱した。」の件です。

 

六月三日が総攻撃の日でした。

本願寺では水杯をあげてその最後を迎える準備と覚悟を決めていたわけです。ところがその日になると信長の軍勢はキレイに居なくなっていたのでした。

その前日に本能寺で信長が光秀に討たれたことによる撤収だったのですが、結果からのみを考えてみても本願寺からすればその六月二日の朝の本能寺は絶対に「その日その時」でなければならなかったわけで、ギリギリのピンポイントなる日なのでした。

 

私はこの人生たかだかの年数しか重ねていませんが、そのようなタイミングの良さというものはあまり見たことがありません。

本願寺としても滅亡の危機どころの騒ぎではないまさに風前の灯状態にあったのですから。

その件私どもは単純にそれこそ仏縁であって報謝の念仏という具合になるのではありますが、いくら何でもちょっと待ってくださいよ・・・ですよね。

そのような「偶然」があり得るのか・・・?というのがやはり本音です。

 

それが私が思う「本能寺の件は本願寺のためでもあった」です。まぁ結果的にそうなったのは偶然であるというのがこれまでの歴史観ですが、私の考えは「そんな偶然はない」が結論です。光秀に色々な思案があったにしろそのスイッチを押すに有力な後押しになったかと・・・

 

要は、光秀の「天正十年六月二日」には色々な要因があったにしろとにかく「本願寺を助ける」の意図があったと考えます。

これは文書による証拠は出ていませんので状況証拠のみですが・・・。

たとえば本願寺滅亡という緊迫状況の中、本願寺から近隣門徒衆にそれを知らせる中、当時もはや本願寺に救援を送れる後詰勢力はありません。

 

どうすれば劇的効果があるかといえば以前から本願寺が企図した「信長のクビ」でしょう。もはやそれしかないのですが、それが出来る人物も不在。

 

そんな中、明智光秀が統治し関わっていた近江志賀郡の人々に着眼します。

さすがに信長軍のこちらへの進出に関しては浅井の息のかかる場所ではありますが、延暦寺に本願寺門徒衆の激しい抵抗がありましたから当初の光秀の統治は容易いものではなかったでしょう。

しかし其の後の状況を見回すと、案外早いうちに良好で安定的を思わす節が多々見受けられます。

 

小和田哲男先生の『明智光秀: つくられた「謀反人」』を参考に記します。

光秀は元亀二年~三年頃に京都奉行職から坂本城の築城に入ります。当初は忙しすぎた光秀の志賀統治は完全ではなかったようですが天正七年の「兼見卿記」(吉田兼見)の「兼見小姓蓄電事件」での対応力の早さからその統治力は進んでいたと解していました。

吉田兼見の小姓は志賀郡御琴出身だったということで光秀がカンタンに探索成功させたというものです。これが光秀は意外に早くまずまずの「統治力を発揮していた」証しとなるものです。

 

よくよく考えてみてもこの志賀という地は蓮如上人所縁の地でいわばガチガチの本願寺門徒の地盤です。

他所においても本願寺勢には信長自身勿論、配下の武将もその激しい抵抗には手を焼いていました。

それがどうでしょう、光秀に限ってというか門徒衆は何故か従順と言っていいか当初の抵抗はあったものの協力的な動きさえ感じられてきます。

 

これは早い時期になります。

「信長公記」元亀三年七月に猪飼野甚介(猪飼昇貞)ほか堅田の水軍が江北の浅井の喉元に「囲舟(軍船)」で襲い掛かった記事が出ていますが、その「堅田湖賊」を早くから光秀が掌握していたことを示唆しています。

 

この堅田こそ蓮如上人が滞在し本願寺門徒繁盛の地盤(本福寺光徳寺またはこちら)ですね。

本願寺門徒衆もそれは一枚板とは言い難い部分がありますから懐柔を受けることもありますが、それにしても光秀の統治力は特筆すべきことかと。

 

人心それも民レベルまでの心を掴んでいたことを想像しますが、それは光秀の真面目な気配りがそれまでの為政者と違っていたからかも知れません。

そんな中、特に志賀郡でその交流が密になったと思われる本願寺門徒衆(もっとも光秀の居た場所はどちらも本願寺の勢力が強い場所ばかりでした)との関わりがあって、紀伊に退去しさらに滅亡寸前となった本願寺が窮余の助けを求める勢力として明智を頼んだこともあり得るか・・・と思ったのでした。

 

①はかつて次男とぶらついた本福寺門前の図。彼の中学か高校の頃でしょう。②は光徳寺。堅田の源兵衛の讃歌です。

③~⑥湖族の郷史料館にて(場所はこちら)。

 

堅田の地は海運物流商運が栄えて当然に利権争いから各紛争の当事者となりました。特に「堅田大責」は有名です。

以来堅田衆は紛争より交渉というものにその有益性を模索してきたのではないでしょうか。

 

最後の画像が最近テレビ等お目にかかるようなった西教寺(またはこちら)の文書。

戦死した十八名の配下の者の名を記し供養米を西教寺に寄進した際のものですが最後に記された人物に苗字が無く「中間」(またはこちら)とありますね。

この文書はかなり以前から小和田先生も指摘していますが、「分け隔てない」(公平と人情)という光秀の性格を表しているといわれています。