長州の2大出世頭 「中間」からソーリ

私が生まれ育った小田原南町(十字町)の西側が現在板橋という地名で、「古稀庵」が、南町の東側には(現在本町) 「滄浪閣」というそれぞれ山縣有朋と伊藤博文の別荘跡がありました。

見るべきものも無かった(滅多に入る機会の無い庭と石碑)ことと、さして興味もなかったので大人たちが「○○の近く」といってランドマークにしていたことでこれらは耳にはしていました。

 

 小田原という地は明治~大正にかけて国政に関与したお金持ちの別荘が多く作られた場所でした。

「風光明媚」と人は褒めますが両方に住んだ自分としてはここ遠州相良の方がよほどいい場所だと思いますね(一番は沖縄読谷村や恩納村ですが)。

温泉は近い場所にありますが海は「あらく」といってげんこつ大以上の石がゴロゴロして砂の粒も大きくて、波打ち際も突然「ドン深」になります。

波は荒いし「海水浴なんざぁ」まったく不適なところです。

子供の頃、夏休みには遠浅の相良の海に行くことが何よりの楽しみでした。

 

 さて伊藤博文と山縣有朋は「明治の元勲」とかいう「手前味噌的最上級」な敬語で讃えられている人たちの中では最もメジャーな部類に入ります。

位階は「従一位」で戦国時代の並居る大名クラスを超えています。

どうみてもお仲間で勝手に「付け合ったのかなぁ」と思ってしまいますが。

 

記「中間」 とは「ちゅうげん」と読みます。

「中間」は公家,武家,寺家などに仕える僕従の呼称で、その職務やその職務に従事する人たちのことです。

平安期から現れ、江戸時代までその名はありました。

小者(こもの)と呼ばれる隷属的な身分と侍との中間にあった位の人たちで要は「侍」という階級では無くそれらより下級の雑務を担当とした人たちのことでした。

戦国時代であったとしたら侍である主人の槍持ち、使い走りです。

現代でいえば上司のあとをついて歩くカバン持ちとでもいいましょうか。

 

お二人は長州藩ではその「中間」。

今の政治屋さんも良く使いますね「一兵卒」、そんな感じでしょうか。

彼らの上にあった人たちがタイミング良く消えていき戊辰戦争のドサクサにトントン拍子で成り上がっていった、言ってみれば「長州人ドリーム」を開花させたのでした。

今でいえば山縣さんを画像で見ればどこかかつて共産圏のお国のトップさまの写真の様に軍服の全面に勲章がベタベタ、昔日本にもそういう時代があったのでした。

あの画像を見て国民が「素晴らしい」「尊敬すべき」とつい思ってしまう時代が。

 

画像は小田原「御幸の浜」海岸から西方、根府川方面を望む。

台風が来るたびにぶっ壊されてる遊歩道です。 

 

 明治6年、明治天皇夫妻がこの地に立ち寄ったことからその名が付けられました。

私の卒業した本町小学校(現三の丸小)の校歌にも歌われ小田原の人なら誰でも知っている海岸です。

相良のように「凪」がほとんど無く年がら年中ザンブザンブと波が打ち寄せます。

「似非サッカー協会」友人もかつてこの海で溺れ、九死に一生を得ました。