石山合戦に見える「野村」というと・・・

顕如さんも石山御坊(本願寺)を信長に囲まれた際はかなり焦っていましたね。

いわゆる「第一次石山合戦」元亀元年(1570)の短期決戦です。これが以降天正八年(1580)に寺内町大坂と石山御坊が信長にあけ渡されるまでつづく10年戦争の火ぶたを切った戦いです。

 

もっとも大坂を退去して雑賀に入った本願寺勢を信長は潰滅させようと執拗に追い込みをかけますので大坂での戦闘が10年であっても続いてあと2年間、私どものご先祖様含め門徒は苦戦を強いられます。

「あと2年」というのは天正十年六月二日の自然終結(本能寺)の思わぬ果実です。

 

第一次石山合戦は織田方大勢力包囲にもかかわらず短期戦(元亀元年8月26日~9月23日)で終了したのは信長の事情、この大坂に釘づけにされていられないのっぴきならない件でした。

それが通称「志賀の陣」で浅井・朝倉と比叡山の連合軍が京都を窺おうとしていたからです。そのまた後ろには武田信玄が控えていますので信長はのんびりと兵糧攻めに時間をかけられなかったのでした。

勿論反信長勢力の連携は事前に画策されていたことで、それら効率よいタイミングが物語っています。

 

信長の背後を防ぐべく近江側の比叡の麓を抑えていたのが宇佐山城(またはこちら)の森可成でした。

森はこの城で奮戦して討死しています。

 

反転した信長は比叡山を始め一つ一つ虱潰しに反対勢力を潰滅していきます。そのような周囲と連携した動きも12年にも渡って反信長の旗印を揚げて戦い続けることができたのだと思います。

 

「第一次石山合戦」は「野田城・福島城の戦い」とも言って石山本願寺から見てさらに河口付近にある両城に籠る三好三人衆の陽動に包囲網を敷いていた信長軍に対して意表をつくように本願寺方が戦闘を開始したことから始まります。

 

その意表とは以前畿内から追い払ったはずの三人衆が再び阿波から上陸しても本願寺は信長に「三人衆に合力しない」という書面を交わしていたからですが・・・(当初は恭順の意を表明していた)しかし意表とはいうものの、信長は本願寺方の動きを見たいということもあってうすうすは三好三人衆と通じることは察知していたでしょうが・・・。

信長の戦いの大義は先年幕府15代将軍足利義昭を襲撃して失敗した三人衆(本圀寺の変)を将軍を引き出しての成敗でした。

要は信長の後ろには足利将軍が控えていて、それに弓をひくことは反幕府将軍ということになりますので、一応は躊躇するところなのでしょうが、信長の傀儡を早々に察したのか、そのあたりは無視しています。

 

戦闘は一説によれば鉄砲の組織的な戦闘のさきがけとしては長篠におけるものよりもこちらの戦いが先であるといいます。

勿論本願寺方雑賀・根来の鉄砲が火を噴いたということですから、信長はそれを頭に入れて勝頼を設楽が原で迎撃する策を練ったのかもしれません。

 

その窮地に際して顕如さんはいわゆる檄文を各大名と各地寺院に送り付けて門徒衆の応援を招集依頼しています。

すでに四万もの門徒衆が本願寺に籠城していたといいますが、さらなる増員と支援の要請です。

 

この文書の文末の「脅し」についてはかつて記しましたように(堅田本福寺、明誓の記した「本福寺跡書」) その惨禍を彷彿とさせる緊迫感漂うもので顕如さんの焦りも伝わってきます。

 

「信長上洛に就き、此方(このほう-本願寺)迷惑せしめ候。

去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼方(かのほう-信長)に応じ候と雖(いえども)その詮なく、破却すべきの由、

慥(たしか)に告げ来り候。此の上は力及ばず候。

然ればこの時開山の一流退転なき様、各身命を顧みず、忠節を抽(ぬき)んづべきこと有り難く候。

併(あわせて)馳走頼み入り候。

若(も)し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候、

穴賢、あなかしこ。 

             九月六日 江州中郡 顕如 」

 

さて、この檄文発行の直後にこの戦いの中でも壮絶な「春日井堤の合戦」が起こっています。そこで「石山退去録」のその部分を(⑤⑥)。昨日記しました野村と野々村の両名の名が見えますね。彼らは織田方武将で本願寺を攻める側でした。

 

「野村越中守を大将として、佐々蔵ノ介・森新三郎・野々村三十郎その外雑兵一万」とあります。

これは昨日も記しましたように、一族一流かどうかの判断はできませんが敵味方に分かれることは大いにあることですね。

 

三好同族でも細川家でも同じ本願寺系の門徒であっても敵味方分かれています。

ただし信長に早い段階で恭順した寺院勢力は石山本願寺の攻め手に回されていますがこれは戦国時代では当たり前のことで将棋の駒風に先陣に立たせられます。そんな中、空鉄砲(弾をいれない)や鏃なしの矢を放つなどして殺傷はしないという話も伝わっています。まぁ例外的ですが門徒同朋らしいはからいです。

 

この野村越中守は、昨日の「浅井三代記」に登場する者とは別人とのこと。将軍足利義昭直参の武将だったようで信長に見込まれて大将として戦っていたと思われます。

彼は「紀州雑賀の住人島与四郎」に首をかき切られたうえ、太刀に刺されて掲げられています。

 

その野村に関しては信長方とはいえ書物に記されているほどの人物ですが、先日ご指摘を受けた石山合戦布陣図に記され本願寺の中心に名を記されていた「野村」には驚きました。

石山本願寺に籠城した拙寺開祖今井権七には相良に下向した野村・増田・河原﨑・赤松・澤田の5家がありますが、今井の他にその名を本願寺で見かけたのは初めてでしたから。

それからよく目を凝らして色々探してみましたが他の発見はありませんでした。

 

①石山本願寺布陣図②拡大矢印の部分。大坂ではなく「小坂」とあるのも興味深いところで御坊のあった上町台地。画像を反転すると「野村一角」なる名が。私としては初見でした。

 

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コメント: 5
  • #1

    野村幸一 (金曜日, 01 7月 2016 08:53)

    ブログありがとうございます。そうなんですよね、点と点を結びつけられないんです。今井家筆頭に野村家含め五家が石山合戦へ参加して後に相良へ…と言い伝えや資料から判ってはいますが石山合戦時に何をどうしていたのかまではわからないので野村一角という人物とも結びつけられないのが歯がゆいです。何かしら縁…まては身内なのかも?と想像は膨らみます。我が野村家も資料や聞いた話、墓石など見ると代々庄右衛門を名乗っているようなのですが、石山合戦時に庄右衛門と名乗っていたのかな?と思いを巡らせるとさらに探究心が湧いてくるのです(笑)八代目庄右衛門以降は大体調査済みなので、ゆっくり時間をかけてそれより昔を探っていきたいと思います。

    8月のお盆休みのどこかで大澤寺へ伺おうと思っております。ずっと行けていない墓参と再度墓石の調査を。また、今井様とも直接ルーツのお話ができれば良いなと思っております。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 01 7月 2016 20:50)

    ありがとうございます。
    石山本願寺布陣図からあの名を発見しただけでもすごいことと思います。
    8月も結構ですがそれ以外もまた御連絡ください。

  • #3

    野村幸一 (金曜日, 01 7月 2016 22:07)

    ありがとうございます。折にふれお邪魔させていただきます。

  • #4

    野村幸一 (土曜日, 02 7月 2016 00:19)

    先日、石山退去録の本がヤフオクに出ていて格安でしたので落札してちょうど今日到着したので見ています。そしたら…野村一角ではなく、野坂一角という名前が書いてあります。

    合戦配陣図が正しいのか退去録が正しいのか…どちらかが書き間違えてるのか…

    ガックリです…(p_-)

  • #5

    今井一光 (土曜日, 02 7月 2016 00:42)

    ありがとうございます。
    検証が必要ですが、古文書にはその手の誤記はつきものですね。
    また違う資料と記述された時代の違いから推定するしかないですね。