堅田の源兵衛 真似のできない献身  光徳寺

浄土真宗の開祖、親鸞聖人はこれまでの貴族階級にのみあった仏の教えを庶民の手に移して阿弥陀如来一仏(浄土)の教えを全国的に広げるべく動き続けましたが、親鸞聖人が没すると本願寺は寂び寂びと荒れ果ててしまいました。

 そこに本願寺八代目の蓮如上人は親鸞聖人の教えの再興に力を注がれ、結果、大きくその「他力本願の道」を再び大衆の心に浸透させるに至りました。

その後十一代顕如さんの時、本願寺はこれまでにない最大勢力に膨れあがって、戦国時代並居る大名たちと渡り合うまでの力をも付けたことは当ブログでのおさらいです。

 

拾八銅の御消息」の通り近江堅田は蓮如さんの一時的な布教を兼ねた避難地であったため周辺地含めて、蓮如さんに纏わるエピソードは山ほどあります。

 応仁二年(1468年)の「堅田の大責」の際、船賃、拾八銅の借用の為に走ってもらった先の光徳寺さんに伝来する寺宝は少しばかり変わっています。

 

 蓮如上人の苦労話の一つではありますが、蓮如さんが京都から近江へ主たる活動の場を変えた頃というのは、比叡山との脅迫破却と銭上納しての和解といういたちごっこの時代でした。

何とか毎度各地の門徒衆のおかげでまとまった金銭を集めることができ、それを比叡山に納めることによって不安定な状況ながらも一応の存続を得ましたが結局は「堅田大責」によって蓮如さんは新天地を求めて近江を後にすることになりました。

 

 考えてみると、真宗が受け続けた各時代の強者からの抑圧や攻撃があったからこそ、その教えが全国的に広がっていったともいえましょうか・・・。

後年の、支配層が恐れて各地で行った、流行りものともなった「念仏停止」(ねんぶつちょうじ)や一向宗禁令には、民衆からは「かくれ念仏」といった反体制的活動が生れて実質は停止などできずに却って門徒衆がまとまりあって協力し合い、念仏の灯は消えることがありませんでしたね。

 

 さて、蓮如さんが移動するということは実は本願寺そのものが移動するということになりますね。

しかし寺などの建造物はいっしょに逃げることは出来ませんので、どうしても火を付けられて焼かれてしまいます。

よって本尊(名号)と宗祖親鸞聖人の像を担いで逃げる事になります。たとえ本堂が焼け落ちたとしても祖像さえあれば何処においてでも再建は可能でした。

 ちなみに当時、真宗寺院の本尊は現在の様に木像では無く名号(お軸)ですのでそちらはそう難なく移動することができます。そもそも蓮如さんの御本尊の考え方は

「木像より絵像 絵像より名号」でしたね。

 

 問題は本山の祖像は大きな木像で、重量もあって人目に付きやすく移動にはどうしても難儀を強いられるということです。

 蓮如さんがこれはどうにもならないと身一つで逃げる事になった北国道越前への行脚前にとった急場しのぎは、親鸞聖人木像を近江三井寺に預かってもらうことでした。

三井寺は比叡山とは同じ天台宗の寺でしたが犬猿の仲で、やはり莫大な財力と僧兵を抱えていて、また蓮如さんへの理解も示して、支援も申し出てくれました。

 

 京都にある程度の安定を迎えた頃、山科(京都山科区  お東)に本願寺御影堂を建立することになって、いよいよ文明十二年(1480)に三井寺に預かってもらっていた祖像を遷座するはこびとなります。

 ところが三井寺に蓮如さんが使いをやったところ意外な返事が返ってきました。蓮如さんが仰天困惑したのは当然でしょう。

三井寺の返答は「返さない。それほど木像を返して欲しかったら人間の生首を2つ持って来い」だったといいます。

あまりにも無茶苦茶な話で、言った本人は今流行りの「不徳の至り」や、吉本の「冗談ですよ」と言ったかどうかは知りませんが、この嫌がらせに蓮如はじめ関係者一同、末端の御門徒まで心を痛めてやきもきしたそうです。

 

 致し方ない状況の中、手を挙げたのは光徳寺門徒、琵琶湖で漁を営む源右衛門と源兵衛の親子でした。

息子の源兵衛は「如来大悲の恩徳に報いるのは今だ。このようなものの首でも御用にたつならば報謝の万分の一になるだろう」(堅田源兵衛由来 光徳寺)と父親の源右衛門を説き伏せました。

算段としてはまず父に我が首を斬り落とさせそれを三井寺に持参、三井寺にて父の首を切ってもらい連れに木像を持ちかえってもらうというものでした。

 

息子源兵衛の首を切る時に漁師の慣れない刀捌きなのか悲しみによる躊躇なのか、振り下ろされた刀疵は後頭部にもあったといいます。

 首を1つ持参されて驚いたのは三井寺の担当者。

変な強がりも出て「2つのはず!」とも言ったそうです。

そこで父源右衛門は「此の首をもって」と頭を下げて差し出すと、もはやと観念したのか木像と源兵衛の首を返してよこしたそうです。

真宗門徒の悲しい歴史の一つでした。

何事にもたくさんの人々の御苦労御苦難のうえに「今がある」ということを忘れてはいけませんね

 

そして、やはりつまらない意地悪はいけません。

取り返しのつかないような事案に発展することをよく耳にします。

 

画像は光徳寺(場所はこちら)境内の父子の像と源兵衛(釋了喜 24歳)の墓、そして寺宝の厨子に入った源兵衛さん。南無阿弥陀仏。

尚、父親の源右衛門は以後諸国を廻り備後(広島福山市)にて90歳で亡くなったとのこと。